開場時間を迎えた小劇場の喧騒は控え室まで聞こえてきていた。
舞台メイクを終えてアランに最終確認をしてもらっている希佐の隣では、ノアが一所懸命に手の平のしわの本数を数えていた。そうしていると心が落ち着くらしい。イライアスは台本を睨んでいるし、アイリーンはヘッドホンから漏れ聞こえてくるくらい大きな音で音楽を聞き、ジェレマイアは腕立て伏せをして気を紛らわせている。平然としているのはバージルくらいだろうか。
ダイアナは空いている席はないものかとメレディスに確認をしに向かったが、案の定そんなものはないとあしらわれ、泣き面で戻ってきた。本日の功労者を無下に扱うのも悪いと思ったのか、アランは大人しくしているなら舞台袖から見ていてもいいと言い、ダイアナを喜ばせていた。
そして、本番五分前。希佐の胸は大きく高鳴っていた。期待と興奮が脳内を駆け回っているのが分かる。久しぶりの高揚感にほんの少しだけ戸惑い、気持ちを落ち着かせるために胸を押さえていると、バージルが隣にやってきた。
「緊張してるのか?」
「いえ」希佐は首を横に振る。「楽しみすぎて気持ちが高揚しているから、少し落ち着かないと」
「マジか、お前は肝座ってるなぁ」
「バージルは?」
「俺は自分のことよりお前のことの方が心配だよ。タップダンスでとちるんじゃないかってな」
「本番には強い方なので大丈夫です」
「じゃ、あんまり最初から飛ばしすぎるなよ。後半でバテたら目も当てられないからな」
「はい」
大きく深呼吸をする。吸い込んだ息を、ゆっくりと、時間をかけて吐き出す。
本番三分前。希佐は舞台袖に一人で立っているアランの隣に行き、暗がりの中でその手を取った。少し驚いたような顔が希佐を見下ろした。
「私は、私の思うままに演じてきます」希佐は舞台を見つめたまま、アランの手を強く握った。「その上で、私があなたを、あの舞台の先に連れて行きます」
アランが微かに息を呑むのが分かった。横顔に視線を感じる。握った手をより強く握り返され、耳元に顔が寄せられた。
「楽しんで」目尻にやわらかいものが触れる。「幸運を、キサ」
本番一分前、舞台上に立つ。たったひとりで。でも、大丈夫だ。舞台の上は、決して孤独な場所ではないことを、希佐は知っているから。
劇場の灯りが消える。降ろされていた緞帳が上がり、舞台が幕を開ける。
舞台の後方からまばゆいスポットライトが点灯した。すると、一脚のカウチが照らし出される。ジリリリリ──目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴り響くと、カウチから腕のシルエットだけが伸びた。その腕が振り下ろされ、ぱしん、と目覚まし時計の頭を叩くと、アラーム音が止まり、劇場に静寂が戻った。
「ふ、わああ……」
前日の疲れを引きずっているような欠伸を漏らした。『青年』はカウチの上でゆっくりと身を起こし、頭を傾けると、億劫そうに肩を回した。
そのシルエットだけが、舞台上に浮かび上がっている。体のどこに疲れが溜まっているのか、それが細部まで伝わる動きの演技は、ユニヴェール時代に学んだ。
「本番前日だからって、昨夜はちょっと張り切りすぎたかな」スポットライトを浴びた状態のまま軽くストレッチをし、希佐は台本にはない言葉を口にする。「今日は目の肥えた審査員が大勢来るだろうから、入念に体を動かしておかないと」
刺すような視線を感じる。身体中に、至るところから。
純粋な観客というよりも、値踏みをしてやろうという、不躾な眼差しの方がずっと多いようだ。ユニヴェールの公演を観劇しにくる客層とはまるで種類が違う。どこまでも厳しい目だ。これがプロの世界なのかと思う。これが劇場地区で舞台をするということなのか。
たった一度きりの本番。一夜限りの夢。だからこそ、人々の見る目は一層厳しくなる。一瞬たりとも見逃すまいという気概を感じるのだ。失態は一生の汚名となる。最高の評価を得るためには、一片のしくじりも許されないのだろう。
上等じゃないかと、希佐は内心で息巻いた。
希佐はカウチから立ち上がる。スポットライトの光だけがその動きを追いかけてきた。舞台の照明は灯らない。足元にある小道具に足を取られ、すっ転びそうになりながら、痛ってぇ、と恨みがましそうに漏らした。
「ったく、誰だよ、こんなところに……」
少しだけコミカルな動きを取り入れると、客席のどこからか小さく笑い声があがった。大丈夫、手応えはある。そう思いながら壁のスイッチを押すジェスチャーをすると、ようやく、舞台上の照明が点灯した。
第一声から台詞が違っていた。台詞どころか、動きも違う。
スポットライトが点灯し、アラームの音を合図に浮かび上がったシルエットを見て、ほう、とため息を吐いたのは誰か。シルエットとして浮かび上がっただけの指先にまで、神経が、意識が、青年の息吹が、見事に行き届いている。たったそれだけの動きだけで、本物を感じる。
舞台袖には驚愕と困惑が駆け巡っていたが、アランはすぐにマイクを通して照明係に指示を送っていた。合図を出すまでは舞台の照明をつけるな、スポットライトで役者の動きを追え、と。
「……稽古の時と、全然違う」アランの後ろから舞台を見つめていたアイリーンが、唖然とした様子でぽつりと呟いた。「声も、顔つきも、体の使い方だって……」
ここにいる誰もがそう思っているだろう。冒頭にインパクトが欲しくてシルエットを浮かび上がらせる演出にしたが、前日に行った通し稽古のときよりも青年が生きているのを感じる。陳腐な表現だが、美しかった。アドリブの台詞もシニカルな言い回しが効いている。
シルエットだけが浮き上がった状態のまま、希佐は舞台上を歩いていた。あれだけの強い光に照らされていれば、周りの様子など何も見えてはいないはずだ。それでも、前日に何度も何度も、ぐるぐると繰り返し舞台の上を歩き回っていたので、どこに何が置かれているのかを完全に把握しているのが分かる。足を引っ掛けて転びそうになる動きにコミカルな要素を加え、芝居を強調している。壁に手を伸ばし、電気のスイッチを押す仕草──同時に、舞台の照明を入れるよう指示を出した。
「あの子、本当にすごいのね」アランの隣で観劇していたダイアナが脱帽だというふうに言う。「あなたが相当入れ込んでるって話をメレディスから聞かされてまさかと思っていたけれど、あんな才能、どこで見つけてきたの?」
「……」
「アラン?」
アイリーンの言う通りだった。声も、顔つきも、体の使い方も、稽古の時とはまるで違う。希佐は昨日までとはまったく別人の青年を演じている。だが、なぜか初めて見るような気がしないのだ。
希佐の意図するところが、まだアランには掴めていない。舞台上で軽やかに舞い、歌う姿を睨むように見ながら、その答えを見つけ出そうとしていた。
すると、再びアイリーンが声を上げる。あっ、という驚き露わにしてから、アランの腕を乱暴に引っ張った。
「ねえ、あの青年、昔のアランに似てない?」
「……なに?」
「舞台に立っていた頃のアランにそっくりなのよ」アイリーンはぞっとしたようにそう言うと、自らの肩を両腕で抱いて撫でさすった。「ちょっと、やだ。なんか怖くなってきたんだけど……」
そう言われて初めて、先ほどから感じていた妙な既視感の正体が判明する。
舞台に目を戻し改めて眺めてみると、確かに似ているとアランは思った。昔のアランを知っていれば、誰もがアイリーンと同じことを連想するだろうと思うほど、あの頃のアランに良く似ている。
だが、立花希佐は知っているはずがない。当時の、まだ舞台上でスポットライトを浴びていた頃の、アラン・ジンデルのことなど、知るはずがないのだ。
「アランの昔話なら、私が彼女にして聞かせたわよ?」そうあっけらかんと言ってのけたのは、他でもないダイアナだった。「あの子、あなたがどんな子供だったのかを知りたかったみたいだから、フィッティングの最中に少しだけね」
「だ、だからって、あんな……」
「そうよねぇ、普通はできないわよね。見たこともない人間を、まるで見たことがあるように真似て、演じてみせるなんてこと」
これはもう目が良いとか、耳が良いとかの問題ではない。この二ヶ月間で積み上げてきたものを一瞬で捨て去り、新たに構築した役柄を、ほとんど即興で演じている。あの舞台の上で。何という強靭な精神力なのだろう。
「とんだバケモンだな、ありゃ」ハハッ、と笑い、バージルは言う。「前々から肝が据わってるとは思ってたが、これほどまでとはね」
「キサ……」
出番を控えたイライアスが、その事実すらも忘れて、舞台で歌う希佐に熱い眼差しを向けていた。
まるで違う人間を演じているように見えても、土台となっている部分に変わりはないはずだ。舞台が破綻するほどの変更は何一つなされていないと信じている。
「全員、キサに引っ張られないように、いつも通り演じて」
自分は今、昔の自分と向き合っているのだろうかと、アランは考える。見てみたかったと、そう漏らしてしまったから。自ら狭めてしまった可能性のその向こう、一体そこには、何があったのか。
