月に手を伸ばす。決して届かない、触れられないと分かっているのに、性懲りもなく。
この言い知れぬ喪失感。諦めきれない希望を抱きながらも、拭いきれぬ絶望感に苛まれている。
暗闇の中で、何度も何度も、その名前を呼ぶ。その呼び声は、暗闇の中に、虚しく消えていく。
ぬいぐるみを抱き締めて眠る夜。カーテンを開け放った窓の向こう側に、ぽっかりと浮かぶ銀色の月を見上げて、その名前を呼んだ。自意識の深淵、自分の手さえ届かない場所から、返事が聞こえてくるような気がした。
『希佐』優しい、優しい、月の王。『こっちへおいで、希佐』
深く、深く、沈んでいく。ただただ、落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと、奈落の底まで。
それでも、見上げた場所にはまだ、月が見えていた。
『こっちだよ、希佐』切望していた呼び声が、地の底から語り掛けてくる。『ここまで堕ちておいで』
銀色のお月様。
青鈍の空の、お月様。
あなたは何も語らない。
足を掴まれ、引きずり込まれる。生温かい、どろりとした、やわらかい何か。それが足を絡めとり、身動きが取れなくなる。もうどこにも逃げ場はない。光の届かない深海に囚われてしまえば最後、もう二度と、月の輝きは拝めない。
今朝はアランの手に揺り動かされて目が覚めた。寝ぼけ眼で見やった時計は午前七時半過ぎを差していて、希佐は自分が酷く寝坊したことを知る。
「キサ、朝ごはん」
「……ん」
「食べられる?」
「うん、食べる」
いつもより長い時間眠っていたからだろうか、体が鉛のように重く感じられた。何か夢を見ていたような気もするが、何も思い出せない。
パジャマにしているTシャツとショートパンツの上からカーディガンを羽織り、爪先に室内履きを引っかけて、希佐は腰掛けていたベッドの縁から立ち上がった。アランはふらふらとしながら歩く希佐の後ろに続いて部屋を出てきた。代わりに扉を閉めてくれると、バスルームで顔を洗ってくるように言う。
鏡に映った自分の顔はどこか青白く、気分が悪そうに見えた。髪をゆるく結い上げて、浴びるように顔を洗うと、おろしたばかりの新品のタオルで水気を拭う。いくらか眠気も吹き飛び、思考も鮮明になってきたようだ。
アランと並んでテーブルに着く。バージルのところから戻って以来、朝食はアランが作ってくれていた。朝稽古を終えて二階に上がってくると、いつも朝食の仕度が終わっているのだ。それが何だか申し訳なくて、せめて一日置きにしようと提案したが、それはやむなく却下されてしまった。
「君からは家賃と食費を受け取ってる」
「それとこれに何の関係が?」
「君が食事を作れば俺の分まで作ってくれようとするだろ」
「もちろん」
「君に食費を払わせて、その上食事の仕度までさせてたんじゃ、俺の方が肩身が狭くなる」
それが、アラン・ジンデルの言い分らしい。
バージルは希佐から一ヶ月分の生活費を受け取るとき、これで二人は対等だと話していた。だが、これでは生活費を受け取ることにアランが罪悪感を覚えているようだと思い、希佐は感謝の気持ちを持って、ありがたく朝食の席に着くことに決めた。自分のわがままを聞いてもらったのだ、相手の言い分も聞き入れ、譲歩するのが常というものなのだろう。
両手を合わせて、いただきます、と一言。ある日、まるで釣られるように両手を合わせているアランの姿を目の当たりにしたときは、何とも言い知れぬ感情に見舞われたものだった。何か言ってしまうと、もう二度とその姿を見られなくなるような気がして、希佐はずっと黙っている。
今日は午後からイライアスが訪ねてくる予定だ。夕方からはスペンサー・ロローが合流することになっている。舞台のことで話があるらしいが、詳しいことはまだ何も聞いていない。
日本では今、三が日の夕方を迎えている。だが、イギリスには日本のお正月のような、厳かな雰囲気はまったくなかった。休暇は一日までで、二日からは仕事も学校もはじまり、あっという間に日常を取り戻していく。
希佐も完全な休息日は一日だけで、翌日から体を動かしてはいたが、イライアスと稽古をするとなると、午前中から体を慣らしておかなければならないだろう。朝食が済んだら、メレディスに薦めてもらったフランス映画を一本だけ見て、それから体を動かしはじめれば間に合うはずだ。
希佐が終始黙り込んでいると、隣に座って食事をしていたアランが声をかけてきた。
「キサ」
「はい──あ、ごめんなさい」自分がどこにいるのかも忘れかけ、思考に没頭していた希佐は、軽く頭を振る。「なに?」
「今からそんな感じだと身が持たない」
「え?」
「眉間の皺」そう指摘された希佐は、自分の眉根に触れ、そっと撫でた。「言っておくけど、先は長いよ。今までの公演みたいにすぐに稽古に入るわけじゃない。これまでの拘束期間は短くて二、三ヶ月、長くても半年程度だったけど、今回は更に長期に渡る。バージルも言ってたけど、肩の力を抜いて望まないと、そのうち潰れるから」
「分かってはいるんだけれど、今日はスペンサーさんが来るって言うし、ちょっと落ち着かなくて」
カンパーニュに乗せられたアボカドをフォークで潰し、クリームチーズと一緒に平らに伸ばしながら、希佐は苦笑いを浮かべた。
アランはその様子を見ながら、何かを考えるように少しだけ黙り込む。
「……キサはスペンサーが苦手なの」
「苦手というか、何を考えているのかがよく分からなくて、対応に困るというか……」希佐はそう言いながら、パンの上に少量の蜂蜜をかけた。「常に自分を隠して、その上から別人の皮をかぶっているみたいで。ただ、バージルと一緒に楽屋に訪ねて行ったときだけは、そういうのを一切感じなかった。真っ直ぐに向けられる、悪意にも似た感情がどこか恐ろしくて、それで……」
「あいつは手に入れたいもののためなら手段を選ばないところがあるから」
「手段?」
「君は俺を餌にされるとあいつの言いなりになりがち」思い返してみればその通りで、希佐はそれを否定することができなかった。「嫌なら嫌と言っていい。俺がどんな顔をするかなんて、君が考える必要はないんだ」
「でも、あの人の提案はいつだって魅力的に聞こえるから」
「つい頷いてしまう?」こくりと首を縦に振る希佐を見て、アランは呆れ顔を浮かべた。「君、そんなことばかりやっていると、そのうち悪魔にも心を売るようになるよ」
「そうなのかな」
「真に受けない」
軽く焼いたカンパーニュに歯を立てると、さくっ、という食欲を誘う音が聞こえてくる。表面に薄く塗ったバターの塩味が、クリームチーズとアボカドの味を引き立てていた。蜂蜜の優しい甘みが全体を包み込んで、上手くまとめあげている。
「主役がパン? ううん、この場合はパンが舞台で、クリームチーズとアボカドがダブル主演……下地のバターがアンサンブルで、蜂蜜が名脇役……」
「……何言ってるの」
「えっ? あ、ああ、このタルティーヌがすごく美味しいから、舞台に例えたらどうかなと思って」
あはは、と乾いた笑い声をあげてから、希佐はさくさくとパンを食べすすめた。何でもかんでも、舞台と思考を直結させてしまうのは、きっと悪い癖だ。
後片付けをするのは希佐の仕事だった。とはいっても、アランは朝食の仕度をしながら汚れ物を洗ってしまうので、希佐がやることはほとんど残されていない。精々食卓に並べられた食器を洗う程度だ。
稽古着に着替えてから一階に降りた希佐は、アランに一言断ってから、事務室で映画を観はじめた。まだ本格的なフランス語の勉強を始めるには至っていないが、毎日少しずつ耳にしているうちに、呪文のようだった言葉が言語として聞こえるようになってきている。
一時間半ほどの映画を一本観終えたあと、希佐はスタジオで念入りにストレッチを行った。頭の中では、見たばかりの映画の映像や台詞、自分なりの感想がぐるぐると休まず駆け巡り、あっという間に時間を溶かしていく。
メレディスは言葉の習得に役立つと思ったのか、若い男女の恋愛ものや、ヒューマン映画を多くリスト化してくれていた。昨日もアランと一緒に何本か観たが、確かに、日常会話に役立ちそうなセリフが多かったように思う。
エネルギーを補給するために果物を食べ、午後からの稽古に備えていると、ニットの帽子とマフラーで顔の大部分を隠したイライアスがスタジオにやって来た。午前中から暖房を入れて暖めておいたスタジオに一歩足を踏み入れると、安堵したように息を吐いている。
「そんなに寒かった?」
「雪が降りそう」
「最近ずっとそんな天気だね」
「うん」
イライアスはスタジオの隅に行くと、背負っていたリュックを床に置き、帽子とマフラーを外した。コートの下には薄手のダウンを着ていて、脱いだブーツの下では、靴下を二枚重ねにして履いている。
イライアスはアランよりも寒がりで、冬になるとこれでもかと服を着込み、むくむくとした格好で外を出歩いていた。おそらく、イライアスのファンがその姿を見かけても、本人だと気づくことはないだろう。
「何か食べてきた?」首を横に振るイライアスを見て、希佐は食べかけの林檎を見せる。「林檎があるけど、食べる?」
「いいの?」
「どうぞ」
希佐は紙袋の中からまるまるとした林檎を取り出すと、ウエットティッシュと一緒にイライアスに差し出した。手を拭ってから林檎を受け取ったイライアスは、それを豪快に一口頬張る。
「今日、何をするか聞いてる?」
「ううん」一緒になって林檎を租借しながら、希佐は首を横に振った。「話があるとだけ」
「僕も」
「商業の舞台って初めてだからよく分からないんだけれど、準備期間はどのくらいかかるのが普通なの?」
「半年くらいかな」
「アランはもっと長くかかるだろうって」
「完全新作の舞台だし、脚本もまだ完成してない。音楽や劇中歌もまだ手付かずだろうし、ダンスの振り付けは、音楽が完成してから着手するんだ。オーケストラの楽譜も必要。衣装や舞台装置もこれから制作するとなると、一年くらいは見積もっていた方がいいかもしれない」
「そうだよね」
「大きな舞台ほどプロモーション活動も露骨になっていくから、覚悟しておいた方がいい」
「覚悟?」
「主役は広告塔に使われる。否応なしにメディアに引っ張り出されるし、スポンサーの関係で企業広告に起用されることもある。正直面倒くさい」
「イライアスでもそんなふうに思ったりするんだね」
「稽古時間が削られるから。あと、人と話すのも疲れる」
希佐自身はそうした経験が乏しいので何とも言えないが、確かにイライアスは苦手そうだ。
果たしてそうした活動が自分に務まるのかは分からないが、舞台の先頭に立つ人間として選ばれたからには、与えられた仕事をまっとうしたいと、希佐は思っている。
「僕、またキサのパートナーになれて嬉しいんだ」
「私も嬉しいよ」
「キサに頼ってもらえるようになるから」
「どうしたの、急に」希佐は僅かに目を丸くしたあと、くすりと笑った。「イライアスのことなら、もうずっと頼りにしているよ。いつも私を助けてくれてありがとう」
イライアスと一緒に稽古をするのは、加斎とスペンサーが揃ってスタジオを訪ねてきた日以来で、ほとんど一カ月ぶりのことだった。
その美しい所作を手本に、いつも通りストレッチに付き合っていると、イライアスの目がすっと細められる。
「キサ」
「ん?」
「何か変わった」
「え?」
「体の力が上手く抜けてる」
「そう?」
「何かやってた?」
「何かって」大きく開脚し、脇腹を伸ばして体を倒しながら、ゆっくりと息を吐く。「毎日バージルと踊っていたくらいかな。あ、でも、公演のときよりずっと長く稽古を見てもらっていたから、そのおかげかも」
