タップダンスの稽古は上手くいきはじめている。
希佐はステップの種類を地道に増やしていくよりも、振り入れをしながら学んでいった方が、効率的に上達することが分かった。練習方法が固まると同時にバージルも指導をしやすくなったようで、ステップの他にも様々なテクニックや、参考になりそうな映像を教えてくれている。
手話のレッスンも順調だった。それこそダンスの振り入れのようだと、希佐は思う。それぞれの動きに言葉が付随し、意味が含まれている分、記憶とも結びつけやすいのだ。レッスンでは、アランから許可を得て台本を持参し、希佐が演じる人物の台詞を中心に、その動きを学んでいる。
手話の先生は耳の聞こえない方なので、失礼にならないように気をつけながら、聴覚障害についての話を聞くこともできた。その話は自分が演じる人物の役作りの参考になるはずだ。デリケートな役柄を演じることになるので、優しさや配慮は欠かせない。大切に、大切に育てていきたいと思う。
芝居の稽古は始まるのが遅く、改めて劇団員が全員で集まったのは、公演が行われる一ヶ月半前のことだった。アイリーンは相変わらず希佐に対して敵意を剥き出しにし、目を合わせようともしない。
それぞれの配役は既に伝えられていたが、この舞台の意外性は、主役の男を女が演じ、準主役の女を男が演じるということなのだろう。ノアがどのように女性を演じるのか、希佐はとても興味があった。
「うーん、女の子……女の子か……」
「どうしたの?」
「ん? ああ、キサ」床に座り込んで台本を睨んでいたノアが、希佐を見上げて笑う。「木とか雑草とか置き去りにされた犬とか、そういう何でもない役はたくさんやってきたけど、女の子は初めてなんだよね」
「役の振り幅がすごいね」
「この女の子、僕よりもキサの方が合ってるような気がするんだけどなぁ。まあ、アランが考えて決めたことだし、文句を言っても仕方ないんだけど」
ノアが演じる女の子は盲目だ。目が見えない。耳が聞こえない役柄同様、演じることは難しいはずだ。その上、女を演じるという慣れないことをするのだから、心中察するに余りある。
「困ったときは相談に乗るよ」
「うん、ありがと」
この劇団は個性の集合体という感じで、あまり統一感がない。まるで央國キルツェのようだ。個性の博覧会という様相──まさにその通りだった。
劇団員たちは何か必ず一つのものに特化している。バージルならばタップダンス、アイリーンならば歌、というふうに。
後から聞いた話だが、バージルはプロのタップダンサーで、商業演劇の振り付けやダンス指導も行っているらしい。時にはアメリカのブロードウェイからオファーが来ることもあるそうだ。そんな人に教えてもらっているのか、なんて贅沢なんだろう、という希佐の思いとは裏腹に、当人はあまりに気さくに接してくれている。
「おい、キサ。今日もタップダンスの練習をするからな、体力は温存しとけよ」
「はい、バージル」
イライアスの声は未だに聞いたことがない。だが、踊っている姿は見たことがあった。
イライアスはコンテンポラリーを得意とするダンサーだ。幼い頃からバレエを習っていて、両親も共にバレエダンサーだったのだという。一つ一つの所作がとても洗練されていて、体の内側から美しさが滲み出ている感じだ。
ジェレマイアはアクロバットを得意としている。央國キルツェでいうところのアクロバットスター、チャンスのような男だ。そこにいるだけで場がパッと華やかになる、文字通り華のある人なのだろう。
この流れを踏めば、ノアはイザクのような狂言回しなのだろうかと考えるが、どうやら違う。希佐の目にはまだ見えていないだけなのか、このノアという青年には、他の人たちと横一列に並んだとき、一点特化したものが見当たらなかった。だが、何事も器用に、そつなくこなすことができるのは間違いない。アランが言うことに真摯に耳を傾け、素直に実行するその姿は、何でも吸収してしまうスポンジのようだ。
「今日は頭から読み合わせするから」
