ビザに必要な書類はすべて揃え、申請書は提出した。あとはもうその申請が承認されるか、拒否されるかを天に任せ、待つことしかできない状態だ。結果はまさに、神のみぞ知る。
やれるだけのことはやったのだと自らに言い聞かせた希佐は、書類を提出した後も、これまでと何一つ変わらない生活を送っている。ただ、今は公演の予定がないので、パブの仕事から帰ってきてもスタジオで稽古をすることはせず、シャワーを浴びたあとは自由な時間を過ごしていた。そのままベッドに入って休むこともあれば、本を読んだり、映画を見たり、勉強をしたりと、それなりに有意義な時間の使い方をしている。
朝になればスタジオに降りて体を動かし、劇団員たちの時間と体が空いているときは、ダンスや歌、芝居の稽古に付き合ってもらうこともあった。ランチ後から仕事に出かけるまでの時間は、アランが事務室のソファで横になっていることが多いので、その邪魔にならないよう、買い物に行ったり、近所のコインランドリーに洗濯をしに行ったり、教会に顔を出したりもしていた。
牧師のロバートはいつも親切にしてくれる。ミゲルが学校から帰ってくる頃には、今度は希佐が仕事に向かわなければならないので、なかなか会えないのが残念でならなかった。その代わりに、休日にはミゲルがスタジオまでやって来て、一緒に遊ぶこともあった。
そしてある日は、ダイアナが両手いっぱいのショッピングバッグを抱えて現れたかと思うと、希佐に大量の洋服を押し付けて帰っていった。
「大丈夫よ、全部私のブランドのサンプル品だから。いつも処分に困っちゃうから、もらってくれるとホント助かるのよねぇ。サイズは6と8と10があるけど、あなたならどれも着られるでしょ。あらあら、いけないわ、私外にタクシーを待たせたままなのよ。これからショーの打ち合わせがあるの。じゃあね、キサ。また一緒にランチしましょ」
希佐に何かを言わせる間も与えず、ダイアナは嵐のように現れ、そして、去っていってしまった。困り果てていた希佐が大量のショッピングバッグを抱えて事務室にいたアランのところへ相談に行くと、そんなことを俺に聞くなという顔をして、面倒臭そうに肩をすくめられた。
「いいんじゃないの、もらっておけば」
「でも」
「突き返したところで彼女は受け取らない。それくらい君にも分かるだろ」
「……じゃあ、もらっておくことにします」
多少は片付いた部屋に戻って洋服を広げてみると、どらも希佐の好みから外れない、とてもシンプルなデザインのものが多かった。もう衣装以外では何年もはいていないスカートもある。濃い緑のタータンチェック柄のガウン型コートがとてもかわいらしい。
「ラッキーだったじゃない」
ダイアナにサンプル品をもらったという話をすると、アイリーンはアイリーンで、もう着ないからという理由で持ってきた洋服を希佐に押し付けてきた。
「私、シーズンごとに服を買い替えるのよ。これは春夏の服だけれど、まだ着られるでしょう? それから去年買ったコート。一回くらいしか着ていないから、これもあなたにあげるわ」
「でも、どれも高価なものなんじゃ……」
「ただの私のお古よ。おさがりみたいで申し訳ないくらいだわ。それに、あなたが着ないなら処分するだけ」
「……あの、じゃあ、ありがたく頂戴します」
ダイアナの話をしたときのアイリーンを見るに、ダイアナに入れ知恵をしたのはアイリーンだったのではないかと思ったが、希佐は何も言わなかった。洋服はどれも素敵だったし、二人の気持ちも嬉しかった。
「君って物欲とかないわけ?」
先日古本屋で買ってきたばかりの本をキッチンのテーブルで読んでいると、その向かい側で原稿を書いていたアランが、手を休めて唐突に尋ねてきた。希佐はその問いかけに首を傾げてから、手元の古本を指した。
「ありますよ、物欲くらい。この本も何日か前に買ったばかりですし」
「他には?」
「他に買ったものですか? 新しいノートと鉛筆と──」
「悪い、俺の聞き方が間違ってた」アランが希佐の言葉を遮って言う。「欲しいものとか、ないの?」
「欲しいもの?」
希佐は黙って考えてみる。だが、必要なものはあっても、どうしても欲しいものは何も思いつかなかった。
「特にはないですね」
「給料は? あの店、結構出してくれてると思うけど、貯め込んでるの」
「ああ……」
本当のことを言うべきかどうか迷っていると、アランは僅かに鋭い眼差しを向けてくる。嘘の匂いを感じ取ったのかもしれない。ごまかしは効かないなと思った希佐は、素直に本当のことを話すことにした。
「いただいたお給料の三分の一は、日本の実家に送金しています。次の三分の一は貯金に回して、残りの三分の一で生活しています」
「送金って?」
「今、実家にいるのは父だけで、その、生活が苦しい状況なので、それを助けるために」
「それで君が苦しんでいたら本末転倒だとは思わない?」
「それは、その通りなんですけど……」
継希にも見捨てられ、自分にも見捨てられたら、あの家はもうおしまいだ。それに、もし継希が帰ってきたときに、あの家がなくなっていたらきっと悲しむだろうと、希佐は思うのだ。
アランは希佐の様子を見て嘆息すると、話を続けた。
「貯金は先行きが不安だから?」
「はい」
希佐はこの先の人生を一人で生きていくという覚悟を決めていた。そうなると、何より必要なものが現金だ。これさえあれば、とりあえず露頭に迷うことはない。
「ここに来る前はどんな生活をしてたの」
「どんなって、今とたいして変わりませんよ。仕事に行って、帰ってきて、本を読んだり、勉強をしたり……週末には、舞台を見に行っていましたけど」
「舞台のチケット代は高い。君が住んでいたアパートだってそこまで酷い部屋じゃなかったし、それなりの家賃を支払っていたはずだ。ロンドンは物価も高い。今までどうやって生きてきたの?」
「……食費を、削って。あの日本食レストラン、賄いが出たので」
空腹は嫌いだが、空腹でいることには慣れていた。別に自分の空腹が誰かに迷惑をかけるわけでもない。ただ、自分が我慢をすればいいだけの話だ。
アランは椅子の背もたれに寄り掛かり、髪を掻き上げながら頭を掻いた。呆れているというよりも、腹を立てていると表現した方が近そうな顔をしていた。
「そんな生活してたら、相手が初対面の人間だって、食事に誘われればほいほいついて行くだろうな」
「え?」
「ロバートに誘われてついて行ったんだろ。今後はやめておいた方がいい、危険すぎるから」
「ああ、はい。あのときは本当に、まいっていたので」
「迷い込んだのがあの教会でよかったよ。そうじゃなかったら、今頃どうなっていたか」
「生きていなかったんじゃないですか、普通に考えて」希佐はへらへら笑いながら言う。「でも今はほら、みなさんのおかげで人並み以上の生活が送れているので、全然大丈夫です」
「毎月給料の三分の一で生活していて人並み以上とはね」
「アランがここに住まわせてくれるおかげで家賃と光熱費が浮きますし」
「最初はしつこく払おうとしていたけど」
「それは、あなたのことよく知りませんでしたし」
「そのよくも知らない男のところに、よく転がり込んできたものだ」
「それはアランが無理やり……」
「ああ、そうだな。俺が無理やり連れてきた」
アランは降参をしてみせるように両手を上げながら椅子から立ち上がった。それから希佐に背中を向けると、キッチンに立って湯を沸かしはじめる。戸棚の低い場所、希佐でも取れる高さの棚に置いてある紅茶の缶を手に取ると、今度は冷蔵庫に向かって牛乳を取り出してきた。
自分のマグと希佐のマグを並べて置くのを見て、なんとも言えない気持ちになった。
本当に、本当に、あの日教会に迷い込むことがなかったら、自分はどうなっていたのだろうと思い、希佐は今更になって、とてつもない恐ろしさを覚える。漠然としたイメージではなく、そこには確かな冷たい死が横たわっていた。今になって、過去の死の可能性に恐怖している。もしあのとき死んでいたら、今のこの何でもない日常は幻としてすら存在していなかった。
人は何かを一度でも手に入れてしまうと、それを手放し、失うことを極端に恐れるものだ。しっかり掴んで、離したくないと思ってしまう。物でも、人でも、居場所でも。
席を立った希佐はふらふらと歩いていくと、自分に背を向けたまま湯が沸くのを待っているアランの後ろに立った。そして、アランが気配を感じて振り返るよりも前に、その背中に身を寄せる。腰に両腕を回すと、後ろからぎゅっと抱きついた。
「普通こういうのって男と女が逆だよね」まぁいいんだけど、と言いながら、アランは自分の体にしがみついている希佐の腕に、自分の手の平を添えた。「君から擦り寄ってくるのは珍しいから」
「……少し、怖くなってしまって」
「なにが」
「あなたと出会っていなかったら、どうなっていたのかって」
「そんなこと考えても意味ないと思うけど」
分かっている。過去とは既に通り過ぎた時間と場所にあるもので、もう二度と戻ってやり直すことはできない。良いことも、悪いことも、過去の前ではすべてが平等だ。それでも、想像してしまう。考えてしまう。たとえ意味のないことなのだとしても。
「俺と君は出会ったし、君は今、間違いなく生きてる。その事実だけ考えればいい。もしかして、ビザのことで不安になったりしてるの」
「……ちょっとだけ」
「もしダメだったら、俺がカナダまで一緒について行こうか」