お前は何事に対しても根を詰めすぎるきらいがあるからと、気晴らしにタップダンスの振り入れを手伝ってくれと頼まれ、ほとんど毎日踊っていたのだ。
最初の頃はあれこれと考え込んでなかなか寝付けなかったが、毎夜踊るようになってからは、考え事をする余裕もないほど、ベッドに倒れ込むとすぐ眠りに落ちていた。バージルもそれが狙いだったのだろう。
いろいろと気を使わせてしまった分の埋め合わせをしなくてはと、希佐は今更ながらに思う。
「今回はどんなダンスを踊ることになるのかな」ストレッチを終えたところで、希佐はその場に立ち上がりながら言った。「脚本にそういうト書きはなかったよね」
「演出家が元ダンサーだから」
「スペンサーさんが振り付けをすると思う?」
「今やっている舞台はスペンサーとバージルで振り付けたらしいけど」
「審査員の中に振付師は?」
「いた」イライアスは即答する。「元バレエダンサーだよ、あの人。パリ・オペラ座バレエ団のエトワールだった。引退してからは、振付師に転向してる」
エトワールとは、ロイヤル・バレエ団でいうところの、プリンシパルのことだ。バレエに明るくない希佐でも、すごい人だということだけは分かる。
「僕とキサでは得意分野が違うからまだ何とも言えないけど、競技ダンスのときみたいに、また一からはじめていけばいいと思う」
「うん、そうだね」
初めての商業の大舞台、右も左も分からない状態ではあるが、パートナーがイライアスだというだけで、こんなにも心強い。
イライアスの隣でも見劣りのしないダンスを踊るためには、人一倍の努力が必要だが、今はむしろそれが嬉しかった。自分はまだ、もっと高い場所まで登っていけるのだと、そう思えるから。
途中で何度か休憩を挟みながら稽古を続けていると、日没後の午後四時過ぎに、スペンサー・ロローがスタジオに現れた。
「やあ、諸君。新年早々精が出るね」
組んで踊っていた二人は互いの手を離すと、多少なりとも乱れている呼吸を整えながら、思い思いに会釈をした。
「我が友、アラン・ジンデルはどちらかな」
「事務室で脚本の手直しをしています」
「では、今はその手を止めてもらうことにしよう」スペンサーは二人の前を足早に通り過ぎていく。「また少し思いついたことがあってね」
アランは今朝、どうせまた書き直せと言われるに決まっているとぼやきながら、事務室のPCの前に腰を下ろしていた。
どうやらそれが現実になりそうだと思いながら、希佐は室内の空気を入れ替えるために、窓際まで歩いていく。鍵を開け、窓を横にスライドさせると、ひやりとした気持ちの良い空気が、室内に流れ込んできた。ほう、と思わず漏れた白い息は、一瞬で消えていく。汗をかいて火照った体を、冷えた空気が癒してくれる。
窓枠に両腕を乗せた希佐は、その格好のまま空を見上げた。落葉した蔦越しに見える空はやはり曇天で、イライアスが言っていた通り、今にも雪が降ってきそうだ。
イギリスは日本ほど寒くはなく、雪もさほど降らない。だが、この冬はどういうわけか、うっすらと積もるほどの雪をよく降らせていた。
暖房の温度も少し下げた方が良さそうだと判断した希佐は、窓をほんの数センチだけ開けたままにして、空調の操作に向かった。加湿器に水を差し、室内の空気の乾燥を防ぐ。
イライアスが持参してきたドライフルーツを分けてもらい、それを食べながら話していると、五分ほど経ってからスペンサーがスタジオに戻ってきた。アランも一緒だ。近づいてくるスペンサーとは裏腹に、アランは壁際の長椅子に腰を預け、こちらを見守っている。
「二人とも、少しいいかな。ああ、気にせず食べていていいよ、エネルギー補給は重要だからね」桃のドライフルーツを一気に口の中へと放った希佐を見て、スペンサーは言った。「座って話そうか」
希佐とイライアスは横に並び、スペンサーと向かい合うようにして床に座る。
二人とも手足が長いと、不意に希佐は思った。標準的な日本人よりは頭身の高い希佐だったが、やはり欧米人に比べると、胴が長いことは否めない。人種による骨格の違いなので致し方ないことではあるが、もう少し手足が長ければと悔しくなることはあった。パートナーと歩幅を揃える必要があるときは尚更だ。
社交ダンスを習いに教室へ通い続けているのは、小柄な希佐でも手足を長く感じさせる見せ方を学ぶためでもあった。過酷なことをしているときほど、優美に見える。手足の置き場には黄金比がある。
足を大きく踏み込めば、それだけバランスを崩しやすくなるが、体幹を十分に鍛えればいい。体を大きくしならせるためには、腹筋よりも背筋や臀部の筋力が重要だ。腕の角度をより美しく見せるためには、肩甲骨の可動域を広げる必要がある。
努力をすればするほど、己の粗が見えてくるようになる。一つ修正すれば、また別の修正点が見つかる。果てしない。果てが見えない。それが、酷く楽しいのだ。
「調子が良さそうだね、イライアス」
「はい」
「そんな君に朗報がある」スペンサーは焦らすことも、勿体ぶることもせずに言った。「君の出番が増えるよ」
「僕の出番が?」
「ああ、今回はキサと君のダブル主演体制でいくことが決まった」機嫌良く言うスペンサーから視線を逸らし、希佐とイライアスは顔を見合わせた。「君は若手の中でも特に実力のある役者だからね。現在進行形で注目度も高く、人気もある。一方、キサは商業の舞台では新人も同然だ。一応、マクファーソン兄弟の舞台に参加したことがあると聞いているが」
「はい、アンサンブルで」
「いやあ、先日は盛大にマウントを取られてしまったよ。自分たちの方が先に君を見つけたんだと言ってね」
先日というのは、大晦日のことを言っているのだろう。希佐も久しぶりにマクファーソン兄弟と顔を合わせていたが、ねちねちとした恨み節を言われていた。スペンサー・ロローの舞台に立つくらいなら、自分たちの舞台に立ってくれ。もっと良い役を用意するからと。ビザの一件で世話になってしまった手前、無下にすることもできず、その場は笑ってごまかすことしかできなかった。
「あの舞台の広さと客席からの威圧感を体験済みなら、こちらとしては嬉しいかぎりだ。圧倒されて初日を台無しにするなんてことにはならないだろう」
ユニヴェール劇場に立っていたこともあり、マクファーソン兄弟の舞台に立ったときも、特に緊張することはなかった。だが、今回はアンサンブルではなく、主演という大役を与えられている。きっと、見える景色はまるで違うはずだ。客席から与えられる威圧感も、ユニヴェール劇場の比ではないのだろう。
「新作の舞台で知名度の低い役者が主演を務めるというのは結構なリスクだ。だが、ダブル主演ということなら話は違ってくる。イライアスは舞台経験が豊富にあるし、固定ファンだっている。一定の集客数を見込めるだろう」
希佐が横目に窺い見たイライアスの表情は、いつもと変わりないように見える。
「本来、相手役にはベテランを充てるつもりでいたんだが、そうなると主演のフレッシュさが失われると思ってね。我々は安定よりも挑戦を選んだわけだ。まあ、さすがにその他主要登場人物にはベテランを連れてくる予定、ではある」
「予定、ですか」
「ああ、うん、実はね」ははは、と笑いながら、スペンサーは珍しく目を泳がせた。「キャスティングを冒険しすぎたせいで、お歴々が大変お怒りのようなんだよ。オファーしていた役者の何人かが、この話はなかったことに、なんて言い出す始末で」
そう言うスペンサーの言葉に、希佐は思わず眉根を寄せた。その表情の変化を目の当たりにしたスペンサーは、苦笑いを浮かべながらも首を横に振る。
「大丈夫、君のせいではないよ、キサ」
「でも……」
「私は、アランの脚本や私の演出を楽しんでくれる仲間を探している。これを面白がれない人間は遅かれ早かれ離れていっていたはずだ。後々になってから不和を起こすよりはずっと良かった」
スペンサーはこう言っているが、他の役者たちは、希佐を主役として据えることに納得がいかず、離れていったということなのだろう。
新作の舞台で、無名の外国人を主演に起用する。これは確かに大冒険だ。
新進気鋭の脚本家と演出家がタッグを組んで舞台を作ると聞き、意気揚々と船に乗り込んではみたが、乗組員の中に不審な外国人が紛れ込んでいるのを目の当たりにして、不信感を募らせた。これは危険な船だと判断し、沈没する前に離れていった。
「まあ、キャストのリストアップはしてあるからね。あとはエージェントに片っ端から台本を送り付けて、小さな釣り針に大物が引っかかるのを待つとしようじゃないか」
思わず口に出そうになった、すみません、という言葉を飲み込む。自分が謝ったところで何の意味もないのだと、希佐は自身に言い聞かせた。
希佐は自らの意思でこのオーディションを受け、主役を演じる権利を得た。この権利を最後まで守り抜くためには、弱気になっている場合ではない。もう後には引けないのだ。前へ、前へと突き進んでいくしか道はない。
希佐は目を伏せ、大きく吸い込んだ息を、そのまま勢いよく吐き出した。
「……私、頑張ります」自分を信じてくれた人たちの期待に応えたいと、希佐は思った。「離れていってしまった人たちが、完成された作品を見て、自然と後悔してしまうような舞台に仕上がるように、死に物狂いで努力します」
困難に立ち向かい続けることは酷く難しい。でも、そうすることでしか得られないものがあるということを、希佐は知っている。一歩ずつ登った山のその先に見える景色の美しさは、登ってみた者にしか分からない。
希佐がそう言い切るのを唖然としたように見ていたスペンサーだったが、間もなくするとその表情を収め、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「君が気骨のある人間で安心したよ、キサ」スペンサーはそう言うと、今度はイライアスに目を向けた。「君はどうかな、イライアス。彼女と一緒にその重圧を背負う覚悟はあるかい?」
「初めからそのつもりです」
「おや、君も随分言うようになったね」
喋るマネキンと言われていた頃のイライアスは、もうどこにもいない。舞台と向き合っているときの情熱は、他の誰と比べても引けを取らないのだろう。希佐は、人の成長を目の当たりにすると、ただ純粋に驚嘆してしまう。そして、自分も負けてはいられないと思うのだ。
最後には同じ頂に登り詰め、同じ景色を見たい。舞台の真ん中に立ち、客席から立ち上がった人々が打ち鳴らす割れんばかりの拍手と、大歓声を浴びたい。大切な仲間たちと一緒に。
「まだ多くのことが定まらない状況下ではあるが、こんなときだからこそできることもあってね」希佐はその言葉で、イライアスの横顔に向けていた目をスペンサーに戻した。「この時間を使って、君たちには技術力の底上げを行ってもらうよ。厳密には、ダンスと歌唱力の向上を目的としたレッスンをみっちりと受けてもらうつもりだ」
「それじゃあ、歌は──」
「そこはジョシュアの力を借りる。改めて話を持ち掛けたら、是非にと言ってもらえたからね。ダンスの方は、イライアスは見知った相手だと思うが、オーディションの審査員でもあったパリ・オペラ座バレエ団の元エトワール、ルイが請け負ってくれることになった。二人は明日ここに来ることになっているから、一緒にスケジュールを組んでほしい」
今後もジョシュアに歌を見てもらえるのだと思うと、大きな安心感があった。
先月はオーディションに合格するための稽古を重点的につけてもらっていたが、これからはもっと踏み込んだレッスンを受けられるに違いない。
「因みに、ルイはフランス人で英語が得意ではないから、そのつもりで」
