戦闘服の裾を引っ張ってみる。着心地は抜群に良い。防御効果だって優れているとされるガーデナーの特製スーツよりも上だという。
暗い青色の上下はぶかぶかしているが、これは体のラインを出さないことで攻撃があたりにくくなる効果があるとイグが説明したのをクロエは思い出していた。
上着の背中には杖を背負うための仕組みが縫い付けられているし、インナーシャツの上に巻いたベルトには予備弾倉を仕込んだマガジンポーチ。両腿には拳銃を仕舞ったホルスターもある。本当にこれから戦いが始まるのだ。深呼吸してイフを見上げる。
「不安か?」
彼もクロエと同じ意匠の戦闘服に身を包んでいて、まるで歴戦の戦士がそこにいるようだった。だがクロエが安堵したのは見た目の問題ではなく、イフの声が少し震えたように聞こえたからだった。彼も同じなんだ。恐怖を抱いているのは自分だけじゃないんだ。
「どうした?」
「うん。不安だよ。イフさんもそうだよね」
「あたりまえだ。俺たちがしくじったらプランBはおじゃんだからな」
苦笑いを浮かべてイフは座り込み、壁に背を預ける。クロエも隣で同じようにして天井を見上げてみる。暗い白色が不安と恐怖を煽ってくるように見えて、逃げるようにイフの顔に視線を向けた。
自分たちの出番はまだ先だ。最初はフィルとクリスの二人が表立ってRONを攻撃して来園客の勇気を刺激する。それからアコニットたちがセントラルの地下で分電盤を操作し、一部を除いた区画の電力供給を断つ。
出番はその後だ。暗くなり、電力供給もないセントラルを駆け上がって管理ブースに突入。ドーム開放をして、その後も目標はすべて終わらない。
別の作戦目標は「サラマンダーがRONと関わっているかどうかを確認する」というものだ。封印されていたアニマ・サラマンダーと現代のRONとのつながりはまだ不透明だ。
RONの裏側にサラマンダーがいるかもしれないし、そうでないかもしれない。クロエは暗い天井を見上げてため息をつく。そうしていると少し前に終わったブリーフィングの内容がぽつぽつと浮かんできた。
サラマンダーがネクサスにいないのなら探す必要があるし、いるのなら戦って行動不能にして捕まえなければならない。ブリーフィングでそう語ったイグに疑問を呈したのはイフだった。
捕まえる? そんなことができるなら殺した方が手っ取り早いのではないか?
イフの言葉は筋が通っていた。
サラマンダーは危険なアニマで八百年前の争いの中心に立っていた。それでも生きていたのは彼の戦闘力がとても高かったからだ。シロが封印という手段をとったのは、真っ向勝負での勝ち目が薄いからではないのか。
そんな言葉に答えたのはノームだった。確かにサラマンダーは強大なアニマで、幾度も死線をくぐってきていた。直接対決は不利と見たのも事実だった。
「シロもノームも、誰もが勝てないかもしれないって思うほどだったんだろ。だから封印した。そう言ったよな。だから今回は殺す気でいくしかない。だが殺してはいけないと?」
「ええ。サラマンダーは死なせてはいけない」
「意味が分からないな。それに八百年前の封印魔法も詰めが甘くないか? 封印魔法が実際どんなものかは知らない。だが、サラマンダーを無力化できていたならその時に殺しておくべきだった。言っている意味は理解できるよな」
はっとしたのをクロエは隠せなかった。あの時、ノームの住処で八百年前の封印がどうこうという話を聞いた時は精神的な余裕がどこにもなかった。だからイフの言葉は重要な指摘となってクロエに響いていた。
過去にきちんと殺しておけば、現代でこんなことが起こらなかったかもしれない。イフが言いたいのはこういうことだ。
「もちろん」
「なぜ殺さなかったんだ」
「殺せなかった。サラマンダーの命を絶つことは、シロの命を絶つことと同じだから」
「なに?」
「シロがかけた封印魔法は強力だった。強力な魔法には代償や条件がいるの。あの魔法にとっての代償はシロの命だった。シロとサラマンダーの命は結びついて等価になったの」
「無茶苦茶だ、そんな話は」
「そうでもないわ」
「どうしてだ? 奴はシロと敵対して、殺そうとしていたんだろ。それは遠回りな自殺をすること同じになるんだぞ」
「サラマンダーは封印魔法の裏側を知らないのよ。だから八百年前の戦いでは、最後までシロを倒そうとしていた」
「そんなバカな…」
理解できないようにイフは頭を振った。クロエもそうだった。聖人計画の話を打ち明けるときに一緒に話すべきことじゃないのか。
クロエが捕まって殺されてしまえばサラマンダーも死ぬ。サラマンダーが現代のRONに関わっていてもいなくても、それは変えようのない事実なのだろう。そのことをモノというRONのリーダーは知っているのだろうか。いや、知りようがないはずだ。魔法は実在するが、存在は広く知られていないのだから…
もしかすると。クロエはひらめいた。
夢で見た燃える男。あの夢が別世界の自分の記憶だとするなら、燃える男――サラマンダーが自分を刺し貫いたのも理解できた。サラマンダーと自分の命が等価だと知らないなら躊躇なく殺せるはずだ。それに、自分が発したあの言葉。
バッドエンドなんかで終わらせる気なんてない。
何の準備もしていないと本気で思ってるの?
