最近、職場のパブでチップをもらうことが増えてきた。聞いたところによると、イギリスはアメリカほどのチップ文化はないらしいが、このパブではスタッフが客からチップを渡されているところをよく目撃する。若手の役者や役者を目指して頑張っている若者が多く働いていることを知っている常連客たちが、お小遣い感覚で渡しているのだそうだ。
希佐も顔馴染みになってきた常連客からのチップで、以前よりもマシな食生活が送れるようになっていることは、否定できない。
しかしながら、生粋の日本人である希佐にとって、チップ文化は馴染みがないものだ。当初は申し訳ないと思うばかりで、受け取ることを躊躇い、お気持ちだけで結構ですと言って断ることが多かった。
「気にせず受け取っていいんだよ」どうすることが正解なのか分からず相談すると、メレディスは微笑ましそうにしながら言った。「チップは君の働きに対する報酬だ。君への感謝の気持ちでもある。もちろん、無理に受け取れとは言わないし、断っても構わないけれどね」
働きに対する報酬、感謝の気持ち、という言葉は、日本人である希佐に妙な安心感を与えた。ただいただくだけでは申し訳ないが、それが自分の仕事に対する報酬ならば、素直に受け取ってもいいのではないかと思えたのだ。
こつこつと貯めたチップで練習用のダンスシューズを買わせてもらったと常連客に笑顔で伝えると、彼らは顔を見合わせてから目頭を抑え、希佐のポケットにそっとチップを忍ばせてくれた。
初めての給料をもらったときは、アランを食事に誘った。最高の職場を紹介してくれたのはアランだったし、部屋の賃料を支払うと言っても聞く耳を持ってもらえないので、それなら食事を奢らせてほしいと申し出たのだ。
パブの同僚に教えてもらったインド料理屋は大当たりで、それ以降も何度か足を運んでいる。
「美味しかったですね」
「まあ、悪くはなかった」
食事そのものを面倒臭がっているアランでも美味しいと認める味だったようだ。
後日、稽古の休憩時間に何気なくアランと一緒にインド料理を食べに行ったことを話すと、バージルは口をぽかんと開けて言葉を失っていた。
公演の稽古は相変わらず昼夜問わず続けている。
手話のレッスンにも足を運び、その成果をイライアスの前で披露すると、ダンスにも手話を取り入れようという話になった。
アイリーンは何だかんだと言いつつも、希佐の歌の進捗具合を気にしてくれているようだ。次の合同稽古の日に歌を聞かせると、そんな下手な歌を客に聞かせる気かと怒鳴りつけられ、しっかりとダメ出しをされた。ユニヴェールの一年生だった頃、白田美ツ騎にダメ出しをされたとき以上の暴言を吐かれ、少しだけ心が折れそうになった。
「おっ、どうした?」
ユニヴェールでやってきた歌唱練習とは一体何だったのかと、壁に寄りかかってぼんやりと考えていた希佐の元に、ジェレマイアがやって来た。
「アイリーンにこっ酷くやられてへこんでんの?」
「英詞の歌を歌うのは、やっぱり難しいなと」
「そんなに違うものか?」
「日本語で歌うのとですか?」希佐が問うと、ジェレマイアは隣に座りながら頷いた。「発音からして違うから、声の響かせ方も違うんです。日本語はこう、口の前の方で発声する感じなんですけど、英語は舌の根に近い感じがするというか」
「ああ、こもらせる感じな」
「学生時代にもそれなりに英詞で歌った経験はあるんですが、アイリーンさんが言うに、イギリスっぽくないそうで」
「あ、ちょっと分かるかも」ジェレマイアは天井を仰ぎながら言った。「キサの場合、普段話す英語はロンドンっ子って感じがするのに、歌うとなんでかアメリカっぽくなるんだよ」
「アメリカっぽく……」
「でも、パブのステージで歌ったときはそんな感じしなかったな。あれ、客にも好評だったんじゃない? 肩の力が抜けてて良かったよ。あと、こいつ度胸あるなって思った」
