ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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四年後

「――だから、そういう話は全部断ってくれって前から頼んでるだろ」

 玉阪座の稽古終わり、廊下の壁を睨んでいる同期が、電話の相手に向かって不快感を露わにしていた。

「俺は今自分のことで手一杯だって……いやだから、無理、絶対に無理だよ、兄貴。俺の考えはこの前話したばかりだろ?」

 ははーん、とすべてを察した根地黒門は、同期の電話が終わるのを静かに、大人しく待つことにした。

 稽古場の隅、紫色のヨガマットを敷いた上に座り、軽いストレッチを始める。執筆作業で凝り固まった体をほぐしていると、骨がぎしぎしと軋むような感覚があった。日頃の運動不足が祟っているようだ。

 上からはもっと真面目に稽古に参加しろと言われているが、この頭から湧いてくる天才的なひらめきをつぶさに、余すことなく認めておかなければ、その脚本や演出プランは日の目を見ることなく、冷たい海の底に沈んでしまう日がくるかもしれない。

 だが、誰にでも分かりやすく、かつ読み取りやすく、解釈がしやすいように書き留めておけば安心だ。もし根地黒門という人間が喪失しても、誰かがそれらを掘り起こして、有効活用してくれることだろう。

「やあ、フミ」

 電話を終え、むすっとした面持ちのまま稽古場に戻ってきた更文に向かって、黒門は能天気に声をかけた。電話中でも黒門の存在には気づいていたのか、更文はその姿を一瞥すると、美しい顔に浮かべる不快感を一層色濃くさせた。

「またお見合いのお話かな」

「おい、殴られてーのか?」

「えっ、いやよ、やめて。暴力反対」

 怒った顔も絵になるわね、と言いかけて、黒門は口を噤んだ。今度こそ本当に殴られてしまうかもしれない。据わった目で睨みつけてくる眼差しをまっすぐに受け止めた黒門は、少し離れた場所でヨガマットを敷いている友人に、もう一度声をかけた。

「カイがね、今日は先に帰るからって」

「あっそ」

「ユニヴェールを卒業しても、あの教会にはよく顔を出しているみたいだねぇ。いやはや、今や玉阪座の期待の星だっていうのに、やっぱり根っこの部分は何も変わっていないんだね」

「いやだろ、あいつが有頂天になって威張り散らしてたら」

「でも、それはそれで面白そうじゃない? あのカイがふんぞり返って僕やフミに言うんだよ。『ふん、悔しかったらお前たちも主役の一本や二本、取ってくるんだな』って」

「ま、多少は浮かれた感じになっても良さそうなもんだけどよ」

 睦実介という男は相変わらず謙虚だ。その上、酷く誠実なので、玉阪座の先輩たちからも非常にかわいがられている。ユニヴェール時代よりも自分に自信を持っているので、前に出ようという積極性や意欲もあり、三人の中では最も驚異的な伸びを見せているといっても過言ではない。

 対して、高科更文は、常に変わらない安定感が売りだ。しかも、芸には年々磨きがかかり、持ち前の器用さもあって、ありとあらゆる舞台に引っ張りだこだった。玉阪座に在籍していながらも、他の劇団の舞台にゲスト出演することもあれば、日本舞踊の舞台に立つこともある。

「あ、そうだ」黒門は悪戯っぽく笑ってから、恥ずかしそうに両手で顔を覆う仕草を見せた。「あたし、見ちゃったわよ、フミ! あの雑誌のグラビア!」

「ん? ああ、あれ、もう発売してたんだ」

「何よその冷めた反応! 今や玉阪中のうら若き乙女たちは、君の鍛え抜かれたしなやかな肉体美を想像しながら眠れぬ夜を過ごしているというのにっ!」

「撮影前は脱ぐなんて話、聞いてなかったんだよなぁ。カメラマンがその場のノリで脱いでみようとか言いだしてサ、玉阪座の広報までOK出しやがるから、まあ、脱ぐしかないわな」

「フミはユニヴェール時代から脱げるアルジャンヌで通っていたからねえ」

「お前、わざわざ買ったの?」

「うんにゃ、コンビニで立ち読みした」だろうな、と言う更文を見て、黒門はこれ見よがしに肩をすくめる。「いくら僕でも友人の裸体を家に持ち帰って眺めまわす趣味はないよ。それに、フミの裸体なら見ようと思えば毎日でも見られるわけだし。もちろんタダでね!」

