イライアスが突然話しかけてくるようになった。
なぜかは分からず困惑しているが、何も悪いことではないので、希佐はまるで最初からそうであったかのように振る舞っている。
「そこの振りは、こう」
「こう、かな」
「そう、できてる」
舞台で踊るダンスの振り入れがはじまっていた。
ユニヴェールで踊っていたようなダンスとは少し趣向が違う。イライアスが振り付けをしたのが透けて見える、コンテンポラリー風のダンスだ。希佐にとっては予想外の振り付けではあったが、新鮮で面白い。
「キサ」そう声をかけてきたのは、鏡の前に立って稽古の様子を眺めていたアランだ。「この前、一人で稽古をしていたときに、ダンスの振りを作っていたな」
「あ、はい」
「イライアスに踊って見せてやれ」
「えぇ……」
自分が作っていたダンスのパーツと、イライアスが完成させてきた完璧な振り付けとでは、あまりにジャンルが違いすぎる。
ユニヴェールにいた頃は更文の後を引き継いでダンスの振り付けを考えてはいたが、子供の頃からもう何年もそのジャンルで踊っている人の前で作りかけのダンスを披露することは、少し気恥ずかしい。
「ほら、早く」
「……分かりました、じゃあ」
希佐の体にはユニヴェールのダンスが染み付いている。果たしてそれが遠い外国の地で評価されるのかは分からない。ただ、イライアスがダンスの中であらゆる感情を表現するのと同じように、ユニヴェールのダンスにも、同じだけの力があると信じている。
「キサ、舞踊習ってた?」
「えっ?」
「日本舞踊」
イライアスからの思いもよらない指摘に、希佐は一瞬動揺してしまった。体が不自然に硬直して、すぐに返事をすることができなかった。
「が、学校の先輩が日本舞踊のお家の方で、その人に少しだけ」
「日本舞踊って難しいんです」アランに向かってそう言いながら、イライアスはいとも容易く、確かに日本の舞を踊ってみせた。「体幹がしっかりしていないと、まず踊れない」
「イライアスは、どうして……」
「世界中のいろんなダンスを勉強してる。日本舞踊の艶やかさは、コンテンポラリーにも生かせる」
そうか。ダンスを本気でやってきた人たちは、その体に叩き込まれている情報量からして違うのだ。きっと、フミさんもそうだ──と希佐は思う。
希佐が本格的にダンスを始めたのは、ユニヴェールに入学してからだ。中学の頃からある程度踊れてはいたが、それは学校の授業でのことであって、専門的に学んできている人たちとは、根本的なところから違っている。
もっと努力をする必要があると希佐は思った。ここには、あらゆる分野のプロと呼ばれるような人たちが集まっている。ポジティブなものの見方をすれば、盗みたい放題ということだ。
「キサ、ちょっと踊ってみせて」
「え、日舞を?」
「うん、見たい」
自分の舞が誰かに見せられるレベルにまで到達しているとは思えない。でも、あの高科更文が精魂込めて教えてくれた舞は、どんなものよりも美しいという確信が、希佐にはある。
ふう、と大きく息を吐く。
ゆっくりと吸って、止める。
ぱちん、と扇を閉じるときのような音が頭の中に響き、凛とした背中が見えた。あの人のように踊りたいという一心で見つめていた、華奢だけど大きな背中だ。鮮烈な赤。あまりにも眩しくて直視できないこともあったけれど、今は思う。もっと、もっと、もっと見ておけばよかった。もっと、あの人が舞う姿を、見ていたかった。
空気が変わる。
ピンと張り詰める。
まただ、とアイリーンは思った。全員があの子を見ている。全員が、あの子に釘付けになっている。ただその場に立ち尽くして、呼吸をすることすら忘れて、気がついたときには、あまりの息苦しさに窒息してしまいそうになる。それでも、目を逸らすことができない。
アイリーンはそれが気に入らなかった。そして何より嫌なのが、自分もその中の一人になってしまっていることだ。あの子が何かをはじめる度に、目で追いかけてしまう。今度は何だと不満に思う一方で、僅かな期待もある。それが、何よりも気に入らない。
立花希佐は見たこともないダンスを踊っていた。いや、あれはダンスなのか? という疑問が脳裏を過ぎる。やけにゆったりとした動きで、体の線を強調するように、やわらかな曲線を形作る。
「あ……」
