みんなが待っていると呼びに来てくれたイライアスと共にヘスティアの店内に戻ると、希佐はアランを連れてカウンターに立ち寄り、ホットワインを注文した。冬の時期だけに提供される特別なメニューだ。様々なスパイスを入れて煮立たせているので、香りが良く、体も温まる。
希佐が代金を支払おうとすると、アランがそれよりも早く紙幣を手渡した。釣りは受け取らず、グラスを両手に持つとテーブルに向かって歩き出す。隣に並んで手を伸ばすと、一方のグラスが差し出された。
「外は寒かったでしょう?」
鼻の頭を赤くして戻って来た希佐に向かってそう言ったアイリーンは、自分が使っていた膝掛けを貸してくれた。店内に戻ってきてようやくコートを着たアランは、まだ熱いホットワインに息を吹きかけながら、それを飲んでいる。手近なところから椅子を引っ張ってきた希佐は、アイリーンの隣に腰を下ろした。
あちち、と漏らしながらホットワインを飲んでいる希佐の顔を覗き込み、アイリーンは笑った。
「なんて声をかけたの?」
「え?」
「ほら、いつものアランに戻っているから」
「なんて、と言われても」特別なことは何一つ言っていないように思う。ただ、本当の気持ちを言葉にして伝えただけだった。「こんなふうに誰かを思ったことはない、って」
「あら、それだけ?」
「あとは内緒」
「なによ、それ」
耐熱グラスで恥ずかしそうに口元を隠す希佐を見て、アイリーンは、ふふ、と楽しげに笑う。しかしそのとき、口元に添えられた左手を見て、希佐は違和感を覚えた。左手の薬指に指輪が嵌められていたのだ。それを見て、希佐は思わず目を丸くする。オーディション期間中には見られなかったものだった。
「アイリーン、その指輪は?」
「え? ああ、これ?」アイリーンはそう言うと、手の甲を上に向けて、希佐に差し伸べてきた。「彼にもらったの。お祖母さまの、そのまたお祖母さまの代から受け継がれているダイアモンドなんですって。綺麗でしょう?」
「か、彼……?」
「私のフィアンセよ」
アイリーンの左手の薬指を飾っていたのは、大きなダイアモンドだった。見慣れた形にカットされたそれは、頭上のシャンデリアの灯りをキラキラと反射させて、確かに美しく輝いている。だが、希佐は宝石そのものの美しさよりも、儚く微笑むアイリーンの美しさに、目を奪われていた。
「えっ、でも、えっ……?」
「そんなに驚くこと?」希佐の前からすっと手を引くと、アイリーンは薬指の指輪を右手の指先でそっと撫でた。「オーディションに合格できなければ、親の決めた相手と結婚をする──そういう約束だったのよ。相手は許嫁なの。子供の頃から、私とイライアスと三人で、よく一緒に遊んでいたわ」
そうした突然の告白に、希佐は一切の言葉が出ない。大きく目を見開き、絶句している希佐を見て、やはりアイリーンは笑うのだ。
「一次審査のときのことを覚えている? 私、実家に行くと話していたでしょう?」
「う、うん」
「そのときにね、父から言われたのよ。お前もそろそろ身を固めなさいって。くだらない夢を見続けることもやめるように言われたわ。父はね、私がステージで歌ったり、舞台で演じたりすることを、あまり快く思ってはいなかったの。そういうことは趣味に留めておけって、子供の頃から言われていたわ」
「でも、アイリーンは……」
「ええ、舞台を降りるつもりはないわよ。幸い、彼が私の好きなようにしていいと言ってくれたの。父のことも説得してくれてね。だから、この先もこの仕事を続けていけるようになったわ。まあ、父は今もまだ、ただの趣味の延長線上にあるものだと思っているのでしょうけれど」
希佐は目を伏せると、言葉を失ってしまった。何と言葉をかければいいのだろう。だが、何を言ったところで、自分の言葉は角が立つと分かるから、軽率な言葉を口にすることはできなかった。
「こういうときにはね、キサ」アイリーンは希佐の手を取り、力強く握りしめてくれる。「お幸せに、と言うのよ」
「だけど、私がそんなこと──」
「言って」
「え?」
