あれからすぐに業者の人がやってきて、割れた窓の交換が行われた。バージルは鉄格子をはめろと言っていたが、それはまだ実行には移されていない。
過剰に恐れるのは良くないと分かっていても、スタジオを使って一人で稽古をしているときは、しばらくは窓の外が気になった。
やはり犯人は軽い脳震盪を起こしていたらしい。今は病院に入院しているそうだが、退院の後、逮捕されるそうだ。
警察が聴取した話によると、犯人はパブ『ヘスティア』の客で、ステージの上で歌う希佐の姿を見てからというもの、その姿が頭から離れなくなったらしい。その後、パブで働きはじめた希佐のことをずっと見ていたが、ある日他の客からは受け取っているチップを自分からは受け取ってもらえず、大層腹を立てたそうだ。何度か後をつけて住んでいる場所を特定し、あの日はただ「分からせてやろうとした」とのことだった。
確かに、希佐が頑なにチップを受け取らなかったことはあった。チップの金額があまりに高額だったからだ。それはチップというよりも、貢ぎや施しに近い行為のように思え、気味が悪かった。
「申し訳なかった」
一日だけ休みをもらい、その翌日にはいつも通りの時間に出勤すると、それを出迎えたメレディスが心から申し訳なさそうに謝罪をした。
何のことだろうと目を丸くする希佐を見て、メレディスは苦々しい表情を浮かべる。
「アランから話は聞いている。君をあのステージに立たせたのは僕だ。チップのことでも相談を受けていたのに、安易なことを言ってしまった。本当に申し訳ない」
「そんな、メレディスは何も──」
「謝らせてくれ」メレディスは切実な表情を浮かべていた。「これは僕の監督が行き届かなかった結果だ。これからはより目を光らせるようにする。だから、これからも何かあったらすぐに話して欲しい」
「あの……はい、分かりました」
誰も悪くはないのに、申し訳なく思う必要はないのに、頭を下げられる。
こちらの方が申し訳なくなってくると思いながらフロアに立つと、一体どこから情報が漏れているのか、一部の常連客が大変だったね、と声をかけてきた。いえ、何もなかったんですよ、と言って笑うと、痛々しいものを見るような目を向けられて、希佐はなんとなく居心地の悪さを感じていた。
今日は早く帰っていいと言われても、希佐は他のホールスタッフたちと一緒に閉店後の掃除を行った。翌日のためにテーブルの上に椅子を返して置く。落ちているごみを拾って回り、目立つ汚れは拭き取った。自分はいつも通りだと主張するように。
でも、もし──もし、希佐が舞台に立つのが怖くなったと言ったら、あの人はどんな顔をするだろうかと思う。舞台の上に立ち、大勢の人の目に触れることが恐ろしいと言ったら、困らせてしまうだろうか。
そう思いながらパブを出た希佐は、思わずあっと声を漏らした。店の近くにある街灯に寄り掛かり、アランが立っていたからだ。希佐が店から出てくるのを見ると、寄り掛かっていた体を起こして、こちらまで歩いてくる。
「……どうしたんですか?」
「別に」アランはどこかバツが悪そうに視線を外した。「ネタ出しのために散歩してたら通りかかったから、そのついで」
「そうだったんですね」
希佐はそう言って笑った。
それが嘘だなんてことはすぐに分かる。きっと心配をして、夜道は危ないからと、迎えにきてくれたのだろう。
あらゆる人々から向けられる優しさをありがたく思うと同時に、嬉しく感じると同時に、希佐はなぜだか、それがつらくてたまらなくなった。
それは、まるで腫れ物に触れるかのような扱いを受けているからだろうか。いや、違う。そうではない。優しさに触れれば触れるほど、閉じていた心が開いていくからだ。忘れていた気持ちを取り戻していくからだ。それを手放したくないと思ってしまうからだ。
一年という時間には少しだけ物足りなさを感じていた。でも、本当はちょうど良かったのだ。二年という時間は、希佐には長すぎたのだろう。イギリスに滞在する期間が一年だったなら、この人たちと出会わずに済んだのにと、希佐は思った。
