ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

20 / 65
デート

 公演一週間前からパブの仕事はお休みをもらった。何を隠そう希佐のタップダンスが完成していないからだ。歌についてもアイリーンは納得がいっていないらしく、とにかく歌い込んでおくようにというお達しが出ている。

 ユニヴェール時代にも舞台がギリギリまで完成しなかったことは何度かあったが、ここまで切羽詰まっていたことはなかったように思う。

 バージルから十分の休憩を与えられた希佐は、とにかく足の疲労回復に努めようと、念入りなマッサージとストレッチを行っていた。

「キサ、何でも良いから軽く腹に入れとけよ。動けなくなるぞ」

「あ、はい」

「……お前、今適当に聞き流したな」

 後で食べよう、そう考えていた希佐の思考を読み取ったかのように、バージルが言いながら睨みつけてくる。思わずぎょっとした希佐は、あはは、とごまかすように笑い、ストレッチを続けた。

「焦る気持ちは分かるけどな、まだ一週間はあるんだ。あんまり根詰めた練習ばっかりしてると体力が続かないし、第一身が持たない。少しはリラックスしろ、リラックス」

「リラックス……」

「そうそう」

「……」

 リラックスの仕方を思い出すことができない。思えば、日本から出てきてからこちら、希佐はリラックスなどした覚えがなかった。異国にいるという緊張感が常にある以上、一人でいても体の強張りは解けず、それが完全に消えるという経験をしたことがないのだ。むしろ、今やそれが普通の状態で、異常であるとすら思わない。

「分かりました。頑張ってリラックスしてみようと思います」

「おい、リラックスしろって言ってるのに、頑張ってどうするんだよ」

 バージルは呆れていた。だが、希佐は希佐で困っている。やってもやっても上手くいかず、どうにもスランプ気味なのだ。振りが頭に入ってこないのは何故なのか、自分でもよく分からない。やはり、疲れが溜まっているからだろうか。休んだ方がいいとは思っていても、気持ちばかりが逸って、稽古をしていないと落ち着かなかった。

 最高の舞台にしたいのだ。でも、今のままではそれができない。

「足、大丈夫?」

 バージルからみっちりしごかれたあと、スタジオの床に倒れ込んでいた希佐のところに、イライアスがやって来た。希佐が顔を覆っていた腕を外すと、心なしか心配そうな面持ちがこちらを見下ろしている。

「最後の方、少し痙攣してたよ」

「平気だよ、もう落ち着いたから」

「それならいいけど」

 希佐が体を起こしてその場に座ると、イライアスも同じように並んで座る。どうやらストレッチに付き合ってくれるようだ。

 イライアスと二人、ストレッチをしながら希佐は考えていた。

 周りにいる人は、いてくれた人たちは、希佐ができないことを、どうしてできないのだと言って責めたことは一度もない。むやみやたらと手を差し伸べてくることもないが、いざというときは、必ず助けてくれる。一緒になって悩み、迷ってくれる。困っていれば相談に乗ってくれて、最高の助言をしてくれる。

 希佐はしみじみと、自分は人との出会いに恵まれているのだな、と思った。

 それなのに、この公演が終わってしまったら、希佐は劇団を離れなければならない。間もなくイギリスを後にし、別の国へと旅立つつもりだ。長居をすればするほど、離れ難くなってしまうから。

「僕、あの三人があんなに頑張ってる姿、初めて見たよ」

「えっ?」

 物思いに耽っていた希佐が我に返ると、イライアスはスタジオの向こう側で芝居の稽古をしている、ノアとアイリーン、ジェレマイアを見ていた。

「いつも稽古はしっかりしてたけど、今回は特別。キサの影響が大きいんだろうね」

「私の?」

「キサが頑張っている姿を見たら、負けていられないと思う。僕もそうだよ。だからバージルだって力が入っているんだ」

 思いは連鎖する。それは良く知っている。舞台の真ん中に立つ人間の思いが強ければ強いほど、その後に続く者の思いも引き上げられるのだ。

 一年生の頃は、先輩たちの背中を見て、そう思っていた。自分も先輩たちを見習って一層頑張らなければならない。二年生になり、考え方が変わった。自分が人一倍頑張って、みんなを引っ張っていかなければ。あの人の代わりに、クォーツの顔となって、すべてを引き継いでいくのだと。