「少しは嫌な子になりなさいよ、キサ。私、あなたを嫌いになりたいの」その言葉とは裏腹に、アイリーンの表情は優しかった。「あなたは今までだって、私が欲しいと思ったものをいくつも奪っていったのよ。でも、本当なら憎たらしいと思うはずなのに、私はあなたのことを少しも嫌いにはなれないの。不思議よね」
「アイリーン……」
「ねえ、キサ」
「なに?」
「あなたが後ろめたく思うことはないのよ」何か酷く込み上げてくるものを感じて眉を顰める希佐の頬に、アイリーンはそっと触れた。「私たちは、なるべくしてこうなったの。何が良かったとか、悪かったとか、そういうことではないのよ。私はもう十分に夢を見させてもらったもの、そろそろ目を覚さないとね」
アイリーンはそれでいいのか、などとは口が裂けても言えなかった。よくないと思っていたところで、これでいいのだと、そう言うことが分かるから。だからその言葉だけは、自分が言ってはならないのだと、希佐は思う。
「ほら、そんな顔をしないの」
「私は、私はアイリーンが大好きだから──」僅かに息を詰まらせながらそう言うのを、アイリーンは黙って聞いている。「アイリーンが幸せになってくれたら、私は嬉しい」
「ありがとう、キサ」
ゆっくりと細めた、その三日月のような目で、アイリーンはまっすぐに希佐を見ていた。
自分はアイリーンから嫌われるような、恨まれるような、憎まれるような真似をしてきたのだと、そういう自覚が希佐にはあった。それなのに、アイリーンは自分のことを嫌いになれないのだと、そう言ってくれる。その優しさが、今の希佐には、苦しいものだった。
「もう、どうしてあなたがそんな顔をするの」
アイリーンはそう言うと、希佐の体をそっと引き寄せ、抱き締めてくれた。甘い、いい匂いがする。希佐がいない間、あの静かなスタジオに漂っていた、あの匂いだ。あの一カ月という時間は、アイリーンにとって幸福なものだったのだろうか。それとも、いずれ来る終わりのときに思いを馳せる、苦しいものだったのだろうか。
ゆるく巻いたアイリーンの豊かな髪越しに、希佐とアランの目が合う。
「……お願いよ、キサ」アイリーンは声を低くし、他の誰にも聞こえないような声で、希佐に囁きかけた。「アランのことを不幸にしないでね」
希佐は思わず息を飲む。表情に出してしまう。その様子を目の当たりにしたアランの顔に、微かな変化が見て取れた。慌ててアイリーンの髪に顔を埋めた希佐は、かといって頷くこともできずに、ただじっとしている。後頭部を殴りつけてくるようなその言葉の重みに、アイリーンがアランに向けていた思いの大きさを感じ取っていた。
夜が更けていくにつれて、ヘスティアの喧騒は増していった。過去の舞台で共演した劇団の人々や、先ほどのステージに感銘を受けたという人々がひっきりなしにやって来ては、握手を求められたり、共演の話を持ち掛けてきたりと、その対応をするだけで忙しい。時間は瞬く間に過ぎていってしまった。
「すまないね、キサ」床に散らばったごみを拾い集めていると、メレディスが申し訳なさそうに言った。「片付けを手伝わせてしまって」
「ううん、私が勝手にやっていることだから」
カオスの仲間たちはステージ脇のいつものテーブルに集まって話をしている。スペンサーやジョシュアも一緒だ。
夜更けも夜更け、もはや朝の方が近いという時間帯。新年を祝う花火も終わり、閉店時間はとうに過ぎていたが、そのテーブルには中途半端に開けられたアルコールのボトルが、何本も並べられている。新年に合わせて、残った酒はすべて処分すると聞くや否や、勿体ないと騒ぎ出した面々が後片付けと称して、酒盛りをはじめてしまったのだ。
メレディスは、いつ終わるかも分からないそれに店のスタッフを巻き込むわけにはいかないと、既に全員を帰していた。たった一人で店内の清掃をはじめたメレディスの手伝いをするために、希佐はテーブルを離れてきたのだ。
「そういえば、僕に聞きたいことがあると言っていなかったかな」
