その瞬間、希佐は頭の中が真っ白になって、何も考えることができなくなっていた。
ただ漠然と、ああ、終わった、と思う。
終わってしまった、と。
この場から走って逃げ出したいくらいなのに、足が動かない。体が鉛のように重く感じられる。首の裏側に氷を押し付けられているのではないかと思うほど、体が物凄い早さで冷えていく。指先が凍える。膝が、震える。
子供の頃、継希や創司郎と一緒に神社でかくれんぼをしたことがあった。そのときはなかなか見つけてもらえなくて、早く見つけてもらいたくて、わざと物陰から手や足を出してみたり、好奇心に駆られて顔を覗かせてみたこともあった。
でも、今回はそんなことをしていない。決して見つからないように、思わせぶりなことなどもせず、ただじっとして、身を潜めていた。好奇心に駆られても必死で耐えてきたのだ。
それでも、舞台に立つ自分が誰かの目に留まり、それで見つかってしまったのなら、まだ納得ができた。仕方なかったと自らに言い聞かせることができる。愛おしい舞台の上で立花希佐は死ぬ。物語は幕を閉じる。めでたし、めでたし。
だが、これは違う。あんまりだ。なんでもない瞬間に、なんでもない自分が、こんなにも容易く見つかってしまうなんて。神に祈りの歌を捧げたその直後に受ける仕打ちとしては、あまりに残酷すぎる。
不意に手が握られた。我に返って隣を見やると、ミゲルが酷く不安そうな顔をして希佐を見上げていた。
『キサ、どうしたの?』
『……大丈夫、なんでもない』
ミゲルは何かに怯えているような目をしていた。そんな顔をしてほしくはないし、させたくもない。希佐は自分の胸に手を当て、息を一つ吐いた。そして、笑う。満面の笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。まさかこんなところで加斎くんに会えるなんて思ってもいなかったから、びっくりしてしまって」
加斎中、ユニヴェール78期生、オニキスのジャックエース。三年のユニヴェール公演後に互いの健闘を称え合ったのが、最後に会った記憶だ。そのときの姿が希佐の思い出として今も残されている。
だが、加斎はあの頃よりも、ぐっと大人っぽくなっていた。髪は学生の頃より短いようだ。ジャンヌ顔と称されていたその容貌は、今では男性を感じさせる精悍さを帯びている。それでも希佐は一目で分かった。俺のパートナーになってよと言ったあのときと同じ目で、こちらを見ていたからだ。
「俺も、まさかここで立花に会えるなんて思ってもみなかったよ」加斎は笑う。あの頃と変わらない、屈託のない笑顔で。「ユニヴェール公演が終わってすぐに学校からいなくなったから、立花のことがずっと気になっていたんだ。家庭の事情だって聞いたけど……」
「ああ、うん」こうしてまた、嘘に嘘を重ねる。「家のことはもう全然大丈夫なんだ。気にかけてくれてありがとう」
日本語で会話している希佐と加斎の顔を、ミゲルは交互に見上げている。希佐は少しだけ腰を屈めると、ミゲルに視線を合わせた。
『この人、私が通っていた学校の友達なの。少し話をしたいから、アランのところに行ってそう伝えてきてくれる?』
『あ、うん、分かったよ』
『ありがとう』
ミゲルは希佐の手を離すと、アランとスペンサーがいるホールの方へ駆けていった。
希佐は背筋をすっと伸ばし、加斎に向き直る。もう、今更取り繕うようなことは何もない。髪も、化粧も、服装も、すべて女性のそれなのだから。
「やっぱり知っていたんだね、加斎くん」
「え?」
「私が女だって。ユニヴェールにいた頃から気づいていたんでしょう?」
「……どうしてそう思うの?」
「私を男だと思っていたら、いくら似ていると思ったって、女性に声を掛けたりはしない」
酷く気分が悪かった。吐きそうなくらい。それでも希佐は地に足をつけて、真っ直ぐに立つ。逃げ出したい衝動を押さえつける。
「加斎くん、一年生の頃からユニヴェールを卒業したら海外に行きたいって、言っていたよね」
だから、予感はしていた。もし海外に逃げてきた自分を見つけ出す者がいるのなら、それはこの人なのだろうと、希佐は想像していた。だからこそアメリカを避けてきたのだ。加斎はブロードウェイを目指すだろうと、そう予測をつけて。まさか、このロンドンで望まない再会を果たすとは、思ってもいなかった。
「夢、叶えているんだね」
希佐にとっては一度終わってしまった夢の続きを、この人は今、叶えている最中なのだろう。
そう思いながら微笑みかけると、加斎ははっとした表情を浮かべてから、思わずというふうに希佐から視線を逸らした。
「──しかしだね、アラン」スペンサーの声を聞きながら、アランはうんざりするとばかりにため息を吐いた。「才能というものは世に知られてはじめて評価されるものだ。そうすることにより真の意味で才能が開花すると言える。末恐ろしいことだが、彼女はまだ蕾の状態のまま、その瞬間が訪れるのを今か今かと待っているんだよ。君は見たいとは思わないのかい? 彼女があの舞台の上に立って、このホールに集った大観衆の目を一身に浴び、大喝采を受ける、その姿を!」
「スペンサー──」
「私は勘違いをしていたよ、アラン。私は君の劇団が彼女を育んでいるものとばかり思っていたんだ。だが、実際のところはまったくの逆、正反対! 彼女の才能に影響を受けた彼らの方が成長を促されていたのさ。『God only knows』! あれを見れば明らかだ! そうだろう? イライアスを見ろ、彼はあれでいつも以上の実力を発揮し、才能を開花させ、今ではミュージカル界でその輝きを放っている」
「ああ、そうだな……」
「あのバージルが彼女を気に入るのも頷けるというものだ。アイリーンに至っては、表現に更なる磨きがかかり、商業演劇や歌劇の舞台に立っても何ら遜色のないレベルにまで達しているじゃないか」
ジェレマイアはエンターテイメント集団の一員として古巣に戻り、ノアは劇団カオスで演劇を続けながら、大学院での勉強にも励んでいる。各々が、各々のやりたいことを、好きなように。それが劇団カオスのあり方だった。
希佐が抱えていた公演も終わり、バージルもアメリカから帰ってきた。自分が今執筆している脚本を書き終えたら、そろそろカオスのための脚本を書きはじめてもいい頃合いなのかもしれない。
次の公演の脚本が完成したと言えば、なんだかんだと文句を言いながらも、全員があのスタジオに集まってくる。メレディスと相談をして勝手に公演日を決めれば、全員がそれに合わせて仕上げてくる。本当に変わった連中だ。
どれだけ外で経験を積んできても、カオスの舞台が一番緊張するとイライアスは言っていた。本番は一回きり。観客の期待はあまりに大きく、失敗は許されない状況だ。
「キサはすごいですよ、本当に」稽古場のスタジオでも、本番の舞台上でも、人一倍の輝きを放っている姿を眩しそうに見つめ、イライアスは常々言っている。「あんなすごい人、他に知らない」
