案の定、希佐は翌日になると高熱を出して倒れた。
その兆候は公演当日の朝から見られていたのだ。だが、体調はどうだと尋ねるアランに、希佐は至って平然と、いい感じだと応えた。アランの目にはふわふわしているように見えていたが、緊張のせいかと思い、それとなく問いかけてみる。すると、希佐はやはり平然と、自分は不思議と緊張をしないと言い切る始末だ。
これは変に意識をさせない方がいいのだろうとアランは思った。どうせ、公演の中止を提案したところで頷くような女でないことは、この二ヶ月で十分に学んでいたからだ。自らの体調不良を自覚したら、それこそ公演どころではなくなる。おそらく、自らの高い体温を、公演へ挑む高揚感と履き違えていたのだろう。
可能なかぎりはやりたいようにやらせてやる。でも、もう無理だと判断したら、すぐにやめさせるつもりでいた。だが、アランは結局のところ、この公演を最後まで見届けたいと思うあまり、舞台を中断させるという選択肢を、頭の中から排除してしまっていた。
途中、その体を抱き留めたときにはもう、希佐の体温はかなり高くなっていると分かっていたのに。それでも願ってしまった。柄にもなく、祈ってしまったのだ。希佐が言った、あの舞台の先にあるものをどうしても見てみたくて、どうかこのまま、何事もなく終わってくれと。
寸前まで舞台上で見事な挨拶を行っていた希佐が、ぐったりとした姿でアランに抱かれているのを目の当たりにして、劇団の連中はあからさまに動揺していた。希佐は少し疲れてしまっただけだと言って笑っていたが、そんな嘘に騙される連中でもない。メレディスは希佐の具合が悪いと分かるや否や、車で家まで送ると申し出た。えらく気に入られたものだと思いながら、アランはその言葉に甘え、希佐を家まで連れ帰ってきたのだ。
ぐったりとしながらもシャワーを浴びると言って聞かない希佐に、十分経っても出てこなかったらバスルームに乗り込んでいくと脅し、アランは廊下で腕時計と睨み合いだ。こんなことならアイリーンを連れてくればよかったと思っていると、髪をびっしょりと濡らした状態のまま、希佐がふらふらとバスルームから出てきた。
疲れと眠気で朦朧とした意識の中、熱いシャワーを浴びればこうもなるだろうと呆れ果てるが、アランは何も言わなかった。キッチンの椅子に座らせ、髪を乾かしてやっているうちに、今度はこくり、こくりと船を漕ぎはじめる。
「まったく、世話が焼ける……」
アランは基本的に面倒なことが大嫌いだった。そんな自分が、面倒臭いと言いながらも劇団を発足し、仲間を集め、不定期にでも公演を行っているのだから、おかしな話だと思う。それに、今では日本からやってきた女を自分の家に住まわせ、こうして面倒を見ているのだ。人生とは何が起こるか分からない。
アランは希佐の体を抱え上げると、そのまま部屋に連れて行ってやろうとした。しかし、ドアの前に立って、すぐに踵を返す。そして、自分の部屋のドアを蹴るようにして開けると、希佐を抱えたまま中に足を踏み入れた。
部屋の中は事務室とは違って、きちんと整理整頓されていた。本、楽譜やスコアは本棚に、雑誌はマガジンラックにと、すべて収まるべきところに収まっている。ただ、無駄なものは何一つない。写真の類は一枚も飾られていなかった。
「今日はここで寝てろ」
ある日、寝具屋に行って、不眠だから良く眠れるベッドを売ってくれと言った。それならばこれが良いと、自信満々でウォーターベッドをすすめられたが、これは値段ばかりが高額で、アランを深い眠りに誘ってくれたことは一度もない。しかし、あの今にも壊れそうなスプリングの軋むベッドに寝かせるよりは、ずっとマシのはずだ。
希佐をベッドにおろしてやると、その体が包み込まれるように、少しだけ沈む。足元にたたんでいた毛布を手に取り、それを広げて掛けた。希佐がうっすらと目を開けたのを見て、アランはその目元にかかっていた前髪を、指先でそっと払った。
「水、飲むか?」
頷く希佐を見て、ベッドの脇にある小さな冷蔵庫から、ペットボトルの水を取り出した。蓋を開けながらベッドの縁に腰を下ろし、上半身を起こした希佐にそれを差し出す。
「まだ何本か入ってるから、好きに飲んで」
「……アランはどこで寝るんですか?」
水を何口か飲んでから、希佐が言った。ぼうっとした声だ。考えるよりも先に、言葉が勝手に吐き出されているのが分かる。