台本を片手に事務室から出てきたアランが言う。各々が好きなように過ごしていた劇団員は、アランが現れると、少しだけ緊張した面持ちになった。
あれ……? と希佐は思う。いつもと雰囲気が違う。空気がピンと張り詰めて、周りの温度が二、三度低くなったように感じた。
だが、その答えは、すぐに明らかになる。
主役の青年はまだ若い舞台役者だ。歌うこと、踊ること、演じることに何よりの喜びを感じている。
ある日、幼い頃からずっと夢に見ていた憧れの舞台のオーディションを受け、見事合格。主演の座を勝ち取るが、翌日、悲劇が起こった。朝になって目が覚めると、耳が聞こえなくなっていたのだ。
無音の世界。病院までの道のりがまるで異世界のように感じられる。目に見える世界の中には、何一つ音がない。
恐怖、動揺、混乱、そして、焦りと不安。
病院でありとあらゆる検査を受けるが、原因は不明。治療はするが、聞こえるようになるかは分からない、医者からは筆談でそう伝えられる。
こんな状態で舞台に立つことはできない。
青年の夢はついえる。ともしびが消える。ろうそくの炎が吹き消されるように、あまりにあっさりと、呆気なく。
治療は続く。一日、一週間、一ヶ月──そのうち、自分がオーディションを受けた舞台が上演され、大成功を収めたらしいと知る。若手の新人舞台俳優。そこにいたのは自分だったのかもしれない。そう思うと、ただただ、虚しくなる。
音のない世界。それはすなわち、音楽の存在しない世界。テレビに映る有名歌手が新作を披露していても、自分には聞こえない。音楽はすべて過去のものになってしまったのだ。
しかし、先の見えない治療ばかりが続くある日、青年は病院で一人の女の子を見かける。女の子は壁伝いに歩き、窓の方へと向かっていく。大きく開かれた窓。女の子は風に髪を揺らしながら、手を伸ばし、空をつかもうとした。
落ちる、そう思った青年は、駆けた。女の子の腕をつかみ、引き寄せる。
「あぶないよ」
自分の声がこもる。気持ちが悪い。音のない世界にあるのは、この奇妙な、自分の声だけだ。
女の子は驚いた顔をして振り返る。何が起こったのか分からないという顔をしている。大きく見開かれた目に、青年の姿が映る。
女の子は何かを言った。けれど、青年にはそれが聞こえない。
でも、かわいい子だな、そう思った。
かくして二人は出会ったが、二人には会話をする手立てがなかった。少年は一方的に話すことだけはできたが、女の子の言っていることは分からない。
「僕は耳が聞こえないんだ」
青年がそう伝えると、女の子は驚くふうでもなく、にこりと笑う。そして、ゆっくりと、何事かを告げた。青年は唇の動きを必死に読み取る。
「わたしは めが みえない」
ああ、そうか。そうか、そうか……。
ある朝目を覚ましたら目が見えなくなっていたという女の子。絵を描くことが大好きで、画家になることを夢見ていた女の子。でも、目が見えなくなって、夢がついえてしまって、それでも笑っている女の子。
耳が聞こえなくなって、あとはもう滅びを待つだけだと思っていた青年の中に、小さな灯りがともる。女の子という光を見つける。けれど、どうしてだろう。女の子はいつも笑っているのに、いつだって寂しさを漂わせている。
次第に、二人は心を通わせるようになっていった。とてもアンバランスな二人なのに、隣り合ったパズルのピースのように、ぴたりと重なり合う関係になっていった。
生きる希望を取り戻した青年。でも、心の片隅には、いつだって舞台に対する未練がくすぶっている。もしもう一度耳が聞こえるようになったなら、世界が音を取り戻したなら、自分の生み出す音楽で、女の子を元気づけてあげることができるのに。
そんなときに青年は出会うのだ。街角でタップを踏んでいる男性に。音は聞こえないのに、確かに音楽を奏でているのが分かる。振動が体に伝わってくる。タップダンス。
青年は、これだと思った。その場で男性に駆け寄り、懇願する。自分にタップダンスを教えてほしい、と。嫌だと断られても、毎日、毎日、毎日、懇願し続ける。男性の後を追いかけ回し、自宅まで突き止めて、あの手この手を使って頷かせようとする。