「えっ」思わず声を上げてしまってから、希佐はイライアスを見る。「イライアスはフランス語を話せる?」
「少しだけなら」
「ルイとのダンスレッスンはキサのフランス語習得の助けにもなると思うよ」
ぱちん、と片目を瞑り、悪戯っぽく「Bonne chance !」と言われるが、どういう意味なのかが少しも分からない。助けを求めるように後ろを振り返ると、アランが小さく肩をすくめた。
「がんばれって」
「……善処します」
明日までに叩き込んでおいたほうがいいフランス語について考えていると、スペンサーが再び口を開いた。
「キサはどうやって英語を覚えたんだい?」
「英語は、日本にいる間にグラマーを重点的に勉強して、日常的な会話はダブリンで」
「語学学校に通ったの?」
「いえ、語学学校はお金がかかるので、毎晩パブに通って、地元の人とお話をしながら覚えました。みんな変な日本人がいるぞって面白がってくれて」
「ほう、それは興味深い」
「英語は日本人にとって一番耳馴染みのある外国語なのでなんとかなったのですが、フランス語は挨拶程度しか知らないものですから」
「ん? じゃあ、君はほんの数年程度でここまで英語を使いこなせるようになったのかい?」
「なんとか五年で」希佐は軽く苦笑いを浮かべる。「英語の勉強は今でも続けています。フランス語の勉強をはじめたら、そちらが疎かになってしまうので心配ですが」
「いやいや、すごいことだよ。五年か、そうか」
言語の習得は簡単なことではない。希佐の場合は運が良く、ダブリンの人々の暖かさと面倒見の良さに救われたところが大きかった。もし、ダブリンを経由せずにロンドンに来ていたとしたら、今頃どうなっていたかは分からない。
「キサ、フランス語の勉強もはじめたの?」
「あ、うん、役を演じる上で必要だと言われて」
「大変だね」
「でも、新しい言語を覚えるって楽しいよ。大変だけど、自分の身にもなることだから」
「僕にも手伝えることがあったら言って」
「ありがとう、イライアス」
「ううん」イライアスは首を横に振る。「僕はキサのパートナーだから」
そうして向かい合って話している二人の様子を、対峙するように座っていたスペンサーがじっと眺めている。その眼差しに気づいた希佐が目を瞬かせると、スペンサーは僅かな沈黙の後、思い立ったように口を開いた。
「君たち、ちょっとキスをして見せてくれないかな」
「……はい?」
スペンサーの要求を自らの中に落とし込むまでに、同じだけの沈黙を経てから、希佐はPardon?と問い返す。言葉の意味を理解できなかったわけではない。必要性の問題だ。何のためにそれを要求しているのか、その説明を求めていた。
「あの、その真意は……」
「やって見せてくれたら、そのあとで説明するよ」
戯れや冗談を言っているような顔つきではなかった。舞台演出家としてオーディションの審査員席に腰を下ろし、こちらを見ていたときと同じ眼差しが、まっすぐに向けられている。
おそらく、その要求には何らかの意図があるのだろうと、希佐は思った。スペンサーは何かを確かめたがっているのかもしれない。理由は分からないが、それでも、従わざるを得ないのだろう。
希佐は一つ息を吐き出すと、イライアスに向かって座り直した。イライアスはなぜかその場で硬直をしたまま、青白い顔をしてスペンサーと見つめ合っている。表情に変化は見られなかったが、その眼差しは困惑に揺れているようにも見えた。
「イライアス」その視線を真摯に受け止め、スペンサーは言った。「頼む、必要なことなんだ」
長い睫毛に縁どられた瞼を軽く伏せてから、イライアスはゆっくりと息を吐き出した。そして、希佐と同様に体の向きを変えると、こちらに向かって左手を差し伸ばしてくる。二の腕をそっと掴み、希佐の体を引き寄せるというよりも自らが体を寄せて、頬に素早くキスをした。
視線が交わることもないまま、イライアスの体は離れていく。顔を伏せ、前髪の下に表情を隠してしまったイライアスを見て、希佐は目を丸くしていた。
その一部始終を食い入るように見ていたスペンサーが、うーんと唸るような声を上げる。顎に手を添え、イライアスの様子を凝視していたが、出し抜けに希佐の方を向いた。
「キサ」
「はい」
「君がリードして」
「え?」
「本気のやつを頼むよ」
ああ、これはなんとも懐かしい感覚がよみがえってくると思いながら、希佐は小さく頷いた。
赤の他人である方が自然な演技をできる者もいる。仕事上の関係性しかない相手の方が、気兼ねがないからだ。親しい間柄であればあるほど、照れが先行してしまう。
カオスの舞台では、キスシーンがあったとしても、直接唇に触れるということはなかった。無理に要求されることもなく、細かな演出が入ることもなかったので、個人の選択に任されていたのだ。互いを尊重し合った結果、ふりをする演技が定着していた。
希佐はイライアスの膝に手を乗せると、反対の手で頬に触れ、顔を上向かせた。困惑の滲んだ目は僅かに潤んでいて、どこか怯えにも似た感情がちらついているように見える。一瞬、自分が何か悪いことをしているような気持ちになるが、方々から向けられている視線を感じ取り、気を引き締めた。
イライアスの体は酷く強張っていた。慣れない注文をされ、緊張しているのだろうか。だが、アプローチシーンの一つや二つは、これまでの舞台で乗り越えてきているはずだ。
とにかく、息を吐いて、体をやわらかく、力を抜こう──希佐は自らにそう言い聞かせながら、イライアスの前でそれを実行してみせた。無理やりはよくない。信頼関係を損ないたくはないのだ。
希佐が手の平を上に向けて両手を差し出すと、その意図を汲み取ったイライアスが、その上から両手を重ねた。指先が氷のように冷たい。凍えた手を温めてやるように包み込めば、イライアスは僅かに息を飲むが、されるがままになっている。
その瞬間、希佐は、ぱちん、と思考のスイッチを切り替えた。
このままではきっと埒が明かない。相手の気持ちを尊重することも大切だが、このままでは舞台稽古に入ったとき、苦労するのはイライアスの方だ。
「緊張してる?」希佐はイライアスの目を覗き込みながら、囁きかけるように言った。すると、イライアスはばつが悪そうにしながらも、微かに頷く。「大丈夫、私に任せて」
現在手元にある台本を読み込んだかぎりでは、出会った男女はほぼ一夜にして恋に落ちる。男は女を毎夜のように抱いて、どろどろに溶かすように愛し、心に呪いを植え付けていくのだ。しかし、今希佐の目の前にいるイライアスはあまりに毒気がなく、純粋で、清らかだった。女に傷をつけてやろうなどという邪な心が一切見られない。
希佐はスペンサーが言わんとしていることをなんとなく理解した。思い返してみれば、イライアスが出演した舞台の多くでは、アプローチシーンがダンス表現に組み込まれていることが多い。時には情熱的に、あるいは官能的に、見る者の心を鷲掴みにするような表現が得意だったはずだ。
そうした演技が求められてきたというのもあるのだろう。だが実際には、こうした対面の演技が苦手だからこそ、演出家があえてダンス表現を選んできたのだとしたら。
希佐はイライアスの手を取ったまま、その場に立ち上がった。握った手を軽く引いてイライアスも立ち上がらせると、その手を自らの腰に導く。自分の両腕は相手の首に回し、目と鼻の先にある顔を覗き込んだ。
希佐とイライアスの身長差は十センチほど──アランとの身長差が二十センチあるので、男女カップルの身長差としては、この程度が一般的なのかもしれない。
そのようなことを考えながらイライアスの顔を見つめていると、表情に変化は見られなかったが、髪の隙間から覗いた耳の先が微かに赤く染まっているのが見て取れた。先ほどからずっと目が合わないのだ。イライアスはただじっと、希佐の鼻の辺りを見やっている。
「ねえ、踊って?」
ダンスと呼べるほどのステップも踏まず、ただゆらゆらと体を左右に揺らしながら、希佐は鼻歌を口ずさむ。どこかで聞いたことのある、誰かの歌。それに合わせて、体を揺らす。
交わらない視線を嫌うように、希佐はイライアスの頬に手を添えると、自分の方を向かせた。灰色の目が希佐を見下ろすと同時に、大きく瞳孔を広げる。途端に輝いた眼差しを受けて、希佐は口角を上げた。
イライアスの体の強張りが、少しずつ解けていくのが分かった。凝り固まったようになっていた肩が、やわらかさを取り戻していく。ぎこちなかった足の運びが自然とゆるやかに、滑らかになっていった。腰に添えられているだけだった手の平が、確かな意思を持って、希佐の背中を撫でる。
あと一押しだ──希佐はそう思いながら、イライアスの肩に頭を預け、そっと身を寄せた。歌を口ずさむ合間に、徐に顔を上げ、首筋に唇を押し当てる。
大丈夫、イライアスなら応えてくれると、希佐は信じていた。
目と目が合う。先ほどのような迷いはもうどこにもない。目の奥に強い情熱が感じられる眼差しで見つめてきたかと思うと、イライアスは希佐の額に自らの額をこつんとぶつけた。そして、軽く目を伏せ、希佐が口ずさむ歌に耳を傾けている。
これは、スペンサーが望んだリードとは違うのだろう。もっと強引に唇を奪うことが求められていたに違いない。だが、そうすることで壊れてしまうものがあると、希佐は思ったのだ。だから、希佐からはそれをしない。ただ導くだけだ。イライアスになら、できるはずだと。
イライアスの足が不意に止まる。それに合わせて、希佐も歌を口ずさむのをやめた。イライアスの両手が希佐の首を真綿のように優しく包み込む。そして、傾けた顔が焦らすようにゆっくり近づいて来たかと思うと、本当にそっと、唇を重ねた。まるで、壊れ物を扱うかのように。
あれ……? と希佐の中で一瞬、何らかの感情が頭をもたげそうになった。だが、それに気づかないふりをして、蓋をする。きっとこれは知る必要のないことだ。そう思い、目を瞑る。二度、三度と繰り返される口付けを享受しながら、今このときは直視することを遠ざけた。
「よし、いいよ」スペンサーの声と共に、イライアスが希佐から離れた。「二人ともありがとう」
「すみません、うまくできなくて」
「いや、大丈夫」
「でも」
「私が懸念していたのはね、イライアス」目の前に立っている二人を見上げながら、スペンサーは言う。「こうして並んでいると、君たち二人が仲の良い友人か、兄妹のようにしか見えなかったことなんだよ。でも、どうやら大丈夫そうだ」
「大丈夫、ですか」
「二人の間には、男女特有の、どうにも形容しがたい恥じらいのようなものがあった。これがなかったら大問題だったが。観客はこうしたアプローチシーンにロマンチシズムを求めると同時に、何か見てはならないものを見ているような背徳感を求めている。今は確かにそれを感じられたからね」
希佐とイライアスは顔を見合わせ、互いにほっと安堵の息を吐いた。だが、スペンサーの話はここでは終わらなかった。
「ただ、今の演技が良かったかといえば、それは疑問だ。この先のことを考えるなら、イライアスは苦手を克服した方がいいだろう。彼女とダンスを踊っていたときみたいに、自分からも積極的に攻めていかないと。誰も彼もがキサのように優しく導いてくれるわけではないよ」
「……はい」
「キサ、君は今の二人のことをどう思う?」
「え?」
「今後に発展しそう? それとも、この場かぎりの関係に終わる?」
「私は──」希佐は隣に立つイライアスを横目に見てから、その先を慎重に続ける。「二人は恋人同士ではなかったのではないかと」
「ほう」
「初対面で、きっと互いに惹かれるものがあったのだと思います。でも、男性は気後れをしてしまって、なかなか一歩を踏み出せない。確かな思いを秘めてはいるけれど、相手が同じ気持ちかどうかは分からないから」