 

 公演三日前、タップダンスの振り付けがようやく体に叩き込まれた。

 余裕なんて微塵もないものの、希佐が最後まで踊りきったときのバージルの顔には、安堵の中にも驚愕が滲んでいた。

「お前、ほんと、マジで良くやるよ……」

「ちょっと、黙っててもらってもいいですか」希佐は自らの膝に両手を置き、鏡を睨みつけながら言った。「今の感覚、忘れたくないので」

 ここ数日の追い込みが祟っているようで、体中に鈍い疲労感をまとっているような気がする。両手で抑えていなければ、膝がガクガクと震えて、立っていることも難しかった。肺が大量の酸素を欲しがり、肩が激しく上下する。

「キサ」離れた場所に座って見ていたジェレマイアが早足でやって来たかと思うと、希佐の名を呼んで背中に手を当てた。「そのまま座れ。いいか、ゆっくり、落ち着いて息をするんだ。大丈夫、すぐに落ち着く」

 途端に、視界が黒く染まり、顔から血の気が引いていくのが分かった。吐き出す息が酷く冷たく感じる。

「ジェレマイア、体を前に倒させろ」

 違う誰かが言う。落ち着き払った声だ。視界の中に現れた手を、希佐は咄嗟に掴んでいた。その手が、まるで凍えたように冷えている希佐の両手を、力強く握り締める。

「キサ、息をゆっくり吐いて」

 だが、そう言われても、上手く呼吸をすることができない。苦しくて、苦しくて、頭が息を吸えと命令しているようだ。そうした希佐を見かねた誰かは、ちょうど息を吸い込んだタイミングを見計らい、空いている方の手の平で口元を覆った。希佐は苦しさのあまりその手を引き剥がそうとするが、両手は強く握り締められたまま、びくともしない。

 十秒ほどが経っただろうか。希佐には永遠にも思える時間だった。口元を覆っていた手が離れた瞬間、希佐は詰めていた息を大きく吐き出す。そして、息を吸うと、もう一度同じことが繰り返された。

「ただの過呼吸だ」その声がアランのものだと気づいたのは、呼吸も大分落ち着いてきた頃だった。「もう大丈夫か?」

「は、はい、すみません、ご迷惑をおかけして……」

「水、取ってくる」

 希佐の手をしっかりと握り締めてくれていた手が、すっと離れていった。行き場所を失った手を床につき、吸った息を、倍以上の時間をかけて吐き出していく。

「ジェレマイアも……」

「ああ、いいのいいの。気にすんな。過呼吸と貧血だよ、俺も経験ある」

 ジェレマイアが咄嗟に駆け寄ってくれなければ、何の支えもなくその場に倒れ込んでいたかもしれない。本番前に何をしているのだと思いながら、ふと黙り込んでいるバージルが気になって、希佐は顔を上げた。

「……バージル?」

 バージルは酷く青ざめた顔をしていた。眉間にしわを寄せた険しい面持ちで、希佐を見ている。怒っているのだろうかと思い、希佐が謝るために口を開きかけると、つい、と視線を逸らされた。

「悪い、やりすぎた」

「え?」

「クソ、焦ってたのはオレの方かよ……」

 ちょっと風に当たって来ると言って、バージルはスタジオを出て行った。その背中が見えなくなる前に戻ってきたアランは、ペットボトルの蓋を外してくれてから、希佐に常温の水を差し出した。

「落ち着いた?」

「はい、もう大丈夫です」

 礼を言ってペットボトルを受け取ると、希佐は唇を湿らせる程度に水を口に含んだ。吐き戻す心配はなさそうだと分かると、生温い水を喉に流し込む。その水が身体中に染み渡っていくのを感じながら、そのときになってようやく、ほとんど休憩も挟まずに何時間も踊り続けていたことを自覚した。