ある日の早朝、青年は男性の自宅があるアパートの下に立って、大声で歌った。
すると、男性は血相を変えてアパートから飛び出してくる。あまりの形相にぎょっとする青年。殴られると思って身構えるが、男性は青年に負けず劣らずの大声で、何かを話している。酷く興奮している様子だ。
男性は、かつて青年が受けた舞台のオーディションの席に、審査員として座っていた。まだ青臭いながらも、青年に光り輝く才能を感じて、反対する審査員を説得し、合格に導いてくれていたのだ。しかし、すぐに病のため合格を辞退するという連絡が入り、落胆する。だが今、君の歌声を聞いて、あのときの青年だと確信した、と言った。
それから、青年と男性の猛特訓がはじまる。互いに試行錯誤しながら、手探りで、タップダンスを完成させていく。
青年は命を吹き返したかのように生き生きとしていた。その表情を見ることができない女の子でも、その声から歓びを感じるほどに。
「君に見せたいものがあるんだ」
「私、目が見えないのよ」
「見えなくても、大丈夫」
「……楽しみにしているわ」
青年の言葉を聞き、女の子は手元のペンを走らせる。感覚で記された文字を読み、青年は笑う。声が聞こえない青年には、女の子の声に滲んだ小さな変化に、気付くことができないのだ。
む、難しい……希佐はいつにない緊張感の中、心の内でそう漏らしていた。
問題は英語の台詞だ。普段の話し言葉とはまったく違う。まるで詩を歌うかのような言い回しが多い。台詞が韻を踏む。これが、英語圏の人々にとっては美しく、心地の良い響きなのだろう。
根地黒門が書いた脚本にも、無駄なものは何一つなく、すべての台詞、その一音一音に、確かな意味があった。それと同じなのだ。自分にはまだ理解できずとも、脚本家の意図が、台本の中に織り込まれている。
しかし、アランは読み合わせの間、一言も言葉を発しなかった。口を開かなかった。何の指示も出さなかった。ただ、演者たちが読み上げる台詞を、黙って聞いている。
長い前髪に顔の半分が隠れていて表情を読み取ることはできないが、普段の空気感とはまるで違い、怖い、と希佐は思った。
最後の台詞まで一通り読み終えると、スタジオ内に静寂が訪れた。誰も何も言わない。辺りを窺うように見た希佐は、気付いた。全員がアランにお伺いを立てるような目を向けている。まるで審判の瞬間を待つように。
「分かった」
何が分かったのだ、とは誰も聞かない。それは希佐も同じだ。だが、実際には分かっていないという感情だけは、アランからひしひしと伝わってくる。要は、気に入らないのだ。
劇団員たちは、アランから「本読みしといて」としか言われていない。アランがどこまでのことを求めているのか分からなかった希佐は、台詞はすべて頭に入れ、自分が演じる人物の掘り下げを行い、常に考えていた。耳が聞こえないというのは、一体どのような感じなのだろうか、と。
「アイリーン」名前を呼ばれた当人は、驚いて肩を震わせている。「役に自分の感情を押し付けてる。君が役の代弁者だ、役を君の代弁者にしないでくれ」
アイリーンの役どころは、準主役である女の子の友人だ。これが実に嫉妬深い女性で、自分の大切な友達が、突然現れた青年に奪われるのではないかという恐れを抱いている。だが、そこに自身の感情を乗せてしまうのは、分からなくもない。
アイリーンは希佐に対して、好意を寄せている男性を奪った女、という印象を持っている。もちろん奪った覚えなど微塵もないが、今はそう思っているという事実だけが重要だ。奪われる女として共感していたとしたら、それが演技に反映されることはあるだろう。
「イライアスは役に生を感じない。毎回言ってるけど、感情ある?」
青年が合格を辞退した後、代わりに主役を演じ、舞台に立って脚光を浴びた男が、イライアスの演じる役だ。ソロダンスも踊る重要な役どころだが、ダンスに向ける情熱とは対照的に、演技にはまるで熱が入っていない。