「そうですか?」
「そりゃそうだろ。普通は歌えねぇよ、あんなところで」
「パブのお客様全員に奢る財力があれば歌っていませんでしたよ、多分」
苦笑いを浮かべながらそう言うと、ジェレマイアは天井から視線を戻し、希佐を見た。
「俺は、キサがもし大富豪だったとしても、あのステージに立って歌ってたと思う。キサが稽古をしてる姿を見てるとさ、思うんだ。こいつは根っからの表現者なんだなって」
「表現者……」
「そ。演じる苦しみの中にさえ歓びを見出す感じが最高に狂っててさ、俺は好きだよ、そういうの」
「それって褒めてくれているんですか?」
「褒めてる褒めてる」
ジェレマイアはにっこりと笑いながら言った。そうした気遣いが嬉しくて、希佐も笑い返す。
ジェレマイアは少し前まで大規模なエンターテイメント集団に所属していたらしい。怪我が原因で退団したばかりの頃に、あのパブでアランと出会ったのだという。相当酔っ払っていたジェレマイアの話をアランは黙って聞いていたそうだ。結局閉店時間まで居座り、それでも話し足りずにくだを巻いていると、アランが言った。
「俺の劇団に入るか?」
ジェレマイアは、初対面のアランに向かって何を話していたのか、正直あまり覚えていないのだと言った。多分、自分の怪我のことや所属していた集団のことについて、いつまでもくどくどと語っていただけだと思う、と。
「俺の何が良くて劇団に誘ったのかは未だに分からねぇけど、あのときの俺には何もなかったし、まあとりあえずやってみようかな、ってな」
俺は何かに秀でているわけでもないし、歌も芝居も平均的で、ダンスなんかはバージルやイライアスには劣る──とジェレマイアは語る。
「今は怪我の状態も悪くないし、今度の公演が終わったらオーディションを受けにいくつもりなんだ」
「そうなんですね。私、応援します」
「キサには俺を応援してる余裕なんかないだろ。自分の課題が山積みで」
「それでも、応援します」
「そうか。ありがとな。俺も応援してるよ、キサのこと」
希佐には何となく分かる気がする。
アランがジェレマイアを劇団に誘ったのは、その人柄に惹かれたからだ。アラン、バージル、イライアス、アイリーンだけでは、この劇団はあまりに個の主張が激しくて、まとまりに欠ける。だから、ジェレマイアのような人柄の仲間が必要だったのだろう。スタジオの隅で悩んでいる希佐に歩み寄って話を聞いてくれたように、相手を選ばず寄り添える人が。
後日、事務室にあるオーディオにヘッドホンのコードを差して、希佐は公演の仮歌を聞き込んでいた。アランの歌は、これがまた恐ろしくなるほど、悔しくなるほどに上手いのだ。なぜ自ら表現する道ではなく、脚本を書き、他者の演技を演出する道を選んだのか、疑問に思うほどに。
メレディスはアランの才能を今でも高く買っていて、心のどこかでは、舞台から降りてしまったことを残念に思っているようだった。
一曲目は冒頭に歌う。これからオーディションに向かう主役の青年が、希望に胸を躍らせながら歌う曲だ。明るいメロディーの裏では、どこか不穏な空気を感じさせる、人の不安感を煽るコードが微かに聞こえている。これから青年の身に起こることを暗示しているのだろう。だが、そんなことを知る由もない青年は、期待と緊張でないまぜになった感情を、歌にのせて表現する。
二曲目は物語も終盤が近付いてきた頃に披露される。これは青年が自らを奮い立たせる歌だ。何もかもを投げ打ってでも、大切なものを手放してでも、自分のために前へ進むことを決意する歌。何度聞いても、心が震え、全身に鳥肌が立つ。希佐自身が上手く歌えさえすれば、聞いている人にもきっと思いが伝わると、そう思える歌だ。
だが、それと同時に、恐怖も覚えた。
