長い戦い。自分にとっては一日中も駆けずり回って危険を冒す、とんでもない出来事だった。だがきっと、記憶をなくす前の自分にとっては八百年と少しもの時間をかけた、裏の歴史にピリオドを打つ戦いでもあった。
はやく終わってほしいと思っていた。RONに、モノによって砕かれた日常を取り戻すのだとクロエは戦っていた。いざ終わってみれば、安堵が疲れ切っていた心身の戒めをほどいて、そのまま横倒れになって動けなくなるような、深く重い疲れがあるばかりだった。
だから、モノを文字通り焼き消しきったあと、イフがなにか言ったのを聞いてふらりと倒れこんでしまった。
「これで全部終わった。そうだな、全部終わったんだ。お疲れさまだ、クロエ」
確かこう言っていたはずだ。安心しきって力が抜けてしまって、いつのまにか目覚めている。
どこだろう、ここは? 柔らかいベッドの上。まるでホテルのような雰囲気の部屋、カーテンからは夜明けの光がやわらかく差し込んでいる――見回したクロエはようやく合点がいった。
セントラルだ。ネクサスがある半島に建てられた城。そこの上の方にあるホテル部分で眠っていたのだ。枕元にあるデジタル時計は午前五時を示している。まるで寝台列車の再現だ。もしかするとあの戦いも冒険も夢だったのだろうか?
「…夢なんかじゃない」
壁に取りつけられたコートハンガー、そこに目をやれば着ていた黒い戦闘服がかけられている。確かにこれは自分が着ていたものに間違いない。近くには緑のアルストロメリアの宝石が埋まった杖だってある。
クロエはそこではっとした。服を着ているだろうか、自分は?
慌てて自分の姿に視線を落とす。簡素な黒いパジャマははだけてしまっていて、ほとんど裸に近い。ふくらみの小さな胸を隠しながらクロエは立ち上がり、戦闘服に手を伸ばしながら周りを見回す。
この部屋は昨日訪れたのと同じ部屋のようだった。置いていた自分の荷物の位置は覚えているのと同じ場所にある。着替えに手を伸ばし、そのまま脱衣所へと向かった。
熱いシャワーを浴びてからバスタオルで体をふく。鏡を見れば女性的な線のふくらみの少ない自分の体が見えて、クロエはそこで髪が短くなっているのを認めた。あれだけ激しい戦いに身を投じ、しかも自分は風の魔法を行使していたのだ。少し雑に髪がカットされていたって仕方のないことだ。
どちらかといえば少年に間違われるような容姿。肩くらいまで短くなった青い黒髪にドライヤーをかけて、今日も結わないことにした。
近くに足音が聞こえる。だんだん大きくなってがちゃりとドアが開いた。
「あっ」
「…フィー?」
疲れ切った様子のフィルがぼうっとこちらを見ている。黒のパンツに薄赤のカーディガン。紺色のパワードスーツはとっくに外しているようだった。
そんな彼の寝ぼけて疲れ切っていたような印象はすぐに吹っ飛んだ。目が丸くなって顔も赤くなっていく。あわわ、なんてこれまで聞いたことのないセリフもあふれていた。
「フィー、えっと、おはよう?」
「――おはよう、ごっごめんね!」
ばたんとドアが閉まった。いままで見たことのない表情を見て、恥ずかしさよりも驚きが、そしてなんだか嬉しくなってしまった。ちゃんと着替えて挨拶からやり直そう。
きれいな装飾の下着に、緑の薄い長袖。赤いタイツ。戦闘服は上着のかわりになる。後ろにフードがついているから、まるでパーカーのように着れる。ネクサスの外の寒さを耐えられたのは戦いに直面して熱くなっていただけではない。お気に入りの茶色のコートは、今日はおやすみだ。
「おはようフィー」
ドアをあけると、近くの椅子にフィルが座ってコーヒーを飲んでいた。椅子の前のテーブルにはコーヒーカップとソーサーが二組ある。
さっきの出来事が抜けきっていないのかフィルの顔がまだ赤い。近づくと視線をそらされるかもしれない、と頭によぎったが、実際はそうではなかった。平静を装おうとしているのかもしれない。嫌なわけではなかったから気にしなくてもいいのに。
「お、おはようクロ。さっきはごめんね。ノックするの、忘れてたんだ。疲れてたみたいで」
「謝ることなんてないよ」
「クロ、ありがとう。少ししか眠れてないけど、もう一度寝るかい」
