時計塔の鐘が午後五時を告げている。日は徐々に西に傾きはじめているが、没するまでにはまだ一時間以上かかるだろう。少しずつ秋も深まり、夏を忘れた風は冬を迎えるために、冷たく乾いた空気を運んでくる。
この時間帯、時計塔の前は花売りの女にとって、絶好の稼ぎ場だった。帰路へと着く仕事帰りの者から、夜の街へと繰り出そうとしている者、誰かと待ち合わせをしている者まで、花を売りつける相手には事欠くことがない。
「お花、お花はいりませんか?」
小ぶりではあるが形の良い色とりどりのバラの蕾は、透明なフィルムで一本ずつラッピングされている。それをかごの中にたっぷりと貯えて、女はまるで踊るように、花を売り歩いていた。
「素敵な奥様への贈り物にいかがですか? 可愛らしい恋人へのプレゼントにも喜ばれますよ」
穢れを知らない少女のような純粋さを感じさせる女は、いたいけな笑みを湛え、よく通る透き通った声で歌うように言う。
「紳士の胸に一輪のバラ、淑女の髪飾りに一輪のバラはいかがですか? 明日の朝には花開き、色濃く香る一輪のバラ。お代はたったの一ポンド」
しかし、足を止める者は、滅多にいない。女は行き交う人々の背中を次々に追いかけ、言葉巧みにバラの花を売りつける。多少強引なくらいでなければ、この鈍色の街では生きていけないのだ。
その女から僅かに離れた場所には、一人の男が立っていた。見るからに育ちの良さそうなその男は、時折思い出したように腕時計を見ては、辺りに視線を走らせている。待ち合わせをしているのだろうということは、誰の目から見ても明らかだった。
花を売る手を休め、少し離れた場所から男の様子を興味深そうに眺めていた女は、次の瞬間、男の下に小走りで駆け寄っていった。
「お花、いかがですか?」ぴょん、と跳ねるように目の前に現れた女を見て、男は僅かに身を退け反らせる。「一輪で一ポンド。五輪買っていただけるなら、三ポンドにおまけします」
「……いや」
「綺麗にラッピングもして差し上げますよ。恋人の目の色に合わせたリボンもご用意できます。グリーン? ブルー? それとも、アンバーかしら」
「花は結構」
「まあ! 恋人にお花を贈ることもしないなんて。きっと、そんな人だから約束をすっぽかされるのね」
女はすぐに察した。この男には花を買うなどという心意気はないのだ。見るからに我が強そうで、気難し屋という雰囲気を漂わせている。一本筋が通っていないことは受け入れられないというふうな態度だ。
案の定、男は女の言葉に苛立ちを覚えた様子で、その美しい顔を不快そうに歪めた。
「もう一時間以上もそうして立っているの、知っているんですよ。私も同じ頃にここへ来て、お花を売っていましたから」男の前を行ったり来たりとしながら、女は言葉を続ける。「毎日ここでお花を売っていると、あなたみたいな人を大勢見かけるんですよね」
「何が言いたい?」
「もう来ないんじゃないかなぁ、その人」
女は失礼な言葉を平然と吐き出す。すると、男は益々顔を顰め、眉間に深いしわを寄せた。
その様子を見て、悪びれるどころかくすくすと笑い声を漏らした女は、かごから取り出した白バラの茎を手折ると、男のジャケットの胸ポケットに差し入れてやった。
「そんなふうに怖い顔ばかりしていても良いことないですよ。せっかく綺麗なお顔をされているんですから、もっとにっこり笑って、愛想良くすればいいのに。仏頂面は嫌われるわ」
「余計なお世話だ」
「ええ、そうですね」
失礼しました、と言って、女は恭しくお辞儀をして見せる。そして、軽やかな足取りで、花売りの仕事に戻っていった。
一人取り残された男は、胸のポケットに入れられた白バラを抜き取り、一度はそれを投げ捨てようとする。しかし、その白バラに罪はない。男は大きく息を吐き出しながら頭を振ると、再び機嫌よく花を売りはじめた女の背中を一瞥し、反対方向へと歩き出した。女が言うように、もう待ち人は現れないことなど、男にも分かっていた。
日は翳り、時計塔の前に人通りはない。女は段差に腰を下ろして、今日の売り上げを数えていた。成果はそこそこだ。夜の仕事へ向かう前に、パブで一杯楽しめる程度の余裕はある。だが、今日はなんだか腰が重かった。それでも、稼ぎを得るためには、戦場へと赴かなければならない。いくらかでも金を納めなければ、今週末にも部屋を追い出され、路頭に迷うことになるだろう。
こんなはずではなかったのに、という思いが、常に心の片隅にある。これは自分の人生ではないと、心はいつだって叫んでいる。生まれた瞬間から、間違った道を選び、歩んできてしまった。もはや身も心も穢れ果てている。そんな自分が嫌でたまらないのに、そうすることでしか、生きていくこともままならない。
誰か、助けて──そんなことを声高に叫んでみたところで、誰も助けてはくれないのだ。
十分だ。他の参加者たちと同様に、たった十分しか時間を与えていない。それなのに、この女の演技はあまりにも完成されていて、スペンサー・ロローは我が目と耳を疑っていた。ただ言葉もなく、舞台に立つ女の姿に、釘付けになっている。
冒頭、花を売り歩く女の姿は、想像を遥かに超える少女のような清らかさがあった。踊るような足取りで、無邪気に舞台上を駆け回るその姿には、スペンサーが頭の中に思い描いていた女の姿形を上書きしてしまうほどの、圧倒的な説得力がある。
普段の、実年齢よりも落ち着いた印象のある本人の雰囲気とは明らかに違う、明るくはつらつとした様子に、演技然としたものは感じられなかった。そこにいるのは一人の生きた少女だった。
だからこそ、その後の落差には、ぞっとするような恐ろしさを覚えたのだろう。
