明日から働いてもらうから、今日はもう帰っていいよと言われた希佐の頭の中は、二ヶ月後に行われる公演のことでいっぱいになってしまっていた。もしかしたら、そのことばかりを考えてしまっている希佐の心情を察し、このまま仕事に出られても迷惑だと考えて、メレディスは帰るよう言ったのかもしれない。
希佐は今、とにかく稽古がしたかった。少しでも体を動かして、はやる気持ちを落ち着かせたかった。駆り立てられるように何かをしている間だけは、何もせずにいる自分よりも、少しだけマシな状態だと思うことができる。
二年以上もあるブランクを、このたった二ヶ月以内に取り返さなければならないのか──思考の大部分が、その問題で占められていた。果たして山積みの課題をクリアすることができるのだろうかと心配になるが、しなければならないという使命感で、感情の上書きをする。やると決めた。だから、問題は一つずつ解決していくしかないのだ。
半ば駆け足で居候をしているスタジオに帰ってきた希佐は、誰もいない事務所を通り抜け、未だ段ボールが積み上がったままの部屋に飛び込んだ。急いで稽古着のジャージに着替えるが、ふと思う。タップシューズを持っていない。
「……とりあえず、ストレッチをしに行こう」
筒状に丸めて壁に立てかけていたマットを引っ掴み、部屋を出る。タップシューズと一緒に、新しい稽古靴も買った方がいいだろう。いつまでもスニーカーというわけにはいかない。手話スクールについての連絡はまだないが、レッスン料も安くはないはずだ。
「貯金、ずいぶん減ったからなぁ」残高を確認するのが怖いな、と日本語で漏らす。「家賃は必要ないって言ってもらえるのはありがたいけど、本当にいいのかな」
よくないような気がすると、希佐は思う。
自分の意思で日本を飛び出してきたからには、少なくとも自分の世話くらいは自分で見られなくては話にならないような気がした。二十四時間スタジオ使い放題という謳い文句についつい釣られてしまったが、いろいろと考えを改める必要がありそうだ。たとえ少ない金額だったとしても、家賃くらいは支払わせてもらった方が、希佐の精神的な衛生も少しは保たれる。
そのようなことを考えながら、希佐が鏡の前でストレッチをしていると、話し声と共にスタジオの扉が開いた。入ってきたのはアランとバージルだ。二人は希佐がいるのを見つけると、すぐに声をかけてくる。
「仕事はどうした」
「実際に働かせていただけるのは、明日からだそうです」
「そうか」
そう言いながら希佐の前にしゃがみ込んだアランは、その腕に抱えていた二つの箱を、何も言わずに差し出してくる。
「……あの、なんですか?」
「プレゼントだとよ」少し離れた場所で靴を履き替えながら、バージルが面白そうに言う。「受け取ってやんな」
「プレゼント?」
「そうじゃない」
感情のこもっていない声でバージルの言葉を否定したアランは、箱を床に置くと蓋を開けた。薄く柔らかい紙に包まれていたそれを、無造作に取り出す。案の定、タップシューズだった。
「サイズ聞き忘れたから二足買ってきた。合う方選んで。もう一足は返品するから」
見るからに高そうなタップシューズだ。おそらく天然の革を使用しているのだろう。品のある光沢感がある。触ると指紋がついてしまいそうで、手が伸びない。
「人の話聞いてた?」
「あっ、はい。聞いてました」
「バージルは5か5.5だっていうんだけど、俺は4.5だと思う」
日本とイギリスでは靴のサイズの表記が異なる。希佐もいまいち理解していないところがあった。靴を買うときは勘で選び、その場で履いて購入を決めていた。
「なんだよ、マジで4.5だったのか」
バージルは希佐が履いたタップシューズを見て、小さい足だな、と漏らす。確かに身長の割には足が小さいという自覚はあった。ユニヴェール時代には、それでよく揶揄われたものだ。
「これ、おいくらですか?」
「値札は見てない」
「じゃあ、返品するとき一緒に行って──」
「いいから」
「でも」
払う、払わなくていい、という言葉の応酬はしばらく続いたが、それに終止符を打ったのは他でもないバージルだった。バージルは呆れたように頭を掻いていたかと思うと、両脚でステップを踏んで辺りにタップ音を響かせた。
「さっさとしないと練習の時間がなくなるぞ、お嬢ちゃん。オレはこのあと外せない用があるんだ。ずっとつきっきりで見てはやれないからな」
「あ、はい。すみません、よろしくお願いします」
