ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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ビザ

 目が覚めると、頭の中にかかっていた靄のようなものが、すっかり晴れていることに気づいた。まだ若干のだるさは残っているものの、熱も大分下がったようで、つらいとまでは感じない。

 公演翌日だというのに寝込んでしまい、いろんな人に迷惑をかけてしまった。後でお詫びを言わなければと思いながら寝返りを打った希佐は、目の前にある顔を見て、現実に引き戻される。先ほどの記憶が瞬時によみがえり、心臓が大きく跳ねた。

「……」

 アランが眠っていた。静かに寝息をたてて、ぐっすりと、眠っていた。希佐はソファで横になっているのを見たことがあるくらいで、こうして眠っている姿を見るのは、おそらく初めてのことだった。

 驚きに跳ねた心臓が落ち着きを取り戻しはじめたかと思うと、今度はまた別の意味で、とくとくと落ち着きなく鼓動をはじめる。

 さっきはなんだってあのような言動に走ってしまったのだろう。希佐は自分自身に信じられない気持ちがしていたし、なかったことにしたいと思ってしまった。いや、伝えた言葉に嘘があるわけではない。だが、あまりにも、あまりにも、あんまりだった。穴があったら入りたいと思う。そこにすっぽりと収まって、当分出てきたくない。

 ただ、怖いのだ。

 高科更文のことを今でも大切に思っていて、片時もその存在を忘れたことなどなかったのに、ここへ来てからの二ヶ月の間に、一度も思い出すことのない日が増えていた。手首の鯉結びが視界に入り、ようやく思い出す日もあった。その事実が希佐をより混迷させるのだ。

 もう間もなく日本を飛び出して三年になる。ユニヴェールで過ごした日々と同じだけの年数が過ぎ去ろうとしている。もうずっと声を聞いていない。匂いも感じていない。その温もりも、遠いものになった。段々思い出すことも難しくなっている。記憶とは、こうして薄らいで、色褪せて、風化していくものなのだろうか。それとも、この美しい人を思う気持ちが、そうさせているのだろうか。

 希佐は目と鼻の先で眠るアランの顔をとっくりと眺めた。ユニヴェールにも美しい人はたくさんいたが、それとはまた別の迫力がある。

 下りたまぶたの向こう側にある緑の目が、本当に好きだと、希佐は思っていた。深く深く、どこまでも深く落ちていく、湖の底のような色。それなのに、光の差し方によっては、違った色にも見える。しつこく見つめると気分を害してしまうから、ずっと覗き込んでいたい気持ちを堪えていた。本物のエメラルドなんかよりも、ずっと綺麗だ。

 希佐は自分が掛けていた毛布の半分を、アランの体にかけてあげた。時計に目をやると、時刻は深夜の一時を過ぎている。いつもなら、アランは事務室にこもって、カタカタとキーボードを叩いている時間帯だ。こんなところで眠っていて大丈夫なのだろうかと思う反面、少しくらいはこうして、ゆっくり眠った方がいいとも思う。

 ベッドをこっそりと抜け出し、足音を立てないように歩きながら、バスルームに向かった。用を済ませ、手を洗いながら鏡を見ると、酷い寝癖がついていたことに気づいて苦笑いを浮かべる。髪を軽く撫でつけながらキッチンに向かい、つけたままになっていた電気を消すと、部屋に戻った。

 ドアを後ろ手に閉め、そっと歩く。アランが眠っているのとは反対側からベッドに上がり、毛布の端を掴んで静かに潜り込んだ。ふわふわと、まるで水の上を揺蕩うようなベッドは、驚くほど寝心地が良かった。

 日本を出てきてからこちら、まともな寝具で眠っていなかったのだということを、ここへ来てはじめて自覚する。アランをはじめ、他の仲間たちが口を揃えてベッドを買い換えろと言っていたのは、そういうことだったのだ。あのベッドでは、間違いなく体の疲れは取れないと、今なら分かる。

「……キサ」ぼんやりと天井を見上げていると、少し掠れた声が希佐を呼んだ。「気分は?」

「もう大丈夫みたいです」

「そう」

 目を覚ましたアランはそう言って軽く伸びをすると、近くにあった希佐のスマホの画面を点灯させて時刻を確認していた。するとどういうわけか、言葉を失って絶句したような面持ちを浮かべる。

