ある日、バイト代を出すからタップダンスの練習会に付き合ってほしいと言われた希佐は、昼過ぎにロンドンの街中にある小さなダンススタジオに出向いた。約束の時間よりも早く到着してしまったが、スタジオには既にバージルの姿があった。スタジオの主人と思われる同い年くらいの男性と話していたが、開けたドアの隙間から希佐がひょっこりと顔を覗かせているのを見つけると、中に入ってこいと声をかけてくる。
「ここ、普段は社交ダンスのスタジオなんだけど、子供たちにタップダンスを教えるために場所を借りてるんだ」
「子供たちに?」
「たまにな」バージルは柄じゃないだろと言うように頭を掻いた。「ダンスはレッスン代がバカ高いから、施設とか低所得者層の子供たちを中心に。月に一回くらいずつだけど、無償で教えてる」
午後三時頃になると子供たちが続々とやってきた。部屋の隅にある箱の中から、自分の足に合うシューズを見繕ってもらい、慣れた様子で靴を履き替えている。見慣れない人がいると遠巻きにされていた希佐だったが、自己紹介ついでにバージル直伝のタップダンスを披露すると、瞬く間に羨望の眼差しを向けられるようになった。
子供たちは体が柔軟で、飲み込みが早く、物覚えも良い。このくらいの年齢の頃にプロからダンスを学ぶという経験は、後々になって生きてくるのだろう。才能のある子は、このままプロを目指すことだってあるのかもしれない。子供たちの夢に選択肢を増やしてあげる活動は、大人の大事な仕事の一つなのだろうと、希佐は感じた。
今日の趣旨に反するからと言って、当然の如くバイト代の受け取りを希佐が断ると、バージルはそれならと夕食をご馳走してくれた。ダンススタジオの近くにある小ぢんまりとしたイタリアンのレストランで、石窯で焼かれる薄焼きのピザを二枚注文する。
「こういうことはどのくらい続けているの?」
「んー、どのくらいだろうな。キサに会うよりずっと前からだし、まあ、十年くらいにはなるんじゃねぇかな」
「そうなんだ」
「キサは子供の扱いが上手い」
「日本にいた頃、学校の近くにあった施設の子たちに、ダンスを教えたりしていたこともあるから」
「へえ」
「また手伝えることがあったら、遠慮しないで声をかけて。時間が合えばいつでも行くから」
「でもお前、これからオーディションとかで、また忙しくなるだろ」
「あ、うん、そうだね……」
苦笑いを浮かべ、歯切れ悪く答える希佐を見やり、バージルはどこか思案げな表情を作る。
「オーディションのこと、アランと話してないのか?」
「オーディションのことというか……」
「あー」バージルは鼻を掻きながら、呆れ返った顔をした。「避けられてる、と」
「私とはあまり話をしたくないみたい」
「あの日から?」
「うん」
バージルはピザを運んできた店員に礼を言ってから、追加でビールを注文した。希佐が自分のバッグから取り出したウェットティッシュで手を拭いている間に、バージルがナイフとフォークを使って、ピザを器用に取り分けてくれる。
「あいつはそういうガキっぽいところがあるんだよなぁ。いい歳をした男が恥ずかしくないのかねぇ」
バージルが差し出した皿を受け取りながら、希佐は何とも言えない顔をした。
この場合、どちらが悪いという問題ではないと、希佐は考えていた。それに、アランは希佐の中途半端な物の考え方も気に入らないのだろう。
大きな舞台にたてば、ユニヴェール関係者やフォロワーに女だとバレる可能性が高くなる。それなのに、ユニヴェールの影に怯え、そこから逃げ続ける日々を送っている者が、商業演劇のオーディションを受けるなどと言い出したのだ。そんなのはおかしいだろうと思うのは当然のことで、希佐には言い訳のしようもない。
希佐自身ですら、自分で出した答えの矛盾に、困惑を隠せずにいるのだから。
「俺は、お前自身が前に進むっていう決心をしたのなら、それを貫けばいいと思う。自分の人生だ、他人の顔色を窺って自分の考えを曲げるなんて、馬鹿げてるだろ」
「私、前に進もうとしているように見える……?」
まるで独白をするかのような吐露に、バージルは肩をすくめた。
「まだまだ迷ってるって感じだな」
「そうだよね」
「でも、何かを決断するときなんて、いつだってそんなもんだ。自分の意思が固まるのを大人しく待っていたら、目の前にあるチャンスを逃しちまうかもしれない。迷ってたって、悩んでたって、とりあえずは飛び込んでみりゃいいんだよ。考えるだけなら後でいくらでもできるんだ。後々になって、あのときオーディションを受けていたらよかったなんて後悔、したくないだろ?」
「それは、うん、そうだけど」
「キサは物事を悪い方に考えがちだけどな、ある日突然すべての事態が好転して、何もかもが万事解決なんてこともあるかもしれないぞ」
「私にはとてもそんなふうには考えられないよ」
「お前みたいな若い連中は、自分の考えを貫き通して、周囲の人間を振り回すようなことをしたって、大抵は許されるもんだ。何年か後になって思い返したときに、懐かしいなって思えるような生き方をしろよ。俺はお前を応援してるんだ」
「バージル……」
「おっと、うっかり惚れんなよ?」
「うん、それは大丈夫」
そう言って悪戯っぽく笑って見せれば、バージルは一瞬ほっとしたような表情を浮かべてから、あからさまに傷ついたような顔をする。
「こんないい男が目の前にいるってのに、お前の頭ん中はあんな優男のことでいっぱいってわけか」
「私、バージルのことも大好きだよ」
「そんなことは知ってる」どうやら希佐から懐かれている自覚はあったようだ。「お前は俺のかわいい自慢の弟子だよ」
あんまりフラフラしないで帰れよと釘を刺してから、バージルは焼き立てのピザを手土産に持って、先ほどのダンススタジオに戻っていった。
時刻は六時を過ぎたばかりだが、日は落ちて久しく、空気はひんやりと冷たい。もう間もなくクリスマスということもあり、ロンドンの街には煌びやかな装飾が施され、至る所にクリスマスツリーが飾られていた。通りの頭上には左右のビルから渡し合った電飾がチカチカと輝きを放っている。