今だけ、まるであの輝かしい日々と同じように、仲間だと思える人たちと一緒に一つの舞台を作り上げることができたら、そのまま消えていなくなるつもりでいた。だって、別れがつらくなるから。
ビザの関係上、この国にいられる時間は限られている。これは、ユニヴェールと同じ限定的な夢の時間で、きっとこうなることが分かっていたからこそ、自分から舞台の世界に飛び込むことができなかったのだ。
ダブリンでも小さな劇団はたくさんあった。劇団員募集の張り紙を何度も見に行った。でも、あと一歩を踏み出すことができなかった。だから、浴びるように観劇を繰り返して、自らの満たされない欲をごまかしていた。たった一人きりの稽古を意味もなく続けてきた。演じるということから、どうしても離れることができなくて。
「……なんて顔してるの」
「どういう顔をしていますか」
「泣きそう」それから、とアランは続けた。「怖がってる、いろんなものを。時間に追われて焦ってる。だけど、自分でもどうしたらいいのか分からなくて、困ってる」
「どうして……」
「分かるのかって?」
「はい」
「そういうのが透けて見える。君からだけじゃなくて、あらゆる人間から。だから俺は人付き合いが苦手だし、あまり好きじゃない。君の場合は、他の人たちよりもそれが顕著に現れていて、無視できなかった」
アランは珍しく言葉を選んでいる様子だった。慎重に、間違えないように。
「何かとんでもなく重たいものを背負っていて、いつか押しつぶされるんだろうなと思ってた。君、自分のことは何も話さないから実際のところは分からないけど、この世界から消えたがっているんだろうなって。別に死にたいわけじゃないけど、消え去りたいって、思ってる、多分」
希佐はぞっとした。この人は、あの舞台演出家の脚本を演じ、歌を一曲披露しただけの自分を見て、そこまでのことを理解したというのか、と。だが、そうでなければ、あの脚本は書けない。あの青年に、消えてなくなってしまいたい、などと言わせられるはずがない。
「だから、脚本を書きかえた。君の心とリンクするように。君が今の自分自身と向き合えるように。過去を昇華して、前へ進んでいけるように。その細い肩に背負った積み荷をおろして、一人でも歩いて行けるように」
ぎゅ、と心臓を握られているような心地がした。胸が苦しくなる。呼吸が浅くなる。体の脇で両手のこぶしを強く握り締めて、感情を抑えつけていた。
「それに、見てみたいと思った。君が感じている絶望を超えていった先に、何があるのか。何か凄いものが見られるという確信は今も持ってるよ。でも、それをするかどうかを決めるのは、俺じゃない」
「え……?」
「舞台に立ちたくなければ、立たなくていい。台本なんか破り捨てて、俺の前から消えていなくなってもいい。君の人生だ、君の自由にすればいい」
アランの言葉はいつも希佐の情緒を乱した。何でもないことのように語っている言葉の一音一音が、心の中に降り積もっていくのだ。それは真冬の根雪のように解けることなく、寒々とした心の中で、いつまでも居座り続けている。
「でも、もしまだ舞台に対する未練が残っているなら、今度の舞台では自分のために立ってほしい。劇団のためとか、誰かを喜ばせるためとか、客のためとか、そういうことは全部無視して、自分だけのために」
心底恐ろしい人だと思った。どこまでもどこまでも、他人の心の奥底まで分け入って、必死になって隠しているものを、容易く盗んでいってしまう人。だのに、今ではどういうわけか、ただ人との付き合い方がよく分からないだけの、少し臆病な、心の優しい人に思える。
「どうして私が演じる役を男性に書きかえたんですか?」
「それは――」
「男を演じる方がやりやすそうだったから、以外でお願いします」
希佐はアランの目をじっと見つめる。正確には、目であろう場所をじっと見つめていた。あれ以来、希佐はアランの素顔を見ていないし、無理に見てやろうとすることもなかった。
