ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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嫉妬

 あれから一週間ほどが過ぎた頃、加斎中が再びスタジオを訪ねてきた。一人稽古をしていた希佐は、扉を開けたところに立っていた加斎の姿を見て、思わず目を丸くしてしまう。

『加斎くん、公演期間中でしょう?』

『うん』

『こんな時間に出歩いてていいの?』

『大丈夫だよ、今日は演出家も一緒だから』

 希佐は急に嫌な予感を覚え、加斎の肩越しに向こう側を見た。すると、そこには支払いを終えてタクシーを降りてきたスペンサーの姿がある。どうやら本当に遊びにきてしまったらしい。訪ねてくるのなら連絡の一つでも入れてほしいと思っていると、そうした希佐の思考を読み取ったようにスペンサーが言った。

「急に訪ねて来てしまってすまないね、キサ。でも、断りの電話を入れるとアランは絶対に来るなと言うから、いつも黙って遊びに来るんだ。もしかして、都合が悪かったかい?」

「アランは脚本の執筆をしていますし、今日はイライアスが来る予定なので──」

「ああ、それは素晴らしい!」

「いえ、だから、あの……」

 スペンサーは希佐が止めようとする声も聞かず、扉の隙間をするりとすり抜けて、スタジオの中に入って来てしまった。それを見て諦めたように息を吐いた希佐は、外で行儀よく待っている加斎をスタジオの中に招き入れた。

 いつも開けたままにしている事務室の扉は固く閉ざされている。ここ最近、アランは少し神経質になっていて、靴底が擦れる音すら気になっている様子だったので、希佐が気を使って閉めておいたのだ。しかし、スペンサーはそんなことお構いなしに扉を開け、事務室の中に入っていってしまった。

『ごめん、迷惑だった?』

『えっ? あ、ううん。私は平気なんだけど、アランが忙しくて』

 可能なかぎりそっとしておいてあげたいというのが希佐の心情だが、アランのことだ、邪魔なら邪魔だと言って、部屋から追い出すくらいのことはするだろう。そうしないということは、別段そこにいても構わないということだ。

『それで、今日はどうしたの?』

『スペンサーがここに来るっていうから、連れて来てもらっただけなんだ。ごめん』

『……どうして謝るの?』

『この前は俺の気持ちを一方的に押し付けるような言い方をしてしまったから、謝りたくて』

『謝る必要なんてないよ』希佐は苦笑いを浮かべながら加斎を見た。『そんなに気にしてくれなくてもいいのに』

『それって、もう自分には関わらないでほしいって意味?』

『えっ? どうしてそう思うの?』

『なんとなく、そう聞こえたような気がしたから』

 希佐は少し困った顔をしてから、どこか強張った表情を浮かべている加斎に向き合った。

『そう聞こえてしまったのなら、こちらこそ、ごめんなさい。他意はないんだ。本当にそう思っただけ。ここ何年も日本語で話すことなんてほとんどなかったから、上手く言葉が出てこないんだよね。最近は独り言も、夢に見るのも英語ばかりで』

 イギリスかぶれって言われてしまいそうだねと言って、希佐は笑った。

 ロンドンでは日本人をよく見かける。パブで働いていたときも、日本人の客は多かった。でも、希佐は徹底的に日本人を避けてきた。自分の過去について尋ねられたとき、その返答に困ってしまうからだ。適当に嘘を吐くこともできたが、いずれどこかで綻びが生じる。特に、ウエスト・エンドに足を運ぶような人は、ユニヴェールを知っている可能性が高い。身バレをすれば最後、立花希佐が実は女性だったという話が、瞬く間に広がってしまうかもしれないと思うと、迂闊に言葉を交わすこともできなかった。

『また会いに来てくれて嬉しいよ、加斎くん』

『君ってば、本当に……』

『うん?』

『お人好しだよね。そういうところ、ユニヴェールにいた頃から変わってない』

『そうかな』

『そうだよ』

 本当のこと、正しいこと、指摘されたくなかった現実を真っ直ぐに突きつけられたからこそ、腹が立った。怒りが湧いた。でもそれはお門違いな感情で、今となっては申し訳なかったと、心から反省をしている。

『加斎くんも、物事を的確に捉えて、それについて正しく意見できるところ、変わってないね』

『思っていることは自分の言葉で伝えないと、正しく伝わらないような気がするんだ』

 どう思われるかを心配して口を噤む人より、それを恐れず口に出せる人の方が、明らかに強い。自分もそうでありたいとは思うものの、理想と現実の乖離は顕著だ。

 希佐は、加斎との会話が途切れたタイミングで、事務室を振り返った。扉は再び閉ざされている。幸いと言うべきか、スペンサーは部屋から追い出されて来ないので、中での会話は成立しているらしい。

『あのさ、立花』

『なに?』

『これからのこと、聞きたかったんだ。君がどう思っているのか』加斎は希佐をまっすぐに見つめてくる。心の準備ができていない希佐は、困惑を隠しきれずにいた。『もう日本に戻るつもりはないの? このままイギリスで暮らしていくつもり?』

『それは……』

『即答できないってことは、日本やユニヴェールに思うところがあるってこと?』

『加斎くん、私はまだ──』

 もしかしたら、加斎の中では、あれからもう五年が過ぎると、そういう考えなのかもしれない。しかし、希佐の中では、まだ五年だ。心の整理がつけられていない。五年もの歳月が経過しても尚、その問題に真正面から向き合うことができていない。これからどうしていくかは、その先にある問題なのだ。

 しかし、希佐が困惑の表情を浮かべたまま口を開こうとしたそのとき、スタジオの扉が開かれた。希佐がそちらに目を向けると、首に巻いたストールに半分ほど顔を埋めたイライアスが、寒そうにしながら中に入ってくる。

