ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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とまった時間

「──よしっ、今日のレッスン終わり!」

 ほとんど休みなく二時間近く踊り続けていた希佐は、その号令を聞いてようやく足を止めた。滝のように噴き出す汗をTシャツの袖で拭い、脱力したような声を出す。肩で息をしながら隣を見やると、途中から参加した加斎中も同様に呼吸を乱していた。

『加斎くん、大丈夫だった? もしかして、舞台の稽古終わりだったんじゃない?』

『ああ、うん、そうなんだけど』加斎はそう言いながら、異様なものを見るような目をバージルに向けた。『このおじさんヤバくない? さっきまで俺たちと一緒に何時間も踊ってたんだよ?』

『バージルの体力って底なしなんだよね』

『俺、ちょっと休憩……』

 加斎はそう言うとスタジオの床に座り、そのままばったりと倒れ込んだ。バージルは真上からその姿を見下ろし、にやにやと意地悪く笑っている。

「おっ、この程度でヘタれてんのか?」

「あなたが異常なんですよ、バージル」

「まあまだ若い連中には負けてられねぇからな」

「その体力があればあと三十年は現役でやっていけますって」

 希佐はゆっくりと呼吸を整えながら、鏡に映っている自分の姿に目を留めた。

 ユニヴェールを逃げ出してきてから最初の二年は、自分なりに体力や筋力維持のために運動を続けてはいたものの、あまり上手くはいかず、学生時代に比べると体のラインが崩れてしまっていた。でも、ここに来てからの三年で体力がつき、体の線も以前より良くなった気がしている。首がすっと長く伸びて、背中が広くなったような感じだ。前ほど呼吸を乱すこともなくなり、貧血や過呼吸になることもなくなった。アイリーンやダイアナに言われて、食生活を見直すことにしたのも良かったのだろう。

「キサ、お前少しステップが甘いところあったぞ」

「え、どこ?」

「こことか」そう言いながらバージルが軽やかにステップを踏んで見せる。「ここ、だな」

 希佐はバージルに倣って、同じステップを丁寧に踏む。すると、それを厳しい眼差しで見ていたバージルは、うん、と頷いた。

「まあまあだな。でもまだ上半身が硬い。足腰をもっとやわらかく使え」

「はい」

「練習はこれまで通りのメニューを続ければいい」

「分かった」

「ま、ここ何ヶ月かは公演の準備やら本番やらで大変だったろうけど、俺に言われたこと続けてたみてぇだし、お前は本当によくやってるよ」

 バージルにぐりぐりと頭を撫で回され、希佐は嬉しくなって笑い声を漏らす。

 稽古中は誰よりも厳しいバージルだが、それが終わった後はいつだって希佐の努力を認め、労い、褒めてくれた。これがあるからこそ、毎日の稽古を頑張ろうと思えるのだ。何事も鞭ばかりでは上手くいかないものだと、劇団カオスは教えてくれる。

「ちょうどいい頃合いだし、今日は飲みに行くか──って言いたいところだが、アタルは無理そうだな」

「こんな状態で飲んだら悪酔いしますよ。それに、明日は昼からゲネプロですし」

「じゃあ、今のが俺がアタルにつけてやれる最後の稽古だったわけか。お前、キサのおかげで得したな」

「え、得? 損じゃなくて?」

「あ? 明日の朝まで稽古つけてやってもいいんだぞ?」

「ああ、嘘、冗談です。本当、ありがたいです」

 加斎はバージルとのやり取りを楽しみながら笑い声をあげている。その姿が希佐には眩しいくらいだった。

 日本を出てアメリカにわたってからは、すべてが順風満帆に進んだわけではないはずだ。幼い頃に外国で暮らしていたとはいえ、勝手の違う国では苦労も多かったに違いない。

『加斎くんは凄いなぁ……』

 そう小さく漏らすと、加斎はその笑顔を希佐に向けた。

 自分も男だったなら、他の人たちと同じように夢へと続く道をまっすぐに進むことができただろうか。それはもう幾度となく考えてきたことだ。だが、不思議と、男に生まれればよかったとは思わなかった。今の自分に満足しているかといえば、そんなことはない。もっと見てみたい世界がある。挑戦してみたいことがある。立花希佐にしかできないこと。立花希佐だからできること。

 加斎中の姿をこの目に見た瞬間、時間が巻き戻されたようになって、一気にユニヴェール時代の記憶が押し寄せてきた。ユニヴェール関係者に見つかってしまったことに絶望して、すべてが終わってしまうかのように思われた。

