翌日はペットシッターの到着を待って、希佐とバージルは約束していたボイストレーナーのスタジオに向かうことになった。紹介されたヘレンというペットシッターの女性は希佐よりも少し年上で、にこにこと愛想の良い人物だった。希佐には尻尾も振らないハンナが、機嫌良く迎え入れているのを見て、この人は間違いなく良い人だと確信する。
「バージルの家にハンナ以外の女の子がいるなんて初めて」
そう言ってヘレンが笑うので、バージルは余計なことを言うな、プライバシーの侵害だと、冗談っぽく言い返していた。
ロンドンの街は広いようで狭い。知り合いの知り合いは、実は自分の知り合いだった、というのはよくある話だ。特に、この舞台演劇の世界は、その横の繋がりが顕著のような気がする。
「なんだ、バージルが言ってた女の子って、キサのことだったのか」
バージルの知り合いというのは、以前希佐がゲスト参加した公演で世話になった人物だったのだ。
「ジョシュアがバージルの知り合いだったなんて知りませんでした」
「あのときはそんな話、一度もしなかったもんね。私語厳禁って感じの気難しい演出家の舞台だったし」
「なんだ、お前ら顔見知りだったのか」
「前に仕事でね」でも、とジョシュアは言う。「ぼくはキサがカオスの劇団員だってことは知ってたけど」
ジョシュアはボイストレーナーであると同時に、ソングライターでもある。昔は舞台にも立っていたそうだが、引退して久しいらしい。
「それで、今日はどのような御用向きで?」
そう問われて希佐がバージルに目を向けると、自分で話せというふうに顎をしゃくられる。希佐はピアノの前に座っているジョシュアを見ると、口を開いた。
「実は、今度オーディションを受けることになりまして」
「ふんふん」
「商業演劇の舞台なんですけど」
「ほうほう」
「歌唱が肝になっているそうで」
「はいはい」
「劇団仲間のアイリーンも同じオーディションを受けるんです」
「あー、なるほどなるほど。そういうことか」希佐が口にした言葉をいちいちメモしながら話を聞いていたジョシュアは、すべてを理解したとばかりに大きく頷いた。「君は普段からアイリーンに歌を見てもらっていたのか。ふむふむ、よしよし。ね、ちょっと軽く歌ってみてくれる? 何でもいいよ、君の好きな歌で」
ジョシュアはそう言いながら鍵盤を鳴らす。希佐の歌う歌に合わせて伴奏をつけてくれるようだ。
希佐は少し考えてから、以前の公演で披露した曲を選んだ。ジョシュアが作曲をしたもので、アイリーンとは一切関係のない歌だ。しかし、それを歌い終えると、ジョシュアは意見を求めるようにバージルを見た。
「君はどう思った?」
「アイリーンがいるな」
「そう、彼女の姿がうっすら透けて見えるんだよね。聞く人が聞けば、君がアイリーンの影響を受けているとすぐに分かる。同じオーディションを受けるとなると、もしかしたら一次審査で落とされるかも」アイリーンがいないオーディションならそこまで問題ではないんだけどね、とジョシュアは言った。「オーディションの日程は?」
「厳密にはまだなにも。でも、十二月中だとは聞いています」
「明日にはもう十二月だよ」ジョシュアは手元にある手帳のページをぱらぱらとめくりながら、うーん、と唸っている。「この年末は忙しくてね。残念だけど、スケジュールに空きがないんだ。今日も午後からレッスンが入ってる。年末の音楽番組やコンサート前の喉の調整に、ぼくの才能がこき使われるのさ。すまないね」
「お忙しいところに押しかけているのはこちらの方なので、謝らないでください」
「可能なら手は貸したいんだよ。でも、そうなってくると、ぼく自身の時間を削らなきゃいけなくなるわけだけど……」
まるで希佐にその価値があるのかどうかを吟味するように、ジョシュアはこちらをじっと見つめている。
「よし、分かった」ジョシュアはそう言うと、椅子から立ち上がった。「キサ、ぼくを納得させられる一曲を披露して見せて」
「えっ、納得、ですか?」
「今の君自身を表現できる一曲だよ。もしぼくを納得させられたら、ぼくの十二月のランチタイムは全部君のものにしていい。時間外だし、レッスン料も格安にしてあげる。どう?」
希佐自身を表現しろということは、アイリーンから盗んだ技術はすべて捨て去った、まっさらな状態の歌を聞きたいということなのだろう。だが、イギリスに来てから学んだ歌は、どれもアイリーンから教わったものだ。今この一瞬でその色を消し、表現することはあまりに難しい。
「……どんな歌でも構いませんか?」
「もちろん」
「日本語でも?」
「興味深いね」
駄目で元々だと思いながら、希佐はジョシュアが空けてくれた椅子に腰を下ろす。ピアノを弾くのは久しぶりだが、指はきちんと覚えているだろうか。いや、上手く弾けない可能性の方が高い。希佐は別の手段を思い立ち、ギターラックに立てかけられているギターを指した。
