翌日、希佐が目を覚ましたのは、午前十時を過ぎた頃だった。特にこれといって予定は入っていなかったが、瞬間的に遅刻という言葉が脳裏をよぎり、ベッドの上で弾かれたように起き上がる。
ああ、この約一か月間毎日通っていた、正午からのボイストレーニングはもう終わってしまったのだと、希佐はぼんやりとしながら思い出していた。
オーディション期間は終わった。自分は合格したのだ。それが未だに現実味を帯びていないのは、まだ寝ぼけているからなのだろうかと、希佐は考える。一晩経てば、この結果に納得できる理由が見つかるのではないかと思ったが、どうやらそれは誤りだったようだ。
希佐は全身が露わになった姿で、冷え冷えとした空気に肌を晒していた。何でもない空間を見やり、劇場の舞台に立つ自分の姿を思い出しながら、それをなぜか俯瞰で眺めている。
歌唱を終えても尚、静まり返っている客席を思い出すと、今でも背筋が凍るような思いがするのだ。ゾッとするあの空気感。スペンサー・ロローは称賛の言葉を口にしたが、希佐はどうしてもあの瞬間を、客観的に捉えることができない。
「キサ」
不意に名前を呼ばれて、希佐は傍らで横になる男を見た。まだ少し寝ぼけ眼のアラン・ジンデルは、肌触りの良い毛布を僅かに持ち上げると、その中に希佐の細い体を引き込む。ひんやりと冷たいその体を覆うように抱き締めると、桜色の髪に顔をうずめた。
「……まだバージルの匂いがする」
「え?」
「あんなに抱いたのに」
より密着するように抱き寄せられた希佐は、全身にアランの体温を感じながら、小さく笑い声をあげた。もはや嫉妬心を隠そうともしなくなった様子に微笑ましさを覚えながら、大きな背中に腕を回す。バージルの匂いというのは、使っていたシャンプーのことだろう。新しいものを買いに行くのが面倒で、バスルームに備え付けられていたものを使っていたのだ。
「もう十時を過ぎてるよ」
「そう」
「お仕事は?」
「年が明けるまでメールチェックはしない」
アランの手の平が、吸い付くような肌触りを楽しむように、希佐の背中をゆったりと撫でている。希佐は胸元にうずめていた顔を上げると、アランの顎にキスをした。すると、背中を撫でていた手の平がゆるゆると体を滑り、脇腹を撫で上げ、首筋から頬へと上がってくる。
「私はチェックしないと。スペンサーさんから昨日の映像データが送られてきているかもしれないし、ジョシュアから連絡が入っているかも。帰りにスタジオに寄って、メモを残してきたから」
「後にしたら」
「シャワーを浴びたい」頬を撫でられ、ぐずぐずに甘やかすようなキスの雨を浴びながら、希佐は言う。「体を解して、ダンスの稽古をする」
「少しは休んだ方がいい」
「昨日の夜と、今日の朝、二回も休んだ」
「体もだけど、心の休息が必要だって意味」アランは少しだけ呆れたような目で希佐を見た。「一日、二日休んだって、誰も君を叱らない。それに、ゆっくり休めるのは今の内だけだ。来年になったら目が回るような忙しさになる」
「でも、体を動かさないと落ち着かないから」
体を動かすことは希佐の習慣になっていて、何もしない時間が長くなればなるほど、むずむずとして落ち着かない気持ちになる。それに、不安にもなるのだ。一日休んでしまっただけで、次の日には体が硬くなって動かなくなっているのではないかと、そう考えてしまう。
希佐がそのようなことを訥々と語って聞かせると、アランは小さく息を吐き、徐に起き上がった。釣られるようにして身を起こした希佐に向かって、手近なところにあった自身のシャツを放ると、床に落ちていたズボンを拾って足を通す。
「稽古はほどほどに。それから、昨日の映像データは俺のところに送られてきていると思う。ジョシュアには俺からも話があるんだ。連絡するなら、そう伝えておいて」
「あ、う、うん」
希佐は放られたシャツに袖を通しながら、床に散らかっている衣類を拾い回っているアランを視線で追った。アランはその眼差しに気づくと、手と足を止めて希佐を見下ろした。
「君は俺が何を言ったって言うことを聞かないだろ」半ば諦めたような口振りでそう言いながら、アランは希佐の衣服を差し出してくる。「俺にできることは、君が倒れない程度に休息を取るよう、精々口煩くせっつくことくらいだ」
アランはそう言って希佐のこめかみにキスをすると、椅子の背に引っかかっていたフーディーを手に取り、シャワーを先に使うよう言い残して部屋を出て行った。
希佐はアランのシャツをワンピースのようにして着ると、自分の衣服を抱えて自らの部屋に戻った。コインランドリーに持っていって洗濯をする用の袋にそれらを詰め込み、クローゼットから着替えを取り出す。アランから借りたジャケットは、クリーニングに出してから返そうと思い、一時的にクローゼットに吊るしておくことにした。
どうせもう一度浴びるのだからと素早くシャワーで体を流した希佐は、稽古着に着替えると、ヨガマットを手に階下へと降りていく。体の奥の方にずんとした重みのようなものを感じてはいるものの、体を動かすことに支障はない。
階段を降りて事務室に足を踏み入れると、アランは机に手をついた格好で、立ったままPCの操作をしていた。希佐が現れるとこちらを一瞥し、再びPCに目を向けた。
メールチェックはしないのではなかったか、などという野暮な質問はしない方がいいのだろう。希佐がそう思いながら近寄っていくと、アランは口を開いた。
「スペンサーからデータが届いていたから、今円盤に焼いてる。ちょっと待ってて」
「うん」
「ジョシュアから連絡は?」
「なかったから、お昼頃に電話してみる」
「そう」希佐がそのままスタジオの方に向かおうとすると、アランはその背中を呼び止める。「昨日の映像、一人で見る?」
「……一緒に見てくれる?」
「いいよ」
アランは先に風呂に入ってくると言って階段を上がっていった。希佐はスタジオに足を踏み入れると、鏡の前を陣取ってストレッチをはじめる。ほとんど一カ月ぶりのスタジオは、今まで以上に広々として感じられた。
バージルの家のリビングはダンスの稽古ができるように一部が改装されていたが、いつも同じ空間で休んでいるハンナに気を使ってしまい、思い切り体を動かすことができずにいた。バージルは、ハンナなら慣れているから大丈夫だと言ってくれたが、眠っているときは特に申し訳なく、物音を立てないようにしながらストレッチを行っていたのだ。
それに更なる気を使ったのはバージルで、本格的に希佐のダンスの稽古を見てくれていたときは、ペットシッターのヘレンにハンナを連れ出してもらっていた。ロンドンの郊外に立派なドッグランがあって、月に何度か連れて行ってもらっているという話だった。
お昼寝の邪魔をしないようにこっそりストレッチをしていると、ハンナはいつの間にか起き出してきて、伸ばした足の間に体をねじ込み、再び眠りはじめることがあった。夜遅くまで起きていると、着ている服を噛んでぐいぐいと引っ張り、部屋まで連れて行かれたことも度々あった。ベッドに入るまで絶対に退くものかという強い意志を感じる眼差しで、ドアの前から動かなくなるのだ。まるでピーターパンのナニーだと思いながら、希佐は喜んで犬に寝かしつけられていた。
「……」
自分は思った以上に、あの愛らしい犬にほだされてしまっていたようだと思いながら、希佐は苦笑いを浮かべる。もう既にあのやわらかい毛並みが恋しくてたまらなくなっていた。
三十分以上の時間をかけて、念入りにストレッチを行った希佐は、マットの上に寝転んで天井を見上げる。投げ出した手足の力を抜き、目を閉じて、ゆっくりと呼吸をする。
実のところ、昨日バージルからかけてもらった言葉の端々には、思うところが多分にあった。ユニヴェールにいた頃を思い起こさせる、希佐の心を締め付け、切ない感情を呼び起こさせる言葉の数々。バージルはそういう言葉を、幾たびも投げて寄こす。
「……ああ、そっか」
似ているのだ、あの人に。もちろん、外見の話ではない。内面が、物の考え方が、人としての在り方が、どこか似ている。踊ることに対してストイックな姿勢も、周りに対する目の配り方も、配慮の仕方も、面倒見の良さも、ある程度の自主性を尊重してくれるところまで。
だから傍にいると落ち着いて、なぜか安心することができて、心の内に秘めた不安すら吐露することができたのか。あの人に対して向けていたものと同じだけの尊敬を、いつの間にか抱いていた。何もかも、無意識のうちに。危うさなど何一つ感じさせない、絶対的な安心感を勝手に覚えていた。
あの人と同じように、バージルはいつだって、自分の背中で示してくれていた。暗闇を明かりで照らしながら、先頭に立ってレールを敷きながら、道案内をするように希佐の前を歩いて行く。踊りの種類は違えども、きっとその心根にあるものは、酷く似通っているのだ。
目を背けてきた。気づかないままでいた方が楽だから、考えることさえしなかったのだろう。思考を遮断して、事なきを得ていた。あの人の面影を、バージルに求めないように。結果的に、それで正解だったのだと、希佐は思う。そうでなければ、複雑に絡み合った厄介な感情のすべてを、バージルに押し付けてしまうところだった。
『好きにならなくてよかったな……』
「何を?」
「……えっ?」
目を閉じて物思いに耽っていた希佐の頭上から、不意に声がかかる。驚いて目を開けると、微かに頬を紅潮させたアランの顔が、逆さまになって希佐を覗き込んでいた。濡れた髪を後頭部に向かって無造作に撫でつけているので、その表情を余すことなく堪能することができる。毛先から滴った水滴が、ぴたり、と希佐の頬に落ちた。
「今から見る? それとも、後にする?」
一瞬何のことを言っているのか分からなかったが、すぐに昨日のオーディション映像のことを言っているのだと察し、希佐はその場に起き上がった。
「俺はどちらでもいいけど」
「……今、見る」
希佐がくるくるとヨガマットを巻き取ってから事務室に向かうと、アランは焼き上がったばかりのディスクをデッキにセットしているところだった。
何かとてつもない違和感のようなものを覚えているが、その正体が咄嗟には分からない。眉を顰め、出入り口付近で立ち呆けている希佐を見たアランは、事務室の暖房を入れると、ドアを閉めるように言った。
マットをソファに立てかけてから腰を下ろすと、アランがその隣に座り、リモコンを差し出してくる。
「どうぞ」
「あ、うん」
今はとにかく、昨日の自分と向き合うときだ。希佐は深呼吸を一つ、気持ちを切り替えて、リモコンの再生ボタンを押した。
がやがや、がやがや、薄暗い照明の施された劇場内は、まだ騒がしい。程なくすると開演のブザーが鳴り響き、劇場が暗転した。いつだってこの音を耳にした瞬間は、まるで冷気が立ち上るように、ゾクゾクとした悪寒にも似た感覚が、足元から駆け上がってくるのを感じる。それなのに、体の内側は燻るような熱を持ち、長い間太陽の光を待ち侘びていた昆虫のように、スポットライトの光を渇望していた。
早く、早くと気持ちが急くのだ。ユニヴェール時代、そのある瞬間に、自分は舞台に立つ間しか正しく呼吸することのできない生き物なのだと悟った。
暗闇の中で浮かび上がる深紅のオペラカーテンがゆっくりと左右に開く。舞台の真ん中にはアイリーンの姿があった。黒のドレスを身にまとったその人は、スポットライトに照らされ、凛とした佇まいで客席と対峙していた。
その唇から発せられる声、言葉の説得力は、きっと類を見ない。すべてを優しく包み込み、抱きしめて、許しを与えてくれるような。思わずこの手を伸ばして、触れてみたくなる。彼女は一体何者だと噂をするように、どこかの誰かと目配せを送り合いながら、その歌声に酔いしれたい。
甘い歌声は間違いなく観客を魅了していた。心の隙間という隙間に入り込み、体を内側からあたたかくする。スペンサーが言うところの慈愛が、その歌声からは滲み出ていた。アイリーンの優しさが感じられる。
「アイリーンはずっともがいてたんだ」画面越しにアイリーンを見つめながら、アランがぽつりと漏らすように言った。「君が俺たちの前に現れるずっと前から、自分の歌を探してた」
「自分の歌?」
「優勝したコンクールをピークに、後はずっと下り坂だった。殻を破りたいって言われて、アイリーンの歌を五曲も盛り込んだ公演をしたけど、評価はいまいち。歌は上手いけど、それだけだって。まあ、学生の頃から芝居ができるわけでもなかったし、当時はそれで妥当な評価だったと思う」
弦楽器の旋律に支えられて、アイリーンの歌声は劇場の隅々まで行き届く。画面を通してですら、アイリーンの感情が直接的に伝わってくるのだ。
「そのすぐ後に君が現れて、彼女は焦ってた」アランはそうしたことを、相変わらず何でもないことのように、淡々と語る。「確かに君はアイリーンにはないものを持っていたから。まあ、君にはないものをアイリーンは持っていたわけだけど、人って常にないものねだりをするものだから、自分の長所には得てして気づきにくい」
アイリーンの歌が終わると、劇場内は割れんばかりの拍手で満たされた。ブラヴァーの掛け声も聞こえてくる。客席に座っている者はほとんどが舞台関係者だが、その中にも、アイリーンのファンがいたはずだ。
「アイリーンって努力家なんだ。彼女自身もそれを自負していたわけだけど、君が現れて、その概念が覆された。努力って要はその人自身のキャパシティの問題で、どれだけ必死になって努力を積み重ねても、受け皿がそれなりに大きくないと身にはならない。その点、キサは稽古をした時間だけ成果が出やすいから、それ自体が稀な才能だ。でも、アイリーンはそうじゃない。成果を出すためには、それなりに時間が必要だった」
イライアスがカオスのみんなに見守られ、『God only Knows』の舞台上でその才能を開花させたように、アイリーンがそれと同じ瞬間を迎える日を、アランは待ち続けていたのだろう。その場所が、このオーディションで、この舞台上だったのかもしれない。
「ここまでの歌を歌えるようになるまで、三年かかった。その道行きが長かったのか、それとも短かったのかは、彼女自身にしか分からない。でも、俺はアイリーンを誇りに思うよ。彼女はようやく、自分の歌を見つけたんだ」
「そう思っていることを本人には伝えたの?」
「いや」アランはばつが悪そうに額を掻いている。「彼女は慰められるのが好きじゃないから」
「それは慰めというよりも、称賛だと思う」
「俺がアイリーンにそれを伝えたくても、アイリーンが俺と話したがっているかどうかは分からない」
アイリーンでなくても、昨日の今日で気持ちを切り替えることは難しいだろう。アランや、ましてや希佐には、会いたくないと思っているかもしれない。イライアスなら何か話を聞いているかもしれないが、電話をして状況を尋ねてみるという行為は、まるでアイリーンの機嫌を窺っているようで、申し訳なさを覚えてしまうのだ。
待つべきなのか、それとも多少無神経でも連絡をしてみるべきなのか、希佐には答えを出すことができずにいる。
物思いに耽っていた希佐は、不意に聞こえてきたピアノの音色に驚き、握り締めていたリモコンの一時停止ボタンを押し込んだ。停止した画面の中の劇場は未だ暗闇に染まっている。あの舞台の真ん中に、白い衣装に身を包んだ希佐が立っているのだろう。
だが今は、アイリーンのことで頭がいっぱいで、集中して自分の歌と向き合える気がしない。
「後ろめたく思ってるの」希佐の横顔に目を向け、アランが言った。「こうしている今もアイリーンは苦しんでいるかもしれないのに、自分は彼女が手に入れられなかったものを、手に入れてしまったから」
考えすぎだと言われてしまえばそれまでだ。顔を伏せ、リモコンを握る手に力を込める希佐を見て、アランは小さく息を吐いた。
「アイリーンなら自惚れるのも大概にしろって言うと思うけど」
「え……」
「あのな、この世界はそもそも、輝くべき人間が輝くようにできてる。常に優劣をつけられる残酷な世界なんだ。そんなこと、もうとっくに分かっているだろうと思ってた」
「それは、分かっているけれど」
「今回は君が選ばれて、アイリーンは選ばれなかった。ただそれだけのことだろ。歌はアイリーンの方がよかった。でも、演技力では君の方が評価が高かった。いくら歌唱に特化した舞台を構築するつもりだとはいっても、演技力は必要不可欠だ。歌は後からでも修正が利くから」
希佐はアランの言葉を聞いて、思わず下唇を噛んだ。その様子を目の当たりにしたアランは、希佐が握り締めていたリモコンを取り上げると、有無も言わさず再生ボタンを押した。
「ちょっと、アラン。待って──」
「いいから見て」
身を乗り出してリモコンを奪い返そうとした希佐の体を、アランは後ろから抱えるように押さえつけ、テレビ画面から顔を逸らせないようにした。咄嗟に耳をふさごうとする両手を片手で掴み、ほら、と言って映像を見るように促してくる。
前奏──この音を聞いただけで、きっと誰もがあの曲だと言い当てられるほど、有名な音色。その音が二小節目を迎えた瞬間、リハーサル通りに希佐に向かってスポットライトが照らされた。
舞台に立つ者の印象と、それを客席から見ている者の印象は、あまりに違っていた。
一瞬、それが自分だと、希佐は思わなかった。自分ではない、別人がそこに立っていると、そう思ったのだ。
ぞっとするような空気感。圧倒的な存在感を覚える。人ではない何かがそこにいると、直感的に思った。ユニヴェール時代、立花希佐は怪物だと、そう称されたことがある。当時はその真意が分からなかったが、今ならば、それを理解することができた。
ああ、そうだ、そうだった──希佐は自らの歌唱を目の当たりにし、合点がいった。妙な既視感はそれだったのだ。歌唱後の、劇場内の温度が一気に低下し、凍えるような沈黙が訪れるあの感覚。希佐にはそれに覚えがあった。
アンバー、田中右宙為。我死也の舞台を終えたあの瞬間の静寂が、希佐の目の前にも広がっていたのだ。死後の世界。そうだ、希佐が表現したかったものも、人の死だった。だが、我死也とは違う。もっとやわらかく、穏やかで、包み込まれるような、優しい死を表したかった。
酷く独善的な歌を聞きながら、希佐は大きく息を吐き出した。
これでは、田中右宙為の我死也と同じだと、そう思う。独り善がりな舞台。私とあなた。がしゃどくろと、滝姫。
希佐は不意に恐ろしくなって、自分の体を後ろから抱いていたアランの腕を掴む。
一見すればまったく違う表現でも、根底にあるのは、同じ死だ。
だが、自分はがしゃどくろとは違うと、希佐は自らに言い聞かせる。希佐が願ったものは、焦土と化した焼け野原ではない。あれは、一面の雪原の下で眠る新たな命に思いを馳せた、希望の歌だ。美しくて、残酷な、優しい決別。一方的な、別れの歌。
「この舞台が終わったら、君は俺を必要としないくらい強くなっていて、俺の手が届かないくらい遠くまで、あっという間に飛んで行ってしまうんだろうな」
悲観するふうでもなく、かといって楽観的にも感じさせない声音で、アランが言った。
沈黙。足音が去り、間もなくすると、劇場を震わすような無数の拍手が鳴り響いた。希佐はその様子から目を逸らし、体を反転させて、アランの首に両腕を回す。体を密着するように寄せると、そっと腰に腕が回された。
「どうしたの」言葉もなく首を横に振る希佐の額に、アランは唇を落とした。「君が自分の歌を客観的に聞くことができないかぎり、何を言っても聞く耳を持たないだろうと思ったから、俺からは何も言わなかった」
「……自分じゃないモノを見ているみたい」
「化け物じみていたな、確かに」アランはリモコンでテレビの電源を落とすと、希佐を抱えたまま体勢を変えた。「そういえば、スペンサーは君のことを、世にも美しい怪物だと言っていた」
スペンサー・ロローはいつだって称賛の言葉をくれるが、果たしてそれが本心から口にされたものなのか、はたまた、もっと自身の期待値を超えた何かを見せてほしいと思っているのか、疑問な部分は多い。だが、満足はしていないだろう。より良いものをと願っているはずだ。
「あの日、俺に舞台演出家を演じて見せてくれたときと、昨日の感覚はよく似ている。大衆に届けようとするんじゃなくて、目の前にいる一人に届けようとする感じ。あれだけ大勢の観客を前にして、うちの小さなスタジオで演じたのと同じような感覚で舞台に立てるのは、君の才能の一つだ」
見る側と演じる側。舞台というものは、それさえ揃っていれば、確実に成り立つものだ。必要なものは好奇心と想像力。最高の、ごっこ遊び。
「もう何度も思い出してる」
「何を?」
「君があの舞台に立って、歌う姿」ソファの肘掛けに頭を預け、自らの上で横たわる希佐の体を支えながら、アランは静かに言った。「舞台は完璧を求められる。でも、ただ完璧なだけではつまらない。そこに余白がなければ、観客に想像する余地を与えられないから。何もかもを説明するのは野暮だ」