 話もしないで。加斎の話を聞こうともしないで。きっと、海外で頑張ってきた者同士、話をすれば分かり合えるのではないかと、希佐は思うのだ。

「だったら、何かデリバリーでも頼むか」黙っている希佐を見てバージルが言った。「俺が奢ってやる。キサ、アランのところに行ってお伺い立ててこいよ」

「うん、分かった」

 希佐は素早く靴を履き替えると、事務室で仕事をしているアランのところに向かった。

 カタカタとキーボードを叩いている音は聞こえなかった。椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げるような格好で、アランは目を閉じていた。何かを考え込んでいる気配を感じ、どうしたものかと思っていると、アランは目を閉じたまま口を開いた。

「なに?」

「バージルがデリバリーでも頼まないかって」

「好きにしたら」

「アランも食べない?」

「何か適当に頼んでおいて。後で食べる」

「分かった」

 最近、アランはPCの前でじっとしていることが多かった。カオスの脚本以外はすべて金儲けのために書いていると豪語しているアランは、いつだって流れるように文章を綴っていた。それが今は、明らかに考えている時間の方が長くなり、あまり筆が進んでいないように見える。そっとしておくことが一番の協力だと思い、向こうから声をかけてこないかぎりは、近くに寄らないよう心掛けていた。

「好きにしていいって」希佐が戻ってそう告げると、既にスマートフォンの画面を覗き込み、注文する料理を選んでいた二人が顔を上げた。「何を頼むの?」

「立花は何がいい?」

 加斎が英語で話しかけてくる。希佐は少しだけ奇妙な心地がした。

「ケバブは?」

「ああ、いいね、ケバブ」

「じゃあ、そうするか」

「アランの分も頼んでね、後で食べるって言ってるから」

「……お前、自分が食べたいもんじゃなくて、そっちを優先したな」

 まあいいけど、と言いながら、バージルは画面を適当にタップしていく。最後に、自分が食べたいからとフライドチキンとノンアルコールビールを選択し、注文を終えた。

「加斎くんはユニヴェールを卒業してすぐにアメリカに渡ったの?」

 まさか希佐の方からそのような質問をされるとは考えてもいなかったのか、加斎は驚きに目を丸くしていた。しかし、希佐が黙って返事を待っていると、徐に口を開く。

「実は、俺も卒業式には出なかったんだ。どうしても受けたいオーディションがあったから、卒業前に日本を発ったよ。結局そのオーディションは落ちちゃったんだけどね。立花は?」

「私?」

「ユニヴェールを飛び出して、どこに行ったの?」

「私はアイルランド。ダブリンで一年と少し過ごしてから、ロンドンに来たんだ」

「日本にはもうずっと帰ってない?」

「ビザの申請の都合で何度か帰ったりはしたけど、数日滞在するだけだったから、帰ったうちには入らないかも」

「俺は年末年始に帰るくらいかな。そのときにユニヴェールの先輩とか同期にあったりするんだ」

「ふうん」

 希佐が日本語で話をしないのは、近くにバージルがいるからという理由もあるが、日本語を使うことで思考と感情が直結し、情緒の乱れを引き起こさないようにするためでもあった。ユニヴェールの同期である加斎と日本語で話をしていると、どうしても当時の記憶が色濃く思い出されてしまう。英語を使っていると、不思議と透明なフィルターを通して見ているような気持ちになり、感情的にならずに済んだ。

「みんな、元気?」

「そう思うよ。会うのはオニキスの人たちがほとんどだけど、たまに忍成とか、それに、織巻や世長と会うこともある」どう答えようか考えている間に、加斎は先を続けた。「二人とも、今でも立花のこと探してるみたいだよ」

「そう、なんだ」

「砂浜の中から一粒の砂を探すみたいなこと、ずっと続けてる。クォーツの先輩たちと会うことがあると、いつも立花の話をするって言ってた。今どこで何をしてるんだろうねって」

 希佐は考えることを避けてきた。特に、自分がいなくなった後のクォーツのこと、同期、後輩、卒業していった先輩たちのこと──恋人だった、高科更文のこと。

 自惚れだと言われようが、仲間が集えば、その都度自分のことが話題に上るだろうということは容易に想像することができた。だが、自分のいない場所で、彼らがどのような話をするのかと考えを巡らせることは、あまりに無意味だった。自分から逃げ出してきたのに、そのように考えること自体が、おこがましいことだとも思った。同時に、怖くもあったのだ。それが優しい言葉でも、責める言葉でも、ただ想像するだけでつらかった。

「玉阪座に行ったクォーツの先輩方はみんな大成功してる。特に高科先輩は凄いよ。雑誌の表紙とか有名企業のプロモーション活動とか、メディアに露出する機会が多い。睦実先輩は玉阪の若手の中でも頭一つ抜きん出てるって聞くし、根地先輩は舞台に立つよりも、脚本を書いたり演出をすることの方が多いみたいだ」

