誰も知らないところへ行く覚悟を決めた。立花希佐、という存在を、誰も知らない場所に。
持っていた本の多くは、江西先生に渡してある。必要なら、来年度入学してくる新入生が役立ててくれるだろう。
洋服の大半は処分してしまったが、まだ袖を通していなかったものは、教会の裏手にある施設に寄付することにした。迷惑かもしれないと思い電話で問い合わせてみたところ、ありがたいということだったので、他にも新品の洋服を何着か買って、段ボールに詰めて送った。直接訪ねてしまうと、今度はいつ遊びに来てくれるの、と問われることが分かっていたので、もうこれ以上嘘を重ねるのが嫌で、申し訳ないが郵送にさせてもらった。
自分の体と一緒に持っていきたいものは、ほとんどなかった。
数冊の本と、何枚かの写真、それから――。
最後のユニヴェール公演が無事に終わり、いつもの店で打ち上げをして、部屋に戻る。そのときにはもう、すべての準備が整っていた。部屋の中にはなにもない。あるのは、ボストンバッグ、ひとつだけ。結局、本当に必要なものは、その中に収まってしまうほどのものしかなかった。
何度も出し入れを繰り返して確認したので、忘れ物はない。最悪、現金とパスポートさえあれば、それでよかった。
翌朝、東の空が黎明に染まる頃、立花希佐は人知れずユニヴェールを出て行こうとしていた。もし誰かに見られたとしても、荷物が少ないので、いくらでもごまかしが利くはずだった。
「本当に行くんだな」
その声に驚いて、思わず振り返る。
クォーツ寮を出る寸前のところで、江西録朗が待ち構えていた。
「俺には別に構わないが、校長のところへは挨拶に行った方がいい」
「……昨日のうちに、済ませてあります」
「そうか」
足を止めた希佐の方に向かって、江西はすたすたと歩み寄ってきた。いつものように、背中を丸めて、少し、だらしのない印象のまま。
「ほら、受け取れ。餞別だ」
「餞別?」
「こういうのはいくらあっても困らないからな」
縦長の封筒が一通、差し出された。押し付けられるように渡されたそれを受け取り、中身を確かめて、大きく目を見開く。一万円札が、少なくとも十枚は入れられていた。
「い、いただけません、こんな――」
「いいから」
「でも」
「こんなことくらいしか思いつかなかったんだ。俺の自己満足のためだ、受け取ってくれ」
頼む、と切実そうに言われてしまえば、その気持ちを無下にすることはできない。希佐は小さく感謝の言葉を口にすると、飾り気のない茶封筒を、ボストンバッグの中にしまった。
本当は誰にも言わずにユニヴェールを出て行くつもりだった。だが、それではあまりに不義理だと思い、ユニヴェールに招いてくれた校長と、女だと知りながらも三年間面倒を見続けてくれた江西にだけは、真実を伝えて去ることにしたのだ。
この二人の口が堅いことは、希佐自身が、誰よりも良く知っている。
「やっぱり、行き先を教えるつもりは……ないか」希佐の顔を見て、江西はため息を吐きながら後ろ頭を掻いた。「とにかく、気をつけてな。元気に生きていることだけは、たまにでもいいから知らせてくれ」
「校長先生にも同じことを言われました」
「校長にとっても、俺にとっても、お前は特別な生徒なんだよ」
約束はできなかった。その優しさは嬉しかったが、自分に逃げ道を与えるような気がしたからだ。いつかその優しさにすがって、あの場所へ帰りたいと、思ってしまうかもしれないから。
だから、お別れの言葉だけを伝えて、希佐はユニヴェールを後にした。
フミさんは怒るだろうか――希佐は玉阪の町に向かう坂を下りながら考える。
怒ったところなどほとんど見たことがないけれど、今度ばかりは怒らせてしまうだろうと思った。でも、話すわけにはいかない。話してしまえば、否応なく引き止められてしまう。優しく、穏やかな物言いで希佐を諭し、玉阪に留まらせようとするだろう。
何があっても俺がお前を守るから、と言って、強く抱き締めてくれたかもしれない。
だが、それでは何の解決にもならないのだ。それで立花希佐の不安が消えてなくなるわけではない。それどころか、毎日を怯えて過ごすことになる。もうこれ以上は、女であることを隠し通すことはできない。
いずれにせよ、玉阪に残る、という選択肢はなかった。更文からは、ユニヴェールを卒業したら一緒に暮らさないかと相談されていたが、もとより無理な話だったのだ。永遠に男のふりをして生きていくわけにはいかないのだから。
電車だと誰かの目に留まるかもしれないので、タクシーを使った。行き先を告げ、あとは黙ったまま、窓の外を眺める。考えてみれば、この三年間、希佐は玉阪と絢浜の町を行ったり来たりするばかりで、その外側へ出たことがなかった。
日曜日の早朝、人通りはおろか、車通りも少ない。タクシーは時折赤信号に阻まれるが、希佐をあっという間に、見慣れた玉阪の町の外へと運んでいく。見たこともない景色が続く。希佐の体が、見知らぬ土地へと運ばれていく。
