人を好きになるということが、こんなにもつらいことだったなんて、誰も教えてはくれなかった。
学校の授業では男女の体の違いを熱心に教えるばかりで、愛だとか、恋などという、酷く曖昧な、一時的な気の迷いとも思われる感情について、詳しい講義が行われたことはない。
もしかしたら、僕が授業中に居眠りをしていただけなのかもしれないけれど。
これまでの僕の人生に、恋愛、というものは皆無だった。かつてロイヤル・バレエ団に所属していた母の下に生まれた僕は、幼い頃からバレエ漬けの生活を送ってきたからだ。恋をしている暇などこれっぽっちもなく、ただ、学校と家の往復をするだけの毎日に、少しの疑問を抱くこともなかった。
それが、僕にとっての、普通だった。
母方の家系は貴族の出自で、名前だけはそれなりに知られている名家だ。ハプスブルク家の遠縁にあたるらしいが、本当のところはよく分からない。ただ、あるのは飾りのような爵位だけで、有り余る富や、誰もが羨むお城のような豪邸は持っていなかった。実家はロンドンの郊外、集合住宅の一角にある一軒家。家を改築してスタジオを作り、母は小さな教室を開いて、子供たちにバレエを教えて生計を立てていた。
僕は毎日、そのスタジオの鏡の前に立って、バレエを踊っていた。他の子供たちには優しく指導する母だったが、僕にだけは厳しく、言われた通りのことができないと酷く怒鳴りつけ、時には手が出ることもあった。
母が絶対的に正しいと信じていた僕は、それができない自分が悪い、自分は出来損ないの子供なのだと、そう思って、ただひたすらに与えられる課題をこなし続けていた。比較する対象もなく、黙々と、一人きりで。
そんなある日、バレエ教室に新しい生徒が入ってきた。腰まで届こうかというほど長い金色の髪をなびかせながら、その女の子は父親に手を引かれ、僕の目の前に現れた。
「久しぶりね、エズラ」母がそう言って男を出迎え、親しげに頬にキスをする。「何年ぶりかしら」
「この子が生まれる前に会ったきりだよ、ルカ」
「ああ、なんて美しい子なの。まるで天使のようだわ」
「母親似だよ。私に似なくてよかった」
「まあ、そんなことを言って」
僕は鏡の前に立ってバーレッスンをしながら、大人たちの会話に耳を傾けていた。不意に視線を感じて鏡越しに当たりを見回すと、その女の子がじっとこちらを見つめている。
「この子に何か習い事をさせたいと思っていたら、評判のバレエ教室があると聞いてね。それがまさか、君の教室だったとは」
「妊娠が分かったときに退団して、子供向けのバレエ教室を立ち上げようと決めたのよ。これからは後進を育てるために従事しようって」
「私は、君がプリンシパルになると聞いたから身を引いたのに──」
「ちょっと、やめて」母の厳しい声を聞いて、小さな僕は肩を振るわせた。「大昔の話よ」
「ああ、いや、すまない」
「私の息子を紹介するわ」
子供の僕には分からなかった。でも、この再会をきっかけに父と母は不仲になって、ついには離婚をした。後になって、ようやく真実を知ったのだ。
「イライアス、音を止めてこちらにいらっしゃい」猫可愛がりをするような声。「ほら、急いで」
「はい」
言われるがまま、音を止めて、母親の隣まで歩いていく。
女の子は僕よりも身長が高くて、そして、何より美しかった。
「息子のイライアスよ。今年で6歳になるわ」
「娘のアイリーンだ。この子も、次の誕生日で6歳になる」
その女の子はとても強気な表情を浮かべ、偉そうとも思える態度で、僕に向かって手を差し出してきた。きっと、手の甲にキスをして欲しかったのだろう。でも、何も知らなかった僕は、その手をそっと握りしめて、すぐに離した。
それが、僕とアイリーンの出会い。
結論から言うと、僕たちは腹違いの姉弟だ。母とアイリーンの父親は昔、恋仲にあった。アイリーンの父親は母にプロポーズをしたが、母は愛する人との結婚よりも、自らのキャリアを選び取り、二人は別れることになる。
アイリーンの父親はすぐに別の女性と婚約をした。母はキャリアを積み上げて、ついにプリンシパルの座を射止めようとしていた。
二人の関係はそのときもまだ、密かに続いていた。互いに大切な人を持ちながら、それでも互いを思い合っていた。でも、母はプリンシパルになることを境に、その関係を断つことを決意したらしい。そして、最後の過ちを犯す。
最後の最後、夜を共にしたことで身籠った子供が、僕だ。
