ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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昔話

 真夜中過ぎまで稽古を続けていたら、半ば強引にスタジオから追い出されてしまった。強制的に消灯され、早く寝ろと鋭い眼差しを向けられる。人にあんなことをしておきながら、それが希佐の勘違いだったのではないかと思ってしまうほどに、アランはいつも通りの態度だった。

 それでもベッドに入れば眠れるのだから現金なものだと思う。湯を張った風呂でしっかり温まり、マッサージとストレッチを念入りにをしたのが良かったのだろう。

 朝までぐっすりと眠った希佐は、寝ぼけ眼のままカーテンの外側を覗き込んだ。ざあざあ、という音を聞きながら、今日は雨降りだということを理解する。

「……公演日は、いつも晴れだったのに」

 見にきてくれる予定のお客さんたちはがっかりしていないだろうか。気が重くはならないだろうか。ちゃんと劇場に足を運んでくれるだろうか。

 ぼんやりとする頭で取り留めのないことを考えていると、不意にドアがノックされたような気がした。上半身だけを起こしてドアを睨んでいると、もう一度ノックされる。どうやら希佐の勘違いではなかったようだ。

 慌てて手櫛で髪を整え、パジャマがわりに着ているTシャツの上から、稽古着の上着を羽織る。段ボールに足を引っ掛けないよう気をつけながら進み、希佐はそっとドアを開いた。

「……おはようございます」

 少し掠れた声が出た。ドアの前に立っていたアランは、ぼーっとした様子で出てきた希佐を見て息を吐くと、キッチンの方を指した。

「朝食の用意ができてるから」

「……はい?」

「公演日は早めの時間に軽い食事をする」時刻は七時だ。「早く食べて」

「あ、はい」

 希佐はドアを閉めると着ていたものを脱ぎ捨て、適当な洋服を掴み取った。いつもと同じ、代わり映えのしない格好に着替えて部屋を出ていくと、キッチンに立っているアランの姿が見える。テーブルの上には、既に朝食の支度が整っていた。

「私のために作ってくれたんですか?」

 アランは朝食の席には座らない。いつも濃く入れた紅茶にミルクを入れて飲んでいるだけだ。本人は食べると調子が悪くなるからと言って、いつも大きなマグを片手に持ち、事務室に引き上げていっていた。

「別に君のためというわけじゃない」目を丸くする希佐を見て、アランは小さく肩をすくめる。「公演日はいつもこれを食べるんだ」

「……パンケーキを、ですか?」

 イギリスのパンケーキは日本人が想像するところのクレープに近い。焼き上がった生地はもっちりとしている。基本的には甘くないので、仕上げに粉糖を振りかけたあと、お好みでレモン汁をかけて食べるのだ。

「俺が舞台に立ってた頃は、公演日の朝にいつもこれを食べてた。だから、妙な習慣になってて」

「ああ、それでついでに私の分も作ってくれたんですね」希佐は椅子に座りながらにこりと笑った。「ありがとうございます、嬉しいです」

 両手を合わせ、いただきます、と日本語で口にしてから、希佐はパンケーキの上でレモンを絞る。ナイフとフォークを手に取ると、程良い大きさに切り分けて口に運んだ。レモン汁を吸って僅かに溶けた粉糖が、舌の熱に触れると、途端に甘酸っぱい風味が口の中に広がった。

 アランは冷蔵庫から取り出してきたオレンジジュースをグラスに注ぎ、それを希佐の前に置いた。

「体調はどう?」

「いい感じです」

「そう」アランは自分の朝食を前にして腰を下ろした。「劇場入り前に体と喉を温めておいて。昨日は遅くまで踊ってたし、タップダンスの確認はほどほどに。歌はアイリーンが来たら最終確認をしてもらうといい」

「はい」

「……君は緊張とかしないの」

「それが不思議としないんですよね」

「学生時代から?」

「はい。ユニヴェールは公演ごとに各クラスが順位や個人賞を競い合うんですけど、自分のことよりも、どうしたらクラスを優勝に導けるのかどうかばかり考えていました。個人的に緊張をしている暇はなかったのかもしれません」

