五人すべての歌唱を聞き終えるのに、さほどの時間は要さなかった。
かなり物足りない、というのが、審査員や観客らの忌憚のない意見だろう。もはやオーディションなどどうでも良くなっていたアラン・ジンデルでさえ、今ひとつな印象を残したまま、最終審査を終えてしまったという感覚があった。
くじで舞台に立つ順番を決めてしまった弊害が、ここに現れている。
「まさか、こんな結果になるとはね」
審査員同士の話し合いは既に終わっていた。満場一致というやつだ。あとは、スペンサーが連れてきた観客の投票を集計するだけだったが、そのようなことをせずとも結果は目に見えている。
スペンサーの控室には、当人とアランしか残っていなかった。他の審査員たちには、スタッフが集計の仕事を終えるまで、自分の控室で休んでいていいと伝えてある。
「三次審査までは面白かったのに、本当に残念だ」ソファに座ってそっくり返り、スペンサー・ロローは心底うんざりしたような声を出した。「最終審査はもっと楽しめると思っていたよ」
「事前にくじで順番を決めると言い出したのは君だろ」
「公平性のためだ」
こうした開かれたオーディションの場合、多くの者は一番手にはなりたがらない。おそらく、アイリーンは一番のボールを手に取ったとき、外れを引いたと思ったことだろう。
観客は続けざまに複数人の歌を聞かされると、頭から順番に、その印象を薄くしていくものだ。何らかの強いインパクトでも与えないかぎり、最後の者が歌唱する頃にはもう、一番手の歌は忘れかけている。だからこそ、こういう場合は最後に歌った方が、結果が有利に働く可能性が高い。もちろん、失敗をすればその印象も強く残るので、諸刃の剣ではある。
だが、今回に限って言えば、最もくじ運が良かったのはアイリーンだった。希佐の歌を聞かずに自分の歌を披露できたのだから、他の三人よりもずっといい。希佐より後に歌った三人は、とにかくぼろぼろだったからだ。
一次から三次審査までは、互いの演技、歌、ダンスに一切触れてこなかった。それでも、希佐以外の四人は、商業の舞台でそれなりに活躍している役者たちだ。互いが実力を把握し合っているので、どの程度の歌を聞かされることになるのかは、予想ができていただろう。
問題は、唯一商業演劇が未経験に近い希佐の存在だった。アイリーン以外の三人は、酷く興味が惹かれたことだろう。小劇場ばかりを飛び回り、閉ざされた公演ばかりで満足している二流、三流とも思える役者が、なぜこのオーディションの最終審査まで残ることができたのか。
希佐自身の耳まで届いていたかは分からないが、脚本家が主宰する劇団と事務所に所属し、演出家の推薦を得ていることで、心無い詮索を試みる者もいたようだ。
しかしながら、何の実績もない役者が大抜擢されるが如く頭角を現すのは、この世界ではよくある話だった。ただ純粋に、その類まれなる才能を認められて見初められることもあれば、今回疑われていたように、脚本家の女、演出家の女という後ろ盾ありきの後押しを得て、本来であれば分不相応な役を与えられることもある。
だから、アイリーン以外の三人は、希佐の実力のほどを確かめたかったのだろう。
彼女たちは客席の最前列に座り、舞台上に現れた怪物を目の当たりにした。そこにあるのは圧倒的な才能だった。それは尻込みもするだろう。心が引きずられて、自分らしい歌を歌えなくもなるはずだ。観客のみならず、審査員までもが、希佐の歌唱に心を奪われ、言葉を失い、音楽が途切れた後も、しばらくは放心状態で身動きすら取ることができなかったのだから。
特に、見ていて哀れになるくらいだったのが、希佐の次に舞台に立ったシルヴィアだ。五人の中では最も舞台経験が豊富で、実力も伴っていた。性格に多少の難はあるものの、役者としての力量は本物だとスペンサーが認めている。だからこそ、本命として、このオーディションに推薦したのだ。
そう、当初スペンサーにとって希佐は二番手だった。面白いことになりそうだと思ったから、などという適当な理由で希佐をたきつけ、このオーディションの前に引きずり出した。だからこそ、アランは、後悔しても知らないぞと忠告をしたのだ。
「今日はアイリーンの調子もよかったみたいだね」よっ、と言いながら背凭れから身を起こしたスペンサーは、冷めたコーヒーを一気に呷った。「さすがはカオスの歌姫だよ。非の打ち所がない歌声だったからこそ、実に惜しいね。是非とも違った配役で起用させていただきたいものだが、果たして彼女のプライドがそれを許すかどうか」
「俺からは話さない。彼女、慰められるの嫌がるから」
「君からの慰めなら話が違うのではないかと思うが──」
「スペンサー」
「ああ、いや、失礼」アランに凄まれると、スペンサーは苦笑いを浮かべながらも、すぐに非礼を詫びた。「ただ、君も罪な男だと思ってね」
スペンサーが言わんとしていることを察したアランは、面倒なことを訊ねられる前に部屋を出て行こうとした。ソファから立ち上がり、不快に思いながらスペンサーを一瞥する。
「いやあ、羨ましい。あれだけの歌姫たちが自分のために歌ってくれるとなると、一体どんな気持ちに──いやいや、嘘、冗談だ、悪かったよ。謝るから許してくれ」
「君の歌姫も君のために歌っていた」
「ああ、あれは」スペンサーはソファの肘掛けに寄りかかり、埃っぽい天井を仰いだ。「純度の低い仮初めの歌だよ。それっぽい感情を乗せて歌っているだけ。君になら分かるだろう? これだけ本物が揃っていると、偽物はすぐ浮き彫りになる。いずれにしても、彼女も最終審査止まりの役者だったってことだ。本人は納得できないと抗議しに来るかな。まあ、あれを目の当たりにしても抗議しに来られるだけの元気と気概があれば、私はそれだけで彼女を褒めてあげるよ」
これ以上その話題に触れてこないという確信を得てから、アランは再び腰を下ろす。
スペンサーとの付き合いはそれなりに長いが、年々この男の本質の部分が見えてくるようになり、その度に自分と似通っている部分を多く感じ取れて、アランはぞっとする思いがしていた。こうはなりたくないと思いながら、反面教師として見守っている。
「この業界に身を置いていると、稀にこういうことが起こるから、辞め時が分からなくなってしまうね」
「辞める気なんてあるの」
「演出家なんて仕事は、辞められるものなら今すぐにだって辞めたいよ。この足の怪我がなかったら、演出家なんかに転向しないで、まだ舞台に立って踊っていただろうし」
「ダンサーは気が楽だった?」
「それはそうさ。たとえ演出家としての才能に恵まれていたとしても、いつまで経ってもその仕事を好きになれないのだから、これを天職とは呼べない」
「演出家は金儲けの手段ってわけか」
「君も人のことを言えないだろう?」スペンサーはそう言うと皮肉っぽく笑った。「君だって金儲けのために脚本を書いているのだから」
「他の生き方を知らないんだよ。この仕事と同等か、それ以上に儲けられる楽な仕事があれば、すぐにだって鞍替えしたい」
「難儀な人間だね、お互いに。君も私も、自分に最も相応しい仕事をしているというのに、それが気に入らないっていうんだから」
今の仕事を楽しいと感じたことはない。脚本を書いている時間はいつも苦痛が伴っていて、ときどき心臓が痛くなる。アランとスペンサーは、惰性で今の仕事を続けているだけなのだ。求められるから応えるのであって、自ら進んで売り込もうなどとは思わない。今は何かと声をかけられる機会が多い二人だが、そのうち飽きられると割り切った物の考え方をしているので、そのときがやって来たら何の未練もなく足を洗うだろうと、そう話していたこともあった。
劇団カオスの活動もいつまで続けられるか分からない。それぞれが、それぞれの道を歩きはじめようとしている今、彼らにとってあの場所がまだ必要なのかどうかと、アランは考えてしまうのだ。
果たして、自分は三年前の自分に戻れるのだろうかという不安もあった。この三年、希佐ありきの舞台を作り続けてきたが、彼女がいなくなった後も、以前のように脚本を書き、演出を行えるのか、アランには分からなかった。
「この舞台が成功すれば、キサは世界中から注目されることになるよ」
希佐は注目されることを望んではいない。だが、今度ばかりは、注目を浴びないわけにはいかない。希佐自身も、それを理解した上で、このオーディションに挑んでいるはずだ。この話題はイギリスのみならず、希佐の故郷である日本にまで飛び火してしまう可能性は大いにあるが、そのことに関しては腹をくくっている様子が見て取れた。
これで最後にする──その事実が、急に現実味を帯びはじめる。ほんの一瞬、それを受け入れたくない気持ちが働き、アランは慌てて思考を切り替えた。
「君も私も、覚悟を決めなくてはいけない。この先に待ち構えている嵐のような日々を、彼女はまだ知らないんだ。私たちは、嵐の海原を進む小舟に乗った彼女を、何があっても守り続けなくてはいけない」
「君の口からそんな殊勝な言葉を聞くことになるとは思わなかった」
「観衆の目の厳しさは知っているだろう? 君の脚本に、私の演出、原案はクロエ・ルーだ。主演に抜擢されたのは商業の舞台がほぼ未経験の新人で、しかも日本人──マスコミはすぐにこの話を聞きつけて、甘い蜜に群がる虫のように湧いて出てくる」
「キサは注目を浴びることに不慣れってわけじゃない」
「規模が違う」
「いつになく大真面目だな、スペンサー」
「私は彼女を一発屋で終わらせたくないんだ、アラン」旧友の珍しく真摯な眼差しを目の当たりにして、アランは思わず口を噤んでしまった。「私も過去の過ちを繰り返したくはない。私は有り余る才能をその身に秘めていながら、舞台上から退いていった人間を大勢知っている。その多くは外的要因によって心身ともに押しつぶされて、人の目を恐れるようになり、舞台に立つことができなくなった。彼女にはそうなってほしくないんだ」
「面白半分でオーディションに参加させた男がよく言うよ」
「それは申し訳なかったと謝ったはずだ」
「キサは……」
この舞台を最後に役者を辞めると言っていた、とは、まだ言わない方がいいのだろう。それは本人の口から聞かなければいけない言葉だ。アランは大きく息を吐き出して、頭を振った。
「ここまで来てしまったんだ。君に言われなくても、俺は最後まで彼女を見守るつもりだから」
「それは恋人として?」
「恋人?」その言葉がどうしてもしっくり来ず、アランは目を丸くする。「彼女を恋人と定義したことはない」
「……は?」
「なに、その顔」
「ああ、いや、恋人じゃないなら、一体何なんだ? もしかして、もう結婚でもしているのかい?」
「してないよ」
「……私が言えたことではないのかもしれないが、アラン、君のそういうところはよくない」スペンサーは眉を顰める。「でも、ようやく分かったよ。キサが何に怯えていたのか」
「怯える?」
「キサは、アラン・ジンデルという人間に対してというよりも、その君が描く物語に対して、並々ならぬ憧れと執着を抱いている。まあ、私はそれを餌にして、こうして彼女を釣り上げたわけだから偉そうなことは言えないが──」
スペンサーはマグに手を伸ばすと、その中を覗き込んだ。アランの目には、それが意味のある行為には見えなかった。コーヒーはすべて飲み干され、マグの中身は空っぽのはずだ。スペンサーはただ、頭の中の言葉を整理する時間を作りたかったのだろう。
「──彼女はいずれ、君に見限られることを見越している。いや、違うか。自分に興味を失くす瞬間が訪れることを悟っていると言ってもいい。君は、彼女の才能に心底惚れ込んではいるが、それだけだ。キサの才能の終着点が見えたとき、君はきっと彼女に対する興味を失うだろう。だからこそ彼女は君の要求に応えようとしてきたし、それを上回るパフォーマンスを見せ続けてきた。終わりを先延ばしにしたくて。それに、もし自分が身限られたとしても、アラン・ジンデルの描いた世界の中で生きた記録は消えてなくならないし、決して色褪せないことを知っている。キサは君の永遠になりたいんだよ、おそらくね」
「……君、脚本家にでもなれば?」
「ほら、そうやって逃げるだろう?」スペンサーは細めた目でアランを見た。「結局、君も彼女に怯えているんだ。互いが互いの才能の前に屈服して、ちっとも前に進めない。二人とも終わりを恐れている。じれったいね。これが舞台の話だっていうなら演出のし甲斐があるというものだが、あいにくとこれは現実で、私には手の出しようがない」
大きなお世話だと、そう思ったことを口にしたところで、それすら逃げだと言われるのなら、もう黙っているしか道はない。アランは自らの膝に肘を乗せて頬杖をつくと、明後日の方に目を向けた。
誰も彼もが自分たちの関係に口を出したがるのはなぜなのか。放っておいてくれと思いはするものの、どれもこれもが的を射た言葉のようにも思え、それが酷く腹立たしい。バージルとスペンサー、長い付き合いのある二人が同じようなことを指摘しているのだから、おそらくその通りなのだろう。
「恐ろしいことに、二人がこの先も一緒にいるためには、君は最も苦痛としている脚本を書き続けなければならないし、キサは君の想像を超えたパフォーマンスを見せ続けなければならないことになる。君が、彼女のことを恋人であると認めないかぎりはね」
「……言っていることの意味が分からない」
「舞台でいうところの役割の問題だよ」分からないかな、ともどかしそうに言いながら、スペンサーは先を続けた。「二人は舞台上に立っているのに、何の役も割り振られていないんだ。だから、君たちの物語ははじまりもしないし、終わりもしない。まあ、お互いに終わることを恐れているのだから、それが自然と言えば自然なんだが、傍から見ると相当不思議な関係だよ。どう見たって恋人同士なのに、本人がそれを否定するんだ……もしかして、キサに聞いても同じように答えるのかな……」
これまでの三年間、自分たちの関係を言語化する必要性を感じたことはなかった。互いに体を求め合うことはあっても、互いの関係を言葉で確認し合うことはなく、ただ、思いを伝え合うだけで満足し合っていたのかもしれない。
その証拠に、好きだ、愛しているなどと戯れに囁いて、それだけで満たされていた。いずれ手放すものを手に入れたところで、最後に残るのは虚しさだけだと、分かっているからだ。
「いや、そうか……」スペンサーはまだ何かをぶつぶつと呟いている。「……永遠にしたいからこそ、彼女は……」
これはもう自分たちのことを考えているわけではないようだと、アランは察した。自分の舞台の演出に使えそうな題材を思いつき、それを頭の中でまとめ上げようとしているのが分かる。一種の職業病だ。
こういうときは放っておくにかぎりると考えたアランは、ソファから立ち上がると、今度こそ自分の控室に戻ろうとした。だが、それは再び阻止される。何者かがノックもせず、ドアを蹴破るようにして部屋の中に飛び込んできたからだ。
「ロローさん! た、大変なんです!」
血相を変えて飛び込んできたその女性は、手にしていたストールと部屋履きを震える手で握り締めながら、両の目に今にもこぼれ落ちそうなほどの涙を溜め込んでいた。物思いに耽っていたスペンサーは顔を上げると、肩で息をしている女性スタッフに目を向け、眉を顰めた。