「えっ」
「一生に一度くらいはモントリオールに行っておきたい。綺麗な街だってメレディスが言ってた」冗談を言っていると、希佐にはすぐに分かった。旅行なんて面倒臭いことを、アランはしたがらないだろう。「住むならバンクーバーがいい。幸い俺はこの世界のどこにいても仕事ができるし」
「現実的な話じゃありませんね」
「君が言っていることだってそうだ」
確かにその通りだ。反論の余地はなく、ぐうの音も出ない。
「俺はイギリスを出るつもりはないし、君もこの国を出て行かずにすむ。大丈夫、ビザは承認される」
「どうしてそんなふうに言い切れるんですか?」
「俺の惚れ込んだ才能が認められないわけがないから」
「もしダメだったら責任取ってくださいね」
「どうやって」
「分かりませんけど」
「結婚するとか」
「……はい?」
頭をもたげる、アランの後ろ頭を見上げる。アランは何も言わない。希佐はもう一度聞き返すのが怖かった。肯定されるのも、否定されるのも、同じだけ怖かった。なんと答えるのが正解だったのかが分からなかった。
湯が沸くと、アランは慣れた様子で紅茶の用意を進めていく。希佐の手に熱湯がかからないように、自らの腕で覆い隠してくれている。抱き締める腕に力を込めても、呻き声すらあげず、平然としていた。
「蜂蜜とメイプル、どっち」
「……メイプルが好きです」
アランはミルクティーにメイプルシロップを入れて飲む。最初は珍しいと思ったものだが、試してみると美味しかった。蜂蜜よりも甘さが抑えられ、香りが強くなるのだ。
希佐は離れろと催促をされる前に、アランの腰から腕を引いた。
「一緒にカナダには行かないけど、近所になら出かけてもいい」希佐にマグを渡しながらアランが言った。「この辺でどこか行きたいところないの」
「行きたいところ……」
マグを両手で受け取り、そこから立ち上る湯気を眺めながら、希佐は考えた。だが、考えれば考えるほど、自分がこの辺りのことについて何も知らない事実が浮き彫りになる。そもそも知る必要を感じなかったのだ。目的は日本から逃げることで、日本以外の国なら、どこでもいいとすら思っていたのだから。
「大英博物館とかナショナル・ギャラリーには行ってみたいです。トラファルガー広場までは行ったことがあるんですけど、人が大勢集まっていたからすぐに引き返してしまって」
「あそこは週末ごとに何らかの集会をやってるから」
「そうだったんですか」
「でも、まあ、ギャラリーくらいなら」
「連れて行ってくれるんですか?」
「そのうちな」
アランはそう言うと希佐の頭に手を乗せ、とんとん、と触れてから椅子に戻っていった。キッチンに目をやると、片付けようと思っていたものがすべて綺麗に洗われ、元通りの場所に戻されていた。牛乳の容器だけが出したままにされているのは、希佐に文句を言わせないためだと知っている。
牛乳を冷蔵庫に戻した希佐は、アランの向かい側の席に戻ると、開いたままの本のページに目を落とした。どこまで読んだか覚えておらず、もう一度、一行目から読み直す。だが、何度一行目に目を通しても、内容が頭に入ってくることはなかった。
公演が終わってすぐに行われるはずだった打ち上げは、希佐が体調を崩したことで立ち消えになってしまった。その後もビザの書類を揃えていたり、他の劇団員たちも忙しかったりで、全員が集まる機会には恵まれてこなかったのだ。
だがある日、劇団員全員がスタジオに集まることがあった。示し合わせたわけではなく、ただの偶然だったのだが、この機会を逃せばもう二度とチャンスは巡ってこないのではないかという話になり、全員がその後の予定をキャンセルすると、急遽打ち上げを行うことが決まった。
案の定、アランは酷く面倒臭そうにしていたし、その表情を隠そうともしていなかった。
「今更打ち上げなんかしてどうするの」
公演が終わってもう一ヶ月以上が過ぎている。アランの言葉は至極尤もに思えたが、劇団員たちはもちろんやる気だ。
「──で、結局ここなんだから」アランは寒そうにコートのポケットに手を入れ、白い息を吐き出しながら言う。見上げているのは、パブ『ヘスティア』の建物だ。「芸がなさすぎる」
「まあまあ、いいじゃないの」
ノアは面白そうに笑いながらそう言うと、アランの背中を押して店の中に入っていった。閉まりかけた扉をイライアスが押さえ、アイリーンと希佐を先に通してくれる。バージルとジェレマイアがその後に続くと、イライアスが最後に入ってきた。
ここで働くようになってから、休みの日にプライベートで飲みに来ることがなかった希佐には、少し奇妙な感覚があった。仲の良いホールスタッフの子が希佐の姿を見かけると、意外そうな顔をして駆け寄ってくる。
「珍しいな、お前が休みの日に飲みに来るなんて」
「今日は劇団のみんなで来たんだ。公演の打ち上げがまだだったから」
「えっ、マジで? イライアスも来てる?」
「あっ……うん」
イライアスは名前を呼ばれてそちらをちらりと見やりはしたが、それだけだった。我関せずという顔をして、カウンターの方へ歩いて行ってしまう。やはりと言うべきか、ファンサービスをする気は微塵もないようだ。
「うわあ、オレ、あの人のダンスがすげー好きなんだよ。ちょっと話せたりしないかな、ダメ?」
「私からは何とも言えないけど。本人に直接声をかけてみたら?」
「い、いや、オレにはとても、そんな、勇気はない……」
今となってはそんなことを考えもしないが、面識のない者がイライアスに声をかけるのは、相当に難易度が高いだろうと希佐は思う。イライアスは普段、表情らしい表情を浮かべない。その上、ファンの間では氷の貴公子と呼ばれているほどの美貌の持ち主だ。先の公演では演技にも磨きがかかり、更に多くのファンを増やしているという噂を、このパブで小耳に挟んだことがある。
「しかし、キサ」
「なに?」
「今日のお前、めちゃくちゃかわいいな」
「えっ?」
「いや、うん、かわいいわ」
「あ、ありがとう」言われ慣れない言葉に、希佐は目を泳がせる。「今日はアイリーンさんがコーディネートしてくれて」
「へえ、そうなんだ」
打ち上げに行くとなったとき、そのままの格好で出て行こうとした希佐を、アイリーンはそれはそれは恐ろしい形相で呼び止めた。私があげた洋服はどうしたと詰め寄られ、まだ一度も袖を通していないと白状すると、部屋まで引きずられるようにして連れて行かれたのだ。
アイリーンはクローゼットの中身を五分ほど眺めてから、これを着なさい、と言って有無も言わせず希佐を着替えさせた。
「お前、仕事中だと男っぽく見えるのになぁ」
「そ、そう?」
「ほら、毎週木曜に来る常連のお客様が、お前のことを──」
「おいコラ、キサ」
未だ出入り口付近でスタッフと話し込んでいた希佐を呼びに戻ってきたのはバージルだった。希佐のコートの首根っこを掴むと、じろりと顔を覗き込んでくる。
「主役がいつまでこんなところで立ち話なんかしてるつもりだ?」
「す、すみません、バージル」
「ほら、さっさと注文してこい」
希佐は同僚のスタッフにごめんねと謝ってから、混雑している店内を縫うようにして進んだ。ようやくカウンターまで辿り着くと、そこにバーテンの格好をしたメレディスを見つける。ちょうど手の空いたメレディスは希佐の姿に目を留めると、一瞬驚いたような顔をしてから、にこりと笑った。
「おやおや、これは素敵なお嬢さんだ」
「からかわないでください、メレディス」
「君の仲間たちはあえて褒めたりはしないだろうからね、僕が代わりに言っておこうかと」
「おかしくありませんか? こういう服は着慣れないから、何となく落ち着かなくて」
「いや、とても似合っているよ」
カウンターの内側に立っているときのメレディスは基本的にセールストークしか話さない。だが、たとえそうだったとしても悪い気がしなかった希佐は、わざと営業用の笑顔で微笑み返した。そのちょっとした駆け引きに、ふふ、と笑ったメレディスは、少しだけカウンターに身を乗り出してくる。
「最初の一杯は僕の奢りだよ」希佐が初めてこの店に訪れたときと同じように、メレディスが言った。「何を飲みたい?」
「じゃあ、ギネスを」
「なるほど、いいチョイスだ」メレディスはグラスにギネスを注ぎながら思い出したように言った。「そういえば、いつの間にか君のアイルランド訛りがすっかり消えてしまったね」
「本当ですか?」
「もうずっとこのロンドンに住んでいる子みたいだよ。キサとはもう数年来の付き合いがあるような気がしているけれど、僕と君が出会ってから、まだ半年も経っていないんだね」
どうぞ、とグラスが差し出される。受け取ったギネスのきめ細やかな泡の表面には、あのときと同じ、シャムロックのアートが施されていた。
「今夜は楽しんで」
「ありがとうございます」
次の客のためにカウンターの前から移動し、希佐は店内を見回す。劇団の仲間たちは、以前と同じ席についていた。もしかしたら、お馴染みの席なのかもしれない。希佐は人やテーブル、椅子の合間を器用に歩いていき、ようやく仲間たちと合流した。
「すみません、お待たせして」
「もう、エールの泡が消えちゃうよ」
「ごめんね、ノア」
空いていたバージルの隣の席に希佐が座ると、全員の視線が一気に集まるのを感じる。何事だと目を丸くする希佐を見て、真正面に座っていたジェレマイアが口を開いた。
「ほら、主役。挨拶しないと」