「うん」
「女性はそうした男性の気持ちを汲み取ってエスコートできる人で、多分──」
「ああ、そうか、君は自分が演じる役柄を演技に取り入れたわけか。なるほど、なるほど」スペンサーはそう言いながら何度か頷いて見せたあと、唐突に膝を打った。「二人とも、本当に助かった。私はアランと話があるから、少し失礼するよ」
片方の足を僅かに庇うような立ち上がり方をしたスペンサーは、二人に向かって軽く手を振ると、その場で踵を返す。テーブルに腰を預けてこちらの様子を見守っていたアランは、億劫そうに姿勢を正すと、事務室に入っていった。
「ごめん、キサ」
ばたん、と閉められる事務室の扉を見ていた希佐の背後から、イライアスの申し訳なさそうな声が聞こえてくる。急いで振り返った希佐は、心なしか意気消沈して見えるイライアスを目の当たりにし、口を開いた。
「どうして謝るの?」
「僕が足を引っ張ったから」
「足を引っ張ったなんて、そんなことない」
「キサにリードしてもらえなかったら、僕からは何もできなかった」
「私はこういうシーンを演じる機会が多かったから、イライアスより少し慣れているだけ。地道に稽古を続けていけば大丈夫だよ。先は長いんだから、一緒に頑張ろう」
イライアスのすごいところは、瞬時に思考を切り替えられるところだと希佐は思う。落ち込むときは落ち込むが、休憩を終えて戻ってくる頃にはもう、いつもの調子を取り戻しているのだ。ぼうっとしているように見えても、その実は誰よりも早く頭を回転させているのかもしれない。
一緒にダンスを踊っているとき、手の押し返し方一つですべてを理解し、合わせてくれる。希佐はこんなダンサーを、他に知らない。
稽古後、クールダウンをしながら夕食を一緒にどうかと誘ってみたが、イライアスは少し考えてから首を横に振った。急用ではないが、行くところがあるのだという。無理に引き留めるのも良くないと思い、希佐は「そっか」と言って引き下がった。
イライアスが帰る頃になっても、アランとスペンサーは事務室にこもったままだった。邪魔をしたくないからと挨拶を控えたイライアスは、また明日と言ってスタジオを去っていく。希佐はいつものように外まで見送りに出ていたが、そこで初めての出来事が起こった。角を曲がる手前で、イライアスが後ろを振り返ったのだ。ポケットに手を入れて身をすくませている希佐のところまで早足で戻ってくると、イライアスは顔を隠していたマフラーを下にずらした。
「どうしたの? 何か忘れ物?」
「うん」イライアスはそう言って頷くと、僅かに身をかがめ、希佐の頬にキスをした。「おやすみ、キサ」
「これが忘れ物?」突然のことに驚きはしたが、希佐はすぐにくすくすと笑って肩を揺らすと、にこりと微笑みかけた。「おやすみなさい、イライアス」
今度こそイライアスを見送ってスタジオの中に戻ると、スペンサーが丁度事務室を出てくるところだった。アランの姿はない。後ろ手に扉を閉めていたスペンサーは、希佐の姿に目を留め、機嫌が良さそうに笑った。
「やあ、イライアスはもうお帰りかな」
「はい、どこか行くところがあるとかで」
「彼、良い顔をするようになったね」
「イライアスのことですか?」
希佐が扉の前で立ち止まっていると、スペンサーは頷きながらこちらに向かって歩いてくる。
「氷の王子なんて呼ばれているだろう? でも、実際の彼は違う。驚くほどの情熱を内に秘めているが、多くの人はそれを知らない。それを余すことなく出し尽くすことができれば、彼は他に類を見ない舞台役者になれると思うんだが」スペンサーは希佐の前まで来ると、足を止めた。「彼はまだ自分の殻を破りきれてはいないようだ。特に、演技と歌はダンスほど突出していない。まあ、子供の頃からバレエ漬けの日々で、演技や歌は大学に入ってから始めたそうだから、無理もないことではあるが」
「イライアスには、イライアスのペースがあるのだと思います。誰かの意見を聞いて納得するというよりも、自分自身で考えて納得しないと、自分の中に落とし込むのが難しいのではないでしょうか」
「ある程度融通の利くカオスの公演なら待つこともできるのだろうが、今回の舞台では無理だろう。この世界では、歩みが遅れる者から順番に淘汰されていく。とはいえ、イライアスはうまくやっているよ。演出家の要求と自身の得意分野が合致すれば、彼は強いからね」
スペンサーはイライアスの才能を理解している。口で言ったところで正しく伝わらないと判断したからこそ、多くを言わず、希佐にすべてを預けたのだ。
「君と彼の相性は抜群に良い。ここだけの話、もし女優役に選ばれたのが君以外の誰かだったら、彼の能力を引き出すことができなかったかもしれないよ」
「でも、アイリーンなら──」
「ああ、彼女はどうかな」スペンサーは希佐が言い終えるより先に、首を傾げた。「アイリーンが君に勝利していたとしたら、私はイライアスを相手役には選ばなかったかもしれない。あの二人は君たち以上に関係性が完成されてしまっている。その形を壊して新たに構築し直すのは至難の業だ」
相手役のオーディションは、希佐たちの最終審査より前に終わっていたはずだ。相手役は女優役が決まるまで、結果を保留にされていたということなのだろう。
「イライアスなら君をうまく引き立てられるだろうと判断して相手役に選んだのだが、それがまさかダブル主演になるとは、先月の私には想像もできなかったことだ。なにせ、彼はこの舞台では非常に手に余る存在だから」
「イライアスが天性のダンサーだからですか?」
「その通り。この舞台は本来歌ありきの構成だった。君の引き立て役に徹してもらう分には何の問題もなかったが、ダブル主演となると話は別だ。イライアス単体での見せ場を用意する必要がある。観客が彼に何を求めているか──それはもちろん、ダンス、ダンス、ダンスだ。私自身、このところダンス主体の舞台ばかりを手掛けてきたから、それを遠ざけようとしていたが、どうやらそれは無駄な足掻きだったようだよ」
「……イライアスは、女優の引き立て役として選ばれていたんですか?」
「彼はそれが前提にあると知った上でオーディションを受けている。一次審査のときにそう説明をしてあるからね。引き立て役と言っても、重要な役どころであることに変わりはないよ。彼がいなければ、物語は成り立たないんだ」
華と器。その言葉が、脳裏をよぎった。
「まあ、今後のことは振付師と相談をして追々決めていくつもりだよ。君も人並み以上に踊れはするが、あのイライアスと一緒に踊ることになるんだ、覚悟を決めておいてくれ」
「はい」
「芝居の方は全体稽古がはじまってからでも、君はまったく問題ないだろう。今は歌とダンスを重点的に磨くこと。イライアスの場合は芝居と歌だね。二人には何としてでも極めてもらって、舞台の顔になってもらう」
「分かりました」
「君、本当にいいね」スペンサーは思わずというふうに破顔すると、頼もしそうに希佐を見た。「そういう向こう意気の強いところが──」
そのとき、ばちん、と何かが弾けるような激しい音がして、一瞬にして視界が真っ暗になった。スタジオを煌々と照らしていた電気が、何の前触れもなく消えたのだ。
何かを言いかけていたスペンサーは咄嗟に口を噤むが、ごそごそと何かをあさりながら再び口を開いた。
「危ないから動かないで」そう言いながら、スマートフォンの灯りを点す。「停電かな?」
「街灯は点いているので、停電ではないと思いますが」
「ああ、本当だ」
窓の外に見える景色はいつも通りだ。街灯にも、他の家々の窓にも、明かりが見える。
「ブレーカーでも──」
落ちたのでしょうか、と希佐が言いかけたそのとき、事務室の方から大量の書物が雪崩を起こしたような、どかどかと騒々しい音が聞こえてきた。すぐさま様子を見に行こうとする希佐を引き留め、ここにいるように言うと、スペンサーはスマートフォンの明かりを頼りに歩いていく。
「大丈夫かい?」
「本に足引っかけた」
「怪我は?」
「ない」アランはそう言いながら、スペンサーが開けた事務室の扉から出てくる。「キサは?」
「向こうにいるよ」
「それ、眩しいから消して」
自分に向けられているスマートフォンを不快そうに睨んでから、アランはスペンサーに腕を下させた。しかし、アランは窓の外から差し込んでくる僅かな光だけを頼りに、希佐の方に向かって歩いてくる。
「大丈夫?」
「うん」
「そう」話をしながら壁にはめ込まれているパネルを操作しているが、反応はないようだ。「ブレーカーが落ちたわけじゃないんだ」
確か、遮断機は事務室内にあったはずだ。それの確認をしていて、足元に積み上げていた本をなぎ倒してしまったのだろうと、希佐は考えた。
「君、原稿を書いている途中だったろう?」
「別に、平気」アランはそう言いながら、ぱちん、とパネルの蓋を閉じた。「全部頭に入ってるから」
アランはすぐ近くにいる希佐の肩に軽く触れてから、スタジオの外に出て行った。スペンサーもそれを追いかけていく。希佐はここにいろと言われたような気がして、その場に留まっていた。
だが、その直後、今度は何の前触れもなくスタジオ内の電気が瞬時に点った。それが異常に眩しく感じられて目を細めていると、外に出ていた二人が連れ立って戻ってくる。
「外に何かあったの?」
「いや、なにも」アランも眩しそうにしながら、目の上に手の平で庇を作っていた。「勝手に点いた」
停電の理由は不明だった。配電盤に何らかの不具合があるのかもしれないので、明日にでも業者を呼ぶということで話がまとまった。これからも頻繁に停電が起こるなどということになれば、稽古に支障が出てしまう。明日の午後にはジョシュアとルイが来るのだから、午前中の内に済ましておくようにと言って、スペンサーは帰っていった。
「この建物、古いからな」
アランはスペンサーが出て行った後の戸締りをすると、まるで労うように壁を撫でてから、事務室に向かって歩き出す。希佐はその後ろに続くと、背中に向かって声をかけた。
「アラン、夕飯はどうする? 私、シャワーを浴びたらスープを作るけれど」
「食べる」アランは前を向いたまま言った。「データのバックアップを確認してからだけど」
「うん、分かった」
事務室には小さな窓が一つしかない。電気が消えてしまえば、ほとんど完全な暗闇だった。そのような中で遮断機を確かめに向かったせいだろう、その壁際に積み上げられていた本たちは、無残にも床に散らばったまま放置されている。
「いいよ、放っておいて。俺が自分で片付けるから」
「でも、二人で片付けた方が早いよ」
希佐はそう言うと、ページが折れてかわいそうな本を真っ先に救出した。折れてしまった紙を手の平で伸ばしてから本を閉じ、足元のそれらを順番に拾い上げていく。
「じゃあ、その辺りに適当に積んでおいて」
「うん」
この辺りの本には希佐もときどきお世話になっていた。多くが古い書物で、シェイクスピアやオスカー・ワイルド、ジョージ・バーナード・ショーなどの本が、愛好家が見たら激怒するのではないかと思うほど無造作に放られている。買ったまま一度も読まれたことがないのではないかと思う、埃を被った本もあった。そのときは読もうと思って購入したのだろうが、仕事に忙殺されてそれどころではなくなってしまったのかもしれない。
粗方以前の様相を取り戻した一帯を見回し、希佐は両手に付いた埃を払った。傍らにいたアランは「Thanks」と言って最後の一冊をテーブルに置き、PCの方へ向かう。無言のままバックアップデータを確認している姿を横目に見てから、希佐は二階に上がった。