それを見上げて歩きながら、希佐は白い息を吐き出した。電飾の光が淡く包み込まれ、ぼんやりとした後、またすぐに鮮明になる。クリスマスマーケットの露店からは、クリスマスソングが聞こえてきていた。
希佐は馬車の形を模した露店の前で足を止めると、ツリーのオーナメントに目を留めた。兵隊、観覧車、ロンドンバス、ウェストミンスター宮殿、テディベア──どれもイギリスらしいものばかりだった。隣の露店には通常のオーナメントとリースが山のように積まれている。
兵隊とテディベアのオーナメント、そして小さなリースを購入して、希佐はその場を後にした。途中でホットチョコを買い、ベンチに座ってそれを飲みながら、ロンドンの街をぼんやりと眺めている。人々が右から左へ、左から右へと流れていく様を、ただ眺めていた。
イギリスにやって来てから四年。当初は早くビザの期限が切れてくれと願いながら毎日の生活を送っていた。日本食とは名ばかりのよく分からない料理を出すあのレストランは、いつの間にか閉店してしまっていた。毎日食べていた不味いまかない料理が、今となっては懐かしい。前に住んでいた古いアパートは取り壊され、今は建て直しの最中なのだという。たった一人、ロンドンで生きていた希佐の痕跡が、一つずつ消されていくようだった。
いつも疎外感を覚えていた。どうしても馴染めなかった。それなのに、今はこうしてロンドンの街に溶け込んで、雑多に紛れている。ロンドンで生きる人間の一人として、白い息を吐き出し、ここで呼吸をしている。
希佐は空になった紙コップをくしゃりと潰し、すぐ近くにあったゴミ箱に捨てる。
スタジオに戻らなければと思った。このロンドンの雑多の中に溶け込めば溶け込むほど、自分の居場所はあのスタジオ以外にないのだと強く感じるのだ。他に行く場所などない。立花希佐という人間を受け入れてくれた場所だ。それなのに今は、そこに戻りたくないと思ってしまっている。あの日からずっと、自分は受け入れられていないと感じるから。
どこかのホテルにでも一泊しようか。でも、ロンドンはクリスマスマーケットを目当てにやってきた観光客でいっぱいで、ホテルの部屋に空きはなさそうだ。一晩だけ泊めてほしいと頼めるほど仲の良い友人もいない。ヘスティアに逃げ込んだところで、あの勘の鋭い王様がすべてを見透かした目でこちらを見て、今日は何も飲まずに帰りなさいと諭すに決まっている。そろそろ何か仕事を入れようかと思っても、オーディションの日程が分からないことには、この先の予定も決められなかった。
宙ぶらりん──今の希佐には、その言葉がよく似合う。
まるで今すぐに決めろ、答えを出せと言われているようだった。これ見よがしに時計に目を落とし、暗に次の約束が迫っていることを知らせていた。希佐には、その場で今すぐ答えを出さなければ、この次に会う者にその権利を移譲すると、そう脅されているように感じられた。アランはすぐに返事をする必要はないと言ったが、果たしてそう言い切れるのか。本当にこのチャンスが奪われることはないのか。自分以外の、他の誰かに。
気がつけば、受ける、と言ってしまっていた。カサカサに掠れた、震える声で。その瞬間、自分が酷く罪深く、許されない選択をしたのだと思った。でも、吐き出してしまった言葉はもう、飲み込むことはできない。
今なら少し冷静になって、毅然とした態度で、考えさせてくださいと言えただろう。スペンサー・ロローもそれに応じてくれていたはずだ。自分にもっと余裕があれば、こんなことにはならなかったのにと、希佐は思う。
でも、今のままではダメだ。逃げずに戻って、もう一度、きちんと話をしよう。そう決意し、帰路につく。その決意が揺らがないように、そのまままっすぐ、スタジオに戻った。
そうした希佐を待ち受けていたのは、女性の美しい歌声だった。アイリーンの歌だ。玲瓏な歌声とは、こういうもののことを指して言うのだろう。
圧倒的な声量と多彩な声音を使い分ける技術。それは天性の才能であると同時に、血の滲むような努力の末に手に入れたものであるということを、今の希佐は知っている。自分にはない歌唱の才能。それを妬ましく思うほど愚かではない。ただ、羨むことはあった。あれだけ歌うことができたら、もっとこの世界は広く、大きくなると分かるから。
「──じゃあ、今度のオーディションで、俺は君を推すから」
アイリーンの歌の邪魔をするのが嫌で、区切りのいいところまで外で待っていた希佐がスタジオに足を踏み入れると同時に、そう言うアランの声が聞こえてきた。
希佐が思わず動きを止めると、スタジオの中央に立っていた二人が、こちらに目を向ける。
「た、ただいま……」
「おかえり、キサ」アイリーンが美しく微笑んで、そう応じてくれた。「バージルとの練習会はどうだった?」
「えっ? あ、うん、楽しかったよ」
「私も前に子供たちに歌を教えたことがあるのよ」
「そうなんだ」希佐は自然に笑い、後ろ手に扉を閉める。「お取り込み中のところをごめんなさい。私は上に行ってるから、どうぞ続けて」
いつも通り、普通に、二人の邪魔にならないように歩く。二人の隣を通り過ぎたところで、アランが再び口を開いたが、希佐は自分の耳に蓋をし、何も聞かないようにした。やっぱり、戻ってくるのではなかったと、そう思う。
二階に上がると真っ先に自分の部屋に入り、マフラーを外して、コートを脱ぎ捨てた。バッグをベッドの上に放り、それを追いかけるようにしてうつ伏せに倒れ込む。
思わず、腹の底から笑いが込み上げてきた。声を抑え、肩を小刻みに振るわせて笑いながら、寝返りを打ち、天井を見上げる。
コンクリートが剥き出しになった天井だ。暖房が入っていないので、この部屋の中は外と同じくらい肌寒かった。だが、このくらいがちょうどいい。
希佐は自分を馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、違っていた。実際には、大馬鹿者だったのだ。それが今、分かった。いずれにしても、話せば分かると思っていた希佐の考えは甘かったのだろう。