「アイリーンとノアが来ていなくてよかったよ」アランがどこかしみじみと言う。「喚き散らしていただろうからな」

「すみません、本当に。自己管理もできていなくて」

「悪いのは君じゃない。無理をさせたのはバージルだ。それに、俺たちもそれを止めなかった。悪かったな」

「いえ、私はもう大丈夫なので」

「……君はそういうところがある」

「そういうところ?」

「謝罪を受け入れない」アランが少し呆れたように言った。「バージルの謝罪くらいは受け取ってやれ。あいつ、今頃外で頭抱えてると思う。ああ見えて自己嫌悪に陥るタイプだから」

「俺、ちょっと様子見てくる」

「ああ」

「キサ、無理するなよ」

「うん、ありがとう」

 隣で寄り添ってくれていたジェレマイアは、とんとん、と希佐の肩を叩いてから、バージルを追いかけてスタジオを出て行った。

 希佐はもう一度、吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。息苦しさは感じない。指先の体温も戻りつつあるようだ。鏡に映った自分の顔も、血の気を取り戻しはじめている。

「明日の全体稽古は取りやめる」

「……えっ?」

 希佐はアランの言葉に耳を疑った。自分の聞き間違いだろうかと思うが、冷静になって考えてみても、聞き間違いようのない言葉だ。

「未だかつてない熱の入りようで、他の連中も疲れてるから、明日は休みにする」

「でも、本番二日前なのに……」

「稽古をしたいやつは各々勝手にすればいい。でも、疲れを溜め込んだまま本番に挑んだって、良い舞台を作ることはできない。もちろん、君は強制的に休みだ。文句は言わせない」

 ああ、結局、こうして迷惑をかけてしまう──希佐はまだ上手く力の入らない手で、ペットボトルを握り締めた。

 

 翌日の全体稽古は、本当に中止になった。

 それなのにも関わらず、スタジオには午前中から全員が集まっていた。アランが言った通り、各々が個人稽古をしたり、芝居を合わせたりして過ごしている。今日の稽古は絶対に禁止だと言い渡されていた希佐は、事務室からその様子を羨ましそうに眺めていた。

「いいなぁ……」

「なにが?」

 ソファからスタジオの様子を眺めていた希佐が思わずというふうに声を漏らすと、パソコンの前に座って作業をしていたアランが声をかけてくる。びくりと肩を震わせて振り返ると、アランがこちらに目を向けていた。

「……稽古、私もしたいなと思って」

「絶対にダメだ」

「でも、ストレッチくらいなら──」

「君の場合、ストレッチだけじゃ終わらないに決まってる」確かにその通りなので、希佐には返す言葉もない。「いいから大人しくしていろ」

 しかし、正午間際になっても、これみよがしにため息を吐いてみせる希佐に根負けしたのか、アランは呻くような声を上げながら椅子から立ち上がった。椅子の背もたれに掛けられていた上着を手に取り、ソファに座っている希佐の腕を取ると、スタジオに出ていく。

「ちょっと、アラン──」

「少し出てくる」希佐の腕を掴んで歩きながら、アランはバージルを見た。「頼んでもいいか?」

「おう、行ってこい」

「え? あの、ちょっと待って、どこに」

「いってらっしゃーい」

 困惑している希佐をよそに、ノアはにこにこと笑いながら手を振っている。アイリーンは多少不満そうな顔をしてはいたが、何も口を出してはこなかった。先程全員分のランチを買いに行かされたジェレマイアは、まだ戻っていない。

「待って、どこに行くんですか?」

「昼飯」

「それなら、ジェレマイアが……」

「あそこから離れないと君は満足に休息も取れないみたいだから」

 本番二日前に劇団員たちの練習風景を見て指を咥えているというのは、希佐にとって生殺しの状態と大差ない。稽古をしたくて体が疼くのは仕方のないことだ。その気持ちを無理やり抑えつけている方が、むしろストレスが溜まる。