「やあ、キサ──」

 イライアスは希佐に向かって挨拶をするが、見慣れない人物がそこに立っていることに気づくと、思わずというふうに眉間にしわを寄せた。被っていたニットの帽子を脱ぎながら二人を見比べていたかと思うと、今度はストールを外しながら希佐の側までやってくる。

「キサ、誰?」

「あ、ああ、えっと、彼は日本の学校の同期で、加斎中くん。加斎くん、この人は同じ劇団に所属している、イライアス」

「よろしく」

 友好的にその手を差し伸べ、笑みを浮かべている加斎とは対照的に、イライアスは無表情だった。差し出された手を見てはいるものの、握り返そうとはしない。これがイライアスの平常の状態なのだが、加斎はその態度を不躾だと思っている可能性は大いにある。

「加斎くんは普段アメリカのブロードウェイで活動しているんだけど、今は公演のために来英していて──」

「スペンサーの?」

「うん」

「そう」

 結局、イライアスが加斎の手を握り返すことはなかった。それどころか、加斎の存在などないものとして振る舞うことに決めたらしく、早々に視線を逸らすと自分の荷物を置きに行ってしまった。

 加斎はその様子を眺めながら、行き場をなくしてしまった手を引っ込め、苦笑いを浮かべていた。

『ごめん、加斎くん。悪気があるわけじゃないんだ。最初は誰に対してもあんな感じで』

『いや、いいんだ。それに、立花が謝ることでもないだろ』

「キサ、ストレッチ付き合って」

「あ、うん。いいよ」希佐はそう応じてから、加斎に目を向ける。『加斎くんも一緒にどう?』

『いや、今日は遠慮しておくよ。見学させてもらう』

『そっか、分かった』

 自分のマットを持ってイライアスのところまで行き、向かい合うようにそれを敷いて、腰を下ろす。既にある程度は体をほぐし終えていた希佐だったが、イライアスの動きを真似てストレッチをはじめた。

「結局キサの舞台を見に行けなかった」

「イライアス、今忙しいからね」

「どうだった?」

「楽しかったよ。録画データをもらったから、時間があるときにでも見てみる?」

「うん」

「私は今のところ何の仕事も入れていないから、イライアスの今度の舞台は見に行けそうだよ。チケットが手に入るかどうか分からないけど」

「チケットのことは気にしないで、僕が招待するから」

 イライアスのストレッチは相変わらず美しかった。頭のてっぺんから爪先まで神経が行き届いている、などというありきたりな表現では、明らかに足りない。呼吸で波打つ胸の動きにさえ芸術性を感じさせるのだ。体の造りからして違う。希佐ですら目を見張る努力の末に手に入れたその類い稀な造形美は、あまりに完成され過ぎていた。簡単な動きの一つ一つにこそ命が宿り、目を奪われるような優美さがあった。

 男性的でも、女性的でもない。そのどちらにもなれる、中性的な美しさがある。相当魅力的な相手役でないかぎり、今のイライアスの隣に立つ者は、その存在自体が霞んでしまうことだろう。

 自分にもう少し身長があったら、手足が長かったらと思わないでもないが、今更ないものねだりをしたところで仕方がない。こんなにも近くにお手本のような人がいてくれるのだ。この人の美しさを少しでも盗み取るためには、努力を怠ってはいられなかった。

「キサ、腰をもう少し内側に入れて。ゆっくり息を吐きながら、体を倒す」

 女である自分の体の方がやわらかくできているはずなのに、同じように動けないことが悔しい。希佐がそう思って眉を顰めていると、イライアスは花が綻ぶように微笑んだ。

「大丈夫、綺麗だよ」

「どうもありがとう」

「嘘だと思ってる顔してる」

「イライアスは何でも褒めてくれるから話半分に聞くことにしてるの」

「本当に綺麗なのに」

 初めて日舞を舞って見せてくれと言われたときも、拙い舞を見て綺麗だと称してくれたことを希佐は思い出す。自分よりもずっと美しい人に綺麗だと褒められると、嬉しいような、照れくさいような、恥ずかしいような、奇妙な心地がするのだ。昔を思い出してしまうからだろうか。加斎と再会してからこちら、日常のほんの些細な出来事でも、それがユニヴェールの思い出と紐付けられ、引き摺り出されるようになってしまっていた。

 不意に視線を感じて鏡越しに加斎を見やれば、こちらをじっと見ている姿が目に留まる。睨むような、真剣な眼差しだ。一瞬、体の動きが硬くなった。

「キサ」その瞬間、その変化を察知したようにイライアスが言った。「困ってるの?」

「え、何が?」

「見られて、困ってる」

「ううん、そうではなくて」

 加斎の視線の意図が掴めなかった。最初はイライアスを見ているのだろうと思っていたが、どうやらそうではない。正しくは、イライアス越しに希佐を見ていた。まるで、二つで一つのものをみるように。パートナーと呼ばれるものを、見るような目で。

「見たがっているみたいだし、見せてあげたら?」

「……何を?」

「キサが踊れるんだってところ」

「つい一週間前にバージルの稽古を一緒に受けたんだよ。私がどれくらい踊れるかは分かっていると思う」

「それなら、僕が見せる」

 加斎の露骨な眼差しが、どうやらイライアスのスイッチを押してしまったらしい。例の、本気のやつだ。本番以外ではほとんど見られない、酷く鋭く、色気のある視線が、希佐に向けられた。

「私も一緒に踊るの?」

「嫌?」

「ちょっと待って」

 生半可な気持ちでは、イライアスとは踊れない。本気のイライアスにはついていけない。絶対に置いていかれてしまう。そんな不恰好なものは見せられない。何より、それではイライアスに申し訳がない。

