ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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 あれから二年が過ぎた。あれからというのは、立花希佐が失踪してから、という意味だ。

 78期最後のユニヴェール公演を終えた翌日に、立花は姿を消した。

 翌朝、寮食の席に現れなかったことを織巻と世長は不思議に思ったそうだが、前日の本番と打ち上げで疲れているのだろうと、すぐに部屋を訪ねることはしなかったらしい。

 しかし、昼食、夕食の席にも現れず、稽古場でも誰一人その姿を見た者がいないことに妙な胸騒ぎを覚え、世長は午後七時過ぎに立花の部屋を訪ねた。

 ノックをして、名前を呼ぶ。返事はない。鍵はかかっていなかったそうだ。嫌な予感がして勢いよくドアを開くと、部屋の中はもぬけの殻。がらんどうとしていた。何もない。ただ真っ白な部屋が、ただの空洞のように、そこに存在していた。

 部屋には一歩を立ち入れず、その場で崩れ落ちた世長を見て、織巻が慌てて駆け寄る。部屋の中を覗き込んだ織巻は、おい、一体どういうことだよ、と大きく叫んだ。その様子が、見てもいないのに、頭の中で鮮明に再現される。

 

 梅の花の時期はとうに過ぎ去り、今では満開の桜が咲いていた。

 玉阪座の稽古の休憩時間、友人でありライバルの高科更文は、稽古場の窓辺に座り込んで、散りゆく桜を眺めている。僅かに冷たい風が、全開に開け放たれた窓から流れ込んで、更文の色素の薄い柔らかい髪の毛を揺らしていた。

 睦実介は少し離れた場所で壁に寄りかかり、その様子を心配そうに眺めている。声をかけることはできなかった。その酷く寂しげな横顔を見れば、更文が何を思い、何を考えているのかは分かる。だが、だからこそ、声をかけることができなかった。

「しのぶれど、色に出でにけり、わが恋は、物や思ふと、人の問ふまで、かな」

 不意に和歌を詠みあげる声に視線を向けると、全体稽古を無断欠席していた根地黒門がひょっこりと姿を現していた。髪を邪魔そうに高い位置で結い上げているのを見ると、脚本の執筆作業に勤しんでいたようだと分かる。

「恋煩いに効く良い薬があればいいんだけどねぇ」

 

 

 立花希佐は女だった。

 そう聞かされたのは、立花が姿を消して数日が過ぎた、ユニヴェール校長室でのことだった。クォーツ78期生の織巻と世長、玉阪座に入門していた睦実、高科、根地、そして白田美ツ騎が揃って校長室に押しかけ、事の顛末を聞かせろと詰め寄ったときのことだ。

「あいつが女だと知った上で、ユニヴェールに入らないかと、俺が声をかけた」

 だが、誰も驚く者はいなかった。当然だろう。全員が、そうなのではないかと、薄々勘付いていたのだから。更文に至っては、入試の段階で、立花が女だと気づいていた。

 当人が察していたのかは分からない。しかし、幼馴染で立花が女だと知っていた世長や、ハヴェンナの時点でそうと確信していた美ツ騎は、立花が女であることを周囲に悟られないよう、尽くせる限りの手を尽くしていた。立花希佐を守っていた。何も言わなかったが、織巻も、どこかで同じようにフォローしていたのだろう。

「校長」黒門が厳しい面持ちで声をあげた。「僕たちは立花くんの努力を知っている。だから、それを否定するつもりはありません。ですが、一つだけ聞かせていただきたい」

「何だ」

「立花くんを――彼女を、性別を偽らせてまで、このユニヴェールに入学させた。それは、立花くんにスター性を見出したからでしょう。実際、彼女は一年生の段階で、既に多くのユニヴェールフォロワーたちを魅了していた。二年、三年になっても、彼女は校長の期待に応え続けたことでしょう。でも、立花希佐という歌劇役者はおそらく、あなたの想像以上に脚光を浴びすぎてしまった」

 稀代のアルジャンヌ――高科更文ですら冠することのなかったその代名詞を与えられるほどに、立花希佐の才能は大きく花開き、人々を虜にしていた。

「演技にかける情熱は男も女も関係ない、そのお気持ちは分かります。それでも、立花くんは本来女性で、ユニヴェールに入学できる性別ではなかった。ルールを捻じ曲げたのは、あなただ、中座校長。だからこそ、あなた自身が誰よりも理解しているはずですね。あなたは、立花くんにたった三年の夢を見せる代わりに、彼女の人生の残り全部を、その代償として捧げさせたのだ、と」

 思わず、ぞっと、した。

 黒門の眼差しは驚くほど冷たく、刺すように、校長を睨んでいる。

「立花くんの性格を考えればすぐに分かることだ。彼女は責任感が強い。そして、ユニヴェールの舞台にかける情熱も、熱意も、誠実さも、人一倍強かった。そんな彼女が、自らが置かれた立場の本当の危うさに気づいてしまったらどうなるか、考えなかったとは言わせませんよ」