父は僕を自分の子供と信じて疑わなかったし、アイリーンの父親も、僕が自分の子供だとは知らなかった。母は妊娠を機にバレエ団を退団し、父と結婚をして、僕を産んだ。一夜を共にして以降、あの日に至るまで、一度もアイリーンの父親に会うことはなかったという。
だが、二人の愛は、終わりを迎えていたわけではなかった。
アイリーンの父親は、娘を教室に通わせると同時に、僕の母と逢瀬を繰り返した。それが父の知るところとなり、激怒した父は僕を連れて家を出て行こうとしたが、母がそれを許すはずもなかった。バレエ団の子役として、子供モデルとしても働かされていた僕は、既に母の金づるで、誰よりも愛する男との間に身籠った、特別な子供だったから。
数日が過ぎ、父は家を出て行った。二人が離婚をすると、母はたがが外れたように、アイリーンの父親を求めるようになっていった。だが、そんなことが、上手くいくはずもない。
アイリーンの母親は、毅然とした人だった。すべての真実を知っても尚、僕に同情してくれた。
母は酒に溺れた。薬に手を出した。僕の目の前で泡を吹いて倒れ、僕が呼んだ救急車で病院に運ばれて、そのまま入院することになった。
母は混濁した意識の中、僕当てに一通の手紙を書いていた。
お前が憎い。お前さえいなければ。お前のせいで私の人生はめちゃくちゃになった。お前を生まなければよかった。お前を生まなければ、私は、夢と栄光を手放すことも、愛を失うこともなかったのに。気持ちが悪い。お前は出来損ないの、人形だ、と。
当時の僕には、喜びもなければ、苦痛も、悲しみもなかった。人間らしい感情を持ち合わせてはいなかったのだ。
十二歳になったばかりのある冬の日、施設に預けられていた僕のところに、病院からの電話がかかってきた。母は、鍵がかかっていたはずの病室から抜け出し、屋上から飛び降りて死んだと、そう聞かされた。戸籍上の父親が引き取ることを拒んだので、僕はそのまま、施設で暮らしていくことになった。バレエの稽古も、バレエ団やモデルの仕事も、続けていくことは困難に思われた。でも、そんなときに助けてくれたのが、他ならぬアイリーンの母親だった。
「これからは、私があなたの面倒を見ます」
僕は十八歳になるまで、アイリーンの家で暮らした。安定した衣食住が与えられ、バレエの稽古はもちろん、バレエ団の仕事も続けることができた。大学にも通わせてもらえた。ここに来てようやく、僕は、人間らしい生き方をすることができた。
きっと、自分たちが母親違いの姉弟であることを、アイリーンは知らない。でも、それは知らなくていいことだ。そうでなくても、僕とアイリーンは、本当の姉弟のように暮らしてきたから。あの家族のあるべき形を壊したくなかった。
こういう生き方をしてきた僕だから、誰かを好きになってはいけないと思っていたし、この先、恋をすることもないのだろうと思っていた。誰かに正しく愛されたことも、誰かを正しく愛したこともない僕が恋愛なんて、到底考えられなかった。
でも、僕の目の前に彼女が現れて初めて、その感情を知った。いや、初めは分からなかった。
これが恋という感情なのだと知ったのは、アランとキサが日に日に近づいていく様子を目の当たりにし、苦しいと言って泣きじゃくるアイリーンを見たからだった。アイリーンと同じ苦しさを、僕も感じていたから。
僕とアイリーンの違いは、相手に何かを求めているか、求めていないかという点だった。僕は、キサが幸せなら、それでよかった。キサが笑っていれば、それだけで嬉しかった。キサは僕に、舞台から舞台へと飛び回れる翼を与えてくれた。その翼さえあれば、僕は幸せだった。ただ、ときどき一緒に踊ってくれたら、それだけで満たされていた。
あの日、雨が降る中でスタジオの前に佇み、心細そうに立ちすくむ、その姿を見るまでは。
たっぷりとした豊かな髪を濡らし、鼻の先と眦を赤く染めて、切なげな眼差しでスタジオの外観を眺めていたその横顔は、今までに一度だって見たことがないほど、つらそうだった。くしゃみを漏らし、身震いをして、諦めたように立ち去ろうとする背中を、以前と同じように呼び止めていた。
冷たく、凍えた、小さな手。
寒さに縮こまって、微かに震えた、細い肩。
前髪が張り付いた、青白い顔。
髪から滴る雫が伝う首筋。
紫色の、唇。
見ないふりをする。余計なことは言わない。だって、踏み込んではいけないことだから。