はあ、というアランのため息は聞かなかったふりをして、希佐は慌てて立ち上がった。
靴の履き心地は悪くないようだ。まだ革が硬く感じられるが、徐々にやわらかくなってくるだろう。だが、最初のうちは、無理をすると靴擦れを起こしてしまうかもしれない。しかしながら、靴擦れを起こすくらいの勢いで努力をしなければ、二ヶ月で完璧なタップダンスを踊れはしない。
「じゃ、まずは基本の基本からだな」
鏡を前にして、希佐とバージルは横並びに立つ。希佐がもう一度「お願いします」と言うと、バージルは簡単なステップをゆっくりと踏んで見せた。
二年以上前の微かな記憶になど縋るだけ無駄だと、希佐はすぐに悟った。体がほとんど何も覚えていない。これはもう過去の経験などなかったことにして、ゼロから組み立てていく方が確実だ。
現在の体験と過去の経験を紐づけるのは駄目だ。もっと頭を空っぽにして、相手の動きを細かく観察し、吸収する。余計なことは何も考えなくていい。全身の筋肉を柔らかくして、体に覚え込ませる。それだけだ。
「すみません、もう一度お願いします」
バージルがステップを踏む。粒が揃ったタップ音だ。希佐も同じように踏んでみるが、大小ばらばらのタップ音がスタジオに響く。違う、こうじゃない。まったく美しくない。
「まあ、出来てないこともないが、初心者に毛が生えた程度のレベルだな、これは」
まるで絶望的とでも言いたげな口振りでバージルが言う。鏡越しにアランに視線を送り、あからさまにネガティブな感情をぶつけているのが分かった。
正直なところ、悔しい。ものすごく悔しいが、困難な壁が目の前に立ちはだかったときほど、それを乗り越えられたときの喜びが何物にも代えがたいことを、希佐は知っている。
「できそうか?」
「やります」
アランの確認の言葉に即答することができた。だから、大丈夫だ。気持ちは折れない。
「だ、そうだ」アランは返品する靴を持って立ち上がると、バージルに言った。「見てやってくれ」
「ここから二ヶ月でどうにかしろって?」
「やれるんだろ?」
「はい」
「本人がそう言ってる」
アランが靴の返品に出て行った後も、基礎中の基礎練習は続けられた。しかし、時間は有限だ。そろそろ行かなければならないと言うバージルに頼み込んで、一通りの動きを動画撮影させてもらった希佐は、一人で残って練習を続けた。自分の動きも撮影し、何が悪いのか、どこが違うのかを客観的に見て、確認する。
希佐の動きはバージルに比べると当然だが不恰好だ。何が違うのかといえば何もかも違うのだが、あえて一つ挙げるのなら、息の抜き方だろうか。
バージルはいとも容易そうにステップを踏む。こういう言い方は良くないのかもしれないが、酷く簡単そうに見えるのだ。自分にもタップが踏めるのではないかと錯覚をさせる。
おそらく、他のタップダンサーたちも同じなのだろう。努力をすればするほど、体にステップが染み込めば染み込むほど、見る者にそう思わせる。
10回、100回、1000回──そうだ、同じステップでも10回目と1000回目では、絶対に見え方が違ってくるはずだ。あとはもう、繰り返し練習をするしかない。台本を読みながら、台詞を入れながら、歌を歌いながらでも、ステップを踏むことはできる。
最初はゆっくり。足を高く上げて、正しいタップ音を出せるように心掛けた。慣れてきたら、少しだけスピードを上げてみる。目と耳ですかさず確認をする。動画で確かめる。それを繰り返した。
何時間そうしていたか分からない。ただ、足を止めると、踏んでもいないタップ音がどこからともなく聞こえてきた。耳の奥で自分の踏んだタップ音が鳴り続けている。こびりついて、離れない。
「今日はもう終わりにしたら?」
たった今踏んだステップを動画で確認していると、背後から声をかけられる。振り返ると、アランがペットボトルの水を差し出していた。
「水、飲んで」
「ありがとうございます」
「一朝一夕で上手くなるものではないよ」
「でも、やらないよりはいいですから」
そう言ってペットボトルの蓋を開け、水を飲むために後頭部の重心を後ろに倒すと、引っ張られるようにしてぐらりと重心が傾いた。ぞわ、と悪寒を覚え、思わず身構える。しかし、希佐の体は倒れることなく、咄嗟に伸ばされたアランの腕に支えられていた。
「ほら、足にきてる」
「す、すみません。ありがとうございます、助かりました」
「まだ二カ月ある。焦らなくていい」
