ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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国際電話

 僅かに震える指で数字をタップした。実を言うと、今、勢いだけで電話をかけようとしている。覚悟は決まっていない。だが、自分の心が決意を固めるまで待っていては、その場に立ち止まったまま、いつまでも考え続ける羽目になることは目に見えていた。それならばいっそのこと、自らの足で窮地に飛び込むこともまた一興なのではないかと、そう思ったのだ。

『はい』数コールの後、落ち着き払った女性の声が聞こえてくる。『こちらユニヴェール歌劇学校事務室です』

 ロンドンは今、午後五時を迎えている。日本との時差は八時間なので、あちらは午前九時だ。

 希佐は呼吸を整えると、よそゆきの声を出した。

「中座校長にお取り継ぎ願いたいのですが」

「お約束はございますか」

「いいえ」

 事務の女性は希佐の不躾な物の言い方に警戒しているようだ。挨拶もなし、名前も名乗らず、それで校長に繋げと言っているのだから、当然の態度だろう。しかし、希佐は瞬時に声音を変えると、少し鼻にかけた甘い声で言った。

「杏の君、とお伝えいただければ、お分かりになると思います」

「……確認を取りますので、少々お待ちください」

 女性は僅かばかりの不快感をその声に滲ませていた。保留音が流れはじめる。有名なクラシックの名曲だ。緊張のせいで咄嗟に曲名を思い出すことができない。もう既に手の平が汗ばんで、じっとりと濡れているのが分かった。一分、二分──三分はかからずに、保留音が途切れた。

「お待たせいたしました、中座にお繋ぎいたします」

 感謝の言葉を伝える間も与えず、女性は回線と回線を繋ぎ合わせる。国際電話をかけるのは初めての経験だったが、音が遠いとは少しも感じない。最後に日本の空港からかけたときと変わらない声が、電話口の向こうから聞こえてきた。

「ずいぶん艶っぽい演出をしてくれるじゃねぇか」立花、と中座秋吏が希佐の名を当然のように言い当てる。「立花の家紋は杏葉紋、杏の葉を抱き合わせた形だ。杏、アプリコット──お前の新人公演を思い出すな」

 中座秋吏は希佐がユニヴェールに在学していた頃と何ら変わらない調子で話している。前に電話をしたときもそうだった。まるでつい昨日も顔を合わせたかのような、明日も同じように顔を合わせるかのような態度で、数年ぶりに声を聞くはずの希佐に話しかけてくる。

「しかし、毎度こちらを試すようなやり方は感心しねぇな。大人をからかっちゃいけねえ」

「お久しぶりです、校長先生」希佐はようやく口を開いた。「お元気そうでなによりです」

「お前さんも意外と元気そうだな」

「はい」

「そうそう、先に断っておくが、ここには江西もいるぞ」悪びれる様子もなく中座が言う。「お前にとっては最悪のタイミングかもしれないが」

「いえ、構いません」

 構わないってさ、と言う中座の声が聞こえてくる。江西のことだ、気を利かせて校長室から退出しようとでもしていたのだろう。希佐にはその姿が目に浮かぶようだった。

「江西先生も、お久しぶりです」

 校長室は静かな場所だ、受話器から希佐の声が聞こえたらしい江西が、ああ、と言って相槌を打つのが分かった。

「久しぶりにお前の声が聞けて安心したよ」

 ユニヴェールを出るときに江西から受け取った餞別は、実のところまだ手をつけていなかった。今も同じ封筒に入れられたまま、ボストンバッグの底に隠されている。本当に困ったときに使わせてもらおうと思っていたのだが、幸いまだその瞬間は訪れていない。

「それで、今日はなんだって電話なんか掛けてきてくれたんだ?」

「いくつかお尋ねしたいことがあるんです」

「ほう? そいつは珍しいこともあったもんだ」

 スピーカーにするぞと言って、中座が席を立つのが分かった。足音が遠ざかっている。どうやら校長室の鍵を閉めに向かったようだ。盗み聞きを警戒しているのかと思ったが、それはないだろう。おそらくは邪魔が入るのを嫌ってのことだ。

「俺とお前の仲だ、なんだって答えてやるぞ」

 中座はときどき、こうしてわざとらしく軽い口を利いて、何かをごまかそうとすることがある。自分が何か余計なことを口走れば、希佐がすぐさま電話を切ってしまうとでも思っているのかもしれない。だからこそ、最も聞きたいはずの「今どこにいるんだ」とは、尋ねてこないのだ。

 だが、事務室で通話記録を調べれば、電話番号からすぐに居所は割れるだろう。

「ユニヴェールの在学記録についてですが、私の場合は中途退学に当たりますよね?」

「いや」机に戻ってきたらしい中座の声が、希佐の言葉を否定した。「立花希佐は他の78期生と同様にユニヴェールを卒業している。ここではそういう扱いだ」

「え、どうして……」

「三年の評価は最後のユニヴェール公演で決する。そこでの個人賞発表が最終評価だ。それ以降の活動は自由意思に任されているからな。大体の三年は卒業まで残って寮暮らしをするものだが、中には海外のオーディションなんかに合わせて早期に卒業していくやつもいる。玉阪に行った高科たちも、その準備でほとんど学校にはいなかっただろ?」

「……はい」

「だからお前は、公には家の事情で早期卒業をしたってことになってる。勝手な理由付けをして申し訳ねぇとは思ったが、三年間クラスを優勝に導き続けてきたクォーツの顔を、中退扱いにするのはあんまりだと思ってな」

「そうだったんですね」希佐は内心では少しだけ安堵していた。「そこまでのお気遣いをしていただいておきながら、不義理を働いてしまって、すみませんでした」

「おいおい、どうしたどうした。やけにしおらしいじゃねぇか」中座は本心から驚いているような声を出した。「まさかお前、俺に金の工面でもしてほしいのか?」

「今のところはまだ大丈夫です」

 心が少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じる。手に滲んでいた汗は、いつの間にか乾いていた。

「でも、私は男としてユニヴェールを卒業しているんですよね?」

「ああ、まあ、そればっかりはな」

「だけど、卒業生としての記録は残っている」

 男であることや女であることになんの違いがあるのか、男子だけしか存在しないはずのユニヴェール歌劇学校で、男として過ごしてきた女である希佐には、正直よく分からない。しかし果たして、性別を偽って学んでいた事実を、この国の法律は許すのだろうかとは思うのだ。いくら校長の許しがあったにしても、本来こうあるべきというルールを破り、それを捻じ曲げてユニヴェールに入学した。そんなことをした人間が、果たしてイギリスという国のルールに従って生きていけると、判断されるのかどうか。

「……今日お話しすることは、誰にも言わないでもらえますか」希佐は変わらぬ声の調子で言った。「私から電話があったことも、黙っていていただけますか」

「ああ、それは約束しよう」

 中座秋吏は宣誓するような声で言った。

 ならば、それを信じるだけだ。

 希佐は隣に座っているアランの姿を横目に見てから、大きく息を吐き出し、覚悟を決めた。

「私は今、イギリスにいます」

「……イギリス?」

「ロンドンです。ウエスト・エンドの近くで暮らしています」

「ずっとイギリスにいたのか?」

「いえ、ユニヴェールを出てすぐの頃は、アイルランドにいました」

 電話口の向こう側で二人の男が顔を見合わせ、絶句している様子が脳裏にまざまざと浮かぶ。

 自らの不義理に対する非礼は、こちらの情報を開示することくらいでしか詫びることはできないだろうと、希佐は考えた。それに、何かを求めるのならば、何かを差し出さなければならないものだ。

