ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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見 つ け た

 最後のユニヴェール公演を終えた翌日、立花希佐が飛行機に乗って日本を逃げ出してきた日から、もうすぐ五年が過ぎようとしていた。イギリスで暮らすようになって早四年、今ではこちらの生活様式にも慣れ、何不自由ない日々を送っている。

 役者としての仕事は、今のところ軌道に乗っていると言っても許される程度には、切れ目なく依頼をいただいていた。基本的には劇団カオスの一劇団員として活動しているが、カオスがこの二年間で行った公演は三度だけ。どの公演も評判が良く、何度も再上演を切望されたが、当然アランは首を縦には振らなかった。

 希佐はアラン・ジンデルが自営している事務所に所属する形で、様々な仕事を請け負っている。ただし、立花希佐という女としてではなく、性別不詳のKISAとしてだ。

「君の場合、舞台の仕事を引き受けるなら性別にとらわれる必要がない。男役と女役、どちらも演じられるのは強みになる。キサ自身が中性的な見た目をしているし、見る人によって見え方が違うなら、あえて性別は公表しなくてもいいんじゃないかと思う。その方が面白みもあるし」

 アランはそう言っていたが、実際のところは希佐を女性だと公表しないことで、僅かでも日本の関係者らに立花希佐が女だとバレにくくなるよう配慮してのことなのだろう。写真や映像を撮影する場合は、顔を正面から写さないという条件のもとで引き受け、舞台などのパンフレットには役名と演者の名前のみを記し、プロフィールは空白という徹底ぶりだ。

 その謎のベールに包まれている感じが舞台関係者たちの間では受けているらしく、それを面白がって仕事をくれる人もいた。

 近々で受けた一番大きな仕事は日本映画の吹き替えだろうか。日本語に英語の吹き替えを入れるという作業は、希佐を何とも不思議な気持ちにさせた。だが、日本語と英語のニュアンスの違いを勉強する良い機会にもなっていた。

 他には、ダイアナの洋服のブランドの特集が組まれた有名なファッション誌で、KISAの写真が何枚か掲載された。ダイアナから「絶対に顔は写させないから!」と拝み倒されて撮影に参加したが、周りにいるのはもちろんスーパーモデルばかりなので、あまりの場違いさに、終始逃げ出したい己の気持ちと戦い続けていた。

 雑誌の見本が出版元から事務所宛に送られてきていたが、希佐は気恥ずかしさのあまり確認すらしていない。アランも特別興味はないようで、そのファッション誌は事務室の本の山のどこかに埋もれている。

 希佐にとって最も興味深かったのは、舞台に立ち、同じ演目を繰り返し上演するということだった。ユニヴェールにいた頃から、劇団カオスでも、一つの演目につき一度ずつしか上演したことのなかった希佐にしてみれば、同じ舞台を連日上演するという経験は、非常に奇妙な感じがした。

 アランがよく舞台は生き物だと言っているが、確かにその通りだったと希佐は思う。同じ舞台で同じ役者が演じているのに、毎日少しずつ雰囲気が違うのだ。昨日の客が笑ったシーンでも、今日の客は笑わないことがある。ベテランの役者が時々とんでもないアドリブを挟み込んでくることもあったが、希佐はそれに応えるのがとても好きだった。

 その日の舞台が終わってから聞いた話だが、舞台上から何度も同じ公演を観に来てくれる客の姿を見つけると、その人のために何かびっくりするようなことをしてあげたいと思うのだ、と言うのだ。舞台に以前とは違うちょっとした変化が生まれると、その客の顔がパッと輝き、酷く嬉しそうにするのだという。

 その話を聞いた翌日、前日も最前列の同じ席に座っていた女の子を見つけた希佐は、その子のためにアドリブを一つ披露した。するとどうだろう、ベテランの俳優が言っていた通り、客の感情が一瞬にして高揚し、その顔がパッと光り輝くのが分かった。

 自分の演技が誰かの喜びに変換される。それを目と鼻の先で経験できたことは、希佐自身の財産にもなった。

 舞台経験を積めば積むほど、舞台を好きになる。舞台を愛おしく感じる。

 そして、ちょうど今日も、希佐は一つの舞台の千秋楽を終えて帰ってきたところだった。最後のカーテンコール、思わず込み上げてくるものを抑えきれなくて、少しだけ泣いてしまった。ヘスティアで行われた打ち上げで散々からかわれてしまったが、また一緒に舞台を作りたいと言われ、また少し泣きそうになる。

 この一ヶ月、稽古期間も合わせれば三ヶ月は、本当に楽しい日々だった。カオス以外の舞台も経験しておいた方がいいとの勧めをアランから受け、時間と体が空いているときは積極的に仕事を受けるようにしているが、本当に素晴らしく、貴重な体験をさせてもらっていると、希佐は様々な方面に向けて感謝の気持ちでいっぱいだった。

 タクシーを降りる。スタジオの扉を押し開けて入り、後ろ手に鍵を閉めた。踵の高い靴を履いているので、暗いスタジオに、かつ、こつ、という硬い靴音が響く。事務室から漏れている明かりを見て、希佐は思わず笑みをこぼした。時刻は午後十一時を過ぎている。

 希佐が事務室に足を踏み入れても、アランはPCの画面に目を向けたまま、カタカタとキーボードを打ち続けていた。ふらふらとした足取りで床から積み上がっている紙の束や本の塔の間を縫うように進み、その後ろ姿に迫る。

「ただいま、アラン」

 希佐は背中から腕を回し、その体を後ろから抱き締めた。自分と同じシャンプーの匂いがする髪に顔を埋め、額をぐりぐりと押しつける。

「酔っ払い」

 アランは挨拶代わりにそう言うが、その手はキーボードを打ち続けたままだ。けれど、ちょうど区切りのいいところまで打ち込み終わると、その手を止める。

「舞台、どうだった?」

「楽しかった」希佐が言いながら離れると、アランは椅子を回転させ、こちらに向き直った。「とても素晴らしい最終日だった」

「それで飲みすぎた?」

「ギネス三杯しか飲んでないのに」

「好きだね、ギネス」

「他を知らないだけ」

「メレディスに教えてもらえば?」

「彼、今日はいつもよりふらふらしているから、早く帰りなさいって。打ち上げの途中だったのに。タクシー代まで出してくれた」

「相変わらずキサには甘いな」

「アランも私のこと甘やかしてくれていいんですよ」

「……待って、本当に酔ってるの」

 いつもより気持ちがふわふわと浮ついているのは確かだった。

 アランは機嫌が良さそうににこにこしている希佐を見上げると、はあ、と息を吐いてから両腕を広げる。

「ほら」

 そう言って希佐の腕を引くと、自分の足の上でその体を横抱きにした。アランは自分の首筋にぴたりと顔を寄せた希佐の小さな頭に、押し付けるようなキスをする。

 公演のための稽古を二ヶ月、本来公演は二週間の予定だったが、好評につき更に二週間引き伸ばされ、一ヶ月間の上演となった。その間ほとんど休みはなく、アランとこうした時間を過ごすことが皆無だったのだ。

「疲れてるね」

「……うん」

「明日は──いや、ゆっくり休んで」

 目を閉じてアランの体に身を委ねていた希佐は、何かを言いかけた気配を感じて頭をもたげる。

「何かあるの?」

「朝からミゲルと出掛ける約束をしてる」

「珍しい」

「劇場の下見に行くんだけど、そこにパイプオルガンがあるんだ。ミゲルが前から一度弾いてみたいって言ってたから、問い合わせてみたら弾いてもいいってことだったし、連れて行ってやろうかと思って」

