小劇場での公演前日、劇団員は朝からパブ『ヘスティア』に集まっていた。
有志を募るとパブのスタッフが何人か公演の手伝いに名乗り出てくれた。多くが舞台関係者だったので、準備に手間取ることはなさそうだ。今は、舞台設備や小道具の運び込みが終わったところだった。当日の音響や照明などについても、打ち合わせが行われている。
それに、実際にステージに立ってみて、初めて分かることもあった。この劇場は見た目以上に広い。おそらくは視覚的な効果なのだろう。天井がステージに向かって僅かずつ傾斜し、奥行きを出しているのだ。だから、ステージに立つと、客席の向こう側に見える扉が遠く感じる。
音はよく響くが、あまり余韻を残さずに消えた。木造の劇場なので、音が木に吸収されるのかもしれない。反響しない分、声の出し方には注意が必要そうだ。歌も、もっと声を響かせるように歌わなければ、この劇場に吸収されて、負けてしまうだろう。
希佐は広さを把握するためにステージの上をぐるぐると歩き続けた。時々声を出し、響きを確認した。客席に腰を下ろし、ステージに立つ自分の姿を想像して、どの程度動けばいいのかを考える。
ユニヴェール劇場はこことは比べ物にならないくらい広かった。だから、演者の動きは大袈裟なくらい大きくしなければ、客席の一番後ろにいる人まで届かないのだ。だが、この劇場は違う。大袈裟な動きは逆効果だ。おそらく、普段通りに動いた方が、よりリアルに見える。
「まったくもう! 衣装も音楽もギリギリの納品なんてどうかしてるわよ、この劇団!」
アイリーンがそう言ってぷりぷりと怒っていた。
だが、悪いのは仕立て屋や楽団ではなく、アランだ。衣装も音楽もこだわりすぎて、繰り返し修正を出していたことを知っている。希佐にしてみれば、よくぞ当日までに間に合わせてくれたと、感謝の気持ちしかない。
「キサ」客席に座ってステージを見ていた希佐のところに、バージルがやって来た。「昨日はしっかり休めたか」
「はい、皆さんのおかげで」
「ちゃんと寝られたか」
「それはもうぐっすり」
「そうか」
バージルは安堵したように息を吐くと、希佐の隣に座る。それから、希佐と同じようにステージに目を向け、いささか気の抜けた声を出した。
「あのときは悪かったな、本当に」
「バージルからの謝罪はしっかり受け取ってやれって言われました」
「アランにか?」笑って頷く希佐を見て、バージルも少しだけ笑みを浮かべた。「あいつ、変わったよ。どこがって聞かれると困るけど。よく話すようにもなったし」
「以前はあまり話さなかったんですか?」
「座長のくせにいつも輪の外側にいて、みんなの話をぼーっと聞いてる感じ。何か聞かれれば答えるけど、自分からは口を挟んでこない」
「そうだったんですね」
でも、最初の頃は、希佐に対しても似たような態度だった。用件があるとき以外は話しかけて来ず、キッチンで居合わせることがあっても、何も言わないまま素通りされたことだってあった。当時は無視されているように感じていたが、今となっては違うと分かる。
アランの頭は常に目まぐるしく思考していて、そういうときは、周囲に目を配ることができなくなるのだ。何も考えていないように見えていても、脚本のこと、舞台のこと、演出のことを考え、精査している。ぱっと見は器用そうに見えるが、実際のところは案外不器用だ。
そのようなことを語って聞かせると、バージルは不思議そうな顔をして希佐を見た。
「二ヶ月程度の付き合いしかないやろうのことを、よくもまぁそこまで理解してやれるな」
「一つ屋根の下で暮らしていますからねぇ」希佐は少し悪戯っぽく言う。「バージルも一緒に暮らしてみたらどうです?」
「ああ、オレは無理。あんな陰気臭いやつと一緒に住むなんて考えただけでも虫唾が走る」
いつもの調子に戻って話し出したバージルを見て、希佐は心の中で安堵していた。
自分に気を使われたままでは決まりが悪いし、本番に挑む上で気持ちの行き違いが生まれてしまうのではないかと危惧していたからだ。バージルには負い目を感じてもらいたくない。青年だけでなく、希佐にとっても、頼り甲斐のある師匠でい続けて欲しいのだ。