「お前がいないことに世長や織巻が気づいたときにはもう、日本にはいなかったんだな」

「あの日の朝、江西先生とお話をして、その足で空港に向かったので。あのときはまだどこの国に行くのかも決めていませんでしたが」

 もしかしたら先生方は、いくらユニヴェールを飛び出していったとはいっても、またすぐに帰ってくるだろうと軽く考えていたのかもしれない。十八歳という年齢で、歌劇以外のことにはとんと疎い女が、たった一人で生きていけるわけがないと、そう思っていたのかもしれない。だから、ユニヴェールを出て行くという希佐を、そこまで強くは引き止めなかった。ここまで大事になるとは思ってもいなかったのだ。子供の家出のようなものだと、そう思いたかったのかもしれないが。

 だが、この約二年間、その消息は絶たれたまま、本人が姿を現すことはなかった。希佐の失踪の事実を知っていた唯一の大人だったのだ。二人は態度には出さなかっただろうが、焦り、責任を感じていたことだろう。今更になって、希佐は申し訳ない気持ちになっていた。

「今はロンドンで小さな劇団に所属しています。公演にも参加しました。それなりに、楽しくやっています」

 そう言いながら希佐が隣を見ると、希佐が話している様子を眺めていたらしいアランと目が合う。アランは何でもないというふうに首を横に振ると、再び紙に鉛筆を走らせはじめた。

「でも、問題があって」

「問題?」

「ビザです。現在取得しているビザが切れてしまうと、イギリスにいられなくなってしまうんです」

「それなら日本に一度帰って来ればいい──と言っても、お前は首を縦には振らねぇんだろうな」

 希佐は沈黙する。それが答えだと察したらしい中座は、大きなため息を吐いた。

「そのビザを取得するために、俺の力を借りたい、と」

「はい」

「今日はやけにぺらぺら喋ると思ってたが、自分の居場所を教えたのだって、お前の頼みを断りづらくするためだな」

「さすが校長先生」

「はあ、俺は悲しいね。そんな姑息な手段を使わなけりゃ、俺がお前を助けないと思われているなんてさ」

「私は自分の誠意を見せたつもりだったのですが」

「そりゃずいぶん見え透いた誠意じゃねぇか」

「でも、校長先生なら助けてくださると信じて、勇気を振り絞って電話をしたんです」

 勝手なことをしているのは百も承知だった。自分の意思でユニヴェールから逃げ出してきたのだ。それなのに、そのユニヴェールの校長に助力を乞うなど、図々しいにも程がある。だが、他に頼める人間はいない。立花希佐の未来はまたしても、中座秋吏の選択にかかっているのだ。

 中座はしばらく黙した後、受話器を再び手に取って、耳に当てたのが分かった。江西は授業があるはずなので、今度こそ退出していったのだろう。

「それで、俺は何をすればいいんだ?」

「私のユニヴェールに関係する資料をすべて送ってほしいんです。公演とかの映像資料もお願いしたいです」

「早い方がいいんだろうな」

「はい、可能なかぎり」

「分かった」

「本当ですか?」

「この十八代目玉阪比女彦に二言はねぇよ」

「……ありがとうございます!」

 椅子に座った状態のまま、思わず深々と頭を下げてしまった希佐は、そのままテーブルの角に頭を強打する。希佐がぶつけた額を押さえて身悶えていると、ぶつけたときに鈍い音が聞こえたのか、中座が苦々しい声で言った。

「おいおい、大丈夫か?」

「はい、大丈夫です……」

「データで送った方が早いだろうから、送り先を教えてくれ」

「あ、はい。少し待ってください」

 希佐は痛みで涙目になったまま、呆れた顔でこちらを見ていたアランを見上げた。

『データの送り先を教えてほしいとおっしゃっているんですが』

『俺の仕事用のアドレスに圧縮して送ってもらって』

『分かりました』

 頷いて、アランが書いてくれたメモを読み上げる。向こうからも同じように読み上げてもらい、間違いがないことを慎重に確認した。

『キサ』

「はい?」

 思わず日本語で応じてしまうが、アランには希佐が返事をしたことが分かったようだ。

『ユニヴェールの人と話してる?』

『はい、校長先生です』

『彼は英語話せるの?』

「校長先生、英語話せますか?」

「いや、さっぱりだな」

『話せないそうです』

『そう。じゃあ、今から俺が言うことを君が通訳して』

『えっ、通訳ですか? できるかな……』

 アランは、自分が脚本家の仕事をしていること、希佐が所属している劇団を主宰していること、希佐がイギリスにいる間は自分が責任を持って面倒を見ることなどを、中座に対して希佐本人の口から伝えさせた。

 酷く気恥ずかしい気持ちのまま、努めて事務的に通訳をしていた希佐だったが、どうやら中座には何か思うところがあったらしい。

「お前、イギリスでもう男ができたのか」

「……校長先生」

「ああ、いや、悪いな」中座は笑ってごまかそうとしている。「しかし、その英国紳士もなかなか良い男そうじゃねぇか。お前は男を見る目があるよ」

 別段、中座には希佐を煽ろうという気持ちがあるわけではなく、それがただ純粋な感想であるということも、希佐には分かっていた。それでも、その一言一句が希佐の心にナイフを突き立て、やわらかい部分を抉り取っていこうとする。

 希佐は咄嗟に手の平で口に蓋をして、溢れ出そうになった感情を押し返した。それを飲み込んで、静かになるのを待ってから、手を離した。

『まだ何か伝えることはありますか?』希佐がそう問うと、アランは首を横に振る。「彼からの伝言はそれですべてです、校長先生」

「俺からもお前を頼むと伝えておいてくれ」

「分かりました」

 平静を装う。大丈夫、演じることには慣れている。普段通りに話せているはずだ。口角を無理やり持ち上げて、笑顔を作った。

「では、資料の件、よろしくお願いします。それから、江西先生にもよろしくお伝えください。お声が聞けて嬉しかったですと」

「ああ、任せておけ」

「それでは、失礼します」

 電話口の向こうでまだ何かを言いかけている気配があったが、希佐は最後の言葉を口にすると、そのまま電話を切った。希佐はスマートフォンの画面に映し出されている初期設定のままの画像をじっと見つめていたが、画面が暗くなって自分の顔が映し出されると、すぐに我に返った。

「電話、ありがとうございました。助かりました」

「切ってよかったの?」

「え?」

「もっと話していてもよかったのに」

「いえ、いいんです。校長先生、話し出すと長くなるので、用件だけで」

 希佐はスマホを両手で包み込むように持ち、アランの手に返した。三十分以上は話していたような気がする。一体料金はどのくらいまで膨れ上がっているのだろう。考えるだけで恐ろしいが、黙っていることはできなかった。

「あ、あの、国際電話にかかった料金は……」

「気にすることない」

「でも」

「じゃあ、また今度カレー奢って。それでいい」

 アランは少しだけ面倒臭そうにそう言い、椅子から立ち上がった。そして、冷蔵庫の前まで歩いていったかと思うと、冷凍庫の引き出しから小さな保冷剤を取り出し、上の棚から取ったタオルを巻き付けている。