「私も一緒に行っていい?」

「いいけど」アランは希佐の顔を見下ろし、僅かに眉を顰める。「大丈夫なの?」

「うん。明日からしばらくの間は仕事を入れるつもりないし、それに、私もパイプオルガンを見てみたいから」

「朝早いよ、七時に起きる」

「私は今日まで六時に起きてた。アランこそ起きられるの?」

「善処するとは言ってある」

 自信のなさが出ているその物言いに笑った希佐は、アランの胸を押し返すと、その場に立ち上がった。途端によろめいたその体を、アランが腕を伸ばして支える。

「ありがとう」

「これからシャワーを浴びるんだろうけど──」

「大丈夫、十分に気をつけます」

 希佐はそう言って歩き出すが、事務室を出る寸前に足を止めると、肩越しに振り返った。

「今日はアランのところで寝てもいい?」

「いいけど、俺は何時になるか分からないよ」

「うん、平気」

「じゃあ、ご自由に」

 既にPCのディスプレイに目を向けているアランの横顔に微笑みかけてから、希佐は階段を上がって二階に向かった。電気を点け、自分の部屋に入って着ていた服をのろのろと脱ぐと、下着姿のまま着替えを抱えてバスルームに足を向ける。

 頭は半分寝かかっていたが、少し熱めのシャワーを浴びると目が覚めるのを感じた。次の眠気が襲ってくるより先に全身をくまなく洗い、十五分ほどでバスルームを出る。洗面台の前に立って手早く肌の手入れを済ませながら、希佐は自分の長く伸びた髪に目を留めた。イギリスに来てからは一度も髪を切っていない。ダイアナに頼んで、希佐の地毛に近い髪質のウィッグを作ってもらっていたので、仕事によってショートとロングで使い分けている。今や全身が商売道具になっていることを自覚している希佐は、どれだけ疲れて帰ってきたとしても、肌と髪の手入れだけは絶対に怠らなかった。

 髪にオイルを浸透させ、ドライヤーで乾かしてから、ようやくベッドに向かう。キッチンの電気を消し、アランの部屋のドアを開けると、それを閉めることすら億劫で、そのままベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋め、好きな匂いを胸いっぱいに吸い込む。足の指で器用につまんだ毛布を引き上げ、その中で丸くなった。

 睡魔は怒涛のように襲い来る。それに抗うことなどできるはずもなかった。

 

 

 ちょうど切りの良いところまで書き上げた。残りはあと三分の一といったところだろうか。

 自分のこれまでの人生において、これが最も重要とさえ思える舞台の脚本を手掛けていたアランは、PCをシャットダウンさせると、椅子の背もたれを軋ませながら仰け反り、天井を仰いだ。奥の方が鈍く痛む目を瞑り、大きく息を吐き出す。

 まるで命が削られ、心臓が抉られるかのような苦痛を感じながら、一文字ずつ刻み込んでいく。怨念と復讐。好きに書いていいと言われたのだ。文句を言わせるつもりはない。修正にも一切応じない。これがアラン・ジンデルの答えだからだ。

 アランは姿勢を戻すと、スマートフォンの画面を点灯させて時刻を確認した。深夜二時。頭は冴えているが、今夜はもう、これ以上先を書く気にはなれない。

 珍しく酔って帰ってきた希佐はもう眠ってしまっているだろう。あのメレディスが打ち上げの最中にタクシー代を持たせてまで帰すくらいだ、相当疲れているのが分かったに違いない。そうでなければ、ギネス三杯程度でふらふらになるわけがなかった。

 この二年で、立花希佐はKISAとして知名度を上げている。精力的に演劇活動に励み、何度かは商業演劇の舞台に立つ機会もあった。例のマクファーソン兄弟の舞台だ。だが、文句は言うまい。希佐がビザを取得するにあたって、少なからず手を貸してくれた者たちだ。借りはきっちり返す必要がある。

 その舞台を見てKISAに興味を持った者も多くいたようだが、希佐自身が、大きな舞台に立つよりも、小劇場に立つ方が自分の身の丈には合っていると言っている。今のところは商業演劇の舞台に積極的に立つつもりはないようだった。

 最初の頃はアランが間に入って仕事の内容を決めていたが、一年目を過ぎた頃から、希佐はほとんどのことを自分の力だけで進められるようになった。最近は他の劇団にゲストとして参加する機会が増えている。舞台で演じることが楽しくてたまらないという様子で、連日の稽古に励み、本番に挑んでいた。

 だが、どこかでストップをかけてやらなければとは思っていたのだ。舞台に没頭するあまり、私生活が疎かになっていると感じていたからだ。出会った頃からそうした傾向はあったものの、そういうときはアランが様子を見ながら横から口を挟めば、それはそれで済む話だった。

 でも、今はそうもいかない。希佐は独り立ちして久しく、その仕事のやりように口出しをするわけにもいかなくなったからだ。この頃は立て続けに舞台の仕事を受けていたので、まるで命を燃やすように演じるタイプの希佐にとっては、酷な状況が続いていると感じていた。

 しかし、今回は自分が止めるまでもなかったようだとアランは思う。自分の肉体と精神の限界を察知したのかもしれない。明日からしばらくの間は仕事を入れるつもりはない──希佐の口からその言葉が紡がれたのを聞いて、アランは密かに安堵していた。

 アランは椅子から立ち上がり、スタジオの戸締まりを確認してから二階に上がった。軽くシャワーを浴びに向かうと、バスルームにはまだシャンプーの香りが残っていた。

 自分のシャンプーを買い忘れたから、あなたのを使わせてほしいと頼んできて以来、希佐はずっとそのシャンプーを使い続けている。長く伸びたロゼ色の髪から不意に香る自分と同じ匂いに、時々気が狂うような感情に襲われると言ったら、希佐はどんな顔をするのだろうとアランは思った。少女のような無邪気さの中に見え隠れする艶っぽい影を、本人は自覚しているのだろうか。

 出会った頃は、少年とも少女ともつかない、ただただ中性的な、自身の性別に奇跡的なほど無自覚な存在だった。それ自体はユニヴェールという特殊な環境下で身につけた処世術だったのだろうが、その環境から遠く離れてもそれは変わらず、むしろ変えることができずに、本人の中には強い戸惑いがあったように感じられたのだ。

 男でいることを選ぶのであれば、それでよかった。それが立花希佐であると言い切れるのであれば、それは尊重されて然るべきことだ。だが、あの時、アランを好きだと言ったあの瞬間、希佐は間違いなく女だった。

 だから、少なくとも自分の前でだけはただの女でいられるように、アランは希佐に繊細なガラス細工を扱うように触れた。雨風にさらされる野ばらに傘を差し向けるように寄り添った。木々の葉の隙間から差し込む木漏れ日のように穏やかに見守った。自分の中にある慈しみの限りを尽くして希佐の隣に立った。

 当初は微かに強張っていた希佐の体が柔らかくなりはじめたのは、いつ頃のことだったろう。こちらに向けられる微笑みに確かな信頼と愛情を感じるようになったのは、いつのことだったか。

