例えば明日死ぬとして、今日をどのように生きられるのかを自由に選択することができたなら、私はどうするだろうと、希佐はよく考えることがある。それを考えることで死なない理由を探している。この心が満たされてしまったらおしまいだ。きっと、生き続ける意味を失ってしまうから。
舞台を終え、また、次の舞台へ。鳥のように渡っていく。次はもっといいものを。その次は、もっと、もっといいものを。そうして、自分で自分のハードルを上げていく。求める刺激が強くなっていく。
足りない。まだ、足りない。
満たされない。満たされたい。
早く、誰かが殺してくれるのを、待っている。
そんなことを、誰にも話せるはずがなかった。それとも、もう気づかれているのだろうか。自分の隣で、あまりに無防備な姿で、美しい寝顔を晒して眠る、この人は。
舞台を一つ終えるごとに、命が削られ、心の一部が死んでいくような心地がしているのだ。舞台に立つための代償として、寿命を少しずつ差し出しているような、そんな感覚がある。
希佐の人生には、極端なことを言えば、舞台と、そうでないもの、この二つしか存在していない。だから、きちんと気をつけていないと、私生活が疎かになる。食事も、睡眠も、何もかもがどうでもよくなる。けれど、それでは舞台に立つことすらできなくなるから、自分自身のためにも時間を使わなければならない。
自分の感情の不確かさに困惑することもあった。この気持ちは、本当に自分のもので、誰かのために演じられたものではないと、どうして断言できると言うのか。今までにも、そうした指摘を何度も受けてきている。
あなたの望む形に──この表情も、声も、話し方も、心の有り様も、望まれたからこそ、こうあるのではないか。隣にいる人がもっと別の誰かだったとしたら、まるで別人のような立花希佐が存在していたのではないか。不毛なことだと分かっていても、考えてしまうのだ。この人の隣にいたいと願ったあの瞬間さえ、偽物だったのではないかと。
本当の自分が分からない。未だにおはよう練習のときの自分と何も変わっていない。自分はいつから、こんなふうになってしまったのだろう。継希がいた頃は、こんなふうではなかったような気がする。今となってはもう、そのときの思い出すら曖昧で、酷く朧げなものになってしまっていた。
記憶が少しずつ薄れていっているのが分かる。目を閉じると鮮明に思い出すことができていたはずのその姿も、まるで陽炎の中に立っているかのように、輪郭がぼやけてしまっていた。
こうして何かを一つずつ忘れていってしまうというのに、心の痛みは消えて無くならないのが厄介だ。理由の分からない痛みを抱えながら、死ぬまで生き続けなければならないのだから。
今日を生きて、明日を生きて、その先も──こうした日々が、いつまでも続いていく。きりがない。考えたくもない。だから、舞台に没頭する。つまらないことなど、考えずに済むように。
満たされないから、求め合うのか。
満たされたいから、求め合うのか。
あなたを好きだと、愛おしいと思うこの感情だけは、偽りのものであってほしくないと、希佐は思った。その思いだけを頼りに、このイギリスに残り、暮らしていく選択をしたのだ。それさえ偽りだったというのなら、これから先、一体何を信じて生きていけばいいのか、分からなくなってしまう。
希佐はベッドの上で上半身を起こし、その場に座り込むと、アランの背中にそっと触れた。
「アラン、朝だよ」
「ん」アランは希佐の呼び声で目を覚ますと、半分閉じかかった目でこちらを見上げた。「……何か着て」
そう言いながら、アランは昨夜自分が着ていた白いシャツを差し出してくる。希佐はそれを受け取り、袖を通しながら時計に目をやった。
「もう八時過ぎてるけど、こんな時間まで寝てて平気なの?」
「まあ、今のところは」
アランはそう言うと枕に顔を埋め、動かなくなった。希佐は露わになっている二の腕に軽くキスをしてから、ベッドを抜け出す。床に落ちていた自分の衣服を拾い集め、アランの部屋を後にした。シャワーを浴び、着替えを済ませると、コインランドリーに行ってくる、というメモをテーブルに残して、スタジオを出た。
コインランドリーは本を読んだり、考え事をする場所として最適だった。舞台の稽古を行っている時期は台本を持参し、台詞を覚える時間に当てることが多かった。最近は蓄えも増え、以前ほど金にも困っていないので、途中にあるカフェで温かい飲み物を買うこともできる。時々は甘いものを一緒に購入し、小腹を満たすこともあった。
贅沢な暮らしを送れるようになったものだと漏らすと、アイリーンは呆れた顔をして、ようやく人並みになっただけよ、と言う。アイリーンは、相変わらず着るものに頓着しない希佐に洋服のお下がりをくれたり、買い物に付き合ってくれたりもしていた。
少しは稼げるようになってきたので、今度こそ家賃や光熱費を負担すると言うのだが、アランは必要ないの一点張りだ。仕方がないので、妥協策として希佐が二人分の食費を負担することにしている。もちろん、勝手にだ。とはいえ、二人とも大して食べるわけでもないので、負担額などたかが知れていた。
あれからの二年、根本的なところでは、何も変わっていない。以前よりも上等な服や靴を身につけるようになった以外は。精神的にも落ち着いていたし、毎日の生活に幸せを感じていた。
仄暗い感情の箱には、硬く蓋をして。
その箱の存在を本人ですら忘れかけていたのに、加斎中との再会がきっかけとなって、雑多に積み上がった記憶の引き出しの中から転がり出てきてしまった。
ユニヴェールを逃げ出してきて、間もなく五年が経つ。そろそろ、次の一歩に踏み出すべきときが、近づいてきているのかもしれない。
中座秋吏とは互いに直接繋がる連絡先を交換し合っていた。ビザの件で協力を求めてからというもの、思い出した頃に連絡も取り合うようにしている。とはいっても、中座から「最近どうよ」と電話がかかってくることがほとんどなのだが。
