ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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 雨が降っている。

 ロンドンは一日の中に四季があるとはよく言うが、本当にその通りだと希佐は思った。ほんの数分前まではよく晴れていたのに、空はあっという間に翳り、大粒の雨をこぼしはじめる。長袖一枚では肌寒くて、ジャージの上着を羽織った。

 公演まではもう一ヶ月を切っていた。それなのに、希佐はこの公演を行う上で最も重大な問題に直面し、もうずっと頭を悩ませている。

 希佐は本当の意味で耳が聞こえないということを理解していなかった。漠然と音がない世界だと想像することはできても、実際はそう単純なことではないはずだ。

 アランがなぜ主役の青年から聴覚を奪ったのか、相手役の女の子から視覚を奪ったのか、考えてみたことはもちろんある。だが、確かな答えを出せたことはない。脚本家に問うのは容易いが、こういうものは自分の頭で考えた方が良いということを、希佐は己の経験上知っていた。

 耳が聞こえない青年。目が見えない女の子。そんな二人がある日突然出会い、互いに寄り添い合い、補い合うようになっていく。君は僕の耳に、あなたは私の目に、というふうに。

 でも、二人はコミュニケーションを取れているようで、実際はあまり取れていない。そうすることを心掛けないかぎり、常に一方通行だ。

 青年には女の子の姿が見えていても、その唇が紡ぐ言葉を聞くことができない。女の子は暗闇の中に生きていて、青年からの呼びかけがなければ、その存在を認知することができない。

 二人は似ているようで、実はちぐはぐだ。

 そして、偶然の出会いを運命だと思い込んでいる。でも、どういうわけかお互いに嚙み合わないことは心のどこかで感じ取っていて、違和感を覚えている。

 好きという気持ちですべてを解決しようとしているのは若さのせいなのだろう。お互いに好き合ってさえいれば、どんな障害も乗り越えていけると信じている。二人はまだ知らないのだ。世界はもっと理不尽で、融通が利かず、残酷だということを。

 耳が聞こえない人の気持ちを知りたくて、耳に栓を入れて生活をしてみたこともあった。でも、どうしても音が漏れ聞こえてきてしまい、集中することができない。手話の先生は親身になって相談に乗ってくれるが、言葉では理解することができても、それは分かったつもりになっているだけで、希佐自身が役を理解するまでには至らなかった。

 耳の聞こえない青年役を演じさせることで、演じる人間の欠けている部分を自覚させたいのではないか、そう思ったのは今朝のことだった。寝返りを打つたびにギシギシとなる古いベッドの上で、ごろごろとしながらぼんやりとしているときに、ふと思ったのだ。

 だが、最初に渡された脚本でも、主役だった女性は耳が聞こえないという設定だった。それが男性に書きかえられ、物語の内容も大幅に改変された。元々あった歌唱に加え、多くのダンスシーンが追加された。もはやまったく別の物語になっている。ただ一つ、主役の耳が聞こえないという設定だけが、変更されることなく引き継がれていた。

「……私の問題、じゃないのかな」

 前に、根地黒門の脚本を読み込んでいた幼馴染が言っていた。根地先輩の脚本には水に関係する描写が多い、と。お気に入りのモチーフなのかなと言っていたが、そうではない。希佐は知っている。あれは心の奥底に根付いたトラウマが、意識的にしろ、無意識的にしろ、表に出てきてしまっている結果だった。

 自らの思考の行き着く先にはあの海があると根地黒門は考えているようだった。希佐はそこへ深く踏み込むことを避けた。女という存在が自らの才能を殺すと信じている根地とは、一定の距離を置こうと決意した。あの作業部屋へ足を運ぶ数も、少しずつ減らしていった。

 もしかしたら、脚本を書いたアラン自身にも、そうしたトラウマがあるのではないだろうか。耳が聞こえないという、言葉を選ばずに言うことが許されるのなら、何かが致命的に欠けているというようなことが、脚本家自身にあるのではないかと、希佐は考えた。

 耳が聞こえない。それは日常生活を送るにあたってあまりに不便だ。だが、あえて耳が聞こえないことを選んでいるのだとしたら、どうだろう。耳をふさいでいたいのだとしたら。この世界のすべての音を遮断してまで、聞こえなくなることを望んでいるのだとしたら。

「……」

 アランは常に顔を隠している。分厚い前髪で目元まで覆い隠し、自らの顔を見られまいとしている。一体いつからそうしているのだろう。子供の頃からなのだろうか。それとも、ある程度大人になってから……?