冷静でいたいと思ったけれど、無理だった。言葉に棘が現れて、非難してしまいそうになる。自分には何の関係もないことなのに。油断すると、あふれてしまいそうになる。しっかりと蓋をして、閉じ込めていた感情が。
「要件というのは、何ですか」
「なに、怒ってるの」珍しい、とアランは言う。「君は俺と同じだと思ってたけど」
「僕はあなたとは違います」
「そうだろうね」
僕はこの人に憧れていた。僕にはないものを何でも持っている人だから。演技、歌唱、ダンス、何だってできる。その上、脚本を書き、舞台の演出までしている。神に愛された人だと思った。その代わりに、とても臆病で、人に見られることを極端に嫌う。それは、舞台人にとっては最も致命的な欠点だった。
舞台上で踊っているときだけ、僕は自由だった。
アランはそれを一目で見抜いたのだ。
俺は君に強制しない。君は俺の舞台で自由に踊ってくれたらいい。でも、もっと高みを目指したいなら、その手伝いをするよと、アランは言った。
「今度の火曜にオーディションがある」
「急ですね」
「この世界じゃよくある話だろ」事務室にあるいつもの椅子に座ったまま、アランは僕をじっと見ていた。「キャスティングが急遽白紙に戻されたんだ。俺が脚本を書いた舞台のオーディションだよ。アイリーンとキサも受ける。その相手役」
「どうして僕に?」
「興味があるだろうと思って」
「次の舞台が決まりそうなんです」
「もう一度キサと組みたくないの」アランはいつも通り淡々とした口振りで言った。「最後のチャンスになるかもしれないけど」
「どういう意味ですか」
「キサはこれを最後に舞台を降りる」
「……え?」
「彼女にとって最後の舞台になるということだよ」
「どうして……」
「さあ、どうしてかな。いずれにしても、それは俺の口から語るべきことではない」
「舞台を降りて、どうするんですか」
「本人に聞いたら」
「あなたはそれでいいんですか?」
「いいんじゃないの」
「どうしてそんなことが──」
「自分自身の引き際は自分で決めるものだ、イライアス」アランは僕の言葉を遮って言った。「誰にも止められない。彼女自身が考えを改めないかぎりは」
「どうしてそんなふうに簡単に言えるんですか」
「俺は彼女の意思を尊重する」
「僕は──っ」
自分が思っていたよりもずっと語気の強い声が出て、僅かに目眩を覚える。未だかつて、舞台以外で、こんなにも大きな声を出したことがあっただろうか。感情を上手く制御することができず、息が苦しくなった。
「僕は、なに?」
「……僕は、そんなふうに簡単には諦められない。舞台はキサのすべてだって、あなたなら分かっているはずです」
「キサを引き止めてどうするの」
「どうするって……」
「君に何ができるの」冷たい声が、静かに言う。「キサのために何ができる? 辞めるなと言うのは簡単だ。それなら、その先は? 君はキサに何を差し出せる? 辞めるという彼女の意思を覆させ続けられるほどの何かを、君は持っているの」
そんなことは、分からなかった。
「人が覚悟を持って決めたことを、俺は否定したくない。俺は人の人生にそこまで責任を持てない」
「……無責任だ」
「なぜ」
「あんなふうに強引にキサのことをカオスに引き込んでおいて、彼女が辞めると言ったら、まるで未練なんてないみたいな顔をして、そうやって簡単に手を離すんですか」
アランは少し驚いたような顔をしていた。何も言い返してこない。
「あなたはもう十分にキサの人生を変えてしまったのに、今更キサの意見を尊重したいなんて格好つけたことを言って、本当は自分が傷つきたくないだけなんじゃないんですか。自分が引き止めたときに、その手を振り解かれるのが怖くて、行動に移せないだけなんじゃないんですか」
僕は、自分が自分ではないような感覚に見舞われながら、思いの丈を吐き出していた。自分が誰かに対して、こうして意見していることが、とてもではないが信じられなかった。
「オーディションを受けます」
「決まりそうっていう舞台は?」
「辞退します」
「いいの、君が受かるとはかぎらないけど」
「それなら、どうして僕に声をかけたんですか」イライアスは初めて、悪意を持ってアランを睨んだ。「あなたはアイリーンじゃなくて、キサが合格すると思ってる」
「……そうだよ」
「僕以上にキサを美しく輝かせることのできる役者は、このロンドンにはいませんから」