中座はユニヴェールの話をほとんどしない。希佐の近況を尋ね、舞台に立ったと聞くと、公演映像を見たがった。アランに確認すると、別に問題はないということだったので、カオスの舞台映像はすべて渡している。わざわざ釘を刺さずとも分かっているはずなので、他の誰にも見せないでほしいと口煩くは言っていない。だが、江西にだけは自慢げに見せているのではないかと、希佐は想像していた。
中座はまるで父親か親戚の叔父のように、希佐のことを心配してくれている。たまに、大きな桐の箱一杯の日本の調味料や食品などを送ってくることもあった。あまり気を使わないでくださいとお願いをしても「分かった、分かった」と言うばかりで、実際には聞いてもらえない。
父親よりも父親らしいことを、してくれている。
「あら、おはよう、キサ」
「あっ、おはようございます」
この三年で顔見知りも増えた。最初の頃は、アランのところの子、と呼ばれていたが、今ではしっかりと名前を覚えてもらっている。
「今日はアランと一緒じゃないの?」
「彼はまだ寝ています」
「まあ、日曜日だものね。私も子供たちの山のような洗濯物がなければ、もっとゆっくり休んでいられるのに」
あの教会の親子も、アラン・ジンデルという脚本家も、この界隈では有名人だ。子供から大人まで、おそらく知らない人はいない。教会には、日曜日になると信者以外の人たちもやって来て、今でも炊き出しが振る舞われている。時間があるときは希佐も手伝っていたが、最近は舞台関係のことで忙しく、顔を出していなかった。
今日は行ってみようかな──そう希佐が思っていると、洗濯機が乾燥完了のブザーを鳴らした。蓋を開け、まだ温かい洗いたての洗濯物を取り出す。作業台の上にそれを広げてたたんでいると、洗濯物を抱えた人たちが次々とコインランドリーに流れ込んできた。
おはよう、キサという声に、思わず笑みがこぼれる。人々に受け入れられていると感じる。移民の多いこの辺りでは、あまり他人を深く詮索し合わない、暗黙の了解のようなものがあった。その距離感が、希佐にはとても心地が良い。
「みなさん、良い一日を」
「あなたもね」
こうしたやりとりをしていると、時々地元のことを思い出す。当初はあおとの連絡も途絶えたままだったが、ここへ来て落ち着いてからは、またこれまで通りに連絡を取り合っていた。改めてこちらから連絡をしたときは、酷く怒られたけれど。
いつだってあおの口の硬さを疑ったことはない。どうしても連絡することができなかったのは、ただ単に希佐自身の問題だった。今ではそう簡単に会えなくなってしまったが、互いの近況報告などは、メールで頻繁に行っていた。
洗いたての洗濯物を抱えて帰路に着く。スタジオに到着し、二階に上がっていくと、アランがキッチンの椅子に座ってぼうっとしている姿があった。後ろからその首元に腕を回すと、ようやく反応らしい反応が得られる。
「おはよう、アラン」ちゅ、と濡れた髪にキスをして、希佐はすぐに離れた。「よく眠れた?」
「君のおかげで」
「今日はこれから買い物に行ってくるけど、何か欲しいものはある?」
アランは首を横に振り、椅子から立ち上がった。
「仕事する」
希佐は、あまり無理をしないでね、という言葉を飲み込んだ。無理をしてでも書かなければいけないことを知っているからだ。頑張ってと言うのも違う気がする。もう既に、十分すぎるくらいに頑張っているだろう。
「何か手伝えることがあったら言ってね」
それが、希佐が今言える精一杯だった。すると、アランはほんの僅かに口角を持ち上げて微笑むと、希佐の額にキスをしてから階下に降りていった。
それから数日後、希佐はスペンサーからの招待を受けて、先日のホールまで舞台を見に行くことになった。加斎は是非ともアランも連れてきてほしいと言っていたが、希佐が試しに誘ってみたところ、脚本の執筆があるから無理と一蹴されてしまった。アランが同行できない代わりに、バージルがエスコートをしてくれる約束だ。
細身のパンツに同色のニットを着て、その上からトレンチコートを羽織る。ショルダーバッグに必要なものを詰め込んで事務室に降りていくと、そこには既にバージルの姿があった。アランと話をしているところに希佐が現れると、机に手をついたまま後ろを振り返る。
「準備できたか?」
「うん」
「雨降ってきたから、タクシー呼んだ。俺は先に出て待ってるからよ」
そう言って早々に事務室を出て行くバージルに違和感を覚えながら首を傾げていると、アランが「キサ」と声をかけてきた。
「なに?」
「多分公演後にスペンサーから言われると思うから、俺が先に言っておく」
「……うん?」
「この脚本、今日中に書き終わると思う。あとは最終チェックをして、データをスペンサーに送るだけ」
「あなたが書いていたものって、あの人の舞台の脚本だったの?」
「そう」アランは一瞬だけ不快そうな顔をするが、すぐにその表情を消し去ると、希佐を見上げた。「今度、この脚本を元にした舞台のオーディションが行われる。スペンサーは、君にそれを受けさせろと言ってる」
「私に?」
「これは小劇場でやるような舞台じゃない。この前君が歌ったホールでの上演が予定されてる。今日君が舞台を見に行くホールだ。スペンサーはあのホールが気に入っているから」
希佐は少しだけ呆気にとられてから、再び口を開こうとした。しかし、アランが人差し指を立ててそれを阻む。
「あいつに何を言われてもすぐに返事をする必要はない。君が商業演劇の舞台に立ちたがっていないことは、俺の口からも伝えてある。でも、察しているとは思うけど、スペンサーは相当諦めが悪いし、目的のためなら手段も選ばない男だ。君が頷きたくなる餌を目の前にぶら下げてくるかもしれない」
その物言いはまるで、希佐自身の意思云々というよりも、アランが希佐をその舞台に立たせたくないと、そう言っているように聞こえた。