「えっ、私?」
「他に誰がするんだよ」バージルが呆れたように言う。「言っとくけど、アランには期待するなよ」
もちろん、我が劇団カオスの主宰には最初から期待していない。
希佐はシャムロック印のグラスを両手で持つと、えーと、と声を漏らした。仲間たちの顔を順番に見回しながら、言葉を探す。
「公演、お疲れさまでした。とは言っても、もう一ヶ月以上も前のことになりますけど」ユニヴェール時代にも、こうして無理やり挨拶をさせられたことが度々あったなと、希佐は思い出す。「私が体調を崩したせいで、打ち上げがこんなに遅れてしまって申し訳なく思っているんですけど、でも、こうして集まれて、とても嬉しいです」
この、込み上げてくるものはなんなのだろう、と希佐は思う。懐かしい感情が心を刺激して、不意に涙が溢れそうになるのを、唾を飲み込んで堪えた。ほんの数秒の間しかない。バレてはいないだろう。
「みなさんには本当にいろいろと助けてもらって、そのおかげで公演を成功させることができました。本当に感謝しています。特にバージルには苦労ばかりかけてしまって」
「そうそう、あの舞台が成功したのは俺の功績があってこそだ」
「キサが頑張ったからだよ」
「んだと、イライアス」
「ちょっと、二人とも黙ってなさいよ」
しーっ、と人差し指を立てるアイリーンを見て、希佐は笑った。
「アイリーンさんにも歌をみっちり教えていただきました。イライアスにはダンスを教えてもらった。ノアとジェレマイアにはたくさんお芝居の稽古に付き合ってもらって、私がどれだけ助かったことか」
「キサが僕たちの稽古に付き合ってくれていたんだよ。ねえ、ジェレマイア」
「お前の女役、ギリギリまで定まらなかったもんなぁ」
「そう。でも、キサは絶対に急かしたりしなかったし、どうして出来ないんだって追い詰めることもしなかった。何度でも根気よく付き合ってくれたでしょ。嬉しかったな」
「オレには手話も教えてくれたしな」
助け、助けられて、一つの舞台を作り上げていく。その楽しさや喜びを、改めて実感できた日々だった。
「とても楽しかったです。あの二ヶ月間は私にとって宝物みたいな日々になりました。この先の未来に何が待ち構えていたとしても、絶対に忘れません。みなさんが、私に舞台に立つ喜びを思い出させてくれたんです。だから、また一緒に舞台を作っていけたらいいなと思っています。ビザの申請が通るのかどうかは、神のみぞ知る、ですが」
それで上手いこと言ったつもりかよ、と言って、バージルが希佐の肩に自分の肩をぶつけてくる。希佐は手の中で傾いたグラスを慌てて支え、それから、思い出したようにジェレマイアを見た。
「ジェレマイアのオーディションも合格が決まってよかった」
「ま、オレほどの実力があればな」
「怪我に気をつけて」
「おう」
「っと、これ以上話が長くなると、本当にエールの泡がなくなってしまうので」希佐は消えかけているシャムロックを見て、慌ててグラスを掲げた。「公演、お疲れさまでした。それから、ジェレマイアの門出を祝して」
「オレ、この劇団辞めないからな?」
「cheers!」
「あっ、おい、キサ!」
グラスが掲げられると同時に、テーブルからどっと笑い声があがった。
グラスを口に運び、少しぬるくなったギネスを喉に流し込む。それと同時に、堪えきれなくなりそうだった感情を、ギネスと一緒に押し戻した。
公演が行われたのは一ヶ月以上も前のことだ。それもたった一度きりの公演だったのに、劇団員たちはまるでそれが昨日行われたものであるかのように、熱く語り合った。当日公演を観に来ていた客がテーブルのそばを通りかかるたびに、酒が奢られ、テーブル一杯の料理が運ばれてくる。口々に、あの公演はよかった、今までで一番だ、次も期待していると、好きなことを言って去っていく。
「あなた、大変だったんじゃない?」
「何がですか?」
「あの公演が終わってからもここで働き続けているんでしょう?」アイリーンはワイングラスを傾けながら言う。「変な客に絡まれたりしてない?」
「そういうのは大丈夫です。周りのスタッフも気を使ってくれますし、それに、メレディスが目を光らせてくれているので」
「ヘスティアの王様にも気に入られているのね」
「そうなんでしょうか」
「私もあなたのことを気に入っているのよ、キサ」
「え?」
「あなたのことを大好きになってしまったの」希佐は酔っているのだろうかと思ったが、アイリーンにそんな様子は見られない。「あ、今私が酔ってるんじゃないかって思ったわね?」
「どうして分かったんですか?」
「キサは顔に出るタイプなの」
「ああ、そういえば、ずいぶん前にもそんなふうに言われたことがあります。お前は顔に出やすいから、気をつけろって」
「あんなお芝居ができる子なのに、変わってるわよね。普通はポーカーフェイスがうまそうなものだけれど」
「普段は気が抜けているからでしょうか」
「ああ、そうかもしれないわ。結構ぼーっとしていることがあるものね、あなた」
アイリーンはそう言うと、グラスの中の赤ワインを飲み干してしまう。それからすぐにすっくと立ち上がると、次の一杯を買いに行ってしまった。どうやら相当飲める口を持っているらしい。希佐が見ていただけでワインを4、5杯は飲んでいたが、踵の高いヒールを履いていても、ちっともふらついていなかった。
打ち上げとは一体何だったのか、テーブルに残っているのは、今や希佐とアイリーン、イライアスしかいない。イライアスは既にテーブルに突っ伏して眠っているので、人数に入れるべきではないのだろう。バージルは知り合いを見つけてそちらに行ってしまったし、ノアとジェレマイアは酒を買いに行ったまま戻って来ていない。きっと、どこかで女の子に引っ掛かっているのだろう。
アランの姿は、気がつくとどこにも見えなくなっていた。店内にくまなく視線を巡らせてもその姿は発見できなかったので、先に帰ってしまったのだろうかとも思ったが、それは違うとバージルが教えてくれた。
知り合いとの話を終え、エールを片手に戻ってきたバージルは、店内に視線を走らせている希佐を見て、察したように口を開いた。
「アランなら上だよ」
「上?」
「これで水でも買って持って行ってやんな」バージルはそう言って希佐に紙幣を握らせた。「あいつ結構飲まされてたから、潰れてんじゃねぇかな」
「アランってお酒に弱いんですか?」
「いや、強い方だけど、今日はあんまり体調良さそうじゃなかったし」
希佐にはいつもと変わらない様子に見えたが、バージルには体調が悪そうに見えていたらしい。
バージルはこの中でアランとの付き合いが最も長く、希佐は最も短い人間だ。自分の主観なんかよりも、バージルの言葉の方が正しいに決まっている。
「ちょっと見てきます」
「ああ、頼んだ」
希佐はバージルから受け取ったお金でミネラルウォーターを二本買うと、その足で二階に続く階段に向かった。一番下にはロープが掛けられているので、それを跨ぎ越し、店の客に見られないよう早足で階段を駆け上がる。
二階のフロアに辿り着くと、アランの姿はすぐに見つかった。長椅子の上で横になっている。
希佐は小さく息を吐き、横になっているアランのところまで歩いていった。アランは額に腕を置き、目に届く光を遮るような格好をしたまま、動かない。
「……アラン?」声をかけるが、返事はなかった。「大丈夫ですか?」
本当に眠っているのかもしれないと思い、希佐は念のために持ってきていたタータンチェック柄のコートを広げ、アランの体に掛けてやった。ずいぶん丈が足りないが、ないよりはマシだろう。
長椅子の傍で床に膝をついて座った希佐は、目元を隠している腕を取り、その顔を覗き込んだ。元々青白い顔をしているので分かりにくいが、言われてみれば、顔色は少し悪いのかもしれない。額に手を当ててみるが、熱はないようだ。
「介抱してくれるの」
「起きていたんですか?」
「うん」
「飲み過ぎですか? それとも──」
「どっちもだよ」アランはゆっくりと起き上がり、床に足を下ろすと、長椅子に座った。「あー、頭痛い」
「お水飲みますか?」
希佐は隣に座ると、ペットボトルの蓋を外してから、それをアランに差し出した。アランはそれを受け取ると、ごくごくと半分ほどを一気に飲み干し、その場で項垂れるようにして首を下げる。
「本当、最悪……」
「大丈夫ですか?」
「ダメかも」
「えっ」
「悪い」
アランの体がばったりと倒れ込んでくる。希佐の膝の上にアランの頭が乗った。一瞬呆気に取られるが、膝に確かな重みを感じ、途端に心配になる。希佐は背中を丸めて、アランの顔を覗き込んだ。髪と同じ色の長いまつ毛が縁取る目は閉じられ、時々苦痛そうに眉根が寄せられる。
希佐はアランがこぼす前にその手からペットボトルを取り上げ、蓋を閉めた。落ちそうになっていたコートを手繰り寄せ、それをもう一度体に掛ける。
「気分が悪いんですか? 吐き気とかは……」
「頭が痛いだけ」
「そう、ですか」
どうしたものかと思いながら、希佐はサイドテーブルにペットボトルを置いた。空いた両手が手持ち無沙汰になって、どうしようもない。
だが、膝の上で目を瞑っている男を見下ろして、希佐は少しだけ微笑んだ。こんなことを言うと睨まれてしまいそうだが、こうして自分には弱いところを見せてくれることが、希佐には嬉しかったのだ。信じてもらえているのだと、そう感じるから。