 気がつけば、希佐はアランがそうしていたように、繊細なガラス細工を扱うように触れてくるようになった。傘を差し向けるように寄り添い、木漏れ日のように穏やかに見守り、慈しみの限りを尽くして隣に立ってくれるようになった。まるで自分を映した鏡のように。

 自分が酷く愛されているのだと自覚すると同時に、自分も、この女性を酷く愛していたのだと、アランは知った。

 アランはキッチンに立ってコップ一杯の水を飲んでから自分の部屋に向かった。部屋のドアは大きく開け放たれたままになっている。部屋に足を踏み入れ、ドアを閉めながらベッドを見やると、希佐はうつ伏せの格好で眠っていた。どうやら今日は悪い夢など見ずに眠っているようだ。アランは人知れずホッとしながら、ベッドの端に腰を下ろす。枕元に広がっているロゼ色の髪を一房すくい取り、花の香りを楽しむように鼻を寄せてから、そっと口付けた。

「……アラン?」

 そのままただ寝顔を眺めていただけだというのに、希佐は目を覚ますと、一番にその名前を口にした。

 希佐にはアランの顔がよく見えていないのか、目を細めてこちらを見ている。アランは手を伸ばしてその頬に触れると、身を乗り出して瞼に口付けを落とした。

「悪い、起こして」

 希佐は首を横に振ると、アランの手の甲に自らの手を重ねた。そして、そのままアランの手の平にキスをする。その唇が肌の上を滑るように這い、手の平から手首に向かって移動していく様を敏感に感じ取りながら、アランはため息を吐いた。

「今日はダメだ」アランがそう言うと、希佐は緑の目をじっと見つめた。「そんな目で見ても、ダメなものはダメで──」

「アラン」

 この女は知っている。その上でやっているのだ。演じているときの方がまだよかった。露骨に誘われていると感じられれば、いくらでも気の逸らしようがある。だが、これはそうではない。ただ純粋に求められているのが分かるからこそ、目を逸らせなかった。自分の名前を呼ぶその声が、耳の奥に残る。

「アラン」

 手首にキスをしたその唇が、今度は同じ場所に噛み付くようにして軽く歯を立てた。唾液を含ませた舌の表面で、アランの手首の内側をゆっくりと舐める。途端、ぞくりとしたものを背筋に感じ、腕を鳥肌が駆け上がった。薄く開いた唇の隙間から漏れた吐息を聞き逃さなかった希佐は、アランを見つめる目をすうっと細める。

 誘い、惑わすように。

 一体どこでそんなことを覚えてきたのだと思うものの、その答えは明らかだった。

「……俺の真似をするな」

「他を知らないだけ」

 つい先程も聞いたその言葉は、少女のような愛らしさを消し去り、妖艶さを帯びて響く。

 アランは一瞬だけ目を伏せ、再び希佐の目を見やった。自分もしつこい性分だが、希佐も同じだけしつこいということを、アランはよく知っている。今日はアルコールが入っているから尚更だ。何とか宥めすかして眠らせるしかないと思いながら、ベッドに身を乗り上げた。

「明日にする気は──ないか」

 アランが自らの体の上に跨り、髪を掻き上げている仕草を見て、希佐は微かに恥じらうような表情を浮かべた。こうすると希佐が喜ぶのを知っている。

 両方の手首を掴み、シーツに縫いつけるように押さえつけた。ゆっくりと顔を寄せていき、ねっとりと唇を食みながら、手首の内側から手の平にかけてを、触れるか触れないかの加減で指先を使って撫でる。

 鼻の奥から漏れるような甘い声を聞いて、意識が遠く持っていかれそうになるのを、どうにか抑えつけた。頼むから酔いに任せて寝落ちてくれと願うが、希佐は自らの膝を悩ましげに合わせ、潤んだ目でアランを見上げていた。

「俺は君のためを思って言ってるんだけど」

 この三ヶ月間、希佐の体にはまったくと言っていいほど触れていなかった。舞台に集中したがっている希佐の邪魔をしたくはなかったし、連日の稽古、疲弊する本番を終えて帰ってくる者の体を、欲望のまま抱けるはずもない。大切に思っているからこそ、見守っていたのだ。舞台の最終日を終え、最も疲れ果てている状況下で打ち上げから帰ってきた相手を、今日くらいはゆっくり休ませてやろうというアランの心情を、希佐が理解できないはずがない。

「歯止め、効かなくなる」口付けの合間に低く言う。「俺のこと試してるの?」

 こっちは必死で我慢して取り繕っているのにと思いながら、アランは希佐に深いキスをした。受け入れるように開かれた唇を分け入って舌を入れ、生ぬるい口内を堪能した後、上顎の敏感なところを執拗に刺激する。

 すると、希佐はアランの手を強く握り、悶えるように身震いをした。くぐもるような喘ぎを飲み込む。希佐の舌を追いかけ、絡め取り、時間をかけて吸い上げた。

「……まだする?」アランは感情を抑え込んだ声で問いかけた。「どうするの」

 アランは希佐を解放するように指を絡めていた手を離してやった。希佐は呼吸を乱しながらアランを見上げていたが、そのまま潤んだ目を閉じると、代わりに口を開く。

「……怒った?」

「なんで」

「声が不機嫌そうだから」

「……求められて悪い気はしないけど」アランは自分の感情を刺激しないように、言葉を選びながら静かに答えた。「君の体の心配をしているんだ。明日でも、明後日でも、君のためならいくらでも時間を作る。抱いてほしければいくらでも抱く。でも、今日は休んでほしい」

「……分かった」

 希佐はそう言うと、体を横に向けて、毛布に顔を埋めた。そして小さく、ごめんなさい、と囁く。

 希佐の体の上から身を引いたアランは、自分の気を逸らすために一度ベッドを降りると、小さな冷蔵庫の中から取り出した水を、ほとんど一本一気に飲み干した。この時期のプールにでも飛び込めば、この荒ぶりかけた気持ちも一瞬にして鎮まるのだろうが、頭の中の雑念はそう簡単には消し去れない。

 だが、アランには、希佐を置いてこの場を離れるという選択肢を、どうしても選ぶことができなかった。

「キサ」毛布の中に潜り込んでしまった姿を見て、アランは少し笑う。「なに、今頃恥ずかしくなってきたの」

 希佐は何事かを日本語で言い返してきた。何と言ったのかはまったく分からない。ただ、その声に滲む羞恥心のような感情だけは、読み取ることができた。

 普段、こうして希佐から仕掛けてくることはほとんどない。小さなサインを送ってくることはあっても、ここまで大胆だったことは、一度としてなかったかもしれない。これは酔いと疲れのせいだと言ってやっても、希佐は納得しないだろう。こんなときじゃなかったら喜んで相手をしただろうと思う。愛する人にここまで求められて、嬉しくないわけがない。

「キサ、言いたいことがあるなら俺に分かる言葉で言って」

 気持ちの整理がつき、昂ったものが落ち着いたことを自覚してから、アランは希佐にそう声をかけた。ベッドの上で胡座をかき、毛布の中に潜り込んでいる希佐を眺める。まるでウワバミに飲み込まれた象みたいだと思いながら待っていると、山になった毛布がもぞりと動いた。毛布の下から希佐の後頭部がひょっこり覗く。