「冷やしておかないと腫れる」そう言いながらアランは希佐の額を覗き込んだ。「いや、もう腫れてるか」

 ほら、と差し出された保冷剤を受け取り、甲斐甲斐しくもタオルに巻かれたそれを、希佐は強打した額に押し当てた。知らず知らずのうちに熱を持っていた患部が冷やされ、熱が奪われていく。あまりの冷たさに感覚が麻痺し、痛みすら感じなくなった。できることなら、この冷たい塊を直接心に貼り付けて、このおぞましい感情を一時的にでも消し去ってほしいと思った。

 自然と左の手首に視線が向く。色褪せてしまった深緋色。所々の糸が解れているのに、なかなか切れない。これをもらってからもう五年以上が経っているのに。いつだって切れてほしいと願っている。だって、そうすれば、あの人が幸せになったという証だから。あの人の幸せだけを願った鯉結び。どうか、早く、切れて。

 

 アランが隣に戻って作業をはじめると、希佐は机に突っ伏し、そのまま動かなくなった。間もなくすると、額を冷やしていた保冷剤が手の中から落ち、テーブルの上に転がる。どうやら眠ってしまったらしい。もう少し眠りが深くなったらベッドまで運んでやろうと考えながら、アランはその姿に目を留めた。左腕を抱えるように眠るその様子に、酷く切ないものを感じる。

 希佐が何を言われたのかは分からない。だが、ユニヴェールの校長だという男と話していた希佐が、ある瞬間に、その表情を凍りつかせたことは分かった。一瞬、時間が止まったようになって、再び動き出したときにはもう、いつも通りの希佐だったように思う。

 しかし、そのアランの読みも間違っていたのだろう。電話を切った直後から、明らかに様子がおかしかった。それでも当人は平静を装おうとしていたので、何も気づかないふりをした。ミサンガを見つめる横顔を見て、それが正解だったのだと理解した。

 希佐は自らの左腕に巻かれている色褪せたミサンガを見るときだけ、女の顔をする。演じていない、女の顔だ。薄く微笑んでいるのに、その眼差しは物憂げで、それを見るアランの想像力を掻き立てさせる。それを贈ったであろう人物のことを考えてみたくなるのだ。自分が女であることを忘れかけている女に、自分が女以外の何者でもないのだということを思い出させる男は、一体どんな人物なのか。

 少しくらいは嫉妬の感情が芽生えるのではないかと期待していたのに、そんな感情は微塵も襲ってはこなかった。アランには誰かを羨むという感情が欠落している。嫉妬とはいわば羨望の裏返しで、これらの感情は表裏一体だ。だがいつか、この女が──いや、この女性が、自分にその感情を教えてくれるのかもしれない。

 希佐に向かって手を伸ばす。指先で頬に触れる。

 今はただ好意を伝え合って、互いの気持ちを理解し合っただけの状態だ。だからどうしたいとか、こうなりたいとか、アランにはそういう思いがない。おそらく、希佐自身にも、自分と恋人になりたいなどという思いは一切ないのだろうと、アランは察していた。

 ただ、そこにある穴を埋めたいだけ。寂しさを紛らしたいだけ。偶然そこに、心がぴたりと重なり合う相手がいた。

 重荷にはなりたくない。苦しめたくもない。好きだという気持ちは、本当だから。

 だから、そのミサンガを外してほしいとも、その男を忘れてほしいとも思わない。好きなだけ好きでいればいい。思い続けていればいい。その気持ちもいずれ演技の糧になる。希佐ならば生かせるだろう。アランが作る舞台でも、その他の舞台でも。

 希佐がこの国にいる間だけ。何年先かまでは分からない。もしかしたら、ビザの取得に失敗して、あと数カ月のうちに出国しなければならなくなるのかもしれない。それでも、この女性がこの国にいる間だけは、隣にいたいと思う。

 どこへでも、大きな翼を広げて飛び立っていけるように、大切に育てよう。

 

 

 

 公演が終われば少しはゆっくりできるだろうという考えは、あまりに安易で、浅はかだった。

 熱を出して倒れたときの退屈を、もっと満喫しておけばよかったと思うほど、希佐は謀殺されていた。中座秋吏から送られてきた立花希佐のユニヴェールの資料があまりに膨大だったのだ。考えれみれば、年に五回の公演を三年間も続けてきたのだ。各授業を担当してくれていた先生方の三年分の評価も含めれば、これだけの量があって当然なのかもしれない。

 希佐はその中から使えそうな資料を抜き出し、英訳して、何か間違いはないかとアランにチェックしてもらうという作業を、延々と繰り返している。各公演の脚本を、英語の勉強のためとはいえ英語に翻訳しておいてよかったと思いながら、希佐は過去の自分に心から感謝したものだ。

 ユニヴェールの公演は当たり前だが全編日本語で行われている。訳が分からないだろうから字幕を付けないと見てもらえないよとアランに指摘され、希佐はPCを借りて半ば泣きそうになりながら、編集ソフトを駆使し、すべての公演映像に英語の字幕を付けた。

 そして今、その公演映像の上映が、スタジオで行われている。

 字幕の内容できちんと物語が理解できるのか確認をしてほしいと頼んだところ、せっかくだからとプロジェクターまで用意してきたバージルが、劇団員たちを集めて鑑賞会をはじめてしまったのだ。とりあえず最初からと言って、今は不眠王を見終わり、ウィークエンド・レッスンがはじまったところらしい。

 希佐は希佐で書類仕事に追われているため、その鑑賞会に参加することができないのだ。事務室で一人作業をしている希佐は、肩越しに振り返ってスタジオの方を見る。開け放たれたままの扉の前にはアランが立っていて、コーヒー入りのマグを片手に、劇団員たちが揃って見ている映像を一緒になって鑑賞していた。

 再びPCに向き直った希佐は、レポート用紙に下書きをした英文を打ち込みながら、小さく息を吐き出す。

 既に英語圏での生活が長いとはいえ、第一言語は日本語だ。こうして何時間も英文とだけ向き合っていると、頭がどうにかなってしまいそうになる。文字の一つ一つがバラバラに動き出して、見たこともない記号のように思えてくるから不思議だ。

「ああ、ダメだ」そう小さく呟いた希佐は椅子から立ち上がった。「コーヒー淹れてこよう」

 二階のキッチンまでやってきて、ケトルで湯を沸かす。アランからいい加減買い替えたらと言われている縁の欠けたマグを棚から取り出し、ドリップコーヒーを用意して待った。

 目の奥が沈むような痛みを覚えている。それと同時に僅かな頭痛も感じていた。特に肩こりが酷く、途中の念入りなストレッチは欠かせなかった。近くに一日中PCの前に座っていても平気な顔をしている男がいるが、一体どんな神経をしているのだろう。自分など定期的に休憩を取らなければ、度々発狂しそうになると希佐は思う。英語や舞台の勉強をしているときも、ストレッチの合間に単語を覚えたり、本を読んだりしていたくらいだ。その方が不思議と覚えも早かった。

 だが、今用意している書類の数々は、しっかりと腰を据えて準備しなければならないものだ。何かの片手間に行っていいものでもない。

 ケトルから湯気が噴き出しているのを見て、希佐はコンロの火を止めた。マグに引っ掛けた紙の容器に湿らす程度の湯を差し、三十秒蒸らしてから、何度かに分けて湯を注ぎ入れる。豆から挽いたコーヒーには劣るが、辺りには少し甘いような、良い香りが漂っていた。