男が立ち去った後も花を売り続ける女。しかし、日が翳り、周囲に人の姿がなくなると、その顔に被っていた少女の仮面を外す。その瞬間、寸前までキラキラと輝いていた目にも、翳りが差した。顔つきががらりと変わり、雰囲気が一変する。
時計塔──実際には、舞台の段差に腰を下ろし、目には見えない、しかし確かにそこにあると分かるコインを数えているその表情には、喜びよりも虚しさが滲んでいた。
そして、聞こえてくる。
先日聞いたアメイジング・グレイスが歓喜の歌ならば、今聞かされているのは、諦観の歌だ。同じ者が歌っているとは到底思えない、どこか神に対する冒涜的な感情さえ見え隠れしている、鼻歌まじりのアメイジング・グレイス。
きっと、女は無意識にその歌を口ずさんでいるに違いない。歌詞の意味を理解しようともせず、ただ耳について離れないそのメロディーを、口先だけで奏でている。途中、それを歌う自分を小馬鹿にするように、ふっ、と鼻で笑う様は、驚くほどに生きていた。
スペンサーは椅子の背もたれに体を預けて、左端の席に座っているアラン・ジンデルの様子を盗み見た。ほとんど窓の外を眺めることに時間を費やしていたアランだったが、演じているのが希佐だからだろうか、その表情は前髪の下に隠れて見えないものの、舞台をじっと睨んでいる。
『俺の名前を使ってまで彼女を脅して舞台に立たせようとしたこと、後になって後悔しても知らないから』
アランはあの電話口でそう言ったきり、スペンサーの前では希佐のことを一言も話さなくなった。加斎中から聞いた話によると、今は別々に暮らしているらしい。こちらからそのように指示をしたことはないが、脚本家とオーディションを受ける役者が一つ屋根の下に暮らしていては、あらぬ疑いをかけられるかもしれないと考えてのことなのだろう。確かに、この二人は親密すぎるほどに親密だと、スペンサーは思っていた。
執拗に触れ合っているわけではない。むしろ、見たところ互いに距離を置き、必要以上に慣れ合うこともしていないように感じられた。だが、異常なまでに互いの感情の機微に敏感で、理解し合いすぎているように思えて、その距離感があまりに近い。まるで、互いが互いの心に踏み込みすぎて、泥沼に足を取られているかのように、身動きが取れなくなっている。希佐はアランに、アランは希佐に、魅了されているのだ。
アラン・ジンデルはその場所から逃げ出そうとした。見てみたいという感情に蓋をして、希佐を遠ざけようとしたのだろう。だからこそ、今回のオーディションを受けることに猛反対していたのだ。せっかく閉じた蓋が、また開いてしまうことを恐れて。
まあ、もっと別の、込み入った事情もあるのだろうが──スペンサーはそう思いながら、今度は右端の席に座っている女性に目を向けた。
その女は今回の舞台のパトロンであり、プロデューサーであり、アラン・ジンデルの脚本に着想を与えた人物だ。これまで十四人の参加者たちを見てきたが、食いついた様子を見せたのは三回だけだった。1番のシルヴィア、7番のアイリーン、そして、15番の希佐。とりわけ希佐の演技は、寸前までの眠気を忘れさせるほど衝撃的だったらしく、クリスマスプレゼントを受け取った子供のように、目を爛々とさせながら見入っていた。
そのとき、女の歌声が消えた。舞台上に男が戻ってきたのだ。
さあ、劇場は暖まった。ここからが、本番だと、スペンサーはよそに向けていた視線を舞台に戻す。
もっと、もっと観客を蹂躙するような、身勝手な演技を見たい。見る者の視線を釘付けにし、呼吸さえ奪い尽くす、そういう演技を求めているのだ。
街灯の下、その明かりを頼りにコインを数えていると、伏せた視界に男物の靴が映り込み、かごの中に一ポンド硬貨が投げ入れられた。
女はゆっくりと顔を上げ、そこに立っている人物を目の当たりにすると、丸い目をゆっくりと細めていく。
「花売りはお嫌いなのでは?」
「……代金を支払っていなかった」
「随分と律儀な方なのね」
女はそう言うと、かごの中からたった今放り込まれた硬貨を一枚手に取り、親指と人差し指でつまむように持った。それを頭上に掲げ、夜空にぽっかりと浮かぶ満月にぴたりと合わせると、首を傾けて吐息を漏らす。しかし、それからすぐに、手にした硬貨を男の方へと差し出した。
「そのバラはあなたに差し上げたのよ。あなたの胸元で美しく咲きたがっていたから」
だから、お代は結構です──女がそう言っても、男はそれを受け取ろうとしなかった。間もなくすると、女は手の平に乗せた硬貨を握り締め、腕を下ろした。
「何のために戻ってこられたの? まさか、本当に花の代金を支払うため、なんてことはないでしょう?」女はかごを手に取り、その場に立ち上がった。「待ち合わせをしていた方を探しにいらしたの?」
「彼女はもう現れない」
「それが分かっているのに戻ってくるなんて、おかしな人」それとも、と言いながら、女は三日月のように細めた目で男を見上げた。「私に会いに来てくださったの?」
昼間とは一変した女の様相に、男は困惑しているようだった。日の光の下では純情な少女に思えた女が、月明かりでバラの蕾を花開かせたのだ。むせ返るような甘ったるい香りを漂わせながら、男の何もかもを知り尽くしているというふうな表情で、じっと見つめてくる。
「君は、一体……」
「私はただの花売りよ、ミスター」
「なぜ花売りなんかしているんだ?」
「なぜ?」女はその問いかけに目を丸くしてから、己を蔑むように笑った。「他の生き方を知らないからじゃないかしら」
「生き方なら他にいくらでもある」
「例えば、どんな?」
「もっと真っ当な仕事に就けばいい」
「花売りは真っ当な仕事ではないの?」
「バラを一輪売ってたった一ポンドしか稼げない仕事が、真っ当だとでも思っているのか?」
