「脚本、書き直した」
翌日、早速だが朝食前に少しでも体を動かしておこうとスタジオに向かう途中で、一晩中事務室にこもっていたらしいアランが、希佐の顔を見るなり開口一番にそう言った。当然、朝の挨拶はない。
「……おはようございます」
「ん」
スタジオから直接二階に行き来することはできない仕様だ。階段は一つしかなく、必ず事務室を通らなくてはならない構造になっている。
アランは、昨日の夜に見たのとまったく同じ姿形のまま、パソコンの前に座っていた。鉛筆を煙草のように口に咥え、プリンターが紙を吐き出す様子をぼうっと眺めている。
「どうして書き直したんですか?」
「気が変わったから」アランは横目に希佐を見る。「昨日君が歌っているのを見て」
「……私の歌、駄目でしたか?」
「何で?」
「歌を聞いて脚本を直したということは、私の歌が気に入らなかったから、なのではないかと……」
「逆だよ」
「逆?」
「良かったから直した」
やはり、この人は何を考えているのか分からない──希佐がそう思いながら眉を顰めている傍ら、アランはプリンターが吐ききった紙をまとめて、ダブルクリップで留めている。
「あと、主役は女だったけど、男に変更した」
「え?」
「君、男を演じる方がやりやすいんじゃない?」
「どうし、て……」
「パブで酔っ払いに絡まれたとき、瞬時に女を消したでしょ。君があまりに男だったから、ノアが驚いてたよ」
アランはそう言うと、ダブルクリップで留めただけの紙を差し出してくる。
「新しい脚本」
「あ、はい……」
「見ないの?」
希佐はヨガマットを小脇に抱えたまま、アランに近づいていく。目の前まで行って紙の束を受け取ろうとするが、どうしても手に取ることができない。
別に男を演じることが嫌なのではない。酔っ払いに絡まれたとき、故意に男を演じたのは希佐自身だ。だが、男を演じる方がやりやすいのではないかと指摘され、思うところがあった。
ユニヴェール時代の三年間、希佐は少年を演じ続けてきた。男で居続けた。あの人や、その秘密を知る人以外の前では。だから、もう演じる必要のない場所まで、こうして逃げてきたのに。
男を演じる方がやりやすい──その物言いはまるで、女であることに違和感があると、そう言われているように感じてしまう。
アランは脚本を受け取ろうとしない希佐を見上げていたが、ふうと息を吐くと、それを机の上に置いた。
「元々、主役は男にしたかった。でも、演じられる役者がいないから、女で書いた。歌わせるならアイリーンだけど、主役を演じさせるにはまだ不安があった。昨日の酔っ払いの言う通り、あいつの演技はまだ荒削りの部分が多いから」
「……でも、演じさせるつもりだったんですよね?」
「君が現れる前まではね」
だから、アイリーンは希佐の入団に強く反対したのだ。アランが、次の舞台の主役は希佐だと、そう言ったから。自分の舞台を横取りされたと感じたのだろう。
「迷っていたんだ。アイリーンにやる気があるかどうかは問題じゃない。彼女は俺の期待に応えるために努力はするだろうけど、その努力では補いきれない部分が、彼女には不足している」
三年間、舞台の真ん中に立ってきた。だからこそ、アランの言いたいことはよく分かる。いくら努力を重ねても、到達できない場所はあるのだ。その溝は才能でしか埋めることができない。
「アイリーンなら歌で押し切れるかもって、思ったんだよ。でも、失敗する可能性の方が高かった。あいつはあれでメンタルが弱いから、今はあまり失敗体験をさせたくない。才能はあるんだ。だから、その芽を摘むようなことはしたくない」
今じゃないんだよ、とアランは言う。
「歌う君を見て驚いた。俺の理想そのものだったから」
分厚い前髪で隠された向こう側の目が、希佐を射止めるように見る。今度ばかりは、強い意思を感じる、真剣な眼差しだった。
「君の歌には切実なまでの歓びがあった。君の背中からは、舞台に立つ人間の覚悟や矜持、それに何より、舞台に対する執着が透けて見えた。俺の舞台の真ん中に立つべきなのは、そういう人間なんだ、キサ」
