爪の剥がれた右手の薬指が痛かった。
全体稽古後、上着を返しに行ったついでに何か薬はないかと問うと、アランはすぐに手当ての用意をしてくれた。ダンスの稽古中に転倒して怪我をする者が稀にいるらしい。
希佐は自分で出来ると言ったが、アランは相変わらず聞く耳を持たない。希佐をソファに座らせると自分も隣に腰を下ろし、消毒液を湿らせたガーゼで丁寧に傷を拭き取っていった。白い軟膏を取ると、指先を撫でるようにして塗り、清潔なガーゼを被せる。その上から少しだけきつく包帯を巻き、専用のクリップでとめつけた。
シャワー、浴びなきゃいけないのに──そう思いながら、希佐は手慣れているように見受けられる、アランの一連の所作を眺めていた。
「何か食べに出かけないか」
「……はい?」
器用に手当てされていく手をぼうっと眺めていた希佐は、上手く思考が追いついて来ず、思わず聞き返す。顔を上げると、アランの宝石のような目がこちらを見ているのが、前髪の隙間から覗いていた。
「夕飯」
「はい」
「何か食べた方がいい」
それは食べた方がいいだろうと希佐は思う。だが、そんな言葉をアランの口から聞かされることになるとは思わず、つい苦笑いを浮かべてしまった。
短い付き合いではあるが、アランが食事を極端に面倒臭がっていることは知っていた。できることなら食べたくないとすら思っているはずだ。食事に時間を割くくらいなら、もっと有意義な時間の使い方があると信じているに違いない。
希佐も稽古に没頭して食事を忘れることが度々あるので人のことは言えないが、食べること自体は好きだ。
「無理に誘っていただかなくて大丈夫です」
希佐は喉に微かな違和感を覚え、咳払いをした。久しぶりの泣きの演技で、喉に負担をかけてしまったようだ。気をつけなければと思いながら、解放された手をそっと引いた。
「あとで何か適当に食べますから」
「そうか」
「はい」希佐はソファから立ち上がった。「手当までしてもらって、ありがとうございました」
今日はパブの仕事が休みなので、全体稽古後もスタジオに残り、自主稽古を続けるつもりだった。頭が冴えている今のうちに、演技の稽古もしておきたかったのだ。先程の感覚を忘れないうちに、体に染み込ませておきたかった。あんな全力の演技は、そう何度もできるものではない。思い出すだけでも嫌になるが、舞台を作り上げていく上では、致し方のないことだ。
希佐は自分のマットが敷いてある場所まで戻る。爪で抉られ、血で汚れたそれを見て、小さく息を吐いた。汗の染み込んだタオルで拭うが、固まってしまった血液は、そう簡単には落ちそうにない。
他の誰かが使うわけでもないのだからと思い直した希佐は、そのマットの上に腰を下ろすと、台本を手に取った。前後の流れも把握するために、自分以外の台詞も読み上げる。使い分けられる声音の数は、ユニヴェールで学んでいるうちに、いつの間にか増えていた。自分ではない誰かになる時間が増えるほど、演じることが、嘘を吐くことが、上手くなっていった。
「……駄目だ」
感情が引きずられる。自分と青年がないまぜになって、何か良くないものが生まれてしまうような気がする。こういうときは自分の直感に従って、一度足を止めてみた方がいい。
希佐は誰もいないスタジオで、大きく深呼吸をした。鏡の中に映っている自分を見る。
これは、立花希佐だ。
役柄も、自分を近づけすぎてしまうと、それはもう、ただの立花希佐になってしまう。
自分を役柄に近づけ、演じるのだ。役の代弁者になる。その手を取って、引き上げて、この体を使わせて、やりたいことをやらせ、言いたいことを言わせてやる。彼を、青年を、一番理解してあげられるのは自分だと、そう自信を持って言えるようになるまで。
青年ならば、どういう体の動かし方をするだろう。ダンスは、もっと大きく、大胆に。最初はもっと荒削りな部分があってもいいのかもしれない。
そうだ、ダンスはどこで覚えたのだろう。
家族構成は? 家庭環境は?