 出涸らしになった粉を紙の容器ごとゴミ箱に捨て、マグだけを持って椅子に座った。少し冷ますのを待つ間だけ、両腕を伸ばしてテーブルに体を伏せる。こうすると、指先から腕、肩や首筋、背中までまっすぐに伸びて、気分がすっきりするのだ。ぼーっとしていた頭が、少しずつ平常運転に戻っていくのを感じる。

 瞼を下ろし、視界を塞いで、目を休ませていた。そうしていると、階段を上ってくる足音が聞こえ、それが希佐の真後ろを通り過ぎていく。蛇口が捻られ、水の流れる音が聞こえてきた。コンロからケトルが持ち上げられる音。何をしているのだろうと考えていると、何者かの気配が、希佐の真後ろで足を止めた。

「キサ、上向いて」

「え?」

「上、向いて」

 希佐は頭をもたげると、言われるがままに顔を上に向けた。すると、こちらを見下ろすアランの顔が見えた直後、急に視界が塞がれる。反射的に目を瞑った希佐だったが、その部分がじんわりと温かくなるのを感じて、湯で濡らしたタオルが乗せられているのだと分かった。

「気持ち良いです。ありがとうございます」

「そう」

 顔を上向けた状態の希佐をそのままにして、アランは再び離れていった。気配と足音を追いかけていくと、キッチンの戸棚を物色しているようだと分かる。

「この前のチョコレートなら、真ん中の戸棚ですよ」

 私が入れておきましたと言うと、アランはその戸棚を開いたようだ。包装紙をびりびりと破り、箱を開けている音がした後、また希佐のところに戻ってくる。

「今度は口を開けろ、ですか?」

 希佐が笑いながらそう言って口を開けると、丸い形をしたチョコレートがその中に転がり込んできた。飴を舐めるように舌の上で転がしていると、日本のチョコレートとは違う、刺激的な甘味が口の中に広がる。だが、今はこのくらいがちょうど良かった。目の覚めるような甘さだ。チョコレートの中からは、さっぱりとした柑橘系の液体が、とろりと溢れ出してくる。

 アランはそれ以上何を言うでも、するでもなく、階段を降りて下の階に戻っていった。希佐は熱を失ったタオルを手に取ると、そっと目を開く。目の奥の鈍い痛みは遠のき、頭痛も軽減したようだ。

 何も言っていないのに、どうして分かるのだろうという疑問は、もう持たないようにしている。アランは見ていないようで見ているし、何も考えていないようで、その実は常に何かを考えている人だ。何に対しても、誰に対してもよく気がつく。仲間が困っていたり、悩んでいたりすると、それとなく声をかけていることを、希佐は知っている。

 冷めたコーヒーを電子レンジで軽くあたためてから、希佐は事務室に戻った。スタジオではまだウィークエンド・レッスンを鑑賞中のようだ。夕方からはじまった鑑賞会だが、今はもう夕食時も過ぎて、パブが賑わってくるような時間帯だった。このまま順番に公演を見続けていたら、あっという間に明日の朝を迎えてしまう。

 そう思いながら希佐が椅子に腰を下ろすと、イライアスが事務室に顔を覗かせた。

「バージルがピザを奢ってくれるって。希佐も食べる?」

「うん、私も食べたい」

「エールは──飲めないよね」

「私のことは気にしないでいいよ。みんなで楽しんで」

「まだまだ終わりそうにないの?」

「うーん、今は全体の半分くらいがやっと終わったってところかな」

「僕も何か手伝えたらいいんだけど」

「ううん、大丈夫だよ。ありがとう、イライアス」

 ピザは一緒に食べようと言って、イライアスはみんなのところに戻っていった。すると、今度はアランが入れ替わりで入ってくる。アランは希佐の側までやってきたかと思うと、机の上にある車の鍵を手に取った。

「どこかへ行くんですか?」

「ピザ買いに」

「アランが?」希佐が目を丸くする。「デリバリーを頼むのかと思っていました」

「買いたいものがあるから、そのついで。何か欲しいものある?」

「私は特にないです。気をつけていってきてくださいね」

「ん」

 希佐の言葉に軽く相槌を打って、アランは事務室を出て行った。スタジオからはアランに向かって、あれも買ってこい、これも買ってこい、という声があがっている。

 面倒臭がりのアランにしては、こんな時間に買い物に行くこと自体が、非常に珍しいことだった。みんなが楽しく鑑賞会をしているので気を使ったのだろうかとも思ったが、それならば普通にデリバリーを頼めば済む話だろう。

 いやいや、そんなことを考えている場合ではなかったと、希佐は自らの仕事に集中した。

 こうして書類の準備を進めれば進めるほど、自分は本当にイギリスに留まりたがっているのだということを、希佐は強く自覚した。

 正直な話をすると、こんな面倒なことは、今すぐに放り出してしまいたいと思っているのだ。もし今回の申請が通らなければ、このすべての時間が無駄になってしまう。そうなるくらいなら、残された時間を仲間たちと一緒に、楽しく過ごした方がいいのではないかと、そう囁く声もある。

 それでも、毎日誰かしらが希佐を気にかけ、顔を見に来てくれるから。もう少しだから頑張れと声をかけてくれるから。もっと一緒にいたいと言ってくれるから、最後まで諦めずに、こうして頑張り続けることができるのだ。希佐自身も、まだこの劇団の仲間たちと一緒にいたいと、そう思うから。

 途中、何度も辞書を引きながら下書きの書き直しをしていると、時間は瞬く間に過ぎていった。スタジオの方が騒がしくなったなと思っていると、ノアが希佐のことを事務室まで呼びにくる。

「キサー、アランが帰ってきたよ。少し休憩にして、みんなでピザ食べようよ」

「うん、分かった。でも、ここだけは終わらせたいから、みんなで先に食べてていいよ。もう少しかかると思うから、待たなくていいからね」

 そう釘を刺しておかなければ、あの人たちはいつまででも待っているに違いない。ノアは事務室の前で少し考えるように黙り込んでから、分かった、と言って引き上げていった。

 あと少し、もう少し──そう思いながら頭を捻っていると、不意に背後から伸びてきた手が、希佐の見ていた辞書をぱたんと閉じた。後ろを振り返ると、そこにはアランが立っている。

「俺が後で手伝うから」

「だけど」

「せっかく買ってきたピザが冷めるよ」

「……分かりました」

 こういうときのアランは何を言っても絶対に引かない。希佐は自分を頑固な方だと思っているが、アランはそれ以上だ。こちらが素直に頷くまで、梃子でも動かない。

 希佐は手に持っていた鉛筆を置くと、椅子から立ち上がった。天井に向かって両手を突き上げ、ぐっと伸びをする。

「それ、何を買ってきたんですか?」アランが手に提げている袋を見て希佐が問うと、アランは袋を広げて中を見せた。「アイス?」

「後で食べるから冷やしておけって」

「私が冷凍庫に入れてきましょうか?」

「いいよ」

 そう言って事務室の奥へと向かい、階段を上がっていくアランの背中を見ながら、希佐は首を傾げる。

 普段から口数が多い方ではないが、今日はまた一段とそれが現れているような気がした。こちらと会話をしていても、頭の片隅では常に別のことを考え続けているような感じだ。

「一段落したの?」

 希佐がスタジオに姿を現すと、イライアスがそう声をかけてきたので、苦笑いを浮かべながら首を横に振った。

「アランにピザが冷めるって言われて」

「あんまり根を詰めすぎるのも良くないわよ、キサ」ペパロニピザをもぐもぐと食べながらアイリーンが言った。「たまには息抜きをなさい。あなた、ちょっと真面目すぎるのよ」

