ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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ディナー

 一次審査が行われた翌日、スペンサー・ロローから改めて電話での合格が告げられると、それからすぐに二次審査の課題となるダンスの映像データが送られてきた。

 いつもと同じようにランチを買ってからスタジオに向かい、一次審査に合格したことを伝えると、ジョシュアは具沢山のバインミーを美味しそうに頬張りながら言った。

「君なら合格すると思っていたから、別段驚きはないよ」口の中のものを飲み込んでから、再び口を開く。「それで、次の審査は?」

「十五日にダンス審査が行われるそうです。ついさっき、課題の映像が送られてきました」

「じゃあ、その次が歌唱審査かな。ダンスで課題が提示されたということは、おそらく歌唱も同じだろうね。でも、それは君が無事に二次審査を合格してからの話だ」

「はい」

「まあ、君にはバージルがいるから、その点では心配いらないか」

「でも、ここのところ舞台の振り入れで忙しいみたいなので、邪魔をするのが申し訳なくて」

「ぼくだって毎日忙しいのに、バージルの紹介でこうして君の歌を見てあげているんだから、彼が君の頼みを断る資格はないよ」

「本当にありがとうございます。助かっています」

「いいのいいの。ぼくは君の歌と人間性が好きだから、こうして手を貸したいと思っただけさ。もし君が有名になったら、あの子を教えたのはぼくなんだぞって自慢もできるしね」

 ボイストレーニングを終えて帰宅した希佐が、二次審査までの間だけダンスを見てほしいと頼むと、リビングの鏡の前で振り入れをしていたバージルは、それを二つ返事で了承してくれた。

「でも、大変じゃない? 大丈夫?」

「いいんだよ、別に。気にすんな。むしろ、いい気分転換になる」希佐が差し出した水を受け取り、ごくごくと勢いよく飲むと、首にかけていたタオルで額の汗を拭う。「スペンサーの舞台かなり評判みたいでな、タップダンスの振付依頼が次から次へときやがる。嬉しい悲鳴ではあるんだけど、少しはこの老体を労ってほしいもんだ」

「バージルはまだまだ若いよ」

「俺ももう四十だぞ……あー、考えただけでゾッとするな」

「歳を重ねることが?」

「人生の短さにだよ」

 バージルが踊っているときは決して近くに寄らないハンナが、尻尾を振りながら歩いてくると、撫でてくれと言うふうに濡れた鼻を足に押し付けている。それを見て優しげに微笑んだバージルは、その場にしゃがみ込むと、愛犬のやわらかい毛を堪能するように撫でてやっていた。

「やりたいことはまだまだ山ほどあるってのに、無情にも時間は溶けていって、あっという間にこの歳だ。しかもな、やりたいことは年々増えていくのに、体力は少しずつ衰えていって、出来ることが一つずつ減っていく。その分、今ある技術が磨かれていくっていう利点もあるし、培われてきたものが自分を助けてくれているとは思うけど、臆病になっちまうわけよ、いろいろとな」

「バージルでもそんなふうに思ったりするんだね」

「お前、俺をなんだと思ってるんだ?」

「体力お化け」希佐はくすりと笑いながら言う。「心配しなくても、バージルの体力は衰えてなんかいないよ。加斎くんだって、バージルの体力は普通じゃないって言ってたし」

「若い連中に馬鹿にされないために鍛えてるからな。教える立場の人間が先にへばってたら格好つかねぇだろ」

 どのような分野の人でも、第一線に立ち続けている人は、常に努力を怠らない。この家に転がり込んできて一週間以上が過ぎたが、バージルはまさにそれを体現していた。

 天才と呼ばれる人たちは、ただ才能に恵まれているだけではなく、血反吐を吐くような努力を重ねた上で、研鑽を積み、そのように呼ばれる存在となる。才能の上で胡座を掻いているだけでは、天才にはなり得ないということを、希佐は知っていた。ユニヴェールにいた頃から、そうした人々を目の当たりにしてきたのだ。

 だから、希佐自身も努力を怠らない。あの頃の自分を、裏切りたくはない。

「まあ、お前がダンス審査で落ちることはないだろ。普段から俺やイライアスが見てやってるんだし、いつも通り踊れれば何の問題もねぇよ」

 バージルのその言葉通り、二次審査は何の憂いもなく当日が訪れ、その日のうちに合格が告げられた。

 一次審査のときに十五人いた参加者は十人にまで減らされ、二次審査を合格したのは、その中の七人だった。不合格を言い渡された者たちはその場で帰されたが、残された合格者たちは、三次審査の内容を聞かされる。ジョシュアが予想した通り、三次審査の課題は歌唱だ。課題曲が数曲用意され、その中から一曲を選んで、披露するようにとのことだった。

 二次審査の翌日、配布された楽譜と音楽データを持ってジョシュアのスタジオを訪れると、その日のうちに選曲が行われた。幸いどの曲も既存の楽曲で、希佐が知っている歌も多く、選択肢は多分に用意されていた。

「見事に難曲ばっかり取り揃えてあるけど、今の感じだったら、どの曲を選んでも大丈夫そうだね」希佐が買ってきたランチもそっちのけで、目の前にある楽譜をめくりながらジョシュアが言った。「キサの好きな曲を選んでいいよ。何でもいいなら、ぼくが良さそうなのを選んであげるけど、こういうのは自分の好きな歌を選んだ方がモチベーションも上がりやすいし」

 その助言に従って、数ある楽譜の中から選んだものを希佐が指さすと、ジョシュアは少しだけ意外そうな顔をしてから、分かったと頷いた。

 それからみっちり一週間、寝ても覚めても、その楽曲のことばかりを考えて過ごした。自分のためにも、誰かのためにも歌える歌を選んだつもりだ。三次審査の前日に仕上げの歌を聞いたジョシュアは、あとはなるようにしかならないから、と言って希佐を送り出した。

 当日の朝は早い時間から声出しをはじめ、ランニングから帰ってきたハンナを相手に、軽くリハーサルを行った。キッチンに立ってパンケーキを焼いてくれていたバージルは、希佐が歌い終わると、囃し立てるように口笛を吹く。

「いいんじゃねぇか、キサらしさが出てて」

「本当?」

「お前の利点は歌でも濃い芝居を打てることだ。その歌で審査員連中を打ちのめしてやれよ。そんで、帰ってきたら何か美味いもんでも食いに行こうぜ。俺が奢ってやる」

「まだ三次審査を通過できるかどうかも分からないのに?」

「大丈夫だって。ま、落ちたとしても美味いもんは食いに連れて行ってやる。何食うか考えとけよ」

「分かった、考えておくね」

 自分でもその理由が分からないほど、希佐の心は落ち着き払っていた。絶対に合格するという確信があるわけではない。もしここで敗退することになったとしても、それを受け入れる覚悟が、とうに決まっているからだろうか。

 すべき準備はすべて整っていて、あとは自分の気持ちとどのように向き合い、舞台に立つかを考えるだけだった。覚悟を決めてしまえば、思い悩むことは何もない。やるべきことをやる、ただそれだけなのだから。

 この歌を聞かせたい人がいる。届けたい人がいる。本当ならば、こんな気持ちで歌うべきではないのかもしれない。オーディションに私情を挟むことなど、あってはならないことなのだろう。

 それでも、自分勝手に、わがままに、希佐はその歌を歌った。ただ一人の人のために。そして、希佐はその歌で、三次審査に合格することとなる。最終審査の内容については、後日、連絡が来るということらしい。

「キサ」

 帰り際、バージルに結果を伝えようとスマートフォンを取り出したところで、後ろから追いかけてきたスペンサーが希佐を呼び止めた。

「スペンサーさん」希佐は振り返り、軽く目礼をした。「今日はありがとうございました」

「ああ、いや、こちらこそ」

「私に何か……?」

 希佐は佇まいを正すと、スペンサーを見上げた。

「歌い方が変わったね」

「はい、今ボイストレーニングに通っていて。お聞き苦しかったでしょうか」

「いやいや、素晴らしかったよ。推薦人として鼻が高い」

「ありがとうございます」

「物は頼みなんだが、そのボイストレーナーのことを教えてもらっても構わないかな」

「え? あ、はい」希佐は不思議に思いながらも、ジョシュアのことを伝える。「ロンドンにスタジオを持っていらっしゃるので、私に聞くより、直接訪ねた方がいいのではないかと思うのですが……」