「どうしたんですか?」

「……六時間も寝てた」

「そうですね」

「いや、六時間……」アランは信じられないという顔をして瞬いていた。「そう、か」

「お仕事終わってなかったんですか?」

「仕事は一区切りついてる。返答次第で加筆やら修正やらあるけど、朝になってからでも大丈夫だし……」

 くしゃりと髪を掻き上げたアランは、そのままベッドに倒れ込むと、うつ伏せに突っ伏すような格好になった。しばらく黙り込んでいるのでまた寝入ってしまったのかと思っていると、急に大きなため息を吐く。

「……俺ばかり救われて、フェアじゃないな」

「え?」

「いや、こっちの話」アランは体の向きを変え、希佐の方を見た。「キサ」

「はい」

「もしこのままイギリスにいられることになったら、どうする?」

「でも、もうすぐビザが切れて──」

「今そのことは考えなくていい。君がどうしたいかだけ、教えて」

「私は……」それは、今となってはもう、考える必要もないことだ。この国を、この劇団を離れることはもう、希佐にとっては翼をもがれるような感覚に近いことだった。「……ここにいたいです。私は、みなさんともっと一緒にいたいと思っています」

「その方法があると言ったら?」

「あるんですか?」

 そう言って希佐がアランの方を見やると、緑の目が真剣味を帯びてこちらを見つめていた。

「あることにはある。ただ、このビザは取得がかなり難しい。対象者が各分野で世界レベルの才能を持っていることが最低条件だ。でも、そのビザを取得できれば最長五年の就労が認められて、その後は永住権の申請も可能になる」

「……私、世界レベルの才能なんて持っていませんよね?」

「君に才能がないと思っていたら、そもそもこんな提案をしていない」でも、とアランは続けた。「このビザを申請するには、大量の書類や資料を用意する必要がある。同時に、君の過去を暴くことにもなる。日本の学校に問い合わせて、在学中の君の成績表や公演資料なんかを取り寄せなければいけないから」

「それは……」

「パートナービザっていうのもあるけど」

「パートナー?」

「事実婚とか同性のカップルが取得できるやつ。でも、これは二人が二年以上一緒に暮らしていないと条件が満たせないから、実質不可能だな」

 まいったね、と言って、アランは本当にまいったような顔をする。希佐はその顔を見つめながら、この人は本当に真剣になって、自分のことを真摯に考えてくれているのだと、改めて思った。

 希佐がこの先もここにいられるように。これ以上逃げるという選択をせずにすむように。しっかりと腰を据え、大地に根を生やして、まっすぐに生きていけるように。

「……ちょっと、俺は真剣に話してるのに、何笑ってるの」

「ごめんなさい。でも、嬉しくて」この人は本当に自分を好いてくれているのだと分かる。「少し、考える時間をもらってもいいですか」

「いいですかも何も、これは君の問題だ。俺の言動に流されるより、自分で考えて決めた方がいい」

「明日一日、ゆっくり考えてみます」

「別に何日かけたっていいけど。じゃあ、決まったら教えて。俺は君の決断を尊重するし」

「……もし日本に帰ると言ったら?」

「え?」

「ビザの申請はしないで日本に帰ると言い出したら、どうしますか?」

「なに、行かないでくれって引き止めて欲しいの」何も言わない希佐を見てから、アランは明後日の方に目を向けた。「俺はそんなことしない。日本は君の故郷だ。帰ると言うなら、それを止める理由はない。君自身が考えて決断したことなら、尚のこと」

「嘘吐いてる」すかさず笑う希佐をアランは睨んだ。「アランは本当ではないことを言うとき、いつも私の目を見ないんですよ」

「……あ、そう。よーく覚えておくよ」

 見るからに不愉快だという表情を露わにしたアランは、そう言うと希佐に背中を向けて横になった。それでもベッドを出ては行かないので、本当に腹を立てているわけではなさそうだ。少しからかい過ぎてしまったことを反省しながら、希佐はその背中に声をかける。

「試すみたいな言い方をして、ごめんなさい」

 ひらりと振られた手は、どういう意味なのだろう。放っておいてくれということなのだろうか。許す、と解釈するのは、あまりに勝手が過ぎる。

「私、日本には当分帰らないと思います。イギリスにいられなくなっても、日本に帰って生活をするつもりはないんです。次はカナダに行こうと思っていました。アメリカもいいなと思ったんですけど、ブロードウェイ界隈にはユニヴェールの卒業生が多いから、私を知っている人がいるかもしれないですし」