 メレディスからアランが劇団に所属していた頃の話を少しだけ聞いたことがある。アランは可愛らしい少年だった、そう言っていた。それは、子供の頃から子役として舞台の上に立っていたということだろう。

『アランは才能ある役者だったけれど、役者としての芽は出なかった。なにより、本人にその意思がなかった。彼は役者をやっているときから、自分は裏方仕事の方が好きだと話していたよ。脚本を書いたり、演出をしたりね。今では作詞から作曲まで、なんでもする』

 メレディスが役者を辞めると同時に、アランも舞台を降りた。もしかしたら、アランをかろうじて舞台に繋ぎとめていたのは、メレディスという存在だったのではないか。メレディスなら、何か詳しいことを知っているのかもしれない。

 だが、これは安易に踏み込んでいい問題なのだろうかと希佐は思った。これは、根地黒門で言うところの、あの海に該当するのではないかと思うと、尻込みをしてしまう。それに、アランは詮索されることを嫌うだろう。自分のことはあまり話したがらない人だから。

 希佐は昨日初めて、明日はお休みをもらってもいいですか、とメレディスに申し出た。メレディスは少しだけ驚いた顔をしたが、理由も聞かずに「いいよ」と了承してくれた。開店前の清掃中に、ぼうっと考え事をしている希佐の姿を見ていたのかもしれない。

 公演の日が迫っている。歌も、ダンスも、まだやらなければいけないことが山積みだ。役の掘り下げもまだまだ不十分で、何もかもが納得のできる仕上がりにはなっていない。

 合同稽古がない日のスタジオは、ひっそりと静まり返っている。ざあざあと降る雨の音が、どこか遠くに聞こえていた。

 耳が聞こえない人には、この少し物悲しさを覚える、心地の良い音色を聞くことができないのか。残念だなと思う反面、僅かな興味が湧く。耳が聞こえなくなった青年は、雨に何を思うのだろう。彼らは、雨をどのように感じるのだろう。

 じっとりとする肌、湿った空気、地を打つ雨水、跳ね返る水滴。

 音のない世界に降る雨とは、どんなものなのだろう。それは美しいものなのではないか。まるで、往年のサイレント映画のように。

 のろのろと扉の所まで歩いていった希佐は、それを開くと、土砂降りとまではいかない雨空を見上げた。曇天の空がどこまでも続いている。雨水が銀糸のように伸びて、空から落ちてくる。足元に目を向けると、石畳の地面に跳ね返った雨水が細かく弾けて、希佐の靴やジャージを濡らしていた。水溜りには無数の波紋が現れては消えていく。

 軒下から手を伸ばし、雨に触れてみる。

 雨に触れる、そう言うだけで詩的に聞こえるから不思議だ。

 手の甲を打つ雨と、手の平で受け止める雨の感覚は違っていた。後者の方がより強く雨を感じられるようだ。雨粒が爪に乗る。ぷっくりと盛り上がった水滴が、指先を伝って落ちていく。指先から滴った雨が、大きな水溜りに落ちて、他の雨粒と同じように、水紋を広げた。

 水を吸ったジャージの袖が重たくなってきた。素材が肌に張り付いて、少し気持ちが悪い。

 もっと、体全体で雨を浴びたら、どういう気持ちになるのだろう。爽快感を覚えるのだろうか。それとも、不快感が勝るのだろうか。

 好奇心と探求心が希佐の心の中で踊る。

 足を一歩、前に踏み出しただけだ。たったそれだけで、世界が変わった。

 シューズを脱いで、水溜りに足を浸してみる。思っていたよりも冷たくはない。

 桜色の髪をくぐり抜けた雨粒を頭皮に感じた。肌を伝い、流れ落ちてくる。その感覚に、背筋から首筋の辺りがぞくぞくとして、希佐は小さく身震いをした。着ていたジャージが雨水を吸って、少しだけ色を濃くしていた。