「じ、実は、その、あの、いなくなってしまって、あ、あの人が──」
「君、少し落ち着いて」脈絡のないことを口走っているように聞こえる女性スタッフに、スペンサーはそっと声をかける。「水をあげよう」
スペンサーはテーブルの上に置いてあったペットボトルの蓋を開けると、それをスタッフのところまで持っていってやった。スタッフは震える手でそれを受け取ると、ごくごくごく、と半分ほど勢いよく飲み干して、ペットボトルを押し返してくる。
「あ、ありがとう、ございます。もう喉がカラカラ──じゃなくて、そう、そうでした! 大変なんですよ、ロローさん!」
「大変なのは分かったよ。そろそろ何が大変なのかを教えてほしいのだけどね」
「キサさんが消えちゃったんです!」
「……今、なんて?」
「だから」横から口を挟んだアランを見て、スタッフの女性は少し乱暴に答えた。「ちょっと目を離した隙に、キサさんの姿がぱっと消えちゃったんですよ。今の今までずっと探していたんですけど、全然姿が見当たらなくて、もうどうしていいのか分からなくなっちゃって……」
どっ、と心臓が大きく動いたあと、人知れずゆっくりと息を吐き出し、乱れかけた鼓動が平常通りに動き出す。焦るな、慌てるな、何でもない、大丈夫だと内心で自らに言い聞かせながら、アランは口を開く。
「最初から話して」
「えっ? あ、はい、えっと──」
自らの出番を終えた希佐は、顔面蒼白の状態で、下手側の舞台袖まで歩いてきたらしい。外の空気を吸いたいと言うので、そのまま搬入口から劇場の裏手に連れ出すと、その場にしゃがみ込んで動かなくなった。とても具合が悪そうに見えたため、水を買ってくると言ってその場を離れ、すぐに戻ったが、そこにはもう希佐の姿はなかったという。
「それからすぐにあっちこっち探し回ったんですけど、本当にどこにもいなくて、あの、キサさん、どこに行っちゃったんでしょう……?」
スペンサーはちらりとアランを横目に見てから、にこりと人好きのする笑みを浮かべ、女性スタッフを見やった。
「とにかく、ありがとう。あとはこちらでどうにかするから、君は自分の仕事に戻っていいよ」
「で、でも……」
「大丈夫、大丈夫」
何とか女性スタッフを宥めすかしたスペンサーは、騒ぎが大きくなるといけないからと言って、遠回しに希佐がいなくなったことは口外しないようにと釘を刺し、控室の外へと送り出していた。しかし、ドアを閉めるなり難しい表情を浮かべると、アランの方を見る。
「どういうことだと思う?」
「分からない」でも、とアランは続けた。「悪い方に取ったな。すぐ外に出たのだとしたら、あの大歓声は届いていなかっただろうし」
「警察に通報しようか」
「いや」アランは女性スタッフが置いていったストールと室内履きを手に取ると、ドアに足を向ける。「その辺りを探してくる。あんな格好でうろついていたら目立つだろうから、誰かしら見てるよ」
「彼女の身にもしものことがあったらどうする?」
「大丈夫──って、自分に言い聞かせたいだけなのかもしれないけど」三年前のスタジオで起こった事件を思い出して、アランは顔から血の気が引いていくのを感じた。「……三十分経っても連絡がなかったら、通報してくれていい」
「十五分だ」
「……分かった」
どうしてこんなことになるのだと思いながら、アランは早足でスペンサーの控室を出た。そのまま搬入口に向かおうとするが、くるりと踵を返すと、希佐の控室に顔を出す。こんこんこん、とノックをしてから扉を押し開くと、悠長にもソファに転がっている幼馴染の姿を見つけ、一瞬、緊張の糸が切れそうになった。
どうやら寝ているようだ。ぐうぐうと、柄にもなく、小さないびきをかいて。当然だが、そこに希佐の姿はない。
そのまま扉を閉めたアランは、今度こそその足を搬入口に向けた。早足が少しずつ駆け足になっていく。オーケストラピットから運び出した打楽器を運搬している様子を横目に、搬入口から外に出て、辺りをぐるりと見回した。この辺りは普段から人通りが少なく、道を一本それただけでも治安が著しく低下するような場所だ。昼間だからといって安全ということは断じてない。
アランは小さく舌を打つと、下唇を噛んだ。
希佐がどの程度ロンドンの街に詳しいのかも、アランは把握していなかったのだ。三年も一つ屋根の下で暮らしておきながら、一緒に出掛けたことなど数える程度しかない。出掛けることがあったとしても、いつだって近場で、公園を散歩するくらいだった。以前約束した博物館にすら、未だ足を運んではいない。
正直なところ、どこを探せばいいのか、アランには見当もつかなかった。もし、このまま希佐が消えて、いなくなってしまったら。そう思うと、途端に背筋が冷たくなって、足が硬直したように動かなくなる。だが、すぐにでも見つけ出さなければ、スペンサーが警察に通報してしまうだろう。
アランは手にしたストールを強く握り締めると、意を決したように足を踏み出した。同じ場所に留まっていても埒が明かない。とにかく、目に付くところから探してみようと体を左に向けたそのとき、隣の建物から出てきた男と正面から衝突しそうになり、その場で足を止める。
どん、とぶつかってきた男は、うわ、と声を上げ、後ろによろめいた。
「す、すみません──って、アランじゃないか」顔見知りのカフェのマスターが、被害者面をしてアランを見上げた。「ベルリンの壁みたいにでかい男が来たと思って、思わず身構えちゃったよ」
「悪いけど、君に構ってる時間はないから」
「あ、うん、実は俺もなんだ。今ちょっと妖精さんが店に舞い込んで来ているから、迷子を預かってますよって、隣の劇場までご挨拶に行こうと思ってて」
「……妖精さん?」
「お隣でオーディションをやっているとかでね。あんまりうまくいかなかったのかな、顔面蒼白で裏口の前に座り込んでいたから、今は店の中で休ませてあげているよ。あ、もしよかったら、お店見ててくれない? 五分くらいでいいんだ。もちろん、コーヒーを奢るよ。ほら、鍵掛けて出てきたんだけど、さすがに一人で放っておくのは心配だから」
ああ、と思わず漏れそうになる声を堪え、アランはマスターの頼みを二つ返事で聞き入れた。マスターが店の鍵を開けている間に、ポケットに入っているスマートフォンを手に取ったアランは、スペンサーの連絡先を呼び出すと、それを耳に当てながら店内に足を踏み入れる。
『どうだった?』
「見つけた」アランは店内に通されると、店の中ほどにあるソファで横になっている女の姿を見て、そう声を発した。「ブルーノの店にいたよ」
『おや、キサはいい店を知っているね』
「すぐに連れて帰る」
『いや、票の集計にはまだ時間がかかりそうだから、そう急ぐ必要はない。コーヒーでも飲んでゆっくりしてくればいいじゃないか。彼女には私から見つかったと報告しておくよ』
またあとで、と言われて通話が切れるのを待たずに、アランは店を出て行こうとしているマスターのブルーノを呼び止めた。軽く事情を説明すると、ブルーノは「なんだ」と漏らして胸を撫で下ろし、ドアの前で踵を返して戻ってくる。
「何をやっているんだか」
スマートフォンをポケットに戻しながら、アランはそのソファに歩み寄った。
希佐はキルトのクッションを枕にして、横になって眠っていた。図太すぎるにも程があるだろうと思いながら、アランはその場に膝をつくと、青白い顔を覗き込む。こんなにも近くに見るのは何日ぶりのことだろうか。そう思いながら、顔にかかった髪をそっと梳き、耳にかけてやった。
「アラン、コーヒー飲む?」
「ああ」
「すぐに淹れるよ」
ブルーノはカウンターの中に戻っていく。アランはソファの近くまで椅子を引っ張ってくると、そこに腰を下ろした。テーブルに頬杖をつき、その寝顔をとっくりと見つめる。
「彼女、かなりお疲れみたいだ」香り高い湯気の立ち上るコーヒーを運んできたブルーノは、アランに向かってそう声をかけてきた。「まあ、オーディションなんて神経をすり減らすようなことを終えたばかりっていうなら、無理もないことなんだろうけど」
「普通の神経をしていたら疲れていたって知らない店で眠りこけたりしない」
このカフェは昔から舞台人が集まるカフェとして有名だ。壁一面には、そこを埋め尽くさんばかりのサインが書き込まれている。ちょうど希佐が横になっているソファの後ろに、懐かしい書き込みを見つけて、アランは思わず目を細めた。
「懐かしい?」アランの視線の先を見やり、心を見透かしたようなことをブルーノが言う。「うちの親父は、アランは絶対に役者として成功するって言い張ってたっけ」
「先見の明があるブルーノの先代でも、読み違えることがあるんだな」
「親父は読み違えたとは思ってなかったんじゃないかな。分かってたと思うけど、君のこと、随分気に入っていたから。目なんてとっくの昔に見えなくなっていたのに、君の本を病室にまで持ち込んでさ」
「ああ」
「見舞いに行く度に君の本を読んでくれってせがまれたよ」
先代のマスターが命を落としたのは、希佐と出会った日から遡ること二週間ほど前のことだ。葬儀は賑やかで、湿っぽい雰囲気は少しもなく、そして、酷く華やかだった。今を時めく舞台関係者たちが参列し、その死を悼んだ。葬儀の後は、皆このカフェに集って、大賑わいだった。
ここは元々メレディスの行きつけで、劇団員のたまり場でもあり、幼かったアランが心安らげる数少ない空間でもあった。先代のマスターはいつだって、大人たちに連れられてくるアランを歓迎してくれた。一人の舞台人として接してくれていたのだ。アランが初舞台に立ったという話を聞くと、壁にサインを書いてくれませんかと言って、油性のサインペンを持たせてくれた。
「最後の最後まで、アランはいつになったら次の舞台に立つんだって言ってた。あんなに美しい役者は他に見たことがない、絶対にまた舞台に立ってほしいって、ずーっと言ってたんだ」
「あの人は俺を買いかぶりすぎていたから」
「君の一番のファンだって言い張ってたくらいだし、多少は買いかぶっていたかもしれないけど、親父の人を見る目は本物だったって思ってる。親父はさ、自分の気に入った相手にしかサインを書かせなかったんだ。このサインは、親父がアランを一流の役者として認めていた証なんだよ」
劇団を辞め、これから先は舞台から離れて生きていくと報告をしに来たとき、先代のマスターはとても悲しそうな顔をして、そうか、と言った。でも、もし舞台に立ちたくなったら、そのときはまた新しくはじめればいい、とも言っていた。そんな瞬間はついぞ訪れなかったが、あの人がかけてくれた言葉の数々は、今もまだアランの中に生きている。
「まあ、今更になってこんな話をしたところで、何の意味もないんだけど」
ブルーノは努めて明るくそう言うと、用があるときは呼んでくれと言って、カウンターの奥に入っていった。夕方を過ぎると、店にはまた客足が戻ってくる。その仕込みをはじめるのだろう。
ぬるくなったコーヒーを口に運びながら、アランは緑色の目でゆっくりと撫でるように壁を見る。
勝手に憧れを抱いていた。メレディスを兄のように思っていたとしたら、ここの先代のマスターのことは、父親のように慕っていた。本当に大好きだったのだ。同時に、この店と同じ名前を持つブルーノのことを、子供ながらに羨ましく思っていたのかもしれない。生まれたばかりの息子の名を店名にしてしまうほど、あの人に愛されていたのだ。
アランは父親というものを知らなかったが、もしこの人が自分の父親だったらと、そう考えてしまったことは何度だってあった。すべてが子供の虚しい妄想だ。それでも、そのほんのひと時の現実逃避が、幼いアランの心を救っていたことは間違いない。
足を組み、テーブルの上に放られていた映画誌を眺めながらコーヒーを飲んでいると、不意に小さな唸り声が聞こえてきた。アランが顔を上げると、いつもの顔色に戻りつつある希佐が、ソファの上で身じろぎをする。簪のように髪に刺さっていた白バラの蕾が抜け、ぽとり、と椿の花が落ちるように床に転がった。
膝の上で開いていた雑誌を閉じ、それをテーブルの上に置いたアランは、腕を伸ばして落ちた髪飾りを手に取ろうとする。体が前屈みになり、希佐と顔が近づいたそのとき、妖精がゆっくりと目を開いた。
「……アラン?」
「おはよう」
「どうして」
「スタッフが慌ててた」髪飾りを拾い上げたアランは、そう言いながら身を起こす。「君が消えたって」
「ごめんなさい、私──」
「別に騒ぎになっているわけじゃないし、スペンサーにも連絡してある」
希佐が体を起こすと、肩口で一纏まりになっていた髪の束が、さらりと流れる。薄手のブランケットが肩から落ち、隠されていたドレスが露わになった。非常に精巧な作りのそれは、ダイアナに頼んで作らせたものだろうとすぐに分かるほど、彼女の色が濃く表れている。遠目からではよく分からなかったが、上半身のほとんどは透けるほど薄い生地に覆われているだけのように見えて、酷く危うい印象を覚えた。
「これ、預かってきた」
「ありがとう」
差し出したストールを受け取った希佐は、ブランケットの代わりにそれを羽織ると、室内履きを爪先にひっかける。スリットから覗いていた太ももを覆い隠す仕草から視線をそらし、アランは口を開いた。
「気分は?」
「もう大丈夫」
「そう」
「私、どのくらい眠っていたの?」
「俺がここに来てから十五分くらい──」
「君がここに来てまだ三十分くらいしか経っていないよ」希佐が起きたことに気づいたブルーノは、ミント水の入ったグラスをテーブルまで持ってきた。「さあ、飲んで。すっきりしますからね」
「ありがとうございます」
「うん、さっきよりもずっと顔色が良い」
「少し眠らせてもらったので」
「この世の終わりみたいな顔をして立ってたから心配していたんです」
ああ、あはは、と複雑そうに苦笑いを浮かべた希佐は、結露しはじめているグラスに手を伸ばすと、それを口に運んだ。喉が渇いていたのか、希佐はミント水をグラスの半分ほど飲むと、ほう、と息を吐いている。その様子は落ち着きを取り戻したというよりも、なんとか落ち着こうと気を静めているようにも見受けられた。
「失敗したと思ってるの」
「……え?」
「しくじったと思ってる?」
アランの問いかけに希佐は答えない。いや、どのように答えるべきか迷っているのだろう。希佐の頭の中が今、自らの評価と他者の評価との差異に酷く困惑しているのが、アランには手に取るように分かっていた。
「この上なく上手く歌えた感覚も手応えもあるのに、観客からのレスポンスを得られなかったことに、君は戸惑っている」
希佐はアランの言葉を聞いて、本当に、本当に困ったように笑った。自分の心を見透かされているという事実と、あなたに嘘は吐けないとでも言うふうな、諦めにも似た表情を浮かべて。
「……ここ何日か、毎晩同じ夢を見ていたの」何を言い出すのだろうと思い、アランは眉を顰める。「真っ暗なホールの中で、私は歌を歌っていた。ううん、そこが本当にホールなのかどうかも、私には分からない。でも、その暗闇の中で、私は歌っている。届け、届けって、必死に祈りながら。暗闇の向こう側にいる誰かに、自分の歌を聞いてほしくて」