希佐的には、もう二カ月しかない、という気持ちだったが、今は大人しく休んでおいた方がいいのだろう。このまま練習を続けて、怪我をしてしまっては元も子もない。今日はストレッチとマッサージを念入りにして眠ってしまおうと思う。
「あー、こんなことならもっと本格的にやっておくんだったな」
酷使しすぎてすっかり硬くなっている足の筋を伸ばしながら、希佐は日本語で独り言ちた。
公演の中に一度でもタップダンスを踊る演目があったなら、少しくらいは期待に応えることができただろうか。それとも、自分たちと同じ舞台に立つためには、まだまだ実力が足りないと言われていただろうか。
確か、オニキスでは群舞でタップダンスを取り入れた公演があったはずだ。それを、もっとよく見ておけばよかった。
いずれにしても、たらればの話をしたところで、何の意味もないのだが。
「フミさんなら……」
希佐は左手首の鯉結びを見やりながら、ゆっくりと体を倒した。この練習後のストレッチも、高科更文から教えられたものだ。体のどこに疲れがたまっているのか、その時の状態によって、ストレッチのやり方も変えるようにと教えてくれた。
あの人なら、未経験のタップダンスでさえも、すぐにものにしてしまうのだろう。そういう人だ。
だが、希佐は更文が誰よりも努力家だということを知っている。
天才と呼ばれるほどの才能を持った人が、誰よりも努力をしたその先にあるものを目指し、最高の舞台を作り上げていく。こうしている今もその努力を怠ることなく、芸に磨きをかけ、より美しい表現に挑戦し続けているのだろう。
負けられない、と希佐は思った。
きっと、あの人は今やもう、自分には追い付けないほどずっと遠くに行ってしまっている。その背中が見えないくらいに。またあのときのように、自分を置いて、先へ、先へと。
途方もなく遠い場所にある背中を追いかけて、もう一度その隣に立ってみたい。たとえ、もう二度と二人の時間が交わらなかったとしても、少しでも近くに、という気持ちに変わりはない。
指の先にまで神経を走らせろ、という声が聞こえたような気がして、希佐は少しだけ笑った。
伸ばした指の先、爪の先にまで、あの人の言葉が行き渡っていく。あの人は、今の自分を綺麗だと言って、褒めてくれるだろうか。
ああ、私の、美しい人。
「タップダンスでも習っているの?」
最初にタップダンスを教えられて一週間ほどが過ぎた頃、その日も早くに出勤して店内の掃除をしていると、カウンターの中で在庫チェックをしていたメレディスが不意に話しかけてきた。
「え、どうしてですか?」
「モップを掛けながらステップを踏んでいるから」
随分前からその姿を眺めていたらしい。メレディスはカウンターに頬杖をついて、尚もにこにこと希佐を見ている。無意識のうちにタップダンスの練習をしていたらしい希佐は、苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「今度の公演でタップダンスを踊るんです」
「キサが?」
「はい」目を丸くするメレディスに向かって、こくりと頷く。「今のところ、初心者に毛が生えた程度のレベルですが」
「アステアみたいで素敵だったよ」
「アステア――フレッド・アステア、ですか?」
「そう」
「惨めになるのでやめてください」がっくりと肩を落とす希佐を見て、メレディスはくすくすと笑う。「他人事だと思って面白がっていますね?」
「何を言うんだい、僕は君の成功を心から願っているんだよ」
「頬が引きつっていますよ、メレディス」
その翌日、からかったお詫びだと言って、メレディスは一枚のブルーレイディスクをくれた。参考になりそうなタップダンスの映像を切り取って、録画をしてきてくれたのだという。
「本物を目で見て学ぶのも勉強だからね」
「ありがとうございます、嬉しいです。帰ったら早速見ます」
「それにしても、手話のレッスンに加えてタップダンスの練習とは、アランも酷なことをする」
まだ他にも芝居、歌、ダンスの稽古があることは、言わない方が良さそうだと思い、希佐は口を噤んだ。
パブの仕事は大変だったが、思いのほか楽しかった。日本食レストランにはなかったスタッフ同士の交流や、常連客たちとのやり取りは、英語の上達にも役に立つ。
スタッフの中には、若手の舞台役者や役者志望の学生の姿もあった。才能豊かな若手を助けたいというメレディスの意向で、舞台を優先した働き方をさせてもらっているらしい。もちろん、希佐自身もその恩恵にあずかっていることを、忘れてはならない。