「ああ、是非ともそうさせてもらうよ。実は、ずっと前から優秀なボイストレーナーを探していてね。君の才能を短期間でこれだけ伸ばせるなら、どうやらその彼は仕事のできる男らしい」

 どうもありがとうと言って、スペンサーは踵を返していく。果たしてジョシュアのことを教えてよかったのだろうかと思いながら、希佐はスマートフォンの画面にバージルの連絡先を呼び出した。ゆっくりと歩き出し、ヘスティアの外に出たところで、コール音が止まった。

「バージル、合格したよ──」

 あの歌は、聞かせたい人の心に、ちゃんと届いたのだろうか。それは希佐には分からない。一次審査が終わってからこちら、一度も言葉を交わしておらず、目も合わせてはいないからだ。避けられているのか、避けているのかも、今となっては分からなくなってしまった。しかし、だからこそ、いい歌を歌えたような気もしている。

 オーディションが終わったら、話してくれると言っていた。今はただ、それを信じて待つことしかできない。

 そう思っていた希佐だったが、三次審査の翌日の朝、一本の電話がかかってきた。ハンナと一緒にソファでくつろぎ、微睡んでいた希佐は、スマートフォンの画面も見ずに電話を取ってしまった。

「……Hello」

『寝てたの?』

「えっ?」希佐がその声に驚いて素っ頓狂な声をあげると、隣にいたハンナが迷惑そうにこちらを睨んだ。「……アラン?」

『今から来られる? 渡すものがあるんだけど』

「あ、うん、大丈夫」

『じゃあ、待ってる』

 ぷつん、と通話が途絶える。

 希佐はスマートフォンを耳に当てた格好のまましばらく呆然としていたが、手の甲をハンナにぺろりと舐められ、我に返った。ハンナの頭を撫でながらスマートフォンの画面で確認した時間は、午後九時五十分だった。十時になったらペットシッターのヘレンが来ると聞いていた希佐は、それを待って出かける準備をはじめる。

 すると、着替えている最中にも再び着信があり、希佐は今度こそ相手を確認してからスピーカーに切り替え、スマートフォンをベッドに放った。

『キサ、今大丈夫?』

「うん、大丈夫だよ」

『あら、もしかしてお着替え中だった?』

「ダイアナは移動中?」

『そうなのよ。道路が渋滞しているから、タクシーを使うより地下鉄の方が早いと思って』

 僅かに聞こえる街の喧騒と、ダイアナの弾む呼吸。どうやら階段を上っているようだ。

「足元に気をつけてね」

『ええ、ありがとう』

 階段を上り切ったのか、足を止め、大きく息を吐き出しているのが分かる。希佐はシャツのボタンを止めながら、ダイアナが息を整え、話し出すのを待った。

『久しぶりに一緒にランチでもどうかと思って連絡したのよ』

「ランチ?」

『都合が悪かったかしら』

「ごめんなさい、今月はずっと無理なんだ。ランチの時間帯は毎日ボイストレーニングのレッスンが入っていて」

『まあ、毎日?』

「うん。でも、他の時間帯なら融通が利くよ。ダイアナが良ければだけど……」

『あっ、そうだわ。じゃあ、今夜はどう? 一緒にディナーしましょ』

「ディナー?」

『本当は今夜会食の予定が入っていたのだけれど、ついさっき先方から急にキャンセルの連絡が来たのよ。当日キャンセルなんてレストランにも迷惑をかけてしまうし、せっかくだから一緒に行ってくれない?』

「それ、私でいいの? 恋人と一緒に行った方がいいんじゃない?」

『私はキサと一緒に行きたいのよ』

 場所はねと説明されたのは、星付きホテルの最上階という、思わず尻込みをしてしまいそうなレストランだった。ドレスコートがあるから綺麗な格好をしてきてね、と釘を刺してから、ダイアナは電話を切る。早口で用件だけを伝え、返事を待たずに切ったのは、希佐からやっぱり行かないと断られることを避けるためだろう。

 はあ、とため息を吐きながらコートを着た希佐は、スマートフォンをポケットに落とすと、バッグを掴んで部屋を出た。リビングで遊んでいたハンナとヘレンに挨拶をしてからエレベーターに乗り、階下に降りる。コンシェルジュに紙とペンを借り、今日は遅くなるというメモをバージルに渡してもらえるよう頼んでから、スタジオに向かって歩き出した。

 見上げた空は雲一つない晴天だった。風は冷たかったが、清々しい天気だ。このところは曇っていることが多かったので、晴れているというだけで気分がいい。

 あと一週間もすれば、また年が一つ進み、日本を逃げ出してきてから五年という時が経つ。長かったようにも、短かったようにも感じられる外国での年月は、もちろん良いことばかりではなかったが、そうしたことが帳消しになるほどの素晴らしい日々だった。

 この先の未来に何が待ち受けているのかは、まだ分からない。目の前に、何の前触れもなく突如として加斎中が現れたときのように、希佐には到底想像し得ない何かが起こる可能性だってあるのだ。

 だが今は、オーディションに集中しようと希佐は思う。ここまでは何とか生き残ることができたが、最終審査に残った希佐以外の四人も、将来を賭けて全力で挑んでくるはずだ。自分も負けてはいられないと、希佐は両頬を軽く張って、気持ちを引き締め直した。

 しかし、スタジオに向かう道すがら、アランと何度も足を運んだことがあるインド料理屋が視界に入ると、意識がそちらに向かってしまった。自分がいない間もちゃんと食べているのだろうかと心配になったが、アランも子供ではないのだからと、意識をして考えないようにしてきたのだ。

 だが、今日くらいはいいだろうと考えた希佐は、インド料理屋に立ち寄り、二人分のチキンカレーセットを注文すると、テイクアウト用に包んでもらう。希佐のことを覚えていた店主は、あのお兄さんとまた来てね、と訛りの強い英語で言い、タンドリーチキンをおまけしてくれた。

 半月ほど離れていただけのスタジオに、希佐は妙な懐かしさを覚えていた。バッグから取り出した鍵を使って中に入ると、以前にはなかった香りがスタジオ内に満たされているのを感じる。アイリーンの香水の匂いだ。今も来ているのだろうかと思いながら事務室に向かい、扉をノックするが、返事はなかった。

 念のためにもう一度ノックをしてみるが、やはり何の物音も聞こえてはこない。希佐は「入りますよー」と声をかけながら扉を押し開くが、案の定、事務室は無人の状態だった。ただ、大型の液晶テレビの画面には、ヘスティアの二階にある小劇場の映像が一時停止された状態のまま、静かに映し出されている。

 オーディションの映像データだろうかと思いながら、希佐は後ろ手に扉を閉めた。今回のオーディションでは、他人の演技やダンスを見たり、歌を聞くことは一度としてなかった。だから、審査の基準が何一つ分からないのだ。希佐の推薦者であるはずのスペンサーも、審査内容について話して聞かせてくれたことはない。今日は良かったよ、お疲れさま。次も期待しているからね──聞く言葉といえば、そればかりだった。

 興味がないと言えば嘘になる。他の人たちはどのようにあの女を演じたのだろう。どんなダンスを踊ったのだろう。どのように歌って聞かせたのだろう。見てみたいし、聞いてみたい。そして、安心したかった。自分は自分の才能を認められて、最終審査の他の四人と肩を並べているのだと。

 ごくり、と唾を飲み込んだ希佐は、誰もいない事務室のソファに腰を下ろした。そして、テーブルの上に積み上げられた本の上に放られているリモコンを手に取ると、再生ボタンを押す。

