「君の歌声はとても透き通っていて耳に心地良いんだけど、それが長所であると同時に、短所でもあるとぼくは思うんだよね」
あれから数日が過ぎ、一次審査の日は刻一刻と近づいてきている。希佐の歌声にこれといって変化もないまま、ランチタイムレッスンは連日行われていた。ジョシュアは希佐がレッスン代の代わりに毎日買ってくるランチを頬張りながら言う。
「君の声があまりに純粋すぎるから、妖艶な悪女って感じが微塵もしないんだよ。声に良い意味での濁りがないんだよね」
「濁り……」
「ほら、アイリーンの歌声にはさ、空気をビリビリ振るわせる感じの迫力があるでしょ? 彼女の声は太いんだ。で、君の声はそれに比べると細い。同じ歌を歌っても、響きがまるで違うから、君の方が劣って聞こえてしまう。実際はそんなことないんだけどね」でもなぁ、とジョシュアは話し続ける。「そんな君を演出家自身が推しているわけなんだし、そういう純な面も必要な要素なのだとすると、それを消してしまうのは絶対に良くないよね」
「私があの人の前で歌ったのは一度だけなんです」
「因みに何を歌ったの?」
「アメイジング・グレイス」
「よりによって讃美歌?」
「アランのお兄さんの息子さんがパイプオルガンを弾くというので、一緒についていったら急遽歌うことになったんですけど……」
「それの動画とか残ってない?」
「アランなら持っています」
「よし、ちょっと待ってて」
ジョシュアは希佐が買ってきたブリトーを口の中に押し込むと、譜面台に置いていたスマートフォンを手に取った。口の中のブリトーを急いで咀嚼し、それをごくりと飲み込んだジョシュアは、スマートフォンを耳に当てる。外海の音が遮断された防音室の中は衣擦れの音すら大きく聞こえるほどだ。電話のコール音も、相手の声も、希佐がいるところまでよく聞こえてきた。
『──Hello』
「あ、アラン? 久しぶり、ジョシュアだけど」
『ああ、うん』
「今、君のところのエトワールの歌を見てあげているんだけどね」
『エトワール……? キサ?』
「そうそう。バージルが歌を見てやってほしいって連れてきたんだ。ぼくとキサが知り合いだって知らなかったみたい」
カタカタとキーボードを叩いている音が聞こえてくるので、スピーカーに切り替えて話をしながら、何かを打ち込んでいるようだと分かる。
『それで、俺に何の用?』
「キサが歌ってるアメイジング・グレイスの動画を見せてほしいんだ。それでスペンサー・ロローがキサの何に輝きを見出したのかを知りたい」
『分かった、今送る』
「助かるよ」
『他にもなにか?』
「今のところはないかな」
『じゃあ、切る』
「ずいぶん忙しそうだね」
『そう思うなら放っておいて』
アランのうんざりしたような声を最後に電話は切れた。ジョシュアは下ろしたスマートフォンに向かって肩をすくめながら、たった今送られてきたデータを開いている。端末の音量を最大まであげ、譜面台に置いて、映し出されている映像に真剣な眼差しを向けていた。
バグパイプの音色を模したパイプオルガンの伴奏がホールに響き渡る。そして、自らの歌声。こうして自分の歌声を客観的に聞くことに希佐は慣れていたが、このときの感情を思い出すと、どうしても心が押し潰されそうになった。
ほんの少しだけ前の出来事だというのに、あの大きなホールで歌ったことが、もう何年も前のことのようだ。あんなにも幸福でたまらなかった日々は、遠い過去のように感じられる。今、あのときと同じようにアメイジング・グレイスを歌ってみろと言われても、自分には歌えないだろうと希佐は思った。絶対に、不可能だと。
一度目は通しで、二度目は聞きたい部分を何度も行ったり来たりしながら、そして三度目は再び通しで聞いたジョシュアは、真剣な表情を浮かべたまま希佐を見た。
「君、これは誰のために歌ったの?」
「え?」
「誰かに向けて歌っているよね、これ」
「ああ、このときはミゲルの──息子さんの亡くなったお母さんのために。この曲がとても好きだったそうなので」
「それだけ?」
「それだけ、って……?」
「君の視線の先には、一体誰がいるの?」
希佐は一瞬、言われたことの意味が分からなかった。困惑に眉を顰める希佐を横目に見ながら、ジョシュアはもう一度動画を再生させる。
「この君は本当に、まるで神様に向かって歌っているみたいだ。相手は演劇の神様かな。今の君の気持ちを舞台へと向かわせている原動力だろうね。この歌声にはありとあらゆる感情が滲み出ていて、複雑に絡み合っているのに、不思議と聞いていて不快じゃないんだ。あまねく人々の感情に寄り添える歌声だよ。スペンサー・ロローじゃなくても、この歌声には心惹かれるものがある」
ジョシュアは演劇の神様という含みのある言い方をしたが、本当はそんなことを言いたいのではないはずだ。いつだって希佐の視線の先には同じ人物がいる。その人に見てもらいたくて、その人のために演じてきたと言っても、もはや過言ではない。このときも、本当は聞いてもらいたかったのだ。あの人に。自分は、あなたのおかげで、こんなにも歌えるようになったのだと。
「キサは誰かのために歌う方が、より実力を発揮することができるのかもしれないね」ジョシュアはスマートフォンの音量を下げ、画面を暗転させた。「でも、その歌い方はあまりに危ういよ。歌を届けたい誰かが消失すれば、君の良さは半減してしまう。いずれは自分自身のために歌えるようにならないとね」
「自分の、ため……」
「自分のために歌えるようになれば、君はこの先もっと伸びる。誰の力も借りず、一人でも羽ばたいていけるようになる。まあ、一ヶ月なんて短い期間で根本的な物の考え方を覆すのは難しいことだから、ゆっくり歩いていけばいいんじゃないかな。君はまだ若いしね」
でも、自分にはもう時間が残されていないのだと、希佐は思った。このオーディションで、もしくはその先にあるかもしれない大舞台で、すべてを出し切らなくてはならない。舞台を終えるその最期の瞬間に、未練も後悔も残してはならないのだ。体と一緒に心も連れて舞台を降りなければ、取り残された感情が怨霊となり、希佐に取り憑いて離れなくなるだろう。
最善を尽くしたい。きっと、そのためには自分勝手になる必要がある。スペンサー・ロローも言っていたことだ。観客を蹂躙するような、自分勝手な演技──舞台上を自由気ままに駆け回り、すべての観客の視線を奪い尽くして、呼吸をすることさえ忘れさせるような、圧倒的な才能を見せつける。
「おっと、もうこんな時間だ」時計が差していたのは、十二時五十七分だった。「今日はこれでおしまい。これが今日の分の課題だよ。明日も同じ時間に。ランチ、忘れないで」
課題の楽譜を受け取り、挨拶をしてその場を後にするが、スタジオのある雑居ビルの外に出ると、ロンドンの街はしっとりと雨に濡れていた。つい一時間前までは青空が見えていたのだが、見上げた空はどんよりとした雨雲に覆われてしまっている。やはりこの街の天気は読めない。
途中、どこかのカフェに立ち寄って雨宿りでもしようと歩き出したはいいが、この状況下では誰もが同じことを考えるようで、どこのカフェも満席の状態だった。しばらく歩いていると濡れることにも抵抗がなくなり、徐々にどうでも良くなってくる。
いっそ雪になればいいのにと思うような冷たい雨に降られながらも、希佐はいつもと変わらぬ足取りで歩いていた。ポケットに手を入れ、白い息を吐き出し、視線を宙に逃す。
「自分のために、か……」
思い返してみれば、自分のために舞台に立ち、役を演じたことなどなかったような気がすると、希佐は思った。もちろん、根底にあるのは舞台に立って演じたいという己の強い願望だが、大部分を占めていたのは、いつだって誰かのため、何かのためだった。
希佐自身は、それを悪いことだとは思わない。ジョシュアが言っていた通り、それが原動力になっているからだ。自分が演じる姿から何かを感じ取ってもらえたなら、それは何物にも変えがたい喜びとなる。希佐は、それでいいと思っていた。今までは。
もっと自由に、奔放に、気ままに、わがままに。そうすることが求められているのか。
例えば、百年に一度きりしか花を咲かせない植物のように、その後すぐに力尽きようとも、それが本望だと思えるほどの演技が、自分にもできるのだろうか。
そうして物思いに耽りながら歩き続けていた希佐は、顔を上げ、思わず唖然とした。
「……間違えた」
バージルの家に向かっていたつもりが、無意識に歩いてきたのは、住みなれたスタジオへの道のりだったらしい。
希佐は不意に笑いが込み上げてきて、でも次の瞬間、なぜだか泣きたくなった。一体何をやっているのだろうと思う。長くなった髪を水が滴るほどに濡らし、多少重みの増したコートを着て、寒さに耳の先と鼻の頭を赤く染めながら、ただスタジオを見上げている。
もう戻ってくるなと言われたわけでもないのに、そんな気がしてしまうのはどうしてなのか。アランは今、何をしているのだろう。事務室で執筆を続けているのだろうか。また根を詰めていなければいいけれどと思いながら、希佐はスタジオの扉にそっと触れる。
『会いたいな』白い息と一緒に、日本語があふれ出た。『一目でいいから』
電話越しに聞こえた声は、少なくともいつも通りだった。きっと、朝早くからバタバタと物音を立てる同居人がいなくなり、数年ぶりの静かな生活を満喫しているに違いない。気まぐれに顔を覗かせても迷惑になるだけだ。
希佐は、くしゅん、とくしゃみを漏らし、小さく身震いをすると、その場で踵を返した。早く帰って熱い風呂にでも浸かろうと思い、歩き出そうとする。しかし、それを呼び止める声があった。
