ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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夢やぶれて

 そこにいたのは、女、だった。

 ユニヴェールのジャンヌやアルジャンヌとは明らかに違う、どこからどのように見ても見紛うことのない『完璧な女』がそこにいる。無垢で純粋、穢れを知らない、可愛らしい少女。マジか、と声を上げたのは誰だったか。希佐はその姿を見つめ、目を逸らせなくなる。かわいい。素直にそう思った。希佐の中にいる青年が、そう思わせるのだろうか。

 ほんの数日前までは、確かに手探りという状態で、どこかぎこちない女を演じていたはずだ。それなのに、今日はまるで別人だった。劇的な変化をもたらす何かが、ノアの身に起こったのだろうか。それこそ、化けるくらいのことが。

「あの子、私たちが四年の時に入学してきて、演劇サークルに入ってきたのよ」医師を演じるジェレマイアを相手にしているノアを見やりながら、アイリーンが言った。「少し前に見た舞台があまりに衝撃的で、自分も挑戦してみたくなったんですって。もちろん、演技経験はゼロ。音楽もダンスも未経験で、それでも情熱だけでこの世界に飛び込んできた。周りにいるのはそれこそ子供の頃から舞台にのめり込んでいる猛者ばかりで、あの子の存在はまるで場違いだったわ」

 でもね、とアイリーンは言う。

「あの子、そんなことは全然気にしていなかった。ただただ楽しそうだったの。あの子に与えられる訳なんて、端役も端役、舞台にはそもそも必要のない役ばかりだったのよ」

「木とか雑草とか、置き去りにされた犬、とかですか?」

「なんだ、知っていたの?」

「前にノアから聞いたことがあって。でも、その話、本当だったんですね……」

 幼稚園生や小学生が劇で演じるならまだしも、大学のサークルで与えられる役としては、あまりに酷い。

「でも、ノアは与えられた役を全力で演じていた」イライアスはどこか嬉しそうに見える面持ちでノアを見ていた。「だから、アランに見つけてもらえたんだ」

「アランに?」

「彼、気紛れで稽古や公演を見にきてくれることがあったの。そのときは確か──」

「僕たちの最後の講演だった。因みに、ノアは花瓶に生けられた花の役だったよ」

「ええ……」

 若干引いてしまった希佐を、イライアスは横目に見る。

「その頃になると、次の公演ではノアにどんな役をやらせるか、みんなで話し合うようになってた。面白がっていたんだ。結構評判も良かったから」

「講演が終わってから、アランにどうだったって聞いたら、何も覚えていないって言うの。ずっと花瓶の花ばかり見ていたって」

 見ている人は見ていると、誰かが言った。華から器に姿を変えたとき、舞台の真ん中ではなく誰かの隣に立ち、たとえ自分は評価されずともその人を輝かせると覚悟を決めたとき、必ず見てくれている人はいるのだ、と。

「私たちが卒業したあとも、アランは公演に足を運んでいたわ。そしてある日、ノアを連れてきたの。新人だってね。あのサークルにはこの劇団に入りたがっている子が大勢いるから、なんでノアなんだってしばらくは荒れていたみたいよ。アランはアランで、もうサークルの公演は見に行っていないみたいだし」

 パブのフロアで接客をしていると、演劇をしている若い役者に声をかけられることがあった。その中の多くが、どうやってアランの劇団に入ったのか、という質問だった。希佐の場合は入ろうとして入ったのではなく、偶然に偶然が重なっただけだと告げると、ときには恨みがましそうな目を向けられることもあった。絶対に自分の方が実力は上だと絡んでくる者もいる。

 それほど、アラン・ジンデルという人間は、このウエスト・エンド界隈で注目されているということなのだろう。そして、その人物が主催する劇団に属している劇団員もまた、同じように意識されているのだろう。

「──ねえ、せんせい」少女独特の、弾むような声。希佐は不意に、オー・ラマ・ハヴェンナのルキオラを思い出した。「わたし、とっても素敵な人に出会ったのよ。ああ、あの声、今も耳について離れないの。一体どこのどなたなのかしら」

 それはまるでフギオーのことを熱心に語るルキオラのようで、今もまだ残っている希佐の中のチッチが、何か言いたげにひょっこりと顔を覗かせた。

 

