週末、最終審査に進んだ五人の参加者たちは、大勢の客で賑わっているヘスティアに集められていた。五人全員を呼び出したのは、演出家のスペンサー・ロローだ。
スペンサーはこれを決起集会のようなものだと称したが、明らかにそのような雰囲気ではない。アイリーンとシルヴィアの間に挟まれて座っていた希佐は、両側から感じるプレッシャーに耐えながら、久しぶりのギネスで妙に乾くのどを潤していた。
「キャットファイトでもはじまりそうな空気感だね」
自分の正面に座っている希佐に向かって、スペンサーが同意を求めるような視線を投げかけてくる。何も言わずに苦笑いだけを浮かべた希佐は、ちょうど注文の品を運んできたメレディスに、助けてくれというふうな目を向けた。
「ハーレムでも築くつもりかな、スペンサー?」
「美女揃いなのは否定しようもないが、全員我が強すぎて、私の手には追えないよ」
「周りのお客様方が、これは一体なんの集まりだとそわそわしはじめていてね。邪魔をされたくなければ、そろそろ本題に入った方がいいのではないかな」
もちろん、この場に集められたのは、決起集会でも、互いの親睦を深めるためでもない。次の水曜日に迫った本番について話があるので、集まってほしいと言われて来たのだ。
メレディスはスペンサーが注文した軽食をテーブルの上に置くと、女性陣に向かって優しげに微笑みかけてから、カウンターの内側に戻っていった。
スペンサーは周りを囲んでいる女性陣に、なんでも注文していいと言ったが、体型を気にしてか、食べ物を頼む人は誰一人としていなかった。寸前まで気晴らしに体を動かしていた希佐は、シャワーを浴びてから急いでやって来たので、昼から何も食べていない。
この話が終わったら、何かこっそり注文しようと考えていると、スペンサーが口を開いた。
「どうだい? みんな準備は進んでいるかな?」
「はい、もちろんです」希佐の隣に座っているシルヴィアが自信満々に言った。「私は明日が本番でも大丈夫なくらい、完璧に準備が整っています」
「それはすごい」
「私にはスペンサー・ロローに推薦していただいたという矜持がありますので。必ず、ご満足いただける歌声をお届けします」
「ああ、楽しみにしているよ」
シルヴィアは、まるで優越感に浸るかのような態度で、自分以外の女性たちを牽制するように見た。だが、スペンサーとシルヴィアの話に割って入ろうとする者はいない。希佐を挟んで座っているアイリーンは、相手をするだけ無駄だと思っていそうな顔で、赤ワインの入ったグラスを優美に傾けている。
しかし、他の者たちは違った。緊張しているような表情を浮かべてはいるものの、何か物言いたげな面持ちで視線を送り合い、目で会話をしているのが分かる。それには多少なりとも悪意が込められているように感じられ、それを目の当たりにしてしまった希佐の心が、静かに、小さくざわついた。
「他のみんなはどう? アイリーン、君は?」
「私は台本の読み込みに力を注いでいます」スペンサーの問いかけに、アイリーンは上品に応じていた。「いくら歌唱に優れていても、作品に対する理解度が足りなければ、中身のない歌をお聞かせすることになりかねないので」
「確かに、その通りだ」スペンサーは感心したように頷いている。「今度の審査では、女をどのように解釈し、どこまで理解しているのかを見せてもらうことになる。歌の中にどれだけのものを込められるか。それが、結果を大きく左右することになるだろうね。ここに残っている時点で、君たちには人並み以上の歌唱力が備わっている。要は、何だって歌えて当然ということだ。私は、歌以上のものを、君たちに期待しているんだよ」
既に歌唱曲は決定された。各々が自ら選んだ楽曲を極めるために、日々研鑽を積んでいるはずだ。希佐もジョシュアと相談しながら、どのように表現するべきなのかを考えているところだった。
「というわけで」スペンサーは唐突に、まるで悪戯を思いついた子供のような顔で、希佐たちを見回した。「当日はホールとオーケストラを用意したから、君たちの練習の成果は、その舞台上で見せてもらうことになるよ。もちろん、お客も入れる。来月に再公演が決まっている私の舞台のキャストがほとんどだが、彼らはブロードウェイで才能を磨いてきたプロだ、普通の観客以上に目と耳が肥えている。その彼らに、この五人の中で誰が一番良かったか投票してもらい、最終審査の参考にさせてもらおうと考えているから、そのつもりでね」
何かがあるだろうとは思っていた。このまま何事もなく終わることはないだろうと、バージルやジョシュアとも話していたのだ。歌を歌うだけなら、既に三次審査で行っている。台本を渡され、物語への理解度を深めてから再度歌うにせよ、同じことの繰り返しでは芸がないだろう。だからといって、最終審査の数日前に突然、当日は客を入れたホールで舞台に立ち、オーケストラの演奏付きで歌を歌ってもらうなどと言い出すのは、正気の沙汰ではない。
思わず苦笑いを浮かべている希佐の隣で、アイリーンが大きく深呼吸をした。そちらを見やれば、アイリーンは目をキラキラと輝かせ、当日が今から楽しみで仕方ないというふうな顔をしている。
歌うだけなら緊張しないのよ、私──希佐は、アイリーンが以前そのように言っていたことを、思い出していた。
「客を入れた舞台に立つ以上、少なからず演出が必要になる。自分自身で演出するも良し、自分の推薦者に相談するも良し、なんなら私に助言を求めても良い。誰でも大歓迎だよ。最高のステージにするためだ、多少のことには目を瞑ろう。最後のチャンスだからね、悔いの残らないようにやってくれたまえ」
当日の午前中、それぞれ三十分ずつではあるが、オーケストラとリハーサルを行う時間が設けられるという。希佐は、生演奏での歌唱経験がほとんどなかった。あっても少人数のアンサンブル程度で、フルオーケストラは未知の世界だ。他の四人は商業演劇の経験者なので、たいして不安には思っていないようだった。
すべての話が済んだあと、人知れず注文したパイをカウンター席の端で食べていると、そこにスペンサーが現れた。黙々とパイを食べている希佐を見て、僅かに目を丸くしている。
「そんなにお腹を空かせているなら、私にご馳走させてほしかったね」
「すみません」口の中のパイをエールで流し込み、ナプキンで口元を拭った。「あの場でいただいていたら、なんだか顰蹙を買いそうな雰囲気だったので」
「ああ、レディーの中には六時以降の食事を嫌う者がいるらしいね」君は違うようだがと言って、スペンサーは希佐の隣に座った。「どうぞ食事を続けてくれ。私のことは気にしないで」
「あ、はい……」
気にしない方が難しいと思いながら、希佐はパイを再び口に運ぶ。スペンサーは新たに注文した酒を片手に、その様子を何も言わずに眺めていたが、不意に口を開いた。
「君は私に助言を求めるつもりはないようだね」それとも、とスペンサーは続け様に言う。「アランに頼むつもりかな? 彼なら君を誰よりも美しく見せる術を知っているだろう」
「アランに演出を頼むつもりはありません。それに、自分で考えてと言われるに決まっています。彼はアイリーンを勝たせたがっているので」
「では、どうするんだい?」
「もう考えてはいるんです。スペンサーさんのお力もお借りしません」
「それはまたどうして?」
「私、人を驚かせることが好きなんです」希佐は持っていたフォークを置き、手を合わせると、ごちそうさまでしたと日本語で小さく漏らした。「だから、今回は自分でいろいろと模索してみようと思っています。あ、でも、ボイストレーナーに歌の稽古をつけてはもらいますが……」
「それは君以外のみんなもやっていることだよ」
「あ、そうですよね。私はボイストレーニングに通うこと自体がはじめての経験なので、すごく特別なことをさせてもらっているなと思っていて」
「今まではアイリーンから教わっていたのかい?」
「教わるというより、アイリーンが歌うのを聞いて覚えたと言った方が正しいかもしれません。カオスの公演準備期間中は、アイリーンが私の歌を聞いて、散々ダメ出しをしたあとで、お手本に一回だけ歌ってくれるんです。私はそれを録音して、次の稽古日まで何度も歌い込んで練習をしていました」
「でも、彼女の歌とは違う癖もある」
「そうでしょうか?」
「君の歌からは希にアラン・ジンデルを感じるよ」
「ああ……」希佐は思わず声を漏らし、苦笑いを浮かべた。「アランが吹き込んでくれる仮歌もよく聞いているので、その影響かと。俺を真似るなと言われているんですけれど、どうしても似てしまうときがあるみたいで」
「君のすごさは、そうして吸収したものを自分の中にしっかりと落とし込み、昇華できるところにある。大体の人間は模倣で終わるが、君のそれは、きちんと自分のものになっているようだからね」
そう思ってもらえるのであれば、それは希佐自身の才能というよりも、ジョシュアの教え方が優れているということに他ならない。いくら努力をしたところで、その努力の方向性が間違っていれば、身につくものも身につかないのだから。
ジョシュアはまるで魔法使いのようだった。一見まったく無関係な宿題を出されているように思えても、それを行ったことで翌日には悪い癖がすっと改善され、より歌いやすくなっていることがある。君の癖はこんな感じだよと言って、真似て聞かせてくれる歌声は、まるでふわふわの綿毛のように優しいのだ。一度聞き惚れて話を聞いていなかったとき、素直に思ったことを伝えると、ジョシュアは複雑そうな顔をしながらも、ありがとうと言った。
「ぼくの声は癖が強すぎるんだ。キサみたいにどんな役でも器用にこなせるわけじゃない。声量もあまりないし、もともと喉が弱いんだよ。でも、ふわふわの綿毛か。初めて言われたな」
稽古は楽しい。新たな課題が見つかると嬉しくなる。実のところ、これでもかと悩みながらも、この一ヶ月は自分にとって、とても良い経験になったと希佐は思うのだ。もちろん、つらいことも多かったが、そのおかげで分かったことがある。決まった覚悟もある。自分が抱えている問題も浮き彫りになってきた。すべてを乗り越えたとき、そこに後悔が残らなければ、それはきっと、最高の引き際になるのだろう。