通し稽古が終わったらステップの確認をする約束をして、バージルは希佐の隣から離れていった。
劇場内には先ほど届いたばかりのオーケストラ音源が流れている。舞台の袖に長机を設置し、そこでアイリーンとジェレマイアが音量の調節を行っていた。今回は出番の少ない二人が、アランと一緒に裏方にまわり、舞台を動かす役目も担っている。
「キサ、ちょうど良かったわ。客席から聞いた音の感じはどうだった?」
「もう少し音量をあげても大丈夫だと思います。この劇場、音が全部壁に吸収されていくような感じがあるので、スピーカーの位置も調整した方がいいかもしれません。可能ならですけど、前方からだけじゃなくて、後方からも音を出してみるとか」
「スピーカーなら、下のステージにもいくつかあったわよね。メレディスに言えば貸してもらえるかしら」
「私が聞いて来ましょうか?」
「ああ、いいのよ、ジェレマイアに行かせるから」アイリーンはそう言うと、隣にいるジェレマイアの背中を押した。「ほら、早くメレディスのところに行って来る。借りられるようなら、そのまま担いで持ってくるのよ。そういうの得意でしょう?」
「ったく、人使いが荒いんだよなぁ」
「あの、私も手伝うけど……」
「いや、いいんだよ。主役はどーんと構えていてくれ」
体調を気遣っているのか、劇団員たちは希佐に舞台の設営を手伝わせたがらない。ここの舞台には初めて立つのだから、通し稽古の時間までに感覚を掴んでおいた方が良いと、この通り放り出されてしまっている。他のみんなは忙しくしているのに、自分だけがのんびりしているようで、申し訳なさばかりが募っていた。
それでも、自分にも何か出来ることはないかと視線を彷徨わせていると、希佐の目にイライアスの姿が飛び込んでくる。イライアスは空いているスペースを使ってダンスの振りを確認しているようだった。しかし、希佐の目にはどこかいつもとは違った雰囲気に映り、違和感を覚える。
「キサ、どんな感じか見たいから、一度衣装に着替えて……」
ステージから客席の方を眺めていた希佐のところにアランがやって来た。だが、希佐が見ているものに気がつくと、ああ、と声を漏らした。
「あいつでも本番前になると人並みに緊張するらしい」
「いつもあんな感じなんですか?」
「今回はいつにも増して、かな。気になるなら声を掛けてみたら」
「でも、邪魔をするのも悪いような気がして」
「そうやって気にしたまま通し稽古をしても気が散って集中できないと思うけど」
「……じゃあ、ちょっとだけ話してきます。衣装はその後でもいいですか?」
「別に急がなくていいから」
アランはそう言うと、設営を手伝ってくれている若い子たちのところへ歩いていった。アランから声を掛けられた若手の舞台役者は、途端にぽっと頬を赤らめ、恥ずかしそうにしながら何事かを話している。
話を聞く限りでは、もう何年も前に舞台に立つことを辞めたようだが、アランのファンという人はまだまだ多くいるようだ。一体どんな役者だったのだろうと思いながら、希佐は一人で踊っているイライアスの元へ向かった。
「イライアス」
後ろからそう声をかけると、イライアスがこちらを振り返る。そして、それを見た希佐は驚いた。普段はほとんど息も乱さずに踊っているイライアスが、肩で呼吸をしていたからだ。額からは大量の汗を流している。見るからに普段とは様子が違っていた。
「大丈夫? 凄い汗だけど」
「うん」イライアスはシャツの裾で乱暴に汗を拭いながら頷いた。「大丈夫」
「お水もらってこようか」
「ううん、いい」
イライアスが緊張しているというのはどうやら本当のようだった。いつもは根を生やした木のようにどっしりと構えている印象だが、今は泉に浮かぶ木の葉のように、気持ちがゆらゆらと揺蕩っているように見える。
「……何か悩んでる?」
希佐が控えめな態度でそう訊ねると、乱れた呼吸を整えていたイライアスが横目を向けてきた。