吐息を漏らすように、ふふ、と笑った希佐は、最終審査の舞台で披露した楽曲を、鼻歌で軽く歌った。微妙に揺れる音程が、今の希佐自身の心の不安定さを表しているようで、アランにはそれが気がかりだった。何か、良くない言葉を吐き出すのではないかと、勘繰ってしまう。
「でもね、夢の中の私は、誰に向かって歌っているのかも分からなくて、それを思い出すこともできなくて、ただ祈るような気持ちで、喉が嗄れても歌い続けてた。私はあまり緊張しない方だけど、一人前にプレッシャーでも感じているのかなって、そう思ってたんだ。でも、違ってた」
希佐は、舞台に立つ自分の姿を思い描こうとするように、そっと目を閉じた。
「今日の舞台も、私はずっと暗闇に向かって歌っていて、そこには誰もいなくて、あるのは無だけだった。ぞっとしたんだよ。歌い終わったとき、夢の続きを見ているのかと思って、途端に怖くなった。舞台は孤独な場所じゃないって信じていたのに、今までにない孤独を強く感じたから」
閉じていた目を開いた希佐は、まっすぐにアランを見つめて、穏やかに微笑んだ。
「だけど、そのときの私は私ではなくて、彼女だったんだって気づいたの。孤独を感じていたのは私ではなくて、彼女だったんだって。舞台の上に立っていたのも、暗闇に向かって歌を歌っていたのも、祈るような気持でいたのも、私ではなくて、彼女だった。そう思ったら、自然と体の力が抜けて、ああ、全部彼女に任せればいいんだって分かったの」
希佐の目が、すっ、と伏せられた。先端だけが白く染められた爪を眺めながら、ゆっくりと言葉を探している。その口元には今もまだ微笑みが湛えられていたが、その伏せた表情はどこか悲しげで、物言いたげでもあった。
「何かを演じているとき、その役柄が憑依していると感じることはあっても、頭のどこかはいつだって冷静で、自分のことを客観的に捉えることができていた。でも、今回は完璧に没入していたみたい。客観的でも、冷静でもいられなくて、欲望と願望に飲み込まれるように、ただただ貪欲に、その他大勢のお客さんのことなんて完全に無視をして、たった一人のために歌を歌った」
「……」
「だからね、もしかしたら、横暴が過ぎてしまったのかもしれない。だって、私は、この歌がアラン・ジンデルただ一人に届けばいいと思いながら、歌っていたから」
「キサ……」
「あなたのためだけに歌ったの」希佐はまるで懺悔をするように、そう口にする。「だから、失敗したとも、しくじったとも思ってない。ここで終わってしまったとしても、仕方がないと思ってる」
希佐はテーブルの上にあるアランの手を見ると、自らの手でそれに触れようとするが、思い直したようにそっと腕を引いた。視線を左右に揺らし、躊躇うような仕草を見せてから、小さく頭を振る。
「……ごめんなさい、おかしなことばかり言って」
こういうときに何と言ってやればいいのか、アランには分からなかった。経験値が圧倒的に少なく、人の心の機微に敏感でありながらも、何かを察したときにすぐさま言葉が思いつくほど、人付き合いも上手くはない。
歌を褒めてやればいいのだろうか。その気持ちが嬉しいと言ってやればいいのだろうか。君はよく頑張ったと声をかけてやったところで、みんなも同じように頑張っていたはずだと言って、労いの言葉すらはねのけられてしまうような気がする。
アランは、希佐を前にするといつだって、言葉を邪魔に思った。煩わしいと感じていた。言葉を介すことで、なぜかとても遠回りをしているような気持ちになるのだ。心で通じ合っているなどとは思わない。そんなことはあり得ないと理解している。それでも、こちらを見つめる希佐の目は、考えていることが一目で分かるほど、饒舌に思いを語るから。
「キサ、俺は──」
つい先ほどスペンサーに言われた言葉が脳裏をよぎる。
『君は、彼女の才能に心底惚れ込んではいるが、それだけだ。キサの才能の終着点が見えたとき、君はきっと彼女に対する興味を失うだろう』
果たして、本当にそうなのだろうか。自分が興味を持っているのは、好意を寄せているのは、本当に立花希佐の才能に対してだけなのだろうか。目の前にいるこの美しい女性から才能が奪われたその瞬間、一切の興味を失ってしまうのだろうか。
それならば、この、今すぐにでもその細い体を力一杯に抱き締めて、決して離したくないという思いは、一体なんだというのだろう。人目もはばからずに抱き寄せたいと思うほどの強烈な思いは、月が綺麗ですね、などという言葉では収まりきらない。
しかし、アランがなけなしの言葉を絞り出そうとしたそのとき、ポケットのスマートフォンが振動した。内心で悪態を吐きながらそれを取り出したアランは、画面を確認してから耳に当てる。
『美味いコーヒーは味わえたかな』
「時間?」
『ああ、集計結果が出たよ。キサを連れて戻って来てくれ』
「分かった」
スマートフォンをポケットに戻したアランは、反対側のポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出すと、それをテーブルの上に置いた。風で飛ばされないよう空になったマグを重石にし、立ち上がりながら希佐を見る。
「結果が発表されるから、スペンサーが戻って来いって」
「うん」
「キサ」
「なに?」
「……後で、話すよ」
どうして、たった一言が、伝えられないのだろう。
ブルーノに挨拶をしてから店を出ると、希佐は黙ったままアランの後ろをついて来た。
劇場に戻ってくると、アランはスペンサーの控室の前で足を止める。希佐はそのまま、自分の控室に向かって歩いていった。あれはもう、自分はその役割を終え、あとは退くばかりだと思い込んでいる顔だと、アランは思った。
選ばれるのは君だと言ってやれば、少しは気休めになっただろうか。虚無が巣食う顔に笑顔を取り戻すことはできたのかもしれないが、もしかしたら結果は覆される可能性がある。それに、希佐の性格を考えれば、あの女の役を勝ち取ったところで諸手を挙げて歓びはしないだろうと、容易に想像することができた。
「君は、優しすぎるから」
無我夢中で追いかけているときは考えもしなかったに違いない。欲しいものを手にする勝者の傍らには、常に敗者がいるのだと。そうした人々を蹴落として手に入れた勝利を素直に喜べるほど、希佐は単純な性格をしていない。
希佐は常に良い役を与えられ続けてきた。望まれたからこそ、その期待に応えようと、真摯に舞台と向き合ってきた。だが、今度ばかりは違う。希佐は、自らが望んでオーディションを受け、最終審査まで勝ち残った。
これは間違いなく努力の賜物だ。身体的特徴の不利をはねのけ、歌唱に特化したこのオーディションで最後まで残り続ける実力は、並大抵のものではない。それは認められて然るべきだ。
だがしかし、歌唱のみで判断されるのだとしたら、希佐の歌は他の四人ほど優れてはいない。だからこそ、非難されることもあるだろう。自分の方が上手いと言われてしまえば、希佐はそれを否定しない。その非難の言葉を甘んじて受け入れ、そして、血の滲むような努力を重ねて、次の機会にはぐうの音も出ないほどの歌を披露するはずだ。
でも、希佐は本当の意味で、人を蹴落とすということを知らない。与えられるだけでは分からない。自らの実力でつかみ取りに行った役のその足元には、多くの人々の努力という名の犠牲と、泡のように溶けてきた時間が、折り重なって存在している。最終的に下された決断に納得のできない者は必ず現れるし、方々からの不平不満の声は決してなくならない。心無い言葉を投げかけられ、踏みにじられることだってある。こういう輩を黙らせるためには、舞台の初日に完璧な公演を見せつけ、完膚なきまでに叩きのめしてやるしかないのだ。
希佐ならばそれができるとアランは思う。誰にも文句のつけようがない演技を見せ続けてきた実績だってある。だが、それとこれとは話が別だ。
多くのオーディション参加者たちを足蹴にして、ようやく上り詰めた頂点から見る景色は、あまり良いものには感じられないかもしれない。これまでにないプレッシャーを感じることにもなるだろう。自由にのびのびと演じてきた、劇団カオスでの舞台とは訳が違う。失敗は絶対に許されない。
商業の舞台の真ん中に立つ人間は、多くを踏み台にし、多くを背負い、多くを消耗しながら、それでも、誰よりも光り輝かなければならないのだ。
「──ああ、キサ。良かったわ、丁度探しに行こうと思っていたところだったのよ」
希佐が控室に戻ってくると、ダイアナは脱いでいたらしいジャケットを羽織り、今にも部屋を出て行こうとしているところだった。希佐は後ろ手にドアを閉めながら、自分の方に歩み寄ってくるダイアナを見上げ、小首を傾げる。
「ほんの少し前にスタッフがあなたを呼びに来たの。最終審査の結果を発表するから、舞台袖に集まってほしいって」しかし、ダイアナは希佐が着ている衣装を見ると、途端に顔を顰めた。「ちょっと待って、あなた、まさかそれを着たまま横になったの? しわになっているじゃない」
「あ、ご、ごめんなさい」
「ちょっと脱いで、アイロンかけるから」
「でも、そんな時間は──」
「あるわよ」
ダイアナは希佐が制止する声も聞かず、するすると慣れた様子で衣装を脱がせていった。下はかろうじて履いているものの、上は何も付けていなかったので、仕方なくストールで体を覆い隠した。
「まったくもう」
ダイアナはぶつぶつと小言を漏らしながら、トランクから取り出した小さな台に衣装を乗せ、霧吹きで水を吹きかけると、当て布の上から素早くアイロンをかけていく。希佐はその傍まで歩み寄っていき、微かに笑った。
「何を笑っているの? 私、これでも怒っているのよ」
「ダイアナ、私を待っている間中ソファで寝ていたんじゃない?」
「えっ?」
「寝ぐせがついてる」
「あら、本当?」
「何日も寝ずに作ってくれたドレスなのに、しわを作ってしまってごめんなさい」
希佐はそう言うと、一方の手でストールを押さえ、もう一方の手を伸ばして、ダイアナの髪にそっと触れた。希佐のドレスほど大した癖にはなっていなかったようで、何度か形のいい頭に撫でつけてやると、跳ねた髪がすっと元通りになる。
珍しい姿を目の当たりにして目を細めている希佐を見て、ダイアナは毒気が抜かれてしまったようだ。僅かに吊り上がっていた眉が下がり、柔和な顔つきになるのが分かった。
「それで、最終審査の舞台はどうだったの? 上手くいったのかしら」
「自分史上最高の歌を歌えた」胸元にストールを掻き寄せ、希佐は言う。「──と、思うけれど、それに結果が伴うかどうかは、また別の問題」
「最終審査まで残るような子たちの実力って、そう大差ないものなのよ。必要なのは、たった一度のチャンスを確実に掴み取ろうとする強い意志と、プレッシャーに負けない強靭な精神力と、そうね、あとは時の運かしら」
こんこんこん、とドアがノックされる。希佐がそのまま出て行こうとすると、ダイアナは細い肩にそっと触れ、ここで待つように示した。ドアを開けてスタッフと対峙したダイアナは、酷く申し訳なさそうな声で言った。
「私の大切なクライアントを裸で送り出すわけにはいかないので、あと三分だけ待ってくださらない? 今すぐに服を着せるから、三分経ったらもう一度ノックをしていただけると助かるわ」
戻ってくるなり背後に回ったダイアナは、アイロンをかけたばかりの衣装を手に取ると、それを希佐の頭の上からすっぽりと被せる。両手を挙げて腕を通すと、ダイアナは脇にあるファスナーをゆっくりと上げ、その場に膝をついて裾を整えはじめた。
「いくら才能があっても、努力をしない人間は論外だわ。でも、才能ある人間が努力を重ねたところで、それが報われるともかぎらない。それでもね、私は、重ねてきた努力は無駄にはならないと思っているのよ。生地を縫い合わせる針の一刺しや、糸の一本一本がなければ、こんなふうに美しいドレスは作れないのだもの」
ダイアナは立ち上がると、今度は希佐の正面に回り込み、軽く化粧を直してくれる。最後に髪を整えながら、もう、と仕方なさそうな声を出した。
「髪飾り、どこかに落としてきてしまったのね」
「あ、ううん。あれは、多分アランが……」
「アランと一緒だったの?」
「少しだけ」
「あなたに見惚れていたんじゃない?」
「どうかな」
舞台の上に立てばみなぎる自信が、その場所から離れれば離れるほど、穴の空いた風船のように萎んでいくような気がする。正直なところ、自信はなかった。きっと、自分以外の誰かが選ばれるに違いないと思いながら、目を伏せ、床を見やる。
「自信を持って、キサ」ダイアナはそう言うと、希佐の顎に指をかけ、顔を上向かせた。「あなたはとても美しいわ。どのような結果になるにせよ、背筋をしゃんと伸ばしていなさい。顔を上げて、凛としているのよ」
「ダイアナはどうしてそんなふうに自分に自信を持てるの?」
「あら、私だって最初からこんなふうに自信満々ってわけじゃなかったのよ。いろいろあって、強くなったの。たくさんの失敗と挫折を乗り越えて、ここまで必死に歩いてきた。まだまだ道半ばって感じだけれど、今のところ自分の人生には満足しているわ。そう思えるようになってからかしらね、自分に自信を持てるようになったのは」
あなたもいずれ自分の生き方に誇りを持てるようになるわ──ダイアナはそう言って、希佐を再び舞台へと送り出した。ストールは脱ぎ捨て、靴を履き替えて。首をまっすぐに伸ばし、肩を落として、顎を引く。
あの歴史を感じさせる小さなカフェで、希佐は密かに思っていた。最終審査の結果発表を終えたら、今度こそ本当に、身の振り方を考えなければならないと。どうせ自分は選ばれないと確信めいた気持ちがある。アランだって微妙な顔をしていたし、何かを言いづらそうにしていたから。
日本に帰って何をしようか。まずは実家に顔を出そう。父親のことを思ったところで何の感情も揺さぶられないが、ユニヴェールに入学して以降、一度も足を運んでいなかった神社にお参りがしたい。絵馬を奉納しよう。今までの、感謝の気持ちを込めて。
それから……それから……、希佐は考えながら歩く。
少しゆっくりしたら、新しい仕事を探して、生活が落ち着いてきたら、中座校長に連絡をしよう。江西先生に貰ったお金は未だ手付かずのままなので、返した方がいいのかもしれない。江西先生のことだから、受け取ってはくれないだろうけれど。先輩や同期、後輩たちにも挨拶をしたいと思ったが、どの面を下げて会いに行けばいいのかが分からないので、今はまだ考えないことにした。
「すみません、遅くなりました」
舞台袖には既に他の四人が集まっていた。誰も彼もが神妙な顔つきをしている。希佐が現れると横目で一瞥するが、それだけだった。誰も口を利かず、それぞれがまったく別の方を向いて、神経質そうに爪先で床を叩いたり、爪を噛んだりしている様子が見て取れる。
「まだ審査員が集まっていないんですって」
そう教えてくれたアイリーンの顔は蒼白で、今にも倒れてしまうのではないかと心配になるほどだった。だが、声などかけてくれるなという空気を感じ取り、希佐は何も言わずに舞台の方に目を向ける。観客はとっくの昔に帰った後のようで、劇場内はしんと静まり返っていた。