どうしてこんなにも自分の心とリンクする詩が書けるのか、それが分からない。希佐の思いを代弁しているとしか思えない歌詞に、別の意味での鳥肌が立った。まるで、希佐の背中を強く押し出すような、内に秘めた感情を爆発させろと言わんばかりの、力強い歌。
これを自分が歌うのだ、あの伝統ある小劇場で。きちんと仕上げなければならない。それが舞台に立つということなのだから。
さあ、もう一度最初から――そう思ってオーディオの再生ボタンに手を伸ばそうとしたとき、すぐ傍から大きな物音が聞こえてきた。びくりと肩を震わせてから後ろを振り返ると、大量の書物を抱えたアランが、体を傾けて自らの足元を見やっている。
どうやら、抱えている本で足元が見えなかったようだ。テーブルの上にあった本の山に膝をぶつけ、崩してしまったらしい。
「悪い」
「大丈夫ですか?」
「ああ」被っていたヘッドホンを外した希佐は、床に散乱している本に手を伸ばした。「いいよ、そのままで。自分でやる」
「でも、ページが潰れてるから」
ユニヴェールの図書室をよく利用していた希佐には、本は大事に扱わなくてはいけないという精神が宿っていた。自分で購入したものであれば、そこまで気にすることもなかったのだろうが、図書室には貴重な資料も多くあり、気をつけて扱うように言われていたので、その言葉が今も染みついている。
ひしゃげたページを丁寧に撫でつけ、本を元通りの場所に戻す。アランは自身が持っていた本を作業机の上に置くと、しゃがんでいた腰を上げた希佐を振り返った。
「何を聞いていたんだ?」
「仮歌です」
「ああ」相槌を打ちながら、アランは頭を掻く。「どんな感じ?」
「とても良い歌だと思います」
「どうも」
「歌えるか歌えないかという質問なら、歌えると思います」でも、と希佐は続けた。「アイリーンさんは私の歌い方が気になるみたいです。発音がアメリカっぽいって」
「あー、それか」
「やっぱり気になりますか?」
「いや、そこまで気にする必要はない」アランは椅子の背凭れを前にして座ると、体重を預けるように両腕を乗せる。「あいつはコンクール用に歌い方をゼロから見直したから、些細なことが気になるんだと思う。君が気にしていることは大した問題じゃない」
「でも……」
「自分が気になるのか」
ユニヴェール時代、他の寮の先輩が個性を潰す必要はないと言ってくれた。だが、それは歌声の問題で、発音云々という話ではない。脚本家兼演出家が気にしなくていいと言っているのなら、気にすること自体が愚かなのかもしれないが、どうしても気になるのだ。
「まあ、アメリカ英語が気に入らないって連中は、この国にはまだまだいるからな」
「変えられるものでしょうか」
「変えられる」アランは意外にもそう断言した。「君は耳が良いから、俺の仮歌を毎日聞いていたら、自然と発音が寄ってくるはずだ」
「……それだけ、ですか?」
「君、自分がどれだけ稀有な存在か気づいてないよね」
心なしか呆れたような雰囲気を漂わせながら、アランは言う。
「君は目と耳がずば抜けて良い。それ自体が特殊能力なんだ。バージルのタップダンスを初見で真似られるダンサーは少ないし、渡航してほんの一、二年しか経っていない人間が、ネイティブ並みの発音で話すのを、少なくとも俺は聞いたことがない」
「そう、なんですか?」
「それに、最近はアイルランド訛りについて言われることもなくなっただろ」
言われてみればその通りだった。パブで働きはじめた当初は、多いときには日に何度も、アイルランド訛りについて触れられることがあった。アイルランド訛りで話す日本人というのが面白かったらしい。だが、最近は誰も、そのことを指摘してこない。
「俺は子供の頃に話し方を矯正されて、お手本のような容認発音――クイーンズイングリッシュと呼ばれている発音で話すから、多分参考にはなる」
「矯正なんてするんですね」