「キサ?」
以前にもこんなことがあったような気がすると思いながら振り返ると、そこには小さな折り畳み傘を差したイライアスの姿があった。あの日と同じように、濡れ鼠になっている希佐を見て、驚きで目を丸くしている。
「どうしたの……?」イライアスは希佐の目の前までやってくると、傘を差し向けてくれた。「中に入らないの?」
「イライアスこそ、公演は?」
「休演日」
「ああ、そっか」
「早く入ろう」
「あ、ううん、私は──」
「風邪を引くよ」
イライアスは希佐の氷のように冷え切った手を取ると、有無も言わせずスタジオの中に引っ張り込んだ。スタジオ内に暖房は入っていなかったが、雨風が凌げるというだけで、外よりも十分に暖かい。
「アランと喧嘩でもしたの?」
「えっ?」
「入りづらそうにしてた」
「あの、私、ええと……」どう説明したものかと考えたが、結局言葉が出てこなくて、希佐は事実をそのままに伝えることしかできなかった。「今、ここに住んでいないの。バージルのところに居候させてもらっていて」
「……どうして?」
「それは──」
くしゅん、くしゅん、と二度続けてくしゃみが出る。ああ、これは本格的に寒くなってきたと自分の肩を抱いていると、イライアスは希佐の背中に腕を回し、促すようにして歩き出した。
事務室の扉は閉まっている。イライアスは希佐をちらりと横目に見てから、こんこんこん、とノックをした。アランに対してはいつも礼儀正しいイライアスにしては珍しく、返事を待たずに扉を開けた。
「アラン」
「待って」アランはいつもの席に座り、いつもと同じようにキーボードを叩いていた。「もうすぐ終わるから」
「アランが終わるのを待っていたら、キサが凍えて風邪を引きます」
イライアスの言葉でキーボードを叩く音がぴたりと止まる。希佐は今更になって急に恥ずかしくなり、自らの足元に視線を落とした。
「……どこで拾ってきたの」
「スタジオの外に立ってて」
「どうして」
「その理由はアランの方が知っているのでは?」
いつもは穏やかなイライアスの声音に、一瞬棘のようなものが感じられた。それに驚いて顔を上げると、イライアスはアランの方に目を向けたまま、希佐の背中をそっと押した。
「僕はアランに話があるからって呼ばれていたんだ。キサはお風呂に浸かってあたたまっておいでよ」
「……うん」
希佐は小さく頷くと、ちらとアランの方に目を向ける。アランは椅子を回転させ、体ごとこちらに向けて、イライアスをまっすぐに見据えていた。希佐には一瞥をくれるだけで、何も言ってはこない。
空気がピリッと張り詰めているように感じられたが、このままでは本当に風邪を引いてしまうと思った希佐は、早足で事務室を通り抜け、階段を上った。そのままバスルームに直行し、バスタブに湯を張る。ぐっしょりと濡れたコートを脱ぎ、自分用の洗濯籠の中に放った。僅かに湿っている洋服と下着も脱ぎ捨てて、大急ぎでシャワーを浴びる。生温いお湯でも、芯まで冷え切った希佐の体には、まるで熱湯に感じられるほど熱かった。それでも、体の末端から少しずつあたためていくと、少しずつ熱を取り戻していくのを感じることができた。
足元から少しずつ嵩を増していく湯の中に浸りながら、温かい湯の雨を浴びる。俯いた顔に火照りを感じながら、大きく息を吐き出した。お湯がほどよく溜まってきたところでシャワーを止めると、バスタブの縁に頭を預け、縮こまっていた体をゆっくりと伸ばしていく。癖のようにストレッチとマッサージをしていると、凍りついていた体の芯にまで熱が行き届き、体が解されていくのが分かった。
「……」
お湯に浸かったまま髪を洗い、その泡を流しながら、ぼんやりと考える。
希佐の目には、イライアスが怒っていたように見えた。この三年間、イライアスが怒りを露わにする姿などただの一度も見たことはなかったが、確かにそう感じたのだ。だが、何に対して怒っていたのかは、定かではない。
イライアスはアランに呼ばれて来たと言っていた。公演の予定もないのに、アランが劇団員を呼び出すのは珍しいことだ。最近は自分の想像を超えたことばかりが起こっているせいで、何の予測も立てられないと希佐は思う。
あの日、あのホールでアメイジング・グレイスを歌ったときから、希佐を取り巻く環境が一変してしまった。特に、加斎中との再会や、スペンサー・ロローとの出会いが、立花希佐の未来に強く影響を及ぼそうとしている。
人生とは取捨選択の末に成り立っているものだ。人々は自分が選んできた道の上を歩いている。選ばれなかった方の道は、そのまま消滅するか、運が良ければ他の誰かの道となるのだろう。もし、あのとき違った選択をしていたらと、悔やんだことがない人はきっといない。
もしかしたら、このオーディションを受けるという選択をした自分自身を、いつの日か呪う瞬間が訪れるのかもしれない。それ見たことか、あのときにやめておけば、こんなことにはならなかったのに、と。
この選択が最善なのかどうかは分からない。そもそも、オーディションに合格するのかどうかも分からない。
ああ、と希佐は声を漏らした。自分はもう既に、十分に、自分勝手な選択をしているのだ。
スペンサーの脅すような殺し文句など最初から関係なかった。アランの忠告を無視し、オーディションを受けると選択したのは、他ならぬ希佐自身だ。そして、この結果を最後に、舞台を降りるという選択をしたのも、自分の意思によるものだった。
希佐はいつだって選んできた。そのときどきで最善だと思う選択をしてきたのだ。いつだって、自分勝手に。
そうだ、立花希佐は常に自分勝手だった。わがままに生きてきた。それを許してくれる環境がいつも周囲にはあって、それがあまりに自然に寄り添ってくれていたからこそ、忘れてしまっていた。自分はどこにいたって、ことごとく恵まれていたのだと。
だがそうすると、希佐が自分のために歌えないというのは、妙な話だった。なぜ歌えないのかが分からない。こんなにも自分勝手で、わがままな自分が、一体何を躊躇っているというのだろうと、希佐は考える。
歌えるはずなのだ。自分のために。それなのに、なぜ。
物思いに耽りすぎていたのか、頭がぼうっとしてきた希佐は、本格的にのぼせてしまう前にお湯から上がった。キッチンに誰もいないことを確認してから、裸も同然でバスルームを出ると、自分の部屋に駆け込む。肌寒さから逃れるために急いで服を着込み、クローゼットの中から別のコートを取り出すと、それをベッドの上に放った。ついでに持ち出したい荷物をまとめて、ショッピングバッグの中に詰め込む。
使いっぱなしにしていたバスルームを軽く掃除し、洗面台の水気を拭き取っていると、希佐の耳に階段を上がってくる足音が聞こえてきた。後片付けを終え、バスルームから出ていくと、ほんのりと暖まっているキッチンに立って、二人分のお茶を入れているアランの姿があった。
「イライアスは?」
「帰った」
「もう?」
「すぐ終わる話だったから」アランはマグの中のティーバッグを揺らしながら言う。「用があるなら電話したら。出て行ったばかりだから、まだ間に合う」
「ううん、いい。なんだかいつもと様子が違って見えたから、少し気になっただけ」
アランはそのことについて何も答えない代わりに、希佐に座るよう促した。テーブルにマグが置かれるのを見て、これを飲む間だけと自らに言い聞かせ、いつもの席に腰を下ろす。
「バージルのところの犬とは上手くやれてるの」
「え? ああ、うん」バージルとは、と聞かないのかと思いながら、希佐は頷いた。「賢いよね、ハンナ。毎日ゲストルームのドアを自分で開けて、同じ時間に起こしにきてくれるから、アラームをかける必要もなくて」
希佐はマグを手に取り、顔に寄せた。ジンジャーレモンティーだ。何度か息を吹きかけてから口に含めば、蜂蜜の甘みと、爽やかなレモンの風味、ジンジャーのピリッとした辛味を舌に感じる。
体を冷やさないように気を使ってハーブティーを入れてくれたのだろうか。こうして優しくされると、つい甘えてしまいそうになる。いつもの調子で、話しかけてしまいそうになる。そうすることがまだ許されているのかどうか、希佐には分からない。
「さっきは、ありがとう。動画を送ってくれて」希佐がそう言って顔を上げると、その様子を見ていたアランは小さく肩をすくめた。「あの動画を見て、ジョシュアが言うの。私は、誰かのために歌う方が実力を発揮できるって。でも、いずれは自分自身のために歌えるようにならないといけないよって」
「誰かのために歌える人間の方が、俺は強いと思うけど」
「どうして?」
「自分のために歌っている人間は、自分に絶望した瞬間、そこで終わってしまう。もう歌えなくなる。たとえ歌うことができたとしても、常に違和感がついてまわる」だから、とアランは起伏のない声の調子で続けた。「自分のためにも、誰かのためにも歌える、そういう人間になればいい」
「……どう歌えばいいのか、私には分からなくて」
「自分のために?」
「うん」
「君は舞台で主役を張っていたって、脇役を際立たせるために動ける役者だから、自分のために歌うっていうのは正直難しいと思う」
「でも、舞台は自分一人では作れないものだから──」