まっすぐに見つめられ、初めてまっすぐに名前を呼ばれて、希佐の心が大きく震えた。求められて舞台の真ん中に立っていた頃の記憶がよみがえってくる。
「もう君以外には考えられない。もし君が断るなら、この脚本は捨てる。この先一生この舞台が上演されることはない」
「ずるい人ですね、あなたは」
「なんとでも言ってくれ」
アランは目をそらさない。本当にずるい人だと、希佐は思う。
「……分かりました」希佐は机の上に置かれた脚本を手に取った。「あなたが作る舞台の真ん中に立ちます」
「あ、それから」
思い出したように声をあげたアランは、殴り書きをされた大量の紙を掻き分けると、その下から一冊の分厚い本を掘り出した。
「これ、英英辞書。君にあげるよ」
「え、いいんですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
そう言って素直に嬉しがる希佐を見て、アランは少し呆れ顔だ。
「君、タップダンスの経験は?」
「学校の授業で基本だけなら習いましたけど」
「じゃあ、みっちり練習しといて。相当訓練しないとヤバいかも。タップダンスならバージルが踊れるから、教えてもらうといい。俺からも頼んでおく。あ、それから手話も必要になるな」
「えっ、手話ですか?」
「君の役、耳が聞こえないから」その設定は以前の脚本から引き継がれているものだ。「手話スクールの予約を入れておく。君のスマホに予定表を送るから、メレディスと話して、スクールの日は仕事休ませてもらって」
「そんな勝手なこと――」
「そういう融通は利く男だから大丈夫だ」
これまでも多くの課題と無理難題を乗り越えてきた希佐だったが、今回の課題もかなりヤバそうだ。今はとにかく、書き直されたという台本の確認をしたかった。すべて英語で書かれている台本の中身を理解するのは、希佐にとっては一苦労なのだ。
「あの、聞き忘れていたんですけど……」
「ん?」
「舞台の公演日って、決まっているんですか?」
「ああ、ちょうど二か月後」
椅子から腰を上げたアランは、各日にびっしりと書き込みがされているカレンダーをめくり、二か月後の土曜日を指した。その日には、鉛筆でぐるぐると何度も〇がされている。
「この二カ月で、君には歌とダンスとタップダンス、それから手話を完璧に仕上げてもらうから、そのつもりで」
「わ、分かりました……」
「じゃあ、俺は少し寝るから」
「お疲れさまです」
ふわあ、と欠伸を漏らしながら、アランは事務室を出て階段を上っていった。希佐は慌ててスタジオに向かうと、鏡の前にマットを敷き、その上に座って新しい台本に目を走らせる。
「う、わあ……」
蹲るようにして、辞書を引きながら台本を読み進めていくうちに、希佐の顔はみるみる青ざめていった。歌とダンスが数曲ずつある。しかも、最後の見せ場は、授業で少しかじったことがあるだけのタップダンスだ。
いくら個人的に稽古を続けてきたとはいえ、舞台から離れて二年というブランクが希佐にはある。勘を取り戻すにはかなりの時間を要するだろう。
希佐は思わずぞっとした。背中に何か冷たいものが伝い、落ちていくのが分かる。
本当に、今の自分にこの役と向き合い、やり遂げるだけの覚悟があるのかと、不安に思った。
だが、一度引き受けたからには、その責任をまっとうしなければならない。舞台に立てるそのチャンスを、無駄にすることはできない。こんな幸運はもう二度と、巡ってはこないのかもしれないのだから。
約束の午後三時、その五分前に、希佐は昨日のパブに戻ってきた。古びた看板には、ヘスティア、という店名が記されている。ギリシャ神話の炉の女神と同じ名前だ。店のロゴがロバになっているので、そこから取られた名前なのかもしれない。
まだ時間には早いが、中に入って待たせてもらおうと考えた希佐は、重たい扉を開いて店内に足を踏み入れた。鍵は閉まっていなかったが、人の気配はない。昨日の夜はあんなにも賑わっていたのに、今は水を打ったように静まり返っていた。
掃除がしやすいようにだろう、椅子はひっくり返してテーブルの上に載せられている。カウンターの向こう側には様々なアルコールのボトルが飾られ、無数のグラスが窓から差し込む光を浴びて輝いていた。天井が高い。見上げると、裸電球で作られた洒落たシャンデリアが、等間隔に設置されていた。