「あ、そうだった」希佐は顔を上げ、メレディスに目を向ける。「アランから、メレディスはフランス映画に詳しいと聞いたんだ」
「詳しいかどうかは分からないけれど、フランス映画は好きだよ」
「実はスペンサーさんからフランス語を勉強しておくように言われていて。アランが言うには、私は耳が良いから、フランス映画を英語字幕で観るといいって」
「ああ、そういうことか」
「何か良さそうな映画を教えてもらえない?」
「そういうことなら、いいとも。あとでリスト化してメールで送ろう」
「本当? ありがとう、メレディス」
「その程度のことならお安い御用だよ」
店内の清掃をしていると、ヘスティアで働いていた頃のことを思い出す。従業員はもちろん、常連客の多くは優しく、良い人たちばかりだった。時には悪意を向けられることもあったし、仕事が原因で酷い目に遭ったこともあったが、それでも、ここには良い思い出の方がずっと多い。
粗方片付いてくると、メレディスは希佐の手から箒を取り上げた。代わりにポケットから取り出した飴を一粒、お駄賃だよ、と言って手の平に載せてくれる。
掃除から解放された希佐は、わいわいと舞台談義に花を咲かせているテーブルの方を一瞥してから、無人のステージに向かった。盛り上がっているところに入り込んでいって、話の腰を折りたくはない。
初めて見た舞台の話、好きな役者、好きな歌、あの役者の癖、自分の一番の失敗談──経験豊かな仲間たちが楽しげに話しているのを聞きながら、希佐はステージに上がった。スタンドに立てかけられているギターを手に取ると、ステージの段差に腰を下ろし、弦に指をかける。
適当にアルペジオを爪弾いていても、どうやらそれを邪魔に思う者はいないらしく、仲間たちの会話は滞りなく続いていた。
最初にギターの弾き方を教えてくれたのは白田美ツ騎だった。
三年生になり、組長の仕事で忙しくしていた白田は息抜きと称して歌の稽古を行っていて、希佐はよくそれに付き合っていた。稽古が息抜きとは妙な話だったが、白田は歌っているときが一番リラックスしていて、いつだって楽しそうだった。そのときに、ギターの弾き方を覚えたのだ。
白田が卒業した後も、希佐は下手なりにもギターを爪弾き、イタチの友達を観客に、たった一人で息抜きを続けていた。
イギリスに来てからはギターを持つ余裕もなく、指は固まってしまい、最初の内は以前のように弾くことができなかった。だが、メレディスに教えてもらったり、空いている時間を使って練習を続けていくうちに、子供たちに聞かせられる程度には演奏ができるようになっていた。
「なにしてるの」
手元に視線を落としていると、視界の端に古びたブーツが映り込み、希佐は顔を上げた。弾くのをやめて顔を上げると、前髪越しに自分を見ているアランの緑の目と目が合った。
「話に入ればいいのに」
「途中で入っていくと、話の腰を折ってしまうから」
「君は大勢で集まるといつも隅に座って静かにしてる」アランは後ろ向きの格好でステージに手をかけ、腕の力だけで体を持ち上げると、希佐の隣に座った。「退屈そうだと思ったことはないけど」
「みんなの話を聞いているのが好きなの」
「スペンサーはカオスの連中に探りを入れてる。君のことがまだ十分には掴めていないから、いろいろと聞いておきたいらしい。まあ、演出をする上では重要なことではあるけど」
「直接聞いてくれたらいいのに」
「君は自分を正しく評価できていないから」
「私が?」
「例えば、さっきのOn My Ownは、自己評価では何点くらい?」
「感傷的になりすぎたような気がするから──六十点くらい?」
「演出以外で歌が涙声で震えたりした場合には減点対象にもなり得るけど、そんなことはなかった。君が思っているほど感傷的でもなかったし、正しく評価するなら、八十点は越える」
「まさか」
「謙遜ばかりしていると嫌味にとられかねないよ」
「これは謙遜ではなくて──」