「今日は下のソファで寝る。何かあったら電話で呼んで、すぐに来るから」
「私、自分の部屋で──」
「いいんだ」
公演を終えた今だからこそ、あの部屋から遠ざけておきたいという思いもあった。
あの部屋の中は、立花希佐をこの国の外へ連れ出そうと誘惑するもので溢れている。
この二ヶ月間、すべてをかけて向き合ってきた公演が今日、終わってしまった。希佐は今、何の支えもないまま、ただここにいるだけだ。これまでは二ヶ月後の公演を目標に、がむしゃらにその日だけを目指して、懸命に努力を重ねてきた。言い方を変えれば、それ以外のものに目を向ける暇もなかったということだ。
だが、今は違う。考える時間がある。これまでのことも、これからのことも。今はまだ、その時間を与えるべきではないと、アランは思うのだ。
余計なことを考え出せば、きっとこの女は、すぐにもここから逃げ出そうとするだろう。日本を飛び出してきたときのように、誰にも行き先を告げず、まるで最初から存在などしていなかったかのように、この場所から立ち去ろうとする。痕跡一つ残さずに、消失する。
それは希佐自身のためにはならないし、アラン自身もそうなることを望んではいなかった。
ここを出ていくことは自由だ。本人がそれを強く希望するのなら否定する理由はない。だが、ただ衝動に駆られて、もうここにはいられないなどと思うようなことがあるのなら、引き留めたいと思う。いつまでもここにいていいのだと。無理に出ていく必要はないと。ここはもう、君の居場所の一つなのだ、と。
希佐の手からペットボトルを取り上げ、それをサイドテーブルに置いたアランは、細い肩をそっと押して体を横にさせた。半分閉じかかった眼差しに見つめられながら、もう一度毛布をかけてやる。
「よく休んで」
手の平で目元を覆い隠して十秒、ゆっくりとその手を引いた。耳を傾けると、部屋には希佐の静かな寝息だけが聞こえていた。
そのままぐっすり眠り、翌朝には体力が幾分かでも回復していれば、それで万々歳だった。だが、現実はそううまくはいかない。
結局一睡もせずに仕事を片付けていたアランが、朝になって様子を見にきてみると、希佐の様子が一変していた。静かだった呼吸を僅かに荒げ、暑そうに毛布を剥いで、酷く寝苦しそうにしていたのだ。
アランは歩み寄って首筋に手の甲を押し当てる。熱い。寒そうにはしていないので、熱は上がりきった後のようだ。枕元にはディスプレイが砕けたままのスマートフォンが置かれている。
「……電話しろって言ったのに」
どうしてそこまで頑ななのだと思うほど、普段の生活の中で、希佐がアランを頼ってくることはほとんどなかった。だから、何か助けが必要そうだと感じたときは、それとなく声をかけるようにしていた。それでも、希佐がアランの手を掴むのは、五回に一回もない。遠慮もあるのだろう。だが、一番には別の理由があるように思うのだ。
希佐はおそらく、人を頼ることに慣れていない。多くのことを自分一人の力でやり遂げてきたのか、それを当然のことのように考えている節がある。誰かの手を煩わせることが酷く申し訳ないとでも思っているようで、希佐の口から助けてと言う言葉を聞いたのは、あの事件のとき、たった一度きりだった。今思えばあのときですら、希佐が助けてと言うまでに、かなりの時間がかかっていた。
「薬、あったかな」
汗で髪が額に張り付いているのを見て、着替え、と思うが、まさか自分が着替えさせるわけにもいかないと思い直す。
頭を掻きながら一度部屋の外に出たアランは、ポケットからスマホを取り出し、一本の電話をかけた。その相手は驚くほど早く、厳密には一コールと半で、電話口に出る。
『もっ、もしもし?』慌てた声が聞こえたあと、急にその声が遠のいてから、また戻ってきた。『ど、どうしたのよ、こんな朝早くに……』
「ごめん、なんか取り込み中だった?」
『違うわよ! アランから電話がかかってくるなんて珍しいから、ちょっと焦っただけで──じゃなくて、猫! そう、猫が部屋の中を走り回ってて……それで……』
このやかましさは朝からなのかと考えながら、アランはアイリーンの声を聞いていた。こちらが何も言わずとも、関係のないことを次から次へと口走り、どんどん墓穴を掘っていく。
「昨日は眠れた?」
『えっ?』
「公演後は頭が冴えてよく眠れないって話、前に聞いたから」