「眠気はもうないから二度寝はしないわ。それよりフィーは大丈夫なの。あのケガ、とてもひどかったはずだよね」
「パワードスーツの治療機能のおかげで大げさなダメージにはならなかったんだ。まだ全身は痛むけど、死んじゃうほどのものじゃない。いまのところは問題ないよ。ありがとう。そうだクロ、これ、サービスカウンターから頂いてきたんだ。ホットココアだよ」
テーブルに置いてある、口のついてないコーヒーカップ。顔を近づけなくても好物の匂いだと分かった。
「まるで寝台列車のやりとりみたいね」
「うん…それとね、クロ」
「なに?」
「ノームから伝言だよ。起きたら上の階に来てほしいって。ホテルの中にある喫茶店があるんだけど、そこで待っているって」
「待ってる? ノームが、そんなところで?」
彼女のような――人間とは少し離れた見た目の存在が公共の場にとどまっているのはうまく想像できなかった。彼女にとって居心地の良さそうな住処が地下にあるのに。それに人の目に触れれば注目を集めそうだ。
「普通の人もそんなにいないしね。昨日というか、ついさっきまで戦闘があったんだからさ。いまいるのは国際同盟の兵士さんとか、調査員さんとか、あとはネクサスから離れなかったスタッフさんとか…そのくらいなんだ」
ホットココアに口をつけながらフィルの話を聞く。あれだけの戦いがあった。現代の人智をこえた戦いがだ。誰かに見られていたのは間違いない。派手にやった自覚はある。魔法という概念が忘れ去られていた現代で、そんなものがあると知られれば、
「まずいんじゃない?」
「え?」
「魔法が実在するなんて知られたら、きっと良くないことが起こる。ノームの住処でも話したかもしれないけど、人はちょっとした違いを争いの種にする。魔法が使えるかどうかで差別があったし、裕福かどうかで現代のRONなんてものが組織されたのよ」
「そうだね…でも、どうにかごまかせたと思う」
「あれだけのことをやったのに?」
「まだ、きちんと出来たかは分からない。西の島で起きた爆発や暴風は、ライドで使っていた演出装置の異常があったんだ、という説明をしていたんだ」
どこまで通用するかは分からないけどね。申し訳なさそうにフィルは小さくうつむいてしまう。そんな彼の仕草にクロエは首を横に振った。
「台本もないのによくやったと思う。説明をしたのはフィーなんでしょ?」
「うん、そうだね」
「ならきっと大丈夫。あのパワードスーツのこともなにか言及されたの?」
「まだだね。でも、サイボーグともどもメーベル技術部の成果物ですって言うつもり」
それならきっと大丈夫だよ。ホットココアから口をはなしてクロエは素直に思いを伝えた。きっと、フィルのやることなら大丈夫だ。彼のやることは正しい。
「ねえクロ」
「うん?」
「謝らないといけないことがあるんだ。聖人計画の話でね」
「えっと…?」
コーヒーカップを置いてフィルが見つめてくる。申し訳なさそうに目が揺れていても、視線は外れることがない。
「僕はプランBを提案した。でも、クリス義兄さんや父さんが聖人計画に乗り気じゃなかったら、もしかしたら僕は、聖人計画に賛成していたかもしれない」
風が突き抜けた。もちろんそんな風なんてどこにもない。しかしそんな気がした。クロエは頷いてフィルの目を見つめる。
「ノームから八百年前の真相を聞いてね、ただただ恐ろしかった。僕が世界の安寧を守る要のカギを開けて放ってしまった。そうだ、僕が君を目覚めさせてしまった、その意味に震えていた。それをなかったことにしてしまえるのが聖人計画だった。君を再びサラマンダーの封印にあてがうことで、最初からなかったことにできてしまう…」
「フィー…」
彼の不安や恐怖は理解できる。納得もできる。逆の立場なら恐れてしまうだろう。真の黒幕がモノということも知らず、過去の世界を焼き尽くそうとした強大なアニマをもう一度黙らせるには聖人計画が一番なのは間違いない。
それに魔法が忘れ去られた現代でそんなことを大っぴらにできるはずもない。魔法という概念を現代に伝えたところで良いことなんてなにもないはずだ。だからなにもかもを秘密裏にやる必要があった。やはり、聖人計画は、どの面から顧みてもよくできた方法だ。たった一人を犠牲に全部が解決するのだから。当事者の感情を除けば、よくできている。