 この通り、高科更文は話題に事欠かない男だ。新しいことにも次々挑戦している。少し前には化粧品のCM撮影をしたと話していたので、近いうちに大々的なプロモーションが始まるのだろう。

「クロは?」

「僕?」

「依頼されてたっつー脚本はどうなったんだ?」

「ああ、あれなら昨日寝ずに書き上げたよ。おかげで今日はぐっすり眠れた」

「それでまた稽古サボったのか?」

「まあまあ、いいじゃないの」

「また呼び出しくらっても知らねーからな」

 根地黒門はといえば、若手の売れっ子脚本家として、仕事の依頼が度々舞い込んできていた。若手中心の玉阪座の舞台脚本や演出を手掛けることもある。演者としての出演は、ぼちぼちといったところだ。

 それに、ユニヴェール時代に書いた『我死也』が良い名刺代わりになっている。まれに海外から田中右宙為と共に我死也の再演してほしいとの依頼が来ることもあったが、すべて適当に断っていた。宙為も今更になってがしゃどくろを演じたいとは思わないだろうし、自分も興味がないというのが、黒門の言い分だった。

 

 ストレッチにも飽きた黒門がマットの上でうつ伏せに寝そべり、メモ帳に鉛筆を走らせていると、念入りなストレッチを終えた更文がその場に立ち上がった。

「お帰りかい?」

「いいや」

 更文は履いていた練習靴と靴下を脱ぎ捨てると、素足になって稽古場に立った。

 稽古場の床板は、窓の外から差し込んでくる夕日に照らされて、飴色に輝いている。壁一面の鏡には、だらしなく寝そべっている黒門と、凛と立つ更文の姿だけが映し出されていた。

 一瞬、空気がピンと張り詰める。時間が止まったかのような感覚に見舞われる。呼吸すら忘れてしまう沈黙がおとずれた刹那、それははじまった。

 

 ぞっとするほど、うつくしいものが、目の前に現れた。

 いつも見ていた舞とは明らかに違う。高科更文らしい艶やかさは、微塵も感じられない舞だ。男踊りとも、女踊りともつかない、性別を感じさせない舞に、息を呑む。

 言うなれば、それはまるで神に捧ぐ、祈りのような舞。

 背筋が凍える。体の芯から熱が奪われていく。手足の指先まで冷たくなる。

 生きていない。そうだ、生きていないのだ。まるで、生を感じさせない。

 静かに、ただ静かに、凪いだ海の底に沈んでいくかのような、舞だ。

 息をすることができない。

 目をそらしたいのに、そらすことができない。

 伏せられた両の目には、何も映っていない。

 感情という感情が、欠落している。

 

 ころころ、と、黒門の手から落ちた鉛筆が、乾いた音を立てて転がった。

 ああ、フミ、君は――黒門は言葉を呑み、更文が踊る姿をただ見ている。見ていることしかできない。なぜなら、かける言葉が見つからないからだ。その背中に、声をかける資格もない。

 

 

 

「あれから四年、か。もうすぐ五年になるね」

 なんとなく馴染みの店で一緒に夕飯を食べた帰り道、同じ方向にある家に向かって歩きながら、黒門が何の気なしに漏らす。少し前を歩いていた更文は後ろを振り返るでもなく、空を見上げながらふらふらと歩いていた。

「今どこで何をしているのかな、立花くんは」

「さあな」

「きっと素敵な女性になっているんだろうね」

「そーかもな」

「あの子のことだから、自由にのびのびと、好き勝手にやっているのかもしれないね」

「どーだろうな」

 話を聞いているのか、いないのか、更文の返事は心ここにあらずといった感じだ。

 更文は立花希佐の話をしない。かといって、こうして話を振ったところで怒るわけでもなく、ただ適当に流してしまう。視線を宙に逃がし、自分には関係がないというふうを装って、その話題が過ぎ去るのを待っている。

 全員が気付いていながら、誰一人としてそれに触れなかったお揃いの赤い組紐は、今も更文の手首にあった。五年も経てば、赤い色は随分褪せて、糸ももろくなっているに違いない。それでも、新しい紐を編むでもなく、同じものをつけ続けているということは、そういうことなのだろう。

 黒門は前を行く友人の背中を眺めながら、小さく息を吐き出した。

 

 本当に、どこへ行ってしまったんだい、立花くん。

 帰っておいでよ。

 このままじゃ、君のジャックエースは、寂しさに押しつぶされて、心を殺してしまうよ。

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