 オーディションで踊るダンスは既に振り入れも終わり、ほぼほぼ仕上がっている。しかし、タップダンスはまだまだだ。一曲目の振り入れがなんとか終わったというだけで、二曲目にはまだほとんど触れていない。バージルはもっと簡単な振り付けに変えるべきだと主張したが、アランが頑として首を縦には振らなかった。希佐も同じ思いだ。ここまできたからには、最後の最後まで妥協したくはない。

「別に失敗したって構わない」

 アランはそう言っているが、希佐はこの公演を失敗に終わらせるつもりはなかった。アランの顔に、他の劇団員たちの顔に、泥を塗るわけにはいかないからだ。たとえ自分は去ることになっても、この劇団はこれからも存在し続ける。自分一人の失敗で劇団の評判は落とせない。

 アランからはそういうことを考えるなと言われているが、それは希佐にとって何よりも難しいことの一つだった。

 ユニヴェールでは常にクォーツを背負い、舞台に立っていた。時には舞台上で好き勝手に振る舞うこともあったが、それは仲間を信頼しているからこそできたことだ。きっと、この劇団ではまだ、そうした振る舞いは許されない。ずいぶん心を開いてくれているとは感じるが、共に過ごしてきた時間は、まだ二ヶ月そこそこだ。迷惑は、かけられない。

 

 

「あいつも君と同じで目がいいんだ」一緒に昼食のテーブルについているとき、アランが言った。「ただ、君ほど適応力も順応力も高くはない。どうしてもピントを合わせるのに時間がかかる。でも、一度ピントが合えば、あとはもう絶対にブレない。すごいやつだよ」

「ノアの才能には一目で気づいたんですか?」

「どんなに芝居や歌が他の連中より長けていても、人の目を惹きつける魅力がなければ、この世界では生き残っていけない。ダンスも同じだ。踊れるやつはごまんといる。ただ上手いだけじゃ意味がない。魅力的な人間がいれば、自然とそこに視線が集中するものだ。ノアは良い意味でも悪い意味でも視線を集めていた。嘲笑するやつもいたけど、俺は好きだった。光る原石だと思った」

「だから劇団に誘ったんですね」

「後進育成なんて柄じゃないんだけど。あのままあの場所に居続けたら、芽も出ずに終わっていただろうから」

 ノアは、そのまま終わらせてしまうには惜しいと感じるほどの逸材だったのだろう。

 希佐は自分も負けてはいられないと思う。みんながみんな、自分の役割を果たすために最善を尽くしているのだ。これまでもそうしてきたように、命をかけてでも立ち向かっていかなければ、同じ舞台に立ってはいけないような気がしている。

 でも──と、希佐は思う。考えないようにしていることが、ふと脳裏をよぎるのだ。主張をはじめる。公演日が近づくにつれて、少しずつ頭をもたげてくる。考えては、ダメだ。

 

 

 その日もパブは大賑わいだった。公演のこと、歌のこと、ダンスのこと、まだまだ問題は山積みだが、それを一時でも忘れられるほどの忙しさだった。各テーブルに軽食を運び、空いた皿やグラスを回収して回る。声を掛けてくる客と時々会話をし、着々と時間は過ぎていった。

 そして今日も、滞りなく一日を終えられるだろうと思っていた希佐の身に、思いもよらないことが起こった。サンドイッチとフィッシュ&チップスの注文を受け、キッチンスタッフから頼まれたそれを運んだ直後に、希佐はその隣のテーブルから声を掛けられる。呼ばれるがままに振り返ると、そこには40代から50代くらいの二人組の男性が座っていた。

「ご用でしょうか?」

 希佐が笑顔を貼り付けたままそう言うと、二人はほんの僅かに視線を送り合う。咄嗟に嫌な予感を覚えたが、もはやそれを回避する術はなかった。

「君が、アラン・ジンデルの劇団に新しく入ったという子かな?」

「はい、そうですが……」

 希佐の表情の中に滲む不審感を察知したのか、もう一方の男が快活に笑った。

「なに、我々は怪しい者ではない。私はこれでも少しばかり演劇をかじっていてね。アラン・ジンデルの大ファンなのさ」

 一見すると悪い人そうには見えないが、実際には底の知れない思慮深さのようなものを感じる人だ。希佐を見る目はもう一方の人物ほど不躾ではないにしても、興味本位な眼差しを向けられていては、気分が悪い。