「ここだけの話、他の審査員たちは、君をどう評価するべきか考えあぐねているようでね」唇に人差し指を添え、そっと囁くようにスペンサーは言う。「まあ、私は君を推薦した者として、最後まで責任を持って見守らせてもらうよ。最終審査の舞台では、是非とも我々の度肝を抜くようなパフォーマンスを見せてほしい」
ではね、と言ったスペンサーは、椅子から立ち上がると、他の参加者が座っている席に向かっていった。こうして全員の相談に乗ってくれているのだろう。この舞台を成功させるための鍵は、主役の女を演じる役者が握っていると言っても過言ではない。可能なら、五人全員がベストなパフォーマンスを見せ、その中から最も相応しい人物を選びたいと、そう思っているはずだ。
他の子たちは一体どんなものを見せてくれるのだろう──希佐はワクワクとした気持ちを抱えたまま、手元にスマートフォンを取り出した。気にはなるが、他人のことを考えていられるような余裕はない。
希佐は履歴の中から目当ての名前をタップすると、スマートフォンを耳に当てる。そのとき、カウンターの向こう側から手が伸びてきて、空になった皿が持ち去られていった。顔を上げると、僅かに微笑んだメレディスと目が合った。
『ハーイ、キサ』
「こんばんは、ダイアナ」
『あなたから連絡をくれるなんて珍しいじゃない?』
「実はダイアナにお願いがあって』
『あら、なあに? もしかしてバージルの家にいるのが嫌になったの?』
「そうじゃなくて」希佐は少しだけ笑ってから、その先を続けた。「私が最終審査の舞台で着る衣装を、ダイアナに用意してもらえないかなと思って」
希佐はスペンサーから伝えられた話を、そのままダイアナに話して聞かせた。
自らを演出する必要があるということは、身につける衣装からヘアメイクまで、すべて自分で考え、準備しなければならないということだ。ダイアナはカオスの舞台衣装を担当してくれているので、絶対的な信頼を置いている上に、希佐の身体的特徴をすべて把握してくれている。
「最終審査日は今度の水曜だし、時間はあってないようなものだけれど、ダイアナ以外には頼めないことだから、是非お願いしたいんだ」
『……それって、仕事としてよね?』
「うん」
『私、高いわよ』途端にダイアナの声が低くなり、厳しさを孕んだ。『お友達割引なんてないわ。報酬、きちんと払える?』
「払う」
『目ん玉飛び出るくらいの金額よ』
「分かってる」
『……口座番号と請求額を送るから、よく考えてから決めて。一旦切るわ』
電話を切って程なくすると、ダイアナからのメールが届いた。呼吸を整えてからメール画面を開いた瞬間、希佐は思わず息を飲む。同時に気管支に唾液が入り込み、激しくむせ返ってしまった。げほん、げほん、と咳き込む希佐を見て、カウンターの向こう側にいたメレディスが水を手に飛び出してくる。
「キサ、大丈夫かい?」
「う、うん、平気」ナプキンで口を覆いながら咳き込む希佐の背中を、メレディスが優しくさすってくれた。「ごめん、ちょっとびっくりして」
差し出された水をこくこくと飲んだ希佐は、ふう、と大きく息を吐き出すと、傍にいるメレディスを見上げた。
「どうもありがとう、メレディス」
「誰かと電話で話をしていたようだけれど」
「ああ、うん。ダイアナとね。最終審査の舞台で着る衣装を用意してもらおうと思って、お願いしてみたんだけど」希佐はそう言ってから、たった今届いたメールの画面をメレディスに見せた。「これくらいかかるんだって」
「これは、また……」
「それなりの金額にはなるだろうなと思っていたんだ。でも、想像していたよりも桁が多かったな」
あはは、と乾いた笑い声を上げながら、希佐は頭を掻く。
だが、頭の中で構築しはじめている構成に、ダイアナの衣装は必要不可欠なのだ。将来が不安で貯蓄を続けてきたが、もうこれで最後なのだと思えば、何も惜しくはない。貯金の大部分が持っていかれるくらいなんだ。お金はまた貯められる。だが、夢の舞台はもう二度と、巡ってはこない。
「あっ、キサ──」
スマートフォンを使い、自分の口座からダイアナの口座に請求金額を振り込んでいる希佐を見て、メレディスが珍しく慌てたような声を出した。もっとよく考えた方がいいと言うつもりだったのだろう。だが、もう既に後の祭りだった。
「貧乏生活に逆戻りだけど」すぐにスマートフォンが微振動をはじめた。「私をまた雇ってくれる?」
「……まずはその電話に出たらどうだい?」
「うん」
さすがのメレディスも言葉がないというふうな顔で、カウンターの内側に戻っていく。希佐はその背中を見やりながら、スマートフォンを耳に当てた。
『よく考えてから決めなさいと言ったのよ』
「よく考えてから電話をかけたよ。貯金額に収まるくらいだったら、すぐにお願いするつもりだったから」
『……本当にいいのね?』
「うん、いい」希佐は小さく息を吐く。「お願い、ダイアナ」
これは一世一代の、最初で最後の大勝負なのだ。だが、博打を打っているのではない。これは勝つための投資だ。
舞台に立つ人間は、観客から見た目で判断される。一次審査から三次審査までで、技術面の評価は既に出揃っているはずだ。最終審査は、観客に与える印象──すなわち、見たままを評価されることになる。
役者が、これまでにどれだけの努力を積み重ねてきていようが、観客には関係ない。たった一度きりの失敗が、誰かにとっての永遠の記憶となる。だが、最高の舞台は、最高の思い出として、観客の記憶の中で生き続けることになるのだ。だから希佐は、たとえこれがオーディションの一環なのだとしても、最高の舞台を届けたいと思う。
『本気なのね』
「うん」
『……分かったわ』承りましたと言いながら、ダイアナが立ち上がる気配を感じた。『時間がないから、すぐに打ち合わせをはじめましょ。あなた、今どこにいるの?』
「ヘスティアだけど」
「じゃあ、私は一時間後にバージルの家に着くように行くわ。あなたも今すぐ帰り支度をはじめなさい」
「あ、はい──」
『急ぐのよ』
ぷつん、と通話が途絶える。
希佐は一瞬ぽかんとしてから、はっとして立ち上がった。隣の椅子に置いていたバッグとコートを掴むと、辺りを見回す。スペンサーに挨拶をしてから帰らなければと考えたが、少し離れたテーブルでシルヴィアと話し込んでいるのを見つけて、思わず躊躇ってしまった。しかも、どことなく険悪な雰囲気が漂っているようにも見受けられる。
希佐がどうしたものかと悩んでいると、同様に帰り支度を済ませていたアイリーンが、こちらに歩み寄ってきた。
「あの二人には近づかない方がいいわよ、キサ。あなたは特にね」
「え、どうして?」
「あの子、あなたとスペンサーがカウンターで話していたのを盗み聞きしていたみたい。あなたが推薦したのは私だけじゃなかったんですか、って食ってかかってるのよ。キサは私と一緒にアランが推薦したと思っていたんでしょうね」
確かに、一次審査のまちじかんにこえをかけられたとき、そのようなことを言っていたような気もすると思いながら、希佐は複雑な面持ちを浮かべた。誰が誰を推薦したかなど、これまでの審査には何の関係もないのではないか。
「あの子は演出家に推薦された人間だから、最終審査に合格するのは当然自分だって思っていたんじゃないかしら。オーディションは役者に箔をつけるためのもので、合格者は最初から決まっているも同然だって吹聴して回っていたから」
「そんなことは……」
「あり得ないわよ、当たり前でしょう?」アイリーンはうんざりだと言うように肩をすくめる。「さあ、メレディスにスペンサー宛の伝言を頼んで、私たちは帰りましょう。あなた、急いでいるんじゃない?」
「う、うん、そうなんだけど」
「大丈夫よ。ほら、早く早く」
アイリーンはそう言うと、希佐の手を取って歩き出した。そして、カウンターの内側でスタッフと話をしていたメレディスに向かって軽く手を挙げ、自分の下へと呼び寄せる。
「今日はもうお帰りかな」
「ええ。本当はスペンサーに挨拶をしてから帰りたいのだけれど、何か込み入った話をしているみたいだから、言伝を頼まれてもらえないかしら」
「もちろん、いいとも」
「ありがとう、メレディス」
こういうとき、アイリーンはいつも角が立たないスマートな言い回しで、多くのことを解決してしまう。言葉の端々に品性が感じられるのだ。それを受け取るメレディスも、あえて多くを尋ねることはしない。大人同士の会話だと、希佐は感じていた。
「頼むことにしたんだね」
「もう決めたの。何も言わないで」
「僕は君に何かを言える立場にない。でも、上手くいくことを祈っているよ。アイリーン、君もね」
「紳士なのね、メレディス? 素直に希佐を応援していると言えばいいのに」
「僕はカオスのファンなんだ。だから、どちらが選ばれても嬉しいし、選ばれなかったとしたら残念に思う」
「今回ばかりは絶対に譲れないから、勝つのは私よ。キサにだって勝てる自信があるんだから」
ふふん、と得意そうな顔をしたアイリーンだったが、店の外にタクシーがやってきたのを認めると、再び希佐の手を取った。
「タクシーが来たから、私たちは行くわね」
「二人とも応援しているよ」
「ありがとう」
おそらく、アイリーンはシルヴィアからの攻撃が希佐にまで飛び火してしまう前に、店外へ連れ出すべきだと考えたのだろう。半ば逃げるような足取りでパブの外に出ると、アイリーンは希佐をタクシーの中に押し込んだ。
「私はスタジオに寄っていくけれど、キサは? このままバージルの家に帰るの?」
「うん」
「じゃあ──」
アイリーンは運転手に向かってバージルの家がある通りの名前を伝えた。
「スタジオの方が近いのに」
「いいのよ、気にしないで。それに、私はキサと二人きりで話したいことがあったの」