 希佐は両腕を持ち上げると、手の平で耳に蓋をした。

 寸前まではうるさいほどだった雨音が突然遠くのものになった。全身に降り注いでくる雨粒に全神経を集中させ、希佐は何も聞くまいとする。この体を打つ雨の一粒一粒を感じるだけでよかった。他の感覚の一切を遮断し、それを感じるだけでいい。

 息を大きく吸い込み、肺を空気で満たす。それをゆっくりと吐き出しながら、希佐はただ見ていた。雨が落ちていく様を。それが水溜りに波紋を広げていく様を。石畳の地面に衝突し、弾けて、消える様を。

 そしてある瞬間、世界が静寂に包まれる。両耳をふさいでいた手の平をそっと離し、空を仰ぐ。細めた目に映るのは分厚い曇天と、銀糸のような雨。どこかの国から人々を運んできた飛行機は音もなく飛ぶ。濡れたアパートの屋根では、弾けた雨粒が踊るように舞っていた。

 希佐は今、自分の息遣いと心臓の鼓動だけを感じている。そしてどういうわけか、ただ強く、生きているのだということを実感していた。頭の天辺から、足の爪先まで、血潮が巡っているのを感じる。

 しかし、その感覚は、ほんの一瞬のものだった。

 とん、と肩を叩かれて我に返る。ゆっくりとそちらを見ると、目を丸くしているイライアスと視線がぶつかった。イライアスは咄嗟に自分の青い傘を差し向けてくる。

「何をしているの?」唖然とした面持ちのままイライアスが言った。「風邪を引くよ」

「……今、耳が」

「え?」

「耳が、聞こえなくなって」

 いや、それはきっと錯覚だったのだろう。今は間違いなく、うるさいくらいに周囲の音が聞こえている。頭上で傘を打ち付ける、ぽつ、ぽつ、という雨音が、耳に届いている。

 イライアスは希佐に傘を持たせると、ここで待ってて、と言ってスタジオに入っていった。希佐は言われるがままに待っている。今更傘を差したところで何の意味もないと思いながら、ぽつ、ぽつ、という音に耳を傾けていた。

 イライアスに言われて来たのだろう、アランはずぶ濡れになっている希佐を見ると、文字通り絶句していた。言葉もないとばかりに険しい表情を浮かべ、説明をしろと睨まれているのが分かる。

「……ええと、これは、役作りのためというか」

「役作り」

「耳の聞こえない人はどうやって雨を感じるのか、気になって」

 希佐がそう言うと、アランは一瞬何かを言いかけるが、そこに何枚かのバスタオルを抱えたイライアスが現れると、口を噤んだ。

「持ってきました」

「そこの馬鹿に渡してやって」

「はい、どうぞ」

 イライアスは希佐を軒下に入れると、バスタオルを頭から被せてくれた。パイル地の先に鼻をくすぐられてくしゃみをすると、アランの機嫌がますます悪くなるような気配を察知し、希佐は慌ててタオルに身を包む。

「早くシャワーを浴びておいで」イライアスのやわらかい口調が言う。「よく温まるんだよ」

「うん、ありがとう」

 爪先で歩くようにしてスタジオを横切り、辺りを濡らさないように気をつけながら事務室を抜けた希佐は、そのままぺたぺたと階段を上がった。二階はキッチンとバスルームが共用で、部屋が四つに分かれている。そのうち二つは物置になっていて、残りの二つを希佐とアランが使っていた。洗濯機はなく、その都度コインランドリーに出かけている。

 イライアスに言われた通りそのままバスルームに直行した希佐は、もこもこと立ち上っている湯気を見て笑った。バスタオルを取りに来てくれたときに、バスタブに湯を張る準備もしてくれていたようだ。希佐はその場で濡れた衣服と下着を脱ぎ捨てると、バスタブに入り、カーテンを閉めた。蛇口をひねり、シャワーの温度を確かめる。あまり熱くはないはずなのに、体が冷え切っているからだろう、火傷をしそうなほどの熱を感じた。