「……あなたに触れたくて」希佐が消え入りそうな声で言った。「触れてもらいたくて」

「うん」

「自分を大切にしろって、あなたに教えられたのに」希佐は小さく息を吐く。「気持ちばかり先走って、私の方が歯止めが効かなくなってた」

 そしてもう一度、ごめんなさい、と漏らす。

「キサ」

「……なに?」

「こっち見て」

 躊躇うような息遣い。それでも希佐は寝返りを打つと、言われるがままにアランを見上げた。己の醜態を恥じるような面持ちを浮かべ、居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。さながら悪戯を罰せられる少年のようだとアランは思った。先程の妖艶さはすっかり影を潜めてしまった。

「謝るようなことじゃない」アランは手を伸ばし、希佐の顔に掛かる髪を避けてやる。「嬉しかった」

「え?」

「君から求めてくることなんて滅多にないから」

「それは……」

「責めてない」アランは希佐の思考を先回りして言う。「君はいつだって俺に応えてくれるから、本当は俺も君に応えたかったけど」

 据え膳食わぬは男の恥、という言葉が日本にはあるらしい。どこの国も似たようなことを考えるものだ。こちらには、かまどの方にパン生地がやってきたら、パン生地をかまどに入れてやれ、などという言葉がある。

 だが、昔の人間の言葉鵜呑みにして、それに従うほど、アランは馬鹿正直ではない。恥だろうがなんだろうが、一向に構わない。

「それ以上に君が大切なんだ」

「アラン……」

 本当は今すぐに君を抱き潰したいと言ったら、驚く顔が見られるだろう。だが、ここまで格好つけたことが台無しになるので、そうは言わない。

「ほら、もう寝て」

 アランはそう言って希佐の体に毛布をかけ直してやってから、ベッドを出て行こうとした。今夜は別々に寝た方が良さそうだと思ったからだ。しかし、希佐は背を向けようとしたアランの腕を掴み、口を開く。

「どこ、行くの」

「今日は下のソファで寝る」

「お願い」希佐は囁くように言った。「何もしなくていいから、ここにいて」

「……分かった」

 アランは観念したようにそう言うと、希佐に掛けた毛布の端を掴み、その中に潜り込んだ。その様子を見届けた希佐は、少し安心したような顔をして目を細めると、アランに背を向ける。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 アランは希佐が眠りにつくのをただじっと待った。そして、間違いなく眠ったと確信すると、その体に手を伸ばす。このくらいのことは許されるだろうと思い、背後から希佐の体を抱き寄せ、襟足に顔を埋めた。ロゼ色の髪を掻き分け、絶対に誰からも見えない場所に、自分だけが知る印を残した。

 

 

 連日の癖のようなもので、希佐は翌朝も朝六時に目を覚ました。身動きが取れない体に違和感を覚えながらぼうっとしていると、徐々に昨夜の記憶が蘇ってくる。疲れた体にアルコールは禁物だと己の行動を反省しながら、自分の体を背後からしっかりと抱き締めている腕を見下ろし、小さく笑みを漏らした。

 少しだけ身動ぎをして体の向きを変え、隣に目をやると、アランの寝顔が目と鼻の先に見えた。カーテンの隙間から差し込んでいる光がアランの赤毛に反射し、キラキラと輝いている。朝の光はアランの赤毛を少しの間だけ濃い金色に染めた。

 希佐はそれからもうとうととしながらアランの寝顔を眺めていたが、午前七時が近づいてくると、自分の体に回されている腕を揺り動かす。

「アラン、もうすぐ七時になるよ」しかし、アランはぴくりとも動かない。「ほら、早く起きないと」

 もう少しだけ強く腕を揺さぶってみると、アランは希佐の腕を煩わしそうに振り払った。それに驚いて目を丸くしていると、アランは小さく唸り声を上げながら、希佐の体を更に強く抱き寄せ、首元に顔を埋めてくる。目を覚ましていたら絶対に見られない光景だ。可能ならあと十分は堪能していたい気分だったが、そう悠長にもしていられない。

 希佐はアランの体を押し退けて腕の中から何とか抜け出すと、アランの肩を掴んでぐらぐらと揺らした。

「アラン、ミゲルとの約束があるんでしょう?」

「……いま、なんじ?」

「六時五十分」

「まだあと十分……」

 うっすらと目を開き、確かに希佐を見上げた緑の目が、すうっと降りてきた瞼によって閉ざされる。希佐は再び寝入ってしまったアランを見て仕方ないとばかりにため息を吐き、裸足のままベッドを降りた。次にアランを起こしに行く十分の間にシャワーを浴びようと、髪を結い上げながらバスルームの鏡の前を通りかかった希佐は、妙な感覚を覚えて一歩後ずさる。

「あっ……」

 うなじの辺りにいくつかの鬱血が見て取れた。キスマークが散っている。自分が眠っている間につけたに違いない。昨夜は格好良いことばかり言っていたくせに、人が寝ている間にこんなことをするなんてと思いはするものの、希佐の口元には笑みがこぼれていた。

 シャワーを浴び、着替えを済ませると、時刻は七時を五分過ぎている。

「七時になったよ、アラン」部屋のドアの前に立ち、ベッドで横になっている大男に声をかける。「朝食は?」

「いらない……」

 とりあえず起きてはいるようだ。希佐はキッチンに立って湯を沸かし、冷蔵庫からヨーグルトのパックを取り出した。その中にベリー系のフルーツを放り込み、蜂蜜を少しだけ垂らすと、湯が沸くのを待ちながら口に運ぶ。

 希佐がヨーグルトを食べ終え、使った食器を片付けながら紅茶の用意をしていると、ようやくアランがキッチンに姿を現した。大きく欠伸を漏らしながら、何も言わずにバスルームに消えていく。

 アランがいつも朝食代わりに飲んでいるミルクティーをテーブルの上に置き、希佐は自分の部屋に戻った。軽く化粧を施し、クローゼットの中からコートを引っ張り出す。黒いニットのワンピースの上に、生地をたっぷりと使ったベージュのロングコートを羽織った。足元にはヒールのある黒いショートブーツを選ぶ。差し色の赤いハンドバッグには、必要最低限の荷物と口紅だけを入れた。

 鏡の前で結い上げていた髪を解いて整え、くるりと一回転して、おかしなところがないかを確認する。左手の小指に指輪があることを確かめてから、希佐は部屋を出ていった。

「めかし込んで誰かとデート?」

 部屋から出てきた希佐を見るなり、キッチンの椅子に座って希佐が入れたミルクティーを飲んでいたアランは、未だぼうっとした様子のままそう言った。

「年下の男の子と劇場までパイプオルガンを見に行くの」

「へえ」アランは壁に掛かっている時計に目をやると、椅子から立ち上がった。「君もすっかりロンドナーだな」

「アイリーンが、どこで仕事の関係者に見られているか分からないから、いつもきちんとした格好をしていなさいって」

「そう」

「変?」

 アランはキッチンで口をゆすいでから希佐を振り返り、こちらに向かって歩いてくる。それから、希佐の格好をまじまじと見やった後、徐に頬にキスをした。

「……それはどういう意味?」

「俺も着替えてくるから下で待ってて。そろそろミゲルが来る」

 アランは希佐の質問には答えず、そのまま自分の部屋に入っていった。キスをされた頬に触れながら首を傾げていた希佐だったが、遠くの方で呼び鈴のブザーが鳴っているのを聞き、慌てて階段を駆け降りていく。