タクシーがゆっくりと走り出す。希佐とアイリーンは隣り合って座り、お互いを見やっていた。車内は暗かったが、道路を転々と照らす街灯の下を通るたびに、アイリーンの青白い顔が浮かび上がった。
「私ね、今でもアランのことが好きよ」
何の前触れもなく口にされたアイリーンの言葉に、希佐は一瞬呼吸を忘れた。アイリーンの口から直接その言葉を聞くのも、はじめてのことだった。
「だから、彼があなたではなく私を選んで、オーディションを受けるようにと推薦してくれたときは、とても嬉しかったの。キサはショックだったと思うけれど、彼、言ったのよ。本当に、血反吐を吐くくらいの努力をする覚悟があるのなら、私でも勝つ可能性はあるって」
「それは、もちろん。この役には私よりもアイリーンの方がはまっていると思うし──」
「はまり役かどうかで判断するなら、この役はシルヴィアに持っていかれるわ。妖艶な悪女の王道じゃない、あの子。役作りの必要なんてないくらいのはまり役よ。ただ、面白みには欠けるけれど」
スペンサー・ロローは王道の役者と、それとは真逆の、一見するとはまりどころのない役者をオーディションに送り込んだ。結果として面白みがあるのは、間違いなく希佐の方だろう。だが、配役ミスで失敗に終わる可能性は、無きにしも非ずだ。それならば、アイリーンのような中間の役者を使った方が、安全だといえる。そう考えると、役者の実力が拮抗していた場合、審査員たちは難しい判断を迫られることになるのかもしれない。
「私は血反吐を吐くような努力をしてきたつもりよ、キサ。だから負けたくないし──ううん、絶対に負けない。それでアランを見返してやって、改めて告白するつもり」
「告白……?」
「あなたを好きです。私と結婚してくださいって」
「……」
上手く言葉が出て来ず、絶句した希佐を見て穏やかに微笑んだアイリーンは、話を続けた。
「この一ヶ月は神様が私に与えてくれた最後のチャンスだと思って、本当に頑張ったのよ。歌もお芝居も、苦手なダンスだって。それから、アランに私を好きになってもらうための努力もしてきたつもり。ちょっとは絆されてくれたんじゃないかって、期待しているの」
「……そう、なんだ」
「私、キサに勝ちたい」
「私は……」
「最終審査の直前にこんなことを言うのは卑怯だって分かっているわ。でも、あなたには話しておかなくてはいけないような気がしたから」
ああ、これが、この一ヶ月の間中感じていた、アイリーンの自信の源だったのだと希佐は知った。自分とは似て非なる目的のために、アイリーンは努力を積み重ねている。そして、自らの成功を誰よりも自分自身が信じているのだ。同時に、それを自分以外の誰かに宣言することで、逃げ道を経っているのかもしれない。
「……ちょっと、何か言うことはないの?」アイリーンは希佐の腕を肘で小突いた。「このままだと、私にアランを取られてしまうかもしれないのよ」
「……いいんじゃないかな、それでも」
「えっ?」
「私が嫌だと言ったところで、決めるのはアランだもの。あの人がアイリーンがいいと言うなら、私はそれを受け入れる」
「それって、アランは絶対に自分を選ぶっていう自信があるから、余裕ぶって言っているの?」
「違うよ、そうじゃない」希佐は苦笑いを浮かべた。「私はね、アイリーン。このオーディションに合格しても、たとえ不合格だったとしても、役者を辞めようと思っているんだ」
「……嘘でしょう?」
「本当だよ。アランにも伝えてある。オーディションに合格したら、この舞台を最後に役者を辞める。合格しなければ、それが少し早まるだけ」
「辞めるなんて、そんな簡単に──この先どうしていくつもりなの?」
「日本に帰るよ。日本を出てもう五年も経ったし、みんな私のことなんて忘れていると思うから。これからは、歌劇や演劇の世界からは離れて生きていく」
「本気? アランはなんて言っているの?」
「好きにすればって」
今度はアイリーンが絶句する番だった。希佐の顔を睨むようにじっと見つめ、何やら悔しそうに奥歯を噛み締めている。それでもタクシーは走り続け、間もなくバージルの家がある通りに到着しようとしていた。
希佐はタクシー代を取り出そうと、バッグの中に手を入れた。これからまた無駄遣いはできなくなるので、タクシーを利用するのもこれで最後にしようと思っていると、アイリーンが口を開く。
「……どうして辞めようなんて思ったの」
「もう充分だと思ったから、かな」
「充分って……」
「疲れちゃったんだよ。偽ってきた性別がバレてしまったらどうしようって、怯え続けることに」
「でも、それは日本での話でしょう」
「外国にいたところで、ユニヴェールのことを知っている人は舞台を見にくるし、実際、同期にだって見つかってしまった。幸い、加斎くんは誰にも何も言わずにいてくれているけれど、世の中彼みたいに優しい人ばかりじゃない」
「だからって、あなたが役者を辞めるなんて……」
「楽しかったよ、この三年間。アランに見つけてもらえて、幸せだった。カオスの仲間に入れてもらえて、私がどれだけ救われていたか」タクシーが止まる。希佐はスタジオまでかかる料金を見越し、先にタクシー代を支払った。「最終審査、一緒に頑張ろう。私、自分以外の誰かが選ばれるなら、絶対にアイリーンがいい。アランだって、あなたに勝ってほしいと思っているから」
「キサは?」
「私?」
「勝ちたいと思わないの?」
「勝つよ」希佐はコートとバッグを抱えてタクシーの外に出た。「私は絶対に誰にも負けない」
ぐらり、と精神が揺さぶられたことは確かだ。でも、そんなことには屈しない。今までにだって幾度となくそういう目に遭遇してきたのだ。今更、心が折れたりはしない。
「おやすみなさい、アイリーン」
「……おやすみ」
ばたん、とドアを閉める。タクシーはすぐに発車し、最初の角を曲がっていった。
建物の中に足を踏み入れ、おかえりなさいませ、と挨拶をするコンシェルジュの前で足を止めた希佐は、バージルは帰っているかと尋ねる。コンシェルジュはいつも通りにこりともせず、お帰りです、とだけ答えた。
この人は、もしかしたらアンドロイドか何かなのかもしれない。そう思ってしまうほど、いつも同じ表情で、同じ場所に立ち、同じ声の出し方をする。だが、もし本当にアンドロイドなら、もっと愛想がいいはずだ。
真面目ぶった表情でそのようなことを考えながら、希佐は感謝の言葉を伝えて立ち去ろうとする。しかし、思い出したように足を半歩引き戻すと、コンシェルジュを見上げた。
「これからバージルのところにお客様が来るので──」
「いらっしゃいましたら、すぐにご連絡いたします」
「お願いします」
エレベーターに入って、いつものようにカードキーを通すと、その箱は希佐を最上階へと運んでいく。尻尾を振って出迎えてくれるハンナを目一杯可愛がっていると、リビングの方から汗だくのバージルが姿を現した。
「スペンサーの話、何だったんだ?」
「最終審査のことだったよ。お客さんを入れたホールで歌うんだって。贅沢にもオーケストラの伴奏付きで」
「そりゃまた、ぶっ飛んでんな……」
「今からダイアナがここに来るんだけど、大丈夫だったかな」
「ダイアナ? ああ、まあ、それは別に構わねぇけど、どうしてまた」
「最終審査の舞台で着る衣装をお願いしたら、今から打ち合わせをしましょうって」
「は? お前、あいつに衣装なんて頼んで大丈夫なのか? 大枚吹っ掛けられるぞ」
「あ、うん、吹っ掛けられたよ」
「……まさかとは思うけど、それ、払ったのか?」
「うん」
平然とした顔で頷く希佐を見て、バージルは心底呆れ顔だ。信じられないというふうに肩をすくめると、リビングに引き返していく。ハンナがそれを追いかけていき、希佐もそれに続いた。
「カオスの舞台衣装を作ってもらうのにだって、相当払ってるらしいからな。俺らは公演で稼いでるわけじゃないし、全部が全部アランのポケットマネーから支払われてるから、詳しいことは知らねぇけど……」
「でも、それなりにかかるだろうなとは思っていたから」
「値段交渉はしたのか?」
「ううん」首を振る希佐を振り返り、バージルは渋い顔をする。「だって、私から交渉する権利なんてある? 本番は今度の水曜日だよ。超特急で用意してもらわなきゃいけないのに」
「そりゃまぁそうだろうけど」
「むしろ、引き受けてもらえてよかった。断られたときのことを考えていなかったから」
「……お前、将来が不安だから金貯めてるって前に言ってなかったか?」
「全財産ってわけでもないし、お金ならまた貯めればいいけど、このオーディションはもう二度と受けられないから、悔いのないようにしたいだけ」
「まあ、お前がそれでいいなら、俺から言うことはなにもないんだけどよ」
シャワーを浴びてくると言って、バージルがバスルームに入って程なくすると、フロントから連絡が入った。ダイアナがやって来たというので、そのまま通すようにお願いし、ハンナと一緒にエレベーターの前まで迎えに行く。
「ハンナはダイアナに会ったことある?」
希佐が前足を揃えて美しく座っているハンナにそう声をかけると、こちらを振り仰いだ顔が僅かに傾けられた。ぽーん、という音と共にエレベーターの扉が開く。すっと立ち上がったハンナは、エレベーターの外に出てきたダイアナの周りを、ぐるぐると嗅ぎ回りはじめた。
「あら、バージルもボーダーコリーを飼っているの?」途端に嬉しそうな顔をしたダイアナは、機嫌良くそう言うと、犬と視線を合わせるようにしゃがみ込む。「うちにもいるのよ、ボーダーコリー」
ほら、と言いながら、ダイアナはスマートフォンの画面をハンナに見せた。
「こっちのブルーマールの子がキングで、レッドの子がジャックよ。どちらも男の子なの」
すると、ハンナはスマートフォンの画面を見るというよりも、ダイアナの手のあたりの匂いをくんくんと嗅いだ。ダイアナはハンナのしたいようにさせている。ハンナはひとしきり匂いを嗅いだ後、しゅんっ、とくしゃみをしたかと思うと、そのまま背中を向けて歩いていってしまった。