鏡越しに目が合って、少し、微笑みかけられたような気がした。思わず声が漏れる。心臓が一度だけ大きく鼓動した。
細められた目。僅かに弧を描く薄い唇。故意になのだろうか、目尻がほんのりと赤く染まって、それがまた艶っぽさを助長させていた。指先が恥じらうように口元を隠す。体の芯から熱くなってくるような色っぽさから、目を離せない。
普段の希佐は誰の目から見ても中性的で、一見するだけでは男なのか女なのかも分からない。不思議と性を感じさせないのだ。それなのに今は、我が目を疑うほど艶やかに、華やかに、舞っている。
技術的にはイライアスの方がずっと優れているはずだ。だが、何かが違う。
イライアスのダンスはただただ美しい。性別など超越した、芸術の域に達するダンスだ。新進気鋭のソロダンサーとして名を馳せはじめ、最近では有名アーティストのMVにも起用されている。
そんなイライアスが、瞬きをする一瞬の刹那すら惜しいというふうに、繊細な動きの一つ一つをその目に焼き付けようとするように、ただ一心に立花希佐を見つめている。異国の踊りなど見慣れているはずなのにと、アイリーンは思った。
そして、アイリーンは最も見たくないものを目にした。アランだ。希佐を見つめるアランの眼差しがあまりに熱く、火傷をしてしまいそうなのに、アイリーンにとっては酷く冷たく感じられる。
一度だって、自分のことをあんな目で見てくれたことはない――アイリーンは奥歯を噛み締め、その横顔を睨む。
ずっと憧れていたのだ。子供の頃から。あの小劇場の舞台に立つ姿を見たあの瞬間から、ずっと憧れていた。だから、努力をして同じ大学に入学した。演劇サークルにも所属をした。あんなふうに見つめてもらうために。自分の武器である歌を磨いた。あの人に聞いてもらうために。
でも、アランが見つけたのは自分ではなく、いつもその隣にいたイライアスだった。アランが劇団を立ち上げたときも、声をかけられたのはイライアスだけだ。どんなに努力を重ねても、アランはこちらを見てくれない。無視をしているわけではないのだ。ただ、本当に興味がないだけだと、アイリーンにも分かっていた。
それでも、その目に映りたくて、映してほしくて、アイリーンは努力を続けた。国際的にも評価されている歌のコンテストで優勝し、トロフィーを鷲掴んで、その足でスタジオに向かった。
どうだ、私だってやればできるんだと息巻くアイリーンを、アランはその時初めてまっすぐに見て、笑ってくれた。よくやったな、と言って褒めてくれた。これが恋に落ちずにいられるかと、全人類に言ってやりたい。
アイリーンはそれでようやく劇団員になれたというのに、あの子はアランの前に何の前触れもなく現れ、ほんのちょっとした特技を見せただけで、その心を射止めてしまった。
外見ならば自分の方が美しいとアイリーンは思う。ダンスならばイライアスやバージルの方が踊れるだろう。もし自分たちよりも優れているものがあるのだとしたら、それは、あの日垣間見た演技力に他ならない。
台本の読み合わせをしたときは、突出したものを感じられなかった。なんだ、大したことないではないかと、そう思った。だが、みんなが帰り支度をはじめた頃、寸前まで床に座り込んで呆けていただけのあの子が、与えられた役を演じはじめとき、がらりと空気が変わったことを覚えている。
異様、その一言に尽きる。異様で、異質だった。恐ろしさすら覚えた。
もしこれがアランの求めているものなのだとしたら、その欠けた部分を自分が満たしてやることは到底できないのだろうと、アイリーンは悟った。
一体どのような人生を歩んできたら、あのような演技ができるようになるのか、アイリーンには分からない。絶望という暗闇の底なし沼に足を浸し、もがいているような演技だった。両手を必死になって動かし、泥を掻いても、地上にたどり着くことができない。
本気の、死んだ方がましだという感情が、ひしひしと伝わってきた。
だから、目をそらしたのだ。あまりにつらくて、見ていられなくなって。
「……っと、こんな感じで、どうかな」
きりの良いところで踊ることをやめた希佐は、傍らで黙しているイライアスを見た。更文が散々お前の視線は熱いからすぐに分かると言っていたが、初めてその言葉の意味を理解できたかもしれない。それくらいイライアスの視線は熱かった。