「そんなこともないと思うんですけど」

「ビザのことなら弁護士に任せればいいのに」

「先立つものがないので……」あはは、と乾いた笑いが漏れる。「それに、こういうことは自分の手で進めた方がいいような気もしますし」

「そんなものなのかしらね」

「お前みたいなお嬢様にはオレらみたいな貧乏人の気持ちなんか分からねぇんだよ。なあ、キサ?」

「え?」

「アイリーンはお貴族様の生まれだからね」

「なによ、そのちょっと馬鹿にしたみたいな言い方は。それを言うなら、イライアスだってそうじゃないの」

「えっ……え? 本当に貴族なんですか?」

「アイリーンはね」イライアスが表情もなく答えた。「実家はそれこそお城みたいな家だよ。僕のところは名前だけ。もうずっと前に没落したから」

 座りなよ、と言われてマットの上にお邪魔しながら、まるでファンタジーのようなお話だなと、希佐は思った。まるで別世界だ。考えたこともなかったが、この国には未だそういう制度が残されている。言われてみれば確かに、アイリーンとイライアスには、他の人たちとは違う気品があるようにも感じられていた。

「へえ、そうだったんですね」

 まるで他人事のようにそう言ってしまってから、言葉を間違ってしまっただろうかと考える。アイリーンが大きな目をさらに大きく見開いて、自分の方を見ていたからだ。希佐は目を泳がせると、慌てて別の話題を探した。

「そういえば、ウィークエンド・レッスンはもう見終わったんですか?」

「ああ」そう答えたのはジェレマイアだった。「俺は不眠王の方が好きだな、今のところ」

「ああいうフェアリーテイル系はイギリスでも受けるだろうね。僕はウィークエンド・レッスンも好きだったよ。ほら、Shall We Danceっぽくて。あ、でもあれって日本作品のリメイクだったっけ?」

 希佐は周りがユニヴェールの公演について、口々に感想を言い合っているのをどこか遠くに聞きながら、ウェットティッシュで手を拭いていた。ピザは全部で五枚、すべて箱に入れられた状態のまま、スタジオの床にずらりと並べられている。豪快だ。缶ビールが1ダースとサイダー、ただの炭酸水などが乱雑に置かれている。

 希佐はプラスチックの受け皿にマルゲリータを1ピース取り分けてから、炭酸水のペットボトルを手に取った。

「──ねえ、キサ?」

「えっ? あ、はい、なんですか?」

 聞いていなかったと思い内心で焦っていると、アイリーンが目を細めながら睨みつけてくる。

「ちゃんと聞いていなかったわね?」

「すみません。ちょっと頭を使いすぎて、ぼーっとしているみたいです」

「まったくもう」

「でも、きちんと楽しんでもらえているみたいで、安心しました。字幕を付けるのに苦労したから」

「でも、これで高校生なんでしょ? ヤバいなぁ、レベル高いよ。特に、あのアンドウって役を演じてた人。すっごい美人だけど、あの人も男なんだよね?」

「あ、うん。私以外は、全員男性」何となく沈黙を恐れた希佐は、すぐに先を続けた。「アンドウ先生を演じていた人が気になるなら、次の公演では主役を演じているから、見てみたら?」

「キサはどんな役で出てるの?」

「私は双子のかりうどっていう悪役」

「えっ、キサが悪役? なんかイメージが湧かないんだけど……」

「そうかな」

「ちょっと見よう、見てみよう。ほら、バージル。ビールばっかり飲んでないで、早くプロジェクターつけてよ」

「ったく、自分でやればいいだろうが」そうは言いつつも、バージルは缶ビールを片手に立ち上がると、プロジェクターの方に歩いていく。「誰か電気消してこい」

「私が消してきます」

 がぶり、と一口だけピザをかじり、希佐は立ち上がる。電気のスイッチは出入り口付近と事務室の近くにあるので、希佐は踵を返して事務室の方に向かった。

 そのときついでに事務室を覗いてみると、アランがソファに座って誰かと電話をしている様子が見えた。邪魔をしては良くないとすぐに頭を引っ込め、みんなのところへと戻る。

 不思議な島、カクリヨ島。この島が、当時のクォーツのあり方を変えてくれた。いや、変えてしまったと思っていた。当時はそのことについて悩みもしたが、今ならば分かる。多少は荒療治だったとしても、あのときのクォーツにはそれが必要だったのだ。

『お人形、お人形はいらんかね』キラキラ輝く美しい人が、舞台上に現れる。『一家に一体、お人形』

 あれから何年経っても、舞台上で輝くあの人は、いつだって希佐の目を釘付けにする。自分よりもずっとずっと先を歩いていたあの人。愛おしい、恋慕っていた、あの人。

「あ……」

 希佐の隣に座っていたイライアスが小さく声を漏らした。横目を向けると、イライアスは希佐と同じように、メアリー・ジェーンに釘付けになっている。目を大きく見開いて、その動きにじっと見入っている。

 やっぱりフミさんはすごいんだ、と希佐は思った。カメラ越しの映像からでも伝わってくる存在感。それはまさしく圧倒的で、どこか威圧的でもあり、劇場中の視線を一身に集めてしまうほどの支配力もある。

 一体今はどんな役者になっているのだろう。玉阪座で、比女として、今も圧倒的な美しさを見せつけているのだろうか。それとも、高科二千奥の名を継ぐために、その舞に更なる磨きをかけているのだろうか。

 きっと、その名を検索にかけるだけで、今の希佐には知り得ない、膨大な情報を得ることができるのだろう。だが、希佐はそれをしない。一度それをしてしまえば、毎日毎日、取り憑かれたようにその名前を検索して、あの人のことを探してしまうだろうから。

 双子のかりうどが舞台上に現れる。自分でも分かる、たがが外れた演技。あのときの感覚は今でも良く覚えている。高科更文に注がれていた視線が、一瞬にして双子のかりうどに向けられたあの刹那、体の熱が一気に上昇し、高揚した。たまらない感覚だった。

 自分は今、この瞬間にも夢を叶えている。その事実が同時の希佐を生かしていたのかもしれない。後先考えていなかったあの頃。ただ目の前にあるものがすべてだった。未来に待ち構えている葛藤のことなど、脳裏をかすめてもいない。ただ、がむしゃらだったのだ。ユニヴェールの舞台に立つ。クォーツにクラス優勝を。そして、高科更文に、自由になってもらいたくて。

「う、わ……」

 誰かの口から呻くような声が漏れた。高笑いをするシャルルのシーンだ。水を打ったように静まり返った劇場内に、狂った笑い声だけが反響する。

 あの首の裏側が泡立つような感覚は言葉で言い表すことができない。それは不可能なことだ。舞台に立ち、それを経験した者にしか分からない、特別な感情だから。

「やっぱり不自然だな」

 いつの間にやって来ていたのか、希佐の後ろに立っていたアランが言う。

「何がですか?」

「ドールマンに不自然な間がある」

「ああ……」言いたいことの意味が分かり、希佐は苦笑いを浮かべた。「ここ、本番で演じ方を変えたというか、フミさんを驚かせたくて──」

「……フミサン?」

「ドールマン、メアリー・ジェーンを演じている人のことです」

「あなた、まさかこの頃から寸前に演じ方を変えたりしていたの?」

「ここのシーンはアドリブですよ。それに、ウィークエンド・レッスンの向井のときも、本番前日の夜に役を作り替えたので……」

 改めて言葉にしてみると、自分は相当にはちゃめちゃなことをやっていたのだなと、希佐は実感する。そんな勝手をクォーツのみんなは許し、それどころか面白がって、自分に合わせてくれていた。それは、それはなんて──。