アランは希佐の眼差しを受け止めながら息を吐くと、口を開いた。
「……一番の要因は、君の名前を検索にかけたことだ」ああ、やっぱり、という言葉を希佐は飲み込む。「君ほどの実力ある人間が、なぜ日本でその道に進まなかったのかが疑問だった」
「それで、欲しかった情報は得られましたか」
「日本語の記事は読めなかったけど、画像は山ほど出てきたよ。公式から非公式、隠し撮りまで」
「……」
「ユニヴェール歌劇学校、だっけ。男子校なんだな。君が男だったとは、知らなかった」
「笑えない冗談ですね」
「……悪い」
少しだけ鋭い眼差しで睨みつけると、アランは自らの軽口を後悔するように口元を歪めた。
「公式ホームページで公開されてた公演映像も見た。結構本格的なんだと思って、感心した」
「私の公演映像も見たんですか?」
「ああ」
ユニヴェール歌劇学校の公式ホームページでは、年度毎の各公演を部分的に切り取り、限定公開している。その他にも、各クラスの練習風景や慰問で行われた公演などが、その都度更新されていた。もちろん、そこには立花希佐の映像だけではなく、立花継希の映像も残されている。
「綺麗だったよ。まあ、そんな陳腐な言葉は言われ慣れていて、何とも思わないんだろうけど」
アランはそう言いながら、スマホで時間を確認する。店を出てくる時にはもう深夜二時を過ぎていたので、今は半頃だろうか。
「歩きながら話そう」
希佐が隣に並んで歩きだすと、アランは再び話し出した。
「君が舞台演出家の脚本を演じたときに思ったことがある」
「なにをですか?」
「君が演じた女優、違和感があった」当時のことを思い出そうとしているのか、アランは顎をあげると視線を上に向けた。「君が演じる女は、女に見えなかった」
「……どういうことですか?」
「男が想像する女を演じているように見えた。そういう演出を受けたのかとも思ったけど、女である君が女優を演じるなら、そんな回りくどいことをする必要はない。女優には、男から見た女の理想や怨嗟みたいなものが露骨に透けて見えていたから」
「演出家自身の演技を参考にして演じたので、そうなってしまっただけなのかも」
「過去映像も同じだったよ。君が演じる女は、どれも女らしくない。寒気がするほど美しい女のような何かを演じる男だった」
それがユニヴェールのアルジャンヌなのだ。ただの女ではない。ただただ美しい、見る者を魅了し、惹き付けて離さない、男が演じる女。
「男子校に通っていたくらいだから、在籍していた三年間は男として振舞っていたんだろうと仮定すると、全部の辻褄が合う。君は学校を卒業した今も、体から男が抜けきっていない。だから、君自身からも過度な女を感じない。君はどこまでも中性的で、見る者の主観によっては、男にも女にも見えるんだ」
「あなたが初めて私を見たときは、男だと思いましたか? それとも……」
「正直、よく分からなかった」アランは希佐を横目に見ると、小さく肩をすくめた。「より正確に言うと、考えることもしなかった。あのときは君の才能にばかり目が行っていて、性別そのものに興味がなかったから」
帰り道、アランに先導されながら歩く道は、いつも希佐が使っている道とは違っていた。薄暗い道を進まずに済むよう、街灯の立っている明るい道を選んでくれているのが分かる。
「それで、君の質問に対する答えだけど」
どうして希佐が演じる役を、女性から男性に書きかえたのか――希佐はその横顔を見上げながら、答えを待った。
「君が女を演じたら失敗すると思ったから」
「……失敗?」
「男が女を演じることが前提の歌劇の世界でなら構わないけど、俺の舞台は違う。男が女を演じるにせよ、女が男を演じるにせよ、その性別の登場人物として舞台に立ってもらわなければ困るからだ。だから、君には俺が求める女を演じることはできないだろうと判断した。その代わり、君は完璧な男を演じることができるから、脚本を書きかえた。これで答えになっているか?」