「話し方一つで人の見方が変わる国なんだよ、ここは。それに、役者になれば訛りを消すこともあれば、役柄のために身につけることもある。どちらも同じ教養だ」
「じゃあ、毎日アランさんとお喋りをしていたら、綺麗なイギリス英語を覚えられるんですね」
「残念ながら、俺は暇じゃないから、君の話し相手になってやる時間はない」
希佐とアランはあまり無駄な話をしない。ひとつ屋根の下で暮らしているというのに、話すことと言えば舞台や次の公演のことばかりで、互いの個人的な話はほとんどしてこなかった。たまに会う他の劇団員たちの方が、希佐のプライベートを知っているだろう。
アランが希佐に対して、常に一定の距離を置いた付き合いを心掛けているのは、容易に見て取れることだ。互いに踏み込みすぎないのが吉だと考えているのが分かる。希佐自身からもそういう雰囲気が滲み出ているのかもしれない。
「じゃあ、俺は外で草稿書いてくるから、何かあったら連絡して」
「あ、はい。行ってらっしゃい」
アランはそのまま希佐の隣を通り過ぎていく。希佐は流したままにしていたオーディオの電源を切った。ヘッドホンから微かに漏れ聞こえていた歌声が、ぷつりと途切れる。振り返ると、いつも開け放たれている事務室の扉越しに、スタジオから出て行くアランの背中が見えた。
「……あ、戸締りしておかないと」
バージルから、スタジオに一人でいるときは絶対に鍵を掛けておくようにと、耳にたこができるほど言われていた。ここは教会の裏にあるので治安は良い方だが、万が一ということもある。
しっかり扉の鍵が閉まっていることを確認してから、希佐は広々としたスタジオを使って一人稽古をはじめることにした。仕事の時間まではまだしばらくある。幸い、今は大声をあげても迷惑をかける相手がいないので、歌の練習をするにはもってこいだ。
アイリーンから渡された課題のCDはジャンルが様々だった。希佐にはそれぞれが何の役に立つのかも分からなかったが、とりあえず歌い込んでこいということだったので、言われた通りにしている。
散々ダメ出しをされた後は、次々と新しいCDを渡されるので、あとは何度も同じことを繰り返すだけだ。因みに、アイリーンが希佐の歌を褒めてくれることはない。
アイリーンがどんな歌を歌うのか、希佐はまだ知らなかった。劇団員たちは口を揃えて「アイリーンは歌だけは上手い」と言う。あれでダンスや演技力を更に磨けば、すぐにでもウエスト・エンドでやっていけるだろうと、バージルが話していたことを思い出した。
おそらく、度肝を抜かれるような歌声の持ち主なのだろう。ユニヴェールでトレゾールと呼ばれる人々のような――いや、もしかしたら、それ以上の実力を備えているのかもしれない。
稀代のアルジャンヌと呼ばれることはあっても、ついぞトレゾールの称号を得ることはできなかった。
その称号を欲しいままにしている人には、生まれついての才能がある。そして、それ以上に努力をしていた。たとえ誰もが羨むような才能を持っていたとしても、それを磨く努力をしなければ、ただの宝の持ち腐れだ。
事務室のオーディオから流れてくる音楽に合わせて歌う。何度も、何度も。
ピアノがあれば音を確認しながら歌えるのにと思った希佐は、すぐに時計を確認した。時刻は昼の十二時を回っている。この時間帯ならメレディスはパブにいるはずだ。頼めばピアノを使わせてくれるかもしれない。
しかし、思い立ったが吉日だと希佐が立ち上がりかけたとき、それは起こった。
手に持ったリモコンでオーディオの電源を切ろうとしたその瞬間、がちゃがちゃ、という音が扉の方から聞こえてきたのだ。最初はアランが帰ってきたか、劇団員の誰かが合鍵を使って入ってこようとしているのだろうと、そう思った。
だが、がちゃがちゃ、という音は止まらない。それどころか、ノブをがちゃつかせる音は激しくなる一方だ。誰かが中へ入ってこようとしている。
でも、誰が……?
