よく眠れたことがない。もうずっと。施設にいた頃からそうだった。この容姿のせいだということは分かっている。昼間は施設の職員に猫可愛がりされ、夜になればそれを妬んだ子供たちからの攻撃の手が緩められることはなかった。別に望んだわけでもないのに。
退屈などという言葉では片付けられない。毎日が地獄だった。どこにも逃げ場所がない、壁に仕切られ隔絶された世界の中で、ただ息をしていた。それだけだった。息をして、生きている。たったそれだけのことですら、あの頃のアランには難しいことだったのだ。
可能なことなら、消えてしまいたかった。そうするだけの度胸もないくせに、自分はいつになったら消えてなくなれるのだろうかと、そんなことばかりを考えていた。
唯一の娯楽は想像することだった。この施設の外にあるものをよく想像していた。それがいつしか創造となって、今に繋がっているのかもしれない。残酷な副産物だ。でも、あの施設での暮らしがなければ、今のアランは存在していない。それが喜ばしいことだったのかどうかはさておき。
五歳になって牧師の家に引き取られた。裕福とは言えないが、施設で暮らすよりはマシな生活を送る事ができるようになった。ただ、牧師の家にもらわれてきた子供、という自らに与えられた役割は、施設で暮らしていた頃以上の苦痛をアランに与えていた。神なんて存在しないと信じていた子供が、まるでそれが神の思し召しであるかのように、施設から救い出されたのだ。なんという皮肉なのだろうと、後になって考える。
牧師夫妻はアランの酷い言葉遣いを嫌った。義兄の言葉を真似るようにと強要した。だが、アランは従わなかった。気取った話し方は嫌味ったらしく、性に合わなかったからだ。
そんなアランを、義父が舞台の世界に放り込んだ。友人の子供が新しく劇団を立ち上げると聞き、ちょうど劇団員を募集していたこともあって、難なく放り込むことができたのだ。それが、メレディスの立ち上げた劇団だった。その中に身を置けば、否が応でも正しい言葉遣いを身につけられると考えたのだろう。今思うと随分と浅はかな考えだが、当時のアランは単純だった。案外素直な子供だったのかもしれない。
アランはその劇団で言葉遣いを覚え、人との付き合い方を覚え、人間の感情の機微というものを学んだ。数は少なくとも、信頼できる大人がいることを知った。彼らはアランを助け、導き、時には叱って、喜びを分かち合おうとしてくれた。相手がどんなに生意気なクソガキでも、根気強く付き合ってくれていた。
家にいる時間は短くなり、劇団員と過ごす時間の方が長くなった。すると、今度はそれが気に入らなくなったらしい。教会の手伝いをすることもせず、己の楽しみにばかり時間を費やすアランに、義父はお怒りだった。もう十分だと言って、アランに劇団を辞めるよう言った。ようやく手に入れた自分の居場所を手放せと迫ったのだ。嫌だと言うと、義父は言った。この恩知らず、と。
牧師であるはずの男が、人々に慈悲と恵みを与えるはずの人間が、そんな言葉を吐いたのだ。アランはますます神というものを信じなくなっていった。牧師が神に代わって人々を救うために選ばれた人間なのだとしたら、自分を引き取ったこの男は、その神の名を汚していることになる。
惰性で一人の子供を施設から引き取り、己の価値観を押し付けて、自分の言いなりにならないと分かると口汚く罵るのだ。そして、その顔をアラン以外に見せることはない。立派な牧師様に引き取ってもらえたお前は幸せ者なのだと言われるたびに、心が少しずつ死んでいった。
アランは義父の反対を押し切って劇団に所属し続けた。それによって掛かる諸々の経費は、劇団の大人たちが負担してくれた。ありがたく思うと同時に、情けなくも、恥ずかしくも思った。早く大人になりたかった。そうすれば、誰に頼ることもなく生きていけると、当時のアランは信じていたから。