「でも、それならノアは……」
「もちろん、あいつにも完璧な女になってもらう」
「大丈夫なんですか? 本人はずっと悩んでいるみたいですけど」
「ノアなら大丈夫だよ」
ノアは十分に可愛らしい容姿をした男性だが、女性を演じるための所作は何一つ身につけていない。下手に口出しをするのも良くないと思い、アドバイスを求められたら口を出す程度で、希佐からは何一つ助言をすることはなかった。そもそも、希佐が知っているのは、ユニヴェールのジャンヌの演じ方であって、完璧な女の演じ方ではないのだ。
「さっきは失敗すると思ったって言い方をしたけど」スタジオが近づいてきたところで、少しの間黙っていたアランが、また声をかけてくる。「次の公演が失敗に終わったとしても、それはそれで構わないと俺は思ってる。多分、君は一度や二度の失敗じゃ折れたりはしないだろうし。それに、演じ方を無理に矯正する必要もないんだ。訛りと同じで、それも一つの個性であり、教養だから」
「……優しいんですね、あなたは」
「俺が?」
「劇団のみんなのこと、私のこと、信頼してくれているのが伝わってきます。今だって、自分が何か酷いことを言ってしまったんじゃないかって気にして、私を励まそうとしてくれているんですよね」
「俺は言葉が足りないらしいからな。必死に言葉をかき集めて、それらしいことを言っているだけだ」
大丈夫、ちゃんと伝わっていますよ、とは口にしなかった。
希佐の思いが透けて見えているのだとしたら、そう思っていることは、しっかりと伝わっているのだろう。そう思って隣を見ると、こちらを見ていたアランと視線がぶつかるのが分かる。
「私の顔に何か?」
「あ、いや……」アランは頭を掻きながら、僅かに顔を伏せた。「君の過去を暴くような真似をして、悪かった」
「ああ、いいんです。隠すつもりだったら最初から日本の歌劇学校に通っていたなんて言いませんから。名前を調べられたら、すぐにバレるだろうなとは思っていました。それに、これ以上嘘を重ね続けたら、もっと生きづらくなっていたと思います」
「嘘?」
「たくさんの嘘を吐いてきたんです。ユニヴェールでの三年間、私は自分を嘘で塗り固めて、そんな自分を正当化して生きてきました。自分の夢を叶えるために。だから、嘘を吐かずに本当のことを話せるこの状況に、少しだけほっとしています」
ほっとしていることは事実だった。嘘を吐かずに済むこの状況下にはストレスがないからだ。
だが同時に、自らの過去の過ちを平気な顔で話している自分自身に、酷い罪深さも覚えていた。置き去りにしてきた過去は、まだ確かにそこにあって、何一つ清算されてはいない。消えてなくなったわけではないのだから。
嘘を吐かずに本当のことを話せるこの状況に、少しだけほっとしています――昨日の自分なら、その言葉を素直に信じていたかもしれないと、アランは思う。
仕事に行ってきます、と言う希佐が事務室を通りかかったのは、午後二時半を回った頃だった。パソコンの前に座って原稿を打ち込んでいたアランは、そちらに顔を向けもせずに返事をする。
つい二日前にはあんなことがあったというのに、当人は至って平然とした顔をして、仕事に出かけていった。そういう態度で出られては、こちらも過剰に気を使うわけにはいかない。
アランはいつもの調子を崩すことなく希佐を送り出してから、三行ほど打ち込んでいた文章を範囲指定し、一気に削除した。
あの日の自らの失態を思い起こしては、自己嫌悪に陥っていた。昼間と夜、どちらもだ。そもそも、自分と同じ男にあんな目に遭わされたばかりの女を、この腕で抱き締めること自体がどうかしているし、それをした自分自身の行動にも動揺していた。
あんなことをするつもりはなかったのだ。あんなことを口にするつもりもなかった。一体何をとち狂っていたのだろう。ただでさえ傷を負っている心に、更なる大きな負担をかけたという事実が、アランの羞恥心をますます煽っていた。