今やカオス一の出世頭にまでそう言わしめる希佐は確かに、スペンサーの言う通り、己の才能に驚くほど無自覚だ。いや、もしかしたら、それを自覚しないように、無意識下で自身の思考をコントロールしているのかもしれない。
もし希佐が自分の実力を本当の意味で理解してしまったら、もう小劇場の舞台になど立てなくなるだろう。そんな小さな舞台では満足することができなくなるはずだ。
立花希佐は舞台上でだけ正しく呼吸をすることができる。その上でだけ、正しく感情を表現することができる。希佐が燃えるような怒りを露わにできるのは、舞台上でだけだ。声を張り上げ、悲痛に泣き叫ぶことができるのも、腹を抱えて笑うことができるのも、舞台の上だけ。たったい今ステージの上で表現してみせた歓喜と幸福の歌も、そこから一歩でも離れてしまえば、一瞬にして消え去ってしまう。まるで泡沫の夢だ。
だから、アランは希佐を舞台の上へと導き続けなければならない。生きる意味を与え続けなければならない。それを失った瞬間に希佐がどうなってしまうのか、それを想像することすら、今は恐ろしい。
「アラン!」
スペンサーの戯言を右から左へと聞き流していたアランの耳に、自分の名を呼ぶミゲルの声が聞こえた。ホールの重い扉を開いてやってきたミゲルは、アランの姿を認めるなりまっすぐに走ってくる。
「キサはどうした」
「友達と話をしているんだ」
「……友達?」
「キサが通っていた学校の友達だって言ってたよ。少し話をしたいから、アランにそう伝えてほしいって」
アランはすぐに嫌な予感を覚えた。ミゲルもどこか不安そうな表情を浮かべている。アランはまだ話し足りないとばかりに口を動かしてるスペンサーを黙らせ、ミゲルの前で膝をついた。
「その友達は日本人だったか?」
「うん、多分」
「キサはどんな顔をしていた?」
「笑ってたよ」でも、とミゲルは眉を顰める。「真っ青な顔をしてた」
「スペンス、ミゲルを頼む」
「は? あ、ああ、それはもちろん、構わないが」
ここにいろというふうにミゲルの肩に手を置いてから、アランはホールに足を向けた。しかし、扉に手をかけたところで、はたと思う。自分が出ていったところで、一体何になるというのだろう。それで何かが解決するのか。これは希佐自身の問題だ。そこに自分が割って入って、口を挟む権利など、あるはずがない。
だが、希佐がわざわざミゲルにアラン宛の伝言を頼んだことは、確かな事実だった。
アランは軽く頭を振ると、扉を開く。気持ちを鎮めて、心臓を落ち着かせる。スペンサーの話し相手をしていると、いつも感情が表に出てきてしまうのが厄介だ。その名残を引きずらないよう、沸き立つ思いを深いところへと沈めていく。
希佐は一人の青年と話をしていた。日本語で会話をしている。声の調子は明るかったが、それが少し不自然にも思えた。空元気とも違う。演じている感覚に近いのかもしれない。アランには聞きなれない言語のせいで、いつもは容易に読み取れる感情を、上手くすくい取ることができなかった。
「キサ」
その背中に向かって、いつもと同じように声をかけた。振り返った顔が一瞬、泣き笑いのような表情を浮かべる。だが、それもすぐに機嫌の良い笑みに取って代わった。しかし、ミゲルが言っていた通り、酷く気分が悪そうな顔色をしていることは間違いなかった。
「アラン」
ここへ来てくれというように手が差し伸べられる。アランが希佐の隣に立つと、動揺が隠しきれていない眼差しと、まっすぐに目が合った。
「彼はユニヴェールの同期で、加斎中くん。加斎くん、この人は私が所属している劇団の主宰で、脚本家のアラン・ジンデル」
「えっ? アラン・ジンデル!?」
寸前まではアランのことを不思議そうに見ていた青年が、突然人の名を大声で叫んだ。それにはアランだけでなく希佐も驚いたようで、自らが紹介した男を、大きく見開いた目で見ていた。
「あっ、すみません、大きな声を出して……」
加斎は出入り口付近に立っている警備員に向かって手を挙げると、苦笑いを浮かべながら軽く会釈をした。警備員は訝しげな顔をしてこちらを見ていたが、アランがなんでもないというふうに首を横に振って見せると、渋々自分の業務に戻っていく。
「あっ、あの、アラン・ジンデルって、あの、斜陽の雲の脚本を書いた……」
「そうだけど」
『ヤバい、どうしよう──!』
突然の日本語に困惑し、アランは希佐を見た。しかし、希佐も同じように困惑しているのが分かる。だが、加斎は酷く混乱している様子だ。すると、辺りに微妙な雰囲気が漂っていることを察したらしい加斎は、思い立ったように自分の鞄をあさり出した。そして、一冊のペーパーバックを取り出す。
「俺、ファンなんです」
「……俺の?」
「はい!」
アランはため息を吐きたい気持ちを必死に抑えつけた。
差し出されたペーパーバックはページが外れるのではないかと思うほどぼろぼろだった。常に持ち歩いているくらいだ、何度も繰り返し読んでいるのだろう。
斜陽の雲はアラン・ジンデルが初めて書いた映画の脚本で、のちに小説として出版された作品だ。ただ金を稼ぐためだけに書いた作品だった。思い入れは一つもない。それなのに、その作品は不思議と評価されていて、未だに増刷され続けている。アランにとっての金のなる木であることは確かだ。
「ああ、まあ、どうも」
「映画ももちろん好きなんですけど、俺は小説を先に読んだんです。あなたの洗練された美しい言葉の選び方が、こう、芸術的でさえあって──」
アランは加斎の話を聞きながら、隣に立っている希佐の横顔を盗み見た。希佐は大きく見開いた目をそのままに、加斎のことを見ていた。僅かに呼吸が乱れているのを感じ、アランはその背中に手を添えてやる。すると、添えた手の平に、すぐに重みを感じた。体重をかけ、寄りかかっている。
「悪いけど、後でもいいか」
アランはそう断ってから、希佐の背中に添えていた手を腰に回した。そのまま抱えるようにして抱き上げると、加斎を見る。
「彼女、調子悪いみたいだから」
『え、立花ごめん、俺、気づかなくて……』
「ついて来て」
「あ、はいっ──」
希佐を抱き上げたまま腕時計で時間を確認する。九時を過ぎていた。もうゆっくり休ませてやれる時間もないので、タクシーを呼ぶかと考えていると、アランの肩に頭を預けていた希佐が口を開く。
「加斎くんがあなたのファンだったなんて知らなかった」
「世界は狭いな」アランはそう言ってから、希佐の体を片腕で支え、ホールの扉を開けた。「帰りはタクシー呼ぶから、それまで休んでて」
「うん」
アランが希佐を抱えてホールに戻ってくると、ミゲルを相手に身振り手振りで何かを話していたスペンサーが、瞬時にその表情を一変させた。すぐに駆け寄ってくると、救急車を手配しようかと声を掛けてくる。
「いや、いい。ここ最近休んでなかったから、その疲れが出たんだ。タクシーで連れて帰る」
「キサ、大丈夫?」
「見ててやって」
アランは希佐を椅子に座らせると、ミゲルに向かってそう言った。ミゲルはうんと言って頷き、希佐の隣に腰を下ろす。