仕事を終えてスタジオにある部屋に帰る頃には、時刻はいつも真夜中の十二時を回っている。希佐はパブからスタジオまで走って帰ると、軽くシャワーを浴びてから稽古を行っていた。
しかし、その日はメレディスがくれた映像を見るために、事務室にいるアランに声をかける。
「いいよ」希佐が事情を話すと、アランは椅子から立ち上がった。「準備するから、待ってて」
応接用のソファの上にだけ何もないのは、アランが仮眠をとるために使っているからだ。それ以外の場所、もちろんテーブルの上にも様々なものが散乱し、希佐には手のつけようもない。だが、事務室を散らかしている本人は、どこに何があるのかをしっかりと把握しているようだ。
かなり大きな液晶テレビが設置されているが、それで何かを鑑賞している姿は見たことがなかった。アランが事務室にいるときは、いつも何かを考えているか、書いているか、寝ている。
ごちゃごちゃとした配線を整え、何冊か積まれた本の上にプレーヤーを置くと、アランは手に持っていたリモコンを放ってきた。
「あとは好きに使って」
「ありがとうございます」
「ん」
アランは定位置に戻っていく。希佐はその後ろ姿をちらりと見やってから、プレーヤーにディスクをセットした。リモコンでテレビの電源を入れ、読み込まれるのを待つ。画面が映し出されると同時に大音量の音楽が流れだし、驚きのあまり落としそうになったリモコンで、慌てて音量を絞った。
ケースに差し込まれていたメモには、映画や舞台のタイトルと演者の名前が記されていた。それから、どれも素敵な作品ばかりだから、あとで全編観るように、とも書かれている。
「よし、観るぞ」
そう日本語で意気込んだ希佐は、ソファに腰を下ろし、リモコンを抱えながら食い入るように画面を見つめる。ほんの些細な体の動かし方ひとつすら見逃すまいとするように。
不意に後ろを振り返ると、立花希佐が酷く真剣な面持ちで画面を凝視している様子が、目に飛び込んできた。瞬きをする時間すら惜しいとでもいうふうに大きく目を見開き、画面の中で踊る役者を睨んでいる。何秒か踊る姿を見ていたかと思えば、すぐに巻き戻し、同じ動きを繰り返し、繰り返し、何度も確認していた。
靴を脱いだ足をソファにあげ、膝を抱えるようにして縮こまっている姿は、まるで小さな子供のようにも見える。時々、アランには理解のできない言葉でぶつぶつと言いながら、自分の体に何かを落とし込もうとしているのか、手や足を小さく動かしていた。
くるりと椅子を反転させ、アランはその様子を眺めている。希佐はそれに気づきもせず、何時間も同じ体勢のまま、飽きもせずに画面を見続けていた。
「おい」
しばらくしてから、アランはそう声をかけてみる。しかし、その声は希佐の耳には届いていないようだ。それは恐ろしいほどの集中力で、呼吸をすることすら忘れているのではないかと、少しだけ心配になる。
これまでも心配になることは度々あった。
パブの仕事は夕方から深夜にかけて行われるが、希佐は走って帰ってくると、軽く汗を流し、すぐにタップダンスの練習をはじめる。バージルから、次の練習日までに完璧にしておけと言われた基礎的なステップを、繰り返し、繰り返し、タップ音を聞くことが嫌になるくらい繰り返し、練習をし続けていた。
寝るのはいつも太陽が昇ってからだ。それでも午前中には起き出して、手話のレッスンが入っていないときは、タップダンス以外の稽古も欠かさずに行っている。台本の読み込み方も尋常ではなかった。何かを食べているとき、飲んでいるとき、ほんの少しでも時間ができると、辞書を引きながら、メモを取りながら、それと向き合っている。
自分も人のことは言えない人間だと自負しているアランでさえ、こいつはどうかしていると本気で思っていた。あまりに常軌を逸しているのだ。日本の歌劇学校に通っていたと話していたが、その学校では誰もがこのようにストイックなのか。妥協をしない者たちばかりが集っているのか。それとも、この女だけが特別なのか。
結局、希佐は日が昇る頃まで、メレディスにもらったという映像を見続けていた。そして、隣に座ってその姿を見届けていたアランには目もくれず、すっくと立ちあがったかと思うと、階段を上って部屋に帰っていった。
「……」
テレビ画面にはまだ映像が流れ続けている。消し忘れていったのかと思い、アランがリモコンに手を伸ばしたとき、再び階段を駆け下りてくる足音が聞こえてきた。タップシューズと傘を手に降りてきた希佐は、アランの手から奪い取ったリモコンでテレビの音量を大きく上げると、スタジオの方へと駆けていく。