「へえ」

「今回の公演も心配事はあるんですよ。きちんとお客様を楽しませて差し上げられるかな、とか……そういえば、チケットの売れ行きってどんな感じなんですか?」

「チケット販売は全部メレディスに任せてるから俺は知らない」

 劇団の座長が無責任なことこの上ないが、いくら劇場の客席数が少ないとはいえ、人付き合いも満足にできないアランには公演チケットを捌ききることができないのだろう。その点、メレディスに任せておけば安心、と思う気持ちはよく分かる。あの男は、希佐が日本を飛び出してから出会った人の中で、一、二を争う誠実な人間だった。

「でも、今回は舞台関係者が異常に多いって話だった」

「え、どうしてですか?」

「君を目当てに来るんだよ」

「私、ですか?」

「マクファーソンが触れ回ったんだろうな。あの御涙頂戴の演出と脚本しか書けない兄弟。あの舞台の何がいいのか俺にはさっぱり分からない」

「……もしかして、あの人たちのこと嫌いなんですか?」

「嫌いだ」

 アランが自分の感情を表に出していることが珍しくて、希佐は思わず面食らってしまった。しかし、普段とは違った一面を見られたことが嬉しくて笑うと、不愉快そうに顔をそらされる。

「でも、あの人たちはアランのことを好きみたいでしたよ」

「嬉しくないね」

 食事を終え、希佐が食器を洗っていると、アランのスマートフォンに電話がかかってきた。希佐の真後ろでアランが通話ボタンを押すと、こちらから何かを言うよりも早く、向こう側から大声が上がる。スマホを耳に当てていなくても、それどころか希佐にまで、その声は丸聞こえだった。

『ご所望の帽子、届けに来てやったわよ! ほら、さっさと開けて、中に入れなさい! 中に!』

「朝からうるさいんだけど」アランはスマホを耳には近づけず、顔の前に掲げながら話していた。「今開けに行くから、大人しく待ってろ」

『何よ、その言い草! 大体、私はね──』

 ピ、という無情な音が聞こえ、電話口の向こうで叫ばれていた言葉が途端に途切れた。希佐が苦笑いを浮かべていると、アランは面倒臭そうに立ち上がり、階下に降りていった。声を聞くかぎりでは、華やかで、賑やかそうな人だった。

 一体どんな人なのだろうと思いながら稽古着に着替え、軽く体を動かすためにスタジオに降りていくと、その手前にある事務室にその人はいた。

 アランに負けず劣らずのすらりとした長身で、全身を黒でまとめた格好をしたその人は、階段から降りてきた希佐を見るなり、険しい眼差しを向けてきた。しかし、その目はあっという間に輝きを帯びる。その人は、足元に積み上げられた本を薙ぎ倒しながら、希佐の目と鼻の先までやってきた。

「まあまあ、あなたが希佐なのね!」

「あ、あの、はい、そうですが……」

「いつになったらあなたに会えるのかって思っていたのよ。アランったら、あなたの寸法と衣装のデザイン画だけ送りつけてきて、実際には会わせてくれないんだもの。ホント、酷いったらないわ」

「す、すみませんが、その、こちらの方は……」

「彼女はダイアナ。ファッションデザイナーで、いつも公演の衣装を担当してくれてる」

「ああ、そうだったんですね」ふむふむと自分の体を眺めているダイアナを見上げ、希佐は笑顔を見せた。「間に合わせてくださって、ありがとうございます。どのお衣装もとても素敵でした」

「気に入ってくれたの?」

「はい、とても」

「まあ、嬉しいわ」

 何だかモナさんを思い出すな、と思いながら、希佐は挨拶だけをしてその場を立ち去ろうとした。しかし、ダイアナは希佐の肩を掴み、爪が真っ赤に染められた指先で顎をすくうと、本当にまじまじと顔を覗き込んでくる。不躾に感じられるほどの眼差しを向けられてたじたじになっていると、見かねたアランが助け舟を出した。