自分のときと同じだと希佐が思っていると、ダイアナは穏やかに笑いながら立ち上がった。
「やっぱりボーダーコリーはいいわぁ。あの子、女の子ね。精悍な顔つきをしているもの」
「男の子は違うの?」
「大体は甘ったれた顔をしてるわね」
「ふうん」希佐はダイアナをリビングに通した。「バージルは今シャワーを浴びているから──ダイアナ、何か飲む?」
「カフェインのあるものなら何でもいいわ」
ダイアナはそう言うと、肩にかけていたバッグを椅子に乗せ、その中から取り出したスケッチブックと色鉛筆をアイランドテーブルの上に置いた。希佐がエスプレッソマシンで入れたコーヒーを持っていくと、ダイアナは「さあ」と口火を切る。
「早速で申し訳ないけど、話を聞かせてくれる? まずは、あなたがイメージするステージコンセプトを聞かせて」
「私はベット・ミドラーのザ・ローズを歌う。この歌、知ってる?」
「ええ、もちろん」
「今回の脚本は、いろんな場面でバラが登場するの。きっと故意にそうしているんだと思う。ダイアナがディナーに連れていってくれたとき、バラの花言葉のことを教えてくれたでしょう? 自分でも調べてみたけど、白いバラの花言葉がとても印象的だった。私が考える物語の根底にあるイメージと合致するんだ。だから、衣装は白バラをモチーフにしてほしい」
「……キサ、私がした話を覚えている?」
「バラはそれだけで完璧な存在だから、それ以上のものを作らなければと思うと、尻込みをしてしまう──でも、尻込みをするってことは、それができないって意味じゃない。そうでしょう?」
「それはそうね」
「私はダイアナが作ってくれる舞台衣装が大好き。スペンサーさんに今回の話を聞いたとき、絶対にダイアナが作ってくれた衣装を着て舞台に立ちたいと思ったの。あなたの服には力がある。その役を演じる役者のためのドレスじゃない、物語の中に生きている彼らのためのドレスを作ってくれていると感じられるから。白いバラの花は彼女を語る上で絶対に外せないものなんだ。ただ綺麗だからお願いしてるわけじゃない。私はこれしかないって思ってる」
「……私が無理だと言ったらどうするの?」
「考えてない。でも、もう他の人を頼る時間も伝手もないから、返してもらったお金で寝具屋さんに行って、一番高い真っ白なシルクのシーツを買ってくると思う」
「それを纏って歌う?」
「いっそ神秘的だと思わない?」
「……いいわ、分かった」何が、という顔をして目を丸くする希佐を見て、ダイアナは諦めたように笑った。「一度引き受けた仕事を投げ出すなんてことはできないもの。作ろうじゃないの。この私がキサを誰よりも輝かせてあげる」
「こんな小娘に大枚叩かせたんだ、そりゃ上等な衣装の一着や二着、作ってやらねぇとな」
服を着ながら二人の話を聞いていたのだろう、バスルームから出てくるなり、バージルがそう言った。髪から水を滴らせながらキッチンに入ったバージルは、いつものように冷蔵庫からエールを取り出している。
「なによ、随分嫌味な言い方をするじゃない? 私は相手が友達だからって自分を安く売ったりはしないの。才能はいずれ枯渇するものなのよ、バージル。いくら天才と呼ばれる男でもね。今のうちにたんまり稼いでおかなくちゃ」
「おっ、喧嘩売ってんのか?」
「あら、そう聞こえた? 失礼、そんなつもりは全然ないのよ」一瞬にして不穏な空気が漂ったのを感じ取り、希佐は困惑の表情を浮かべる。「第一、友達だからって頼まれた仕事に私情を挟むのは大きな間違い。キサに友達なんだから少しくらい安くしてなんて言われていたら、今後のお付き合いについてちょっと考えさせてもらっていたでしょうね。そんなケチな友達、願い下げだもの」
「へえ、そうかよ」少し乱暴に呷ったエールをごくりと飲み込み、バージルはダイアナを正面から見据えた。「その割には、お前、キサによく洋服やら何やら贈ってるよな。星付きホテルのディナーに連れ出したりなんかして、下心でもあるんじゃねぇの?」
「下心があったらいけない? キサは魅力的な女の子だもの、別に好きになったっていいでしょ?」
「お前なぁ」バージルはそう言って顔を顰める。「おいキサ、本気で気をつけろよ。こいつ、男だけじゃなくて、女も抱ける野郎なんだからな」
「えっ、そうなの?」
「ちょっと、そんなやつの言うことを鵜呑みにしちゃダメよ、キサ」
「じゃあ、嘘なの?」
「嘘……では、ないわね」思わずバージルの方を見やれば、ほうら、と言わんばかりの表情で、眉を顰めているのが目に入る。「だからって、キサのことを取って食べようなんて考えたことは微塵もないわよ。私はこの子の人となりが好きなの。おかしなことを言わないでちょうだい」
こんな男に構っているだけ時間の無駄よと言って、ダイアナは色鉛筆の紙のカバーを外した。ずっと使い込んでいることが分かるほど箱はぼろぼろで、色鉛筆自体も短くなってしまっている。よく見ると日本製のようだった。
ダイアナに脚本を読ませるわけにもいかず、希佐は自分の言葉で物語の中に生きている女のあらましを伝えた。そして、独自の解釈を交えて、希佐が考える女の人物像を詳細に話して聞かせる。すると、黙って耳を傾けていたダイアナは、色鉛筆を手に取ってスケッチブックの上を滑らせはじめた。ダイアナの手はまるで魔法の杖を操るように、さらさらと美しいドレスのデザイン画を描いていく。
「白バラをモチーフにしたドレスで凝ったものをデザインしようとすると、どうしてもウェディングドレス寄りになってしまうのよね。でも、キサがイメージするものは、もっとこう、さらっとしたものでしょう?」
「必ずしも凝ったデザインである必要はなくて……うーん、どう言えばいいのかな」
希佐たちの話に興味を失ったらしいバージルは、少し離れた場所でハンナと一緒にボール遊びをしていた。希佐はその様子を横目に見てから、ダイアナに視線を戻した。
「部屋の中に風が吹き込んできて、それで、レースのカーテンがやわらかく膨らんだりする感じ、というか」
「それなら、スカート部分の生地を花びらみたいに重ねてみるのはどうかしら。動きが出て面白いわよ、きっと」
ダイアナはいろいろな提案をしながらデザイン画を描いてくれるが、希佐にはなぜだかしっくりこない。頭の中にぼんやりとしたイメージはあるものの、それがはっきりとした形を表すことはなかった。改めて、カオスのすべての公演で衣装のデザインまで手掛けていたアラン・ジンデルの凄さを思い知らされる。
「……大人っぽくなりすぎない方がいいと思うんだ。かといって、可愛らしすぎるのも違うと思う。過剰な飾りはいらないの。シンプルだけど、野暮ったくない感じで」
「それ、漠然としすぎじゃねぇか?」
「クライアントなんてみんなそんなものよ」
バージルの言う通りだ。どうしたらこの漠然としたイメージが正しく伝わるのだろうかと考えたとき、希佐は不意に思い立つ。残された方法は、もう一つしかない。
「言葉で説明するより、歌を聞いてもらった方がイメージが伝わりやすいかもしれない」
「あら、それは名案ね」ダイアナは嬉しそうににこりと笑った。「ここで歌って聞かせてくれるの?」
「アカペラでよければだけど」
「録画してもいいかしら」
「うん」
ちょっとシアタールームで声出ししてくるからと言って、希佐はその場を後にする。
あの歌を歌う前は、気持ちを作るのがとても難しい。重要なのは声出しよりも、己の感情をどれだけ女に近づけられるかだ。今はまだ、本人に成り代わって歌うという感覚しか掴めていない。当日までには完全にリンクさせたいと思いながらも、一週間という短い期間では、なかなか難しい問題だった。
だが、できないなどと言ってはいられない。可能なかぎり完璧に近い形で披露しなければ、希佐が思い描く正しいイメージがダイアナに伝わることはないだろう。
後ろ手にシアタールームの扉を閉め、窓のない完全な暗闇の中で、希佐は深呼吸をする。目を閉じ、想像する。
白いバラの蕾がゆっくりと花開き、美しく咲き誇り、そして、物悲しく散っていく、その様子を。
刻一刻と日時は進み、何事もなくクリスマスを通り過ぎて、すべての終わりの日が訪れた。
クリスマス当日、スマートフォンを片手に、アランに電話をしようかどうか、プレゼントを持ってスタジオに行こうかどうかを散々迷った挙げ句、結局何もせずに二十六日を迎えてしまったことが、唯一の心残りだった。
だがしかし、クリスマスはアイリーンがアランの傍にいて、その日を一緒に過ごしてくれたはずだ。あの人が孤独でないのなら、それでいいのだと自分に言い聞かせて、火傷をしたように痛む心を無視しながら、歌の稽古に励んでいた。
今、この会いたい気持ちは、希佐にとって足枷にはならない。その思いさえ、歌に生きているのが分かる。ストックされた感情に思いを馳せるほど、離れていても尚与えられるものの大きさに、愕然とするほどだった。
この離れていた一ヶ月という時間。短いようで、長い。長いようで、短い。近すぎて見えていなかったものが見えるようになり、遠退いてしまったからこそ、思うことがあった。
恋が愛に変わったのは、いつのことだったか。最早、思い出すこともできない。好きになってしまったと吐き出した口は、いつの頃からか、愛していると囁くようになっていた。何の罪悪感も抱くことなく。でも、それでいいのだと希佐は思う。過去は過去、今は今だ。たとえ日本に帰るのだとしても、生涯、この思いが消えてなくなることはない。
すべてのものに終わりは訪れる。
努力は必ずしも報われない。
この世界はとてつもなく残酷で、理不尽だ。
これは、日本から逃げ出した後の二年間で思い知らされたことだ。しかし、その後の三年で、正反対のことを実感した。
すべてのものにはじまりがある。結果はどうであれ、努力は報われるべきだ。そして、この世界の美しさからは、誰も目を逸らすことはできない。
『──キサ、本当にごめんなさい!』リハーサルの前にダイアナから電話がかかってきた。『衣装、たった今完成したところなの! 今から飛んでいくわ! まだ間に合うわよね? 大丈夫よね?』