希佐は、昨夜自分が立っていたステージの前に立ち、あの時のことを思い出していた。
爪弾くギターの音色が、ひっそりとした店内に響く。奏でられた音は、すうっと壁に吸い込まれるようにして消え、あまり余韻を残さない。マイクの音量は控えめだ。
ワンフレーズ、希佐は囁くように歌う。そして次のフレーズ、希佐の声を前へ押し出すような優しい歌声を聞いて、全身に鳥肌がたった。
あの曲は本来、メインは男性で、女性がハーモニーを作り上げる。力強い男性の歌声が前面に押し出され、透明感のある女性の歌声は、常に男性に寄り添っているのだ。
希佐の中には期待と不安があった。しかし、二人の歌声が重なった瞬間、不安だけが消え去ったことを覚えている。高揚感があふれ出し、期待は確信に変わった。ギターとピアノの音色がないまぜになり、溶け合って、二人の歌声を支えていた。
自分でも驚くほど、上手く、歌えていた。
ただただ気持ちがよかった。
客の拍手が、答えだった。
「昨日は良いステージだったね」
目を閉じ、昨夜の余韻に浸っていた希佐の後ろから、そう言う声が聞こえてくる。現実に戻って後ろを振り返ると、普段着姿のメレディスが立っていた。黒のタートルネックに黒のスラックスという出で立ちで、希佐と同じように無人のステージを眺めている。
「君は見た目によらず度胸があるし」
「おどおどして見えましたか?」
「アランに促されて僕の前に立たされたときは、ずいぶんシャイなお嬢さんを連れてきたものだと思ったよ。その第一印象はすぐにも打ち崩されたのだけれど」
「お騒がせして、すみませんでした。でも、どうしても黙っていられなかったものですから」
「いや、僕が言っているのは――」
まあ、いいか、とでも言うふうに、メレディスは苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。
「まだここで働く気があるのなら、酔っ払いの上手なあしらい方を教えてあげるよ」
「ここで働かせていただけるんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
もしかしたら断られてしまうのではないかと考えていた希佐は、ほっと安堵の息を漏らす。しかし、昨日は客という立場だったからこそ許されたのだ。今後はそうもいかない。身を引き締めて頑張ろうと、希佐は気持ちを新たにした。
しばらくはフロアスタッフとして働き、仕事に慣れてきたら少しずつエールの注ぎ方やドリンクの作り方、簡単なフードの調理方法について教えてくれるという話だ。最初のうちは他のスタッフよりも早く出勤し、店内の掃除とメニューを覚えることからはじめよう、とメレディスは言った。
「さて、君には二階も見せてあげようかな」
店内の一番奥に階段があることは知っていたが、店がどれだけ賑わっていても、そこを上り下りしている客の姿は見かけなかった。ついでおいで、と言うメレディスの後について、希佐は階段を上っていく。
階段を上がっていくと、正面には歴史を感じさせる両開きの木の扉が見えた。その手前にはある程度の広さがあり、床には赤い絨毯が敷かれている。座り心地の良さそうな肘掛椅子や、それに合わせた背の低いテーブルなども置かれていた。
メレディスはポケットから鍵を取り出すと、正面の扉を開けて中へと入っていく。外はまだ明るいというのに、その部屋の中は真っ暗闇だ。しかし、間もなくすると電気がつけられ、その全貌が明らかとなった。
「劇場、ですか?」
「そう」
パブの二階には小劇場があった。小ぶりではあるが、立派な木造の劇場だ。見るからに古いと分かる造りをしているが、よく手入れが行き届いていて、どこも飴色に輝いている。一本一本の柱には細工が施され、壁には白黒の写真やポスター、色紙などが額縁に入れて飾られていた。
「百年以上の歴史がある小劇場でね、ここから世界に羽ばたいていった舞台役者も多いんだ。だから、このパブには自然と舞台関係者が集まるし、酒の付き合いから仕事に発展する可能性も大いにある」