裕福なのか、そうではないのか。おそらくは後者だ。裕福であれば聞こえなくなった耳のために、もっと違ったアプローチをしただろう。補聴器をつけるという選択肢もあったはずなのに、それをしなかった。思いもよらなかったのか、金銭的に余裕がなかったのか。
いずれにしても、作中で青年と家族との間に交流はない。耳が聞こえなくなったことを誰にも相談せず、たった一人で、孤独に治療を続けていた。
治療費の心配は常にしているはずだ。オーディションを受ける前にしていた仕事も、おそらくはやめていない。耳が聞こえなくてもできる仕事だ。
青年の仕事は何なのだろう。酷く窮屈な仕事なのかもしれない。体がむずむずとしてきて、今すぐにでも立ち上がって、踊り出したい衝動に駆られるくらい。仕事をしている最中も、頭の中は舞台の、夢のことでいっぱいだ。希佐がそうだったように、ふとした瞬間にステップを踏んでしまって、仕事の同僚に笑われてしまう。
きっと、演技や歌、ダンスも独学で、レッスンをきちんと受けたことはない。ただただ好きなだけなのだ。その気持ちが身体中から溢れていて、それが眩しいほどに、きらきらと輝いている。タップダンスの師匠は、そうして輝いている青年に、可能性を見出したのだろう。
冒頭はトップギアで飛ばしていこう。オーディションは人生最高の日だ。だが、心のどこかでは不安も抱えている。絶対に受かるという確信めいた根拠のない自信と同時に、仄暗い感情も持っている。
もし誰にも選ばれず、何者にもなれなかったら、自分はこれからどのような人生を歩んでいくのだろう──相反する感情は、縁起の良いスパイスになるはずだ。底抜けに明るく見える青年に、ふとした瞬間、深い影が見える。
誰かに自分を見つけてもらいたがっている。それも、常に。承認欲求が強いのか。そう考えると、また少し演技が変わってくる。青年に根拠のない自信があるとすれば、どこか少し傲慢なところもあるのではないか。絶対に成功すると信じている人間が大舞台のオーディションに合格したら、自分には才能があるのだと思い込んで、調子に乗る一面もあるのではないか。そういう面も表現した方が、転落後の芝居も生きてくるだろう。
ダンスの振り付けはイライアスがすると聞いているが、青年がどのようなダンスを踊るのか、把握しておきたい。
泣いて少し硬くなっていた体をやわらかくしてから、希佐はその場に立ち上がった。鏡の中にいる自分の分身を見る。向こう側にいるのは、立花希佐ではない。舞台の真ん中に立つことを夢見て、その夢をひたむきに追いかけている、一人の青年だ。
希佐はどう動いたら青年が最も魅力的に見えるかを考えた。
体の向き、腕の角度、足の運び方──歩幅はもう少し広い方がいい。機嫌が良いときは弾むように。悪いときは少しだけ背中を丸めて、肩を落としながら、重たい体を引き摺るように。
「……たとえ叶わなくてもかまわない。それでも僕は夢を選ぶ、か」
青年もきっと同じように思うだろう。舞台の幕が上がったその瞬間から、幕が降りるそのときまで。
かつての希佐が、そうであったように。
午後4時過ぎ、一本の電話がかかってきた。何か不備はないかとパブの店内を見て回っていたメレディスは、ポケットから取り出したスマートフォンの画面を見て苦笑する。少し前までは電話なんてほとんどかけてくることのなかった人間の名前が、履歴の欄にちらほらと見られるようになった。それが良い兆候なのかどうかは、まだ判断がつかない。
「開店前で忙しいから手短に頼むよ」
『俺がお前に長話をして聞かせたことがあるか?』
「ない」メレディスは見えない相手に向かって肩をすくめた。「それで、今日は何だ?」
『キサはいるか?』
「え? ああ、いるよ」
仕事がある日は誰よりも早く出勤し、店内を隅々まで掃除してくれている。最近は仕事仲間に頼んでカクテルの作り方を学んでいるようだ。ホールスタッフの制服ではなく、バーテンダーの制服を着てみたいのだと言っていた。
「彼女に何か伝えることでも?」
『いや。どんな様子か気になっただけだ』
「様子?」
『……昨日の稽古で、追い込んだ』
「おやおや」
殊勝なこともあったものだと声を上げると、電話の向こう側から苛立つような気配が伝わってくる。メレディスはすまないと謝罪してから、店内に視線を走らせた。フロアに希佐の姿はない。
「僕の目には普段通りに見えたけど。でも、言われてみれば少し元気がなかったかもしれないな」
『そうか』