「大丈夫だよ。落ち着いて、ダイアナ」こんなふうに慌てふためいているダイアナの声を聞いたことがなかった希佐は、苦笑いを浮かべながら言った。「本番は午後からだから、慌てず、急いでね」
『ごめんなさいね。私の身勝手で衣装の作り直しを申し出たのに、それが本番直前まで完成しないなんて、とんだ体たらくだわ』
「でも、いいものができたんでしょう?」
『それはもちろんよ、保証するわ』そのとき、リハーサルのためにホールに入るよう、スタッフが希佐を呼びに来た。『これからリハーサル?』
「うん」
『十二時前には到着するわ』
「気をつけてきてね」
『ええ、ありがとう』
クリスマスコンサートを終え、すぐにニューイヤーコンサートを控えているホールの丁度空いていた中休みの日を急遽押さえ、既にクリスマス休暇に入っていたであろうオーケストラを引っ張り出すために、どれくらいの費用が必要なのか、希佐にはとんと見当がつかない。
だが、製作陣はそれだけ本気だということだ。この舞台に並々ならぬ意欲を注ぎ込んでいるのが分かる。自分を含む、最終審査に残された五人は、それだけ期待されているということなのだろう。
その期待に応えたいと希佐は思っていた。審査員たちが求めている以上のパフォーマンスを見せたい。そのためには、オーケストラの協力が必要不可欠だ。良い印象を持ってもらえるように、精一杯頑張ろうと、気を引き締めていた。
「おはようございます」ステージの袖から出ていくと同時に、希佐は元気よく、朗らかに挨拶をした。「本日はよろしくお願いします」
そう言う希佐をステージ上で出迎えたのは、指揮棒を持った男だった。三十代後半から、四十代前半ほどの、若い指揮者だった。
「やあ、私は副指揮のローラン。マエストロは今頃パリで休暇を楽しんでいるから、今日のオーディションは私が担当するよ。よろしくね」
「希佐です、よろしくお願いします」
「君の選曲は概ね好評だよ。弦楽器の連中は楽ができると喜んでいるし、打楽器の連中は自分たちが目立てるっていうんで、ピアノの取り合いをしていたくらいでね」
オーケストラピットの真上まで連れて来られた希佐は、興味津々でその中を覗き込んだ。ピアノがある奥の方に目を向けると、その前に座っていた男性が、にこにこと笑いながら手を振ってくる。希佐はにっこりと笑い返してから、もう一度頭を下げた。
「オーケストラのみなさんと舞台に立つのは初めての経験なので、分からないことばかりなのですが、今日一日どうかご助力ください」
「まあまあ、そうかしこまらないで。気楽にいこう──っていうわけにはいかないか。君たちにとっては一世一代の大チャンスって感じだもんね。もちろん、できるかぎりのサポートはさせてもらうよ。それが私たちの仕事だからね」
ローランと名乗った副指揮者は親身になって希佐の話に耳を傾けた。希佐の言葉をスコアの空白に書き込み、質問があるときは、その都度丁寧に問い返してくる。
「やっぱり重要なのはピアノだね。おい、君! 責任重大だよ!」
「任せてください」
「ひとまず、オケの音は控えめでいこう。一度通しで歌ってみて、君の声量に合わせてこちらで調整する。コーラスも入れられるけど、どうしようか」
「試しに入れてみたいです」
「よし。じゃあ、合わせてみよう」
リハーサルの三十分はあっという間に過ぎ去っていった。ジョシュアから、これだけは絶対に確認しておくようにと言われた項目は、すべてクリアになっている。あとは粛々と本番を待つばかりだったが、リハーサルを終えてホールから出て行くと、細い通路の先に人影を捉えて、希佐は嫌な予感を覚えた。
そこに立っていたのはシルヴィアだった。希佐の前にリハーサルを終えているはずだが、もしかしたら、ずっとそこで待ち構えていたのかもしれない。
「時間ぎりぎりまでリハーサルを続けるなんて、相当切羽詰まっているのね、あなた」
「オーケストラの生演奏で歌うのが初めてなので、確認しておきたいことがたくさんあったものですから」
「あなた、生演奏で歌った経験もないの?」
「はい。あ、でも、室内楽とか、弾き語りくらいなら──」
「そんなの経験のうちにも入らないわよ」壁に寄りかかっていた体を起こし、シルヴィアは希佐の目の前までやって来た。「ねえ、どうしてあなたみたいな人が最終審査まで残れたの?」
「え?」
「もっと相応しい人は大勢いたと思うの。実際、自分は落とされたのに、なんであなたみたいな日本人が残るんだって、疑問に思っていた人は一定数いたみたいよ」
「……そうなんですか」
「実は、私も同意見なのよね。だって、フランス人女性役を日本人が演じるなんて、どう考えてもおかしいでしょう?」
「おかしいかどうかを決めるのは、私たちではなくて、審査員の方々だと思うのですが」
「自分のせいでこの舞台が失敗に終わったら、どう責任を取るつもり?」
「私が最終審査まで残っていることに疑問をお持ちなら、どうしてそんな質問をされるんですか?」
希佐は思わず眉を顰めた。そして、一次審査のときもそうだったように、二次、三次審査のときも、こうして参加者に不必要なプレッシャーをかけていたのかもしれないと思うと、酷く嫌な気分になる。
今度は自分が標的にされたのだろう。そう考えた希佐は、相手にするだけ無駄だと思い、シルヴィアの脇を通り過ぎて行こうとした。
「ちょっと、逃げるの?」
「人を待っているので、失礼します」
「あなたなんて、周りの引き立て役として残されただけなのよ?」シルヴィアは嘲笑うようにして言う。「演出家がそう言ったんだから」
嘘だと言い返せないのは、その演出家がスペンサー・ロローだからだろうか。だが、今更そのようなことを言われても、希佐は少しも動じなかった。こういう精神的な攻撃は、ユニヴェールで既に経験済みだ。あれに比べれば、この程度のことは可愛いものだろう。
「あなたのパフォーマンスが楽しみです、シルヴィアさん」言いたかった言葉を飲み込んで、希佐は笑顔を向けた。「頑張ってくださいね」
このオーディションが勝負事だというのなら、勝利すべき相手は自分以外にいない。他者がどれだけ素晴らしい歌唱をしようと、自分がそれをも上回るものを披露すればいいだけのことなのだ。これは優劣を競うものではない。自らの正しさを認めさせるために設けられた舞台だ。最も相応しいと認められた者だけが、求めた役を手中に収めることができる。きっと、そういうことなのだろう。
ロビーに出て行くと、そこには既にダイアナの姿があった。ただし、当然のように警備員から入場を拒否されている。到着する前に外へ出て待っているつもりだったのだが、どうやら一歩遅かったようだ。
「すみません。その人は関係者です」早足で歩み寄っていって希佐がそう言っても、警備員のおじさんは半信半疑そうだった。「スペンサーさんからは許可を得ているので」
「許可を得ていると言われても、そんな話は聞いていないからなぁ」
「じゃあ、電話します」
希佐は持っていたスマートフォンでスペンサーに連絡をすると、警備員に出てもらい、話を通してもらった。いやあ、忙しくて警備員さんに伝え忘れていたよ、と言うスペンサーの声に悪びれた響きは感じられなかった。
「まったく、どうなることかと思ったわよ」
「ごめんね、ダイアナ」
「リハーサルをしていたのだから、仕方がないわ。でも、このドレスは一人じゃ着られないから、通してもらえて本当によかった。フィッティングもしたかったしね。ついでにメイクもしてあげようと思って、道具一式持ってきちゃった」
「それって割増料金にならない?」
「やだ、そんな心配しないで。別途請求なんてしないわ」
「それならよかった」
そう言いながらくすくすと笑う希佐を見て、ダイアナはどこか安心したような顔をした。
「緊張はしていないみたいね」
「どちらかというと、ワクワクしてるかな」
「あなたの心臓、毛が生えてるんじゃないかしら」
「昔からあんまり緊張はしない体質なんだ」
「他の子たちはどうなのかしらね。アイリーンには会ったの?」
「ううん、まだ」
「あの子はステージで歌うことなんてお手の物でしょうからね」
そのとき、手に持っていたままだったスマートフォンが振動して、着信を告げる。希佐はダイアナに断ってから、スマートフォンを耳に当てた。
「はい」
『ああ、キサ。言い忘れていたことがあったよ』それは、先ほど聞いたばかりの、スペンサーの声だった。『三十分後に私の控室まで来てくれるかな。本番の舞台に立つ順番を決めるからね』
「分かりました」
五人には、それぞれ一つずつ控室があてがわれていた。希佐は、自分の名前のカードがはめ込まれている扉を開き、ダイアナを招き入れる。すると、ダイアナは早速持ってきた大きなトランクを床に転がすと、中から希佐の衣装をそっと取り出した。髪飾りやドレスなど、どれも白でまとめられている。
「二十五分でフィッティングを済ませるわ。スペンサーのところへ行っている間に、微調整をしておくわね」
ダイアナは相変わらずの手際の良さで、希佐に白い衣装を着せていく。見た目はふわりと軽そうなのにもかかわらず、意外に重たい。
その衣装は希佐の想像を遥かに上回る美しさと儚さで飾り立てられた繊細な一着だった。裾は引きずるほどに長くなっているが、歩くときに踏んで転ぶことがないように上手く調節されている。たっぷりとしたスカートで足を覆われてはいるものの、片側に深いスリットが入っているのだ。本来露出する部分はレースで覆われて、肌の色が透けて見えている。
「完成間近ってときにこのレースを見つけてしまってね。どうしてもこれを使いたくて──ちょっと後ろを向いてくれる? ありがとう」ダイアナは少し離れた場所から希佐の背中を眺めるように見た。「あなたの背中、本当に綺麗だわ」
「そう?」