 走っていってスタジオの扉の鍵を外した希佐は、そこに立っている男の子を見て、にこりと笑いかけた。

「おはよう、ミゲル」

「あれっ、キサ?」希佐が出迎えるとは思ってもいなかったのか、ミゲルは少し驚いてみせた後、嬉しそうに笑った。「おはよう」

「アランなら今着替えているところだから、もう少しで降りてくると思う。中に入って待ってて」

「約束の時間に起きているだけ上出来だよ」

 出会ったばかりの頃はあんなに幼かったミゲルが、もうすぐ十歳になる。優しく可愛らしかった少年は、その表情にほんの少しの精悍さを帯びて、以前よりも大人っぽくなっていた。教会の牧師の息子という生まれが、他の子供たちよりも早い精神的な成長を促しているのかもしれない。

「キサは昨日が公演の最終日だったんでしょう?」

「アランから聞いたの?」

「うん。僕、今日はパイプオルガンを弾かせてもらいに行くんだけど、本当はどうしても希佐に一緒に来てもらいたくて」

「私に?」

「アランにキサにも声をかけてってお願いしたんだけど、公演終わりで疲れているだろうから、無理には誘えないって言われていたんだ」

 自分がいないところでもこうして気遣ってくれている。そういう話を聞かされると、心がくすぐられるようなこそばゆさを覚えた。

「でも、どうして私に──」

 そう尋ねようとしたとき、アランが事務室から出てくる。右腕に腕時計を巻き、スマートフォンで時間を合わせながら歩いてきた。

「おはよう、アラン」

「ああ」アランはミゲルの頭に手を乗せ、髪をくしゃくしゃと撫でた。「ロバートには話してきたか?」

「うん」

 アランは義兄に対してどこかよそよそしい印象があるが、その息子であるミゲルに対しては、親しみを持っているようだった。ミゲルもアランによく懐いているのが分かる。ミゲルは希佐が出会った頃から音楽が好きで、最近は暇があればアランのところに通い、いろいろと教わっているらしい。

「二十分くらい歩く」

「うん、分かった」

 アランはミゲルに向けていた視線を希佐に走らせてから、スタジオの外に出た。それを追いかけるミゲルの足取りは軽い。

 希佐は何かを話しながら歩いている二人の後ろをついていった。話すといっても、多くはミゲルが一方的に喋っているだけで、アランは相槌を打っているだけだった。

 この数年で、アランは出会った頃よりもよく話すようになったと、希佐は感じていた。しかし、その話をメレディスにして聞かせたとき、それは違うと言われたことを思い出す。

「彼は君が相手だからよく話をするようになっただけで、他の人とは以前とあまり変わっていないよ」

「それって、どういう……」

「キサは流暢な英語を話すようになったけれど、イギリス人になったわけではない。イギリスと日本では文化はもちろん、物の考え方だってまるで違うからね。一緒に暮らしていく上で、いつか必ず意思の疎通が上手くいかなくなるだろうと僕は思っていたよ。特に、あのアランが相手ではね。でも、不思議とそうはならなかった。どうしてだと思う?」

 後になって考えてみると、アランは口数が少なく朴訥とした人物ではあったものの、思っていることはいつもはっきりとした言葉で伝えてくれる人だった。曖昧な物言いはせず、何をしたいのか、どうしたいのか、何をしてほしいのか、してほしくないのか、すべて言葉にしてくれていた。当初は言葉が足りないと感じることも多かったが、そう思うことは少しずつ減っていき、今ではそんなことを考えもしない。

「君の努力には目を見張るものがあったけれど、アランも同じように努力していたということだよ」

 自分は一体この人とどんな天文学的確率で出会ったのだろうと希佐は思うのだ。出会うべくして出会ったような気もすれば、ただの偶然が重なった結果出会ったような気もする。このことを考えはじめると、いつだって頭の中がぐちゃぐちゃになって、絶対に答えに辿り着けないのだ。

「──キサ?」不意に名前を呼ばれ、希佐は我に返る。「どうしたの? 大丈夫?」

「えっ、何が?」

 希佐は思わず目を丸くするが、ふと辺りを見回してみると景色が一変していることに気づき、長い間物思いに耽りながら歩いていたことを自覚した。

「あ、ごめんね、少し考え事をしていて」

「ちゃんと前を向いて歩いていないと危ないよ」ミゲルが眉間にしわを寄せ、希佐のことを見上げている。「はぐれたら大変だから、僕が手をつないでいてあげようか?」

「え? あ、ああ、うん。じゃあ、お願いしようかな」

 前を歩いていたミゲルが差し出してくれた手を、希佐はそっと掴んだ。そして、その隣に並ぶと、ミゲルを挟んでアランと目が合う。訝しげな眼差しを向けられているような気がして、希佐は苦笑いを浮かべた。

「本当に考え事をしていただけだから」

「ここは日本じゃない」

 当然過ぎることを言われて一瞬反応に困ったが、イギリスは日本ほど安全ではないと、そう言いたいのだろう。

「……以後気をつけます」

 ミゲルがいる手前、軽率にあなたのことを考えていた、などとも言えなかった。

 平日のウエスト・エンドは、それなりに早い時間帯でもある程度の人通りがあった。今度はアランが前を、希佐とミゲルがその後ろを、手を繋いで並んで歩く。男の子と手を繋いで外を歩くなんて小学生の時以来だと思っていると、ミゲルが希佐を見上げてきた。

「あのね、キサ」

「なに?」

「僕と初めて会った日のことを覚えてる?」

「もちろん」

「あの日、僕のママの命日だったんだよね」ミゲルは何でもないことのように言った。「天に召されて、ちょうど一年目の日だったんだ」

「そうだったんだ」

「うん」

 だから、それを聞いている希佐も、何でもないことのように応じる。特別な感情は持たず、あくまで、ただフラットに。

「ママはね、アメイジング・グレイスが大好きだったんだよ。だから、ピアノで弾けるようになりたくてずっと練習していたんだけど、あの日も結局上手には弾けなくて、何だかママに申し訳ないなって思ってたんだ」

 あの日聞いた、あのたどたどしいアメイジング・グレイスが耳の奥に蘇ってくる。忘れもしない。あの音色が、まるで天使の呼び声のように、希佐をあの教会へと導いてくれたのだから。

「そうしたらね、そこに希佐が現れたんだ」ミゲルの声がどこか嬉しそうに弾む。「あの時は上手だって言ったけど、本当はね、僕のピアノと同じくらい下手な歌だなって思ってしまって」

「そうだね」そう言って希佐は笑った。「あれは本当に酷い歌だったと思うよ」

「でも、希佐の歌を聞いていたら、今この瞬間にも悲しんでいるのは僕やパパだけじゃないんだって思えた。僕たちみたいに、深い悲しみを感じている人はこの世界にはたくさんいて、キサもその中の一人なんだろうなって、そう思ったんだ」

「そっか」

「それに、キサが帰った後、パパと二人で話していたんだよ」そう言って、ミゲルは隣を歩く希佐をまっすぐに見上げた。「キサはきっと、天国のママが僕たちに遣わせてくれた天使なんだろうねって」

「え……?」

「パパがキサの声は天使の歌声だって言ってた。どこまでも透明で、純粋で、無邪気な歌声だって」

 あのときの歌は、きっとそんな大層なものではなかったはずだ。絶望の淵に立たされて、暗闇と対峙しながら、誰か助けてくれと、誰でもいいからこのどん底から救い出してくれと、祈り、懇願する、浅ましい歌だった。自分ではもうどうすることもできないから、存在するかどうかも分からない神に縋ったのだ。