希佐は手持ち無沙汰になっていた手で、アランの髪にそっと触れてみる。何も、言わない。嫌なら嫌と言う人だ、これは了承を得られたと言うことなのだろう。
アランの髪はしっかりとした質感があるのに、やわらかかった。猫っ毛とまではいかないが、まるで毛艶のいい毛長の猫を撫でているような手触りだ。希佐はその髪を指先で梳くように触れる。何度も、何度も、慈しむように。
「キサ」
「あ、不快でしたか?」
希佐がそう問うと、アランは首を横に振った。
それから、僅かに体勢を変えると、希佐をまっすぐ見上げる格好になる。緑の目が、希佐の膝の上からまっすぐに、こちらを見つめていた。
「前に、俺が君にビザのことで不安になってるのかって聞いたけど」アランは希佐の顔に向かって手を差し伸べ、頬に優しく触れる。「本当は、俺も少し不安で」
「アランが?」
「もうずっと長いこと君と一緒にいるような気がする」
「さっきメレディスにも同じようなことを言われました」希佐は自分の頬に触れているアランの手の甲に、静かに手を添えた。「君とは数年来の付き合いがあるような気がするって」
「そう」
すう、と息を吸って、アランは目を伏せる。
「ああ、こんな感じなんだ」
「何がですか?」
「今、ちょっと嫉妬したかも」
「メレディスに?」
「うん」嫉妬をしたと言いつつも、アランはどこか嬉しそうだった。「メレディスって、あれで選り好みをするんだ。気に入った人間にしか、懐に入れない」
「アランみたいですね」
「俺はあの人に育てられたみたいなものだから、結構似てるところがある」
二人が並んで話していると、本当の兄弟のように見えることがあった。弟を揶揄う兄と、それを疎む弟。優しく見守る兄と、自由奔放に振る舞う弟。とても良い間柄なのだろうと、希佐は思う。
「キサ」
「なんですか?」
「本当は俺も考えたことがあるよ」アランは再び目を開き、希佐を見上げた。「もし君と出会っていなかったら、もし君がここにいなかったら、もし君が、ここからいなくなってしまったら」
アランの目の奥が、ゆらり、と揺らめくのが分かった。いつもは凪いだ水面のように静かな目の奥に、感情の揺らぎを感じた。
「考えたら、怖くなった。だから考えるのをやめたんだ。それで、分かった。俺は、君に近づきすぎてしまったんだって」
「アラン……」
「ほんの数ヶ月前までは君という存在がこの世界にいることも知らなかったのに、今では君がいなくなることに怯えているんだから、おかしな話だよ」
俺がこんなこと言うくらいだから、相当酔ってるんだろうな、とアランは自虐的に笑う。
「分かってる。君がいつまでもここに留まっていないことくらい。ここは君という人間にとっての通過点に過ぎないんだ。ここでやるべきことを終えたら、また次の土地へと渡っていく。それで良いと思った。でも、そのときがくるまでは、君の隣にいたいと思った」
普段はあんなに言葉の足りない人が、こんなにもたくさんの言葉を並べて、語りかけてくる。希佐の目をまっすぐに見つめて、真剣に、思いを吐露している。
「君を好きだよ、キサ」優しくキスをするように、アランの指先が希佐の唇を撫でた。「初めて会ったあの日から、今日までずっと、君を好きなんだ」
堰き止めていた感情が溢れ出すと同時に、希佐の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれた。こぼれた涙がアランの頬に落ちて、伝って、流れていく。
悲しいわけではなかった。つらいのでもない。ただただ、とめどなく涙があふれてくるのだ。それを拭うこともせずにいると、ゆっくりと起き上がったアランが、そっと顔を寄せてくる。
「君を泣かせたかったわけじゃないんだけど」
希佐の頬にある涙の跡を消そうとするように、アランは唇でその跡をなぞった。こぼれ落ちてきた涙を舌先ですくい取ってから、希佐の体を抱き寄せる。そして、そのまま口付けようとしたそのとき、どちらともつかないスマートフォンのバイブの音が二人の耳に届いた。同時にスマホに手を伸ばした二人は、画面を見てから顔を見合わせ、アランだけが通話ボタンに指を伸ばした。
「なに?」
『おっ、もしかして邪魔したか?』アランの不機嫌そうな声とは対照的に、バージルの声は酷く明るい。『お前が上で潰れてるって言ったら、メレディスがさっさと帰れってさ。タクシー呼んでくれたから、そろそろ下に降りてこいよ』
「分かった」
『キサ、そこにいるんだろ? お前も一緒に帰ってやれ』
「あっ、はい」
アランが電話をポケットに戻している隣で、希佐は手の平で涙の跡を拭っていた。大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、その場に立ち上がる。コートを羽織ろうと手を伸ばそうとすると、希佐に遅れて立ち上がったアランが、後ろからそれを着せてくれた。
「ありがとうございます」
「ん」
アランはまだ頭が痛むようで、こめかみの辺りをぐりぐりと押さえながら、先に立って歩き出した。希佐はサイドテーブルのペットボトルを慌てて掴み、その後を追いかける。
「大丈夫ですか? 肩貸しましょうか?」
「いい」
「でも」
「君が潰れる」
自分が潰れてしまうほどアランは重たくもなさそうだと思うが、それ以上は何も言わず、希佐は億劫そうに階段を降りていく背中をひやひやとした気持ちで見守った。転がり落ちそうになったらどう支えるかをイメージしていたが、アランは何事もなく、無事に侵入禁止のロープを跨ぎ越す。
希佐がほっと安堵の息を吐いていると、すぐ近くから呆れているような声が聞こえてきた。
「お客様、そちらは立ち入り禁止でございます」
「す、すみません、メレディス」
「キサはうちのスタッフだから良しとしても」メレディスはそう言ってから、まるで不出来な弟でも見るような眼差しをアランに向けた。「酷い顔色じゃないか、アラン」
「君のところの客に散々飲まされた結果だ」
「私の大切なお客様にその責任を押し付けないでいただきたいものだ」
「メレディス、説教なら今度いくらでも聞くから、今は早く外にいかせてくれ」
店内の雑多な音が頭に響くらしく、アランはますます顔を顰めている。希佐は一度アランをメレディスに任せると、ステージ脇にあるテーブルに向かった。
「あいつ、大丈夫そうか?」
「頭痛が酷いみたいです」
バージルの問いに答えながら、希佐はアランのコートを腕にかけた。自分のバッグにペットボトルを滑り込ませ、肩にかける。
「アイリーンさんは……?」
「明日早いからってタクシーで帰った」
「そうですか」
そう言いながら、まだテーブルに突っ伏して眠っているイライアスを見ていると、バージルは大丈夫だと声をあげた。
「そいつのことは俺が見ておくから、お前は別の男の面倒見てやれ。あいつ案外ぽんこつだから、ホント、頼むわ」
この人は常に何かを察していて、それでもあえて口を出しては来ず、いつも含みのある物言いで希佐の出方を探ってくる。希佐よりも前に、アランへの気遣いがあるのだ。この人にとってのアラン・ジンデルという存在の大きさが、その度に窺い知れるのだ。
「分かりました」
「なんだよ、本当に『分かった』って顔してんな」
ほら、早く行けというふうに、バージルはひらひらと手を振る。希佐はお先に失礼しますと言い残し、テーブルを後にした。扉のところまでやってくると、ちょうど店内に戻ってきたメレディスと鉢合わせる。
「ああ、キサ」
「今日はごちそうさまでした」
「せっかくの君のための打ち上げだというのに、舞台の主役が主宰の介抱で終わってしまうとはね」
「打ち上げとは言っても、みんな好き勝手にやっているだけなので」
「君も無事カオスの仲間入りというわけか」
気をつけて帰るんだよと言って、メレディスは扉を開けてくれた。店の外に足を一歩踏み出した途端、冷たい風が希佐を襲った。人通りの少ない歩道の真ん中に立ち尽くしているアランに歩み寄ると、腕に掛けていたコートを差し出す。
「風邪を引いてしまいますよ」
「うん」
希佐が差し出したコートを受け取りはするものの、アランは一向にそれを羽織ろうとしない。この冷えた空気を全身に感じながら、ぼんやりと空を見上げていた。そこには、日本で見るのと何ら変わらない満月が、ぽっかりと浮かんでいた。
「月が綺麗だよ、キサ」
アランの隣に立ってタクシーを待っていると、唐突にそう言う声が聞こえてきた。希佐が驚いて隣に目を向けると、アランはまだ空の月を見上げていた。
その言葉は全てを理解した上で口にしているのだろうか。それとも、ただ素直に感じた思いが口をついて出ただけなのだろうか。果たして、イギリス人が夏目漱石の逸話を知っているのかは疑問だが、相手はあのアランだ。知っていてもおかしくはない。
いや、でも、考えすぎかも……希佐がそんなことを考えている間にも、メレディスが呼んでくれたタクシーが到着した。アランは希佐を先に乗せ、運転手に行き先を告げる。目的地に到着するまで、二人は一言も口を利かなかった。希佐は窓ガラスに頭を預け、夜空に浮かぶ月を眺めていた。
タクシーがスタジオの前で止まると、アランはコートのポケットから取り出した金で料金を支払い、釣りの受け取りを断って降りていく。希佐はアランの差し出す手に掴まって車外に出た。アランは希佐の体を引き寄せてからタクシーのドアを閉めると、発車するのを待って、スタジオの方へと歩いて行った。