「…きっと義兄さんも父さんも同じ気持ちだったと思う。だから聖人計画に手を出すことにした。僕はその背中を見て、嫌だなって感じた。自分だってそうしようとしてたくせにね。だからプランBを考えてさ、こうして、こうなってる。こうなって良かったって思う。でもクロに黙ったままでいるのは間違っていると僕は思うんだよ。クロを傷つけるかもしれないし、自分だけが楽になりたいみたいで、あまり良いなんて言えないことだけどさ」
「…フィーは自分を責めすぎてる。私はもうそんなこと気にしてないよ」
素直な気持ちを飾らない言葉で伝えたつもりだ。きっと気持ちは届いた。だからフィーは顔を上げてくれた。そんなに泣かなくたっていいのに。
上昇停止したエレベーターからクロエとフィルがおりる。フィルの顔は少し赤くなって、まだ少しずつ涙が流れるのが止まらない。
こんなに涙もろいんだ。ノームの住処で知ったはずなのに、あの時だってたくさん泣いていたはずなのに、まだ泣いている。やっぱり彼はどこまでも優しくて温かみのある人なんだ。自分を目覚めさせたのがフィルでよかった。
「この先を右に曲がれば喫茶店だよ。ノームはそこにいる」
涙声でフィルが教えてくれた。頷いてクロエは深呼吸する。部屋からアルストロメリアの杖を持ってきていた。花の宝石を額に当てると風を感じる。
「ノーム、開けるわね」
白色の大きな扉だ。押してみれば意外に軽い。
中はとても雰囲気がいい。照明はあまり点いていないが、うす暗い小さな空間に窓からはいる夜明けの光がふわりとのっていた。なんだかそれがこの世界のものではないような気がして、光の中に立っているノームがいままで見たことのない雰囲気を放っているようにも思えた。
「おはようクロエちゃん。フィルくんもお疲れさま」
土色のローブ姿でノームは杖を抱えて近くの椅子に座る。子供用の椅子ではないから、少し跳んで座っていた。クロエもフィルも同じテーブルを囲んでいる椅子に座り、おはようと声をかける。
ほかのテーブルや椅子は倒れたままだった。空中戦艦の砲撃が叩き込まれた衝撃でそうなってしまったのだろう。カップや皿が割れてしまったらしいところもあちこちあった。
「来てくれてありがとう。もっと寝ているのかもと思ったけど」
「よく眠れたわよ。それで、開店前の喫茶店? 貸し切りにしてなんの話を?」
「…本当のことを話そうと思って。全て良く完結したから」
フィルもきっと同じことを考えているはずだ。本当のこととは、いったいなんだろう? これまで聞かされてきたことに嘘があったのだろうか?
「完結したって…いったい、なにが?」
「この計画が」
「プランBってことだよね?」
「違うのフィルくん。半分は正解だけど、もう半分は違う。黙っていた本当のこと。それがもう半分の正体なの」
「…ノームの話を聞かせて。あ、その前に、飲み物を持ってこようか。貸し切りならお店のものを使ってもいいかな。僕はコーヒーにするけどクロとノームは?」
ホットココア。紅茶ならなんでも。ふたりの返事にフィルは頷いて席を立ち、店の奥側へと足を運んでいく。
「手伝うよフィー」
「気持ちだけ受けとるよ! ちょっと危ないんだ、昨日の戦いの余波で荒れているみたいでね」
「えっ。危ないって!」
「一人の方が動きやすいから、そこで座っててよ。心配しないで」
…もしかすると心配性なのかもしれない。フィルのことになると心配することが多い。心配しなくてもいいところでそうしすぎてしまっているのかも。
「フィルくんが戻ってくるまで少し話しておくわね」
「黙っていたことについて?」
「ううん。あなたが寝てから起きるまでのこと。モノは…モノは、そうね、消滅した。なにもかもがこの世界から消え去った。肉体も精神もかけらも残っていない。ルピナスと、イフと、あなたと、そしてプランBに携わったみんなの成果よ」
「そうか…」
「ルピナスやアニーたちはホテルで寝てるわ。国際同盟への知られては都合の悪いところも隠してある。向こうに勘が鋭いのがいても、きっと真相を掴めないでしょうね。それと、シルフはネクサスを去ったわ。彼女、ひとつところに留まるのが嫌なのよ。風の精霊だからなんて彼女は言うけどね」