「本来、脇役は主役を際立たせるために存在している。君のその考え方は、脇役を演じる者の考え方だ。主役を支えるのが、脇役の務めだと言ってもいい。それなのに、君はいつも主役として脇役を支えてしまっている。この意味が分かる?」眉を顰める希佐を見て、アランは静かに息を吐き出した。「君はまだ、ただの一度も、舞台上で本気を見せたことがない。少なくとも、俺は君の本気を見たことがない。脇役を気にかけるあまり、自分自身を最高の形で輝かせることができていないんだ」
「そんなことない。だって、私は……」
「もちろん、君がいつだって全力で打ち込んでいることは、他の誰よりも理解している。その上で、俺は言っている。君はまだ本気を出していない」
嘘だ、と希佐は瞬時に思った。いつだって、精も根も尽き果てるのではないかと思うほどにのめり込み、全身全霊で舞台に挑んできた。それを、君はまだ本気を出していないなどと言われても、素直に納得できるわけがない。
「舞台演出家」
「……え?」
「君が俺の前で初めて演じて見せた演目だ」アランは立て続けに言った。「この三年の間、俺が見てきたものの中で最も君の本気を感じたのが、あれだよ」
希佐は言い返そうと口を開きかけるが、反論の言葉が一つも思いつかず、唇の隙間から呼吸だけを漏らした。
忘れるはずもない。あの日、あのとき、希佐の世界は色を取り戻したのだ。見られていることに快感を覚え、もっと見てほしいと渇望する。あの瞬間には、そうした刺激があった。観客の人数など問題ではなかった。たとえそれがたった一人きりでも、自分の演技と真剣に向き合ってくれていると感じるだけで、希佐の心は満たされていたのだ。
それに、腹も立てていた。初対面なのにもかかわらず、なんとも不躾でぞんざいな態度のこの男を、見返してやりたいとも思っていた。あらんかぎりの才能を見せつけて、この男を黙らせてやりたかったのだ。
「あのときは、ただ、がむしゃらで──」
「それが君に足りないものだ」希佐の手の中にあるマグが、少しずつ温度を失っていく。「今の君に必要なものは、そのがむしゃらな気持ちなんだ。君は舞台に立っていてもどこか冷静で、周りの役者やその日の客の様子を見ながら、演技の足し引きをする余裕さえある。それは舞台人としてやっていく上で重宝される能力ではあるけど、場合によっては邪魔になるだけだ。君はただ器用なだけの役者になりたかったわけじゃないだろ」
一つ目の夢を終えて絶望と暗闇の中を当てもなく彷徨い歩き、その果てに見つけた二つ目の夢は、この人の隣で懸命に生きて輝きたいという、ささやかとも強欲とも取れるものだった。だから、半ば突き放されるような言動にショックを受けて、自暴自棄にもなりかけた。だが、バージルが優しくしてくれたおかげで、こうしてアランとも何とか向き合うことができている。そのすべての振る舞いには、きっと何らかの理由があるに違いないと、そう信じているからだ。
「本当にこれで最後にするつもりなら、舞台に対してもっと貪欲になるべきだと思う。そうしないと、未練が残る──俺みたいに」
「え?」
もしかしたら自分の聞き間違いかもしれないと希佐は思った。それほどまでに小さく、か細い声だったからだ。アランは瞠目している希佐に向かって、なんでもない、と呟くと、椅子から立ち上がった。
「雨はまだ止みそうにないけど、タクシーを呼ぶ?」
「う、ううん、歩いて帰る。傘、あるから」
「そう」
希佐はすっかり冷めてしまったハーブティーを一気に飲み干すと、アランに倣って席を立った。
部屋に戻って傘と荷物を取り、コートを着て出てくると、そこにはもうアランの姿はない。キッチンのシンクには、洗いたてのマグが二つ、タオルの上に伏せて並べられている。希佐は冷蔵庫の前まで歩いていくと、伝言用に置いていたホワイトボードに◯と×を交互に一つずつ書いてから、その場を後にした。
事務室に降りていくと、アランはまるでもう何時間も前から、そこでそうしていたかのように、いつもの調子でキーボードを叩いていた。
「アラン」希佐が小さな声で呼びかけると、アランは画面に顔を向けたまま「なに?」と応じた。「手を、握らせてもらってもいい?」
キーボードを叩いていた手を止めたアランは、少しの間画面を見たままじっとしていた。それから、ゆっくりと自分の手を見下ろしたかと思うと、着ているシャツで手の平を拭い、無言のまま差し出してくる。
希佐は足元に自分の荷物を置き、傘を机に立てかけると、その手を両手でそっと包み込んだ。
アランの体温は意外にも、希佐のそれよりも高い。包み込んだ手から徐々に体温が移って、交じり合い、溶け合っていくのが分かる。
よかった、と希佐は思った。拒絶はされていない。口角を持ち上げて笑みを浮かべると、微かに手を握り返される感覚があった。
「ありがとう」希佐は噛み締めるようにそう言うと、握っていた手を離す。足元に置いた荷物を抱え、傘を手に取ると、にこりと微笑みかけた。「じゃあ、オーディションの日に、また」
「キサ」
「うん?」
「このオーディションが終わったら……」
しかし、アランの言葉は続かない。前髪の隙間から緑の目が覗いていた。その目には僅かな翳りがあって、少しだけ不安そうに揺らいで見える。
「オーディションが終わったら?」
希佐はそう問い返すが、アランは躊躇うように顔を背け、目元を前髪で覆い隠してしまった。
それは、言いたくても言えないことなのだろうか。オーディションや舞台に関わることで、口にできないことでもあるのか。それとも、今言うべきことではないと、そう考えたのか。
ふう、と息を吐き出した希佐は、アランの横顔に向かって声を掛けた。
「オーディションが終わったら聞かせてくれる?」努めて明るくそう言うと、アランは僅かに遅れて頷いた。「分かった。それなら、待ってる」
握りしめた手の温もりを忘れないように、何度も何度も思い出しながら。
オーディション当日の朝は、いつもより早く目が覚めた。
腹筋を使って上半身を起こし、天井に向かって両手を突き上げ、伸びをしたところで、God only knowsの青年役を思い出す。ああ、あの青年は、本当はこんな気持ちでオーディション当日の朝を迎えていたのだと、数年越しに正解を教えられた気分だった。
だが、今回は脚本家という舞台の神様が用意した予定調和は存在せず、そこに約束された合格はない。勝ち進みたければ、己の力でそれを掴み取るしかないのだ。
今まで、希佐にとって役というものは、常に与えられるものだった。望まれてその役を演じ、舞台に立ってきた。その繰り返しだ。しかし、今度ばかりは違う。挑戦する舞台の内容も、オーディションを受ける人物の役柄のことも、ほとんど何も知らされていない。これが普通なのかと問いかけた希佐に向かって、ジョシュアは「まさか!」と叫び、大袈裟なくらい大きく頭を振っていた。
何もかもが未知数すぎて、緊張をするというよりも、好奇心や高揚感の方が優っていると感じる。
やると決めたからには、本気で挑む。希佐は既にその覚悟を決めている。もちろん、アランやジョシュアから指摘されたことを踏まえてだ。昨日一日、貴重な時間を使ってよく考え、自分なりの答えを出した。
やはり、自分はアラン・ジンデルが書いた脚本で舞台に立ちたいのだと、希佐は強く思っている。これが最後の舞台になるのかもしれないと実感すればするほどに、その思いは強くなっていった。絶対に負けられない。諦められない。だから、真っ向勝負を挑むのだ。恥も外聞もかなぐり捨てて、欲しいものを手に入れてみせる。
バージルがハンナを連れてランニングに出ている時間帯に起き出した希佐は、シャワーを浴びると、今度はキッチンに立って朝食の支度をはじめた。公演当日の朝ではなかったが、同じくらい重要な日なので、いつもはアランが焼いてくれていたパンケーキを、自分で焼いて食べるのだ。
材料も作り方も、いつも隣で見ていたから心得ている。小麦粉に牛乳、卵を入れ、少量の油を加えて、だまにならないように混ぜる。
その生地を三十分間冷蔵庫で休ませている間に、バージルとハンナがランニングから帰ってきた。
「おかえりなさい、バージル」
「おっ、さすがに今日は早いな」
「オーディション当日だからね」希佐はそう答えてから、すんすんと匂いを嗅ぎながらキッチンに入ってきたハンナと、ゆったりと視線を合わせた。「あなたもおかえりなさい、ハンナ」
徐々に慣れてきたのか、ボーダーコリーのハンナは希佐がその体に触れても、嫌な顔をすることはなくなっていた。尻尾も少しではあるが振ってくれるようになり、どうやら不審者ではないようだと、滞在一週間目にして判断してくれた様子だった。
「これからパンケーキを焼くんだけど、バージルも食べる?」
「せっかくだからいただこうかね」
その前にシャワーを浴びてくると言って、バージルはハンナを呼び寄せると、バスルームに入っていった。尻尾を揺らしながらバージルを追いかけていったハンナは、いつものように足を洗ってもらうとすぐに出てきて、冷たい床の上にころんと転がった。舌を覗かせ、ハカハカと呼吸をしながら、火照った体を冷やそうと必死だ。
希佐が冷凍庫の製氷器から取り出した氷をその鼻先に差し出してやると、ハンナは嬉しそうに食いつき、ガリガリと音を立てて奥歯で砕いていた。
二人分のパンケーキが焼けた頃、バスルームからバージルが出てくる。丁寧に扇形に折り畳まれ、粉雪のような粉糖で化粧をし、仕上げにレモン汁を搾られたパンケーキを見て、バージルは舌舐めずりをした。希佐は生地を休ませている間にカットしておいたフルーツを冷蔵庫から取り出し、アイランドテーブルに並べて置いた。飲み物は、昨夜のうちに作っておいた濃い目のアイスティーに牛乳を入れたミルクティーだ。
「至れり尽くせりだな」