「可憐さとエロチシズムを融合させるのって難しいのよ。でも、あなたはそれを自然と表現できてしまうのね」大きく開いた背中は、まるでそれが肌そのものであるかのように、薄い膜のようなレースで覆われていた。「うん、大丈夫そう。手直しもほとんど必要ないわ」
「ありがとう、ダイアナ」
「あら、お礼を言うのはまだ早いわよ、キサ。本番はこれからなんだから」
「でも、ダイアナに頼んでよかったって思うから」
「ぼったくりなんて言われたくないもの。最後まで誠心誠意尽くさせてもらいます、お客様」
集合の時間が迫っている。希佐は衣装を脱ぐと、急いで洋服を着込んで、控室を後にした。隣の隣にあるスペンサー・ロローの控室の扉は大きく開いていて、廊下からでも自分以外の四人が既に集まっているのが見える。
「すみません、遅くなりました」
「いや、まだ時間前だよ」スペンサーは朗らかに言う。「ドアを閉めてくれるかな、キサ」
言われた通りに扉を閉めた希佐は、部屋の中ほどまで進んだところで足を止めた。アイリーンは、目が合うとにこりと微笑みかけてはくれるものの、隣に招いてくれる気はないようだ。他の二人は遅れて入ってきた希佐を一瞥するが、何も言わずに視線を逸らす。シルヴィアに至っては、我関せずという様子で、スペンサーを見つめ続けていた。
「全員が揃ったところで、早速だけど本題に入ろう」スペンサーは手元のタブレットから顔を上げ、全員の顔を順番に見回した。「本番のステージに立つ順番を決める。リハーサルをした順番でもいいかと思ったが、あれはこちらで勝手に決めたものだ。公平性を保つために、ボールを引いて決めてもらうよ。一次審査のときと同じようにね」
テーブルの上には、一次審査のときに受付にあった箱が置いてあった。スペンサーはソファから立ち上がると、それを抱え上げ、シルヴィアの前に立つ。
「ここに入ってきた順番で引いてもらおうかな。ボールを取っても、私が良いと言うまで見てはいけないよ」
一人、二人、三人──ボールは一個ずつ減っていく。四人目にアイリーンがボールを引くと、最後の一個が、希佐に回ってきた。余り物には本当に福があるのかどうか、これで分かるだろう。
希佐は箱の中から最後に残ったボールを引くと、それを見ずに後ろ手に隠した。
「では、どうぞ。一番から順番に教えてくれ」
「はい」最初に声を上げたのはアイリーンだった。「一番です」
「二番は?」
「私です」
「カオスの面々が順番に歌うとは贅沢極まりない」
希佐は二番だった。それが良い数字なのかどうかは分からない。だが、アイリーンの次に歌うということは、それが希佐にとって唯一の比較対象になるということだ。観客は五人の歌唱を見終えたあと、最も相応しいと思った人物に自身の一票を投票する。
だが、ここまでくれば後はもう聞く者の好みの問題だ。女の解釈は人それぞれ違うもので、自らの考えに近いものを支持し、投票する流れになるのだろう。自分の努力次第でどうとでもなる段階はとうに過ぎ去ってしまった。
自分さえよければ、それでいいとは思わない。他者の失敗を願うほど無慈悲でもない。それでも心のどこかでは、どうでもいいと思ってしまっている。他者の成功も、失敗も、知ったことではないと。
なぜそう思ってしまうのかは分かっていた。希佐の中にいる女の存在が、本番が近づくにつれて徐々に大きくなっているのだ。
ともすれば自分勝手に行動を起こしかねないほど、頭の大部分を占拠しはじめている。前へ、前へと出たがっている女を、まだ冷静な自分自身が、必死になって引き留めていた。メアリー・ジェーンのシャルルを演じたときと同じ感覚が全身を駆け巡り、興奮にも似た衝動を抑え込むことに難儀している。
"早く私をあの舞台に立たせて──"
そう言う声が、遠くの方から聞こえてくるのだ。そして、その声はどんどん大きくなっている。
「今までは他の子の審査内容を見せてあげられなかったけど、今回はご自由に。せっかくの機会だから、同年代のライバルの舞台を間近で見て、勉強させてもらうといい。五人それぞれ個性が強いからね、きっと面白いと思うよ」
意味もなく、訳も分からず、口角が持ち上がる。笑っている。酷く機嫌が良かった。少しでも気を緩めれば、今にも鼻歌を歌い出してしまいそうだ。少し落ち着かなければと考えた希佐は、人知れず深呼吸をした。もう少しくらい我慢してと、自分の中の女に言い聞かせる。
「キサ、君はどうする?」
「……すみません、考え事をしていて。何のお話でしょうか?」
口元を覆い隠し、床を見つめていた希佐は、顔を上げてスペンサーを見た。すると、スペンサーは僅かに目を見張ってから、機嫌良く笑いかけてきた。
「会場でアイリーンのステージを見学するかい? それとも、舞台袖で自分の出番を待つ?」
「舞台袖で待ちます」考える間もなく、希佐は即答していた。「少しでも早く舞台に立ちたいので」
「そうか、分かったよ」
観客のいる大きな舞台に立つのは、実に約五年ぶりのことだ。
ユニヴェールにいた頃は、当たり前のように浴びていた歓声とスポットライト。視線とライトが焼けるように熱いと感じていたことが懐かしい。もう一度、あの感覚を味わいたいと、ただ純粋に思う。
「あら、早かったのね。おかえりなさ──」
控え室に戻ってきた希佐を迎えてくれたダイアナは、一瞬面食らったような顔をしてから、心得たように口を噤んだ。そして、まるで大女優を相手にするかのような態度で、希佐に接する。化粧を施し、髪を整え、手足の爪に色を差してくれた。
カオスの公演前、衣装確認のためにやって来てくれていたダイアナは、舞台の袖で希佐が役に入り込んでいる姿を何度も見たことがあったのだ。だからこそ、邪魔をしてはいけないと考え、黙してくれていたのだろう。
三十分前ですとスタッフが声をかけてくれたとき、あとは衣装を着るだけの状態まで、準備は完璧に整っていた。ショーの直前はまるで戦場のような忙しさだから、この程度のことは何でもないのよねと言い、ダイアナは手際良く希佐に衣装を着せていく。髪に本物の白バラの蕾で作った飾りを差し、頭上から薔薇の香りの香水を一度だけ降らして、よし、と一言。
「完璧よ、私の美しい人」ダイアナはどこかうっとりしたように希佐を見た。「さあ、その美しさで観衆の目を掻っ攫っていらっしゃい」
「ありがとう、ダイアナ」衣装の上から軽い素材のストールを羽織らせてくれたダイアナを肩越しに見上げ、希佐はやわらかく目を細める。「いってきます」
「楽しんでくるのよ」
いつもならアランが言ってくれる言葉で、ダイアナは希佐の背中を、控室の外の世界へと送り出した。
蛍光灯に照らされた、少しだけ煤けた廊下を進む。衣装が汚れないように、裾をたくし上げ、抱えるようにして持って歩いた。足元には衣装とはまるで不釣り合いな室内履きが覗いている。舞台袖までやってくると、その事実に気づいた優しい女性スタッフが慌てた様子で声をかけてきたが、希佐はこれでいいのだと答えた。
靴は履かない。裸足でいいのだ。
アイリーンは希佐とは対照的な黒いドレスをその身に纏っていた。舞台袖の先頭に立ち、自分の胸に両手を重ねて、呼吸を整えている様子が目に入る。歌を歌うだけなら緊張はしないと話していたが、どうやら今日は違うようだ。深呼吸を何度も繰り返し、自らを落ち着かせようとしているのが、後ろから見ているだけで分かった。
声はかけない方がいいのだろう。そっとしておくべきだ。アイリーンもこのオーディションに本気で挑んでいる。オーディションに合格をして、アランにプロポーズをするのだと言っていた。
それに、アランがどのように応えるのかは分からない。アイリーンが合格するとはかぎらないし、二人以外の第三者が、栄光を奪っていく可能性は大いにある。
なぜ、アイリーンは今になって、オーディションに合格したらアランにプロポーズをしようと考えたのだろう。まるで、これが最後のチャンスだとでもいうふうに。もしかしたら、自分と同じように、何らかの覚悟を決めたのではないかと、希佐は思う。
時間だ。
ブー、という無機質な音が、アイリーンを舞台の真ん中へと歩ませる。オペラカーテンがゆっくりと左右に開くと、舞台の中央に佇んでいたアイリーンがスポットライトで照らし出された。
アイリーンのイメージする女が、そこにいた。
嫋やかで、艶やか。三次審査の映像で見たときよりもずっと自信に満ちていて、声に力があり、魂が宿っていると感じる。その声が劇場中を包み込み、歌に耳を傾ける人々の心を、あますことなく己の世界に引き込んでいた。舞台袖から見える人々の表情は、どこか恍惚としていて、その歌声に魅了されているのが見てとれた。
以前までのような力強いだけの歌声ではなく、緩急のある、甘い、至上の歌声だった。
間違いなく、それはアイリーンだけの唯一無二の歌声で、誰にも真似のできるものではない。希佐には、あんなふうには歌えないだろう。培い、積み重ねてきたものが違う。歌唱で勝とうなどと考えることはおこがましく、分不相応だ。
その上で、希佐は舞台に立つ。
立花希佐はここにはいない。ここにいるのは、舞台の上で強烈な輝きを放つ、女優としては大成功を収めた、一人の女だ。
常に人目に晒され、どこにも逃げ場はなく、幾つもの目に監視され続ける毎日。誰の目から見ても美しく、奔放な性格をしていても、その心にはいつだって寂しさを抱えている。孤高や孤独な人の心にはいつだって、人には明かせない寂しさがあるということを、希佐は知っていた。かつてのあの人や、自分自身が、そうであったように。
ここは舞台の上だが、だからこそ、普通は決して目に見ることのできない、最も特別なものが表現されるべきだと希佐は思う。
誰も、人の心の中を覗き見ることはできない。妖艶な笑みの裏側にいる少女を知らない。曝け出した肌を覆う薄いレースのような自尊心が分からない。強い自分を演じ続け、弱い自分をひた隠し、心を護り続けてきた。壊れてしまわないように。
心の根底にあるのはいつだって、愛されたいという純粋な気持ちだ。長い間愛されてこなかった女はただ、人々に愛されたかっただけなのだ。だから、決して長続きのしない仮初の好意を永遠の愛に結びつけ、その結果、自らを苦しめることになってしまった。