「ここも一緒だよ」アランが低く言う。「ウエスト・エンドにだって同じ危険性はある」

「そうなんですよね。だから、これからも大きな舞台に立つことはできないんだろうなって思っていたんですけど、公演を終えてみて気づいたんです。舞台に大きいも小さいもないんだって」

 むしろ、小さな劇場で行われる舞台の方が、ずっとシビアだと希佐は思った。大衆を相手にしているわけではないからこそ、見に来る客層は限定される。よりコアな舞台を求めている目の肥えた者たちが集ってくるからこそ、自ずと評価は厳しくなる。

 昨日の舞台は成功した。大喝采を浴びた。観客を心から喜ばせることができたと信じている。だからこそ、その危険性にも気づいた。君を見るために、今回の公演には舞台関係者が多く集まっていると、アランは言った。もしあの舞台で希佐自身が注目を浴びてしまったとしたら、その名前が一人歩きをして、どこかでユニヴェール関係者の目に留まってしまう可能性は大いにあるのだ。

「でも、外国に来てまでユニヴェールの影に怯えていたら、私はこの先ずっと、どこかの国の平原や荒野で、自然を相手に一人舞台をすることしかできなくなってしまう」

 それではこの気持ちは満たされない。観客はたった一人でも構わないのだ。その唯一の観客を自分の演技の虜にしたい。その目を奪いたい。目を瞑ればその姿が鮮明に蘇るほどの鮮烈な印象を植え付けたいのだ。そうすることでしか、満たされない気持ちがある。

「改めて舞台の上に立ってみて、分かったんです。私はもうここで生きていくか、死ぬしかないんだって。私の場合、舞台の上に立つには、それくらいの覚悟を持って挑まないとダメだって、気づいてしまったんです」

 舞台なくして生きてはいけない。でも、その舞台に立ち続けていれば、いずれ何の前触れもなく死を迎える日が訪れる可能性は拭えない。言葉通り、命懸けの公演を繰り返していくことになる。そうと分かっていてもやめることができないのだ。

「馬鹿だって思うでしょう? 自分で自分を苦しめているんですから」アランは何も言わなかった。もう眠ってしまったのかもしれない。そうならばいいなと思いながら、希佐は大きな背中にそっと額を寄せた。「でも、舞台に立つことなく死んでいくくらいなら、私は、舞台上で死にたい」

 これが、舞台という場所に囚われた者の末路なのだろう。

 もしユニヴェール時代の立花希佐を知る者が現れたら、そう思うと怖くてたまらないのに、別の生き方を選ぶことができないのだ。病だと思う。これは、一生涯治ることもない、不治の病だ。

 そのとき、仕方なさそうに寝返りを打ったアランの腕が伸びてきて、希佐の背中を抱き寄せた。小さな体をすっぽりと包み込むと、何も言わずに背中を撫でる。希佐は一瞬強張った体の緊張を解いて、アランの体にぴたりと身を寄せた。

 その人肌の、なんと気持ちがいいこと。こうしていると、悪い夢を見ずに眠ることができるような気がする。人のぬくもりに守られているという安心感が、希佐を穏やかな眠りの世界へと誘ってくれる。

 今日はもう、あの夢は見ないだろう。

 立花継希の姿をした幻影が現れて、希佐の首を絞めて殺そうとする、あのおぞましい夢など。

 

 

 次の朝を迎える頃にはもうすっかり熱が下がりきっていた。おそらくは風邪云々の問題ではなく、ただ単に体に溜まっていた疲れが、発熱として現れていただけのようだ。もしくは知恵熱だろう。公演寸前に青年の演じ方を変えたのは希佐自身なので、自業自得としか言えない。

 だが、起きてすぐにシャワーを浴び、軽くストレッチをしている希佐の姿を見たアランは、その首根っこを掴むと、引きずるようにしてベッドに連れ戻した。頼むからあと一日くらいは静かにしていてくれと言われ、希佐は仕方なしに頷いたが、アランに隠れてストレッチの続きをするくらいには元気が有り余っていた。

 好きに見ていいと言われた本棚の中には、アランが集めているらしい古い映画のパンフレットが、綺麗に並べられていた。その中から見覚えのあるタイトルのものを何冊か取り出して、ベッドまで持っていく。

 よく片付けられた部屋はとても快適で、居心地が良く、気分も良い。アイリーンが「あなたの部屋はまるで物置だわ!」と驚愕していたが、確かにその通りだ。明日から少しずつ片付けをはじめようと思いながら、希佐は毛布の中に潜り込んだ。