今の人生に後悔はないと言えば嘘になる。でも、後悔の先にあるこの人生を歩んでこなければ、今この場所で、この舞台を目にすることはなかった。
『私は、私の思うままに演じてきます』強い眼差しで、ただ舞台だけを見つめていた。アランの手を握る手に、震えは一切感じられなかった。『その上で、私があなたを、あの舞台の先に連れて行きます』
本当に、とんでもないものを見つけてしまった。いや、もしかしたら、見つけられたのは自分の方なのかもしれない。
国を飛び出し、たった一人でこんなところまでやって来て、こうして舞台に立っている姿の、何と眩しいこと。ここが自分のあるべき場所なのだと確信した眼差しの、何と勇ましいこと。
「──よし」バージルの声でアランは我に返る。「客の反応、上々じゃねぇか」
一曲目の歌唱が終わって舞台が暗転する。大急ぎで舞台上の小道具が取り除かれていく中、アランの後ろからはノアやジェレマイアの必死の声が聞こえてきていた。イヤホンから聞こえてくる声に耳を傾けながら、アランは後ろを振り返る。
「ダメ、ダメだよダメ、絶対にダメ」
「そうそう、イライアス、お前ちょっと落ち着けって」
「僕は落ち着いてる」いつもよりぐっと低い声で、イライアスが言った。「出番なんだ、そこ、退いて」
「いや、でも、あっ、ちょっと──」
ノアの体を押しのけ、真っ暗な舞台に向かって、イライアスが歩いていく。途中に立っているアランには目もくれない。その真剣な顔つきと鋭い眼差しを見て、アランは無意識に笑みを浮かべていた。
ああ、そうだ、それが見たかった。
「ヤバイよ、アラン。笑ってる場合じゃないって!」ノアが切羽詰まったような声で、静かに叫び声をあげた。「あれ本気のやつだよ。イライアスの本気、知ってるでしょ」
「まあ、いいんじゃない。本人がやる気なら、それで」
「そんなこと言って、キサが取って食われちゃったらどうするつもり? 物語が破綻するんですけど!」
「今まで完璧に上手くいった公演なんてなかっただろ。どうせみんな好き勝手にやるだけなんだ。思うようにやらせてやればいい。大衆の評価なんかクソ喰らえだ」
この演出家は……と、ノアが呆れた様子で言葉を失っている。
大衆の評価を得たければ、それ相応の脚本を書き、もっとまともな役者にそれを演じさせればいい。一点特化したプロフェッショナルばかりを集めるのではなく、総合力の高い役者を集めれば、より高みを目指していけるのだろう。だが、そんなものはつまらない。そんなものには何の価値もない。評価をされたくて舞台を作っているわけではない。
アランは細かい演出をしない。大まかな解釈を伝えるだけで、あとはすべて役者任せだ。物語の筋道さえ定まっていれば、個々が考え、演じるようになる。自分の思うがままに演じさせるなんておこがましいことはしたくない。それぞれに考える余地がある、その未完成さに魅力を感じる。役者の成長する瞬間に居合わせられることが幸せなのだ。
どうとでもなれ、とアランは内心で息巻いた。
成功も失敗も関係なく、ただ見せつけてやればいい。まだ青く、若い才能が、花開く瞬間を。
ざわ、ざわ、という喧騒が支配するオーディション会場の一角で、青年は自分の順番が巡ってくるのを待っていた。歌唱審査は既に終え、残すはダンス審査だけだ。夢の舞台のために努力を積み重ねてきた参加者たちは、最終オーディションを目前にして、各々が緊張の面持ちを浮かべている。
その中で異彩を放っている者が二人。一人は青年だ。会場の空いているスペースを使い、念入りなストレッチを行っている。そしてもう一人は、同じ年頃の男で、課題曲の振り付けの確認を行っていた。
「11番と12番、中に入って」
青年は自分とは対極とも言えるタイプの男を興味深そうに眺めていたが、審査員室から自分の番号が呼ばれると、落ち着いた様子で立ち上がった。青年が12番、すぐ側で振りの確認をしていた男が11番だった。
連れ立って審査員室に足を踏み入れると、中には数人の男女の姿があった。この舞台の演出家、脚本家、振付師──全員の値踏みをするような視線が、一瞬にして二人の人間に注がれる。一方は氷のように冷たい美貌の男。もう一方は、審査員に好奇心の目を向けている、どこか斜に構えている青年。
「ただいまよりダンスの最終審査を行います」審査員席に座っている女が言った。「二人同時に踊ってもらいます。チャンスは一度きり。どうぞ、後悔のないように」
隣に立っていた男を横目に見ると、その眼差しがまっすぐ青年に向けられていることに気づく。男は青年の目を見つめたまま片手を差し出してきた。青年は少しだけ驚いたような顔をするが、口の片方だけを持ち上げるようにして笑うと、その手を力強く握り返した。
二人に心の準備をする時間も与えずに課題曲が流れ出した。青年と男は同時に踊りはじめる。
男は踊り出すと共にギアをトップに入れ、審査員たちの視線を独り占めにした。視線を奪われる感覚は青年に多少の焦りを窺わせるが、すぐに落ち着きを取り戻す。そっちがその気なら食らい付いていくだけだと気合いを入れ直し、負けじと舞い、踊った。
一方は、バレエの基礎が下地にあると分かる、寸分の狂いもない完璧なダンスだ。他方は、未だ荒削りながら指先まで意識の通った、しなやかなダンス。同じ振りでも、まったくタイプの違うダンスに、審査員たちの視線は惑わされるばかりだった。
課題曲が終わると審査員室には静寂が訪れる。呆然とする審査員たちを前に、二人の荒い息遣いだけが聞こえていた。青年は膝に手を当てて前屈みになり、男は顔を俯かせ、腰に両手を当てて呼吸を整えている。
「……全員の審査が終わり次第、合否が発表されます。それまでは控え室でお待ちください」
暗転。
それと同時に、希佐はその場に崩れ落ちそうになるのを何とか堪え、急いで舞台袖にはけた。明らかに間違ったペース配分だった。だが、そうしないわけにはいかなかったのだ。青年がここで負けるわけにはいかない。オーディションに合格するのは自分だという強い意志だけで、なんとかイライアスのダンスに食らいついていった。食らいついていくだけで、精一杯だった。
ステージは暗転したままだ。今は事前に録音しておいた審査員たちの意見交換の音声が流れている。この間に呼吸を整えなければと思いながら、大量の酸素を吸い込むと、それをゆっくりと吐き出した。
「馬鹿か、お前」バージルがイライアスの頭を軽く引っ叩き、睨みつけている様子が目に入ってくる。「こんなところでキサに体力使わせてどうするんだよ、イライアス」
「だって……」
「だって? ああ?」
「バージル、私なら大丈夫ですから」このままではバージルがイライアスに殴りかかりそうな勢いだったので、慌てて希佐が割って入る。「もう呼吸も落ち着きましたし、全然大丈夫です」
「……汗拭いて、急いでメイク直せ。崩れてる」
「はい」
それなら私に任せてちょうだい、と自ら買って出てくれたダイアナの前に立っていると、心なしかしょんぼりして見えるイライアスがやってきた。
「……ごめん、キサ」
「お客さんたちびっくりしてたね」顔を動かすと怒られるので、視線だけをイライアスに向け、希佐はにっこりと笑いかけた。「イライアスが本気でぶつかってくるから、私も頑張らなきゃって張り切っちゃった」
興奮で声が上擦る。楽しくてたまらないのだと、心が、体が叫んでいる。いつまでも終わってほしくないと思ってしまうほどには、舞台に毒されてしまっている。
「まだまだ先は長いよ、イライアス。頑張ろう」
「うん──うん!」
舞台上で発表される最終オーディションの合否。合格者として呼び上げられた12の番号に、青年は安堵や喜びよりも、驚愕の方が勝っていた。それが正しい反応だろう。ダンスの技術は11番の方が間違いなく高かったのだ。しかし、今回の役柄には未完成の才能と、秘められた可能性が必要だと判断された。11番の男は、あまりに完成されすぎていた。
「おめでとう」悔しさの滲む声だったが、男は笑顔を浮かべていた。「君の舞台、必ず観に行くよ」
「ありがとう」
だが、その約束が果たされることはない。
青年の身に悲劇が起きたのは、その翌日のことだった。
いつものように目覚まし時計が鳴らない。いや、鳴っているのに気づかない。いつまでも、いつまでも鳴り続けていたアラームは、ちょうど一分後に途切れた。
前日の疲れが溜まっていたのか、青年が目を覚ましたのは昼過ぎのことだった。カウチからむくりと起き上がり、目覚まし時計を見やる。
「……うわ、ヤバい、寝坊し、た……?」
異変はすぐに感じ取れた。声を出すことでそれがよりあからさまになる。両耳に奇妙な閉塞感があったのだ。恐る恐る耳の近くを叩いてみると、ごうん、ごうん、という音のような、振動のようなものを感じるだけで、何も聞こえなかった。
青年の顔はみるみる青ざめていく。その表情は徐々に恐怖に侵食されていった。
震える手で目覚まし時計を掴み、恐々とアラームを鳴らす。本来であればけたたましい音で青年を叩き起こすはずのアラーム音は聞こえなかった。青年は時計を力のかぎり揺さぶった。壊れているのは自分ではなく、時計の方だとでもいうふうに。そして、衝動のまま、時計を床に叩きつける。それが破壊される音も、青年には届かなかった。