「おい、うちの主役が怯えてるだろうが」

「怯えるなんてそんな言い方しないでちょうだいよ。ねえ、キサ? そんなことないわよね?」

「あっ、は、はい……」

「気を使うな」

 類は友を呼ぶとは良く言ったものだ。このダイアナという女性も、アランに負けないくらいに美しい容貌をしていた。体の線を強調する衣服を身に纏っているが、日々鍛えているのが分かるほど、かなり引き締まった体躯をしている。男女に関わらずモテそうだ。

「あなた、見れば見るほど綺麗なお顔をしているわねぇ」ダイアナはどこかうっとりとした顔でそう言ったが、すぐにその表情を引き締めた。「でも、採寸したときよりも少し痩せたでしょう? きちんと食べなきゃダメよ、キサ。衣装はフィッティングし直さなきゃいけないわね」

「昨日着せて確認した──」

「お黙りなさいな。これはあなたみたいなズボラな男には分からないオンナの美学なのよ」

「でも、衣装はヘスティアの控え室に置いてきてしまって……」

「大丈夫よ、私も一緒について行くから」

 アランは「マジかよ……」と小言を漏らしたが、それだけだった。すぐに何を言っても無駄だと悟ったらしい。ため息を吐きながら大きく肩をすくめると、座っていた椅子を回転させてディスプレイに向き直った。

「キサ、いつまでも付き合うことないから」

「じゃ、じゃあ、私は他の人たちが来るまで体を動かしていますね」

「頑張ってね、キサ」

 最初に感じたイメージ通りの人だったなと思いながら、希佐はスタジオに入る。昨日置いたままにしていたヨガマットを広げて、その上で念入りなストレッチをはじめた。

 こうして体を動かしてみて、改めて感じる。体の調子は悪くない。むしろ、良すぎるくらいだ。相変わらず体が軽く、可動域も広いのが分かった。だが、こういうときほど怪我に繋がりやすく、注意が必要だ。

 十分に気をつけようと希佐が気を引き締めていると、今度はアイリーンとイライアスが連れ立ってやってきた。ノアはこの雨の中をバージルのバイクに乗せられて登場し、ジェレマイアは朝市でフルーツを買ってきたと言って、濡れた段ボールを抱えて現れた。

「キサは本番で踊りまくるから昼飯もがっつりは食べられないと思ってさ」

「ありがとう、ジェレマイア」

 昨日、本番同様の通し稽古が滞りなく行われたことで、全員に精神的な余裕が現れていた。バージルとアイリーンは希佐に多くのことは求めず、注意点をいくつか指摘する程度で話を終えた。

 舞台に立って芝居をする上でアドリブは必要か否かという話題になったとき、最初に口火を切ったのはバージルだった。

「ま、その辺りは臨機応変に、だな。舞台に立ってみないことには、客の目がどんな感じかってのも分からねぇし、誰でも咄嗟の対応ができるかといえば、そうでもないだろ」

「私、アドリブって苦手なのよね」アイリーンが憂鬱そうに言う。「突然台本にないことを言われてしまうと、頭が真っ白になってしまうのよ」

「僕はどうかなぁ。ほとんど経験がないから分からないけど、もしかしたら台詞に詰まっちゃうかも」ノアはそう言うと、小首を傾げながら希佐を見た。「キサは?」

「振られれば合わせられるよ」

「おっ、心強い」

「学生の頃に即興劇とか良くやっていたし、本番中にも無茶振りをしたりされたりしていたから、アドリブには慣れている方なのかも」

「本番中の無茶振りって控えめに言ってヤバくない……?」

「直前にその方が面白くなるんじゃないかとか、良い結果になるんじゃないかとか、色々考えた結果だから。でも、バージルの言う通り臨機応変に動くのが一番良いと思う。無理にアドリブを挟んだって、その後を自然に繋げるのも大変だし、丁寧に台本をなぞっていった方が安心ではあるよね」

 そもそも、脚本家が自分の書いた台詞以外の言葉を、舞台上で発言することを許すかどうか、という問題もある。だが、全員が話し合っているところにアランが現れたとき、ノアがそのことを尋ねると、好きにしたら、という答えが返ってきた。