希佐の頬に軽く触れてから後ろを振り返ると、そこではスペンサーと加斎が話をしていた。
「何だ、本当に来たのかい? アタル」
「ホテルにずっといるのも退屈なので」
「今日は舞台装置の搬入と設置で一日が終わるから、ステージには立てないよ」
「ただの見学です」そんなことより、と言いながら、加斎は希佐の方を見た。「スペンサーは立花と知り合いなんですか?」
「タチバナ……? ああ、キサのことかな? 彼女とはそこにいる友人の紹介で今日やっとお近づきになれてね。彼女の体調は心配だが、今日は本当にいいものを見せてもらったよ」
「立花は──」
加斎は何かを言い淀んだかと思うと、椅子に座っている希佐に目を向けた。アランはその様子を少し遠目に見ながら、スマートフォンでタクシーを手配する。五分から十分ほどで到着するだろう。
それまでに希佐のことをどう話したものかとアランは考えていた。加斎の顔を見るに、希佐が女であるということは、既に理解している。騒ぎ立てる様子はないので、そこまで心配する必要もなさそうだとは思うが、これはあまりにデリケートな問題だ。
「カサイ」アランがそう声をかけると、加斎は僅かに肩を震わせた。「これ、俺の連絡先」
「えっ……えっ?」
「事務所の住所も書いてあるから」
「はっ? あの、どうして……」
「キサのこと」
アランは滅多なことでは渡さない名刺を財布から取り出すと、それを加斎に差し出しながら言った。
「彼女、あんな状態だから、ろくに話もできなかっただろ。だから、うちに来て話せばいい。滞在期間は?」
「今のところはひと月です」
「実際もっと伸びると思うよ」スペンサーが横から口を挟んでくる。「この公演、目と耳の肥えたウエスト・エンドの人たちにもウケると思うから」
「……だ、そうです」
「そう」じゃあ、とアランは続けた。「明日以降ならいつでもいいから、好きなときに来て。あと、キサのことは誰にも話さないでほしい。ユニヴェール関係者には特に。理由は分かってると思う」
加斎は神妙な顔をして頷き、アランの手から名刺を受け取った。アランは財布をポケットにしまいながら、加斎の隣に立っているスペンサーを見る。
「君もだ、スペンサー。余計なことを言ったら、今書いてる脚本は灰にしてテムズ川の底に沈める」
「いやいやいや、それだけは勘弁してくれ。彼女のことは誰にも言わないよ。約束する」
「それならいい」
スマートフォンに着信が入る。タクシーが到着した知らせだった。電話で応対しながら二人に背を向けると、希佐とミゲルがいる方へ歩き出す。すぐに行くと言って電話を切り、前の座席の背もたれに手をついて身を乗り出すと、アランは希佐の顔を覗き込んだ。
「キサ、タクシーが来た」
「うん」
「無理そうなら抱えていくけど」
「大丈夫、自分で歩ける」
「僕の肩を貸すよ」
「ありがとう、ミゲル」
実際にミゲルの肩を借りて立ち上がった希佐は、自分を見ているスペンサーと加斎の方を向いた。
『ごめんね、加斎くん。せっかく会えたのにこんな姿を見せてしまって』
『ああ、いや、いいんだ。俺の方こそごめん、突然声を掛けて、君を驚かせた』
『ううん。事務所で待ってるから、いつでも会いにきて』
加斎と日本語で何かを話した後、その目をスペンサーに向ける。
「今日は、ミゲルのために、本当にありがとうございました。こんな姿では説得力がないかもしれませんが、私も楽しかったです」
「こちらこそ、素晴らしいステージを見せてくれて感謝しているよ。私もアタルと一緒に遊びに行かせてもらおうかな」
「是非」
「おい、キサ……」
こいつはそういう言葉を真に受けるやつだと忠告する間もなく、希佐は安易に頷いてしまう。そういえば、希佐自身も社交辞令を素直に受け取ってしまうところがあると思っていると、その様子を見ていたスペンサーが愉快そうに笑った。
「公演後は気が抜けて体調を崩しやすい。今日はゆっくり休んで」
「はい、ありがとうございます」
先程よりも幾分顔色が良くなっている。その顔に機嫌の良さそうな笑みを浮かべ、希佐はアランを見た。小さく頷きかけると、希佐はミゲルと連れ立って歩き出した。ミゲルがまるで小さな恋人のように気遣う言葉をかけると、希佐は鈴を転がすような声で笑っていた。
気丈に振る舞っていると分かる。心の中は穏やかではないはずだ。
「じゃあ、また」
そう言って立ち去ろうとするアランの背中をスペンサーが呼び止めた。
「アラン、さっきの話、真剣に考えておいてくれ」
「考えるのは俺じゃない」
「でも、説得をするのは君の役目じゃないか」
アランは後ろを振り返り、スペンサーを睨みつけた。前髪の影からでもその威圧的な感情が伝わって来たのか、スペンサーは軽口を利きながら、わざとらしく怖がってみせる。
「彼女をこの先も箱庭の中に閉じ込めておくの?」
「……箱庭から自由に飛び立てる鳥であればと思うよ」
立花希佐は片方の翼に深い傷を負った鳥だ。その傷を癒すことはとても難しい。三年間、ずっと共に居続けたアランにも、どうすればいいのか分からないのだ。
タクシーに揺られて帰ってくると、ミゲルは希佐のことを気にかけながらも、早々に自分の家へと帰っていった。これから学校に行くのだという。自分が同じ立場だったら絶対に休むだろうと思うが、折目正しい牧師の息子は、そんなふうに考えてみることすらしないらしい。録画したものはどうすると問うと、希佐の具合が良くなったら一緒に見ると言い、風のように駆けていった。
アランは希佐を部屋まで送り届け、コートを脱がせると、ベッドに腰を下ろさせた。その手を握ると、あんなにもあたたかかった指先が、凍えているかのように冷え切っていることに気づいた。
「何かあたたかいものを淹れてくる」
額にキスをしてから部屋を出たアランは、希佐と同様の混乱が、自分の中にもあることを感じ取っていた。
スペンサーがアメリカのブロードウェイから公演を持って帰ってくるという話は、もちろん知っていた。だがしかし、その舞台に立つ役者の中に日本人が、それもユニヴェール関係者がいるなど、想像だにしていなかったのだ。いや、本当なら想定していなければならなかったのかもしれない。以前、希佐が言っていたはずだ。ユニヴェール卒業生の中には、ブロードウェイを志す者も多い、と。
自分の行動が軽率だったのではないか。希佐をホールに連れていかなければ、こんなことにはならなかったのではないか。だが、いつかはこんな日が訪れていたような気もする。そのとき、その瞬間に自分が居合わせることができただけ、もしかしたら幸運だったのかもしれない。
アランはカモミールのハーブティーを淹れると、それを耐熱ガラスのグラスに注ぎ、希佐のところに持っていった。希佐は先程と同じ形のままベッドに座り、ぼうっと宙を眺めている。顔色はより落ち着いてきていたが、心ここに在らず、という様子に見えた。アランがグラスを顔の前に差し出すと、希佐は感謝の言葉を口にして、それを受け取った。
「一人になりたい? それとも──」
「隣にいて」
長いまつ毛が縁取る目は伏せられ、膝の上にあるグラスに向けられていた。