「そうなんだね」自分が存在しないところでも世界は回る。そんな至極当然なことを、不意に思い知らされた。「よかった。みなさん上手くいっているみたいで」

 希佐がまだユニヴェールにいた頃のクォーツの先輩方は、玉阪座に入門すると稽古、稽古、稽古漬けの毎日を送っていた。それぞれがユニヴェールではトップの実力を誇っていても、玉阪座ではただの新人だ。再びはじまる下積みの日々。それでもあの人たちはいつも楽しそうにしていて、早く一人前になって自分たちの好きなようにやってやるのだと気負い立っていたことを、昨日のことのように覚えている。

「そういえば、白田先輩が今度CDを出すって話だったけど、日本ではもう発売してるのかな」

 その時、スタジオに来訪を知らせるブザーが鳴った。シューズの手入れをしながら二人の話を黙って聞いていたバージルが立ち上がり、扉の方へ歩いていく。注文した料理が届いたようだ。バージルが戻ってくる姿を見ながら、希佐は床に座り込んでいた腰を上げた。

「上で食べようか。手も洗いたいし」

 希佐はバージルからケバブの入った紙袋を受け取ると、二人を先に二階へと向かわせた。今度はカタカタとキーボードを叩いているアランの傍に立った希佐は、紙袋の中を覗きながら声をかける。

「ラムとチキン、どちらがいい?」

「チキン」

 アランは画面に目を向けたまま短く答えた。希佐は白い薄紙に包まれたドネルサンドを取り出すと、紙ナプキンを敷いた机の上にそれを置く。そして、邪魔をしないようそのまま立ち去ろうとしたが、不意に伸びてきた手が希佐の腕を掴んだ。軽く引き寄せられると、アランが希佐の胸元に、ひそやかに顔を埋めてくる。

「……大丈夫?」

「少しだけ」

 希佐は階段の方に視線を送ってからアランに向き直ると、空いている方の手を持ち上げた。指を髪に絡ませ、その頭にキスをする。

「汗くさくない?」

 希佐が苦笑いを浮かべながら問いかけても答えはなかった。だから希佐も口を噤んで、アランの頭に頬を寄せた。どうにも様子がおかしいと思うが、その理由を尋ねてみたところで、結局は黙りなのだろう。もしかして、不調が続いているのだろうかと希佐は思う。出会ってからの三年間、一度たりともなかったことではあるが。

「……ありがとう」一分ほどが過ぎて、アランが言う。「落ち着いた」

 やはり、何も尋ねない方が良さそうだ。希佐は自分から離れていくアランの額にキスをすると、緑の目を覗き込んで微笑みかけた。

「少し気晴らしにでも行く?」

「気晴らし?」

「朝になったら、お散歩にでも。それからどこかで朝食をとって、あとは帰ってきてぐっすり眠るの」

「もう締め切りが近いんだけど」

「半日くらい大丈夫」

「全然大丈夫じゃない」でも、と言いながら、アランは少しだけ口角を持ち上げた。「いいよ、行こうか」

「じゃあ、七時半に」

「分かった」

 イギリスの冬の日の出は遅く、日没は早い。夏が近づいてくると、日没が午後十時近くにあることもあり、こちらへ来たばかりの頃は不思議に思ったものだった。

 アランと約束を交わしてから二階に向かうと、バージルは勝手知ったるというふうに、棚から取り出した皿やグラスをテーブルの上に並べていた。加斎は電話で誰かと話をしている。

「誰にも言わないでホテルを出てきたんだとさ」

「え、大丈夫なの?」

「頭のお堅い連中はどこにでもいるからな」

「だから、友達のところに──『って、面倒臭いなぁ』」加斎はそう日本語で愚痴をこぼしてから、希佐の手からケバブの袋を受け取っていたバージルを横目に見た。「バージルも一緒なんですけど、それでも問題ですか?」

「あっ、お前──」

 俺を言い訳に使いやがってという顔をしながら、バージルは加斎から半ば押し付けられたスマートフォンを受け取る。Helloと口にしてから、こちらも面倒臭そうに応対していた。存外面倒見の良いバージルのことだ、この後加斎をホテルまで送り届けるくらいのことはしてくれるのだろう。

『本当に何も言わないで出てきたの?』

『君と少し話をしたらすぐに帰るつもりだったんだ。まさかバージルに会うとは思わなかったし、その上稽古まで受けられるっていうのに、それを逃す手はないだろ?』

 それならそれで連絡を入れておけばよかったのにと思いはするものの、一緒に稽古をしないかと誘ったのは、他ならぬ希佐自身だ。手を洗いながら差し出がましいことは言うまいと決意し、注文した料理をテーブルの上に並べていく。