 大きく息を吸う。気持ちを整える。

 以前カオスの舞台で競技ダンスを題材にした公演を行ったことがあった。一年生の頃のウィーク・エンド・レッスンでは踊るのをただ見ていただけだったが、その後の公演で何度もペアダンスは経験している。そう思って披露した結果の反応は、タップダンスのときとあまり変わらなかった。やはり、ユニヴェールのダンスと社交ダンスとでは、少し違うようだ。

 アランはその場で社交ダンス教室の予約を入れ、希佐とイライアスをペアにして放り込んだ。以降三ヶ月、時間さえあれば二人で踊り続けた。あのときの感覚は、今も希佐の体に深く刻まれ、忘れようにも忘れられない。それが、ユニヴェールの舞台上ですら得られなかった経験だったからだ。

 もともとスタンダードダンスの基礎が入っていたイライアスは、希佐を置き去りにして、あっという間に道の先へと走っていってしまった。しかし、追いかけることに必死だった希佐のところにいつの間にか戻ってくると、この手を取って、一緒に隣を歩いてくれた。二人で仕上げたダンスは大喝采を浴びたが、本番はイライアスのリードに助けられた部分が大きい。どうにも納得ができなかった希佐は、今でもときどき社交ダンスのスタジオに通い、先生のレッスンを受けている。

 社交ダンスは好きだ。一曲のダンスの中には必ず二人の物語があって、それを踊りながら演じている。ダンスの中には幸せな恋愛もあれば、悲恋もある。ハッピーエンドは苦手だと言ったアランの言葉通り、あの公演は悲恋の物語だった。物悲しく、美しい。金色にきらめいていた、あの夏の公演とは違って。

 希佐は自分の中に気持ちを作っていく。自分ではない誰かの思考を作っていく。血潮を染めていく。指先から爪先まで、別の人間に作りかえていく。

 大きく吸った息を、吐き出した。

 

 

 遠くの方から微かな音楽が聞こえてきていた。これが自分の曲でなければ、そこまで気にも留めなかっただろう。スペンサーの話を聞くことにも飽きていた。

 アラン・ジンデルは座っていた椅子から立ち上がると、その傍らで何やら熱弁していたスペンサーの肩を押しやり、スタジオに足を向けた。おい、とか、話を聞け、という声は無視をした。もっと面白いものがこの扉の先にあることが分かっていたからだ。

 床に置かれたスマートフォンから音楽が流れている。男が立ち、女を迎え入れるように腕を広げた。女は一度伏せた目を男に向け、導かれるように歩み寄っていく。男の左手と女の右手が重なり、女は男のホールドの中へ。女の背中は驚くほど仰け反り、やわらかくしなった。女の掲げた左腕が、まるでスローモーションのように下りて、男の腕に添えられる。左右に体を揺らすステップ──次いで大きく踏み出される足並みは、舞台の本番のときよりも、ぴたりと揃っていた。

「上達してる……」

 イライアスが踏み込む足に、希佐は怯むことなくついていく。イライアスの体にぴたりと骨盤を寄せ、そこを起点にしてしならせている背中は、以前よりも美しい曲線を描いていた。その状態で、ほぼ自立している。仰け反らせている体を自らで支え、イライアスのリードについていっていた。リーダーの右手は、パートナーの背中に添えられているだけのように見える。

 麗しの三拍子。フロアを滑るような、なめらかな動きに見えていても、実際には違う。優雅に見えるほど筋肉は酷使され、体は軋むのだ。だが、この二人はそれを一切感じさせない。パートナーはリーダーのホールドの中で美しく咲く花だった。繰り返される回転と前進。静止し、ポーズを取る。リーダーがパートナーの美しさをひけらかすように、最も美しく見える姿を形作る。

 不意に、希佐と目が合った。あの舞台の登場人物が憑依しているのだと分かる。だが、それを憑依などと言ってもいいのだろうか。あの女は確かに、立花希佐の中から生まれ出で、育まれたものなのだ。

 希佐は、パートナーとワルツを踊りながらも、フロアの外でそれを見ていることしかできない秘密の恋人を誘惑するように、アランを見て蠱惑的な微笑を浮かべた。

 途端、なぜか屈辱的な敗北感のようなものを覚え、アランは自らの感情の動きに困惑した。暴力的なまでの美しさと芸術性を目の当たりにしているというのに、その心に宿るのはあまりにどろどろとした、惨めな思いだった。

 挑発されている。イライアスが挑発しているのだ。あの加斎中という青年に──だけではないだろう。これを見ているすべての者に向けて、今ここで最も希佐を美しく輝かせることができるのは、自分なのだと。

 イライアスに他とは違う才能を見出し、育ててきたのはアランだ。だが、その才能に水を与え、花を咲かせたのは、他ならぬ希佐だった。立花希佐という人間に出会わなければ、イライアスの才能がここまで花開くことはなかったのではないか。アランは、イライアスの成長を誇らしく思うと同時に、ほんの少し、妬ましくも思った。

「アラン」演出家の顔からすっかりダンサーの顔に戻っているスペンサーが、二人のダンスをその目で追いかけながら口を開いた。「私は今、何を見せられているのだろうね」

「ある種の情事かな」

「イライアスのリードがあってこそだとは思うけど、私には彼女しか目に入らないんだよ」

「そう見えるように視線を誘導してる。パートナーを見せびらかしたくてたまらないんだ。あいつはキサに心底惚れ込んでいるから」

 才能と人柄、その両方に。

 でも、希佐自身は気づいていない。その思いがあまりに純粋すぎて、イライアスから自分に向けられている感情が、恋愛的なそれであると分からない。こんなにも見え透いているというのに、希佐だけが、それに気づいていないのだ。