「私の歌には想像の余地があった?」
「歌の向こう側にいる誰かを想像させた。それが少し思わせぶりで、もしかしたら自分のために歌ってるんじゃないかと思うくらいの」
アランが言葉を発するたびに、心地の良い振動が体に伝わってくる。ぴたりと寄り添っている場所から体温が溶け合って、その境目が分からなくなる。微睡の中を揺蕩う小舟のような気持ちになり、心が穏やかになっていく。
「俺ではあんなふうに歌わせてやれなかった」
「え?」
「もっと早くにボイストレーニングを受けさせておくべきだったよ」希佐の頬に指の甲を滑らせながら、アランは目を細めた。「ジョシュアは生徒の短所を無理に消さない。そういうところが信頼できる」
短所は個性に変わり得る──ジョシュアはそう言っていた。長所はその人が元々持ち合わせている個性だが、短所はウィークポイントに思われがちだと。でも実際には、その短所こそが着目すべきもので、その人自身の新たな一面を発掘するためには、最も重要な要素なのだと教えてくれた。
「この先も、彼から歌を学んだ方がいい」
「でも、ジョシュアは忙しいって」
「彼の性格上、このまま君を手放せない」
「手放せないって?」
希佐がそう問うと、アランはズボンのポケットから取り出したスマートフォンを片手で操作し、スピーカーに切り替えて呼び出し音を鳴らした。希佐がぱちぱちと瞬きながらその様子を眺めていると、随分長い間鳴り続けていたコール音が、ぷつり、と途切れた。
『……営業日外のお電話はご遠慮くださいー』
電話口の向こう側から聞こえてきたのは、たった今目を覚ましたばかりだというふうな、半分眠ったままの状態にも思える、ぼんやりとした声だった。
『今日から三日までレッスンはお休みです。ご用の方はスタジオの電話に伝言を残すか、アシスタントに連絡してください。あー、何やってんだよ、スマホの電源消し忘れるなんて……』
「えっ? あっ、お、おはようございます、ジョシュア」
アランから突然スマートフォンを向けられた希佐は、慌てて挨拶をする。既に時刻は正午を過ぎていたが、相応しい挨拶はそれだろうと咄嗟に判断をした。
「キサです。お休みのところをすみません。昨日直接お伺いして、アシスタントの方にメモをお渡ししておいたのですが、確認していただけましたか?」
『え、キサ? あ、ちょっと待って、確かそんなことを言っていたかもしれない……』
希佐の声を聞いて僅かに意識が浮上したのか、Just a moment、とうわ言のように漏らしながら、何かをごそごそとあさりはじめたようだ。希佐は苦笑いを浮かべながらアランと顔を見合わせると、再びスマートフォンに目を向ける。
『ああ、あった、これだ、これ』
どうやらメモの内容までは確かめていなかったらしい。その場で紙を開く気配がした後、軽い調子の声が続いた。
『合格したんだね、おめでとう』
「ジョシュアのご指導のおかげです、本当にありがとうございます」
『ひとえに君の努力あってこそだよ。ぼくはランチをご馳走になりながら、少しばかり口を挟ませてもらった程度だから。まあ、君が選ばれるだろうとは思っていたし、特に驚きはないね』
「そうなんですか?」
『この一カ月は、いわゆるプロの面倒を見てきたわけだけど、正直な話、君より歌えない人は大勢いるんだ。なんとか表舞台に送り出しても恥ずかしくないくらいには仕立て上げるんだけど、年末の歌番組なんかでへましている姿を目の当たりにした日には、ぼくのあの努力は何だったんだって、頭を抱えたくなるわけ』
「そんな大変なときに、ご苦労をおかけしてしまって……」
『ああ、気にしないで。キサの面倒を見るって決めたのはぼく自身なんだ、君は何も悪くないよ。それに、日々成長していく君の姿を見るのは、本当に楽しかった』
「でも、どうして私が選ばれると思ったんですか?」
『だって君、神がかり的だったもの』
「神がかり……?」
『完璧以上の生々しさを感じたのさ。歌声に血肉が通っている感じと言えば伝わるかな。台本をもらってから一週間足らずで役が体に沁み込むなんて、並大抵の努力じゃないでしょ。ぼく、頑張る子は大好きだから、君のことはこれからもずっと応援しているよ、キサ』
それに対して希佐が、ありがとうございます、と返事をしようとした刹那、アランがスマートフォンを自分の方に向けた。
「君にはこれから先もキサの面倒を見てもらいたいと思っているんだけど」
『え、誰?』
「アランです」
『えっ、あ、本当だ。ここにアラン・ジンデルって出てる』希佐が電話を掛けてきたとばかり思っていたらしいジョシュアは、やあやあ、と挨拶をした。『君から連絡をもらえるなんて光栄だな。そういえば、何日か前にスペンサー・ロローから連絡があったらしいんだけど、忙しくて電話を受けられなかったんだよね』
「今回の舞台の歌唱指導を君に頼みたいって話だと思う」
『へえ、ふうん、そう』やっぱりね、と言う声と共に、にやにやと笑うような気配が伝わってくる。『ぼくがキサに魔法をかけたから、その秘密の呪文を知りたくなったのかな』
「俺は君が舞台人だった頃から、君が魔法使いだって知ってた」
無意識にだろう、アランは希佐の髪を指先でくるくるともてあそびながら、話をしている。
「君が所属していた劇団の歌唱力は常に高水準だったのに、君が退団した途端、歌唱のレベルが一気に低下しただろ。君の歌声が劇団全体の歌唱力を底上げしていたことは明白だし、あれは君の指導があってこそのものだった。あの劇団、今はどうなってるの」
『消滅したよ。君のところの劇団と一緒。ダメだね、やっぱり。劇団はコアを失うと自然と自滅するものなんだ』
「あの劇団はメレディスの人徳で成り立っていたものだったから」
『その人徳を生かして、彼は今やウエスト・エンド界隈の顔役だものね。あの太いパイプを目当てにパブ通いする舞台関係者も少なくないって聞くし。ぼくもいくつか仕事を斡旋してもらったことがあるから、人のことは言えないけど』
「俺も最初の脚本はメレディスの紹介だった」
『脚本ね』ジョシュアは僅かに含みのある物言いをした。『ねえ、君はもう歌わないの?』
まさか、そのようなことを問われるとは思ってもいなかったのだろう、アランはスマートフォンを見つめたまま呆然としている。
『ぼくは舞台の上で光り輝いている君を見て、役者の道を諦めたんだ。上には上がいるし、そういう役者がいる限り、ぼくに順番は回ってこないだろうなと思ってね。でも、それから少しして、君も舞台を降りた。ぼくは自分が歌うことより、裏方に回って教えることの方が向いていたけど、君は? 役者としての自分を捨ててまで、脚本を書き続けることの方が、自分に向いていると思う?』
ジョシュアはいつだって歯に衣着せぬ物の言い方をする。多くの場合、やはり口にするのはやめておこうと胸に留めておくようなことも、ジョシュアは何の躊躇いもなく言葉にするのだ。きっと、遠慮というものがないのだろう。何かを教える上で、単刀直入に意見を伝えられることは利点となっても、相手のプライバシーに片足を突っ込むようなときは、踏まえるべき節度というものがある。
しかし、二人の会話に口を挟もうとしたその時、アランの指先が希佐の唇にそっと触れた。
「脚本家の仕事を天職だと思ったことはまだない」でも、とアランは続ける。「裏方の仕事は気に入ってる。前の劇団時代からそうだった。舞台に立つことより、舞台を作る過程の方が好きだったんだ」
『だから劇団カオスを立ち上げて、舞台の世界に戻ってきたの?』
「やり残したことがあるような気がして」
『やり残したこと?』
「平たく言えば、未練とか後悔とか、そういう感覚に近い。それを自覚したのは、ここ最近のことだけど」
ふうん、と相槌を打つと、ジョシュアは何事かを考えるように黙り込んだ。
希佐はその場からゆっくりと身を起こすと、ソファの端に腰を下ろしてアランを見やる。普段ならのらりくらりと言い逃れをしそうな問いかけにも、酷く真摯に答えている姿は、あまり見慣れないものだ。
アランも徐に体を起こすと、ソファの上で胡坐を掻き、自らの膝の上にスマートフォンを置いた。
「過去を取り戻すことは不可能だと思ってる。あの頃みたいに体は動かないし、上手くは歌えない。少しずつ慣らしてはみてるけど、やっぱり難しい」
『十年近くもブランクがあればね』
「俺は俺でやりたいことがある。でも、今はこれからの話だ。今回の舞台を成功させるためには、君の力が必要だと思ってる。キサの歌はもちろんだけど、他のキャストの歌も底上げしたい。今回の舞台は、俺にとっても特別なものだから、絶対に成功させたいんだ」
希佐は真剣な面持ちで話しているアランの横顔を、ただじっと見つめていることしかできなかった。こんな話をこの三年の間、一度だって自分にして聞かせてくれたことはなかったと思う。だが、希佐の視線に気づいたアランがこちらを見ると、思わずはっとした。
どこか照れ臭そうに指先で鼻の頭を掻きながら、それでも少しだけ口角を持ち上げて、頼りなげに笑ったのだ。大きく見開いた目を瞬かせていると、アランは希佐からばつが悪そうに視線を逸らし、再びスマートフォンに目を落とす。
「商業の世界に参入して一発の目の舞台で興行成績が伸び悩むなんて目には遭いたくない」
『一週間でクローズしたりして』
「まさか」反射的にそう声を上げたのは、他ならぬ希佐だった。「そんなことは絶対にさせません」
「うちの主役がこう言ってるけど」
『キサの歌には良いところがたくさんあるけど、でも、それって演技ありきなんだよ。歌単体で見れば、それこそアイリーンの方がよく歌えてるってことは、君自身も理解しているよね?』
「はい」
『まあ、その分、伸びしろだけは人一倍あるんだ。だから、この先も見守りたい気持ちは多分にある』ジョシュアはそう言うと、うーん、と唸り声をあげた。『引き受けるのもやぶさかではないんだけど、来年のスケジュールがなぁ』
「空きがありませんか?」
『調整はいくらでも可能だと思う。とりあえず、アシスタントと相談して、こちらから連絡するよ。それでいいかな。勝手なことをするとすぐに怒るんだ、彼女』
「ああ、大丈夫だ」
「よろしくお願いします」
『あ、スペンサー・ロローにはまだ黙っていてくれる? あんまり良い噂を聞かないせいか、ついつい身構えてしまうんだよね』
「分かった」
『じゃあ、ぼくはもうひと眠りするから』
ふわあ、という大きな欠伸を、最後まで聞くことなく通話は途切れる。アランは膝の上に乗せていたスマートフォンを、テーブルに積み上がっている本の上に放ると、ソファから立ち上がった。
「……アラン」
「ん」
「今のって……」
「バージルから聞いてるんじゃないの」PCの前に移動し、椅子に腰を下ろしながら、アランは言う。「息抜きにカオスの脚本を書いたから、それに振り入れもかねてダンスの練習してる。あと、歌も何曲か作った」
「本当?」
「キサがその舞台に立つことはないのかもしれないけど」
アランがどのような面持ちを浮かべているのかは分からない。こちらに背を向けているからだ。だが、回り込んでその表情を確かめられるほど、無神経になることもできない。声の調子はいつも通りでも、目を見て話さないということが、アランの心情を表しているような気がした。
「そういえば、スペンサーから君に伝言」
「なに?」
「フランス語を勉強しておくようにって」
「……フランス語?」
「君が演じる女優はフランス人だ。フランス語以外にも、演出の関係でフランス語訛りの英語を要求されると思う」
「フランス語訛りの、英語……」
「君が望むならスペンサーが自分で教えてもいいと言ってるけど」
「フランス語を?」
「彼の母親はフランス人だから。彼からならネイティブの発音を学ぶことができる」
「アランもフランス語を話せるんでしょう?」
「俺は、まあ、それなりに」アランは希佐を振り返らないまま、小さく肩をすくめた。「子供の頃にフランス人から習ったのと、あとは大学で履修してた程度だから、日常会話くらいしか話せないよ」
「アランはフランス語訛りの英語を話せる?」
希佐がそう問うと、アランは僅かな沈黙の後、耳馴染みのない抑揚で言葉を発した。それはどこか気取った感じで、それでいて洒落た印象を与える、不思議な響きを感じさせるものだった。
「キサは習うより慣れる方が早いと思うから、俺で良いなら教えることは可能だけど──」
「私はアランに教えてほしい」
食い気味にそう言うと、アランはそのときになってようやく、椅子に座ったまま希佐を振り返った。僅かに首を傾け、何事かを考えているふうな様子で口を噤んでから、続けた。
「君なら分かってると思うけど、俺は教えるの上手くないよ」
「そんなことない」
「君がそれでいいっていうなら、別にいいけど」
「それがいい」
「……そう」
アランは希佐から顔を逸らしながらそう言うと、再びPCに向き直った。キーボードを叩く音は止むことがない。話は終わったということなのだろう。クリスマス休暇は仕事をしないのかと思いきや、きっとそんなことは不可能で、アラン・ジンデルの頭の中ではいつだって物語が紡がれ続けている。
しかし、希佐がマットを抱えてスタジオに戻ろうとすると、アランがその背中を呼び止めた。
「後で何か食べに行こう」
「え? でも、年末はどこのお店も休みなんじゃ……」
「いつものインド料理屋はやってるって」
「カレーが食べたいの?」
「俺に食べさせたかったんじゃないの」
そう言われて、希佐は参ったというふうに呆れ笑いを浮かべた。あの場ではごまかせたと思っていたが、アランにとっては見え透いた嘘だったようだ。
「分かった、食べに行く」
その前に稽古の続きだと思い、希佐の足は再びスタジオに向けられた。せっかくの暖気が逃げないよう事務室の扉を閉めると、ひんやりと冷たい空気が、まるで膜を張るように全身を覆う。
軽いストレッチをしてもう一度体を温めてから、希佐はバージルに組んでもらった練習メニューを一から熟していった。それが終わる頃には体が良くほぐれているので、頭の中で音楽を奏でながら、イライアスに習った稽古を淡々と繰り返す。
伸ばす手足、指先の角度まで、こうすれば最も美しく見えるというポイントを、イライアスは惜しげもなく教えてくれるのだ。周りに比べると小柄な希佐が、どのように動けば舞台上で大きく見えるのか。悪目立ちせず、存在感を放つことができるのか。
そういう努力をすればするほど、高みに行けるような気がしていた。だがしかし、頂上だとばかり思っていたその場所の向こう側にはいつだって、更なる高みが待ち構えている。越えても、越えても、越えられない壁が、そこにはあり続ける。
どこまでいっても、終わりはない。
こんなにもつらく、幸せな生き方は他にないと、希佐は思うのだ。
気がつくと、スタジオの方から一切の物音が聞こえなくなっていた。
スペンサーから修正を言い渡されていた脚本に手を加えていたアランは、キーボードを打つ手を止めると、無意識に耳を澄ます。先ほどまでは確かにダンスのステップを踏む足音が聞こえてきていたが、今は静まり返ってしまっていた。休憩でもしているのだろうと思い、再び作業を再開させるが、十五分が過ぎても物音は聞こえてこず、三十分が過ぎた頃には急に騒がしくなって、アランの集中力を削ぐ。
机に両手をついて立ち上がったアランは、人の話し声が聞こえてくるスタジオに向かって歩き出した。扉を押し開いて覗き込むと、何日か前にやって来たノアが設置していったハンモックの周りに、見知った者たちが集っているのが見えた。
「あっ、アラン」ノアがそう声を上げた。「僕のハンモックが大活躍しているみたいで嬉しいよ」
「バカ、でかい声出すなって」
その隣に立っていたジェレマイアは、ノアの頭を小突くと、自分たちの方に近づいてくるアランを見て軽く手を挙げた。
「いつアメリカから帰ったんだ?」
「ついさっきの便だよ。その足でここに来た」
「せっかく出稼ぎから戻ってきたっていうのに、出迎えがないなんてかわいそうすぎるから、僕が空港まで迎えに行ってあげたんだ」
「はいはい、ありがとうな」
ジェレマイアが着ていたらしい上着は、ハンモックに揺られながら眠っている希佐の体にかけられていた。目の前でこれだけ騒がれても目を覚まさないということは、オーディションでの疲れを相当ため込んでいるということなのだろう。
「二人にアメリカ土産を渡そうと思ってさ」
「荷物になるだけだからいらないって言っておいたはずだけど」
「まあまあ、いいじゃない」
ノアはそう言ってから、何か貴重なものでも見るような顔で、すやすやと気持ちが良さそうに眠っている希佐の顔を覗き込んだ。
「キサは昨日戻ってきたの?」
「なんだ、どこかに行ってたのか?」
「アランが脚本を書いた舞台のオーディションを受けるから、一カ月くらい別々に暮らしていたんだよ。今日ジェレマイアが帰ってくるってバージルにメールしたら、キサが合格したって返事があって」
「へえ。それじゃ、みんな集めてお祝いでもするか?」
「ああ、ううん、それはやめておいた方がいいんじゃないかな」ノアは横目でアランを一瞥し、苦い表情を浮かべた。「アイリーンも同じオーディションを受けたんだよね」
「あ、そうなのか……」
「アイリーンは気にするなって言うだろうけどさ、みんな気を使っちゃうだろうし。彼女、そういうの嫌うでしょ」
「まあ、そうだな」
「でも、お祝いは別として、久しぶりにみんなで集まりたいよね。ジェレマイア、またすぐにアメリカに戻らないといけないんでしょ?」
「一週間後に」
「ねえ、イライアスはどうしてるの? まだ忙しそう?」
「次の舞台のオーディションが終わって、もう舞台関係の仕事は入っていないらしい」
アランはノアの問いかけにそう応じると、ハンモックで眠っている希佐に向かって手を伸ばした。肩を掴んで軽く揺さぶってみるが、応答はない。
「寝かせといてあげれば?」
「ノアじゃないんだ、風邪を引くだろ」希佐にかけられていたダウンのコートを取ってジェレマイアに返し、アランはもう一度、今度は先ほどよりも強くその体を揺さぶった。「キサ、寝るなら自分の部屋で寝て」
『あと五分……』
「……今、何て言ったの?」
もごもごと寝ぼけたような物言いで漏らされた日本語を聞いて、ノアは眉を顰めた。アランは呆れたようにため息を吐くと、希佐に向かって両腕を伸ばす。
「あと五分寝かせろって」
「えっ、ちょっとなに、アランってばついに日本語までマスターしちゃったの?」
「簡単な言葉しか知らない」
そう言いながら軽い体を抱き上げると、無意識にだろう、希佐はアランの首に両腕を絡めてくる。わお、と茶化すような声を上げたノアの表情は、面白いものを見たとでもいうふうな、あからさまなにやけ顔だった。
「ここ、立ち話をするには寒いから、二階に上がったら」
「いいのか?」
「アメリカに行って遠慮深くなったんだな」
「ああ、いや、単純にお邪魔かと……」
「帰りたければ帰れば」
アランはそう言うと、希佐の体を抱えなおし、二人に背中を向けて歩き出した。
こっそりロゼ色の髪に鼻先を埋め、自分と同じ匂いに染まっているのを感じて、ようやく隣に帰ってきたのだと安堵する。それがあまり喜ばしい感情ではないことを理解していながら、そんなことを考えて安心している自分自身に、アランは嫌気がさしていた。
きっと、この胸の内を余すことなく吐露すれば、それを口にすることはないまでも、気色が悪いと、そう思われるのではないか。ひねくれ、ねじ曲がり、時に反転するこの思いを、どうにか平常心で覆い隠しているのだと言ったら、何を思うのだろう。
二階のキッチンに足を踏み入れるなり、勝手知ったる我が家のように戸棚の開け閉めをはじめたノアを尻目に、アランは希佐を自室へと連れて行った。バージルの家から持ち帰った荷物はまだ片付けられておらず、床に置かれたままだ。ベッドの上には脱いだままのコートが放られている。
アランは希佐を片腕で抱えたままコートを除けると、頭を枕に乗せ、体をゆっくりと下ろしてやった。下敷きになった手をそっと背中から抜き取ろうとすると、希佐が僅かに身じろぎをする。
「……アラ、ン?」
そう掠れた声で呼ばれ、アランは僅かな間だけ目を閉じた。首に回された腕をそのままに、下からアランを見上げた格好の希佐は、どこか不思議そうな面持ちを浮かべていた。
「私、ハンモックで……」
「居眠りしてたな」
「抱えてきてくれたの?」
「あんなところで寝ていたら風邪を引くから」
「ありがとう」
希佐はアランの首に回していた腕を外すと、目の前にある顔を両手で包み込んだ。普段よりも高い体温がアランの両頬を優しく包み込み、まるでご褒美を与えるかのように、そっと唇にキスをする。突然のことに目を丸くしているアランを見てくすりと笑うと、もう一度、今度は食むようなキスをした。