 舞台に現れたのは、アイリーンだった。審査員と幾らかの言葉を交わしてから、歌うようにと指示を受ける。昨日の映像だ。ここまでの流れは、希佐のときと同じだった。

 アイリーンは舞台上で楽器をチューニングするように喉の調子を整えてから、ピアノの伴奏者に軽く目配せを送った。伴奏者は小さく頷き返し、一呼吸置いて、鍵盤に手を乗せる。

 ぽん、と最初の音が鳴った瞬間、すぐに分かった。

「同じ曲……」

 嫌な予感を覚えた希佐は、すぐに停止ボタンを押そうと思った。しかし、思っただけだった。心は聞くことを拒んでいるのに、脳は好奇心を抑えることができず、停止ボタンの上に添えられた人差し指は、ぴくりとも動かない。

 アイリーンの歌声は力強く、圧倒的で、聞いている者の心を鷲掴みにする。安定感があって、不安定なところが一つもない。説得力があるのだ。それなのに、切なく、繊細で、ぞっとするほど美しい。まるで、誰もが自分に向けて歌っているのではないかと、そう錯覚してしまうほどの魅力が、全身から溢れ出ている。

「……こんな、」

 それ以上の言葉が続かなかった。

 こんなふうには、歌えない。余すところなく人の心に染み渡っていくような、王道の歌姫のようには到底歌えないと希佐は思った。自分とはあまりに違う。たった一人の心に届けたいと、届けばいいと思いながら歌った希佐とは、あまりにスケールが違っていた。

 アイリーンが歌い終えると同時に、リモコンを使って巻き戻し、もう一度最初から。それを何度か繰り返したところで、不意に、握り締めていたリモコンを背後から取り上げられた。停止ボタンが押されないまま、テレビの電源が落とされる。

 弾かれたように振り返れば、そこにはアランが立っていた。前髪越しにこちらを見下ろしている。

 長く離れすぎていたからだろうか。それとも、表情を読まれまいとしているのか、今の希佐にはアランが何を考えているのかが分からなかった。

「……ごめんなさい、勝手に。どうしても気になってしまって」

「意味ないよ、そんなことしたって」

 アランはそう言うと、テレビのリモコンを自分が着ているカーディガンのポケットに差し込んだ。

 そんなことは、言われずとも分かっているのだ。だが、アイリーンの歌を聞けば聞くほど、そびえ立つ壁の高さを、底の見えない谷の深さを、思い知らされる。

 自分も人並みには歌えるという自負が希佐にはあった。しかし、アイリーンの歌を聞いた後では、そんなことを考えていた自分が、酷く愚かしく思えてくる。血反吐を吐くような努力を続けてきた天才は、ここにもいるのだ。

 自分はのんびりし過ぎているのだろうか。ここに身を寄せていた頃は、今よりもずっと稽古に明け暮れ、努力を怠らず、毎日懸命に自分と向き合っていたような気がする。暇さえあれば、朝から晩まで歌って、踊って、芝居をしていた。それこそ、疲れ果てて、倒れてしまうまで。

 ああ、まだまだ全然足りない。練習が、稽古が、覚悟が足りない。もっと、もっと自分を追い込まなければ、きっとアイリーンに勝つことはできないのだろう。

 それが分かるから、アランも自分からリモコンを取り上げたのだろうと、希佐は思った。これ以上聞き続けたところで、自信が喪失していくだけなのだから。

 アランは希佐から顔を背けると、PCの方へと歩いていった。しかし、椅子には座らず、一冊の本を手に取るとすぐに戻ってきた。

「舞台の台本。スペンサーから渡すように頼まれた」

「……台本?」

「オーディションに勝ち残った人だけが立てる今度の舞台の台本」

 ん、と押し付けられた冊子を、希佐は反射的に受け取っていた。濃い青緑色の表紙には『salut,Et adieu』と表題が記されている。フランス語だろう。salutは出会いと別れのときに用いられる挨拶、adieuは二度と出会うことのない相手に送る別れの言葉だと聞いたことがある。

「この台本は最終審査に残った五人全員に渡される。今日一日でしっかり読み込んで、明日の深夜十二時までに、主役の女を象徴する楽曲を一曲自分で選ぶ。それを自分の推薦者に伝えて。君はスペンサーに。選ぶ曲は何でもいい。言語も問わない。その曲を最終審査の舞台で歌うことになるから、それを踏まえた上で選曲して」

「……はい」

「誰とも相談はなし。ジョシュアに助言を求めないこと」

「分かりました」

「俺からはそれだけ」

「……ありがとう」

 自信過剰も甚だしい。あれで上手く歌えたと思うなどおこがましい話だと思う。どうして自分が最終選考まで残されたのか分からず、希佐は困惑を隠すことができなかった。なぜ自分がこの役に相応しいなどと、アランは言ったのだろう。その答えが、この台本の中に書かれているのだろうか。

 希佐はソファから立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした。しかし、その前に何者かが階段を降りてくる。

「アラン、ついでだから昼食も作っておいてあげたわよ」アイリーンが事務室の奥から、ひょっこりと顔を覗かせた。「残りは他の食べ物と一緒に冷凍しておいたから、食べたいときに自分で温めて──って、キサじゃないの」

 こちらを見るなり嬉しそうに駆け寄ってきたアイリーンを見て、希佐もにこりと笑いかけた。背もたれ越しに立ったアイリーンは、その場所から希佐の体を軽く抱きしめると、ふふ、と笑い声をあげる。

「キサ、これで当初の目標達成ね」

「目標?」

「二人で一緒に最終審査に残ろうって話していたのよ。あの嫌な女も一緒に残っているけれど、まあいいわ、今は二人揃って残っていることを喜びたいから」

 そう言って希佐から離れたアイリーンは、一点の曇りもない笑顔を浮かべている。屈託のない笑みだ。おそらく、自分の力で得られた結果に、心から満足しているのだろう。それはそうだ、あのように素晴らしい歌を歌えれば、誰も何も言うことはない。

「キサも台本をもらった?」

「うん、もらったよ」

「キサと私とでは台本から読み取れる物語の情報量が桁違いなのよね。キサはすぐに役を掴めるけれど、私は全然ダメなんだもの。二人で一緒に本読みができたら良かったのに」

「今日一日と明日は深夜まで時間があるし、アイリーンならきっと大丈夫だよ」

「……ええ、そうよね。考える時間はまだたっぷりあるんだって思わないと、時間に追われて何も考えられなくなってしまいそう。落ち着いて、一人で本読みをするわ。ありがとう、キサ」

「ううん」

 なぜだかよく分からないまま、酷く打ちのめされたような気持ちになって、希佐は早くこの場から立ち去りたくて堪らなくなった。どうしてこんなにも自分に自信を持つことができないのか。アイリーンの笑顔があまりに眩しくて目を細めてしまうから、真実が見えなくなっているのかもしれない。もっと頑張らなければという思いばかりが大きく膨らむが、溜め込んだ空気を吐き出す場所がどこにもないのだ。

「あら、キサ? 何か買ってきたの?」希佐の足元にある紙袋を見て、アイリーンが言った。すんすんと匂いを嗅ぎ、その中身を言い当ててしまう。「カレー?」

「ああ、うん」馬鹿な買い物をしたものだと思いながら、希佐は苦笑いを浮かべた。「ジョシュアのランチにね」

「ジョシュアの?」

「毎日ランチを買って行ってるんだ。今日はカレーにしようと思って」希佐はこれ見よがしに時計を見る。間もなく十一時になるところだった。「ごめんなさい、少し二階に行ってきてもいい? 部屋に用事があるの。早くしないと十二時までに間に合わないから」

「え、ええ、どうぞ」

「ありがとう」

 カレーの入った紙袋を手に取り、事務室の奥まで足早に歩いて行って、階段を駆け上がる。手に持っていた荷物はキッチンのテーブルの上に置き、身一つで自分の部屋に入った。何も考えずに着ていた服を脱ぎ、クローゼットを開けて服を物色する。あのダイアナと星付きホテルのレストランに行くのだ、悪目立ちをするような格好で向かうことは絶対に許されない。