「私はますます彼女と一緒に仕事がしたくてたまらなくなったよ、アラン。独り占めをするなんてあんまりじゃないか」

 音楽が止む。そこで終わりかと思いきや、すぐに次の曲がはじまった。軽やかなクイックステップ。もう一曲と誘うイライアスを見て、希佐は呆れたように笑ってから、その手を取った。

 飛んで、跳ねて、舞う。次々に繰り出される軽やかなステップは、歩幅一つ取ってみても乱れがない。愉快で軽快、とても楽しげで、見ている者の心まで弾ませる。

 希佐はころころと表情を変える。それが人々を魅了するのだ。あるときは穢れを知らない少女、またあるときは純朴な少年。精悍な青年さを感じさせることもあれば、妖艶な大人の魅力を香らせることもある。そのすべての要素が、一人の人間の中に宿っている。稀代の演出家スペンサー・ロローでなくとも、自らが演出する舞台上に立たせたいと望み、願う逸材だ。

「今日はアタルを連れてきて正解だったよ」スタジオの隅には、二人が踊る姿を片時も見逃すまいと見つめている加斎がいた。「イライアスのダンスは良い刺激になったのではないかな。アタルもダンスを強みとするタイプの役者だからね。私は彼を高く評価しているんだよ」

 日本人は貪欲さに欠ける、という話をよく耳にする。だが希佐には、こと演劇に関してはそういった面がほとんど見られない。欲しいと思ったものには、とことん手を伸ばす、その貪欲さがある。おそらく、あの加斎という青年もそうなのだろう。より高い場所にある頂を目指す。絶対に手に入れてやるのだという気概が、他の者とは違うのだ。だからこそ、演出家に気に入られる。打てば響く逸材は、この先も長く生き残っていくものだ。

 次のスローフォックストロットを最後に、二人は互いの手を離した。さすがのイライアスも多少は息を乱している。希佐は、ここへ来たばかりの頃に比べると、随分体力をつけていた。

「いやいや、実に素晴らしかった!」

 今のダンスについて振り返っている二人の間に、スペンサーが割って入っていく。そのあまりにわざとらしい様子に、アランは呆れてため息を吐いた。

 演出家という生き物は意地が悪いものだ。この男もその例に漏れない。スペンサーは故意に二人の間に割って入り、邪魔をすることでどんな反応を示すのかを見てみたかったのだ。

 二人の反応はアランの予想通りだった。希佐は何の疑いもなくスペンサーの賞賛を受け取り、イライアスは些か不満そうな面持ちで軽く会釈をする。

 イライアスは稽古の邪魔をされたくない人間だ。それに加え、最近では互いに忙しく、一緒に稽古をする機会のなかった希佐が相手なので、尚更腹立たしく思っているに違いない。

 スペンサーはこの次に自らが手掛ける舞台に相応しい演者を探している。希佐のアメイジング・グレイスを聞いた日から、毎日のように連絡を寄越してくるので無視をし続けていたら、とうとう事務所までやって来てしまった。スペンサーは希佐にその舞台のオーディションを受けさせろとしつこい。おそらく、同じことをイライアスにも迫るのだろう。

 演出家といえど、スポンサーがついている以上、己の独断でキャスティングを行うわけにはいかない。だが、オーディションに参加してくれさえすれば、後はどうとでもなると考えている。

 アランは気が乗らなかった。それは希佐を大舞台に立たせたくないからではない。あの脚本を読ませたくもなければ、スペンサーが望む配役を演じさせたくもないからだ。しかし、希佐の成長をこの目で見届けてきたアランだからこそ、あれを演じられるのは立花希佐以外にはいないのではないかと、そうも思ってしまう。

 スペンサーも同じ考えだからこそ、ここまで食い下がっているのだろう。アランにもその気持ちは分かるのだ。それでも、頭はその気持ちを否定する。あれを演じさせれば、立花希佐は成功と同時に破滅の道を辿ることになるという、予感があるのだ。

 

 

「──君は歌もダンスも申し分がない!」酷く興奮した様子のスペンサーが、そう言いながら希佐の両手をしっかりと握り締めてくる。「ああ、どうか今度は君が演じる姿を、この目で直接見てみたいものだよ!」

「ありがとうございます。あの、でも、今後の舞台の予定は今のところなくて……」

 今日は以前にも増して押しが強いと思っていると、若干の困惑を感じている希佐の感情を察知したらしいイライアスが、スペンサーの腕に手をかけた。無言の圧力を感じる。すると、スペンサーは、おっと、と言いながら希佐から手を離し、すぐに非礼を詫びた。

「イライアス、君は随分アプローチの仕方を変えてきたようだね。以前の君は孤高のダンサーという感じだったが、ここまでパートナーに寄り添えるダンサーになっていたとは、想定外だったよ」

「微細ながら経験を積んでいるので」

「その上、こんな殊勝なことまで言えるようになっていたとは──いや、失礼」

 イライアスの顔からはあっという間に表情が消えてしまっていた。スペンサーとは知り合いだが、どうやらそこまでの仲ではないらしい。アランと対峙しているときのような、相手への尊敬の念のようなものが、ほとんど感じられなかった。ただ単に、波長が合わないだけなのかもしれないが。

「アタル、君も良いものを見せてもらったね」

 スペンサーがスタジオの隅でダンスの見学をしていた加斎に機嫌良く声をかけた。加斎は一瞬はっとしたような表情を浮かべてから、その場に立ち上がる。

「これが今、イギリスで最も注目されていると言っても過言ではない、若手舞台役者のダンスだよ」

「はい、凄かったです」加斎は三人のすぐ近くまでやってくると、真っ直ぐな目でイライアスを見た。「本当に、純粋にそう思いました」

 その眼差しを正面から受け止めたイライアスは、少し意外そうな顔をしている。丸くした目で加斎を見やってから、小さな声で「Thanks」と言った。

「俺、学生の頃はペアダンスを踊ることが多かったんですけど、パートナーの見せ方とか、共通点もあれば学ぶ部分もあったりして、今後の参考になりそうです。女性の見せ方、勉強になります」