「…そうだ、イフさんは?」
「彼なら寝ているわ。あなたの部屋と近い部屋でね。目覚めたらここに来るようにメモを残してきたよ」
「そっか」
「ゆっくり寝てたわ、見た感じは大丈夫よ。いろいろ傷はあったけど重症じゃない。病院のお世話になることはないわ。もしそうだったとしても、彼なら自分の傷を治せるでしょ」
腹を大剣が貫いてもふさいでしまうくらいだ。炎の魔法のおかげなのか、火の精霊としての資質なのか、どちらにしろ傷やケガで医療を必要とするイメージはもうない。
「持ってきたよ!」
やや遠くからフィルが銀のプレートをもってこちらに歩いてくる。三組のカップとソーサーをテーブルに置いて、白いテーブルクロスに小さなしわができた。
「それで、隠していたことってなに?」
ホットココアのカップから口をはなし、ソーサーに置きながらクロエは問いかけた。
夜明け。橙色。クロエは視線を窓に向ける。窓から差し込む夜明けの光が少しだけ強まった気がする。
「結論から言うわ。今回の出来事は別の世界である程度仕込まれていたことなの」
「別の世界?」
「そう。聖人計画に失敗してプランBを発動させたけど、そこから始まったRONとの戦いに負けた世界。『理』に平行世界の概念がある話はしたはずよね。まあ、平行世界は実在するんだけど、私たちがRONに勝利する世界もあれば敗北する世界もある。可能性のぶんだけ平行世界は存在するの」
僕たちにとってのバッドエンドを迎えた世界か。さみしそうな声色でフィルが呟いた。そうなる世界はあってもおかしくない。昨日の戦いだって、モノがもっとうまくやっていれば勝てなかったかもしれない。
「それで…最後の最後でサラマンダーがクロエちゃんを殺す世界があった。きっとその世界ではサラマンダーも死ぬはず。RONは沈黙し、私たちも全滅して、たぶん最後まで残ったモノが好き勝手始めるんだと思う。あの世界でモノという黒幕を知っていたクロエちゃんは、最後の最後である魔法を発動させたの」
「それはどんな?」
「全部は分からない。魔法を受け取ったのはこの世界のシルフだったから。彼女の話を聞いたのは昨日の昼、RONの襲撃が起きた前後くらい。シルフが語った、別の世界のクロエちゃんがやろうとしたのは、簡単に言えば『やりなおし』だったの」
「RONとの戦いをやりなおすってこと?」
そういう意味だけじゃなかったのよ。ノームは一度コーヒーカップに口をつけて、それからゆっくりと息を吐いた。
「では、なにをやりなおすつもりだったんだろう」
眉間に少ししわを寄せてフィルが小さくうなる。別の世界の自分が魔法でなにかを伝えようとかした。何かをやりなおすために――
少し間があいてフィルが顔を上げた。
「きっとクロのことだから、正しいことをしようとしたんだ」
「え?」
「モノが黒幕だということを突き止めたんでしょ、その別の世界では。だったらもっと初めの方からそれを知っていれば、バッドエンドじゃなくてハッピーエンドを迎えられると思ったんじゃないかな。僕も、クロも、みんなも、サラマンダーも死ぬ。もちろん罪のない人々もモノの手にかかってしまうなら、それは迎えたくない結末だよ」
「…そうよね」
もしかすると。寝台列車で見たあの夢は、別の世界の自分がこの世界の自分に向けて投げた最後の記憶なのかもしれない。気づきに目を丸くしたクロエは静かにノームに視線を向けた。
「フィルくんの言うとおりよ。あの世界のクロエちゃんは最悪の結末を回避しようとした。あの世界はもうどうしようもない。でも別の世界になにかを託すことができるかもしれない。そうすれば世界の分岐を抑えて、最悪の結末を迎える世界の総数を減らそうとしたのかも…とにかく、あの世界のクロエちゃんは、世界を越えて最後の手助けをしたかったんだ。プロジェクト・アンコール。そう呼んでいたようね」
「アンコール…」
「シルフが言うには、アンコールで伝わった魔法はふたつあるの。あの世界のクロエちゃんのメッセージを込めた魔法と、サラマンダーの記憶を消去する魔法よ」
そんなことができるようになっていたのか。別の世界の自分は風の魔法だけを扱うのではないらしい。きっと多くの経験を積んで成長していたのだろう。