『あ、ああ、ええ、昨日はよく眠れたわ。これから準備をしてヘスティアに向かうわね。劇場の後片付け、手伝うわ』そう言ってから、アイリーンは急に思い出した様子で、はっと息を呑んだ。『そういえば、キサは? もう大丈夫そう?』
「熱出して倒れてる」
『……はい?』
「昨日の夜からヤバそうだなとは思ってたんだけど──」
『あなたの主観はどうだっていいのよ』アイリーンがぴしゃりと言った。『熱はどのくらいあるの?』
「さあ」
『さあって、あのねぇ……』
「助けてくれない? 俺がいろいろやると問題だろうし、こういうとき、どうすればいいのかよく分からないから」
『言われなくてももう準備してるわよ』
今すぐ行くから待ってなさい、と言って、アイリーンは電話を切った。
アランはキッチンに向かい、冷凍庫から冷却ジェルの枕を取り出すと、それをタオルに包む。別の清潔なタオルを水に濡らし、よく絞ったものを持って部屋に戻った。
そっと希佐の頭を持ち上げ、首筋にあてがうように枕を置く。顔周りの汗を濡れタオルで拭ってやると、心なしか表情がやわらいだように感じられた。
「……アラン?」
大きな目を縁取るまつ毛が微かに震える。やわらかな瞼がゆっくり開かれたかと思うと、その目がまっすぐにアランに向けられた。ぱち、ぱち、と瞬いて、どこか不思議そうだ。
「ん」
「どうしたんですか?」
どうしたもこうしたもあるかと思いながら、アランは目を覚ました希佐の鼻先を指で弾く。
「なにかあったら電話しろって言った」
「え? あ、ああ」希佐は紅潮した顔に苦笑いを浮かべた。「私が我慢すればいいだけのことですし、それに、眠っているかもしれないと思ったら、起こしてしまうのが申し訳なくて」
「俺が夜寝ないの知ってるだろ」
「公演で疲れているんじゃないかと」
「俺は突っ立って見てただけ」
「でも、気苦労はあったでしょうし」
「楽なもんだったよ」
何を言ってもしれっと言い返してくるアランを見上げ、希佐はようやく口を噤んだ。そんなはずはないと言いたげな顔をしているが、口を開くたびに体力が奪われていくだけだと分かり、観念したようだ。
「もうすぐアイリーンが来るから、何か欲しいものとか必要なものがあったら、彼女に頼むといい」
「え、アイリーンさんが来るんですか?」
「都合悪い?」
「いえ、そうじゃなくて」途端に目を泳がせはじめた希佐は、慌ててベッドから起き出そうとする。「私、やっぱり自分の部屋に戻ります。汗、かいたから、着替えたいですし、それに、こんな格好見られたくない、ですし……」
しかし、それをアランが引き留めるまでもなく、希佐はベッドの上にばったりと倒れ込んだ。呆れて物も言えなくなっているアランの視線から逃れようとするように、こちらに背中を向けた。
「俺にならこんな格好見られてもいいんだ?」
「アランは私がどんな格好をしていたってなんとも思わないじゃないですか」へそを曲げたような声が答える。「アイリーンさん、いつも素敵だから、なんか、こう」
「……それって遠回しに俺のこと貶してる?」
「私と一緒で着るものにあんまり頓着がなさそうだから、心配してないだけです」
「ふうん」大きなベッドに転がる小さな背中を見やりながら、アランは相槌を打った。「アイリーンはそういうの気にしないと思うけど」
「私が気にするんです」
「なに、君はアイリーンのことが好きなの?」
なるほど、何年も男として生活をしていると、女に対する気持ちにも変化が出てくるのかと半ば本気で思っていると、希佐が肩越しにアランを振り返り、じっとりとした目で睨みつけてきた。
「別にいいと思うけど、そういうの」
「アイリーンさんのことは好きです。でも、いわゆる恋愛感情はありません。今、そういう話するの、やめてもらえますか? 余計にくらくらしてくるので」
「はいはい」そう応じながら、アランはベッドから腰を上げる。「じゃあ、俺は外に出てる」
「あ、あの……」
「なに?」
「……冷たいの、ありがとうございます」
冷たいの、と一度復唱してから、それが冷却用の枕だと気付き、アランは少しだけ笑った。
それから三十分程が過ぎた頃、アイリーンがやって来た。二階のキッチンでノートPCを使って原稿を打ち込んでいたアランが、階段を登ってくる足音に気づいて顔を上げると、両手に荷物を抱えたアイリーンが姿を現したところだった。
「……何をそんなに持ってきたの?」