「……そう」

「立花も凄かった。さすが稀代のアルジャンヌ」

「私はまだまだだよ。イライアスの足ばっかり引っ張ってしまって」

 以前よりまともに踊れたという自信はあるが、理想からは程遠いと希佐は思う。途中、何度かイライアスに体を支えてもらってしまった。踏み出した足の歩幅が合わず、次のステップで修正を強いてしまった。こうした小さな失敗をあげはじめると、きっときりがない。社交ダンスは相手がいてこそのものだ。スタジオに通って先生と踊っているだけでは、イライアスの動きにぴたりと合わせることは難しいのだろう。

 そこからの加斎の距離の詰め方は、さすがとしか言い様がなかった。最初は何の興味も示していなかったイライアスが、徐々に口数を増やしていく。加斎の真摯な態度を受けて、不躾なままではいけないと思ったのか、投げかけられる質問には丁寧に答えている。それでも自分から会話をはじめることはないので、加斎がどのような人物なのかを、まだはかっている最中なのかもしれない。

 とりあえず、険悪な雰囲気にならなくてよかったと希佐が胸を撫で下ろしていると、その様子を見ていたスペンサーが笑った。

「君は役に入るとまるで別人のようになるね」それが演じるということなのではないかと、希佐は思う。「先日、ステージの上でアメイジング・グレイスを歌ったときの君は、まるで穢れを知らない処女のようだったが、今ワルツを踊っていた君は、男を知り尽くした妖艶な女性のようだった」

 希佐は何も言わずに、ただ微笑みかける。スペンサーは主観を述べただけで、返答を欲しているわけではないはずだ。それを見た者がどう感じたかについて、演者が口を挟むのもおかしい。そして何より、希佐はそれを褒められているとは感じなかった。演出家としての目線で物を言っているのだと分かる。

 演出家はよく尋ねてくる。

「君はどうしてその人物を、そのように演じようと思ったのか」

 舞台の脚本には登場人物たちの台詞と、ごくごく簡単なト書きが記されているだけだ。演者はそれを何度も読み込んで作品への理解を深め、自分なりの解釈をして、それを自らの中に落とし込んでいく。だが、いざ稽古がはじまってみると、読み合わせの段階で、己の考えが全否定されることがあった。演出家の一言で、何もかもが白紙に戻されることだってある。

 物語は脚本がすべてだ。そして、演出家はその物語を掌握する神である。普通、演者はその世界の外側に出ることはできない。しかし、アラン・ジンデルの舞台ではそれがない。個々の解釈があまりに物語から逸脱していないかぎりは、そのほとんどを役者に委ね、認めてくれる。だからこそ、初めての読み合わせのときは誰もが緊張するのだ。自分の解釈がアランの意に沿っているのか、まだ分からないから。ダメなときは無遠慮なダメ出しが飛ぶので、心の準備も必要だった。

 けれど、希佐にはそれが心地良く、やりやすかった。ユニヴェールにいた頃も、カオスにやって来てからも、自らの解釈を面白いと尊重してもらえることが多かったからこそ、他所の劇団で演じる機会が増えるにつれ、それが普通ではなかったのだと知ることになった。

 だが、前者が普通であるということは、もう理解した。あとは話を聞いてくれる演出家か、そうでない演出家かの違いしかない。

「君は演出の経験があるのかい?」

「いえ、ありません」

「でも、君は自分自身を演出しているよね? どうすれば自らがより輝くのか、見る者にどのような印象を与えるのか、それを理解した上で演じていると思うんだけど」

「私の場合は自分を演出するというよりも、与えられた役柄のことをよく考えてみてから、その演じ方を決めています。何が好きで、何が嫌いなのか。特徴的な癖はあるのか。話し方はどうか。声の出し方や表情筋の使い方、歩き方なんかの立ち居振る舞いはどうなのか。脚本にはない生い立ちを想像してみたりして、キャラクターに深みを出せたらな、と」

 スペンサーは希佐の話を一見興味深そうに聞いている。だが、役作りの方法としては、別に珍しい手段ではないはずだ。おそらく、スペンサーはそうした話に興味を持っているのではないだろうと、希佐は思った。どこか別の場所を見ているのだろうが、それがどこなのかは、希佐にはよく分からない。

「キサ、お願いがあるんだけれど、いいかな」

「はい、なんでしょう」

「ちょっとアタルと踊ってみてくれない?」

「……加斎くんと、ですか?」

 きょとんとする希佐を見て、スペンサーはにっこりと笑う。そして、イライアスと話し込んでいた加斎を呼び寄せると、同じように言った。

「アタル、ちょっと彼女と踊ってみてくれないかな」

「えっ、俺が立花とですか?」

「頼むよ。すまないね、イライアス」

 スペンサーはイライアスにそう詫びてから、加斎に向かって希佐の体を押しやった。突然のことに前のめりになる体を、加斎の腕が伸びてきて支える。

 希佐は思わず、あ、と声が出そうになった。自分に触れた加斎の手や体が、学生時代とはまったく違っていたからだ。加斎も同じように思ったのか、希佐を見て驚いた表情を浮かべている。