花屋が廃棄するような小さなバラの蕾を譲り受け、棘を切り落として、ラッピングをし、リボンをかける。晴れの日はもちろん、雨が降ろうが、風が吹こうが、街角に立って花を売る。そんな仕事が、真っ当であるはずがない。そんなことは、男に言われずとも分かっている。
「あなた、本当に変わった人ね」女は唖然として男を見上げていたが、耐えられないというように、くすくすと笑い声を漏らした。「そんなお説教をするためにわざわざ戻ってきたの?」
女はくるくるとその表情を変える。女が笑い出した瞬間、そこには無邪気な少女でも、妖艶な女でもなく、その女自身が姿を現すのが分かった。それを目の当たりにした男は、小さく息を飲む。
「そうね、もし花売りを辞められるのなら、私の夢は──歌手かしら」
女はそう言うと、その場で一節歌ってみせた。それは、聞いてて心地の良い、透き通るような歌声だった。いつまでも、いつまでも、聞いていたくなるような。
その歌声のおかげか、男の仏頂面はいくらかマシになり、眉間のしわがすうっと消えていく。
「ダンサーにだってなれるかも」
「ダンサーだって?」
「ほら、あなたも一緒に踊って」
「あっ、お、おい──」
かごを足元に置いた女は、男の手を取って踊り出そうとした。しかし、そのでたらめなステップに憤った男は、女に足を止めさせると、呆れたように大きなため息を吐く。そして、自ら女の手を取り直し、反対の手を腰に回すと、少しだけ強引に体を引き寄せた。
「ダンスはこうやって踊るんだ」
耳元で低く囁かれると同時に、体が左右に揺れる。男の足は三拍子のリズムで運ばれていくが、女はそれについていくことができない。下を向き、おぼつかない足取りで、それでも必死にダンスを踊ろうとしていると、今度は男が吐息を漏らすように笑った。
「君にダンサーは無理そうだな」
「少し練習をすればすぐにだって踊れるようになるわ」女はむきになったような顔をして、男の目をまっすぐに見上げた。「さあ、あなたが私に教えるのよ」
その様子を見た男は諦めた顔をすると、ホールドしていた腕を解いた。女の隣に並んで立ち、極々簡単なステップを踏んで見せる。
女は見様見真似であっという間にステップを覚えてしまうと、酷く得意そうな顔をして男を見た。
「ダンスって意外と簡単なのね」
「そうだな」
笑いを堪えながらそう言った男は、女に向かって腕を開く。女は習った通りに、男のホールドの中に収まると、そのリードに任せて踊り出した。まだたどたどしくはあるものの、最初に比べれば、ずっとよく踊れている。自分にもそうと分かるのだろう、女は嬉しそうにその目を輝かせると、男の顔を見上げた。
「私、踊れてる──踊れているわ!」
「ああ」女を上手くリードしてやりながら、男は自然に微笑んだ。「上手だ」
その穏やかな微笑を目の当たりにした女は、男の顔に釘付けになると、思わず足を止めてしまっていた。そして、一体自分は何をしているのだろうと、我に返る。女は時計塔を見上げ、時刻を確認した。いつもの時間はとうに過ぎてしまっている。早く行かなければ、またお小言をもらうことになるだろう。
女は男の胸を押して後ずさると、地面に置いたかごを拾い上げ、慌てたように口を開いた。
「私、もう行かないと」
「どこへ?」
「仕事よ」
「君の仕事は花売りだろう?」
「まさか」女は力なく笑いながら、男から視線を逸らす。「花を売っているだけでは、生きてはいけないもの」
「……それは、真っ当な仕事なのか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「もしかして、君は──」
「言わないで」お願い、と懇願するように女は言う。「私はただ仕事に行く。それだけよ」
歌手やダンサーなどはただの夢物語。自分には到底叶えられるはずのない夢だ。いつの頃からか、もう夢は見ないと心に決めていたはずなのに。
女は己の考えを否定するようにはじめは小さく、無意味な願いを振り払うために徐々に大きく頭を振ると、そのまま男に背中を向けた。そして、何も言わずに歩き出す。
もうここで引き返しておいた方がいいと、女は思った。道で偶然すれ違い、ほんの少しの言葉を交わし合っただけの相手だ。別の男と一夜を共にすれば、すぐにでも忘れられるだろう。だから、もうこれ以上は、この場に留まっていてはいけない。
「待って」追いかけてくる気配を感じても足を止めずにいると、次の瞬間、強く腕を引かれた。「待ってくれ」
女は男に背を向けたまま、体を硬らせ、硬く目を閉じている。
こんなにも穢れている自分を見られたくないと、女は思ってしまった。自分に触れた男の手が、少しずつ穢れに侵されて、腐り落ちていく幻覚が脳裏を過ぎる。
決して恋をするなと言われていた。どんな男に抱かれようと、それは一夜限りの夢なのだと。次の日になれば、男はお前の顔も覚えてはいない。だから、絶対に恋をするな。恋をすれば、お前はもう、ここにはいられなくなると、あまりのしつこさに苛立ちを覚えるほど。
女はようやく、その言葉の本当の意味を理解した。
今、この瞬間までは、自らの行いを甘んじて受け入れてきた。そうすることでしか生きていけない状況にあったからだ。
両親には先立たれた。その後は親戚の家を転々としていたが、最後の家で酷い仕打ちを受け、耐えきれずに逃げ出した。
この街で女を拾った人物は初めこそ優しかったが、いつからか毎夜違う男を自宅に連れ帰るようになり、いくらかの金を受け取ると、女の体を抱かせた。そんな悪夢のような日々が、ほとんど毎夜続いている。
昼間花を売っているのは、自分のために使える金を貯めるためだった。だが、そんな微々たる収入を得たところで、自由になるにはまだまだ足りない。一ポンド硬貨がどれだけ重みを増そうと、たかが知れている。