 温かい湯を浴びていると、先程とはまた別の、生きているという感情が沸き立ってきた。

 だが、少しだけ惜しいことをしたとも思っている。あともう一歩で何かを掴めそうな気がしたのだ。もう少し時間があれば、欲しかったものが手に入ったような気がする。

 希佐は確かにあの瞬間、世界から音がなくなるという経験をした。それが、ほんの一瞬だったとしても。

 たっぷり溜まった湯に体を浸し、膝を抱えるようにして丸くなる。芯まで冷えていた体が、少しずつ温まっていく。頬がぽかぽかと上気して、少し眠たくなってくるくらいだ。前のアパートには湯舟がなく、ここへ来てからもシャワーで済ませることがほとんどだったので、こうして風呂に浸かるのは久しぶりのことだった。

「……結構伸びてきたな」

 希佐は自分の前髪を指先でつまみながら独り言ちた。

 ユニヴェールにいた頃は、よく更文に切ってもらっていた。こちらに来てからは、自分で適当に切っている。

 猫足の湯船から出て、栓を抜く。バスタオルで体を覆ってから、すっかり重たくなっているジャージの水気を絞った。外に誰もいないことを確認してから自分の部屋に駆け込み、洗濯物をごみ袋に放り込む。大急ぎで洗濯済みの練習着に着替えると、濡れた髪をタオルドライだけで済ませ、下の階に降りていった。

 スタジオにはアランとイライアスの姿があった。イライアスはストレッチをしながら、近くに立っているアランと何かを話している。邪魔をするのは申し訳ないと思い、敷いたままにしていた自分のマットの方へ行こうとすると、おい、と声をかけられた。

「ちゃんと温まってきたのか」

「はい、おかげさまで」

「髪」

「え、ああ、すぐに乾くので」

 大丈夫です、と言いながら、希佐はマットの上に腰を下ろした。傍らにシューズが置いてある。アランかイライアスが持ってきてくれたようだ。

 希佐は先ほどの感覚を呼び戻したくて、ストレッチをしながら外の雨音に耳を傾けようとした。しかし、どうやら雨は既にやんでしまった後らしく、窓の外からは僅かに日が差し込みはじめている。

「キサ」

「うん?」

「あとでアイリーンが来るよ。歌を見てくれるって」

「本当? よかった、聞きたいことがあったんだ」

 あの一件があって以来、アイリーンは希佐にも他の人たちと同じように接してくれるようになった。怖い思いはしたが、悪いことばかりではなかったと考え、あのときのことはあまり振り返らないようにしている。だが、あれからは一度もチップを受け取らず、すべて断るようにしていた。

「ねえ」ルーティンのバーレッスンを終えてから、イライアスが声をかけてきた。「アランが心配していたよ」

「え? 何の話?」

「外で雨に当たっていたから」

「ああ、うん」

「僕も心配してる」

 イライアスの言葉は相変わらずまっすぐだ。希佐が苦笑いを浮かべると、すぐ近くまでやって来て、隣にしゃがみ込んだ。

「なんであんなことをしていたの?」

「知りたくて。自分が演じる役柄のこと。まだ彼のことを分かってあげられていないから」

「ふうん」

「イライアスはどう?」

「僕は感情を表すのが苦手だから、なかなか上手く演じられない。役柄のことを考える以前の問題だって言われてる」

「アランから?」

「そう」

 あれだけ情熱的に踊れる人が、どうして感情を表現することが苦手なのか、希佐はずっと不思議に思っていた。アランから何かを指摘されるたびに少し困った顔をしているのを見ると、自分なりに演じてみてはいるが、それが上手くいっていないということなのだろう。