「食べ物とか飲み物とか、いろいろよ」アイリーンはどことなくイライラとしているように見える。「今日のタクシーの運転手、道を一本間違えたのよ? ロンドンタクシーの運転手にあるまじき行為だと思うでしょう?」
「この辺りは道が入り組んでいるから」
「何がノリッジ試験よ。お客を馬鹿にしちゃって」
ロンドンタクシーの運転手になるためには、他の国のタクシー運転手とは違い、ノリッジ試験という難しい試験に合格しなければならない。これに合格した運転手はロンドンの道をすべて把握しているはずで、通常であれば間違えることなどあり得ないが、アイリーンはこうしてハズレのタクシーを拾うことが度々ある。
「それで、キサは? 自分の部屋?」
「いや、俺の部屋」
「なんですって?」
「だから、俺の部屋に──」
「どうしてあなたの部屋に寝かせてるわけ?」
「まあ、理由は、いろいろ」
訳が分からないと言いながら、アイリーンはアランの部屋の前まで行くと、ドアをやや乱暴に叩いてから中に入っていった。二、三分ほど経過しただろうか、アイリーンは部屋を出てきたかと思うと、向かい側にある希佐の部屋のドアを勢いよく開ける。
「うわ、なによ、この部屋」驚愕したように言うのを聞いて、アランはその姿を横目に見る。「こんなのどう見たって物置部屋じゃない。っていうか、本当にここで暮らしてたの? 二ヶ月間ずっと? 嘘でしょ? こんなところで人間暮らしていけるの?」
アイリーンはキッチンで紅茶を飲んでいるアランを睨みつけている。いや、それは俺のせいじゃないと思いながら、アランは無視を決め込むことにした。
すると、アイリーンは意を決したような面持ちで希佐の部屋の中に入っていき、すぐに必要なものを抱えて出てくる。着替えの類だろう。
「……あなたがキサを自分の部屋で寝かせたがる理由が理解できたわ」
「分かってもらえてよかったよ」
「しかもあの子、ほとんど練習着のジャージしか持ってないのよ。普段着なんて数える程度しか持っていないんですって。どうしてか聞いたら、なんて言ったと思う?」
「必要がないから」
「そう! そうなのよ! いえ、いいのよ。服の趣味なんて人それぞれだもの、そこに口を挟もうとは思わないわ。でもね、ここは仮にもロンドンよ? ファッションの街よ? 服を着回すにしても、あと何着かは──」
「キサが待ってるんじゃないの」
よく回る口を塞ぐためにそう口を挟むと、アイリーンは思い出したような顔をして、アランの部屋に戻っていった。
希佐が気にしていたのはこれかと考えながら、アランの心に僅かばかりの同情心が芽生える。今頃は、あの部屋の中でアイリーンがキサの洋服事情にメスを入れ、切々と語っているのかもしれない。アランにはそれを聞いている希佐の苦笑いが目に浮かぶようだった。
アランは腕時計で午前九時が過ぎたことを確認してから、スマホを手に取った。こちらは通常五コール以内に電話に出る人間だ。
「移動中?」
『いや、もう店だよ』メレディスが答えた。『僕が来たときにはもうイライアスが店の前に立っていてね、今はお詫びの紅茶をご馳走しているところだ』
「他の野郎どもは?」
『どうやらまだのようだね』
「昨日は何時に帰ったの?」
『三時前くらいだったかな。どこもかしこもキサの話で持ちきりだったよ』
二階の小劇場で公演が行われる日はパブが臨時休業になる。しかし、公演が終わると観劇した客を対象に店を開き、金儲けをはじめるのだ。その売り上げの半分が公演を行った劇団に寄付されることを知っている客たちは、公演の余韻に浸りながら、これは人助けのためだと言い張って酒を浴びるように飲む。公演を終えた劇団員たちも、その席に参加する者は多い。運が良ければ舞台関係者から声がかかるし、そこから次の仕事につながる可能性も多分にあるからだ。
今回は演出家も主役も不参加だったが、夜会が午前三時前まで行われていたということは、それなりの盛り上がりを見せていたということなのだろう。
『君とキサ宛に大量の名刺を預かっているんだけど、どうしようか?』
「俺の分は一応受け取っておく。キサの分は直接本人に渡したら?」
『でも、ほとんどが仕事のお誘いだよ?』
「どうするかを決めるのは彼女だから」
『ほとんどが僕の知り合いだから悪い人はいないと思いたいけど、もし実際に仕事を受けるつもりなら、君が一緒に精査してあげた方がいいだろうね』
そこまで言ってから、メレディスは「それで?」と続けた。