「……寝惚けてるの」
「そうなのかも」
「ノアとジェレマイアが来てる」
「本当? ジェレマイア、アメリカから帰ってきたんだ」ああ、でも、と言いながら、希佐はどこか嬉しそうに笑う。「夢に出てきたような気がする」
声が聞こえていたのかもと、ぼんやりとした声が告げるのを聞きながら、アランは頬に触れている手を取り、その指先にそっと口づけた。本当なら、このまま一緒にベッドに倒れ込んで、時間が許すかぎりその体温を感じていたかったが、そうも言ってはいられない。
「カレー、一緒に食べたかったな」
「そうだな」ちゅ、と唇に触れるだけのキスを仕返し、前髪を除けた額をそっと撫でる。「明日行けばいい」
「うん」
こそこそと、秘め事を語り合うかのように囁き合いながら、何度も軽い口づけを交わす。そうしているうちに、希佐の目がとろんと眠そうにとろけてゆっくり閉じられていく様子を、アランは余すことなく見届けていた。
すう、すう、と規則的な寝息が聞こえてきたのを確かめてから、アランは揺らさないように気をつけながらベッドを降りた。足元に折りたたまれていた毛布を肩口まで引き上げ、顔にかかっていた髪を梳いてやると、形の良い額にキスを贈る。
「おやすみ、キサ」
出会った頃は、男なのか女なのかも分からないような、曖昧な存在だった。それが、今ではこんなにも女だ。演じる必要など何一つない、純粋な女になってしまった。
少なくともアラン・ジンデルの前では、自らの年齢以上に魅力的な色香を漂わせる、その名を世に知らしめている世界的な女優と比べても引けを取らない、平伏したくなるような美しさを感じさせていた。それが惚れた欲目なのだと言われてしまえば、それまでなのだが。
アランが希佐の部屋を出て行くと、ノアとジェレマイアは既にお茶会をはじめていた。戸棚に仕舞い込まれていたクッキー缶を引っ張り出し、冷凍のスコーンを解凍して、冷蔵庫に入っていたクロテッドクリームとジャムを乗せて食べている。
「戸棚のお菓子、賞味期限が切れそうなのばっかりだよ」
「欲しかったら好きに持って帰っていい」
「食べる気がないならもらわなければいいのに」
「勝手に送り付けられるんだ」
温めたマグに湯を注ぎ、ティーバッグを落とすと、それに蓋をして三分から五分蒸らす。濃い目に抽出した紅茶を手に椅子に腰を下ろすと、正面に並んで座っていた二人が、一斉にこちらを見た。
「なに」
「次のカオスの公演はいつ頃になるんだろうってジェレマイアと話していたんだけど」ノアはそう言うと、バタークッキーを口の中に放った。「まだまだ先になりそうだなって」
「キサのやつ、今まで頑なに小劇場の舞台にしか立ってこなかったのに、どういう風の吹き回しなんだ?」
「何言ってんの、かのアラン・ジンデルが脚本を手掛ける商業舞台だよ? いつもは小劇場で縮こまって行われている公演が、大きな劇場でのびのびと演じられる上に、資金を湯水のごとく使えるんだ。豪華絢爛な舞台装置に、煌びやかな衣装。それに、オーケストラの生演奏付きで、お客さんの数も桁違い。僕に言わせれば、舞台に対してあんなに貪欲なキサが、どうしてこれまで商業の舞台に見向きもしてこなかったのかが不思議でしょうがないよ」
「そりゃお前、日本の学校の関係者に女だってバレたらまずいから──」
「えっ、キサってまだそんなこと気にしてたの?」ノアは素っ頓狂な声を上げると、信じられないという顔をしてアランを見た。「僕、もうすっかり吹っ切れているものだとばかり思ってたよ」
「吹っ切れてはいないだろうな」
「お前、なんでキサが小劇場の舞台ばかり選んで活動してると思ってたんだ?」
「ええと、好きだから?」
「お前なあ……」
「それに、キサは優しいから変なのに好かれやすいでしょ。何年か前にもヤバいやつに襲われかけたし、そういう意味では故意に避けてるのかなって。商業の舞台になんて立ったら一気に注目を浴びて、マスコミだって放っておかなくなるよ。あんなに可愛くて、演技だって飛びぬけて上手なんだから。イライアスなんか、パパラッチに追いかけ回されるやら、盗撮された写真がSNSで拡散されるやらで、迷惑してるって言ってたし」
「あいつ、オレたちですら私生活が見えてこないもんな。ファンなら多少なりとも興味が湧くんだろうけど、そういうの何より嫌うやつだからな、イライアスは」
希佐はむしろ、そうした行為に慣れているといえるだろう。三年前、立花希佐の名前で検索をかけたとき、ユニヴェールの公式情報とは別に、大量の噂話やゴシップ、盗撮されたような画像が次から次へと出てきたことを覚えている。他人のことながら、アランはそれを見ているだけで気分が悪くなり、以来二度と同じことを繰り返してはいなかった。
「そもそも、キサが女だってバレることが、そんなに問題なの? 周りの人たちを騙してたっていうけど、元々は関係者の手引きがあってのことでしょ? キサだけの責任じゃないと思うけどなぁ」
もう五年も前のことなんだし、とノアは言う。
希佐が気にしているのは、自分の体裁や、女であることが露見することではないのだろうと、アランは考えていた。
自分一人の問題ならば、希佐は己の罪を償うのだと言って、三年間抱え続けてきた秘密を打ち明けていただろう。そうしなかったのは、その咎が自分以外の大切な人々や、希佐にとって最も神聖で、聖域とさえいえるユニヴェールに向けられることが、耐えられなかったからだ。
だから、誰にも告げずに逃げ出した。日本での自分の時間を止めるために。凍り付いた時間が、決して溶け出すことのないように。でも、そろそろ限界だと気づいたのだろう。いつまでも逃げ続けていては、この先一生、死ぬまで苦しむことになると。
だが、その代償として役者を辞め、舞台を降りるという選択をするのは違うのではないかと、アランは思うのだ。
たとえそれが、希佐自身が考え抜いて出した答えなのだとしても、本当の意味では納得することができない。希佐と自分は違うのだ。舞台に立ち続けること、演じることが天職なのだと、分かっているはずなのに。自らの在り方を捨てて過去を清算するのではなく、だからこそ役者を続けるのだという意志を貫いてほしいと、そう願ってしまうのだ。
しかし、アランにはどうすることもできない。行くなと引き留めたところで、こうと決めたら最後、自分を掴む手を切り落としてでも、日本に帰っていくのだろう。それならばもう、最後の悪あがきをするしかない。永遠に消えることのない思いを植え付けてやるのだ。忘れることは許さない。ただの思い出にされるなんてことは、絶対に真っ平だ。
「次に帰って来られるのはいつになるか分からないし、カオスの公演はオレ抜きでやってくれてもいいんだからな」
「またそんなこと言って」ノアはじっとりとした目でジェレマイアを見る。「ニッチなゴリラファンの人だっているんだよ、ジェレマイア」
「おい、お前それ褒めてないだろ」
「まさか前よりマッチョになってアメリカから帰ってくるなんてねぇ。その筋肉、何食べて育てたの? ああ、アメリカンビーフ? ステーキばっかり食べてた?」
「そういうお前は随分貧弱になったんじゃないか、ノア。きちんと鍛えておかないと、いざというとき動けないぞ」
「僕は今、学業優先でやってるんだよ」
「演劇サークルは辞めたんだろ?」
「だって、妬み嫉みが酷いんだもの。そういう世界だってことは分かってるんだけどさ。カオスに入るにはどうしたらいいんだって聞いてくる人は未だに大勢いるし、アランに口利きしてくれって追いかけ回されるし、本当嫌になっちゃう」
いつの頃からか、アラン・ジンデルの名が独り歩きをはじめた。何でもない、誰でもなかったはずのただの少年が、客席からほんの五十センチほど高いだけの舞台の上に立つことで、多くの人々の視線を集める存在となってしまったのだ。
アランは本番の舞台に立つことよりも、稽古や下準備をしている時間の方が好きだった。劇団の大人たちが見せてくれる、未だ知らない世界に触れられることが、何よりも幸せで堪らなかった。
あらゆる才能、天才たちの坩堝。
メレディスほどの人徳や、人々の先頭に立って指揮を振るえるだけの手腕があれば、劇団をもっと大きくしてもよかったのだろう。だが、アランにはこれが限界だ。メレディスのようにはできないし、今のカオスを気に入っている。
「ちょっと、アラン。ちゃんと聞いてる?」
「ほぼ活動休止中の劇団に新人を増やしてどうするんだ」
「君がそう言ってあげてよ」
「俺が出て行くと余計に話がややこしくなる」
「ほんの少し顔を出して、きっぱり断ってくれたらそれで済むのに」
「それで前にサークルの公演用の脚本を書けって迫られた。卒業生だからって、そんなことをしてやる義理はない。それに、脚本を外部発注するならするで、多少なりとも誠意を見せるのがマナーだ。そもそも、脚本から演出まで自分たちでっていうのが学生演劇の醍醐味だろ」
「今はもうそういう時代じゃないらしいよ。大学の講堂なんかで公演をして、仲間内だけで満足して終わらせるなんてことはしないんだって。最近は脚本も演出も著名な誰かに依頼して、それで集客率を上げるんだって話してた。確かに、それだと話題性はあるかもしれないけどさ」
「随分世知辛いことになってるんだな」
「みんな自分の承認欲求を満たすのに必死なんだろうね」
「まあ、役者とかパフォーマーなんて生き物は、己の承認欲求を満たすために活動してるってのはあるけどな」
「でもさ、カオスのみんなは、そういうものとは程遠い感じがするでしょ? ただただ演じることが好きで、評価なんて二の次って感じじゃない? 舞台に立つのだって、大衆に認められたいからだ、なんて人はいないし。僕はカオスのそういうところが好きなんだよね」
カオスの劇団員たちはただ純粋に、演じることや、パフォーマンスをすることが好きなのだろう。長い時間をかけて稽古を重ね、完成した演目を披露できることに、多くの喜びを感じている。たとえ客席に観客がたった一人しかいなかったとしても、カオスの仲間たちは、その一人のために全力を尽くすという確信が、アランにはあるのだ。
むしろ、そういう人間性でなければ、劇団カオスではやっていけない。手っ取り早く有名になりたい、商業の舞台を目指したいと思っているような若手の登竜門には、決してなり得ない劇団だ。
親鳥が黙っていても、たった一人で勝手に巣立つことのできる雛だけが、カオスでは翼を手に入れられる。親鳥に甘え、甘い蜜ばかりを吸い、あわよくば一花咲かせたいなどと思っているような人間は、お呼びではないのだ。
そこまで考えてみたところでようやく、アランは自らの中に答えを得たような気がした。
おそらく、自分は誰かの拠り所となりたかったのだ。かつての自分がそうであったように、自分が誰かの受け皿となることで、その人を支えてやりたかったのだろう。自分が当時の劇団員たちに、そうしてもらっていたのと同じように。
誰かに必要とされること。それが、アラン・ジンデルの承認欲求だったのだ。誰にも必要とされていない子供だったからこそ、その心の奥底では、誰かに求められることを願っていた。
この世界は才能に厳しい。足元から伸びてくる何本もの手が、目障りな才能を引きずり下ろし、足蹴にして、成り代わるような世界なのだ。自己主張が不得意な者は、数ある才能の中に埋もれ、自らの花を枯らしていく。キラキラと輝いている原石が、磨き上げられることなく、ただの道端の石に成り果てる。
イライアスはその権化たる存在だった。並外れた才能を秘めていながら、それをダンス以外で表現することができずにいたのだ。リミッターの外し方を知らなかったのだろう。子供の頃から、バレエダンサーである両親から基礎を仕込まれていたイライアスは、感情よりも、思考を優先させてきた。頭と体を直結させ、お手本のような完璧なポジショニングで踊るために、感情を切り捨てることを覚えてしまった。
だから、自由で楽しく、感情で踊るバージルの傍に置けば、いずれ気づくだろうと考えていたのだ。だが、バージルは求められることで応じる人間だった。故に、求められなければ応じることはない。どちらも受け身の人間だったからこそ、何の化学反応も起こさなかった。
さて、どうしたものかと頭を悩ませていたところに、遠い異国の地から立花希佐がやってきた。
誰もがイライアスの在り方を否定せず、そのままで構わないと停滞することを認めている中で、希佐だけがその隣に寄り添い、小さな両手を差し伸べて、共に歩いて行こうとした。そして、ほんの二カ月の間にイライアスの才能は飛躍的に伸び、一夜にして花開いたのだ。イライアスに必要だったのは、良きパートナーとの出会いだったのかもしれない。
対して、度重なるアイリーンからの入団要請を断り続けていたのは、これもまた承認欲求の問題だった。当時のアイリーンは、アラン・ジンデルに自分を認めさせたい一心だったのだ。だからこそ、カオスに入団できれば、それで満足してしまうかもしれない。歌への情熱を失わせないためには、欲求が向けられる方向を修正する必要があると、アランは考えていた。アラン・ジンデルに認められたいなどという思いは捨てて、歌を愛し、歌に愛される人になってほしいと思ったからだ。
そして、アイリーンは国際的なコンクールの舞台に立ち、見事優勝を勝ち取ると、トロフィーを手にアランの下までやって来た。そのときにはもう既に、歌を愛し、歌に愛された、立派な歌手と化していた。
こうして雛が自分勝手に巣立っていく様子を眺めていると、酷く感慨深い気持ちになる。一人前の顔をして舞台に立ち、歌って、踊り、自分ではない誰かを演じている姿は、あまりに眩しかった。今もまだ、自分は止まり木程度の役割は果たせているだろうかと、アランは少しだけ考える。
ノアとジェレマイアは日の入り前に帰っていった。渡米前にアパートを引き払っていたジェレマイアは、アメリカに戻るまでの数日間、ノアの部屋で世話になることを決めたらしい。
「じゃあ、他のみんなにも声をかけておくからね」
ノアからの、新年はみんなで迎えようという提案に、アランは好きにすればいいと応じた。これを逃せば、カオス全員が揃う機会は、またしばらく先までお預けになる。
二人が散らかしたまま帰っていったテーブルの上を片付けながら、アランは時計を見やった。時刻はまだ午後五時前だったが、疲れて眠っている希佐を叩き起こしてまで外食をしたいわけではなかった。とはいえ、はからずも今年最後の日である明日にまで予定を入れられてしまい、希佐との約束は果たせそうにもない。
未だ三年前の事件を引きずっている希佐を、なるべく一人にしたくはなかったが、アランは少しばかり出かけてくるとメモを残し、コートを羽織ってスタジオを出た。
三十分ほどで買い物を終えて帰ってくると、メモはテーブルの同じ場所にあり、希佐が起き出してきた形跡もない。買ってきた荷物をテーブルの上に置き、メモをくしゃりと潰してポケットに入れたアランは、脱いだコートを椅子の背凭れに引っ掛けた。シンクで手を洗い、うがいをしてから、両手をついて大きく息を吐く。
「脚本の直しと、衣装の原案……仮歌作って……フランス語の教材も……」
いや、希佐には教材を与えるより、生活の中で学んでいった方が吸収が速そうだと、アランは考える。だが、日常会話を教えるにしても、終始家の中に閉じこもっていては限界があるだろう。アランは自分の口数が少ないことを自覚している。希佐の傍にいると心地良いと感じる理由の一つは、他の者たちと比べて、圧倒的に沈黙を苦痛に感じることがないからだ。しかしながら、それでは言語は学べない。
「……考えないとな」
昔から面倒なことが嫌いで、自分の好きなことだけを、時間が許す限りやっていたい子供だった。そして、大人になった今も、面倒臭いことは嫌いで、それを克服するための努力をすることは苦手だ。アランにとって、何か一つのことに集中し続けるという行為は、酷く難しい。
幼い頃から注意力散漫な一面を持ち合わせ、思考も常に飛躍していたことから、お前の言葉の意味が分からない、考えていることが分からないと、そう言われることが多かった。何を言っても理解されないと知り、アランは徐々に口数を減らしていったのだ。
そして、己の感情の捌け口として、脚本家のまねごとをはじめた。劇団の大人たちがそれを面白がってくれなければ、脚本家としての仕事をはじめることもなく、今頃は死人のような日々を送っていたのかもしれない。嫌々仕事をしていたとしても、大した不満があるわけもなくこうして生きているのだから、まったくもって現金なものだった。
部屋から持ち出してきたノートPCを開いてキッチンで執筆をしていると、午後七時を過ぎてようやく、希佐が自室から出てきた。その足取りは珍しくふらふらとしたもので、未だ寝惚けているのが見て取れる。半分閉じかかった目を擦りながら、そのままバスルームに入っていく姿を横目に見ていたアランは、再びノートPCに視線を戻した。
キーボードを叩き続けて十五分ほどが過ぎた頃、視界の端に小さな影が映り込むのを感じ、アランはその状態のまま口を開く。
「見ないよ」
「……」
「早くしないと本当に風邪を引くけど」
バスタオルで体を覆った希佐は、アランのその言葉を信じて、つま先立ちになりながらバスルームを出てきた。しかし、テーブルに頬杖をついて自分の姿を眺めている様子に目を留めると、その場で動きを止め、じっとりとした目で睨みつけてくる。
「見ないって言ったのに」
「今更だろ」
「Familiarity breeds contempt.」
「ジェフリー・チョーサーなんて知ってるんだ」
「日本にも同じようなことわざがある」希佐は軽蔑したような目でアランを見た。「『親しき仲にも礼儀あり』。意味は──」
「分かった。もう見ない。早く服を着てきて」
お前の言葉は信用ならないとばかりに、希佐はアランに背中を向けることなく、自分の部屋に入っていった。アランは部屋のドアが閉まると同時に小さく笑い、作業に戻る。胸元で輝いている翠玉を目にすると、言い知れぬ幸福感が込み上げるようだった。
「ノアとジェレマイアは?」
カーディガンに腕を通しながら戻ってきた希佐は、アランの後ろを通って冷蔵庫の前に立った。
「帰った。明日また来る」
「二人ともご両親のところへは帰らなくていいの?」
「ジェレマイアの実家はスコットランドの田舎の方だから、行って帰って来たらそれで休暇が終わる。ノアはクリスマスに帰ったからいいと言ってた」
喉が渇いていたのだろう、ごくごくと水を飲みほした希佐は、グラスを濯いでタオルの上に伏せて置く。そして、こちらを振り返ると同時に、テーブルの上に置いてあるものに目を留めると、大きく首を傾げた。
「カレー、わざわざ買ってきてくれたの?」
「買い物に出たから、そのついでに」
そんな嘘はお見通しだとばかりに目を細めた希佐だったが、深く問い詰めるようなことはせず、嬉しそうに笑みを浮かべると、アランの隣に腰を下ろした。
「ありがとう」
「今食べる?」
「うん」
三次審査を終えた翌日、渡すものがあるからと連絡をすると、希佐はいつものインド料理屋の袋を片手にスタジオに現れた。十中八九、それは自分と食べるために買ってきたものだと分かったが、アイリーンの歌を聞き、彼女の存在そのものに委縮しきってしまっていた希佐に、余計な声掛けをするのは逆効果だろうと、アランはそう思っていた。
少しは嫉妬をしてくれるのではないかと、期待していた部分はあったのだと思う。スタジオにアイリーンがいるのを見て、僅かに傷ついたような表情を浮かべた希佐を目の当たりにしたとき、喜びにも似た感情を抱いたのは間違いない。まだ見限られたわけではないのだと、安堵したのも確かだ。
だが、それと同時に、酷く着飾ってディナーに誘われたのだと言う希佐を見たときには、何とも言えない後ろ暗さを覚えていた。希佐が誰と出掛けようと、横から口を挟む権利など自分にはないのだと理解していても、どうしても考えてしまう。相手は誰なのか。親密な間柄なのか。自分には見せない顔を、その相手には見せるのか。
その日の夜のうちに、まるで惚気るような電話が、ダイアナからかかってきた。そして、しつこく言うのだ。あの子はあなたには勿体ない。だからこそ、絶対に手放すような真似はするなと。この先、希佐以上にアラン・ジンデルのことを尊重し、慮ってくれる稀有な存在には、もう二度と出会えないだろう、と。
冷えたチキンカレーとライスを温め直し、アランは希佐の前にそれらを並べた。自分の分を温めている間も、希佐はカレーに手をつけることもなく、ただじっと座って待っている。先に食べていいと言っても、首を縦に振ることはないのだろう。
自分の分のカレーを温め終えてアランが隣に座ると、希佐は胸の前で両手を合わせ、いつものように「いただきます」と口にする。