バスルームで汗と埃を流し終え、洗った髪を乾かしながら、鏡越しの自分を見つめる。
こうして自分の姿を見るにつけて、希佐は未だに驚いてしまうことがあった。どういうわけか、見慣れないと思う瞬間があるのだ。自分の中では髪の短い姿が定着していて、寄る年月によって徐々に長くなったはずの髪が、まるで一夜にして伸びてしまったかのような錯覚を覚えてしまう瞬間がある。
思春期の三年間というものが、どれだけ人格形成に影響を与えるのかは分からないが、希佐の場合は、それが他の人々よりも根強く居着いてしまっているのかもしれない。
たっぷりとした長い髪。ときどき、アランが何も言わずに、風呂上がりの濡れた髪をドライヤーで乾かしてくれる。あの心地良い時間が、希佐は好きだった。髪を梳く指先を感じながら、すべてを委ねて目を閉じる、あの瞬間が。
乾いたばかりの髪を軽くまとめあげ、希佐はキッチンに立って野菜スープを作った。細かく切り揃えた様々な野菜を、くつくつと煮立てるだけの簡単なものだ。冷蔵庫の中に切り分けられたローストチキンが入っていたので、それを温め直して食べようと思いながら、希佐は階段を降りる。
「アラン、まだ掛かりそう?」
階段の方から顔を覗かせて問うと、アランはキーボードに手を置いたまま、こちらを見ずに応じた。
「切りのいいところまで書いておきたいから、先に食べてて」
「じゃあ、そうさせてもらうね」
「ごめん」
「ううん」
行儀が悪いと思いながらも、希佐はスマートフォンにイヤホンを差し、午前中にも観た映画を流しながら食事をした。英語字幕を眺めながら、気になる台詞を何度も、何度も聞き返す。聞き返した台詞を実際に口に出しながら、自分の中に落とし込んでいく。
あとでアランに聞いてもらおうと思いながら、冷え切ったスープを口の中に流し込んだ。
洗い物を終えてもアランが二階に上がってくる気配はない。希佐は少しでも手間がかからないようにと、スープを小さな鍋に移し替え、残りはタッパーに入れて冷蔵庫に入れておいた。冷蔵庫のホワイトボードに、ローストチキンがあることを書いておく。
自分の部屋に戻ってからも、映画のフランス語を聞き流しながら、今日の分の日記をつけた。
日付、時間、天気、日本を出てきて何日が経ったのか。今日の出来事や明日の予定。毎日、毎日、とりとめのないことばかりを書き綴ってきた。日本を出てきたその日から、今日までずっと。本棚の一番上には、日本語で書き記された分厚いノートが、何冊も並んでいる。
何時間か過ぎた頃、部屋の外から物音が聞こえてきた。丁度イヤホンを外して耳を休ませていた希佐は、なんとなく後ろを振り返り、部屋の外の気配を探る。
バスルーム、ドライヤー、キッチンに入って、コンロの火をつける音──自分以外の誰かが出す生活音を聞いていると、なんとなくほっとする。この世界には自分以外の人間が存在していて、その人も自分と同じように生きているのだと、実感するのだ。
十二時少し前、少し控えめに希佐の部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
そう短く返事をすると、机のライトだけが灯された薄暗い部屋に、アランが顔を覗かせた。湯気が立ち上るマグを手にしている。
「ココア、飲む?」
「うん」部屋の中に入ってきたアランから、希佐はマグを受け取った。「ありがとう」
「何してたの」
「今日勉強したことをまとめていたの。あと、明日ルイさんが来たらご挨拶できるように、使えそうなフレーズをアランから教えてもらおうと思って」
「見せて」
アランはベッドに腰を下ろすと、希佐が使っていたノートを持っていった。
希佐はその様子を眺めながら、あつあつのココアに息を吹きかける。少し冷めたところで口に含むと、僅かに苦く、ほんのりと甘い味と香りが、すうっと鼻に抜けていった。
そうしている間に、アランは机の端に置いていた希佐のスマートフォンを取り上げ、アプリを立ち上げて自らの声を吹き込んでいく。
「上から順番に」
アランはそう言ったかと思うと、ベッドにばったりと倒れ込んだ。希佐の枕に顔を埋め、ぴくりとも動かなくなる。暖房の電源は入れているが、眠たくなるのを避けるために設定温度を低くしていた希佐は、一度椅子から立ち上がると、アランに布団をかけてやった。触れると暖かそうな赤い髪をそっと撫でてから、再び椅子に腰を下ろす。
希佐はスマートフォンの音量を低くし、それを耳に近づけて、アランが吹き込んでくれた声に耳を傾ける。囁くように小声で復唱する希佐の声を聴きながら、アランは枕に顔をうずめたままくぐもった声を出した。
「男性の場合はEnchantē、女性の場合はEnchantēeで綴りが違うけど、発音は同じ」
「Salutは?」
「HiとかHalloとか、気軽な感じの挨拶。別れの挨拶としても使われる。親しい間柄じゃないと失礼に当たるから、まあ、Bonjourでいいんじゃない」
「adieuも別れの挨拶でしょう?」
「それは滅多に使わない」アランは眠たげな声で言う。「adieuは永遠の別れを表す挨拶。語源がa diueで、神の下へって意味だから。別れの挨拶なら、Au revoirが無難だ」
半ば眠っているような声で説明してくれるのを聞きながら、希佐は今度の公演のタイトルを思い出していた。脚本には『Salut,Et Adiea』と書かれている。Etはおそらく接続詞の一つで、英語でいうところのAndのような意味だろう。日本語にすれば「こんにちは。そして、さようなら」となるのだろうか。
希佐は小さく唸り声を上げながら、ノートにペンを走らせる。一ベージの中には日本語、英語、フランス語が入り混じり、それこそカオスと化していたが、これは良くない兆候だと思い、希佐は日本語の部分を黒く塗り潰した。外国語を話すときに一度日本語を経由すると、会話のテンポが遅れるのだ。舞台に立つ人間として、それは致命的な欠点となる。
「……キサ」
しばらくの間ベッドに横たわったまま黙り込んでいたアランが、不意に希佐の名前を呼んだ。片耳にイヤホンを差してフランス語を聞きながら、希佐は気の抜けた返事をする。
「キサ」
「なあに?」
再び返事をするが、それに対する返答はない。寝言だろうかと思いながらノートにメモを取っていると、もう一度、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。思わず手を止めてベッドの方を見やれば、アランの緑の目がこちらを見つめていたことに気づく。ぎゅう、と胸が締め付けられるように苦しくなったのは、その眼差しが思いの外寂しそうに感じられたからなのかもしれない。
耳からイヤホンを引き抜いた希佐は、スマートフォンの画面を暗転させると、ペンから手を放した。インクが乾いているかどうかも確認せずにノートを閉じ、立ち上がる。そして、アランが掛けている布団を捲ってベッドに入ると、広げられた腕の中にするりと滑り込んだ。
背中からトレーナーの内側に滑り込んだアランの手の平が、希佐の柔肌の上を滑った。反対の手は髪を結い上げていたバレッタを外し、それを枕元に置いている。首筋に顔を埋めながら、アランはもう一度、囁くように希佐の名を呼んだ。
『今日はどんな一日だった?』
希佐の口から紡がれた流暢なフランス語に、アランは目を瞠った。細い首筋に埋めていた顔を上げて、その悪戯っぽい表情に目を留めると、希佐は続ける。
『私はあなたがいてくれるだけで幸せな一日だった』
「……初対面の相手に掛ける言葉としては不向きだと思うけど」
「アランを驚かせようと思って」
これはやはり気を使われているということなのだろうかと、アランは思う。
オーディションの一次審査のときに見たアプローチシーンでは、微塵も動かされなかった感情が、相手がイライアスであるというだけで、思わず目を逸らしてしまいそうになったのだ。
それではいけないと見届けた二人の演技は、同年代ということもあり、見た目のバランスも良く、初々しいカップルそのもののように見えた。ただ、二人が隣り合って並ぶと、危うさというよりも、清潔感のある純潔性を感じてしまうのも確かだ。とても美しいものを見ている気になる。だからこそ、イライアスが演じる男が女を裏切る姿を、今はまだ想像することができない。
「ダブル主演という話は良い。いくらでも書きようはある」アランは事務室でのスペンサーとの会話を思い出していた。「でも、そうするとキサがイライアスに食われる可能性が出てくるわけだけど、君のパトロンはなんて言ってるの」
「マダムはそれでも構わないと言っている。むしろ面白がっていたよ。サプライズが好きな人だからね、何だって楽しんでくれるだろう」
「直し、直しの繰り返しで、そろそろ脚本の原型が失われつつあるんだけど」
「脚本があがらないことには先の予定が立たないからね」
「誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ」
「いやあ、本当に申し訳ない」スペンサーはそう言いながら、自らの頭を軽く叩いた。「件の重鎮、相当シルヴィアにお熱だったようでね、彼女が出ない舞台には立ちたくないそうだよ。約束が違うってさ。シルヴィアも彼に泣きついたんだろうね」
「周囲にこれは出来レースだって触れ回っているって、アイリーンが言ってた」
「確かに、彼女には実力も才能もある。女優役にはぴったりの容貌をしているし、演出家としても申し分のない役者だったと思っているよ」でもねぇ、と言いながら、スペンサーは大きくため息を吐いた。「そんなのつまらないじゃないか。私は観客の度肝を抜きたい。彼らの想像を遥かに超えたものを創造したいんだ」
「キサならそれができると思った?」
「ああ。彼女は天性の舞台女優だ。演じるために生まれてきた天才だよ。それは君も分かっているだろう?」
アランにはときどき、立花希佐の人生そのものが、一つの舞台のように思えることがある。立花希佐という人物を、彼女自身が演じている。そう思ってしまうのは、希佐自身の本質が、自分には見えていなかったからなのだろう。分かったつもりになっていただけで、実際は知れば知るほど、希佐が抱える闇は深く、果てしないものなのだと気づかされる。
「問題は、あの役者と懇意にしている連中が大勢いるってことだよ。私からのオファーは受けるなと釘を刺されたってさ。こんな横暴、許されると思うかい?」
「前途多難だな」
「他人事みたいに言わないでくれよ」
「役者が集まらなければ、主要の登場人物を減らせばいい。その分、内容を濃くできる」
「小劇場の舞台とは違うんだ。見栄えってものがあるだろう?」
「俺の仕事は脚本を書くことだけだ。舞台の見栄えまで気にしてない。それを考えるのが、君の仕事だろ」
「そのためにはまず、何としてでもキャストを呼び戻さないといけないね」
スペンサーは件の重鎮にシルヴィアを推され、自分でも良い役者だと思ったからこそ、オーディションに推薦した。だが、アメイジング・グレイスを聞いたあの日から、スペンサーの心は既に、立花希佐に囚われていたのだ。だからこそ、演出家の権限を使ってまで、二人の人間をオーディションに送り込んだ。それがとんだ番狂わせになるとは思いもしていなかっただろう。あの頃のスペンサーはまだ、希佐の才能を見誤っていたのだから。
だが、希佐の才能を正しく理解してからは、その才能を更に伸ばすための方法を常に模索している。ジョシュアに歌唱指導の話を持ちかけていたときも、希佐のためにと言って頭を下げ、口説き落としたそうだ。元バレエダンサーのルイに、ダンスの振り付けだけではなく、ダンス指導を依頼したのだって、それが希佐に良い影響を与えると考えてのことだった。