「あの、ピアノではなくて、ギターをお借りしてもいいですか?」
「ああ、いいとも」
ギターなら今でもときどき弾いている。スタジオの二階の物置に押し込まれていたのを引っ張り出し、錆びていた弦を張り替え、弾けるようにしたものを、ずっと部屋に置いていた。ふと思い立って爪弾いてみたり、弾き語りをしてみたりと、心を落ち着かせたいときはギターを手に取って、不安な気持ちを音楽に乗せて吐き出していた。
希佐はジョシュアが手渡してきたギターを受け取ると、チューニングの確認をする。ピアノの鍵盤を叩き、すべての弦の音程を合わせ終えると、大きく深呼吸をした。
今の自分自身を表現できる一曲。ぱっと浮かんだ歌がある。白田美ツ騎と一緒に歌ったデュエット曲だ。あれはもう八年も前のことになるのか──時の過ぎ行く速さに、目眩を覚えそうになる。
ユニヴェールから逃げてきた。でも、心の中ではいつも、ユニヴェールの思い出に縋って生きてきたのだ。あの輝かしい日々。色鮮やかな思い出。その他のものが霞んで見えるくらいに、キラキラと煌めいている。
結局、ユニヴェールのことは忘れられないし、捨てられないのだ。あの場所で培ってきたものが土台となり、今に生かされている。ユニヴェールで学んだことのすべてが、今の立花希佐を形作っている。
それを忘れようだなんて、おこがましい。
「『しらゆきのすきま あかりずっととおく』」
希佐の頼れる先輩であり、歌の先生。クォーツのトレゾール。やわらかく、優しい歌声。自分もあんなふうに歌えたらと思っていた。女だと気づいていたはずなのに、いつだって、一人の人間として向き合ってくれていた、稀有な人。
秋公演。オー・ラマ・ハヴェンナ。ヨモギ売りの娘。女である自分と、それを隠して嘘を吐き続けてきた自分。これからも嘘を吐き続けることへの罪悪感。それでも、お前が何者でも許すと、そう言ってくれた先輩の言葉を、希佐は裏切ってしまった。
あれ? どうして、なぜ、こうまでして、ユニヴェールから逃げ回ることに固執していたのだっけ──一瞬、根本的な疑問が脳裏をよぎった。ああ、そうだ。女であることがバレてしまうと、たくさんの大切な人たちに迷惑をかけてしまうからだ。だから、逃げ続けなければいけないと思っていた。そうすることが当然で、他に道はないのだと信じていた。
出来るかぎりユニヴェールから遠く離れた場所へ。まだ子供だった希佐には、海外へ行くという選択しか思いつかなかった。本当はもっと、他にも選択肢はあったのかもしれないのに。
例えば、ユニヴェールを卒業すると同時に、舞台と共に歩んでいく道をきっぱり諦める決意ができていれば、違う生き方を選べただろう。希佐は、舞台に対する未練をずるずると引きずったまま、ここまでやってきてしまった。だから、こうして中途半端な気持ちのまま、舞台に立ち続けてしまっている。
何かを演じるという喜びと、女だとバレてしまうかもしれないという恐怖や罪悪感、その相反する感情を抱えたまま、それでも舞台に立っている。決意が、足りていなかったから。
淡色の歌詞が、すうっと心に染み渡っていくのを感じていた。当時とはまったく違う意味で、心が救われていくような心地がしている。希佐の心にやわらかな白雪を降り積もらせていく。
希佐は、この五年もの間悩み続けてきた問題の答えを今、見つけたような気がした。
「──じゃあ、明日からも同じ時間に来てね。あ、そうそう、オーディションの日程が決まったらすぐに教えて。場合によっては課題曲が用意されることもあるから」
希佐の歌はジョシュアを満足させることができたらしい。
歌が終わるとすぐに自らの手帳に飛び付き、物凄い勢いで何かをメモしていた。ちらっと見えた手元はメモを取っているというよりも、今この瞬間にメモを取っている自分を記録しているというふうだった。後になって読み返してみても、何が書いてあるか分からないだろうと思うほどの、ごちゃごちゃとした横棒が記されていた。
オー・ラマ・ハヴェンナの公演準備中、もうどうなっても仕方がないのだと思い、何もかもを諦めかけたことがあった。だが、結局は舞台に立ち、女を演じた。舞台に対してはいつだって誠実でいたかったし、後悔もしたくなかったからだ。
だが、もしあのとき自分が女だと公に知れ渡っていたら、校長はどうやって説明をするつもりだったのだろうと希佐は思う。玉阪座の理事やユニヴェールの先生方、クォーツ生、他の寮の生徒たち、多くの支援者やフォロワー、そして、決して黙ってはいないであろうマスコミに対して。
「さっきの歌、どっかで聞いたことがあるような気がするんだけど」
「ビザの申請をする前に見た公演映像でしょう? ほら、みんなでピザを食べながら見たの、覚えてない?」
「ああ、そういえば、そんなこともあったか」バージルは、そうだったかな、と首を捻りながら希佐の隣を歩いていた。「俺はこのまま帰るけど、キサはどうする?」