『加斎くん、体つきが変わったね』

『立花も』

『……とりあえず、何にする? ユニヴェール?』

『そうだね、ユニヴェールにしよう』加斎はそう言うと、少しだけ体をほぐしてから、腕を広げて希佐を迎え入れた。『よろしくね、立花』

『うん、こちらこそ』

 昔懐かしいステップを踏む。ジャックとジャンヌ。いや、ジャックエースとアルジャンヌだろうか。それとも、それとは違う、何か。

 加斎のリードが希佐を導く。当たり前だが、イライアスの力加減とはまったく違う。導くというよりも、共に歩く、という感覚に近い。手を引いて、隣を歩いてくれているような、優しさを感じる。強引ではないが、道の行き先を示し、そこへ連れて行こうとしてくれているようだ。

 例えばそこは、綺麗な水を湛えた湖で。

 希佐は、加斎の手を握る右手に優しさを込めた。右腕に添えた左手には、慈しみを。加斎を見上げる眼差しには、愛おしさを込める。

『ねえ、エクス?』希佐がそう声をかけると、加斎はその目を大きく見開た。『覚えている?』

 希佐はゆっくりと細めた眼差しで加斎を見つめ、笑みを深める。

『あなたが私にこの目をくれた。広い世界を見せてくれた。あなたがいたから、自分の世界から飛び出してみようと思えたの』

『……ピオーティア』

『私、あなたがしてくれる外の世界のお話が大好きだった』

 図書室に中庭、ダンスや歌のレッスン室──見かけるとすぐに、笑顔で声をかけてきてくれた。何かに落ち込んでいるときは、直接そのことには触れずに、明るく励ましてくれた。

 日本を出て、海外に行こうと思えたのは、加斎中がいたからだ。外の世界の話を、とても楽しそうにして聞かせてくれたから。本人はそれを不本意だと言うかもしれないが、加斎が希佐に可能性をくれたのだ。

 卒業したら海外に行くつもりだと話していた加斎のキラキラした目を覚えている。そして、一緒に海外に行かないかと、そう誘ってくれた日のことも。こんな形で再会することになるとは想像したこともなかった。まさか、またこうして手を取り合って、ダンスを踊ることになるなんて。

『私にいろいろなお話を聞かせてくれてありがとう、エクス』

『……僕は君の歌声が大好きだったんだ』無邪気で、優しい表情。ああ、エクスだと、希佐は思う。『不意に見せてくれる、とびっきりの笑顔もね』

 加斎の手の握り方、背中に添えた手、足の運び方が、それぞれ少しずつ変化していくのが分かる。加斎中から、魔物のエクスに変わっていく。ピオーティアの美しい天使様。

 エクスとピオーティアは互いを引き立て合うように踊る。まるでヴェニーズワルツだ。希佐が加斎を押し出せば、今度は加斎が希佐を前へと送り出す。その繰り返し。でも、楽しい時間は、いずれ終わりを迎える。

 加斎は希佐の背中に添えていた手を外すと、その体をくるりと回転させ、解放した。一人きりになった希佐はもう一回転を加え、足を止める。軽く膝を折ってお辞儀をすると、スペンサーの拍手だけがスタジオに響いた。

「二人ともよかった、ありがとう」

「ご期待には添えましたか?」

「見たかったものは見せてもらえたよ」スペンサーはそう言うと、納得したように希佐を見る。「君は相手に合わせて演じることが得意なんだね。相手によって自分の形を変えるというのかな。もっと言えば、パートナーが最も望むものに姿を変えられるんだ」

 やはり、褒められてはいないのだろうと、希佐は感じる。スペンサーの物言いは、それは必ずしも正しいことではない、というふうに聞こえた。

「君は感性で演じているように見えるが、実際には違う。極限まで頭で考えて、その考えを自らの体に落とし込み、人格さえ作り変えている。それを今、ほんの一瞬でやってのけたわけだ。踊り出したときと踊り終えたときとで、まったく違う物語になってしまっていたのは、途中で君が軌道修正をしたから。どうしたものかと困惑していたアタルの心情を読み取ってね」

「え、でも……」

「ダンスをするにおいて、パートナーに寄り添うという形は、必ずしも良いものとはかぎらない。特にペアダンスの場合はね。リーダーのリードがしっかりしていなければメリハリが消えて見る者に中途半端な印象を与えてしまう。アタルはキサに対して遠慮をしてしまった。もう少しぐいぐい攻めていたとしたら、キサの受け応え方も違っていたよ。リーダーには多少の強引さも必要だ。ドラマ性があった方が、見ている人の反応も良い」

 思い当たる節があるのか、加斎は神妙な面持ちでスペンサーの助言に耳を傾けている。だが、あれはあれでよかったのではないかと希佐は思うのだ。エクスとピオーティアなら。でも、あのダンスの下地にある物語を知らなければ、確かに物足りない。

 演じるとは難しいものだ。脚本家と演出家、演出家と役者、そして、役者と脚本家。生まれた土地や国、考え方、果ては人種も違う者たちが集まり、一緒に一つの舞台を作り上げていくのだから、思考のずれが生じることは仕方がない。問題なのは、どのように解釈を擦り合わせていくかだ。いつだって妥協したくはない。演出家の指示に従うことが大前提にあったとしても、時には、引けない部分があってもいいのではないかと思う。