アランは希佐の隣に座ると、その視線を宙に放った。部屋の中は、もうあの頃のように、段ボールが積み上がってはいない。小綺麗に片付けられているが、ただ少しだけ本棚からあふれた本が、何冊か床に置いたままにされている。机の上にはいつだってノートと筆記具、英英辞書があって、常に英語の勉強をしている様子が見て取れた。
きっと昔から読書家だったのだろうと思っていたが、希佐は必要に駆られて読むようになっただけだと言った。言語は耳で聞き、それを真似ることが最も早い習得方法だというが、ある程度話せるようになると、今度はそれだけでは足りなくなる。だから、希佐は新しい英単語を頭に叩き込むために、本を浴びるように読み続けたと話していた。
舞台の仕事をしていると自らの語彙力の少なさに辟易するという。特にシェイクスピアなどの古典の舞台に参加したときは、聞き慣れない単語のオンパレードで、台本を読むときは辞書が欠かせなかったと言っていた。
希佐はアランがこれまでに出会ってきた人々の中で群を抜く努力家だ。もう少し肩の力を抜けばいいのにと思うのだが、当人にはその方法が分からないらしい。ただ時々、その桁外れな努力の反動なのか、なにもせずにただぼうっと、そこに佇んでいるだけのときがある。そういうときはいつも、こちらの声は届かない。アランがその名を呼んでも何の反応も示さず、目の前に広がっているのであろう虚空を見つめ、ただじっとしているのだ。
その都度、どうしてやればいいのだろうかと考える。無理やりに呼び戻して自分だけが安心出来ても、それが希佐にとって必要な時間なら、邪魔をしてはならないと思う。だが、不安になるのだ。どこか遠くを見やるようなその眼差しを見ていると、怖くなる。希佐の中にある精神が、どこか遠い場所に連れていかれてしまうのではないかと、そんなありもしないことを考えてしまう。
そうして取り止めのないことを考えていると、不意に肩に重みを感じて、アランはそちらに顔を向けた。
空になったグラスを両手で包み込むように持ったまま、希佐はアランの肩に頭を預け、寄りかかっている。希佐の手からグラスを取り上げ、それを机の上に置いたアランは、細い肩を抱き寄せて小さな頭に唇を押し当てた。
「……私、もし見つかるなら舞台の上がいいって、いつも思ってた」希佐がぽつり、ぽつりと漏らすような声で言った。「舞台の上で死にたかった」
「まだ死ぬと決まったわけじゃない」
「今までが上手くいきすぎていたのかな」希佐の声に諦めにも似た乾いた笑いが混ざる。「調子に乗りすぎていたのかな」
「キサ……」
「神様から、お前はもっと身の程を知れって言われているみたい。いつだって明るい未来を見せておきながら、その頂に手が届きそうになると、いつも空から雷が落ちてきて、私の行く道を塞ごうとするから」
神など存在しないと言ってやりたかった。だが、果たしてその言葉で希佐の気は紛れるのか。そもそも、その言葉には説得力がないのだ。希佐が現れてからというもの、神の導きや采配としか思えないことが、目の前で度々起こるせいで、アランすら信じかけている。神と呼ばれる者は確かに存在していて、人間の運命を良いように操り、翻弄して、楽しんでいるのではないかと。
アランの肩に寄りかかっていた頭が滑り、上半身ごと膝の上に倒れ込んでくる。ふわりと広がったロゼ色の髪からシャンプーの匂いが香った。靴を脱いで、足をベッドの上にあげる。寝返りを打つように仰向けになると、希佐はアランの膝を枕にして、こちらを見上げてきた。
「ユニヴェールにいた頃から、加斎くんは気づいているんだろうなって思ってた。私が女だって」
「そういう顔をしていたな」
「あの人、一年生の頃から、三年生になってからもずっと、私に自分のパートナーになってほしいって言ってた。私はいつもそれを聞き流して、ことなきを得たつもりになっていたの。彼の言葉の意味を深くは考えないようにしてた」
アランがその髪にそっと触れると、希佐はゆっくりと瞼を下ろした。そのほんの些細な動き一つで、すべてを委ねられていると、アランは実感していた。この美しい人を生かすも殺すも、自分次第なのではないかと、そのように感じてしまう。
「加斎くん、あの頃と変わってなかった。いつだって自分の夢に向かって真っ直ぐで、そのためには何が必要かをよく分かっていて、脇道に逸れたりなんかしない。一目見て分かった。彼は今、その夢の中で生きてるんだって。目がキラキラしてた。ユニヴェールにいた頃の、私と同じ」
この二年間、希佐の口からユニヴェールという言葉を聞かなかった。それが今日、かつての旧友と顔を合わせたことで、時間が巻き戻されていくのを感じる。一気に、あの頃の希佐が帰ってくる。未来を見ていた目が、過去へと向けられていく。後ろ向きだった姿勢がようやく前向きになって、ここで生きていくのだと決意したように見えていた姿が、少しずつ薄れていく。
そうか、とアランは思った。これまでの日々は希佐の心を癒しはしても、根本的な解決には至っていなかったのだ。イギリスでの新しい日々が、過去の記憶をやわらかく包み込んで、穏やかな思い出になればいいと思っていた。だが、そんなことは不可能なのだと、思い知らされる。
希佐の心は未だユニヴェールに囚われていた。いや、そうではない。未だユニヴェールで生きている。そこから抜け出すことができていないのだ。希佐自身が「ユニヴェールから逃げ出してきた」という考えを改めることができないかぎり、その心はユニヴェールという十字架に磔にされ続けている。
まだ足りない。これまでの舞台では足りなかった。劇団カオスの舞台でも、立花希佐を満たすことはできていなかったということだ。過去の記憶に勝る新たな夢を未だ見つけられていない。これまでの舞台はすべてその場凌ぎでしかなかった。希佐の心に空いているユニヴェールという穴を埋める一時的な満足でしかなかったのだ。
希佐の心にあるユニヴェールの穴は、ユニヴェールでしか埋めることができない。
救いたかった。救ってやりたかった。少しくらいは、救ってやれていると、そう思っていた。
アランはぐっと奥歯を噛み締める。顎を引き、感情を押し殺そうとする。だが、口元を押さえた指の間から、堪え切れなかった声が漏れた。自分があまりに無力で、不甲斐なく、居た堪れない。
「……クソ」
思わず悪態を吐く。
緑の目からこぼれた透明の涙が、希佐の頬に落ちた。希佐はアランの顔を見上げ、その目を驚愕で見開いている。ぽたり、ぽたり、と落ちてくる涙を頬で受け止めながら、言葉を失っていた。
「アラン……?」
「なんでもない」アランは震える声で答えた。「なんでもないんだ」
希佐はアランの膝から身を起こすと、困惑した様子で、周囲に視線を彷徨わせた。何かを探していたようだが、結局それが見つからなかったのか、再びアランに向き直ると、その手の平で頬の涙を拭う。後から後からあふれてくる涙の理由など分からないだろうに、それでも、黙ったまま涙を拭い続けてくれている。膝立ちになって、この涙が止まりますようにとまじないを掛けるように、優しく瞼にキスをした。