「黒、黒、黒……」

 一次審査のときに着たワンピース以外にも、黒いドレスは何着か持っていた。その中でも、一番品が良さそうなレースのワンピースを引っ張り出すと、鏡の前に立ってそれをあてがってみる。

 長袖で露出は少ないが、程よく肌の色が透けて見えるので、窮屈な感じはしない。裾もミモレ丈なので問題はなさそうだ。

 靴はヒールのあるキャメル色のパンプスを選んだ。荷物があるのでバッグを置いていくことはできないが、フロントで預かってもらえばいいだろう。着ていた服は後日取りにくるしかない。

 靴と同系色のガウン風のコートを羽織りながら、希佐は部屋を出た。歩いていたら間に合わないと思い、階段を降りながら電話でタクシーを呼ぶ。

「──はい、よろしくお願いします」

 希佐がそう言って電話を切ると、事務室でアランと話をしていたアイリーンが、こちらを見て目を丸くした。どうでもよさそうなニットとデニム姿で現れた希佐が、突然ドレスコードに沿った格好をして戻ってくれば、それは驚くというものだ。

「キサ、その格好どうしたの?」

「今夜ディナーに誘われていて」希佐はアイリーンの前でくるりと回る。「変じゃないかな?」

「いいえ、とてもシックで素敵よ」

「よかった」

 アイリーンのお墨付きが出れば何の問題もないだろう。そう思いながら腰紐を緩く結び、荷物を抱え直して、PC前の椅子に座っているアランを見た。

「台本、ありがとう」アランは希佐の方を一瞥するが、すぐに視線を逸らした。「じゃあ、また」

 アイリーンもまたね、と言い、希佐は足を進める。重たく感じられる体を無理やり軽やかに動かして、事務室を出ていく。

 希佐は、何事にも動じない強い心がほしいと思った。自分の信じたいものを信じることができて、思っていることを素直に伝えられる、そんな強い心が。信じていたのに違っていたら、思いを伝えて否定されてしまったら、そう思うと、とつおいつ思案してしまうのだ。

 タクシーに揺られてジョシュアのスタジオに向かう。二人分の冷えたカレーを奇妙そうに見ていたが、ジョシュアは希佐の話を聞きながら、それらをぺろりと平らげてしまった。どうやらお気に召してもらえたらしい。

「ふうん」タンドリーチキンにフォークを突き刺し、ジョシュアは言った。「それなら、何を歌うか決めたら教えてよ。明日の昼には決まっていたらありがたいけど、適当に決められるものじゃないからね、ギリギリまで悩んでも大丈夫だよ」

「はい」

「でも、トレーニングは続けてね。悩むのはいいことだけど、時間は有限だ」

「分かりました」

 一時間のボイストレーニングを終えた希佐は、その足でダイアナと約束をしているホテルに向かった。一階にあるカフェバーに入り、紅茶を注文する。給仕にアプリコットジャムはありますかと尋ねると、彼は朗らかに微笑んで、紅茶と一緒にお持ちしますと言った。

 バッグの中から台本を取り出す。素より、これを読むためにカフェにやってきたのだ。

 希佐は深い青緑色の表紙の台本をテーブルの上に置き、しばらくの間それをただ眺めていた。給仕の男が紅茶の入った陶器のポットとカップを持って現れると、邪魔にならないよう台本を抱えるようにして持ち上げる。

「アプリコットジャムでございます」

「ありがとうございます」

 小さなガラスの器に入れられたアプリコットジャムには、それに合わせた小さなスプーンが添えられていた。

 御用の際はお声がけくださいと言った給仕が離れていくのを待ち、希佐は再び台本に視線を落とす。あんなにも望んでいたものが目の前にあるというのに、嬉しさに胸が躍るわけでもなく、ただ不安な気持ちでそれを見つめていた。

 アランは希佐にこのオーディションの話を断ってほしいと言っていた。だが、脚本家としては受けてほしいと思っているとも言っていた。この舞台に君以上に相応しい役者はいない──それらの矛盾した相反する発言が、希佐を未だに混乱させ、困惑させているのだ。

 しかし、読まないわけにはいかない。これで最後にすると決めたのだ。きちんと向き合わなくては、後悔してしまうことになる。

 意を決して表紙をめくった希佐は、その一行目から、アラン・ジンデルの世界に没頭した。そして、同時に悟る。

 その唇から最初に漏れた声は、乾いた笑いだった。だが、次に追いかけてきたものは、堪えきれずに吐き出された嗚咽だ。冒頭数ページ、涙が止まらず、台本に雫が落ちて染みを作った。

 これは正しく、アラン・ジンデルの物語だった。この一ヶ月腑に落ちなかったアランの様子のすべてを理解して、酷く不甲斐ない気持ちになり、心臓が押し潰されるのではないかと思うほどの窮屈さを覚える。でも、どうしてこんな、まるで自分を痛めつけるようにしてまで、この物語を紡ぎ出したというのだろう。

 それでもなんとか最後まで通して読み進めたとき、明るかった窓の外はすっかり暗くなって、道を行き交う人々の様相も変わり果ててしまっていた。都会の喧騒を颯爽と歩く社会人よりも、大切な人と寄り添いながら歩く人々の姿が目立つ。普段ならばその様子を眺めて和やかな気持ちになっていたものだが、今はそんな余裕はなかった。

 眦は涙で炎症を起こし、頭が重く、痛みを覚えていた。それでも涙は止まらなくて、希佐はナプキンを目頭に押し付ける。

 希佐は、今すぐにスタジオに駆け込んで行って、あの少し頼りない、心配になるくらいに細い体を、力一杯抱きしめてあげたいと思った。大丈夫だと言って背中を撫でて、その他の全てを否定してでも、アラン・ジンデルという人を肯定してあげたかった。あの人の深い深い心の闇に分け入っていって、光のある場所まで、その手を引いて歩いてあげたい。

 果たしてまだ、自分にそうすることが許されているのかは分からないが、もし許されるのなら、この身を投げ打ってでも、希佐はそれをするだろう。

 昨日、たった一人のために歌ったあの歌は、ちゃんと届いたのだろうか。

 この台本を読み終えた今だからこそ、こう言い切れる。あれは、あれでよかったのだと。歌を観衆に届ける必要はなかったのだ。ただ一人の人間に届けば、それで良かった。自分勝手で、わがままで、観客の視線を奪い尽くし、蹂躙するような圧倒的な演技と存在感。

 ああ、スペンサー・ロローが言いたかったのはこういうことだったのだと、希佐は直感した。

 そういう女は、観衆に寄り添ったりなどしない。自分のため、自分の愛する人のため、ただそれだけのために生きて、身勝手な振る舞いをする。妖艶な悪女。それも、女の側面の一つでしかない。一次審査で演じてみせた女のように、その時々でころころと雰囲気を変えていく。それが、スペンサーが求める正解だったのだ。

 希佐は、こんなにも強く誰かに会いたいと、そう思ったことはなかった。ユニヴェールを離れた後ですら、こんなふうに思ったことはない。手を伸ばせば容易に届く距離にいるからこそ、自制心を保ち続けることが難しかった。

『このオーディションが終わったら……』

 そう言い淀むアランの姿が脳裏をよぎった。瞼の裏側に張り付いて離れない。ああ、そうだ。アラン自身がそう言っている。オーディションが終わるまでは、待っていなければならない。