「──おそらく突発的なものでしょう」
病院の医師が告げる。医者の語る言葉が、そのままディスプレイに表示されていくのを、青年はぼんやりと眺めていた。文字の上を視線が滑り、何度も何度も、同じ言葉を繰り返し反芻する。もはや、どうやって病院にたどり着いたのかも覚えていない。
青年は何も考えることができなかった。恐怖と動揺、混乱、それから、何に対してなのかも分からない怒りの感情が、ふつふつと湧き上がってくる。自分の舞台はどうなってしまうのだろうかと思うと、強い焦りと不安が脳裏をよぎった。
「残念ながら原因は不明です」医者のくせにと心の中で嘯く。その表情が顔に出る。しかし、医者は顔色ひとつ変えずに続けた。「過度なストレス状態にあったのか、強いショックを受けるような出来事があったのか、何か心当たりはありませんか?」
「……いいえ」
「手は尽くしてみましょう。ただ、必ず治るとは言い切れません。すぐに治る可能性もありますが、一生聞こえないままかもしれない。聴覚障害者向けの教室をいくつか紹介します。手話や読話を学べば、これまでと変わらず会話をすることはできますよ」
だが、いつまで経っても青年の耳に音が戻ってくることはなかった。
一週間が過ぎた頃、青年はオーディションの合格を辞退するというメールを送った。不義理だということは分かっていたが、直接行って伝えられるような精神状況ではなかったのだ。だが、いつまでも先延ばしにして良い問題ではない。公演日は決まっている。主催者側だって、いつまでも待ってはいられない。代役を立てる必要がある。そう分かっていても、メールを打つ手はあまりに重たかった。
治りもしない耳のために病院に通い続けることはつらかった。しかし、ほんの微かな可能性でも残されているのなら、それに縋って生きていくしかなかった。
音のない世界で生きていくことなどできないと青年は思っていた。音楽の調に乗り、歌い、踊り、演じることが、自分のすべてだったのに。音楽の存在しない世界は、あまりに味気なく、酷く色褪せて感じられる。まるでこの世の終わりがやってきたかのような絶望を、毎日、毎日、毎日感じていた。
この演技をするのは、正直今でもつらい。だから、この場面はアランに頼んで、いつも飛ばしてもらっていた。このシーンを演じると、それを見ている人たちにまで、つらい思いをさせてしまうようだったから。でも、もう避けては通れないのだ。この先へ進むためには、この絶望を超えていかなければならない。そこには希望に輝く光があると信じて。
「なんで、僕なんだ……どうして、僕が……僕が……」
舞台を降りる選択をした。その理由を誰にも言わず。それは、ユニヴェールを逃げ出してきた自分と重なるところがあって、希佐は考えれば考えるほど、つらくてたまらなくなる。
「何を……何を、間違ったんだ……どこで……」
何も間違ってなんかない。できることなら過去へと戻って、傷ついたあなたを抱き締めて、そう言ってあげたいと、希佐は思った。
きっとそこにあるのはただ悲しいという感情だけではない。醜く、浅ましいくらいの、怨念にも似た、複雑な思いがあったはずだ。それをどこにもぶつけることができず、吐き出すことも、自分自身で解消することもできない。そして今もまだ、同じ思いを抱えている。
ユニヴェールの舞台を夢見ていた。そして、夢見ていた舞台に立つことができた。元を正せば、夢そのものが間違いだったのだろう。中座秋吏の手を取らなければ、みんなに嘘を吐き続けてまで、夢の舞台に立ち続けることもなかったのだから。
でも、嘘を吐いてまで夢の舞台に立ち続ける道を選ばなければ、みんなに出会うこともなかった。こんなところまでやってきて、劇団の仲間に出会うこともなかった。
「ああ、ああ、神様……か、みさま……」
存在するかも分からない超常的なものに縋ってまで救われたいと思ってしまった。
もし本当に神様がおわすのなら、どうか最後の審判を下してほしい。許されたいの願うことが罪ならば、どうか罰を与えてほしい。そして、その代わりに、あの人を救ってあげてほしい。
もし、もしも天啓というものが本当にあるのなら、どうか、私をこの地に使わした理由を、教えてほしい。
「どうして、どうして……どうして……」
導かれるようにしてやってきたのだと思いたいのだ。ただ、あの人を救うためという、たったそれだけの理由でも構わない。
「……このまま、消えてなくなってしまいたい」
痛いほどわかる気持ち。消えてなくなってしまえたら、きっと楽になれると信じていた。死にたいわけではない。死ぬ努力をすることもなかった。ただ、消えたかった。誰の目にも触れず、心置きなく絶望に浸れる場所で、己を罰していたかった。そうしていれば、いずれ救われる瞬間が訪れると、そう思いたかったのだ。
あの人を救うことが私の贖罪なら、いくらでもそうしよう。
希佐は舞台上で咽び泣いていた。息が詰まる。呼吸が苦しい。舞台が暗転する。ああ、酸素が足りない。芝居に入り込みすぎて、現実との境界線が分からなくなる。早く立ち上がって、袖にはけなければ。
舞台上が次の場面に向かってあっという間に整えられていく。希佐は立ち上がり、自分の体を引きずるようにして、舞台袖に向かった。入れ替わりに、次の場面を演じる役者たちが舞台へと出ていった。
頭が酷くぼうっとして、希佐は舞台の袖に入るなり、その場で崩れ落ちそうになった。未だ涙が止まらない希佐の体を抱き止め、あやすように、背中を撫でてくれる人がいる。
「大丈夫」アランが耳元で言った。「ゆっくりでいいから、呼吸を整えて。まだ時間はある」
落ち着いた心臓の音が聞こえてくる。とくん、とくん、と聞こえてくる。舞台の本番中だというのに、アランの心臓はあまりに静かに、命の鼓動を刻んでいる。それが憎たらしく思えると同時に、何となく、愛おしくも思った。
深呼吸をして、呼吸を整える。もう大丈夫だと思ったところでアランの胸を押し返した。見上げた顔は何か物言いたげにも感じられたが、希佐は涙で濡れた顔をそのままに、にこにこと機嫌が良さそうにしているダイアナに向き直った。
「ダイアナさん、お願いしてもいいですか」
「もちろんよ、キサ。任せてちょうだい」
ティッシュを押し当てて汗と涙を拭き取ってから、パパッと化粧を直してくれる様子は手慣れている。デザイナーとして活動しているうちに身につけた技術なのだそうだ。コレクションというものは、洋服だけではなく、ヘアやメイクも重要な評価のポイントだということを、フィッティングの最中に教えてくれた。
「私はね、キサ。自分の作った衣装を着た役者が、舞台上で光り輝いているのを見るのが好きなのよ」さ、できた、と満足そうに言ってから、ダイアナはにこりと笑った。「ほら、あとは演出家さんに確認してもらって」
「ありがとうございます」
涙声は直った。鼻声も解消されている。希佐は小さく咳払いをしてから、アランに向き直った。舞台を見ながらマイク越しに指示を出していたアランは、希佐を横目に見ると顎を引いて頷く。それでいいということらしい。汗と涙で失った分の水分を補給し、硬くなった体を軽い柔軟で解してから、舞台袖に立った。
耳の治療をはじめて数ヶ月が過ぎた頃、風の噂で、自分が出演するはずだった舞台が上演され、大成功を収めたと知った。青年の代わりに選ばれた主役は、あの11番の男だ。だが、自分にはもう何の関係もないことだと、青年は己に言い聞かせる。
街頭の巨大モニターには有名アーティストが出したという新曲のMVが映し出されているが、青年の耳にその歌は届かない。音楽はすべて過去のものだった。
無意味な聴力検査、病院主催の手話教室に読話教室、同じことばかりの繰り返しで嫌になる。だが、生きる意味すら見失いかけている青年には、新しいことを始めようと思う気力もなかった。
しかし、そんなある日、青年は病院の一角で一人の女の子を見かけた。
女の子は病院の廊下を壁伝いに歩いていた。窓から吹き込んでくる風を浴びて、やわらかいブロンドの髪が揺れている。女の子の足はどんどん先へと進んでいき、もう間もなく、大きく開かれた窓にたどり着こうとしていた。
突然の胸騒ぎを覚えた青年は、思わずその場から駆け出していた。女の子は窓枠にそっと手を添え、身を乗り出している。そして、まるで空を掴もうとでもするように片腕を伸ばしたとき、体のバランスを崩した。駆けつけた青年が間一髪のところで腕をつかみ、引き寄せる。
「あぶないよ」
青年はそう言ってから顔を顰めた。自らの体の中に響くくぐもった振動に、不快感を覚えたからだ。
女の子は突然のことに驚いて振り返るが、自分の身に何が起こったのか分からないという顔をしている。大きく見開いた目に青年の顔が映り込んでいるのに、なぜか、目が合っているという気がしない。
「──」
女の子が何かを言う。口の動きを追いかけようとするが、どう言うわけかうまくいかない。女の子の表情にばかり目がいってしまうのだ。不思議そうに首を傾げている女の子を見て我に返った青年は、掴んだままだった手を慌てて離すと、何も言わずに踵を返した。