だが、自分が歌唱を披露した直後の方が、今よりも更に静かで、無を感じさせるほどだったことを、希佐は思い出していた。音という音が消え去り、暗闇の中に吸い込まれていくような感覚。拍手すら起こらない、異様な空間。初めてのはずなのに、以前にも似た経験をした記憶があるような、不思議な既視感。
「君たち」希佐がぼんやりと宙を眺めていると、舞台の方からそう言う声が聞こえてきた。「舞台の上に集まってくれ。今から最終審査の結果を発表するよ」
誰もがその瞬間はもっと劇的なものだと想像していたことだろう。だが、なんてことはない。最終審査の結果を発表する場は、がらんどうとした劇場の舞台上。スポットライトもなく、ぼんやりとした明かりの中で、それは行われようとしていた。
舞台上にいたのは、演出家のスペンサー・ロローだけだった。他の審査員たちはどこにいるのだろうと客席の方を見やると、その中ほど辺りで集まり、座席に着いて話をしている。そのなかにはアラン・ジンデルの姿もあったが、一人離れた座席に腰を下ろして、舞台の方向をぼうっと眺めているようだった。
五人はスペンサーの前で横並びになると、対峙するように立つその顔を見た。最終的な結果を発表する段階が訪れているというのに、スペンサーからは気負った様子など微塵も感じられない。それどころか、一次から最終審査までの中で最もリラックスした表情を浮かべ、五人の前に立っている。審査員席に座っているときのような鋭い眼差しは、すっかり影を潜めてしまっていた。
「みんな、今日はお疲れさまでした」五人のうちの何人かは顔を見合わせ、目配せを送り合っている。「この最終審査が、これまでの審査の中で最も明暗の分かれたパフォーマンスになったことは、君たち自身が誰よりもよく理解していると思う」
希佐は自分自身のパフォーマンスを客観的に捉えることができていなかった。しかも、自分より後の歌唱を一つも聞いていなかったので、それと自分の歌唱を比較することもできない。唯一の比較対象はアイリーンの歌だったが、あまりにタイプの違う表現を用いているため、優劣をつけることは難しいのではないかと思う。
「各々が自分自身の実力を余すことなく出し切ることができなかった事実は、我々審査員にとっても残念なことではあるが、一流の舞台役者はどのような状況下でも最高の仕上がりを観客に見せて然るべきだということは、常に念頭に置いていてほしい」
自分の歌をたくさんの人に聞いてもらえた。それだけで満足だという考え方では、きっと上を目指すことはできないのだろう。だが、たとえそうだったとしても、希佐は自分の歌を聞いてもらえただけで、とても嬉しかった。
加斎中は前日の夜に、オーディションを見学させてもらってから、その足で空港に向かうと連絡をくれていた。年末年始は日本で過ごすらしい。玉阪座に進んだ先輩や同期、後輩たちにも会う予定なのだという。おそらく、同じ舞台に立っているリオも、このオーディションを客席から見ていたのだろう。彼らならば、何の忖度もなく、優れた役者の歌に投票してくれたはずだ。
「アイリーン、君の歌は実に素晴らしかったよ。君の歌声は人の共感を呼び起こす、特異なものだ。聞いている者の心に寄り添うと同時に、その心を引き込む力さえある」
「ありがとうございます」
「君ほどの歌手はそういまい。この五人の中では最も優れた歌唱力の持ち主だ。胸を張っていい。それを誇るべきだ」どういうわけか、不穏な空気が辺りに漂う。希佐の隣に立つアイリーンの手が、体の脇で握り拳を作り、小刻みに震えているのが分かった。「その証拠に、君に投票する観客は多かった。君の歌声は、聞いていて安心すると。それには私も同意見だ」
だが、とスペンサーは言った。
「どれほど歌唱力に優れていても、共感を得られる歌声を持ち合わせていても、君には彼女の役柄を演じるための傲慢さが欠けている。アイリーン、君の歌声は慈愛に満ちあふれていて、彼女を演じるには、あまりにも優しすぎるんだ」
魂の歌声。アイリーンの歌は、聞く者の心を震わせ、共鳴させる。隣の席に座り、同じ歌を聞いている赤の他人の心すら、分かったような気にさせる。
「彼女には万人に向けられる慈愛は必要ない。どちらかといえば、彼女に必要だったものは自愛だよ。今回君が選ばれなかった理由は、その一点が、我々との間で解釈の乖離を起こしてしまっていたからだ。そんなことでと思われてしまうかもしれないが、実際、これが非常に重要な問題でね」
「……ご批評感謝します」
「それと、君にはもう少し話があるから、これが終わったら控室で待っていてくれるかい?」
「はい」
アイリーンは血反吐を吐くような努力をしてきたと話していた。絶対に負けない自信があると言っていた。オーディションに合格し、アランを見返して、告白をするのだと。
もとより、希佐にも負けるつもりはなかった。だが、アイリーンに勝ちたかったわけではない。これは自分自身との戦いで、つまるところ、他者の歌唱には鑑賞すること以外の興味がなかった。
だが、希佐の胸はちくりと痛む。アイリーンの気持ちがよく分かるからだ。それでも、かわいそうだと思ってはいけないのだろう。きっと、自分も今から同じ目に遭うのだから。
「それから、キサ──」スペンサーの目が希佐に向けられる。はい、と返事をする前に、視線が逸らされた。「──の前に、後の三人について、先に話しておこう」
思わず唾を飲み込む。喉の奥で奇妙な音が鳴った。処刑台の上、血濡れた木の床に膝をつき、今にも落ちてこようとしている冷たいギロチンの刃を待つように、生きた心地がしない。その状態のまま、長たらしい演説を聞かされているような気分だった。
「まず第一に、私たちはエンターテイナーだ。チケット代を頂いている以上、私たちはお客様に最高のパフォーマンスを提供し、満足をしてお帰りいただけるよう努めなければならない。君たちにとっては、数ある公演のうちのたったの一度かもしれないが、劇場に足を運んでくださるお客様にとっては、生涯で一度きりの観劇になるかもしれないということを、忘れてはならない」
ふう、とスペンサーは息を吐き出す。その呼吸に合わせて、希佐の隣に立っていたシルヴィアの肩が、微かに震えたのを感じ取った。
「とはいえ、舞台は生き物だ。アクシデントは常に起こり得るし、誰にだって失敗はある。重要なのは、リカバリー能力だ。役割を与えられた者は、たとえ心を乱される何かが直前に起こったのだとしても、自分の役割をまっとうする義務が生じる。君たちの身に何が起こったかなんて、お客様には知り得ないことだし、そもそも関係がない。興味もない」
希佐は今日という日まで、舞台上で孤独を感じたことはなかった。たとえ誰かが台詞や段取りを飛ばしても、誰かがそれを助け、事なきを得てきたからだ。それを責める人は誰一人としておらず、後には笑い話になったものだった。
だが、このオーディションというものは違う。協力者はいても、失敗に対して救いの手が差し伸べられることはない。音楽は止まることなく、時間は刻一刻と進み、与えられた時間はあっという間に溶けていく。ほんの数分間のチャンスを生かすか、殺すかは、自分自身の采配のみで決まるのだ。
「君たちの実力が本物であることは既に証明されているし、我々審査員もよく理解している。そうでなければ、この最終審査まで残ることはできなかっただろう。だが、残念ながら君たち三人はここまでだ。君たちは、この先へは進めない」
ご苦労さま、という言葉が、こんなふうに残酷に響いたことはない。それと同時に、自らの細い肩にのしかかる急激な重みを感じて、希佐は一瞬息が止まった。スペンサーの話を頭の中で整理しながら、必死になって答えを導きだそうとする。
いや、待って、そんなはずは──希佐は、自分を見ているスペンサーの目に気づくと、微かに声を漏らした。何か言わなくてはと思いはするものの、唇が震えて、言葉が紡げないのだ。
「さあ、君の勝ちだよ、キサ」スペンサーはまるで希佐の気持ちが分かるとでもいうふうに、苦々しい表情を浮かべていた。「おそらく、君は聞き逃してしまったのだろう。あの割れんばかりの拍手と、大歓声をね」
「……え?」
「あの沈黙は余韻だ。君の圧倒的な歌唱に当てられた観客たちは、言葉もなく、ただその余韻に浸っていたんだよ。力強いのに、弱々しい。心地が良いのに、悲壮感が漂う。穏やかな気持ちにさせられるが、どこか物悲しい。相反する感情が対立することなく混在している、複雑だが、気持ちのいい歌声だった」
「あ、ありがとう、ございます」
「君は、私の中にある確固とした解釈を、その突出した演技力で塗り替えてしまった。それこそ、物語の結末が変わってしまうくらいにね」
恐ろしいことに、希佐は自分が選ばれたという事実に対して、少しも喜びを感じてはいなかった。間違っても、嬉しいなどとは、微塵も思えない。けれど、自分でもその思いの理由が分からないまま、希佐は笑顔の表情を作った。笑わなければいけないと思った。自分が喜んで見せなければ、他の四人に申し訳がないと、そう思ってしまったのだ。
大丈夫、演じるのは得意だ、きっと、誰にも気づかれない。
「審査員の皆さんのご期待を裏切らないように、精一杯努めます。それから、オーディションを受けられた他の方々の分も、たくさん努力します。どうぞ、よろしくお願いします」
ああ、嘘だ。そんなふうになんて、少しも思っていない。あの沈黙を思い出すと、今もまだ背筋が凍り、体が硬直するのだ。希佐は自分のために鳴り響く拍手も、歓声も耳にしていない。だから、それを現実として受け入れることができない。
先へ進む道はたった一本だけ。それ以外の道は、ただの行き止まりだったり、急激な坂道だったり、そのまま奈落の底に落ちていくだけだったりと、様々なのだろう。進む道行が平坦だとは限らないし、それが最も過酷で、結果、耐えがたい苦痛を味わうことになるのかもしれない。未来のことは、誰にも分からない。
拍子抜けしてしまうほど何の衒いもなく最終結果が発表され、解散を言い渡された直後、希佐だけがその場に残された。無言の足音たちが舞台を去っていく。希佐はその音に耳を傾けながら、なぜだか肩の荷が下りたような顔をしているスペンサーを見上げた。
「素敵なドレスだね」
「え?」希佐は少しだけ目を丸くしてから、ありがとうございます、と言った。「今日のために作っていただいたんです。今日はこのドレスの美しさに助けられたのだと思います」
「あとで全員分の映像データを送ろう」苦笑いを浮かべる希佐を見て、スペンサーは小さく息を吐いた。「君は一度、すべてを客観的な目で見て、自分の実力を確認しておいた方がいい。今はまだ、この結果に納得できないという顔をしているからね」
ほんの一瞬の、引き攣った表情を、スペンサーは見逃さなかったのだろう。希佐が申し訳なく思いながら視線を逸らすと、スペンサーはその肩に手を置き、とんとん、と慰めるように叩いた。
「込み入った話はまた後日にしようか。私たちもようやくクリスマス休暇に入れるので、内心喜んでいるんだ。君もこの一カ月でどっと疲れがたまっただろうから、今はゆっくり休んで英気を養ってほしい。これから忙しくなるのだからね。年が明けたら連絡をするよ」
「はい、分かりました」
「それから、そのドレスのことなんだけど」
「はい」
「うちの衣装部が提供してほしいと言っている」
「……提供、ですか?」
「そのまま舞台衣装に使いたいと言っているんだ。もちろん、タダでとは言わないよ。きちんと買い上げさせてもらう。それと、衣装製作者を紹介してほしいという話だ」
「ダイアナなら、今も私の控室にいるはずですが」
「では、私からもご挨拶に伺おうかな。今を時めく新進気鋭のデザイナーとお近づきになるチャンスだ、これを逃す手はないからね」
ぱちん、とウィンクをしたスペンサーは、希佐に背中を向けると、そのまま舞台から飛び降りて客席の方へと歩いて行った。自分も控室に戻って着替えようと踵を返しかけたそのとき、舞台の袖の方から女性のヒステリックな声が聞こえ、希佐は思わず足を止める。
「──、納得できるわけないじゃない!」上手側に向かっていた足が、一歩、下手側に戻る。「あんなどこの馬の骨とも分からない女が、スペンサー・ロローの舞台の主役? その辺の小劇場でちまちま活動していただけの女が、異例の大抜擢? あり得ない──絶対に、あり得ない!」
分かっている。ここは、そういう世界なのだと。嫉妬が蠢く、煌びやかな世界。輝きの強い場所にこそ、それと同じだけの闇が集う。目が眩むほどのスポットライトを浴びることができる人間と、そうではない人間。暗い部分があるからこそ、光がより際立って、舞台を美しく見せる。
そうと分かっていても、今だけは、ただ静かでいたいと希佐は思った。考える時間がほしいのだ。自分がなぜ、これを素直に喜ぶことができないのか。延命した舞台人生。本当なら安堵の感情が湧き起こるはずが、希佐の心に芽生えたのは疑心にも似た、困惑の感情だった。
「私たちが何年も何年も努力を積み重ねて、そうしてようやく掴みかけた夢の舞台を、あの日本人の女は横取りしていったのよ? このウエスト・エンドの舞台で主役になる、その夢が目と鼻の先にあって、あともう少しで手が届いたのに──あの女にくれてやるくらいなら、あなたが主役に選ばれるべきだったわ、アイリーン」
ああ、ああ──心の中ですら、呻くような声しか漏らすことができない。
希佐は自分が舞台の真ん中に立つことで、多くの人々の夢を奪っているのだという事実を、ユニヴェールにいた頃から理解していた。お前に俺たちの気持ちは分からないと罵られたこともあった。
それでも舞台の真ん中に立ち続けてきたのは、そうすることを望んでくれた人がいたからだ。与えられた役を全うし、クラス全体を引っ張り上げて、クラス優勝に導き続けてきたのは、いつだってクォーツのためだった。
きっと、表裏一体だったのだろう。立花希佐は何かのために舞台に立つことで、自信の才能を最も良い形で発揮することができた。自分のために舞台に立つことは、延いてはクォーツのためであり、またその逆でもあったのだ。
だから、困惑しているのかもしれない。乞われたわけではなく、ただ、誰にも奪われたくないという不純な動機でオーディションに参加し、結果的に、十四人もの人々の夢を奪ってしまった事実に。
今までは大義名分があったから良かった。自分が望んだわけではない。でも、与えられたからには、その責務を全うする義務があるのだと。自分から取りにいかずとも、まるで降って湧くように、役が与えられてきた。それを、当然のように思って生きてきた。
なんて贅沢だったのだろう。そして、なんて傲慢だったのか。最後の最後、舞台を降りる覚悟をしてようやく、自分から役を掴み取りに行く苦しみを知るなんて。
「……努力なんて誰でもしているのよ、シルヴィア」ヒステリックな声からは程遠い、酷く落ち着き払った声が、静かに言う。「私だって、何年か前までは、自分以上に努力をしている人間なんていないと思っていたわ。でもね、私の努力なんて大したことなかったんだって、思い知らされたの」