スペンサーは希佐を育てたがっているのだ。一流の舞台女優にしたいと考えている。あの男にとって、本人の望みなど知ったことではない。そうあるべきだと思えば、そうせずにはいられないのだ。自分が舞台の頂点を目指していたように、他の誰もが、その頂を目指していると信じ切っている。それを、誰もが目指す道の先にある夢だと、そう思い込んでいるのだ。
希佐の望みがそんなものではないと知ったとき、スペンサーはどんな顔をするのだろうと、アランは考える。きっと信じられないだろう。この公演が成功を収めるにせよ、失敗に終わるにせよ、舞台を降りようとしている、立花希佐の選択が。
夢半ばで表舞台を退かざるを得なかった者のトラウマは、ここにも根強く残されている。
「……アラン?」急に黙ってしまったアランの顔を、希佐が心配そうに覗き込んでいた。「大丈夫?」
「ごめん、考え事してた」
「私のフランス語、変だった?」
「いや」アランは首を横に振る。「綺麗に話せてたよ」
それはお世辞でもなんでもなかった。正しく発音できていたのだ。まるで、ネイティブのように。
それを称賛したところで、聞こえた通りに口にしているだけだと希佐は言うのだろう。だが、それが何よりも難しい。
「勉強をしてるって思うと変に力が入ってしまうから、台詞を覚えてるんだって思うことにしたんだ。そうしたら言葉がするすると頭に入ってくるようになったの。それが楽しくて」
「そう」
「こちらに来てすぐの、英語の勉強をはじめた頃の感覚が役立っているみたい」
希佐はすべてのことに努力を惜しまない。何に対しても真摯に向き合い、ベストを尽くそうとする。そういう姿勢は尊敬に値するが、自分には真似のできない芸当だと、アランは思っていた。
アランは自分の嗜好が働く方向にしか努力することができず、自分が無駄だと考えていることに、一秒でも時間を浪費したくはないのだ。何とか興味を持てるよう思考を切り替えてみたことはあるが、だめなときはやはりだめだった。
アランは、額から差し入れた手の平で、希佐の前髪を掻き上げる。露わになった額にキスをすると、希佐は吐息を漏らすように笑った。
「……気持ちが悪いだろ」
「え、何が?」
「こんなふうに嫉妬されて」
「えっ?」希佐は本当に驚いたという顔をした。「嫉妬って気持ちが悪いものなの?」
ぱち、ぱち、と大きな目が瞬かれる。アランは思いもよらぬ反応に目を丸くしていた。
「ええと、こういう場合、なんて言うのが正しいのかは分からないけれど」希佐は未だ唖然としているアランの目を見つめ、困ったように眉尻を下げた。「私は気持ちが悪いとは思わないよ。だって、それは人として当然の感情でしょう? それに、嫉妬してもらえなかったらどうしようって、そんなふうに思う部分もあるし」
「……キサは嫉妬されたいの」
「アランは?」
「俺は──」じっと見つめてくる希佐の眼差しから逃れるように、アランは目を逸らす。「気持ちが悪かったんだ」
アランの返答に小さく唸った希佐は、微かに眉を顰めて険しげな表情を浮かべ、何かを考えていた。間もなくすると、言葉を選びながら話し出した。
「多分、私が思う嫉妬と、アランが思う嫉妬は、根本的なところが違うのかもしれない」
「どういう意味?」
「アランが気持ち悪いと思ったのは、それが妬ましさからくる感情だったからじゃないのかな。羨望とか憧れとは違う、悪意ある憎しみにも似た感情を向けられれば、誰だって良い気分はしない」
幼い頃から容姿を褒められることが多かった。それと同時に、蔑まれることも多かった。容姿に恵まれているというだけで、施設では執拗な嫌がらせに遭い、そこから抜け出した後も、結局は同じだった。
容姿のあとは才能を妬まれ、お前のような恵まれた人間に俺たちの気持ちは分からないなどと言われて、次々と人が離れていった。陰口を聞かないように耳を塞いでも、雑音は消えなかった。気に入らない他者に対して無関心を貫けない人々が、酷く気持ちが悪かったのだ。
今ならば、暇な人間もいたものだと達観していられるが、当時のアランには、そのあまりの雑音の大きさに、無視し続けるだけの胆力がなかったのだろう。
「私の場合は、その人を素敵だな、すごいな、羨ましいなって思うんだ。でも、自分はその人みたいにはなれないと分かるから、つい嫉妬してしまう」
「何が違うのかよく分からない」
「あのね、私は口に出さないだけで、いつもアイリーンに嫉妬してしまう」希佐は、少し言いづらそうにしながら、そう口にした。「彼女は私にはないものをたくさん持っているから。私よりも背が高くて、痩せっぽちでもないし、とてもスタイルがいい。私がどんなに努力をしても、アイリーンのようには歌えない。最初はそれが悔しかった。もちろん、今でも同じような悔しさはあるけれど」
「君はアイリーンにはないものを持ってる」
「それは分かってる。でも、ありがとう」ふふ、と笑いながら、希佐は目を細めた。「でも、人ってないものねだりをしてしまうものだから、自分を納得させるためには、どうしても時間がかかってしまう」
ふう、と一息を吐いてから、希佐は続けた。
「アランがイライアスに嫉妬してしまうのは、彼が私にキスをしたからじゃない」ずん、と胸を貫かれるような衝撃を覚えたが、アランは唇を引き結んだまま表情を変えなかった。「彼と自分を比べてしまうから」
「待って──」
「だめ」待たないと言って、希佐はアランの唇に、自分の人差し指を押し付けた。「アランは最近になって稽古を再開して、今は一番自分の粗が見えているときだから、余計に考えてしまうのだと思う」
一瞬でも聞きたくないと思ってしまったのは、希佐の言葉が的を射ていたからなのだろう。
イライアスの何に惹かれたかといえば、まるで昔の自分を見ているようだと、そう感じたのが一番の理由だ。そして、かつての自分と同様に、自らの才能を持て余しているという様子も見て取れた。一目で行き場のない感情を抱えているのだと分かり、気づいたときにはもう、声を掛けていた。
無表情を貫こうとする顔に、それでも苦痛が乗っかってしまうのを、希佐は見逃さなかった。
「あなたとイライアスはどこか似ている気がする」希佐はアランの心を見透かしたかのようなことを言った。「二人とも器用な人なのに、自分のこととなると途端に不器用になって、自己主張ができなくなる。海の中は息苦しいから海面に顔を出したいのに、自意識に足を引っ張られて、いつまでも浮上することができない」
「じゃあ、あとは死ぬのを待つだけだ」
「そうだよ」アランの冗談半分の言葉を、希佐は真面目な顔をして肯定した。「最終的に自分を解放してあげられるのは、自分だけだから。周りがどれだけ手を差し伸べたって、自意識を振り解くことができるのは、自分しかいない。自分の力だけで海面まで上って来れなければ、苦しみながら死んでいくしかない」
「キサ……」
「どちらか一方を選ぶしかないんだよね。現状で苦しみ続けるのか、そこを抜け出すために苦しむのか。どちらも同じだけ苦しいなら、私は後者を選びたい。これまでだってそうしてきたから。でも、これは私の選択だから、それを誰かに無理強いすることはできない」
それでも、この女性は、後者を選んでほしいと願うのだろう。それが最も困難なことであると知りながら、悔しかったらここまで上って来いと、ボートの上から手をこまねいている。
覚悟を決めてしまった立花希佐はおそろしく強いのだろうと、アランは思った。
「でも、自分の嫉妬心を素直に認められるのも、すごいことだと思う。私は少し照れ臭くて、なかなか本人には伝えられないな」
以前、アイリーンも希佐が羨ましいと話していたことがある。自分にもあの表現力があれば、もっと高みを目指していけるのに、と。
演者というものには二つの種類があって、一方は完全なる無から生み出される想像を表現する者、そしてもう一方が、自らの経験から得た感情を曝け出す者だ。希佐の場合はおそらく後者で、その上から想像のスパイスを振りかけている。後者の中の天才と呼ばれる人々の多くは、まるで自らの命を削るように、創造に没頭する者が多い。
「アランはこの十年間を無駄にしたと思っているの?」
アンバーの目が、嘘を見逃すまいとするように、アランの目をじっと覗き込んできた。アランはその視線から逃れようとはせず、ゆるやかに息を吐き出した。
「無駄だったと思ったことはない。あの頃は役者を辞められたことに安堵してた。今思えば、少し休みたかっただけなのかもしれないけど」
「だったら、役者としては長い休みを取っていたことにすればいい。その間に脚本を書いたり、小さな劇団を立ち上げて公演活動をしたりして見聞を広めていたって思えば、それだけでなんとなく気分が楽にならない?」
「まあ、物は考えようではあるけど」
「無関心では何の望みもないけれど、私とイライアスを見て何か思うところがあったのなら、私は嬉しい」
夕方、あれほどまで透けて見えていた好意の感情に、気づいていないということはないはずだ。それでも希佐は今、平然とした面持ちでそのときのことを語っている。いや、実際には察していないのだろうか。それとも、意図的に無視することを選んだのか。気づいた上で、気づかない演技を続けているのかもしれない。
それを哀れと思うことはただの傲慢なのだろう。
イライアスは間違いなく、自らの秘めたる情熱を演技にぶつけてくる。希佐はその熱意を受け止め、期待に応えようとするだろう。課題さえ乗り越えることができれば、互いを高め合える、良いパートナー同士なのだ。
それまでに、何とか感情の整理をつけなければとアランが考えていると、希佐の体がするりと腕の中から抜けていった。
「喉が渇いたから、お水を取ってくる。アランも飲む?」
「うん」
「待ってて」
爪先に引っ掛けた室内履きが、ぱたぱたとした音をたてて遠ざかっていく。冷蔵庫を開け閉めする音を遠くに聞きながら、アランはそっと目を伏せた。
出来るかぎりのことはすると決めているのだ。あの舞台の先には、もう何もないのかもしれない。それでも、まだ可能性が残されているのなら、君の隣に立ってみたい。すべてが終わったそのあとで、手に手を取って踊り明かすのもいい。誰もいなくなった舞台の上で、たった独りで踊ることになるとしても、もう後悔だけはしたくないから。
部屋に戻ってきた希佐は、ドアを閉めると、机の上に置いてあるリモコンで暖房の電源を切った。
「あれ、アラン?」ベッドの中で目を伏せているアランを覗き込んで、声を小さくした。「寝ちゃったのかな」
疲れていたみたいだもんね、と独り言を漏らしたあと、手にしていたペットボトルを机の上に置く音が聞こえてくる。キャップを開ける音。水をごくりと嚥下してから、服を脱ぐような気配があった。机の上の電気も消されたようだ。
そうっと布団を持ち上げると、揺らさないように気をつけながら、微かにひんやりとした体がベッドの中に忍び込んできた。どうするのだろうと思っていると、希佐は狭いスペースで猫のように体を縮こまらせ、こちらに背中を向けて横になる。
アランはすぐにも落ちてしまいそうなその体を引き寄せようとするが、そうするよりも先に、希佐が寝返りを打った。思い直したようにアランの片腕を持ち上げ、その下から体を滑りこませて、胸元にぴたりと寄り添ってくる。
『おやすみなさい、アラン』
日本語の挨拶は響きが美しいと思う。少し掠れた声で紡がれる朝の挨拶は愛おしいが、アランは希佐が口にする、一日の終わりを告げる、その言葉が好きだった。
翌日、イライアスは午前中の早い時間帯にやってきた。食後、事務室で映画を観ていた希佐は、慌てて一時停止をすると迎えに出て行く。