こうして希佐の口から漏れる言葉の意味を調べるようになり、興味本位で見はじめた古い日本映画が思いのほか面白かったこともあって、僅かばかりの日本語は何となく理解できるようになっていた。
言っていることは分かっても、自分からその言語を発信するには至らない。だが、日本語を解するようになって、希佐が時折漏らす言葉が理解できるようになると、まるで心の中を盗み見ているような、申し訳なさを覚えることもある。
特に寝言は、希佐の無意識下にある深層意識を直視しているようで、居た堪れない思いに苛まれることもあった。後々になって思い返してみると、あれはそういう意味だったのだと知り、勝手に心臓を痛めているのだから、馬鹿な話だ。
「そうだ」
「なに」
「日本に電話しないとと思って」
「ユニヴェールの?」
「うん、校長先生」希佐は時々日本に国際電話をかけ、校長の中座秋吏に近況の報告をするようになっていた。「オーディションに受かったことを知らせておかないと」
だが、そう言う表情は浮かない。受かったというよりも、受かってしまったと表現する方が正しそうな顔をしている。その強張った表情から感情を読み取ろうと試みてみるが、顰め面はすぐに消え、カレーの美味しさを受け入れるように口角が持ち上がった。
希佐はあのインド料理屋に何度足を運んでも、チキンカレーしか食べなかった。アランは数あるメニューの中から取捨選択をするのが面倒で、いつもそれに合わせている。いつもチキンカレーのセットしか注文しない二人の客を店主は面白がっているようで、やたらとサービスをしたがった。にこにこと嬉しそうにしながら食べる希佐を見て、気分を良くしているのだろう。
しかしながら、希佐は知らない。あの店の店主はネパール人で、本当は売れ筋のチキンカレーよりも、ダルバートを食べて欲しがっているということを。だから、あれこれとサービスをしてそれとなく誘導しているのに、希佐はぶれることなくチキンカレーを注文し続けていた。
希佐はよく一つのことに固執する。稽古のためのルーティンが組まれると、それを毎日、ただ粛々と繰り返す。食べ物や飲み物も同じだ。新しいものに手を出すよりも、自分が気に入ったものを何度も繰り返し購入し、己の血肉としている。かといって、勧められたものを断るわけではない。ただ、自分から冒険することは少ないように思えた。
「後片付けは私がするね」
ごちそうさまでした、と両手を合わせた希佐は、先に食事を終えていたアランの分の器も手に取り、それをシンクに運ぶ。使い捨ての紙の器を丁寧に洗い、軽くキッチンペーパーで拭ってから、ごみ箱に捨てていた。洗ったスプーンはその場で拭い、定位置の引き出しに戻している。
「もうこんな時間だし、電話は明日の方がいいかな」ロンドンは午後八時を過ぎている。日本はまだ早朝だ。「それに、今年の洗濯物は今年の内に片付けておかないと」
「俺も一緒に行く」
「買い出しはどうする? みんなで集まるなら、何か買っておいた方がいい?」
「ノアたちが言い出したんだから、あいつらに任せておけばいい」
「でも……」
「オーディションが終わって疲れてるだろ。無理して周りに気を使う必要はない。年が明けて舞台稽古がはじまれば、休みたくても休めなくなるんだから、今くらいゆっくりしたら」
「アランは休まないの?」
片付けをはじめてすぐにノートPCを開き、作業を再開させていたアランを見て、希佐は言う。アランはキーボードの上を走らせていた手を止めると、隣に座る希佐を見た。
「スペンサーから脚本の手直しを頼まれてる」
「え、ストーリーを変えてしまうの?」
「大筋は変わらないけど、エンディングには手を加えることになるかもしれない。スペンサーが最終審査の君の歌を聞いて、解釈を上書きされたと言っていたから」
「私の、歌で……?」
「それだけ君の歌に力があったってことだと思うけど」
希佐が自身を過小評価している原因は君にあると、スペンサーに指摘されたことを思い出す。だが、希佐ははじめて出会った頃から、自分自身の才能を過小評価している節があった。自分にどれだけのことができるのかを正しく把握しているのにもかかわらず、自分の実力が他者に比べて優れているとは、露ほども思っていない。
ユニヴェール歌劇学校のレベルが相当に高いということは、学校で管理している公式サイトの映像を見れば誰にでも分かることだ。芝居、歌唱、ダンス、あらゆる独創性に優れた生徒たちが才能を競わせ、互いに高め合っている。立花希佐はその中でもトップレベルの生徒だったはずだ。多少なりとも驕り高ぶっていたところで、それを悪く思う者はいなかっただろう。
それでも、希佐は誰に対してもあまりに謙虚で、人一倍の努力を惜しまず、誰よりも己の才能を疑っている。称賛の言葉は右の耳から入り、左の耳へと抜けていく。ありがとうと口にし、笑顔を見せても、本人の心には響かない。
当初は、自身に求める理想が高すぎるのかもしれないと、そう思っていた。雲をも掴むとはよく言うが、希佐のそれはまるで月をも掴もうとしているようで、途方もない高みを──いや、人間には到底辿り着くことのできない境地を目指しているようにも思え、見ているとなぜだか不安になる。
ジョシュアは希佐の歌を神がかり的だと言った。アランは化け物だと思ったし、スペンサーは世にも美しい怪物だと称した。それは人間以上に人間で、舞台に立つその人が誰かを演じているという事実を忘れてしまうほどに、その人物が生きているのだ。
もしかしたら、希佐の存在が舞台上で際立てば際立つほど、その周りで演じる役者たちの演技は、嘘っぽく見えてしまうのかもしれない。希佐はすぐにその違和感に気づくだろう。そして、選択を迫られる。先頭に立って独自の道を進むのか、後退して他の役者に合わせるのか。
「俺が支える」
「えっ?」
「何があっても、俺が君を支えるから」アランは上向いた希佐の頬の頂に、そっと唇を押し当てた。「キサがどれだけ自分の才能を疑っていても、俺やカオスの連中は、この国の誰よりも君の素晴らしさを知ってる。君なら出来るよ、キサ」
希佐はアランを見上げたまま僅かに驚いた表情を浮かべてから、少しだけ困ったように笑う。眉間に寄ったしわを指先で撫でてやると、希佐は静かに目を伏せた。
「私ってそんなに心配をかけている?」
「俺がそうしたいと思っただけ」
アランのその言葉に、希佐は小さく微笑んだ。アランは誘われるように希佐の唇に軽い口づけを贈ると、再びノートPCの画面と向き合った。
「そういえば、君がダイアナに支払った衣装代、スペンサーがカオスの口座に振り込んでおいたって。あとで君の口座に送金しておくから」
「それだけど、本当にいいのかな」
「なにが」
「だって、ほら、安い買い物では……」
「いいんだよ。どうせ制作費で落ちるんだ」アランはため息交じりに言う。「それに、あれでインスピレーションを得られれば安いものだろ。衣装部の面々も方向性が見えて喜んでたし」
「それならいいんだけど」希佐はそう言ってから、困ったような表情を僅かに和らげた。「でも、またあの衣装を着て舞台に立てるなら嬉しいな。ダイアナが精魂込めて作ってくれたものだから、もっとたくさんの人に見てもらいたくて」
あのドレスは自身の最高傑作だと、ダイアナは衣装部との打ち合わせの最中に語っていた。その目は爛々と輝いていて、興奮した様子だったことを思い出す。アランはこれまでに数多くの舞台衣装をダイアナに依頼してきたが、確かにあの白バラを連想させるドレスは、他の衣装とは一線を画していた。
舞台の上で凛と咲く一輪の白いバラ。派手さはなく、どちらかと言えば控えめだが、細部にこだわりを感じさせる。体を覆うレースはまるで素肌に描かれた繊細な模様のようだった。遠目で見ても美しいが、間近に見ればその繊細さがますます際立ち、清廉でありながらも、どこか色香を感じさせる危うさがあった。
あれは、希佐の体型をよく知っているダイアナだからこそ、作り上げることのできた衣装だろう。最終的には細かなフィッティングが物を言うことにもなる。体の線にぴたりと沿った、皺一つない完璧な仕立てが、着る者の美しさをより助長させるのだから。
アランは最終審査の舞台に立つ希佐の姿を思い出していたが、すぐ隣で椅子から立ち上がる気配を感じ取り、我に返った。
「お仕事の邪魔になるといけないから、私は部屋に戻るね」
「あ、いや……」
「それに、昨日と今日の分の日記を付けないと。記憶が新しいうちに書いておきたいんだ」
希佐はそう言うと引いた椅子を戻し、アランの後ろを通って自分の部屋に向かおうとした。しかし、何かを思い出したように引き返してくると、背中を丸めてアランの頬にキスをする。
「ありがとう、優しくしてくれて」やわらかい声が耳元で言った。「おやすみなさい」
一瞬、アランは胸が詰まったように息が苦しくなった。手を伸ばし、希佐の腕を掴もうとするが、その意気地のない指先は空を掴む。もう少しここにいてほしいという一言が出て来ず、ぱたん、と閉まるドアの音を聞いているしかなかった。
頭を掻き、五分ほど宙を眺めてから、アランは思考を切り替えた。邪魔な前髪を後ろに向かって撫でつけ、髪を後頭部で一括りにすると、キーボードに手を乗せる。
『君には酷な話かもしれないけど、彼女にはもう少し人間味というものを与えてほしい。誰もが顔を顰めるような悪女でありつつも、最終的には愛さずにはいられなくなるような、とびきり魅力的な女性に仕立ててほしいんだ。ほら、単純明快すぎる女性なんてつまらないだろう? 観客の心をわしづかみにして、誰かれ構わず翻弄するような女性を、是非ともよろしく頼むよ』
「……言いたい放題言いやがって」
スペンサーのことだ、何度要望通りに脚本を書き直したところで、稽古に入ればまた修正を求められる。いつもなら脚本が手元を離れてしまえばそれまでだが、今回は常に演出家に帯同することになるのだろう。度重なる脚本の変更は役者たちの負担になるが、その程度のことはどのような舞台でもままあることだ。
演じる人間によって、舞台はその色を変える。言葉の選び方一つで、観客への響き方が違ってくる。舞台は生き物。公演当日──もちろんそれ以降も、望まれ続ける限りは、成長を止めることはない。
「まあ、内容的にロングランなんて無理だろうけど」
そのようなことを独り言ちながら、アランは丁度切りの良いところまで書き進めた。方向性の確認のために、書いたところまでのデータをスペンサーに送り付けると、ノートPCを閉じて席を立つ。部屋に戻って着替えを済ませ、靴を履き替えてからスタジオに降りた。
スタジオの空気は、外と同じくらい、ひんやりと冷え切っていた。
アランはパネルを操作し、スタジオの一画にだけ灯りを点す。暖房は付けず、希佐のヨガマットを借りると、そこに腰を下ろして念入りなストレッチからはじめた。昔に比べると、体は随分硬くなってしまっていたが、この一カ月、地道に柔軟運動を続けてきたことで、今では幾分ましになってきている。
まさか、この年になってもう一度、何かに挑戦してみようなどと思うようになるとは、予想だにしていなかった。他の誰よりも自分自身が、自分の行いに驚愕していると言っても過言ではない。もう二度と戻らないと誓った舞台の上に、平然と戻ろうとしているのだ。あの頃の自分が今のこの姿を見たら、おそらく軽蔑の眼差しを向けてくることだろうと、アランは思った。
それから二時間ほど肉体を酷使し続けたアランは、苦痛と疲労を一緒くたにしたような状態の体を引きずって、のろのろと階段を上った。汗だくになった体をシャワーで流した後、湯船に浸かり、億劫になりながらも全身のマッサージをする。一度これを怠けたら、翌日酷い目に遭ったので、サボりたくてもサボれないのだ。
髪を乾かす余力さえ残っていないアランは、半裸の状態のままバスルームを出て行くと、ノートPCを開いて、スペンサーからの返事が届いていることを確認した。そのまま進めていいとのことだが、今日はもう体力の限界だ。ここ最近は、こうした日々が続いているので、以前に比べればまともな睡眠時間を取れていると言えるのかもしれない。
ノートPCを閉じ、たっぷりの水を飲んでから、キッチンの電気と暖房を消して、アランは自室に向かった。半裸の状態のままベッドに倒れ込むと、足の指で毛布を引き上げ、頭の先まですっぽりと潜り込む。眠るのは得意ではないが、ここまで肉体が疲れ切っていると、何も考えず気絶するように眠ることができた。翌朝、疲れが残っているかどうかは、もはや運次第だ。
「……煙草、やらないでよかったな」
夢見が悪くて酒に逃げることはあっても、煙草や薬に手を出したことは一度もなかった。もしかしたら、機会さえあればそうした類のものに溺れていたのかもしれない。例えば、メレディスが脚本の仕事を斡旋してくれなければ、あのまま路頭に迷っていたのかもしれないのだから。
急速に訪れる睡魔に抗うことなどせず、アランはどこからともなくやってくる眠気に誘われるがままに、重たい瞼で両目を覆った。体が次第に重たくなり、ベッドの中へ、中へと沈んでいくような感覚に見舞われて、全身から力が抜け落ちていく。
ああ、あと少しで──思考がぼやけ、曖昧になりかけたそのとき、アランを現実へと引き戻す音が聞こえてきた。
それは、こん、こん、こん、という、酷く控えめなノックの音だった。
考えるより先に返事をすると、ドアは小さく軋みながら開かれる。僅かな隙間からこちらを覗き込んでいる人影を、うっすらと開いた目で捉えたアランは、枕に顔半分を埋めたまま見やった。
「……なに、どうしたの」
ドアの前から動こうとしない人影に向かってそう声をかける。しかし、そちらから何か躊躇っているような気配を感じ取ったアランは、片腕を上げてベッドと毛布の間に隙間を作ると、もう一度口を開いた。
「ほら、おいで」
幾ばくかの逡巡の後、人影はするりと部屋の中に入り込み、後ろ手にドアを閉めた。ベッドまでの空間を急ぐように進み、アランの腕の中に転がり込んでくると、しがみつくように首に腕を回してくる。
睡魔で沈みかけていた意識が、大きく頭をもたげた。アランは希佐の体ごとすっぽりと毛布で包み込むと、背中に回した手で優しく抱き締める。ゆっくりと背中を撫でさすっていると、希佐の体の強張りが徐々に溶けていき、軋むほど強く首に回されていた腕の力が、少しずつ弱まっていった。
夢見が悪かったのだろう。アランは希佐がよく悪夢にうなされていることを知っている。だから、隣にいられるときは何も言わず、無条件に抱き締めてやると決めていた。
自分がこの愛おしい存在を遠ざけていたときも、悪夢にうなされ、眠れぬ夜を過ごしていたのかもしれないと思うと、頭から冷や水を浴びせかけられるような心地がして、申し訳なさが募る。
首に回していた腕を下ろしてやると、アランは小さな額に唇を押し当ててから、やわらかい髪に顔を埋めた。肌に感じる体温と息遣いに思考が支配されつつある。自分を守ることで精一杯だった人間が、こうして誰かを守りたいなどと思うのは、酷くおこがましいことなのだろうかと考えながら、アランは希佐の顔を覗き込んだ。
「落ち着いた?」
「……うん」
「そう」
目尻から流れている涙の跡に、ロゼ色の髪が貼りついていた。アランは親指でそれを拭い、髪を耳に掛けてやる。くすぐったそうに肩をすくめた希佐は、いくらか安心したように頬をほころばせると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「スタジオで何をしていたの?」
「秘密の特訓」
「バージルがあなたのダンスはすごいって。私はあなたが踊っている姿を想像することもできないのに」
「昔はそれなりに踊れたけど、今はまだ見せられる代物じゃない」
「じゃあ、見せてもいいと思えるようになったら──」きらり、と希佐の目に光が戻ってくるのを見て、アランは目を細めた。「私と一緒に踊ってくれる?」
「君と?」
「アランと一緒に踊ってみたい」
そんな目で見ないでほしいと思う。希望を持ってしまいそうになるから。希佐との未来を夢見てしまいそうになるから。五年先、十年先も、この煌めく才能が隣にいて、同じ場所を目指して歩いて行くことを、願ってしまいそうになるから。いつか同じ舞台に立って、その先にある世界を共に眺めてみたいと、思ってしまうから。
「幻滅するよ」
「どうして?」
「理想と現実は違う」
「意外と怖がりなんだ」
「言ってくれるね」
「私はアランのダンスが下手だって構わない。ただ一緒に踊りたいだけだから」希佐はアランの胸元で輝くアンバーを指先でもてあそびながら言った。「今度アイリッシュダンスを教えて?」
「……バージルに教わればいい」
「似て非なるものだから教えられないって言われた」
「もう十年近く踊ってないから、俺が君に教えられることは何もないよ」
「いじわる」
「意地が悪くて結構」
下唇を隠すように噛むような仕草を見せながら、希佐はアランを上目遣いに見上げる。その様子を眺めながら軽く笑い、からかうように鼻の頭に噛みつくと、希佐はアランの胸を押し返しながら声を上げて笑った。悪夢の影が消え去ったのを見て取ったアランは、内心ではほっと安堵の息を吐き、胸を撫で下ろす。
「ねえ」
「なに」
「今日は一緒に寝てもいい?」
「今日も、じゃないの」アランがそう言うと、希佐はむっとした顔をしてみせた。「俺は毎日でも良いけど」
「……アランってそんなことを言う人だった?」
「思ったことを口に出す努力をしてる」
「無理をしてない?」
「いや」
「そう」
いつか手放さなければと思うほど、手放したくなくなる。遠ざけようとしていた時間が長いほど、近づいてみたくなる。自分でも、この両足がぬかるみにとられ、泥沼に沈み行こうとしていることは分かっていた。まさか自分がと思う傍らで、この気持ちを知らないままこの世を去っていたのかもしれないと思うと、妙に居たたまれない気持ちになるのだ。
あと何度、こうして同じベッドで眠ることができるのだろうと思いながら、希佐の体を抱き寄せる。何一つ抵抗することなく胸元に額を寄せた希佐の耳元で、アランは小さく囁きかけた。
「C'est la première fois que je pense autant à quelqu'un.」
「えっ?」強く抱きすくめられて身動きを取れないまま、希佐は困惑したような声を出した。「今、何て言ったの?」
「フランス語、勉強したら分かる」
「それまで覚えていられない」
そう言いながらも、たった一度耳で聞いただけの言葉を、希佐は忘れまいとするように空で何度も復唱している。正しい発音、美しい響き、歌うような声──やはり、耳が良い。
「翻訳アプリは禁止だから」
「え」
「フランス語の翻訳アプリは未だに精度が低いから正しく学べないんだ」
「辞書は引いてもいい?」
「ダメ」
「……嘘でしょう?」
「一週間経っても理解できなかったら引いてもいいけど、君の場合は目で覚えるより、耳で聞いて覚えた方がいい。フランス映画を英語字幕で観るといいよ。メレディスが詳しいから、何か良い映画がないか聞いてみたら」
「明日ってヘスティアは営業日?」
「例年通りだと思うけど」
十二月三十一日は常連だけを招き入れ、朝まで無礼講で酒盛りをしているはずだ。訪れる者の多くが舞台関係者なので、アランはその日に顔を出したことがない。一階のステージが解放されるため、誰でも好き勝手に歌ったり踊ったりできるらしく、酷く騒がしいという噂だった。
「お店、忙しいよね」
「だろうな」
「年が明けたら行ってみようかな」
「電話してみれば?」
「メレディスっていつも忙しそうなイメージがあるから、いつ頃電話すればいいのか分からなくて」
でも、お店まで会いに行けば少しだけでも直接話ができるからと、希佐はいじらしいことを言う。
そんなことを言っていたとメレディスが知ったら、極上の酒をいくらでも奢ってくれることだろう。あの男が希佐を気に入っているのは、自分に対して何の下心も抱いていないというのが、一番の理由に違いない。
メレディスは舞台に係わるあらゆる分野に知人がいるため、それを目当てに近づいてくる者も少なくはないのだ。もちろん、彼自身はそれを悪いこととは考えていない。むしろ、そうした人々の懸け橋となり、力になりたいと思っているような人間だ。
だが、そういう人々を好きかと言えば、答えはノーだろう。あれは、根っからの世話焼きでありながらも、深い人付き合いはしたがらないという、稀有な男なのだ。