「分かってる」慌てたように言う希佐の声を遮り、アランは先回りして言った。「俺や君に近しい連中は君が謙虚な人間だと知ってるけど、そうじゃない連中からは、お高くとまっているようにみられるかもしれない。これは文化の違いで、そう簡単に受け入れられるものではないんだと思う。現に、君はこちらに来て五年経ってるけど、褒められたところで否定しがちだ」
「ありがとうって言うように心掛けてはいるんだけれど」
「態度の問題」アランは頬を掻きながら言う。「名刺を受け取ってたときだって、何で自分なんかにって思ってただろ」
どうして分かるのだという顔をして隣を見ると、アランは希佐に向かって手を伸ばしてくる。黙って様子を見ていると、アランの手は希佐の唇の端に引っかかっていた髪の毛を払い、すぐに離れていった。
「最終審査のときの映像を見て自覚したとばかり思ってた」
「なにを?」
「自分自身が稀有な才能を持った人間だって」
そんなことはない、と否定の声を上げそうになって、希佐は口を噤む。アランは希佐が言わんとしたことを察したような顔をして、再び口を開いた。
「君の歌は極上の調べだったよ」
「……ありがとう」
「信じてないんだ」
「違うの」ギターを抱えていた手が弦にぶつかり、鈍い音をたてた。「アランの言葉は信じてる。ただ、あの歌は……」
「昔の男を思いながら歌ったから気が咎める?」そう言いながら、アランの口角が僅かに下がる。「気にしなくていいとか言っておきながら、勝手にダメージを受けて恨み節を言ったのは、申し訳なかったと思ってる」
アランの方こそ、自分の思いを正しく理解しているのだろうかと、そう希佐は思ってしまうのだ。
もしこれが、日本に帰るまでの繋ぎの関係などと思われているのなら、それこそ違う。あまりに心外だ。過去は過去のままそこにあって、ここに至るまでの道がまっすぐに伸びていたからこそ、今の自分がいる。希佐にとって、この国で出会ったアラン・ジンデルは唯一の存在で、最愛の人なのだと、どうしたら分かってもらえるのだろう。
希佐がそうしたことを考えていると、椅子に座って仲間たちと話をしていたノアが、不意にこちらを振り返った。目と目が合うと、何かを考えるような仕草を見せたあと、徐に手を挙げる。
「ねえ、他にお客さんもいないんだし、また二人で何かを歌って聞かせてよ」
「えっ?」
「ほら、前のときは僕とジェレマイアしかいなかったでしょ。他のみんなも二人が歌っているところを見てみたいだろうし」
「おい、俺らを巻き込むなよ」
「なんだよ、バージルだって聞きたいくせに」ノアはバージルに向かって舌を覗かせてから、再び二人の方を見た。「僕、聞きたいなー」
「はいはい、ぼくも聞きたい」
ノアに倣ってジョシュアも手を挙げた。二人とも完全に酔っ払いのノリだ。
希佐が隣に座っているアランを窺うと、露骨に嫌そうな面持ちを浮かべた顔が、分厚い前髪越しに見えた。
バージルとアイリーンはすっかり傍観を決め込んでいるようだ。ジェレマイアはノアの隣で楽しそうに笑っているし、イライアスに至ってはいつも通り、アイリーンの隣でテーブルに突っ伏してしまっている。スペンサーはその場に立ち上がると、大袈裟に両腕を広げてみせた。
「私も二人の提案に賛同するよ。かのアラン・ジンデルがデュエットを聞かせてくれる機会なんて、これを逃せばもう二度とないかもしれないからね」
「君は黙ってろ」
「前々から思っていたが、君は私に対してだけ当たりが強くはないかい?」
「ああ、確かに君だけは例外だよ、スペンス」
この酔っ払いどもと漏らしながら、アランは小さく舌を打っている。
希佐はその様子を見て小さく笑うと、ギターの弦を順番に鳴らした。すると、ノアの囃し立てる声が聞こえてくる。ぴゅう、と指笛を鳴らすスペンサーを睨んでから、アランは希佐を見下ろした。
「……本気?」
「私は別に歌っても構わないけれど」
「じゃあ、君が一人で歌ってくれ」
「いいよ」そうは言いつつも、希佐は僅かに不満そうな表情を浮かべてみせた。「分かった」
流行りの曲にはあまり詳しくない。テレビ番組はほとんど見ないし、最新の歌を熱心に追いかけるほどの情熱もなかった。だが、一年ほど前にストリートで歌われていた曲が気に入って、その場で何という曲なのかを尋ねてみたことがある。希佐は、その歌の歌詞が、とても好きなのだ。