「恵まれた環境の中にいたんだな」

「……はい」アランの言葉に希佐は頷く。「本当に、そう思います」

 ユニヴェールには才能豊かな人たちが、それこそ掃いて捨てるほどいる。気を抜けばその才能もすぐに埋もれ、周囲から置いていかれてしまう世界だ。それなのに、クォーツの先輩方は誰一人後輩を見捨てはしなかった。置いていくこともなかった。名前のある役をもらえる者にも、アンサンブルの人たちに対しても、分け隔てがなかった。大丈夫か、ついて来れているかと、いつも後ろを気にしてくれていた。

 俺についてこいと言って、その手を差し伸べ、花瓶から溢れてしまうくらいの大輪の華を、託してくれた。自分が卒業した後の、クォーツの顔であれ、と。

 自分は最後まで先輩方のようにはなれなかったと希佐は思う。結局はみんなを置いてユニヴェールを逃げ出して来てしまったのだ。置いていかれた者たちのショックは、計り知れない。先輩方は、同期たちは、後輩たちは、忽然と消えた自分をどう思ったのだろう。フミさんは、一体何を、思ったのだろうか。

 希佐は息を一つ吐くと、その場に立ち上がった。劇団の仲間たちはメアリー・ジェーンに夢中だ。そろそろ作業に戻ろうと事務室に向かう。その途中に立っていたアランも、プロジェクターが映し出す公演に目を向けていた。ちらり、と視線を向けられるが、再び逸らされる。

 結局のところ、希佐は自分自身のことだけで精一杯で、周りの気持ちなど考えられていなかったのだ。嘘を嘘のままにして、逃げ出した。せめて仲の良かった人たちにだけでも秘密を打ち明けていたら、今とは違う未来もあったのかもしれない。女であることを隠し通すも何も、更文には受験のときからバレていたのだ、最初から校長との約束は破綻していた。

 だが、当時の希佐は校長との約束を絶対と思い込み、その約束にがんじがらめに縛られていた。ユニヴェールにいられなくなることを何よりも恐れていた。ユニヴェールの舞台に立てなくなる、それは立花希佐の死を意味していた。夢が終わったその先にあるものを何一つ想像することができなかった。そこにあるのはただの暗闇で、一歩踏み出した先は、奈落の底に通じる穴だと信じていた。

 どうしようもなく子供だったのだ。

 今もたいして変わらないが、と希佐は皮肉っぽく笑う。

 希佐にとって、ユニヴェールで過ごした日々は何ものにも変え難い、かけがえのない思い出だ。毎日が幸せだった。夢の中に生きていたから。その夢から覚めることを常に恐れていたが、今は違う。

 今までは夢を見ていた。夢見ることを夢見ていた。でも、これからは、夢を作っていきたいと思うのだ。一度終わった夢を振り返り続けるのではなく、一つの夢を終えたら、また次の夢へと渡っていく。大海を越えていく渡鳥のように。

 今の自分になら、それができるような気がする。

 よし、と言って自らの両頬を軽く打った希佐は、気合を入れ直し、放置していた書類と向き合った。あまり食べすぎると今度は眠気が襲ってくるので控えたが、少しでもピザをお腹に入れた分、先程よりも頭は働いているようだった。

 

 

「──すみません、勝手なお願いをしてしまって」

 公演後、体調を崩して仕事を休んでいた希佐だったが、数日ぶりにやって来たヘスティアで、もうしばらく休ませてほしいとメレディスに頼んだのは、少し前のことになる。ビザを取得したいので、その準備をする時間が欲しいのだと話すと、メレディスは二つ返事で了承してくれた。

「開店前の君とのお喋りが毎日の楽しみだったから、それだけが残念だけれど」

「私、辞めさせてほしいとお願いしたわけではないですよ、メレディス。書類を用意し終わったら、またすぐに戻ります。そうじゃないと、私が困ります」

「でも、グローバル・タレント・ビザを取得したいということは、この国で役者として生きていく覚悟を決めたのだろう?」

「もちろん希望は持っていますが、そう簡単な問題ではありませんし、こればかりは何とも言えません」

 そう言って眉根を寄せる希佐を見て、メレディスはこれ見よがしにため息を吐いてみせた。

「君はあれだけの舞台をやり遂げておきながら、未だ自分に自信を持てていないようだね」

 少し待っているように言い、希佐をフロアの椅子に座らせると、メレディスはスタッフオンリーの扉に姿を消す。程なくして戻ってくると、希佐に何枚ものカードが束になったものを差し出してきた。

「これは?」

「公演後に預かった名刺だよ。すべて君に渡してほしいと頼まれたものだ。商業演劇の舞台演出家、有名プロデューサー、名のある映画監督、大手事務所のエージェント、その他にもいろいろ。君はその中の誰とでも仕事をできるチャンスを得ている」

「で、でも、どうして……」

「全員が全員、君の魅力に当てられてしまったのだろうね。かくいう僕もそうだよ。劇団カオス史上、最も素晴らしい舞台だったのではないかな。ラストのタップダンスも圧巻だった。ほんの二ヶ月前までは、このフロアでモップを支えに基本のステップを踏むだけでも苦労していたのに」

 はい、と渡された名刺の束を受け取る。一枚ずつ手に取って見ると、裏側には本人直通の電話番号や、メールアドレスが手書きで書き込まれているものもあった。これだけの人が自分の演技を見て、連絡を取りたいと思ってくれている。だが、希佐にはそれがどれだけすごいことなのかが、よく分からないままだった。

 半信半疑そうにしている希佐を見て、メレディスは笑っていた。帰ったらアランに話してみるよう促されたので、言われた通りに話してみると、アランはまるで台所に出現した黒光りをする虫を見るような目で、その名刺の束を見た。

「俺がなんでこんなところに引きこもって著述業に勤しんでるか考えてみたことある?」

「……人付き合いが苦手だから、ですか?」

「真っ先に金のなる木に飛びついてくるような連中が好きじゃないから」そうは言いつつも、アランは希佐の差し出している名刺の束を手に取ると、一枚ずつ手に取って表と裏を確認していく。「俺も経験あるから分かるけど、結構ろくでもないやつが多いから、この業界。気をつけた方がいいよ」

「気をつけるって、何をですか?」

「才能を絞り取るだけ絞り取って、使えなくなったら捨てられる。人気が出そうな若手に片っ端から声をかけてる事務所もあるし、君の場合は日本人っていうのもあるから、面白がられてるんじゃないの」

「そんなものなんですか」

「全部が全部ではないと思うけど。中には条件の良いところもあるだろうし」

「アランはどうやって見極めているんですか?」

「放っておく」

「……え?」

「しばらく放っておく。本気で一緒に仕事をしたいと思ってるなら、向こうから何度でも連絡してくるはずだから。そういうのを誠意って言うらしいよ」

 それはそれで何かがおかしいような気もするが、アランはそうして仕事を選んできたのだろう。それを真似ようとは思わないが、あまり気負って考えすぎるのも良くないのかもしれない。そもそも、ビザの申請が承認されなければ、この名刺の束はただのよく燃える紙でしかないのだ。