引っかかった言葉もあった。サラマンダーの記憶を消去する。つまり、この世界のイフが記憶喪失になってしまったのは、
「私のせいでイフさんが記憶喪失になったってことよね」
「結論から言えばね。でも必要なことだった。その魔法はモノの洗脳も解く効果があったの。あの世界のクロエちゃんはサラマンダーに知ってほしかったのよ。人類は捨てたものじゃないんだって。ありのままの世界を知ってほしい。誰かを恨みで焼くなんてしてほしくないって。そう願っていたの」
なんてことだ。呆けたようにフィルが言った。クロエも同じような表情をしていることに気づいて、そのまま椅子の背もたれに体を預ける。
イフが記憶喪失になったのは別の世界の自分が仕向けさせたことだった。その狙いはモノの洗脳支配を解き、改めて世界に触れてもらうこと。そうしてサラマンダーが抱えさせられた人類への憎悪をなくす。それがアンコールの狙いだったのだ。
「シルフはRONの空中戦艦に忍び込んでサラマンダーを解放して、それから彼にネクサスに行くように教えたの。占い師の格好をして、仮の名前も与えて、ネクサスでクロエちゃんと会わせようとしたのね」
「そうだったの…」
「あとね、フィルくんを誘拐しようとした奴らは私が用意したスタッフなのよ。お金を握らせて指定地点まで移動させてほしいってね。彼らはイフに退治されてしまって、そのままクロエちゃんと出会った」
ちょっと待ってよ! フィルが大声を出してノームをにらんだ。
「あの誘拐は君の仕業だったのか!」
「そうよ」
「あれ怖かったんだよ! イフさんがいなかったら僕は誘拐されていたかもしれないじゃないか! なんでそんなことして――そっか、あの時点のノームはシルフから話を聞いていなかったんだね」
「ええ。その時までは聖人計画の成功のために動いていた。クロエちゃんに負荷をかけてシロを表に出させようとしていたからそんなことをしていたの。謝るのが遅くなったわね」
静かに頭を下げるノームに、まあいいけどさ、とフィルが返す。それでいいのかと驚いたが、こうした心の広さが彼らしい。クロエはなんだか誇らしい気持ちになった。
「シルフから話を聞いた私は、情報を集めるうちに事態がどんどん都合のいい方向へと転がっているのを感じたの」
「RONがネクサスを襲ったり、変な鬼ごっこが始まったり、最悪なことが起きていたのを都合がいいって、それはちょっと」
フィルの戸惑いはもっともだ。ノームは大局的にものを見ようとし過ぎている、とクロエは思う。でもそれは仕方がないのかもしれない。八百年も生きれば小さな視点から離れて考えるようになるのかも。
「だってモノが表舞台にでてきたし、なによりクロエちゃんとイフが仲を深めていった。モノはイフに人類の愚かさを見せつけたかったのだろうけど、この世界では争いあっていた二人のアニマが仲間として戦う道を歩んでいたの。都合がいいって、そのことを言ってるのよ。素敵だと思わない?」
楽しみにしていた映画の話なら素直に頷けるだろう。でも自分は当事者だ。戸惑うくらいしかできない。
クロエはぎこちなく首を横に振って、しかしフィルが静かに頷いたのを認めた。
「なるほど…そういうことなら、素敵というのは分かるよ」
「でもフィー、イフさんの記憶を消してそうなってるのよ、無理矢理な感じがして素直に良いことだなんて私には思えない」
「最初に無理矢理に記憶をいじったのはモノの方だ。別の世界のクロがやったのは、それを正したってだけなんだよ。悪いことをした気持ちになっても、やったことは正しいはずだよ。戦いあう必要がない二人が協力できたのは素敵なことだと思うんだ」
フィルの言いたいことは理解できた。納得もできる。強引なのには変わりないが、少しは自分の――別の世界のだが――行いを許せるような気がした。少しだけ。
「隠していたことっていうのはね、プロジェクト・アンコールのこと。だから言わせてクロエちゃん。あなたって本当にすごい。黒幕が誰かとかを全部知っても、絶望そのものの状況に立たされても、最後まであきらめなかった。だからこの世界は良い結末を迎えられた。ありがとう…」
「ノーム、それは私がやったんじゃない。別の私がやったことよ。だからありがとうを言う相手は間違ってる。でも嬉しいよ。そんなことがあったんだね。教えてくれて、本当にありがとう」