希佐は、ステージの段差から投げ出していた足を引き上げ、胡坐を掻いてギターを抱えなおす。喉を整えるように小さく咳払いをしてから、頑なに歌うことを拒んでいるアランの目をじっと見つめた。そして、アランが何かを言いかけたそのタイミングで、意地悪くギターの弦を弾いた。
自分の言葉で語るよりも、歌に乗せた方が正しく思いが伝わるのなら、そうしようと希佐は思う。まるでアランの言葉足らずが伝染したように、上手く言葉にすることができないから、歌の力を借りて。
舞台上で歌うときとは違う、肩の力が抜けた、穏やかで伸びやかな歌声が、静かな店内の隅々まで行き届く。マイクを通さなくてもその声はよく通り、聞く者の心に染み入るように響いていた。
少しも包み隠されることのない、感情をストレートに表現した歌詞。派手さのない、誰にでも共感できるような、素朴なラブソング。あなたを知る前の昨日と、知ったあとの今日では、すべてが変わってしまったから、あなたのことをもっと知りたいと思う。そういう歌だ。
Aメロが終わり、Bメロへ、サビを歌い終えたところで、希佐は間奏を弾きながらアランを横目に見た。すると、フロアを掃除する手を止めて希佐が歌う様子を眺めていたメレディスに目を向けていたアランが、ふとこちらを見下ろす。そして、二番のAメロを歌おうと出した声が、何の前触れもなく、重なった。
ギターを弾く手を止めそうになりながら、何とか演奏を続けた希佐は、一人で歌うアランの顔を呆然と見上げていた。しかし、次の瞬間には踊り出したくなるくらいに嬉しくなって、満面の笑みを浮かべる。
元々がデュエット曲なので、パート分けも、ハーモニーにも困ることはない。
Aメロを交代で歌い終え、Bメロのハモリに差し掛かると、まるで初めて合わせたとは思えないほどしっくりと、声と声とが重なり合った。Falling Slowlyを合わせたときよりもずっと優しく、朗らかな声が、希佐の歌声を下から支えてくれている。一人で歌っているときよりも気が楽で、背中に羽が生えたかのような心地を覚えながら、いつもより素直に歌うことができていた。
アランの声が吹き込まれたCDに合わせて歌うことはあった。だが、そんなものとは比べられない幸福感に満たされているのを感じながら、歌詞とメロディを追いかけ続ける。見上げた顔がこちらを見下ろし、目と目を合わせて歌うことがこんなにも幸せだったなんて、希佐は知らなかった。
歌い終えたあとのその余韻を、大袈裟でも何でもなく、生涯忘れないだろうと希佐は思った。
まるで何キロも走った後のように、心臓がドキドキしているのだ。気を抜けば泣き出してしまうのではないかと思い、声を出すこともできない。ただ、アランの緑色の目を見つめて、照れたように笑う。
ふう、と息を吐いたアランは、希佐の肩にそっと触れてから、ステージの下に降りた。これで満足かとでも言うふうに、テーブルに向かって大きく肩をすくめて見せてから、レストルームの方へと歩いて行く。
希佐はふわふわとした気持ちのままギターをスタンドに戻すと、ステージを降りて、近くにあった椅子にすとんと座り込んだ。口元を覆った手を滑らせ、そのまま胸元のネックレスをニットの上から握り締める。無意識のうちに詰めていた息を大きく吐き出し、体を折りたたむようにして自身の膝に顔を埋めた。
「おいおい、大丈夫か?」
「あ、ああ、うん、大丈夫」希佐はほんのりと赤く染まった顔を上げると、歩み寄ってきたバージルに向かってへらりと笑いかけた。「急に歌ったから酔いが回ったのかな」
「お前、そんなに飲んでたのか?」
「分からない」
分からないが、どういうわけだが、他のことが考えられなくなっていた。ただ、アランの歌声だけが脳内を巡り、それ以外のことはすべて外側に追いやられて、思考が上手く続いていかない。
「メレディス、タクシー呼んでやってくれ」
「えっ、いいよ、バージル。歩いて帰るから」