「バージルは、まあ、これはあて書きみたいなところがあるから、好きに演じてくれていいよ」
「了解」
汗を拭くような素振りのあと、ふう、と息を吐いてみせたバージルは、まだ言葉をもらっていない若手二人に目を向けた。希佐とノアは顔を見合わせ、複雑な表情を浮かべ合う。
「その子はドラァグクイーンじゃないんだ、ノア。無理に女の口調を真似しようとしなくていい。とりあえず自然にやって」
「はーい」
全員に対して、本当はもっと他にも言いたいことがあるという様子を隠しはしないが、アランはとやかく指示を出すタイプの演出はしないようだ。必要なことはすべて台本に書いてある。各自脚本家の意図をくみ取り、演出家が満足するような演技をしろと、そう言いたいのだろう。
「それから、キサ」ついに自分の番が来たと思い、希佐は背筋を正す。「この程度か?」
「……え?」
「期待値の半分にも到達してない」
希佐は自分を見るアランを見返し、何度か瞬いた。本気で本読みをしたつもりだったが、どうやら演出家であるアランが満足する出来ではなかったらしい。それとも、自分とアランの間に、役柄の解釈について齟齬があるのだろうか。
「君なら彼の声に耳を傾けて、もっと深いところまで掘り下げて演じられる、そう思ったから脚本を書き直した。大衆受けする上面の感情なんかどうでもいい。そういうもののためにこの本を書いたわけじゃない」
昔は、脚本家の意図するところが分からず、困惑することが度々あった。演出家の思いをくみ取ることができず、困らせてしまったこともある。だが、舞台経験が増えれば増えるほど、多くの役柄に触れれば触れるほど、理解が早くなった。
「なるほど」日本語で漏らす希佐を見て、アランが少しだけ怪訝そうにするのが分かる。「脚本家や演出家になる人って、みんなこんなふうに意地が悪いのかな」
人の心根を抉るようなことを平気でやってのける。決して触れられたくない、最も柔らかい部分を、的確に狙ってくる。ほら、これがお前の隠したがっている感情だろう、と。
本物の脚本家や演出家ほど、人を見る目があることを、希佐は自身の経験から知っていた。
この人には、人の才能を見る目がある。心の奥底まで勝手に忍び込んで、厳重に隠しているはずの感情を盗み出すことにも、それを曝け出させることにも、罪悪感を抱かない。
ただ、役者ならばそれができて当然だと、そう思っている。舞台に立つ者なら誰もが欲しがる感情のストックを大量に持っているのに、ただ仕舞い込んでいるのは馬鹿のすることだとでも思っているのだ。
「改善します」
希佐は英語で答えた。他に言うべきことは何もなかった。やると決めたからには、やれと言われたことをやるしかない。ただOKが出るのを待つ。それだけだ。根地黒門のどんな無理難題にも対応してきた立花希佐に死角はない。
アランが希佐に求めているのは、絶望と歓喜だ。この主役の青年は感情の乱高下が激しい。良い時はとことん良く、悪い時はただひたすらに悪い。夢にまで見た舞台に立つ権利を得たと思ったら、突然耳が聞こえなくなり、奈落のどん底にまで突き落とされた。しかし、ある一人の女の子と出会い、光を見る。タップダンスと出会い、生きがいを得た。クライマックスに向かって徐々に上っていく歓喜の熱が、最後には再び、絶望に転じる。
アランは、希佐にならばその感情を完璧に表現できると、そう確信しているのだろう。
脚本を新たに書き直したのは、希佐がパブのステージに立って歌った日の夜だ。あの歌に何か感じ入るものがあったのかもしれない。それとも、あの日演じた舞台演出家の話から、何かを獲得したのか。
「……いやだなぁ」
バージルとのタップダンスの練習を終え、マットの上で横になりながら、希佐はぽつりと漏らす。
いつだって自分の隠している感情を曝け出すのは恐ろしい。稽古のたびにトラウマが押し寄せて、心が少しずつ殺されていくような気がするからだ。しかし、役者という生き物はどれだけつらくとも、それをやってのけてしまう。希佐自身も、いくつもの舞台を乗り越えてきたからこそ、断言できる。