おそらく、希佐はそうしたメレディスの性格を、無意識のうちに察知していたのかもしれない。常に人好きのする笑みを浮かべ、人間が好きでたまらないという様相を崩そうとしないあの男を前にしても、決してその懐に踏み込もうとはしなかった。働いているときは、店の支配人と従業員という立場を崩さず、店を辞めたあとも、店の支配人と客という立場で、酒と会話を楽しむだけに留めている。むしろ、メレディスの方が希佐に肩入れをしていると言っても過言ではないだろう。立て替えてやることはあっても、客にタクシー代を出してやるなんてことは、絶対にしないはずだ。
希佐が人に好かれるのは、そういう相手の裏の顔までしっかり見通して適切な距離を保つような男にさえ、警戒心を与えるどころか、かえって安心感を与えてしまうようなところがあるからなのだろう。誰の心にもぴたりと寄り添える、そうした性格が、希佐の周りを明るく照らしている。
だからこそ、アランは不思議に思うのだ。自分が見ている立花希佐は、本物の立花希佐なのだろうか。それとも、アラン・ジンデルが気に入るように演じられた、仮の姿なのだろうかと。三年も一つ屋根の下で暮らしてきたが、アランは希佐の本質を、今もまだ捉えられていないような気がしていた。
早朝の稽古を終え、シャワーを済ませている間に、アランが朝食の支度を整えておいてくれた。髪を乾かしてバスルームを出て行くと、テーブルの上には色鮮やかなサラダとスクランブルエッグ、カリカリに焼かれたベーコンと、こんがりと焼き目のついたトーストが並んでいて、希佐は思わず目を丸くする。
「これ、アランが全部作ってくれたの?」
「他に誰がいるの」何でもないことのように応じながら、アランはティーバッグを落としたマグをテーブルに置いた。「自分が食べるついでだから」
「朝ごはん、食べられるようになったんだね」
「面倒臭いけど、食べないと体力が追いつかないんだ」
ふわあ、と欠伸を漏らしながら椅子に座ったアランは、掌底で目元を拭っている。大雑把に結わえた髪が解け、はらはらと顔の前に落ちてくるのを邪魔そうに払っている様子を見て、希佐はアランの後ろに回り込んだ。
「後で少し切ろうか?」
癖のある赤い髪を撫でつけるように梳き、それを後頭部で結わえてやりながら問うと、アランは眠たげにしながら小さく頷く。
少しと言っても、ほんの数センチ切る程度だ。外見に変化は見られないだろう。出会ったばかりの頃、無視できないほど長くなった前髪を切れ味の悪いハサミで適当に切る姿を見て以来、それなら自分が切った方が幾分ましだろうと、希佐がその役割を買って出ていた。
「……君は言わないんだな」
「え、何を?」
「髪を切れって」
アランの言わんとしていることを理解して、希佐は後ろに立ったまま苦笑いを浮かべた。結んだ髪を整えるように撫でてから、後ろ頭にキスをする。
「アランだって私に髪を切れなんて言わないでしょう?」
それと同じだと言いながら隣に腰を下ろす希佐を、アランはまじまじと見つめている。マグに浸されたティーバッグを掬い上げていた希佐は、琥珀色の雫が滴る様子を眺めながら口を開いた。
「私は、あなたの赤い髪越しに透けて見える目が好きだから、そのままで構わない」
「俺は──」アランはそう何かを言いかけるが、不意に視線を逸らすと、極まりが悪そうに頬を掻いた。「いや、何でもない」
「なあに?」
「目が覚めた」
「……はい?」
Pardon? と聞き返す希佐を無視して、アランは黙って食事をはじめてしまう。ティーバッグを抜き取ったマグにミルクを入れ、スプーンでかき混ぜながら、小さく咳払いをした。
今年最後の一日は、今年一番の冷え込みで、希佐は厚手のコートを着込み、ニットのスヌードを巻いてスタジオの外に出た。洗濯物が詰め込まれた袋を抱えて見上げる空は、突き抜けるような晴天で、あまりに清々しい。スタジオの鍵を閉めていたアランは、見るからに希佐よりも重装備で、ニットの帽子まで目深に被っている。
「ん」
吐き出した息が白く広がる様を眺めていると、鍵を閉め終えたアランが隣にやって来た。そっぽを向いたまま差し出された手を見て希佐が驚いていると、アランは自分よりも小さな手を取ってゆっくりと歩き出す。洗濯物の入った袋を片腕で抱え、アランの隣にぴたりと寄り添って歩き出した希佐は、思わず、ふふ、と笑い声を漏らした。
「なに」
「こんなふうに歩くの嫌いなんだと思ってた」
「別に嫌いじゃない」アランは希佐を横目に見てから、再び前方に目を向ける。「誰かと手を繋いで歩くのなんて、子供の頃以来だけど」
「学校の遠足とか?」
「いや、施設の寄付を募る活動の日」
「……寄付?」
「月に一回あったんだ。最寄りの駅前までぞろぞろと子供たちを引き連れて行って、箱を持って朝から晩まで立たせるんだよ。恵まれない子供たちに神の御慈悲を、みたいなやつ」
「それを子供たちにさせるの?」
「狂ってるだろ」アランはそう言いながら皮肉っぽく笑う。「俺はこんな顔だから、毎度シスターの横に立たされて、客引きに使われてた。見目が良い子供がいるとそれだけで人が寄ってくるんだ。まあ、見ての通り赤毛で青白い顔をしているから、暴言を吐かれることも結構あったけど」
アランは時々、こうして昔の話をして聞かせてくれることがあった。希佐はそういうとき、あまり口を挟まず、静かに話を聞くことにしている。アランはきっと何らかの言葉が欲しいわけでも、ましてや、同情されたいわけでもないはずだ。自分の中にある気持ちを整理し、それをあるべき場所へ仕舞い込む前に、少し言葉にしているだけなのだろう。
「そのときは俺より小さな子供も結構いたから、迷子にならないようにいつも手を繋がされてた。三歳くらいの子かな。途中で眠いだとか疲れただとか言い出して、騒いだり、泣き出したりするんだ。だから、そういうのを思い出すのが嫌で、誰かと手を繋ごうなんて考えたこともなかった」
アランはそう言うと、僅かに手を持ち上げて、自分と希佐の手をじっと眺めだした。
希佐がそれを静観していると、アランはほんの少しだけ口角を持ち上げて微笑する。そして、希佐の手ごとコートのポケットに押し込んだ。
「いつまでもそのときのことを引きずっているより、記憶を上書きした方が精神衛生上良さそうだ」
「そういえば、私も誰かと手を繋いで外を歩くのは、子供のとき以来かも」そう思い出したように言う希佐を、アランはそっと見下ろしていた。「アランと同じだね」
アランは、そう言う希佐をどこか眩しそうに見る。その反応に首を傾げると、アランは降参だとでもいうふうに、大きく肩をすくめてみせた。
「そういう些細な一言が、俺の心を救っているなんて言っても、君は信じないんだろうな」
「え?」
「俺ばかりが救われていて、フェアじゃない」
以前にも、これと同じ言葉を聞いた覚えがあるような気がすると、希佐は思う。しかし、そのようなことを話しているうちに、二人はコインランドリーにたどり着いてしまった。
まだ早い時間帯だからか、はたまた今年最後の日にまで洗濯をしようと考える者が少ないのか、人の姿は見られない。別々の洗濯機に衣類を放り込み、ほとんど同時に稼働させると、無言のままベンチに並んで腰を下ろした。
アランはポケットから小さなメモ帳と、希佐が三年前に贈った万年筆を取り出して、何かをすらすらと書きつけはじめる。希佐はスマートフォンで時刻を確認しながら、口を開いた。
「外で電話してきてもいい?」
「寒いよ」アランは手元に視線を落としたまま言った。「他に人もいないし、わざわざ外に出なくてもいいんじゃないの」
「でも……」
「日本にかけるんだろ」
「うん」
「聞かれたくないなら、俺が向こうに行くから」
「ううん、大丈夫」希佐はそう言って、立ち上がろうとするアランの腕を掴み、引き留めた。「ここにいて」
ロンドンは午前九時過ぎ。日本はそれよりも八時間進んでいるので、午後五時過ぎだ。ユニヴェールは冬休み期間中で、学校に残っている数少ない生徒たちは、クラスの仲間で連れ立って比女彦神社に行く計画を立てているのかもしれない。
希佐は中座秋吏の番号を呼び出すと、スマートフォンを耳に当てた。なかなか出ないので掛け直そうかと思いはじめた頃、コール音が途切れる。
『悪いが、今、少しばかり込み入ってるんだ。五分後にこちらから掛け直す』
「『えっ? あっ、はい、分かりました』」
ぷつん、と通話が切れたスマートフォンを耳から離し、希佐は大きな目を瞬かせながら、それを見下ろした。どこか厳しさを感じさせる声音にも聞こえたが、何かあったのだろうか。そう思っていると、アランが手元から顔を上げる。
「どうかしたの」
「込み入っているから、五分後に掛け直すって。誰かが年末のご挨拶に来ていたのかも」
「五分で掛け直すって言ってるなら、たいしたことでもないんじゃない」
「そうなのかな」
「とりあえず待ってみれば」
「うん」
しかし、五分が過ぎても電話は掛かって来ず、希佐のスマートフォンが鳴ったのは、それから十五分ほどが過ぎてからのことだった。ワンコール目で素早く通話ボタンをタップして耳に当てると、快活な笑い声が聞こえてきた。
『なんだ、そんなに俺と話をするのが待ち遠しかったのか?』
「『あ、いえ、校長先生の声が少しいつもと違っていたので、それが少し気になって』」
だが、今はいつも通りの朗らかな声音だ。自分の聞き間違いだろうと希佐が思っていると、中座は「ああ」と漏らす。
『卒業生が挨拶に来てたんだよ』
「『卒業生、ですか?』」
『お前もよく知ってる連中だ』中座は小さく息を吐いてから続けた。『今の今まで根地たちが来ていてな。正確には、根地、睦実、高科の三人だ。睦実が俺のところに挨拶に行くっていうんで、他の二人もせっかくだからってことでついて来たらしい』
希佐は一瞬息の詰まるような心地がしたが、すぐに気持ちを持ち直すと、肩の力を抜いた。
「『そうだったんですね』」
『興味があるなら話してやらんこともねぇが、お前も俺に話があるんじゃねぇのか? 年末の挨拶だっていうなら、そいつは殊勝な心掛けだが、そうじゃねぇんだろ?』
「『もちろん、年末のご挨拶もするつもりでした。でも、今日はそれよりも、校長先生にお知らせしておきたいことがあったんです』」
『ほう、良い知らせだといいんだがな』
「『良い知らせだと思います。場合によっては、悪い知らせになるかもしれませんが』」
紙を擦るペン先の音が聞こえ、希佐は何かを書き綴っているアランの手元に横目を向けた。しかし、アランのノートは流れるような筆記体の文字で埋め尽くされていて、希佐には何と書かれているのかを読み解くことができない。
『心の準備が必要そうだなぁ』
「『校長先生が身構えるようなお話ではないんです』」希佐が不意にアランの横顔を見ようと顔を上げると、丁度こちらを見下ろした緑の目と視線がぶつかった。「『……実は、先日参加したオーディションに合格して、ウエスト・エンドで行われる舞台の主演に選ばれました』」
『おい、そいつは本当か?』中座の声色が僅かに高くなる。『なんだ、めでたい話じゃねぇか。おめでとう、立花』
「『ありがとうございます』」
希佐は自分を見下ろしているアランと目を合わせたまま、電話口の向こう側にいる中座と話をしていた。奇妙な違和感が少しずつ頭をもたげて、ある瞬間、それが確信に変わっていくのを、希佐は確実に感じ取っていた。
『初日には招待してくれるんだろうな?』
「『え、校長先生、ロンドンまでいらっしゃるんですか?』」
『お前は俺が見初めた自慢の生徒の一人だ。そいつの晴れ舞台ともなれば、遠い異国の地だろうがどこへだろうが、出向くのが礼儀ってもんだろ』
「『本当にいらっしゃるおつもりなら、チケットの用意はしておきますが……舞台は全編英語ですけど、大丈夫ですか?』」
『舞台ってのは心で見るもんだから、大丈夫なんだよ』
冗談を言っているような口振りでもないので、どうやら本気のようだ。希佐はアランと目が合っているついでに、英語で話しかける。
「校長先生が舞台を見に来たいって」
「主演が日本人なら、日本語の音声解説くらい付けられると思うけど」
「『日本語の音声解説がつけられるかもしれないそうです』」
『そいつは朗報だ』
いや、違う。そうではないのだ。希佐が中座に話しておきたかったのは、このような話ではない。中座にもそれが分かっているはずだ。だがその上で、わざと話を逸らしている。
希佐はアランの膝に手をついてベンチから立ち上がると、その場で深呼吸をし、意を決して話し出した。
「『校長先生』」
『なんだ、改まって』
「『私はユニヴェールの先輩方や後輩たち、そして、ユニヴェール歌劇の舞台を愛してくれているすべての人たちを欺いて、三年間、ユニヴェール劇場の舞台に立ち続けました。でも、本当はずっと怖かったんです。私が本当は女であることが露見してしまったら、先生方や、理事会、何百年と続く玉阪座の看板に泥を塗り、傷をつけた上に、批判の的にされてしまうだろうということが』」
『……ああ』
「『私自身が咎めを受けるだけなら、いくらでも耐えられたと思います。罰を受ける覚悟はあったんです。でも、校長先生や江西先生、根地先輩、カイさん、フミさん、白田先輩、同期のみんな、可愛い後輩たち──自分の罪を認めよう、償おうと考えるたびに、みんなの顔が脳裏に浮かぶんです。私が自分を女だと告白すれば、大好きな人たちにも迷惑をかけてしまうことになると、そう思いました。だから、逃げ出したんです。私のことを誰も知らない土地へ行けば、ユニヴェールとの関係を完全に絶てば、私が女であるということは知られずに済むだろうと思って』」
なんて自分勝手で、自分本位な真似をしたのだろうと、今になって思う。
アランが前に、それが当時の立花希佐にとっては最善だと思える決断だったのだろうと、そう言ってくれたことがあった。確かにその通りだ。あの頃の希佐は、そうすること以外に選択肢はないのだと、そう思い込んでしまうくらいには、追い詰められてしまっていた。
「『安易な選択をしたと、今なら分かります』」
『あのときのお前が考えて、考えて、考え抜いて決めたことなんだ、俺はそれを安易だとは思わねえよ』そう言う中座の声は、酷く優しいものだった。『それに、お前をユニヴェールに招いたのは、他ならぬこの俺だ。お前をそこまで追い詰めてしまった、俺の責任だよ』
「『そうだったとしても、ユニヴェールに行くという選択をしたのは私で──』」
『前にも同じ話をしたよな、立花』少しだけ語気を強くした中座の声を聞いて、希佐は思わず黙り込んだ。『あの頃のお前はまだ子供で、俺はそれなりに歳を重ねた大人だった。だったら、責任を取るべきは大人である俺で、お前はその庇護下にあるべきだったんだよ。俺はもっと積極的にお前の話を聞いてやるべきだったし、お前が気軽に相談できるような環境を整えておくべきだったんだ』
「『校長先生……』」
『お前はもう十分に苦しんだよ、立花希佐』
「『え?』」
『お前はもう自由になっていい。好きなように生きていい。周りの目を気にして、隠れるように生きる必要はない』
「『でも、それでは──』」
『それはお前が自分自身の手でつかみ取った夢なんだろ』中座は希佐の言葉を遮って言う。『だったら、その夢を全身全霊で叶えてみせろよ。俺はまた、お前がでっけぇ舞台の真ん中で、眩しいくらいに輝いている姿を見てぇのさ。そりゃ、日本人が主役を張るんだ、こっちのマスコミは面白がって甘い蜜に群がる蟻みてぇに押し寄せてくるかもしれねぇが、そんなものは無視していい。全責任は俺が負う。それが、ユニヴェール歌劇学校の校長のけじめってやつだよ』
希佐だって覚悟を決めたのだ。マスコミに嗅ぎつけられ、ユニヴェールフォロワーたちに立花希佐の正体が知るところになり、すべての事実が白日の下に晒されることになっても、何事もなくすべてが終わりを迎えたとしても、正真正銘、これで最後にするのだと。
それが、立花希佐のけじめだ。
だが、それは話さない方がいいのだろうと思い、希佐は口を噤んだ。
『俺はな、立花。お前をずっと応援してるんだ』
「『はい。それは、知っています』」
『ユニヴェールを卒業した生徒の多くは、歌劇や演劇の世界を離れて生きていく。母体である玉阪座に入門できる人間は極々少数で、それ以外の劇団に入団することになっても、芽の出ない役者は多い。芸能界に入って俳優になる連中もいるが、それも一握りだけだ。ましてや、海外に出て行って成功する人間となると、片手で数える程度しかいねぇだろう。最近では、田中右宙為や加斎中がその筆頭だな』
「『田中右先輩は、やっぱり海外で活躍されているんですね』」
『一応玉阪座に在籍してはいるが、今は各国を転々としながら武者修行中だ。少し前に連絡を寄こしたときは、インドにいるとか言ってたが』
「『えっ、インドですか?』」
『あいつは一体何をやってるんだか……』中座は呆れた様子でそう漏らしてから、話を戻した。『田中右は別格としても、お前は何の伝手もなく海外に飛び出していって成功した稀有な例だ。相当な努力をしたんだろうし、お前のことを助けてくれる人たちにも恵まれたんだろうと思う』
「『それは、はい……』」
『俺はお前が誇らしい。田中右なんかよりもずっとだ。あいつには可愛げというものがねぇからな』
「『ありがとうございます、校長先生』」
『ああ、いや、なんだ……』中座は少しだけばつが悪そうに間を置き、小さく咳払いをした。『お前はもう十分に頑張ってるだろうから、頑張れとは言わねぇよ。思う存分、好きなようにやってくれ。立花希佐が男だろうが、女だろうが、役者であることに変わりはねぇんだ。性別なんてものは案外、些末な問題なんだよ』
詳しいことが決まり次第また連絡をしてくれと言って、中座は通話を切った。
希佐はその場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、通話の切れたスマートフォンをじっと見つめていた。しかし、洗濯機のブザーが鳴り響き、乾燥までの工程を終えたことが知らされると、ふと我に返る。
先に席を立ち、洗濯機に向かって歩いて行ったアランを、希佐は追いかけた。蓋を開けてほかほかの洗濯物を取り出すと、それを両腕で抱え、近くにある台の上まで運ぶ。
「……それで」希佐は洗濯物の熱を冷ましながら、口を開いた。「日本語の勉強はいつ頃から?」
「別に勉強したわけじゃない」
「でも、理解はしてるでしょ」
「日本の映画を観ているうちに、なんとなく。でも、言ってることがぼんやり分かる程度で、話はできない。正しく理解できているのかどうかも危ういし」
「ふうん」
「なに」
「なんでもない」
希佐は微かに笑みを浮かべ、首を横に振った。イギリスに住んでいるかぎり、日本語など学ぶ必要などないのに、それでも自分を通して興味を持ってくれたことに、希佐は小さな喜びを覚えていたのだ。いつか日本語で話をできたらと思うこともないが、きっと、そんな日は訪れないのだろう。
畳んだ洗濯物を袋に詰め、まだほんのりと温かいそれを抱えながら歩く道のりは、行きよりも少しだけ気持ちが軽かった。根本的な部分は何の解決もしていないが、中座が心強い肯定の言葉を贈ってくれたことで、自分はまた新たな舞台に挑戦してみてもいいのだと、そう思うことができたからなのかもしれない。
希佐は帰路を行く道すがら、途中にあるカフェでアランが買ってくれたココアを飲みながら、中座との会話を掻い摘んで話して聞かせた。希佐が話し終えるまで黙って聞いていたアランは、最後に一言──よかったんじゃないの、とだけ言った。
帰宅後、事務室の棚に押し込まれていたディスクの中から、希佐は何本かのフランス映画を発掘した。アランがノートにペンを走らせている隣で、食い入るように見たフランス映画は、語学を学ぶというよりも、純粋にストーリーを楽しむだけで終わってしまう。
「フランス語って耳に心地良いね」
「聞いてると眠くなるって言うイギリス人は多いな」アランはノートに何かのデザイン画を描きながら言う。「子供の頃から学校の授業で習っているはずなのに、イギリス人のほとんどはフランス語が話せない」
「日本もそうだよ。みんな同じように英語を学んでいるはずなのに、話せる人はあまり多くない」
「与えられた機会を生かせる人間か、そうじゃない人間かの違いだろ。まあ、イギリスも日本も島国だから、そこで世界が完結していると考える人間が多いっていうのもあるんだろうけど」
午後、夕方が近づいてきた頃、ノアとジェレマイアが連れ立ってスタジオにやって来た。
ジェレマイアとはもう半年以上も顔を合わせていなかった希佐は、扉から入ってくる姿を見るなり嬉しくなってしまい、大急ぎで駆けていく。突進してきた希佐を真正面から受け止めたジェレマイアは、嬉しそうに声を上げて笑った。
「熱烈大歓迎だな、キサ」
「元気だった?」
「そんなの見ればわかるでしょ」ぐりぐりと希佐の頭を撫でているジェレマイアを見上げ、ノアが鼻で笑う。「元気も元気。今朝なんて、僕が寝ている間に十五キロも走ってきたんだってよ」
「お前も誘ってやっただろうが」