アランはオーディションに推薦はしても、他の審査員に対して後押しをするような人ではないと分かっていた。それでも、僕には絶対に受かるという自信があった。それだけの実力を身につけてきたし、実績もある。またキサと同じ舞台に立ち、その隣でパートナーとして踊る日のために、努力してきたのだから。
オーディションの合格を告げられたときは、喜びというよりも、安堵の気持ちの方が強かった。他の誰にも、キサの隣に立つことを許したくなかった。
「よかったわね」
アイリーンは泣き腫らした目でそう言った。僕の中に罪悪感が芽生え、途端に、あらゆる感情がしぼんでいく。
「ほら、あなたはそんな顔をしなくていいのよ、イライアス」涙でぐしゃぐしゃになった顔で、アイリーンは気高く笑った。「だって、あなたは頑張っていたもの。またキサと組みたいって言っていたじゃない。そんなあなたの願いが叶って、私は本当に嬉しいのよ」
「でも、僕は──」
「わざわざそんなことを言わなくていいの」
オーディションには、アイリーンではなく、希佐が合格すると信じていた。自分自身のために、そうなることを強く望んでいた。それがまるで、アイリーンに対する酷い裏切りのように思えたのだ。
「これですべてに諦めがついたわ」
「アイリーン……」
「でも、でもね、もし神様が私のことをご覧になっていて、ほんの少しだけでもかわいそうだと思ってくださるのなら、この先の人生がいくらかでも報われたものになってくれたらいいなと思うのよ」
これでは誰も幸せにはなれないと僕は思う。
アイリーン、キサ、アラン、そして、僕。
キサがただ幸せそうに笑っていてくれれば、それでよかったのに。そう願えば願うほど、アイリーンの幸せが遠退いていく現実を、僕は見ないようにしていた。アイリーンはもうずっとアランだけを見つめ続けてきたのに、二人が結ばれる日は、もうこの先一生訪れない。
唯一の救いは。
「ねえ、聞いて、イライアス。私、この先も舞台を続けられることになったのよ。彼がそうしていいって。お父さまを説得してくれたの。私、とっても嬉しいわ」
望まない相手と、望まない結婚をする。僕もアイリーンも、そうした親の間に生まれてきたのに、結局は自分たちも、同じ道をたどることになるのだろう。こうして系譜は受け継がれていく。ただ、何の価値もない名前を、後世へと残していくだけのために。
アンコールを歌い終えたキサが急ぎ足で戻ってくる。何かを期待しているような顔をしていた。アランに褒めてもらいたがっていると僕には分かる。アランは外だと告げられたときの表情はあまりに切ないもので、そんな顔で思ってもらえるアランが、僕はただただ羨ましい。
「ねえ、さすがに遅くない?」キサに挨拶をしたがっている舞台関係者たちが、ひっきりなしにやって来るテーブルの一角で、ノアが不満そうに言った。「もういちいち説明するのも面倒なんだけど」
「僕、見てくる」
「あっ、本当? じゃあ、よろしくね」
「大丈夫なの?」
「うん」
気づかわしげなアイリーンの問いかけに頷いて、僕は歩き出す。
僕のことをこそこそと噂する声は聞こえてきても、直接話しかけてくる人はほとんどいない。どうやら僕はこわいらしい。ノアはよくとっつきにくいと言ってからかってくる。
立ちはだかる人の壁を押しのけて、出入り口付近までやって来た。店内の熱気がガラス窓を曇らせているせいで、外の様子は見ることができない。僕は扉を押し開くと、ひんやりとした空気に身を震わせながら、店の外に出た。
辺りを見回す。街灯の下で、抱き合う二人を見て、思わず声が漏れそうになった。
ああ、なんて、なんて、美しい光景なのだろう。
ぼんやりと灯る街灯の下。ふわふわと舞う粉雪が淡く光って、二人の周りを漂っている。
それはまるで舞台の一幕。互いに愛し合う二人が抱き合う感動的な場面なのに、なぜかとても胸が締め付けられるのだ。叶わない恋をしているのかもしれない。それが分かっているのに、どうしようもなく惹かれ合ってしまうから、愛し合わずにはいられない。
キサをアランから奪うことはできなくて。奪うことなど、望んではいなくて。
舞台の上では、恋人同士にだってなれるし、結婚式だって挙げられる。一生を添い遂げることだって。だから、僕はそれだけで十分だ。だって、舞台を降りればただの夢物語でも、舞台上では、それが真実だから。
ねえ、キサ。
僕は、本当に、君を好きなんだよ。