「──と、まあ、これは一演出家である私個人としての意見だ。きっとアランとでは考え方は違うのだろう」

 急に話を振られ、ここにいる全員の視線を一身に受けることになったアランは、面倒臭そうに肩をすくめてみせた。

「俺はただのしがない脚本家にすぎない。もともと演出は管轄外なんだから、意見とか期待しないで」

 そう言うが早いか、アランは踵を返して事務室へと引き返して行ってしまった。スペンサーはやれやれと漏らしながら、その背中を見送っている。

「どうやら大先生は私の考えがお気に召さなかったらしい」

「アランは物語の解釈を役者に委ねることが多いので」そう応じたのは意外にもイライアスだった。「多様性を認めてくれます」

「それは小さな劇団だからこそ可能なことだよ、イライアス。君も商業演劇の舞台に立つことが増えてきたのだから、分かりはじめているはずだ。大舞台は甘くないと」

「僕は小劇場の舞台が好きです」

「大劇場は嫌いかな」

「どちらも僕にとってはただの舞台です」

 表情なく言うイライアスを見て、スペンサーは「違いない」と言って笑った。

「いや、悪かったよ。君たちのダンスがあまりに素晴らしかったものだから、つい口を挟みたくなってしまった。より良くなることを願ってね。さて、今日のところはもうお暇しよう、アタル」

「あっ、はい」

「あの、アランとのお話は……」

「もう済んだよ」スペンサーは笑顔を浮かべてそう言ってから、キサ、と改めて呼びかけてきた。「私はもっと君の自由な演技を見てみたい。個人的には、観客を蹂躙するような身勝手な演技が、君にはよく似合うと思う。大衆の目を釘付けにするような、刺激的なやつがね」

 加斎とスペンサーが帰っていった後も、イライアスと少しだけダンスの稽古を続けた。午後十時を過ぎると、明日は公演の全体稽古があるというイライアスは、クールダウンのストレッチを終え、荷物をまとめはじめる。その間もずっと何かを考えている様子だったが、希佐がスタジオの外まで見送りに出ていくと、イライアスは言った。

「スペンサーは強引なところがある」

「うん、そうだね」

「あまり気にしすぎないで。キサは今のままで十分に凄いんだ」

 ストールを何重にも巻き、頭にはニットの帽子を被っているので、顔はほとんど目元しか覗いていない。それでも、イライアスの声からはその真剣さが伝わってくる。希佐は安心させるように、にこりと笑った。

「ありがとう、イライアス」

「また稽古に付き合って」

「うん、いつでも」

「おやすみ、キサ」

「おやすみなさい」

 リュックサックを背負った後ろ姿が遠ざかっていく。いつも見えなくなるまで見送るが、イライアスが振り返ったことは一度もない。案の定、今日も振り返ることなく、二つ目の角を曲がって、その姿を消した。

 しかし、スペンサーの言葉を少しも気にしないというのは、希佐にとっては難しいことだった。

 観客を蹂躙するような身勝手な演技──それは、本気の演技ということなのだろうか。カオスの舞台では何度かリミッターが外れてしまうこともあったが、そういうときは大抵舞台上に一人でいる場面が多かった。

 周りの人々を置き去りにしてでも自らの演技を貫けば、舞台は崩壊するだろう。そうならないためには周囲の協力が必要不可欠で、たとえ協力を得られたとしても、成功するかどうかは分からない。あれは互いの信頼関係が物を言う。常に昼夜、寝食を共にしてきたクォーツだったからこそ、できたことなのだ。

 それに、あの頃は失敗を恐れない若さがあった。ただがむしゃらに目の前の舞台と向き合っていた。スペンサーが言わんとしていることは分かるのだ。ただ、今の希佐はあの頃ほど無鉄砲ではなくなってしまった。どうしても後先を考えてしまう。

 自分はつまらない人間になってしまったのだろうか──風呂上がり、キッチンの椅子に座って物思いに耽っていると、急に視界が陰った。

「キサ、アイス溶けてる」

「えっ? あ、本当──」

 どろどろになったカップアイスの中身が、驚きに揺れた腕の動きに合わせて、テーブルの上にどろりとこぼれた。あーあ、と気の抜けた声を上げながら、首にかけていたタオルで拭こうとすると、それよりも早く目の前にトイレットペーパーが差し出される。

「ありがとう」

 希佐は片手で巻き取ったトイレットペーパーでテーブルの上を素早く拭き取り、気をつけて立ち上がる。体をくるりと反転させ、シンクに向かって腕を伸ばした。蛇口を捻って水を流しながらカップの中身を捨て、べたべたになった手を洗う。アランは隣でその様子を眺めていたが、シンクが空くとケトルに水を満たし、湯を沸かしはじめた。どうやら飲み物を入れに二階へ上がってきたところだったようだ。

「スペンサーに言われたこと考えてる?」

「聞いていたの?」

「聞こえてきただけ」

 希佐がウエットティッシュでテーブルの上を拭き終え、ゴミを捨てて再び着席すると、目の前にアイスのカップとスプーンが置かれた。

「俺の分、あげる」

「いいのに」

「いいから」

 早く食べないと溶けるよと言われ、希佐はその言葉に甘えて、本日二個目になるアイスの蓋を外した。手の体温でカップの周りを少しだけ溶かしてから、スプーンを差し込む。それを隣に座ったアランの口元まで運ぶと、ほとんど条件反射のように、アランはスプーンの先端を口に含んだ。

「どういうわけか、スペンサーの中で君の評価とか、価値みたいなものが高騰してるらしい。あまりちょっかいをかけるなと言ってるんだけど、あれは人の話を聞かないところがあるから」