 しかし、映画のパンフレットを眺めながら考えることは、アランから昨日持ち掛けられた相談のことだった。普通ならそれと真っ直ぐに向き合うべきなのだろうが、真剣に考えれば考えるほど深いところまで潜り込んでしまうような気がして、真正面から対面することができない。

 最長五年のビザを取得するためには、各分野で世界レベルの才能を持っていることが最低条件だと、アランは言っていた。そもそも、その最低条件が高すぎるのだ。

 先ほどアランから参考にと渡された資料には、そのビザの場合、英語能力や預貯金の残高などが審査から除外されると記されている。自分の生活費と、実家への仕送り以外はすべて貯金しているものの、ユニヴェールを出てきたときに比べると、貯金の金額が心許ないのは事実だ。その点はとてもありがたいが、果たしてこのビザを取得できたとして、自分はこの国で役者としてやっていけるのかどうか、それで食べていけるだけの収入が得られるのかどうか、希佐には自信がなかった。

 先日の舞台は幸いにも成功したが、だからといって、次もそうなるとはかぎらない。それどころか、自分に次があるのかどうかすら、今の希佐には分からない。劇団カオスの公演は不定期で、年に何度か行うこともあれば、一度きりということもあったらしい。しかも、時間をかけて用意してきた演目は、たった一度きりしか上演されないのだ。まさに採算度外視。儲けのことなど一切考えておらず、むしろ赤字続き。よその劇団からはどうかしていると思われている。

 だが、アランは金儲けのために演劇をやっているわけではないと、そう言っていた。おそらくは、自分が理想とする舞台を作り上げる、だだそれだけのために。

 果たして、自分が真ん中に立った舞台で、アランを満足させることはできたのだろうかと、希佐は思う。悪くはないという言葉はもらったが、それ以外の感想は、自分が倒れてしまったために聞くことができなかった。いくら観客が満足してくれていても、脚本家兼演出家が満足してくれなければ、希佐にとってはその喜びが半減してしまう。

 アランが置いていったカーディガンを羽織り、部屋履きにつま先を引っ掛けた希佐は、部屋のドアを開けてキッチンの方を覗き込んだ。テーブルには真剣な面持ちでノートPCに何かを打ち込んでいるアランの姿がある。話しかけられる雰囲気ではなさそうだと思い、そのままドアを閉じようとすると、アランが画面から顔を上げないまま声をかけてきた。

「どうした」

「あ、いえ、別に何でもないんです」希佐がそう言って首を振ると、アランは手を止めてこちらを見やる。「少し話ができたらと思っただけなので」

「少しならいいよ」

「でも」

「ほら、早く。時間がもったいない」

 アランは希佐が自分に文句を言いにきただけだと思っているような態度だ。もうじっとしているのは限界だ、何かさせてくれ、とでも言いにきたと思っているのだろう。ノートPCを閉じると、テーブルに頬杖をついて、隣に立った希佐を見上げていた。こういうときばかり前髪を上げて作業をするのはやめてほしいと純粋に思う。

「あの、ですね」

「なに?」

「……先日の公演での私の出来栄えには、満足されているんでしょうか」

 こうして声に出してみると、一体自分は何を改めて聞いているのだと思ってしまうが、今の希佐にとっては重要なことなのだから仕方がない。

 思ったとおり、アランはどこか間の抜けた顔で、希佐を見た。今更何を聞いてくるのだという顔をしている。

「悪くないとは言ってもらえましたけど、あれはどちらかというと私の演技に対する意見というより、舞台そのものに対する感想という感じがしたので、実際のところは、どうなのかなって……」

 公演終了後に自分の演技について誰かに意見を求めたことがなかった希佐は、それがなぜか酷く恥ずかしいことのように思えてくる。顔に熱が集まってくるのを感じ、カーディガンの余った袖で顔の半分ほどを隠した。泳ぎそうになる目を何とか一点に集中させ、アランの答えを待つ。

「よかったよ」

「よかっ、た?」

「青臭い感じがするところとか。寸前に演技を変えたにしては、よくまとまってた。まあ、俺に似てたのは冒頭からオーディションにかけてだけで、それ以降はまったくの別人だったけど」

「あー……そう、ですか」

「君は絶望と歓喜を演じ分けるのが上手い。この落差に見ている人間は温度差を感じて、より感情を揺さぶられるから、効果的な演出だ。それをうまく表現できていた」

「はい」

「歌もダンスも合格点だった。ラストまでよく頑張ってたと思う」

 まだ尚続けてくれようとしているアランの口を、希佐は思わず塞いでいた。手の平を見せ、次ぐ言葉を制していた。赤かった顔はあっという間に青ざめて、自分はとても愚かなことを尋ねてしまったのだと、すぐに察した。