「君はきっとスペンサーの舞台を気に入る。スペンサーという人間に興味を持つようになる。でも、今回の舞台とこの脚本とでは、あまりに毛色が違いすぎる。安易に頷かない方がいいとだけは伝えておく」
「……アランは」今度は、希佐の発言を制するような、手の動きは見せなかった。「私にそれを断ってほしいの?」
「これはずっと言ってきてることだけど、最終的な判断をするのは君自身だ」
「そういうことではなくて──」
「断ってほしいよ」
その真っ直ぐな、切実にも聞こえる言い様に、希佐は思わず言葉を失った。アランは希佐の目をじっと見つめていたが、しかし次の瞬間にはその言葉を恥じるように、すっと視線を逸らす。
「それは、俺という人間の、極々個人的な意見だ。でも、脚本家として物を言うなら、君にオーディションをうけてほしいと思ってる。まったく気は進まないけど」
「どうして……」
「どうして?」アランは一瞬不思議そうにそう繰り返してから、ふ、と鼻で笑った。「この三年間、俺は君が演じる姿を隣でずっと見てきた。俺がこの国で最もKISAという役者を理解している。もちろん、君という人のことも。だから、分かる。スペンサーの目は正しいよ、この舞台に君以上に相応しい役者はいない。だけど、嫌なんだ。凄く矛盾したことを言ってるのは、分かってる」
君には、君の望む形で、舞台人生を歩んでいってほしいと思ってる──アランはそう言って、希佐を送り出した。これから楽しい舞台を観劇しにいく人間を送り出す言葉にしては、あまりに不穏だ。
一体どのような気持ちで舞台を観ればいいのだろうと考えながら、タクシーの中で黙り込んでいると、隣に座っていたバージルがこれ見よがしにため息を吐いた。
「お前らってさ、お互い自立しているように見えて、実際のところは共依存気味だよな」外に向けていた視線を車内に戻し、希佐はバージルを見る。「お前、あいつのためなら何だってするだろ」
「え……?」
「あいつだって、お前の望みを退けられない」
希佐はバージルが言わんとしていることを理解しようと努めた。だがしかし、様々な問題が頭の中で複雑に絡み合っているせいで、その物事を個別の事柄として、瞬時には分けて考えることが難しい。
「お前は自己犠牲の塊で、あいつはそれに甘んじてる。お前があいつのために何だってしてやるから、あいつはもっと見てみたくなるんだよ。お前に対する要求がどんどん過剰になってるの、気づいてるだろ」
それは確かにその通りで、希佐には否定のしようもなかった。
希佐は求められるままに応じてしまう。だが、それはユニヴェール時代からのことであって、アランが相手だからということではない。立花希佐にならばできるだろうという期待に応えたくて、どうしても無理だと、自分には出来ないと言うことができないのだ。敗北宣言をするようで嫌だった。他の誰でもなく、自分自身に負けたくないという思いが、人一倍強いのかもしれない。
「あいつが書いてた脚本、ちらっと読ませてもらったけど、かなりヤバい感じだった」
「ヤバい、って」
「のめり込みすぎると心が病むレベルのやつ。お前は役に没入するタイプの役者だから、そういう点で心配っていうのもあるんだろうが……」
バージルは希佐の顔を横目で見るなり、口を噤んでしまった。
どんな脚本を書いているのだろうという興味があった。毎日、毎日、つらそうにしながら脚本を書く姿を見てきたから。まるで自らの命を削り取り、己の血で文字を書き記すような、苦行を続けているように見えていた。だからこそ、興味が湧いたのだ。この人をこれほどまでに苦しめる脚本とは、どれほどのものなのか、と。
見てみたい。触れてみたい。演じてみたい。そう思ってしまうのは、おかしなことなのだろうか。
ただ、その公演が大劇場で行われるというその一点だけが、希佐の心を曇らせる。何千にも入る巨大なホールだ。自分には、大勢の観客を前にしてあの舞台に立つ資格が、あるのだろうか。
スペンサーが希佐とバージルに用意してくれた席は、特等席も特等席、ステージの目の前だった。
「立派な接待だな、こりゃ」
バージルは呆れた様子でそう言いながら、渋々と用意されていた席に腰を下ろしていた。
舞台の演目は、少し時代を遡ったアメリカのギャング同士の抗争を下地にした、いわゆる友情と恋愛の物語だ。長年の演劇ファンに向けた作品というよりも、まだ演劇には不慣れな若く新しいファンを取り込もうとする、非常に勢いと熱意を感じさせる作品だった。それでも、所々に往年の舞台を彷彿とさせるオマージュも織り込まれ、すべての観客を飽きさせない演出が施されている。
途中、舞台上からタップダンスの振り付けを担当したバージルの姿が見えたのだろう、主役を演じていた役者がアドリブでその場を繋ぎ、ステージ上に引っ張り上げたときは、ホール中から歓声があがった。舞台で一踊りしてから客席に戻ってきたバージルは、大喝采を浴びながらやれやれというリアクションを見せていたが、その横顔は満更でもなさそうだった。
加斎中は主役の右腕的存在の配役で、準主役とも呼べる、重要な役どころを演じていた。他の役者たちに比べると小柄ではあったが、それが逆に強い存在感となっていたようだ。ユニヴェールにいた頃以上にダンスの精度を上げ、キレも良くなっているのが分かる。芝居も明らかに上手くなっていた。ユニヴェールで磨かれた原石が、ブロードウェイでより美しく研磨されたのだろう。舞台の上でキラキラと輝いている姿は、本当に眩しかった。
だが実際、アランの言う通りだった。舞台が終わる頃にはもう、希佐はスペンサー・ロローの世界に心を取り込まれかけていた。見る者の心まで躍らせる演出は、ユニヴェール歌劇に通ずるものがある。アランはダンスシーンが多くて胸焼けを起こしそうになると言っていたが、集団で踊るタップダンスはまさに圧巻の一言だった。力強く、繊細で、一糸乱れぬタップダンスからは、確かにバージルの熱量を感じた。