「だが、今日はアランにではなく、君に会いに来たんだ」

「私に、ですか?」

「実は、演劇仲間に君がここで歌っている映像を見せられてね」

「それがあまりに素晴らしかったものだから、是非実際にお聞かせ願えればと思ったんだが……」

 男たちは何かを探るような目で希佐を見てくる。期待と確信の目だ。希佐をステージに立たせ、歌わせようとしている。しかし、希佐は笑顔を浮かべたまま、その表情に申し訳なさを添えた。

「私は当店のホールスタッフに過ぎません。本日、ステージの予定はございませんので──」

 希佐がそう言ってお茶を濁そうとしていると、それを周囲で聞いていた他の客たちが、口々に何かを囁き、噂している声が聞こえてくる。

「ねえ、あれ、舞台演出家の──」

「マクファーソン兄弟じゃない?」

「えっ、嘘。本物?」

 耳が良すぎるというのも考えものだ。仕事のために、フロアの至るところから上がっている声を聞き逃すまいとしている希佐の耳に、様々な言葉が飛び込んでくる。

 どうやらこの二人は舞台関係者で、しかもかなりの有名人のようだ。自らの勉強不足が弊害になっている。

 このまま断り続けることはできるが、あまり無下にしすぎてしまうと店やメレディスにも迷惑をかけてしまうだろう。どうすることが最良なのか考えあぐねた希佐は、結論を上司に委ねることにした。

「責任者と相談してまいります。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「もちろん、いくらでも待つとも」

「失礼いたします」

 希佐は至って平然とその場を後にする。背筋をまっすぐに伸ばし、胸を張る。毅然と見えるように振る舞った。背中にはまだ、あの二人の視線を感じていた。

「メレディス」カウンターに立って接客をしていたメレディスの体が空くのを待って、希佐は小声で呼びかけた。「あの、実は、私に歌ってほしいとおっしゃるお客様がいらしていて」

 すると、メレディスは僅かに眉を寄せて、またか、という顔をする。

「すべて断っていいと言ったはずだよ、キサ。相手にしなくていい」

「あの、そうなんですけど──」

「メレディス!」二人が話しているところに、別のフタッフが興奮気味に声を掛けてきた。「向こうのテーブルにマクファーソン兄弟が来てるんですよ! うわあ、オレ、めちゃくちゃファンなんですけど──」

 その言葉でメレディスはすべてを察したようだった。

 居心地が悪そうにしている希佐を見ると、フロアを離れてスタッフルームで待っているように言った。メレディスはその足でマクファーソン兄弟と呼ばれる男たちの元へと向かっていった。

 希佐は言われた通り、スタッフルームに下がった。この忙しい時間帯に休憩をもらっているスタッフは誰もいない。開店前に誰かが遊んでいたのであろうトランプが、丸テーブルの上に出しっぱなしになっていた。ポーカーでもしていたようだ。

 希佐は適当な椅子に腰を下ろす。あとはメレディスに任せておけば大丈夫だ、話をつけてくれるだろう──とは、間違っても思っていない。きっと、メレディスはあの兄弟に断ることはせず、ここへやって来るだろう。そして、決断を希佐に委ねる。そういう予感がしていた。どちらかを選べ、と。

 これは多くの役者たちが望んでいるチャンスの一つで、そのためならば悪魔にさえ魂を売るという人間は、間違いなくいるはずだ。だが、希佐はそのようなことを望んではいない。あのときとは状況が違うのだ。戯れに訪れ、さも当然のように歌ってみせろと所望する。これではまるで、見世物のようではないか。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。午後九時を過ぎたばかりだった。画面には蜘蛛の巣のような亀裂が入ったままだ。仕事と稽古ばかりの毎日で、新しいものを買いに行く時間も、修理を頼みに行く時間もなかった。

 希佐は連絡先の中から、一番上にある名前をタップして、スマホを耳に当てる。ほとんど無意識の行為だった。5コール鳴らしても出なかったら切ろう──そう思っていた矢先、3コール目で音が途切れた。

『サボりか?』希佐が何も答えずにいると、電話口の向こう側にいるアランが、小さく息を吐く。『今度はどうした』

「……マクファーソン兄弟って、ご存知ですか?」

「脚本家と演出家の兄弟だな。商業演劇の方で活躍してる』

「今お店にいらしてるんですけど」

『へえ』

「歌えと言われました」今度はアランが黙り込む。「彼らはあなたの大ファンだと」

『……確かに、俺が劇団を立ち上げてからずっと、公演を見には来てるな』

「何か因縁でも?」

『ないよ、そんなもの』

「そうですよね」希佐は更に続ける。「今はメレディスが話を聞きに行ってくれています」

『そうか』

 そう言うとアランは再び黙り込んだ。かつ、かつ、かつ、と何かを叩くような音が聞こえてくる。鉛筆で机を叩いているのだろう。何かを考えているときにそうしているのを希佐は知っていた。こういうときは急かすのではなく、黙っているのが正解だ。