じわりと涙が浮かんだ。
別の世界の自分が最期に仕込んだ魔法と計画。その成果が、いまここで取り戻した日常だ。親友や仲間と笑ったり喜び合える世界だ。そして…イフとも手を取り合える世界にもなった。
「さあ、伝えることは伝えたし、私はそろそろ行くよ」
「あの地下の家に戻るの?」
「しばらく旅に出ようかなって。この世界のいろんなところを回りたい気分なの。もう、シロを待つ理由もないし」
「…そうか、そうよね」
「誤解しないでね。私、クロエちゃんが好きよ。あなたがよかったら友達になりたいくらい」
「私たち、友達じゃないの?」
いたずらっぽく笑ってみせる。ノームはしばらく固まって、それから愉快そうに笑い始めた。笑い過ぎて涙も出ている。
「あははっありがとう! それじゃあ、またね」
小さな手を大きく振ってノームが喫茶店から去っていく。クロエとフィルも手を振り、穏やかな笑みを浮かべていた。
がちゃりとドアが開いた音が喫茶店に響き、飲み物の味と他愛のない話を楽しんでいたクロエとフィルがそちらを見る。そこには戦闘服に身を包んだ、赤髪のオールバックの大男がいた。
「イフさん! おはよう!」
「おはよう。ここで話を聞いてほしいってメモを見たんだが…ノームはどこだ?」
「旅に出るって。ノームが伝えたかったことは私たちも聞いたよ。聞く?」
「ぜひ聞かせてくれないか。君たちにとっては繰り返しになって申し訳ないが」
「いいのいいの! 良いことだったら、いくらでもアンコールに応えたいし」
嬉しくなってクロエは微笑んだ。
これからはきっとイフとも一緒に暮らしていくかもしれない。少なくとも自分はそう望んでいる。メーベルの家でフィルと自分とイフが仲良く暮らしていく――なんだか楽しそうな光景だ。
そうならなくたってもいい。イフとはもう友人だ。たまに会ってお話をするのだって楽しいことに違いない。
「飲み物をとってくるね。クロはホットココアでしょ、イフさんは?」
「カプチーノのコーヒーだ。できそうか?」
「まかせて!」
立ち上がってフィルは軽やかな足取りで店の奥へと向かう。頼もしいな、なんて背中を見送りながらイフが笑った。
「それで、なんの話だったんだ?」
「話す前に言わせて。イフさん。私、あなたと知り合えて本当にうれしいんだ」
「俺もそうさ。こんなにいい人と出会えてよかった。最高の友人だ。一生の宝物になる」
イフの言葉にクロエは涙腺を叩かれたような感覚を覚えた。
過去の時代、そして別の世界では最後まで敵対していたのに。そんな彼がここまで言ってくれるほどの仲になれたのだ。言葉にできない喜びがクロエの胸に満ちていった。
「私も。だからね、こうして平和になって良かったって思う」
「そうだな。ネクサスは平和を取り戻した。でもあちこち荒れてしまってる。修繕の手伝いが出来るならするつもりだ」
「私もやるよ。壊してしまったものも結構あるからね。でも魔法を使うのはナシ。世間に魔法ってものがあるのが知れたら…まずいものね」
「ああ。それに…まだ完全にRONは解体されてはいないはずだ。残党が残っているはずだからな。もし奴らが悪さをしたら、その時は一緒に戦ってくれるか?」
「もちろんよ」
「ありがとう…いい顔をしてるな。頼もしい相棒だ」
イフの大きな手がクロエの頭に伸びて、撫でられる。暖かい手の熱が疲れをほぐしてくれるような感覚がして、クロエは目を瞑る。
アンコールのおかげで、この世界でイフと自分は笑いあえている。きっとそれは素敵で、とても良いことのはずだ。夜明けの光が差し込む喫茶店で、新しい世界がカーテンを開けてもらうのを待っている!
「おまたせしました。カプチーノとホットココアでございます」
どこか砕けた口調でフィルがカップとソーサーを置く。湯気の立ち昇るカップに口をつけてイフは満足そうにしている。クロエもホットココアのおかわりで口の中が甘くなっていくのを味わった。
「美味いな!」
「ありがとう。気に入ったみたいで良かった」
「後でまた淹れてくれるともっと嬉しいね。それで…ノームから聞いた話ってなんだ?」
それはね、ノームが隠していたことについてなの。プロジェクト・アンコールっていって、別の世界の私がね――