『劇場の撤収作業が行われるとなれば真っ先にやって来て、率先して働いてくれそうなキサが来ていないということは、今も彼女の体調が思わしくないということかな』
「熱出して寝込んでる。今はアイリーンに頼んで看病してもらってるんだけど、あんなことがあったばかりだし、彼女たち二人だけを残してそっちに行くのはどうなのかと思って──」
『ああ、ちょっと待って』メレディスがアランの言葉を遮った。『イライアスが話したいと言っているよ』
「代わって」
『……あの』公演の高揚感は消え去ったのか、いつものぼんやりとしたイライアスの声が聞こえてきた。『キサの具合、やっぱり悪いんですか?』
「熱がある以外はなんでもなさそうだから、すぐに良くなるとは思うけど」
『こっちのことは僕たちがやっておくので、アランはそこにいてください。アイリーンもいるんですよね?』
「ああ」
『気を使わせるといけないから、少し経ったらキサから引き剥がしてください。こちらへ手伝いに来させるとか、買い物に行かせるとか、適当な理由で。アイリーンは怒るだろうけど』
「分かった」
『キサにお大事にって伝えてください』
「ああ、伝えておくよ」
『よろしくお願いします』
昨日のイライアスの演技を見た者は、もう彼のことを喋るマネキンなどと呼ぶことはないだろう。それほどの演技を舞台上で披露していた。冒頭から飛ばしていく希佐を追いかけるように。まるで、その隣に並びたいのだとでもいうふうに。これからもっと、イライアスは成長していくに違いない。数年後には商業演劇の舞台でその強い輝きを放っているかもしれない。それだけの実力があると、昨日の舞台で証明できたはずだ。
『──彼、少し雰囲気が変わったね。一皮剥けて、凛々しくなった感じがするよ』
じゃあ、あとはこちらでやっておくから、と言ってメレディスは電話を切った。
アランはスマホをテーブルの上に置くと、暗転したノートPCの画面を見て、昨日の舞台を思い出す。
昨夜はすっかり心が満たされてしまい、このまま舞台の世界から退いても構わないのではないかと考えていた。それなのに、どういうわけか今は、次から次へとアイディアが溢れ出して、止まらなくなっている。その中の何本が形になり、実際の舞台として成り立つものになり得るのかは分からないが、今はとにかく、吐き出されたアイディアを書き留めているところだ。
だが、自然と、当然のように、頭の中で思い描く舞台の中心には立花希佐の姿があって、その事実がアランを酷く混乱させていた。もし希佐自身がここに留まるという選択をしたとしても、このままではあと一度の公演が限界で、それが終わったら今度こそ、この国を出ていくことになるのだろう。
それは仕方のないことだ。そう思う反面、どうしてもこの国に留まらせたいという気持ちもあった。それが舞台の脚本家や演出家としての意見なのか、一人の人間としての我儘なのか、未だ感情の整理が追いついていない。いや、本当は分かっているのだ。ただ、それを認めるのが怖いというだけのことで。
「キサ、眠ったわよ」
暗転したディスプレイを長い間じっと見つめていたアランの耳に、部屋から出てきたアイリーンが声をかけてきた。アイリーンはアランの近くまでやってくると手元を覗き込み、紙に意味もなく描かれたぐるぐるの渦巻きを見て、ははーん、と訳知り顔を見せた。
「昨日の公演のこと考えていたんでしょう?」
「なんで?」
「成功した公演の後はいつだって惚けているもの、あなた。前回の私の舞台のときはそんな顔してくれなかったけれど」
「あれはあれで好きだった」
「あら、そんなふうに思ってくれていたの? ありがとう」アイリーンは素直に感謝の言葉を口にすると、いつもは希佐が座っている椅子に腰を下ろした。「昨日のキサは確かにすごかったけれど、個人的にはイライアスの変化に驚かされたのよね。そういうお客さんも実際多かったみたいだし」
「そうだろうな」
「でも、あの演技を引き出したのは、他でもないキサだった」少し複雑そうな顔をして、アイリーンは目を伏せる。「キサってとても不思議な子よね。あの子が頑張っている姿を見ると、みんながみんな、自分も頑張らないとって思ってしまうの。イライアスもそうだったんだと思う。私たちは誰もイライアスにもっと演技を頑張れなんて言わなかったし、彼には他の誰にも真似のできないダンスの才能があるんだから、それでいいんだって思ってたわ。でも、キサが現れて、あの子の姿を見て、イライアスは変わった。それってすごいことだと思うけれど、同時に、怖いと思ってしまうのよ」