「十五キロも走るなんて僕には無理」そんなことより、と言って、ノアが希佐に向かって両腕を広げてみせた。「僕にもハグをしてよ、キサ。一カ月ぶり? 違うか、二カ月ぶりくらいかな? ジェレマイアばっかりずるい」
「はいはい。ノアも久しぶりだね」
ぎゅうっと力一杯にハグをすると、ノアは盲目の少女のようにくすくすと笑った。
「思ったよりも元気そうで安心したよ。昨日は来てみたらそこのハンモックですやすや寝てるんだもん。あっ、そうだ、オーディション合格おめでとう、キサ」
「ありがとう」
「オレも観に行けるといいんだけどなぁ、キサの晴れ舞台」
「まだしばらくはアメリカなの?」
「少なくとも二、三カ月は向こうかな」
「そうなんだ」
「でも、まあ、毎日楽しくやってるよ」
「こんなでかい図体してるのに、あっちじゃ女の子たちにかわいいって言われるんだってさ」
「あっ、おい──」
「確かに、見た目はそう悪くないもんね。それに、イギリス訛りの英語は向こうじゃ受けがいいらしいし。いや、待てよ。僕だってアメリカに行けば、それなりにモテるんじゃない?」
「お前はパブで年上の女にちやほやされてるだろうが」
「お姉さんたちのことは嫌いじゃないけど、僕としてはそろそろ同年代の女の子と良い感じのお付き合いをしたいわけ。うーん、アメリカの大学に入り直すっていうのも手だなぁ」
こうして二人が言い合いをしている姿を見ていると、希佐はカオスの仲間たちと出会ったばかりのことを思い出す。以前の仕事を辞め、アパートを引き払い、スタジオに引っ越してきた希佐の荷運びを手伝ってくれたのは、この二人だった。
あれからもう三年もの月日が過ぎ去り、それぞれがそれぞれの道を歩き出しているというのに、その関係性は少しも変わっていない。それが友情で、仲間というものなのだとしたら、自分もユニヴェール時代の仲間たちと再会を果たしたとして、同じように接することができるのだろうかと、希佐は思った。
あの怒涛のような三年間を共に駆け抜けてきた仲間たちと、胸を張って向き合うことができる生き方を送ってきたと言えるのか。たとえ胸を張れたとしても、何も言わず、書置きすら残さずに消えた自分が、諸手を挙げて迎え入れてもらえるはずもない。そもそも、今更どの面を下げて会いに行けばいいのか、希佐には分からないのだ。
二階に移動し、三人で紅茶を飲みながらジェレマイアの土産話を聞いていると、間もなくしてイライアスとアイリーンがやって来た。アイリーンとは最終審査が終わってから、一度も顔を合わせていなかったが、不自然に思えるほどいつも通りだ。希佐の方が動揺を隠せずにいると、アイリーンはその僅かに引き攣った顔を見て、面白そうに笑った。
「なによ、キサ。もしかして、まだオーディションのことを気にしているの?」
「え、あ、その……」
「ちょっと、自惚れるのも大概にしなさいよ」
アイリーンは脱いだコートをイライアスに押し付けると、ハイヒールの踵をカツカツと鳴らしながら目の前までやって来る。そして、外の寒さで冷え切っている両手を持ち上げると、希佐の頬を押し潰すように覆った。
ああ、アランの言っていたことは本当だったと、その冷たい両手を感じながら希佐は思った。
「私、あなたに負けたなんてこれっぽっちも思っていないわよ。歌唱力なら私の方がまだ上なんだから、オーディションに合格したからって大きな顔をしないでほしいわ」
「アイリーン、キサは大きな顔なんてしてないよ」
「あなたは黙ってなさい」コートを椅子の背に掛けてくれているイライアスに向かって、アイリーンはぴしゃりと言う。「私に足りなかったのは演技力。そう、演技力よ。これからは演技力を伸ばすための努力を惜しまないって決めたの」
「そ、そうなの……?」
「そうよ。それでまた別のオーディションに挑戦するわ。いずれ私が舞台のど真ん中に立って、私の歌と演技で劇場中を蹂躙してやるんだから、今に見てなさいよ、スペンサー・ロロー──」
なぜここでスペンサー・ロローの名前が挙げられるのかと思っていると、希佐からアイリーンを引き剥がしにやって来たイライアスが、微かに眉を顰めながら口を開いた。
「スペンサーに自分とキサの何が違うのかを聞いたら、何から何まで違う、似ているところなんて一つもない、対極にいるような存在だから、言葉に表そうとすると君を酷評することになるけど構わないかって言われたらしい」
「うへえ……」希佐に代わって吐きそうな呻き声を漏らしたのは、ノアだった。「あの人、そういうことを平然と言う人だよね」
「でも、それって反対も言えるよな。アイリーンを褒めるとなると、キサを酷評することになる」
「スペンサー・ロローがキサを扱き下ろすものですか。あなたの才能にベタ惚れなのよ、あの人。キサには、舞台の歴史に名を刻んできた名女優たちと同じ色があるとか何とか言っていたわね。私はあの人の言い様に腹が立って、それ以上話を聞くどころではなかったのだけれど」
「名女優たちと同じ色って、何のことだろうね」
隣に座っていたノアが、希佐の顔を見ながらそう言って首を傾げる。希佐は分からないと言うふうに頭を横に振ると、ぷりぷりと怒っているアイリーンの様子を密かに盗み見た。スペンサーに対する文句をぶつけられているイライアスは、特に何とも思っていないような顔をして、それを静かに受け止めている。
こんなにもわいわいと騒がしいのは本当に久しぶりのことで、希佐はテーブルを取り囲む面々の顔を眺めながら、にこにこと機嫌良く笑って話を聞いていた。しかし、間もなく七時を迎える時間帯になってもバージルが現れないので、スマートフォンを片手に席を立つと、階段を下りていく。
バージルの連絡先を呼び出し、スマートフォンを耳に当てるのと、事務室から話し声が聞こえてきたのは、ほとんど同時のことだった。合わせて、スマートフォンの着信音が聞こえ、希佐は思わず首を傾げる。
階段を早足で降りていき、スマートフォンを耳に当てたまま事務室を覗き込むと、そこにはバージルとアランの姿があった。二人で何やら話をしていたらしい。話の邪魔をしてしまっただろうかと思い、希佐がそのまま引き返そうとすると、バージルがそれを呼び止めた。
「おい、どこ行くんだ?」
「……お話の邪魔かなと思って」
「別に込み入った話をしてたわけじゃねぇよ」ちょいちょいと手招かれて近づいていくと、机に頬杖をついていたアランは希佐を一瞥し、再びバージルを見上げる。「体の疲れは取れたか?」
「え?」
「お前、公演の後は多少なりとも体調崩すだろ。根を詰めていた分、気を抜くと一気にそのしわ寄せが来るからな」
「たくさん睡眠を取っているから、大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
「たまには何にもしない日があってもいいんだからな、キサ」
「何にもしない日?」
「日がな一日ごろごろしてたって罰は当たらねぇし、一日休んだところで体は衰えたりしねぇよ。こいつみたいに十年間も才能を錆び付かせてたら話は別だが、お前は肉体を苛め抜くのが趣味みたいになっちまってるからな。少しは体を休ませてやるってことも覚えていかねぇと、この先きつくなる一方だぞ」
希佐は、そうして気遣ってくれるバージルの言葉を聞いて、二人が寸前まで自分の体調について話をしていたのだろうと、そう察した。
「商業の舞台ってのは、小劇場の舞台とは訳が違う。単純にキャパシティの問題もあるが、それ以上にキャストに圧し掛かるプレッシャーが、これまでとは桁違いだ。特にお前は主演だからな、これからは舞台全体を引っ張っていく立場になる。締めるときは締めて、緩めるときは緩める、これができねぇと、途中で絶対に潰れる。そうはなりたくねぇだろ?」
「うん」
「体を動かしてないと不安になる気持ちは分かる。俺も昔はそうだった。一日休むと、急にダンスが下手になったような気がしちまうんだよな。でも、そんなことはあり得ない。一日前よりも下手に思えたなら、それだけ自分のダンスを客観的に見られるようになってる証拠だ。疲れたら休む。明日やればいいことを、今日やる必要はない。それに、体力を温存しておけば、もしものときに対応できる」
「もしものとき?」
「不測の事態だ。舞台は生き物だって散々言われてきただろ? 舞台ってのは、本当に最後まで何が起こるか分からない。とち狂った脚本家が、公演一週間前に本を書き直すなんて言い出すこともある。もしもそうなったとき、へとへとな状態じゃ対応しきれない。最悪、全員共倒れだ」
「言いたいことは分かるけれど、例が極端すぎない?」
「そう思うだろ? でも、今の話は俺の実体験なんだよ」げ、という顔をした希佐を見て、バージルは小さく息を吐いた。「体力は常に温存していろ。体調が悪いときは黙ってないですぐに言え。食事と睡眠時間は削るな。残酷なことを言うが、お前はド新人で、名前を知られていない上に、キャリアもない。これは商業の舞台において相当なリスクだ。なんでか分かるか?」
「知名度がないから、固定客を呼び込めない……?」
「まあ、そんなところだ。しかも、今回の脚本は完全にオリジナルなんだろ? 有名な演目ならいざ知らず、どんな話かも分からない新作の舞台で、しかも主演は名前も知らない日本人の女が演じるなんて、相当上手くプロモーションをしないかぎり、このイギリスじゃ観に行こうと思うやつの方が少ないだろうな」
「バージル」
「事実だろ」珍しく咎めるような声を上げたアランに向かって、バージルは冷ややかに言った。「周りはお前を守ろうとするだろうが、相当風当たりが強くなることは覚悟しておいた方がいい。スペンサーの舞台じゃ、稽古中にキャストの入れ替えだって起こり得る。いくらあいつがキサを気に入っていても、お前が原因で公演が失敗するかもしれないと思えば、もっと有名な舞台女優をキャスティングする可能性だってあるぞ。スポンサー様の意向ってのもあるしな」
「それはつまり、私は常に綱渡り状態にあるということ?」
こくり、と頷くバージルを見て、希佐は何度か小さく頷き返した。
希佐は日本を出てきてからの五年間、特にイギリスで過ごした四年間で、この国で生きる外国人の苦痛というものを、余すことなく経験してきたという思いがあった。最初の一年は、差別に次ぐ差別で、心が粉々に砕ける寸前まで追いやられたのだ。
カオスでの経験を経て、他所の劇団でゲストとして出演するようになっても、客席から差別的な言葉を投げつけられることは度々あった。だから、無名の外国人が演劇の王国で舞台に立つことの難しさは、身をもって知っている。
反応を窺うように顔を覗き込んでくるバージルに向かって、希佐は不敵に笑って見せた。
すると、バージルは僅かに身構える。何か手酷く言い返されると思ったのかもしれない。だが、希佐はその不敵な笑みを、ゆっくりと和らげていった。
「カオスの公演を観に来てくれる人たちって、基本的には礼儀正しいから、舞台に立つ人間から見れば、理想のお客さんだと思うんだ」希佐が突然そのようなことを言い出すと、バージルは思わずというふうに目を丸くした。「でも、それって不思議だなってずっと感じていたの。どうして野次の一つも飛んで来ないんだろうって。他の舞台では、絶対に一度はそういうことが起こるのに、カオスの舞台ではそれがまったくなかったから」
楽しい、楽しい、夢の舞台。演じているときは何ともなくても、そこを降りてしまえば目の前にあるのは現実世界だ。投げつけられた言葉は突き刺さり、公演が終わる頃にはいつも、心は針山のようになっていた。
舞台は楽しい。演じることは大好きだ。でも、百の称賛の声も、たった一人の口から発せられる心ない一言で、台無しになることを知った。見返してやると稽古に励み、再び舞台に立ったところで、口汚い野次は飛ぶ。乾いた笑い声は響く。
ああ、この人たちはきっと、自分の演技には微塵の興味もないのだと悟り、希佐は相手にすることをやめた。視界から消し去った。傷つくだけ無駄だと分かったからだ。すべての人々に受け入れられる必要はない。ほんの何人かが理解を示してくれるのなら、それでいいと。
「それって多分、メレディスがお客さんを選んでいたからなんだよね。ヘスティアのお客さんに良い人が多いのは、妙な言い方だけど、王様であるメレディスの管理が行き届いているからなんだ。公演のチケットは、舞台というものが本当に大好きで、カオスの舞台に興味を持ってくれていて、野次を飛ばさないような人を選んで売ってくれていたんだと思う。カオスの舞台を正しく評価してくれる、公平なお客さんにね」
「……確かに商業の厳しさっていうのはあると思うし、俺もそっちの舞台に立った経験はないから何とも言えないけど」アランは言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと先を続けた。「小劇場ってのも案外シビアだ。器が小さいが故に、舞台に立てば劇場の隅々まで見渡せて、客の囁き声まで聞こえてくる。ある意味、無法地帯だよ。商業の舞台じゃつまみ出されるような客だって、最後まで居座ってる。エールを飲みながらスナックを貪って、雑音を撒き散らすような連中もいる。そういう人間にとって、小劇場の舞台は真剣に見る価値もない、酒のつまみ程度の娯楽でしかないんだ。ヘスティアみたいに持ち込み禁止っていう劇場の方が多いけど、まあ、こればっかりは店の売り上げやら劇場の存続やらに関わってくる問題だから、強くは言えない。感覚としては、映画と同じなんだろうな」
「カオス以外の舞台に立たせてもらえるようになって、たくさんのことを学んだ。バージルの言う通り、私を招いてくれた劇団のために一生懸命になりすぎて、稽古中に体調を崩しかけたこともある。心無い言葉を投げつけられたことだってあるけれど、根拠のない批評はすべて雑音だと思えってジョシュアが言ったの。ああいう連中は役者崩れの性根の腐りきったゾンビみたいなものだから、気にするなって」
「性根の腐りきったゾンビ……」
希佐が口にした言葉をぽつりと復唱したアランは、僅かな間のあと、突然肩を震わせて笑い出した。それを見て唖然とした希佐とバージルは、思わず顔を見合わせる。
ぱち、ぱち、と瞬きながら希佐がその様子を見ていると、アランは滲んだ涙を拭いながら、気の抜けたような声を上げた。
「あー、久しぶりに笑った」ふう、と息を吐き、アランは微かに口角を持ち上げた。「言い得て妙だな」
ぐっ、と心臓を握られたような心地がして急に息苦しくなったのは、どうやら希佐だけはなかったようだ。隣に立っていたバージルは、信じられないものを目の当たりにしたという顔をして、視線を泳がせている。この三年間、ずっと一緒に暮らしてきた希佐ですら、こうして笑うアランの姿を見るのは、はじめてのことだった。
「バージルの言っていることは正しい。他の審査員たちもそれを懸念してた。ある程度名前が売れていて、知名度もあった方が、色んな意味で舞台が安定するって。でも、今回の舞台は、プロデューサーが最大のスポンサーだ。スペンサーが言うところの、パトロンってやつ。彼女がキサを気に入ったと言ったんだよ。彼女が大口の資金源だから、あとはもう誰も反対はできない。だから、良くも悪くも、キャスティングの変更はないだろうな」
「その人って、あの黒いヴェールの?」
「ああ」アランは短く頷く。「何か言われたの」
「え? ううん。一次審査の後に、頑張ってねって言われただけ。どうして?」
「いや、別に」
ほんの一瞬、希佐の目には、アランの表情が強張ったように見えた。しかし、そのことについて少し踏み込んで問おうとしたとき、がやがやとした話し声と、複数の足音が階段を降りてきた。
先陣を切ってやって来たノアは、そこにバージルの姿を見つけるなり、非難の声を上げる。
「ちょっと、来てるなら来てるって言ってよね。僕たちをいつまで待たせておくつもりだったの?」
「おう、悪い悪い」
「キサ、アランも、これからみんなで出かけるから、二人とも早く着替えてきなさいよ」
「えっ、出かけるって、どこに?」
「ヘスティアに決まってるじゃない」
それを聞いて、はあ、と特大のため息を吐いたのはアランだった。冗談ではないと言いたげなその様子を見たアイリーンは、腰に手を当て、凄みを利かせてアランを睨みつける。
「いいから、早く着替えてきなさい。キサ、アランを上まで引っ張っていって。誰が来てるか分からないんだから、ジャケットくらい羽織るのよ。毛玉だらけのニットだけはやめてちょうだいね」
新年を迎えて数日が過ぎた頃、挨拶もかねて顔を見せに行くつもりではいたが、まさか特別営業日に出向くことになるとは思ってもいなかった。アランは絶対に行きたくないという表情を隠そうともしていない。だが、こうしてカオスが勢揃いするのはほとんど一年ぶりだ。せっかくの機会を、無下にすることもできない。
「アラン、観念して着替えてこよう」
「行きたくない」
「ねえ、キサに優しく手を引かれて行くのと、うちのムキムキのゴリラに担がれて行くの、どっちがいい?」
そう言って、ノアはにこにこと楽しそうに笑っている。当事者にされてしまったジェレマイアは苦笑いを浮かべているが、担いで行くのもやぶさかではない様子だ。悪戯っぽく力こぶしを見せつけ、アランを誘っている。
「諦めろよ、アラン」
「そうそう、さっさと諦めなよ。僕たちがしつこいことは、君が一番よく知ってるでしょ」
そう急き立ててくるノアの声に眉を顰めながら、アランは億劫そうに立ち上がった。結わえていた髪を解き、変に癖のついた頭を掻きながら、階段の方に姿を消す。
「ほら、キサも」
「う、うん」
希佐が下から見上げると、アランはまだ階段をもたもたと上っているところだった。後ろから背中を押してキッチンまで連れて行くと、アランは嫌な予感はしていたんだと言って、自分の部屋に入っていく。
笑ってはいけないと思いながらも、希佐はくすくすと笑い声を漏らしながら、着替えるために自分の部屋に向かった。別段今のままの格好でも構わなかったのだが、アイリーンが着替えてこいと言うからには、何か良からぬ点があったのだろう。
一度は品の良いワンピースを手に取った希佐だったが、外の寒さを理由に、デニムの細身のパンツに手を伸ばした。黒いタートルネックのニットと編み上げのブーツをクローゼットから取り出し、ダイアナの店で購入したレザーのジャケットと合わせる。
鏡の前でゆるく髪を結い上げ、緑を基調としたタータンチェックのマフラーを巻いてから外に出ると、アランも丁度支度を終えて部屋から出てくるところだった。しかし、肝心のジャケットを羽織っていない。
「ジャケットは?」
「キサに貸したやつしか持ってない」
「あ、そっか。でも、あれはクリーニングに出そうと思って──」
「いいよ、そのままで」
取ってきてと言われて持ってきたはいいが、ダイアナの悪戯で素肌にまとったものを、そのまま返すのはどうかと思う。舞台に立ったあとで、少なからず汗もかいていたはずだ。
だが、希佐の頭の中でそうした葛藤が起きているとも知らずに、アランは面倒くさそうにジャケットを羽織った。その一瞬、匂いを嗅ぐような仕草を見たような気がして、希佐は思わず黙っていられなくなる。
「大丈夫? それ、臭くない?」
「……は?」
「汗、匂うんじゃないかと思って。スポットライトが、その、暑かったから……」
「別にそういう匂いはしないけど」
「でも、いま、匂いを嗅いで……」
「ん、ああ、まだバラの匂いが残ってたから」ほら、と寄せられた首筋には確かに、ほのかなバラの残り香が感じられた。「普通は消えるものなんだけど」
このままでいいと言いながら、アランはジャケットの上からアイボリーのコートを着た。黒いカシミアのマフラーを器用に巻くと、先端をコートの内側にしまい込んでいる。見るからにすらりとした完璧なスタイルの上に、もっさりとした赤毛の頭が乗っているのは何ともアンバランスだったが、希佐にしてみればそれが実にアランらしく感じられた。
「なに」
自分のことをじっと見ている希佐の視線に気づくと、アランは少しだけ機嫌の悪そうな声を出した。希佐はアランの正面に寄っていくと、両手を伸ばして前髪を掻き上げる。そして、露わになった不満顔を見て笑うと、つま先立ちになってキスをした。
「あなたは着飾っても素敵だけれど、私はいつものアラン・ジンデルの方がずっと好き」
「煽てても機嫌は良くならないと思うけど」
「あなたは煽てても喜ばないって知ってる」
「……もう一回」
「え?」
「もう一回キスしてくれたら黙って君についてく」
背中を丸め、ん、と顔を寄せてくる仕草に希佐は表情をほころばせると、両頬を包み込んだまま、言われるがままにキスをした。
ヘスティアの店内は吐き気がするほど混雑していた。店内は禁煙なのが唯一の救いだろう。古い木とアルコールの匂いが綯い交ぜになって、独特の香りを漂わせている。この匂いが不思議と嫌いになれないのは、幼い頃からこの場所に入り浸っていたせいなのかもしれない。