「舞台に立ってる人間が必要なことだと考えるならそれが最善なんだと思うよ。そもそも舞台は生き物だから、はじまってみないと何が起こるかなんて分からない。必ずしも外的要因がないとは言い切れない状況下にある以上、もっと柔軟性のある物の考え方をしておいた方がいい。小劇場って事故みたいなことが起こりやすい傾向があるから」

「事故?」

 みんなの話を黙って聞いていたイライアスが首を傾げた。

「大きな劇場みたいに外界から守られてないからな。外の騒音は聞こえてくるし、チケット買えなかったやつが上演中に無理やり入ってこようとしたこともあった。酔っ払いが騒ぎ出すとか、隣の客と喧嘩をはじめるとか、モラルを疑うことが平気で起きたりする」

「うわあ……」

「まあ、あそこはメレディスの縄張りだし、これまでも何も起こらなかったから、過度な心配はしなくていいのかもしれないけど」

 そういう話を聞かされると、途端に親な予感を覚え、妙な胸騒ぎを感じるのはなぜなのだろう。そして、そうした希佐の胸をざわつかせる予感めいたものはいつも、大抵の場合的中する。どんなことが起きても対応できるように、心の準備だけはしておいた方が良さそうだと、希佐は思った。

 主役として恥ずかしい演技をするわけにはいかない。信じて任せてもらえた役割を、最後まで責任を持って全うするのだ。仲間たちが迷うことなく、その背中を追いかけることができるように。

 

 開場の二時間ほど前に劇場入りした劇団員たちは、順番にダイアナのフィッティングを受けていた。他の者たちよりも衣装の数が多い希佐は、最後に回ってくる自分の順番を待ちながら、遮光性の高いカーテンに潜り込んで、窓の外の景色を眺めていた。

 今日の雨はとてもしつこいようで、朝からずっと降り続いている。天気予報でもそう言っていたが、このまま明日まで降りやむことはないのだろう。

 希佐は窓枠に頬杖をついて、灰色のロンドンを見つめている。まだ昼間だというのに、道には街灯が点っていた。さすがのイギリス人も傘を差さずには歩けないのか、色とりどりの傘が地上で花のように咲いて見えるのが美しい。

「こんなところにいたのか」

 希佐の姿が見当たらずに探していたらしいアランが、カーテンの裾から覗く足を見つけたようだ。自らもその中に潜り込んでくると、一緒になって窓の外を眺めだした。

 希佐は少しだけ視線を外して、窓ガラスに映っているアランの顔に目を向けた。

 この二ヶ月はあまりに目まぐるしく過ぎていった。ユニヴェールにいた頃と同じように、あっという間に過ぎていったが、起こったことのすべてを覚えている。

 昨日のキスは、いわゆるそういうことなのだろうかと思う反面、希佐はそれ自体を受け入れておきながら、未だ認めたくないという複雑な思いを抱えていた。

 自分は少なからずアランに思いを寄せていると、希佐は自覚していた。

 いつかこんな日が訪れるのだろうとは思っていた。日本を離れるという決意をしたときから、高科更文の隣にいるときでさえ、いつか同じように、他の誰かに心を奪われる瞬間が訪れるのだろうと、覚悟は決めていたのだ。だが、正直なところ、希佐はたった二ヶ月というい短い時の流れの中で、誰かにこんな感情を抱くことになるとは思ってもいなかった。

 当初は、なんて強引で、不躾で、無神経な人なのだろうと思っていた。それなのに、この人のことを少しずつでも知っていくにつれて、そうではないのだということを思い知らされていった。

 この人はいつも少し言葉が足りず、不器用で、人から勘違いをされがちだ。でも、本当は誰よりも人間の感情の機微に敏感で、だからこそ、人との間に距離を置いてしまう。関わり合うことを避けてしまう。きっと、誰かを傷つけてしまうことも、自分が傷つくことも嫌なのだ。顔を隠して生きることを選ぶほどつらい過去が、そうさせているのかもしれない。