どのように言えば角が立たないのだろうかと考えてはみるものの、希佐の言語力では上手く言葉にすることができない。結局、愚直な物の言い方しかできないのだ。
「私で良ければ話を聞くよ」
「……」
イライアスはしばらくの間、希佐を見て、ただ瞬いていた。ぱちん、ぱちん、という音が聞こえてきそうな瞬きのあと、イライアスは少し困っているような顔をした。
「……僕だけ」イライアスは惑うように言った。「僕だけ、舞台に立つ準備が整っていないような気がして」
希佐はこんなにも不安を露わにするイライアスを見たことがなかった。いつもどこか飄々としていて、自分のダンスに確固たる自信を持ち、迷うことなどないように思えていたイライアスが、その目を不安でかげらせている。
このまま放ってはおけないと考えた希佐は、客席にイライアスを座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。そして、待つ。無理に聞き出すのではなく、イライアスが自分から話し出すのを、ただ待つことにした。
背後からはアイリーンに言われてスピーカーを担いできたジェレマイアの呻き声が聞こえてくる。肩越しに振り返ってみると、開け放たれた劇場の扉の向こう側から、ジェレマイアが入って来るところだった。手伝いに来ていた人たちが慌てて駆け寄り、スピーカーを運ぶ手助けをしてくれていた。
「……多分、僕の台詞はまた削られると思う」イライアスが呟くように言った。「多分じゃなくて、絶対」
「どうして?」
「僕はまるで喋るマネキンだって言われてる。見栄えがするのはダンスだけで、演技は素人以下。ただ棒立ちになって決められた台詞を言うだけの人形」
「……一体誰がそんなことを言うの?」
「舞台評論家とか芸能記者とかマニア向けのブロガーとか、あとはSNSとかでも」
地獄だ、と希佐は思った。
ユニヴェールにもフォロワーの中にはアンチと呼ばれる人々がそれなりにいるが、希佐自身はその人々の発言をそこまで気に留めてはいなかった。ただ、女だということがその人たちに露見してしまったら、と恐怖を覚えたことはある。そうなれば、彼、もしくは彼女らは希佐を吊し上げ、十字架に縛り付けて、断罪しただろう。希佐を炙った火はクォーツの仲間やユニヴェールそのものに飛び火し、取り返しがつかなくなることは目に見えていた。
イライアスが感じている痛みは、それに近い感情なのではないかと、希佐は思った。自分は気にしていないつもりでも、心のどこかでは、そうした言葉が常に引っ掛かっている。自分の存在が仲間の足を引っ張ってしまうのではないかと苛まれる程度には。イライアスの場合は、ダンスの能力が群を抜いているため、それと演技が比較されてしまうのだ。
批判するのは簡単なことだ。その人の上辺だけを見て、本番当日の出来栄えだけで、物事を判断すればいいのだから。その人がどれだけの努力を積み上げて来たのかなど彼らには関係がない。たった一度きりの本番ですべてを出し切ることの難しさを、彼らは知らない。
ガラスの積み木で作り上げられた城の最後の旗が、立派に掲げられるか、城そのものが木っ端微塵に崩壊するのかは、終わってみなければ分からないことだ。舞台に立つ人間は常にそのプレッシャーと闘っている。成功と失敗は常に紙一重だが、舞台人たちは、いつだって成功を信じて舞台に立っている。
「言いたい人には言わせておけばいい、なんて、聞き飽きた言葉だとは思うけど」希佐は朗らかな口振りで言った。「私は、演技力が成長する速さって人それぞれだと思っているんだ。あっという間に上達する人もいれば、何かのきっかけで飛躍的に伸びる人もいる。イライアスの場合は後者のタイプで、まだそのきっかけが掴めていないだけなんじゃないのかな」
イライアスは疑わしそうに目を細めて希佐のことを見ている。気休めのために言っているだけだと思われているのだろう。だが、これが希佐の本心なのだ。
「私はイライアスを喋るマネキンだとは思わない。マネキンはあなたみたいに情熱的には踊れない。私が日舞を舞って見せたとき、あなたの視線がすごく熱くて困るくらいだった。マネキンはそんな目で私のことを見たりしない」