カオスのメンバーが揃ってヘスティアにやって来るのは、前の公演の打ち上げ以来だった。前の公演と言っても、それはもう一年以上も前のことで、遠い昔の記憶となりつつある。いっそのこと忘れ去られてしまいたいと思うこともあったが、このパブに足を運ぶたびに、決して忘れてはもらえないのだろうと思い知らされるのだ。
常連の多くはアランの過去を知っていて、まるで親戚の子供に声をかけるように、気安く言葉を投げかけてくる。そうした流れが面倒臭くて、アランはいつも客の少ない、月曜か火曜の閉店間際にやって来ることがほとんどだった。最近は更に酷く、開店前か閉店後に現れる、迷惑極まりない客へと成り果てていた。そんな自分を呆れながらも迎え入れてくれるメレディスの存在を、アランは相も変わらず偉大に思っている。
「おやおや、カオスが全員揃ってのご登場とは珍しいね」
ざわざわとざわめく店内の人波を抜けて、ようやくカウンターまでたどり着くと、機嫌の良さそうな笑顔を浮かべたメレディスが言った。
「おかえり、ジェレマイア。アメリカから帰っていたんだね」
「一週間後にはまた戻るんだけどな」
「君の成功は心から喜ばしく思うけれど、以前はよく見かけていた君の姿が店内に見えないと、僕が寂しくてね」
「うわー、出たよ、メレディスのセールストーク」ノアは隣に立っているジェレマイアを見上げ、けらけらと笑っている。「ちょっとときめいてるじゃん!」
「こんなふうに言ってくれるのがメレディスだけだからだろ! お前らときたら──」
「ああ、もう、うるさいなぁ。メレディス、僕はいつものエールね」
騒がしい仲間たちの一番後ろで、希佐は楽しそうにその様子を眺めている。隣にいるアランの眼差しに気づくと、美しく研磨したアンバーのような目を丸くして、僅かに首を傾げた。
「アランは何を飲むの?」
「スコッチ」
「私はどうしようかな」
「ギネスは」
「またそれって言われちゃうかなと思って」
「無理に変える必要はないと思うけど。俺だっていつもスコッチだし」
「好きなの?」
「いちいち考えるのが面倒臭いから」
ふうん、と相槌を打ちながら、希佐は自分と目が合ったメレディスに向かって、にこりと微笑みかけている。既に注文を終えて飲み物を手に入れたカオスの面々は、空いている席を探す旅に出たようだった。
「やあ、お二人さん」
「こんばんは、メレディス」
「こんばんは、キサ」メレディスは希佐を見て目を細めたあと、アランに目を向けた。「君がこの日にやって来るなんて初めてのことだね、アラン」
「他の連中に引きずられて来たんだ。あまり目立ちたくないのに──」その他の連中ときたら、毎度当然のように周囲からの注目を集め、大勢の視線をかっさらっていく。「別の席に行こうかな」
「そんなことをしたら、店中に君を呼ぶノアの大声が響き渡ることになると思うよ」それはそれで面白いことになりそうだけどと言ってから、メレディスは思い出したように続けた。「右奥の席にスペンサーが来ているよ。ジョシュアと一緒だ」
「ジョシュアと?」
アランと希佐は思わず顔を見合わせる。ジョシュアとは、昨日電話で話をしたばかりだ。もちろん、歌唱指導の件はまだ黙っているようにと言われているので、スペンサーには何の相談もしていない。
「珍しい組み合わせだね。何か仕事の話をしていたようだったけれど」
「口説き落とすつもりなんだろ」
「ジョシュアは人で仕事を選ぶタイプだからね。スペンサーとでは相性が悪そうだな」
「余計なことをしてくれるよ、まったく」
面倒だが、後で話を聞きに行った方が良さそうだとアランが思っていると、カウンターの前に一歩進み出た希佐が、メレディスに向かって指を二本立てた。
「スコッチを二杯」
「おい、キサ」
「今日は一杯だけにしておくから」
「では、ストレートとロックを一杯ずつにしようか」
「うん、ありがとう」
お待ちください、と言って酒の用意をしているメレディスの手元を、希佐はキラキラとした目で見つめていた。氷を四角く切り分け、更に丸く削られて行く様を、酷く興味深そうに眺めている。
「それ、私もやってみたかったな」
「教えてあげる前に君はここを離れてしまったからね」
メレディスは良く、希佐は働き者だと話していた。誰よりも早く出勤して開店前の掃除を率先して行い、一番最後まで残って店内の掃除をしている、と。その代わりに、予定の時間よりも早く終わったときは、ピアノとギターを教えてほしいと言って、メレディスから習っていたらしい。
スタジオ二階の倉庫に眠っていた古いギターを引っ張り出してきて、弦を張り替え、夜な夜な爪弾いていたこともある。薄い壁越しに聞こえてくるギターの音色と透明な歌声は、執筆の仕事で荒み切ったアランの心を、密かに癒してくれていた。
「一杯目はご馳走を、と言ってあげたいところだけど、今日のところはもらっておこうかな」
二杯分の料金を支払おうとしている希佐を止めに入るより先に、アランに向かって軽く目配せをしたメレディスは、差し出された紙幣を素直に受け取っていた。その代わりに、カウンターの内側に積み上がっていた小さな箱を手に取ると、それを希佐に向かって差し出している。
「合格おめでとう、キサ」
「え、あ、ありがとう」
「ただのチョコレートで申し訳ないけれど」
「ううん、嬉しい」希佐はチョコレートの箱を大切そうにジャケットのポケットにしまい、次いで二人分のグラスを受け取りながら、思い出したように口を開いた。「それとね、メレディスに聞きたいことがあるんだ。五分くらいで済むから、あとで少しだけ時間をくれる?」
「もちろん、いいとも」
いつも使っていた席はステージ脇の特等席ということもあり、既に使用されていたらしい。丁度カウンター近くに全員が座れるテーブルを確保すると、そこにイライアスだけを残して、他の者たちは途端に散り散りになっていた。
「ジェレマイアは友達を見かけたから挨拶に行ってくるって。バージルはダンサー仲間のところ。アイリーンは電話。ノアはいつも通り向こうで女の子と話してる」
実際、全員で足を運ぶ必要性など微塵もないのだ。仲間意識はあっても協調性のないカオスの劇団員たちは、結局のところ自らの意思に従ってのみ行動し、決断する。そう考えると、自分はまだ歩み寄ろうと努力しているだけマシな方だと、アランには思えた。
「イライアスは何を飲んでいるの?」
イライアスの隣に座りながら、希佐が問いかけている。そもそも酒が強くないイライアスは、酒気だけでも酔う人間なので、いつも炭酸系の飲料を飲んでいたはずだ。
「ジンジャーエール」
「ここのジンジャーエール、美味しいでしょう? 他のお店と違ってシロップを手作りしているから、生姜の味が濃いんだよ」
「そうなの?」
「ここで働いていたときに、仕込みを手伝わせてもらったことがあるんだ」
あえて希佐から離れた椅子に腰を下ろしたアランは、どうぞ、と言って手渡されたグラスに視線を落とした。琥珀色の液体が僅かに注がれたグラスを、ゆっくりと揺らし、傾ける。グラスを鼻に近づけると、木を燻したようなスモーキーな香りがした。
あからさまな機嫌の取られ方をしていると思う。好いた女性に気を使われた挙句、酒まで奢られてしまうというのは、何となく格好が悪いことなのではないかという気がして、アランは意固地になっている自分自身の機嫌を取ろうと、喉を熱くする液体を一口だけ口に含んだ。
「お、ついに振られたか?」
希佐とイライアスが楽しげに話しているのを横目に、テーブルに戻ってきたバージルが言った。アランの隣に座ったこの嫌味な男は、意地の悪い笑みを浮かべながら顔を覗き込んでくる。
「ダンサー仲間はもういいの」
「拗ねるなよ、ちょっと挨拶しに行ってきただけだろうが」
「誰も拗ねてない」
バージルはいつも辛口のエールを好んで飲んでいる。この男が酔いどれている姿は見たことがない。酒に強いのか、はたまた、酔うまで飲まない自制心の強さを持ち合わせているのか。
「キサのやつ、珍しいもん飲んでるな」
「奢られた」
「は? お前が?」
「うん」
「へえ」
そう言いながらバージルが興味深そうに見ていると、イライアスと話していた希佐ははっとしたような顔をし、そちらに顔を向けた。
「バージル、ハンナは元気?」
「ああ、元気だよ」
「今はひとりでお留守番しているの?」
「今日は夕方からヘレンの家に遊びに行ってる。明日は朝から郊外のドッグランに行くんだとさ」
「じゃあ、今夜は寂しいね」
「まあな。でも、明日の朝は気兼ねなくランニングをサボれる」
「結局同じ時間に目が覚めると思うよ」
「習慣になっちまってるからな」
自分以外の誰かと話をしているとき、希佐はいつも自分には見せない表情を浮かべていると、アランは思っていた。イライアスと向き合っているときと、バージルと向き合っているときの顔も、不思議と違う。希佐は様々な顔を使い分けて、一人一人と対峙する。
例えば、イライアスと共にあるときは、その手を引いて道を示し、導いていくような雰囲気があった。バージルの傍では、従順で、素直な一面を垣間見せる。バージルのことを心から信頼し、尊敬しているのがよく分かった。ノアとはまるで同性の友人同士のように。ジェレマイアとは兄と妹のように。アイリーンとは、面倒見の良い姉と世話の焼ける妹のように。
相手に合わせて自在に自分を変えていく。それが人間として正しいことなのかは分からない。だが、多種多様な役柄を演じる上で、助けになっていることは間違いないのだろう。
「ちょっと聞いてよー」二杯目のエールを手に戻って来たノアが、希佐の隣にどっかりと腰を下ろしながら、憤慨したように言った。「さっき話してた女の子、僕がカオスの劇団員だって言っても信じてくれないんだ。イライアスとバージルのことは知ってたのに」
「そりゃお前、当然だろ。二人とは活動範囲が違うんだから」
「その子たち、ジェレマイアのことも知らないって言ってたよ」
「オレはアメリカに行ってたし」
はは、と笑い声をあげながら、ジェレマイアがノアの隣に座る。間もなくすると、電話を終えたアイリーンが、買い直した飲み物を手にテーブルに戻ってきた。空席は一つだけだ。複雑そうな顔をして立っている姿を一瞥したアランは、小さく息を吐いてから、自分の隣の椅子を引いてやった。
「座ったら」
「……あなた、そういうところよ」
後でキサに怒られても知らないんだから、と言いながら、アイリーンはアランが引いた椅子に座った。赤ワインの入ったグラスをコースターの上に乗せ、ふう、と息を吐く。グラスの足に添えた左手の薬指に、きらりと輝くものを見つけるが、アランは何も言わなかった。
「キサにはもう伝えたの?」
「なにを」
「イライアスのことよ」
「俺からはなにも」
「えっ?」アイリーンはぎょっとしたような声を上げてアランを見る。「誰かが言ってあげないと、自分からは何も言わないわよ」
「いいんじゃないの、別に」
「何を言っているの、よくないに決まっているじゃない」
「君だって伝えてないだろ」
「なにをよ」
アランは僅かに間を置いたあと、スペンサーとジョシュアがいるテーブルの方を一瞥した。
「スペンサーから役をもらったって聞いてるけど」
「ええ、もらったわよ。でも、私は意地が悪いから、顔合わせの日までは教えてあげないの」アランがウイスキーで唇を湿らせながら隣を見ると、アイリーンはすぐに視線を逸らした。「いいわ、認めてあげる。私、悔しいの。だから、これはあの子に対する当てつけです」
「キサの前では格好つけてたのにな」
「うるさいわよ、ジェレマイア」
「へいへい」
こうして、誰も彼もが当然のように前へ、前へと進んでいく。たとえ一度は歩みを止めたとしても、再び歩き出すのだ。自分の夢へと向かって。
『アランの夢は、なに?』
希佐にそう問われたときのことを思い出す。アランはこの質問に答えられなかった。すぐに思い浮かぶ夢などなかったからだ。だが、自分には夢などないと、否定することもできなかった。
人間の歩みは、それを止めている時間が長ければ長いほど、次の一歩を踏み出すことが困難になっていく。どうしても現状に甘んじてしまうのだ。挑戦よりも安定を望んでしまう。今の自分には何の不満もない。平穏無事に生きられているのだから、と。
自分は一本の木に徹して生きていこうと、そう考えていた。才能豊かな仲間たちの止まり木となって、自分の代わりに夢を叶えてくれたなら、それで満足だと思っていた。
でも実際には、そう言い聞かせていただけだった。自分すらそう信じていると思い込ませるほどの、強い暗示にかかっていた。本当は、諦めることなどできていなかったのだ。自分の理想の姿を簡単に飛び越え、それ以上のものを見せ続ける、遠い異国の地から現れた妖精と出会わなければ、この暗示が解けることはなかったのだろう。
ステージの下には店側が用意した弦楽アンサンブルの楽団が控えている。飛び入りの歌手やダンサーが代わる代わるステージに上がり、度胸試しのように歌やダンスを披露していた。
希佐は座っていた椅子をステージの方に向けると、食い入るようにそれらの出し物を見つめていた。時おり、隣に座っているイライアスと意見交換をしながら、あれこれと語り合っている。
「さっきステージで朗読していた子」希佐は肩越しに振り返ると、アイリーンを見た。「一次審査のときの2番の女の子だったね」
「あら、そうだった?」
「うん。本当に素敵な声。存在感もあるし、他にいないタイプの人だったから、絶対に二次審査には残ると思っていたのに」
その希佐の言葉に、アランは思わず瞠目した。
2番の審査は散々だった。開始数分で台詞を間違え、早々に摘まみ出されたからだ。だが、アランはもう少しだけ、その演技を見ていたいと思っていた。希佐の言う通り、彼女の声は驚くほど魅力的で、聞く者の心を陶酔させる。少女のような外見でありながら、冷めたような表情が忘れられず、アランは一次審査終了後すぐに、スペンサーに救済処置を申し出ていた。
「あの子は今回の舞台にキャスティングされたよ」
何の前触れもなく現れたスペンサー・ロローが、希佐の言葉を受けてそう言った。反射的に立ち上がった希佐に向かって、やあ、と気安げに挨拶をしたスペンサーは、そちらに向かって歩いて行く。
「いやあ、今日はいつもと随分雰囲気が違うから、すぐには君だと気づかなかったな」
「あ、あの、こんばんは……」
「はい、こんばんは」スペンサーは不躾なほどの視線を希佐に向け、その体を上から下まで舐めるように眺めている。「君、本当に着るもの一つで雰囲気ががらりと変わるね。最終審査のときも思ったが、衣装映えをするタイプだ。これはうちの衣装部が張り切るぞ」
写真を撮らせてもらっていいかと言いながらスマートフォンを取り出したスペンサーは、希佐が何かを言うより先に、カシャカシャとその姿を記録に収めている。希佐は困惑した様子で苦笑いを浮かべていたが、衣装部に送る写真ということもあり、黙って立っている方を選んだようだ。
「スペンス」アランがため息交じりに声をかける。「それくらいにしてやって」
「ああ、すまない」
手にしたスマートフォンをポケットにしまい、希佐を椅子に座らせたスペンサーは、その隣にいるイライアスを見下ろした。
「やあ、イライアス」じっとステージを眺めていたイライアスは、スペンサーをぼんやりと見上げると、僅かに頭を上下させる。「もうキサには伝えたのかい?」
「いえ、まだです」
「どうしてまた」
「どう切り出そうかと思って」
「……あの、何のお話でしょうか」
アランの隣では、アイリーンが「もう」と苛立たしげな声を上げている。さっさと伝えないからこういうことになるのだと漏らし、空になったワイングラスをホールスタッフに渡すと、席を立った。
「アランも飲む?」
「ああ」そう言って、ポケットから取り出した紙幣をアイリーンに手渡す。「これで君の分も」
「ごちそうさま」
アイリーンは指先に挟んだ紙幣をひらひらと振りながら、カウンターに向かって歩いて行った。テーブルに視線を戻すと同時に、えっ、と驚く希佐の声が聞こえ、アランはそちらに目を向ける。
「イライアスが相手役、なんですか?」
「そうだよ。実は、女優役とは別に相手役のオーディションも行っていたんだ。当初のキャスティングを白紙に戻してね」
「そう、だったんですね……」
あまりのことに言葉を失っている希佐を見て、イライアスは言葉を探しているようだ。いくらかの沈黙の後、希佐の目をまっすぐに見つめて静かに語り出した。
「キサが雨の中、スタジオの前に立っていた日に、アランからオーディションの話を聞いたんだ。急な話だったし、他の舞台が決まりかけていたんだけど、また君と組みたかったから、そっちの話は蹴った」
「え、でも、私と組めるかどうかなんて……」
「君なら合格すると思ってたから」
「だけど──」
希佐はおそらくアイリーンの名前を出そうとしたが、すぐに口を噤んだのだろう。小さく頭を振ると、大きく息を吐き出す。瞬時に思考を切り替える様子が見て取れるようだった。
「ごめんなさい。まさか、イライアスと組むことになるなんて思ってもみなかったから、驚いてしまって」そう言って満面の笑みを浮かべた希佐は、イライアスと向き合うと、その手を取った。「これからもよろしくね、イライアス。それから、合格おめでとう」
「うん、キサも」
一度カオスの舞台で組んでいる二人だ、互いのことはそれなりに理解している分、パートナーとしての信頼関係を築く手間がはぶけることになる。アランにしてみれば出来すぎたシナリオだが、初めての商業の舞台だ、多少は横着をしても許されるだろう。そもそも、アランはオーディションに参加させる役者を推薦し、審査しただけで、キャスティングに口出しをしたことはなかった。
普段はほとんど感情を表に出さないイライアスだが、相手が希佐ならば話は別だ。良い相乗効果を生み出せればいいがと思いながら二人の姿を見守っていると、そういえば、と言うスペンサーの声が聞こえてくる。
ああ、これは、何か良からぬことを画策しているときの声色だと、アランはすぐに察した。
「君は以前、ここのステージで歌を披露したことがあるらしいね」
「あ、はい。二度だけですが」
「一度目はアラン・ジンデルとのデュオだったと聞いたよ」
「ああ、はい」希佐も悪い予感を覚えはじめたのか、徐々に声を小さくしていく。「あれは、その、成り行きで」
「それを是非ともお聞かせ願いたいのだが、今日のところはやめておこう。向こうにいる脚本家先生が、ものすごい形相でこちらを睨んでいるからね」
にやり、と不遜に笑う顔を見て、アランはこの話がまだ終わっていないことを確信する。今の会話はただの口実で、核心は別の場所にあるのだ。スペンサーが希佐に何をさせようとしているのかを察したアランは、横から口を挟もうとするが、目の前に現れた手の平がそれを止めた。
「過保護だって言ってるだろ」バージルはアランの髪を掴み、頭を軽く揺さぶった。「放っておけよ。嫌なら自分でそう言うんだから」
「俺を出汁に使えば希佐が断れないと知っててやってるんだ」
「たとえそうだったとしても、お前はそこで黙って見てろ。好きなようにやらせてやれ。これから先、どう生きていくのかを決めるのはあいつ自身だ。オーディションを受けると選択した時点で、あいつはお前の手から離れて、その先に行くことを選んだんだよ」
手を引いて歩いてやらなければ危うかっただけの存在が、いつしか隣に並び、共に歩いて行きたいと思える人になった。このときが永遠に続けばいいのにと思うほどに、その願望があまりに非現実的だという事実を思い知らされ、愕然とする。アラン・ジンデルがもたもたと足を止めている間に、立花希佐はその手を振りほどいて、先へ、先へと行ってしまう。
「つい先ほど、その辺りでマクファーソン兄弟に会ってね。君がレ・ミゼラブルの夢やぶれてを披露したという話を聞いたんだよ」
「それも、もう三年も前の話ですが……」
「君自身がこの三年でどれほどの進化を遂げたのか、気にならないかな」
「進化、ですか?」
「私は大いに興味がある」スペンサーはそう言うと、座っている希佐に向かって自身の右手を差し出した。「では、今回は私が君にリクエストをしよう、キサ。それに、これだけ舞台関係者が集まっている中で注目を浴びれば、次の舞台の宣伝にもなる」
「いやお前、それが一番の目的だろ」
すかさず鋭い突っ込みを入れたバージルを見て、スペンサーは当然だという顔をして笑う。舞台を成功させるためには、手段を選ばない男だ。同業者たちは常にアンテナを立てている。新たなスターの気配を感じれば、黙ってはいない。
アランの中ではいつも、この宝石を大勢の人々に見せびらかしたい気持ちと、宝石箱に閉じ込めて、自分だけのものにしておきたいという思いがせめぎ合っていた。希佐が喝采を浴びるたびに、酷く誇らしい気持ちになった。