「あそこで管を巻いているより、外に出て気晴らしをした方がいい」

「それなら別に、私一人でも──」

「目を離すと何をするか分からないから」

「……信頼はしてくれていても、信用はしてくれないんですね」

「難しいことを言うんだな」

「脚本のお仕事はいいんですか?」

「気が散って全然進まなかった」

「……すみません」

 希佐の腕を掴んだまま前を歩いていたアランが、その言葉を聞いて振り返る。僅かに俯き、上目遣いで自分を見上げている希佐を見ると、仕方なさそうに息を漏らした。

「今日は俺に付き合って」

「どこか行きたいところがあるんですか?」

「いや」アランは所在なく視線を彷徨わせる。「とりあえず、何か食べに行く」

 そう言って連れてこられたのは、希佐が働いていた日本食レストランは比べ物にならない、頬っぺたが落ちるほど美味しい料理を出してくれる、日本食の料亭だった。日本に帰ってきたのではないかと思うような内装をしていて、来たこともない店なのに、なぜか懐かしく感じる。客席はカウンターに数席あるだけだ。見るからに高級そうだったが、ここまで来て店選びに口を挟むほど、希佐も無粋ではなかった。

「これは、ジンデルさん」アランが暖簾をくぐって店内に足を踏み入れると、カウンターの中に立っていた店主が意外そうな顔をして迎え入れた。「お久しぶりです」

「前にも来たことがあるんですか?」

「脚本を提供した映画の監督に連れてきてもらったことがあるだけだ」

 店主は日本人だった。そして、希佐の姿を目に留めるなり、ますます意外そうな顔をした。

『日本人の方ですか』

『はい、そうです』

『ロンドンでこの店をはじめて長いですが、日本人のお客様がいらしてくださると、とても嬉しい気持ちになるんですよ』

 どうぞ、ごゆっくりなさってください、と言う日本語の響きが、とても優しい。

 日本語で人と話すのは、もうどれくらいぶりだろうか。意識的に日本人との交流を絶ってきた希佐は、日本人会の誘いもすべて断っていたので、ロンドンに来てからは実質初めてなのかもしれない。

『ありがとうございます』店主に向かって微笑みかけながら、希佐はアランの隣に腰を下ろした。『でも、予約もしていないのに……』

『この時間帯は予約制ではないのでご安心ください』

 それならば一安心だと思った希佐だったが、不意に視線を感じて隣を見やると、アランが不思議そうな顔をしてこちらを見ていたことに気づいた。

「どうかしましたか?」

「当たり前だけど、日本語話すんだな」

「……私、これでも日本人ですけど」

「日本語を話すときの方が、声が少しだけ高い」

「そうですか?」

 自分で意識をしたことはなかったが、言われてみれば確かに、英語で話しているときの方が声は低いのかもしれない。青年の役柄を演じやすいと感じたのも、そのためだろうか。アイリーンに稽古をつけてもらうようになってからは、少しずつ低い方に音域が広がっているようにも感じられていた。

「さて、今日は何にいたしましょうか」

 二人の会話が途切れたところで、店主がそう声をかけてくる。アランは英語で書かれたお品書きを一瞥してから、店主を見上げた。

「彼女、もう何年も日本には帰っていないので、日本を感じられる何かをお願いできますか」

「かしこまりました」

 今度は希佐が不思議そうな顔をしてアランを見る番だった。

「なに?」

「アランなのにやけに気が回るというか……」

「あのなぁ」

 何かを言い返そうとしたアランだったが、店主がにこにこと笑いながら話を聞いていることに気づき、口を噤むことにしたようだった。

 店主はアランの注文通り、希佐にとっては懐かしい日本料理ばかりを出してくれた。

 だし巻き玉子、ぶり大根、鯛の煮付けなど、贅沢なことこの上ない料理ばかりがカウンターに並べられる。寿司も握れるという話だったが、公演を控えているのになまものは良くないと考え、希佐は梅干し入りのおむすびを握ってもらうことにした。

 アランは黒い紙のようなもので巻かれた白米の塊を奇妙そうに見ていたが、希佐が頬張るのを真似、ぱくりと口に含む。しかし、舌に梅肉が触れると緑色の目を驚いたように丸くし、その表情を徐々に歪めていった。