劇場内にごうごうと反響するほどの歓声と拍手が、カーテンコールに出てきた役者たちを包み込んだ。主役と並び立っていた加斎は希佐の方を見ると、舞台上から親しげに手を振ってくる。いくつか後ろの座席から黄色い悲鳴があがったので、加斎はしっかりとロンドンの女の子の心を掴んでいるようだと感じた。
希佐は周りからは見えないよう、低い位置で、そっと手を振り返した。
「どうだった、お嬢さん?」
観客が続々と引き上げて行く中、希佐は与えられた席に着席したまま、放心したように誰もいなくなったステージを眺めていた。希佐に付き合って隣に座ったままでいるバージルが、そう声をかけてくる。
「胸が熱くなった」希佐は静かに、それでも少し興奮気味に言う。「バージルの振り付けも凄く良かった。特にあの群舞。ホールの空気の振動が肌に直接伝わってきて、ヒリヒリする感じ。人間の少しずつ速くなっていく心臓の鼓動が再現されてるって感じた」
「今度教えてやるよ」
「本当?」
「お前ならあれくらいすぐに覚えられるだろ」
そうしてバージルと話していると、不意に、希佐の耳に馴染みのある言語が飛び込んできた。希佐たちと同じように未だ席に着席しているらしいその集団は、ここから数列後ろに座っているようだ。ちょうど、黄色い悲鳴が聞こえたあたりから、話し声が聞こえてくる。
『ああ、もう、本当に最高だったね、加斎中!』
『マジでロンドンまで追いかけて来た甲斐があったよ〜』
『やっぱりブロードウェイの上演とはダンス構成を変えてきてたね。もうこれだけで一見の価値あり! 見なきゃ損だよ!』
希佐が急に黙り込んだのを不可解に思ったのか、バージルが顔を覗き込んでくる。ひしひしと嫌な予感を覚えはじめていた希佐は、声を掛けてこようとするバージルの唇に人差し指を立てた。
『加斎くんのことはユニヴェール時代からずーっと追っかけてるけど、今回の公演が一番良かったかも!』
『あの伝説のユニヴェール公演以上ってこと?』最後のユニヴェール公演、オニキスはアンバーを抑えてクォーツに次ぐ二位だった。『いやいやいや、それはないでしょ。あの公演には敵わないって』
まさか、こんなところで本気のユニヴェールフォロワーに遭遇するなど、誰が想像するだろう。いや、可能性としては皆無ではないと、そう考えておくべきだったのかもしれない。
声を出すとバレてしまうかもしれないと思った希佐は、スマートフォンを取り出すと急いで文字を打ち込んだ。後ろに座っている日本人の集団が加斎のファンで、日本からロンドンまで公演を見にきたらしいということ。加えて、ユニヴェール時代からのファンであることから、自分のことも間違いなく知っている。見つかったら今夜にもロンドンから逃げ出すレベルでまずいことを伝えると、それを読み終えたバージルは椅子に深く座り直し、嵐が去るのを静かに待ってくれることにしたようだった。
『最後のユニヴェール公演、本当に良かったから、今度こそ個人賞金賞がもらえると思ったんだけどな〜』
『ああ、あれは無理だって。あの立花希佐、マジで女神だったもん。私、今もユニヴェールの公演は全部見に行ってるけど、立花希佐を越えるアルジャンヌはまだ現れていないと思うし』
『最推しはもちろん加斎くんだけど、あの頃のクォーツは最強って感じだったもんね。毎公演本当に楽しみだったわ』
『でも、立花希佐ってどこ行っちゃったんだろうね。あれだけの実力があるんだから、あのまま玉阪座に入門するとばっかり思ってたのに、すっかり消えちゃったじゃない?』
『燃え尽きたとか言われてたよね』
『知り合いのユニヴェール生に聞いた話だと家庭の事情がどうのこうの言ってたけど、身内でもよく分からないらしいし』
『そういえば、一時期、立花希佐女説も出てたよね』からから笑いながら言う女の子の声に、希佐は心臓を握られるような恐怖を覚えた。『ユニヴェールに女がいるなんて、そんなことあるわけないのに。あれって玉阪座のフォロワーが流したデマだと思うけど』
『ああ、高科更文のフォロワーでしょ? 地元の週刊誌にもよく書かれてたよね、玉阪座の高科更文とユニヴェールの立花希佐がよく玉阪の街を仲良さそうに歩ってるって。あんなの学生時代からよく見る光景だったじゃん。絶対妬みだって。立花希佐が女以上に女だから嫉妬したんだよ』
『あっ、私も二人のこと見かけたことある! ユニヴェール生がよく来るカフェでさ、二人で季節ものの限定メニュー頼んで、ニコニコしながら食べてるの。超癒しだった〜』
『立花希佐って普段は美少年って感じなのに、舞台に立つと圧倒的美って感じが凄かったよね。ファンサもちゃんとしてくれるし。私握手してもらったことあるけど、めちゃくちゃいい匂いがしたよ……』
いつまで待てばこの拷問のような時間が終わるのかとひやひやしていると、各出入り口付近が空いてきたのを見て取ったのか、一人の女の子が立ち上がったようだ。
『さてと、そろそろ出ようか。もう雨止んだかな』
『だねー。タクシーつかまるといいけど、最悪ホテルまで歩きだよ』
『私が泊まってるホテル、この公演の出演者が宿泊してるんだよね』
『ええっ、マジで? じゃあうっかり加斎くんとエレベーターで二人っきりになれるかもじゃん』
『どんなうっかりだよ、それ』
話し声と足音が遠ざかっていく。それでも希佐が動き出せずにいると、バージルが後ろを振り返り、誰もいないことを確認してくれた。
「お前、ちょっと神経質になりすぎじゃねぇか? もう五年も経ってるんだろ?」
「それはそうなんだけど」
「変にビクビクしている方が怪しまれるぞ」
「……うん」
バージルが差し伸べてくれた手を取って立ち上がった希佐は、もう一度ステージを見上げた。
希佐が立たせてもらったときとはまるで様相が違っている。何の飾り気もなかった舞台が一変し、物語に合わせた装飾が至る所に施されていた。美しいパイプオルガンは隠され、今は見ることができない。