酷く妖艶で悪女的な女性──その役柄を演じるための外見は、希佐よりも、アイリーンの方がずっと近い。アランはオーディションで希佐にアイリーンという才能をぶつけ、今回の話を潰すつもりなのだ。そうまでして、この舞台を諦めさせたいというのか。でも、なぜ。
アランは嫌だと言っていた。ただ、嫌なのだと。
オーディションを受けることが嫌なのか、希佐に与えられるかもしれない役を演じさせることが嫌なのか、それは分からない。アイリーンには任せられても、希佐には任せられない、そこを分ける壁は一体何なのか。
……、……。
ダメだ、これは良くない。これ以上考えてはダメだと、希佐は自分の思考にストップをかける。夜の闇は人の考えに悪影響を与えるものだ。悪い方、悪い方へと、思考が引き摺り込まれていってしまう。
朝になって空が明るくなり、気持ちが落ち着いたら、もう一度よく考えてみようと、希佐は思った。
事態は自分が思っているほど逼迫していないのかもしれない。考え過ぎているだけだ。きっと、これはもっと単純な問題で、自分自身が難しく考えているだけなのだ、と。
けれど、その思いを阻むかのように、ドアが叩かれた。希佐は無視をする。ベッドの上で横になり、その音が止んで、部屋の前にある気配が遠ざかるのを待った。今話をすれば、口から溢れ出す言葉はどれも感情的なものになる。相手を傷つけ、自分が後悔する結果にしかならない。だから、ダメなのだ。
がちゃ、とドアノブが回される。人の気配とこちらに向けられる視線を確かに感じた。
「キサ、話がある」
「……」
「キサ」
「……明日にして」
「今」
「今はダメ」
「それなら、一方的に話す」壁にある一点の染みを睨みつけながら、希佐は奥歯を噛み締めていた。「十二月からオーディション期間に入る。何回かの選考を経て、一ヶ月後には配役が決まる。聞いていたと思うけど、俺は今回のオーディションではアイリーンを推すから」
「……そう」
「君がオーディションを受けるなら、この期間中は別々に暮らした方がいい。脚本家と一緒に住んでいると、不正を疑われる可能性がある。そういうのは君も本意ではないと思うし」
「……分かった」
「一ヶ月、君が寝泊まりするホテルを取るよ。費用は俺が持つから──」
「やめて」
「え?」
「そういうの、もうやめて」希佐は耐えきれずに、ベッドの上で身を起こした。「自分が寝泊まりするところくらい、自分で決める」
「でも、これは俺の都合で──」
「私にも矜持くらいはあるんだ」
乱れた髪を掻き上げ、くしゃりと握り潰す。そのまま頭を掻きむしりたくなる気持ちを抑えつけて、喉の奥から落ち着いた声を絞り出した。
「荷物まとめるから、外に出て」
「別に今すぐにとは言ってない」
「早く、出て」
自分の冷め切った声にぞっとする。それと同時に、自分にもこんな声が出せるのだと、嬉しくもなった。こんなときだというのに、頭の片隅では、今まさに感じているありとあらゆる感情を、役に生かせそうだと、そう思ってしまう。自分は根っからの狂人なのだろうと希佐は思った。
アランは無言のまま部屋を出て行った。
希佐はのろのろとベッドから降りると、クローゼットに入れていたボストンバッグを引っ張り出した。ユニヴェールから逃げ出してきたときに使ったものだ。この物で溢れかえっている部屋の中で生きていても、本当に必要なものは、このボストンバッグに入る程度しかないことを希佐は知っている。
どこかで選択肢を誤ったのだ。きっと、それはもう取り返しのつかないほどずっと遠い過去のことで、その分岐点すら覚えていない。
時間はまだ午後九時さえ回っていなかった。希佐は本当に必要なものだけをバッグの中に放り込むと、スマートフォンを手に取り、電話をかけた。
『はいはい』
「バージル」
『……なんだ?』
「一晩だけでいいから、バージルの家に泊めて」
『は?』
「お願い」
please、と懇願するように囁けば、電話口の向こうからは盛大なため息が聞こえてきた。
『今からそっちに行く。近所だけど、歩きだから少し掛かるぞ』
「どのくらい?」
『十五分か二十分くらい』
「分かった」
飾る場所もないクリスマスツリーのオーナメントを紙袋から取り出し、机の上に並べて置いた。リースも机の上に立て掛ける。かわいらしいと思って手に入れたものが、あっという間に不要なものに成り下がってしまった。
自分が何にそこまでのショックを受けているのか、希佐には言語化することができなかった。人の話は聞こうとしないくせに、自分の話は一方的にでもして聞かせるのだ。明日の朝にすればいいだけの話を、こんな精神状態の時に。
希佐は机の上で手の平を滑らせると、オーナメントとリースをくずかごの中に落とした。必要最低限のものしか入っていないボストンバッグの持ち手を引っ掴み、床に落ちているコートとマフラーを拾い上げて、部屋を出る。
ドアの前には、まだアランが立っていた。希佐はその姿に一瞥をくれるが、すぐに顔を背けて歩き出す。しかし、その足はすぐに止まった。アランの手が、希佐の腕を掴んでいた。
「どこ行くの」
「今夜はバージルのところに泊めてもらう」希佐の腕を掴む手に、僅かに力が入った。「明日からはまだ分からない。決まったら居場所は知らせるから」
「俺を困らせようとしてる?」
「なんのために?」
「アイリーンを推すことが君への当てつけだと思っているなら──」
「バージルの家に行くことがあなたへの当てつけだとでも?」
アランの言葉を遮るように、希佐はその上から言葉を重ねた。無言のまま何秒か睨み合った後、アランは掴んでいた希佐の腕を離した。
「アイリーンを推薦することは脚本を書いている段階からもう決めていたことだ」
「そう」
「今の彼女なら、演じられる」
それは、アランの書いた脚本の主役を演じられる女優として、大成したということなのだろう。
出会ったばかりの頃、アランはアイリーンのことを指して、まだそのときではないのだと語っていた。それからの三年で、アイリーンは徐々に実力をつけていき、最近では商業の舞台に立つ機会も増えている。
アイリーンが大舞台のオーディションを受けられることは、とても素晴らしいことで、本来であれば邪魔をするべきではないのかもしれない。