「はいはい、俺が責任を持って……ん? ああ、分かってるって。ちゃんと顔は出すよ。んじゃ、また」バージルはそう言って電話を切ると、スマートフォンを加斎に向かって放った。「スペンサーが話を合わせてくれたから、後で礼でも言っておくんだな」

「はーい」

「……おい、キサ。こいつ、昔からこんな感じなのか?」

「うん、このまま。これで先輩方からは可愛がられていたみたいだけど」

「まあ、だよな。こういうタイプのやつは人懐っこいし、稽古熱心で、やる気もあるから、歳上連中に好かれやすいんだ。だから、一部からは妬まれる。なんであいつばっかりってな」

「俺は全然遠慮とかしませんからね。立ってるものなら何だって使います。そもそも、あれが分からないとか、これが分からないとか、そうやって悩んでる時間って絶対に無駄でしょ?」

「この世界にはお前みたいなやつもいれば、そうなりたいのになれないやつだっているんだよ」

 バージルは袋の中から取り出したドネルサンドのシールを確認すると、チキンと記されたそれを希佐に渡してくる。希佐は、ありがとう、と言ってそれを受け取ると、自分の皿の上に置いた。

「加斎くん、何を飲む? とは言っても、砂糖抜きの炭酸水とサイダーと水くらいしかないんだけど」

「炭酸水をもらうよ」

「冷えたやつ? 常温?」

「冷えたやつで」

 加斎にはよく冷えた炭酸水、自分には常温の水を持って、希佐はテーブルに戻った。

「チキン食いたいやつは食っていいぞ」

「じゃあ、俺も食べようっと」

「キサは?」

「一つだけもらおうかな」

 希佐と加斎が横並びに座り、いつもアランが座っている席は空けて、その隣にバージルが腰を下ろしていた。アランがいつ現れてもいいようにという、バージルなりの気遣いを感じた。

「そういえば」加斎が口に含んだドネルサンドを飲み込んでから言った。「アイルランドにいた頃は何をしていたの?」

「何、って……何も」

「えっ?」

「何もしていなかったよ。しいてあげるなら、英語の勉強を頑張っていたかな。あと、ダブリンも演劇が盛んな街だから──」

「どこかの劇団に所属したりした?」

「ううん」食い気味に問いかけてきた加斎の言葉に、希佐は首を横に振る。「働いて稼いだお金のほとんどは演劇鑑賞に注ぎ込んでた。語学学校に行くとお金がかかるから、毎晩のようにパブに通って、地元の人たちに英語を教えてもらっていたんだ。みんな面白がっていろいろ教えてくれたし、友達もできたよ。わざわざダブリンからロンドンまで舞台を見に来てくれる人もいるから、本当にありがたくて」

「じゃあ、ここに来るまでは本当に何も? ダンススクールとかアクティングクラスとかは?」

「加斎くんはそういうスクールに通ったの?」

「あ、うん。体が鈍るから練習場所が欲しかったし、オーディションの情報も得られやすくなるから」

「そうなんだね」

 探してみればダブリンの街にもモナスクールのような教室はあったのだろう。だが、希佐は考えもしなかった。いや、そうした教室に通おうと思えるだけの、心の余裕がなかったのだ。あの頃はまだ、再び舞台に立つ自分の姿など、想像することもできてはいなかったのだから。

「今考えると凄く恥ずかしいんだけど、公園の人目につかないような場所で、舞台で見た役者を真似るごっこ遊びみたいなことをしててね。あれはどこかで笑われてたんじゃないかな」

 今思えば笑い話でも、当時の希佐は舞台というものから離れようにも離れることができず、必死に縋りついているような状態だった。光り輝く舞台上の光景を、忘れることができていなかった。だから、たとえごっこ遊びでも楽しかったのだ。あの瞬間は、酷く救われるような気持ちがしていた。

「あとは見た舞台の原作本があればそれを読んでみたり、勉強のために脚本に起こしてみたり──私がやっていたことといえば、それくらいかな」

 そうして希佐が話しているのを、バージルはなぜか神妙な面持ちで聞いていた。メシが不味くなると言われそうな気がして口を閉じると、加斎が代わりに口を開いた。

「ロンドンに来てからは?」

「あんまり変わらないよ。平日は働きながら勉強をして、週末は舞台を見に行ってた。ロンドンに来て一年くらい経った頃にアランと出会って、なんだかんだで劇団に入ることになって、今に至る、みたいな感じかな」