立花希佐は、拍手の音が大きいほどに輝きを増す、天性の舞台人だ。舞台の上に立つことを運命づけられ、この世界に生まれてきたのではないかと、そう思ってしまうほどに。
「……」
希佐はしばらくの間、黙り込んでいた。しかし、意を決したように顔を上げると、スペンサーの右手を取る。大きく口角を持ち上げたスペンサーは、希佐の手を力強く引き上げた。
「キサ、いいの?」
「うん」イライアスの問いに、希佐は笑う。「度胸試し、行ってくる」
希佐がアランを振り返ることはなかった。演出家に連れられて、ステージの方へと歩いて行く。テーブルに頬杖をついてその背中を見送っていると、スペンサーと入れ代わりでやって来たジョシュアが、あーあ、と声を上げた。
「ぼくの歌姫、骨の髄まで吸い尽くされなきゃいいけど」
「引き受けることにしたの」
「うん、あんなのにキサを預けるのは心配だから」アランの言葉に、ジョシュアは頷いた。「ぼくもちょっと行って来ようっと。あの子のボイストレーナーとしては、助言の一つや二つしてあげないとね」
じゃあね、と言ってアランの肩を叩き、ジョシュアは早足でステージに向かう。
ステージの下にいる楽団と打ち合わせを終えると、希佐とジョシュアは声出しのためにスタッフルームに向かったようだ。一人戻って来たスペンサーは、先程まで希佐が座っていた椅子に腰を下ろし、さて、と口を開いた。
「お叱りの言葉があるなら聞こう」
「キサに何を歌わせるつもりなの?」さすがに空気を読んで静観していたノアが、もう我慢できないとばかりに言った。「夢やぶれて?」
「同じ歌では芸がないだろう?」
「まさか、On My Ownを歌わせるつもりじゃないでしょうね」
どん、とカウンターで受け取ってきたスコッチのグラスをアランの目の前に置き、アイリーンが言った。自分のワイングラスは手に持ったまま、正面に座っているスペンサーを睨みつけている。
「御明察だよ、アイリーン」
「嘘でしょ」ぞっとしたようにそう言ったアイリーンは、立ったままアランを見下ろした。「ちょっと、歌わせていいの?」
「彼女がいいなら」
「え、なに、On My Ownって歌っちゃいけないの?」
「だって、あの歌は──」
アイリーンはそこまで言ったところで、不意に口を噤んだ。そして、話すことすらやめてしまう。
「えっ、ちょっと待って、どういうこと? 全然分からないんだけど」
ノアは答えを求めるように周囲を見渡すが、どこからも返事は得られなかった。
On My Ownは夢やぶれてと同様、レ・ミゼラブルの劇中歌だ。1985年10月28日から今日に至るまで、ロングラン公演中の舞台。今、この店に集まっている者の中に、この舞台を知らない者はいないだろう。
ノアとジェレマイアがこそこそと話している他は、まるで葬儀のように静まり返った空気の中、アラン、アラン、と呼ぶ声が近づいてくる。その声に振り返ると、早足でやって来た希佐が、アランの腕を掴んだ。
「コートを貸して」
「……コート?」
「うん」
希佐はアランが着ていたコートの襟を掴むと、それを引っ張った。訳が分からないまま袖から腕を抜くと、希佐は自分が着ていたレザーのジャケットを脱ぎ、それをアランに渡す。
「それ、どうするの」
「着るの」
そう言うと、希佐はアランの目の前でコートに袖を通した。見るからにサイズが合っていない。まるで父親のコートを羽織っている子供のようだ。しかし、アランはその姿を見ると同時に、希佐が意図していることを理解した。
「キサ」
「ん?」
「俺のことは気にしなくていい」
「……うん」
「楽しんで」
「ありがとう」
丁度休憩を挟んでいたらしい楽団のメンバーが定位置に戻っていく。希佐はそこに駆け寄っていって、日本人らしい礼儀正しさで頭を下げていた。歌唱指導を終えて戻って来たジョシュアは、近くのテーブルから空いている椅子を引きずってくると、アランとバージルの後ろ辺りに腰を下ろした。
「さあて、どうなるかな」
「ねえ、これって大コケしたら相当マズいんじゃないの?」
「そうだねぇ」ノアの言葉に、ジョシュアは否定することなく乗っかった。「相当にマズいね」
ふう、と息を吐いたアイリーンを横目に見ると、酷く強張った表情を浮かべていた。アランに見られていることを察しているのか、自らの腕を抱きながら、僅かに震える声を出す。
「私、キサにあの歌を歌わせたくないのよ」ぶるりと身震いをするように、アイリーンは肩を震わせた。「だって、すごく恐ろしいんだもの」
恐ろしいという言葉に興味を引かれたらしいスペンサーが、ステージに向けていた目でアイリーンを見た。その顔付きは既に一演出家そのもので、普段の胡散臭いくらいに人好きのする笑みは、消し去っている。
「君は彼女が歌うのを聞いたことがあるのかい?」
「あるわ」
「そのときはどうだった?」
「エポニーヌだった」
三年前、アイリーンは希佐に何枚ものCDを押し付け、それを課題と称して、一曲ずつ歌わせていたことがあった。夢やぶれてやOn My Ownはその中の一曲で、アランが稽古でよく耳にしていたのは、夢やぶれての方だった。だから、希佐が歌うOn My Ownを聞いたことはない。
希佐はステージに上ると、自らの手でマイクスタンドの高さの調節をはじめた。ステージの下を覗き込み、楽団の準備が整ったのを確認すると、マイクのスイッチをオンにする。とんとん、と指先で叩くと、店内中にこもった音が響いた。その音に誘われ、席について談笑していた客たちの多くが、ステージに目を向ける。
「ええと」Well──と言いながら、希佐は店内を見渡し、続く言葉を探していた。「キサです。劇団カオスに所属しています。以前はヘスティアのフロアを駆け回っていたので、知ってくださっている方もいるのではないかと──」
「おい、オーディションの面接かよ」どこかの誰かが笑いながら、ステージに向かって野次を飛ばした。「さっさと歌え!」
どっと笑い声が上がり、それが連鎖していく。雰囲気は実に最悪だ。それでも、ステージ上の希佐は落ち着き払っていた。緊張どころか、動揺すらしていない。どれだけ待っても静まることはないと察したのか、ステージ下に向かって「お願いします」と言うと、マイクスタンドの前で呼吸を整えた。
アレンジした前奏をヴァイオリンが奏でたその刹那、希佐の表情ががらりと変わった。途端に立花希佐が姿を消し、全くの別人が顔を覗かせる。
「ほら」アイリーンは鳥肌の立った両腕を撫でさすっていた。「なんなのよ、これ。まだ歌ってすらいないのに」
語るように歌う、歌い出し。それはまるで自分の話をして聞かせているようだった。
愛した男と共に歩く夜の町を思い描いている、叶わない恋をしていたエポニーヌ。だが、希佐は叶わぬ恋をしていたわけではないのだろう。それでも、この歌が描く世界観のすべてを、余すことなく、その歌声に乗せている。
そう、それは。
「……エポニーヌ」
アイリーンが恐ろしいと称した気持ちがよく分かる歌声だった。酷く透明感のある声音が、現実と想像を行き来する様子を、巧みに表現していた。彼女の唇が、彼が側にいてくれるようだと言えば、そこに確かに感じられる。彼女を抱き締めている温もりすら、実感できる。その歌声だけで。
いつの間にか、店内は水を打ったように静まり返っていた。誰もが彼女の歌声に耳を傾け、ステージに釘付けになっている。だが、ステージに立つ彼女の目は、そのどこにも向けられていない。遠い、遠い、どこか別の遠い土地に、思いを馳せているのだ。
「まだ二十三歳だよ」もう笑うしかないというふうに、ジョシュアが漏らした。「どんな生き方をして来たら、こんなふうに歌えるようになるのかな」
立花希佐の歌声には、強い幸福感がある。歌えることが幸せで堪らないのだという多幸感だ。だが、実際にはそれだけではない。希佐の歌が聞く者の心を強く惹き付けるのは、その歌声に、ある種の闇を感じるからだ。
「どんな生き方をして来たら、あの透明な歌声に、こんな絶望と喪失を込められるんだろうね」
日本を離れて五年が過ぎた今も、希佐の思いは何一つ変わっていないのだと、それを証明する歌だとアランは思う。ロンドンの夜の町を、たった一人で彷徨いながら、エポニーヌと同じように、愛する誰かと寄り添い歩く姿を思い描いていたのだろう。ただ、その思いに縋って、一人きりで生きていたのだ。暗闇に向かって、決して届くことのない愛の言葉を囁きながら。
希佐が愛していると歌ったそのとき、アランはそれを見た。アランだけが、その意味を正しく理解することができた。かつて赤いミサンガが結ばれていたその左手首を、強く握りながら愛を歌う姿はまるで、まるで……。
歌が終わると同時に、空気が震えるほどの歓声と拍手が、店内に巻き起こった。アンコールを求める声が繰り返されている。立花希佐はいつだって完璧以上のパフォーマンスを披露した。そして今夜も、彼女の歌声は人々をここではないどこかへと連れて行く。
深く、深く息を吐き出す。沈黙が恐ろしい。だが、そっと瞼を下した次の瞬間、怒涛のような拍手と歓声が、正面から希佐の体をステージに押し戻した。音と音とが衝突し合い、ぐわん、ぐわん、と空気が共鳴している。
一瞬、頭が混乱しかけた希佐は、助けを求めるように視線を彷徨わせるが、見知った顔を見つけることはできなかった。無意識に握り締めていた左手首から手を放し、自らの体を抱くように、コートの袖を強く握る。
眩暈を覚え、ふらりと倒れそうになった体を支えようと踏み出した足が、コートの裾を踏んだ。寸前のところでマイクスタンドに手をかけ、何とか事なきを得る。ステージの下でヴァイオリンを弾いていた女性が心配そうに立ち上がるのを見て、希佐は大丈夫だと笑みを浮かべてみせた。
「アンコールは用意している?」
「えっ、アンコールですか?」歩み寄ってきたその女性と話をするために、希佐はステージの端でしゃがみ込む。「何も考えていませんでした。まさか、アンコールなんて、そんな」
「だけど、このままだと収まらないわよ、これ」
それでも、希佐はこのままステージを降りようと、そう思った。だが、ステージの目の前で、自分をスマートフォンで撮影している人の姿を見て、不意に思い直す。
希佐はもうずっと前から知っていた。でも、知らないふりを、気づかないふりをしてきたのだ。
イギリスに来て、こうしてステージに立つたびに向けられる、無数のレンズ。無許可で撮影された映像は動画共有サイトにあげられて、不特定多数の人々の目に触れている。それを止めることはできない。ユニヴェールにいた頃から、そうだったから。
いつかきっと、それがかつての仲間たちの目に触れる日が来るのだろうと、そう思うのだ。
「どうする?」
「じゃあ……」希佐は後ろを振り返り、ピアノを指した。「ピアノを使います」
「弾き語り?」
「はい」
「何か手伝えることはあるかしら」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
がんばって、と言った女性は、ヴァイオリンを手に自分の席へと戻っていく。
その場にすっくと立ちあがった希佐は、スタンドからマイクを取り外し、ゆっくりとピアノに歩み寄った。時々、教会に行って子供たちと歌の練習をしておいてよかったと思いながら、卓上スタンドにマイクを設置する。
希佐が椅子に腰を下ろすと、騒がしかった店内が徐々に静かになっていった。指の体操をするように手をいくらか動かしてから、マイクから外れた場所で小さく咳払いをする。天井を振り仰ぎ、大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。
忘れたように日々を生きてきた。でも、本当は忘れたことなどない。あの輝かしい日々があったから、今の美しい日々がある。あの人がいてくれたから、こうして今も生きている。あの人の背中が教えてくれたこと。ただ突き進んでいく。逆境など諸共せず、ただ、まっすぐに。
奏でるピアノの音色に、遠い異国の言葉を乗せて、どうかどうか、遠くまで飛んでいけ。私は今もまだ、あなたの幸せを心から願っていると、歌声に込めて。
アンコール前の不安な感情は、いつの間にか消えてなくなっていた。だからだろう、ピアノの最後の音色が、余韻を残して消えたあとに訪れた沈黙を、今度は不思議と恐ろしくは思わない。鍵盤の上に乗せた左手首を見下ろすと、自然に笑みがこぼれる。
私は幸せだ。
だから、どうか、あなたも幸せであってほしい。
『ありがとうございました』マイクに向かって、日本語で感謝の言葉を述べたあと、希佐は更に続けた。「Thank you very much, Merci beaucoup」
椅子から立ち上がり、コートの裾をスカートの裾のように持ち上げてお辞儀をすると、あたたかな拍手が送られる。一番前の席で、スマートフォンを構えたまま口をあんぐりと開けている青年と目が合った希佐は、ふわりと微笑みかけながら軽く手を振った。
ステージを降り、楽団の人たちに感謝を伝えてから、希佐はそのまままっすぐに、仲間たちがいるテーブルに向かった。喧騒が戻りつつある店内の人波を掻き分けて進み、そこに到着してすぐ、アランの姿がないことに気づく。
「あれ、アランは?」希佐が問うと、アイリーンが外を指した。「外?」
「風に当たってくる、ですって。念のために言っておくと、あなたの歌は最後まで聞いていたわよ」
「……そう」
人の心の機微に敏感な人だから、自分の歌を聞いて思うところがあったのかもしれないと、希佐は思う。道路に面したガラス窓の外を見ようと試みるが、カウンターの前を行き交う人々が壁になって、外の様子を窺い見ることはできなかった。
「本物のエポニーヌがここに来ていなくてよかったよ」テーブルを挟んだ向こう側で、スペンサーがこそっと囁くように言った。「あんなものを見せられたら、きっと嫉妬に狂っていただろうからね」
「まさかアンコールをしてもらえるとは思っていなくて」
「それに値する素晴らしい歌唱だったとも」
「ありがとうございます」
希佐はそう言いながらも、やはり外が気になって仕方がない。
そうしてそわそわとしている様子を目に留めたバージルは、先ほどまでアランが座っていた椅子から希佐のレザーのジャケットを放ると、犬を追い払うような仕草で手を振った。
「ほら、人が集まり出す前にさっさと行ってこい。残りの宣伝作業は演出家先生に任せておけば上手くやるだろ」
「まあ、現段階で脚本家のご機嫌は損ねたくないね。なにせ書き直しの指示を出している最中だ、最高の仕上がりのためには、ミューズの存在は必要不可欠だろう」
引き留められるかと思いきや、スペンサーは希佐に向かって、気軽げに言っておいでと言う。
失礼しますと詫びてから、希佐はくるりと踵を返した。誰かが「やれやれ」と呆れたように言う声が聞こえてきたが、振り返らずに進む。途中、名指しで呼び止められたが、失礼を承知で聞こえなかったふりをした。
店の外に出て周囲を見回すと、アランはいつぞやの街灯の下に立っていた。
辺りに人通りはない。曇天の空は月を隠すどころか、今年一番の寒さに合わせて、ちらちらと雪を降らせはじめている。街灯に寄りかかり、風に舞う雪を眺めている姿すら美しいと褒め称えたら、アランは酷く怒るのだろう。
「アラン」希佐がそう声をかけて歩み寄っていくと、アランはこちらに顔を向けた。「そんな格好で外にいたら風邪を引くよ」
寒がりのくせにと言いながら、希佐は借りていたコートを脱いだ。アランは差し出されたコートを受け取りはするものの、それを羽織ろうとはしない。視線を再び宙に逃がすと、風にあおられる雪を、ぼんやりと眺めていた。
やはり、今はそっとしておこう。そう思って引き返そうとすると、後ろから伸びてきた手が希佐の右手を掴む。足を止めて振り返れば、風にあおられた前髪の向こう側から、思いのほか切実な眼差しが向けられていたことに気づいた。
目を伏せて小さく吐息を漏らした希佐は、もう一度アランの傍によると、その顔をまっすぐに見上げる。
「私、ロンドンに来て初めて見た舞台が、レ・ミゼラブルだったの」
「うん」
「詞に共感してしまって、エポニーヌの歌を聞くためだけに、何度もあの舞台を観に行った。いつも決まって一番安い席。それでもお金を工面するのが大変で、チケット代のために、何日か食事を抜いたりしてね」
「そう」
「エポニーヌみたいな叶わぬ恋をしていたわけでもないのに、夜のロンドンの町を歩いているとね、頭の中にあの歌が聞こえてくるんだ。何も言わずに逃げ出してきた私が、悲劇のヒロインを気取るなんてどうかしていると思うけれど、朝が訪れるまではあの人と一緒に夜の町を歩いているんだって、そう想像するだけで、少しだけ救われるような思いがしていた」
「分かってた」
「え?」
「キサの根底にあるもの、キサを支えているもの、キサを前に進ませているもの」いつもは熱いくらいのアランの手が今はあまりにも冷たくて、希佐は自らの両手でその大きな手を包み込んだ。「今のキサを形作っているもの」
握り締めているアランの右手が、微かに震えていた。その事実に、希佐は目を大きく見開く。
「俺は君という宝石を別の形に磨き上げて、それをより美しく見せようと、躍起になっていただけなんだ。どんなことをしたって、君の中にある核は、その色を変えはしない。俺は、君という原石を見つけた男にはなり得ない。君のここには──」アランはそう言うと、希佐の心臓を指した。「常に別の誰かがいる。俺はそれでも構わないと言いながら、いつも違うことを思ってた」
「なに、を」
「羨ましい」
凍えきったアランの手が、希佐の手を握り返してくる。そうすることが正しいのかは分からない。ただ、そうせずにはいられないというふうに。
「五年経っても、その誰かはキサの心に居座って、俺の居場所を取り除こうとする。俺から君の心を取り戻そうとする」
堪らなくなったのは、希佐の方だった。心の奥底に沈んだ滓を吐き出すような吐露に、我慢がならなくなったのだ。希佐は両腕を差し伸ばすと、アランの首を引き寄せて、冷えた体を抱き締めた。
「でも、君からその誰かを奪うことなんて、俺にはできるわけがなかった」アランは子供のように、だって、と続けた。「君からその核を取り上げてしまったら、君は途端に輝きを失って、生きる意味すら見失ってしまうと分かっていたから」
何と言葉にして伝えればいいのだろうと考えてしまう。何を言っても、アランの心の奥底まで届かないような、そんな気がしてしまうからだ。体はこんなにも震えているのに、その声はあまりに淡々としていて、感情がない。前みたいに、涙を流してくれた方が、まだよかった。
「ねえ、聞いて」希佐はアランの肩越しに、街灯の明かりに照らされて舞う雪を眺めながら、囁くように言った。「私、今もまだあの人のことを──フミさんのことを、好き」
突き放されるかもしれないと思っていた体は、反対に強く抱き締められていた。
「だって、忘れられるはずがない。こんな私に、高みを目指すことを教えてくれた人だから。諦めなければ手が届くって、望むものは手に入れられるんだって、示してくれた人だから」
アランは何も言わなかった。何も言わず、ただ縋るように、希佐の細い体を抱き締めている。
「だから、鯉結びを外したとき、それを大切にした方がいいと言ってくれて、私の一部になっているものだと言ってくれて、本当に嬉しかった」きっと、こんなふうに言うと、残酷に聞こえてしまうのかもしれない。「私の思い出を否定しないでくれて、それを受け入れてくれて、ありがとう」
どんな顔をしているのかが見たくて、希佐はそっとアランの首から腕を解く。僅かに身を引いて促すように頬に触れると、顔を覆い隠す前髪越しに目が合った。美しい、エメラルド色の目には、希佐だけが映っている。
希佐は愛おしそうに髪を撫で、前髪を耳に掛けた。街灯の明かりに照らされた顔は青白く、神秘的で、人ならざる者のようだった。
天にまします神様は、この人に見る者の心を魅了する美貌と、ありとあらゆる才能を与え給うたのに、その代償として、人を愛し、愛されるという至極単純であまりに複雑な感情を処理する能力を、低く設定しすぎたのだ。
「私はあなたを愛してる」どうか、この思いが正しく伝わりますようにと、希佐は思う。「こんなふうに誰かを思ったのは初めてなの」
そのとき、希佐はアランの目に、きらりとした光彩を見た。アランは、呼吸することを思い出したかのように、詰めていた息をゆっくりと吐き出している。青白かった頬には薄紅色が差して、途端に人間らしい表情が戻った。
戻ってきたと、なぜだかそう思う。どこか遠い場所へと連れ去られようとしていたものが、この腕の中に戻ってきた、と。
体が崩れ落ちそうになるほどの安堵を覚え、希佐は泣き笑いのような表情を浮かべた。