「キサ、お願いがあるんだ」

「お願い?」

「僕がパイプオルガンでアメイジング・グレイスを弾くから、またキサに歌ってほしいんだよ。そうすれば、きっと天国のママにも届くんじゃないかって思うんだ。だって、キサの声は天使の歌声だから」

 希佐は思わず前を歩くアランの背中を見た。アランはこの話をミゲルから聞いていたのだろうか。この会話が聞こえているはずなのに、アランは少しも振り返ろうとしない。好きにしろ、ということなのだろう。

 だが、希佐にも興味はあった。今の自分があの歌を歌ったら、どんな気持ちになるのか。どんな感情が芽生えるのか。あの頃と今の自分とで、何がどのように変化しているのか。

 そこに神様はおわすのか。

 希佐はどこか強張っているような面持ちで自分を見上げているミゲルを見て、首を縦に振った。

「いいよ、分かった。私で良ければ歌うよ、アメイジング・グレイス」

「本当に?」

「ミゲルのお母さんのところまで届くように、一緒に頑張ろう」

「──うん!」

 そこは巨大な演劇場だった。特徴的な楕円形をしていて、まるでコロッセオのような外観をしている。近くの公園を散歩したときに遠目から見たことはあったが、近づいてみると迫力があり、思わず圧倒されてしまう。

 それはミゲルも同じようで、臆することなく劇場に入っていこうとしているアランに慌てて駆け寄ると、その背中を引き止めていた。

「ちょ、ちょっとアラン! 待って!」

 後ろからジャケットを引っ張られたアランは一瞬重心が後ろに傾くが、すぐに姿勢を正すと、慌てた様子のミゲルを振り返った。

「ここ? 本当にここなの?」

「そうだけど」

「だってここ──ここって──」

「ああ、うん」

 かつての公子の名をいただいた有名な演劇場だ。小劇場の舞台にばかり立っている今の希佐には縁遠い場所だった。

 この劇場では演劇だけではなく、オーケストラやポップスグループなどのコンサートからスポーツの祭典まで、幅広いイベントが執り行われている。ステージの後方には立派なパイプオルガンがあったはずだ。

「僕、ここのパイプオルガンを弾かせてもらえるの……?」

「九時半までの約束だから、早くしないと時間がなくなるけど」

 アランはそう言いながら腕時計を見ている。希佐がスマートフォンで時間を確認すると、現在は八時を少し回ったばかりだった。

「中で待ち合わせてるから」

 アランは愕然としているミゲルを置き去りにして劇場の中に入っていく。希佐は呆然と立ち尽くしているミゲルに歩み寄り、背中に手を添えて促しながらアランの後ろを追いかけた。

 今日の劇場は貸切ということらしく、入り口のところに立っていた警備員に止められるが、先に入ったアラン・ジンデルの連れだと言うと、恐縮しながら通してくれた。希佐はミゲルと顔を見合わせてから、そのまま劇場に足を踏み入れる。

 すると、入ってすぐのところに、アランの姿があった。メレディスと同じ歳くらいの、シュッとした男の人と話をしている。アランと同じくらいの長身だが、こちらは見るからに鍛えていると分かる体の作りをしていた。しなやかな筋肉といえば分かりやすいだろう。ダンスをしている人のそれだ。

 希佐は話の邪魔をしてはいけないと思い、その声が届かないくらいの距離感で足を止め、ミゲルに向き直った。

「凄いところに来ちゃったね」

「う、うん」ミゲルの体はコチコチに硬くなっている。「キサはここに来たことあるの?」

「ううん、初めて。舞台を見に来たこともないな。こんな近所にあるのにね」

 この四年間、歩いて来られる場所にある、これだけ有名なホールに足を運んでみたことはなかった。何となく格式が高そうで敬遠していた部分もあったのかもしれない。ここ数年は舞台に立つ機会の方が多くて、演劇をあまり見に行けていないというのも理由の一つだった。

「ここのパイプオルガンってすごいんだ」

「そうなの?」

「そうだよ! だって──」

 ミゲルがそう何かを言いかけたとき、アランとその知り合いの男性がこちらを見た。その途端に、ミゲルはコチンと固まってしまい、言葉を話せなくなる。希佐はミゲルに向けていた視線を上げると、二人の男の顔を見た。

「やあやあ、はじめまして」陽気そうに笑った男性は、希佐に握手を求めてくる。「今日はようこそ」

 希佐は求められた握手に応じながら、はじめまして、と挨拶を返した。その男性はどこか興味深そうに希佐のことを見ていたが、その隣でミゲルが萎縮しきっている姿に目を留めると、その場にしゃがみ込んで視線を合わせた。

「君がミゲルだね。私はスペンサー、演出家だよ」

「は、はじめ、まして」

「はい、はじめまして」スペンサーと名乗ったその人は、穏やかに笑いながらミゲルの手を握った。「そう緊張しないでも大丈夫さ。今日はパイプオルガンを弾きに来たんだろう? ここのパイプオルガンを弾けるなんて、君は本当にラッキーだね」

「あ、あの……」

「話なら後にして」アランはそう言うと、その目を大きく見開いてスペンサーと対峙しているミゲルを手招いた。「時間ないから」

「えっ、あ、うんっ」

「キサ」

「はい」

「スペンサーに案内してもらって」

 頷く希佐の姿を見てから、アランはミゲルを連れて奥の方へ向かって歩いていった。ミゲルは大丈夫だろうかと心配しながらその背中を見送っていると、すぐ近くから気を引きたそうな小さな咳払いが聞こえてくる。

「改めまして」スペンサーは希佐と目が合うと、そう切り出した。「私はスペンサー・ロロー、舞台演出家だ」

「希佐です」

「舞台女優、とは名乗らないのかな」

「舞台女優です」探るような目で指摘を受けて、希佐は改めてそう名乗った。「演出家をされているんですね」

「おや、そうは見えないかい?」

「ダンスをされている方だろうとお見受けしたものですから」

「下手の横好きというやつさ」

 スペンサーはそう言うが早いか、希佐に値踏みをするような、一見すると不躾とも思える目を向けてくる。だが、不思議と不快な感じはしなかった。女性を見る目というよりも、一人の役者を見る、演出家の目だと感じるからだろうか。

「実はね、君にはずっと前から個人的な興味があったんだ」

「私に興味、ですか?」

「この界隈では結構な有名人だよ、君。この場合の界隈っていうのは、演出関係の人間にってことさ。イキのいい女優が現れたっていうんで、もうみんな興味津々。是非とも一度お目にかかってみたいものだと思っていたんだが、なにせアラン・ジンデルのガードが硬くてね」

「アランの?」

「彼女はいくつもの仕事を掛け持ちできるようなタイプの役者じゃないから、他の仕事をしているときは紹介しないって。でも、昨日が公演の最終日だったんだろう? いやあ、私の日頃の行いがいいからなのかな、望みが叶って嬉しいよ」