生まれながらにして、寂しい人だったのだ。そういうところは、自分とよく似ていると希佐は感じていた。
すべてにおいて恵まれているとは言い難い子供時代だった。兄だけが心の支えだったのに、その兄さえも失って、心にぽっかりと穴が空いてしまった。その穴を埋めるために入った、夢の場所。ユニヴェール歌劇学校。兄と同じものを見て、学んで、舞台に立った。それでも、心に空いた穴は埋まらず、寂しさも解消されることはなかった。
この寂しさとは一生付き合っていかなければならないのだと、イギリスにやって来てようやく気づいた。そして、自分の中にある寂しさはその人だけのもので、理解しようとしたり、されたりしてはいけないものなのだと悟ったのだ。
だがしかし、人の心の奥底にある寂しさこそ、この世界で最も儚く、美しいものの一つなのではないかと、希佐は思った。もしそれを表現することができたなら、多くの人に共感してもらえるだろうと。
アラン・ジンデルがどのような思いでこの物語を書き綴ったのか、今の希佐にはまだ理解することができない。推し量ることすら難しい。それでも、一足先に物語を結末まで見届けた者の側面的な解釈として、聞いてもらいたいと思ったのだ。
もし、この歌であの人の心が少しでも救われるのなら、たとえここで夢がついえたとしても、それで満足できる。
全身全霊をかけて歌おう。
どうか、どうか、この歌が、あの人の心の深い部分にまで届きますように。
暗闇の中でブザーが鳴る。
ざわざわとしていた会場が一瞬にして水を打ったように静まり返った。
アイリーンの歌は素晴らしかった。歌唱後の客席のざわめきからも、その評価の高さが窺える。他の審査員たちも、アイリーンの歌を満足げに聞き入っていた。隣に座っている推薦人の男だけは、相も変わらずイングリッシュシープドックのような前髪で顔を隠し、その表情を読ませてはくれない。
次は、希佐の出番だ。審査員の半数は、この舞台に日本人の女性を起用することに懐疑的なものの考え方をしている。自分が推したもう一人の役者、シルヴィアからも同じようなことを指摘されていた。フランス人女性役に日本人を起用したところで、違和感しかないだろうと。それは確かにそうなのかもしれないが、それを踏まえた上でも、余りある才能がこの役者にはあるはずだと、スペンサー・ロローは思っていた。
既に、何かもの凄いものが見られるのではないかという予感があった。控室で希佐の顔を見たとき、ぞくりと背筋が震えたのだ。そこに立っているのは、確かにいつもの彼女だったが、どこか気怠そうな雰囲気をまとっているように見えた。その顔つきに、眼差しに、首の傾ける角度にすら、香るような色気が感じられたのだ。普段の希佐とは違う、まるで別の何かが憑依しているかのような、異様な空気感があった。
スペンサーは座席に深く腰を沈め、アラン・ジンデルの横顔を見た。この男は、最後の最後まで、自らが推薦したアイリーンを推し続けていた。ダンスに難があると指摘をされたときも、歌が他より抜きん出ている分、重点的に稽古をすればいいだけだと言って引かなかった。
その口から、たったの一度も、希佐の名が挙がったことはない。本気で起用したくないと思っているのか、はたまた、自分が口添えなどせずとも這い上がってくるという確信があるのか。とにかく、この男の考えていることは誰にも分からなかった。
ぺた、ぺた、ぺた、という奇妙な足音が聞こえ、スペンサーは舞台に視線を戻した。真っ暗闇の中、誰かが舞台の中央に向かって歩いている。裸足で、歩いている。なぜ、という疑問と共に、一瞬で意識が引き戻されるのを感じた。
凛と静まり返っている舞台上から、ゆっくりと吐き出される、吐息のような声が聞こえてくる。ホール内はそれほどまでに無音で、ビリビリと痺れるような緊張感が漂っていた。
ベット・ミドラーのザ・ローズは、ジャニス・ジョプリンをモデルにした映画の主題歌として、世に発表された楽曲だ。誰もが一度は耳にしたことのある名曲で、歌詞のメッセージ性が強い。
確かに、今回の脚本ではバラが頻繁に登場するので、誰かがこれを選曲するだろうとは考えていた。むしろ、アラン自身がこの歌を念頭に置いて脚本を書いていたのではないかと、スペンサーは勘繰っている。だからだろうか、希佐からのメールでこの曲を歌うと報告を受けた瞬間、参ったと、そう思った。この二人が共に過ごしてきた密度の濃い三年間を思い、眩暈を覚えたほどだ。
しかしながら、この選曲は安直であるとも言える。他の四人は安易だと考えるだろう。あまりにお誂え向きの楽曲すぎて避けて通った茨の道を、希佐はまっすぐに突き進み、この舞台に立っているのだ。審査員から、こんなものかと匙を投げられるか、度肝を抜くような演出で心臓を射抜いてくれるのかは、本人次第と言わざるを得ない。
あの印象的なピアノの和音が一小節分奏でられた直後、すべてのスポットライトが舞台の中央に立つ役者に向かって照射された。瞬間、純白のドレスを身にまとった姿が、驚くほど鮮烈に視界に飛び込んでくる。その姿は舞台上に咲く一輪の花のようにも、宙に浮く妖精か何かのようにも見えた。とにかく、ぞっとしたのだ。この世のものとは思えない、得体の知れないものがそこにいると、スペンサーは思ったのだから。
「まずいな」ぽつりと、隣に座っているアランが、そう小さく漏らした。「終わったな、これ」
何が、と聞く間もなかった。
第一声、その歌声がホールに響き渡った刹那、ただ理解する。
ああ、終わった、と。
このオーディションはこれでおしまい。両手を掲げ、降参の姿勢を示し、深く頭を垂れて、その場にひれ伏したくなった。もし自分がこの後に歌うとしたら、もう遅いと分かっていても、両耳を即座に塞ぎ、このホールから飛び出していくだろう。
だが、実際にはそうすることも叶わない。まるで根が生えたかのように、体が動かないからだ。両の目が釘付けになって、視線を逸らすことができない。息が苦しいと感じるまで、呼吸を奪われていたことにさえ、気付かなかった。
『私はもっと君の自由な演技を見てみたい。個人的には、観客を蹂躙するような身勝手な演技が、君にはよく似合うと思う。大衆の目を釘付けにするような、刺激的なやつがね』
確かに、間違いなく、スペンサーはそう言った。
だがまさか、このたった五分にも満たない時間の中で、観客の視線を軒並み奪い尽くし、情緒が乱されるほど感情を揺さぶって、一番手が育んだ土壌を何の躊躇いもなく更地に戻し、それどころか、世界を塗り替えるようなことをやってのけるとは。
もう誰も、同じ舞台では戦えないだろう。それこそ、希佐自身がそうしたように、次元を超えるくらいのことができなければ、観客の心を取り戻すことはできない。
眠れる獅子を起こしてしまったのだろうか──スペンサーはそう思いながら、鳥肌の立った体を温めるように、自らの右手で左腕を撫でさすった。
こんな声で歌えたのか、と思った。
自分は所詮ただのしがない脚本家で、歌の専門家ではない。アイリーンだって歌唱には長けていても、教えること自体が得意なわけではなかった。それでも希佐の歌が上達していたのは、本人の耳が良いのと、努力の賜物だったということなのだろう。
だが、連日ボイストレーナーの下に通い、しっかりと歌を学ぶことで、人はここまで成長する。そろそろ頭打ちだろうと思っていた才能が、まだまだ伸びていく様を見せつけられれば、もはや感服することしかできない。
息を多く含ませたウィスパーボイスがマイクを通して聞こえた瞬間、後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えていた。
その声は幼くもあるが、同時に、成熟した大人の女性のハスキーな声にも聞こえた。希佐は、それを狙って歌っているのだ。もはや、歌の上手い、下手の問題ではない。
アイリーンの歌には魂が宿る。聞く者に一種の快楽にも似た思いを抱かせるのだ。伸びやかな声は聞いていて気持ちが良く、心地の良い感覚を覚えさせる。自らの歌声に乗せて、魂の一部を分け与え、そっと寄り添う。そういう歌を、ようやく歌えるようになった。
歌唱力では劣っていた希佐だったが、彼女は出会った頃から、もう既にそれができていた。表現力では明らかにアイリーンを上回っていたし、聞く者に何らかの感情を送り届ける能力に関しては、右に出る者がいないくらいに長けていた。
しかし、目を離したこの一カ月の間に、希佐は一歩、いや、二歩も三歩も、先へ進んでしまったようだ。人に何かを分け与える歌手は多い。だが、聞く者から何かを奪い去る歌手は、そう多くはない。
希佐はまず観客の目を奪った。そして、歌声は聞く者の言葉を奪い、吐き出す息すら盗み取る。おそらく、ただ純粋にこの歌を聞ける者は、この劇場内にはいないだろう。舞台に携わっている者ならば、この異様さに気づくはずだ。そうでなければ、潔くこの道を諦めた方がいい。
立花希佐は、その歌を劇場にいる観客に届けようなどとは、露ほども思っていないのだ。聞きたければ勝手に聞けばいい。でも、自分がこの歌を届けたい相手は、この世界にただ一人だけだという思いが、その歌声に乗っかっている。
公私混同。私利私欲。それがどうしたと言わんばかりの傍若無人。普段の希佐を知る者なら、それをらしくないと言うのかもしれない。だが、彼女は存外わがままだし、我欲が強く、人の話を聞かないところがある。
ようやく、本性を現したか──アランはその歌を全身で受け止めながら、泣き笑いのような表情を浮かべた。
長いようで短かった三年という時間。希佐がユニヴェールという呪いから解き放たれることをずっと望んでいたが、そのきっかけがこの最悪の舞台になるなんて、どんな喜劇よりも笑える結末だ。
この歌は、今回の舞台の価値観すら変えることになるだろう。結末は変わらない。だが、観客に与える印象が、本来の結末とは正反対になる。この歌には、それだけの強さがあった。おそらく、スペンサー・ロローが頭の中で構築しはじめているだろう演出にすら、変更を余儀なくさせるほどの。