「私は荷物を取りに行くから、スタジオに寄ってから帰るよ」
「ん、了解」
ここからスタジオまでは少し距離があるので、タクシーを拾うかと聞いてくるバージルに、希佐は首を横に振った。急いではいないし、今は歩きたい気分なのだと答えると、バージルは希佐の横顔を見ながら口を開いた。
「なんか、憑き物が落ちたみたいな顔してるな」
「そう?」
「昨日はこの世の終わりみたいな顔だったけど」
「ジョシュアに一曲聞いてもらったら、なんだかすっきりしてしまって」
「そりゃよかった」
「紹介してくれてありがとう、バージル」
「ジョシュアとは知り合いだったんだろ?」
「でも、自分からは頼めなかっただろうから」
それからしばらくは取り止めのない話をしながら歩き、分かれ道に差し掛かったところで、二人は自分が進むべき方向に足を向けた。バージルは、あとでな、と手を振り、反対の方向へ歩いていく。希佐も、あとで、と言ってスタジオに向かって歩き出した。
その足取りは不思議と軽い。バージルは憑き物が落ちたようだと言ったが、まさにその通りだと希佐は思った。自分の目的が明確に定まったからだろうか。もやもやとしていた迷いが消えて、視界が鮮明になったような感覚がある。自分はそこだけを目指して歩いていけばいいのだと思うと、気も楽だった。
スタジオの外壁には相変わらず蔦が伝っている。だが、秋の紅葉を終えた葉はすべて枯れ落ち、来年の芽吹きに備えているようだ。春になると白く小さい花が咲くが、その花の名前は誰も知らなかった。
ポケットに入れてきた鍵を取り出して、スタジオの鍵を開ける。扉を開いて中を覗き込むが、誰の姿もなかった。人の気配を感じない。アランも出掛けているのだろうかと思いながら後ろ手に鍵を閉めた希佐は、スタジオを横切って事務室に向かった。
定位置にアラン・ジンデルの姿はなかったが、ソファで横になっている男の姿はあった。顔に革表紙のノートを開いた状態で乗せ、仰向けの格好で寝転がっている。実際に眠っているのかどうかは判断できなかったが、すぐに起き上がらないということは、放っておけということなのだろう。
希佐は黙ってソファの後ろを通り過ぎ、階段を上がって二階に向かった。自分の部屋の扉を開いたまま中に入り、着替えや下着などをいつもコインランドリーに持っていく袋の中に詰め込んでいく。練習着は二着、靴も二足持ち、クローゼットの中からコートを一着だけ選んで取り出した。
希佐は洗濯後と同じくらい膨れ上がった袋を抱えて部屋を出かけるが、思い出したように踵を返すと、自分のベッドから毛布を引き剥がした。それと着替えの入った袋を持って慎重に階段を降りていくと、事務室のソファで未だ横になっているアランの体に、毛布をそっとかけてやった。そうしてからすぐに事務室を出て行こうとするものの、背後からどさっと何かが落ちる物音を聞き、思わず後ろを振り返る。
それは、アランの顔からノートが落ちた音だった。ソファの上から伸びた手がそれを拾い上げるのを見て、やはり起きているのではないかと希佐は思う。
「アラン」
呼んでみるが、当然のように返事はなかった。再び顔の上に開いたノートを乗せ、視界を遮断している。その仕打ちに少しばかりでも腹が立てばいいのだが、希佐の心はなぜか凪いだ海のように静かで、穏やかだった。
「ねえ、アラン。私、あなたに話があるの」もはや、返事など求めてはいなかった。「だから、一方的に話すね」
昨夜のアランがそうしたように、希佐は事務室の扉のところに立ったままそう言った。頭の中で、早く言葉になりたがっている感情をゆっくりと整理しながら、口を開く。
「私、これで最後にしようと思ってる」そう言葉にしてようやく、ただの考えが判然たるものとなった。「舞台に立つのは、これが最後。オーディションに受かっても、受からなくても、もう終わりにする。立花希佐という役者は、この世界からいなくなる」
もう十分だ。最高の舞台人生だったではないか。暗闇の中を彷徨っていても、舞台に上がればいつだって、スポットライトが希佐を照らし出してくれていた。そのおかげで生きようと思えたし、こうして生きてこられたのだ。そう、だからこそ、舞台に対しては、いつだって誠実でいなければならない。中途半端な気持ちのまま、舞台に立ってはいけない。
「私は私の舞台人生をかけて今回のオーディションに挑む。あなたが嫌だと言ったって、絶対に役を勝ち取って見せる。だって、今はまだ私以上にアラン・ジンデルの世界を理解できる人間が現れていないから。あなたの世界を最高の形で演じられる人間は、私しかいないから。だから、この役だけは、誰にも譲ってあげない」
どうか、お願いです、神様。