「……いくらだ?」
「え……?」
「僕が君を買う」男は真剣な面持ちで言う。「一晩いくらだ」
「どうして、そんな……」
「身売りをしているんだろう?」
「……」
「金は払う」男はそう言うと、女を乱暴に振り向かせ、その両肩を掴んだ。「だから、今夜は僕と一緒にいてくれ。朝までずっとだ。もっと話をしよう。朝日が臨むまで踊り明かすのもいい。明日も、明後日も、僕が君を買うから──」
揺れる女の目に映るのは、男の真摯な眼差しだった。困惑を隠しきれず、瞬くことすら忘れて大きく目を見開く女を、男は出し抜けに抱き寄せる。
「──どうか、僕と一緒に」
その瞬間、女は男に死んだ父親の温もりに似たものを感じた。優しく、穏やかで、あたたかい。心を真綿で包み込まれ、やわらかく覆われて、守られているような錯覚を覚えた。
女はそっと目を閉じる。男の温もりに抱かれながら、不意に、泣きたくなった。
時計塔の前に立つ姿を一目見たそのときから、心惹かれていた。美しく、凛々しい、その立ち姿に目を奪われていた。だから、歩み寄ったのだ。その記憶の中にだけでも、自分を留めていてほしかった。
それが、こんなことになるなんて、思いもしていなかった。運命だと言うには、あまりにできすぎている。何か裏があるのではないかと、疑ってしまうくらいに。だが、その温もりはあまりに甘美で、女の警戒心をどろどろに溶かし、男を受け入れさせた。
女の両腕が背中に向かってするりと滑ると、男は首筋に埋めていた顔をゆっくりともたげた。そして、おそるおそるというふうに女の顔を覗き込んでくる。
「待ち合わせをしていた人がいたのでしょう?」
「ああ」男は僅かに目を伏せ、小さく息を吐いた。「彼女はもう現れない」
「なぜ?」
「死んだから」
「え?」
「一年前の今日、彼女は天に召された」
途端、悲しげな表情を浮かべた男を見上げ、女は思う。この男は自らに対する同情心と同時に、心にぽっかりと空いた穴を埋めることのできる相手として、自分を見出したのだろうと。自分に癒しを求め、縋っている。人の温もりが恋しくて、橋の上で言葉を交わした花売り娘のことを思い出し、戻ってきたのだ。
「私、安い女じゃないのよ」
「ああ、そうだろうな」
女は男の頬に手の平を滑らせ、親指の腹でまなじりを撫で上げた。男はその手を取ると、頬を擦り寄せるような仕草を見せた後、手の平にそっと口付ける。
「君は綺麗だ」
真っ直ぐな男の言葉に、女はこれまでにない胸の高鳴りを覚えていた。酷く愛おしそうに自分の髪を梳く男の顔を見つめていると、言い表しようのない思いが込み上げてくるのを感じる。
女は背伸びをするように爪先で立つと、男の頬に自らの唇を押し当てた。キスと呼ぶには、それはあまりに不慣れで、ぎこちない。男が目を丸くして見やると、ぎゅっと閉じていた目を開いた女は、頬についた自らの唇の跡を見つけ、はっとしたような顔をした。
「ごめんなさい、口紅が──」
しかし、女の言葉がそれ以上続くことはなかった。口紅の跡を拭おうと頬に触れようとした女の手を取り上げると、首筋を手の平で支えながら、男が深い口付けをしたからだ。後ろに倒れそうになる体を、男の背中に腕を回してしがみつき、与えられるすべてを受け入れる。
唇が離れ、額と額を合わせると、どちらともなく微笑み合った。男は胸に飾られたままの白バラの蕾を手に取ると、それを女の耳の上に差し入れ、髪に飾る。そして、二人はしっかりと手を握り合った。
「行こう」
「ええ」
男は女の手を引いて走り出す。
この夜が永遠に明けず、明日の朝など来なければいいのにと、そう願いながら。
舞台袖に駆け込み、大きく息を吐き出した途端、どっとした疲れが希佐の体に重くのしかかってきた。すぐさま繋いでいた手を放し、少し離れた場所に立った二人は、互いに顔を見合わせる。
「お疲れさまでした」
「ああ」リオはどこかほっとしたような面持ちを浮かべ、小さく頷いた。「お疲れ」
「何とかやり切りましたね」
「だな」
本当なら今すぐにでもその場に座り込んで、今の舞台の反省点や改善点、良かったところなどを語り合いたいところだが、残念なことにそのような時間はない。希佐は審査員席から自分を呼ぶ声が聞こえてくると、深呼吸をして気持ちを切り替えてから、その場で踵を返す。リオはその背中に向かって「Keep it up」と言い、ひらひらと手を振って送り出してくれた。
「いくつか質問をさせてくれるかな」
希佐が舞台の真ん中に戻ってくると、スペンサー・ロローが開口一番にそう言った。まだ自分の中に女が残っているのを感じ、妙な感覚を引きずりながらも、希佐は大きく頷いた。
「私はラストシーンに違和感を覚えたんだ。女から男にキスをするとき、どうしてあんな演じ方をしたのか、教えてほしい」
「あんな演じ方、ですか……?」
「冒頭からずっと良い流れで演じてきたのに、終盤で躓いた感じがした。何か意図があるのなら、それを聞いておきたいんだよ」
スペンサーは真っ直ぐにこちらを見つめている。答えによっては、この一次審査の評価が大きく変わってくるのかもしれない。希佐はまだ自分の中にいる女の意識を引きずり戻し、質問の答えを手繰り寄せた。
「彼女は自分から誰かにキスをした経験がないと思ったので」
「……何だって?」
「誰かに求められることはあっても、自分から求めたことはないのではないかと、そう思いました。だから、どうやってキスをすればいいのか分からずに、例えば小さな子供がするような、少しぎこちないキスをするのではないかと。あんなふうに押し付ければ、口紅が移ってしまうことも知らずに」
「……では、歌唱にはなぜアメイジング・グレイスを?」
「讃美歌はこの曲しか知らなくて」