「イライアスは怒ったりすることあるの?」

「疲れるだけだから」

「大声をあげて笑ったりは?」

「しない」

「どうして?」

「……どうして?」イライアスは不思議そうに希佐の言葉を繰り返した。「希佐は大声をあげて笑ったりするの?」

 そんな姿は見たことがないというふうに眉を顰めるイライアスを見て、言われてみれば、日本を出てからは一度だってそんな経験をしてこなかったことを、希佐は今更のように自覚した。

「今、笑える?」

「希佐は?」

 うーん、と考えてから、やってみるね、と言って希佐は黙った。

 笑うという芝居は実際難しい。最近は希佐自身も声をあげて笑うことがなかったので、余計にそう感じるのかもしれない。笑うことよりも、怒りや泣くといった表現の方が、ずっと容易いのだ。

 ふう、と息を吐き出す。心の準備をする。自分は笑えると言い聞かせ、大きく息を吸った。

 あは、はっはっ、はっ――と、まるで腹が捩れるように、マットの上で転がるようにして笑い出した希佐を、イライアスはびっくりしたように見ていた。誰かに脇腹をくすぐられ、条件反射で笑ってしまったような演技に、目を白黒とさせている。

 それは、たった今スタジオに入ってきたアイリーンも同じだった。

「えっ、何? どうしたの?」

 それが演技だとは思わなかったのだろう、イライアスを前に身を悶えるように笑っている希佐を見て、アイリーンはぎょっとした顔をする。

「やだ、イライアスがそんなに笑えるジョークを言える子だったなんて……私、知らなかった……」

「僕、ジョークなんて言ってないよ」

 イライアスはアイリーンの反応を見て、僅かに不服そうな顔をしている。

 その様子を見ながら、希佐は息苦しさで滲んだ涙を拭い、笑いを収めた。転がっていた体を起こし、アイリーンを見上げる。

「イライアスに笑う演技を見せていたんです」

「なんだ、そうだったの。残念」それにしてもと言いながら、アイリーンは上着を脱いでいる。「キサ、あなたあんなに大きな声が出せたのね」

「え、どうして?」

「だって、あなたは普段から物静かな感じでしょう? 演技をしているときは別として」

 物静かだと言われれば、その通りなのだろう。公演後の打ち上げなどではいつも隅に座り、楽しんでいる仲間たちの様子を嬉しく思いながら眺めていた。何の抵抗もなく感情を出し切ることができたのは、いつだって演技をしているときか、舞台の上に立っているときだけだった。

「私たち幼馴染だけれど、イライアスがそんなふうに笑ったところなんて一度も見たことがないわよ。でも、今回の公演の演技で求められているわけではないんでしょう?」

 そんなことよりも歌の課題はやってきたのかというアイリーンに向かって、希佐は頷いた。

 この劇団に不真面目な人はいなかった。当初は本気で舞台に取り組んでいるのかと疑問に思うこともあったが、誰もが本気だった。本気で、自身の得意分野と向き合っていた。

 その最たる人物が、イライアスだ。尚、ダンス以外のことはポンコツと言っても過言ではない。それは劇団員の全員が認めるところだった。

 バージルは「あいつはそこら辺で躍らせときゃいいんだよ」と言って常に諦め顔だ。ノアとジェレマイアは何とかマシな仕上がりにしようと、付きっきりで演技指導をしていることもあったが、上手くいっていない。アイリーンに至っては「別にいいじゃない、イライアスらしくて」と言い、遠い目をしてすべてを投げ出していた。

 いつもはどうしていたのだと希佐が問うと、最終的にはイライアスの台詞が一言、二言にまで減り、ダンスで会場を沸かせるという流れに落ち着くのだと教えてくれた。

 イライアスには絶対にできるはずだと希佐は思うのだが、どのような方法で演技を引き出してやればいいのかが、今はまだ分からない。だが、一つの分野に特化している表現者は、絶対にある瞬間、化けるのだ。

 みっしりとした歌の稽古の後、ふんふん、と微かに満足げな表情を浮かばせたアイリーンは、今夜もステージがあるから、と言ってスタジオから去っていった。颯爽と現れ、稽古を施し、颯爽と帰っていく。あまりにもデキる女という感じがして、密かに憧れていた。