「美味しいものを食べてやる気を出さないと」
椅子に座り、両手を合わせて「いただきます」と言う希佐を横目に見てから、バージルはナイフとフォークを手に取った。ふっくらと焼けたパンケーキにすっとナイフを通し、弾力を感じさせる焼き上がりのそれにフォークを突き立てる。パンケーキが口の中に運ばれ、バージルの口角が持ち上がったのを見届けてから、希佐も食事に取り掛かった。
「結局、今日のオーディションで何させられるのかは分からないままなのか?」
「うん」薄皮まで丁寧に取り除いたグレープフルーツを口に運びながら、希佐は頷いた。「ジョシュアはその場の対応力を見たいのかもしれないって言っていたけれど」
「でも、今回のオーディションって全員関係者の推薦だろ? そこそこのレベルの連中が集まってるんだろうし、今更対応力なんて見る必要あるか? もっと別の意図があるんじゃないのかね。普通のオーディションではやらないようなことをやらされるとか」
「バージルはオーディション受けたことある?」
「そりゃ、それなりに」バージルはミルクティーを飲み、一呼吸置いてから続けた。「この業界、ほとんどがオーディションだよ。脚本家の当て書きとか、演出家からの熱烈なオファーとか、そんなんじゃないかぎりな。まあ、大物が参加するオーディションは出来レースって言われることもあるけど、時々番狂わせなんかも起こる。ポッと出てきた新人が大物の脇役を従えて主役デビューなんてこともある世界だ。若い連中は夢を見たくもなるだろうよ」
「バージルは落ちた回数と受かった回数、どっちが多いの?」
「落ちた回数」希佐が意外だという顔をすると、バージルは鼻で笑った。「最初の頃はまったく受からなかったからなぁ。ブロードウェイの厳しさを思い知らされた。だから、最初の頃はオフ・オフとか、オフ・ブロードウェイで名前を売って、声が掛かるのを待った」
「声?」
「いろんなところで名前が聞こえてくるようになると、キャスティング担当者がそいつの舞台を見にいく。それでお眼鏡に敵えば、オーディションを受けないかって声を掛けられるんだ。こういう場合は、一次審査が免除されることもあるから、自分で申し込みなんかしないで、声が掛かるのを待ってるやつもいたな。まあ、そういう連中は総じて消えていくんだけど」
「どうして?」
「気概の問題だよ。楽しようとしてるのが透けて見えるんだ。そういうのは大抵見破られる」
ふうん、と相槌を打ちながら苺を頬張っていると、その匂いに誘われたハンナが足元までやってくる。確認するようにバージルを見ると小さく頷いたので、希佐は自分の皿から取った苺を一粒分けてあげた。
「お前は、相変わらず緊張している様子はねぇのな」
「ドキドキはしているけど」
「結構業界内では騒がれはじめてるんだぞ。アラン・ジンデルとスペンサー・ロローが組んで新作の舞台を作ろうとしてるって」
「そうなの?」
「そうなのって、お前な」平然としている希佐を見て、バージルは呆れ顔だ。「自分がどこに足を突っ込もうとしているのか、まだ理解してねぇみたいだな」
「……二人とも、そんなにすごい人なの?」
それを当人たちに問いかけてみたところで、周りが必要以上に騒ぎ立てているだけだと言って、真面目には取り合ってくれないに決まっている。だから、希佐は今更誰にも聞けそうにないことを、意を決してバージルに尋ねてみることにした。特に、アランとはあまりに身近な間柄のせいか、周囲からどれだけのことを言われても、実感が湧かないのだ。
「キサ、お前この業界に入ってもう三年だろ?」
「でも、私は商業演劇とは縁遠い場所で細々と続けて来ただけだし」
「この国で三年も舞台に立ち続けて来た人間がここまで世間知らずっていうのも笑えるな。あ、いや、違うな。アランの差し金か? お前が変にすれないように、裏で画策してたのかもしれねぇな」
「どうしてそんなことをする必要が?」
「その方がキサの役者としての商品価値が上がるからだよ。お前は性別不詳の役者として売り出されていて、それを買う人間の求める者に姿を変えるだろ? この場合、お互いに先入観はない方がいい。知識が前もって叩き込まれていると、それを無視した演技をすることは難しくなるからな。キサ特有の透明なイメージが台無しになる」
「……今回のオーディションも、そういうこと?」
「何がだ?」
「先入観はない方がいい。だから、オーディションについて何も公表されない、とか」
「あー……確かに、可能性としては高い」バージルはパンケーキの最後の一口を頬張った。「いかにもスペンサーが考えそうなことだわ」
「あの人、そんなに突拍子もないことばかりしているの?」
「人を驚かせるのが好きなんだ。驚いている人を見るのが好きと言った方が正しいか。同じくらい驚かされるのも好きだぞ、あいつは」
これは覚えておいて損はない、とバージルは言う。その知識を活かせる機会が果たして訪れるのか、今の希佐には知る由もないことだった。
パブ『ヘスティア』の扉には、本日貸切、の看板が提げられていた。
スペンサーが受け付けは午前中から行われていると言っていたので、希佐は午前十時にはヘスティアに到着するように、バージルの家を出発していた。パブの前を行き交う人々は、今日ここで舞台演劇のオーディションが行われることなど知らず、いつも通りに目の前を通り過ぎていく。
希佐は店の前で立ち止まり、大きく深呼吸をして気持ちを整えてから、開け慣れた扉に手をかけた。
店内は暖房が効いていて、少し暑いくらいだった。いつもは古い木の香りが漂うフロアに、今日はそれとは違った、どこか独特な匂いが混じって感じられる。誰かの香水の匂いだろうか。希佐がそう思っていると、不意に声をかけられた。
「今日は貸切だよ」店に入ったすぐのところに長机が設置され、そこに座ってタブレットを操作していた長髪の男性が、億劫そうに希佐を見上げた。「それとも、関係者?」
「オーディションを受けに来ました」
「君が?」
「受け付けは午前中から行われているとお聞きしたのですが」希佐はマフラーを外し、コートを脱ぐ。「希佐といいます」
「キサ? もしかして、カオスの?」
「はい」
劇団カオスに所属しているKISAという役者は、希佐自身も知らないところで一人歩きをはじめ、必要以上に注目を集めていると感じることがあった。実際の希佐を目の当たりにすると、まるで幻の生物や珍獣に出会ったかのような目を向けられ、困惑することも多い。
受け付けの男性は希佐をじろじろと見ていたが、タブレットで本人確認を済ませると、丸い穴の空いた大きな箱を差し出してきた。
「引いて」
「……はい?」
「ほら」
「は、はい」
希佐は言われるがままに箱の中に手を入れ、最初に指先に触れたボールを取り出した。その白いビニールのボールには、手書きで「15」と記されている。
「あー、これは残念」
「残念?」
「せっかく一番乗りでやって来たのに、君の順番が回ってくるのは一番最後だ。15人中15番目」
ボールは自分で持っているように言われ、長丁場になるよと店内に送り出された希佐は、可能なかぎりリラックスして過ごせるようにと、いつもカオスの面々と座っているステージ横の席を選んで荷物を置いた。背負ってきたヨガマットを壁際の邪魔にならない場所に敷き、その上に座る。
ヘスティアの店内には、希佐と受け付けの男性以外、誰一人いなかった。ひっそりと静まり返っている。
オーディションを受ける順番はあまり問題視していなかった。参加者が15人というのは多いのか、少ないのか、希佐には判断がつかない。面接は午後一時から順次行われるという話だったので、希佐にその順番が回ってくる頃にはもう、日が暮れていることだろう。その間、参加者の審査をし続けなければならない審査員もまた、大変な労力を払うに違いない。
「おや」希佐がヨガマットの上でストレッチをしていると、カウンター奥の扉から見知った人物が現れた。「ずいぶん早いんだね、キサ」
「メレディス」倒していた体を起こし、頭を上げた希佐は、こちらに近づいてくる人物を見てにこりと微笑みかけた。「姿が見えないから、今日は来ていないのかと思ってた」
「僕は一応ここの主人だからね、相手がどんなお客様でも、きちんとおもてなしをして差し上げなくては」
「何か手伝えることがあったら言ってね。時間だけは有り余っているの」
希佐はそう言うと、先ほど受け取った15と書かれたボールをメレディスに見せた。メレディスはそのボールを見て「おやおや」と微苦笑を浮かべるものの、オーディション参加者を顎で使うわけにはいかないと言って、首を横に振った。
「何か飲み物が欲しくなったら声をかけて」
「うん、ありがとう」
「健闘を祈るよ、キサ」
メレディスはそう言ってぱちんとウィンクをすると、階段を上って二階へと向かっていった。
まさか、こんな時間から審査員たちが集まっているということはないだろう。会場設営などもあるだろうが、それはまた別の誰かの仕事だ。二階の小劇場へは外階段を使って直接入ることもできるので、そちらから出入りをすればオーディションの参加者たちと顔を合わせることもない。
正午が近づいてくると、一人、また一人と、オーディションに参加する女性たちがヘスティアの店内に集まってきた。アイリーンが現れたのは正午少し前のことだった。
「キサ」
受け付けでボールを引いたアイリーンは、男性と一言二言話をしてから、ホールをぐるりと見回していた。そして、ステージ横のいつもの席に希佐の姿を見つけ、ヒールをコツコツと鳴らしながらやって来る。しかし、壁際に敷かれているヨガマットを見ると、途端に眉を顰めた。