原稿が進まない。紙の上に書き殴られた文字を睨み、ノートを閉じた。
しかし、息抜きをしてこようと椅子から腰を上げかけたとき、背後でドアがノックされた。
「やあ、ラファ」
「その名前で呼ぶのはやめてくれって言ってるだろ、ロバート」
唐突に現れた義兄の姿にげんなりとして見せたアランは、上げかけた腰を椅子に戻す。ディスプレイの電源だけを落とすと、むしゃくしゃして頭を掻いた。
ロバートは苦笑いを浮かべながら傍らまでやってくると、手にしていた紙袋を机の上に置く。微かに甘い香りが立ち上っていた。
「ミゲルと一緒にマフィンを焼いたんだ。彼が君とキサに食べてほしいと」
「ああ」
「ラファエル」
「アランだ」
自分の方を見ようともしない義弟をたしなめるようにその名を呼ぶが、自らの本当の名前を呼ばれれば呼ばれるほど、アランの気は尖っていった。
アランとロバートは実の兄弟ではない。アランが、ロバートの両親に引き取られてきたのだ。罪もない哀れな子供を救えば、天国へのチケットを手に入れられると信じていたらしい。神の存在など子供の頃から信じていなかったアランは、牧師の家に貰われたことが苦痛で堪らなかった。いかにもクリスチャンというラファエルという名前も、酷く憎らしかった。
「キサの様子はどうだい?」
「いつも通り仕事に出かけていったよ」
「そうか」慈悲深い牧師様は思慮深い表情を浮かべ、嘆かわしいとばかりに頭を振った。「でも、しばらくは落ち着かないだろうから、君が十分に気遣ってあげるんだよ」
「分かってる」
「それから――」
まだ何かあるのか、とアランは思った。それが顔に出ていたのか、ロバートが一瞬言いよどむのが分かる。しかし、小さく咳払いをすると、思い直したように話し出した。
「これを君に見せるべきかどうかずっと悩んでいた」
これ、と言って、ロバートは自らのスマホを差し出してきた。もう何年も前から使っている、古い型のものだ。その行動の意図が掴めず眉を顰めると、ロバートはスマホで動画を再生させた。僅かにぼけた画面の中には、裏の教会が映っている。微かにピアノの音が聞こえていた。
「これがどうかしたのか?」
「キサが教会に迷い込んできた日の動画だよ」ロバートはそう言うと、スマホの画面を落とした。「ミゲルがピアノの練習をしている様子を撮影していたんだ」
断じて盗撮をしたわけではないというように、取って付けたような言い訳をする。いや、言い訳ではなく、事実なのだろう。
「ラファ――いや、君の劇団に入ってから随分元気になったようだから、このまま見せる必要はないと思っていたんだけどね。でも、先日のこともあるし、どうにも気になって」
「ミゲルの伴奏に合わせて歌ってる動画が?」
「私はね、アラン。彼女があの日、あの教会に来たのは、神の思し召しだと思っている。ああ、もちろん、君がそういう顔をするだろうということは分かっていたよ。でも、本当にそう思っているんだ」
「ロバートにとっては何もかもが神の思し召しだろ」
「とにかく、君も聞いた方がいいと思ったんだよ。讃美歌は嫌いだろうけれどね」
データを送るからと言って、ロバートはスマホの操作をはじめた。そのデータがパソコンに届いたことをアランに確認させると、ようやく事務室を出て行く。
今更何を聞かせるつもりだと思うが、希佐が教会に現れたときの話を真面目に聞いていなかったのは、他ならぬアラン自身だった。もしあのとき、もう少し真摯に話を聞いていたら、この歌をもっと早くに聞くことができていたはずだ。
大して容量の大きくない圧縮されたデータは、すぐに解凍された。アランはヘッドホンを被り、すぐに動画を再生する。
スマホは教会の入り口付近に置かれていたようだ。ミゲルがピアノを弾く姿が、小さく映っている。息子の練習風景を撮影したいなら、もっと近くで取ってやれと思いながら、アランは不揃いなピアノの音色に耳を傾けていた。