次の通院日までの一週間、青年の頭の中には、あの日助けた女の子の姿がこびりついて離れなかった。暇さえあれば考えてしまう。大きな目をまん丸に見開いて、自分を見ていた顔。何かを伝えようとしていた唇。咄嗟に掴んだ華奢な腕。
どうしてあのとき耳が聞こえないことを打ち明けなかったのだろう。知られたくなかったのだろうか。自分自身でさえ受け入れることのできていない現実を。偏見を持たれなくなかったのだろうか。だが、それが真実であることに変わりはないのだ。
もしまた出会うことがあったら、そのときは、素直に打ち明けようと青年は思った。
そして、その機会は数日の内に訪れた。よく晴れた日の病院の中庭、太陽の光をたっぷりと浴びてブロンドの髪を輝かせている女の子の姿を、青年は見つけた。
「ねえ、せんせ?」その弾む声を、青年には聞くことができない。「わたし、とっても素敵な人に出会ったのよ。ああ、あの声、今も耳について離れないの。一体どこのどなたなのかしら」
少女と話をしていたのは、青年の担当をしている医師その人だった。医師は青年が自分たちの方を見て佇んでいることに気がつくと、すっと腕を上げて、こちらへおいでと手招いた。
『今日は良い天気だね』
『そうですね』
手話で話しかけられ、青年も手話で応じる。手話はもう半年ほど学んでいた。ダンスの振り付けを覚えているようだと気づいてから、劇的なスピードで身についていった。
『彼女は?』
『私の友人の子なんだ。廊下から中庭にいる姿を見かけたから、少し話をしに出てきたんだよ』
「……先生?」女の子の唇が動く。先生、と言ったのが、青年にも分かった。「急に黙り込んでしまってどうしたの?」
「ああ、悪かったね。僕の患者さんが来たんだ」
「それはいけないわ。先生が診察の時間に遅れてしまったら、患者さんは困るものね。先生とのおしゃべりは楽しかったわ。もうすぐママが来ると思うから、わたしのことはどうか心配しないで」
では、診察室に行こうか、と医師が言う。
青年は無言のままその後ろを追いかけていこうとしたが、すぐに思い直し、意を決して女の子に声をかけた。
「あ、あの……」
「まあ!」青年の声を聞いて、女の子は驚いたように口元を両手で覆ってしまった。これでは唇を読むことができない。「あなた、あのときのあなたなのね?」
女の子が何かを言っている。恐ろしい速さで何事かを話している。しかし、青年は慌てふためくばかりで、どうすれば良いのか分からない。
「まあまあ、少し落ち着いて」先に行っていたはずの医師が戻ってきて、女の子を嗜めているのが分かった。「彼は君に伝えたいことがあるようだよ」
「え、なにかしら」
医師から、どうぞ、と合図を送られる。女の子はにこにことしながら、青年が話し出すのを待っていた。
青年は、ふう、と息を吐き出してから、口を開いた。
「僕は耳が聞こえないんだ」
青年が断腸の思いで伝えた言葉を、女の子は何でもないことのように受け止めた。驚くふうでもなく、にこりと笑い、自分の目を指した。
「わたしは めが みえない」
今度は、青年でも唇の動きが読み取れるように、ゆっくりと言ってくれた。
以来、二人は週に一度、互いの診察時間よりも早い時間に病院にやってきて、話をするようになった。話をするといっても、二人の会話の方法は独特だった。青年が話す言葉は女の子に届いても、女の子が話す声は青年に聞こえない。だからいつも、スマートフォンを手放すことはできなかった。音声認識によって入力された文字を読み取ることで、コミュニケーションを図っていた。
「わたしね、ある朝目が覚めたら、目が見えなくなっていたの」自分と同じだと、青年は思った。「わたし、絵を描くことが大好きで、生き甲斐だった。将来は画家になるのが夢だったのよ。でも、目が見えなくなって、一度は夢をなくしてしまったわ。でも、先生が言ったの。治療をしたら、また以前のように見えるようになるかもしれないって。この病院には優秀な目のお医者様がいるからって、紹介してくださったのよ」
話をすればするほど、二人は自分たちが酷く似通った存在であることを自覚していった。視覚を失い、聴覚を失っても、夢を諦め切ることができず、いつかは治るかもしれないというほんの僅かな可能性に縋って、治療を続けている。
目が見えなくなり、もしかしたらこのまま夢が潰えてしまうかもしれないと理解していても、女の子はいつだって笑顔を絶やさない。それなのに、自分は一体なにをしているのだと、青年は思った。
いつまで暗い過去ばかりを見つめているつもりなのだ。過去の栄光に固執し、あの頃は良かったと嘆いているつもりなのだ。無下に過ごしてきた日々は戻らない。それならば、どれだけつらくとも、今より先の未来で過去を悔いることがないような生き方を、選択していくべきなのではないか。
こうして、青年は生き方を変える努力をはじめた。考え方を変える努力もした。いつも悲観的な物の考え方をしていたが、物事をポジティブに考えるようになると、少しずつ明るい未来を想像することができるようになっていった。女の子との出会いが、青年を少しずつ変えていったのだ。
しかしどういうわけか、青年が光を取り戻しはじめると、今度は女の子に翳りが見えはじめる。会えばいつも通りの笑顔を浮かべているのに、青年の目には、その中に寂しさが滲んでいるように感じられたのだ。
青年と女の子の心は少しずつ近づき、寄り添い合う。互いを大切に思い合うようになり、特別な間柄となっていった。時には病院の外で会うこともあった。互いの家に招き合って、特別な時間を過ごすこともあった。
だが、青年は女の子との距離が近づけば近づくほど、生きる希望が湧けば湧くほどに、思ってしまうことがあった。舞台のことだ。耳が聞こえなくなって一度は諦めてしまった舞台への夢が、ここへ来てもう一度、頭をもたげている。
もしもう一度耳が聞こえるようになったら、世界が音を取り戻したなら、自分が生み出す音楽で、女の子を元気付けてあげられるのにと、そう思うのだ。
今日も何だか女の子は元気がなかったようだ──そう思いながら街中を歩いていると、青年とそれの運命の出会いは、あまりに唐突に起こった。
大通りから少し外れた路地裏で踊る、一人の男が目に飛び込んできたのだ。街の子供たちを観客に、石畳の道の上で独特なステップを踏む、中年の男。タップダンスだとすぐに分かった。
男が踊る姿を見ていると、間違いなく音は聞こえないはずなのに、確かに音楽を感じるのだ。
青年は脳天を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。盲点だった。なぜ、今の今まで思いつきもしなかったのだろう。青年はこれだと思った。いや、これしかないと思った。タップダンスを踊る男に近づけば近づくほど、青年は自らの体に振動が伝わってくるのを感じた。
これだ。これが、音楽だ。
青年は人目も憚らず男に駆け寄った。子供たちの輪を掻き分け、男の腕に正面から掴みかかる。
「僕にタップダンスを教えてください!」
断られるなんてことは考えてもいなかった。青年にはもう他に選択肢がなかったからだ。しかし、どうやら頼み方が悪かったらしい。男は酷く訝しげな顔で青年を見ると、こう言った。
「まっぴらごめんだ」
だが、青年は食い下がる。そんなことを言わないで、ほんの少し、基本だけでもいいから、と。
どれだけ食い下がろうとも、男は絶対に首を縦には振らなかった。今日は店じまいだと宣言すると、子供たちからは非難の声があがる。恨みがましい目で見られるが、青年は一向に構わなかった。
子供たちの様子からすると、男は頻繁にこの場所で踊っているらしい。そうと分かれば、青年は毎日のように石畳の路地裏に通い詰めることも厭わなかった。男にタップダンスを教えてほしいと懇願し続けた。こっそり後をつけて、自宅の場所も特定した。これでもう逃げられまい。
毎日、毎日毎日、青年は男を追いかけ回した。古本屋で買ってきたタップダンスの教本を読み、見よう見まねでステップの練習もしていた。頷いてもらうまでは、絶対に諦めない。
もはや、耳が聞こえないことを嘆き、生きる意味すら見失いかけていた青年の姿は、どこにもなかった。そこにあるのは、夢と希望に胸を躍らせる、かつての青年の姿だった。
衝撃の出会いから何日が過ぎただろうか。ある日の早朝、未だ人々が眠っているだろう時間帯に、青年は男が住むアパートの下までやって来ていた。今日こそ。今日こそ、絶対に、頷かせてみせる。そうした意気込みが強く感じられる面持ちで、青年は男が住むアパートの窓に向かって、大声で叫んだ。
「僕にタップダンスを教えてください!」
近所迷惑など知ったことか。むしろ、それが狙いだった。ここで騒ぎ立てれば大慌てで降りてきて、たとえ青年を大人しくさせるためであっても、教えてやると言ってくれるに違いない。言質が取れればこちらものだ。
「今日は分かったと言ってくれるまで絶対に帰りませんからね!」
僕に! タップダンスを! 教えて! ください!