「キサ……」
「私、イライアスのダンスが大好き。イライアスが振り付けしてくれたダンスを、舞台の上で踊るのが楽しみなんだよ。このダンスならどんなオーディションだって合格できるって思える」
だから、と言って、希佐はイライアスのガラス玉のような目を見つめた。
「イライアスはもっと自分に自信を持っていい。他人の評価なんて気にしないで、自分が思うように演じたらいいんだよ。その結果、またあなたのことを喋るマネキンだなんて言い出す人が現れたら、私が何度でも思い出させてあげる。あなたはとても才能豊かなダンサーで、まだその華を開花させていないだけの、将来有望な舞台人だって」
希佐の言葉に嘘はない。イライアスには豊かな才能がある。ダンスであれだけの感情をひけらかすことのできる人間が、演技ができないなんてことはあり得ないのだ。
「アランだって、焦る必要はないって思っているんじゃないかな。彼はただ演技力が高いだけの役者が欲しかったわけじゃない。あなたの才能に惹かれたんだと思う。だから、上手く演じられなくたって構わない。なんなら演出家のせいにしてもいいくらい」
「僕が演じられないのをアランのせいにするの?」
「最終的には演出家が判断をして役者を舞台に立たせるのだから、彼だってそのくらいの覚悟は出来てると思うけど」
そうあっけらかんと言ってのける希佐の顔を見て呆気に取られていたイライアスの目に、いつも通りの輝きが戻りつつあるのを目の当たりにした希佐は、嬉しくなった。自分の拙い言葉でも、イライアスの心まで届いたようだと分かり、安心する。
「……ありがとう、キサ」
「明日は一緒に頑張ろう。その前に通し稽古があるんだけどね……」
「うん、頑張ろう」
通し稽古が上手くいかなかったらと思うとゾッとするが、今はそのことを考えないようにした。
幸い、昨日一日休みをもらったおかげで、体中を覆っていた倦怠感のようなものは前日よりも薄れている。不思議と体が軽いのだ。集中力が戻ってきたようで、頭の中が冴えているような感覚もある。
呼ばれているからといってその場を離れた希佐は、ステージの段差に座り、台本を片手に当日の流れの確認をしていたアランの元に向かった。事細かく指示を書き込んでいたアランは希佐を一瞥すると、再び手元に視線を戻した。
「話は終わったの?」
「はい」
「じゃあ、衣装着てきて。そこに置いてある。全部で三着あるから、一着ずつ」
「三着もあるんですか?」
「実際には四着だけど。冒頭は衣装の上にガウン羽織るから」そう言ってから、アランは思い出したように言う。「早着替え、できる?」
「一応は」
「それならいい」
アランは台本をぱらぱらとめくりながら、着替えのタイミングを指示していく。音を出すタイミングもあるので、何秒、という時間まで指定された。それは本番前日にする話なのかと思わないでもなかったが、今更文句を言ったところで後の祭りだ。
衣装を取っ替え引っ替え、ファッションショーよろしく自分の前に現れる希佐を眺めていたアランは、何事かを考えながら台本の空いているスペースに鉛筆を走らせていた。三着目の衣装を着たまま希佐がその手元を覗き込むと、数パターンのヘアスタイルのアイディアが描き込まれていく。
「冒頭は無造作な感じがいいと思う。オーディションのときは、少し整える程度で。徐々に変化を出したい」
「最後は、こう、撫でつける感じはどうですか?」
希佐がそう言って、実際に額の前髪を後頭部に向かって撫でつけて見せると、アランは口元に手を添えながらその姿をじっと見つめてくる。その状態がしばらく続き、希佐が耐えきれずに困惑の表情を浮かべると、アランはポケットからスマートフォンを取り出してどこかに電話をかけはじめた。
「俺だ。帽子、追加で用意してくれ……ああ、いや、作れとは言ってない。既製品でいいから、主役の三着目の衣装に合いそうなキャスケット帽を探して……あー、はいはい、分かった、分かったから。じゃあ、頼んだ」