この義兄には似ても似つかない義理の甥のことは、嫌いではなかった。何かと懐いてくるので、誕生日やクリスマスにはプレゼントを贈るし、極稀に食事も一緒にする。もしかしたらミゲルは、自分とアランに血の繋がりがないことを、まだ知らないのかもしれない。
「……」
しばらく下手くそなアメイジング・グレイスを聞いていると、カメラにふらふらと歩いている後ろ姿が映り込んだ。希佐だとすぐに分かる。まるで何かに招かれているかのような足取りで中央の通路を進んでいくと、すとん、と落ちるように椅子に座り込んだ。
ほんの微かに歌声が聞こえたような気がして、アランは慌てて動画を巻き戻した。ボリュームを上げ、耳をそばだてる。希佐が歌い出すと、驚いたように振り返ったミゲルがピアノを弾く手をとめた。教会の静寂の中に、その歌声だけが聞こえていた。
希佐は涙が滲んだような震え声で、アメイジング・グレイスを歌っていた。
お世辞にも上手いとは言えない、酷い歌だった。それなのに、その歌に耳を傾けていると、心がじくじくと膿むような痛みを覚える。神に祈るなどという神聖なものではなく、悔恨の情に苛まれて深く懺悔をするような、自分は許されたいのだと懇願するような、心を抉られるような歌だった。
アランはその歌を聞き続けることができず、衝動のままにヘッドホンを外した。
「あー、クソ……」
誰にともなく悪態を吐く。額に手を当て、項垂れる。ヘッドホンから微かな声が漏れ聞こえてきていた。あまりに切実で、純粋で、水晶のように透き通った声が、耳に届く。
これだけの思いを抱えて生きているのか。それでも、平然とした顔をして笑っているのか。誰にも弱音を吐かず、吐くことができずに、この深淵よりも深い闇のような感情を、自分の心に押し込めているのか。これは自分の苦しみで、これは自分が背負うもので、これは自分が負うべき贖罪だとでもいうふうに。
音のない画面に目を向ける。いや、音がなくても分かることだった。希佐は教会の天井を仰ぎ、泣いていた。たださめざめと。伝う涙を拭うことも、手で顔を覆うこともせずに、泣いていた。
その日はもう何も手につかなかった。ただ、立花希佐の歌だけが、アランの思考を支配していた。食らってしまったのだ。染められてしまった。何を考えていても思考が上書きされて、歌に押し流されていく。
気が付けば時間だけが過ぎていた。歌は少しだけ遠退いていたが、その間も、ただ延々と希佐のことばかり考えていた。なぜだか無性に会いたくなって、声が聞きたいと思う。
時刻は真夜中を過ぎていた。席を立ち、上着を手に取って、歩き出す。
パブの近くに立っている古びた街灯に寄りかかって、ずっと考えていた。どうすれば希佐を、その暗闇の中から救い出してやれるのか。
今思えば、出会った当初から闇は感じていた。自分が書いた脚本の中に、すべての答えがある。救いを求めている希佐の思いを解き放つには、すべての感情を舞台上で昇華するしかないのだということは、ずっと前から分かっていた。
もしかしたらそれは、アランの自分勝手なエゴなのかもしれない。そうすることで何かを得たいのは、自分の方なのかもしれない。救ってやりたいなどという思いは、おこがましいものなのだろう。
でも、出会ってしまった。立花希佐という存在を知ってしまった。
ゆくりなく、自分がその役者の礎となって、そこから広い世界へと羽ばたかせてやることができるのではないか。少なくとも、そのほんの足掛かりになることができたなら、それはそれで幸福なのではないか。いずれ飛び立つ鳥なのだとしても、ほんの少し羽を休めることのできる止まり木くらいには、なってやれるのではないか。
「……なんだよ、これ」
アランの口から乾いた笑いが漏れる。
仕事を終えてパブから出てきた希佐の姿を見て、大きく息を吐いた。
希佐がこちらを見て、あっ、と小さく声をあげる。
街灯に寄りかかっていた体を起こして、アランは歩き出した。役者だった頃を思い出して感情を押し殺してみるが、果たして上手くいくのだろうか。