 まあ、僕も、その片棒を担いだ自覚はあるんですけれども――そう続けた黒門の目が陰り、次いで、その傍らに立っていた更文に向けられた。介が立っている場所からでは、更文がどのような表情を浮かべているのかを、見ることはできなかった。

「……分かっている」校長が重々しい口ぶりで言った。「すべては俺の責任だ」

「そうやって言うのは簡単ですよね」

 美ツ騎が毒を吐き出すように言うのを、誰も諭そうとはしない。苦虫を噛み潰したような顔で、体の両脇ではこぶしを強く握り締め、何とか怒りを静めようとしているのが分かる。

「でも、根地さんの言う通り、僕たちだって立花を頼っていたことは間違いありません。クォーツをあいつに背負わせるようなこともしてきました。だから、ここにいる全員が、同罪ですよ」

「……希佐ちゃん、何も言わなかったけど、この一年は特に、何かに怯えているみたいでした」

「俺とペアダンスするとき、体がスゲーこわばってるなって、感じるときがあって」織巻と世長が顔を見合わせ、ばつが悪そうに視線を逸らす。「体に触られるの、嫌だったんだと思います。女だってバレるの、怖かったんだと、思います」

 チッ、と小さく舌を打つ音が聞こえ、全員がその方向に目を向けた。

 そこには、かつて、誰にも手の付けようがなかった頃の、高科更文がいた。鋭い眼光は誰もいない場所を睨みつけている。神経質そうに人差し指の爪を噛み、何かに対する苛立ちを隠しきれずにいる。

「フミ」

 介がそう声をかけると、更文はその眼差しを、素早くこちらに向けた。胸倉に掴みかかってくることも、殴りかかってくることも、暴言を吐くこともなかった。だが、あの頃よりもずっと深刻だということが、介には分かった。

「立花がどこに行ったのか、知っているんですか?」美ツ騎の問いかけに、校長は首を横に振った。「本当に?」

「ああ、本当に知らねえんだ。ここで嘘を吐くほど、俺は愚かでも無神経でもないつもりだ」

 校長はどこか憐れむような目で更文を見た。その眼差しに気付いた更文は、一瞬だけ怒りに目を見開くが、介が止めに入るまでもなく、己の意思でその場に踏み止まった。詰めていた息を大きく吐き出すと、風に当たってくると言って、早足で校長室を出て行ってしまった。その手には、スマートフォンが握られていた。

「行き先に、心当たりは?」

 今度は黒門に問われ、校長は僅かに首を傾ける。

「少なくとも、実家には帰っていないようだな」

「あ、あの、希佐ちゃんには、隣町に住んでいる友達がいるんです――」

「こんな消え方をしておいて、もしかしたらすぐに見つかるかもしれない友達のところに、あの立花が行くと思うのか?」

「そ、そうですよね、すみません……」

「世長くん、立花くんの荷物は?」

「部屋には何も残っていませんでした」

「それなりの量はあったはずだよね? あの子、本もそれなりに読んでいたんじゃない?」

「本なら図書室で借りて読んでいたと思います。部屋の荷物は――希佐ちゃん、もともとあまりなかったはずです」

「っていうか、あいつが何か買ってるところ、最近は見てないっスよ。何か欲しいものとかないのかって聞いたら、別にないって。舞台出演料は、家に仕送りする以外は、ほとんど貯金してるって言ってたし」

「ふむ。じゃあ、どこへ行ったにしても、資金的には何の問題もないようだね」

「そんなこと言ってる場合ですか」

「大事なことだよ、白田くん。少なくとも今、立花くんは雨風をしのげるあたたかい場所にいて、空腹に怯える必要もないんだ」

「そんなの、何の気休めにもなりませんよ」

 そうは言いつつも、立花の失踪は無計画ではなかったのかもしれないという可能性に、美ツ騎は少なからず安堵しているようだ。その顔から僅かにこわばりが取れ、黒門の言い様に呆れた表情を浮かべている。

「まあ、織巻や世長が突然いなくなったら、どこかで行き倒れているんじゃないかって心配になりますけど、そういう点では、あいつはしっかりしているから……」

 そう言う美ツ騎の様子は、確信があるというよりも、大丈夫だと信じたがっているように見えた。

「フミさん、大丈夫っスかね……?」介が校長室を出て行った更文を気にしてそちらへ目を向けていると、気づかわしげに織巻が声をあげた。「あの二人、立花が一年の頃から仲が良かったし、卒業してからも頻繁に会ってたでしょ? もしかしたら……」

「そういう詮索はやめよう、織巻くん」

「あ、はい。いや、でも」

「フミは嫌がると思うよ」

 立花の身に、心に、何らかの変化があれば、誰よりも早く更文が気が付いていたはずだ。しかし、あの様子では、その変化に一切気付かなかったということなのだろう。

「立花くん、前にも増して芝居が上手くなっていたものね」介と同じことを考えていたらしい黒門が、そう漏らす。「あのフミが、立花くんの変化にまったく気付けないくらいに、さ」

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