自分がこのステージに立って歌ったことなど、まるで夢か幻のようだと希佐は思った。この舞台を見た後だから尚のこと、そう強く思ってしまう。もしこのホールいっぱいの観客を前にして演じることができたなら、歌うことができたなら、舞うことができたなら、どんな気持ちがするのだろう。
「ほら、そろそろ行くぞ。演出家がお待ちかねだろうからな」
「うん」
希佐は短く返事をしてバージルの後ろを歩き出す。しかし、何歩か進んだところで床に何かが落ちているのを見つけ、足を止めた。
『──ちょっと待ってて、多分座席の辺りに落としたんだと思うから』
再び聞こえてきた日本語に、希佐は体が硬直するのを感じた。だが、バージルから言われたことを、頭の中でゆっくりと繰り返す。変にビクビクしている方が、怪しまれるのだ。希佐は床に落ちていた財布と思しきものを拾い上げると、小走りでやってきた女性に向かって差し出した。
「これをお探しですか?」
『えっ? あっ、それ、私の──』
「どうぞ」
『あっ、ありがとう、ございます……じゃなかった、thank you so much』
「いいえ」
希佐は動揺を悟られまいと、にこりと浮かべた笑みを深くした。女性はぽかんとした顔をして、財布を受け取った形のまま立ち尽くしている。少し先を歩いていたはずのバージルは希佐の隣まで戻ってくると、紳士然として腕を差し出してきた。
「My lady」
そう悪戯っぽく言うバージルの腕に、希佐は自らの手をかけると、毅然と歩いていく。出入り口付近で立ち往生していた日本人たちの脇を通り過ぎ、一息吐きかけると、再び声が聞こえてきた。
『ヤバ、何あの美人』
『今の日本人?』
『え、違うでしょ』
『隣にいた人、この舞台の振付師じゃなかった? ほら、途中でステージに上げられてた──』
とりあえず、自分が立花希佐だと気づかれてはいないらしい。希佐はそう思い、ようやく安堵の息を漏らすと、腕を貸してくれたバージルを見上げた。
「ありがとう、バージル」
「大丈夫そうか?」
「うん、平気みたい」
「とりあえず、さっさと楽屋の方に退散だ。ここじゃ俺も目立つからな」
「有名人だもんね」
「お前もな」
バージルに手を引かれながら、人波の中を縫うように進んでいく。関係者以外立ち入り禁止の扉の前に立っていたスタッフは、バージルの姿を見るなりにこりと笑い、すぐに奥へと通してくれた。
人の目がなくなった途端に、体の強張りが解けていく。どっと疲れたような顔をした希佐を見て、バージルは変わらず呆れていた。
「こんなこと、いつまで続けていくつもりなんだ?」
「え?」
「いつまでそうやって逃げ続けるんだって話だよ」
「いつ、まで……?」
「そろそろ生き方を改めねぇと、どんどん生きづらくなっていくぞ。この先も、この世界で生きていくつもりなら、尚のことな」
きっと、今までが幸運すぎたのだろう。ユニヴェールの影に怯えながらも、その影に捕まることなくやってこられたのは、ただ単に運が良かったからなのだ。今ある幸せは、常に危険と隣り合わせにあった。その幸運が、不運に転じはじめているのだろうかと、希佐は考える。
自分はこの先どのように生きていくべきで、どのように生きていきたいと願っているのか。その日を生きるだけで精一杯の立花希佐には、まだ何も考えられない。
「キサ!」楽屋に案内された希佐を、スペンサーが大喜びで迎え入れた。「舞台は楽しんでもらえたかな」
「はい、とても素晴らしかったです。特にダンスパートはどれも圧巻でした。最後のどんでん返しは本当に爽快としか言い様がなくて。それを踏まえた上で、もう一度観劇したいと思える、魅力的な作品でした」
「では、次は最終日のチケットを送らせてもらおう。次回は是非ともアランを連れて見にきてほしいね」
スペンサーは希佐に向かって座るように勧めた。
楽屋は多少の手狭さを感じさせるものの、居心地が良さそうな空間だ。来客が多いようで、一方のソファには、手土産の入った紙袋が大量に並べ置かれている。希佐は何も置かれていない方のソファに、いわれるがままに腰を下ろした。共に部屋に入ってきたバージルも、その隣にどっかりと腰を据えた。
部屋の隅に置いてあるコーヒーメーカーに足を運び、二人分のコーヒーを入れて戻ってくると、スペンサーは希佐の隣に座っているバージルに目を留める。物言いたげな顔だ。
なぜ君も座っているのだという目を向けられたバージルは、スペンサーから取り上げるようにしてコーヒーを奪い、にっと笑った。
「俺にいられると困るのか?」
「いや、そこにいてくれて構わないよ」スペンサーはもう一方のコーヒーを希佐に手渡すと、荷物を脇に避けてから、向かい側のソファに座った。「アランから私と彼女を二人きりにするなとでも言われたんだろう?」
「俺はこいつのエスコートをしろと仰せつかった身でね。純朴なうら若い娘を稀代の演出家の前に剥き身で差し出すなんて真似は、しない方がいいだろうと判断したのさ」
「まるで私が彼女を取って食うみたいな言い方だね、バージル」
「そのつもりだろうが」
「語弊があるなぁ」
バージルの言葉に苦笑いを浮かべながらそう言ったスペンサーは、コーヒーには口をつけずにカップを置いた希佐を見て、僅かに目を細めた。
「不思議だね」
「……何がでしょう?」
「君は会う日毎にまるで違う顔をしているように感じるんだ。美人は三日で飽きるというが、その言葉は君には当てはまらないね」
「おい、それで口説いてるつもりか?」やめとけやめとけ、と言って、バージルは顔の前で手を振る。「うちの脚本家がどんなに甘ったるい口説き文句を書いても、こいつは表情一つ変えねぇんだから」
「確かに、アランでさえ口説けない女性を、私が口説き落とせるわけもない」スペンサーはそう言いながらくすくすと笑った。「演出家は基本脚本家がいなければ呼吸もままならない生き物だからねぇ。いつまで経ってもそれを越える存在にはなれないのだろうよ。その点、彼は自分で演出まで出来てしまうのだから、恐ろしい男だ」
スペンサーはそこまで言ってから、おっと、と漏らして口元を押さえた。