これだけはどうか、自分に向けられるこの思いだけはどうか、他の誰かの穴を埋めるための代わりであってくれるなと、そう願ってしまう。それくらいには、アランはこの美しい人のことを、愛おしく思っているのだ。
「……ごめんなさい」希佐は困惑しながらも、その顔に悲痛そうな表情を浮かべ、申し訳なさそうに言った。「私、自分のことばかりで。あなたのこと、傷つけていたの……?」
「違う」アランはジャケットの袖で雑に顔を拭いながら言う。「これは俺の問題だ。君のせいじゃない」
「でも」
「君を愛してる」
「えっ……?」
「だから、君のせいなんかじゃない」
この歳になって情けないと思う。思いを寄せている女性の前で号泣して、慰められているなんて。
アランは希佐の眼差しから逃れるために顔を逸らした。しかし、希佐はアランの頬に手を添えると、再び自分の方に顔を向かせる。かつて、アランが希佐に対して、そうしたように。
「私も、愛してる」希佐はアランの頬を両手で覆い、互いの息遣いが感じられるほど近くまで、顔を寄せた。「あなたを愛してる」
二人の額がやんわりと触れ合う。そのまま鼻を寄せ合い、互いの目を覗き合った。
その言葉に嘘はないと分かる。それなのに、なぜこんなにもつらいのか。どうして満たされないのか。何かが後ろめたいのか。その言葉は本当に、自分に向けられるべき言葉なのか。
希佐はゆるゆるとアランの唇にキスをした。だが、戸惑いを感じているのが伝わってくる。それは、アランがその口付けに応えようとしないからだろう。ただじっとして、されるがままになっているからだ。
アランの膝を跨ぐようにして座った希佐は、キスをしながら、ジャケットの襟元に手を掛けた。ゆっくりと引き下ろすようにして脱がすと、今度はシャツのボタンに手をかける。上から一つ、二つと外していき、胸元が露わになると、そこへ唇を寄せた。赤い花弁を散らすようにいくつもの印を残し、再びボタンに手を伸ばす。
奇しくも、アランが今日着ていたのは、ダイアナのブランドのシャツだった。明らかにボタンの数が多い。脱がすには適していない、脱がすためにデザインされたのでもない、面倒臭いシャツだ。
それでも希佐はボタンを最後の一つまで丁寧に外すと、ジャケットと同じように、徐にそのシャツを脱がせた。そして、アランの体をベッドに押し倒し、両手を顔の脇につく。
アランの緑の目を覗く希佐の眼差しは驚くほど穏やかなものになっていた。ゆっくりと繰り返される瞬きの一つ一つにさえ、意味があるように思えてくる。徐々に降りてきた顔は唇にではなく、首筋に向かって進み、そこに食い付くようなキスをした。ねっとりと舌を這わせ、それが徐々に胸元へと向かう。一方の手はアランの手を握り、もう一方の手は脇腹を撫でるように伝って、体の真ん中へ──触れることはなかった。
アランは細い腰に腕を回すと、体を反転させ、希佐の体をベッドに押し付けていた。貪るようなキスをし、焦燥感に駆られながらニットのワンピースを脱がして、背中に回した手で下着のホックを外す。
こんな抱き方をすれば後で後悔することは分かっていた。希佐が構わないと言って許すことも分かっている。
欲望で満たされているはずの思考の一角は何故か酷く冷静だった。まさか自分がこんなにも見えない誰かを妬ましく、同時に羨ましく思う日が来ようとは、思いもしていなかったのだ。
アランは初めて希佐を傷つけたいと思った。深く深く傷つけ、一生涯消えない傷をその心に負わせて、この先の未来に何が待ち構えていようとも、自分のことを忘れさせたくないと思う。
「……ア、ラン」与えられる快楽に溺れるような声をあげる合間に、希佐はアランの顔に触れ、ふ、と微笑んだ。「嘘じゃ、ない」
「……え」
「あなたを、愛してる。だから──」希佐は至る所に印の散らばった体を億劫そうに起こし、アランの首に両腕を回すと、自らの体を離れているところがないくらいぴたりと、アランの体に寄せた。「そんな悲しい顔、しないで」
消え入りそうな声だった。その声を聞いて、ようやく我に返る。罪悪感の雨が降る。ただひたすらに申し訳がなく、情けなく、心が締め付けられるほどに、この女性が愛おしかった。
アランは希佐の背中にそっと手を添え、その体を支えた。首に顔を埋め、まるでこれまでに与えた傷を舐めるように、その体に舌を這わす。
「……ごめん、キサ」
「ううん」
「本当に」
「いいの」
「愛してる」
『知ってる』
「え、今なんて……」
『愛してる。心から、あなたのこと』
アランは眉根を寄せ、希佐を見た。すると希佐は、ふふ、と笑い、アランの眉間のしわを指先で撫でた。
「月が綺麗ですねって、そう言ったの」
「……ああ」なんて美しく笑うのだろう。この笑顔は今自分だけに向けられていて、自分だけのもので、他の誰の目にも触れることはない。「今なら俺は、死んでもいい」
加斎中はあれから数日のうちにやって来た。
アメリカから帰ってきたバージルと久しぶりにタップダンスの稽古をする約束をしていた希佐が、スタジオでストレッチをしていると、スタジオの呼び鈴が鳴る。希佐がストレッチを中断して出て行こうとすると、事務室から姿を現したアランがそれを制し、自らの手で扉を開けに行った。
希佐がマットを敷いている場所からでは、アランの背中が壁になって、誰がやって来たのかを見ることができない。誰だろうと思いながらストレッチを続けていると、アランがその場から身を引き、客人を中に通した。加斎中だった。日本人らしいどこか控えめな態度で、僅かに肩を丸めながら、恐縮した様子のままスタジオに入ってくる。
『いらっしゃい、加斎くん』希佐はマットの上に立ち上がりながら言った。『来てくれたんだね』
『立花』
時刻はもう夜に近い夕方だ。加斎は稽古終わりにシャワーでも浴びて来たかのような雰囲気で、髪をしっとりと濡らしていた。本当は来るつもりはなかったが、衝動的に来てしまったと、そう分かる出で立ちをしている。その少し申し訳なさそうな表情も相まって、捨てられた子犬のような様相を感じ、希佐は思わず笑ってしまった。
『どうしてそんな顔をしてるの?』
『あ、いや、ごめん』くすりと笑う希佐を見てから、加斎は慌てたように手元に視線を落とすと、袋を差し出してきた。『これ、差し入れ。アイス買ってきたんだ。ちょっと溶けちゃったかも』
『ありがとう。でも、気を使ってくれなくていいのに』
『手ぶらでは来られないよ』
加斎はそう言うと、事務室に戻っていこうとしているアランの姿に視線を走らせた。希佐はアランを呼び止めると、靴を履かないまま近づいていき、加斎から受け取ったアイスを見せる。
「差し入れのアイスだって」
「ああ」アランはそれを受け取ると、加斎を振り返った。「どうも」
「い、いえ。好みのものが分からなかったので、数ばっかり多くなってしまったんですけど」
「ちょうど切らしてたところだから、助かる」
「助かる……?」