「あー、疲れたぁー」そう言って次にやってきたのは、若干やつれたように見えるノアだった。「課題、課題、課題――どこに行っても課題ばっかり!」

 大学と劇団の両立は大変そうだった。それでも必ず合同稽古には顔を出すのだから偉いと思う。どれだけ疲れていても週に三日はスタジオに足を運び、稽古を行う姿を希佐はいつも見ていた。

「この後ジェレマイアとバージルも来るって。今どっかのバーで飲んでるらしいから、酔っぱらってるだろうけど」

「……酔っぱらっている人にタップダンスを踊らせるのはマズいよね?」

「別にいいんじゃない? それにあの人、酔っぱらってる方がキレがいいから、カッコイイのが見られるかもしれないよ」

 実際、その通りのことが起こった。

 程よく酔った状態で現れたバージルとジェレマイアは、冷やかしのためにスタジオに寄ったようだ。しかし、希佐とノアがこれでもかというほど煽ててやると、気を良くした二人は壮絶なタップダンスとアクロバットを見せてくれた。ノアはからからと笑いながら動画を回している。希佐はといえば、バージルの足技を盗もうと、その足元を必死になって凝視していた。

 だが、その余興も長くは続かなかった。あまりの騒々しさに事務室で仕事をしていたアランが出てきて、二人の頭を殴り、追い出してしまったからだ。いつもはすっかり下ろしている髪を、今は後ろに撫でつけて一つにまとめていた。露わになっていた顔には、鬼のような形相が張り付いている。美人が凄むと恐ろしいというのは、どうやら本当らしい。

「わあ、珍しいじゃん、アラン。ちょっとこっち見て――あ、ごめん、嘘、嘘だよ、怒らないで」

「稽古する気のないやつはさっさと帰れ。うるさい。仕事の邪魔」

「あー、はいはい、帰るよ、帰るってば!」首根っこを掴まれそうになったノアは、慌てて荷物を引っ掴むと、希佐とイライアスに向かって手を振った。「じゃあね、二人とも」

「お疲れさま、気をつけて帰ってね」

「キサとイライアスもほどほどにね」

 アイリーンとは違い、嵐のように現れ、嵐のように去っていった三人を、アランは心なしかぐったりとした様子で見送っていた。それから希佐とイライアスに目を向けると、呆れたように見てくる。

「君たちもそろそろ終わりにしておけよ。食事も取らないで何時間稽古してると思ってるんだ」

「でも、空腹の方が――」

「今日はもう終わりだ。クールダウンが済んだら帰れ。キサ、君も今日は終わりにしろ」

「はい」

 イライアスはもう少し踊りたいという顔をしてはいたが、アランに言われた通りクールダウンに移行した。一緒にやってもいいかと問うと、うん、という返事がある。イライアスのクールダウンはいつも十分以上の時間をかけてじっくりと行われるが、そのときですら手足の先まで美しく、思わず見とれてしまうほどだった。

「キサ」スタジオの扉の前まで見送りに行くと、帰り際にイライアスが言った。「あまり無茶なことはしないで」

「え?」

「雨」

「ああ、そうか。うん、分かった。心配してくれてありがとう」

「じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 リュックサックを背負った背中が遠ざかっていく。希佐はその背中が見えなくなるまで見送ってから、スタジオの扉を閉め、しっかりと施錠をした。しつこいくらいに、何度も、何度も確認をする。それがまるで癖のようになっていた。

 ヨガマットを丸めて小脇に抱えた希佐は、スタジオの電気を消すと、明かりが漏れている事務室の方へ足を向けた。しかし、そこにアランの姿はない。首を傾げながら階段を上っていくと、キッチンに立っているすらりとした後ろ姿が目に飛び込んできた。

「座って」

「はい?」

「いいから、座って」

 こちらに背中を向けたままアランが言う。どうやらテーブルについて待て、ということらしい。

 今日は酷く機嫌が悪そうなので、逆らわない方が良さそうだと判断した希佐は、大人しく四人掛けのテーブルについた。ヨガマットは、自分の背中を椅子の背凭れの間に、横にして置く。