「応援してる、彼女のこと」
「君は?」前髪の下に隠された顔に、険しい表情が浮かぶのが分かった。「本気なの?」
「今更そんなことを聞く……?」
そのことについて何度も話をしようとした。相談だってしたかった。それなのに、いつだって話などしたくないという素振りを見せていたのは、どこの誰だというのか。
「心配しないで。あなたに迷惑はかけないから」
「キサ」
「なに?」
再び歩き出そうとした希佐を、アランはもう一度呼び止めた。振り返った希佐に向かって、右手を差し向けている。
「その指輪、返して」
「……え?」
がつん、と後頭部を鈍器で殴りつけられるかのような衝撃が、希佐の頭を真っ白にさせた。呼吸をすることすら忘れ、大きく見開いた目でアランの顔を見るが、その表情を上手く読み取る感覚さえ思い出せない。何を言われたのかを正しく理解するまでの時間、アランは希佐に向かって、その手を差し出し続けていた。
希佐は顔を伏せ、拳を握る。左手の小指。金色の指輪。アランの目と同じ色をした緑色の石。指輪の上から自分の手を力強く握り締め、歯を食いしばる。ただ訳も分からず悲しくて、悔しくて、やるせなかった。
これはそこまでのことなのか。修復できないほどの過ちなのか。これまでの三年間が無に帰すほどの。
希佐は震える右手で、左手の小指から指輪を抜き取った。もはや指先の感覚はない。きちんと掴めているかも分からない小さな指輪を、アランの手の平の上に、ぽとん、と落とした。
「……他にもほしいものがあったら、なんでも好きに持っていって」
どうせ、どれも必要のない、生きていく上では不要なものばかりだ。なんなら、すべて処分してくれたって構わない。思い入れのあるものなんて、何もない。
「じゃあ」
希佐はアランの顔も見ずにそう言うと、その場で踵を返した。
嫌われた。きっと、そうだ。そうでなければ、こんな無慈悲なことをできるはずがない。
ああ、そうか、と希佐は諦めの表情を浮かべた。
いつかはこんな日が訪れるだろうとは思っていたのだ。いずれやってくる別れの日。それが今日だった、というだけのことなのだろう。生憎だが、お別れにはなれている。
「あら、キサ?」スタジオにはまだアイリーンの姿があった。「今から出かけるの?」
「うん、バージルが迎えに来てくれるから」
「またバージル? あなたたち本当に仲がいいわね」
どこか皮肉っぽく言うアイリーンに向かって、希佐は機嫌良く笑いかけた。
「アイリーンもスペンサーさんの舞台のオーディションを受けるんでしょう?」
「ええ、そうなの。アランが推薦してくれるって。あなたはスペンサーの推薦を受けるの?」
「うん、多分」
「今回の舞台は歌唱力が肝になるんですって。演技ではあなたに敵わないけれど、歌唱力で勝負できるなら、私にも十分にチャンスはあるわ」差し出されるアイリーンのすらりとした手。希佐はその手をすぐに握り返した。「手加減はなしよ、お互いにね」
希佐はアイリーンのことが大好きになっていた。だから、頑張ってほしいと思う。成功を掴んでほしい。
もし、自分以外の誰かが舞台の真ん中に立つのだとしたら、アイリーンがいいと、希佐は思った。
希佐が外に出てスタジオの扉の鍵を閉めていると、道の向こうから歩いてくるバージルの姿が見えた。自分の方に駆けてくる希佐の姿を見ると、その場で足をとめ、何も言わずに説明を求めるような眼差しを向けてくる。
「ありがとう、迎えに来てくれて」
「俺はまだ泊めてやるとは一言も言ってねぇよ」バージルは呆れた目で希佐を見てから、電気がついているスタジオの二階をちらりと見上げた。「俺は喧嘩の仲裁なんて真っ平だぞ」
「喧嘩じゃない」
「だったらなんだよ」
「私がオーディションを受けるなら、その一ヶ月の期間中は一緒に住めないって」
「それなら明日になってからでもいいだろうが。それに、わざわざ俺に泊めてくれって頼む必要もねぇだろ? あいつにホテルでも何でも取ってもらえばいいじゃねぇか」
「断ったの」
「なんで」
「まるで施しを与えられているみたいで、耐えられなかったから」
心のどこかではいつも、肩身の狭い、居心地の悪さを感じていた。だから、希佐はここを自分の家だと思ったことはなかったし、家に帰るという感覚を覚えたこともない。居候の借宿暮らしだ。
ここでの生活は本当に楽しく、幸せで、それがいつまでも続けばいいと思っていたこともあった。でも、そんなものは、ただの夢物語だ。永遠に続く幸せなどない。神様はいつだって見ているのだ。今度はいつ、お前を不幸のどん底に叩き落としてやろうかと、舌舐めずりをしながら。
「ホテルはお金がかかるから、明日から家賃の安いアパートを探す」
「一日二日で見つかるかよ」
「見つかるまではホステルに泊まる。ロンドンに来てすぐの頃はホステル暮らしをしていたから、慣れているし」
「おい、キサ……」
にこにこと笑いながら話す希佐を見て、バージルは頭を掻きながら、参ったと言うふうな表情を浮かべた。
バージルは自分のコートのポケットをまさぐり、しわくちゃのハンカチを取り出す。それを見て、クソ、と小さく悪態を吐いたかと思うと、シャツの袖で希佐の顔を拭ってくれた。
「俺じゃなくてアイリーンの家に泊まった方がいいんじゃないか?」
「無理だよ」バージルの不器用な優しさが骨身に染みて、希佐の声が不自然に震えた。「アランの推薦で同じオーディションを受けるって……」
「あー……ああ、分かったよ。泊めてやる。泊めてやるから、もう泣くな」
「本当?」
「ゲストルームがあるから、そこを使えばいい。なんなら一ヶ月でも二ヶ月でもいたって構わねぇから」
「……本当に?」
「その方があいつだっていくらか安心だろうからな」
ほら、行くぞ──バージルは少し投げやりにそう言って、来た道を戻っていく。希佐は自分の手の平で顔を拭ってから、早足でバージルの背中を追いかけた。
バージルが住んでいるコンドミニアムは、実際スタジオから歩いて十五分ほどのところにあった。日本で言うところの高級マンションのような外観で、ワンフロアが一世帯分の住居になっている。その七階建てのアパートの最上階が、バージルの家だった。