 希佐は表面の乾いてしまったアプリコットジャムをスプーンに掬い取ると、それを口に含んだ。すっかり冷えてしまった紅茶を飲み、息を吐く。

 いつまでも泣いてはいられない。強くならなければいけない。舞台人生が終わってしまう前に、今度こそ、一緒にその先にあるものを見たいから。

 そのとき、スマートフォンがゆるく振動して、着信を告げた。画面に現れた名前を一瞥し、希佐はそれを取り上げて耳に当てる。

「……Hello」

 酷く鼻にかかった、掠れた声が出た。疲弊しているような声だ。慌てて咳払いをするものの、ダイアナをごまかせるわけもない。

『キサ?』訝しげな声が電話越しに聞こえてくる。『あなた、どうしたの? 泣いてる?』

「あ、うん。今ちょっと脚本を読んでいて……」

『ああ、なんだ、そうなの。またあの不精男に泣かされたのかと思っちゃったわ』

 その認識で間違いではないのだが、希佐は余計なことを言わず、ダイアナが話し出すのを黙って待った。

『今どこにいるのかしら。私はホテルのロビーに来ているのだけれど』

「私も一階のカフェバーにいるから、今からそちらに──」

『ああ、待って。そこにいてちょうだい。私がお迎えに行くわ。まだレストランの予約の時間までちょっとあるし、座って一息吐きたいのよ』

「うん。じゃあ、待ってるね」

 ほどなくして、ダイアナはかっちりとしたブラック・タイといわれるフォーマルな出立ちで、カフェバーに颯爽と現れた。給仕に待ち合わせであることを告げ、軽く店内を見回してすぐ、希佐の姿を見つけたようだ。軽く手を上げ、ゆったりとした足取りで近づいてくるが、希佐の泣き腫らした顔を見るなり、その表情を険しくさせた。

「久しぶりに見るあなたのお顔が泣き顔なんて、ついてないわね」

「私もまさかこんなに泣くことになるとは思っていなくて」

「お化粧直しに行ってきなさい。私は紅茶でも飲みながらのんびり待つわ」

「うん」

 バッグを手に立ち上がった希佐は、店内にあったレストルームに向かうと、己の顔を見て苦笑いを浮かべる。なるほど、酷い顔だ。そう思いながら流水で目元を冷やし、顔を洗うと、手拭き用の紙で水気を拭った。炎症を刺激しないよう軽く化粧を施し、チークと口紅を差してから、汚してしまった洗面台を軽く拭き取り、その場を後にする。

 席に戻ると、ダイアナは少し気だるそうに足を組んで座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。見るからに絵になる存在感だ。しかし、希佐が戻ってきたことに気づくと、頬杖をついていた体を起こし、柔和な笑みを浮かべてみせた。

「綺麗よ、キサ」

「え?」

「きちんとおめかしして来てくれたのね」

「ああ」希佐は座る前に自分の体を見下ろし、少し苦い顔をした。「ダイアナの隣に並ぶからには、気合いを入れないと申し訳ないと思って」

「申し訳ない?」

「変な女を連れて歩いていたなんて噂されたら困るでしょう?」

「あら、キサはいつだって素敵よ。変な女なんかじゃないわ」

「でも、いつもの格好ではレストランには入れない」

「ええ、そうね」ダイアナは、ふふ、と笑う。「この国はドレスコードに厳しいから」

 それから少しの間、こうして取り止めのない話をしていたが、ダイアナは自分の腕時計を見ると、近くにいた給仕に向かって手を挙げた。希佐が支払いをしようとするのを無言で制したダイアナは、給仕が持ってきたフォルダーにカードを挟んで手渡している。

「もう自分で払えるって言っているのに」

「あら、私にご馳走されるのは嫌かしら?」

「そういう言い方はずるい」

「私のために美しく着飾って来てくれたかわいい子に、支払いをさせるなんて恥ずかしいことはできないわ」

 ダイアナは自分のカードが戻ってくると席を立ち、希佐の荷物とコートを取ってから、自らの腕を差し出してきた。諦めたように息を吐いた希佐は、クラッチバッグから取り出したチップをカップの下に滑り込ませてから、ダイアナの腕にそっと手をかけた。

 ダイアナの隣を歩いていると、いつも方々から向けられる視線を強く感じた。

 出会った当初から自身のブランドを持っていたが、それがより成功を収め、今では富と名声をほしいままにしている。最近ではテレビ番組にもよく出演している有名人だ。そう言うと聞こえは悪いかもしれないが、人柄は出会った頃と何一つ変わらない。

「そういえば」エレベーターの中で、ダイアナが思い出したように言った。「あなたとは三年のお付き合いになるけれど、こうしてディナーに誘ったのは初めてね」

「いつもランチだけだった」

「ランチだと気兼ねなく誘えても、ディナーはね、どうしても肩肘張ってしまうじゃない? あの頃のあなた、生きることに精一杯って感じで余裕がなさそうに見えたから、あまり気を遣わせるようなことはしたくなくて」

「お洋服をいただくだけでも私にはかなりのプレッシャーだったけれど」

「あれは本当に全部ただのサンプル品よ。あ、そうだわ。近いうちに今季の秋冬の服を送るわね。もう来年の春夏の準備がはじまっているから、早いところ処分してしまいたいの」

「……今の話、聞いていた?」

「お直しが必要なときはすぐに言ってね。私がフィッティングしに行ってあげるから」

 当初は外見と内面のギャップに衝撃を覚えたものだが、今となっては、男とも女とも違うダイアナという人に、かつて男でも女でもなかった自分を重ね、勝手に親近感を覚えている。

 ダイアナはそのレストランをよく利用しているようで、名前を名乗るよりも早く、制服を着た給仕が愛想良く歩み寄ってきた。コートと荷物をカウンターに預けてから案内されたテーブルは、ロンドンの夜景を一望できる窓際の特等席で、希佐は思わず恐縮してしまう。

「ねえ、本当に私と一緒でよかったの?」

「だから言ったでしょう 私はキサと一緒に来たかったのよって」

 給仕が引いてくれた椅子に腰を下ろし、thank you、と戸惑いながら口にすると、優しげな微笑が返された。

「アペリティフはいかがいたしましょう」

「シャンパンでいいかしら」

「え? あ、うん」

「では、それでお願いします」

「かしこまりました」

 給仕が去った後も、妙に落ち着かずそわそわしていると、ダイアナは大丈夫よと言って笑った。

「誰もあなたを取って食べたりしないわ」

「それはそうだろうけれど」

「こういう場所は初めて?」

「ドレスコードのあるレストランに行ったことはあるけど、ここまでは」

「まあ、それに、アランはこういうところが好きでは──いいえ、違うわね。興味がないんだわ、あの人」

 毎日の食事ですら億劫そうに食べている人が、決して安くはないお金を払ってまで高級レストランで食事をするなど、考えもしないことだろう。

 マナーに詳しくなかった希佐は、ダイアナの所作をよく観察し、見様見真似で料理を口に運んでいく。ダイアナもそれを分かった上で、ゆっくりと時間をかけて食事を楽しんでくれているように見えた。

「そういえば、さっき電話口で脚本を読んでいたと話していたけれど──」

 運ばれてくる料理に合わせたワインを、ソムリエがグラスに注いでくれている。希佐がその様子を興味深そうに眺めていると、ダイアナが思い出したように言った。

「もしかして、次の公演が決まったの?」

「ううん。実は、今オーディションを受けていて、それに必要な脚本を読んでいたんだ」

「キサがオーディション?」ダイアナは首を傾げる。「はじめてじゃない? あなたがオーディションを受けるなんて」

「うん、そう」

「何か心境の変化でもあった?」

 希佐はソムリエが軽く会釈をして離れていくのを待って、静かに口を開いた。

「詳しいことは何も話せないのだけれど、その脚本をアランが書いていて、それで……」

「ああ、そういうこと」

 ダイアナは納得したとでも言うふうに頷いて見せてから、注がれたばかりのワイングラスに手を伸ばした。グラスをそっと揺らし、赤ワインの香りを楽しんでから、ゆっくりと傾ける。そうした一つ一つの所作が、目を見張るほどに美しかった。