「なにを言って──」
「あなた、舞台以外のすべてを捨てられる?」アイリーンの声が、僅かに冷やかさを帯びた。「朝から晩まで舞台のことだけを考えて生きられる? 私生活のすべてを捨てて、食事や寝ることも忘れるくらい、歌やダンス、演技の稽古に没頭できる?」
「その程度のこと、誰だって……」
「そう、誰にだってできるのよ、やろうと思えばね。その証拠に、私はこの一カ月、そうやって生きてきた。でも、きっともう無理だわ。だって、つらすぎるから。だけど、あの子はそれをやり続けている。自分には舞台しかないんだって、憑りつかれたみたいに、毎日自分と向き合い続けている。私たちは、そういう子に負けたのよ、シルヴィア」
「でも、歌ならあの日本人よりも、アイリーンの方がよく歌えていたじゃない。自分でもそう思っているんでしょう?」
「歌なんてトレーニングを積めば誰だって歌えるようになるわ」あーあ、とらしくない腑抜けたような声を上げ、アイリーンは続けた。「これでも必死になって頑張ったのに、結局私ではダメだったのね。どうしてこう私の周りには天才と呼ばれる人が多いのかしら。才能ある人間は努力をすれば天才になれるのに、私みたいな凡人は、いつまで経っても凡才からは抜け出せないんだわ」
神様って、本当に意地悪よね──そう言った人の足音が、少しずつ遠ざかっていく。もう一人分の足音が、とぼとぼと、それを追いかけていった。
直接言ってくれた方が、それを受け止めることができたのにと、希佐は思う。盗み聞きのようなことをして、勝手に心に傷を作って、それを癒す術もない。それに、アイリーンのことを思うと、酷く胸が痛むのだ。そんなふうに思ってはいけないと分かっているのに、自分が合格を辞退すれば、それで何もかもが解決するような、そんな気がしてしまう。
煤けた廊下を歩いて行くと、自分の控室の前に人が集まっているのを見つけ、希佐は思わず足を止めた。挨拶に行くと言っていたので、スペンサーと衣装部の人たちだろう。ぞろぞろと部屋の中に入っていく様子を見て、希佐は思わず踵を返していた。戻ったところで着替えもできず、それどころか、衣装部の人たちに突き回されることが目に見えている。
希佐は人気のない廊下を付き辺りまで進み、そこに設置されていた硬いベンチに腰を下ろした。
見上げた天井には奇妙な形の染みがあって、その輪郭が少しだけ蠢いているように感じられる。ぎょっとしたのも束の間、目の端から水の雫が流れ落ちるくすぐったい感覚に、それがただ涙で滲んでいただけなのだということを理解した。
心底格好悪いと思う。最終審査に合格した分際でありながら、人目を避け、一人でめそめそ泣いているのだから。
個人賞金賞に輝いたと思えば、少しは気が楽になるだろうか。だが、個人賞はクラス優勝の副産物で、希佐自身にはさしたる興味がなかった。周りの仲間たちが、まるで自分のことのように喜んでくれたから、それが嬉しかっただけなのだ。
血の滲むような努力の末に手に入れた結果を、さも当然であるかのような扱いを受けることもあったが、おそらく彼らは見ていなかっただけなのだ。朝は誰よりも早く稽古場を訪れ、夜は誰よりも遅く稽古場を後にする、そうした毎日を。
だが、アイリーンは見ていてくれた。知っていてくれた。努力の結果を評価してくれた。自分を凡才などと卑下する、歌の天才。
自分がアランの反対を押し切ってまでこのオーディションを受けなければ、選ばれていたのはアイリーンだったのだ。そうすれば、アイリーンは自分の思いをアランに伝えることができて、もしかしたら、その先には誰も知らない物語が続いていたのかもしれない。
心臓を何かに鷲掴みにされ、耳の裏側が窮屈さを訴える。希佐は強く目を閉じると、奥歯を噛み締めた。まだ何一つはじまっていないというのに、決意と覚悟が粉砕されそうになるのを、寸前のところで持ちこたえている。
すべてが終わったら、自分はここから消える人間で、でも、この舞台にだけは何としてでも立ちたいと、そう思ってしまった。立ちたいのだ、どうしても。その気持ちに、偽りはない。
震える息をゆっくりと吐き出す。上向けていた顔を前に向け、正面の壁を見つめた。壁には経年劣化で黄ばんだ紙が貼り付けられていて、ここでの飲食、喫煙は禁止だと書かれている。その下には、手書きの文字で、お昼寝厳禁、と書き込まれていた。
ダイアナに言われた通り、背筋をしゃんと伸ばし、顔を上げる。
何かを演じているときの方が、自分で居続けるより、ずっと楽だと思うことがあった。現実から目を背けたくなったとき、自分の中にいる自分以外の誰かの存在が救いとなっていた。自分以外の誰かになることで、たとえ一時的にだったとしても、つらい現実を忘れることができたからだ。
だから、幼い頃は『演劇ごっこ』が大好きだった。
きっと、自分はあの頃から何も変わっていないのだろうと、希佐は思う。現実を見たくないから、ずっと、舞台の世界だけを見つめ続けている。それに没頭することで、見たくないものを見ないようにしている。逃げ続けているのだ。都合の悪い真実から。
壁をじっと見つめるばかりの希佐の下へ近づいてくる足音があった。
その人は希佐の傍らで足を止めると、着ていたジャケットを脱いで、それを肩にかけてくれた。そして、何の断りもなく隣に腰を下ろし、酷く疲れた様子で息を吐き出す。
「選ばれたのは君の責任じゃない」まるで希佐の心を見透かしたかのように、アラン・ジンデルは言った。「ここから先は選んだ者が責任を負う。だから、選ばれなかった者のことを思って、君がそんな顔をする必要はないんだ」
「私、は……」
「それとも、選ばれない方がよかった?」
「……まだ、分からない」
「アイリーンに後ろめたさを感じる必要もないよ」
「どうして私の考えていることが分かるの?」
「この三年間、君のことを見続けてきたから」希佐が隣を見やると、アランは正面の壁に顔を向けたまま言った。「アイリーンの気持ちは知ってるし、それを打ち明けられるたびに、俺には無理だって断ってきた。彼女の家は由緒ある貴族の血筋で、出自の明らかでない俺みたいな人間とは不釣り合いだと思っていたし、そもそも、彼女を恋愛対象として見たことが今までに一度もなかった。それがどうしてなのか、自分でもよく分からないんだけど」
「どうして──」
「こんな話をするのか」希佐の言葉を先回りして、アランは続けた。「自分が最終審査に合格したら、あなたにプロポーズをするからって言われて。キサにもそう宣戦布告をしてきたってアイリーンが言っていたから。自分なりの覚悟を言葉にしたんだと思う」
アランはまるで他人事のように平然とした声音で言う。わざとらしく感情を隠しているふうでもなく、ただ、淡々と事実を述べているだけのように感じられた。
「キサはそういうのを気にすると思った。自分が辞退すれば、次点のアイリーンが選ばれて、俺にプロポーズできただろうとか」
「……」
「あのさ」そう言ってアランは初めて、希佐の目をまっすぐに見る。「多分分かってないと思うから言うけど、俺は君が思っている以上にキサという人のことを好きだし、大切に思ってるよ」
「え……」
「俺はこの通りの男だし、君はこれきりで舞台を降りると言っていたから、それなら丁度良いと思ったんだ。もう俺のところには戻ってこない方がいいって、オーディションが終わったら言うつもりだった。一カ月も時間があれば、気持ちの整理はつくだろうから。舞台を降りる覚悟を決めた君なら、そのまま日本に帰るんだろうとも思っていたし。そうなれば、俺はもう君にとって不要な存在で、邪魔にしかならないと考えたんだけど、こんなことを面と向かっていったら、君は怒るだろ?」
自分を睨んでいる希佐の顔を見たアランは、口角を持ち上げて微かに笑った。
「この一カ月、君と離れて暮らしていたからこそ、見えるものも多かったよ。俺と過ごしてきた三年で、君はすべてが見違えるほど良くなっていて、俺が教えてあげられることはもう何もないんだって気づいた。君はどこへ行ってもやっていける。だから、これを最後に舞台を降りてしまうのは、本当にもったいないことだ。だから、この先、君が俺の前からいなくなるのだとしても、この世界のどこかで、舞台に携わっていてほしいと思う。今日、この目に見た君のように、舞台の真ん中でスポットライトを浴びて、誰よりも輝いていてほしいんだ、キサ」
それは、アラン・ジンデルらしからぬ饒舌さだった。希佐が目を大きく見開きながら話を聞いていると、アランは一度視線をそらしてから、再びこちらを見た。
「……でも、本当のことを言えば、キサには俺が書いた脚本で、舞台に立ち続けてほしいとも思う。どこへ行っても、何をしていてもいいけど、カオスの脚本が書き上がったら俺のところに戻って来て、俺のために舞台に立ってほしいと思ってしまうんだ」
「アラン──」
「帰ってきて」酷くかすれた、震える声で、アランが言った。「ごめん、勝手なこと言ってるって、分かってる」
前髪の内側に手の平を差し入れたアランは、額を押さえ、項垂れるように顔を伏せた。
「ごめん、本当──ごめん」
赤髪の下に覗く横顔から、少しずつ血の気が失われていくのが分かった。本人の意思に反して震える手が許せないのか、額を覆っていた手は自らの指で髪を絡め取って、何かを堪えるように強く引っ張っている。
アランから伝わってきた感情は怯えだった。
希佐には、アランが何に怯えているのかが、分かるような気がした。かつては自分も同じ怯えに苛まれていたからだ。そして、それが分かるからこそ、躊躇ってしまう。果たして、自分がその言葉を口にしても許されるのかと、考えてしまうのだ。
ああ、それでも──希佐は僅かに体の向きを変えると、アランの横顔に向かって手を伸ばした。指先が髪に触れたその瞬間、胸の内の躊躇いは一層強く、濃くなるが、希佐は構わず髪を耳にかけてやる。覗いた耳の輪郭をそっと撫でると、緑色の揺れる目がこちらに向けられた。
「大丈夫」希佐はアランの頬に手の平を滑らせ、にこりと微笑みかけた。「アランのところに帰る、黙ってどこかに行ったりしない」
愛されているとは思っていた。ただ、その愛に明確な形はなくて、今にもはじけ飛んでしまいそうなシャボン玉みたいに、不確かなもののように思えていた。まるで綱渡りのように危うくて、一歩足を踏み外してしまえば、一瞬のうちに奈落の底へと落ちていってしまうような、近頃はそんな危うさがあったのだ。
だが、アランが書いた今回の舞台の脚本を読んで、腑に落ちたことがある。ビザの申請が通ったあの日に語ってくれた出自について。とあるクリスマスの日に、施設の前に捨てられていたという、あの話だ。毛布に包まれた状態で、段ボールに入れられ、玄関の前に置いてあった──それが、脚本にそのまま描かれているのだ。彫られている名前は違っていたが、指輪の話も、施設でその名が名付けられたというエピソードも、余すことなく書き記されている。
おそらく、これは実話を基にした物語なのだ。ただ無下に、希佐の手から指輪を取り上げたわけではないのだと、今なら分かる。もし脚本に書かれている多くのことが真実なのだとしたら、それはあまりに残酷で、悲劇的で、狂気的な人生だ。
手の平に伝わる体温が酷く懐かしく感じられた。アランは恐る恐る希佐の手の平に自らの手を重ねると、目を閉じ、すり寄るようにして頬を寄せてくる。唇をやわらかく押し付けられる感覚に一瞬眩暈を覚えた希佐は、口の内側に軽く歯を立てて、遠退く意識を引き寄せた。
「あら、いやだわ──」アランが希佐の手を引き、その体を抱き寄せようとしたそのとき、廊下の向こうからそう言うダイアナの声が聞こえてきた。「私、部屋に忘れ物をしてしまったみたい」
わざとらしく響くその声に希佐が苦笑いを浮かべると、アランは小さく息を吐き、掴んでいた手を離した。ダイアナは決して邪魔をしようとしたのではない。控室からぞろぞろと出てきた舞台関係者に、二人の姿を見せまいとしてのことなのだろう。
希佐はベンチから立ち上がると、肩にかけられていたジャケットを脱ごうとした。だが、アランがそれを制止する。
「いいよ、着てて」
「でも」
「帰ってくるんだろ」僅かばかりばつが悪そうに、アランは希佐から目を逸らした。「そのときでいい」
「……うん、分かった」
希佐はそう言うと、ジャケットの袖に腕を通す。一回り以上大きなそれは、まるでコートのように細い体を包み込む。嗅ぎなれたシャンプーの移り香に抱かれているようで、酷く心地が良かった。
「そういえば」
「ん?」
「ダイアナに衣装を作ってもらったら、私の貯金額がごっそり減ってしまって」
「まあ、一流の仕事には、それなりの代価が必要だから」
「次にあのスタジオに戻ることがあったら、家賃は絶対に払うつもりでいたのだけれど、でも、あまり多くは払えないかもしれなくて……」
まだそんなことを言っているのかと、そう言って呆れられるのだろうと希佐は思っていた。しかし、アランは希佐の頬に親指の腹を走らせ、既に乾いている涙の跡を拭いながら小さく笑った。
「そのことについては追々話し合って決めよう。それに、君のドレスは衣装部が買い取るって話だし、ダイアナが上手いこと言って、君が支払った報酬分は戻ってくるようにしてくれるだろうから、心配はいらないと思うけど」
「そうなの?」
「真夜中に電話がかかってきて、いやに神妙な声でキサの貯金額はどのくらいだって聞かれた。そんなこと、俺が知るわけないのに」
「……それ、彼女に黙っているように言われなかった?」
「言われた」アランは廊下の向こうから近づいてくる人物を一瞥しながら言った。「君が告げ口しなければバレないよ」
にこにこと機嫌良く歩いて来たのは、たった今話題に上っていたダイアナその人だった。
ダイアナは踵の高い靴をコツコツと鳴らしながらやって来たかと思うと、アランの前を素通りし、希佐の正面に立つ。そして、ぶかぶかのジャケットに覆われている希佐の体を、感極まった様子で力強く抱き締めた。
「ああ、これはキサのおかげよ! 本当にありがとう!」
「えっ?」希佐は思わず驚きの声を上げる。「ダイアナ、どうしたの?」
「パトロンが君の衣装を甚く気に入ったようでね」後ろからダイアナを追いかけてきていたスペンサーが機嫌良く言った。「舞台全体の衣装デザインを彼女に頼むことにしたのさ」
「え、本当ですか? ダイアナ、すごい!」
「全部が全部キサのおかげだわ。もう嬉しすぎてキスしちゃうんだから」
ダイアナの唇が、ちゅ、と音を立てて希佐の頬に押し当てられる。希佐は一瞬目を丸くするが、クリスマスプレゼントを受け取った子供のように喜んでいるダイアナの姿を見ると、取り立てて騒ぎ立てるような問題でもないだろうと思い、にこりと微笑みかけた。
「おめでとう、ダイアナ」
「ありがとう──って、それはこちらの台詞よ、キサ。最終審査、合格おめでとう」
「ありがとう」
「あなた、バージルには連絡しなくていいの? 彼、スマートフォンを握り締めてそわそわしているんじゃないかしら」
「あ、そうだ。結果が分かったら報告するって言ってあるんだった」
「早く控室に戻って電話していらっしゃい。私もすぐに行くから、ドレスを無理に脱ごうとしないでね」