「梅干しっていうんですよ。完熟した梅の実を塩漬けにして、天日で干すんです」

「日本人は変わったものを食べるんだな……」

「それをイギリスの方が言うんですか?」

 イギリスには日本人の理解を超えた料理がたくさんある。日本食だと言い切る得体の知れない創作料理も数多く見てきた。あのパイの中から魚がにょきにょきと頭を覗かせているスターゲイジー・パイの見た目は、未だに理解することができない。

 だが、互いの食文化についての疑念をぶつけ合う会話は、大層店主を喜ばせたようだ。楽しませていただきましたと言って、食後のデザートにわらび餅をサービスしてくれた。

『とても美味しかったですし、懐かしかったです』

『それはよかった』店先まで見送りに出てきてくれた店主が、嬉しそうに笑った。『どうぞ、またいらしてください。心よりお待ちしております』

 希佐には、はい、と素直に返事をすることができなかった。自らの財布と相談したところで、この店の敷居を跨ぐのはお門違いだと分かる。

「こちらの可愛らしいお方との、またのご来店をお待ちしております、ジンデルさん」

「そうですね、機会があれば」

 

「──ああいうときは、また来ます、って言うんですよ」希佐はアランの返事を聞いて、苦笑いを浮かべた店主の顔を思い出しながら言った。「機会があればなんて、もう来ませんって言っているようなものです」

 ウィークエンド・レッスンで、クリスから食事に誘われた城間がそう言ったように、そういう物言いはお断りの常套句なのだ。

「実際に行くかどうかも分からないのに、また行くと言うのもどうかと思う」

「それはそうなのかもしれませんけど」

「君が日本語を話す姿をまた見たくなったら行くかもしれない」

「そんなものいつだって見られるじゃないですか」

「いつだって、ね」

 アランはそうぽつりと呟いたあと、少し散歩をして行こうと言って、ゆっくりと歩き出した。希佐は少しだけ遅れて後を追い、隣に並ぶ。アランの方がずっと長身で、歩幅も広いはずなのに、二人の歩調が乱れることは不思議となかった。

 しばらく何も話さないまま歩き続け、二人は大きな公園までやって来た。オフィス街でもあるこの辺りは、ランチの時間帯になると昼休憩で会社の外に出てきた社会人たちが、スーツ姿のまま公園の芝生の上で寝転んだりしている。日本ではあまり見ない光景だったが、希佐は大人たちがそうして奔放に、楽しそうにしているのを見ているのが好きだった。

 きらきら輝く池の畔に佇んでいると思い出す。日本を飛び出してすぐの頃、何もやる気が起きず、日がな一日公園のベンチに腰を下ろして、ただ無為に時間を過ごしていたときのことを。

 あの頃はただただ空虚で、世界が色褪せて感じられていた。すべての感情を日本に置いてきてしまったかのように、何も感じない日々を過ごしていた。思い出すととてもつらくなるけれど、あのときの思いもまた、演じることの糧になっている。

「……キサ」

 池の畔で足を止めた希佐を、少し離れた道の先でアランが振り返っていた。物思いに耽っていた希佐はその声で我に返ると、口元に笑みを浮かべてから早足で追いかけていく。

「すみません、ちょっと考え事をしていたらぼーっとしてしまって」

 前髪の隙間から覗くアランの目は、何か物言いたげに見えた。何かを言いたそうに希佐を見ているが、言うべき言葉が見つからないのか、心なしか居心地が悪そうにしているのが分かる。

 希佐は辺りを見回して、ちょうど良い木陰を見つけると、その場所を指さした。

「少しごろっとしていきませんか?」今度は希佐がアランの腕を取り、木陰に向かって歩き出す。「今日はお天気で良かったですね」

 緩やかな傾斜のある芝生の地面に座り、池を眺める。遅れてアランも腰を下ろすと、そのままごろんと横になった。悪戯な風がアランの前髪をもてあそぶが、今日は構わないようだ。目を閉じ、何かを考えている。