劇団に所属して数年、劇団員が次々と入れ替わっていった。古株はアランを含めて数人を残すのみだ。それぞれが、それぞれの事情で退団していった。家庭の事情で仕方なく辞めていった者もいれば、まったく芽が出ないことを嘆きながら去っていった者もいる。多くの者がアランを羨んだ。お前はまだ若いから、お前にはまだ時間があるから、お前は見た目がいいから──ハイスクールに通いはじめる頃になると、人々から向けられる目があからさまに露骨になって、アランは自らの容姿を少しずつ憎むようになっていった。子供の頃に植え付けられたトラウマが毎日のようによみがえって、舞台の上に立つことすら嫌になっていった。
その頃からアランは舞台の裏方に回ることが増えていった。正直、その方が性に合っていると思っていたのだ。アランが脚本を書いて持っていくと、メレディスがそれを面白がって、紙をコピーしただけの台本を配って回り、練習がてら初見で演じるという遊びをしたこともあった。ついでに演出もしてみろと言われ、見よう見まねで指示を出したりもしていた。あれが、今のアランの原点だったのだろう。舞台に喜びを覚えたのは、久しぶりのことだった。
しかし、ある瞬間、アランの舞台に対する情熱が、一瞬にして消え去ったことがある。そのときのことは思い出したくない。語りたくもない。ただただ、自分が穢されたような気がして、気持ち悪くて、吐き気がして、何もかもがどうでもよくなってしまった。
だから、メレディスが親からパブの経営を引き継ぐために役者を辞めると言ったとき、一緒に辞めた。元々、メレディスがいたから劇団に残っていただけなのだ。劇団からはオリジナルメンバーが全員いなくなり、次第に疎遠になって、今はどうなっているのかも分からない。興味がない。
髪を伸ばして、顔を隠すようになったのはその頃からだ。人付き合いも減らした。見るからに変人を装った。シワがよったシャツを着たり、穴の空いたズボンを履いたり、襟の伸びたTシャツを着たり、どうでもいい格好をして街を歩いた。人が変わったようだと言われることを喜んだ。すべての人間関係を清算したかったから。
でも、暮らしていくためには金が必要だ。そんなとき、アランを心配したメレディスから声がかかった。知人が脚本家を探しているから、試しに書いてみないか、と。
アランはとりあえず引き受けてみることにした。毎日自堕落に過ごし続けることにも、飽きてしまっていたのだ。監督の要望を聞き、ある程度は自由にという話だったので、好きに書かせてもらった。その脚本で制作された映画が運良く何かの賞を受賞したらしく、仕事が次から次へと舞い込んでくるようになったが、アランの心が潤いを取り戻すことはなかった。脚本家は金儲けの手段でしかなく、これまでに書いてきた脚本には、何の愛着もない。どれだけ授賞式に招かれようとも、一度として出席したことはなかった。
しかしある日、今日は面白いものが見られるよというメレディスの誘いを受けて、半ば無理やりパブに呼び出されたアランは、とあるタップダンサーと出会った。バージルだ。彼はアランに圧倒的な才能を見せつけた。
ルロイ・アンダーソンのタイプライターという曲は有名だ。バージルは通常タイプライターで行われる演奏を、自らのタップダンスで表現してみせた。バックミュージックは贅沢にも弦楽四重奏だ。
サラリーマンのようなスーツを着込み、ヨレヨレの皮の鞄を持ってステージに現れたバージルは、店の客たちの視線を一瞬にして奪っていった。あくまでコミカルに、それでも精密に奏でられるタップダンスという音楽を目の当たりにして、アランの胸は確かに踊っていた。途端に興味が湧いた。この男のことを知りたいと思った。
ネットでその名を検索し、特集が組まれた書籍をすべて取り寄せ、ありとあらゆることを調べ尽くした。以前はアメリカで活躍していたが、今後はロンドンで活動していくということが分かり、これはチャンスだと思った。メレディスから、最近は良く店に顔を出してくれるという話を聞き、毎日のようにパブに通った。話の種を探していたが、結局何も思いつかず、咄嗟に言ったのが「俺の立ち上げる劇団の一員になってほしい」だった。バージルはこれを一蹴したが、アランは諦めなかった。あちこちと追いかけ回し、自宅を突き止め、食い下がり続けた。そしてある日、バージルが折れた。どこかで聞いたことがある話だろう。
まだ名前も決まっていない、自分以外には誰一人団員のいない劇団だと知ったとき、バージルは呆れを隠さなかった。だが、まあこれからだな、と言って笑っていた。