自動ドアを通ってアパートの中に入ると、受け付けにはコンシェルジュの姿があった。彼はバージルを見るなり、恭しく「おかえりなさいませ」と言う。後ろをついて歩く希佐にはちらりと一瞥を送るだけで、余計なことは一言も口にしない。
「こいつ、これから一ヶ月くらい俺の家に居候するから、顔覚えておいて」
「かしこまりました」
「ハンナは?」
「ご帰宅されています」
「そうか、ありがとう」
バージルはそう言うと、希佐に軽く目配せをしてから、エレベーターに向かって歩き出した。希佐はコンシェルジュに向かって目礼をすると、バージルに続いてエレベーターに乗り込む。
「あの、ハンナって?」
「俺のオンナ」
「えっ?」
「一人で住んでるなんて誰が言った?」バージルは悪戯っぽい表情を浮かべて希佐を見下ろした。「お前も悪い女だねぇ。そんな男のところに一ヶ月も転がり込もうとするなんてなぁ」
「ご、ごめんなさい、私、やっぱり──」
「もう遅い」
ぽーん、というやわらかい音が鳴った後、エレベーターの扉が開いた。そこに廊下などはなく、エレベーターを降りたところが、既に玄関だった。
「ハンナ、帰ったぞ」
極々自然な、朗らかな声で、バージルが家の中に向かって呼びかけている。これまでに聞いたこともないような、とろけるような優しい声だ。
希佐は念入りに頬の涙痕を消し、乱れた髪を整えた。深呼吸をして心を落ち着け、姿勢を正す。
バージルが一緒に暮らしている女性とは、一体どんな人なのだろう。失礼のないようにしなければならない。
そう思ってドキドキしていた希佐の耳に、床を掻くような、チャッチャッ、という音が聞こえてきた。その音は少しずつ近づいてくる。何の音だろうかと不思議に思っていた希佐の目に、それは突然映り込んだ。
「ただいま、ハンナ」
すらりとしたその体躯の持ち主は、人ではなく、犬だった。希佐がぽかんとした顔をしてエレベーターの前に立ち尽くしていると、その様子を見たバージルがくつくつと笑う。
「人間のオンナとは言ってねぇだろ?」バージルは犬の頭を撫でてやりながらそう言った。「俺のハンナ、ボーダーコリーのメスだ」
バージルにひとしきり撫でられたハンナは、ようやく希佐の方についと顔を向ける。鼻先を持ち上げ、匂いを嗅ぐような仕草を見せながら、僅かに警戒するような様子を窺わせた。
「第一関門は、こいつに気に入られるかどうかだな」ハンナはゆっくりと弧を描くようにして希佐に向かって歩いてくる。「まだ顔をじっと見るなよ。手の甲を見せて突っ立ってろ。体を柔らかく。ビビってるとバレるぞ」
希佐は言われるがまま左手を前に出し、甲を見せるようにして立っていた。すると、匂いを嗅ぎにやってきたハンナの濡れた鼻が、ぴたりと一瞬押し当てられる。希佐の周りを一周回り、満足するまで匂いを嗅いだハンナは、そのまま部屋の奥に戻って行ってしまった。
「よかったな」
「え?」
「好かれたみたいだ」
「今ので?」
「ダメなやつはもう唸られてるし、最悪の場合は威嚇されて追い出される」
不思議と動物には好かれる体質らしい。大伊達山に住んでいるイタチのオナカは元気だろうかと、希佐は不意に思った。
「俺の仕事が入ってる日はデイケアに預けたり、シッターに来てもらったりしてる。知らないやつが家に入ってきても気にしないでくれ」
「それは不審者じゃないってどう判断したらいいの……?」
「ああ、そうか。まあ、そうだよな」希佐の身に起こった過去の事件を思い出したのか、バージルは少しだけ苦い表情を浮かべた。「ハンナが落ち着いていたら問題ない。唸って飛びかかるようだったら即通報しろ」
「分かった」
「ま、下には常にコンシェルジュがいるし、カードキーがないとエレベーターも動かないから、そういう心配はいらねぇよ。あのスタジオよりもよっぽど安全だしな」
エレベーターを降りた左側には、広々としたリビングとキッチン、バーカウンターがあった。壁の一角には特大の鏡が嵌め込まれていて、その鏡の前だけに、特別な床板が張られている。そこで日々タップダンスの練習をしているのだろう。アイランド型のキッチンは驚くほどピカピカだったが、コンロにフライパンが出ているのを見ると、どうやら自炊をすることもあるようだと分かった。ダイニングテーブルはない。背の低いガラスのテーブルや黒い革張りのソファが置かれ、その傍らには犬用のふかふかのベッドが並んでいた。ハンナはそこにゆったりと伏せて、目を閉じている。
大きな窓からの景色は抜群だった。劇場地区の方まで見渡すことができる。
「冷蔵庫は、まあ、入ってるものは適当に使ってくれ。必要なものは自分で買ってくること。俺に食われたくなかったら名前を書いておけよ。あとは、そうだな、バスルームはゲストルームについてるから、そっちを使った方がいいだろうな」
「でも、本当にいいの?」
「ん? 何がだ?」
「一ヶ月もお世話になって」
「別に俺が世話するわけじゃねぇだろ」バージルはそう言ってから、思い出したように手を差し出した。「財布を出せ」
「え?」
「ほら、出せよ」
ギャングみたいと漏らしながら希佐が言われるがままに財布を渡すと、バージルはそれを取り上げ、中身の確認をはじめた。そして、その中から何枚かの紙幣を取り出し、それを懐にしまった。
「一ヶ月分の家賃と、諸々の費用で、まあこんなもんだな。これで俺とお前は対等だ、お互いに遠慮はいらないな」
ほらよ、と返された財布を両手に抱えながら、希佐は目を丸くした。しかし、そのおかげで、希佐の体に蓄積していた罪悪感のような思いが、一瞬にして消え去るのを感じる。安堵感に満たされ、ほっと息を漏らすと、バージルはどこか優しく笑った。
エレベーターの右側にはバージルの寝室や書斎、ゲストルーム、防音などの設備が整ったシアタールームなどがあった。まるで完璧に完成されたモデルルームのような家だ。希佐のイメージの中にあったバージルの私生活とはあまりにかけ離れた生活を送っているようで、口には出さないまでも、内心ではとても驚いていた。
「ざっとこんなもんだな。何か分からないことがあったら、その都度聞いてくれ。それから、これがこのフロアのカードキー」失くすなよ、と言って手渡される。「それにしてもお前、荷物はそれだけか?」