「君、綺麗だね」
「えっ?」あまりにまっすぐな言葉を向けられ、希佐は再び動揺する。「ど、どうもありがとう」
「すごく綺麗だ」
噛み締めるように繰り返される言葉を聞いて、希佐は思わず困惑してしまった。どうしたものかとアランを見やるが、何やら物思いにふけっている様子で、助け舟を期待することはできそうにない。
「特にここの動きがよかった」
そう言いながら、イライアスはたった今見たばかりの舞を、寸分違わずに舞って見せる。ああ、これが才能というものかと思い、希佐は苦笑いを浮かべた。
「うん、参考になった」
「そう?」
「ありがとう。明日までに振り付けを考え直してくる」
「え、考え直すって……」
「今日教えたのは全部忘れて」
イライアスは目を丸くする希佐の顔をまっすぐに見ている。時間をかけて考えてきた振り付けのはずだが、どうやら本気で考え直すつもりのようだ。
「きっともっと良い振りになるね」
その返事が予想外だったのか、イライアスは意外そうな顔をしてから、ふっとほころぶように笑った。
終始穏やかだったイライアスとは対照的に、バージルの振り入れは、それはそれは騒がしいものだった。開始早々、頭上から大声を浴びせかけられ、希佐は反射的に首をすぼめる。
「いいか、最初にはっきり言っておくぞ。これからオレが手本を見せてやるが、今のお嬢ちゃんのレベルじゃ、絶対踊れない構成になってる。本番まであと一カ月と少ししかないが、うちの座長さんが本気も本気で振り付けをしろと仰せだったからな」
「あの……」
「動画回しとけよ」
「はい」
バージルが無言のまま事務室の方に視線を送ると、そこに立っていたアランがリモコンでオーディオの操作をする。再生ボタンが押されるとすぐに、タップダンス用の一曲目の曲がはじまった。
希佐はアランからもスマートフォンを借り、ノアとジェレマイアの協力を得て、各方向からそのダンスを録画していた。自分の目でも覚えるために、一番良い場所を陣取って、バージルが踊る姿を凝視する。
このダンスは、青年が勝手に師匠と仰ぐ男を散々につけ回した後、青年の願いを聞き入れた男が、ようやくタップダンスを教えてくれるという場面だ。だから、最初はゆっくりとしたステップからはじまり、徐々にテンポを上げていく。
最初の三分の一ほどのダンスは、何とかくらいついていけそうなレベルだった。だが、音楽のテンポが速くなっていくと同時に、ステップがより複雑になっていき、希佐の目でも追いつくのがやっとという状態になる。ラストの三分の一は、何が何だか分からなかった。
だが、もちろん、これだけでは終わらない。
舞台のラストに踊るタップダンスは、一曲目の比ではなかった。ユニヴェール時代でもこれだけの課題を課されたことはなかっただろう。
目が足の動きに追いつかない。確かにタップ音は聞こえているのに、どのタイミングで爪先を弾いたのかが分からない。目を皿のようにして見ても、何をしているのかが分からなかった。
音楽が壮大なだけに、これだけのダンスに仕上げなければ、いずれにしても見劣りしてしまうのだ。
一瞬、音楽が止まって無音になる。バージルが奏でるタップ音だけがスタジオに響いた。
なんて力強いステップなのだろう。まるでバージル自身の心臓の鼓動を聞いているようだと希佐は思う。力強く、繊細で、精密だ。乱れたところが一つもない。ただそれ自体が極上の音楽のように聞こえてくる。
これを、自分がやらなくてはいけないのか、という気持ちはもちろんあった。だが、それ以上に、希佐は踊ってみたいと思った。あのタップダンスを踊りたい。どうしても、踊ってみたい。いや、絶対に、絶対に踊りたい。
音楽の最後の一音と、バージルのタップ音が、ぴたりと合わさる。
二曲続けて踊ったのにも関わらず、バージルはほとんど息を切らしていなかった。希佐は腰が抜けたようになってその場から立ち上がることができず、Tシャツの襟ぐりを引っ張り上げて顔の汗を拭っているバージルを呆けたように見上げている。
「おい、どうよ。お前にこれが……」
バージルはそう言いながら、自分を見上げている希佐に目を向けた。しかし、次ぐ言葉を紡げずに口を噤む。
「……お前さん、実は相当ヤバいやつなんじゃねぇか?」