アランの人生において、メレディスとバージルは大きな存在であり、今や支えとなっている。二人がいなければ、きっと今頃はどこかで人生に絶望し、自死の道を選んでいたかもしれない。しかし少なくとも、今はもう、消えてなくなりたいとは思っていなかった。
今日も今日とて、パソコンの前に陣取って執筆作業に勤しむ。生活のためと、今は劇団のために。劇団員たちからは一切活動資金を受け取っていなかった。アランが半ば強引に誘ってきた劇団員たちだ、そこから金品をせしめようとは思わない。それぞれに生活があり、仕事があることは理解している。だから、決して無理強いはしない。公演を前にしたときだけは別だが。
主人公に言わせるべき最後の台詞を考え続けたまま、もう一時間近くが過ぎていた。傍のノートにはいくつか候補を書き殴ってみたものの、どうもすべてがしっくりこない。
少し外を散歩してくるかと、重たい腰を椅子から上げたとき、背後から声をかけられた。
「アラン」アイリーンだった。「キサが寝てるわよ」
「……何の話?」
時計は午前十一時を指している。アイリーンが来るという話は聞いていなかったが、この女はいつだって気まぐれで、希佐が劇団に加わってからは特に、何の前触れもなく現れることが増えていた。
「寝ているのよ、スタジオで。起こそうとしたのだけれど、全然起きないの」
状況がよく分からないまま事務室からスタジオに出ていくと、確かに立花希佐は眠っていた。しかも、ストレッチの途中だったのだろう、ヨガマットの上で突っ伏すようにして眠っている。
「あの子、相当疲れているんじゃない? ちゃんと休んでる?」
「暇さえあれば朝から晩まで稽古をしてる。休めと言っても聞かない」
「まあ、稽古大好きって感じではあるけれど。でも、ストレッチ中に寝るなんてよっぽどよ」
はあ、とため息を吐いたアランは、鏡の前で突っ伏したまま微動だにしない希佐の方へ歩み寄っていく。アイリーンはアランに向かってぶつぶつと文句を垂れているが、聞くだけ無駄なので無視をした。
「おい、キサ」傍に膝をついて、背中に触れる。「キサ、こんなところで寝るな」
体を軽く揺さぶってみるが、希佐が目を覚す気配はない。どうしたものかと頭を掻きながらアイリーンを見ると、お手上げだとばかりに肩をすくめられた。あなたがどうにかしなさいよ、と言われているような気がする。
アランは希佐の肩を掴むと、もう少し強く揺さぶってみた。すると、希佐は僅かに身じろぎをし、瞼をうっすらと開く。
『フ、ミさん……?』日本語で何かを口にし、ふわり、と笑った。『もうちょっと、だけ、寝かせてください……』
希佐は時々、日本語で独り言を口にする。アランには何を言っているのか分からないが、その表情から少しだけ、感情を読み取ることはできた。今日のそれは幸福だ。幸せそうな顔をしている。何か良い夢でも見ていたのだろうか。
うわ言のようにそう漏らした希佐は、アランが肩に触れていた手を取ると、それを胸の前で抱き締めるように引き寄せる。そして、猫のように頬を擦り寄せたかと思うと、再び寝入ってしまった。
「……」
「ちょっと」あまりのことに絶句しているアランを睨み、アイリーンが不愉快そうな声を出す。「なに、ときめいちゃってるんじゃないでしょうね」
いや、そうではない。そうでは、ないのだ。
アランは小さな手で包み込まれている自らの手をそっと引き抜いた。これは、違う。自分の手の平を見下ろしながら、ため息を吐いた。
「……アラン?」
訝しげに声をかけてくるアイリーンを横目に見てから、アランは希佐の体をゆっくりと抱き上げた。くったりと力の抜けた体は、あまり力のないアランでさえも容易く抱き上げられるほどに軽かった。
「部屋のベッドに寝かせてくる。一応俺が戻ってくるまではスタジオの鍵を閉めておいて」
「あっ、ちょっとダメよ、アラン。寝かせたらさっさと戻ってきなさい。襲ったりしたらただじゃおかないんだから」
「はいはい」
母親かよ、と思いながら、アランは適当に返事をした。