「何、君が女の子の心配をするなんて珍しいね」
『金なら後で払いに行くから、何か食べさせてやってくれ。多分、昨日から何も食べてない』
「それはいけない」
『それだけだ』
じゃあ、と言って電話は一方的に切られた。
さあて、と漏らしながら、メレディスはスマートフォンをポケットに戻す。
立花希佐の職務態度は非常に良い。他のスタッフとも上手くやっていて、誰からも可愛がられている。そう言えば聞こえはいいだろう。だが、妙なのだ。
この仕事をしている者の中には、自分の仕事にプライドを持っているが故に、演劇の片手間に、ただ金を儲けるためだけに入ってきたものを良く思わない者もいる。常連客のお気に入りという立場を奪われ、妬みや恨みを向けてくる者もいる。
それなのに、スタッフたちにそれとなく聞いてみても、希佐の悪い話が出てくることはない。それどころか、良い話しか耳に入ってこなかった。
昨日はごみ出しを手伝ってくれた、代わりに苦手な客の対応をしてくれた、気が付いたら洗い物を終わらせてくれていた、悩み事の相談に乗ってくれたなど、こうした些細な話題が掘れば掘るほど出てくる。話を聞いていると他のスタッフもにこにこと近づいてきて、自分にはこんなことをしてくれたと自慢話を始める始末だ。
普通、一方で良い顔をすれば、一方では悪い噂が立つものだ。
だが、立花希佐にはそれがない。
「ああ、キサ」
劇場に続く階段の掃除をしていたらしい希佐は、軽快な足取りで箒を片手に降りてくる。そこへメレディスが声をかけると、はい、と明るく返事をして、すぐ近くにまでやって来た。普段と違った様子は見られない。
「今日は君にサンドイッチの作り方を教えてあげようと思ってね」
「サンドイッチ、ですか?」
「今、それくらい誰にでも作れるだろうという顔をしたね」眉根を寄せる希佐を見て、メレディスはいつものように笑う。「うちのサンドイッチは特別なんだよ、キサ。何せ、我が一族に代々伝わる秘伝のソースを使っている。お客様にも大人気なんだ」
「そうだったんですね」
「どうだい? 作ってみる?」
「はい、是非」
希佐はにこりと笑う。もし誰に対してもこうなのだとしたら、それはそれでこの子の性格なのだろうか。良く言えば、誰に対しても分け隔てなく。悪く言えば、誰に対しても同じように、興味がないように見える。
いや、実際には興味がないわけではないのだろう。希佐は好奇心が旺盛で、新しい何かに出会う度に、目をきらきらと輝かせている。人の話にも良く耳を傾け、興味深そうに聞いている。そして何より、物事を吸収して、自分のものにしてしまう速さが尋常ではなかった。目に映るものすべてに関心を向けられなければ、そうはなれない。
「あの新人の女の子――女の子、よね? あの子、動きがすごくスマートなのよ。少し男性的なところもあって」
常連の女性客がカウンター越しに立ち、グラスを受け取りながら希佐を指して言った言葉を、メレディスは不意に思い出す。
「でも、今思ったの。あの子、あなたに似ているんだわ」
「僕に?」
「雰囲気がね、よく似てる」女性客はそう言ってから、はっとした顔をして、じっとりとした目でメレディスを睨んだ。「まさか、あんな若い女の子に手を出しているんじゃないでしょうね」
「うーん、まだ従業員に手を出したことはないな」
「あの子、あなたのことが好きなのかしらね」
そんな意味深なことを言い残し、女性客はくすくすと笑いながらテーブルに戻っていった。
じっと、不躾なほどの強い眼差しを向けられていると感じたことはあった。だが、それは年上の男性に憧れを抱いているからなどという、可愛らしい理由ではないだろう。
初めてフロアに立った日、希佐は勝手が分からない様子で、テーブルの合間を縫うように落ち着きなく歩いていた。翌日、少しは周りが見えるようになってきたのか、無駄な動きが減ってきたように見受けられた。しかし、三日目になると、まるでもうずっとここで働いている者のように、ゆったりと辺りを見回し、冷静で的確な接客を行っていたのだ。
だが、その女性客に言われて、メレディスはようやく腑に落ちた。
初日とその翌日を使って、希佐はメレディスの動きを集中的に観察し、三日目にはそれを真似ていたのだ。このパブで最も洗練され、物腰が柔らかく、美しい所作をした者の動きを自らの中に落とし込み、自分のものとしていた。
役者をしていた頃に欲しくても手に入らなかった目を、あの子は持っている。アランと同じ目だ。あの目は人の心の奥底までをも見透かし、すべてを暴いてしまう。
