立花希佐は忽然と姿を消した。玉阪座から持ち掛けられた熱烈な入門のオファーを蹴り、学校生活最後のユニヴェール公演では稀代のアルジャンヌに相応しい演技でクォーツにクラス優勝をもたらし、当然のように個人賞金賞を獲得して、卒業を待たずに失踪した。
それは、同期の78期にも知らされることはなく、幼馴染である世長創司郎にとっても青天の霹靂だった。
立花希佐は気付いてしまったのだ。もう間もなく、自分の夢は終わりを迎える、と。
分かっていたはずだ。本当であれば、叶わない夢を見ていた。自分はユニヴェール歌劇学校に通える性別ではない。最も単純な入学資格さえ満たしてはいなかったのだから。
だから、夢は夢のまま、心の奥底にある深い深い湖に沈めて、忘れてしまうはずだった。
それでも、立花希佐は自分の夢を選んだ。選んでしまった。後先考えることなく。
だからこそ、立花希佐の頭の片隅にはいつも罪悪感があったのだ。
例えば、教会で出会った女の子。あの子はユニヴェールのジャックに憧れている様子だった。
例えば、公演を観劇して手紙を書いてくれた女の子。ユニヴェールに憧れているけれど、自分は女の子なので入学できないと、悲しんでいた。
きっと、それだけではない。希佐と同じように、あのきらきらと輝く舞台を見て、自分もあの場所に立ってみたいと夢見た女の子はいたはずだ。けれど、その子たちの夢が叶うことはない。
立花希佐が、立花希佐だけが、特別だった。
それにもし、もしも女だということがバレてしまったら、多くの人々が裏切られた、冒涜されたと、言葉の限りを尽くして学校を批判するだろう。
ユニヴェールは男性だけで歌劇を作り上げている。それが大前提にあるのだ。誰もその中に女が紛れ込んでいるなどと疑いもしない。男性だけで作られているからこそ、価値がある。男性が女性を演じているからこそ、熱狂する。女性が女性を演じたところで、心揺さぶられることはない。
中座秋吏は言った。「立花希佐は女の身でありながら男を演じ、更にその上からアルジャンヌという女を演じている」のだ、と。
確かに、そう言えば聞こえは良い。だがそれは、立花希佐という人間を熟知した上で、当人がどれだけ血反吐を吐くような努力を続けてきたかを知っている者の言葉だ。普段の立花希佐を知らない、純粋なユニヴェールフォロワーにとっては、どうでもいいことだった。彼女の努力など知ったことではない。観客にしてみれば、ただ女が女を演じているだけだ。正直な話、興覚めだろう。
それでも、自分だけが非難の対象になるのなら、立花希佐は耐えられたはずだ。
校長の手引きがあったにせよ、希佐は自らの意思でユニヴェールへの進学を選んだ。校長から提示された三つの条件を呑み、ユニヴェールで学ぶことを望んだ。絶望の最中で、夢にすがった。
だからこそ、最悪の結末を想像したとき、立花希佐は戦慄した。おそれ、おののいたのだ。
もう、自分だけが、などという次元はとうに過ぎ去っていた。取り返しのつかないところまで来てしまっていた。校長は、女だとバレれば退学だと言った。だが、もうそれだけでは済まされない。
命を削るように、みんなで必死に作り上げてきたあの舞台のすべてに、ケチが付けられる。一緒に演じてきた大切な仲間にまで、非難の言葉が向けられる。
中座秋吏は校長として責任を負うことになるだろう。もしかしたら、その地位を追われることになるかもしれない。他にも、担任の江西録朗、玉阪座に入門した先輩たち――たくさんの人を巻き込んで、不幸にしてしまうと思ったら、恐ろしくてたまらなくなった。
胸が膨らんだ。腰の細さが際立つように、体は徐々に丸みを帯びていった。いくら頭では拒んでいても、体は女であることを主張する。三年生になってからは、周囲に女だとバレるのではないかという恐怖が、一年生の頃よりも強くなっていた。
その恐怖が、クォーツ生から立花希佐を遠ざけた。少しずつ一人で稽古をする時間が増えていった。会話も減り、大伊達山に足を運ぶ頻度が増え、孤独を友とした。取り憑かれたように芝居に没頭する姿は、恐ろしくも美しく、同期でさえ声をかけることがはばかれるほどだった。
この三年間、それは立花希佐にとって、文字通り夢のような日々だった。夢、そのものだった。この先に続いていくであろう人生のすべてを賭けてでも、手に入れたい夢だった。だから、何も後悔はしていない。ただ、怖かった。ユニヴェールという夢を終え、目が覚めたとき、そこには何が待っているのか、分からないから。
だから、夢の終わりを待たなかった。
夢が終わってしまう前に、自らの手で終止符を打った。
心のどこかで、ユニヴェールを卒業しなければ、この夢はいつまでも続いていくのではないかという、愚かな夢を見ていたのかもしれない。
永遠に終わらない夢はないのだから。