 スペンサーはそう言いながら、希佐の周りをぐるりと一周し、うんうんと自らの言葉に頷いている。

「身長はそこまで高くないが、存在感がある。背筋がすっと伸びていて綺麗だ。体のバランスもいいね。足首の引き締まり方を見るに、相当踊れる人間だろう。声もよく通る」

「あ、ありがとうございます」

「今度私の舞台に出てみない?」

「商業演劇ですか?」

「もちろん」

「大きな舞台でのお仕事はお断りしているんです」

「それはどうして?」

「今は小劇場で演じるのが楽しいので」

「まあ、気持ちは分からないでもない。小劇場での公演は観客との距離感が近い分、ダイレクトにリアクションを得られるからね。でも、小劇場に慣れた役者の演技は私に言わせれば縮こまりがちだ」

「では、大舞台に慣れた役者は大袈裟な演技になりがちですか?」

 希佐が悪戯っぽくそう言うと、スペンサーは呆気に取られた顔をしてから、へらりと苦笑いを浮かべた。

「これは失礼した。だが、小劇場の舞台を軽んじた発言ではないと言うことを是非ともご理解いただきたい」

「分かっています」

「キサは──いや、そう呼んでも構わないかな?」

「どうぞ」

「では、キサ」スペンサーは希佐に歩くよう促しながら口を開いた。「古典の経験は?」

「以前にシェイクスピアを何度か。でも、受ける仕事のほとんどは新作の脚本です。私は後者に強い魅力を感じます。古典が悪いということではありませんが、まだ誰も知らない物語を舞台上で披露することに、大きな喜びを感じるんです」

「君もアランと同じ考えなのかな。自分の理想の舞台のためなら採算度外視。赤字覚悟の本番一回勝負──ああ、そういえば、アランが送ってくれたデータを見たよ。カオスの『God only knows』。あれは良かったね。同時にもったいないと思った。ウエストエンドに出せば商業演劇として十分に評価される脚本だから」

「ああ、あれは」希佐は思わず苦々しい表情を浮かべる。「衝動に突き動かされるように演じていたせいで、まだまだ未熟な部分が目立つ舞台でした。あの頃はタップダンスも一苦労で」

「あれを二ヶ月でマスターしたんだって?」

「師匠に相当厳しく仕込まれました」

「バージルのタップダンスは業界でもトップクラスだからねぇ」スペンサーは劇場への入場口の扉を開け、希佐を先に通してくれた。「君は本当にラッキーだ。最高の脚本家がいる劇団で、最高のダンサーとシンガーに囲まれ、超一流の才能を湯水のように浴びている」

「おっしゃる通りです」

「でも、君自身の才能をもっと伸ばすためには、より大きな舞台に挑戦していった方がいい。そのことについてアランは何と言っているんだい?」

「彼は私の思うようにしていいと言ってくれています」

「まあ、それはそうか。彼が他人の選択にそこまで強く口出しをするとは思えないからね」でも、とスペンサーは続ける。「アランは見ることが好きな男だ。そうは言っていても、彼は君が大舞台の上で千のスポットライトを浴びて光り輝く姿を見たいと、実際のところは思っているのではないかな」

 希佐は答えられなかった。そのことに関して、アランが本当はどのように思っているのかを、考えないようにしていたからだ。

 アランは希佐がなぜ商業演劇の舞台を避けているのか、その理由を知り過ぎていると言えるほど理解している。軽率に大舞台に立ち、もしも注目を浴びてしまうようなことがあれば、立花希佐の存在がユニヴェール関係者の目に留まる可能性は高くなるだろう。

 希佐がこの先も舞台に立ち続けるためには、いかに目立たず、己の素性を隠し続けられるかにかかっているのだ。日本のメディアは海外で活躍し、注目を浴びている日本人を見つけ出しては、やんややんやと騒ぎ立てることが好きだ。間違ってもその餌食になってはならない。

 しかし、希佐が黙り込んでも、スペンサーは不自然には思わなかったようだ。希佐がホールに足を踏み入れ、その圧巻の広さと迫力に言葉を失ったと思ったのだろう。だが、確かにその通りだった。外観で見た通り、ホールは美しく湾曲した楕円形で、客席がステージを包み込んでいるように見える。真正面にはそびえるようなパイプオルガンと、そこに立つ二人分の人影が見えていた。

 パイプオルガンの音量と音色を調整しているのか、様々な種類の音が、途切れ途切れにホール内に響いていた。見上げる天井はどこまでも高く、上からはまるでクラゲのような装飾がいくつもぶら下がっていた。

「このホールは本当にドラマチックだろう?」言葉なくホールを見回している希佐を横目に、スペンサーが言った。「数日後、ここでブロードウェイから引っ張ってきたミュージカルが上演されるんだ。今回は私がその演出を仰せつかったのさ。これから舞台装置なんかの搬入が行われるんだけど、その前にどうしても見学をさせろとアランが言うから、今回は本当に特別なんだよ。それに、アランが私に頼み事をしてくるなんて珍しいから、ここぞとばかりに恩を売っておこうと思ってね」

「この借りは高くつきそうですね」

「そう思うかい?」希佐の言葉にスペンサーは声をあげて笑った。「天国の母親に歌を届けたいなんて素敵な夢じゃないか。私たちはそもそも夢を売る商売をしているのだから、子供の夢の一つや二つはこうして叶えてあげないとね。もしかしたら彼は将来天才的な音楽家になるかもしれないし、その自伝の一ページに記してもらえるような手助けをしておけば、私の舞台のために何曲か曲を提供してくれるかもしれない」

「ずいぶん打算的な理由でホールを貸してくださったのだと知って驚いています」

「この世界は案外狭いから、横の繋がりを大切にしないと。売れる恩は売り、貸せるものは何でも貸す。私はそうやって成り上がってきたのさ」

 スペンサーはそう言うと、希佐に向かってぱちんとウィンクをしてみせた。

 それから三十分ほどミゲルがパイプオルガンの練習をしている間、希佐はホールの一角を借りて軽く声出しを行っていた。大きな舞台に立って歌うのは、最後のユニヴェール公演以来はじめてのことだ。客が入っていないとはいえ、やはり少しは緊張する。

 コートを脱いで椅子の背もたれにかけ、体の強張りを解くために軽くストレッチをしていると、そこにアランが現れた。

「準備は?」

「いつでも大丈夫」

「オルガンの音は抑えてあるから、あまり気負って歌わなくていい」

「うん」

「楽しんで」

 アランはいつも舞台に立つ希佐をそう言って送り出してくれる。enjoy、と。希佐はアランがくれるその言葉がとても好きだった。

 ステージの上でマイクスタンドを立ててくれていたスペンサーが手を挙げて希佐のことを呼んでいる。希佐が傍に置いていたバッグとコートを手に取ると、頼むまでもなくアランが受け取ってくれた。

「じゃあ、いってきます」

「ああ」

 差し出した左手に、アランの右手が重なる。その手をぎゅっと握り締めてから、希佐はステージに向かって歩き出した。

 

 

 まだ手の平に残っている温もりの余韻を感じながら、アランはステージに向かって歩いていく希佐の背中を見送っていた。希佐を舞台に送り出すときは、いつも奇妙な感覚に見舞われる。戦地に赴く恋人やパートナーを見送る感覚に近いのかもしれない。あのステージに立ってしまったら最後、もう自分には何一つ手出しすることができなくなるからだ。

 死地に送り出す。大衆の目に晒される舞台上は、アランにとって死地のようなものだった。もう二度と自分が立つことのない場所。希佐はその場所に、自らの意思で、望んで立つ。