「……すみません、変なことを聞いて」

 要は、総じて評価すると、あまり良くはなかったということだ。勢いだけで乗り切った舞台だった。要所要所で観客の心を掴むことには成功していたが、他は雑な部分も目立つ仕上がりだった。歌もダンスも合格点。それは、完璧からは程遠い。頑張るくらいなら、誰にでもできる。

「落ち込んでるの?」

「……はい」

「俺は褒めたつもりなんだけど」

「褒められるところを見つけて褒めてくれてるだけですよね」

「……あのな、キサ」視線を逸らす希佐の名を呼び、アランは自分の方を向かせた。「公演は成功した。君の演技は素晴らしかった。俺を感動させた。でも、君が欲しいのは、こういう言葉じゃない。そうだろ」

「はい」

「舞台は生き物だ。幕が上がると同時に生まれて、下りると同時に死ぬ。人の一生と同じだよ。刹那的だからこその美しさがある。だから俺は、一演目につき一度きりの公演にこだわってる。舞台に立っている登場人物たちの一生だって、一度きりしかないはずだ。それなのに、何度も同じことを繰り返させる人生なんて、ただの拷問だろ」

 アランが言いたいことはよく分かる。ユニヴェールで演じてきた人物たちが、まさにそれだ。彼ら、彼女らはたった一度きりの舞台で輝くために、生まれてきた。

「君の演技は演技じゃないんだよ、キサ」アランは更に続けた。「君が演じるキャラクターは妙に生々しい。それは君自身が、自分の演じているキャラクターを本物だと信じているからだ。君が演じている間だけは、彼は確かにそこに存在していて、人間としての生を受けている。だから、成功もすれば失敗もする。俺の舞台では、それが正しいことなんだ。粗探しをするときりがない。完全に完璧な舞台になんて一生でそう何度もお目にかかれるものじゃない」

 でもな、とアランは言う。

「あの舞台は俺が理想とする舞台だったよ」

「理想?」

「ずっと夢に見てた舞台が完成した瞬間だった。あの舞台が作りたくて、俺はこの世界に戻ってきたんだ。その夢を、君が叶えてくれた。最高だったよ、本当に。もうこれで舞台はやめてもいいって思えるくらい、満たされた」

「え……」

「でも、満たされていたのは一晩だけだった。どういうわけか、アイディアが次々と湧いてきて、脚本を書く手が止まらないんだ」

 今もそれを書いていたところだと言って、アランはノートPCを指した。

「それに、俺が脚本を書いて、頭の中で演出してる舞台には、もう君の存在が欠かせない。どうしたら君をもっと輝かせられるのか。美しく見せられるのか。君の魅力を、多くの人に伝えられるのか、考えてる」

「……落として上げるのが上手なんですね」

「君が勝手な思い込みでショックを受けてただけだろ」緑の目をすうっと細めて、アランは優しげな表情を浮かべた。「キサには二年以上のブランクがある。一度手放した舞台の勘を取り戻すのは至難の業だ。でも、君ならすぐに取り戻すよ。久しぶりの舞台であれだけのことをやってのけたんだから」

 いつも言葉が足りないと言われるアランだったが、どうやら今日は、その言葉が足りているようだ。

 一度は真正面から与えられた衝撃でしぼみかけていた心が、今ではふっくらと膨らんで、ふわふわと舞うように踊っている。

「さ、これで満足した?」

「はい、ありがとうございました」

「じゃあ、俺は執筆に戻る」

「あ、待って。もう一つだけ」

「なに」

「日本に、国際電話をかけたいのですが……」

 どうしたらいいですか、と問う希佐を見上げて、アランは少し驚いたような顔をした。しかし、すぐに自らのスマートフォンを差し出してくる。

「どうぞ」

「いいんですか?」

「掛け方は分かる?」

「い、いいえ」

「じゃあ、教える」

 アランはそう言うと、メモ用紙に国際電話の掛け方をさらさらと書いてくれる。一通り説明をしてから、それをスマホに添えて渡してきた。

「あ、あの」

「まだなにか?」

「ここで電話をしてもいいですか」

 ここ、と言って希佐が隣の椅子を指すと、アランは吐息を漏らすように笑い、いいよ、と言って頷いた。

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