どうか、どうか、最後にこの舞台にだけは立たせてください。もう他には何も望みません。この願いを叶えてくださるのなら、この先の人生、もう舞台に立とうなどとは思いません。金輪際、この世界からは足を洗います。だから、どうか、この最後の願いを叶えてください。
ユニヴェール関係者に女だと知られることを恐れたまま舞台に立ち続けることはできない。だから、今度ばかりは、覚悟を決めて挑むのだ。
女だとバレても、バレなくても、責任は取る。もう二度と、舞台には立たない。スポットライトの外側に行く。誰も自分を照らしてくれなくても、孤独な暗闇の中で生きていくことになるのだとしても、それでも構わない。この思い出を胸に抱いて、死ぬまで生きていく。
希佐は持っていた荷物を足元に落とすと、ソファに近づいて行き、アランの顔から手帳を剥ぎ取った。しかし、アランはそれを怒るふうでもなく、緑の目をまっすぐに希佐へと向けている。
腰を曲げ、前のめりになった希佐は、ソファの肘掛けに頭を乗せている逆さまの顔を覗き込んだ。
「覚悟しておいて」
そう言って、アランの頭の両脇に手をつくと、身を乗り出して、唇にキスをした。
どんな仕打ちを受けたって、この人への気持ちは変わらない。立花希佐に空飛ぶ翼をくれた、愛おしい人。バージルが言っていたように、何か理由があって、そうしているのだと信じたい。
「あなたを愛してる」長く伸びた髪が肩から落ちて、アランの頬をそっと撫でた。「何があっても、ずっと」
「……馬鹿な女」その言葉とは裏腹に、希佐の頬に触れてくる手の平は酷く繊細で、耳の縁をなぞる指先は優しい。「応援はしないけど、好きにすれば」
誘われるように互いが惹かれ合う。しかし、再び唇が触れ合おうかというその瞬間、希佐のスマートフォンが邪魔をするように鳴った。髪を掻き上げながら身を起こした希佐は、コートのポケットからスマートフォンを取り出して耳に当てる。
「Hello」
『やあ、キサ』
「スペンサーさん」
希佐がその名を呼ぶと、アランが反射的に身を起こした。
『オーディションの一次審査の日程と会場が決まったので、そのお知らせをしようと思ってね』
「わざわざありがとうございます」
『まあ、一次審査とはいっても、特にこれといった準備をしてくる必要はないよ。当日は一人一人の雰囲気を見たり、既に決定している他のキャストとの相性を見たりする程度だから、あまり気負わずに』
「分かりました。それで──」
『ああ、日程と会場だったね』
電話口の向こう側にいるスペンサー・ロローは何やら酷く上機嫌で、その顔が見えずとも口角を持ち上げ、にこにこと笑っているのが手に取るように分かった。
『本当はどこかのホールを借りられたら良かったのだけれど、クリスマスシーズンはどこもコンサートで空きがなくてね。だから、今回は君もお馴染みのヘスティアの小劇場を借りることにしたんだ。あそこは由緒ある小劇場だから、パトロンからの文句も出ないだろうし』
「ヘスティアで、ですか?」
『ああ。まずは八日の午後一時から順次面接が始まる。受付は午前中から行われているから、好きな時間に入るといいよ。一次審査を無事合格したら、二次審査はその一週間後の十五日だ』
オーディションの会場が馴染みの場所だと聞いたから、何となく実感が湧かないのだろうか。何だか胸に妙な引っ掛かりを覚えるのだ。オーディションを受けた経験はない。だが、商業演劇の、しかも著名な演出家が手がける舞台のオーディションが、こんなに軽く扱われることに違和感を覚えていた。
『私は何の心配もしていないよ、キサ。君なら上手くやってくれるだろうからね』
希佐にはその言葉の裏側がよく見えていた。君なら、アラン・ジンデルや自分を推薦した演出家に、恥をかかせまいと考えるだろう。そして、勝利を掴むための努力を惜しまず励み、必ずや期待に応えてくれるはずだという、強い重圧を感じる。一次審査で退くことになれば、希佐を推薦したスペンサーはもちろん、これまで一緒にやってきたアランや劇団カオスの顔にも泥を塗ることになる。そうならないように努めろと、スペンサーは言いたいのだ。
「キサ」その呼び声の方を見やると、アランが希佐に向かって手を差し出していた。「代わって」
希佐は話をしている最中だと身振り手振りで伝えるが、アランはそんなことなどお構いなしに、その手の中からスマートフォンを盗み取った。
「あっ、ちょっと──」
すぐに取り返そうとした手が宙を掻く。前のめりになって倒れそうになった体を、アランがいとも容易く片腕で支え、すぐに離れた。
「スペンス──」
自分に背を向けて話し出したアランのそれ以降の言葉を、希佐は聞き取ることができなかった。明らかに英語で話してはいなかったからだ。だが、かろうじてそれがフランス語であることは分かる。
また自分の知らない一面が顔を覗かせたことに希佐が目を丸くしていると、話を終えたらしいアランがスマートフォンを耳から離し、こちらを振り返った。無言で突き返されたスマートフォンを受け取るが、既に通話は切れてしまっている。希佐が改めてスペンサーの連絡先を開き、電話をかけ直そうとすると、アランがスマートフォンごと希佐の手を掴んだ。