あんなクソみたいな女が、立花希佐の手にかかれば、少しはましに思えてしまうのだから不思議なものだ。自分が知っている女など、全体のほんの一部分だけでしかなく、実際には様々な側面があるのだと諭されているような気分になる。
希佐の歌は、アランを抱き締めているようでいて、その実は、遠く突き放しているのだ。
私は前に進む。あなたを置いて。悔しかったら追いかけて来い、この臆病者──その美しい歌声で、立花希佐はアラン・ジンデルを罵っている。いつまで過去に囚われているつもりなのだと言って。
何があっても過去は変えられない。変えられないのなら、自分が変わるしかない。
そんなことは分かっている。だから、この話を引き受けたのだ。苦痛に苛まれながらも脚本を書き続けたのは、過去の自分と決別したかったからだった。だが、それはあの頃の自分と向き合う結果になり、どうしても耐えられなくなってしまった。
見られたくなかった。知られたくなかったのだ。素知らぬ顔をして過去を語ったくせに、実際にはどろどろとした醜い感情を抱え込み、一つ歳をとるごとにそれを煮詰めて、憎しみを濃くしてきたという事実を、知られたくなかった。
でも、希佐はその事実を簡単に飛び越えて、優しい歌で殴り掛かってくる。そして、女は花で、あなたは種だなどと言うのだ。凍える冷たい根雪の下で、あたたかな春を待つ種だと。
「やってくれるよ、本当……」
このまま手放してやろうと思ったのに、それもできなくなってしまった。手放したくないと、心の底から思ってしまったのだ。こんなどうしようもない自分に手を差し伸べて、三十年分の滓が溜まり、そのぬかるみにはまったまま動けずにいる男を、力一杯に引っ張り上げようとしてくれている。
これで最後にすると語った、純白の、一輪の美しいバラの花。きっと、それをこの手で手折ることが、自分の最後の役割なのだろう。だからせめて、その最後の最後までは、自分だけのものだと思いたい。
『あの子、オーディションに受かっても、受からなくても、この舞台を最後に役者を辞めるって言っていたわ』アイリーンが何でもないふうを装って、PCに向かうアランの背中に話しかけた。『それで、日本に帰るんですって』
『いいんじゃない、別に。本人が決めたことなら』
『キサがいなくなったら、あなた、どうするの?』
『三年前までの生活に戻るだけだ』
『一人で寂しく生きていくつもり?』
アランはそう言ったアイリーンの問いかけには答えなかった。だが、今なら答えが出せる。
希佐が舞台を降り、役者を辞めて日本に帰ったら、自分はたった一人でこの生涯を終えるだろうと、アランは思った。もう二度と、こんなにも狂おしいほど愛おしく思う誰かに、出会うことはない。家族の柵に囚われ続け、ありとあらゆる家庭というものを想像し、描いてきた男は、きっとろくでもないラブストーリーばかりを書くようになる。
結末はいつだって、悲恋で終わる物語ばかりを。
スポットライトの明かりが強すぎて、希佐の目には何も見えていなかった。真っ暗闇の中、たった一人で歌を歌っているような気分だったが、おかげで終始リラックスして歌えたような気もする。
だが、ぴたりと音楽が途絶え、最後の一小節を歌い上げた後も無音の状態が続くと、希佐は急に不安になった。実際、客席には誰一人として観客がおらず、自分はただ、悪い夢を見ているのではないかと思った。
拍手がなかったのだ。アイリーンが歌い終えたときは、割れんばかりの拍手がどこからともなく沸き起こり、劇場が振動するほどだったというのに。
希佐は思わずオーケストラピットを見下ろした。指揮者の手元を照らしているライトの明かりだけが、ぼんやりと見える。何かを合図するように、指揮棒がこつこつと譜面台を叩くので、希佐はしゃんと頭を上げて、その場でカーテシーをした。いつまでも呆然と突っ立っているわけにはいかない。次の人が舞台袖に控えている。
途端に顔が青ざめ、酷い動悸がした。訳が分からないまま、それでも下手にはける。上手からストールと室内履きを持ってきてくれていた女性スタッフが、希佐の顔を見るなり、ぎょっとしたような表情を浮かべた。
「だ、大丈夫ですか? 顔色、真っ青ですよ」
「すみません、外の空気を……」
「あっ、はい! 搬入口から外に出られます」
その女性は希佐の手を取ると、早足で搬入口の扉の前まで連れて行き、鍵を開けて外に出してくれた。外へ出るなりしゃがみ込んだ希佐に向かって、女性はあわあわと慌てたような声を上げてから、水を買ってきますと言って中に戻っていった。
きっと何か大きな間違いをしたに違いない。例えば、マイクの電源が入っていなかった──いや、それはないはずだ。オーケストラに負けて声が客席まで届いていなかったのかもしれない。それとも、オーディションの最終審査に披露する曲としては退屈だと、そう判断されたのだろうか。自分が思っているほど、上手くは歌えていなかったのかもしれない。でも、だからといって、まばらな拍手さえもらえないとは、思ってもいなかった。
これが自分勝手の結果かと、希佐は己を嘲笑うかのように、鼻で息を吐いた。一人の人に歌を届けようとした結果、結局誰の心にも届かずに、自爆をしてしまったのだ。
「ジョシュアになんて言おう……」
せっかく毎日のランチの時間を割いてまで面倒を見てくれたのに、結果を出せなかったと言ったら、きっとがっかりするに違いない。この一カ月、バージルにも迷惑ばかりかけてしまったのに、期待に応えることができなかった。
他の三人は一体どんな歌を歌うのだろう。たくさんの拍手をもらえる歌だろうか。
だが、どうしても聞きに戻ろうとは思えなかった。今回は審査員だけでなく、観客も味方に付ける必要があったのだ。投票結果が最終審査に反映されるとスペンサーは言っていた。一つの拍手ももらえない歌では、多くの投票も見込めないだろう。
「……」
ロンドンの街中にあるホールなので、搬入口の扉の目の前には、細い歩道と一方通行の車道がある。そこにしゃがみ込んでいると、明らかに通行の邪魔だった。表通りからやってくる人影に気づき、立ち上がるものの、足元は裸足だ。スタッフの女性は酷く慌てていたので、希佐のストールと室内履きを持ったまま、中に戻ってしまったらしい。
「あのぉ……」目の前を通り過ぎていく通行人を見送っていると、隣からそう声をかけられた。「どうかしたんですか?」
隣を見やると、エプロンを身につけた男性が、箒と塵取りを手に立っている。こんなところに、どうしてそんな出で立ちの人がと思ったが、その傍らにはカフェの看板が掲げられていた。どうやら、道の掃除をしに外へ出てきたところだったらしい。
「こんな小汚いところにいたら、せっかくのドレスが汚れちゃいますよ」
「あ、いえ、少し気分が悪くて」
「えっ、それは大変だ。ああ、確かに顔色が悪い」男性はそう言うなり、希佐の腕を取って、カフェの店内に引っ張り込もうとする。「どうぞ、中に入って休んでください。冷たいお水、持ってきます」
「いや、あの、大丈夫です。私、すぐに──」
「この時間帯はいつも空いてるんで、気にせず休んでいってください。なんならソファ席で横になってもいいんで」
さあ、どうぞ──人の良さそうな男性は、希佐をソファ席に座らせると、店の奥から氷入りの水とブランケットを持ってきてくれた。必死になって断る元気もなく、希佐はその行為を甘んじて受け入れることにすると、力なく笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて──」
「あっ、えっ、裸足?」スリットの隙間から覗く足を見て、男性は驚きの声を上げる。「も、もしかして、どこかから逃げてきたんですか? け、警察、呼びましょうか? 事件か何かに巻き込まれたんですか?」
「いいえ、違うんです。今、隣の劇場でオーディションをやっているんです」
「……オーディション?」
「出番が終わったところで、外の空気を吸いに出てきたんですけど、靴を忘れてしまって」
「あ、ああ、そうなんですね。俺はてっきり、何かヤバいことに巻き込まれてるんじゃないかと」
「ヤバいって?」
「ほら、綺麗なドレスを着せられて、こわーいマフィアの男の人に売られちゃうところだったとか」
「まさか」
「ですよねー」
よかったよかった、と言いながら、男性は店の奥へと消えていく。すぐに戻って来て、今度は濡らしたタオルを渡してくれた。
「それで足を拭いてください。しばらくして落ち着いたら、俺が隣まで出向いて行って、お姉さんのことを話してきますよ。うちの店でお預かりしていますって」
「そんな、申し訳ないです」
「いいの、いいの。この店、隣の劇場にコーヒーとか紅茶とか配達することが多くて、警備員にも顔が利くんですよ。舞台関係者の人たちもよく立ち寄ってくれるんで、ほら、サインもたくさん」
男性の言う通り、カフェの壁には、数十、数百という数のサインが、直接書き込まれている。あまりにびっちりと書き込まれているので、一見すると壁紙の模様のようにも見えた。
「お姉さんも役者さんなんですか?」
「はい、一応」
「お綺麗ですもんねー」男性はにこにこと笑いながら足を拭いている希佐を見ていたが、はっとしたような顔をすると、慌てて視線をそらした。「じろじろ見ちゃって、すみません。あの、どうぞごゆっくり」
男性はそう言うと、カウンターに立てかけていた箒と塵取りをもう一度手に取り、店の外に出て行った。店内は本当にがらんどうとしていて、希佐以外に客の姿はない。とても古い作りの建物のようで、歴史を感じさせる内装をしていた。どことなくヘスティアと雰囲気が似ている。
迷った挙句、足を拭いたタオルをそっと床に置くと、希佐は膝を体に引き寄せた。借りたブランケットを頭から被り、身を縮こまらせる。
あの男性のおかげで随分と気は紛れたが、それでも、まだ何も考えたくはなかった。