「指示書きには讃美歌を歌えとは書いていない。君は他のどんな曲だって歌えたはずだ」
「彼女が現状を憂いているとして、常に救いを求めているのだとしたら、無意識下で歌われる鼻歌の中に深層心理が反映されてもおかしくないのでは?」
「彼女は神に救いを求めていると?」
「神とは限らないと思います。むしろ、救いの手を差し伸べてくださらない神には懐疑的で、それでも救いを求めずにはいられないからこそ、半ば軽んじるような歌い方をするのではないかと思って、あのように表現しました」
せめて三十分──いや、十五分あれば、もう少し自分の中の理解を深め、上手く演じることができただろうと希佐は思う。見る者に推察する余地を与えることは構わないが、違和感を与えてしまった時点で、演者の敗北だ。
自分の体の思うままに動き、それに従って演じ切った。だが、頭で考えるのではなく、感覚で演じようとしたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。しかし、今の自分にはこれが限界だ。もっと、もっと良いものを、見せたかったのに。
それ以外にもいくつかの質問があった。手元の紙を読み上げている様子だったので、他の審査員たちの質問も代わって読み上げているのかもしれない。希佐がすべての質問に応え終えると、スペンサーは他の審査員らと顔を見合わせてから、今日はもう帰って良いと告げた。一次審査の結果は、一両日中には出るとのことだった。
ありがとうございましたと一礼し、舞台を降りた希佐は、ふらりと傾きかけた体を何とか踏みとどまらせる。頭がぼうっとしているのは空腹のせいだろうか。それとも、頭を酷使し過ぎてしまったせいで、知恵熱でも出したのか。
「あなた、大丈夫?」
不意に声をかけられてそちらに目を向けると、右端の席に座っていた黒いヴェールの女性がこちらを見ている。穏やかで、上品さを感じさせる話し方だ。希佐はそのようなことをぼんやりと考えながら、大丈夫です、と言って歩き出した。
転がり落ちないように手摺に掴まりながら階段を降りた希佐は、ステージ横の席まで戻ってくると、身を投げ出すようにして座り込んだ。アイリーンが酷く疲労した様子で戻ってきたときは、一体何をさせられたのだと思っていたが、今ならばその理由がよく分かる。
時計に目をやると、時刻はとうに九時半を回っていた。オーディション参加者は、自分以外誰一人残っていない。
「一時間以上……」
朝から晩まで待たされた挙句、一時間以上も舞台に立ち、二人舞台を演じ切った。だが、自分よりもあのリオという人の方がずっと、疲れ果てているに違いない。希佐が宙を見つめながらそう思っていると、その張本人が階段を降りてくる姿が見えた。
「おっ、いたいた」希佐と同様にヘトヘトな様子を隠そうともせず、リオは目の前までやって来る。「これ、使ってよ」
「……マウスウォッシュ?」
「最後、結構がっつりいったから、気持ち悪かったんじゃないかと思って」
「ああ、そういうことですか」希佐は差し出された小さなマウスウォッシュのケースを受け取った。「私なら気にしていないので、大丈夫ですよ。でも、ありがとうございます」
「そう言ってもらえると助かる」
「これ、全員分用意したんですか?」
「え? ああ、いや、それ一つだけ」リオは希佐の向かい側にどっかりと座り込むと、ずるずると背もたれにもたれかかり、天井を見上げた。「最後のキスシーンまで演じ切ったの、君だけだから」
「え、そうだったんですか?」
「惜しいのが何人かいたけど、他の子たちは途中で台詞を飛ばしたり、歌やらダンスやらでとちったり……ああ、最初の一言が出てこなくて、そのまま追い出された子もいたっけ。2番の子かな。あれはさすがにかわいそうだった」
また次の審査で会いたいなどと言ってしまったが、そういうことなら、次の機会には進めないのかもしれない。無責任なことを言ってしまったと希佐が心の中で悔いていると、リオは顔をこちらに向ける。
「君は凄いよ。ここで散々待たされていたのに、集中力を切らさず、あの緊張感の中で最後まで演じ切ったんだから」
「最後の参加者だったから、お情けで終わりまで演じさせてくれたのかもしれませんよ」
「ここがそんな生やさしい世界じゃないってことくらい、君もよく知ってるだろ」
「この世界のことを知らなすぎるとはよく言われます」
「ああ、だろうな」
そう鼻で笑いながら言ったリオの言葉にちょっとした違和感を覚えた希佐だったが、その違和感の意味を探るより先に、カウンターの向こうの扉からメレディスが姿を現した。その手にはトレイが乗せられ、待望のサンドイッチと飲み物が並んでいる。
「お客様、お約束のサンドイッチと、サービスのジンジャーエールです」
「うわあ、ありがとう、メレディス」希佐はテーブルの上を占拠していたメイク道具を端に押しやると、それらを置けるスペースを確保した。「もうお腹が空いているのかどうかも分からなくなってて」
「リオも食べるだろう?」
「え、俺もいいの?」
「君も朝から晩まで頑張っていたからね、そのご褒美だよ」
「ああ、もう、そうやって労ってくれるのはメレディスだけだよ、ホント」
希佐は自分のバッグの中から取り出した携帯用のウェットティッシュをリオに向かって差し出した。リオは一枚だけ抜き取ると、ありがとう、と言って手を拭き、サンドイッチに食らいつく。メレディスは、急がなくていいからね、と言い残し、店の奥へと下がっていった。
「リオさんは──」
「リオでいい」
「……リオは、もうキャストとして出演することが決まっているんですか?」
「いや、ああ、どうなんだろうな」リオは確信を持てないという顔をして、希佐を見た。「俺としては声がかかれば嬉しいけど、今回は本当にただの手伝いなんだ。スペンサーはバランスが見たいって言ってたよ」