「彼は私の推薦人なのだけれど」
「知ってる」
「失礼なことをしないでくれる?」
そう言って希佐がじっと見上げていると、アランは観念したように掴んでいた手を放した。だが、希佐がその場で電話をかけ直している様子を、目の前に立ったまま見ている。
「失礼をお詫びします」
『いや、それには及ばないよ』電話の向こうから聞こえてくるスペンサーの声は、どういうわけか笑いを堪えているように聞こえた。『君、彼が何を話していたのか理解できたのかい?』
「いえ、フランス語は分からないので」
『彼はね──ああ、いや、やめておこう。私もまだ死にたくはないのでね』
くつくつと面白そうに笑ったスペンサーは、とにかく気にしないでいい、次はオーディション会場で会おうと言って、一方的に電話を切ってしまった。
スペンサーが気にするなと言っている以上、詮索しても仕方のないことなのだろう。希佐がオーディションを受けることについて何か言われたのかもしれないが、わざわざ理解できない言語を使って話をする時点で、アランにも教えるつもりがないと分かる。
希佐は黙ってスマートフォンをポケットに戻すと、その場で踵を返した。床に転がっていた荷物を拾い上げ、胸の前に抱えると、アランに目を向けた。
「それじゃあ、私は行くから」
「バージルのところ?」
「うん」
「なんで──」
アランは何かを言いかけるが、結局、最後まで言葉にすることはなかった。言いたいことがあるのならはっきり言ってほしいとは思うものの、アランの戸惑っているような表情を見るにつけ、バージルが言っていたことも、あながち間違いではないのかもしれないと思えてくる。
これは、ただ待っていれば、いずれ解決できる日が訪れるのだろうか。それとも、このまま何も分かり合えないまま、終わりの日を迎えてしまうのだろうか。
嫌われていないと思いたい。まだ、愛されているのだと。でも、今は行動で示されるよりも、明確な言葉としてそれを伝えられる方が恐ろしくて、希佐にはどうしても問うことができなかった。
「アランもオーディションには審査員として参加するの?」
雰囲気を変えるために希佐がそう問いかけると、アランは小さく頷いた。
「面倒臭いし、本当は嫌だけど」
「どうして?」
「他人の良し悪しを計って誰かの未来を変えてしまうほどの選択をしたくない」
「私にはそれをしたのに?」
それは反射的に出てきてしまった言葉だった。希佐は自分の言葉に驚いていたが、アランも心なしか驚いているように見える。
「……アランに見染められたいと思っている人は、大勢いると思う。あなたには、そういう人たちの願いを叶えてあげられる力がある。私に夢を与えてくれたみたいに。だから、面倒臭いなんて言わないで、しっかり向き合ってほしい。当日はきっと、キラキラ輝いている人たちがたくさん来る。みんな、自分の夢を叶えるために頑張っているんだよ」
「……君の夢は?」
「え?」
「君の夢は、なに?」
「私の夢は──」
このオーディションに合格をして、舞台に立つことだ。目標が明確になった今、それ以外の答えはない。でも、自分の力が及ばず不合格になってしまったら、希佐の夢は呆気なく終わりを迎えることになる。その先の夢は、まだ、ない。
だが、希佐は不意に思った。なぜ一度も考えたことがなかったのだろう。どうして、それを尋ねてみようとしたことがなかったのか。
「アランの、夢は……?」希佐の唇からこぼれるように落ちる。「今まで一度も聞いたことがなかったけれど、アランの夢は、なに?」
そう問いかけた刹那、アランの目が困惑に揺らいだのが分かった。いつもならば、自分には夢などないと、平然とした顔で答えているはずだ。実際に夢があったとしても、たとえなかったとしても。
ああ、この人にはきっと、夢がある。そう思うだけで、希佐の気持ちは少しだけ浮き上がり、嬉しくなった。
どうか、その願いが叶いますようにと、希佐は心から祈った。
オーディションの日程が決まったら知らせてほしいと言われた通り、希佐はバージルの家に帰ってすぐ、ジョシュアにメールを送っておいた。すると、午後六時、希佐がキッチンに立って二人分のシチューを煮込んでいる最中に着信が入る。
「ジョシュアから」
希佐がそう声を上げると、鏡の前でタップダンスの振り付けをしていたバージルが、足を止めて振り返った。希佐は通話後スピーカーに切り替え、Hello、と応じる。
『嘘。絶対、嘘だから』開口一番にジョシュアが言った。『商業演劇のオーディションだよ? 一次審査がそんな顔合わせ程度で終わるなんて、絶対にあり得ない。嘘に決まってる」
「そうですよね? 私も変だなって思っていたんです」
『誰がそんなこと言ってるの?』