「ここの劇団の人たち、みんなアイス好きだから、買っておいてもすぐになくなってしまうんだ」
アランは希佐の手からアイスの入った袋を受け取ると、冷凍庫に入れてくると言って、そのまま事務室に姿を消した。希佐が向き直ると、加斎はスタジオを興味深そうに見回していた。
『広いスタジオだね』
『元々は古い印刷所だったんだって。そこが廃業したから、アランが買い取って、スタジオに改装したみたい』
『へえ』
『ここまで来るのに迷わなかった? 道が入り組んでいて分かりにくかったでしょう?』
『裏の教会で聞いて教えてもらった。ほら、この前ホールで君と一緒にいた男の子がいたから、ここまで連れて来てもらったんだよ』
『そうだったんだね』
希佐は、あとでアイスを持ってお礼に行こうと考えていたが、加斎がまじまじと自分を見ていることに気づき、僅かに小首を傾げる。
『どうかした?』
『いや、なんか綺麗になったなと思って』
『えっ?』
『あ、ごめん、別に深い意味はないんだ。ただ、ユニヴェールにいたときみたいな人間離れした美しさっていうよりも、なんていうのかな、等身大の女性っていう感じがするんだよ』
『それって褒められてる?』
『もちろん、褒めてるつもり』
『それなら、ありがとう』
『これから稽古するところだったの?』
『あ、うん。劇団の人に稽古をつけてもらう約束なんだ。もうすぐ来ると思うんだけど』
『じゃあ、タイミングが悪いときに来てしまったね』
『ううん、全然大丈夫だよ。その人、気安い人だから、加斎くんがいても気にしないと思う。どうせなら一緒にけいこしていく?』
『え、いいの? でも、一体何の──』
加斎がそう言いかけたとき、バイクのエンジン音が近づいて来たかと思うと、それがスタジオの前でぴたりと止まった。途端に笑みを浮かべた希佐は、加斎に一言断ってから、扉に向かって走り出す。扉が外側から開かれ、その男が姿を現した。
「バージル、おかえりなさい」
「うおっ、と」
スタジオに足を踏み入れるなり、熱烈な出迎えをする弟子を片腕でしっかりと抱き留めたバージルは、呆れながらもその背中をとんとんと叩いた。
「はいはい、ただいまただいま」
「アメリカはどうだった?」
「よかったよ。なあ、とりあえず荷物くらいは置かせてくれ、キサ」
片方の腕で支えていた希佐の体を床に下ろすと、アメリカ土産を買って来てくれたのだろうバージルは、もう一方の手に抱えていた荷物を、いつもの場所に置きに行こうとする。しかし、スタジオの真ん中に劇団の仲間とは違う青年が立っているのを見て、奇妙な顔をした。だが次の瞬間、驚いたように大声をあげる。
「おい、お前! アタルじゃねぇか!」
「やっぱりバージルですよね?」
「おま、お前、なんでこんなところにいるんだ?」
「バージルこそ──」
二人は二人で驚いている様子だったが、それ以上に驚いているのは希佐だった。目を丸くして二人の様子を見ていると、うるさいな、という顔をしてスタジオに戻ってきたアランが、希佐の隣に立った。
「スペンサーの舞台でやるタップダンスの振り付け、担当したのバージルだから」
「それじゃあ、今回バージルがアメリカに行っていたのって……」
「せっかくのロンドン公演だからタップダンスのパートを増やしたかったらしい。群舞が見どころらしいから」
「……本当に、この世界って狭いんだ」
先日、スペンサーも同じように言っていた。この世界は狭い、と。それは希佐の想像を遥かに超える狭さなのかもしれない。
遥か彼方にあると思っていたものが、実際には隣り合って存在しているとしたら。希佐は今、その最たるものを目の当たりにしているのではないか。点と点だったものが、線で繋がる。もしかしたらこれまでにも、こうしたニアミスが起こっていたのかもしれない。今までは、運良く回避することができていたというだけのことで。
「まあ、この界隈ではよくある話だよ」タップシューズを履いている希佐のところまでやって来たバージルが、何でもないことのように言った。「一流に近づけば近づくほど、いつだって見る顔は似通ってくる。頂点に登り詰められるプロは一握りだ。キサとアタルにはそこに辿り着けるだけの可能性と才能、必要なサポートがある。出会うべくして出会ったんだ。遅かれ早かれな」
「それって遠回しに自分は一流だって言ってる?」
「何を言う」バージルはふんっと鼻で笑った。「俺は超一流のタップダンサーだ」
「はいはい、そうだったね」
「この超一流のタップダンサーにフリーでレッスンをつけてもらえるんだぞ、もっとありがたく思え」
実際、それはとても贅沢なことで、毎度貴重な経験をさせてもらっているのだと、希佐は常々思っている。イライアスのダンスも、アイリーンの歌もそうだ。超一流に学ぶという贅沢を当たり前のように感じてはいけない。その日限りの経験と思い、すべてを盗み取るつもりで、全力でぶつかっていかなければもったいない。
「今日もよろしくお願いします、師匠」
「よし、久しぶりのレッスンだ。言われたことをきっちりやってたかどうか、しっかりチェックするぞ。怠けてたかどうかはすぐに分かるんだからな」
一眼見た瞬間に分かった。立花希佐だと。そして同時に、我が目を疑った。どうして彼──いや、彼女が、ここにいるのだ、と。
78期生最後のユニヴェール公演を終えた後、加斎中は稀代のアルジャンヌの名を不動のものとした同期の姿を探していた。何度も挑み続け、結局は最後の最後まで一度も勝つことができなかった相手。78期の絶対的エース。最初で最後、中自身が自分のパートナーになってほしいと、強く望み続けた人。
立花継希に憧れてユニヴェールに入学した。新人公演のクォーツの演目、不眠王の娘役を見たときから、もうこの人以外にいないと思った。自分という人間に相応しいパートナー。俺のジャンヌ。俺だけの、ジャンヌ。
でも、どれだけ口説き落とそうとしても、立花はいつも適当にお茶を濁して、のらりくらりと言い逃れる。それでも中は諦めなかった。諦めたくなかった。だから、周囲に呆れられても、本人に相手にされなくても、言葉にし続けたのだ。俺のパートナーになってほしいと。
立花が玉阪座からの誘いを断ったという話は、風の噂で聞いていた。76期の先輩方が待っているであろう玉阪座に入門することが、立花の新しい夢なのだろうと、中は勝手に考えていた。ユニヴェールで夢を叶えている最中なのだと教えてくれたあのときの目の輝きを、今も鮮明に覚えている。だからこそ、立花希佐はその延長線上にある玉阪座を目指すのだろうと、そう思っていた。
だが、その誘いを断ったことが本当なら、まだ自分にも望みは残されているのではないかと中は考えた。
ユニヴェールを卒業し、クラスの垣根も取り払われ、自由になったその場所で、一緒に高みを目指していけるのではないかと。あまりに重すぎる秘密を抱えている立花でも、日本の外に出れば、その輝きを失わずに済むのではないかと、そう考えていた。