「バランス?」
「男と女のバランス。並んだ感じの雰囲気とか、そういうの。まあ、俺は一つ前の舞台で主役に起用されてるから、スペンサーは使いたがらないんじゃないかな。そうじゃなくても、今の舞台はロングランが決まってて、年明けからまた再演されるから、新しい舞台には手が回らないだろうし」
加斎も現在の公演は一度終了するが、来年の年明けからは上演するホールを変え、装いも新たに再演が行われると嬉しそうに話していた。次の公演が終了するまではロンドンでの生活が続くという。年末は休みになるので、一度日本に帰るとも言っていた。
「っと、あんまり話すとどやされるな。今聞いたことはオフレコで」
「はい」
「いやあ、しかし、疲れたな」
そうですね、と応じながら、希佐もサンドイッチに手を伸ばす。一口頬張ると、特製のマスタードソースがピリッと辛く、つんとした軽い刺激が鼻を抜けた。パンの間にはキュウリやレタス、トマト、茹で卵に少し塩味の濃い生ハムが挟まれていた。
「俺、一回だけカオスの公演を見に行ったことがあるんだ」
「本当ですか?」
「たまたま仕事でロンドンに来ててさ。そこでチケットを譲り受けて、見に行ったんだよ。神のみぞ知る、だっけ」
「ああ、あの舞台」あれから何度もカオスの舞台に立たせてもらっているが、希佐にとってカオスの初舞台となった『God only knows』が、最も高く評価されている。「どうでしたか?」
「すごくよかったよ。今でもちゃんと覚えてる。でも、実際は悔しくてたまらなくなった」
「悔しい?」
「たった二ヶ月であそこまでタップダンスを踊れるようになったんだろ?」
「はい、一応は」
「相当な努力をしたんだろうな」リオは当時のことを思い出しているのか、どこか遠くを見るような目をした。「君がラストで踊ったタップダンス、あれは痺れたね。特に無音になったところ。アイリッシュっぽいステップも入っててさ、俺、アメリカ帰ってから同じステップの練習したんだ。それでタップダンスの面白さに気づいて、今回の舞台に繋がったってわけ」
「そうだったんですね」
「こんなこと言うと変に気を使わせると思って黙ってたけど、俺さ、あの舞台を見て以来君のファンなの」
「……えっ?」
「今回、スペンサーの頼みを聞いたのだって、君がこのオーディションを受けるからっていうのもあるしな」リオは目を丸くする希佐を見て、悪戯っぽく笑った。「君がいなかったら今の舞台で主役の座だって射止めてなかっただろうし」
「でも、そんな様子は少しも……」
「俺たちの舞台を見に来てくれたときは気づかなかったんだよ。あまりに雰囲気が違ってて。あのときの舞台では男役だったろ?」
「はい」
「まさか、こんな美人が演じてたとは思わなくて」
リオはそう言うと、受け付けの席についていたときと同じように、希佐の顔をまじまじと眺めた。サンドイッチを咀嚼していた希佐は、いささかの居心地の悪さを覚えながら、口の中のものをごくりと飲み込んだ。
「もうタップダンスはやってないの?」
「やってます。今でもバージルに稽古をつけてもらっていて」
「あー、いいな。近くに最高の手本がいる環境って理想だよ。あの人のタップダンスって、緻密なんだけど情熱的でさ、生きてるって感じがするんだよな」
「あ、分かります、それ」バージルが誉められていると思うと自分のことのように嬉しくなって、希佐は満面の笑みを浮かべた。「バージルのダンスには心臓の鼓動を感じるというか。こう、独特なリズムが心地良くて、気持ちがいいんですよね」
「そうそう」
「そういえば、オーディションの準備の息抜きに、あなた方が公演で踊ってるダンスの振りを教えてもらいました。群舞のパートなんですけど」
「踊れるようになった?」
「はい。それで、バージルらしい振り付けだなって思ったんです。タップを踏んでいる自分たちも、見ている人たちも心地良くしてしまうような振り付けができるのは、もう才能だなって」
「俺もまだしばらくはロンドンにいるし、今度どこかのスタジオ借りて、一緒に合わせてみる? あ、ほら、アタルも呼んで」
「ご一緒していいんですか?」
「いいもなにも、俺が君にお願いしてるんだけど」リオはそう言い、思い出したようにポケットからスマートフォンを取り出した。「よかったら、連絡先交換しない?」
「はい、もちろん」
二人が意気投合するのは時間の問題だった。タップダンスにはじまり、社交ダンスの話題を経由して、最後にはつい先ほどのオーディションで行われた二人舞台の反省会にたどり着いた。互いの良かった点、悪かった点を指摘し合いながら、改善点を話し合っていると、ぞろぞろと階段を降りてくる足音が聞こえてくる。
「何だ、君たちまだ残っていたのかい?」
階段の手摺から身を乗り出して階下を見下ろしたスペンサーが、どこか呆れたような声を出した。リオはサンドイッチの最後の一切れを口に放り込むと、希佐に向かって大きく肩をすくめてみせる。相手にするなと言われているような気がしたが、希佐は苦笑いを押し隠しながら、階段を降りてくる審査員たちに目を向けた。
一番後ろをやって来たアランは、鬱蒼とした頭を掻きながら、大きな欠伸を漏らしている。相当退屈でたまらなかったようだ。
「誰かタクシーを呼んでくださらない?」
よく通る玲瓏とした声が聞こえ、反射的に視線が惹き寄せられる。あの黒いヴェールをかけた女性だった。凛とした佇まいのその人は、希佐が自分を見ていることに気づくと、にこりと微笑みかけてくる。細いヒールをカツカツと鳴らし、こちらにやって来るようだ。希佐は思わず姿勢を正すと、手の甲で口元を拭った。
「合格おめでとう、日本のお嬢さん」