「まあ、すぐに連絡する必要はない。全員唾つけてるだけ。今のところは無視して」

 

 

 とはいえ、本当に無視をしたままでも良いのだろうか、という気はしている。かといって、積極的に連絡を取ってみようという気概もないのだ。そもそも、こうしてアランと会ったのも偶然のようなもので、自ら進んで劇団に所属しようと考えたわけでもない。

 恵まれた環境。ユニヴェール時代の希佐の話を聞いてアランはそう言ったが、今だってそうだ。希佐はここでも環境に恵まれている。周囲には多彩な才能を持つ仲間たちがいて、聞けばなんでも答えてくれる新進気鋭の脚本家兼演出家がいてくれる。アランが紹介してくれた働き先もそうだ。メレディスは希佐の事情に理解を示し、可能なかぎり協力をしてくれる。パブのスタッフも良い人たちばかりだ。デザイナーのダイアナは、今では時々スタジオを訪れて、根を詰めている希佐を見ては、ランチに連れ出してくれていた。

 自分は神様のいる場所に縁があるのだろうかと希佐は思う。

 昔は兄の継希や幼馴染の世長創司郎と一緒に神社で演劇ごっこをして遊んでいた。創司郎は引っ越してしまい、継希はユニヴェール歌劇学校に入学をして、希佐は一人になった。そして、玉阪座に入門するはずだった継希は行方知れずとなり、希佐は指針を失ったような気持ちになる。家の事情を抱えて中学の時分から働き、高校へ通うことも、ユニヴェールに行くという夢も諦めようとしていたとき、演劇ごっこをしていた神社で中座秋吏と出会って、人生が一変したのだ。ユニヴェールに通うようになってからも、ことあるごとに比女彦神社に足を運んだ。日本を出発する前の晩にも、お参りに行き、舞を納めた。

 ここ、イギリスでもそうだ。何もかもが立ち行かなくなって、もうどうしようもなくなって、ロンドンの街を彷徨い歩いていたら、偶然教会が現れた。そして、牧師のロバートとその息子のミゲルと出会い、それがアランとの出会いに繋がった。ひょんなことから劇団に所属することが決まり、仲間たちからも徐々に受け入れられ、公演も成功させることができた。

 神様がいるかどうかは分からない。ただ、もてあそばれていると感じることはあった。空の高い場所からこちらを見下ろして、希佐のような者に稀有な運命を押し付け、それをどのように解決していくのかを、観察されているのではないかと考えることはあるのだ。だが、それを時折哀れに思い、導きのような慈悲を下す。人との出会いを、与えてくれる。人との出会いだけには、誰よりも恵まれている自信があるから。

 

 スタジオが静かになったような気がして顔を上げると、時刻は深夜十二時をとうに過ぎ去り、午前二時を迎えようとしていた。十二時にはPC前の椅子をアランに明け渡す約束だったのだ。集中して作業に打ち込むあまり、時計の確認を怠ってしまっていた。希佐は慌てて机周りを片付けると、それらを抱えて椅子から立ち上がった。荷物をテーブルに置いてからスタジオを覗きに行くと、他には誰もいなくなった空間に、アランが一人で佇んでいた。プロジェクターの隣に立って、公演映像を見ている。

「まだ見ていたんですか?」

 希佐が足元に散乱したままのピザの箱を踏まないように近づいていくと、壁に映し出されていた映像に向けていた目を、アランはこちらに向けた。

「冬公演、オー・ラマ・ハヴェンナ──この公演、とても大変でした」

「女を演じるから?」

「はい」ルキオラとミゲルが教会で話をしている場面を眺めながら、希佐は頷いた。「不眠王のときは役を演じきることに精一杯で、自分が女であることを隠そうともしないまま、娘役を演じていました。でも、二度の男役を経て、また女役が巡ってきたんです。私は普段の生活でも、舞台上でも、男を演じることが上手くなっていました。でも、それと比例するように、女を演じるのが下手になった。それに、体が女を演じることを拒絶するようになっていたんです。本気で女を演じたら、女であることがバレてしまうような気がして」

「それでも演じきった」

「ユニヴェールの舞台に立つからには、舞台に対して誠実でありたかったですし、私の個人的な理由で、クラスの人たちに迷惑はかけられません。それに、ユニヴェールの舞台を楽しみにしてくれているお客さんのためにも、生半可な気持ちでそこに立ってはいけないと思って」

 それでも、分かる人には分かったはずだ。何人かの人はこの舞台で希佐の正体に気づいたかもしれない。白田美ツ騎がその中の一人だ。でも、美ツ騎は舞台上でチッチを抱き締め、希佐に対してお前が何者でも構わない、何者でも許すと言ってくれた日から、たったの一度も、希佐の性別に触れてくることはなかった。絶対に気づいていたはずなのに、お前はお気に入りの後輩だと、そう言い続けてくれていた。

「オー・ラマ・ハヴェンナでチッチを演じて分かったんです。女の私が生身の女性を演じるのはリスクが高すぎるって。だから、男として女を演じる方法を必死で模索しました」

 日本舞踊や歌舞伎の女形の動きを参考にしたり、玉阪座の舞台を見に行き、熟達した比女の動きを参考にしたこともある。美ツ騎はもちろん、他のクラスのジャンヌたちの動きも徹底的に研究した。そして誰よりも、高科更文のアルジャンヌとしての動きを、余すことなく盗み取った。

「私は男を演じることにも、男として女を演じることにも、慣れすぎているんです。だから、普通の女になれない。性別があやふやなんです。だから、女の私が演じる女性は、とても嘘っぽい」

 それはアランにも指摘されたことだ。舞台演出家の脚本に登場する女優。きっと、女性である女優よりも、男性の舞台演出家の方が、上手く演じられる。先日の舞台で青年を演じたときのように。

「そんな私がここでやっていけると思います?」

 希佐は確認するような目でアランを見上げた。しかし、アランは冬公演の映像に目を向けたままだった。

 チッチが舞台上で泣いている。大きな声を上げて、まるで子供のように、泣きじゃくっている。その映像がアランの長い前髪をすり抜けて、緑の目に映り込んでいるのが見えた。

「……綺麗だな」

「えっ?」

「チッチ、綺麗だ」

 どっ、と心臓が不自然に動き、すぐに収縮するのが分かった。胸が締め付けられるような感覚の後で、頬が少しだけ熱くなる。瞬きもせずにチッチの姿を見つめているアランから目を逸らした希佐は、気持ちを落ち着かせるために小さく深呼吸をした。

「大人になった今よりも、十六歳の頃の方が女らしかったなんて、おかしな話ですよね」

「君は女らしくなりたいの?」

「分かりません」自分が男なのか、女なのか、分からなくなるときがある。「もう何年も女だったことがないので」

 もう少しで淡色の歌唱がはじまる。しかし、それよりも前に、プロジェクターの電源が落ちた。充電式だったのでバッテリーが切れてしまったのだろう。スタジオは一瞬にして真っ暗になる。

 希佐が手を伸ばしてアランの場所を確認しようとすると、それは一度空を切るが、次の瞬間しっかりとつかみ取られた。

「そっち、足元危ないから、こっち来て」

 確かに、足元にはピザの空箱や空き缶、ペットボトルなどが散らかったままだった。

 希佐はアランの腕を伝うようにして歩く。反対の手を伸ばすと、指先がアランの体に触れた。ほっと息を吐いて安堵した途端、希佐の細い腰に、するりとアランの腕が回される。

「えっ、なに?」

 しー、と言ってアランは希佐を静かにさせると、腰に回した腕で体を引き寄せ、そっと抱き締めてきた。掴んだ手はそのままに、ただ、親指の腹で手の甲をさわさわと撫でている。