電話口の向こうからは、未だに何かを叫んでいるような声が聞こえてきていたが、アランは構わずに電話を切った。そして、スマホをポケットにねじ込むと、ヘアアレンジのところに帽子の絵を描き込んでいく。
「あ、あの……」
「髪を撫でつけるのはいいと思う。君はどちらかというと少年っぽさが強いから、額を見せた方が大人っぽく見える。帽子は合わなかったら被らなくてもいいけど、ダンスの小道具としても使えるから、考えておいて」
「あ、はい」
「それか、後ろで一つに結んでもいいな」
アランは腰をあげて希佐の前に立つと桜色の髪に触れ、後頭部で一つにまとめてみせた。顎に手を添えて顔を上向かせると、吟味するように眺める。
「君は衣装映えするんだな」
「そうですか?」
「よく似合う」
希佐の髪を束ねていた手を離すと、アランは再びステージに腰を下ろした。台本に書き込む手はとまらない。しかし、希佐が直立不動のままでいるのを見ると、首を傾げながら奥の控え室を指した。
「もう着替えてきていいよ」
「……分かりました」
あれで本人は無自覚なのだろうからたちが悪い。
だからラブストーリーを書けと言うのだと、希佐は思った。
その後、通し稽古は滞りなく行われた。
イライアスの演技に劇的な変化は見られなかったが、何かを模索しているような、微かなもがきや足掻きのようなものが見受けられたような気がした。アランにもそれが感じられたのか、パブからスタジオに帰る道すがら、希佐に声をかけてくる。
「あいつになんて言ってやったの?」
「何の話ですか?」希佐がわざとらしく尋ね返すと、アランは前髪の影から呆れたような目を向けてきた。「別にたいしたことは言っていませんよ。ただ、少し話をしただけです」
「ふうん」
ただ、ほんの少しだけ、前に進もうとしている背中を押してみただけだ。あとはもう、誰にも手助けをすることはできない。自分次第でどうとでもなる。だが、本人が変わる努力をしないかぎり、永遠に喋るマネキンと呼ばれ続けることになるのだろう。
しかし、希佐は確信しているのだ。イライアスは確かに変わりたがっていた。それならば、変われるはずだ。ダンスで感情を爆発させられるように、演技の殻も破ることができるはずだと、信じている。
それを見てみたいと心から思うのだ。つぼみが美しい華になるその瞬間を、この目で。
希佐はかつてその様子を見たことがある。自らの殻を破り、舞台人として開花した幼馴染の姿を、今でも昨日のことのように思い出すことができる。あんなに素晴らしい瞬間は、そうそう見られるものではない。だからこそ、見てみたい。
「おい、キサ! さっさと戻ってステップの最終確認するぞ!」
バイクを引きながら先頭を歩いていたバージルが、一番後ろを歩いている希佐に向かって大声を張り上げる。すると、その後ろを歩いていたノアが近所迷惑だと言ってバージルを叱りつけた。いつものように口喧嘩をはじめた二人を見てアイリーンは呆れ顔だ。ジェレマイアは、やれやれという顔をして、二人の間に止めに入る。イライアスは我関せずというふうに、ぼんやりと宙を眺めていた。
そうしたいつもの光景を一番後ろから眺めながら、希佐はしみじみと思う。
なんて素敵な一幕なのだろう。
今、このときが、永遠に終わらなければいいのに。
明日の公演が楽しみであるのと同時に、終わってしまうことが悲しくもあった。こんな感覚は久しぶりのことだ。つらくて仕方がないのに、たまらなく幸せだった。
離れたくないと思った。
私が見つけた、私だけの場所。
「キサ」
不意に名前を呼ばれ、希佐は後ろを振り返ろうとした。しかし、思ったよりも近くにアランの体があり、驚いて頭上を振り仰ぐ。するとその瞬間、夕日を浴びて、いつにも増して赤く染まった髪の色に、視界が染まった。頬に手の平が添えられ、唇にやわらかいものが触れる。
「……え?」
何をされたのか自覚するよりも先に、アランの体は離れていった。まるで何事もなかったかのように、希佐の前を歩いていく。道の真ん中で足を止めた希佐は、驚きのあまり詰めていた息を一気に吐き出すと、自らの唇に触れた。
ああ、なんて卑怯で、ずるい人。