「うん」
希佐は、失礼しますと言ってスペンサーに軽く会釈をしてから、アランを横目に一瞥し、そのまま自分の控室に向かって歩き出した。ずるずると引きずるほど長い裾を持ちながら廊下を進み、控室に戻ってくるとテーブルの上のバッグに手を伸ばす。
履歴の中からバージルの番号を探してコールすると、ワンコール目でぷつんと呼び出し音が途絶えた。ダイアナが言っていた通り、スマートフォンを握り締めたままそわそわしていたのかもしれないと思うと、急に笑いがこみ上げてきた。
『……おい、何笑ってるんだよ』
「バージルがスマートフォンを握り締めてそわそわしているんじゃないかって、ダイアナが言っていたから」
『俺は別にそわそわなんかしてねぇぞ』
「うん、そうだね」
くすくすと笑う希佐の声を聞いて、電話の向こう側にいるバージルが小さく舌を打つのが分かった。
『そんなことより、どうだったんだよ。その様子だと聞くまでもねぇことだと思うけど、合格したのか?』
「……うん」
『そうか』
希佐が合格したということは、自ずと、アイリーンが不合格だったということが分かる。バージルの思考は一瞬でそれを理解したようだったが、それと同じくらい、切り替えも早かった。
『お前、毎日朝から晩まで頑張ってたもんな。おめでとう、キサ。お前の努力の賜物だよ』
「ううん、バージルやジョシュアのおかげだよ。もちろん、ダイアナも。一緒に頑張ってくれたから、私もここまでやって来られたと思うから」
『あのな、キサ。商業の舞台はここからが大変なんだ。カオスの舞台より何倍もきついだろうし、順風満帆に事が運ぶなんてことは、まずないと思っておいた方がいい。お前は主役だからな、稽古しつつ、プロモーションしつつ、衣装合わせやらその他諸々の打ち合わせやら、仕事は山積みだぞ』
「う、うん、そうだよね」
『でも、まあ、稽古がはじまるのは年明けからだろうし、何日かは羽を伸ばせるだろ』
「スペンサーさんも、ゆっくり休めって」
『是非ともそうしてくれ』ああ、でも、とバージルは続ける。『そうか。オーディションが終わったんだから、キサはアランのところに戻るんだな』
「あ、うん……」
『俺としてはもっといてくれたって一向に構わねぇし、その方がハンナも喜ぶんだろうけど、お前は戻るんだろ? あいつのところに』
「……多分、そうなると思うんだけど」
『なんだよ、歯切れ悪いな』バージルから少しだけ笑ったような気配を感じた。『帰ってきてくれって、言われたんじゃねぇのか?』
「えっ?」
やっぱりなと言って、バージルは今度こそ、声を立てて笑った。
『お前も知ってると思うけど、あいつはさ、素直になれないやつなんだよ。人にああしてほしいとか、こうしてほしいとか、滅多に言わないだろ? なんだって自分一人で出来ちまうから、人を頼ることもほとんどない。そういう人間は得てして、自分の望みを口に出して、誰かに伝えるっていう行為が苦手なんだ。あいつはその筆頭も筆頭。一人ででも生きていけますって顔をしてるくせに、本当は寂しいとか、誰かに一緒にいてほしいとか、そういうことを思ったりしてるわけ』
「バージルって、アランのことをよく分かってるよね」
『まあな』そう言って、にやりと笑うバージルの顔が、希佐の脳裏に浮かぶ。『自分では認めないだろうけど、あいつは生来の寂しがり屋なんだよ。認めないっていうか、自分でも分かってないのかもしれねぇけどな。そんなやつが、三年間も一緒に暮らしていた女に出て行かれて、何とも思わないわけがねぇ。ま、あいつが追い出したみたいなもんだから、自業自得なんだけど』
バージルは本当にアランの気持ちをよく理解していて、常に丁度良い距離感を保ち、友人のような、兄弟のような、ときには父親のような立ち位置で、大切に見守ってきたのだと分かる。この一カ月、バージルが希佐を預かってくれたのも、希佐のためというより、アランのためにという思いの方が強かったに違いない。
『お前が俺の部屋に転がり込んできたあの日の内に、あいつは後悔してたよ。もっと他に言い方はあったって。でも、自分は言葉が足りないから、考えていることの半分も伝えることができなくて、もどかしいってさ、そんなようなことを言ってた』
「知ってる。わざと傷つけるようなことを言って、自分が悪者になろうとするの。そんなことを言ったら、自分も傷つくって分かっているのに」
『そんなやつが帰ってきてくれなんて言うんだから、相当だよな』バージルは電話の向こう側で愉快そうに笑っている。『お前は間違いなく愛されてるよ、キサ。あいつ、ようやく好きな女の前で情けない姿を晒せるようになったんだな』
「泣いてるところなら見たことあるよ」
『おっ、マジか』
「綺麗だった」
『そうだろうな』
「私ね、バージル」
『なんだ?』
「この舞台が終わったら役者を辞めるつもりなんだ」一拍遅れて、は? という唖然とした声が、耳元の小さな穴から聞こえてきた。「だからその前に、あの人を舞台の上に引っ張り上げてあげたいと思うの」
『……どういう意味だ?』
「アランの心の中には、まだ舞台に対しての未練が残っているのだと思う。脚本家や演出家としてではなくて、演者としての未練。あの人の過去に何があったのかは知らないし、それを詮索しようとも思わない。でも、ほんの少しでも、また舞台に立って演じてみたいっていう気持ちがあるなら、もう一度舞台の上に立って、確かめてみてほしいんだ」
アランが一人、誰もいないスタジオで踊っていたとバージルに聞かされたあの日から、ずっと考えていた。それが、自分がここに来た本当の理由で、与えられた役割なのではないかと。
卒業を目前にしてユニヴェールから逃げ出し、夢を失って腐りきっていた自分を失意のどん底から救い上げてくれたのは、他ならぬアラン・ジンデルだ。だからこそ今度は自分が、アランを助けられるのではないかと、希佐は考えている。
「バージルも言っていたでしょう? アランと一緒に舞台に立てたら最高だろうなって」
『あ、ああ、確かにそうは言ったけど……』
「私も見てみたい。アランとバージルが舞台の上で一緒に踊っているところ。スポットライトを浴びて、キラキラ輝いているところ」
『そうは言うけど、結局のところは本人次第だろ。無理やり引っ張り上げようとしたって、簡単に従うようなやつじゃない。それに、お前はそんなことやってる余裕なんかないぞ──ああ、いや、待て、頭ん中が混乱してきた』ぱちん、と頬を張るような音が聞こえた後、バージルの声が続く。『こんなこと、電話で話すようなことじゃない。お前、とりあえず一回俺の家に帰ってこい。荷物だって取りに来なきゃいけないだろ。話はそれからだ』
「協力してくれるの?」
『話くらいは聞いてやる』
「ありがとう」
『いいか、協力するとは言ってねぇからな』
バージルなら、アランのためだと言えば協力してくれることを、希佐は知っている。
だが、無理強いをしたいわけではないのだ。これが自分の勘違いならばそれでいいと、希佐は思っている。舞台に立ち続けてほしいと願うアランの思いを退け、辞める覚悟を覆そうとしない自分が何を言っているのだとは思いはするが、未練は一つも残したくないのだ。何一つ後悔したくない。
電話を切って間もなくすると、ダイアナが控室に戻って来た。相変わらず機嫌が良さそうだ。希佐が着ている衣装を脱がしてくれながら、少しだけ調子の外れた鼻歌を歌っている。
「ご機嫌だね、ダイアナ」
「それはそうよ。だって、私の夢が叶うのだから」
「ダイアナの夢?」
「舞台の衣装を作ること」
はい、どうぞと言って、ダイアナは裸も同然の姿になった希佐の肩に、アランのジャケットを引っかけた。途端に慌てる希佐を見て悪戯っぽく笑ったダイアナは、手にしていた美しいドレスをハンガーラックに吊るしかけながら続けた。
「私、カオスの衣装を作らせてもらっているでしょう? 彼、前々から私が舞台衣装に挑戦したがっているのを知っていてね、ある日突然声をかけてきてくれたの。今度小さな劇団を立ち上げるから、その舞台衣装を作ってみないかって。あの頃から、私は自分のお店を持ってはいたけど、これが鳴かず飛ばずでね。経営は上手くいかないし、借金ばかりが増える一方で、そろそろ潮時かしらって思っていたのよ。じゃあ、最後に格安で才能の椀飯振る舞いをしてあげちゃおうかしらと思って、意気揚々と出向いてきたら、彼が言ったの」
希佐は着替えを放っていたソファに歩み寄ると、ダイアナに背を向けたまま下着を身につけ、洋服を着こんでいく。後ろを振り返ると、ダイアナは純白のドレスを愛おしそうに眺めながら、背中のレース部分を指先でなぞっていた。
「君には才能がある。だから、自分を安売りするな。報酬は正規の金額を支払うし、諸々の費用も負担する。君はきっちり自分の仕事を全うしてくれれば、それでいいって。彼は、自分の目の前で才能が無惨に枯れていくのを、黙って見ていられない人間なのよ。あなたと同じように、私も彼に救われていたの。そのおかげで、カツカツだった生活が少しはマシになったわ。気持ちにも余裕ができたら、今度は仕事もうまくいきだして、今ではこの通り超売れっ子のデザイナーよ」
にこりと美しく微笑んだダイアナは、希佐をソファに座らせると、その後ろに回り込んで乱れていた髪を整えてくれた。髪を櫛で梳きながら、ダイアナは話を続けた。
「アランはあなたの才能を見て、このまま枯らすのはもったいないって、そう思ったのでしょうね。だから、まるで囲い込むようにして、あなたの才能を守ったのよ、きっと。これって、ノブレス・オブリージュの精神なのかしら」
「ノブレス・オブリージュ?」
「フランス語よ。英語で言えば、ノーブル・オブリゲーション。貴族の義務って意味だけど、権力や社会的な地位、財産を保持している人間には、それなりの義務が生じるっていう昔ながらの貴族の考え方。社会の模範たれ、みたいな感じかしらね」
「アランはそんなふうに自分のことを考えているの?」
「元々の彼は正反対の人間よ。あなたも知っていると思うけれど、彼は施設である程度大きくなるまで過ごしてから、牧師様の家に引き取られて養子になったでしょう? その段階ではまだ持たざる者だったけれど、メレディスの劇団に所属して、多くの仲間たちの手によって才能が育まれたことで、天才と呼ばれる存在になった。今では社会的にもその才能が認められて、彼は持たざる者から持つ者となったのよ」
ダイアナはせっかくだからと言って、希佐の髪を頭上で一つにまとめると、丁寧に結い上げてくれた。ふんわりとしたシニヨンだ。
「彼はただ、自分がしてもらったことを、誰かにしてあげたかったのだと思うわ。本人はそれを義務だなんて思ってはいないでしょうね。そうしたいから、やっているだけ。地位とか財産とか、そういうものに頓着がないから、彼は。そんなしょうもないものよりも、人間の本質的な部分に価値を見出す人なのよ」
「分かる気がする」
「カオスがその最たるものなんじゃないかしら。アランが最も美しいと思っているものの集合体よ、あれは。彼にとっては、一人一人がキラキラ輝く宝石で、大切な宝物なんだわ」
これから衣装部の人たちと打ち合わせがあるからと言って、颯爽と去っていったダイアナの足取りは軽やかだった。
帰りしなにアイリーンを探したものの、その姿はどこにも見当たらず、丁度通りかかったスタッフに尋ねてみると、少し前にタクシーで帰られましたと教えられた。電話をしてみようかとも考えたが、自分とは話したくもないだろうと思い、希佐は手にしていたスマートフォンをポケットに落とす。
希佐は地下鉄の駅に向かう途中でジョシュアのスタジオに立ち寄ったが、やはりレッスン中だったようで、直接会って合格を伝えることは叶わなかった。
受付でジョシュアに渡してもらうためのメモを書いていると、タブレットを片手にスケジュールのチェックをしていたアシスタントが、我慢できないとばかりに声をかけてきた。
「あ、あの──」
「はい?」
「オ、オーディションは、どうだったんですか?」
なぜか顔を真っ赤にしてそう尋ねてきた女性アシスタントに向かって、希佐はやわらかく微笑んで見せる。そして、インクが乾いたのを確認してから折りたたんだ紙を、アシスタントの胸ポケットに差し入れると、自らの唇に指を添えた。
「勝手に見ちゃダメですよ」
「は、はいぃ……」
間違いなく渡しておきますと言うアシスタントに、もう一度よくお願いをしてから、希佐はすぐにスタジオを後にした。近くにある駅の階段を降り、たいして待たずにやって来た地下鉄に乗り込むと、隅の席に腰を下ろす。いつもは車内にいる人たちをこっそり眺め、人間観察を行っていたが、今日ばかりはそんな気も起こらない。
希佐の中では、まだ気持ちの整理がついていなかった。それでも、俺のために舞台に立ってほしい、俺の書いた脚本で舞台に立ち続けてほしいというアランの言葉が、さざ波立っていた心をゆっくりと凪いだ状態にさせてくれたことは確かだ。
選ばれるとは思ってもいなかった、と言えば嘘になるだろう。希佐は選ばれるための努力をしてきた。台本を何度も読み込み、自問自答を繰り返しながら物語や女への解釈を深め、完璧に近い状態で本番に挑んだ。自分のパフォーマンスには微塵の不満もない。それなのに、嬉しくないのだ。きっと、アイリーンのことが心に引っかかっているから、素直に喜べないのだろうと、今になって希佐は思う。こんなふうに考えていると知ったら、アイリーンは怒るに決まっていた。
アイリーンならば、自らの心を押し隠し、おめでとうと言ってくれるだろう。良かったわねと言って、希佐の勝利を祝福してくれるに違いない。だからこそ、あの話を聞かなければ、こんなふうに苛まれることもなかったのにと、希佐は思ってしまうのだ。自分がアランのところに戻れば、アイリーンには二重の苦しみを味わわせてしまうことになると、分かっているから。
「ただいまー」
この愛らしい犬に迎えてもらえるのも、これで最後なのだと思うと、物悲しい気持ちになる。
希佐は、エレベーターの前で尻尾を振って待っていてくれたハンナの前で膝をつくと、よしよし、と頭を撫でてやった。ぺたん、と両耳を後ろに倒し、つい、と濡れた鼻を上向かせながら、ハンナは目を細めている。
「いつもお迎えをしてくれてありがとう、ハンナ」
ぺろ、と口元を舐められ、希佐は小さく笑った。
ハンナに続いてリビングに向かうと、キッチンに立っているバージルの姿が見えた。バージルは希佐の気配に顔を上げ、ほとんど親戚の叔父のような口振りで「おう、おかえり」と言う。希佐はもう一度ただいまと挨拶をすると、持っていた荷物をソファに置いて、アイランドテーブル越しにバージルを見た。
「お前、朝にパンケーキ食べたきりだろ?」
「うん」
「軽く食べられるもん作っておいてやるから、その間にシャワー浴びてこいよ」
話はその後だと先回りをされてしまい、希佐はバージルの言う通りにする以外の選択肢を失ってしまった。だが、ずっとシャワーを浴びたいとは思っていたのだ。劇場の控室にもシャワールームはあったが、ドアに故障中の紙が貼り付けてあったので、使用することができなかった。