「うるさいな」
ぽつりと漏らしたアランは、事務室からスタジオに避難した。扉は開けたままにすると、壁に寄りかかって希佐がはじめようとしていることを、ぼんやりと眺める。
ぶつぶつと呟きながら靴を履き替えていた希佐は、傘を手にして立ち上がると、スタジオの真ん中まで移動していった。そして、音楽に耳を傾け、鏡に映る自分の姿を確認しながら、軽くステップを踏む。
「……嘘だろ」
次の瞬間、アランはズボンの尻ポケットからスマホを取ると、一本の電話を掛けた。時刻は早朝の六時前だったが、そんなことは構わなかった。
『……んだよ、アラン、今何時だと思って――』
「今すぐスタジオに来られるか」
『はあ?』
「とんでもないものが見られるぞ」
アランはバージルの返事を待たずに電話を切った。それからすぐに、スマホのカメラで録画をはじめる。興奮で震える手を落ち着かせるために、大きく二度、深呼吸をした。
はじめてその演技を目の当たりにした瞬間から、こいつは本物だと、心臓を鷲掴みにされた。舞台演出家の話だ。ころころと変わる役を演じ分け、歌、ダンスもそつなくこなしていた。
兄のロバートから、昨日不思議な女の子が教会に迷い込んできてね、という話を聞かされたときは、微塵も興味などそそられなかった。話を右から左に聞き流し、それが終わった頃にはもう、別のことに考えを巡らせていた。
今はそれを、激しく後悔している。
彼女との、一カ月もの時間を無駄にしたのだから。
遠くからバイクの音が近づいてくる。バージルがやって来たようだ。そのバイクはスタジオの前に止まるとエンジンを切った。がちゃり、と扉を開けたかと思うと、すぐに文句の声が聞こえてくる。
「ったく、おい、戸締り! ちゃんとしろっていつも言ってるだろ、うが――」
朝早くに電話の音で起こされたバージルは酷く機嫌が悪いようだ。当たり散らすような大声を出しながら入ってこようとするが、スタジオから聞こえる軽快なタップ音に気が付くと、思わずというふうに口を噤む。
真後ろに回り込んでカメラを回していたアランは、入ってきたバージルに向かって横目を向けるが、すぐに視線を戻した。
「早かったな」
「おい――なんだよ、なんなんだよ、あれは――!」
ずかずかとアランの隣までやって来たバージルは、その姿に釘付けになりながら、僅かに声を荒らげた。
「とんでもないものが見られるって言っただろ」アランは口元に指を添え、黙らせる。「俺だって驚いてる」
つい一週間前はまったくの初心者のはずだった。ろくにステップも踏めず、バージルを落胆させていた。それがどうだ。まだ拙いながらも、今はタップダンスを踊っている。昨日の朝までは、基礎的なステップを正確に踏むことだけで、精一杯という様子だったのに。
「あんなステップ、オレは教えてねぇぞ。お前、どんな魔法を使ったんだ?」
「魔法を使ったのはメレディスだよ」
「メレディスが?」
「メレディスがまとめたタップダンスの映像を、食い入るように一晩中見ていたんだ、彼女。何度も何度も、繰り返して」
「見ただけで踊れるようになれるってんなら、オレの商売は上がったりだがな」
「毎日努力をしていたさ。夜中に帰って来て、毎日朝まで君に言われたステップを延々と練習していた」
「でも、だからってこんな飛躍的に……」
「耳だけじゃなくて、目もいいんだ」
極稀に、歌を一度聞いただけで完璧に歌える人間や、ダンスを一度見ただけで難なく踊れる人間がいる。希佐はそれに近い感性を持っているのだ。おそらくは、自身の耳で聞き、目で見たものを、自分の中に落とし込むことができるのだろう。まるで、他人の才能を盗み取るように。
なぜかは分からないが、メレディスは希佐のその才能に、いち早く気づいたのだ。
「彼女はそもそも人並み以上に踊れる人間だ。あとはもう君の教え方次第だな、バージル」
アランが投げかけた言葉に返事が返って来ない。スマホのカメラを回したまま隣に目を向けると、バージルは開いた口が塞がらないという顔で、希佐が踊るのを見つめている。
なんて楽しそうに、嬉しそうに、踊るのだろう。
持っている傘をステッキに見立て、フレッド・アステアよろしく、まるでデュエットを踊るように。
飛んで、跳ねて、舞っている。
持ち上げた腕の角度、美しく伸ばされた指先にまで、洗練されたものを感じる。
これが、天賦の才、というものなのか。