「え? ああ、必要最低限のものしか持ってこなかったから」
「着替えとかどうするんだよ」
「明日取りに戻るよ」
「それならいいけど」
バージルは少し考えるような様子を見せた後、何か飲むか、と言ってリビングの方に向かって歩き出した。希佐がその場に立ったまま窓の外の景色を眺めていると、離れたところから名前を呼ばれる。
「もらいもんのシャンパンがあるんだけど、飲むか?」
「シャンパンって飲んだことがないの」
「じゃあ、初挑戦だな」
よく冷えたシャンパンと冷蔵庫の中にあった苺を持ってきたバージルは、透明なガラス戸棚の中からグラスを二脚取り出し、それをアイランドテーブルの上に置いた。脚の長い椅子に腰掛け、苺を一粒口の中に放り込んでから、シャンパンを開けにかかる。
「アランのやつ、家じゃ酒も飲まないだろ」
「うん」
「何か書いてるか、面倒臭そうに飲み食いしてるか、ぼーっとしてるか、ぶっ倒れてるかだもんな、あいつ。側から見てると、人生の何が楽しいのかって心配になるけど」
三年もの日々を共に過ごしてきたというのに、希佐はアランが楽しそうにしているところを見たことがなかった。何が好きで、何をしているときが幸せで、何に対して喜びを感じるのか、希佐は何も知らない。あの劇団カオスが創り上げる舞台に向けられている情熱は間違いなく本物なのだろう。だが、その原動力をどこから得ているのかは、誰にも分からない。次々と溢れ出るアイデアの泉を持っていながら、その大半を捨て売りし、金に変えている。
「俺みたいな凡人には天才が見ている世界がどんなものかなんて一生かかっても理解できねぇんだろうけど、天才も凡人の見てる世界なんて理解できねぇだろうし、そもそも興味もねぇんだよな」
ぽん、という小気味良い音を立ててシャンパンのコルクが飛ぶ。グラスに注がれた黄金色の液体は小さな気泡を立ち上らせ、間接照明の光を受けてキラキラと輝いていた。
「あいつはさ、ああやって自分の頭ん中にあるものを延々と吐き出し続けないと、その中で溺れちまいそうになるんだと」
「自分のアイデアにってこと?」
「そ。頭の中で物語を完成させたら、それを一気にアウトプットして、あとは何の未練もなく捨てる。ずっとその繰り返しだ」
バージルは希佐に隣の椅子をすすめると、その前にシャンパングラスを置いた。ちょうど真ん中にプラスチックのケースに入れられたままの苺を置き、もう一個、口の中に放り込む。
「ダイアナが言ってたっけな。あいつは子供の頃から周りとは違ってたって。生きづらそうにしてたってさ。ダイアナもダイアナでこの世界に生きづらさを感じている側の人間だから、そんなふうに思ったのかもな」
バージルがグラスを傾け、まるでビールをあおるようにしてシャンパンを飲む様子を見てから、希佐もグラスを口に運んだ。味よりも先に、フルーツのような芳しい香りが立ち上る。そのまま口の中に流し込んでみると、軽い口当たりの発泡した液体が、しゅわしゅわと刺激を与えながら喉の奥に落ちていった。後味はとても爽やかで、舌の根に果実味が残る。
「アランがカオスの連中とキサを引き合わせたときは、正直どうなることかと思ったなぁ」
「私も」希佐は苦笑いを浮かべ、同意した。「あの日は劇団入りを断るつもりでスタジオに向かったから」
「もともと多少の無理は押し通すやつだったけど、あんなふうに外堀を埋めるみたいにして強引に食い下がる姿は初めて見た。あの頃のキサは、なんか妙にやつれてて、生きることに疲れたって顔してたよ。あいつ、柄にもなく他人の心配でもしたのかね」
「さあ、どうなのかな」
「なあ、キサ」
「うん?」
「お前、あいつに捨てられたとか思ってねぇか?」
希佐はプラスチックの容器からつまみ取った苺をぽとりと落としてしまった。グラスの縁にあたった苺は、そのままシャンパンの中に沈んでいく。
「なん、で?」
「そういう顔してる。もう自分には関係ない、みたいな。俺があいつの話をするときはいつも興味津々って顔で聞いてただろ」
その指摘は図星なのだろうかと希佐は考える。だが確かに、捨てられたという感覚に近い思いはあるのかもしれない。伸ばした手を取ってはくれず、けれど、叩き落とされるわけでもない。ただ、見向きもせずにその脇を通り過ぎていくような感じがしていた。それが、何よりも心に堪えるのだ。
「何か言われた──んじゃないよな。あいつの場合、その逆だ」
アランの言葉が足りないことは理解している。それでも、つい最近まではそんなことを忘れてしまうほど、よく話をしてくれていた。態度で示してくれていた。目を合わせれば、見つめ返してくれていた。
それが、まるで三年前まで時間を巻き戻されてしまったかのように、アランの態度が一変したのだ。
「あいつは肝心なことほど口にしねぇからな。察しろっていうのも酷な話だろうし、俺が横から口を挟むのもどうかと思ってたんだが……」
バージルがそう言ってため息を吐くと、それを聞いたハンナが頭をもたげ、体を起こした。床を爪で引っ掻きながらやって来た愛犬に、バージルは苺を一粒だけ分けてやっている。
「キサがアランの態度からどんな感情を読み取ったのかは分からねぇけど、あいつは今でもお前に心底惚れ込んでるし、今までと変わらない気持ちでいると思うけどな、俺は」
「別に、慰めてくれなくても──」
「慰めているように聞こえたなら、言い方を変える」バージルはアイランドテーブルに頬杖をついて、希佐を見た。「あいつ、今頃俺に嫉妬してる。自分の女を自分以外の男の部屋に連れて行かれて、内心はらわたが煮えくりかえってるんじゃねぇか?」
「そんなことは……」
「あいつはこれまでの人生で、誰かを羨ましいとか、妬ましいとか、そんなふうに思ったことがなかったんだよ。なんだかんだ言っても、あいつは持ってる側の人間だからな。周りの連中から当たり前に羨望の眼差しを向けられて、吐き気がするほど嫉妬されてきた。あいつ自身の才能とか、外見とかな」