扉が外側からガタガタと揺すられ、壊れるわけがないと分かっていても、最悪な事態が希佐の脳裏をよぎった。これはいよいよまずいのではないか。心臓が冷え切っていくような心地がしているのに、どく、どく、どく、と早鐘を打つように鼓動が速くなっていく。
しかし次の瞬間、一切の騒音が消えた。瞬間的に静寂が訪れる。
ああ、そうだ、こんな真っ昼間から何か物騒なことが起こるわけがない。入る家を間違えたか何かだろう。希佐はそう考えて自分を落ち着かせようとした。震える手でリモコンを握り締め、呼吸を整えようと深呼吸をする。
だが、希佐は見てしまった。緑の蔦が蔓延っている窓の外に、誰かが立っている。窓に張り付くようにして、スタジオの中を覗き込んでいる。
一瞬の間の後、希佐は事務室に向かって駆けた。事務室の扉を閉め、施錠する。
それからすぐに、指の先まで冷え切っているのにも関わらず、酷く汗ばんだ手で、ポケットのスマホを取り出そうとした。しかし、スマホは希佐の手から滑り落ち、床に落ちる。拾い上げたそれの液晶はバキバキに亀裂が入り、酷いありさまになっていた。
万事休すかと思ったが、電源は入る。感度は悪いが、操作はできる。
希佐は震える手で、数少ない連絡先の中から、一番上にある名前をタップした。
「……早く、早く、早く」
希佐の口をついて出ていたのは英語だった。
呼び出し音が鳴り続いている。
お願いだから、早く出て――十回近くのコール音の後、それが途切れた。
『なに?』
僅かに冷めた声が受話器越しに聞こえてくる。少し機嫌が悪そうだ。しかし、今はそんなことどうだっていい。希佐は咄嗟に助けを求めようと口を開く。だが、なぜか喉がぴたりと閉じたようになって、声を出すことができなかった。
『……』
寸前まで確かに出てた声が、喉の奥で押しつぶされる。呻くような音しか出てこない。
このままでは、電話を切られてしまう。どうにかしなければ。そう思ったとき、更に恐ろしいことが、事務室の扉の向こう側で起こるのが分かった。ガラスの割れる音が聞こえてきたのだ。
『……キサ?』
何かの異変を察知したのか、訝しげな声が希佐を呼んだ。答えなければ。そう思うのに、どうしても返事をすることができない。
足音が近づいてくる。どんどんどんっ、と事務室の扉が乱暴に叩かれる。ひっ、という悲鳴が口から漏れ、耳に近づけていたスマホが、再び手元から滑り落ちた。腹の上に落ちたそれを慌てて拾い上げ、希佐は震える声で、何とか話し出した。
「アラン、た、たすけ……」
『どうした』
「誰か、入って」
『今どこにいるんだ?』
「事務室」
『鍵掛けたか』
「うん」
『すぐ行くから、絶対そこから出るなよ。電話も切るな』
ぐ、と喉が鳴る。
スタジオの扉と同じように、事務室の扉もがちゃがちゃとノブが回され、ガタガタと揺らされている。真後ろから、その音が聞こえてくる。電話の向こう側にもそれが聞こえたのか、チッ、と舌を打つのが分かった。
『キサ』走っている息遣い。その合間に、名前が呼ばれる。『キサ!』
「な、なんですか……」
『なんか喋って』
「なんかって」
『声聞こえなくなると不安になる』
「そ、そんなこと、言われたって」
どんっ、と今度は更に大きな衝撃があった。扉を蹴っているのだ。
希佐は辺りを見回し、扉を抑えられるものがないかを探した。万が一蹴破られでもしたら、そのまま息の根が止められてしまうかもしれない。だが、動かせるものなど、ここにはソファ以外になかった。迷っている暇はない。
唯一動かせそうなソファの上にスマホを放った希佐は、反対側に回り込むと、それを決死の思いで扉の方に向かって押した。ぎぎぎぎ、とソファの足が床を削るような音がしたが、構わなかった。ソファで扉に蓋をし、更に重みを出すために、自分がその上に乗る。