みんなでハッピーエンドを見るわよ。
あんたも一緒に――
どういう意図があったかはわからない。だが、あのまま死ねばサラマンダーもすぐに後を追うことになる。サラマンダーからしてみれば間違いなくバッドエンドだろう。
だとしたら。なぜ自分が、バッドエンドなんかで終わらせる気はない、なんて言ったのだろう? 死にかけて混乱して立場を間違えたのか?
違う。確証はないが、たぶん違う。両者共倒れになることはきっとあの世界のクロエにとってバッドエンドだった。だから「みんなでハッピーエンドを見る」ことにした。でも、どうやって? 死にかけなのに、なにをどうしたというんだろう?
ARグラスでインターネットブラウザを開き、SNSを確かめてみる。トレンドはやはりネクサスのことばかりで埋まっていて、そこに新たな動きがあるのがわかった。
「フィーと義兄さんがやり始めてる」
「ああ。ここにも騒ぎが聞こえてきたな」
イフが言う通り、耳をすませばワァワァと大勢が出している声が聞こえる。
SNSに投稿された短い動画では、空を飛ぶ紺色のパワードスーツと全身サイボーグがRON構成員と激しい戦闘を繰り広げていた。放たれる銃弾をものともせずに機動する二者。
街灯を引っこ抜いて殴ったり、思い切り蹴り飛ばしたりしてRON構成員を次々に沈黙させ、紺色のパワードスーツが勇ましく宣言する。
〈僕たちが来たからもう大丈夫! みんなでRONと戦うんだ、これはきっと最後のチャンスなんだ! 戦える人たちはこいつらの武器を奪って! 守るべきもののために!〉
SNS上の反応は賛否両論だ。こいつらの動きは捕らえられている来園客の安全を脅かすだけだと怒る者もいれば、RONの恐怖支配を解く出自不明のヒーローだと称える者もいる。
勝手な奴ら。クロエは思わずつぶやいていた。こいつらは自分がこの状況に立っていないからなんとでも言えるのだ。ここにいれば、きっと、もっと真摯な気持ちになるはずだ。真摯という言葉が的を射ているかはわからないが。
「どうしたんだ?」
「ネットを見ていたの。ネクサスで起きていることの反応をね」
「そうか…そろそろ時間だ。準備は?」
「できてる」
クロエは立ち上がり、イフもあとに続く。彼が床に置いていた突撃銃を拾い、銃に結んでいるベルトを体に巻いて装備したのを、クロエは両腿のホルスターに触れて眺めていた。両手には冷たい、命を奪う武器の感触があった。
「クロエちゃん」
「ルピナス?」
「ためらえば、死ぬのはクロエちゃんっす。私は…私は、クロエちゃんを守るためなら、どんなことでも躊躇しないっすよ」
背中に狙撃銃と突撃銃を吊ったルピナスは微笑んでみせていた。もちろん、研究所で支給された戦闘服に身を包んでいる。
彼女だってこの極限状態で疲弊しつづけているはずなのに、こうして頼れそうにしてくれている。どれだけ感謝してもしきれない。だからクロエは言葉にすることにした。
「ありがとう。私も、もう迷わない」
「そうよ。これから先は立ち止まらないで。ゆっくりでもいい。歩き続けるのよ」
「ノーム?」
「あなたはクロエ・ブルームとして生きていくのよ。あの子と…フィルと一緒に生きていくんでしょ。こんなところで立ち止まれない。そうよね?」
「…もちろんよ」
小人に頷いてみせる。その態度にノームは満足したように笑って返した。ノームも戦闘服に身を包んでいる。特注サイズだ。
クロエは床に置いていた杖を拾い上げてとんとんと床を叩く。音は上にも下にも響いていく。セントラルの非常階段ブースはここの四人以外に誰もいない。
非常階段ブースの扉の先はまだきらびやかな照明が光を放っている。どたどたと大騒ぎしている声も聞こえてきた。フィルとクリスの活躍がそうさせているのは明らかだった。
「突入のタイミングはここの照明が切れたら…そうだよね、ルピナス」
言葉なしに頷きが返ってくる。クロエはもう一度自分の武器に触れた。両腿に装備した二挺の拳銃と背負った魔法の杖。これが自分の道を切り開く力になる。
目を閉じて深呼吸。武器の冷たさは歩みを止めるものではない。頑張れ、私。フィルもアニーもみんなも頑張ってる。立ち止まって怖がりたいはずなのに、震える気持ちに鞭をうって歩き続けている。
だから私もそうする――自分以外が頑張っているから、ではない。自分がそうしたい。眼前の障害を、危険な状況をどうにかしたい。
がちゃん! 扉の向こうから音がしてクロエは目を開けた。扉の向こうの照明はどれもこれもが沈黙して、暗闇が広がっている。あるのは非常灯の小さな明かりだけだ。
「行くっす」
素早く扉を押し開けたのはルピナス。突撃銃を構えて左右にクリアリング、ついてこいとハンドサインを送られ、クロエはイフに目配せをしてから二番目に突入する。暗闇のなかでもARグラスが表示するセントラルの地図は鮮明に確認できた。
「次の曲がり角を左に。そしたら近くの階段を上がっていく」
「オッケーっすよ」
案内を受けて先導するルピナス。やや背中が曲がった臨戦態勢。クロエも右腿から拳銃を抜いて深呼吸。いつでも撃てるように構えるんだ。ガーデナーの訓練施設でそうやって教えられたことを思い出し、クロエも背中を少し曲げてルピナスの後に続く。