「あなた、何時に来たの?」
「十時過ぎくらい」
「そんなに早く?」
「空気に慣れておきたくて」
「まあ、あなたらしいわね」
アイリーンはそう言うと、ガラガラと引きずってきた小ぶりなキャリーケースから手を離し、コートを脱いだ。その下には艶やかな真っ赤なワンピースを着ていた。上半身はぴたりと体の線に寄り添い、スカート部分の裾はふわりと広がっている。シンプルながらも、このままダンスホールに踊りに行けそうな、見栄えのするドレスだ。
「アイリーンは今日も素敵だね」
「あら、ありがとう」
思ったことをそのまま口にすると、アイリーンは嬉しそうに微笑を浮かべる。その笑顔は眩しいくらいで、希佐の目にはいつも以上にキラキラと輝いて見えた。
「キサの言葉には嫌味がないから素直に嬉しいわ」アイリーンはスカートの裾を気にしながらその場にしゃがみ込むと、キャリーケースを開けてメイク道具を取り出した。「ここへ切る前にスタジオに寄って来たのだけれど、このドレスをアランに見せたら、あの人なんて言ったと思う?」
「悪くない」
「そう!」アイリーンはしゃがんだ格好のまま椅子に座っている希佐を見上げた。「仮にも自分が推薦した女に向かって言う言葉が悪くないだなんて、気が利かないにも程があるわよね。お世辞でもいいから、似合うよとか、綺麗だよとか、言えないのかしら」
アランにとって、悪くない、というのは最大級の褒め言葉に等しいものだ。アイリーンもそれは知っているはずだが、その上で、もっと直接的な賛美の言葉が欲しかったのだろう。
「アイリーンはいつだって綺麗だよ」
「もう! ちょっと!」希佐のまっすぐな言葉に、アイリーンは僅かに頬を染めた。「それ、禁止! あなたの男役に弱いのよ、私。昔のアランに本っ当にそっくりなんだから」
まったく、と言いながら、アイリーンは自らの頬を両手で覆い、熱を冷まそうとしていた。
こうした可愛らしさは自分にはないものだと希佐は常々思っていた。高校生という多感な時期を男として生きてきたからだろうと考えているが、もしそうでなかったとしても、性格的にこうはなれなかっただろうと思うのだ。
かわいい、綺麗、美人、格好良い──その辺りの賛美の言葉を贈られてきた希佐だったが、それらを真に受けたことはない。自分がそうした言葉に相応しい人間なのかも分からない。煌びやかな衣装と仮面のような化粧で飾り立てた姿は、自分とは違う別の人間のような気がしていたし、実際そのように役作りをして、演じてきた。
だから、自分という人間に対して自信を持ったことはない。あるのは、その役を演じるにあたっての自信だけだった。与えられた役を誰よりも生きた人間として演じられるのは、自分が一番だという自信だけは、強く持っている。
「そういえば、キサは何番だったの?」
「15番。一番最後だって。アイリーンは?」
「私は、7番」アイリーンはコートのポケットから取り出したボールを希佐に見せる。「それなりに良い数字ね。順番もちょうど真ん中辺りだから、審査員たちも雰囲気に慣れはじめている頃でしょうし」
「最後って順番的には良くないの?」
「どうかしら。でも、今回はあまり人数も多くないみたいだし、不利になることはないと思うけれど」
アイリーンはそう言ってから、それにしても、と希佐を横目に見る。
「あなた、その格好でオーディションを受けるつもり?」
「えっ?」希佐は自分の体を見下ろしてから、顔を上げた。「……ダメ?」
「もっと自分を良く見せようとか、そういう気持ちはないの?」
黒の細身のパンツに白いシャツというシンプルな格好の希佐を見て、アイリーンは呆れ顔だ。
当日は何をさせられるか分からないので、心の準備だけはしておくようにというジョシュアの助言に従い、動きやすい服を選んできたのだが、どうやらアイリーンの考えは違っているようだった。
「まあ、こんなこともあろうかと、私はわざわざスタジオに寄ってからここに来たのよ」
そう言ってアイリーンがキャリーケースから取り出したのは、どれも希佐にとって見覚えのある洋服ばかりだった。
スタジオの二階にある希佐の部屋のクローゼットの中から、勝手に持ち出して来たのだろう。希佐は思わず唖然としてから、苦笑いを浮かべた。
「私、絶対にキサと二人で最終選考に残るって決めているの。だから、あなたには頑張ってもらわないといけないのよ」
「私が頑張るの?」
「あら、キサは私に頑張れっていうつもり?」アイリーンは目の前に掲げていたワンピースを下ろし、挑発的に希佐を見た。「私は別段頑張らなくても最終審査まで残れるわ。それくらいの実力はあるもの」
アイリーンは自分の歌に絶対的な自信を持っている。それはたゆまぬ努力の末に獲得した自信で、絶対に揺るぎないものであることを希佐は知っていた。ジョシュアが言っていた通り、歌一本で競い合うことになれば、希佐に勝ち目はないだろう。ユニヴェールのトレゾールたちと同じように、歌姫と呼ぶに相応しい才能が、アイリーンには備わっている。
「ボイストレーニングをはじめたって聞いたけれど、誰に習っているの?」
「ジョシュア」アイリーンは希佐をその場に立たせ、服を取っ替え引っ替えあてがいながら話を続けている。「バージルの紹介で。前に私が出演した舞台の音楽を担当していて、もともと知り合いではあったんだけど」
「私も一時期彼に習っていたことがあるわよ」
「そうなの?」
「ええ、アランの紹介で。優秀なボイストレーナーよね。コンクールで優勝できたのも彼のおかげだもの」
前に教えていた経験があったから、ジョシュアはアイリーンの歌に詳しかったのだと、希佐は腑に落ちるものがあった。ジョシュアはアイリーンの歌の癖を隅から隅まで理解しているふうで、ピアノを弾きながら歌って聞かせてくれたときは、あまりの再現度に鳥肌が立ったほどだった。
「このプリーツのワンピース、かわいいわね」
「それはダイアナにもらったの」
ブルーグラデーションのワンピースは、さらりとした肌触りの着心地が良さそうなものではあったが、なにしろ着ていく場所がない。他にもそういう洋服がクローゼットの中にたっぷり仕舞い込まれていて、正直なところ希佐の手には負えなくなってきている。
「うーん、でも、あなたはブルーって感じじゃないのよね」
結局、アイリーンが希佐に選んだのは、シンプルな黒のワンピースだった。形はノースリーブで丈は長く、僅かに裾が広がっている。襟ぐりは開いておらず、モックネックになっていた。これは、ダイアナの店で希佐自身が選び、購入したドレスだ。希佐はそのドレスに持参してきた赤いダンスシューズを合わせ、アイリーンの前に立たされる。
「まあ、いいでしょう」
さあ、今度はメイクだと言い出したアイリーンを見て、希佐は慌てて頭を振った。
「アイリーンは自分の準備をしなくていいの?」
「私はもう完璧よ。朝からしっかり歌い込んできたし、体だって動かしてきたわ」
「でも、ほら、他の人たちは──」
「他人と自分を比べたって仕方がないわよ。さあ、いいからほら、早く座って」
「いや、あの、メイクは自分でできるから」
「だったら見ていてあげる」
十二時を過ぎる頃には、オーディションの参加者15人が、ヘスティアの一階に揃っていた。
希佐のようにオーディション用の衣装に着替える者、ヘアメイクをする者、ストレッチをする者、発声をする者──各々が万全の状態でオーディションを受けるための準備を行なっている。それぞれが離れた席を陣取り、座っているので、参加者同士で話し込んでいるのは希佐とアイリーンだけだった。
二人のあまりの緊張感のなさに腹を立てる者がいたとしても、それは致し方ないことだと希佐は思った。普通、結果次第ではこの先の運命をも左右するオーディションを目前にすれば、誰もが神経を尖らせるというものだ。
「あらあら、誰かと思えば、劇団カオスのお姫様じゃないの」
アイリーンが希佐のメイクに横から口を出している途中、聞き覚えのない声が唐突に割って入ってきた。二人が揃って顔を上げると、そこには見覚えのない女性が立っている。しかし、アイリーンはその人物のことを知っている様子だ。その姿を認めると同時に眉を顰めていたので、あまり快くは思っていない相手だということが分かる。
「あなたもこのオーディションを受けるなんてちっとも知らなかった」
「私も、あなたが受けるなんて知らなかったわ、シルヴィア」
「まあ、今回の舞台の脚本家があのアラン・ジンデルですものね。きっと劇団仲間の誼で推薦してもらったんでしょうけど。そちらの日本人の子も、記念に受けさせてもらうのかしら。確か、あなたもカオスの劇団員よね? えっと、名前は……」
「希佐です」
「そうそう、そんな名前だった」
その人は、アイリーンに負けず劣らずの美貌の持ち主だった。緩く波打っている黒髪が印象的な美人だ。キリッとした眉とつり上がった目が、強気な雰囲気を助長している。それが愛想笑いであることは明確なのに、向けられる笑みがあまりに魅力的で、目を逸らすことができない。
妖艶な悪女といえば、いかにもこういう容姿をしていると、誰もが思い浮かべるような女性だ。それは間違いなく、このオーディションに挑む上で大きな強みとなるに違いない。だが、同じだけ弱みにもなるだろう。妖艶な悪女そのものの見た目には、何の意外性もないからだ。面白みがないとも言える。
「私は演出家直々にオーディションを受けてくれと頼まれたの」