希佐は素直に頷くと、荷物を抱えて、この一ヶ月の間使わせてもらっていた部屋に向かう。ゲストルームはホテルの一室のように整っていて、スタジオにある希佐の部屋よりもずっと広い。バスルームには大きな湯船もあって、シャワーヘッドは高級ホテルにあるような大きなノズルのものだ。テレビも備え付けてあったが、それを見ることは一度もなかった。稽古の息抜きにバージルと昔の映画を観たりはしたが、そういうときはいつもシアタールームを使った。
明日出ていくことになるのかもしれないと思い、掃除は昨日のうちに済ませてある。ハウスクリーニングを近々入れるので必要ないと言われたが、それでは希佐の気持ちが収まらなかったのだ。ハンナが良く訪ねてきてくれたので、あらゆる隙間に白と黒の毛が入り込んでいて、それがなんだかとても愛おしかった。
シャワーを浴びた後にバスルームを軽く拭き取り、換気扇を回す。消し忘れるといけないので、まとめておいた荷物は後で取りに来ることにした。
髪を乾かしてからリビングに戻ってくると、アイランドテーブルの上には食事の支度が整っていた。トルティーヤのラップサンドだ。デザートに果物が添えられている。飲み物はいつものアイスティーだった。
「ありがとう、バージル。とっても美味しそう」
「アランのところに戻ったら苦労するぞー」じゃぶじゃぶと洗い物をしながら、バージルが悪戯っぽく言う。「こんなマメな男と一ヶ月も暮らしたら、あんなズボラな男には嫌気がさしちまうかもな」
「恋しくなると思うよ、きっと」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」
「ハンナが」
「……お前な」
ふふ、と笑う希佐を見て、バージルは少し呆れたような顔をしてから、釣られたように破顔した。
そして、話題は先程の電話での話に立ち戻る。バージルは希佐が帰ってくるまでの時間を使って、そのことについて考えていたらしく、既に自分なりの答えを導き出していた。
「要は、あいつのやる気次第だろ。周りがとやかく言ったところで、あいつは絶対に動かない。無理やり引っ張り上げるようなことをしてみろ、あいつのことだから、へそを曲げたっきり二度と戻ってこないぞ」
「それはそうなんだけど」
「一番は、お前や周りの連中が、必死になって舞台作りする姿を見せ続けることなんじゃねぇかな」
「そんなことは、もうずっと前からやっていると思うけど」
「だからだよ」話をしながらも食べる手を休めようとしない希佐を眺めながら、バージルは言った。「アランはあれで負けず嫌いなところがある。最近はカオスの全員が、なんだかんだで忙しくしてるだろ? うちの劇団は個人の活動を優先していいってことになってるからな、誰か一人が忙しくて活動が凍結されるってことは度々あったが、全員が劇団外の活動で忙殺されるっていう状況には陥ったことがない」
確かに、イライアスは舞台から舞台に飛び回っているし、ジェレマイアは年末年始に帰ってくるとは言っているが、またすぐにアメリカに戻るという話だ。アイリーンは舞台の他に、コンサートにも多く出演している。ノアは泣き言を漏らしながらも学業で忙しくしているし、バージルは舞台の振り付けやダンス指導で家を開けることが増えていた。希佐はこの後、最初で最後の商業舞台の出演が決まっている。劇団カオスの活動の見通しは、まだまだ立ちそうにない状況だ。
「まあ、あいつもあいつで忙しい。というか、未だにあいつが一番忙しくしてるんじゃねぇかな。面倒臭いってぼやきながらでも、仕事は真面目にしてるだろ」
「うん」
「でもな、あいつが仕事をする原動力って、元を辿ればカオスの活動にあるんだよ。本人にしてみれば、書きたくもない映画の脚本やら本の原稿やらを書いているのは、年に何回かでも自分の劇団で好き勝手なことをしたいからであって、富や名声を手に入れるためじゃないんだ」
アランは一日のほとんどをPCの前で過ごしている。そうでないときも、ノートやタブレットを持ち歩き、いつでもどこでも仕事をしているような人だ。無理やり引きずっていかなければ、ベッドで休もうとしない日もあった。嫌だ嫌だと駄々をこねるように仕事をしながらも、書くことを決してやめないのは、やはり劇団カオスのためなのだろう。
「お前もダイアナに衣装を注文して分かったと思うけど、舞台っていうのは一度きりの公演をするだけでも、かなりの金がかかる。ヘスティアの劇場を借りる金だろ、小道具や大道具を揃えるのも一苦労だし、うちの舞台の音源は基本管弦楽だから、楽団に支払う金とレコーディングするスタジオ代も必要だ。それに、当日手伝ってくれるスタッフの日当、その他にも諸々の経費──アランは、こういう趣味みたいなもののために金を稼いでいるわけだが、今はその人生唯一の楽しみと言っても過言ではない劇団の活動ができていないってことになる。それって、相当なストレスだと思わないか? 鬱憤とか溜まってると思うぞ、実際」
「バージルはカオスの活動ができていないことをどう思っているの?」
「俺がイギリスに帰ってきてからの拠点はカオスだと思っているから、少し物足りない感じはある。まあ、俺みたいに多少忙しくても同時進行できるようなやつばかりではないし、ジェレマイアが帰ってこないことには、再始動だってできないだろ」
「……今の状態を、アランはどう思っているのかな」
「納得はしてねぇだろうよ。周りに対してじゃなくて、自分に対してな」
「自分に?」
「他の連中は着実に前に進んでる。少なくとも、あいつにはそういうふうに見えてる。でも、あいつ自身はその場で延々と足踏みをしているだけだと思ってるんだろうよ」
「でも、舞台の脚本を書いて……」
「キサはあいつが快諾してあの脚本を書いたとでも思ってるのか?」
希佐はその問いになぜかドキッとしてから、すぐに首を横に振った。
あの脚本を書いているとき、アランはずっとつらそうにしていた。その姿を誰よりも近い場所で見ていたのは、他ならぬ希佐だった。アラン自身も、しんどいと言っていたのだ。誰かに心臓を握られているようで、息が苦しいのだと。
「アラン、こんな仕事は引き受けるんじゃなかったって言ってた」
「まあ、あいつはあいつなりに、自分の殻を破ろうともがいているのかもしれねぇけどな」
アランのことを思い、途端にしゅんとしてしまった希佐を見て、バージルはこれ見よがしにため息を吐く。そして、空になった食器をテーブルの上から回収すると、再び手際よく洗いはじめた。
「キサはこの三年間、アランの後ろをついて歩いていただろ?」
「……そうなのかな」
「俺の目には、お前があいつに導かれるようにして、舞台に立っているように見えてたよ。どこに行ってもやっていける一流の役者になれるように、俺たちカオスの力を借りながら、大事に大事に育てられてきたんだ。もちろん、それはキサ自身の努力がないと成し遂げられないことなんだが、お前は見事に、あいつの期待に応えてやったってわけだ」
「期待に応えられたかどうかなんて、まだ分からないよ」
「いや、お前は応えたんだ、キサ」バージルは僅かに表情を引き締め、先を続ける。「そうじゃなかったら、今回のオーディションに合格なんてするか。お前はそれを造作もないことだと思ってるのかもしれねぇけど、違うからな。お前の努力の仕方は並大抵じゃないし、実力も物凄い速さで着実に伸びてる。今回は、その努力の結果がやっと、目に見える形で表れたんだ。まぐれとか、時の運とか、そんなもんじゃない。お前は、選ばれるべくして選ばれたんだよ」
「バージル……」
「俺はお前を天才だと思ってるけど、何の天才かって言ったら、一番は努力の天才だ。俺は才能の上に胡坐を掻いているような連中を大勢知ってるが、お前は違う。どう考えても完成形が見えているのに、お前はいつだってその先を目指そうとするだろ? その精神が俺は好きだし、お前のそういうところを、心から尊敬してるんだ」
尊敬している相手に尊敬していると言われることはあまりに光栄で、恐れ多くて、思わず言葉を失ってしまう。希佐が微笑むでもなく、困るでもなく、僅かに照れたような表情を浮かべていると、バージルは微かに口角を持ち上げた。
「だからさ、今度はキサが、アランの前を歩いて行くんだよ」
「えっ?」
「今度は、お前があいつを導いてやるんだ」バージルは確信を持った口振りで、そう言い切った。「ああ、いや、歩くなんて生ぬるいな。お前はあいつの前を走っていけ。背中が見えなくなるくらい、ずっと遠くまで。そうすれば、あいつだって目を覚ますだろ。お前に置いていかれないように、必死になって追いかけてくる」
「……本当にそう思う?」
「カオスの中では俺が一番あいつとの付き合いが長いんだぞ。間違いない。今のあいつなら、どれだけ引き離されたって、絶対に追いついてくる。だから、お前は後ろなんか気にしないで、前だけを向いて走ってりゃいいんだ」
「あの人が追いかけてきてくれなかったら?」
「その時はその時だろ。まあ、それまでの男だったと思って諦めてくれ」
本心なのか、冗談なのか、バージルはどちらとも取れる物言いで、そう言い放つ。
アランならばきっと追いかけてきてくれる、そう願って前へ進むしかないのだろうと、希佐は思った。
十二月のロンドンは、午後四時頃にはもう日の入りを迎え、東の空から夜を迎える。希佐は近所だから一人で帰れると言ったが、バージルはハンナの散歩のついでだからと言って、教会裏のスタジオまで送り届けてくれた。
到着する頃にはすっかり日も翳り、辺りの石畳は街灯に照らされてぬらりとした光を反射させていたが、スタジオには電気が点っていなかった。どうやら、アランはまだ帰っていないらしい。
「本当にありがとう、バージル」
「それはもう何度も聞いたって」
「ハンナもありがとう」希佐はバージルの隣で行儀よく座っているハンナの前にしゃがみ込んだ。「また今度遊びに行くから、私のこと覚えていてね」
朝になって、ハンナが起こしに来てくれることは、もうないのだ。そう思うと、とても離れがたい気持ちになる。明日からはアラームをかけ忘れないようにしなければと考えながら、希佐はハンナの頭を撫でた。艶のある白と黒の美しい毛並みを少しの間堪能してから、希佐はゆっくりとその場に立ち上がった。
「アラン、まだ帰ってないみたいだな」
「何か話があったの?」
「いや、どんな顔してんのか拝んでおきたかっただけ」バージルはそう言いながら、荷物を抱えている希佐の代わりに、扉の鍵を開けてくれた。「一人で大丈夫か?」
「うん」
「中に入ったらすぐに鍵を閉めろよ」
「分かった」
「じゃ、またな」
バージルはそう言うと、足元にいる愛犬とアイコンタクトを取ってから、徐に歩き出した。
「ありがとう、バージル」
何度も繰り返してきた言葉をその背中に投げかけると、バージルはこちらを振り返ろうともせず、うんざりした様子で手を振っている。希佐を気にして何度も振り返っていたハンナは、角を曲がって見えなくなる前に、挨拶をするように小さく吠えた。
その様子に微笑んでから、希佐はスタジオの中に入った。バージルに言われた通り、入ってすぐに扉の鍵をかける。
ほとんど暗闇に近い室内を見回して、希佐は妙な懐かしさを覚えた。戻らなかった半月ほどの時間は実際の日数よりも長く感じられて、本当はもう何年も、ここへは帰ってきていなかったような気がする。どこか変わったところはないかと見回していると、ちょうど入ってきたところの正面に、天井の梁からぶら下がっているものを見つけ、希佐は目を凝らした。よく分からないまま歩み寄っていくと、それがハンモックであることに気づく。
「何でこんなところに……?」
みんなの荷物置き場になっている辺りなので、稽古の邪魔になることはなさそうだが、希佐にはこれをアランが設置したとは思えなかった。
相変わらず足の踏み場もないほどの事務室を通り抜け、希佐は階段を上って二階に向かう。もしかしたら帰っていないのではなく、部屋で休んでいるのではないかと思ったが、アランの姿はどこにも見当たらなかった。
何となく気持ちが落ち着かなかった希佐は、持って帰ってきた荷物を自分の部屋に放り込むと、紅茶でも入れようと思い立ち、キッチンに向かう。
「あ、明日の朝ごはん……」
帰りに何か買ってくればよかったと考えながら冷蔵庫を開けると、案の定その中はほとんど空っぽで、希佐は苦笑いを浮かべてしまった。アランが帰ってくる前に買い物に行ってこようか──そう思いながら冷蔵庫の戸を閉めた希佐は、自らの視界に映り込んだものを見て、一瞬思考を停止させる。
クリップ型のマグネットに、希佐がクリスマスマーケットで買ってきたオーナメントが留め付けられ、それと一緒にリースが飾られていた。ごみ箱に捨てたはずのものが、ひとりでに移動してくるはずもない。確かに、自分の部屋にあるものは何でも持ち出していいとは言ったが、まさかごみ箱の中まで見られるとは思ってもいなかった。
この家の中で、冷蔵庫だけがツリーのように飾り付けられ、クリスマスに浮かれていた。
希佐はケトルで湯を沸かし、ティーバッグの紅茶を入れると、椅子に座って読みかけだった本を開いた。オーディション期間中は歌やダンスの稽古で忙しく、本を読む時間すら取れなかったのだ。
日本を出て五年、大分英語も話せるようにはなってきたが、未だに知らない言葉と出会うことも多く、辞書は欠かせないものとなっていた。だが、日本人だからといって、すべての日本語を網羅しているわけではない。それはイギリス人も同じで、生きていれば知らない単語と出会うこともあるはずだ。完璧を目指す必要はないのだと考えるようになってからは、随分気が楽になったものだった。
階下から物音が聞こえてきたのは、それから一時間程が過ぎた頃だった。不意に三年前の記憶が脳裏をよぎるが、まさか、あんなことが二度も起きるはずがないと、すぐに思考を切り替えようとする。
いや、でも、万が一ということも──希佐は咄嗟にテーブルの上で開いていた辞書を閉じると、それを抱えて立ち上がった。階段近くの壁を背にして立ち、聞こえてくる物音に耳を澄ます。イギリスの通報番号は999。階段を上りきって僅かに油断をした隙に、この分厚い辞書で後頭部を殴りつければ、気絶くらいはさせられるはずだ。
ガタガタガタ、と何かが派手に崩れる音が、事務室から聞こえてきた。希佐は辞書を持ち直すと、それを頭の上に乗せ、呼吸を整える。
とん、とん、とん──階段を上ってくる足音が、少しずつ近づいてくるのが分かった。
あと三歩、二歩、一歩──希佐は頭上に掲げた英英辞書を振り被り、そして、振り下ろ──そうとして、失敗した。その重みに耐えきれず、その場で尻餅をついてしまったのだ。
「……何してるの」
ごもっともな疑問だと思いながら、希佐は床に落ちた辞書を抱えあげる。唖然としてこちらを見下ろしているアラン・ジンデルの前で立ち上がった希佐は、辞書で顔の半分を隠しながら、上目遣いにアランを見上げた。
すると、アランは希佐が何を考えていたのかを理解したような様子を見せ、ふう、と小さく息を吐いた。
「ごめん、先に連絡をしておけばよかった。まだ帰ってないだろうと思って」
「う、ううん、私が勘ぐり過ぎただけだから……」
「怪我は?」
「大丈夫」
「そう」