メレディスは、なんて末恐ろしいのだと思う一方、危うさも感じていた。希佐はまだ二十歳という若さだ。事情は分からないが、二年前には日本を飛び出して、たった一人で海外生活をはじめたと話していた。あれだけ感受性が豊かならば、海外での生活には思うところもあっただろう。それでも、日本には帰らず、遠いイギリスの地で暮らしている。
「……それにしても、厄介な男に捕まったものだ」
「何かおっしゃいました?」
「いや、何でもないよ」
サンドイッチを作る希佐の姿を後ろに立って見守りながら、メレディスは人知れずため息を吐く。
あのアランが劇団を立ち上げると聞いたときは我が耳を疑ったが、女を拾ったから働かせてやってくれと連絡を寄こしてきたときは、その時以上の衝撃を受けたものだ。
あれは人間というものにとんと興味が持てない男なのだ。あれだけ豊かな才能を獲得しておきながら、自らが舞台に立つという道を捨て、裏方に回った。頭の中を支配している構想を吐き出しては再び新しい構想を練り、創造を繰り返している。まるで、この世界の神か何かのように、舞台を作り続けていた。
だが、脚本家の仕事は金儲けの手段だと、アラン自身は言っている。本当にやりたいことは別にあるのだと。それが何なのかは、彼以外には誰も知らない。
そんな男が女を拾ったなど、天変地異が起こる前触れか何かではないかと、メレディスは本気で思った。ただの気まぐれならやめておけと忠告をするつもりだったが、あの男は真剣そのものだった。そうでなければ、あの嫌で嫌でたまらなくなったステージに自らの足で上り、ピアノを弾くなどありえない。歌を歌うなど、もってのほかだ。
怪我をしているらしい手に、ぴたりとしたビニールの手袋をはめていた希佐は、サンドイッチを作り終える。一口食べたメレディスが合格を告げると、希佐は嬉しそうに笑った。
「残りは君が食べていいよ」
「はい、いただきます」
「仕事に戻るのは食べ終わってからでいいからね」
キッチンスタッフたちは、二人の前を通りかかると、気さくに挨拶を投げかけてくる。にこにこと笑いながら軽く手を振る希佐を見て、メレディスは口を開いた。
「そういえば、その手はどうしたの?」
「え? ああ、これは、昨日の稽古中にちょっと、怪我をしてしまって」
「大事ではない?」
「はい、少し爪が剥がれた程度なので大丈夫です。あ、でも、お客様がご不快に思われるでしょうか」
「衛生上の問題もあるから、しばらくは給仕から離れた方がいいかもしれないね」
「分かりました」
アランは昨日の稽古で追い込んだことを気にしている様子だったが、この剥がれた爪にも何か関係があるのだろうか。あのアランが追い込んだと自覚するくらいだから、実際には相当なことをされているはずなのだが、当人はあっけらかんとしていて、気にしている素振りも見せない。
君は一体、この子になにをさせるつもりなんだい、アラン――サンドイッチをおいしそうに頬張る希佐の様子を表面上は微笑ましく眺めながら、メレディスは思う。希佐が舞台の真ん中に立つ姿を見てみたいとは思うが、同時に、何かとんでもないことが起こるのではないかという胸騒ぎのようなものも覚えていた。
電話を切り、スマホを放り投げる。酷い頭痛がしていた。
アランは一昨日からほとんど眠っていなかったので、機嫌がそこそこ悪い。納品した脚本が気に入らないとケチをつけられ、ますます機嫌が悪くなっていた。ケチをつけるなら最初からもっと明確な注文を出せと返事を送ってから、まったく音沙汰がないのも、余計に機嫌を損ねる要因となっている。
こんこんこん、と壁を叩く音が聞こえて振り返ると、バージルとイライアスが事務室の前に立っていた。邪魔だった前髪を輪ゴムで適当に結わえていたアランを見て、バージルはぎょっとしたような顔をする。
「お前、相当やべー顔してるぞ。また寝てないのか?」
「二日寝てない。そろそろ三日目になる」
「まだ若いからって無茶ばっかしてると、十年後にはぽっくり逝っちまうんだからな」
「そうなってくれたらありがたいね」半ば本気で言うアランを見たバージルは、酷い呆れ顔だ。「長生きはしたくない」
「はいはい、そうかよ」
ぶつぶつと悪態を吐きながら事務室の中に入ってきたバージルは、手にしていた紙袋をアランに押し付けてきた。中には野菜たっぷりのクラブハウスサンドが入れられている。
「どうせ飯も食ってないんだろ」
「メールの返事を待ってるのに、いつまで経っても送られてこないんだ」