「このところカオスの公演がなくて、寂しいと思っていたのよね。舞台衣装を作らせてもらえる機会なんてそうないじゃない? なんだかんだ言っても楽しかったのよ、私」

「三日前にアランから没を出されて、一から作り直したことがあったよね」

「あれはもう本当に修羅場だったわね。お針子さんに手伝ってもらって寝ずに作り上げたわよ。もう二度とこんな目には遭いたくないと思ったのに、ついついあの忙しさを焦がれてしまうのよねぇ」メイン料理を美味しそうに食べている希佐を見て目を細めてから、ダイアナは続けた。「彼のデザインする衣装って面白いのよ。私たちみたいな本業のデザイナーには思い付かないようなアイディアをたくさん持っていて、たまに妬ましくもなるわ。どんなことをしたら、あんなふうにいろんなアイディアが思いつくようになるのかしらね」

「執筆をしていないときは、いろんな本を読んだり、外国の旅の映像とか、ドキュメンタリーとか、よく見てる。写真集とか辞典をぼーっと眺めてみたり、かと思えば、一日中ノートに何かを書き続けていたり。不思議だよね。ずっとあのスタジオの中にいて、外の世界のことなんか興味ないって顔をしているのに、なんでも知っているの」

「小さい頃の環境が良かったからじゃないかしら」

「環境? 劇団に所属していた頃のこと?」

「ええ、そう」ダイアナは食事を進めながら、のんびりと話をしてくれる。「メレディスが立ち上げた劇団は才能の坩堝だったのよ。ありとあらゆる天才が集められていたわ。歌、ダンス、演技、芸術、外国の人も多くて国際色豊かだったから、言語に長けた人も多かった。おかげで、彼や私は日常会話程度なら数ヶ国語話せるようになったわ。子供の吸収力ってすごいわよね」

「フランス語も話せる?」

「もちろん」ダイアナは得意そうな顔をしてから、話を続けた。「彼は何でも知りたがって、覚えも早いから、大人たちが面白がってね。こいつはすごい、天才だ、将来有望だって囃し立てて、舞台に立たせたの。それを見ていた観客たちも、まだ小さな子供が舞台上で何でもこなしてしまうものだから、それはそれは虜になって……それが、あの人の心に闇を生むきっかけになってしまったのよね」

「ダイアナ……?」

「ああ、いいえ、何でもないの。ごめんなさい」どこか取り繕うような不自然な態度を窺わせながら、ダイアナは首を横に振った。「とにかく、小さなアランにとっては、あの劇団が世界のすべてだったのよ。あの場所で得たものは、まだ彼の中に生きていて、それが今の彼の世界を広くしているんだと思うわ。幼い頃に経験した忘れ難い思い出って、何年経っても色褪せないものでしょう?」

 このイギリスで生まれたアランと、日本の片田舎で生まれた希佐。育った環境は全く違うけれど、幼い頃は演じるということがただただ楽しくて、それだけに没頭していたい子供だった。

 自分ではない誰かになれる。ここではないどこかに行ける。絶望の中にいても、夢を見ることができる。宇宙にだって、月にだって、飛んでいけるのだから。

「きっと他の人よりも頭の中の引き出しの数が多いんでしょうね」

 良いことも、悪いことも、全部覚えている。頭の引き出しの中にそっと仕舞い込まれたまま。悪い記憶には厳重に鍵をかけて、外に出てこないようにはしているのだろうに、それでも溢れ出てきてしまって、自分自身を苦しめているのか。

 あの脚本だってそうだ。一体どうして、自分の心臓を抉り取るような、そんな物語を紡ぎ出したのだろう。己の過去と決別するため──いや、それだけではないような気がすると、希佐は思う。あんなに己の過去に対して臆病な人が、自分の過去をひけらかすような真似を、ただでするはずがないのだ。

 スペンサー・ロローがそれをさせたのだろうか。いやしかし、無理強いをされたところで、アランはあれを書くことはなかっただろう。それならば、なぜ。

 メイン料理が終わり、デザートがテーブルに運ばれてくる。一口サイズのケーキ、葡萄酒色のアイスクリーム、白いバラの蕾を閉じ込めたゼリー──バラの花がモチーフにされているとすぐに分かる、上品なデザートプレートだ。

「ここのパティシエールが作るデザートは絶品なのよ。私のお友達なんだけれど」

「そうなんだ」

「食べてしまうのがもったいないくらい美しいデザートよね。こういうバラのモチーフ、私も一度はファッションのデザインに生かしてみたいと思ってはいるのだけれど、バラはそれだけで完璧な存在だから、それ以上のものを作らなければと思うと、いつも尻込みをしてしまって」

「バラ……」

 そういえば、今回の脚本では、随所にバラの描写がある。一次審査のときの花売りの女も、白いバラの蕾を売り歩いていた。

「ねえ、キサ、知ってる?」

「え、何を?」

「バラって色によって花言葉が違うのよ。赤いバラは愛情や情熱、ストレートに愛を表現する言葉が多いけれど、白いバラには純潔や深い尊敬、私はあなたに相応しい、なんていう意味もあるわ」

「私は、あなたに相応しい……?」

「紫は気品、青は奇跡、黒はあなたはあくまで私のもの──人にバラを贈るときには、相手の好みはもちろん、こういう花言葉なんかにも気をつけたいわよね」

 興味があるのなら、自分で色々と調べてみると面白いかもしれないわよ、と言いながら、ダイアナはアイスクリームを食べている。早くしないと溶けてしまうと分かっていながらも、希佐の目は白いバラの蕾を閉じ込めたゼリーに釘付けになっていた。

「そのゼリー、綺麗ね」

「うん」

「白いバラの蕾には、咲いた状態の花とは別の花言葉があるのよ」

「そうなの?」

「ええ。確か、少女時代とか、恋をするには若すぎるとか、そういう意味があったんじゃなかったかしら」

 ああ、アランは間違いなく、一つ一つのバラの花言葉を理解した上で、あの脚本を書き上げたのだと、希佐は確信した。女が売り歩いていた白いバラの蕾にも、理由があったのだ。

 希佐は、ほう、と小さく息を吐き出すと、スプーンでゼリーを掬い取った。程よく弾力のあるそれは、スプーンの上でふるふると震え、天井から差している照明の光を宝石のように反射させている。鼻に寄せると葡萄が香り、口に運べばシャインマスカットの上品な味が広がった。

「おいしい」

「アイスクリームも美味しいわよ」

「うん」

 レストランでの食事を終えると、ダイアナは希佐を隣にあるバーに連れて行ってくれた。バーテンダーに何事かを耳打ちし、店内の奥まったテーブル席に誘導してもらうと、希佐を先に座らせる。

「アランには言ってきたの?」

「え? 何を?」

「私とディナーに行ってくるって」

「ディナーの約束があるとは言ったけど、相手が誰とは言わなかったかも」

「あらあら」

 ダイアナは希佐と向かい合って腰を下ろす。レストランにいたときよりも幾分リラックスした様子で、テーブルの下では長い足を組んでいるのが分かった。

「あの人、今頃妬いてるわね」

「そうかな」

「案外やきもち焼きなのよ、小さい頃から」意外だという顔をする希佐を見て、ダイアナは悪戯っぽく笑う。「今となってはあんな感じだけれど、小さい頃はもっと貪欲で、独占欲も強かったと思うわ。お気に入りの大人が自分以外の子供を可愛がっていたりすると、わざと人目を惹くようなことをやってみたり、分かりやすくいじけてみたりね。当時は大人っぽい子だなと思っていたのに、こうして思い返してみると、結構子供っぽいところもあったのよね、あの人も」

「アランは嫉妬したりしない人だと思ってた」

「思ってたっていうことは、今はそうじゃないってこと?」

「私は彼の劇団時代に何があったのかは知らないし、それを聞こうとも思わないけれど、その頃にあった何かが原因で、感情を大きく表に出すことはしなくなったんだろうなって思ってる。でも、少しずつ時間は流れていて、彼の中にあった硬い結び目みたいなものが徐々に解けて、綻びはじめているんじゃないかなって」