「いいから、今日はタクシーで帰れ」
アランを呼んでくると言って、バージルも早足でレストルームに向かった。その背中をぼうっと見送っていると、ワインを何杯も飲んでいるはずなのに少しも酔った様子を見せていないアイリーンが、希佐のところまでやって来た。
「本当に大丈夫なの?」
「うん、バージルが心配しすぎなだけだから」
「でも、顔が赤いわね」アイリーンは希佐の額に手を当て、熱がないことを確認している。「まったく、あの酔いどれたちは私の手には負えないわ」
「私なんかよりも、イライアスは大丈夫そう?」
「ええ、平気よ。あなたたちの歌を聞いていたし。またすぐに突っ伏してしまったけれど、まあ、大丈夫でしょう。私は今日はこのまま実家に戻るから、一緒に連れて帰って休ませるわ」
「イライアスも?」
「ええ、毎年新年は私の家で一緒に過ごすことになっているのよ。彼が車で迎えに来てくれるっていうから、それまでここで待たせてもらうわ。あなたはアランと帰りなさい」
一曲聞けばあの人たちも満足でしょう、と言いながら、アイリーンはテーブルを振り返った。
先ほどから何やら大人しいと思っていたら、ノアとジェレマイアは互いに寄りかかり合いながら眠ってしまっている。スペンサーとジョシュアは何かを話しているようだ。
「あなたたち、声の相性までよかったのね」
「え?」
「アランとキサの声、聞いていて耳に心地よかったわ。普段から一緒に歌っているの?」
「ううん、三年前にここで歌って以来、一度も」
「……あーあ、嫌になっちゃう」アイリーンはぱたぱたと手の平で顔を仰ぎながら、呆れたように言った。「普通はあんなふうには合わせられないわよ。特にアランは──というか、あの人、ポップスなんて歌えたのね。でも、自分で曲を作るのだから、流行りを押さえるために聞いたりはしているのかしら」
バージルと並んでレストルームから戻って来たアランは、一度テーブルに向かうと、自分と希佐のコートを手に取った。スペンサーに呼び止められ、一言二言話してから、こちらに向かって歩いて来る。
「平気?」
「うん」
「これ」そう言って差し出されたレザーのジャケットを、希佐はその場に立ち上がって羽織った。「君たちはどうする?」
「イライアスは私が連れて帰るわ。ノアとジェレマイアのことはバージルに任せればいいでしょう。もう終電は行ってしまったし、二人をタクシーに押し込んでも、運転手に迷惑をかけるだけだもの」
「それなら、先にバージルたちを帰そう」
「え? いいわよ、次のタクシーが来るまで私が見ているから」
「キサ」
「うん、いいよ。私なら歩いて帰れるし」
「あっ、ちょっと──」
アイリーンの言葉も聞かずに、アランはテーブルまで歩いて行き、互いに寄りかかって眠っているノアとジェレマイアを起こしにかかった。体が小さなノアなら背負って運ぶこともできるだろうが、カオスの中で一番背が高く、体格も大きなジェレマイアのことは、誰一人として背負える者がいない。
何とか二人が目を覚ましたところで一台目のタクシーが到着すると、アランに説得されたバージルが、二人を引きずりながら店を出て行った。二台目に来たタクシーはスペンサーに譲る。三台目のタクシーは、ジョシュアに譲った。
「もう一台呼ぼうか?」
そう言うメレディスの申し出に、希佐とアランは揃って首を振る。歩いて帰りたい、そんな気分なのだ。この余韻を、少しでも長く感じていたいという思いは、アランも同じなのかもしれない。
「残念だよね」アランが店の外までスペンサーを見送りに行っていたとき、ジョシュアがそっと声をかけてきていた。「あれだけ人の目を惹きつけてやまない人が、表舞台から十年近くも遠ざかっていたなんて。ぼくたちくらいの年齢の十年は、舞台人としてはとても貴重な時間だから」
「もう遅いですか?」
「いいや」ジョシュアは笑って首を横に振る。「遅いなんてことはないよ。彼にはそれだけのポテンシャルがあるし、アラン・ジンデルの帰還を待っているファンは、ぼくを含めて大勢いるし。あとは、そうだね、彼自身の勇気と決断の問題かな。キサも見たいでしょ、アラン・ジンデルが舞台に立って、脚光を浴びている姿」