そうだ、中は知っていた。分かっていた。立花希佐が女であると、気がついていた。確信したのは、玉阪の町で魔物のエクスを演じたときだ。二人でダンスを踊ったときに女だと分かった。ピオーティアとして微笑む顔が、あまりに女性だったから。
だが、そんなことは些細な問題だった。中は立花の人柄に、才能に、その魅力に、魅了されていたのだ。心から尊敬していた。誰にも言えない秘密を抱えたままクォーツを背負い、三年間に渡ってクラスを優勝に導き続けたその姿勢が、あまりに格好良かった。
しかし、あるときから、立花希佐の輝きに影が差すようになった。その影は、驚くべきことに舞台に立つ立花自身を、より美しく見せる要因の一つとなっていた。光と影が一つの体に合わさることで、立花の魅力をより引き立てていたのだ。
立花の人間離れしたような美しさは、その周りから人々を遠ざけさせた。かつて田中右宙為が神格化されていたように、立花希佐もまた、神格化されつつあった。いつも一緒にいたクォーツ生の同期二人ですら、近づくことのできない存在となっていった。三年になると、中が見かけるときはいつも独りでいて、ここではない遠いどこかを見つめるような目をし、何かを諦めたような顔で、虚空を眺めていた。
同じ人間だ。だが、男か女か、たったそれだけのことで、人生が変わる。
本人は否定も肯定もしなかったが、立花希佐は立花継希の血縁者なのだろうと、中はほとんど確信していた。舞台に立ったときのその立ち居振る舞いが、あまりに似ていたからだ。立花継希を知っている者は、誰しもそう思ったことだろう。
しかし、ユニヴェール卒業後の立花継希の行方を知るものは、誰もいない。彼も卒業後は玉阪座に入門するはずだったと聞いている。だが、ある日突然、蒸発するように消えたらしい。パッと、いなくなったのだという。ただ立花継希という存在感だけを残して、その存在自体は、何の痕跡も残さずに消え去った。
中は思ったのだ。このままでは立花希佐も、立花継希のように、その姿を消してしまうのではないかと。たった独り、大伊達山の麓に佇んでいる姿を偶然見かけたときは、その思いを一層強くした。線の細い、あまりに儚いその後ろ姿が、少しずつ透明になって、消えていってしまう幻想を見た。
彼女が望むなら、その手を取って、日本から逃げ出してもいいと思っていた。いや、むしろそのつもりでいたのだ。だから、探していた。最後のユニヴェール公演を終え、クォーツの顔としての役割を立派に終えた立花希佐を連れて、海外へ飛び出していくために。
「──立花!」
ようやく見つけた背中に声をかけた。すっと伸びた背中。あまりに細く、小さい。その体で、周囲からの期待と責任を背負い、ずっと戦ってきたのだ。だから、もういいのだと、そう言ってやりたかった。言ってやりたかったのに、中を振り返ったその顔があまりに晴れやかで、曇りがなくて、憑き物が落ちたように見えたから、言うべき言葉を間違えてしまった。
「クラス優勝おめでとう。それから、個人賞金賞も。俺は最後の最後まで君に勝つことができなかったな」
「ありがとう、加斎くん。加斎くんも、個人賞銀賞、おめでとう」
「うん、ありがとう」
少しでも君に近づきたくて、君に相応しいジャックになりたくて、必死に努力をした結果が、個人賞銀賞だった。最後まで辿り着けなかった頂。その頂点にたった独りで立つ、立花希佐。
「今から一緒に海外に行こう」
ずっと準備をして、繰り返し練習をして来たはずのその言葉を、とうとう伝えることはできなかった。舞台の上でならどんな台詞でも口にすることができるのに、一番肝心なときには感情が邪魔をして、尻込みをしてしまう。
そして中は、今の今まで、このときの自分の選択を後悔し続けてきた。ユニヴェール公演の翌日、立花希佐が忽然と姿を消したからだ。かつての立花継希のように。跡形もなく。何の痕跡も残さずに。
学校側の発表は、家庭の事情による早期卒業だった。だが、とてもではないがその発表が信じられなかった中は、織巻と世長を呼び出し、真実を話すよう求めた。二人はここだけの話にしてほしいと前置きをしてから、立花希佐は失踪したのだと、そう言った。
中の予感は大方当たっていたのだ。だからこそ考えてしまう。もしあのとき、自分が一緒に海外に行こうと声をかけられていたら、立花がユニヴェールから姿を消すことはなかったのではないか。たった独りで、孤独な旅に出ることも、なかったのではないかと。
アメリカでの下積み時代、何度もつらくなって、泣きたくなることもあった。でも、そのたびに立花希佐のことを思った。夢を諦めざるを得なかった、憧れの人のことを。きっと、自分が女であることを罪のように感じてしまっていた人のことを。
今なら、立花が誰にも何も言わずに、ユニヴェールを去った理由が分かる。
彼女はただ、迷惑をかけたくなかっただけなのだ。立花希佐は女だった。もしその事実が広く知れ渡るようなことになれば、ユニヴェールの名に傷をつけてしまうと思ったのだろう。先輩や同期、後輩、先生方にもあらぬ嫌疑が掛けられると考え、自分が去ることを選んだのだ。
織巻や世長の失望は計り知れないだろうと思うと同時に、何とか救ってやれはしなかったのかと恨み節を言いたくもなるが、おそらく自分も同罪なのだ。
ユニヴェールを卒業して、もうすぐ五年になる。多分、立花希佐は歌劇の世界からは離れ、誰にも邪魔をされることなく、日本のどこかで暮らしているのだろう。幸せに暮らしているのなら、それはそれでいいことだ──そう思っていた矢先の、出来事だった。
立花希佐が、そこにいたのだ。目の前に。手の届く場所に。日本にいるとばかり思っていた憧れの人が、イギリスにいた。織巻と世長は立花の痕跡を何一つ見つけ出せないと嘆いていたが、それもそのはずだ。立花は、日本にはいなかったのだから。
気がつけば、声をかけていた。見るからに女性という出で立ちをした、その美しい人に。誰も素通りすることなどできないような美貌の、その人に。それが、立花希佐の未来を脅かす最初の一言になることも知らず、ただ無意識に、その名を呼んでいた。
ああ、アラン・ジンデルのことは、この際脇へ置いておこう。これは至って個人的な問題だと、中は平静を装う。しかし、立花とは別の意味で憧れていた人物と出会い、その隣に立つという経験は、中を酷く混乱させている。今考えるべきことは立花希佐の問題だと分かっているのに、どうしても雑念が入り込むのだ。
アラン・ジンデルは今、中の目の前で物置部屋をあさっていた。バージルが以前履いていたタップシューズが物置にあったはずだというので、それを一緒に取りに来たのだ。
スタジオの二階にはキッチンとバスルーム、そして四つの部屋があった。立花はアラン・ジンデルと一緒にここで暮らしているのだという。稽古が立て込んでくるとスタジオに寝泊まりしたいと思うことがあるが、ここはまさにその理想の形を表現していた。
「これ」物置部屋の外で待っていると、そこから出てきたアラン・ジンデルが箱を差し出してくる。「サイズ、大丈夫?」
「あの人とはサイズが同じなので、問題ないです」
「そう」