それを聞いて、希佐は僅かに目を丸くした。アイリーンも同じことを思ったのだろう、向かい合わせに座っている希佐に意味深な視線を投げかけてくる。だが、スペンサーは君を推すと言っただけで、君だけを推す、と言ったわけではない。
顔を見合わせた二人を見て何を思ったのか、シルヴィアと呼ばれた女性は、どこか得意げな表情を浮かべて口角を持ち上げた。
「残念だけど、今回も私が勝たせてもらうわね」シルヴィアはアイリーンに向かってそう言ってから、希佐の方を見た。「あなたもせいぜい頑張って」
「あ、はい。ありがとうございます。頑張ります」
反射的にそう応じてしまった希佐を見て、アイリーンは思わずというふうに吹き出した。しかし、それをごまかすために小さく咳払いをすると、視線をゆっくりと宙に逃す。
希佐は去っていくシルヴィアの背中を見送りながら、他の参加者たちにも目を向けた。見れば見るほどすらりとした美人ばかりで、日本人である自分の存在が場違いに思えてくる。誰も彼もが望まれてこの場にいるのだという自信を感じさせる面持ちで、堂々と振る舞っているのが見て取れた。
「本当、嫌だわ」アイリーンはうんざりしたような顔をして言った。「私たちタイプが似ているから、オーディションで同じ役を競い合うことが多いの。年齢も近いし、挑戦したい方向性もほとんど一緒なのよね」
「そうなの?」
「勝率は彼女の方が圧倒的に高いけれど、だからといって負ける気はしないわ。あんな言い方をされて黙ってはいられないもの。アラン・ジンデルの顔に泥を塗りたくはないし、カオスのレベルが低いなんて思われたくもないじゃない?」
「そうだね」
「でも、スペンサー・ロローはどういうつもりなのかしら」テーブルに頬杖をつき、アイリーンは小首を傾げる。「シルヴィアって今回の役所にぴったりと当てはまる女優だと思うのよ。でも、キサはそれとは真逆のタイプでしょう? 何か考えがあってのことだとは思うけれど、あの人はどこか読めないところがあるのよね」
「どちらも見てみたかったんじゃないのかな」
「ずいぶん欲張りさんだこと」
「本命は彼女なのかもしれないし」
「希佐が弱気なことを言うなんて珍しいじゃないの」
「だって、ここに集まっている人たちを見れば、誰だって私を色物扱いすると思う」
「それは──」アイリーンはそう言いながら辺りを見渡し、複雑そうな顔をした。「まあ、そうなのかもしれない。でも、スペンサーはやっぱりキサの能力を高く評価して、後押しをしてくれたのだと思うわ。彼、あなたの歌とダンスを見た上で声をかけてくれたのでしょう?」
「うん」
「それならどっしり構えていなさいな。今更周りのことなんて気にしないの。私たちはただ自分のやるべきことをすればいいだけ。そうすれば、あとは審査員たちが勝手に参加者同士を比べて、競い合わせてくれる。あんなふうに誰かに喧嘩を売ったり、周りを牽制する必要なんてないのよ」
あれこそ弱さの表れだと言って、アイリーンは肩口に乗っていた金糸のような髪を払い、呆れた様子で肩をすくめていた。希佐はアイリーンの励ましの言葉に頬を綻ばせると、素直に感謝の思いを口にした。
「ありがとう、アイリーン」
「あなたには頑張ってもらわないといけないって言ったでしょう?」
「二人で最終審査に残るために?」
「もちろん、そうよ。劇団カオスの女の意地を見せてやりましょ。実力ある役者はイライアスだけじゃないんだから」
アイリーンの意気込みがいつも以上に強く感じられるのは、自分を推薦してくれたアランのためというのもあるのだろう。それと同時に、幼馴染のイライアスには負けていられないという思いもあるに違いないと、希佐は考えている。自分より一歩も二歩も先に進んでいってしまった背中を追いかけたいと思う気持ちは、希佐にも良く分かるのだ。
「1番の人ー」
午後一時になると、先ほどまで受付の席についていた男性が、階段の中腹辺りからそう声を上げた。その声に応えたのは、アイリーンがシルヴィアと呼んだ女性だ。
「上がってきて」
そう言って手招かれたシルヴィアは、余裕の表情を僅かに顰め、希佐とアイリーンがいるテーブルの脇を歩いていく。あれだけの自信に満ち溢れている人でも、緊張はするようだ。それだけのことで人としての親近感を覚えるのだから、人間とはかくも単純なものだと希佐は思う。
シルヴィアが階段を降りてきたのは、それから三十分以上が経過してからのことだった。一人に要する時間が三十分だとすると、なるほど、これは確かに長丁場になりそうだと、希佐は思わず苦笑いを浮かべる。こればかりは、自分のくじ運の悪さを呪うしかない。
帰りも二人がいるテーブルの脇を通りかかったシルヴィアの表情は、実に晴れやかなものだった。どこか勝ち誇っているようにさえ見える。面接は上手くいったのだろう。一目見ただけでそうと分かる面持ちをしていた。
階段の中腹からは「2番の人ー」という声が聞こえてくる。
「一体何をさせられるのでしょうね」アイリーンは退屈しているのか、テーブルに頬杖をついて唇を尖らせていた。「アランに聞いても教えてくれなかったのよ」
「スペンサーさんは、一人一人の雰囲気を見たり、他のキャストとの相性を見たりするっておっしゃっていたけれど」
「そんなことのために三十分以上も時間をかける?」
しかし、2番と呼ばれた女性が戻ってきたのは、二階に上がってから僅か十五分後だった。シルヴィアとは違い、まるで一切の自信を喪失したような真っ青な顔をして階段を降りてきたその人は、自らの席に戻るより早く、床に蹲って泣き出してしまった。
アイリーンと顔を見合わせた希佐は、椅子から立ち上がると、階段の下で顔を覆っている女性に歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
隣にしゃがみ込んだ希佐は、その背中にそっと触れる。二階の小劇場でどんな目に遭ってきたのか、その人は未だ、かたかたと小刻みに震えていた。頭上からは、悠長にも聞こえる声で「3番の人ー」と呼びかけている声が聞こえてくる。3番の女性は、酷く引き攣った顔で2番の女性を一瞥してから、恐る恐る階段を上がっていった。
希佐はその人を近くの椅子に座らせると、その場はアイリーンに任せ、カウンター奥の扉に向かった。そこを開けて呼びかけると、すぐにメレディスがスタッフルームから顔を覗かせる。
「ごめんなさい、メレディス。あの、冷たい水をもらえない?」
「もちろん、いいとも」キッチンの冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを持ってきてくれたメレディスは、それを手渡しながら、希佐の頭越しに店内の方を見た。「何か騒がしいようだけれど」
「え? あっ──」
メレディスの視線を追いかけるようにして後ろを振り返った希佐の目に、アイリーンとシルヴィアが対峙している様子が映り込んだ。二人は何やら口論をしているようで、それを遠巻きに見ている人々が、こそこそと何かを囁き合っている。希佐は止めに行かなければと足を踏み出しかけるが、メレディスが肩に手を置き、それを引き留めた。
「三十まで数えてからおいで」
「えっ?」
メレディスは希佐をその場に置き去りにして、颯爽とホールを歩いていく。そして、アイリーンとシルヴィアの傍まで行くと、まるで酔っ払い同士の喧嘩を諌めるような立ち居振る舞いで、二人の間に距離を取らせた。互いに睨み合ってはいるものの、口論は止んだようだ。
三十まで数え終えた希佐はメレディスの背中を追いかけていくと、アイリーンの後ろで顔を伏せている女性に歩み寄り、ペットボトルの水を差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
その人は今にも消え入りそうな声でそう言うと、希佐の手から水を受け取った。ひっ、ひっ、と吃逆をしながらペットボトルの蓋を開けたその人は、まるで酒でも煽るように水を飲むと、大きく息を吐き出した。まだ顔面は蒼白なままだったが、どうやら涙は止まったらしい。
「プレッシャーに負けて失敗した人間のフォローなんかしてあげることないのよ」
「あなたね、まだそんなことを──」
「実際、その子だって励まされても虚しいだけでしょう?」
「その前に、あなたが私たちに構わなければいいだけのことじゃない」
「私はただ馴れ合いはやめなさいと言っているだけよ」
「それが余計なお世話だと言っているの」
「あらあら、他人に気を使う暇があるのなら、自分のために時間を使ったらいいのに。まあ、どうせあなたは、また一次か二次審査で姿を消すんでしょうけど」
「なんですって──」
「アイリーン」堪忍袋の緒が切れかけたアイリーンに向かって、希佐はいつも通りに声をかける。「もういいよ。やめよう」
「でも」
「これ以上言い争ってもアイリーンが傷つくだけだよ。そろそろ順番も回ってくるんだから、席に戻って準備しよう」そう言ってから、希佐はシルヴィアに目を向ける。「他の方々のご迷惑になるので、失礼します」
「ちょっと、なによ、私が迷惑をかけてるとでも言いたいの?」
希佐は答えなかった。その代わりに、シルヴィアの目をじっと見つめる。灰色の美しい目だ。そして、そのまま何も言わずにじっと見つめ続けていると、シルヴィアはきまりが悪そうに、希佐から目を逸らした。
「行こう、アイリーン」
「え、ええ……」
希佐は傍に立っていたメレディスに軽く目配せをしてから、泣いていた女性を席まで送り届け、アイリーンと二人でステージ横のテーブルに戻ってきた。椅子に座り、平然とメイクの仕上げに取り掛かる希佐を見て、アイリーンは口を開く。