単語を区切り、閑静な住宅街に響き渡る大声で、青年は叫び続けた。しかし、男は一向に姿を現さない。男以外の人々は続々と起き出し、窓を開けて「うるさいぞ!」と叫び返してくるが、青年は意に介さなかった。聞こえないのだから仕方がないと、自らを正当化するほどの図太さだ。
空き缶、野球ボール、卵、成人誌などが飛んでくるのを避けながら、青年は今度、大声で歌い出す。どこかの国と国との間、国境壁の上で歌われた古の歌を、男の心臓に突き刺さることだけを願って歌った。
たとえそれが人の心を奪うほど見事な歌唱でも、朝っぱらから聞かされるのは迷惑この上ないことだ。そろそろ警察に通報される可能性がありそうだと青年が思っていると、パジャマ姿のままアパートの階段を駆け降りてくる男の姿が見えた。青年は歓喜しかけるが、男が恐ろしい形相を浮かべていることに気づき、思わず身構える。これはまずい、ぶん殴られるかもしれない。
警察に通報するのは他の誰でもない、この男自身だ──血相を変えて目の前に現れた男を見て、青年は思わず硬く目を瞑った。しかし、待てど暮らせど恐れていた衝撃は襲ってこない。恐る恐る目を開けると、男は興奮した様子で青年に向かって何かを話していた。だが、あまりに早口すぎて、青年には男が何を言っているのか、まったく分からなかった。
本当に警察がやってくる前に身を隠した方がいいと、男は青年を自らの家に招き入れてくれた。そして、改めて話をしてくれる。
驚いたことに、街頭でタップダンスを踊っていた男は、かつて青年が受けたオーディションの審査員席に座っていたのだという。どこかで見た顔だと思っていたが、お前の歌声を聞いてあのときの青年だと確信した、と。
そして、自分はお前に未熟ながらも光り輝く才能を感じ、反対する審査員たちを何とか説得して、ギリギリ合格させたのだと語った。病気のために辞退するという連絡を受けたときは、酷くがっかりしたものだが、まさか聴力を失っていたとは……と、同情の眼差しを向けてくる。
すごい巡り合わせがあったものだと思いながら、青年はオーディションの後、自身の身に何が起こったのかを、男に話して聞かせた。
最終オーディションの次の日、朝目を覚ましてみると耳が聞こえなくなっていたこと。絶望の中でもがいていたら一人の女の子と出会ったこと。その女の子は目が見えないということ。彼女のおかげでもう一度夢を見たいという気持ちになったこと。そして、彼女を自分の奏でる音楽で元気づけてあげたいと思うようになったこと。耳の聞こえない自分でも、自分の体を楽器にするタップダンスなら、挑戦してみる価値はあると、そう思ったこと。
真剣な顔をして話を聞いていた男は、青年が語り終えるとほぼ同時に、自らの胸を打った。困難な道のりにはなるだろうが、俺が最後まで面倒を見てやると、そう言った。
それから少しだけ気まずそうな顔をするが、青年にはその理由が分からない。遠くの方から聞こえてきていたパトカーのサイレンの音が、ちょうどアパートの前で止まったところだった。
そこから、青年と男の怒涛の猛特訓がはじまった。中古のタップシューズを履き、稽古場の木の床を初めて蹴ったときの感動は一生忘れないだろうと青年は思う。足の裏で感じた振動が一瞬にして体の隅々にまで伝わっていく感覚は、青年が長らく忘れていた喜びの感情を思い出させてくれた。
男を師匠と仰ぎ、タップダンスを真剣に習いはじめた青年は、これまでとは見違えるほど生き生きとした日々を送るようになっていた。以前までの快活さを取り戻し、より躍動的で、何よりも人生を楽しんでいる。世界は色を取り戻しはじめていた。
「まだ何かは内緒だけど、君に見せたいものがあるんだ」
病院の通院日、いつもと同じように早めにやって来ていた青年は、女の子に向かって弾む声で言った。女の子は変わらず笑顔を浮かべてはいたが、やはり以前よりも翳りが感じられると青年は思う。
「わたし、目が見えないのよ」
「それは目が見えなくても、耳が聞こえなくても大丈夫なものなんだよ。きっと驚くと思う」
「……そう。じゃあ、楽しみにしているわね」
自分がもっと頑張れば、もっと努力をしてタップダンスをものにすることができれば、それだけ早く女の子を喜ばせ、元気付けることができると、青年は純粋に信じていた。だから、少女の翳りの理由が自分にあるとは、つゆほども思っていなかったのだ。
舞台が暗転する。
次はノアとアイリーンのシーンだ。女の子が仲の良い友人に、初めて青年との関係を打ち明け、相談を持ち掛ける。
以前はわたしだけを見てくれていた。わたしにだけ優しかった。会いたいと言えばいつでも会いにきてくれた。わたしだけの、あの人だったのに。
今ではわたし以外のものに目を向け、わたし以外の人にも優しく、会いたいと言っても自分のことを優先して、ちっとも会いにきてくれなくなった。
アイリーン扮する友人は言う。そんな男はあなたに相応しくない。別れた方がいい。あなたが傷つくだけだから、と。
いかにも女子、という会話だと希佐は思った。
脚本家は女子という生態を良く観察しているに違いない。だが、希佐自身もそこまで女子らしい会話を女友達としたことがなかったので、これが正しく女子なのかどうかは分からなかった。日本とイギリスで違いもあるのだろう。
希佐はタップシューズを手に持ち、既に舞台袖に控えていた。隣ではアランが次の場面の指示をマイク越しに出している。
自分の体に少なからず疲れが溜まってきていることを感じながら、希佐は首や肩を回していた。気持ち的には緊張していないつもりでも、体は強張っているようだ。
この後にはバージルと二人で踊るタップダンスが控えている。最後の歌唱に、ラストのタップダンス。最後まで体力が持つか否かは、今のところ五分五分といったところだろうか。だが、舞台に立てば興奮状態に入るので、一時的に疲れを忘れることは可能だ。その後、どうなってしまうかは希佐自身にも分からないが。
外では相変わらず雨が降り続いていた。それどころか本降りになってきたようだ。遠くの方では雷が鳴っている。公演日和とは言えない天候だが、観客は外の天気など気にせず、舞台に入り込んでくれているようだった。
もうすぐノアとアイリーンの出番が終わる。希佐は一口だけ水を飲むと、深呼吸をした。立花希佐を吐き出し、青年の人格を吸い込むかのように。
今のところは順調だと思いながら、アランは隣に立つ希佐を横目に見た。いや、どうやら今は青年がその体を乗っ取っているらしい。声を掛けようかどうか迷っていたが、何も言わないまま、視線を舞台に戻した。
再び舞台が暗転する。舞台上の小道具の多くが運び出されていく。次は、バージル扮する男の稽古場でタップダンスの振り入れをし、そのままダンスパートに移行していく場面だ。先にやってきていた青年が、ステップの確認をしながら、男がやってくるのを待っている。
希佐が舞台上に出て行った。周囲を見回し、まだ男が来ていないことを確認してから、その場に座り込む。履いていた靴を脱ぎ、タップシューズに履き替える──そのときになって、予期せぬことが起こった。
まるで頭上で轟いたのではないかという雷鳴がビリビリと空気を震わせたのだ。空気ばかりではない。劇場そのものを震動させた。目が眩むような光がほぼ同時に訪れ、次の瞬間、劇場内の電気のすべてが落ちた。
思わず、チッ、と舌を打つ。ここまでが上手くいきすぎていたので、嫌な予感はしていたのだ。会場がざわつき、舞台袖にいる役者──主にアイリーンが怯え、イライアスの腕にしがみついているのが見えた。舞台上には、希佐、一人だけ。
アランは一度袖に戻るよう言いに向かおうとして、しかしすぐに、その足を止めた。
「……なんだ、停電か」ぽつり、と何でもないことのように『青年』が呟いた。「ブレーカーでも落ちたかな」
暗闇の中で、かつ、かつ、と歩く音が聞こえてくる。しかし、それはすぐに止まった。
「真っ暗だし、闇雲に歩かない方がいいか。もうすぐ師匠も来るだろうし」
この状況下で、希佐は演技を続けていた。いや、これが演技なのかどうか、アランには判断がつかない。袖から舞台に向かう希佐の横顔は間違いなく青年のそれで、舞台上でその仮面が外れるとは、どうしても思えなかった。
「師匠が来る前に、ちょっと練習しておこうかな」青年が悪戯っぽい口振りで言う。「師匠に見ておくように言われた映画、どれも面白かった」
希佐は壁に立てかけていた小道具のステッキを手に取る。暗すぎて、客席からは何をしているのか見えないだろう。それでも、突然の雷鳴で舞台から離れた観客の目が、徐々に戻りつつあるのが分かった。
「えっと、確か……」
たどたどしいステップを踏む。タップ音が響く。どこかで聞いたことのある音楽を口ずさみながら。あまりにも楽しそうに。
「雨に唄えば、か」出番を控えていたバージルが、その目を細めながら舞台を見ている。「気が効くじゃねぇか」
暗闇の中、打ちつける雨の音と、清廉な歌声、少しずつ粒が揃いはじめるタップ音──観客の視線が、舞台に集まる。
舞台をする上で最も重要なことの一つは、何があっても物語を途切れさせないことだ。観客が現実に引き戻されてしまった瞬間、物語は一瞬にしてただの作り物になる。舞台上でこつこつと積み上げてきた登場人物の人生は所詮偽物で、自分の心を割くに値しないものだとされる。観客を白けさせてしまったら、その舞台は終わる。そういうものを、アランは数多く見てきた。
「ちょっと、バージル。早くキサのところに行ってあげなくていいの?」