昨夜、どうしても眠ることができずに、散歩がてら比女彦神社に足を運んだ。草木も眠る丑三つ時だ。当たり前だが、参拝客の姿はない。微かに、甘い梅の香りが漂っていた。
三年間で、一体何度この神社にやってきただろうと考える。二年生になってからは、公演前と公演後に必ず足を運んで、舞台が上手くいきますようにと祈り、何事もなく舞台を終えられたことを感謝した。更文とは三年間、毎年欠かさず初詣に出かけた。ざわざわとした気持ちを落ち着かせたいときにも、やってきていた。
初代玉阪比女彦が祀られている、比女彦神社。希佐はこの神社に足を運ぶたびに、妙な懐かしさを覚える。幼い頃、継希にぃや創ちゃんと一緒に演劇ごっこをしていた、あの神社に雰囲気が似ているからだろうか。
そういえば、あの神社には何の神様が祀られているのだろう。そう思ったところで、何だか比女彦に申し訳ないような気がして、希佐は考えることをやめた。
「――私は今日、ユニヴェールを。この玉阪の町を、出て行きます」
鳥居をくぐり、参道を歩いて、拝殿の前に立つ。そして、決意を言葉にして、吐き出した。
「校長先生には、きちんと卒業してほしかったと言われました。江西先生にも。でも、ユニヴェールを卒業してしまったら、何もかもが終わってしまうような気がするんです。私は、この夢を、終わらせたくないのかもしれません。いつまでも、この美しい夢を見続けていたい。終わりにしてしまいたくない」
でもね、だけどね、私は、女だから――希佐は、その言葉を飲み込む。
「――だから、私は新しい夢を探しに行きます。ユニヴェールにだって負けない、きらきら輝く、私だけの夢」
逃げ出すことに変わりはない。でも、絶望の果てに逃げることを選んだわけではない。ほんの微かな希望だったとしても、それに賭けてみたいと思ったのだ。
「あっ……」
希佐はポケットをまさぐり、小銭の一枚も持ってこなかったことに気づくと、苦笑いを浮かべながら拝殿を見上げた。賽銭も入れず、個人的な話を聞かせるだけ聞かせてそのまま帰るのは、いくらなんでも失礼だろう。
「あ、そうだ」
比女彦神社はもともと芸事の神様を祀っている神社だと更文が言っていた。奉納するものは、舞でも構わないはずだ。
希佐は時々、更文から和ものの舞を教わっていた。ユニヴェールのダンスにも生かせるだろうし、アルジャンヌとしてより女性的な動きに磨きをかけられると、そう思ったからだ。しかしそれ以上に、高科更文という才能を、その身で浴びるように感じたかった。
更文の言葉が血潮のように体をめぐり、指先にまで行き渡って、冷たい熱を帯びる。あの瞬間が。何かを確かにつかみ取り、すべてを理解したかのようになったあの感覚が、背筋が凍えるほどに恐ろしかったことを、不意に思い出した。
けれど同時に、満たされるような心地の良さと、快感もあったのだ。自分の中に高科更文と同じ舞が息づき、踊りに生かされ、それが他にはない華となる瞬間が、この上なく嬉しかった。
空には月がぽっかりと浮かんでいる。満月だ。拝殿から少し離れた場所に、改めて立った。希佐の足元には、月の影が伸びている。
大きく、ゆっくりと、深呼吸。
僅かに膝を曲げ、頭を斜に構える。
指先にまで神経を行き届かせ、そして、息を止めた。
夏休みの、絢浜での合宿。池に浮かぶように建立されていた舞殿の上で、更文が舞っていた踊り。すべての所作があまりにも美しくて、怖いくらいだった。でも、自分もいつか舞ってみたいと、そう思っていたのだ。だから、何度も、何度も、更文が美しく舞う姿を、頭の中で思い描いていた。いつか見てもらいたくて、こっそり練習を繰り返していた。
目を閉じると、更文の舞が見える。それに習うように、指先で空を撫でた。
目的地に到着すると、タクシーは徐々に減速し、止まった。メーターは随分回っている。一万円札を差し出し、釣りは受け取らずに降りた。
まだ早い時間帯だというのに、空港はそれなりに賑わっていた。自動ドアを抜けて、真っ先に国際線の電光掲示板の前に向かう。行き先はまだ決めていなかったが、空港に到着したとき、真っ先に目についた国名のチケットを買うことだけは、決めていた。
「さあ、行くよ、希佐」
ボストンバッグの中には、財布とパスポート、数冊の本と、何枚かの写真が入っている。持ち物などその程度だ。あとは、更文が一年生の頃に編んでくれた鯉結びがあれば、事足りる。
どうか、どうかフミさんが幸せでありますようにと、そう願った鯉結び。その気持ちは今も変わらない。あの時と同じように、希佐は更文の幸せを、心から願っている。
たとえ今は心を痛めても、いつか素敵な人に出会うことができれば、その傷を癒してもらえるだろう。玉阪座で芸事を磨き、いつか高科二千奥の名を継ぐときになって、隣でそれを支えてくれる人がいてくれたらと思う。
三年も一緒にいたのだ、悲しくないと言えば、寂しくないと言えば、嘘になる。でも、忘れる必要はないのだと、自分に言い聞かせた。きっとこの先も、何年経っても、この気持ちは変わらない。高科更文を好きな気持ちは、ずっと、変わらない。
希佐は、更文を、恋い慕っているのだから。