『おい、キサ――キサ!』
「は、はい、います、ちゃんといます」
思いのほか大きな声で名前を呼ばれ、希佐は少しだけ動揺するが、おかげで少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
「今、どこに――」
『もう着いた』
そう言ったが最後、その声は電話口から聞こえなくなった。代わりに、そのほんの数秒後、これまでにない衝撃音が事務室の扉を襲う。そう、ちょうど、マーラーの交響曲第六番でハンマーを打ち付けられたときのような音が、扉越しに聞こえてきた。
「キサ」今度はしっかりとした肉声が、希佐の名前を呼んだ。「大丈夫か?」
「わ、私は、大丈夫です、けど」
「鍵、開けて」
「ちょっと待って、あの、ソファが」
「早く」
希佐は液晶が割れたスマホをもう一度放り、力一杯にソファを動かそうとした。けれど、どういうわけか先ほどのような力が出ず、ソファはびくともしない。
「キサ――」
「待って。ソファを動かしたから、ドアが開かなくなってて」
「……分かった」
アランは感情を抑えた声でそう言ってから、少しの間を置いた後、再び何かを話し出した。だが、それは希佐に対してではない。どこかに電話をかけているようだ。ソファを乗り越え、扉に耳を当てると、何かを話しているのが聞こえてくる。
「……はい、そうです。はい……お願いします」
妙によそよそしい口振りがそう言うのを聞いてから、希佐はもう一度ソファを動かせないかと試みてみた。しかしながら、火事場のクソ力とは実に恐ろしいもので、あれだけ容易に動いたソファが、本当に少しも動かないのだ。
「キサ、鍵だけ開けて。こちら側から押す」
「あ、うん」
希佐は言われるがままに扉の施錠だけを外した。かちゃり、という音を聞いてから、アランはノブを回してガタガタと扉を揺らす。その瞬間、希佐の脳裏に再び同じだけの恐怖がよみがえり、体が石のようになって、動かなくなった。それでも、その音から逃れるように、じりじりと足を引きずるようにして、事務室の奥へ、奥へと向かって後ずさりをする。
やや乱暴に蹴られた扉は、僅かに扉とソファの間に隙間を作った。瘦せ型のアランならば、何とか通り抜けられる程度の隙間だ。そこからぬっと手が除き、希佐は今度こそ腰を抜かした。窓の外からこちらを覗いていた不気味な笑みの男の顔が、鮮明に思い出される。
どかっとその場に座り込んだ希佐は、悲鳴を上げないように、自らの口元を手の平で覆った。薄暗い事務室の中に人影が入ってくる。誰かは分かっているはずなのに、あまりの恐怖に体が震えていた。
「キサ」
頭の中が酷く混乱している。恐ろしくて仕方ないはずなのに、自分を呼ぶ声に安堵していた。感情の大きな波が押し寄せてきて、今にも決壊しそうだった。
「怪我は」
「大丈夫」
「そう」
目の前までやって来たアランが、希佐の顔を覗き込むために膝をついた。
肩で呼吸をし、大きく息を荒げている。自分のために大急ぎで駆けてきてくれたのだ。そう思うと、少しずつ体のこわばりが解けていくのがわかった。
「とにかく、君が無事でよかった」
安心したようにそう言って、邪魔そうに分厚い前髪を掻き上げ、額の汗を拭うアランの姿は、どういうわけか――酷く、美しかった。
「……え、誰?」
「は?」
「あなた、誰?」
「……君、ふざけてる?」
アランは憤慨した様子で眉を顰めている。だが、それは仕方のないことだった。希佐はこのときはじめて、アランの素顔を目の当たりにしたのだ。こぼれ落ちそうだった涙が引っ込み、驚愕がその目に浮かぶ。