「あまり自分の体をいじめるようなことをしていると、体調を崩す。公演まではもう半月くらいしかないんだ。寝込んでいられるような状況でもないだろ」

「……返す言葉もありません」

「別に説教を垂れてるわけじゃない。気をつけろと言っているだけだ」

 希佐が黙って座っていると、間もなくして、アランが食事を給仕してくれた。目の前に置かれたスープ皿には、野菜がくたくたになるまで煮込まれたチキンスープが注がれていた。

「作ってくれたんですか?」返事はなかったが、それが答えなのだろう。「ありがとうございます」

「今日はもうそれを食べて寝ろ」

 そう言って立ち去ろうとする背中に向かって、希佐は声をかけようとした。でも、余計なことを言うとまた機嫌を損ねてしまいそうで、それが嫌で、口を閉じる。

 しかし、アランは階段を下りる手前で足を止めると、希佐を振り返った。

「役作りが上手くいかないのか」

「あ、はい」

 腕を組んで壁に寄り掛かったアランは、真剣な面差しを希佐に向けてくる。

「君は彼をどう演じたいんだ?」

「どう、ですか」希佐は少し迷ってから、昼間のうちに考えていたことを口にした。「あなたの思うように、演じたいです」

「前に言ったはずだよな。今度の公演では君自身のために舞台に立ってほしい。俺がどう演じてほしいかは――」

「私がそう演じたいと思ったんです」

「どうして」

「脚本からあなたの思いが透けて見えたから」希佐がそう言うと、緑色の目が僅かに細められた。「あなたは、私が自分自身と向き合えるように、過去を昇華して、私一人ででも前へ進んでいけるように、脚本を書きかえたと言ってくれました。でも、それはきっと、私のためだけじゃない」

「……どういう意味だ?」

「あなた自身にも昇華したい過去や思いがあるのではないかと、そう思ったんです」

 言っていてとてもつらい気持ちになるのは、アランの表情が苦痛そうに歪んでいるからだろうか。

「あなたはきっと舞台のことを憎からず思っていて、だからこそ、自分の理想を表現できる可能性のある才能を集めて、大切に育てているのだと思いました。でも同時に、舞台を忌み嫌う感情も持ち合わせている。あなたの過去に何があったのかは分かりません。だけど、何か苦痛に感じることがあったのだと思います。何か嫌なものを見たとか、聞いたとか、そういうことが」

 口に出す言葉の一つ一つを、今、後悔している。後悔しながら、話している。あの日の夜、この男も同じように、己の言葉を後悔しながら話していたのだろうかと、不意に思った。

「だから青年は耳が聞こえない。そうすれば、余計な言葉を聞かずに済むから。傷つかずに、済むから。女の子の目が見えないのも、同じ理由です。見たくないものを、見ずに済むように」

 なぜこのような詰問めいたことをしているのだろう。どうして今日に限ってその顔が見えているのか、その巡り合わせを呪いたくなる。顔なんか見えなければよかったのにと思いながら、希佐は先を続けることしかできない。

「あなたは舞台に立つことをやめた。自らの足で舞台を降りた。でも、舞台を離れることはできなかった。脚本家として、演出家として、関わり合う道を選んだ。それでも、舞台に向き合えば向き合うほど、過去が思い出されて……つらくてたまらなくなる……」

 ああ、これは一体誰のことを言っているのだろう。

 希佐の視界がじわりと滲んだ。下唇を噛み締める。もう嫌だと、手の平で顔を覆った。

「ごめんなさい、もう許して」

 酷いことを言っている。とてつもなく、酷いことを。一度は踏み込むことを避けた道を、分け入って、進んでいる。その人の心根に触れて、秘密を暴こうとしている。

 あのほんの一瞬、世界から音が消え去った瞬間、希佐はおそろしいことに、幸福を感じていた。すべての煩わしさが失われて、自由になれた気がした。自分だけしか存在していない、そういう世界に行けた気がして。

「……キサ」

 足音が近づいてくる。ぞっとするほど優しい声が、名前を呼ぶ。

 優しくしてもらえる資格なんて、ありはしないのに。

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