 考えてみれば、希佐は自分の昔の話を、アラン以外の誰にも語って聞かせたことがなかった。バージルには、ビザの申請をしなければならなかったときに、ユニヴェールのことを少しだけ話はしたが、それ以外のことを話した覚えはない。自分はあの頃のことを、こんなにも何でもないことのように話せるようになったのだと、妙に感慨深い気持ちになる。

「加斎くんはやっぱり凄いね」

「どうして?」

「だって、自分の夢のために頑張ってきたんだもの。もちろん、今も同じくらい頑張っているんだろうけど。私はオーディションを受けてみようだなんて、思ったこともなかった。そもそも、夢のために海外に出てきたわけではなかったし、私はもう舞台に立つことはないんだろうなって、思っていたから」

 立ちたくても、立てなかった。もう立てないという希佐自身の思い込みが問題だった。そうでないと気づくまでに二年もの年月を費やしてしまったが、その一見無駄だったとも思える日々が、今の希佐には必要なものだったのだ。あの日々があったからこそ、今がある。今なら、そう言える。

「加斎くんに比べたら少し出遅れてしまったかもしれないけど、私も今は頑張ってるよ。やっぱり舞台っていいよね」

 それぞれの話を終えて帰る頃になっても、加斎はどこか浮かない顔をしていた。

 帰り際にトイレを貸して欲しいというのでバスルームの場所を教えてから、希佐はテーブルを手早く片付ける。食器を洗うのは二人を見送ってからでいいだろうと思っていると、その背中にバージルが声をかけてきた。

「お前にもいろいろあったんだな」

「え?」

「訳ありだろうなとは常々思ってたけど。若くして国を飛び出して、フラフラ放浪して、よくスレなかったと思うよ」

「私、スレてないように見える?」

「もともとのお前を知らないから、なんとも言えねぇけど。でも、お前の目にはいつも覚悟があった。出会った頃からずっとな。最初のカオスの公演準備期間中なんて、これが最初で最後のチャンスだ、みたいな顔してたし。この公演が終わったら、このままカオスからも、この国からもいなくなるのかもしれねぇなって思ってたよ」

「透けて見えてた?」

「ああ、なんとなくな。アランは何も言わなかったけど、結構必死だったと思うぞ。お前を引き止めるためにいろんなこと考えてただろうし。あとはイライアスも」

「本番のイライアス、凄かったもんね」

「あいつはお前のこと気に入ってるから。離れたくなかったんだろうよ。だから、本番は本気でぶつかっていった、なりふり構わずな。結果、お前はあいつの未来まで変えちまった」

「あれはイライアス自身にその才能があったからだよ」

「でも、あいつは自分の殻の破り方を知らなかった。誰もその手助けをしてやれなかった。俺たちはただ待ってただけだ。サナギが羽化して、綺麗な蝶になるのをさ」

 それを、自分のおかげ、などとおこがましいことは思わない。でも、自分の殻を破る手助けができたことは、素直に嬉しいと希佐は思うのだ。今のイライアスは舞台から舞台へと渡り歩く売れっ子の舞台役者だ。幼馴染のアイリーンはそれを少し悔しがっているが、嬉しそうでもあった。

 バージルがアランと話があるというので、希佐は加斎を連れて、先にスタジオの外に出ていた。

『今日は来てくれてありがとう、加斎くん。話ができてよかったよ』

『俺も、立花と話ができてよかった』加斎はそう言ってから、僅かに表情を引き締める。『俺、立花のことは誰にも言うつもりないから、そこのところは安心して』

『……ありがとう』

『ユニヴェールを飛び出して行った後の君の苦労も、その後の頑張りも、俺には想像することしかできないけど、きっと大変な毎日だったんだと思う。立花は俺のことを凄いって言ってくれたけど、立花も凄いよ。素直に尊敬する』加斎は、でも、とその先を続けた。『その上で言わせてもらうけど、俺は今のままじゃダメだと思うんだ』

『……え?』

『立花は確かに凄いことをしてる。たった一人で、何の伝手もないままロンドンまで来て、成功してる。たくさんのことを乗り越えてきたからこそ、今の立花がいるんだと思う。だけど、俺は立花のことだけじゃなくて、日本のみんなのことも知っているから、どうしても考えてしまうんだよ』

『日本の、みんな……』

『自分の意思で日本を飛び出した君にとっては、大した問題じゃないのかもしれない。でもね、君のクォーツの仲間たちは、今でも君のことを気にかけているし、心配だってしてる。それはそうだよね、君は突然みんなの前から姿を消してしまって、それ以来、どこで何をしているのかも、その生死さえわからないままなんだから』