「人類が全員お前みたいに一日中パソコンの前で陣取ってると思うなよ」
「この俺に格安で脚本を書かせておきながら音沙汰がないなんてどうかしてるだろ」
「……お前、報酬が安いからって適当な脚本書いて送ったんじゃねーだろうな」
返事をせず、紙袋からごそごそと取り出したサンドイッチを頬張るアランを見て、バージルは大きく頭を振った。イライアスは既にソファに腰を下ろしているが、その目は何も映っていないテレビ画面に向けられている。
「それで、オレたちは曲が完成したっていうから来たんだけど?」
催促するように差し出してくるバージルの手の平に、アランは一枚のディスクを乗せた。
ダンスの振り付けはいつもイライアスに頼んでいるが、今回はタップダンスがメインになるので、バージルにも声をかけたのだ。
ぽこん、とスマホの通知音が鳴る。どうやら、脚本にケチをつけてきたアメリカ人が、平謝りをしている内容のメールを送り付けてきたようだ。バージル相手に愚痴を吐き出したら、いくらか気分が良くなったアランは、訂正箇所と納品期日を指定するよう返事を打った。
その裏では、アランが作曲した舞台音楽が流れている。これから馴染みの管弦楽団に依頼をして、パソコンで打ち込みをしただけの音を、オーケストラ音源に仕上げてもらう予定だ。歌唱の仮歌は、アラン自身が歌っている。
「……お前さんよー」ラストのダンス曲を聞き終えた後、バージルは力なく項垂れる。「あのお嬢ちゃんにどんだけ期待してんのかは知らねぇけどさ、まず無理だって」
「本人はやるって言ってる」
「いいや、絶対に無理だ。歌が二曲にダンスが三曲だぞ。しかも、ダンスは三曲中二曲がタップダンスだ。いくら上達が早いからって過剰な期待をしすぎると、プレッシャーに押しつぶされて終わるぞ」
「君が彼女の心配をするのか、バージル。随分とほだされたみたいだな」
「あいつの努力は買ってるってだけだ」
「君が何て言おうと本人がやると言っている。最高の振り付けを頼むよ」
バージルは、チッ、と舌打ちをした。どうなってもしらねぇからな、と言い、事務室を出て行く。
残されたイライアスは、寸前までバージルが握り締めていたオーディオのリモコンを汚らわしそうに取り、もう一度頭から再生させた。
「何か言いたいことは?」
「ありません」イライアスは音楽を聞きながら、アランを横目に見た。「今回は力が入っているんですね」
「そう思うか?」
「あなたこそ、あの子にほだされているのでは?」
「そうかもな」
「アイリーンが荒れています」
「知ってる」
「その上、今回は彼女の歌がない」
「前回たんまり歌わせてやったからな」
「ええ」イライアスは頷いた。「あれは彼女のための舞台でした」
「歌は高評価。芝居は最悪」
「今回、芝居は高く評価されても、ダンスはこき下ろされるかもしれません」
「俺がそんなことを気にすると思うか?」
「いいえ」でも、とイライアスは続ける。「あの子は気にするかもしれない」
イライアスは一瞬遠い目をする。昨日の希佐の演技を思い出しているのだろう。その目の奥に熱い感情が炎のように揺らめくのを見て、アランは少しだけ笑った。
氷山のように冷たく、静かで、どっしりと構えて見えるが、実際には誰よりも熱い男なのだ。演技はまだてんで駄目だが、その秘めたる感情がダンスで爆発する瞬間を何度でも見たくて、自分の劇団に入らないかと声をかけた。
「あいつはやるよ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「さあ、どうしてだろうな」
どうなるかは分からない。もしかしたら大失敗に終わる可能性もあるだろうが、それでも構わなかった。ただ、見てみたい。それだけなのだから。
「ダンスの振り付け、期待してる」
「はい」
音楽が途切れ、次の音楽がはじまる。タップダンスを踊るために作った曲だ。最初は、アンダンテ。徐々にテンポを上げていき、モデラート。アレグロ、アレグレット、プレスト――。
隣のスタジオからは、バージルが音楽に合わせてステップを踏む音が聞こえてくる。その音はまるで心臓の鼓動のように力強く、滑らかで、心地が良い。
この男の魂が奏でる音楽に惚れ込んで、いつかタップダンスを軸にした舞台を作りたいと思った。
だから劇団を立ち上げたのだ。しかし、その舞台の構想は頭の中に留まるばかりで、一向に形にはならなかった。
立花希佐という人間が、目の前に現れるまでは。