アラン・ジンデルは中に箱ごとシューズを押し付けると、そのまま廊下を戻っていった。しかし、何かを思い立ったように足を止めると、途中にあったドアを開き、部屋の中に入っていく。そしてすぐに出てくると、その手に持っていた一冊の本を、中に差し出してきた。
「これ、あげるよ」
「えっ?」
「献本の余ったやつだけど」
「いいんですか?」
「本棚が圧迫されて邪魔だから」
「ありがとうございます」
もう何年も前に出版されたものなのにもかかわらず、そのハードカバーの本は新品そのものだった。それを抱くように持つ中を横目に見てから、アラン・ジンデルは再び歩き出す。呆れられているのかもしれない。だが、長く伸ばされた前髪がその顔を隠しているので、表情を読み取ることは不可能に近かった。
「あ、あの」
「なに?」
「立花とは、長いんですか?」
「長いって?」
「あー、えっと、出会ってから」
中は言葉を選びながら話す。アラン・ジンデルは前を歩きながら肩越しに振り返り、その言葉の真意を探るように中を見てから、口を開いた。
「キサと出会ったのは三年前、ここのスタジオで」
「それは、どうして……」
「彼女が日本で歌劇をやっていたと聞いた裏の教会の牧師が俺と引き合わせた」
「それからずっとここに?」
「君はそれを聞いてどうするの」不快そうではないが、それ以上は聞くなという声の響きを感じて、中は黙る。「そういうことは俺じゃなくて、キサに聞いて。話すかどうかを決めるのは彼女だから」
「……はい、すみません」
「別に謝るようなことじゃないけど」
アラン・ジンデルは中が想像していたような人物像とはあまりにかけ離れていた。正確には想像したこと自体はないのだが、その文体から考え得る人物像とは、少し違った印象を覚える。
彼が手掛けている映画の脚本や小説の多くは、家族について描かれているものが多い。物事を雄弁に語る主人公や、恋多き母親、酒に溺れる父親に、慈悲深い兄など、人間を掘り下げて描いている。斜陽の雲も同じだ。根本にあるのは家族の問題だった。
能動的な主人公が多かったので、アラン・ジンデルもそういう人なのだろうかと思っていたが、実際に会ってみると正反対の人間だった。口数は少なく、表情も乏しく、人付き合いも良さそうには見えない。だが、立花や教会の男の子と話しているときの雰囲気は、とてもやわらかかったように思う。
階段を降りて、酷く散らかっている事務室に差し掛かると、スタジオからタップを踏む音が聞こえてきた。アラン・ジンデルは一度PC前の椅子に座りかけたが、思い直したようにスタジオを振り返ると、微かに口角を持ち上げる。
「行ってきたら」
「あ、はい」
中はシューズの入った箱と本を抱え、事務室の床に積み上がっている本や紙の束を倒さないように気をつけながら、スタジオに出た。そして、それを目の当たりにすると、思わず言葉を失う。
立花希佐がタップダンスを踊っていた。しかも、あのバージルにぴたりとついていっている。ステップは軽やかで、タップ音は粒が揃い、繊細で緻密だ。
中はユニヴェールにいた頃からオニキスでタップダンスを学んでいた。オニキスでは、度々卒業生やダンスの講師を招いて、ありとあらゆるダンスを学ぶ。その中にタップダンスも含まれていた。中が在学中の公演でタップダンスを披露したこともあったので、人並み以上には踊れるつもりだ。今回ロンドンで上演されることになった公演のオーディションは、その経験があったからこそ合格できたようなものだった。
『凄い……』
確かに、立花はクォーツ生の中でも踊れる方ではあった。だが、ダンスのレベル的なことを言えば、オニキスには劣っていた。立花希佐が常に個人賞金賞を獲得し続けていたのは、その総合力にある。芝居、歌、ダンス、それらを総合的に評価した結果が、個人賞金賞だ。だから、ダンスの能力だけは自分の方が上だと、加斎中は自負していた。今の、今までは。
「……立花って、最初からあんなふうに踊れていたんですか?」
事務室の外まで出てきて、壁に寄りかかりながら二人が踊る様子を眺めているアラン・ジンデルに、中は問いかけた。その間も、二人の競い合うようなタップダンスからは、目が離せなかった。
「最初は酷いものだった」微かに笑う声が混じる。「初心者に毛が生えた程度だ。学校の授業で基本は学んだと言ってたけど、その学びが生かされているとは到底思えなかった」
「でも、あれは……」
「どこに行っても通用する。それこそ君がいるブロードウェイでも、ここウエスト・エンドでも。そういうふうにバージルが育てた」
アメリカにいるとき、バージルは公演の振り付けから振り入れまで、すべてを担っていた。
普段は気安く、誰に対しても同じように接する、ノリのいい男だ。だが、靴をタップシューズに履き替えると、まるで人が変わったように厳しくなる。決して妥協はしない。弱音を吐こうものならスタジオから追い出され、出来るようになるまで戻ってくるなと叱咤をした。バージルがそういう男だということを、中は身をもって知っている。
アメリカでは一ヶ月程バージルからタップダンスを学んでいたが、あんなに楽しそうに踊る姿を、中は見たことがなかった。バージルが踏んだステップを、立花が真似る。立花が踏んだステップを、バージルが真似る。ただそれを繰り返しているだけだというのに、そのステップの種類はあまりに多彩で、見ていても飽きることがない。むしろ、こうしてずっと見ていたいと思う。
「歌もダンスもここに来た頃より格段に良くなった。舞台経験を積んで演技も上達している。きっと、君が知っていた彼女は、もうここにはいない」
最後の公演を終え、ユニヴェールから姿を消して五年。ここへ来て、三年。人間離れをした美しさの神格化されつつあった怪物は、ここへ来てもなお、更なる高みを目指していたというのか。同じだけの時間を過ごしてきたはずだ。アメリカに渡り、ブロードウェイで活躍するために、人一倍の努力をしてきた。誰よりも、誰よりも。それなのに、ここでもまた、立花希佐は加斎中の前を走っている。近づくどころか、遠ざかっているような気さえしていた。
思わずぞっとする。この約五年間、中は血反吐を吐くような努力を続けてきた。つらくなれば立花希佐のことを思い、彼女の分まで自分が夢を叶えるのだと意気込んで、前へ前へと進んできた。だが実際には、立花は夢を諦めてはおらず、このイギリスの地で、自分以上に励んでいたというのか。
中はぞっとしてから、少しだけ笑った。もう追い越せただろうと思っていたのだ。あと一歩で手が届きそうだった背中を追い越し、今や自分の方が前を進んでいるのだろうと。だが、違っていた。自惚れも甚だしい。
『やっぱり、君は凄いよ、立花』
もうパートナーになってほしいなどとは望まない。そんな可愛らしい感情などでは、この気持ちは収まらない。加斎中は立花希佐の隣に並びたいのではないのだ。
立花を越えたい。いや、越えてみせる。今度こそ、その背中を飛び越えて、君の前に立ってみせる。
俺は君のライバルになるのだと、中は決意を新たにした。