扉の鍵が開けられるのを待っている間、希佐は先ほどのアランと同じように、ぼんやりと空の月を見上げていた。
「……Yours.」
かちゃり、という鍵の外れる音と、希佐の声が重なる。一瞬の間の後、アランはスタジオの扉を押し開いた。
着慣れない服。履き慣れない靴。煩わしい言葉の壁。甘美な暗闇。痺れるような胸の疼き。凍えるほど冷たい誘惑。響く足音。不安定な息遣い。
思考が感覚に奪われていって、物事を上手く考えることができない。背後から首筋に感じる視線が、酷く熱いのだ。そのまま焦げつくのではないかと思うほどに。
希佐は二階に上がってくると、バッグの中に入れていたペットボトルの水を冷蔵庫に移し、そのまま自分の部屋に入ろうとした。しかし、希佐がドアノブに触れるより早く、遅れて階段を上がってきたアランが、その手を掴んだ。氷のように、冷たい手だった。
「俺の勘違いだったら、そう言って」普段よりも低く、掠れた声が、希佐の耳元で囁きかけてくる。「違うって、言って。今すぐ。君がそう言うなら、何も聞かなかったことにする。頭痛のせいだって」
それは感情を押し殺しているような声だった。欲を、押し殺そうとしている。だが、見上げてみると、アランは感情ほど制御しきれていない熱い眼差しで、希佐を見つめていた。鮮やかな緑色の目が、いつもより濃い色をしているように見える。求められているのが分かる。君が欲しいと。
「……言いましたよ」希佐がその眼差しを受け止めながら言うと、アランは一瞬息を詰めた。「死んでもいいって、言いました」
とあるロシア人作家の本を翻訳した日本人は、愛を告げられた女の返事「Yours.」をこのように訳した。死んでもいいわ、と。直訳すれば、私はあなたのものだ、という意味になる。
「あなたが、月が綺麗だと言ったから」
それでも、アランは躊躇っているように見えた。互いに、酒に酔った勢いで理性を失っている感覚があったのかもしれない。とはいえ、希佐が飲んだのは、たかだかギネス二杯だけだ。
「あなたの勘違いではありませんし、聞かなかったことにする必要はありません。でも、今日は、やめておきましょう」何が、とは、あえて言わなかった。「私は構いませんが、あなたはきっと後悔します。明日の朝目が覚めて、一番に」
「……そう、だな」
アランの目に少しずつ普段の色が戻ってくる。吐き出される息と一緒に、その熱も冷めていくのが見て取れた。同時に、どうしようもない恥じらいを覚えたような顔をして、希佐から目を逸らした。
希佐は、すっと離れていきそうになったアランの手を掴むと、軽く握る。
「今夜は、仕事はなし。ゆっくり休んでください」アランの力ない腕を引き寄せると、希佐は背伸びをし、その頬にそっとキスをした。「おやすみなさい、アラン」
ビザの審査の可否が伝えられるはずの日を一日、二日と過ぎても、一向に連絡は来なかった。三日が過ぎ、イギリスでは明日からクリスマス休暇がはじまろうとしている。12月25日から翌年の1月2日まで窓口は閉じられているので、今日を逃せば更に数日は待たされることになるのだが、休暇前で忙しくしているのか、電話もまったく通じない状態だった。
部屋にいても、スタジオで体を動かしていても落ち着かなかった希佐は、洗濯物を抱えて近所のコインランドリーまでやって来ていた。
ロンドンの街はどこもかしこもクリスマスムード一色だ。11月から開かれているクリスマスマーケットは大賑わいだったが、今の希佐の胸を躍らせるほどの魅力はなかった。裏手にある教会の飾り付けの手伝いはしたものの、スタジオにはリースはおろかツリーすら飾られておらず、クリスマスからはあまりに縁遠い。日本生まれ、日本育ちの希佐の方がクリスマスという行事を楽しんでいたのではないかと思うほど、アランはクリスマスに無関心だった。
「はあ……」
椅子に座り、ぐるぐると回っている洗濯機を眺めていた希佐は、ため息を一つ吐くと、窓の外に目を向けた。外では先ほどからちらちらと雪が降りはじめている。地面に落ちた雪は少しも留まらずに溶けてしまうので、積もることはなさそうだ。しかし、路地裏で保護者たちに見守られながら遊ぶ子供たちは、雪が積もればいいのにね、などと言って無邪気にはしゃいでいた。
「クリスマス、かぁ……」
継希がユニヴェールに行ってしまった後の三年間は、毎年一人でクリスマスを過ごしていた。それでも寂しくなかったのは、継希が毎年クリスマスプレゼントにぬいぐるみを贈ってくれていたからだ。でも、家を出て行って四年目からは、何も届かなくなった。継希が忽然と姿を消してしまったから。
継希がどうしていなくなってしまったのかは未だに分からない。どこにいるのかも、生きているのか、死んでいるのかさえ。それでも最近は、自分のようにどこか異国の地で自由に生きているのではないかと、そう思うようにしていた。どこかで元気に暮らしている。そう思いたいのは、自分もそう思っていてもらいたいと、考えているからなのだろう。
ユニヴェールでの三年間、クリスマスはずっと高科更文と過ごしていた。毎年約束をするでもなく、さも当然のように。誰も疑問には思わなかったようだ。
「お前、フミさんとは一年の時からずっと仲が良かったもんな」
三年のとき、クリスマスはどうするのかと尋ねてきた織巻寿々に、多分フミさんに会いにいくと言うと、そう言われたものだ。でも、幼馴染の世長創司郎は、希佐が女だと知っているからこそ、二人の関係には気づいていたに違いない。週末の夕方になると、時々こっそりと姿を消す幼馴染のことをどのように思っていたのか、今はもう確かめることもできないが。
洗濯、脱水、乾燥まで終えた衣服を取り出し、それを専用の台の上に乗せて、今日は時間をかけて丁寧に畳んだ。早く帰ったところでそわそわと落ち着かないので、アランを苛立たせないためにも、可能なかぎり外に出ていた方がいいのだ。
打ち上げの日の夜、あんなことがあったのにも関わらず、次の日の二人は至って平然と日常を過ごした。まるで、何事もなかったかのように、意識することすらしていなかった。互いに、演じることには長けているからこそ、そういう振る舞いに努めていたと言った方が正しいのかもしれない。
踏み込みそうになった一線。希佐はそれでも構わないと思っていた。もしかしたら、それで心にぽっかりと空いた穴が埋まり、満たされるのではないかとすら考えていた。でも、翌日の朝に後悔と自己嫌悪の表情を向けられ、謝罪の言葉からはじまることだけは、嫌だと思ったのだ。
だが、あれ以来、アランは希佐の体に触れてこなくなった。甘い言葉を口にすることもなくなった。いつもの日常が帰ってきただけのことだと思いつつも、心に空いた穴は、少しずつ広がっているような気がする。
自分はこんなにもあの人のことを好きになっていたのだと自覚しても、あれを拒絶と取られてしまったのであれば、それはもう後の祭りだった。後悔と自己嫌悪に苛まれたのは希佐の方だ。あれだけの思いを伝えてくれた後だったというのに、あんな断り方をしてしまった。酷い仕打ちだ。
洗濯物を詰め込んだ麻のバッグを抱え、希佐はコインランドリーを出た。近くにあるカフェでコーヒーでも飲んで帰ろうかと店の前で足を止めてみるが、すぐに再び歩き出す。コーヒーを飲むお金があれば、古本を一冊買える。筆記具を買える。タップダンス用のシューズを修理に出さなければいけなかったことを思い出して、貯金の残高のことを考えた。
もしかしたら、このままビザの申請が拒否された方がいいのではないかと、希佐は思う。
送金、貯金、生活費、三分割にされる給料。でも、これは正しくはない。給料の三分の一で暮らしていけるほど、ロンドンでの暮らしは甘くない。たとえ家賃と光熱費が掛からずとも、生活は苦しい。貯金額はなかなか増えないし、いつまで経っても先行きは不安なままだ。加えて、自分が役者として本当にやっていけるのか、その保障はどこにもないのだ。それに、あの公演が終わって二ヶ月以上が経っている。もう存在も忘れ去られているかもしれない。
希佐は肩や頭に雪を積らせたままスタジオに帰ってきた。靴の底の汚れを外で落とし、スタジオに足を踏み入れる。とぼとぼと歩いていくと、事務室には希佐が出て行ったときと同じ格好のまま、アランがPCと向き合っていた。カタカタと小気味良いキーボードの音だけが聞こえていた。
外、雪が降ってきましたよ、と声をかけようとして、口ごもる。アランの返事はただ一言「そう」だけで終わるだろう。仕事の邪魔をするのも良くないと思い、希佐は何も言わずに、そのすぐ隣を通り過ぎた。階段を上り、ついでに洗ってきた共用のバスタオルをバスルームの前の棚に入れてから、部屋に戻った。
洗ってきた服をクローゼットに戻すことすら億劫だった。でも、後になってしわを伸ばす作業の方がずっと億劫だったので、希佐はすべての洋服をクローゼットにかける。まったく鳴らないスマートフォンをベッドの上に放り投げ、自分もその上に倒れ込んだ。
両方の膝を抱え、丸まるようにして横になる。自分の体を抱き締める。こんなにも心細い気持ちになるのはどれくらいぶりだろう。大声をあげて泣き叫びたいほどなのに、自尊心が邪魔をしてそれもできない。自分ではない他の誰かを演じれば泣けるのではないかと思ったが、それで気持ちが楽になるのなら、もうとっくに試している。
誰かに電話をしてみようか。でも、一体誰に……?