「怖い、ね」
「でも、やっぱり分かってしまうの。ああ、これがあなたの求めていた才能なんだって。あなたの理想とする舞台の真ん中に立つのは、こういう子なんだって。自分だけじゃなくて、周りの人間も成長させられるような人。私も、キサのことは純粋にすごいと思っているし、舞台に対する姿勢は尊敬できる。でも、ちっとも羨ましいとは思えない。私は、彼女みたいな才能、ほしいとは思えなかった。もちろん、あなたの求める理想に近づきたくて、才能を欲していたことはあったのよ。でも、実際にその才能を目の当たりにしたら、急に尻込みをしてしまった」
なまじ才能を持つ人間だからこそ、己のそれを上回る圧倒的な才能を見せつけられたとき、そのあまりの恐怖に身をすくませてしまうのかもしれない。自分はこの人物には絶対に敵わないと自覚してしまった瞬間、敗北は決定づけられる。
それでもこの女は、諦めない、と言うのだろう。アランにはそれが分かっているから、あえて何も言わなかった。
「あなたが彼女に惹かれる理由、分かる」
「……え?」
「あの子のことを嫌いになれる人間なんているのかしら」アイリーンはそう言って少し悲しそうに笑った。「嫌いになれたらいいのにね。でも、残念ながら、私もキサが大好きになってしまったのよ。だから……」
だから、の後に続く言葉を、アランは聞くことができなかった。アイリーンが何も言わないまま立ち上がり、帰り支度をはじめてしまったからだ。無理に聞き出して、心の傷口を深くする必要もない。
アランはもうずっと昔からアイリーンの気持ちには気づいていたし、本人からだって何度も告白らしいことをされてきたが、その気はないと言い続けてきた。おそらく、この先もずっと、その思いは変わらないだろう。その人間性や才能を好ましくは思っていても、それが愛情に変わるかどうかなど、誰にも分からないことだ。
「俺は変われないよ、アイリーン」
「そんなこと知ってるわよ」
「これまで通り何も変わらない。君は俺の劇団のメンバーで、大事な仲間だ」
「私が辞めると言うまで?」
「辞められるのは困るな。君ほど歌える人間を他に探すのは手間だし、馬鹿なことばかりする連中を嗜めてくれる女傑がいないと、劇団が締まらない」
「何よ、それ」今度は少し嬉しそうに、ふふっ、と笑う。「大丈夫よ、辞めるつもりなんてないから。劇団が解体される瞬間まで、図太く居座ってあげるわ」
「そいつは心強い」
「それじゃ、私は行くわね。イライアスがいるから大丈夫だとは思うけれど、あの人たちがちゃんと劇場の後片付けをしているか心配だから、様子を見に行かないと」
「頼むよ」
「執筆に集中できないならキサの側にでもいてあげたら? ご飯を食べて、薬も飲んだから、目を覚ます頃には熱もある程度は落ち着いているでしょう」
「何から何まで悪いな」
「そう思うならもっと甲斐性を見せなさいよね、甲斐性を」
バッグを肩にかけ、長い髪をなびかせながら颯爽と立ち去る後ろ姿を、黙って見送る。
昔から格好いい女だと思っていた。そんなことを本人に伝えたら怒られるから、アランは自分の心の中で思うだけに留めている。彼女が欲しがっている言葉は、そんな言葉ではないのだろう。だが、自らの気持ちを伝え、応えられないと言われてもなお、同じ姿勢でい続けられる人間を、アランは純粋に尊敬する。強い人間だと思う。自分なんかよりも、ずっと、ずっと。
この世の中はちっとも上手く事が運ばない。こうなれば理想だという形には絶対に落ち着かないようにできている。この世界は酷く残酷だが、だからこそ、面白いのかもしれないとアランは思った。自分の思う通りに事が運び続けたら、それはそれでつまらない人生だ。
希佐がここにやって来てまだ二ヶ月しか経っていない。いや、もう二ヶ月経ってしまったと言った方が、気持ち的には正しい。このたった二ヶ月で、あの女はこの劇団のあり方を、丸ごと変えてしまったのかもしれない。立花希佐のおかげで成長できた人間は、何もイライアスだけではないのだ。彼女の影響を受けていないのは、元々できた人間だったジェレマイアくらいのものだろう。そのジェレマイアも、間もなく自分の夢の道に戻っていく。それでもこの劇団には残ると言ってくれているのだから、ありがたいことだ。