アイリーンがイライアスの影から声を上げる。未だ雷鳴に怯えているようだ。
「あいつはオレとほぼ読話で話してるからな、この暗闇じゃ口元が見えないだろ」
「それはそうだけど……」
「さっきメレディスが劇場の外に出て行った。ここは非常用電源があるから、上手くいけばもうすぐ──」
パッ、と劇場に何の前触れもなく明かりが戻った。メレディスが階下で非常用電源を稼働させたのだろう。窓の外に見える景色はまだ、暗闇に支配されたままだ。
「あ、停電が直った」
希佐は足を止め、天井を見上げた。そこに気合十分のバージルが舞台袖から出て行く。
後ろに回り込まれ、肩をとんとんと叩かれてようやく、希佐は驚きの声を上げた。
「わっ、師匠! ちょっと、びっくりさせないでくださいよ……」
「おい、今の凄い雷だったな」
「え、雷?」こいつは何を言っているのだという目で、希佐はバージルを見た。「師匠、僕に雷の音が聞こえるわけないじゃないですか」
「あ? ああ、そうだったな、悪い悪い」バージルはうっかりしていたというふうに、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。「お前がいつもオレと普通に話してるもんだから、ついつい忘れちまうんだよ。お前の耳が聞こえないってこと」
「まあ、別にいいですけど」
「んで、ステッキなんか持ってどうしたんだ?」
「あ、ああ、これはちょっと……」希佐は恥ずかしそうにしながら、ステッキを持った手を背中に隠した。「師匠から見るように言われた映画の、その、ちょっとした真似事を……」
「なんだ、そうなのか? どれ、ちょっと見せてみろよ」
「いやいやいや」希佐は被りを振る。「そ、そんなことより、今日は振り入れをしてくれる約束だったはずですよ。早くはじめましょうよ、ほら、早く早く」
そそくさとステッキを元の場所に戻しにいき、希佐は所定の場所で足を止めた。
物語が本筋に戻ってくる。決して止まることなく、水が流れるように、舞台が再び動き出す。
「おそろしくなるよ、まったく……」
これだけのことができると自分自身でも自覚しておきながら、それがどれだけ凄いことなのかを、自分ではまったく気が付いていない。突然のアクシデントにも動じることなく、咄嗟の判断でアドリブを効かせ、舞台を繋げ続けることがどれほど難しく、度胸が必要なことか。
「ジェレマイア、音は出せそう?」
「おう、いつでもいける」
「念のために独立させておいてよかったな」
「ったく、肝が冷えたぜ」
アランの合図でジェレマイアが音楽を流す。舞台上の二人はその音楽に合わせながら、まるで即興でそうしているように、タップダンスを披露していく。バージルが手本を見せ、希佐がそれに倣ってステップを踏む。それが繰り返され、少しずつテンポをあげて、最後には二人のタップ音がぴったりと重なり合う。
背筋が凍るほど、全身に鳥肌が立つほど、思わず込み上げてくるものがあるほど、アランの感情は強く揺さぶられていた。自分はこれを見るために再び演劇の世界に戻ってきたのだと確信していた。口元を手の平でで覆い、震えそうになる呼吸をどうにか抑えつける。まだだ、まだ早い、クライマックスまでには、まだ時間がある。落ち着け、落ち着け、と自らに言い聞かせていた。
「なあ」
「なんです?」
「お前、オーディション受けてみないか?」
「オーディション……?」
「俺が振付を担当する次の舞台でな、タップダンスのできる舞台役者を探してるんだ」
「でも、僕は耳が──」
「もちろん、演出家には相談済みだよ。その上で、お前に会ってみたいって言ってくれてるんだ」
木の床に座り込み、ぽーっと惚けている青年を見て、向かい合うように座っていた男は快活に笑う。
「お前には実力がある。夢も希望もある。何もしないまま諦めちまうなんて、もったいないとは思わないか?」
「僕は……」
「俺もできるかぎりのサポートはする。お前と一緒に舞台を作ってみたいんだ。きっといいものになるって確信もある。なあ、どうだ? 俺と一緒に挑戦してみないか?」
夢なんてものは、本当はどこにでも転がっていて、すべてはそれを自分自身の目で見つけられるかどうかにかかっているのかもしれない。自分を助けようとしてくれる人の手は常に伸ばされていて、それを掴むか、拒むかは、本人の意思に任されている。
自分の殻を飛び出して外に出るということは、誰だって怖いものだ。未知の世界に足を踏み入れるのだから。
耳が聞こえなくなり、音の存在しない世界に放り出されたときは、絶望しか感じていなかった。でも、今は違う。様々な出会いが青年を変えた。目の前に立ちはだかる高い壁を超えていくたびに、青年は強くなっていった。だから、たとえ怖くても、挑戦できる。たとえダメでも、次があると思える。
もう、何も、この聞こえない耳のせいにはしない。
「オーディションを受けることにしたんだ」
青年は真っ先に女の子に伝えに行った。誰よりも自分の挑戦を応援してほしい、応援してくれる人だと信じていたからこそ、喜んでくれるはずだと思っていた。それなのに、その報告を聞いた女の子の表情は、浮かないものだった。今日は笑顔すら浮かべていない。青年が以前から感じていた翳りが顔のすべてを覆って、明るかった表情を曇らせてしまっている。
「……どうしたの?」
「あなたの方こそ、どうしてしまったというの?」
「えっ?」
「あなたはまるで人が変わってしまったみたい」女の子は表情を歪ませ、早口で捲し立てるように言う。「タップダンス、タップダンス、タップダンス……最近は自分の話ばかりで、ちっともわたしの話を聞いてくれなくなったわ。以前はよく会いに来てくれていたのに、今では月に数える程しか会いに来てくれなくなった」
「だって、それは……」
「自分の夢のためでしょう? 夢? 一体夢が何だっていうのよ。必死になって夢を追いかけたって、叶うわけがないんだわ。だって、あなたは耳が聞こえないのよ? それなのにオーディションを受ける? そんなの、受かるわけがないじゃない!」
青年には女の子が何を言っているのかが分からなかった。けれど、テーブルの上に置いていたスマートフォンは女の子の言葉を正しく聞き取り、それを画面上に浮かび上がらせていく。非情に感じられるその言葉を目でなぞり、心の中で読み上げながら、青年は愕然としていた。
「夢を見るだけ無駄なのよ。いつになったらそれが分かるの? 一生叶わない夢を見ながら生きていくつもりなの? あなたはもっと現実に目を向けるべきだわ」
「どうして、そんなことを……」
「どうして? ずっと思っていたことよ。でも、あなたがかわいそうだから黙っていたの。夢を見るのはその人の自由だって思っていたから」
「僕が、かわいそう?」
「叶いもしない夢に縋って生きている姿は滑稽だわ。もっと大人になって。あなたの夢は叶わない。もっとちゃんと、目の前にあるものを見て生きていくのよ」
青年は女の子に喜んでほしくて、元気になってもらいたくて、最初はただその一心で、そのための手段を探していた。そして、ようやくタップダンスに出会ったのだ。自分が夢を叶える姿を見せることができれば、女の子もまた、以前のような夢を見つけられるのではないかと思っていた。絵を描くことが生き甲斐だった女の子。画家になりたいという夢。諦めてしまうには、まだ早いのではないかと、そう思っていたから。
「……君は、夢を諦めきれていないんだね」繊細なガラス細工に触れるかのような声で、青年は言った。「自分の夢を諦めきれていないから、夢に向かって走っていく僕を見て、そんなふうに怒っているんだ」
「……な、何を言っているの?」
「君は夢を諦めたふりをしているだけなんだ」
画家になる夢を諦めた人間の部屋に、いつもインクの匂いが漂っているだろうか。画材を手の届く場所に置いておくだろうか。無地のキャンバスをいつまでも部屋の目立つところに立てかけて置いておくだろうか。
「僕には君の気持ちが分かるよ。だから、こう言ってあげられる。夢を諦める必要なんてないんだ。君の夢が画家になることなら、絵を描き続ければいい」
「わたしは目が見えないのよ?」
「目が見えなくても絵は描ける。耳が聞こえなくても、音楽を奏でられるように」
きっと、自分のせいでこの子は苦しんでいたのだと、青年はようやく理解した。
青年の存在が女の子の表情を翳らせていたのだ。自分は必死になって夢を諦めようとしているのに、まるでそれを阻むように、自分の夢に突き進んでいく青年の姿を見て、苦しんでいた。諦めなければと思う気持ちと、諦めたくないと思う気持ちがぶつかり合って、不協和音を起こしていた。
青年は顔を逸らし、黙り込んでいる女の子の側まで歩いていくと、ねえ、と声をかける。
「たとえ叶わなくても構わない」
女の子の顎に手を添え、顔をそっと上向かせる。女の子から、思わずというふうな、えっ、という素の声が漏れた。
「それでも僕は、夢を選ぶよ」
青年はゆっくりと顔を寄せ、女の子の唇に、優しいキスを贈った。
女の子の部屋を後にした帰り道。ふらふらと、どこかおぼつかない足取りで歩く。青年は青年なりにショックを受けたはずだ。自分を応援してくれていると信じていた女の子が、あんなことを言い出したのだから。
叶わない夢を追いかける姿は滑稽──本当にそうなのだろうか、と希佐は思う。