そんなことはあるはずがないと言い切れないのは、つい先日、その嫉妬心を露わにしたアランに迫られていたからだった。スペンサー・ロローが加斎中を連れてスタジオを訪れたあの日、希佐とダンスを踊っていたイライアスに、アランは嫉妬していた。
「初恋がどうかは知らねぇけど、それに近い感じなんじゃないのかね」
「えっ?」
「俺、アランとの付き合いは長い方だけど、あいつが特定の女といるのを見たことねぇんだわ。そもそも、あいつが女とまともに付き合えるなんて、思ってもなかったしな」
「……そう、なの?」
「かわいいもんだろ」バージルは呆れたように笑う。「あいつにはあいつなりの考えがあって、やることやってるんだと思う。だから、キサがあいつのやることなすことに一喜一憂する必要はねぇんだよ。あいつの意図するところが分からなくたって、それはしょうがないことなんだ。あいつの考えてることなんて誰にも分からない。俺にも、お前にもな」
「うん……」
「それに、お前だってオーディションを受けるっていうなら、いろいろと準備が必要だろうが。うだうだ悩んで無駄な時間を食うくらいなら、歌なりダンスなりの技術を少しでも多く磨いた方が建設的だろ?」こくんと頷く希佐を見て、バージルも頷く。「どんなオーディションになるかは聞いてるのか?」
「私はまだなにも。でも、アイリーンが言うには、歌唱力が肝になるだろうって」
「歌唱力ねぇ。それだけで評価されるなら、お前不利だな。アイリーンの方がずっと歌えるわけだし」
妖艶で、悪女的な、フランス人女性──その役柄に加えて、歌唱力が肝になるということは分かっている。完全に希佐には不利なオーディションとなるだろう。
しかし、脚本家としての意見を聞かせてくれたアランの言葉は、この舞台に君以上に相応しい役者はいない、というものだった。スペンサーの目は正しいのだ、と。
「ねえ、バージル?」
「なんだ?」
「私、妖艶な悪女に見える?」
「シャンパンでべろべろに酔っ払っても見えねぇだろうな」
「そうだよね」
自分で自分が見えていないわけではない。そのように演じることはできるのだ。ただ、元々持っているポテンシャルの違いというものは確かに存在して、役作りをする上でも難点となることは明々白々だった。
「お前の歌は良い意味でも悪い意味でもアイリーンの色が強いから、そこんところを改善しないことにはな」バージルはグラスを一気に空にすると、次の一杯を注ぐ。「知り合いにボイストレーナーがいるから、紹介するか?」
「え、いいの?」
「ちょっと待ってろ」
そう言ってバージルは席を立つ。ポケットから取り出したスマートフォンを操作しながら希佐から距離を取り、それを耳に当てて話しはじめた。
盗み聞きは良くないと思い、希佐は目の前にあるグラスを手に取ると、中に苺が落ちてしまったシャンパンを口に運んだ。するとどうだろう、シャンパンは先ほどよりもベリーの風味が増し、より香り豊かになっている。
その意外な変化に希佐が目を丸くしていると、電話を終えたらしいバージルが戻ってきた。
「明日のランチの時間を空けておいてくれるってさ」
「えっ、明日?」
「善は急げって言うだろ。明日は俺もオフだし、一緒について行ってやるよ」
「う、うん、ありがとう」
この後に及んで、まだ考えがまとまっていない。心の準備ができていないのだ。オーディションを受けるとは言ったものの、その動機があまりに不純すぎて、他の挑戦者たちと肩を並べても許されるのだろうかと考えてしまう。
希佐はただ、自分以外の誰かにそのチャンスを奪われることが、許せなかっただけなのだから。
さて、どうしたものかと思いながらも、何の説明もないまま人様の女を預かるというのは、なんとも居心地が悪い。酔い覚ましがてら出掛けることに決めたバージルは、希佐が自分から今日はもう休むと言い出すのを待ち、ゲストルームが静かになったのを確かめてから家を出た。エレベーターの前まで見送りに出てきた愛犬のハンナには、希佐を見張るという仕事を与える。バージルの顔をじっと見て話を聞いていたハンナは、心得たとばかりに尻尾をゆらりと揺らすと、ゲストルームの方に向かって歩いて行った。
なぜ自分がこんな面倒な役割を引き受けなければならないのかと思いはするが、自分以外の誰にも、あの二人の間を取り持つことは不可能だと、バージルは理解していた。ノアとジェレマイアはもちろん適役ではない。イライアスとアイリーンに至っては事態をより複雑にしてしまう可能性がある。
こうした問題はさっさとそのわだかまりを解かなければ、後々になって取り返しのつかないことになってしまいかねない。これがただの恋愛のこじれならば、ここまで深入りしようとは思わなかった。劇団カオスの今後にも強く関わってくる事態だと判断したからこそ、こうしてそんな役回りを買って出ている──というのは、実際のところ建前なのかもしれない。
バージルは本当にあの二人のことが好きなのだ。だからこそ、今の関係が壊れてほしくないと思う。手放してしまって初めて、それが何よりも大切なものだったのだと気づいても、もう手遅れになった後なのだから。
「……誰のことを言ってるのかねぇ、俺は」
何をどのように話すべきか、頭の中でシミュレーションしながら、バージルはいつもより時間をかけて目的地までの道のりを進んだ。突き当たりの角を曲がると、スタジオが見えてくる。二階の電気は消えていたが、スタジオの窓からは煌々とした明かりが漏れ出ていた。
スマートフォンで確認した時刻は真夜中の二時過ぎだ、アイリーンが残って歌の稽古をしているとは思えない。ノアは学業で、イライアスは次の公演の稽古で忙しくしているし、ジェレマイアはアメリカに渡って公演をしている最中だ。ならば、残る人物は一人しかいない。
微かに音楽が漏れ聞こえてくるスタジオの扉を静かに開いたバージルは、物音を立てないように気を配りながら、室内に足を踏み入れた。スタジオの中央、鏡と向かい合って立っていたのは、他ならぬアラン・ジンデルだった。アイリッシュ音楽に合わせて、ダンスを踊っている。
「彼は、アラン・ジンデル」ヘスティアでのほんの数分をステージを終え、最高に美味いビールを味わっていたバージルの前に、ひょろりと背の高い、どこか陰鬱そうな青年が現れた。「君のタップダンスに心底惚れ込んでしまったみたいだよ、バージル」