『言っておくけど、メレディスはこういうとき──』

「分かっています。あの人は若手のチャンスになると思えば、自分からは断りません」

『そう』

 電話の向こう側で立ち上がったのが分かる。場所を移動しているようだ。出先で執筆していたのだろうかと考えていると、アランが言った。

『歌ったら?』

「えっ?」

『背中、押してもらいたかったんじゃないの?』

「それは……」

『それとも、怖い、とか』言葉を失う希佐にアランは続ける。『そりゃ怖いか。そこのステージに立った結果、あんなことが起こったわけだし』

 ステージが怖い、舞台が怖い──それは、希佐が考えないように自ら蓋をしていた感情だった。アランには、それが透けて見えていたのかもしれない。あれから、ずっと。

『いいよ、歌わなくても』

「でも──」

『君自身が好きに選んで良いんだ。嫌なら歌う必要はない』

 アランならそう言うと希佐には分かっていた。舞台に立ちたくなければ立たなくていい、台本なんか破り捨ててもいいと、そう言ってくれたときと同じように。

 でも、怖いからといってここで逃げてしまったら、次の公演が今よりもずっと怖くなって、今度こそもう二度と、舞台には立てなくなってしまうような気もしているのだ。希佐にとっては、それが今、何よりも恐ろしい。

『あとはもう自分の問題。君なら分かってると思うけど』

「……はい」

『俺は君の歌が好きだ』そう言って、アランは一瞬の間を置いた。『これ以上の言葉が必要?』

「いいえ」希佐は思わず、ふふ、と笑ってしまう。「少しだけ勇気が湧いてきました」

『これで少し?』

 アランが不満そうにしているのが、電話越しに透けて見えた。

「他にも何か言ってくれたら、もっと勇気が湧いてくるかもしれません」

 その声に、そこに感じる気配に、気持ちを向ける。そうしていると、恐怖が僅かに和らぐような気がした。自分のことを分かってくれている人がいるというのは、こんなにも心強いことだったか。もうずっと忘れてしまっていた感覚が、徐々に蘇ってくる。

『……本当は、君の歌声を綺麗な箱の中に閉じ込めて、他の誰にも聞かせたくない』

「えっ……」

『でも、それじゃせっかくの歌声がもったいないから、聞かせてやればいい。もったいぶらないで。度肝を抜いてやればいい。君の歌には、それだけの力があるよ』

 これが電話越しで良かったと希佐は思った。そうでなければ、頬が上気し、耳の先まですっかり赤く染まってしまった様子を、見られてしまっていたはずだ。まさか、アランがそんなことを言える人だったとは、思いもしていなかった。希佐はこっそりと手の平で顔を扇ぎ、その熱を逃がそうとしていた。

『夢やぶれて』

「なんですか?」

『レ・ミゼラブルの夢やぶれて、アイリーンに見てもらっただろ』

「はい」

『あれが一番良かった』

「……ここで、あの歌を歌うんですか?」

 本拠地とも呼べるこの土地で、名のある演出家と脚本家を前に、歌えと言うのか。

『初めて会った日のこと、覚えてる?』

「えっ? あ、はい、覚えています」

『俺は君に何かやって見せてって言った。君はどうした?」

「演じて、みせました」

『一体どれだけの人間がそれをできると思う?』アランは、ふう、と息を吐く。『ほとんどの人間はそれができない。でも、それをできる人間だけが、成功を掴めるんだ。そういう人間は絶対的に強い。だから、大丈夫だ。君は歌える。君だから、歌える』