いや、そんなはずはない。これまでに何人もの夢を追う人々の姿を見てきたが、誰もがキラキラとした輝きを放っていた。眩しいくらいに。希佐自身もその中の一人だったのだ。自分が兄に憧れたように、あのユニヴェールの舞台を見てくれた誰かも、自分に憧れを抱いて、同じようにユニヴェールを目指したかもしれない。それどころか、ユニヴェールに入学をして、立花希佐を凌ぐ才能として華を咲かせているかもしれない。
それでいいのだと希佐は思う。叶うことなら、立花希佐のことなど忘れて、その影を追いかけないでほしい。どうか、探さないで。そっとしておいて。五年か、十年か、それ以上か、いつか完全に自分の存在が忘れ去られたと確信を持てたら、日本に帰ろう。そして、ユニヴェールの公演を観に行くのだ。
青年は──希佐は、とある劇場の前で足を止めた。大きな劇場。たくさんの人がそこに立つことを夢に見る、光り輝く大舞台。劇場の前には、青年が立つはずだった舞台のポスターが大きく引き伸ばされ、飾られている。ユニヴェールでも公演のたびに凝ったポスターを用意してもらっていた。初めて不眠王のポスターを見たときは酷く感動したことを覚えている。
後ろめたい感情を持ち合わせておきながら、それでも毎日が楽しくて、充実していた。その経験がなければ、こうして遠いイギリスの地で、舞台に立つことはできなかった。自分を鍛えてくれた先輩たち、一緒に切磋琢磨してきた同期たち、信じて背中を追いかけてきてくれた後輩たち、そのすべての人たちに感謝をしている。
希佐はポスターから顔を背け、その場から立ち去ろうとした。しかし、その視線の先にイライアス扮する男の姿を見つけ、足を止める。出演している舞台はロングラン公演の最中だ。その帰路で、ばったりと出会った。
ここで先にイライアスが声をかけてくる。やあ、と。しかし、待っていても、イライアスは声をかけてこなかった。まさか台詞を飛ばしてしまったのだろうか。だが、イライアスの表情に焦りの色はない。むしろ、落ち着き払っているのが分かる。
たっぷりの間を取ったあと、イライアスはようやく声をかけてきた。台本にはない、手話で。
『こんばんは』
『……こんばんは』
希佐は少しだけ戸惑いながら同じ挨拶を返した。きっと青年だって男に手話で話しかけられれば、同じ反応をしたことだろう。驚きと、戸惑い。そして、困惑。
『公演が終わって帰るところなんだ』
話の都合上、希佐はジェレマイアに手話を教えたことはあった。だが、イライアスに手話を教えたことはない。元々手話を使うことができたのか、同時期に教室に通っていたのか、希佐には判断がつかない。
『君は?』
『僕も家に帰るところだよ。偶然劇場の前を通りかかったんだ。公演、上手くいっているみたいだね』
『君の代わりに頑張ってる』
演出は破綻していないだろうか。イライアスは事前にアランの許可を得ているのだろうか。手話での会話に解説は入らない。客席に座っている人々のほとんどは、二人が何を話しているのか分からないだろう。
『振付師から君が別のオーディションを受けるって聞いた』イライアスは手話を使って流暢に話す。まるで、ダンスの振り付けのように、美しく。『君なら合格するよ、絶対に』
これは演じている男の言葉なのだろうか、それとも、イライアス自身の言葉なのだろうか。希佐がそう思っていると、イライアスは先を続けた。
『僕は、君が他の誰よりも努力をして、頑張ってきたことを知ってる。君のことを尊敬してるんだ、心から』
『……ありがとう』
『だから、次の公演でも、また君と一緒に、同じ舞台に立ちたい』
ああ、これはイライアスの言葉だと、希佐は直感した。それと同時に、鼻の奥がじんわりと痛みを覚えて、喉が詰まりそうになる。この後は最後の歌唱が控えているのに、こんなアドリブを仕掛けてくるなんて、あんまりではないか。
「夢を諦めないで」イライアスは、見る者をすべてを魅了するような美しい微笑を浮かべて、そう言った。「僕も、頑張るから」
一体いつから気づいていたのだろう。この公演が終わったら、劇団をさろうとしていることに。いつかのように、その感情が滲み出てしまっていたのだろうか。
男が青年に背中を向け、去っていく。青年は黙ってその背中を見送ってから、はあ、と大きく息を吐き出した。
タカタタン、という希佐のタップ音を合図に、劇場には音楽が流れ出す。
ああ、一体どんな気持ちで、この歌を歌えば良いのだろう。もう既に心は感動に打ち震えている。まだラストのタップダンスが残っているというのに。
イライアスは当初、最も何を考えているのか分からない人物だった。劇団に所属することになっても、しばらくはその声を聞いたこともなかった。自分を嫌っていたアイリーンの方がずっと、付き合いやすいとさえ思っていたほどだ。きっと、イライアスは自分に対して無関心で、どうでも良い存在なのだろうと、そう考えていた。
それなのに、今ではこんなにも自分のことを考えてくれている。希佐に感化されたように精一杯舞台と向き合おうとしている。この期待に応えずして、他にどうしろというのだ。
舞台上は決して孤独ではない。それは知っていたことだ。けれど、今日改めて、それを思い知らされる。自分は一人ではない。この遠い異国の地にいてさえ、立花希佐は、もう孤独ではない。たった今、希佐は新しい夢を叶えている最中なのだ。ユニヴェールにだって負けない、キラキラ輝く自分だけの夢を、今、叶えている。
逃げ出した先は、絶望の果てなどではなかった。
絶望の果ての先には、希望があった。
ああ、なんて、なんて、なんて幸せなのだろう。
その幸福が歌に乗って劇場内を包み込んでいた。青年と希佐の心がぴたりと重なり合って一つになる。感情が大爆発を起こす。夢のない人生なんて考えられない。誰に馬鹿にされても構わない。滑稽だと思われようが気にしない。舞台の存在しない世界は、希佐にとって、生きるに値しない世界だ。
数日後、オーディション会場には青年の姿があった。
師匠と仰ぐ振付師の計らいで、集団審査ではなく個人審査に切り替えてもらった青年は、再び大勢の審査員を前にして立っている。見知った顔が多いようだ。
「よろしくお願いします」
青年はそう言うと、審査員席に座っている振付師を見た。小さく頷きかけると、振付師は音楽をかけ、掲げた手でカウントを取りはじめる。青年はその手の動きだけを頼りに、ステップを踏んだ。ずっと一緒に稽古を続けてきたのだ、男には全幅の信頼を置いていた。
このオーディションではより高いレベルのタップダンサーが求められている。求めるレベルに達しているダンサーなら、耳が聞こえようが聞こえまいが関係ない、というのが演出家の言葉だった。振付師とは長い付き合いだが、彼から人を売り込まれたことは初めてだ。しかし、だからと言って贔屓はしない。自分の力で合格を勝ち取ってみろと言われて以来、青年は寝る間も惜しんで稽古を続けた。その真価が今、試されている。
「……すげぇ」
怒涛のタップダンスにいてもたってもいられず、舞台袖まで見にきていたジェレマイアが、感嘆の声を漏らした。アランは腕時計に目を落とす。途中で落雷や停電のアクシデントもあり、既に上演時間は二時間以上に達していた。その間、希佐はほとんど出ずっぱりだ。休憩を取る時間はほとんどなかった。直前の歌唱にも相当力が入っていたので、もはや体力は限界を迎えていてもおかしくない。
それなのに、希佐はまるでこれが一曲目のダンス曲だとでもいうふうに、軽々とタップダンスを踊っている。その顔には今この瞬間が楽しくてたまらない、幸せでたまらないのだという表情を浮かべていた。
終われ。このまま、何事もなく、終わってくれ。
アランは祈るような気持ちで、希佐の踊る姿を見つめていた。体、心が震える。呼吸が、震える。柄にもないことだとは分かっていた。だが、意図せず視界が滲むのだ。その姿を、この目に焼き付けたくてたまらないのに。心臓の鼓動が速くなる。乱れそうになる呼吸を整えるために、大きく一度、深呼吸をした。
しかし次の瞬間、希佐が一瞬、アランに向かって目配せをしたのが分かり、眉を顰める。また何かをするつもりなのかと考えたそのとき、音楽が止まった。ああ、ここからは、タップダンスだけの……。
「ジェレマイア」
「え?」
「音楽を止めてくれ」
「あ、え? 止めるって?」
「次の音が出るタイミングを後ろにずらしたい」
「わ、分かった。了解、了解……?」
翌日は公演日だというのに、希佐は真夜中過ぎまでタップダンスの稽古をしていた。どうしてこんなにも己に課題を課し、負担をかけ、失敗すれば自滅が待っているだけのアドリブを挟みたがるのか、アランには理解できない。それでも、本人がやりたいと言うのなら、そうさせてやるのが自分なりの演出だ。
「あっ、これって……」
ノアが驚きの声を上げた。
だが、誰よりも驚いているのは希佐と一緒に舞台上にいるバージルだろう。音楽のない無音の中、希佐が踏んでいるステップは、以前バージルが酔っ払ってスタジオに現れたときに、たった一度だけ披露したものだった。ノアが面白がって録画していたものを貰い受けた希佐が、バージルには秘密にしたまま、暇を見つけては練習を続けていた難易度の高いステップ。躍動的だが緻密。タップ音以外にも、手を打ち鳴らし、膝を打ち、自らの体を使って音を出すことで、変則的な効果を狙っている。
最後にくるりと体を回転させたタイミングで音楽を復活させると、希佐はそれにぴたりと合わせてきた。その途端、ぞくり、と全身に悪寒のようなものが走った。
立花希佐は、すべてを完璧にやり遂げたのだ。