アランはそう言うと希佐の前を通り過ぎて行き、両手に持っていた荷物をテーブルの上に置いた。希佐はその後ろを追いかけ、隣に並ぶ。紙袋の中に詰め込まれていたのは、野菜や油紙に包まれた肉、卵、牛乳、レトルトや缶詰など、様々だった。とりあえず目についたものを買ってきたというふうな感じに見える。もう一方の袋には、ベリー系の果物の他に、バゲットが無造作に差し込まれていた。
「何か食べる?」
「アランは?」
「ダイアナに付き合わされて、外で食べてきた」
「ああ、衣装部の人たちと?」希佐がそう尋ねると、アランは僅かに頷く。「私も食べてきたよ。バージルがトルティーヤのラップサンドを作ってくれたから」
「ふうん」
あまり興味がなさそうに相槌を打ったアランは、冷蔵庫に入れる食材を抱えて歩きだした。しかし、冷蔵庫を足で開けようとしている姿を目の当たりにした希佐は、慌てて駆け寄り、代わりに開けてやる。
そうして押さえている間に、食材は黙々と詰め込まれていった。冷気が逃げ切らないうちに戸を閉めると、そのはずみで足元にリースが落ちる。希佐が拾い上げている様子をアランは横目に見たが、特に何を言うでもなくテーブルに戻っていった。
希佐はリースを元通りの場所に戻し、片付けの邪魔にならないよう本と辞書を抱えて、一度自分の部屋に戻った。机の上に辞書を置き、日本を出てきた日から書き続けている日記帳の隣に、読んでいた本を並べて差し込む。
それから、ベッドの上のバッグに目を留め、僅かに躊躇った。だが、こうして考えていてもしょうがないと思い、少し前に用意しておいた小さな箱を、バッグの中から取り出す。渡しそびれていた、誕生日とクリスマスのプレゼント。渡さずにいようかとも思ったが、多分、今なら受け取ってくれるはずだ。
しかし、キッチンに戻って片付けを手伝った希佐は、ケトルで湯を沸かしているアランの背中を見やり、また逡巡した。
理由は分からないが、どこか機嫌が悪そうなのだ。声をかけずにそっとしておいた方がいいのかもしれない。ダイアナに付き合わされたと言っていたので、打ち合わせの席には半ば強引に連れて行かれたのだろう。それでよく抜け出せてこられたものだと思いながら、希佐は苦笑いを浮かべた。
「紅茶淹れるけど、飲む?」
「うん」
希佐は自分のマグに残っていた紅茶を飲み干してから、それを軽く濯いで、アランのマグの隣に並べて置いた。
マグは一度沸騰した湯で温められ、それを捨ててから、また新たな湯が注がれる。アランはそこにティーバッグを落とすと、蓋をして、決まった時間だけ蒸らした。その間、アランはいつもぼうっとした様子で、宙を眺めている。希佐はなぜか、その姿を隣に立って眺めているのが好きだった。
三分ほどが経った頃、アランはティーバッグをそっと取り出し、ごみ箱に捨てる。両手に持ったマグをテーブルに運ぶと、そのまま椅子に腰を下ろした。
「……ねえ、アラン」
「なに」
「怒ってる?」
「なんで?」
「……」
「怒ってない」アランはそう言うと、隣の椅子を引いた。「戸惑っているだけ」
「どうして?」
「今まで君とどうやって過ごしていたのか忘れかけてて」
「たった一カ月で?」
「俺も驚いてる」
希佐はアランが引いてくれた椅子に座ると、そっと隣を見上げた。僅かな沈黙のあと、ばつが悪そうに視線を逃がしたアランを見て、希佐は少しだけ笑う。そして、ポケットに手を忍ばせると、先程部屋から取ってきた箱を徐に差し出した。
「誕生日とクリスマスのプレゼント、受け取ってくれる?」
希佐は、別に必要ないのに、とでも言いたげな気配を察したが、アランは何も言わなかった。何も言わずに小さな箱を受け取り、それを手の平の上に乗せる。
「見てもいいの?」
「どうぞ」
指先でリボンをつまみ、軽く引くだけで、するりと解けていく。蓋を開くと、中には箱よりも小さな絹の巾着が入っていた。アランはそれを手に取ると、巾着の口を緩め、それをひっくり返して中身を取り出した。
「……イヤーカフス?」
「どうせなら普段から身につけてもらえるものがいいかなと思って」金色のイヤーカフスを手の平でころころと転がしている様子を見ながら、希佐は早口で言った。「日本だと四つ葉のクローバーは幸運を意味するものなんだ」
「イギリスも同じだよ。ケルトの言い伝えなんかでは、妖精除けとも言われてるけど」
「妖精除け?」
「魔女とか悪魔なんかに誑かされないようにするためのお守り」アランはそう言うと、手の平ごと希佐に差し出してくる。「つけて」
「あ、うん」
希佐はアランの手からイヤーカフスを受け取ると、横顔を覆っている赤毛を掻き分け、耳を探し当てた。明るい場所でよくよく観察してみると、耳の先にもそばかすが点々としているのが見て取れる。希佐の耳より一回り以上も大きいので、きちんと装着できるか不安だったが、お店で習ったとおりに滑らせると、耳の上部でぴたりと留まった。
そのイヤーカフスは、金の土台に、いくつかの四つ葉のクローバーが透かし彫りされている。手作りの一点物だという話だ。
「できた」
「ん」
アランは自身の邪魔な髪を掻き上げると、指の先でイヤーカフスをはめた辺りに触れていた。それからすぐに立ち上がったので、鏡でも見に行くのかと思いきや、自分の部屋に向かって歩いて行く。ぽつんと取り残された希佐が座ったまま待っていると、アランは長方形の箱を手にして戻って来た。
「俺からも」
「クリスマスプレゼント?」
「うん」
まさか贈り物を用意してもらえていたとは思わず、希佐はその驚きを隠さなかった。
目を丸くしている希佐の顔を、アランはテーブルに頬杖をついて眺めている。分厚い前髪越しではない、久しぶりに見るその顔は相変わらずの美しさで、希佐は心臓が不自然に波打つのを感じていた。
「開けてみないの」
白箱に、緑色のリボン。リボンには銀糸が織り込まれている。希佐は壊れ物を扱うような手つきでリボンを解くと、蓋に手をかけた。ゆっくりと持ち上げたそれの内側に見えたのは、アランの目と同じ色をした宝石だった。雫の型にカットされた緑色の石は、プラチナの台座に美しく飾られ、同系のチェーンに繋がれていた。
「あ、あの……」
「なに」
「すごく綺麗だけれど、その──」
「君が思ってるほど高価なものじゃないよ」アランは希佐の言葉を先回りして言った。「それとも、指輪の方が嬉しかった?」
「えっ」
「店員にクリスマスの贈り物なら絶対に指輪の方がいいって推されたんだけど、あまりにムキになって勧めてくるから、面倒臭くなってネックレスにした」アランはそう言うと、箱の中からネックレスを取り出した。「それに、誰かに言われて指輪を贈るのは、違う気がしたから」
ネックレスの留め具を外すと、アランは希佐の首にそれをかけた。引っかけた留め具を首の裏側に回すと、希佐の首元を覗き込むように身を乗り出し、心なしか満足そうな表情を浮かべる。
「おかしくない?」
「俺の見立てに間違いがあると思う?」
希佐はスマートフォンのカメラ機能を立ち上げると、インカメラで自分の姿を映し出した。
トップで輝いているエメラルドは大振りなものではなく、控えめで品を感じさせる大きさだった。背伸びをしているふうには見えず、大人っぽさよりも、どちらかといえば可愛らしさの方が強く感じられる。希佐の色白の肌にも良くなじむ、透明感のある色をしていた。
「ありがとう、アラン」希佐はそう言って隣を見る。「大切に──」
カシャ、とスマートフォンのシャッター音が鳴るのと、唇にやわらかい感触を覚えたのは、ほぼ同時のことだった。突然のことに目を白黒させている希佐の顔を間近に見たアランは、今度はゆっくりと顔を寄せてくる。スマートフォンを握る手が硬直し、カシャカシャと連射する機能が働くと、アランは希佐の唇を食みながら、それを取り上げた。
「四つ葉のクローバーは幸運を意味するって言ったけど」アランは希佐の腰を掴んで力強く引き寄せると、その体を自らの足の上に抱き上げた。「イギリスではもう一つの意味があるんだ」
「……どういう意味?」
「『Be mine』」
私のものになって──そう言いながら、アランは希佐の首筋に顔をうずめ、柔肌にキスを繰り返す。まるで、ずっとそうすることを求めていたかのように、執拗に。
もちろん、知っていた。店でその商品を手に取ったとき、店員がそれを興味深そうに見て、意味を教えてくれたのだ。贈る相手の幸運を祈りながらも、その相手の存在を己のものにしたがる強欲さが、まるで自分のことのように思えた。
「エメラルドにも幸運って意味があるでしょう?」
「さあ、詳しくは知らない」アランはそう言って見え透いた嘘を吐く。「俺はただ……」
「ただ?」
本物の宝石よりも鮮やかな緑色をした目が、希佐をまっすぐに見つめた。希佐はアランの胸に両手を当て、ほとんど同じ目線にある双眸を、酷く愛おしく思いながら見つめ返す。
アランは希佐の頬に手を添えると、耳の上をなぞるように手の平を滑らせ、頭上で結い上げられていた髪を解いた。ふわりと落ちてきた髪を一房手に取ると、希佐の目を見つめたまま、そっと口づけを落とした。
「ただ、君の命の一番近くにいたいと思っただけ」
アランの指先がプラチナのチェーンに沿って、希佐の肌をゆるりと撫でる。ぞぞぞ、と全身に鳥肌が立ち、希佐は微かにくぐもった声を漏らした。こちらを見つめたままの目は、誘惑するようにそっと細められる。
「君のすべてを俺のものにしたいなんて思わないけど」相手の息遣いが、顔の産毛を波立たせるほど近くで、アランは囁くように言った。「俺のすべてを君のものにしてほしいとは思うんだ」
「アラン……」
「君を突き放して、散々傷つけておいて、それで何を勝手なことを言ってるんだって思うだろうけど、君は俺にとってそれくらい特別な存在だから」
自分を見つめる視線があまりに熱く、焦げつくようで、希佐は耐え切れずに視線をそらしてしまった。ただ見つめられているだけで、心拍数が大きく跳ね上がり、呼吸が荒くなるのだ。
そうして伏せた視線の先、希佐は自分と揃いのプラチナのチェーンが、アランの首元にもあることにたった今気づいた。それが何かを確かめるために、シャツのボタンを上から一つ、二つと外していくのを、アランは黙って許している。
チェーンに指先を引っかけ、シャツの下から引き出したトップには、透明度の高い琥珀が飾られていた。希佐の目と同じ色の石だ。希佐は反対の手で自らの胸元にあるエメラルドに触れながら、アランを見た。
「……私のこと、本当に愛してるんだ」
「前からそう言ってる」
「今、ちゃんと分かった」
「言ってほしいなら、何度でも言うけど」
「なんて?」
「愛してる」
それは、まるで初めて聞く言葉のように、心臓に深く突き刺さるような響きを孕んでいた。冗談で言っているのでも、戯れに口にしているのでも、お茶を濁そうとしているのでもないと分かる。本当に、本心から、その言葉を紡いでいるのだと。
アランは唖然としている希佐の体を抱きすくめると、耳元で熱い吐息を吐き出した。不思議と、ベッドの上で求められているときよりもずっと、強い感情が伝わってくるような気がする。
「キサ」
「なあに」
「ありがとう」
「え?」
「イギリスに来てくれて」ぎゅう、と希佐を抱く両手に力が込められた。「あの日、俺を見つけてくれて」
ああ、そうだったのか、と希佐は改めて思う。
自分はこの人に救われたと思っていた。いや、確かに救われたのだ。ユニヴェールを逃げ出して、飛行機に飛び乗り、当てもない無謀な旅に繰り出した何者でもない立花希佐を、もう一度舞台の世界に引き戻し、役者にしてくれたのは、他ならぬアラン・ジンデルその人で。
いくら感謝しても、し足りない。どうやって返していけばいいのだろうかと、そう悩む毎日だった。
だが、この人も同じだけ救われていたのだとしたら。訳あって離れざるを得なかった舞台の上、そこで成し遂げることのできなかった役柄の数々を、隣にいる希佐が演じることで、少しでも心が救われていたのだとしたら。今、自らが立っているその向こう側へ、半歩でも足を踏み出してみようかと、そう思うことができているのだとしたら。
あと、半歩──その半歩は、限りなく近く、果てしなく遠い。
どれだけ早く駆けていけば、追いかけてきてくれるのだろう。そのたった半歩を歩ませるために、どれだけの努力をすればいいのかも分からない。
「私こそ」それでも、と希佐は思った。「あなたに会えてよかった」
もしかしたら、この人は自分が救われたくて、助けてくれる人を求めて、劇団を立ち上げたのかもしれない。もうどうしようもなくなってしまった自分を、地の底、奈落の底から引っ張り上げてくれる誰かを、今の今まで探し続けていたのかもしれない。
この人を助けてあげたいと、希佐は心から思う。間違いなく、次は自分の番だという確信が、希佐にはあるのだ。
だから、走っていこう。まっすぐに、脇目も振らず。
この人が置いていくなと言って、なりふり構わず追いかけたくなるくらい、魅力的な人間を演じてみせる。それが、自分にできる、唯一の恩返しだ。舞台の向こうの、そのまた向こう。きっと、その場所にもたどり着ける。アラン・ジンデルが見たがっていた世界の、更にその向こう側に、到達できると信じている。
キサ、と優しく名前を呼ばれて顔を上げると、アランの顔が目と鼻の先まで迫っていた。しかし、唇が触れようかという瞬間、僅かに身を引いて口づけを避ける。緑色の目が丸くなったのを見て口角を上げた希佐は、はらりと落ちてきていたアランの前髪を撫でつけるように両手で掻き上げ、鼻の頭にそっとキスをした。両腕を首の裏側に回し、足を跨ぐようにして座り直す。
「もう一度言って」
「なにを」
「愛してるって」
僅かにむすっとしたような顔をしたアランに向かって、半ば挑発するようにそう言うと、希佐は早くとねだるように両足をばたつかせた。すると、アランは希佐の目から視線を外し、途端に気のない素振りを見せる。
「あ、」
思わず漏れた自分の声に、希佐は驚き、目を見開いた。思考が停止したその刹那、アランはそれを見計らっていたかのように、希佐の首筋に回した手で体を引き寄せ、キスをした。そして、目を伏せ、希佐の唇に視線を注いだまま、アランはその言葉を口にする。
「愛してる」ちゅ、と音を立ててもう一度キスをしてから、アランは焦がれるような声を出した。「愛してる、キサ」
ほんの一瞬、アランが自分ではない誰かを演じた。希佐の気を引くだけのために、演じたのだ。出会ってからの三年間、演じた姿など見たこともなかったのに。舞台の演出でも、普段の戯れの中でも、たったの一度だって。
「満足した?」
「アラン、今……」
「ん?」
果たしてそれが無自覚だったのかどうか、確かめることが怖かった。それを指摘することで、アランの中に芽生えた何かが枯れてしまうような気がして、言葉が続かなかったのだ。
「ううん」希佐はアランの体に自らの体を密着させると、ほう、と息を吐いた。「私も、愛してる」
アランはきっと希佐が何かを言いかけたことを察しているだろう。それでも、何も言わなかった。何も言わずに希佐の体を軽々と抱き上げ、椅子から立ち上がって、自分の部屋へと向かう。触れ合うことのできなかった一カ月の空白を、一晩かけて埋めるために。