『……私、は』

『勘違いしないで、俺は君を責めてるわけじゃない。今なら、どうして君が突然いなくなってしまったのか、その理由が分かるから。無理もないことだよ。自分が女性だってバレてしまったら、色んな人に迷惑がかかるって思ったんだろ? そして、それは今も変わらない。立花希佐が女性だという秘密が世間に知られてしまったら、その責はユニヴェールに──中座校長や理事に向けられる。ユニヴェールが大好きな君だもの、そんなことになったら自分が許せなくなってしまうよね』

 考えないようにしてきた、目を背けてきた現実を、まざまざと突きつけられていた。希佐は口を噤み、黙している。加斎はそんな希佐の目をじっと見つめていた。

『君の気持ちは分かる。それでも、このままじゃダメなんだと思う。君ばっかりが前に進んだって、日本にいる君の仲間たちはこうしている今も、立花希佐のことを忘れられずにいるんだ。彼らの中の立花希佐は、最後のユニヴェール公演のときの姿のまま、今も時間を止めているんだよ』

 バージルが加斎をバイクの後部座席に乗せて去って行っても、希佐はその場からすぐには動き出すことができずにいた。

 加斎が言っていたことのすべてが正論で、反論の余地もない言葉だったからこそ、無視をすることができなかった。加斎の言葉は希佐の心を大きく抉り、揺さぶった。自らの決意が揺らいでしまう程度には。

 聞きたくなかったと、そう思ってしまった。ようやく、自分のために生きていくのだと覚悟を決めた矢先に、山は再び現れる。谷底から見上げるその山はあまりに高く、その頂に建つユニヴェールは、遠い。

 スタジオの扉を背にして立ち、夜空を見上げた。曇天の空だ。月もなければ、星も見えない。地上の光を吸収した分厚い雲が薄気味悪く垂れ込めていた。

 加斎の言葉の一つ一つが心臓に突き刺さって、未だ抜けない。

 忘れてくれればいいのに。忘れてほしい。忘れてくれ。残酷にもそう願ってしまいそうになる。すべての人の記憶の中から、立花希佐という存在を消し去ってほしいと思った。しかし、そう思ってからすぐに、後悔する。なんていう愚かな願いだ。ユニヴェールは立花希佐の夢で、運命で、人生だったのに。

 三十分ほど外の空気に当たってから室内に戻った希佐は、電気を消したスタジオの真ん中に立つと、足を止める。鏡に向き合って立ち、自分の姿を睨みつけた。他者の言葉に思考を左右され、迷ってしまう自分が嫌になる。惑わされてしまうのは心が弱いからなのだろうか。強くありたいと思うのに、実際にはままならない。

 どうすればすべてが綺麗に片付いて、誰も咎めを受けずに済むというのか。男性のみに門戸が開かれたユニヴェール歌劇学校に、女性が在籍していた事実について正当性のある説明を出来る者がいるのか。立花希佐を女性だと知った上で協力を申し出てくれた者たちも、希佐と同様の罰が与えられるのではないか。

 たった一つの過ちのせいで、次から次へと問題が生じ、何一つ解決されることはない。この世界で一番難しい知恵の輪を解くことができる者など、誰一人としていないだろう。

 今のままではダメなことくらい、希佐自身が誰よりもよく分かっているのだ。だからといって、一体どうしろというのだろう。日本に戻り、すべてを打ち明け、地面に額を擦りつけて、涙を流しながら詫びれば、それでいいのか。たったそれだけのことで許されるのなら、希佐はいくらでもそうするだろう。自分一人だけが咎めを受けるのなら、何をしたって構わない。熱灰の中を歩かされようが、汚物の河に沈められようが、刃の葉を持つ木を登らされようが、どんな苦しみにも耐えてみせるだろう。だが、それだけでは許されないのだ。

 それなら、消えるしかないではないか。逃げ出すしかないではないか。誰にも見つからないよう身を隠し、じっとしているしかないではないか。それ以外に、どうすればよかったというのだ。この先一生涯、男として生きていけばよかったのか。女である自分まで捨てて。世界に嘘を吐き続け、それを墓場まで持っていき、死ねばよかったのか。

 分かっている。これは分不相応な怒りで、決して抱いてはいけないものなのだと。一生分とも言える夢を見せてもらった人間が抱いていい感情ではない。それでも、これではあまりに、理不尽ではないか。

 人の苦しみなんて知ったことかと、そう言ってしまえたなら、どれほど楽になれるだろう。少なくとも今は自分の苦しみを背負うことで精一杯だというのに、なぜ誰かの苦しみまで背負わされて、その上責め句を受けなければならないのか。なぜ、自分の人生を、自分の思うままに生きられないのか。