メレディスとはアメリカに渡る前からの付き合いだった。だから、アメリカでの活動を切り上げ、これからはロンドンを拠点にして活動していこうと決めたとき、真っ先に連絡をした。そして、自分の店で一つステージを披露してくれないかと頼まれ、タイプライターを披露したのだ。その場に、アランがいた。
アランはそれ以降、『God only knows』の青年と同じように、何度も何度もバージルの元に足を運んでは、自分が立ち上げる劇団に入ってくれないかと懇願し続けた。それこそ、バージルがうんと頷くまでだ。そのあまりのしつこさに根負けをしたバージルは、ついうっかり、分かったと言ってしまった。
だが、心のどこかでは、救われたような気持ちでいた。アメリカを去り、出戻ってきたこのロンドンで本当にやっていけるのだろうかと思っていたところに、自分より十歳も年下の男から執拗に迫られ、安堵していたのだ。自分を必要としてくれる人間が、ここにもいるのだと。
出会ったときから、アランは何でもできるやつだった。歌、ダンス、芝居、そのどれを取っても一級品だった。ダンスの振り付けもすれば、舞台音楽も作る。脚本を書き、本も出版していた。天才とはこういうやつのことをいうのだろうと、バージルは呆れ返りながらも思ったものだ。神は気に入った人間には二物も三物も与えるのだと。
だが、不思議なことに、アラン・ジンデルのその才能が、表舞台で生かされることはほとんどなかった。アランは自分が書いた脚本がどれだけ評価されようと、権威ある賞を受賞しようと、顔色一つ変えない。賞状や盾、トロフィーの類は、送られてきた形のまま何の未練もなく処分されていった。
誰も彼もがアラン・ジンデルの脚本にばかり目を向けていたが、バージルが最も特出していると感じていたのは、そのダンスのセンスだった。最近は一切踊ることがなくなっていたので、希佐だけではなく、ノアやジェレマイアも知らないかもしれない。
アランはダンスの中でもアイリッシュダンスを得意としていた。幼い頃から劇団に所属していたダンサーに教わっていたらしい。舞台上でも幾度となく披露されていたそうだ。タップダンスとアイリッシュダンス。もし自分がアイリッシュダンスを踊るアランの姿を先に見ていたとしたら、彼と同じように、その後ろをしつこく付き纏うことになっていたのかもしれないと、バージルは思う。
音楽が止んだ。アランは荒げた呼吸を整えようと、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出している。久しぶりに踊ったのだろう、崩れるようにしてその場にどっかりと座り込み、肩を激しく上下させていた。
「……何か用?」えずくように咳き込みながらアランが言った。「今虫の居所が悪いんだ」
「まだ意外と踊れるもんなんだな」
「何の用だって聞いてる」
「キサを預かることにした」アランにじろりと睨まれ、バージルは笑う。「一ヶ月、俺の家にいる」
「そう」
「追い出したほうが良かったか?」
バージルの問いかけに、アランは答えない。まだ肩での呼吸を繰り返しながら、今にも吐きそうな咳をして、傍に置いてあった水をごくごくと飲んでいる。
「お前、何でキサと話をしようとしないんだ?」
「話なら毎日してた」
「当たり障りのないやつな」肩をすくめるバージルを横目に見ながら、アランは空になったペットボトルを握り潰した。「なあ、お前は本当に、キサにオーディションを受けさせたくないのか?」
「前からそう言ってる」
「主役の女優を演じさせたくないからか?」
「……そうだ」
「でも、お前のやってることは、まるでキサを合格させてやろうとしてるみたいだがな。キサの心をぼろ雑巾みたいに痛めつけて、惨めな思いにさせて、絶望のどん底に突き落としてる。あの脚本の女優が受けた仕打ちと同じようなことを、お前がキサにやってるんだ。まさか、無自覚ってわけじゃないだろ」
バージルは脚本を一幕分だけ読んだ。
男と女が出会い、恋に落ちる。だが、それは身分違いの恋だった。女が男の子供を身籠ると、男は高額の手切金を渡して、女の目の前から去る。
もちろん、アランがこの通りのことを希佐にしたわけではない。だが、アランは希佐を遠ざけようとした。会話らしい会話もせず、一方的な感情を押し付けて、家から追い出すような仕打ちをした。バージルにはその一つ一つが、過剰な演出に思えてならないのだ。
アランはバージルに嫉妬しているのかもしれない。だが、それ以上に、自分に腹を立てているのが分かる。自分の行いを顧みるほどに、苛立ちが募り、己を痛めつけたくなるのだろう。本当は、本意ではないのだ。
希佐はアランのためなら何だってしてしまう。そして、アランは希佐の望みを退けることができない。この互いに行き過ぎた感情がぶつかりあっているせいで、今、この悲劇的な状況が作り上げられているのだ。
「キサな、ほとんどスペンサーから脅されるみたいな感じで、オーディションを受けるって答えてたよ」
「……」
「別に断ったっていい。でも、そのときは、キサ以外の人間がスペンサーの推薦でオーディションを受けることになるし、キサ以外の誰かが合格して、キサ以外の誰かが、お前の世界を演じることになるだけだって、スペンサーはそう言ったんだ」
口を挟んでやりたかったが、そうしなかったのは、アランから黙って希佐の決断に従えと、釘を刺されていたからだ。
「キサはお前の作る舞台が本当に好きだからな。その舞台の真ん中に立って演じるっていう、その特権みたいなものだけは、誰にも譲りたくなかったんだろうよ」
そこまでのことを言ってやっても、アランは何も言おうとはしなかった。頑なに口を閉じ、虚な目をして、ぼうっと宙を眺めている。しかし、その呼吸が落ち着いてきた頃、ポケットから何か小さなものを取り出したかと思うと、手の平の上に転がした。
「この指輪が、彼女の指で三年も輝き続けていたと思うと──」アランは何かを酷く蔑むような声で、その先の言葉を続けた。「虫唾が走る」