 希佐は再び池に視線を戻した。池の向こう側には枝垂れ柳が見えている。その木の下では、泳ぎ疲れた水鳥たちが、不揃いに並んで羽を休めていた。自分のあの鳥たちと同じなのだと希佐は思う。今はここで羽を休めているだけなのだ。またすぐに、どこか別の水場を目指して、飛び立たなければならない。

 公演日は明後日に迫っている。それが終わってしまったら、また、さようならをしなければ──ならないのだろうか。

「……私、ダブリンでの生活がとても気に入っていたんです」きらめく水面を眺めながら、希佐は言う。「でも、一年なんてあっという間でした。ダブリンと似た環境に身を置きたくて、次の国にはロンドンを選んだんです。ロンドンも演劇が盛んですから、二年も滞在できるのだと思うと、とても嬉しかった」

 それなのに、と希佐は続けた。

「ロンドンはダブリンとは全然違っていて、憧れていたほど素敵な国ではありませんでした。ただただ毎日がつらかった。毎日ヘトヘトになるまで働いて、家に帰って、勉強をして、気絶するみたいに眠って、朝になったらまた働きに出る……そんな日々を繰り返しているうちに、私は何をしているんだろうって、疑問に思うようになりました。何のためにここにいるんだろうって。日本に帰りたくてたまらなくなった」

 ある金曜日の夜、ロンドンの街をふらふらと歩きながら、ぼんやりと考えていた。

 きっとあの日、あの教会に立ち寄っていなければ今頃は、この世から立花希佐という人間はいなくなっていたのだろう。どこを探しても見つからない。誰にも見つけられない暗い場所で、ただ横たわっていたに違いない。

「私はあの日、ミゲルが弾いていた、たどたどしいアメイジング・グレイスに救われたんです。どこまでも純粋で透き通ったあの音色に導かれて、あの教会にたどり着きました。そして、あなたにも出会えた。私には神様がいるかどうかなんて分からないけれど、巡り合わせというものはあると思っているんですよ」

 希佐は芝生の上に寝転ぶと、隣で横になっているアランの方に体を向けた。その横顔をじっと見つめていると、諦めたように目を伏せたあと、アランは地面に肘をついて、向き合うように体の位置を変えた。

「私は今、あなたのおかげで生きています。この世界からいなくなりたいと思っていた私が、あなたのおかげで、もう一度舞台の上で輝きたいと思うようになりました。本当に、本当に、ありがとうございます」

 言ってるそばから涙がこぼれてとまらなくなる。感謝をいくらしてもし足りないのだ。

 真っ暗闇だった立花希佐の未来に光を見せてくれた。行き止まりだと思っていた道の先にも、まだまだ道は続いているのだと、光で照らして見せてくれた。

 アランがしてくれたことのすべてに意味があったのだと、今なら分かる。時には、心が引き裂かれるような苦痛を味わうことがあっても、それと同じだけの苦しみを、この人も味わっていたのだろうと。

「アラン、私は──」

 もっと伝えたいことがたくさんある。伝えなければならないことがあるのに、隣から伸びてきた腕が希佐の体を引き寄せ、抱き締めるから、途端に何も話せなくなってしまった。ぎゅうぎゅうと、希佐を抱き締める腕は苦しいほどなのに、やっぱり、とてもあたたかいのだ。

「もう逃げなくていい」ほとんど、今にも消え入りそうな声が、そう言った。「嘘も吐かなくていい」

 そのたった二言が、嘘を吐き続けたユニヴェール時代の三年間と、そこから逃げ続けた二年間の罪悪感を、そっと包み込んだ。ほんの、たった二言で。それが脚本家のなせる技なのかと思い、希佐は少しだけ笑う。

 ああ、もっとこのあたたかい場所にいたいと、希佐は思った。

 このあたたかい場所にいられたなら、どんなにか幸せだろう、と。

 自らの過去を知り、今を受け入れ、未来を指し示してくれる人の隣で、舞台に立ち続けることができたなら、きっとこれ以上の幸せはない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。