「早いんだね、イライアス」
「ルイが来るっていうから」
「ウォーミングアップ、付き合うよ」
「うん」
テレビの電源を落とし、階段を駆け上がって二階に向かう。丁度階段を降りてこようとしていたアランにぶつかりそうになるのを避けようとした途端、バランスを崩して後ろに倒れそうになるのを、伸びてきた手が強く引き寄せた。
「びっくりした」
「……心臓に悪いんだけど」
「ごめんなさい」
希佐はアランの胸に抱き留められた格好のまま、後ろを振り返る。薄暗く、急な階段下を見ると、思わずぞっとしてしまった。今まで考えたこともなかったが、ここから転がり落ちたら、下手をすれば大怪我をしていただろう。
「それで、何を急いでいるの」
「マットを取りに来たんだ。イライアスが来たから、ウォーミングアップに付き合おうと思って」
「ああ、あいつ、家にいると落ち着かないんだろ」
「どうして?」
「ルイが来るから」
足元に気をつけてと言い、アランは希佐のこめかみにキスをすると、そのまま階段を危なげなく降りていった。
まだ心臓が少しだけうるさかったが、希佐は自分の部屋からヨガマットを取ってくると、慎重に階段を降りて事務室に足を踏み入れる。アランは既にPCを立ち上げて、昨夜のうちに届いていたメールをチェックしていた。
希佐が少し離れたところからその様子を眺めていると、アランはため息を吐きながらこちらを見た。
「なに」
「えっ? あ、ううん。まだちょっとドキドキしているから、落ち着かせてから行こうと思って」
「それは俺のことを見てる必要があるの」
「ない、かも」
ごまかすように笑い声をあげた希佐は、頭を掻きながら歩き出す。しかし、アランの脇を通りかかったとき、すっと伸びてきた手が希佐の腕を掴んだ。
「目を閉じて」
「え?」
「いいから」アランを見下ろすように立たされ、希佐は言われるがままに目を瞑った。「息を吸って」
「吸って──」
「吐く。ゆっくり」
何度か深呼吸を繰り返していると、とくとくと無視できないほど速く動いていた心臓が、とくん、とくん、といつも通りの速さを取り戻していくのが分かった。
「落ち着いた?」アランにそう問われ、希佐は目を開くと、小さく頷いた。「集中してないと怪我をするから、気をつけて」
「うん」
最後にもう一度だけ深呼吸をしてから、希佐はスタジオに入った。
スタジオの真ん中で佇んでいるイライアスの立ち姿は、何度目の当たりにしても、視線が奪われるほどに美しい。ファンの人たちが近寄りがたいと思ってしまうのも頷ける。イライアスには冷たい雰囲気があるのと同時に、触れると溶けてしまいそうな儚さがあるのだ。
「お待たせ、イライアス」希佐が後ろから声を掛けると、鏡の中のイライアスと目が合った。「はじめようか」
イライアスのウォーミングアップは完全にルーティン化されていて、最初から最後まで行うのに一時間以上かかる。三年前はこれについていくだけで精一杯で、終わる頃にはくたくたになってしまっていた。加えて、あの頃はバージルとのタップダンスの稽古で散々しごかれていたので、毎日死ぬような思いをしていた。だが、今となっては良い思い出だ。
「イライアスは、そのルイさんって人と知り合いなの?」
「ううん」バーに足を引っかけながら、イライアスは首を横に振った。「僕が一方的に知ってるだけ」
「どんな人?」
「正確。ブレない。宙に浮ける人」
「宙に浮けるの?」
希佐が素っ頓狂な声を上げると、イライアスは口角を上げて微笑んだ。
「本当に浮くわけではないよ。でも、飛び上がったときの滞空時間が驚くほど長い。空中で止まって見えるんだ」
「へえ」
「映像持ってるから、後で見せる」
イライアスのステップがいつもより心なしか軽やかに感じられるのは、その振付師に会えるからなのだろうと希佐は思った。演劇、ミュージカル、オペラは個人的にも観に行っているが、バレエはあまりその機会に恵まれてこなかった。美しい体の動かし方を学ぶためにも、これからは足蹴く通うことにした方がいいのかもしれない。
「今度バレエを観に行こうかな」
「チケットを取ってあげるから、アランと行ってきなよ」
「一緒に行ってくれるかな」
「キサが誘えば行くと思うけど」イライアスはそう言いながら、鏡越しに事務室の方を見た。「詳しいよ、アラン」
「バレエに?」
「多分、子供の頃に叩き込んだんだと思う。ある程度成長してからはじめると限界値が低くなるんだけど、あの人の場合はそんな感じがしなかった」
「……アランってバレエまで踊れるの?」
「メレディス」
「え?」
「あの人、ちょっとおかしいんだ」イライアスの言わんとしていることが分からず、希佐は思わず眉を顰めた。「普通は、言葉を覚えさせるためだけに劇団に放り込まれた子供に、そこまでのことはしない」
「そこまでのことって?」
「ありとあらゆること」
「……どういう意味?」
「アランのためにいろんな才能を集めていたんじゃないかな、多分だけど」
「え、それって……」
「歌手やダンサーをスカウトして、アランに教えさせてた。バレエ、アイリッシュ、競技ダンス、他にもいろいろ。脚本の書き方も、演出の仕方も、全部そこで覚えてる」
ダイアナから聞いていた話とはずいぶん印象が違うと、希佐は思った。
メレディスの劇団は才能の坩堝。歌、ダンス、演技、芸術──アランは覚えが早いから、大人たちがそれを面白がって、様々なことを教えてやっていたと。だが、それがアランの心に闇を生むきっかけになったのかもしれないとも話していた。
「でも、そのおかげで劇団のレベルが格段に上がって、知る人ぞ知る劇団から、誰もが知る劇団になった。全盛期は本当にすごかったよ。アイリーンに連れられて何度か観に行ったことがある」
「アランが立っている舞台も?」
「見たよ。アランはまだ子供だったけど、既に劇団の看板だった。ほとんどの人がアランのことを見に来ていたんだと思う。美術館に飾られた綺麗な宝石に群がるみたいに、みんなが寄って集ってギラギラした目で、アランのことを見てた」
希佐の意識が一瞬にして、三年前のヘスティアに引き戻された。メレディスが初めて二階の小劇場を見せてくれた日だ。百年以上の歴史がある小劇場で、ここから世界に羽ばたいていった舞台役者も多いのだと、そう教えてくれた。
だが、希佐は妙な違和感を覚えていたのだ。あのとき、メレディスがアランについて語る言葉の一つ一つに、微かな執着のようなものを感じていた。まるで、アラン自身に心酔しているような。
今の今まで忘れていたのは、それが自らの勘違いであると半ば確信していたからだ。メレディスとアランの兄弟のような関係を見ていれば、自分は何か酷い勘違いをしていたようだと、そう思わない方がどうかしている。
『──あの舞台に立つことを極端に嫌うアラン・ジンデルが、君という人と一緒にステージに立って、ピアノを弾いて歌まで歌った。それは酷く価値があることだと、君自身が自覚できる日がくるといいのだけれどね』
なぜかは分からない。しかし、希佐はその言葉を思い出した瞬間、背筋が震えて、全身に鳥肌が立った。イライアスの話を真に受けるつもりはなくても、良からぬ想像を働かせてしまうのだ。意図したことではなかったとしても、メレディスの選択の数々が、アラン・ジンデルの未来を決定づけてしまったのではないかと。
正午前、約束の時間よりも早くジョシュアが現れてくれたことで、希佐の思考が切り替えられたのは幸いだった。ジョシュアは両手に荷物を提げ、なにやら上機嫌で扉の前に立っていた。
「ランチを買ってきたよ」迎えに出てきたアランに向かって、ジョシュアは荷物を掲げてみせた。「一緒に食べよう」
新年早々スタジオの近所にデリカテッセンが開店したらしく、どうしても食べてみたかったのだという。衝動に任せて大量に買い込んでしまったが、一人では食べきれないと悟り、差し入れにと持ってきてくれたそうだ。サンドイッチをはじめ、サラダのような総菜や肉料理の他にも、カットされたフルーツなどが、キッチンのテーブルにずらりと並べられる。
後で食べると言って執筆を続けようとしていたアランだったが、ジョシュアに引きずられてやって来ると、目の前に広がる光景を見て心底呆れた様子を窺わせていた。
「これ、全部食べるつもりなの」
「大丈夫、ハムとチーズもあるよ」
「……なにが?」
「あ、こっちはお土産だから」はい、と言って、ジョシュアはアランに紙袋を押し付けている。「冷蔵庫に入れておいてね。あ、ワインも入ってるから、良かったら飲んで」
「いらない」
「まあまあ、そんなこと言わないで」
「持って帰って」
「だめだめ、君たちはもう少し食べた方がいいんだ。特にキサ、君は一、二キロ体重を増やした方がいい。今度の舞台は小劇場の倍は広いからね、そこを飛んだり跳ねたり走り回ったりしながら歌うんだから、もっと体力をつけないと身が持たないよ」
「えっ? あ、はい」
「別に太れって言ってるわけじゃない。筋肉量を増やせってことね。劇場の一番後ろの席まで声を届けるためには、まずは喉よりも腹筋を鍛えないと。パリオペラ座の元エトワールがダンス指導をしてくれるらしいし、バレエ筋の鍛え方を教えてもらうといい」
「でも、二キロも増やしたらイライアスに負担がかかるんじゃ……」
「僕なら大丈夫」イライアスは無表情のまま、右腕で力こぶを作るような仕草を見せた。「これでも鍛えてるから」
ジョシュアが買ってきてくれたものは夜に回し、希佐とイライアスは軽くフルーツを食べるだけに留めておいた。アランは酷く面倒くさそうにサンドイッチを口に運んでいたが、その傍らでは、ジョシュアが気持ち良いくらいの食べっぷりで目の前の器を空にしていく。痩せの大食いとはこういう者のことを言うのだろうと思いながら、希佐はその様子を眺めていた。
「スペンサーからは、イライアスの歌を重点的に見るようにって言われてるよ」食後にアランが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ジョシュアが言った。「キサは及第点が出ているから、まあ、週に二、三回通ってもらえればいいかな。一緒に細々とした部分を修正していこう」
「僕は──」
「君はほぼ毎日だよ、イライアス。キサだってオーディション期間中は毎日通っていたんだから、できないなんてことはないよね」
「……」
「それと、うちのスタジオには物凄く狭いけど防音効果が抜群の自習室があるから、二人ともいつでも来て使っていいよ。普段はアシスタントがストレス解消に使ってるだけだし、問題ないでしょ」
「ストレス解消、ですか?」
「鬱憤が溜まるとそこに行って大声で何かを叫んでるんだ。詳細は聞いたことがない。怖いからね」
イライアスは自分のペースが崩されることを嫌うが、今回ばかりは仕方がないと思ったのか、多少は不満そうな面持ちを浮かべながらも、ジョシュアの要求を全面的に受け入れていた。自らの課題が歌と芝居であるということを、正しく理解しているのだろう。今までも、こうして自分自身と折り合いをつけながら、舞台と向き合ってきたに違いない。
パリ・オペラ座バレエ団元エトワールが、スペンサーに連れられてスタジオにやって来たのは、それから数時間後のことだった。アランとジョシュアが事務室で話をしていたので、ブザーの音を聞いた希佐がスタジオの玄関まで出迎えに行くと、そこでは流暢なフランス語が飛び交っていた。
希佐は途端に思考が停止しかけるが、何とか付け焼き刃の知識を掻き集め、二人の会話に耳を傾ける。
「salut,Kisa」にやりと笑うスペンサー・ロローの顔を見て、希佐は瞬時に嫌な予感を覚えた。「C'est Kisa.Elle jouera le rôle principal dans la prochaine étape.」