赤毛の髪を掻き分けた先には、前髪の隙間からしか見えなかった、宝石のような緑の目があった。すうっと通った鼻筋に、形の良い唇、頬を飾るそばかすの位置すら計算されているように感じられる。大昔の有名な画家が、この世で最も美しい人物を想像して描けと言われたら、この顔を描くのではないかと思うほど、美しいものが目の前にあった。
「それが命の恩人に対する態度?」
「あ、ごめんなさい……でも、あなたの顔、初めて見た、から」
「俺の顔は見世物じゃない」
「ごめんなさい」
アランは頭を振ると、再び前髪で顔を隠してしまった。そして、その場にすっくと立ちあがると、希佐を見下ろしてくる。
「もうすぐ警察が来るから、何があったのか話して」
「はい」
様々な感情が一気に押し寄せてきて、希佐の頭の中はぐちゃぐちゃの状態だった。
だが、最後に受けた衝撃があまりに大きく、今は感覚が麻痺してしまっているらしい。よろよろと立ち上がってアランの後ろをついていき、事務室の外でうつ伏せに倒れている男を見ても、そこまで感情を揺さぶられることはなかった。
「……この人、生きてます?」
「自分を襲おうとした男の心配してるの」
「死んでませんよね?」
「さあ。でも、脳震盪は起こしてるかもな。頭を思い切り扉に叩きつけてやったから」
「うわあ」
「君、自分がどんな目に遭ったか自覚してるわけ?」
「ちょっと今、色々と混乱していて」
「顔色悪いよ」
「暑いくらいなんですけど」
「……外に出よう」
アランが希佐の腕を掴んで歩き出そうとした。しかし、その腕に触れた瞬間、動きをとめて希佐を見つめる。平然としているように見えても、その体は未だに小刻みに震え、恐怖と戦っていた。
外に出て待っていると、ものの数分で警察が駆けつけてきた。希佐が事の顛末を話している間に、少し離れた場所にいたアランがメレディスに連絡をしてくれたようだ。今日の仕事は休むように、とのことらしい。
二、三日は警察が出入りするので稽古ができない旨をアランが個々にメールで伝えると、その日の夜には、劇団員が全員スタジオに集まってきた。
何しに来たんだよ、と呆れ顔のアランを横目に、希佐が昼間にあったことをみんなに伝えると、一番に怒り出したのはバージルだった。
「だから戸締りだけはしっかりしとけって言ってただろうが」
「鍵は掛けていたんです。ただ、窓を割って入ってくるとは思わなくて」
「おい、全部の窓に鉄格子でも付けろよ」
「はいはい」
「お前な――」
バージルがそう何かを言いかけたところで、アイリーンが他の劇団員に遅れてスタジオにやって来た。真っ赤なドレス姿だ。上に薄手のコートを羽織っているが、その格好はあまりに目立つ。
「ちょっと! 大丈夫なの?」
どうやらイライアスから事情を聞いていたらしいアイリーンは、緊張で固まった体を解したくてストレッチをしていた希佐を見るなり、血相を変えて駆け寄ってきた。そのあまりの迫力に目を白黒させていると、アイリーンはドレスが汚れることも構わずに、希佐の前に膝をついた。
「大丈夫? 怪我はない? 何か酷いことされなかった?」
「あ、あの、はい。大丈夫です。ありがとうございます」
「本当に? 本当ね?」
「はい、本当に大丈夫です」
希佐がそう言って笑うと、アイリーンはようやく安心した様子を見せた。詰めていた息を大きく吐き出し、ゆっくりと肩の力を抜いている。
「イライアスから話を聞いて、心配していたのよ。この辺りは治安が良いはずなのに、ヤバいやつはどこにでもいるのね」
まさか、アイリーンがこれほどまでに自分を心配してくれるとは思わず、希佐は目を丸くする。だが、同じ女として考えれば、これが当たり前の反応なのかもしれない。
「心配してくださって、ありがとうございます。アイリーンさん」