あまり揺らさないように歩きながら、自分の肩に頭を寄りかからせている希佐を見下ろす。だらりと垂れた左腕の手首には、赤いミサンガのようなものが巻かれていた。何かあるごとに、希佐はそれに触れ、眺めている。指先で撫でているその様子は、何か大切なものを愛撫しているようで、その度にアランの目に留まっていた。
そうか、と思う。大切な人がいるのか、と。おそらくそれは日本人で、希佐が微笑みながらその手を握り、優しく抱き寄せたい相手なのだろうと。
「……そりゃそうか」
無垢な少女であるはずがないのだ。時折見せる艶っぽい表情を見れば、すぐに分かる。あれは演技であると同時に、過去記憶を再現した形なのだ。イライアスにせがまれて日本舞踊を舞ったとき、それが顕著に現れていた。まるで別人のように感じられたのは、自分以外の誰かを模倣していたからなのだろう。その、大切な誰かを。
「罪な女だね、君も」
そんな相手を置き去りにして日本を飛び出し、こんなところまでやって来てしまったのだから、本当に罪な女だとアランは思う。だが、そこには本人なりにやむを得ない事情があったのだということは、アランにも分かっていた。同時に、もう日本には帰るつもりがないのだろう、ということも。
階段を上り、キッチンスペースを通り過ぎて、希佐の部屋の前に立った。片腕と膝を使って体を支えながら、ドアのノブを回す。僅かに空いた隙間につま先を滑り込ませ、希佐の体を両腕で抱え直してから、ドアを背中で押し開いた。
「これは……」
部屋に入ったところで、アランは思わず足を止めてしまった。希佐の部屋に入るのは、引っ越しを行った当日以来初めてのことだ。だが、その部屋の中は、昨日越してきたばかりの状態を維持したままだった。段ボールが積み上がり、洋服や練習着は丁寧にたたまれてはいるものの、適当な場所に置かれている。クローゼットは空っぽのまま、戸だけが開け放たれていた。
かろうじて生活感があるのは、古いベッドの周りだけだった。新しいものに買い替えた方がいいと言うアランに対して、希佐が頑なに首を縦には振らなかったものだ。スプリングが軋むので体にも良くないと言ったのだが、まだ使えるのにもったいないと言って、今もそれを使っている。
アランはベッドに歩み寄ると、希佐の体をそっと下ろした。足元に丸まっていた薄手の毛布を広げ、それを掛けてやる。そして、自分はベッドの縁に腰を下ろし、額を押さえて考え込んだ。
これは、そういうことなのだろう。この部屋を見れば明らかだ。立花希佐にはここに長居をする気がない。荷を解かないのは、公演が終わった後、再び荷造りをする手間を省くためだ。
ベッドの周辺には、外国のパンフレットや資料などが散乱している。その中の一枚を取り上げてみると、カナダについて調べていたことが分かった。あの辺りも演劇が盛んだ。日本からアイルランドのダブリンへ、次はイギリスのロンドン──。
「今度はカナダに行くつもりなのか……?」
確かに、あの国は移民に対しての審査がロンドンよりは易しい。ビザも取りやすいのだろう。
希佐は最長二年間の就労ビザを取得したと話していた。イギリスにやってきたのは約一年前だと言っていたことを思い出す。この国に滞在していられる時間は、もう一年もないに違いない。次に行く国を決めるのであれば、早い方がいいのだ。
だが、カナダに行った後は? そのあとはどうするつもりなのだ?
イギリスからカナダに移り住んだとしても、ビザが切れてしまえば、希佐は再び別の国へと移動していくのだろう。まるで流浪の民のように。しかし、そんな暮らしは長続きしない。度重なる出会いと別れを繰り返していくにつれて、やがて希佐の心身は疲れ果て、病に倒れてしまうかもしれない。立花希佐という人間のことなど誰も知らない土地で、人知れず。
ようやく手に入れた居場所だろうに、それを難なく手放してしまうというのか。希佐を新しい劇団員と認め、一緒に同じ舞台を作り上げようとしている仲間たちを捨てて、また逃げるというのか。日本から逃げ出してきたように。逃げれば逃げるほど、本当は帰りたいと願っている日本から遠ざかっていることを、希佐は気づいているはずだ。いずれ置き去りにしてきた過去が重くのしかかって、身動きが取れなくなることも。
その負の連鎖から救ってやりたいと思う。
だが、どうやって……?