「今はアラン・ジンデルの話で盛り上がっている場合ではなかったんだ」そう言って、高価そうな腕時計に視線を落とす。この後にも別の約束が入っているのだろう。「でもその顔だと、私が言わんとしていることは、アランから聞かされているのかな」
「オーディションのことなら、ここへ来る前に」
「そう、オーディションだ」スペンサーは肯定する。「その前に、それがどんな内容の舞台なのか是非ともお聞かせしたいのだけれどね、残念ながら肝心の脚本がまだ完成していないんだ。早筆なアラン・ジンデルにしては珍しく、執筆に時間がかかっている。私は現行の舞台を抱えているというのに、パトロンをなだめすかすのに忙しくてね」
アランは今夜にも完成すると話していたが、余計なことは言わない方がいいのだろうと、希佐は思った。もしかしたら、完成しないことも考えられる。
「私も今は忙しい身だし、どうにかこうにか今月中には完成させるという話で今は落ち着いているけれど、どうなることやら」
「脚本も完成していない舞台のオーディションがもう決まっているんですか?」
「役柄のイメージは定まっているからね」
「そのイメージが私に沿っている、ということなのでしょうか」
「いや、まったく」
「えっ?」
「まったく違う。似ても似つかない。その役は見たところ酷く妖艶で悪女的な印象を与える人物だ。今の君とは正反対なキャラクターだけど、先日イライアスと踊っている君を見て、これならいけると確信したよ」
希佐は自分を見るスペンサーの眼差しに変化を感じていた。これまでの、相手を値踏みするかのような目ではなく、絶対に自分のものにして見せるとでもいうふうな、強い意志を感じさせる視線が、否応なく突き刺さってくる。
「もちろん、これはオーディションだから、必ずしも君が合格するとはかぎらない。むしろ、合格する確率の方が低いと思う。これは差別的な意味ではないことを理解しておいて欲しいのだけれど、君は外国人だ」
「はい」
「演じるのはフランス人女性の役だから、外見からして不利になるだろう。それでも、君にこのオーディションを受けるつもりがあるのなら、私は全力で君のことを推すつもりだ」
「どうしてそこまで私のことを評価してくださるんですか? 歌もダンスも一度しかご覧に入れたことはありませんし、芝居に至っては一度も見ていただいたことがないのに」
「今のところは舞台映像を見られればそれで十分だよ。それに、オーディションを受けてもらえれば、君の演技を直接見る機会もあるだろうしね。ただ、君が私の求めるレベルに到達していなかったとなると恥をかくことにはなるが、実際そこのところはあまり心配していない。なんてったって君はアランのお墨付きだから」
「でも、アランは……」
「君にオーディションを受けさせたくないと思っている。もちろん、それは承知しているよ」
希佐の隣でバージルが小さく息を吐き出した。スペンサーはその様子を横目に見てから、再び希佐に目を向ける。
「君が今日の舞台を心から楽しんでくれていた様子を見るに、君自身が商業の舞台に立つ機会を遠ざけている理由には、何か特別な事情があるようだ。恐らく、アランはそれを知っていて、君の考えを尊重してくれているのだろう。それでも、彼は君の輝きを世に知らしめるために、カオスの脚本を書いている。矛盾しているとは思わないかな?」
「カオスの脚本は私のために書かれているものでは──」
「君のためだよ」スペンサーは断言するような口振りで言う。「『God only knows』以降の公演はどれも君のために書かれたものだ。カオスの公演映像はすべて見せてもらったけれど、どれも君の役者としてのレベルを底上げするための演出がされている。演技、歌、ダンス、どれを取っても一級品になるよう、アランは君を仕立て上げていたんだ。彼は君が大事なんだね。だから、まだ若い君が将来様々な選択肢の中から未来を選んでいけるように、君を育てていたんだろうと思うよ」
バージルはアランの希佐に対する要求がどんどん過剰になっていると言っていた。希佐自身もそのように感じていたが、その裏側にスペンサーが言うような仕掛けが隠されていたのだとしたら、そう納得せざるを得ない。
公演の台本が配られれば、あとはアランが求めるものに少しでも近づきたくて、必死で稽古をする毎日が続く。公演を終えた後はほっとするあまり、数日間は放心状態で、自分が舞台上で何をやり遂げたかなど回顧することもしない。
「私の目には、君がアラン・ジンデルの作り上げる舞台に心酔しているように見える。彼の脚本に描かれた世界を演じることに、この上ない喜びを感じていることが分かる。なにせ、彼が描く世界はあまりに蠱惑的だからね。幸せの中にある仄暗い闇を彼ほど自然に表現できる者はそういない。闇の中にある希望の光を彼ほど輝かせることのできる脚本家を、私は他に知らない。誰もが切望していたよ、彼が商業演劇のための脚本を書いたら、どんなに凄い舞台が見られるのだろう、とね」
希佐はスペンサーの言葉で、自分の心の幅が狭められていくのを、つぶさに感じ取っていた。
今日は少し話をするだけで、返事は保留しておけばいいと。スタジオに戻ったら、もう一度、ゆっくりアランと話をしようと、そう思っていたのに。
「この世界には彼の脚本を待ち望んでいた人間が大勢いる。それに出演するためなら、それこそ命をも投げ打つという者すら現れるだろう。だが実際は、オーディションを受ける権利を獲得することさえ難しい、狭き門だ。君は今、そのオーディションを受けられる権利を得ようとしているが、もちろん、断ったって構わない。そのときは、君以外の誰かが私の推薦でオーディションを受け、君以外の誰かが合格し、君以外の誰かが、アラン・ジンデルの世界を演じることになるだけなのだから」
こうしてスペンサーは、惑う希佐の心に、とどめのナイフを突き立てた。
完成した脚本のデータを添付し、送信ボタンを押す。