 バーテンダーが飲み物を運んでくる。希佐の前にはロンググラスのノンアルコールモヒートが、ダイアナの前にはショートグラスのマティーニが置かれた。ダイアナは去っていくバーテンダーに向かって親しげに微笑みかけてから、グラスを手に取った。

「前にも言ったと思うけれど、あなたと出会って、アランは随分変わったわ」マティーニを一口飲み、テーブルに戻すと、ダイアナはその魅力的な眼差しを希佐に向けた。「性格が丸くなったし、優しくなった。まあ、もともと優しい人ではあったのだけれどね」

「でも、とっても不器用」

「そうよ、彼は不器用なの」

「何を考えているのか分からないときがある」

「昔からそうだったわ」

「ダイアナも、アランを好きなんだね」

 急に核心を突くようなことを希佐が言うと、ダイアナはそのまま頷きかけてから、すぐに驚いたように目を丸くしていた。丸くした目をぱちぱちと瞬かせ、どこか困惑しているようにも見える。しかし、希佐が黙っていると、観念したように苦笑いを浮かべた。

「ええ、そうね。でも正しくは、好きだった、よ。初恋だったの。彼も私の気持ちに気づいていたんじゃないかしら。でも、私から何かを言ったことはないし、彼から何かを言われたこともないから、本当のところは分からない」

「アランなら受け入れてくれたと思う」

「ええ、そういう人よね、彼って」ダイアナは美しく微笑しながら、グラスの細長い足を指先でゆっくりと撫で上げていた。「年頃になっても特定の相手を作らなかった人が、突然日本人の女の子と一緒に暮らしはじめたって聞いたときは、本当に信じられなかったのよ。アランが誰かと共同生活を送れるとも思わなかったし、それが出会って間もない若い女の子で、しかも外国人でしょう? 言葉の問題とか、文化や価値観の違いとか、そういうことを踏まえて考えると、長続きはしないだろうなと思っていたわ」

「私も、なんかおかしいなって思ってた。最初の頃は毎日監視をされているみたいで、とても居心地が悪かったし」

 くすくすと笑いながら言う希佐を見て、ダイアナはまたゆっくりと目を細めていた。まるで、眩しいものでも見るみたいに。

「でも、いつの間にか好きになってた。こんなにも誰かを好きになるのかっていうくらい」

「お互いに惹かれ合うのも分かるわ。あなたたちは似ているもの」

「似てる?」

「何か言い知れぬ闇を抱えて生きている感じとか」からん、と希佐のグラスの中の氷が音を立てた。「私ではね、彼のその一番柔らかい場所には触れられなかったわ。私だけじゃない、他の誰にもね。だって、手を伸ばしたところで、握り返してはくれないのだもの。でも、アランはあなたの手を掴んだのよ、キサ。あなたはあの人の心の、最も繊細な領域に足を踏み入れられた、多分最初の人。それって、すごく特別なことだと思わない?」

「特別、というか──」

 希佐はそうは思わなかった。アランには、自分よりも大切に思っている人が、きっといるはずなのだ。例えば、もし希佐が目の前から姿を消したとして、今のアランならば、それを受け入れられる。これは以前にも話し合ったことだ。だが、もし目の前からバージルやメレディスがいなくなってしまったら、アランは精神的な支えを失って、身を持ち崩すことになるだろう。

「アランは私のことを遠い人だと思っているから、心の内を吐露してくれたり、ときどき甘えるように寄り添ってくれるんじゃないかな」

「……それはどういう意味?」

「ダイアナやメレディス、それにカオスのみんなは、今までずっとアランの近くにいたでしょう? もしかしたら、みんなの存在があまりに近かったから、今ある関係に変化が生じることを恐れて、何も言えなかったのかもしれないって思うんだ。でも、私はこれまでのアランを知らないから、彼は自分を取り繕う必要もなかったのだろうなって」

 何も言わずに話を聞いていたダイアナだったが、希佐が言いたいことを言い終えると同時に、ふう、と息を吐き出した。テーブルに肘をつき、身を乗り出すようにして頬杖をつくと、じとっとした目で希佐を見た。

「あなた、分かってないのね」

「何を?」

「自分を卑下したり、謙遜したりするのは、あなたが日本人だから? アランがそんな単純な男だと思ったら大間違いよ、キサ。もっと一緒にいてごらんなさい。あの人がどれだけあなたに依存しているか、今に分かるわ」

「……それ、バージルにも言われた」

「バージルに?」

「お前たちは共依存気味だって」

「あなたもあの人に依存しているの?」

「分からない」希佐は困惑した表情を見せる。「でも、そうかもしれない」

「少なくとも私の目には、あなたはアラン・ジンデルなしでも生きていけるように見える。どちらかといえば、あなたが依存しているものは、アラン自身にというより、あの人が描き出す世界にという感じがするのよね」

「え……?」

「そう考えると、アランが依存しているのも、キサ自身というより、KISAという舞台人なのかもしれないわね。あなたたち、いろいろと特殊すぎて、他に比較対象がないのよ。似た者同士、お似合いといえばお似合いなのかもしれないけれど」

 アルコールが入り、ダイアナはいつもより少しばかり饒舌になっている。普段ならば遠慮をして言わないようなことも、酒の力を借りて口にしているように見受けられた。

 そうした指摘は希佐にとって、ありがたくもあったが、同時に耳が痛くもあった。この一ヶ月、アランと離れて暮らしてみて、その存在がどれだけ自分の中で大きくなっていたのか、よく分かったからだ。

 だが、ダイアナが言わんとしていることも分かるのだ。希佐に今回のオーディションを受ける決意をさせたのは、アラン・ジンデルが描く世界の真ん中に立つ権利を、他の誰にも渡したくないという、不純な理由だったのだから。

「ダイアナ、酔っているでしょう?」

「ええ、酔っているわ」

「そろそろ帰ろう」

「あら、まだ座ったばかりじゃない?」

「私はもう帰らないと」

「アランが心配するから?」

「心配なんてしない」希佐はつい口を滑らせる。自分が思っている以上に、酔いが回っているのかもしれない。「今は別々に住んでるから」

「……初耳ね、それ」

 詳しく聞かせなさいという目を向けられた希佐は、お会計をお願いしますとバーテンダーに声をかけてから、ダイアナを見た。

「タクシーの中でなら話してあげる」希佐はダイアナがカードを出す前に紙幣をバインダーに挟み、それをバーテンダーに渡す。「お釣りは結構です」

「ありがとうございました」

 バーテンダーは、テーブルで頬杖をついたままぶすっとしているダイアナの様子を見て、朗らかに笑っている。

「何を笑っているのよ」

「あなたが誰かにお酒を奢られるなんてことはこれまでになかったので、珍しいなと思いまして」

「一生の不覚だわ」

「大丈夫、内緒にしておいてあげるから」

 希佐がコートを手に取ると、傍に立っていたバーテンダーが背中に回り、慣れた様子でそっと着せてくれる。ありがとうございますと希佐が言うと、バーテンダーはその場で目礼をし、脇へ避けて通路を開けてくれた。

「ほら、立って」

 希佐が差し出した手を取り、ダイアナは立ち上がる。僅かに緩めていたネクタイを締め直すと、バーテンダーに声をかけていた。その隙にスマートフォンを確認すると、スペンサーからの着信が入っていたことに気づく。

 希佐はダイアナに電話をかけてくると断ってからバーの外に出て、人気のないエレベーターフロアに立った。履歴から番号を呼び出し、スマートフォンを耳に当てる。

「電話に出られず、すみません」

『いや、いいんだ』声の向こう側から、ゆるやかな旋律が聞こえてきた。『確認をしたかっただけだからね』

「台本ならアランから受けとりました」

『彼とは何か話をしたかい?』

「いいえ」どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら、希佐は見えない相手に向かって首を横に振った。「台本を受け取って、説明を受けただけです。主役の女を象徴する一曲を選んで、明日の深夜までにあなたに連絡をするようにと」