「ごめんなさい。今日は大事な日だっていうのに、こんな雰囲気にしてしまって」
「元はと言えば、後先考えずに行動した私のせいだから、アイリーンが謝るようなことじゃない」それにね、と希佐は続ける。「シルヴィアさんはアイリーンが怖いんだよ」
「え、どういうこと?」
「アイリーンは歌も演技もどんどん良くなってる。あのアラン・ジンデルが一押しで推薦したくなるくらいの役者になってる。だから、脅威なんだと思うよ、きっと。いつ追い抜かされてしまうんだろうって」
「彼女が私個人を牽制しているとでも言うつもり?」
「そうとしか考えられない」
希佐を見る目と、アイリーンを見る目は明らかに違っていた。自分の前に立ちはだかる存在がいるのだとすれば、それはアイリーンだと、シルヴィアには分かっているのだ。希佐のことは当初から眼中にない。それこそ自分の敵ではないと思われている。希佐自身、そのことについて思うところは一つもなかった。
自分は無名の役者だという自覚が、希佐にはある。ここでは場違いな存在で、誰にも期待されず、人知れずこのレースから去っていくのだろうと、そう思われているのが分かる。しかし、だからこそ、面白いのだ。
予期せぬ番狂わせ。意外や意外のどんでん返し。月に叢雲、花に風。ある種の期待を裏切り、足元を掬ってやるその瞬間の、相手の驚いた顔を見るのが、希佐は好きなのだ。
「アランが言ってた。アイリーンを推薦することは、脚本を書いているときから、もう決めていたって。今のアイリーンになら、演じられるって」この人を負かさなければ、舞台に立つことはできないのだと、希佐は思う。「脚本家にそんなふうに言ってもらえるなんて、役者冥利に尽きると思わない?」
「アランが、本当にそんなことを……?」
ぽっ、と微かに頬が染まる。そうした反応を目の当たりにするたびに、アイリーンは今もまだアランに好意を寄せているのだと思い知る。そして、希佐はその都度、心の片隅で申し訳なさを覚えるのだ。アイリーンは間違いなくアランの最も近くにいた女性だった。おそらく自分がその場所を奪ってしまったのだと。
恋や愛というものは実にままならないもので、出会った順番や過ごした時間の長さは、必ずしも思いには直結しない。
この先、アイリーンの恋路がどのような最後を迎えるのかは分からない。もしかしたら、自分は酷く残酷なことを言っているのかもしれないと、希佐は思う。それでもやはり、自分以外の人間がこの役を射止めるのだとしたら、アイリーンがいいと思うから。自分が舞台を去った先にある未来でも。
「シルヴィアさんに勝って、アイリーン。一緒に最終審査まで残ろう」
「私の最終目標はそんなちゃちなものじゃないのよ」アイリーンは僅かに顎を上向け、ふん、と不敵に笑った。「キサと二人で最終審査まで残って、私があなたを負かし、最後にはこの役を勝ち取るわ」
一瞬、落ち込んだかに思えたアイリーンの感情が一気に回復したのを感じ、希佐は安堵の息を吐いた。これでアイリーンが調子を落とすようなことがあれば、本当にシルヴィアの思う壺だ。他の参加者たちも今の騒ぎで集中力を欠いていなければいいがと思いながら、希佐はアイリーンに笑い返す。
「その勝負、受けて立つよ」
「そうこなくちゃね」
3番、4番──そして、7番。アイリーンの順番が回ってくる。時刻は午後四時を回っていた。緊張の面持ちで椅子から立ち上がったアイリーンは、幸運を、と声をかける希佐に向かって微笑みかける余裕を見せると、一人階段を上っていった。
どうか、上手くことが運びますように──そう祈るような思いで、時計の秒針が動く様を眺めている。一秒ずつ過ぎていく時間を感じながら、アイリーンの成功を願っていた。
「あ、あの……」
希佐がフロアにある大きな壁掛け時計を睨んでいると、遠慮がちに声がかけられた。我に返って視線を戻せば、先ほどの2番の女性がテーブルの脇に立っていた。
「さっきは、どうもありがとう」見た目の派手さとは裏腹に、控えめそうなその人は、希佐に向かって小さな箱を差し出してきた。「チョコレート、良かったら食べて」
「ああ、いえ、こちらこそ余計なことをしてしまって」
「お水、嬉しかったから」
結構ですと断ったところで、絶対に引かないと思わせるような強い眼差しを感じて、希佐は大人しくその箱を受け取ることにした。
「じゃあ、せっかくだから」
「あなたは何番?」
「15番です」
「一番最後?」頷く希佐を見て、その人は気の毒そうな顔をする。「あなた、一番に会場に来ていたでしょう?」
「あ、はい。でも、くじ運が悪いみたいで」
あはは、と笑いながら、希佐は頭を掻いた。来た順番にオーディションを受けさせてくれればいいのにとは思うが、くじ引きは公平を期すためのものなのだろう。
「わたしはもう帰るし、どうせここまでだろうけど、あなたは頑張って。もう一人の綺麗な人も、上手くいくことを祈ってる」
「ありがとうございます。でも、結果はまだ出ていないんですから、どうか諦めないでください。また次の審査でお会いできたら嬉しいです」
希佐がそう言って手を差し出すと、その人は驚いたように目を見開いてから、どこか呆れた顔をする。しかし、希佐の手をそっと握り返し、笑いかけてくれた。
「幸運を祈ってる」
それから三十分ほどが過ぎ、一時間弱という時を経て、アイリーンが一階に戻ってきた。酷くぐったりとした様子で希佐の前に座り込んだアイリーンは、こちらから何かを尋ねる前に口を開いた。
「何も言えないの」
「そうだろうと思ってた」
「でも、疲れたわ」倒れるようにしてテーブルに突っ伏したアイリーンを見て、希佐はお疲れさま、と声をかけた。「体は疲れているのに、頭だけは冴えているのよ。まるで公演が終わった後みたい。今夜は眠れないかも」
「何か飲み物をもらってこようか?」
「いいえ、いいわ。今日はこれから用事があって、実家に帰らないといけないから。急がないとディナーに間に合わないわね」
「オーディションが終わったばかりなのに?」
「前々から決まっていたことなのよ」
「そうだったの」
「最後まで付き合ってあげられなくてごめんなさいね」
「ううん、私なら大丈夫」
アイリーンは疲れを感じさせる動きで椅子から立ち上がると、広げた荷物をキャリーバッグにしまいはじめた。しかし、先ほどまではなかった小さな箱をテーブルの上に見つけると、手を動かしながら首を傾げる。
「それは?」
「2番の人がお水のお礼にって持ってきてくれたの。チョコレートだって」
「ふうん」ぱちん、ぱちん、とキャリーバッグの蓋を閉じ、それを立ち上がらせる。「毒入りかしら」
「まさか」
「そうよね」
アイリーンは軽い冗談のつもりで言ったのだろう。だが、念のためにいただいたチョコレートは、オーディションが終わってから食べようと思い、希佐はそれをバッグの中にそっとしまった。
「この調子だとキサの順番が回ってくる頃には八時を過ぎるんじゃない?」ドレスの上からコートを羽織ると、ボタンを留めながらアイリーンが言った。「ずっと気を張っていると余計に疲れてしまうから、ほどほどにね」
「うん」
「あなたは極限状態のときほど、より実力を発揮できるみたいだから、私は何の心配もしていないのだけれど」
アイリーンはそう言うと、片方の手をテーブルについて、僅かに身を乗り出す。そして、片側の髪を反対の手でそっと押さえながら、希佐の頬にちゅっと音を立て、キスをするふりをした。香水の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「幸運のキス?」
「私のキスは安くないんだから、感謝しなさいよ」
「ありがとう」
「頑張ってね、キサ」
アイリーンがヘスティアを出て行ってすぐ、8番の人が二階から降りてくる。今回の所要時間は二十分ほどだろうか。人によってこの時間に大きな開きがあるのはなぜなのだろうと希佐は思った。
9番は三十五分、10番は二十数分、11番は三十分──呼び上げられる数字が大きくなるにつれて、希佐の順番が近づいてくる。挑戦を終えた人々は一人、また一人と店内からいなくなった。
希佐はバッグの底に忍ばせていた本を読みながら、自分の順番が回ってくるのを待っている。アイリーンが言っていた通り、希佐の番号が呼ばれるのは午後八時過ぎになりそうだった。
「キサ、大丈夫かい?」
こんなときなのにもかかわらず、本を読むことに没頭していた希佐は、そう声をかけられて顔を上げた。
「今何番目?」
「14番の人が呼ばれて行ったから、次が君の番だよ」
「いけない、体を動かしておかないと」
本に集中し過ぎてしまってと言いながら、希佐は慌てて立ち上がった。メレディスはテーブルの上に置かれた本を横目に一瞥してから、ヨガマットの上に腰を下ろした希佐を見る。
「その様子だと緊張はしていないみたいだ」
「今のところはね」
「とはいえ、待ち時間が長過ぎて疲れてしまったのではないかな」
「それが、全然疲れてないんだ。他の場所だったら分からなかったけれど、ここは私の大好きな場所だから、とてもリラックスできるみたい」
「おや、嬉しいことを言ってくれるね」
「メレディスも疲れたんじゃない? 階段を何度も上り下りしていたでしょう?」
「食べ物を持ってこい、飲み物を持ってこいと注文が多くて」メレディスは頭上を仰ぎながら肩をすくめた。「キサもお腹が減っただろう」
「でも、その方が頭も冴えるから」
「終わってから食べられるようにサンドイッチを作っておいてあげようか」
「いいの?」