本来ならば、アラン・ジンデルの仕事はこれで終わりのはずだった。自分の手元から離れていった脚本がどのように脚色され、演出されようと、興味も関心もない。あとはどのように煮ようが、焼こうが、アランの知ったことではなかった。
だが、この脚本だけは、その行く末を最後まで見届けなければならない。もしかしたら、これがアラン・ジンデルが手掛ける、最後の舞台脚本になるのかもしれないのだから。
「あー……」
呻くような声を上げながら、椅子の背もたれを軋ませ、天井を見上げるようにして仰け反った。顔にかかっていた前髪が、横に流れていく。その格好のまま逆さまの時計に目をやり、確認した時刻は午後十一時半──思っていたよりも早くに、完成した。
公演は数時間前に終わっているはずだ。だが、希佐はまだ帰っていなかった。スペンサーに捕まっているのだろうかと考えるが、あの男も暇を持て余しているわけではない。希佐がどちらの道を選択するにせよ、それを受け入れる心の準備は整っている。だから、まっすぐに連れ帰ってくれと、アランはバージルに頼んでいたのだ。
アランは事務室のソファに放っていたスマートフォンを取りに向かうと、そのままの流れで希佐に電話をした。ワンコール、ツーコール……延々と鳴らしているが、いつまで待っても通話状態にはならない。小さく舌を打ったアランは、一度電話を切ると、別の相手に電話をかけた。
『なんだよ──』
「キサ、一緒にいる?」
『は?』
「電話に出ない」
アランがそう言うと、電話口の向こう側にいるバージルが、言葉を失うのが分かった。
『お前、過保護すぎ。あいつだって一人になりたいときくらいあるだろ』
「俺だって普段なら気にしない」
アランはPCの電源を落とすと、スマートフォンを耳に当てたまま階段を上がった。バージルは呆れ返ったように息を吐き出すと、口を開く。
『二時間くらい前に、タクシーでスタジオの前まで送った。俺はそのままバイクで帰ったから、あとのことは知らない。その辺ぶらついてるんじゃねぇのか』
雨も止んでるし、などと見当違いなことを言うバージルを睨みつけてやりたかったが、当人は目の前にいない。
『あいつのことがそんなに大事なら、俺なんかに任せないで、自分でついて行ってやりゃ良かっただろうが』
「俺がいたら正しい選択ができない」
『正しい選択ってなんだよ。キサにとってか? それとも、お前にとって?』あのな、とバージルは言う。『お前ら、今みたいな状態が続くようなら、絶対に上手くいかなくなるぞ。その原因が自分にあるって、分かってるよな。お前はキサに求めるばっかりで、何を与えてやってるんだ? スペンサーの野郎は、お前がキサに未来の可能性を与えてるだとか、お前がキサを育ててるだとか、都合のいいこと並べ立ててたけど、そんなんじゃねぇだろ。お前がキサにしてやってることは、全部自分のためだよな。どんな無理難題を突きつけても最後には絶対にやり遂げちまうキサに、お前、腹立ててんだろ。なんで勝てないんだって』
「……今はそういう話をしたい気分じゃない」
否定しなかった。それは、否定できなかったからだ。アランは希佐の才能のその先にあるものを見たいと思うと同時に、いつしかその才能が終わる瞬間をこの目で見てみたいと、そう思うようになってしまっていた。だが、その狂気じみた感情を現実にしたいわけではない。だからこそ、今度の舞台には、立花希佐を立たせたくなかったのだ。だがその一方で、希佐自身がその舞台に強く引き寄せられるだろうことも、分かっていた。
『俺はお前らのことが好きだし、上手くいきゃいいなとは思ってんだよ。お前みたいなやつのこと、あんなふうにまるごと受け入れてくれる女なんて、この先二度と現れないだろうからな』
こちらから切るまでもなく、バージルは言うことを言うと、すぐに通話を切断した。
初期画像のまま変更したことのない待受画面をじっと見下ろしていると、間もなくして画面が暗転した。鏡のようになった画面には、鬱蒼とした前髪で自分の顔を隠している、陰気な男が映り込んでいる。なんて醜いのだろうと自分を嘲笑っても虚しいだけだった。
いつだってこの歪んだ感情を正しい位置に修正し続けながら生きている。ねじ曲がった性根をひっぱり、まっすぐに戻して、普通の人間であるかのように振る舞っている。
そういう生き方が板についてきた矢先に、立花希佐と出会ってしまった。三年の時が経ち、被っていた仮面が少しずつ剥がれはじめていたのかもしれない。一人の人間と親密になり、心を許しすぎたせいで、忘れていた貪欲さが顔を覗かせてしまったのだ。それを手に入れ、大切に愛でて、慈しんだ先にある思いが、破壊だったとは、自分でも想像できなかったと、アランは笑う。
スマートフォンの画面が光った。見慣れた名前が表示される。アランは小さく咳払いをしてから、スマートフォンを耳に当てた。
「なに?」
『迎えにきてあげてくれないかな』メレディスの声が困ったように言う。『キサが酔い潰れてしまってね』
「……キサが?」
『いつもはギネスを二、三杯飲む程度なのに、今日はスコッチをストレートで飲むんだって』それを聞いて、心臓の辺りが一瞬窮屈になる。『君たち、何かあった?』
「なにも」アランは自分の部屋に入り、コートを手に取ると、階段を降りた。「今から迎えに行く」
『そうしてもらえると助かるよ』
通話の途絶えたスマートフォンをコートのポケットに入れる。スタジオの外に出ると、ひんやりと冷たい空気が、アランの堕落しきった感情を少しだけ忘れさせた。だが、冬は嫌いだ。かといって他の季節が好きかといえば、そういう感覚は持ち合わせがない。
アランは何も考えないようにしながら歩こうとした。ただ、自らが吐く白い息が目の前に広がり、流され、消えていく様を眺めていようと思った。それなのに、頭はそれに従わず、思考し続けている。