 あの選択を過ちだったとは思いたくないのに。あの三年間が立花希佐をそうたらしめているというのに。

 希佐は自らの怒りを自分自身にぶつけた。体はバージルとの稽古で既に疲れ切っていたが、構わなかった。ダンス以外に発散する術を思いつかなかったのだ。じっとしていると、今以上に思考が支配されて、取り返しのつかないことになるような気がしていた。

 ユニヴェールの思い出を遠ざけるように、ロンドンに来てから学んだダンスを次々に踊った。それでも足りず、何度も何度も、鏡に映る自分を睨みつけながら、繰り返し踊る。

 ユニヴェールで過ごした三年間。イギリスに来て、劇団カオスの一員として過ごした、三年間。

 結局、どちらも捨てられない。すべてが希佐の一部になっているのだ。それが邪魔になったからといって、そこだけを切り取って、なかったことにはできない。

 希佐にはもうどうしたらいいのかが分からなかった。いっそ観覧車のてっぺんからテムズ川に身を投げてしまった方がいいのではないかとすら思う。そうすれば、何かに悩む意味も、理由も、消失するのだから。そんなこと、もう二度と考えたくなどなかったというのに。

 途中、息が苦しくなって足を止めた希佐の耳に、ぱちん、と両手を打ち鳴らす音が一度だけ聞こえた。後ろを振り返ると、事務室の手前にある長テーブルに座ったアランが、こちらを見ていた。

「もう終わりにしたら」

「……今、何時?」

「午前三時」

 希佐は思わず笑ってしまう。一体何時間踊り続けていたのだと考えながら、乱れた呼吸を整えていた。

「いつから、そこにいたの?」

「一時半くらいかな」

「脚本は?」

「休憩中」

「うるさかった?」

「いいや」

 いつもなら最も集中して執筆を行なっている時間帯のはずだ。

 希佐は息を大きく一つ吐き出し、アランがいる方へと歩いていく。事務室からスタジオに向かって伸びている光を踏み越え、アランの傍に立つと、その隣に腰を下ろした。

「彼に何か言われたの」

「……今のままではダメだって」

「なにが?」

「私ばかりが前に進むこと」希佐はもう一つ大きく息を吐く。「日本では、私がユニヴェールを逃げ出した日から、私の時間が止まったままなんだって。私はいつまで経っても18歳の立花希佐で、そのときの姿のまま彼らの記憶に留まっていて、忘れられていないって」

 希佐はまるで他人事のようにい言う。そうして未だ燻っている怒りの感情を消し去ろうとしていた。この怒りをいつまでも自分の中に閉じ込めていても、何もいいことはない。

「もうすぐ五年も経つのに」

「俺はどちらにも共感できるから君の期待に沿うようなことは言えない」アランはスタジオの反対側の壁を見ながら言った。「もし俺が明日の朝にも忽然と姿を消したらどう思う? そのまま五年の時間が過ぎたら?」

「……その質問はずるい」

「ずるくないよ」アランはあまり感情を表に出さずにそう言うと、隣に座っている希佐を見た。「明日の朝の約束を残したまま俺が姿を消したら、君は耐えらえる?」

 ずん、と後頭部を殴られたような衝撃を感じたのは、それがあまりに身に覚えのある問いかけだったからだろう。

 ユニヴェール公演後、高科更文と交わした約束を今でも覚えている。個人賞金賞のご褒美に、何でも好きなものをご馳走してやると、そう言われたのだ。次の、お互いの休日に。果たされない約束をした。それを果たせないと分かった上で。

 希佐は大きく見開いた目を軽く伏せると、首を横に振った。

「五年前の君はそれをした。でも、俺はそれも仕方のないことだったと思う。君はまだ子供だったんだ。君の中ではそれが最善だった。それは責められるべきことじゃない」

 希佐は思わず質問しかけて、寸前のところで踏みとどまった。質問の答えは分かりきっている。アラン・ジンデルという人は、明日の朝になって希佐が忽然と姿を消していても、きっと取り乱しはしない。ああ、ついにその日が来たのかと受け入れ、何でもない一日を送るのだろう。

 だが、希佐にそれをどうこう言える筋合いはないのだ。自分もそれと同じことをしてきたのだから。

「でも、もし俺が五年前に君に置いていかれる側の人間だったとして、五年後の君が自分自身の力で成功を掴んだのだと知ったら、それもまた一つの物語として喜べると思う。自分の人生を切り拓いていけるのは、所詮自分しかいないんだ。その人自身が正しいと信じて選択された道は尊重されるべきものであってほしいと思うし、簡単に否定していいものでもない。もちろん、人道に反していなければ、だけど」