「私を推した演出家です」
『それってスペンサー・ロローだよね?』はい、と肯定する希佐の声を聞いてから、ジョシュアは先を続けた。『あの人、演出家としては好きなんだけど、人間としてはあんまり良い噂を聞かないんだよなぁ。まあ、一緒に仕事をしたことがあるわけじゃないから実際のところは知らないけど、何でもかんでも手段選ばずって感じらしいし』
「まあ、その認識で間違ってはいねぇわな」
バージルはタオルで汗を拭いながらキッチンに入ってきたかと思うと、冷蔵庫からよく冷えた水を取り出して、それをごくごくと飲んでいた。希佐が煮込んでいるシチューの鍋を隣に立って覗き込みながら、再び口を開く。
「何でもかんでも面白がる癖──じゃねぇな、性悪な人間なんだよ、あいつは。気の良いやつではあるんだが、なんていうか、人生楽しまなきゃ損っていう思想を誰にでも押し付けてくるタイプのクズ」
「酷い言い様だね、バージル……」
「ビジネスパートナーとしては申し分ないが、友達にはなりたくない。アランと似てるところもあるんだけど、根本的な違いは、積極的な人間か面倒臭がりな人間かってところだな」
『天才っていう生き物はなんでこうも欠陥品が多いんだろうねー。大体が常識という物差しじゃ測れない社会不適合者でさ。過激派になると自分だけが正常で世界全体が異常、みたいな考え方をしてるんだから』
「俺たちの世界はそういう天才が創造したもので成り立ってんだ、文句言うなよ」
『なんだよ、君だって天才タップダンサーの称号をほしいままにしているくせに』
「俺のはただの凡人の悪あがきだ。本当の天才ってのはアランみたいなやつのことを言うんだよ。昨日久しぶりに踊ってるところを見たけど、あれはえげつないわ。ブランクってもんを知らないのかね」
『うわあ、レア。動画とか撮ってないの?』
「お前、そんなことしたらあいつブチギレるぞ……」
『だよねー』
しかし次の瞬間、バージルは己の失言を悔いるような顔をする。味見をしようとお玉を手にした格好のまま、自分を見ている希佐に気づいたからだ。聞き捨てならないことを聞いたとばかりに希佐が睨んでいると、バージルはその眼差しから逃れようと明後日の方に目を向けた。
『いやあ、もう、本当にあの才能は惜しいよ。ぼく、彼が主役を演じた舞台を見て、役者になるのは早々に諦めようって思ったんだから。しかも、あんなバケモノみたいだった役者がいつの間にか引退しちゃってるし、ぼくはもうショックを受けちゃって──』
希佐とバージルの間に漂う異様な空気を察知したのか、自分のベッドで横になっていたハンナが起き上がり、二人の側までやって来る。小さく鼻で鳴いた愛犬の頭を優しく撫でてやりながら、バージルは大きくため息を吐いた。
「後で話してやるよ」バージルは電話には乗らないほどの小声でそう言い、希佐のスマートフォンに向き直った。「それで、お前さんの経験上オーディションはどんな感じになりそうなんだよ、先生?」
『ブラック企業並みの圧迫面接でもやるつもりなんじゃない?』
「時代錯誤も甚だしいねぇ」
『まあ、あれだよね。普通のオーディションとは一線を画す感じにはなりそうだよね。ヘスティアの二階を借りてするんでしょ? 一次審査なんてそれこそ、その辺の事務所の空き部屋なんかを借りたりしてやるものだから、まず気合の入り方からして違う』
「私、オーディションを受けること自体が初めての経験なんです。普通はどういうことをするんですか?」
『ミュージカルなんかの場合は、歌やダンスは必須だよね。オーディションを受ける人数が多い場合、ダンスは集団審査で篩にかけられて、一定のレベルに到達していなければその場で不合格を言い渡される。歌唱審査も並行して行われることが多いけど、ダンス審査である程度人数が減ったところで行われる場合もある。これとは別に演技の審査もあるよ。演じる人間と演じさせたい役柄の相性を見るために、本番用の台本から抜粋して読ませることもあるけど、オリジナルの脚本だと情報が漏洩する可能性もあるから、仮の台本が用意されて、それを演じさせたりもする。最終審査に残されるのは五人から十人くらいかな。場合によってはもっと少ない』
「お詳しいんですね」
『これでも歌唱の審査を頼まれることだってあるんだよ。君みたいにオーディションのためのボイストレーニングをしたいって子を見ることもあるしね』電話の向こう側から、ぱらぱらと紙を捲るような音が聞こえてくる。『今回は歌唱がメインらしいけど、だからって歌やダンスが蔑ろにされるわけじゃない。そもそも、歌唱なんて後からでも案外どうとでもなるものでね。結局、演技力に勝るものはないとぼくは思うんだ。ほら、歌だって突き詰めれば演技に繋がるでしょ? ただ歌が上手いだけじゃダメ、歌いながら演技をできる役者じゃなきゃ、商業の舞台ではやっていけない』
「ということは……」