「……はい」

『電話、切らないで。俺も聞きたい』

「分かりました──」

 そのとき、スタッフルームのドアが開いて、メレディスが現れた。どこか渋い顔をしているようだ。希佐の息遣いで察したのか、アランがメレディスと変わるように言った。

「アランです」

 そう言って希佐がぼろぼろのスマートフォンを差し出すと、メレディスは黙ったまま受け取って耳に当てた。

「僕だ……ああ、もちろんそれは構わないが……ああ、そうか。分かったよ。ああ……そうだね。じゃあ、そうしよう」

 そうして一分ほど話していたが、すぐにスマホは返される。希佐がスマホを耳に当てて名乗ると、アランが言った。

『伴奏はメレディスがピアノで弾く。好きなように歌っていい。メレディスなら君に合わせられる』

「はい」

『そこで少し声出しをしたら、自分のタイミングで出て行って、そのままステージに立つ。何にも話さなくていい。マイクは通さないで歌うんだ、君の声量なら店中に届く。終わったら、すぐにステージを降りて。例の二人とも話す必要はないから、今日はそのまま帰っておいで』

「え、でも……」

『メレディスにもそう頼んである』

「……分かりました」

『俺もちゃんと聞いてるから』

「はい」

 希佐は通話を切らず、スマートフォンを手に持ったままメレディスを見上げた。

 メレディスは希佐の顔つきが変わったのを見て取ると、僅かに安心したような、でもどこか呆れたような表情を浮かべた。

「アランは君にどんな魔法をかけたのかな」メレディスはそう言って笑う。「僕はステージの準備をしてくるよ」

「よろしくお願いします」

「あのアランから任された仕事だ、キサの足を引っ張らないように、僕も頑張らなくてはね」

 昼間に歌の稽古を行っていた希佐の喉は、まだ声の出し方を覚えているようだ。少しだけ調整するように発声練習をし、深呼吸をしてから、心を落ち着ける。あの難しい歌を歌うための、気持ちを作っていく。

 アランが言葉をくれたので、もう怖さを感じてはいなかった。今は、心地良い緊張感があるだけだ。

 希佐にとってこれはチャンスなどではなく、試練に近い。道を切り拓くものではなく、立ち塞がるものだ。だが、大きな試練を一つ乗り越えられれば、また一つの糧を得られるだろう。自信にも繋がっていく。今までもそうだったはずだ。ユニヴェール劇場の舞台に立てば立つほど、歓びは大きくなっていった。このステージも同じことだ。終わってみれば、きっとなんてことはない。

「よし」日本語で自らを鼓舞する。「行きます」

 スタッフルームを出て、細い通路を進んでいく。

 楽屋から舞台に向かう道を思い出す。誰も口を開こうとしない、静かなあの時間。産毛が僅かな電気を纏ったかのように、肌がヒリヒリとする、あの瞬間。何ものにも変え難い、この緊張感。最高に興奮する。

 早くあの舞台に立ちたい。歌を歌いたい。聞かせたい。だって、歌劇の世界とはこんなにも輝いていて、こんなにも、美しいものだから。その思いをひとりでも多くの人に届けたい、知ってもらいたいんだ。

 スタッフオンリーの扉を押し開く。喧騒の中を歩く。もう何も気にしない。ただ歌う。それだけでいいのだ。

 

 私の存在を見て、私の歌を聞いて、私の歌に溺れればいい。耳にしたことを後悔するくらい、それ以外のことを考えられなくなればいい。私だけを見ていればいい。

 舞台の真ん中に立つ覚悟は、決まった。

 

 希佐がステージに近づいていくにつれて、店内が少しずつ静まり返っていく。小上がりになっているステージに足をかけ、上る。既にピアノの前に座っていたメレディスに目を向けると、いつでも良いと言うように小さく頷いた。

 希佐は、ステージの上で大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。痺れるような静寂に包み込まれた店内に、その深呼吸が染み渡っていく。同時にすべての人が息を吸い、そしてそれを最後に、呼吸を忘れた。

 

 無音の中に、囁くような、語るような歌声が聞こえる。誰に聞かせるわけでもない、心の内を吐露する独白。遠く、過ぎ去った時間に、思いを馳せる。

 世界はまるで、歌だった。

 でも、時は過ぎて、何もかもが狂ってしまった。

 この曲は希佐にとって共感できる部分が多い。それが分かっていて、アランはこの歌を歌わせようとしたのだろうか。ただ、あまりに希佐の心とリンクし過ぎて、どこまでもどこまでも、先へ、先へと、感情が連れていかれそうになってしまう。それをそっと制御してやらなければ。