「べ、別に、お礼を言われるようなことじゃないわ」アイリーンはそう言ったかと思うと、傍らでスマホを操作していたアランをキッと睨みつけた。「あなたはキサをほったらかして何をしていたの?」
「近所のカフェで草稿書いてた」
「女の子を一人置き去りにして?」
「アイリーンさん、まさかこんなことになるなんて、誰にも分らないことでしたから……」
「大体ね、あなたはこの子を無理やり劇団に入れたり、良くも知らない男とこんなボロいスタジオに住まわせたり、やることなすことがどうかしているのよ」
「ア、アイリーンさん……?」
「キサは黙ってなさい」
アイリーンはぴしゃりと言って希佐を黙らせると、ドレスの裾を少しだけ引き上げ、立ち上がった。そして、自分よりも身長の高いアランに詰め寄っていく。またはじまったと言わんばかりの態度で、あからさまに面倒くさそうな雰囲気をかもし出しながら、アランはアイリーンから顔をそらした。
「なんだかんだ言っても、アイリーンはキサが劇団に来てくれて嬉しかったのかもね」そう言ったのは、二人の様子を面白そうに眺めていたノアだった。「ほら、ここは男ばっかりでむさ苦しい劇団だったからさ。キサみたいにかわいい女の子が来てくれて、本当は喜んでいたんだろうなって」
「そうなのかな。そうだったら、嬉しいけど」
怒涛のように現れ、アランに対して文句を言うだけ言ったアイリーンは、次のステージがあるからと言って、心なしかすっきりとした顔で帰っていった。どうやら、前の通りにタクシーを待たせたままだったらしい。アイリーンが出て行ってすぐ、車のエンジン音が遠ざかっていった。
他の劇団員たちも続々と帰っていったが、最後に出て行ったバージルは、しつこいくらいに戸締りをするようにと注意していく。オレが出たらすぐに閉めろという言葉通り、アランはバージルの言葉を最後まで待たず、スタジオの扉に鍵を掛けていた。
「うるさいやつら」
ぼそっと吐き出すように言ったアランは、ヨガマットに座っている希佐を見やると、何やら少し考え込むような仕草を見せる。それから、希佐の前まで移動してくると、アイリーンがそうしたように、目の前に跪いた。
「……悪かったな」
「え?」
「俺が外に出てなければ、こんなことにはならなかった」
「本気でそんなふうに思っているんですか?」今度は希佐が眉を顰める番だった。「悪いのはあの男の人であって、あなたは何も悪くありません。だから、謝らないでください」
「でも」
「私、嬉しかったんですよ。アランさんが息を切らすくらい走って、汗だくになってまで駆けてきてくれたことが、嬉しかったんです。ほっとしました。私の名前を呼んで、落ち着かせようとしてくれているのが分かったから」
だから、謝らないでください――そう伝えようとした言葉は、息を飲んで消えた。
肘の辺りを掴まれ、体を引き寄せられる。抱き締められているのだと分かったのは、酷く安堵したような吐息が、耳元をかすめた瞬間だった。
「ミスターはいらない」背中に回された両腕が、希佐の体を柔らかく包み込んだ。「アランがいい」
ああ、いけない、と希佐は思った。
甘くて苦い、痺れるような疼きを思い出して、言い知れぬ焦燥感を覚える。早くこの感情を捨ててしまわなければ、取り返しがつかないことになるのは目に見えていた。この感情のすべてを日本に置いてきたはずなのに、なぜ今になって顔を出そうとするのか。
それなのに、振り払いたいのに、振り払えない。
己のおぞましさにぞっとする。
ああ、この感覚は、この感情は、決して自覚をしてはならないものだ。
そこまで分かっていても尚、その腕の中は酷くあたたかくて、心地が良くて。自身の罪深さを自覚しながらも、この身を委ねる以外の選択肢は、希佐の中には存在していなかった。