この劇団は衝突し合う個性の寄せ集め、まったくもってカオスだと言われ、皮肉を込めて劇団カオスという名前にしてやった。だが、今ではその名前を気に入っているし、もうそれ以外には考えられなくなっている。そのカオスな集団を、日本からやって来た女が一つにまとめ上げてしまったのだから、おそろしいと言うのだ。
それから数時間後、舞台のためにここから運び出した備品や小道具の数々を戻しに、劇団の仲間たちがぞろぞろとやって来た。アランが車を出せなかった代わりに、メレディスがパブのスタッフを貸し出してくれたらしい。謝礼にお前のサインを御所望だとよ、とバージルが今回の舞台の台本を差し出してきたので、アランは仕方なしにサインを書いて渡してやった。
ノアは大学の課題をやらなきゃいけないと言って嫌々帰って行った。バージルは夜から商業演劇の仕事が入っているらしい。アイリーンとイライアス、ジェレマイアはまだ時間があるからといって、三人で連れ立って買い出しに行って来てくれた。
「キサの具合が良くなったら全員で打ち上げやろう」帰り際にジェレマイアが言った。「その頃には俺のオーディションの結果も出てるかな」
そしてまた誰もいなくなったスタジオの二階は、再び静寂に包まれる。仲間たちは嵐のように現れ、去っていった。もうパブの開店時間を過ぎているので、メレディスに連絡をするのは明日の方がいいだろう。手にしたスマホをテーブルに置き直し、ノートPCを閉じたアランは、椅子から立ち上がった。
自分の部屋の前に立ち、僅かに逡巡してから、ドアをノックする。返事はない。時刻は六時を過ぎていて、そろそろアイリーンから薬を飲ませるように言われていた時間だった。鍋には昼間のうちに作っておいたチキンスープができあがっているが、口にできるだろうか。
アランは小さく息を吐き出してからドアを開けた。すぐに戻ることになるだろうと、ドアを開けたまま部屋の中に足を踏み入れ、ベッドに歩み寄る。
途中何度か自分で着替えたのか、ベッドの下には汗で湿ったTシャツが二枚落ちていた。サイドテーブルには飲みかけのペットボトルの水の他に、食べさしのゼリーと薬の箱が並んでいる。それを見て食欲はなさそうだと察したアランが、さてどうしたものかと思ったとき、希佐がベッドの上で身じろぎをした。
ドアから差し込んでいる明かりが照らし出した顔には、なぜか恐怖の色が浮かんでいた。熱に浮かされているのとは違う。うなされているのだと理解したのは、希佐の手がゆっくりと持ち上がり、自らの首を絞めるように手の平を這わせたからだった。
ベッドの上に身を乗り上げ、自分の首を絞めようとした希佐の手首を掴んだアランは、声を掛けようとして、すぐに躊躇った。両方の目を縁取る長い睫毛が濡れている。目尻から耳の方に向かって、何本もの涙の跡があった。こうしている今も、眠っている希佐の目からは、涙が溢れ続けている。
「……キサ」手首を掴んだまま、アランはその名を呼ぶ。「キサ」
起きてほしい気持ちと、このまま眠っていてほしい気持ちが、交錯している。希佐が目を覚ましてしまったら、きっともう、この思いに蓋をしておくことはできなくなるだろう。その濡れた目に見つめられたら、きっともう、黙っていることはできない。だから、どうか、目を覚さないでくれと願った。
でも、この世界の神はアランを嫌っている。アランが思うようにはしてくれない。本当に、趣味が悪い。
希佐は目を覚ました。恐怖に怯えた目で、アランを見ている。
「キサ」アランは希佐の手を自らの口元に運び、指先に口付けた。「大丈夫、側にいる」
希佐の手は、まるで冬の寒空の下にいたかのように、ひんやりと冷たかった。アランはあたためるように息を吐き掛けてから、自分の指を希佐の指に絡める。もう一度名前を呼ぶと、恐怖が滲んでいた目に、光が戻ってくるのが分かった。
自分を殺そうとしていた。夢の中で。もしかしたら、もう何度も、同じ夢を見続けているのかもしれない。そう思ってしまうくらいに、希佐は驚くほど、落ち着き払っている。
深い、深い闇を感じた。自分を見上げている濡れた目の光の奥にさえ、暗いものを感じた。
あの舞台の先を見せてくれた、過去の多くを昇華してくれた女はまだ、己の過去に囚われて、そこから抜け出すことができずにいるのだ。あの脚本、あの舞台でも、まだ足りない。立花希佐の心は満たされていない。満たされている人間は、夢の中で、自分の首を絞めたりはしない。