それでも、演じずにはいられないのだ。演じることが体に染みついた人間にとっては、それ自体がまるで麻薬のように作用して、やめることができない。極上の快感を得られるあの熱気に満ちた冷たい場所からは、決して逃れられない。
『……なんで、僕なんだ』
マットの上で蹲るような格好になる。擦りつける勢いで額をマットに押し付け、独白した。絞り出すような声を出し、故意に語尾を震わせた。声に涙を滲ませる。
『どうして僕が、こんな目に……』
そうだ。どうして、こんな目に合わなければならなかったのだろう。
『何を、間違った?』
どこからが間違いだったのか。写真の懐かしさに耐えられなくなって、あの神社に足を運んだことが、そもそもの間違いだったのか。夢を諦めきれなかった自分が悪いのか。自分自身のために夢を追いかけ、女であることを隠し続ける道を選んだ代償が、今この瞬間なのか。
マットに強く爪を立てる。やわらかい素材が爪によって抉られる。ビリッとした痛みを指先に感じた。
『ああ、神様……』
嘘を吐き続けてきた。大切な、本当に大切な、かけがえのない人たちに。自分の夢を叶えるために、嘘を吐いて、あざむいてきた。最後の最後まで真実を告げられず、つらくなって、逃げだした。すべての人々から。
『どうして、どうして、どうして』
許すと言ってくれた人を裏切り、愛してくれた人と秘密を置き去りにして、自分だけが遠くへ逃げてきてしまった。この先、たとえ誰が許してくれたとしても、自分で自分を許すことはできないだろう。こんなにも罪深いことをした人間が、許されていいはずがない。
『このまま消えて、なくなってしまいたい……』
己の本心を吐露する。それがすべての真理だ。
本当は、消えてなくなってしまいたかった。夢を終えたその瞬間に。
だけど、恐ろしかった。自分が消えたその先には、ただの暗闇しかないような気がして。あの夢のような日々が、なかったことになってしまうような気がして。思い出すら振り返ることのできない、その場所へ行くことが、ただただ怖かった。
嗚咽が漏れる。声をあげる。
これが演技だと言うのか。
これが、あの人の書いた脚本だというのか。
あまりにも、あまりにも。
この脚本はあまりにも立花希佐の心を見透かし、心臓を握りつぶして、殺しにくる。
ぞくぞくとした悪寒が背中を駆けた。肌の産毛が逆立つようなヒリつきを覚える。人の心が死んでいく瞬間を目の当たりにしているのが分かる。
そうさせているのは自分だと、アランには自覚があった。
だが、これが見たかったのだ。どうしても、見てみたかった。その絶望の先にあるものを見てみたいと、心の底から思った。
そして同時に、見せてやりたいとも思っている。その絶望の先にあるものを、見つけてほしい。
それが脚本家としての、演出家としての性なのかは、自分にも分からなかった。
スタジオは静かだ。ただ、立花希佐の嗚咽だけが聞こえていた。
帰り支度をしながら立ち話をしていたノアとジェレマイアが、呆然と立ち尽くしている。スタジオの隅に座り、鏡の前で化粧を直していたアイリーンが、それは何か得体の知れない恐ろしいものだというふうに希佐を見ていた。一人ダンスの練習をしていたイライアスも、タップシューズを磨いていたバージルも、ここにいる全員が立花希佐に釘付けになっている。
一番最初に目をそらしたのは、アイリーンだった。これは見てはいけないものだと判断したのか、ノアとジェレマイアがそれに続く。バージルも手元に視線を戻した。
だが、ただ一人、イライアスだけが、希佐を直視し続けている。目をそらせないと言わんばかりに、熱い視線を向けている。酷く美しいものを目の当たりにしたとき、イライアスがそういう顔をすることを、アランは知っていた。
着ていた上着を脱ぎながら、アランは希佐に近づいていった。頭の上から上着を被せてやると、微かに感謝の言葉が聞こえてくる。感謝をされる資格など、ありはしないのに。