「お話としては興味深かったし、勉強にもなった。一流の演出家の意見を聞ける機会なんて、滅多にないと思うし」

「スペンサーはダンサー出身だから、歌って踊れる役者を見つけると、すぐに唾をつけたがる」

 希佐はすくったアイスを自分の口に運び、それを溶かしている間だけ、黙っていた。冷たくて、甘い。バニラ味だ。

「そういえば、まだダンススクールに通ってるの」

「うん。せっかくだから、もう少し続けてみようかと思って。イライアスとは久しぶりに踊ったから、上手く合わせられないところがあって、彼には申し訳なかったけど」

「俺はいいと思った」アランは希佐の手首を掴み、その手ごとスプーンを口に運んで、アイスを食べた。「カサイとのダンスもよかったと思う。物語性があって」

「……」

「なに?」

「今日は変に優しいなと思って」

「別に」

 視線をそらしたアランの横顔を、穴が空くのではないかというほど、じっと見つめる。

 こう見えてもアランはアイスが好物だ。脚本の執筆漬けの日々の中で、一日一個のアイスを楽しみにしているのを、希佐は知っている。

「あ、もしかして」希佐は加えていたスプーンを取り、声を上げた。「何か頼みごと? 明日は買い物に行くつもりだから、外に行く用事なら──」

 希佐が続けようとした言葉は、アランの唇に呑まれていった。

 突然のことにぽかんとしていると、アランは僅かにばつが悪そうな顔をし、立ち上がってケトルの具合を確かめに行く。

 果たしてそういう雰囲気だっただろうか。あまりに唐突すぎて思考が追いついてこない。今、何の話をしていたのかすら、希佐は一瞬思い出すことができなかった。

「アラン」後ろを振り返って呼んでみても、返事はない。「アラン?」

 アイスの最後の一口を頬張った希佐は、空になったカップとスプーンをテーブルの上に置いて立ち上がると、アランの隣に並んだ。シンクの縁に手をついて身を乗り出し、その顔を覗き込む。意地でも目を合わせようとしないその様子を目の当たりにして、一つだけ見当をつけた。

「……やきもち?」

 いやいや、アラン・ジンデルに限ってそんなことはあり得ないと思うものの、それ以外に思い当たることがなかった。イライアスとワルツを踊っている最中に目が合ったので、つい悪戯心を覗かせてしまったが、あれが原因だろうか。だが、アランがイライアスに嫉妬するなど、妙な話だ。あの公演の時期は毎日のようにパートナーとして踊る姿を見ていた。今更そんな、やきもちなど。

「妬いたり、してない、よね?」

 ちらり、と横目が向けられた。怒っているような顔にも見える。それ以上は何も言うなと圧がかけられているような眼差しを受け止めた希佐は、しかし、思わずというふうに笑みをこぼしてしまった。口元を押さえ、ふふ、と笑ってしまう。

「キサ」

「待って、怒らないで」かち、とコンロの火が止められる音を聞きながら、希佐は顔を上げた。「ごめんなさい。でも、何だか嬉しくて」

 この見るからに自らの感情を表に出すことを苦手としている人が、嫉妬などという感情を露わにし、そんな己を恥じるような表情を浮かべているのだ。それも、自分のために。これを愛おしく思わない者がいるだろうか。自分より七つも年上の男を掴まえて、かわいいなどと思うのは失礼なのかもしれないが、そう感じてしまう。

「ここ何日かまともに話せていなかったし、少し寂しいなって思っていたけど、今ので吹き飛んでしまったみたい」

 悪びれもせず、未だ少女のように笑い続けている希佐を見て、アランはこれ見よがしにため息を吐いた。そして、希佐の体を軽々と持ち上げたかと思うと、シンクの端に座らせる。急にアランとの距離が縮まり、額が触れるほど近くに顔を寄せられた希佐は、ついに笑い声を引っ込めた。希佐の開いた足の間に体を置き、片手で腰を支えながら、緑の目で挑発的に見つめてくる。

「……怒ってる?」

「君にはそう見える?」

「からかったわけじゃ……」

「分かってる」

「ねえ、ちょっと」どうしてこんなにも心臓が収縮するように締め付けられるのかが分からず、希佐は突然の息苦しさに困惑していた。「待って」

 その目に見つめられるだけで、息の根が止まりそうになる。背中に冷たいものが走り、ぞくりと震える。それなのに、体の芯が燻るように熱を帯びて、体温が少しずつ高くなっていくようだ。

 何か言ってほしいのに、その形の良い唇は、何の言葉も紡がない。腰を支えている手の平が、すうっ、と背筋を撫で上げた。まるでその手の平を追いかけるように、ぞくぞくとした悪寒のようなものが駆け上がる。希佐はアランの肩に両手をつき、薄く開いた唇の隙間から、小さく吐息を漏らした。

 アランのもう一方の手が希佐の足に触れる。衣服の上から、指先を使って、膝の辺りを執拗に撫でている。心には羞恥心が芽生え、今すぐにでも顔を背け、視線を逸らしたいのに、そうすることができなかった。その眼差しにはそれほどの拘束力があった。

 呼吸が荒くなり、視界が滲んだ。目尻がほんのりと赤く染まり、耳に熱が集中するのを感じる。

 これがアランの感じた嫉妬心と同じだけの熱量を持った感情なのだとしたら、それは未だ希佐には理解の及ばない情念だった。

「アラン、もう……」

 我慢ができないという言葉を、希佐は飲み込んだ。代わりに両手を差し伸ばし、アランの髪を掻き上げながら首に絡めると、誘うように唇を開いた。待ち続けていたものがやわらかく唇に触れる。恐ろしいまでに優しく、慈しむような愛情を感じるが、それがまるで焦らされているようで、希佐は自身の両足をアランの体に絡めると、もっととせがむように体を密着させた。

「甘い」

 唇を離し、舌舐めずりをしながら、アランが言った。

 甘いアイスで冷えた口内を、アランの舌が熱くしていく。もとより下着を身につけていなかった体を、薄いパジャマの上からさわさわと撫でられ、胸の頂を衣服の上から手の平が掠めただけで、肩が大きく跳ねた。与えられる快楽を感受しながら、希佐は小さく嬌声をあげる。

 まだ、緑の目はただじっと、希佐のことを見つめていた。

 ああ、気が狂いそうだ。

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