 ピアノの音色が希佐の歌声にそっと寄り添った。控えめで、それなのに、心強い。アランの音色よりもやわらかく響いている。

 希佐は、かつて夢を見ていた。その夢のおかげで生きることができていた。

 でも、その夢がなければ今頃はどうしていただろうかと思う。果たして、こうして今も生きていただろうか。どこかで生きることを諦め、暗い道を選んでいたのではないだろうか。

 つらい家庭の事情に加え、大好きな兄を失って、希望までついえていたとしたら、きっと、人生は生きるに値してはいなかった。

 この歌は最後、己を嘆くように終わる。

 夢見ていた人生は、こんな地獄ではなかった。こんなはずではなかったのに、私の人生は、台無しになってしまった、と。

 それなのに、この歌は想像を絶する絶望の中にあっても、微かな希望に縋る気持ちが滲んでいる。このままでは終わりたくないという思いが、透けて見えている。少なくとも、希佐にはそう感じられた。

 だから、だからどうか、この夢よ、終わらないでと願う。

 できることなら、この夢が永遠に覚めないでほしい。永遠に続く夢を見ていたい。この舞台に縋っていたいのだ。いつまでも、いつまでも、舞台の真ん中で輝いていたい。演じていたい。自分ではない、他の誰かを。つらい現実を忘れることのできる、唯一の場所で。

 でも、それは叶わぬ願いなのだろう。二度と帰らぬ男を待ちたいファンティーヌと同じだ。

 それでも、歌う。どれほど胸が痛んで、苦しくても、歌い続ける。

 立花希佐は生きている。まだ、生きている。

 だから、歌うのだ。

 私は、夢見ることを、夢見ているのだ、と。

 

 

 希佐がこぼした最後のため息さえ、音楽だった。

 誰も身動きを取らない。衣擦れの音さえしない。呼吸することを思い出した者は、まだいない。

 そこに拍手はなかった。あるのは、水を打ったような静けさだけだ。

 演出家は歌い終わったらすぐにステージを降りろと言った。そのまま帰ってくるようにと言った。その通りにしようと、希佐はステージに背を向ける。その際、メレディスが希佐に小さく耳打ちをした。裏口から出るんだよ、と。

 無音の中、希佐の足音だけが店内に響いていた。早足にならないようにするのが酷く難しかった。気持ちばかりが逸る。スタッフオンリーの扉を押し開いてすぐに、ポケットのスマートフォンを取り出して、耳に当てた。

「アラン――」

 名前を呼ぶが、返事はない。画面を確認すると、通話は切れてしまっていた。ポケットに入れるときに、誤って切ってしまったのだろうか。そう思いながら、細い通路を進む。途中、キッチンスタッフに料理を運んでほしいと声をかけられたが、無視をしてしまった。

 希佐の足取りが少しずつ早くなっていく。裏口が見える頃にはもうほとんど駆け足だった。煩わしく思いながら扉の鍵を外し、押し開くと、その勢いのまま外に飛び出す。

 そして、そこで待っていた人物を見た途端、希佐の涙腺が一気に緩んだ。飛び出すように裏口から出てきた希佐の体を、男が少しだけ慌てたように抱き留める。

「……ちゃんと聞いてくれましたか?」

「ああ」

「よかった」希佐は涙声をごまかそうとするように、呼吸を整えた。「歌っている間に感情がぐちゃぐちゃになって、上手く歌えたかどうか分からないんですけど」

「上手く歌えたかどうかなんて、どうだっていい」

 アランの両腕が希佐の肩を掴んで、体を離した。見上げると、前髪の隙間から見えた緑の目が、微かな熱を帯びて希佐を見ていた。

「箱の中に閉じ込めておきたい歌声だった」

「……次に書く脚本はラブストーリーにしたらどうです?」

「なんで?」

「時々すごくロマンチックなことを言い出すので」

「ハッピーエンドは苦手なんだ」

「そうだろうなと思っていました」

 両目に涙を溜めながら笑う希佐に思わせぶりな眼差しを向けながら、アランは着ていたカーディガンを脱いだ。仕事着のまま外に出てきた希佐の肩にそれを掛けると、視線をそらし、前を歩きだす。

「今日は何か食べて帰るか」

「珍しいですね」じゃあ、と希佐は言う。「カレー、食べに行きましょう。私の奢りです」

「ここは奢ってくれって言うところじゃないの」

「まあまあ、いいじゃないですか」

 希佐はそう言いながら、アランがかけてくれたカーディガンに両腕を通す。それは希佐の体を包み込むほど大きく、そして、あたたかかった。

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