「昔はよく言われました」
二つの目をきらきらと輝かせて自分を見つめている希佐を目の当たりにして、バージルは若干引いたとばかりに表情を歪めた。しかし、何かを決意したようにふうと息を吐き出すと、座っている希佐に向かって手を差し伸べた。
「時間がねーんだ。オレも空いてる時間は練習に付き合うから、気合い入れてやれよ」
「はい!」
「お前、本当に返事だけは一人前だな」バージルは呆れた顔をしながら、希佐の体を引っ張りあげた。「まずは一曲目からだ。これを完成させなきゃ、二曲目には手を出せない」
「はい、よろしくお願いします」
「……こりゃオレも腹ァ括らねーとな」
よし、まずは最初のステップ――バージルの手本を見て、希佐も同じようにステップを踏む。
公演まで残り一カ月と少し。そのことを考えると少しだけ背筋が冷たくなるが、きっと努力は報われるはずだと信じている。あとはもうがむしゃらに頑張るしかないのだ。
ハヴェンナの神父は倒れるまで踊れと言ったが、いざその通りのことをしてみると、享楽どころではない気持ちになる。
稽古後、バージルは足に力が入らずがくがくと膝を震わせている希佐を見て、げらげらと笑っていた。今日はこれからウエスト・エンドで仕事があるらしい。おかげでウォーミングアップの必要もないと言って、颯爽とスタジオを出て行った。
ぐったりとその場に座り込んだ希佐は、額からぼたぼたと滴る汗をTシャツの袖で拭った。もっと体力をつけなくては、置いていかれてしまう。いや、必要なのは筋力だろうかと考えていると、俯いた視界の中に一本のペットボトルが差し出された。
「……水、飲みなさいよ」
「ありがとうございます、アイリーンさん」
「別に、アランから持っていけって言われただけだから」顔を上げると、酷く不機嫌そうなアイリーンから、ペットボトルの水を受け取った。「私、アランからあなたの歌を見てやるように言われてるの」
「そうだったんですね」
「でも、嫌だから」
あからさまな拒絶に、あはは、と苦笑うと、アイリーンはますます眉を吊り上げる。
「嫌なら仕方がないです。そう思いながら教えるのは、アイリーンさんもつらいでしょうから。とりあえずは一人で稽古してみます。でも、分からないことがあったら――」
そのときは申し訳ないですが教えてください。そう言おうとした希佐の言葉を遮るように、アイリーンは何枚かのCDを差し出してきた。顔の前に突き付けられたそれを見て目を丸くしていると、今度は本当にそれを顔に押し付けられる。
「これ、次の合同稽古までに練習してきて。しっかり歌い込んできたかどうかは聞けばすぐに分かるんだから、ダンスの稽古があるからってサボるんじゃないわよ」
「え? あっ、はい、分かりました」
「自分だけが頑張っているだなんて思わないことね」
ふわりと綺麗なブロンドの髪を翻し、アイリーンは希佐に背中を向ける。そのままスタジオの隅に置いていた自分の荷物を引っ掴むと、早足でスタジオを出て行ってしまった。嫌だと言いつつもしっかりと手を差し伸べてくれる、その優しさが希佐には嬉しい。
希佐は自然と浮かぶ笑みをそのままに、CDを足元に置くと、ペットボトルの蓋を開けようとした。しかし、疲れからか手に力が入らず、ペットボトルの蓋さえ開けることができない。それでもぐいぐいと力任せに開けようとしていると、隣にしゃがみ込んだアランが、希佐の手からペットボトルを奪っていった。
難なくペットボトルの蓋を開けると、何も言わずに差し出してくる。
「ありがとうございます」
「ん」
膝に手をついて立ち上がったアランは、去り際に、希佐に頭にとんとんと触れていった。希佐は遠ざかっていく背中を見送りながら、水をごくごくと飲む。
「……うん?」
あまりに自然な行為のせいで、危うくそのまま通り過ぎてしまうところだった。
希佐はまだ触れられた感覚が残っている頭に手を乗せ、考える。今のは励ましてもらったと考えてもいいのだろうか。いずれにしても、アイリーンに見られなくてよかった。
アランから自分の劇団に入れと言われたときは、どうなることかと思っていた希佐だったが、劇団員たちの優しさに触れた今は、何とか上手くやっていけるのかもしれないと、少しずつ自信も取り戻しはじめていた。