『これといって準備をしてくる必要はないってことは、参加者それぞれの今現在の実力の程を知りたいんじゃないのかなと、ぼくは思うけど。だから、どれも満遍なく準備しておくのがいいだろうね』
「分かりました」
『あれ? ぼく、相談料とかもう少しもらっておいた方がいいのかな?』
「もちろん、必要なら──」
『嘘だよ、冗談』ジョシュアはくすりと笑った。『じゃあ、ぼくはまだ仕事が残っているから、もう切るよ。あ、そうそう、明日はぼくのランチを買ってくるの、忘れないで。それから宿題もね』
「はい」
『んじゃ、頑張って』
オーディションの一次審査までは、もう一週間しかない。ジョシュアがその事実に触れなかったのは、希佐を変に焦らせないためだったのかもしれない。残り数日でアイリーンから良かれと思って盗んだ技術を捨てられるかといえば、それはきっと難しいのだろう。
影響は受けても良いのだとジョシュアは言った。最も良くないのは、アイリーンの劣化版だと思われることだと。たとえ影響を受けていたとしても、それを完全に自分の中に落とし込み、より良いものに昇華することができていれば、今ある技術を捨てる必要はない。
ジョシュアはどちらがいいかと希佐に尋ねた。すべてを忘れてまっさらに戻すか、アイリーンを越えていくか。前者は比較的容易いが、後者は至難の業。それでも、希佐は即答していた。オーディションで最後の一人になるまで生き残る。そのためには、アイリーンを越えていかなければならない。
「オーケイ」希佐の返答を聞いたジョシュアは、どこか嬉しそうだった。「それなら、たっぷりの宿題を出すよ。明日のランチタイムまでに一通りこなしておいてね。時間は限られているから、一分一秒を無駄にしないように、君自身が頑張るんだ」
そう言われて出された課題が本当にどっさりとある。徹夜をしたい量の宿題ではあるが、喉のために最低でも六時間は寝るようにと言われているので、ある程度の計画性を持って進めていく必要がありそうだ。
だがその前に、バージルから聞いておくべき話がある。希佐がそう思いながら完成したシチューを皿に盛っていると、バージルが呆れたように口を開いた。
「そんな顔をするな。ちゃんと話してやるって」バージルはパン用のナイフで、ごりごりとバゲットを切り分けながら言う。「ったく、お前、そういうところアランに似てきたな」
「そういうところ?」
「不満が顔に出るところだ」
「別に不満には思っていないけれど……」
「なんだよ」
「黙って行くことはないんじゃないかと思って」
「俺が今からアランのところに行って来るなんて言ってたら、お前、落ち着いていられなかっただろ」
確かにそれを聞いていたとしたら、バージルが帰って来るまでの間、そわそわとして落ち着かなかったことだろう。希佐自身にもそうした自分の姿が見えたので、何も言い返すことはできなかった。
アイランドテーブルにシチューとパン、飲み物を用意して横並びに座り、二人揃って食事をはじめる。バージルはシチューを口に運ぶとすぐに、うまい、と言ってくれた。アランと食事をすることはあっても、特に味の感想などは聞くこともなかったので、希佐にはその言葉がとても新鮮に感じられた。
「お前、アランが踊ってるところ見たことあるか?」
「ううん」
「だよな」バージルはバゲットを噛みちぎりながら希佐を横目に見た。「今は俺やイライアスに任せっぱなしだけど、劇団を立ち上げた当初は、アランがダンスの振り付けもしてたんだ。あいつはさ、下手すると俺やイライアスよりも踊れるやつで、あらゆる才能をあのひょろ長い図体に眠らせてるわけ。あいつが歌えるのは知ってるだろ?」
「うん」
舞台で歌う曲の仮歌には、いつもアランの歌声が吹き込まれていた。それは、自分が歌う必要などないのではないかと思ってしまうほどに、完成された歌声だった。
「アランは卑下して昔の自分を三流役者なんて言うけど、実際は違う。今でも役者を続けていたら、ウエスト・エンドやらブロードウェイやらから、ひっきりなしに声がかかる、すげぇやつになってたかもな。昔のあいつを知ってる連中は、口を揃えて勿体無いなんてことを言う。俺は、いくら才能があるからって、やる気のないやつを無理やり舞台上に引きずり上げるのは正直どうかと思うけど……」
バージルはそうして言い淀んだ後、少しだけ黙ってシチューを食べていた。何かを思い出しているような顔をして、宙を見つめている。
「……昨日のあれは、やる気のねぇやつには見えなかったんだよなぁ」感慨深そうにそう言ったバージルは、その目を希佐に向けた。「三年一緒に住んでても、あいつが踊ってるところを見たことがないってことは、ダンスの稽古なんかしてるわけもねぇしな」
「でも、四六時中一緒にいたわけじゃない」
「少しでも稽古してたら、もっと筋力もついてるだろうし、体力だってあると思わねぇか?」