希佐がそう思ったとき、枕元に放られていたスマートフォンが、ブーブーと音をたてて震えた。何も考えずにスマホを手に取った希佐は、Hello、と沈んだ声で出る。
「はい。はい、そうです……はい、分かりました。はい……はい、そうですか。わざわざありがとうございます。いえ、大丈夫です」
失礼します、と言って、電話を切る。
希佐は手に持っていたスマートフォンを再び放り投げた。すると、それはベッドの上から滑り落ち、床に叩きつけられる。画面がバキバキに割れ、かろうじて電話がかけられるだけの機能しか有していなかった希佐のスマートフォンは、とうとう本格的に壊れてしまったようだった。
こんこんこん、と部屋のドアがノックされる音で、希佐は目を覚ました。どうやらあのまま眠ってしまっていたらしい。真っ暗な部屋の中、何かを踏んづけて転びそうになったのを何とか堪え、希佐はぼうっとした状態のままドアを開いた。
「その格好で寝てたの?」
ドアの前に立っていたアランは、コートを着たまま出てきた希佐をどこか奇妙そうに見た。
「あ、はい……」
「ロブがディナーに来ないかって言ってるんだけど」
「ディナー、ですか?」
「クリスマスイブだから」
ああ、そうか、と思いながら、希佐は首を横に振った。
「最近食欲なくて」
「そう」アランは少しも食い下がらない。「分かった」
「すみません、せっかく誘っていただいたのに」
「いいよ」
アランがそう言って背中を向けた途端、希佐は口から漏れそうになった嗚咽を慌てて手の平で抑えつけ、急いでドアを閉めた。咄嗟に鍵を閉め、崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。もう我慢の限界だった。両手で口に蓋をしても、鼻の奥から声が漏れて、静かにしていることができない。ぼろぼろ、ぼろぼろ、と涙が落ちていくのを、止められない。
「……キサ?」ドアの向こう側から、少しだけ戸惑うようなアランの声が聞こえてきた。「キサ、どうした」
お願いだから泣き止んでくれと自らに言い聞かせるが、自分の感情をコントロールできていれば、そもそもこんなことにはなっていないのだ。
「キサ、開けて」
希佐は見えない相手に首を振りながら、ドアノブを掴んだ。向こう側からガチャガチャと回されている音が聞こえる。思わずぞっとしたのは、つい数ヶ月前の記憶がフラッシュバックしたからだった。執拗に回されるドアノブを必死になって抑える。
「……めて」ドアをどんどんと叩かれる音に体が震えた。「やめて!」
自分でも驚くほどの大声を出すと、すべての音が一瞬にして止んだ。自分自身の声に驚き、希佐の涙も止まっている。そして、正気に戻ったときにはもう、何もかもがどうでも良くなりかけていた。
「もう大丈夫なので、放っておいてください」
どうして自分はこんなに怒っているのだろうと希佐は思った。
何かに怒っている。誰かに腹を立てている。人は悲しみを通り越すと怒りを覚えるものなのだろうか。それとも、自分は気でも触れてしまったのだろうか。頭の中に、怒っている自分と、それを冷静に見守っている自分がいるのだ。冷静な自分は、まるで他人事のように、ずっと後ろの方で、ことの成り行きを観察している。顛末を見届けようとしている。
「もういいんです」思ってもいない言葉が口から飛び出してくる。「もういいでしょう? もう、いいじゃないですか。終わりにしたって」
せっかく頑張ってきたのに、自分が一体何のために頑張ってきたのか、分からなくなってしまった。何のために、誰のために、ここにいたいと思ったのか。一ヶ月前までは確かにあったはずの原動力が、少しずつ失われていってしまったから。心が死んでいくから。こんなんじゃ、この国にいたって、何の意味もない。
「もう頑張れない。何でもないふりもできない。自分の気持ちを押し殺し続けられない」
「キサ──」
「黙って!」希佐はドアの向こう側にいる男を怒鳴りつけた。「あなたは何にも分かってない。私が、私が……」
私が、どれだけ、あなたを好きなのか──その、肝心の言葉が出てこない。
気持ちを素直に伝えられたらと思うのに、言えないのだ。左手首の鯉結びが希佐を黙らせるから。視界の端に褪せた深緋色が入るたびに、言葉が詰まった。自分はいけないことをしているのだと、間違った人を好きになり、愛そうとしているのだと、そう思ってしまう。これはまるで、呪いのようだ。
本当は名前を呼ばれたい。触れられたい。抱き締められたいのだ。でも、それを願うようになった途端、叶わなくなった。手を伸ばせなくなった。触れられなくなった。名前を呼べなくなった。
ただ、幸せになりたかった。一度でいいから、幸せになってみたかった。ここでなら幸せになれると思った。何も隠さなくていい、すべてを受け入れてくれる人の隣で、生きたいと思った。でも、本当は、自分は幸せになどなってはいけないのかもしれない。
だって、置いてきてしまった。大切だった人を。何も言わずに、ただ、自分勝手な理由で。
「キサ」黙り込んでしまった希佐の名を、酷く優しい声が呼ぶ。「ここを開けて」
本当なら優しくしてもらえる資格などないのだ。こんなふうに歪んだ愛情を抱え込んで、それを拗らせ、がんじがらめになってしまっている。過去を捨て去ることもできず、常に後ろ向きで、まともな未来を思い描くこともできない。
ここで、あなたの隣で、生きていきたいのに。
どれくらいの時間が過ぎたか分からない。希佐は扉の鍵を外した。押さえていたドアノブから手を離し、冷たい床に座り込んだまま、みっともないくらい塞ぎ込んでいる。
ドアは外側から開かれた。あまりの眩しさに手の平で光を遮ろうとすると、ずっとそこにいた人の影が、希佐と光の間に立った。
「……私、本当にあなたを好きなんですよ」希佐は吐露するように告白する。「これからもあなたと一緒にいたいと思ったから、頑張ってきたのに」
どうしてこう上手くいかないのだろう。人生はいつも思う通りにはいかない。努力をすれば、努力をしただけ報われると思っていた。でも、そうではないのだ。努力をしても、報われない人はいる。ユニヴェールにいた頃から、そういう人を大勢見てきたはずだ。それでも彼らは諦めなかった。あまりにも強い人たち。あの絶対に折れない心の強さは、一体どこからやってくるのか。
希佐は震える呼吸で息を吐き出すと、眩しくてよく見えない人の影を、まっすぐに見上げた。
「あなたを好き」息を飲む音が聞こえる。「大好きです」
報われるべきではない思いを抱えて生きていきたくはない。後ろめたいまま誰かを好きになりたくない。ただその人だけと向き合っていたい。素直に思いを伝えたいのだ。そうと感じたときに。あなたを、愛しているのだと。
希佐が息を吐き切り、目を伏せた瞬間、アランの腕が体に伸びてきた。抵抗せずにいると、そのまま体を抱き上げられ、ベッドまで連れていかれる。
最近買い換えた真新しいベッド。もうスプリングは軋まない。そのベッドの縁に下ろされると、アランは希佐の目の前に跪き、顔を覗き込んでくる。
「……アラン」
久しぶりにその名前を読んだような気がする。アランも、久しぶりに呼ばれたという自覚があるようだ。どこか苦しそうに眉を顰めると、躊躇いがちに手を伸ばしてきた。頬に触れる手を、黙って受け入れる。目を伏せ、大きな手の平に頬を擦り寄せると、手首の近くに唇を押し当てた。
「演じているように見えますか?」
「見えないよ」
「きちんと伝わっていますか?」
「ああ」
「あなたを好きです」
顔を伏せ、すう、と吸い込んだ息を、アランは大袈裟なくらいゆっくりと吐き出した。審判の瞬間を待つような気持ちで、アランの言葉を待つ。
「俺は、君に自分の気持ちを一方的に押し付けていると思ってた」でも、と言いながら、アランは顔を上げる。「違うんだな。俺もだけど、君も、言葉が足りなかった」
たまらなくなって両腕を広げると、微かに口角を上げたアランが、膝立ちになって希佐の体を抱き締めた。いつもより近い場所に顔がある。息遣いが大きく聞こえた。
「君の負担になりたくなかった。ただでさえ申請の件でまいっているように見えたし、その上俺のことで君を困らせたくなかった。だから、自分の気持ちに蓋をしていたんだ。それで君に余計な負担をかけていたんじゃ、本末転倒なのに」
「私、あの日、あなたを拒絶して……」
「拒絶なんかされてない。あれは俺のせい。君は何も悪くないし、正しかった」アランは希佐を抱きすくめたまま言った。「あのまま君を抱いていたら、後悔していたと思う。正直、今も迷ってる」
希佐からそっと身を引いたアランは、顔を隠していた前髪を掻き上げると、真摯な眼差しを向けてきた。そんな些細な動きの中にさえ、目を奪われ、言葉を失ってしまうほどの美しさがあった。
「君を大切にしたい。傷つけたくない。だから、君が決めて。君がどちらを選んでも、俺は何も変わらないから」