「他の人たちには内緒だよ」メレディスはそう言うと、自分の唇に人差し指を立て、悪戯っぽく片目を瞑った。「では、これ以上邪魔をするのはよそう。君も集中したいだろうからね」
「ありがとう、メレディス」
「楽しんで」
enjoy、という言葉に、希佐は思わず笑みをこぼす。きっとアランが舞台に立っていた頃は、メレディスがそう言って背中を送り出していたのだろうと、希佐には容易に想像することができた。
ストレッチをしていると、体の調子と共に、気持ちまで落ち着いてくるのを感じていた。自分の心臓の鼓動を意識しながら、呼吸を整え、集中力を高めていく。
いつだって不思議と緊張はしなかった。だが今は、心臓が少しだけ小さくなったような、どこか心細さにも似た思いを感じている。これが緊張というものなのだろうか。舞台に立つ前の、あの高揚感とはまったく違うものだ。首筋に冷たいものを押し当てられているような、寒々とした感覚がある。だが、不快には感じない。心地の良い不安感。その相反する矛盾した感情が、希佐の五感を、鋭く研ぎ澄ましていた。
二人分の足音が階段を降りてくる。一方がその中程で足を止め、もう一方は、やや重い足を引きずるように下まで降りてくるのが分かった。
「お待たせ、15番」階段の中腹から、長髪の男性が声をかけてくる。「君の出番だよ」
「今、行きます」
希佐は脱いでいた靴を履き、鏡で顔周りの確認をすると、髪を整えながら階段を上がった。
階段で待っていた男性は、希佐がやって来るまでの間、階段の手すりに足を掛けて軽いストレッチを行っていた。同様に反対の足の筋も伸ばすと、失礼、と言ってから前を歩き出す。
「あの」
「質問は禁止だよ」
「確認です」希佐は肩越しに振り返っている男性の顔を見ながら言った。「スペンサーさんの舞台で主役を演じられていた方ですよね」
「おっと、分かっちゃった?」
「最初は分からなかったのですが、何度か声を聞いているうちに」
「へえ、耳が良いんだ」そう言って歩きながら、今度は両腕の筋を伸ばしている。「バイト代を出してやるっていうからこの仕事を引き受けたんだけど、これがどうにも割りに合わなくて」
「受け付けのお仕事ですか?」
「いいや」
小劇場の扉の前までやって来たところで、男性は一度足を止める。こちらを見る目を受け止めた希佐は、言わんとしていることを理解すると、大きく深呼吸をしてから頷きかけた。もう既に、心の準備は整っている。
「じゃ、行くよ」
「はい」
希佐の返事を待って、男性はゆっくりと扉を押し開いた。ぎぎぎ、と僅かに軋んだ木の扉が開くと、その向こう側には、見慣れているはずの小劇場が見えてくる。だが、なぜか今日は、見たこともない場所に連れてこられたような感覚に見舞われた。
おそらくそれは匂いのせいだろう。明らかにいつもとは違う匂いが小劇場内に充満していた。食べ物や飲み物、人間の呼吸と汗、異なる香水の混じりあったような、きつい匂い。ここは禁煙のはずだが、煙草のような匂いも漂ってきている。ここは今、希佐が知っている場所ではないと、瞬時に悟った。
「15番、入ります」男性はそう言うと、希佐を振り返る。「舞台に上がって」
「はい」
劇場内の椅子は半分ほどが片付けられ、積み重ねるようにして壁際に寄せられていた。前方、舞台側には大きな空間が出来上がっていて、そこに持ち込まれた長テーブルが連なって置かれている。審査員は全員で七人。全員が振り返らずに、舞台の方を向いたまま座っていた。
希佐は軽い足取りで歩いていくと、数段の階段を上って舞台の上に立った。何度も立ったことのある舞台だ。だが、劇団カオスの公演に初めて出演したときでも、これほどまでに威圧的な視線を感じはしなかった。
舞台の真ん中に立ち、背筋をしゃんと伸ばすと、顎を引き、肩を落とす。
「15番、希佐です。よろしくお願いします」
すぐさま、ここには誰一人として味方はいないのだと、希佐は理解した。推薦したはずのスペンサー・ロローですら、これまでに見たこともない険しい表情を浮かべ、こちらを見ている。
誰も彼もが疲労を溜め込んだ顔をし、現状に苛立っているのが、空気を通して肌に伝わってきていた。たいした休憩も取らず、七時間もここでこうしているのだ、無理もないだろう。右端の席に座っているアラン・ジンデルに至っては、もう既に審査をすることすら放棄しているような態度で、頬杖をついて窓の外に目を向けてしまっていた。
「君もくじ運がないね」手元にある紙の整理をしながら、スペンサーが言った。「誰よりも早くやって来たのに、最後の最後まで残されるとは、不運にもほどがある」
希佐は何も答えず、口を噤んでいた。それを質問とは思わなかったからだ。言うなれば、嫌味な独白。いつも機嫌が良さそうで、朗らかな口振りのスペンサーしか知らない希佐にとっては、ある意味で衝撃的な姿だった。
「ご覧の通り、我々も辟易しはじめているので、早速だが本題に入ろう」
「はい」
「ここに一冊の台本がある」スペンサーはそう言って薄い冊子を掲げた。「十分でこの台本を覚えて、その舞台上で演じて見せてほしい。途中で台詞を間違えても、故意に変更しても構わないが、流れを止めてはいけない。流れが止まったと感じたら、君の持ち時間はそこで終了だ」
ああ、そういうことか、と希佐は思った。だから、十五分ほどで戻ってくる者もいれば、一時間近く戻らない者もいたのだ。上手く演じ続けることができれば、その分だけ持ち時間は長くなるが、冒頭で失敗をすれば、評価される間もないまま舞台から下されてしまう。
確かに、これならオーディションを受ける側が準備するものは何もない。必要なのは、どのような要求にも応えられる技術と臨機応変さ、何事にも動じない強靭な精神力だけだ。
「分かりました」
「では、受け取りに来て」
上がったばかりの舞台を下り、希佐は審査員席に近づいていく。最後の晩餐よろしく横並びになっている審査員たちのちょうど中央に、スペンサー・ロローの姿があった。あとは、右端に座っているアラン・ジンデル以外に見知った顔はない。左端に座り、顔に黒いレースのヴェールをかけている女性に至っては、酷く退屈そうに欠伸を漏らしてしまっていた。状況は悪いどころか、かなり悲惨だ。
「舞台袖に相手役の役者がいる。彼との動きの確認も十分以内に済ませること」
「はい」
台本を受け取った希佐は、その瞬間に、スペンサーが自らのスマートフォンでカウントアップ機能を作動させるのを見た。踵を返しながら台本を開き、歩きながら目を通す。
登場人物は、女と男。女は毎日街角に立ち、昼間は花売りの仕事をしている。男は由緒ある貴族の生まれだ。時刻は夕暮れ時、男は時計塔の前で別の女性と待ち合わせをしていた。しかし、いつまで経っても待ち人は現れない。その時間帯はいつも時計塔の前で花売りをしている女は、高価な身なりをしている男の姿を見つけると、花を売ろうと近づいていく──そこまで読み解いたところで、希佐は舞台袖に辿り着いた。
「やあ」そう声をかけて来たのは、先ほどの長髪の男性だった。「また会ったね」
「五分待ってください」
希佐はその姿をちらりと一瞥してから、自らの唇に小指を立て、暗に黙っているようにと促す。
これだけの分量の台詞を最初から最後まですべて暗記し、役の理解を深め、完璧に演じようとしたところで、それは無理な話だ。まずは全体の流れを把握し、重要そうな台詞だけを頭に入れ、物語を破綻させないようにする必要がある。
大丈夫、即興劇には慣れているのだ。それに、この脚本は間違いなく、アラン・ジンデルが書いたものだろう。自分にならば、他の誰よりも脚本家の意に沿った演技をすることができるという自負が、希佐にはあった。
台本を一通り読み終えた希佐は、顔を上げると、目の前にいる男性を見る。
「俺はリオ」
「希佐です」
「知ってる」軽く握手を交わしてから、リオと名乗った男性は続けた。「俺はどちらの台詞も頭に入ってるよ」
「すべてを覚えることは無理なので、私は印象的な台詞を抜き出して覚えました」ここと、ここと、と指を差しながら、希佐は情報を共有させていく。「冒頭の一、二ページは台本通りに。三ページ目からは正直自信がないので、アドリブで回します」
「オーケイ」
「この台本、ダンスと歌の指示書きがあるんですけど、歌は私に任せてください。ダンスは、リオさん、お得意ですよね?」
「俺からのリードは禁止されてる」
「では、私主導で」希佐は口を動かしながら、頭の中で舞台を構築しはじめていた。「それと、最後のシーンなんですけど──」
「いいよ、君の好きにして。ここまで十四人の美女たちと合わせて来たんだ、どんなことにだって応えられる。へとへとだけど、最後の力を振り絞って頑張るさ」
七時間近くも舞台立ち続けさせられているのなら、確かに、ちょっとやそっとのバイト代では割に合わないことだろう。階段の手すりを使ってストレッチをしたくもなるはずだ。希佐は一つくらい労いの言葉をかけてあげようとしたが、その前に、審査員席の方からけたたましいアラーム音が聞こえてきた。
希佐は吸った息を吐き出す。そして、リオと名乗った男性を見上げた。
「よろしくお願いします」
「任せて」
舞台の流れを止めず、最後まで演じ切る。
絶対に、絶対に。
失敗するかもしれないなどということは考えもしない。もう成功させるしか道はないのだ。負けられない。他の誰よりも、自分自身に、負けてはいられない。自分のために、もっともっと、がむしゃらになる。審査員を蹂躙するくらいの自分勝手さで、演じてみせるのだと、希佐は心に決めた。