希佐はギネスを飲むと、よくダブリンの話をする。同じ話はあまりせず、いつも違った話をして聞かせてくれた。ダブリンでの生活がよほど性に合っていたのだろう。ギネスを飲むと、そのときの思い出が鮮明に蘇って、気分が良くなるのだと言った。
あまり連れ立って飲みに行くことはないが、アランは希佐がギネス以外の酒を飲んでいる姿を、見たことがなかった。他を知らないのだと、そう言っていたことを思い出す。
スコッチは普段からアランが好んで飲んでいる酒だった。それはメレディスも知っている。だからこそ、こう尋ねてきたのだ。『君たち、何かあった?』と。
ヘスティアに到着すると、アランは真っ先にメレディスがいるカウンターに向かった。ちょうど客と話をしているところだったメレディスは、アランに気づくと少し待つようにと合図を送り、朗らかな立ち居振る舞いで接客を続けている。店内は客の数も減り、落ち着いて飲むには良い時間帯だった。
アランは店内をぐるりと見回してみるが、酔い潰れている人の姿は見当たらない。
「やあ、お待たせ」店内に視線を走らせているアランを見て、メレディスは「ああ」と漏らした。「そのまま寝かせておくわけにもいかないから、スタッフルームに連れて行ったよ。タクシーを呼ぼうか?」
「車内で吐かれても困るから背負って帰る」
「夜風に当たれば少しは酔いも覚めるかもね」
ついておいで、と言って、メレディスは歩き出した。アランはその後ろを黙ってついていく。相変わらず親しげに声をかけてくるパブの客を適当にあしらい、スタッフオンリーの区域に足を踏み入れた。すると、メレディスが肩越しに後ろを振り返ってくる。
「キサが酔い潰れるまで飲むなんて初めてだよ」
「俺も初めて聞いた」
「何もないならいいのだけれど、少し思い詰めているようにも見えたから、気になってね」
「何か言ってたの」
「いいや、何も。一人きりでふらっとやってきて、静かに飲んでいたよ。いつもならあの子の姿があると周りに人集りができるくらいなのに、今日は誰も近くに寄れなくてね」
「スペンサーの舞台を見た帰りだったんだ」
「それは妙だな。舞台の帰りに寄ってくれるときはいつも楽しそうに話して聞かせてくれるのだけれど」スタッフルームの前までやって来ると、メレディスは足を止めた。「表から出ると目立つから、裏口を使っていいよ。場所はこの突き当たり」
「知ってる」
「鍵は開けたままにしておいていいからね」
メレディスはスタッフルームの扉を開け、アランを中に通した。
希佐はトランプが置いてあるテーブルの脇にある、一人掛けの肘掛け椅子の上で、膝を抱えるようにして丸くなっていた。遠目からでは、寝ているのか、起きているのかも分からない。
「じゃあ、あとはよろしく」
頷くアランを置いて、メレディスは店に戻っていった。
アランは、ふう、と静かに息を吐き出してから、希佐に歩み寄っていった。肘掛け椅子の前で膝をついたアランは、希佐の足にそっと触れる。その手の触れ方で誰なのかを察したように、希佐は声も上げず、ゆっくりと目を開いた。
「スコッチ、何杯飲んだの」
「……二杯」
「ストレートで?」頷く希佐を見て額を掻いたアランは、テーブルの上に置いてあったペットボトルの蓋を外し、差し出した。「水、飲んで」
「本当は二杯と半分飲んだ」
「慣れないことするから、こんなことになるんだ」
一口しか飲もうとしない希佐にもっと飲めと言いながら、アランはその顔色を窺った。多少青白くはあるが、そこまで気分が悪そうではない。目がとろんとしているのは眠気のせいだろう。やはりタクシーを呼ぼうかとも考えたが、アランは結局、希佐を背負って帰ることにした。
「ほら、帰るよ」
体の向きを反転させ、アランは膝をついたままの格好で希佐に背中を向けた。希佐は一瞬目を丸くしたが、苦笑いのような表情を浮かべると、自らの足で椅子から立ち上がる。
「自分で歩けるから、大丈夫」
「無理だ」立ち上がるなり、ふらり、と揺れた体を支え、アランは言った。「いいから、早く」
希佐はそうすることが嫌というよりも、酷く申し訳ないという顔をしながら、それでもアランの背中に覆い被さった。背後から回された両腕が首に絡まったのを確認してから、アランはゆっくりとその場に立ち上がる。膝の裏に両手をかけて持ち上げると、改めて、その軽さに驚いた。
ヘスティアの従業員に見つからずに裏口から外に出たアランは、その扉を足で閉めると、以前にも二人で辿った道を歩き出した。希佐は完全にアランの背中に身を預けていた。二人分の体温が混ざり合って、暖かいのだろう。呼吸が寝息に近くなっていくのが分かった。
「舞台はどうだった?」
「素敵だった」
「どんなふうに?」
「大きくて、明るくて、煌びやかで」希佐はアランの耳元で囁くように言う。「ユニヴェールみたいだった」
ああ、また、ユニヴェールだ。
アランは落ちかけた思考を持ち直し、詰めた息を吐き出した。
「オーディションは?」
「……」
「キサ」
「……ごめんなさい」それが答えだった。「どうしても断れなかった」
「いいよ、それで」
どちらの答えを持って帰ってきたって、それを受け入れると、送り出す前から決めていたのだ。今更その考えを覆そうとは思わない。それに、分かっていたのだ。希佐がその話を断らないことは。
希佐は、まるで背中からアランの体を抱き締めるように、首に絡めている両腕の力を強くした。
帰るに帰れず、バージルにスタジオまで送り届けてもらった後で、ヘスティアに向かったのだろう。少しでも酔えば帰宅する勇気が湧くとでも思ったのだろうか。それとも、酔い潰れてしまえば、アランの方から迎えに来てくれると考えたのか。
愛おしいと思う。その思いに偽りはない。それなのに、今すぐに抱き潰してしまいたい思うくらいには、酷く心が掻き乱されていた。その思いを必死に押し込めて、もう一度、冷たい空気を感じる。白い息を吐き出す。消えゆくそれを、目で追いかける。
「アラン」希佐が空を見上げながら言った。「月が綺麗」
今日は曇っていて、月が見えない──アランは唇を結び、その言葉を飲み込んだ。