希佐は左手首に目を落とした。大事な、大事だった、鯉結び。ずっとお守りのように思っていた。それなのに、希佐の縋るような思いがあまりに強過ぎて、いつからか左腕を重たく感じるようになっていた。希佐自身が、自分に呪いをかけていたのだ。それを戒めのように思ってしまっていた。
でも、ずいぶん一緒に生きてきた。十分、一緒に生きてきた。もう、未来に目を向けても許されるはずだ。
「キサ……」
六年近くの時間、希佐と一緒に生きてきた鯉結びを外す。強い力で引っ張ってしまえば、すぐにも切れてしまうのではないかと思うほど、脆くなってしまっている。
それを手の平に乗せて見下ろしていると、アランはその鯉結びごと、希佐の手を包み込むようにして握り締めた。
「大切にした方がいい。それは君の大事な思い出で、間違いなく、君の一部になっているものだから」
「嫉妬、しないんですか?」
「どうして」
君は今、ここにいるのに──アランはそう言うと、希佐よりも低い場所から、押し上げるようなキスをした。着たままになっていたコートの内側に手を滑り込ませると、背中側から引き摺り下ろすようにして脱がせる。それを足元に落とし、跪いていた格好から腰を上げると、希佐の体をベッドに押し倒した。首筋に手を添え、ゆっくりと、沈ませるように。その間も、口付けが止むことはなかった。
しかし、与えられる欲を受け入れながら伏せていた目を開けると、自分を見下ろす緑の目と視線がぶつかり、希佐は少しだけ驚く。
「なに?」
「あの、すごい、見てるなと思って」
「見せてくれるんじゃないの」
「あんまりまじまじと見られると、恥ずかしいというか……」
「ふうん」
そう相槌を打ちながらも、アランは希佐から片時も目を逸らすつもりはないようだった。キスをしている間も、時折思い出したように瞬きをするだけで、希佐の目をじっと見つめ続けている。羞恥心を煽っているのだろうか。恥じらう様子を見て面白がっているのではないかと思いながら、希佐も意地になって、アランの目を見つめ返していた。
だが、アランの手が体の線をなぞるように這い、指先で服の上から脇腹を撫で上げたとき、希佐の鼻から微かな声が抜ける。急に恥ずかしくなって顔を背けようとすると、アランは反対の手を希佐の頬に添え、自分の方を向かせた。
「ちゃんと見てて」
「で、でも」
「俺も見たい」
さわさわと服の上から体が撫でられていく。それなのに、決して核心には触れてこない。アランが片膝をベッドに乗り上げ、そこに体重をかけると、希佐の体が僅かに傾いた。ずるりと滑りそうになった体の下に手の平を差し入れ、希佐の体をベッドの中央に押しやると、自分もその上に覆い被さるようにしてついてくる。
「アラン」
「ん?」
「靴、脱いで」
希佐が指を刺しながらそう言うと、アランは小さく舌を打った。その様子に希佐は笑うと、自分も体を起こして、履いていた靴に手を伸ばす。紐を指先で摘んで引っ張り、靴を脱ぐとベッドの下に放った。爪先に引っかかっていた靴下も脱ぐと、露わになった足をそろりと撫でた。お世辞にも綺麗とは言えない足だ。ユニヴェールにいた頃から、アルジャンヌとしてピンヒールを履いて踊ることもあったし、バレエシューズで足をいじめ抜いたこともあった。痣は染みのようになって残っているし、靴擦れやタコを作ることなど日常茶飯事だった。爪は綺麗に生え変わっているが、また変形することもあるのだろう。
「どうしたの」アランはそう声をかけてくるが、希佐の足に気づくと、ああ、と声を上げた。「ダンサーの足だ」
「なんだかそう言うと格好良く聞こえますね」
「格好良いよ、実際」
「えっ、ちょっ──」
アランは希佐の足の踵を掴むと、自分の方にぐいっと引き寄せた。そして、何を思ったのか、その指先に口付ける。あまりのことに唖然としていると、それだけでは飽き足らず、今度は親指をその口に含み、生ぬるい舌でねっとりと嬲った。漏れそうになる声を、下唇を噛んで堪えていると、アランは希佐の足を解放し、自らの口元を手の甲で拭う。
希佐が恨みがましそうな目を向ければ、アランはどこか悪戯っぽく笑った。
「待ってて」
アランはそう言うと、裸足のままベッドを下り、部屋を出ていく。戻ってきたとき、その手には水のペットボトルが二本握られていた。
「結構喉渇くから」
「……慣れているんですね」
「あのさ」アランは水を机の上に置きながら希佐を見る。「今から寝ようとしている相手の過去の経験を想像してどうするの」
「別に、想像したわけでは、ないですけど」
「慣れてない方がよかった?」
「よく分かりません」ただ、と希佐は続ける。「アランばかり余裕があるみたいに見えて、少し、癪というか」
「余裕」
アランは希佐の言葉を復唱する。それから、徐に自分が着ていたシャツのボタンをすべて外したかと思うと、ベッドの上に戻ってきた。
「ほら」
アランはそう言って希佐の手を取る。そして、その手を自分の心臓がある辺りに触れさせた。とくとくとく、と、以前聞いたときよりも明らかに速い心音が、希佐の手の平に伝わってきた。
「余裕なんてないよ。好きな女性を抱こうとしてるんだから」
アランは、骨と皮、生きていく上で必要な最低限の筋肉が、かろうじてそれを覆っているような体をしていた。筋肉量なら間違いなく希佐の方が多いだろう。アクセサリーの類は嫌いなのではないかと勝手に考えていたが、その首からは細いチェーンネックレスが掛けられていた。先端には女性物の指輪が通されている。
「……それ」
希佐が思わず指を差すと、アランは「ああ」と小さく声を漏らして、チェーンに指を引っ掛けた。
「俺、クリスマスの日に施設の前に捨てられてたらしいんだけど」
「……え?」
「毛布に包まれた状態で、段ボールに入れて施設の玄関の前に置いてあったって。そこに一緒に入ってた指輪。内側にラファエルって彫ってあるから、施設でそう名付けられた。母親の指輪だったのか、父親だった男に贈られたのか、はたまた盗品なのか、俺には分からないけど」
なんと言えばいいのか分からないまま黙していると、アランは失敗したというふうに頭を掻いた。
「こんなときにする話じゃなかった」
「いえ、それは、いいんです」
希佐が見てもいいですかと尋ねると、アランは小さく頷いた。
片膝を立てて座るアランと正面から向き合った希佐は、アランの首から下がっている指輪を指先ですくった。純金なのだろうか。アランの体温を含んだその指輪は、まるでそれ自体に血が通っているかのように、ほんのりとあたたかかった。指輪にはアランの目の色と同じ緑色の石、おそらく小さなエメラルドが埋め込まれている。少し読みにくくはなっているが、内側には確かに、ラファエルの名が彫られていた。
指先から指輪がこぼれ落ちる。それがアランの胸元に戻っていくと、それを追いかけるように、希佐はアランの肌の上から心臓にキスをした。その唇にアランの心臓の鼓動が大きく跳ねるのを感じ取った。
様子を探るように上目遣いを送ってみれば、アランは驚いたような顔をして希佐を見ていた。その表情はどこか幼くも感じられ、また新しい顔を知ってしまったと、希佐は密かに嬉しくなる。
はにかむようにして笑んだ希佐を目の当たりにしたアランは、その唇に触れるだけのキスをすると、希佐が着ているシャツに手を伸ばした。上から順番に一つずつボタンを外していくが、なぜかその途中で苦々しい表情になった。
「これ、ダイアナのところのシャツだろ」
「分かるんですか?」
「あいつのところのシャツ、やたらとボタンが多くて脱がせにくい」
「脱がせることを前提にデザインしているわけではないでしょうし……」
「君は俺ばかり余裕があるみたいで癪とか言ってたけど」アランは胸元の小さなボタンと格闘しながら、ちらりと希佐の顔を見た。「経験ないって言ってたのに、なんでそんなに落ち着いてるの」
「そこは、信じているので」
「え?」
「アランなら、絶対に私の嫌がることはしないって、信じていますから」
「……そういうこと平気で言うよね、君は」
手元に僅かな動揺が見て取れた。希佐は自分で外すと言ったが、アランは最後の一つまで、時間をかけて自分の手で外した。それから、はだけさせた希佐の胸元に顔を埋める。仕返しとばかりに希佐の左胸の膨らみに口付けると、そのまま軽く吸いついて、鮮やかな赤い印を刻みつけた。
「──冷蔵庫、空っぽですね」
風呂上がり、桜色の髪から水滴をしたたらせながら冷蔵庫を覗き込んでいた希佐が、戸の向こう側に立っているアランに向かって言った。アランは濡れた髪を頭に撫でつけて後頭部で結んでいる。スラックスにTシャツを着て、コンロの前に立っていた。
「明日はどこのマーケットもお休みですよ」
「一日くらいなんとかなる」
「クリスマスにレトルトと缶詰ですか」
「不満?」
「いいえ」