この国から出ていくことを当然のことと考えている女を、どう繋ぎ止めればいいのだ。ただの脚本家風情の自分が。どうすればこのイギリスに留めておくことができるというのか。
「やっぱり、ビザか……」
アランはそう呟いて、傍で眠っている希佐の顔を見つめた。あまりにあどけない寝顔をしている。先日、パブのステージに立ち、すべての人々を魅了する歌を披露した女と同一人物とは思えなかった。舞台演出家とも、彼の才能を枯渇させた女優とも、日本舞踊を舞ったときとも、絶望を演じた青年とも、まるで違う。
「……罪な女だよ、本当に」
手を伸ばして、桜色の髪に触れてみた。やわらかい。顔にかかった髪を耳にかけてやると、普段は大きな目を縁取っている長い睫毛が露わになった。窓から差し込む光を受けて、頬の産毛が黄金色に輝き、よりやわらかい印象になる。天使みたいだと、柄にもないことを思ってしまった。
アランは希佐の頭の脇に手をつき、体を捩るようにして身を乗り出した。ギシ、とベッドが軋む。覆い被さるように体を寄せて、薄く形の良い唇に視線を落とした。うっすらと開いているそれに惹き寄せられるように顔を寄せ、口づけを──しようとして、やめた。
アランが階段を下りて事務室まで戻ってくると、そこにアイリーンの姿があった。パソコンを勝手に使い、動画を見ていたようだ。アランの姿を見るなり、椅子に座ったままディスプレイを指差す。
「昨日の夜、知り合いからこの動画が届いたのよね」画面の中では、希佐が夢やぶれてを歌っていた。「マクファーソン兄弟に歌えと言われて、歌ったんですって?」
「ああ」
「あなたが歌わせたんでしょう?」アイリーンは少し怒ったような口振りで言う。「私には歌わせてくれなかったくせに」
「代わりに公演でたっぷり歌わせてやっただろ」
「そういうことじゃないのよ」
アランが退くように言うと、アイリーンは椅子から立ち上がる。そして、今度はアランの隣に立ち、一緒になって動画を覗き込んだ。
「どうするの、これ。いろんなところに出回ってるわよ」
「そうだろうな」動画のウィンドウを閉じながらアランが言う。「その日の内に演出家の方から連絡があったよ。彼女は何者だって」
「なんて答えたの?」
「答えてない」
「はい?」
「無視してる。教えてやる義理はない」
「あなたねぇ……」
「あいつら、嫌いなんだ」
それがすべてだというふうにアランが言うと、アイリーンは呆れたという顔をした。そして、両手を腰に当てると、じっとりとした目でアランを見た。
「あなた、キサを自慢したかっただけなんじゃない?」
「そうだとしたら?」
「何のためにそんなことをしているの?」
何のためにと聞かれて、すぐに答えることができなかった。希佐のためだと答えたかったが、実際のところはそうではなく、自分のためのような気がしたからだ。自分が見つけたダイアモンドの原石を、アイリーンの言う通り自慢したかったのだろう。こんなに美しいものを見つけたのだと。
「……私の方がずっと上手く歌えるのに」アイリーンがどこか悔しそうに、吐露するように言った。「技術だってずっと上のはずなのに、どうしてなのかしらね」
アイリーンはアランに背を向けると、事務室の中程まで歩いていき、ソファにどっかりと座り込んだ。
「分かるのよ。きっとキサには敵わないって。私、歌は上手く歌えるけれど、それだけなんだもの。あの子の歌はまだ未熟な部分もあるけれど、逆にそれがいいというか、だからこそ本物って感じがするのよね。歌を自分のものにしてしまうのよ。自分の物語にしてしまう。その物語の主人公になって、演じるように歌うの」
悔しい、とその横顔が言っている。苦痛に歪むように、眉根が寄せられている。
「私には無理だわ。あんなふうに自分の命を削るみたいには歌えない。演じることも、踊ることもできない」
「君には君の良さがある」
「そんな残酷なこと、言わないでくれる?」アイリーンはアランから顔を背けた。「どうせ私にはあの子みたいな才能はないわよ」
それは違うと言えば、アイリーンは更に怒り出して、反論をしてくるに違いない。だが、黙っていても何か言えと怒り出すので、困ってしまう。アイリーンにはアイリーンの才能があって、それを認めているからこそ、自分の劇団に誘ったのだ。だが、今欲しい言葉は、別のところにあるのだろう。
「それで、君は諦める?」
「……え?」
「キサには敵わないから諦めるわけ?」
「ばっ、馬鹿なことを言わないでくれる? 諦めるなんて一言も言っていないでしょう?」
キッと挑戦的な目で睨みつけられ、アランは少しだけ笑った。すると、アイリーンは拍子抜けをしたような、呆気に取られたような顔をしてから、僅かに頬を赤らめた。
「あ、諦めないわよ。歌も、その他のことも……あ、あなたのことも、全部ね!」
椅子の背もたれに頬杖をついて話を聞いていたアランは、アイリーンの言葉に目を丸くすると、今度こそ破顔した。ふふ、と笑い声を漏らすアランを見て、ますます顔を赤く染めたアイリーンは、勢い良くソファから立ち上がった。
「な、なんで笑うのよ! 私、真剣に言っているのよ!」
「分かってる」
「なによ、笑わないでよ……恥ずかしくなってくるじゃない……」
「そういうの、格好良いよ」
少なくとも、自分にはそんなことを宣言できるだけの勇気も、度胸も、熱量もないと、アランは思った。
こういうところは、見習わなければならないのかもしれない。何かを手に入れるためには、もっと、自分から積極的に動く必要があるのだろう。そうしなければ、守りたいものは守れないのだ。