「……ア、ラン?」

「目、閉じて」

「なんで」

「いいから」

 呼吸が浅くなって、体が硬くなる。それでも、言われるがままに目を閉じた。目を閉じることで余計に感覚が研ぎ澄まされ、アランに触れられているところだけが熱を持ち、痺れるような感覚に見舞われていた。心臓が酷くうるさい。

「普通に呼吸して」

「だって」

「だって?」

「……」

「嫌ならやめるよ」

「嫌、とかでは、ないんですけ、ど」

 こういう経験があまりに少ないのだ。これまでに一度もないとは言わないが、こういう男女の間柄で行われる経験というものを、希佐はほとんどしてこなかった。おそらく、更文はこういう行為を、故意に避けてきていた。男としてユニヴェールにいる希佐の女の部分が、不意に顔を覗かせることがないように。

「私、あの、経験が……」

「ベッドの上ではもう少し積極的だったと思うけど」

「あ、あれは、熱で、その」

「分かってる」

 アランは手を離すと、両腕ですっぽりと希佐の体を包み込んだ。ちょうど頭一つ分ほどの身長差があるので、その顎が希佐の頭に乗せられる。

「俺の背中に腕を回して」躊躇う希佐の額に、ちゅ、とあたたかいものが触れた。「ほら、早く」

「……これ、一体何をしているんですか?」

「俺の好きにしてる」

「何のために?」

「さあ」

 アランがやわらかく笑うのが分かった。すると、希佐の体を覆っていた緊張感が僅かに溶け、不思議と肩の力が抜けていく。ぎこちなく伸ばした両腕をアランの背中に回すと、きゅ、とシャツを掴んだ。

 少しずつ気持ちも落ち着いてくると、今度はアランの心臓の音が聞こえてくるようになった。公演のときよりも、もっと落ち着いた心音だ。それが希佐の耳に届き、肌にも伝わって、心地良さを感じはじめる。吐息を漏らすように息を吐き出すと、アランは少しだけ意味深に、希佐の背中を撫で上げた。

「落ち着いた?」

「はい」

「じゃあ、顔上げて。目も開けていい」

 背中に回していた腕を解き、少しだけ仰反るようにしてアランを見上げる。先ほどよりも暗闇に慣れた目は、アランの顔の輪郭を確かに捉えていた。

「俺の髪、よけて」

「顔見られるの、嫌なんじゃないんですか」

「君は俺の顔を好きになったの」

 希佐は首を横に振る。その美しい顔を知らずとも、きっと気持ちは同じだった。

「俺は君の顔も好きだけど」アランは希佐の手が前髪を耳にかけるのを待って、その鼻筋に唇で触れた。「君が俺を呼ぶ声が好きだ」

 それは、自分の名前を呼んでくれと、そう言っているのだろうか。緑の目がじっとこちらを覗き込んでくるから、希佐はそれを見つめ返すことしかできない。

「……アラン」

「もう一回」

「アラン」

「ねえ」

「なに?」

「……ラファエルって、呼んでみて」

「え?」

「いいから、呼んで」

 お互いの顔を認識できるぎりぎりの距離感。それ以上近づけば、緑の目以外は何も見えなくなるくらいの位置まで顔を寄せ、アランが言う。少し悲しそうな顔をしているように見えて、これはきっと大切なことなのだろうと、希佐は感じた。

 だから、希佐はその目をまっすぐに見つめて、優しく、包み込むように呼ぶ。悲しそうな顔は見たくなかった。

「ラファエル」

 それなのに、アランは希佐がその名前を口にした瞬間、眉を顰めて泣きそうな顔をした。は、と少しだけ苦しそうに息を吐いて、目を伏せてしまう。

「ラファエル」まるで罪を告白するように、アランは言った。「それが俺の本当の名前なんだ」

「……そう」

「アラン・ジンデルは劇団に入ったときに自分でつけた。それ以来ずっとこの名前で通っているから、本当の名前を知ってるのはロバートだけだ」

「それと、私?」

「ああ」

「どうして教えてくれたんですか?」

「なんとなく。君に呼んでもらったら、どう感じるのかと思って」

「どうでした?」

「……悪くなかった」

 希佐が思わず笑みを漏らすと、こちらを見ていたアランの目元が優しげに下がった。手の平で希佐の頬を包み込むように撫でてから、下唇のやわらかさを堪能するように親指の腹でゆっくりと愛撫する。顎に手を添え、少しずつ顔を近づけてきたかと思うと、寸前のところで動きを止めた。

「キス、してもいい?」

「どうして聞くんです?」

「今日はしつこいと思うから」

「……いいですよ」

 そう言うが早いか、アランの唇が希佐の唇にそっと触れた。それは拍子抜けするほどすぐに離れていったが、希佐が口を開こうとする瞬間を狙っていたように、もう一度触れる。今度は唇を食むようなキスが、何度も、何度も、何度も繰り返された。呼吸が乱れ、息苦しくなってくると、アランは少しだけ顔を引く。

「鼻で息しないと窒息するよ」

「そんなこと、言われても──」

「まだ緊張してる。肩の力抜いて。ちゃんと支えてるから」

 大きく開いた手が希佐の腰に添えられ、その体を片腕だけで支えていた。もう一方の手は、希佐の額の髪をすくように掻き上げている。希佐の体に居残る強張りを解こうとするように、額や瞼、目尻、鼻、頬──まるで降り注ぐ雨のように、口付けを落としていく。

 希佐の少ない経験値では、脳内を占める感情と、与えられる感覚に、気持ちが溺れそうになった。心臓が恐ろしく早く鼓動している。頭が混乱して、思考が追いついてこない。

 こうなったら、もう舞台経験を引き摺り出してくるしかないと思ったとき、アランは僅かに身を引いた。

「キサ」鼻と鼻を擦り合わせながら、アランが囁くように希佐の名前を呼ぶ。「演じないで」

「……え?」

「無理に女になろうとしなくていい。君のままがいいんだ。ありのままの君の方が、舞台に立つどんな君よりも、ずっとうつくしいから」

 アランはこうして時々、歯の浮くような台詞を平気で口にする。希佐はそのたびに言葉を失ってしまうが、まるで心をくすぐられているような、優しい疼きも覚えるのだ。変わった人だと、心から思う。無骨で朴訥としているかと思えば、時々酷く饒舌になって、今のように甘い言葉を口にしては、希佐を驚かせる。

 その瞬間、すうっと、希佐の体から力が抜けていった。腰を支えるアランの手にぐっと力が入るが、倒れることはない。しっかりと支えてくれている。すると今度は、アランの手が希佐の手を自らの首元に誘った。希佐は背伸びをして、両腕をアランの首に絡ませる。

 この人は目で物を語る。気持ちが伝わってくる。何を言っているのかが分かる。

 君を好きだと、そう言っている。

 この思いには、どう応えればいいのだろう。気持ちを口に出してしまえば、それがありふれた感情の中に塗れて、途端に月並みな言葉に落ちてしまうような気がする。

 希佐はゆっくりと瞬いて、そして、甘美なひとときに身を委ねた。

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