『そうか』

「あの、何か……?」

『何でもないよ。ただ、三次審査のときの君の歌声があまりにも印象的だったから、アランはどう感じたのかなと思ってね。私には何も話してくれなかったから。このオーディションに君を引き込んだことが、未だに許せないらしい』

「これは私の決断です」

『ああ、そうだろうとも』その声音に茶化すふうはなく、むしろ真剣味を帯びた声で、スペンサーは続けて言った。『君は、私たちが何を求めているのか、もう察しているようだしね』

「三次審査のときは何も分からないまま歌っていました。何を求められているのかを理解したのは、ついさっきです」

『では、昨日の歌は──』スペンサーはそこまで言って、いや、と言葉を止めた。『野暮なことを聞くのはやめておこう。最終審査で君が彼女をどのように表現してくれるのか、楽しみにしているよ』

 曲が決まったらメールで教えてくれと言い、スペンサーは電話を切った。

 この人と話をするとき、妙に緊張をするようになってしまったと思いながら、希佐がスマートフォンを握りしめていると、バーから出てきたダイアナがエレベーターの下りボタンを押す。

「難しい顔をしていたわね」

「あ、うん。ちょっと緊張する相手で」

「オーディション関係?」

「そう」すぐにやって来た無人のエレベーターに並んで乗り込み、希佐は徐々に減っていく数字を見上げた。「次がね、最終審査なんだ」

「すごいじゃないの」

「今日はもう帰ってその準備をしなくちゃいけなくて」

「いいのよ。私も今日は意地悪を言いすぎたわ。ごめんなさいね」

「ううん」

 同じタクシーに乗り込むと、希佐は運転手にバージルの家がある通りの名を告げた。それを聞いていたダイアナは、タクシーが走り出すと、隣に座っている希佐を見下ろしてくる。

「本当に別々に暮らしているの?」

「とりあえず、一ヶ月だけ。オーディションの参加者とその舞台の脚本家が、一緒に暮らしているのは良くないだろうって」

「それで、今はどこに?」

「バージルの家に居候させてもらってる」

「……どうしてバージルの家なの?」

 もっと他に選択肢はあっただろうと言いたげな顔を見て、希佐は苦笑いを浮かべた。

「アランはホテルを取ってくれると言ったし、自分の都合だから宿泊費も負担すると言ってくれたけれど、なんだかそういうのが、心底嫌になってしまって」

「そういうのって?」

「私、あのスタジオの二階に住まわせてもらっているでしょう?」

「ええ」

「本当に、ただ住まわせてもらっているだけなの。家賃も払っていないし、諸々の諸経費も、何も払う必要はないって。最初はとてもありがたかった。だって、食べることにも困るくらいの貧乏暮らしをしていたから。アランだって、そういう私の話を聞いて、お金は受け取らなかったのだと思う。だから、申し訳ないなんて思う必要はないのかもしれないけれど、でも、施しを受けているみたいで、耐えられなくなってしまった」

「……そう」ダイアナは静かに相槌を打つ。「あなたは、アランの隣に立っていたいのね。対等でいたいんだわ。だから、自分でお金を稼げるようになってからは、寄り掛かり続けている自分が嫌になってしまったんじゃない?」

「……うん」

「私としては甘えられるところは甘えてしまってもいいと思うけれど、それではキサ自身が納得できないって言うなら、きちんと話し合った方がいいでしょうね」

「何度も言ったんだよ。お金を払わせてって」

「あの人、キサと一緒で頑固だから、一度決めたら絶対にその考えを曲げないのよ。でも、これで懲りたんじゃないかしら。まさか、あなたが自分の提案を拒絶して、別の男の家に転がり込むなんて思ってもいなかったでしょうし」

「わがままなことを言っていると思う?」

「キサが?」目を見開くダイアナを見上げ、希佐は頷いた。「まさか。どんな形であれ、自立しようと努力するのは良いことよ。でも、どこかの家に転がり込むなら、まずは私に声をかけてほしかったわね。お部屋ならいくらでも余っているのに」

「今度困ったことになったら一番に声をかけるから」

「是非ともそうしてちょうだい」

 バージルのコンドミニアムの前に到着すると、タクシーはゆっくりと止まった。財布を出そうとした希佐の手の甲に人差し指を置いたダイアナは、ぱちんとウインクをしてみせる。

「最後くらい格好つけさせてくれない?」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」希佐はタクシーを降りてから、ダイアナを振り返る。「今日はごちそうさまでした。素敵な夜だった」

「そう思ってもらえてよかったわ」

「それに、ヒントもたくさんもらえたから、最終審査も頑張れそう」

「ヒント?」

「バラの花言葉とか、アランが小さな頃のお話とか、他にもたくさん」

「お話くらい、いつだって聞かせてあげるわよ。何かあったら電話をしなさいな。キサの頼みなら何だって聞いてあげる」

 じゃあね、と言って、ダイアナは希佐に向かって投げキスをした。運転手が閉めた扉越しに手を振った希佐は、タクシーが最初の角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、コンドミニアムに入っていく。コンシェルジュが丁寧に頭を下げて、おかえりなさいませ、と言うので、希佐は、おやすみなさい、と言ってその前を通り過ぎた。

 最上階にあるバージルの家に到着すると、エレベーターの扉が開くと同時に、ハカハカと呼吸をしたハンナが、真っ先に出迎えてくれる。

「ただいま、ハンナ」その場に膝をついて体を撫でると、嬉しそうに尻尾を振った。「バージルは?」

 そう問いかければ、ハンナは希佐の前を歩きだし、リビングに向かう。そして、バスルームの前でぺたりと座ると、肩越しに希佐を振り返った。

「ああ、シャワー。ランニングから帰ったばかりなのかな」

 キッチンに入って手を洗った希佐は、冷蔵庫から自分の飲み水を取り出すと、グラスに注いでごくごくと飲み干した。ついでに、ハンナの水も新鮮なものに入れ替えてやると、すぐに飲みにやってくる。隣にしゃがんでその様子を眺めながら、希佐は口を開いた。

「ハンナとお別れするのは寂しいけど、もうすぐここも出て行かなきゃ。せっかく仲良くなれたのにね」

「いつでも遊びに来いよ」いつの間にバスルームから出てきていたのか、冷蔵庫から飲み物を取り出しながらバージルが言った。「何ならキーも預けておくか? アランのところが嫌になったら、いつでも来られるようにな」

「私がいなくなると寂しい?」

「まあ、一カ月も一緒に暮らしていれば、それなりに」

 冷蔵庫から瓶ビールを取り出したバージルは、喉を鳴らしながら半分ほどを飲み、ぷはーっと息を吐いた。どこの国も、ランニング後やシャワー後のビールは、得も言われぬほど最高らしい。

「それで、ダイアナとのディナーはどうだった?」

「すごかったよ、星付きホテルのレストラン。ロンドンの夜景が一望できる席に案内されて、フルコース料理をご馳走になっちゃった」

「へえ、よかったじゃねぇか。良い息抜きになっただろ」

「うん」

「じゃあ、また気合を入れなおさなきゃな。来週には最終審査だ。何をするのか連絡はあったのか?」

「アランに呼ばれて、午前中のうちに台本を受け取ってきた。それを読み込んだら、主役の女を象徴する一曲を明日の深夜までに自分で選ばないといけないんだ。それを最終審査の舞台で披露するんだって」

「台本はもう読んだのか?」

「読んだよ」

「そうか」バージルは希佐の顔色を窺っていたが、落ち着いた面持ちを浮かべているのを目の当たりにすると、すぐに心配そうな表情を消した。「ま、頑張れよ。何か曲を探したければ、書斎にいろいろあるから見ていいぞ」

「ありがとう」

 でも、もう歌う曲は決めていた。

 これしかないというくらい、女を、男を、そして、アラン・ジンデルを表す歌があった。そして、希佐自身も心から共感できる。そんな歌が、台本を読み終えたその瞬間、まるでエンディングのテーマ曲みたいに、頭の中に流れたのだった。

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