ぱたん、と冷蔵庫を閉める。ダイアナのシャツの上にぶかぶかなカーディガンを羽織った希佐は、真夜中にパンケーキを焼いてくれているアランの隣に並んで立った。アランはこまめに火の強さを調整しながら、パンケーキが焦げ付かないように気をつけている。
「こんな時間に食べたら太りませんか?」
「キサは少し太った方がいいと思うけど」
「アランだってもう少し鍛えた方がいいんじゃないですか?」
「大きなお世話」
焼き上がったクレープを三角形にたたんで粉砂糖を振りかける。半分に切ったレモンをその上から豪快に搾った。それをテーブルに運び、いつも通りアランと向かい合う席に腰を下ろした希佐は、ナイフとフォークでクレープを切り分けながら、思い出したように言った。
「そういえば、ビザの申請が承認されました」
希佐は切り分けたクレープを口に運び、それを咀嚼しながら顔を上げる。すると、アランは呆然とした顔で希佐を見ていた。緑の目がシャッターを切るように、ぱちん、ぱちん、と何度か瞬いた後、手元に視線を戻した。
「そう」
「はい」
「五年?」
「はい」
「よかった」
「はい、よかったです」
そのことについて二人が話すことはもうなかった。
クレープを食べ終えると、後片付けを買って出た希佐はキッチンに立ち、食器を洗う。その後ろでは、アランがノートPCを開いて仕事のメールを確認していた。メールの文面を読み、返事が必要なものにはそれを書いて、不要なものはダストボックスへ。原稿の催促をしてくるメールには舌打ちをして、文面を引用しただけのメールを送り返している。
きゅ、と蛇口を締め、タオルで手を拭いた希佐は、忙しそうにキーボードを叩いているアランを振り返った。
「後片付けが終わったので私は部屋に戻りますね」
「もう少しで終わるからちょっと待って」
「あ、はい。分かりました」
希佐はアランの隣の椅子を引くと、そこに腰を下ろす。部屋履きを脱いで両足を座面に上げ、膝を抱えるようにして座って待っていると、十分ほど経ってからノートPCを閉じたアランがこちらを向いた。
「手、出して」
「はい」
希佐は言われるがままに手を差し出した。どちらを出せばいいのかが分からなかったので、何も考えずに両手を差し出すと、アランは左手を取った。そして、テーブルの上に置いていた小さな指輪を取り、それを希佐の左手の小指に嵌める。
「あげる」
「えっ? でも、これって……」
希佐の小指に嵌められていたのは、先ほどまでアランの首に掛けられていた指輪そのものだった。サイズを調整してきたのではないかと思うほどぴったりと嵌っているそれを一瞥し、希佐は驚いた顔をしてアランを見た。
「これ、大切なものなんですよね?」
「君に持っていてほしいと思ったから」それに、とアランは言う。「クリスマスプレゼント。他にもいろいろ考えてはみたんだけど、何を買ってもこんな高そうなもの受け取れないとかなんとか言って、君がごねる姿しか目に浮かばなかったから」
「だからって、こんな」
「お守りだと思ってつけてて。これからは俺がいつも一緒ってわけにもいかなくなるし」
希佐はやっぱり受け取れないと思い、小指から指輪を外そうとした。しかし、それを阻むようにアランが希佐の左手を掴み、自らの方に引き寄せる。まるで西洋の騎士がそうするように、小指の指輪に口付けたアランは、伏せていた目を希佐に向けた。
「俺は惰性で身につけていただけだから」
「……そのチェーンも、一緒にもらっていいですか」
「これ?」
「普段はいいですけど、稽古のときとか、失くしてしまうのが怖いので……」
「ああ」アランは差し出されている希佐の手の平の上に、ゴールドのチェーンを置いた。「どうぞ」
「ありがとうございます。大切にします」
希佐はちょっと待っててくださいと言うと、チェーンを握り締めたまま自分の部屋に戻った。机の引き出しにチェーンをしまう代わりに、長方形の箱を取り出す。それを持ってキッチンに戻ると、アランの隣に立ってそれを差し出した。
「私からもクリスマスプレゼントです。明日の朝になったら渡そうと思っていたんですけど」
「わざわざ用意してくれなくてもよかったのに」
「開けてみてください」
希佐にそう言われたアランは、プレゼントの包装紙をビリビリと破ると、中から木の箱を取り出した。ぴたりと閉まっている蓋を外すと、中には濃い緑色の万年筆が一本と、翠色の小さなインク瓶が入っている。
「アランが鉛筆を好きで使っているのは知っているんですけど、出先ではこういうものを使った方がいいのではないかと思って。外だと鉛筆を削るのも大変ですから」
「でも、これ──」
「せっかくの贈り物なので、こだわりの逸品を選びました。だから、値段のことは言わないでください。アランが持ったら格好良いだろうなと思ったんです」
実際には清水の舞台から飛び降りるような思いで買ったとは絶対に言うまい。だが、一目惚れしてしまったのだから仕方がない。
アランは万年筆を手に取って眺めている。その横顔がどことなく嬉しそうに微笑んでいるように見えて、希佐は内心で安堵の息を吐いていた。趣味じゃないと切り捨てられるのではないかと恐れていたからだ。
「ありがとう、大切にする」
希佐と同じようにそう言ったアランは、手にしていた万年筆を、どこか大切そうに木箱の中に戻した。
そろそろ眠気も限界に近づいてきた希佐は、今度こそ挨拶をして自分の部屋に戻ろうとする。しかし、それをもう一度呼び止められ、ため息混じりに振り返ると、何か物言いたげにしているアランの姿が目に入った。
「……君、本当に変わってる」
「何の話ですか?」
「何でもない」
あ、もしかして、と思ったのは、自分も心のどこかでそれを望んでいたからなのかもしれない。名残惜しいと感じてはいたが、この後も仕事をするのであれば、邪魔をしてはいけないと希佐は思ったのだ。
希佐は左手でアランの手を取ると、引っ張るようにして歩き出した。
「クリスマスなんですからお仕事はお休みして、今日はもう寝ましょう。私のベッド、やっぱり二人で寝るには狭すぎるので、今夜はアランの部屋にお泊まりします」
アランは何も言わず、希佐の後ろをついてくる。途中電気を消すと、今度はアランが希佐を引っ張って歩いた。暗闇でほとんど何も見えていない希佐に対し、アランは夜目が効くらしく、真っ直ぐに自分の部屋へと辿り着いていた。
ぱち、と間接照明が灯されると、部屋の中が薄ぼんやりと明るくなる。淡い橙色の球体の灯りが、ベッドサイドで光っていた。希佐はアランに促されて先にベッドに上がると、ウォーターベッド独特の揺らぎを感じて、少しだけ笑った。
アランは結えていた髪を解きながらベッドに入ってきた。足元から羽毛の布団を引き上げると、横になった希佐の体ごと、自分の体もすっぽりと覆い隠す。仰向けで横になっているアランに対し、横を向いて眠ることに慣れている希佐は、その横顔を眺める形になった。
「劇団のみなさんにも早く伝えないといけませんね、ビザの申請が承認されたこと」
「ああ」
「怒ってますか」
「なにを」
「すぐに教えなかったこと」
「俺が言葉を一つでも間違えてたら君は承認を蹴って消えてただろうな、とは思ってる」アランは天井を見上げたまま続けた。「君は孤独には慣れてるって顔をしているくせに、寂しさにはとことん弱い。それに押しつぶされそうになると、耐えられなくなって、今にも消えていなくなりそうになる」
「……そう、なんでしょうか」
「君は一人じゃないし、寂しくなったときは、素直に仲間を頼ればいい。俺でもいいけど。すぐに駆けつけるから」
「あのときみたいに?」
「あのときは正直血の気が引いた」
「頼もしかったですよ、すごく」
「柄じゃないんだ、ああいうの」
「そうですね」くすりと笑いながら、希佐はアランの肩に額を預けた。はばかりもせずに欠伸を漏らすと、目を閉じる。「でも、私はあなたが隣にいてくれるととても安心するんだって、あのときに分かったんです」
恋心が芽生えた瞬間というものを、初めて自覚した。ただなんとなく、いつの間にか好きになっていたというよりも、明確な何かがあった。きっと、この人を好きになってはいけないと思った瞬間にはもう、好きになってしまっていたのだ。抗えば抗うほど感情は大きく膨れ上がる。自分ではもうどうしようもないくらいに。
今度こそ、ここで生きていく覚悟を決めよう。自分は生きていると感じられるこの場所で、生きていきたい。ここでもう一度やり直したいのだ。人生というものを。人はいつだってやり直すことができるのだと、ここで証明したい。
「おやすみ、キサ」
遠退く意識の向こう側から、そう言う声が聞こえてきた。額に触れるやわらかさを感じたあと、体が抱き寄せられる。あたたかいものに包み込まれている。これが、幸せというものなのだろうか。分からない。ただ、この人と一緒なら、どこまででも羽ばたいていけるような、そんな気がするのだ。