「あー……」
肯定するのもマズい気がして、希佐は曖昧な表情を浮かべて、どちらともつかない返事をした。
そのどちらも、おそらく同年代の男性に比べれば劣っているのだろうし、当人にもその自覚はあるはずだと希佐は思う。
「どんな心境の変化なのかねぇ」
「オーディションには審査員として参加すると言っていたし、稽古がはじまってからも製作に関わるのだとしたら、その体力づくりとか?」
「あいつがそんなことすると思うか?」
「思わない」
「だろ?」バージルはそう言って小さく唸る。「なんか、自分を痛めつけるみたいに踊ってたんだよな。自分がどれだけ出来ないのかを確かめるみたいにさ」
そのとき、希佐の脳裏にとある記憶が蘇ってきた。劇団カオスの舞台に初めて立つというあの日、ヘスティアの小劇場の窓辺で、カーテンの影に隠れてアランと話をしたことがあった。あのとき、アランはまるで助けを求める子供のように希佐の体に縋って、言ったのだ。
『もしあのまま舞台に立ち続けていたら、どんな未来が待ち受けていたのか──』
アランは、それを見てみたかったのだと、そう言った。
希佐はあの舞台に立ち、力のかぎりを尽くして、もしかしたら自分の能力以上のものを出し切って、アラン・ジンデルに、舞台の先にあるものを見せてあげられたつもりになっていた。でも、おそらく、あれでは足りなかったのだろう。アランの心は満たされていなかったのだ。救うことなど、出来てはいなかった。ほんの、少しも。
「……アランは、自分の足で、舞台に立ちたくなったんじゃないのかな」
「は?」希佐の言葉に、バージルは間の抜けた声を上げた。「いくらなんでも、それはお前……」
「私がカオスの舞台に初めて立った日に言ってた。もし自分が舞台に立ち続ける道を選んでいたら、どんな未来があったんだろうって。あの舞台は、アランが見たかった未来の形で、私が彼の代わりになって、それを舞台上で再現してみせたの。でも、それだけじゃ足りなくなったのだとしたら? 自分も舞台に立って、今度こそ、その先にあるものを自分自身の目で確かめたくなったのだとしたら──」
もしそうなのだとしたら、それは本当に喜ばしいことで、是が非でも応援をしてあげたいと希佐は思う。けれど、それと同時に、物悲しさも覚えていた。アラン・ジンデルが舞台に戻れば、もう立花希佐は不要になる。アランはもう、自分の代わりに舞台に立たせる者の存在を、必要としなくなるからだ。
「あの人、私とイライアスが踊っているのを見て嫉妬していた。でも、私にはその理由が分からなかった。だから困惑していたんだけど、もしアランの気持ちに変化が生まれているなら、それも納得ができる」
「……ああ、分かった」バージルはそう言うと、僅かに下唇を噛んだ。「原因は俺とお前だ、キサ」
「バージルと私?」
「俺があいつを挑発した。お前がこの三年間でキサにしてやってきたことは、全部自分のためだろって。アランがキサに対して無理難題をふっかけるのは、お前の限界を知りたかったからだろうよ。あいつは才能の終わる場所を見たかったのに、いつまで経ってもそれが見えないから、痺れを切らしてる。でも、もしかしたら、イライアスに対する嫉妬が引き金になったのかもしれねぇな。それに、キサが自分の意思に反してオーディションを受けるなんて言い出すから、今あんな感じで手に負えなくなってるんじゃないのかね」
「私の限界……」
「パンドラの箱を開きたがる好奇心みたいなもんだ。俺にもその気持ちは分かる。キサはどこまでも食らい付いてくるから、意地でもふるい落としてやりたくなるのさ。まだまだ俺の方がすげぇんだぞってな」
「大人気ない」
「違いねぇ」バージルはそう言いながら声をあげて笑った。「今回のオーディションやら舞台やらが落ち着いたら、今度はカオスの舞台に着手するつもりなんじゃねぇのかな。最近全員がなにかと忙しくて、次の公演のことなんか考えられなかったけど、そろそろな。今回の公演は自分が主役だ、なんて言い出したらどうするよ」
「いろんなところが大盛り上がりじゃない?」
「あいつアイリッシュダンス踊ってたからな、タップダンスと組み合わせたら面白いことになりそうだけど」
「気が早いよ、バージル」
「まあ、でも、あいつと一緒に舞台に立てたら最高だろうなぁとは思うよ」
「そうだね」
でも、もしその望みが叶ったとしても、もう自分はそこにはいない。それでも、その未来はとても素敵なもので、キラキラと輝いていて、夢にあふれている。もう代わりは必要ない。舞台の真ん中に立っているのは、代役ではなく、彼自身だ。
アラン・ジンデルの思いを無視してまで我を通してしまったことへの罪滅ぼし。最後の恩返し。舞台を去る前に、何かしてあげられることはないだろうかと、希佐は考える。自分の演技があの人の背中を押してあげられるのなら、きっと、それ以上の喜びはないのだろう。