 そんな人がなぜ、自分に同じような思いを向けてくれるようになったのか、希佐にはよく分からないのだ。日本から逃げ出してきた過去や、心身共にぼろぼろになってしまった今を知って、心に暗い闇のようなものを抱えている面倒なだけの女を、なぜ好いてくれるようになったのか。

「……あ」

 不意に、窓ガラス越しにアランと目が合ってしまい、希佐は小さく声をあげる。また顔をじっと見つめられていたと知ったら不快に思うだろうと考えた希佐は、咄嗟に目を逸らした。

「俺の顔は見世物じゃない」

「ご、ごめんなさ──」

「こそこそしてないで、見たければ見れば?」その言葉に驚いて顔を上げると、アランがこちらを向いていた。「いいよ、見ても」

「でも……」

 躊躇いを見せる希佐の手をアランが取った。その手がアランの顔の前までゆっくりと運ばれていく。そして、指先が長い赤毛の前髪に触れると、アランの手が離れていった。

 アランはただ待っている。希佐は反射的に少しだけ手を引いてから、下唇を噛み締めると覚悟を決め、自らの意思でアランの髪に触れた。指先で額に触れ、カーテンをそっと引くように、前髪を耳にかける。耳にかかりきらなかった髪の毛がさらさらとこぼれていく様も、希佐を見る宝石のような緑の目も、その目を縁取る長いまつげまで、何もかもが息を呑むほど美しいのだ。

 それなのに、アランがどこか哀しそうな顔をしているように見えるから、希佐も胸が苦しくなる。

「前に君が言ったことだけど」

「え?」

「彼の耳が聞こえないのも、彼女の目が見えないのも、俺の過去を反映してるって話」アランの声はとても小さくて、こんなにも近くにいるのに、耳をそばだてていないと聞こえないほどだった。「その通りだよ。俺には聞きたくなかった言葉や、目にしたくなかったものがある。今考えてみるとしょうもないことのようにも思えるけど、当時の俺はまだ子供で、その感情を自分の中で解消できるほど、強い人間じゃなかった」

 緑の目が翳る。緑の泉の中に墨汁を流し込んだみたいに、暗い色が清らかなものを侵食していくようだと感じた。

「あのとき子供だった俺が、今も俺の中にいるんだ。もうずっと、十年近くも共存していて、毎日苦痛を吐き出し続けてる。俺はただそれを受け止めてやることしかできない。過去の俺の話を聞いてやれるのは、未来の、今の俺しかいなかった」

「アラン……」

 ああ、どうして。どうして、こんなにも美しい人が、まるで自分を醜いもののように感じながら、生きていかなければならないのか。過去のトラウマがそうさせるのか。どうすれば、それを取り除き、この人を救ってあげられるのだろう。

 希佐は両腕を差し伸ばすと、アランの首に絡めて、そっと引き寄せた。壊れ物を扱うみたいに、優しく。アランは抵抗せず、引き寄せられるままになっている。希佐の首筋に顔を埋め、じっとしていた。

「……俺は、見てみたかったんだ」

 アランはそう言うと、希佐の小さな背中に両腕を這わせ、抱き締め返してきた。最初は力なかった腕が、徐々に縋るような感覚を帯びはじめる。まるで、助けを求める子供のように。

「もしあのまま舞台に立ち続けていたら、どんな未来が待ち受けていたのか。目を閉じて、耳を塞いででも前に進み続けていたら、俺にはどんな可能性があったのか。夢と絶望、成功と挫折、遭遇と乖離──ありとあらゆる可能性がそこにはあって、少なくとも、こんな俺になることはなかった……」

 そんなことない、と否定することはできない。過去の選択が未来を決めることは、希佐自身が誰よりも、痛いほどよく知っている。確かに悔やむことはあるけれど、過去の自分の選択を尊重したいと思うのだ。それが最善だったのだと信じたいから。

「……脚本、君のために書き直したと言ったけど、本当は半分以上が自分のためだった。ごめん。でも、君なら演じられると思ったんだ。形は違うけど、君の中には、俺と同じ暗い影があると分かったから。君なら子供だった俺を救ってくれるんじゃないかって……勝手だよな……」