 舞台の稽古期間中に何度挫けそうになっても、どれだけ苦しく、つらいことがあっても、本番には必ず成功させてきた。なんていう精神力なのだろうと舌を巻く反面、心配にもなるのだ。希佐が舞台に立つ度に、その命を代償にして、強い輝きを放っているような気がして。その足が舞台を降りた瞬間に、いつかそのまま力尽きて、斃れてしまうのではないかと。

 希佐と何事かを話し、ステージを飛び降りたスペンサーが、アランのところまで走ってやってくる。そして、隣に並ぶと、両手を掲げて合図を送った。アランは傍に立てた三脚にセットしてあるスマートフォンのカメラを起動し、録画ボタンを押す。ミゲルから記録しておくように頼まれていたのだ。父親のロバートに後で見せてやるつもりなのだろう。

「いやはや、楽しみだね」

 何が、とは聞かない。スペンサーは楽しんでいるのだ。このホールをこんな私情のために使うことも、子供にパイプオルガンを弾かせることも。そして、立花希佐の歌を聞こうというこの瞬間を、楽しんでいる。

 ステージ上で希佐が後ろを振り返った。ミゲルに向かって手を振っている。いつでもいいよ、と言う声が、マイクを通してホールに響いた。

「でも、ぶっつけ本番の一本勝負」スペンサーは信じられないというふうに、アランを横目に見た。「上手くいくかな」

「黙って見てろ」

「はいはい」

 スペンサーはそう言って近場の席に腰を下ろした。背もたれに身を預け、足を組んで、ステージに目を向ける。その瞬間、意を決したようにパイプオルガンの演奏がはじまった。バグパイプの音色が前奏を飾る。

 希佐は穏やかな表情を浮かべて舞台上に立ち、その音に耳を傾けていた。そして、自分の出番が近づいてくると、マイクから顔を逸らして大きく息を吸い込む。それをゆっくり吐き出すと、まるで人が変わったような表情を浮かべ、マイクスタンドにそっと手を添えた。

 もう、歌い出しから何もかもが違っていた。

 あの日、あの教会で歌った絶望の中での祈りの歌は、遠い彼方へと消え去っていた。まるで神に愛された使徒のように、もはや聴く者に救いをもたらすような、そう、言うなればそれは、美しい天使の歌声だった。幸福に満ちあふれた歌声、己に幸せを与え賜うた神に感謝を捧げるそれは、正しく讃美歌だった。

 パイプオルガンの音色も良かった。一音一音丁寧に、音で布を織るように、正しくあるべき場所に音が導かれていく。希佐の透き通るような美しい声とパイプオルガンの音色がないまぜになり、溶け合って、余韻を残し、消えていく。

 出来ることなら本当に、今この瞬間を切り取り、この美しい歌声を綺麗な箱の中に閉じ込めて、永遠にしてしまいたかった。アランはあのとき以上に、強く、そう思っている。

 歌が終わり、最後の余韻も空気中に溶けて消えると、希佐はミゲルを振り返って大きく手を振った。ミゲルも椅子から立ち上がり、少し興奮した様子で両手を振り回している。アランはカメラの録画を止めながら、椅子に座っているスペンサーを見た。

「腰でも抜けて立てなくなったのか?」

「……あんな子をどこで見つけてきたんだ?」スペンサーは酷く青ざめた顔をアランに向けた。「どうしてあの才能を箱庭に閉じ込めたままにしている?」

「それが彼女の望みだからだ」

「いや、だがあの才能は──」スペンサーはそこまで口にしてから、はっとした表情を浮かべた。「まさか、彼女自身が自分の才能に無自覚だとでもいうのか?」

「驚くべきことに」

「……おい、もうずっと鳥肌が立ちっぱなしだ」スペンサーはふらふらしながらも何とか椅子から立ち上がった。「こんな才能がこのロンドンに存在していたなんて」

「そっとしておいてやってくれ」

「だがね、アラン──」

「無理強いは俺が許さない」ステージから降り、こちらへやって来る希佐の姿を見やりながら、アランは言った。「今日のことは互いに口外しない。そういう約束だ」

「ああ。ああ、分かった分かった、だからそんな目で睨むな。口外はしないさ」

 小走りで駆け寄ってきた希佐は、アランの手から自分のコートとバッグを受け取ると、感想を求めるようにこちらを見上げてくる。

「どうだった?」

「悪くなかった」

「ミゲルのオルガンがすごくよく弾けていたから」希佐はコートを羽織りながら機嫌良く話している。「お母さんに届いていたらいいけれど」

「絶対に届いたとも。本当に素晴らしい歌声だったよ、キサ」

「ありがとうございます」

 希佐は熱がこもったスペンサーの言葉に対しても、至って平然とそう応じていた。それからすぐミゲルを迎えにいってくると言って、スペンサーに対して礼儀正しく会釈をしてから、早足でホールを出ていく。

 ほとんど相手にもされなかったスペンサーは、希佐の歌声にすっかり陶酔しきった面持ちで、はあ、と大きくため息を吐いていた。

「彼女の歌声に恋でもしてしまったかな」

「気持ち悪いことを言うな」

「あんな歌声を聞かされたら、誰だって恋くらいするさ」それに、と言って、スペンサーは信じられないものを見るような目でアランを睨んだ。「彼女の自己評価が低すぎるのは君が原因なんじゃないのか? 普通はもっと褒めてやるだろう。言葉の限りを尽くして」

「キサは褒めても間に受けない。スペンサーの賛辞も適当に聞き流してた」

「私はこれでも結構名の知れた舞台演出家のはずなんだけどね」

「彼女を起用したければまた小劇場に戻ってくれば」

「そんなのもうスポンサーが許さないよ」スペンサーはまたため息を漏らす。「今夜は眠れそうにないね」

 

 

 希佐がホールの扉を押し開いて外に出ると、ちょうど通路の向こう側からミゲルが走って来るところだった。

「キサ!」叫ぶように名前を呼んで駆けてきた小さな体を希佐は抱き留める。「僕の演奏、どうだった?」

「すごくよく弾けてたよ、ミゲル」

「キサの歌もすごく良かった、とっても上手だったよ」

「今度は下手じゃなかった?」

「今日のキサの歌を聴いたら神様だって大喜びだよ。きっとママにも届いたよね?」

「もちろん」

「よかったー」ミゲルは気の抜けたような顔をして笑った。「演奏中もずっと緊張してたんだ。手が震えちゃって、どうしようかと思ったよ」

「アランが動画を撮影してくれていたから、後で一緒に見てみようか」

「うん」

 希佐はミゲルと、そのお母さんのために、精一杯歌った。どうか空の彼方まで届きますようにと願いながら。

 歌っている最中、自分のことなど少しも考えてはいなかった。ただただ、祈るような気持ちで歌っていた。

 これからもこの幸せがいつまでも続きますように。この先の未来が少しでも幸あるものでありますように。みんなが幸せでいられますように。

 だが、希佐は思い知らされる。きっと神様は自分を嫌っていて、お前には幸せになる資格などないと、そう言っているのだということを、嫌でも思い知らされることになる。

「あれっ? あの、君、もしかして……立花?」

 振り返らなければ良かったのだ。日本語など分からないという顔をして、無視を決め込み、そのまま通り過ぎてしまえばよかった。それなのに、体が不意に反応してしまった。顔から血の気が引き、全身から力が抜け落ちて、それでも、確かめずにはいられない。

「……加斎、くん?」

 そこに立っていたのは、ユニヴェール歌劇学校78期生同期の、加斎中、その人だった。

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