「……え?」
「合否の発表は明日だと言ったはずですよ、マダム」
にこにことしている女性とは裏腹に、後ろでそれを聞いていたスペンサーは、ため息を吐きながら頭を抱えてしまっている。唖然としている希佐を尻目に、女性は再び口を開いた。
「あら、いいじゃないの、別に。今日も明日も大して変わらないわ。それに、今結果を知れた方が、あなただって嬉しいでしょう? その方がぐっすり眠れるでしょうし」
ねえ、と同意を求められるが、希佐はどのように答えればいいのか分からない。ただ、バラのように甘い香水の匂いに思考を支配されていくような、そんな感覚に見舞われている。
「二次審査も頑張ってね、応援しているわ」
「は、はい、ありがとうございます」
「あなたもお疲れさま、リオ」
「あっ、はい、お疲れさまでした」
まさか自分にも言葉をかけてもらえるとは思ってもいなかったという顔で、リオは慌てたように応えている。女性は、またね、と言って二人に手を振ると、テーブルを離れていった。だが、それでも希佐はその人から目を逸らすことができず、視線だけでその背中を追いかける。
「彼女は、クロエ・ルー」入れ違いにやってきたスペンサーが言った。「今回の舞台のプロデューサーで、パトロンでもある。要は支援者だね。フランスの有名な女優だよ」
「フランスの……」
「クロエは私の母の親友でね。ひょんなことから一緒に仕事をすることになったんだが、なんともまぁ自分勝手な人で──」
「聞こえているわよ、スペンス」
「おっと、これは失礼」
肩越しに振り返った女性──クロエ・ルーは、スペンサーに向かって魅力的に微笑んで見せると、そのままカウンターの方へと歩いていく。そこには、アランとメレディスの姿があった。二人で何かを話しているようだ。
「彼女がそんなに気になるのかい?」
「えっ? あ、はい、とてもお綺麗な方なので、つい……」
「確かに、彼女には観衆の目を奪い尽くさんとする魅力があるが、今は是非とも私の話を聞いてほしいね」
「すみません」希佐はクロエの背中から無理やりに視線を引き剥がすと、テーブルの傍に立つスペンサーを見上げた。「お座りになりますか?」
希佐がそう言って椅子をすすめると、スペンサーは首を横に振った。二人の間に漂う雰囲気は、なんとなく健全とは言い難い。互いに思うところはあるが、あえて口を噤んでいるというふうな、微妙な空気感があった。
「まずは、お疲れさま。クロエが言っていた通り、君は合格だよ。来週行われる二次審査に進める」
「ありがとうございます」
「あまり嬉しそうには見えないね」
「リオとも話していたのですが、完全に納得のできる演技には仕上げられなかったので」
「たった十分で煮詰めたにしては上手く料理できていたと思うよ」
「……ありがとう、ございます」
演出家が良かったと言っているのだ、本来であれば、その言葉を素直に喜ぶべきなのだろう。だが、希佐の心には、何か不自然なしこりのようなものができていて、それが言い知れぬ違和感となり、スペンサーの言葉をそのまま受け入れることができない。
「より良いものを求めるのはいいことだ。でも、今は過去を引きずるよりも、未来に目を向けた方がいい。頭を切り替えて、二次審査に備えるんだ」
「分かりました」
「では、また改めて連絡をするよ。明日には二次審査の内容も伝えるから、そのつもりで」
「はい」
お疲れさまでした、と言う希佐の言葉を背中に受けて、スペンサーはカウンターの方へと歩いていく。そこには審査員たちが並んで座り、メレディスが振る舞っている酒を飲み交わしながら、絶えず談笑している姿があった。
「すごいな」
「……なにがですか?」
「演出家に対して不満丸出しの顔してる」リオはそう言いながら面白そうに笑った。「あんな演技で満足するなんてどうかしてるって顔だな」
「不満があるわけではありません」
「自分の演技に? それとも、演出家に?」
「両方です」
「まあ、何はともあれ、審査員には嫌われないようにしないとな。あの人にかぎってそんなことはないと思うけど、あまりヘイトを貯め込むと、どんなに良い役者でも平気で落とされるから」
「それは困ります」
「でも、選ばれてしまえばこっちのものだ」経験者は語るというふうに、リオはにやりと笑う。「踏ん張れよ、キサ。俺も応援してる──なんて、一応主催者側に付いてる俺が、こんな肩入れするようなこと言っちゃダメなんだろうけど」
間もなくすると、迎えに来たタクシーに乗って、女優のクロエ・ルーと審査員たちはヘスティアを去っていった。残っていたのはアランとスペンサーだけだったが、実際のところは、早く帰りたがっているアランを、スペンサーが引き止めていると言った方が正しいようだ。一杯くらい付き合ってくれよ、と言っている声が、希佐たちのいるテーブルにまで聞こえてくる。
時刻は午後十一時を過ぎていた。淡々と帰り支度をしている希佐を見て、リオが声をかけてくる。
「もうこんな時間だし、家まで送るよ」
「ありがとうございます。でも、近所なので大丈夫です」
「近所だろうがなんだろうが、夜道の一人歩きが危ないことには違いないだろ」
昼夜関係なく、暴漢に襲われるときは襲われる。身をもってそれを理解していた希佐は、リオの言葉に甘えて、大人しくバージルの家まで送ってもらうことにした。片付けの最後に、壁際に敷いていたヨガマットをくるくると丸め、バンドで止めると、それを抱えて立ち上がる。
何となく気は進まなかったが、挨拶をして帰らないことには、さすがに失礼が過ぎるだろう。そう思いながら希佐がカウンターに向かうと、案の定、スペンサーに捕まってしまったアランが酷く不機嫌な顔をして、スコッチウイスキーを舐めるように飲んでいた。