 今にも消え入りそうな声で、悪い、ごめん、と何度も懺悔する。そんなことは気にしなくていいのにと思う一方、本当に勝手だと思う希佐もいた。もっと早くに話してくれていたら、いくらでもやりようはあったのに。

 結局、希佐とアランはどこか似ているけれど、チグハグなのだ。青年と女の子のように。けれど、これだけは絶対だと、そう言い切れることがある。

 二人はどこまでも舞台人なのだ。舞台の上と下、立ち位置は違えど、人生と舞台を切り離して考えることができない。あまりに密接に隣り合っているから、逃げたくても逃げることができない。舞台の魅力に取り憑かれてしまっている。もうそれなしでは生きていけなくなってしまった。舞台のない人生など想像することもできない。舞台と共に生きていく覚悟を、決心を、固めようとしている、この舞台の、出来次第で。

「──キサァ、そろそろフィッティングはじめないと本番に間に合わないわよー」

「あっ、はい。今行きます」

 カーテンの向こう側からダイアナの声が聞こえ、希佐は慌てて返事をする。アランは希佐の背中に回していた腕をすっと離すと、露わになった左の目でこちらを見下ろしてきた。その物言いたげな眼差しを見ていると、離れ難い気持ちになる。

「本番は、君が演じたいように演じればいい。俺は、その先にあるものを見たいんだ」

 アランはそう言うとカーテンをたくし上げ、希佐を外側に送り出した。自分はそこから出てくることをせず、窓の外を眺めているようだ。

「さ、急ぎましょ」

 フィッティングを終えた者たちは一ヶ所に集まって、雑談をしながら本番前の腹ごしらえをしていた。希佐が見ていることに気づいたバージルは、口の端を持ち上げてにやりと笑った。どうやらカーテンの影に隠れて二人で話していたことを茶化しているらしい。そんなんじゃないと睨みつけると、バージルはますます面白そうに笑っていた。

「ありがとうね、キサ」

「えっ?」

 控え室で衣装のウエストを確認しているときに、ダイアナがいやに真剣味を帯びた声でを出すので、希佐は思わず驚いてしまった。ダイアナは希佐の後ろに回り込むと、布に針を通しながら言った。

「アランの話を聞いてあげてくれて、ありがとう」

「あ、あの……」

「私とアランって子供の頃からの付き合いなのよ。私の父親がメレディスの劇団に所属していてね、稽古場にもよく遊びに行っていたの。アランとはそこで出会って、こうして今もお友達……と、思っているのは、私だけなのかもしれないけれど」

 だからね、と言いながら、ダイアナは衣装のチェックを進めていく。

「アランの身に何があったのかは知ってる。心に負った傷のこともね。それは長い間彼の心を苦しめていて、彼のいろいろなものを歪ませてしまった。ああ見えても、昔はどこにでもいる普通の生意気な子供だったのよ。いつも劇団の大人たちの手を焼かせていたわ」

「そうだったんですね」

「……知りたい?」ダイアナが希佐の心を探るように問いかけてきた。「彼の身に何があったのか。知りたいのなら教えてあげるわよ」

 考えるまでもないことだった。希佐は衣装を着せたままウエストを詰めているダイアナを肩越しに振り返り、首を横に振った。

「私には知る必要のないことです」

「どうしてそう思うの?」

「私は今のあの人を好きなので」

「──まあ!」ふふふ、とダイアナは嬉しそうに笑った。「あの男は相当面倒臭いわよ、キサ。長く付き合っていくつもりなら、覚悟を決めておくことね」

 この先のことなんて何ひとつ分からない。この公演が成功するのか、失敗に終わるのかも、今の希佐には分からないことだ。だが、信じている。いつだって舞台に立つ前から信じてきた。みんなの努力が報われて、この舞台は必ず成功すると。楽しんでもらえると。

 今度も舞台も同じだ、と希佐は思った。

 必ず成功させてみせる。

 自分と、あの人と、劇団のために。

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