「私は──」
今日、また一緒に歌ってみて、分かったのだ。自分は、アラン・ジンデルが舞台に立っている姿を見たいのではないのだと。希佐が見たいのは、自分が立つ舞台の、その隣にいる、アラン・ジンデルなのだ。どんな小さな舞台でも構わない。観客の数など問題ではない。この人を、舞台の上で、輝かせてあげたいと思う。誰よりも、気高く、美しく。
「アイリーンとイライアスは僕が責任をもって見送るから、君たちはもう帰っていいよ」
ジョシュアを見送ったあと、店内に戻ろうとする希佐とアランに向かって、メレディスが言った。
アランはメレディスの頭越しに店内を一瞥してから、小さく頷く。希佐は何となく、アイリーンの迎えがやってくる前にメレディスが二人を帰そうとしているのを感じて、分かった、と応じた。
「じゃあ、また」
「またのご来店をお待ちしております」パブの店主らしくそう挨拶をしてから、メレディスは希佐を見た。「映画のリストは明日──いや、もう今日か。夜までには送るよ」
「ありがとう」
「気をつけて帰るんだよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ、キサ」
楽しい時間はあっという間に過ぎていってしまう。きっと、これから公演までの日々も、瞬く間に過ぎていってしまうのだろう。そう思うと、少し物悲しい気持ちになる。でも、刻一刻と迫る審判の日、三年最後のユニヴェール公演を待つときとは違って、どこか晴れやかな気持ちでもあった。
アランの手が伸びてきて、隣を歩く希佐の手を取る。どちらともなく指先を絡ませ合いながら、目を合わせた。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
親指の腹で希佐の手を撫でながら、アランはぼんやりと舞い落ちる雪を眺めている。希佐は、先ほどとは比較にならないほど温かい手のぬくもりを感じながら、アランと同じ景色に目を向けた。
「アイリーンがね」
「ん」
「アランでもポップスを聞いたりするんだって」
「まあ、たまに」
「あの曲は偶然知っていたの?」
「いや」アランは自らが吐き出した白い息を目で追いかけながら、首を横に振った。「君が歌っているのを聞いてた」
「え?」
「部屋でギターを弾きながら、よく歌ってたから」
それに、と言って取り出したスマートフォンを片手で操作し、小さな音で原曲を流す。希佐も負けじとスマートフォンを取り出すと、慣れない左手で音楽アプリを起動させた。
「バージルのところにいたとき、アランがよく聞いていた曲を思い出してダウンロードしたんだ」
オペラ、カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲、とても美しい旋律の音楽だ。とある愛憎を描いた悲劇。最後は一人の女性を愛した二人の男性が決闘をし、敗れた一方が命を落として、物語は幕を閉じる。
「イライラしてるときに聞くと落ち着く」
「私は夜寝るときに聞いてた」希佐はアランの言葉に笑いながら言う。「よく眠れるような気がして」
とりとめのない話をしながら、帰路を行く。ゆっくり、ゆっくりと、歩調を合わせて歩く。ひっそりと静まり返った細い道を進む。歩きなれた道のはずなのに、こうして寄り添い合っているだけで、何もかもが新鮮に思えた。
絶望に打ちひしがれていた、あの日の夜。濡れた石畳の上を歩きながら、頭の中では延々とエポニーヌの歌声が鳴り響き、どうにもならない感情に押しつぶされて、消えてなくなりたいと思っていた。たった一人、銀色に輝く足元に目を落として、その残酷な美しさに打ちのめされていた。
今日、同じ道を歩く。この人と一緒に。手を繋いで。
きっとこの幸せは永遠には続かない。いつか黄昏が訪れて、夜の帳が下りるのだろう。もしくは、この夜の帳が少しずつ暁に向かうとき、この手を離さなければならなくなる日がやってくる。永遠に終わらない物語はない。それでも、いつまでもこのときが続いていけばいいと、そう思うのだ。