「だから、ロンドンで役者としてやっていきたいなら、ここは私にとって条件の良い働き口だとおっしゃったんですか?」
「それだけじゃない」メレディスは希佐を振り返り、悪戯っぽく笑った。「君も二か月後にはこの舞台に立つんだよ、キサ」
「えっ?」
「君の所属する劇団は二か月後にこの場所で舞台を披露するんだ」
「ここ、で? 私が?」
「アランは言葉足らずなところがあると言ったろう?」ふふ、と笑ったメレディスは、愛おしいものを見るような目で劇場内を見回した。「アランの初舞台もこの劇場でね。彼は僕が立ち上げた劇団の新人で、当時は本当に可愛らしい少年だったのに、何を間違ってしまったんだか」
「可愛らしい少年、ですか? でも、あの人は――」
「ああ見えても若いんだよ、彼。まだ27、8じゃないかな」
「……もっと年上の方だと思っていました」
だからミスターと呼ぶたびにしつこく訂正していたのかと、希佐は納得する。
ぎょっとした顔をしている希佐を見て微笑んだメレディスは、出ようか、と言って歩き出した。
「アランは才能ある役者だったけれど、役者としての芽は出なかった。なにより、本人にその意思がなかった。彼は役者をやっているときから、自分は裏方仕事の方が好きだと話していたよ。脚本を書いたり、演出をしたりね。今では作詞から作曲まで、なんでもする」
まるで根地黒門のような人だなと、希佐は密かに思う。
「僕はこの店を親から引き継ぐときに役者をやめた。その時、アランも一緒に劇団を抜けて、以来脚本家として活動している。彼の書いた脚本は何本も映画化しているよ。賞も受賞している。本人は興味がないようだけれどね」
メレディスは劇場の鍵を閉めると、軽やかな足取りで階段を下りていった。希佐は少しだけ足をとめ、ぴたりと閉じた劇場の扉を見つめる。
二か月後、自分がこの小劇場の舞台に立つのだ――そう思うと、希佐は背筋がざわざわとざわついて、落ち着かない気持ちになった。まだ何の準備もできていないのに、現実を突きつけられ、不安ばかりが大きく膨れ上がる。
でも、と希佐は思った。
新進気鋭の脚本家として注目され、評価をされている人がなぜ、小さな劇団を自ら立ち上げたのだろう。団員にまとまりがあるかといえば、そうでもない。それぞれが自由に、それこそ好きなように稽古をし、勝手を許し合っている。言葉を選ばなければ、真面目にやっているとは、到底思えないのだ。その劇団が二か月後、この伝統ある小劇場で舞台に立つというのか。
「……あの、メレディスさん」
「僕にミスターは必要ないよ、レディー」階段を下りたところで待っていてくれたメレディスが、ぱちんと片目を瞑った。「スタッフ全員にメレディスと呼ばせている。君もこのパブのクルーになるんだから、ルールには従わなくてはね」
「あ、はい。では、あの、メレディス……?」
「なにかな、キサ」
「私が入団した劇団は、以前にもここの舞台に立ったことがあるんでしょうか」
「もちろん、あるとも」希佐が言わんとしていることを理解したのか、メレディスは僅かに表情を引き締める。「彼らの公演チケットはいつも飛ぶように売れる。そもそも座席数が少ないから手に入りにくいんだ。しかも、彼らの公演は、一演目につきたったの一度しか行われない。何度もウエスト・エンドからの打診を受けているが、毎回それを蹴り続けている。新進気鋭の脚本家が、少数精鋭の劇団を引き連れて、たった一夜の夢を見せてくれるんだ」
そんなもの、この劇場地区で生活をしている人々なら、興味をそそられないわけがない。
その劇団に新人として入り、自分がその舞台の真ん中に立って、主役を演じる――やはり、ぞっとするような話だ。
「アランがキサをこのパブで働かせることにしたのは、おそらく顔見せのためでもあるはずだよ。それに、昨夜の一件で君の噂は舞台関係者に広がりはじめている。あの舞台に立つことを極端に嫌うアラン・ジンデルが、君という人と一緒にステージに立って、ピアノを弾いて歌まで歌った。それは酷く価値があることだと、君自身が自覚できる日が来るといいのだけれどね」