「……私はどうしたらいいと思う?」

「それを考えて決められるのはこの世界に君一人だけだ。たとえ世界一の演出家だって他人の人生までは演出できない。俺は好きなようにすればいいと思うけど、でも俺がこんなふうに言うと、君はあまりに投げやりだとへそを曲げる」

「へそを曲げたりはしないけど」

「俺に言わせれば、五年も自分のことを放ったらかしにしてたやつのことを、どうしてそこまで思えるのかって不思議になるよ。でも、そこはそれ、君の魅力がなせる技なのかもしれないな」

「どういう意味?」

「君は生来の人たらしってことだよ」アランは笑うでもなくそう言った。「一度でも君の魅力に触れて、それを知ってしまうと、もう知らなかった頃には戻れない。君が演じる姿はあまりに鮮烈で、脳裏に焼き付いて離れなくなる。人柄もそうだ。自分を犠牲にしてでも、周りの人間を助けてやろうとする。多少の無理を押してでも。それが見ていて危なっかしいから、放っておけない。強がって見せていても、ときどき本人の隠したがっている弱い部分が剥き出しになるから、手を差し伸べずにはいられない。そうしているうちに、誰もが君のことを好きになる」

「……あなたもそう思った?」

「俺は──」

 希佐が隣を見上げると、こちらを見ていたアランと視線がぶつかった。すると、アランは何かを言いかけていた口の形をそのままに、急に黙り込んでしまう。そして、その瞬間を切り取ろうとするように、緑の目をゆっくりと瞬かせていた。

「アラン?」

「うん」

「どうしたの?」

「君に見惚れてた」予想外の返答に目を丸くすると、アランはほんの少しだけ笑った。「惚れた欲目かな」

「あなたってそんなに私のことを好きだった?」

「気づいてなかったの」

「自惚れかと思って」

「下手なりに言葉にしてきたつもりなんだけど」

 そう言ったアランを見上げて、希佐は微笑した。

 知っている。本当に、本当に、大切にされていること。肌に触れる感覚から伝わってくる。頬に添えられる手。うながされるように持ち上げられる顎。首筋をなぞる指先。優しく押し付けられる唇。少しだけ食んで、離れていく。

「怒りは収まった?」

「あ……うん、収まったみたい」

「そう」アランは名残惜しそうにもう一度だけキスをしてから、ゆっくりと立ち上がった。「俺は仕事に戻るよ。朝までにもう少し話を進めておきたいから」

「大変なの?」

「脚本?」頷く希佐を見てから、アランは別の方向に視線を逃した。「大変というか、なんというか」

「うん」

「しんどいんだ、ずっと。誰かに心臓を握られているみたいで、息が苦しい」

「……大丈夫?」

「ダメかも」アランはため息まじりに言った。「こんな仕事、引き受けるんじゃなかったって思ってる」

 こういうとき、希佐は何の助けにもなれない自分自身を不甲斐なく思う。アランはいつだって落ち込んでいる自分の手を取り、うながし、導いてくれた。だからこそ力になりたいと思うが、希佐にはその手段がない。

「とりあえず、朝までは何とか書き続けるよ」

「無理はしないで」

「それはどっちのこと?」アランはぐうっと伸びをしながら、事務室に向かっていく。「これでも君とのデートを楽しみにしてるんだけど」

 この話をすると周囲の人々に信じられないという顔をされるが、希佐はアラン・ジンデルが脚本を手掛けた映画を見たことがなければ、小説を読んだこともなかった。どちらも手を伸ばせば届く場所にある。アランの部屋の棚の中に、すべてが綺麗に収まっていることは知っている。棚の中のものは好きに見ていいとも言われている。アランにしてみれば、それを希佐が見ようが、読もうが、どちらでも構わないのだろう。

 だが、本人が金儲けのためだけに書いているという作品には、どうしても手が伸びなかった。きっと良い作品ばかりなのだろうとは思うのだ。様々な賞を受賞しているという話はメレディスからも聞いている。

 希佐がそれらの作品に触れれば、きっと酷くのめり込むか、何の興味も示さないかの、どちらかだろう。いずれにしても恐ろしいのだ。作品にのめり込んでその世界から出てこれなくなることも、何の興味も抱けないということも。だから、今の今まで、触れられなかった。

 しかし、今になって初めて、希佐はアランが書いている脚本に興味をそそられている。あのアランを酷く苦しめている脚本とは一体どんなものなのだろう。盗み見ようとまでは考えないが、もしそれが発表された暁には、実際にその世界を見てみたいと、そう思うのだ。

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