スタジオにたどり着くと、すっとアランの手が離れていった。コートのポケットをまさぐり、鍵を取り出している背中を見つめていると、急に、言い知れぬ愛おしさが込み上げてくる。
扉の施錠を外すと、アランは希佐を先に通した。広々としたスタジオの中は、外とあまり変わらない寒さだ。振り返ると、アランは後ろ手に扉を閉め、すぐに鍵を掛けている。
火照ったような体の熱も落ち着いて、心臓の鼓動が元通りになっても、それでもまだ、その目に見つめられると思い出すのだ。未だ余韻を引きずっている。まだこの夜を終わらせたくないと思う。
ゆるく下唇を噛んだ希佐を見て、アランは焦らすような足取りで歩み寄ってきた。目の前で足を止めると、持ち上げた両手を希佐の首筋に添え、目を伏せて額に口付けた。首に添えられた手に自らの両手を重ねて、希佐は上目遣いにアランを見る。
その目の輝きを見て、そこにいるのがいつものアランだということに、希佐は安堵していた。
「なに考えてるの」
「何を考えていると思う?」
「キスはまだかと思ってる」頬の高い場所へ、鼻の頭へ、瞼へと順番に唇を押し当てながら、アランは言った。「キサからして」
「出掛ける前にしてあげたのに」
「俺は傷ついてる」
「意地悪な言い方」
「ほら、早く」
アランはそう言うと、希佐の腕を解き、それを自分の首に回させる。それからすぐ、希佐の腰を掴んで抱え上げると、顔の高さを同じくした。落ちないように両手をアランの首の裏で組み、両足を体に絡ませた希佐は、額と額を合わせるように顔を寄せた。
暗闇の中で、自分のことをじっと見つめてくるアランの目が、希佐は好きだった。その目は酷く饒舌に言葉を語るから。ときには穏やかに、ときには荒々しく、そしてときには、たまらなく愛おしそうに、愛していると。
僅かに頭を傾けた希佐は、触れるか触れないかという距離まで唇を近づけると、揶揄うように吐息を漏らした。唇と頬の際にのろのろと唇を押し付け、そのまま頬を擦り寄せる。
「……キサ」
「なあに?」
「落とすよ」
「そんなことしないくせに」
くすくすと笑いながら顔を話した希佐は、片腕を放して、アランの前髪を後頭部に向かって撫でつけた。再び首の後ろで手を組むと、触れるだけのキスをする。希佐はこれで満足だろうという顔をするが、アランはやはり不満げだ。
希佐は吐息を漏らすようにして微笑むと、今度は少しだけ長くアランの唇をふさいだ。食んだ下唇に軽く歯を立て、ゆるゆると引っ張る。上目遣いに表情を確かめながら、徐々に口付けを深くしていった。
アランは希佐を抱えたまま移動すると、希佐ごと背中からハンモックに倒れ込む。そして、希佐の口元を手の平で覆うと、僅かに乱れた呼吸を整えるように息を吐いた。
「満足した?」
「君こそ」
「今度はあなたの番」アランの顔の輪郭をなぞりながら、希佐は首を傾げる。「何をしてくれるの?」
「君が望むことならなんでも」
「本当に?」
「今は機嫌がいいから」
「じゃあ」希佐はハンモックの上から降りると、アランの手を引いた。「私のために一曲歌って」
「は?」
「何でもすると言ったでしょう?」
「今何時だと思ってるの」
「午前三時」
「良い子はベッドで寝る時間だ」
「知らなかった? 私が悪い子だって」
「キサ」
「アラン」
少しの睨み合いが続いたあと、先に折れたのは案の定、アランの方だった。呆れたように大きな息を吐くと、希佐に手を引かれるままハンモックから立ち上がり、後ろをついて来る。
「気まぐれに歌うんじゃなかった」
「私はアランと歌えて嬉しかった」
希佐の素直な言葉に押し黙ったアランは、ばつが悪そうに頭を掻いていた。
「一曲だけだから」
「アランの好きな曲がいいな」
暗がりの中、アランの手を引きながら歩く。事務室を抜け、階段を上がって、キッチンへと急ぐ。
希佐は電気をつけるより先に自分の部屋に向かうと、壁に立てかけていたギターのネックを掴んだ。