気が付くと、既に緞帳が降りていた。その向こう側にある客席からは、拍手喝采が聞こえてきている。希佐はその場に座り込み、大量の汗を流しながら、大きく乱れた呼吸を整えようとしていた。ぽたり、ぽたり、と顔から落ちた汗が、舞台を濡らしていく。このまま落ちた汗が水溜りになってしまうのではないかと思っていると、水を持ったアイリーンが大慌てで駆け寄ってきた。
「ほら、キサ。水飲んで」
「ああ、ありがとう、ございます」
「お礼なんか言っている場合じゃないでしょうに」
希佐は受け取った水を飲みながら、舞台の最後の方の記憶がすとんと抜け落ちていることについて考えていた。だが、あの拍手だ、きっと自分は最後まで無事にやり遂げたのだろう。これまでの公演でも自らの体力を超え、完全にハイになっていたことは度々あったが、記憶が飛ぶほどの経験はしたことがなかった。
「あの……」希佐が顔を上げると、周りには劇団の仲間たちが集まっていた。「私、最後まできちんと踊れていましたか? アドリブを入れ込んだ辺りから、まるっと記憶がないんですけど……」
「何言ってんだよ、上出来だっただろうが!」
バージルは上機嫌でそう言うと、シャワー後のように汗で濡れた希佐の頭を掻き撫でた。
「そうだよ、キサ! もうめちゃくちゃ格好良かったよ!」
仲間たちが口々に褒め称えてくれる言葉を聞き、希佐はほっと安堵の息を吐いた。
ああ、自分は最後までやり遂げることができたのだと思うと同時に、体がどっと重たくなるのを感じる。限界も限界、後一歩進めば奈落の底まで真っ逆さまに落ちていくのではないかと思うほど、体力を使い切ってしまっていた。
これはもう、明日の朝は絶対に起きられないパターンのやつだ──過去の記憶を手繰り寄せながら希佐が汗を拭っていると、舞台袖からアランとメレディスがやって来るのが見えた。
「お客様方がご挨拶をお待ちかねのようだよ」メレディスは希佐を見てにこにことしている。「特に主役の彼に会いたがっているようだ」
「無理しなくていいよ、キサ。うちの劇団は挨拶とかそういうのしたことないし」
「挨拶云々以前に、こんな大喝采を浴びたこともないんじゃないの、アラン」
「違いねぇや」
みんながみんな笑顔を浮かべているのを見て、希佐はたまらなく嬉しくなった。観客を喜ばせる以上に、舞台に立つ仲間たちに喜んでもらえる方が、ずっと嬉しいものだ。
「挨拶、します。せっかくですし」
そう言って立ち上がろうとする希佐をアイリーンが隣から支えてくれる。ふらふらしているのが見ていられなかったらしい。確かに、もう立っているのもやっとの状態で、両膝は無様にもガクガクと震えていた。相当足にきている。
「そう」アランは淡白にそう言うと、舞台に背を向けた。「俺は立たないから」
「彼はこういうのが嫌いだからね」
メレディスは苦笑いを浮かべながらそう言うと、アランの背中を追って舞台袖に引き上げていった。
舞台の真ん中に立たされた希佐の右隣にはノア、左隣にはバージルが並んだ。バージルは希佐が上手く立っていられないことを察すると、背中に手を添えてくれる。
「やってくれたな」
「え?」
「あんなアドリブをぶち込んでくるとは思わなかったよ」
「ああ、びっくりしました?」希佐が嬉しそうに笑うのを、バージルは横目に見ている。「私、本番中にアドリブを挟んで、その人がびっくりする顔を見るのが好きなんですよね」
「ああ! びっくりと言えば、僕もびっくりしたよ! キサが突然キスしてくるから──」
「おっ、やっぱりあれマジでやってたのか?」
「ちょっと、そういうのやめなさいよ、バージル」
「えっ、俺それ見てない! どこ? どこのシーン?」
「あれはキサが自分の指にキスしてただけだよ。そういうの、サークルにいたとき習った」
「そういや、おい、イライアス。お前いつの間に手話なんて使えるようになったんだ? キサの真似か? お前、公演の準備がはじまってからキサのことばっかり見てたからなぁ」
「バージル! やめなさいって言ってるでしょう!」
騒がしいと思いながら希佐が苦笑いを浮かべていると、劇団員たちが静かになるのを待たずに、緞帳がゆっくりと上がりはじめた。このまま待っていても埒があかないと考えたようだ。さすがの劇団員たちも途端に大人しくなり、よそ行きの顔を作っている。
その緞帳が上がり切るのを待たずに、劇場は再び割れんばかりの拍手で満たされた。中には立ち上がってまで拍手をしてくれている人もいる。口笛の音、ブラボーやブラヴァーの掛け声を聞きながら、この懐かしく感じられる雰囲気に浸っていると、バージルが軽く背中を押してきた。
「ほら、挨拶は主役の仕事」
「えっ、でも、私は──」
「お前が挨拶しねぇと、ここにいる全員誰一人帰らないんじゃないか?」
「ええ……」
自分の役割はすっかり終わったものと思っていた希佐だったが、ここへ来て本当の意味で最後の力を振り絞る必要がありそうだと覚悟を決める。ヘソの下あたりに力を込め、息を整えてから希佐が足を一歩踏み出すと、劇場の拍手が一瞬にして鳴り止んだ。
「──今夜は、このような悪天候の中をお越しくださいまして、ありがとうございました」希佐の透明感のある地の声が、劇場の隅々にまで行き渡っていく。「途中トラブルにも見舞われましたが、こうして無事に公演を終えられたことに安堵しています。それと同時に、アラン・ジンデルが作り上げたこの舞台を観客の皆さまが揃って堪能し、心より楽しんでくださったことを嬉しく思います」
今度はまばらな拍手があがる。希佐はそれに構わず、先を続けた。
「私が二ヶ月前に初めてタップダンスを披露したとき、バージルはこう言いました。『こいつのタップダンスは初心者に毛が生えた程度だ』」
希佐がバージルの口振りを真似て言うと、客席から笑い声があがった。隣に立っているバージルからは、ばつが悪そうな気配が伝わってくる。
「でも、確かにその通りでした。初心者に毛が生えた程度の私のタップダンスの技術を、たった二ヶ月でここまで向上させてくれた師匠には、感謝の言葉もありません。この舞台を成功に導いてくれた影の立役者に、どうか拍手をお願いします」
バージルに対しても客席から惜しみのない拍手が贈られる。すると、当人は恥ずかしくて堪らないのか、照れ隠しをしながら希佐の肩を軽く小突いていた。
「他の仲間たちも、みんな私を支え、導いてくれました。劇団に入りたての新人が主役を演じることに不安と不満を感じていても、私を信じ、任せてくれたことに、心から感謝しています」それから、と希佐は言った。「劇団の名の通りカオスな仲間たちを見事にまとめ上げ、素晴らしい脚本を書き上げたアラン・ジンデルにも、最大限の拍手をお願いします。拍手の音が大きければ、舞台袖にいる脚本家兼演出家の耳にも届くかもしれません」
希佐はそう言って、自らも拍手をしながら舞台袖を振り返る。すると、劇場は今日一番の拍手の音に包まれた。その音はどんどん大きくなっていく。劇場中がアラン・ジンデルを舞台上に引っ張り出すために、手の平が痛くなるほど両手を打ち鳴らしているのだ。
「ほら、さっさと出てこいよ!」
バージルが荒々しい声をあげる。舞台袖に立っていたアランは、面倒臭そうに大きく息を吐き出してから、その足で舞台袖から姿を現した。
ああ、この人は、自分がこんなにもこの街の人々に好かれていることを、果たして自覚しているのだろうか。こんなにも大きく、あたたかい拍手と歓声を浴びて、一体何を思うのだろう。
希佐の隣に立っていたノアが、のろのろと歩いているアランの後ろに回り、その背中をぐいぐいと押して舞台の真ん中まで連れてくる。そして、希佐の隣に立たせると、自分は一歩後ろに引いた。
「どうですか?」
希佐が割れんばかりの拍手の中でそう問いかけると、アランは不愉快そうな顔でこちらを見た。
「……なにが?」
「これが、私があなたに見せたかった、舞台の先にあるものです」
すると、アランは少しだけはっとしたような顔をして、劇場内をぐるりと見回した。それから、その口元にほんの少しだけ微笑みを湛え、小さく肩をすくめる。
「まあ、悪くないんじゃない」
横並びになった劇団カオスの面々は、隣り合った仲間たちと手を繋ぎ、客席に向かって揃ってお辞儀をした。何度も、何度も。きりがないので切り上げようとする座長を引き留め、最後に、もう一度だけ。
最後まで舞台上に残り、お足元にお気をつけてお帰りください、と観客たちを気遣っていた希佐を連れ戻すために仕方なくやって来たアランは、その背中を急かすように促した。
希佐は最後の最後に丁寧なお辞儀をすると、いい加減にしろという顔をしているアランに促されるまま、舞台の袖に向かった。アランには分かっていたのだろう。希佐はとうに限界を迎え、今にも倒れてしまいそうになるのを、耐えていたのだということを。
案の定、舞台袖に足を踏み入れた途端、希佐の体は己の意に反して、今度こそその場に崩れ落ちそうになった。後ろから伸びてきたアランの腕がその体を抱えると、有無も言わせず、そのまま横抱きにされる。
「だから無理をするなと言ったのに」
「すみません、実はもうくたくたで」
「見れば分かる」
「ちょっと休ませてもらってもいいですか」
「いいよ」
「このまま眠っても?」
「俺に君を抱えて帰れって?」
「じゃあ、今日はここに泊まっていきます」
「……分かった、ちゃんと連れて帰る」
体が酷く重い。こんな重い体をよくも軽々と抱えられるものだと思いながら、希佐はアランの肩に、自らの頭をそっと預けた。目を閉じ、朦朧とする意識の中で揺蕩っていると、額にやわらかいものが押し当てられたような気がした。