「まだしばらくここにいます?」リオがスペンサーにそう声をかけている。「俺、キサを家まで送ってくるんで、そのままホテルに帰りますけど」
「私はもう少しこの出不精な友人と飲んでから帰るよ。こんなことは滅多にないからね」
「ほどほどにしておいてくださいよ、明日はテレビ局の取材が入るんですから。浮腫んだ顔でインタビューを受けるなんて、恥ずかしいことこの上ないですからね」
「もちろん、分かっているとも」スペンサーはこちらを振り返ると、希佐もよく知っている人の良さそうな柔和な笑みを浮かべた。「次も期待しているよ、キサ」
「ご期待に添えるよう取り組みます」
「あれこれ考えるのは明日からにして、今夜はゆっくり休むといい」
「はい」
失礼します、と軽く会釈をした希佐は、一向にこちらを見ようともしないアランを一瞥してから、カウンターの中にいるメレディスに目を向けた。
「サンドイッチ、ごちそうさま」
「またいつでも遊びにおいで」
「うん」希佐は一息吐いてから、口角を持ち上げる。「じゃあ、また」
そう軽く挨拶をし、店の出入り口に向かって歩き出して間もなくすると、リオがこそこそと囁くように言った。
「俺、あの人が話すところ、今日は一度も見てないかも」
「あの人?」
「アラン・ジンデル」それを聞き、希佐は人知れず苦笑いを浮かべた。「いつもあんな感じなの?」
「口数は多い方ではないと思います」
「口数が少ない分、頭を働かせているのかもな。あの人、舞台見ながら結構熱心にメモを取ってたよ」
「アランがですか?」
「ああ」
他人の良し悪しを計って誰かの未来を変えてしまうほどの選択はしたくない──そう言っていたが、どうやら自分に与えられた役割はきっちりとこなしているらしい。それならば、こちらもより身を入れて頑張らなければと思う傍ら、自分のメモにはどんな言葉を書き記してくれたのだろうと、希佐は考えた。
案外、何も書いていないのかも知れない。その都度メモを取る必要もないほど、希佐はアランの前で、己をさらけ出してきたのだから。
「ようやくお出ましか」
リオと話をしながらヘスティアの外に出ていくと、歩道を挟んだ目の前の道路の路肩に、一台のバイクが停められていた。そのバイクに寄り掛かって立っていた人物を見て、希佐は目を丸くする。
「バージル、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねぇよ」駆け寄る希佐に、バージルは持っていたヘルメットを押し付けた。「どっかの誰かさんから電話がかかってきたと思ったら、もう夜も遅いからお前を迎えに来てやってくれってさ。あいつ、一方的に切りやがって、こっちは振り入れの最中だったってのに」
その、どこかの誰かに心当たりがある希佐は、思わず言葉を失っていた。店内を振り返りたくなる気持ちを抑えつけていると、なぜだか頬に熱が集まるのを感じて、それをごまかすためにマフラーに深く顔を埋める。
バージルはその様子を些か呆れたように見ていたが、希佐の後ろからやってきた人物に目を向けると、少しだけ驚いたような顔をした。
「なんだよ、リオじゃねぇか」
「どうしてバージルがここに?」
「ん? ああ、オーディションが終わったっていうから、迎えに来てやったんだよ。こいつ、今訳あって宿無しでな。俺の家に居候してるんだ」
「バージルの家に? なんで?」
「なんでって、そりゃお前、こいつに泣いて頼まれたから」
語弊がありそうな物言いだが、確かにその通りなのだから、訂正のしようもない。希佐はヘルメットを抱えたままリオを振り返ると、申し訳なさそうに眉を顰めた。
「ごめんなさい、リオ」
「ああ、いや、別にいいんだけどさ」だが、何か納得がいかないというふうな面持ちで、バージルを見る。「え、待って、二人ってまさか、そういう関係?」
「どういう関係だよ」
「付き合ってる? 恋人? キサとバージルが?」
途端に信じられないという顔をしたリオを見て、希佐とバージルは思わず顔を見合わせた。一気に破顔した希佐とは対照的に、冗談じゃないと顔を顰めたバージルは、じとっとした目でリオを睨んだ。
「お前、頭ん中に十五歳のガキでも住まわせてんのか?」
「それ以外に、キサがわざわざバージルみたいなおっさんの家に住んでいる理由が思いつかない」
「俺はアランからこいつを預かってるだけで──」そこまで言ってしまってから、バージルは失敗したという表情を浮かべた。「とにかく、俺は人の女に手を出す趣味はねぇの」
そう言うバージルの言葉を聞いて、リオはますます混乱したような顔をした。
「えっ、なに? どういうこと?」
「あとは自分で考えろ。俺はさっさと帰って振り入れの続きをしたいんだよ」バージルは希佐にヘルメットを被るよう促し、バイクのエンジンをかけた。「キサ、早く乗れ」
「うん」希佐はバイクの後ろに跨ると、ヘルメットを被る前にリオを見た。「今日は本当にありがとうございました」
「あ、いや、こちらこそ……」
「オーディションが終わったら連絡します。加斎くんも呼んで、タップダンスの練習会、楽しみです」
「あ、ああ」
リオに向かっておやすみなさいと言ってから、希佐はヘルメットを被った。細い腕が腰に回されるのを待っていたバージルは、何やらくつくつと笑い声を漏らしていたが、そこに立ち尽くしているリオの肩をとんとんと慰めるように叩いてから、ハンドルを握りしめる。
「残念だったな、リオ」
その後すぐに、リオが何かを言ったようだった。しかし、バージルが吹かしたエンジン音に掻き消され、希佐の耳には届かない。
走り出すバイク。十二月の夜風は刺すように冷たかったが、希佐の心は分厚い毛布で包み込まれているかのように、やわらかい暖かさを覚えていた。