アランが腕を広げると希佐はその中にゆっくりと落ちてきた。背中に回された手がシャツを強く掴んでいるのが分かる。アランは希佐の体を抱きすくめると、その首筋に顔を埋めた。唇を押し当て、抱き締める力を強くする。
「君を助けたい」心からそう思ったのだ。「俺が君を助けるよ」
舞台の上ではあんなにも大きく見えていた背中が、こんなにも小さい。あんなにも光り輝いていた才能が、絶望に染まっている。これが、立花希佐という人間の本質なのだとしたら、アイリーンはおそらく、無意識にその部分を覗き込んでしまっていたのかもしれない。
希佐の息遣いが乱れるのを感じて、アランは体を起こすと、その顔を見た。声も出さず、表情らしい表情を浮かべることもせずに、涙を流していた。
「ダメだと分かっていたのに」表情に反して、その声はあまりに悲痛で、聞いていると胸が苦しくなる。「いけないと言い聞かせていたのに、私は、私は……」
教会の懺悔室で告白をするような声で、希佐は言った。
「……あなたを、好きになってしまった」
アランには分かっている。なぜこのような物言いをするのか。ここではないどこか、遠い遠い異国の地に、強い思いを寄せている誰かがいて、今もその相手のことを思っているのに、別の男にそうした思いを抱いてしまう自分が、希佐は許せないのだ。
ならば、自分も同じだけの罪を背負おうと、アランは思った。希佐の心の深い場所に棲む、その相手への気持ちさえ、すべて余すことなく愛そう。いつか希佐の心が救われ、過去のすべてから解放されて、いずれこの腕の中から離れていくのだとしても、その瞬間までは、こうしていたい。
「俺もだ」アランは両手で希佐の頬を包み込み、額を合わせる。「俺も、君を好きになってしまった」
なんて歪んだ愛の告白なのだろう。
好きになってはいけない人を、好きになってしまった。いずれ手放さなければいけない人に、手を伸ばしてしまった。まるで地獄に落とされるような心地がしているのに、自分を見つめる目に確かな愛情を感じて、たまらない気持ちになる。
希佐は背中に回していた腕を引くと、アランの目を見つめたまま、それを覆い隠している前髪を払った。言葉にせずとも分かる。あなたの目が好きだと、希佐はいつも、その眼差しで語っていた。その目に見つめられるたびに思いが透けて見えて、その度に、何か別のことを考えて自分の気持ちをごまかしていた。
すっと背筋を伸ばす。希佐の頬が、まるで猫のように、アランの頬に擦り寄った。僅かに身を引き、上目遣いに見つめてくる。誘うように薄く開かれた唇を見て、アランは少しだけ笑った。なるほど、これは重症だと思いながら、誘われるがままにキスをした。
演じていると分かる。女を、演じている。あの舞台演出家の脚本に登場する女優と同じだ。それは驚くほどに美しく、艶かしく、蠱惑的だが、本物ではない。だが、本人はこれを、本物だと思い込んでいる。だから、重症だと思ったのだ。
アランは体の上を滑らせた手の平を背中に這わせ、希佐の背筋をゆっくりと撫で上げた。塞いだ唇の隙間から、熱い吐息が漏れる。同時に不自然な震えを感じて、察した。最後に食むようなキスをし、名残惜しく思いながら、希佐の体を解放してやる。
「また熱が上がったら困るから」
何か食べさせて、薬を飲ませて眠らせれば、すべて夢だったことにしてしまえるだろうかと、一瞬思う。我ながら最低な考えだと一蹴し、ベッドから降りようとすると、希佐がアランの手を掴んだ。
「……なに?」
「もう少しだけ、ここにいてくれませんか」
「別にどこにも行かない。何か食べ物を……」
いや、そういうことではないのか──そう思いながら、アランはもう一度ベッドの上に腰を据えた。
希佐は自身の言動に困惑を隠しきれない様子で、自分が掴んでいるアランの手をじっと見つめている。そのまま何も言わずにただ寄り添っていると、希佐の呼吸が少しずつ眠気を帯びたものになり、眠りに落ちていくのが分かった。一人で眠るのが怖かったのだろう。また、自分を殺す夢を見るかもしれないから。
アランは倒れそうになった希佐の体を支え、ゆっくりと体を横たえさせる。自分も少し間隔を置いて横になると、そっと目を閉じた。吐き出した言葉を取り消すことはできない。希佐から伝えられた思いよりも、自分の口から出た言葉が、自分の耳に入ってくることで、急にそれを自覚した。
好きになってしまった。
罪深い言葉だ。