あまりに意地が悪いと思いながらも、希佐は朗らかな笑みを浮かべ、スペンサーの隣に立っている男を見上げた。
身長はイライアスよりも高いが、アランよりは低い。胸元の辺りまで伸びている黒髪を肩口で結わえ、灰色掛かった青い目で興味深そうに希佐のことを見下ろしている。
「Je m'appele Kisa. Enchantée de vous rencontrer.」
「Vous parlez très bien le français.」希佐が差し出した右手を力強く握り締めたその人は、白い歯を覗かせて嬉しそうに笑った。「Je m'appelle Louis. Ravi de vous rencontrer, Kisa.」
今の希佐には、二人が何を言っているのかを、すべて把握することは不可能だった。だが、何となくなら、ニュアンスで、言っていることが分かるような気がすると、自分を落ち着かせていた。
「On m'a dit que vous ne parliez pas français.」
「Elle étudie le français.」
背後からやって来たイライアスがフランス語で何かを言い返す。その言葉遣いはあまりに自然で、フランス語を話せるのかと問いかけた希佐に、少しだけと答えたのは謙遜だったのだと、今更になって理解した。
「ワタシの英語よりも上手ですよ」
「あ、ありがとうございます」
Merci beaucoup.と応じる希佐を、ルイと名乗った男性はまじまじと眺めたあと、その傍らに立っているイライアスに目を向けた。視線を感じたらしいイライアスは、その表情を微かに強張らせる。
「たまには立ち話をするのもいいが、今はスタジオの中に入れてもらっても構わないかな」
「はい」希佐は扉を大きく開くと、二人を迎え入れた。「どうぞお入りください」
アイルランドに渡ってきたばかりの頃を思い出すと思いながら、希佐は扉を閉めた。すぐに鍵を掛けて後ろを振り返ると、イライアスとルイがフランス語で何かを話している。耳にしたことのある単語だけが浮き上がって聞こえ、それ以外の言葉は、ただの音として水のように流れていった。
「いやあ、驚いた」にこにこと笑いながらスペンサーが声を掛けてくる。「キサは本当が耳にいいんだね。非常に流暢なフランス語だった」
「自己紹介をするだけで精一杯です」
「最初は誰でもそんなものさ」スペンサーはそう言いながら、スタジオをぐるりと見回した。「アランはどこにいるのかな」
「事務室でジョシュアと話しています。呼んできましょうか?」
「いや、いいよ」
スペンサーはルイに短く断りを入れてから、事務室の方へと歩いていった。ルイは気軽に応じ、ひらりと手を振っている。それからすぐに希佐の方を見ると、つかつかと近づいて来た。
「アナタ、バージルの弟子」
「え? あ、はい」
「ワタシ、彼を知っています。最高のタップダンサーです。いつか一緒にステージに立ちたい」
「そう言っていただけて彼も喜ぶと思います」
「呼べますか?」
「バージルを、ですか?」思わずイライアスを見やれば、僅かに困惑しているような、苦々しい表情を浮かべていた。「後で連絡をしてみます」
「Merci」
そう言って嬉しそうに笑う顔は何とも無邪気なもので、希佐は拍子抜けしてしまう。言葉が通じない上に、厳しい人だったらどうしようかと、内心では怯えていたのだ。だが、とても優しそうな人だということが分かり、人知れず安堵の息を漏らす。
まさか、この認識がものの数十分で崩れ去るなどとは、このときはまだ想像だにしていない。
「今更挨拶なんかする必要あるの」事務室から引っ張って来られたアランは、億劫そうに口を開いた。「スタジオは好きに使っていいって伝えてある」
「Salut,Allan」気安いルイを煙たがるように、アランは軽くため息を吐きながら、僅かに手を挙げて応えていた。「Votre ange est adorable.」
「本人に分からないと思って好き勝手なことを言うのはどうかと思うけど」
「アナタが怒る、怖いですね」
「そうさせるのはどこの誰だよ」
アランは胸の前で両腕を組むと、隣に立っているジョシュアにルイの紹介をしていた。ジョシュアは持ち前の童顔にかわいらしい笑みを浮かべると、差し出された手を握り返している。
「スケジュールは二人で相談をして、役者に負担のない範囲で時間配分を決めてくれ。私の希望は、イライアスが歌唱中心、キサがダンス中心の稽古だよ」蚊帳の外に立たされながら、希佐はイライアスと顔を見合わせた。「まあ、先は長いからね。とりあえず基礎からみっちり鍛え直すつもりで、双方ともに頑張ってくれたまえ」
アランはすぐさま事務室に引き返していき、ジョシュアとルイは自分たちの時間の取り分について、立ったまま話し合っている。フランス語は苦手だというジョシュアのために、スペンサーが間に入って通訳を行っていた。
希佐が体を冷やさないように柔軟をしていると、イライアスが水分補給から戻って来た。開脚をしている希佐の前にしゃがみ込み、揃えた膝に顎を乗せて物言いたげな顔をしている。
「どうしたの?」
「キサと一緒に稽古ができない」
「ダンスの?」こくりと頷くイライアスを見て、希佐は少しだけ笑った。「大丈夫、これからも今まで通りに付き合うよ。それに、その日に教わったことは次の日までに体に染み込ませておきたいから、私の方こそ稽古に付き合ってもらいたいくらいだし」
「でも、無理はよくない」
「お互いにね」そう言いながら両手を差し出すと、その場に立ち上がったイライアスが希佐の体を引っ張り上げ、同じように立ち上がらせた。「そのときの体の具合と相談をしながら決めよう」
「うん」
希佐が舞台の上でしか正しく呼吸することができないと感じるように、イライアスもまた、踊ることでしか自らを正しく表現することができず、生きていることを実感できないのかもしれない。
いつだって舞台上にいる自分を夢想している。演じることに憑りつかれている。自分ではない誰かになるあの瞬間、自分の身に降りかかるすべてのことから解放されて、自由になれるような気がするのだ。もしかしたらイライアスも、そう感じているのだろうか。
二人で柔軟を続けながらとりとめのない会話を続けていると、交渉を終えたらしい面々がこちらに向かってやってくる。バーに乗せていた足を下して佇まいを正した二人を見て、スペンサーは言った。
「キサは月火が歌唱、水木金がダンスレッスン。イライアスは月火がダンス、水木金が歌唱レッスンということで話がまとまったようだよ。土日は休養日にするも良し、個人レッスンに当てるも良しだ」
「分かりました」
「今日はルイが君たちのダンスレベルを確認しておきたいそうだから、付き合ってあげてくれるかな」
「はい、もちろん」
「イライアスもいいかい?」
「はい」
返事をするなり密かに深呼吸をしたイライアスを横目に見てから、希佐はこちらに向かってやってくるルイに目をやった。肩から肩甲骨の筋を伸ばすようにストレッチをしながら近づいて来たルイは、ちらりと希佐の足元を見やる。
「ポワントは持ってマスか?」
「はい」
「あー、んー──Avez-vous appris les leçons de base de la barre ?」
「基本のバーレッスンは習っているかって」
「Oui.」すかさず通訳をしてくれたイライアスに向かって片目を瞑り、希佐はルイに向かって頷きかけた。「J'ai appris d'Elias.」
「Bien.」
言語を早急に身につけたい場合は、それを実際に口に出し、使ってみることが最も手っ取り早い手段だと、希佐は知っている。間違ったら恥ずかしいなどという感情は、真っ先に捨て去るべきだ。多少間違ったところで相手は理解してくれるし、優しい人はその間違いを正してくれる。
「では、ポワントに履き替えてクダサイ」
希佐は念のために用意しておいた数種類のダンスシューズの中から、履き古したトゥーシューズを取り上げ、その場で履き替えた。ようやく足に馴染んできたと感じる頃には、爪先が柔らかくなっていて、買い替えることが多い。これもそろそろ寿命だろうと思いながら、爪先に体重を乗せた。
ユニヴェール時代、アルジャンヌを演じる上でバレエの女性らしい踊りが役立つと聞き、稽古に取り入れてはいたのだ。それが足首の強化にもなるとも言われていた。タップダンスと同様、素人に毛が生えた程度の成果しか得られていなかったと知ったのは、トゥーシューズを履いてバーレッスンに挑戦した初日の、イライアスの顔を見た瞬間のことだった。
「大丈夫、僕が全部教えるから」
あのときの、自分を見るイライアスの憐れむような眼差しは忘れられないだろうと、希佐は思う。
ルイのスマートフォンが奏でる音楽に合わせて一通りの基本動作を終えると、普段以上の疲れが希佐の体を襲っていた。ルイは、寸前までの柔和な面持ちを一瞬にして消し、厳しい眼差しで希佐の一挙手一投足を睨みつけていたからだ。
「次、ボールルーム」
Next.と急かすように言われた希佐は、息を吐きながらバーの前を離れ、靴を履き替えに向かった。額から、ぽたり、ぽたり、と汗が伝い落ちる。ぱたぱたと手の平で顔を仰いでいると、その様子を見ていたスペンサーが、気を利かせて暖房の設定温度を下げてくれた。
スタンダードをワルツ、スローフォックストロット、ヴェニーズワルツ、タンゴと順番に踊らされ、さすがのイライアスも多少の疲れを窺わせている。
「キサ、疲れた?」稽古着の袖で汗を拭う希佐を見て、イライアスが声を掛けてきた。「足が動いてない」
「ごめん、次は合わせる」
今日は朝からずっと踊りっぱなしで、既に筋肉が張り、乳酸が溜まってしまっていた。明日は酷い筋肉痛に襲われることだろう。しかも、最後に残されたのは、よりにもよってクイックステップだった。体力はまだ残っているが、足がずっしりと重く感じられ、思うように動かすことができない。
「休憩する?」
「ううん、大丈夫」
休憩など挟もうものなら、余計に動かなくなってしまう。これ以上は踊れませんなどとは口が裂けても言いたくなかった希佐は、両足を軽く揉み解すと、両頬を軽く叩いた。
自分のせいでイライアスの評価まで低くされる事態だけは避けなければならない。大丈夫、あと一曲だ──そう思いながらスタジオの中央に進み出る希佐の様子を、ルイは黙って睨んでいる。
見られていることを意識してはだめだ。見られていると思うと、自分の肉体をいつも以上に意識してしまい、体が硬くなってしまう。意識を遠く、遠くへと飛ばそう。そして、自分ではない誰かと入れ替える。
恋に落ちた男と踊る女。未来は希望に満ちていて、不安など何も感じてはいない。今はただ、この男と踊ることだけが幸せで、他にはもう何も見えない。目の前にいる、この男以外は、視界に入らない。この世に蔓延る煩わしい柵のすべてから解放されて、ただ自由に、肉体を解放するのだ。
音楽が止む。スタジオ中を縦横無尽に駆け巡るようなステップの音も消え、アランはPCから顔を上げた。一体あの二人に何曲踊らせるつもりだと思いながら、机に手をついて立ち上がる。朝に少し食事をして、昼に果物を食べたきり何のエネルギーも補給していないのだ、もうとっくに限界は迎えているはずだった。
ぼさぼさの赤毛を掻き上げながら事務室を出たアランは、スタジオの壁を背にして立っているスペンサーとジョシュアに目をやった。
「なに、まだ踊らせるつもりなの」
「どうやら彼はそのつもりのようだね」スペンサーたちから離れた場所に立っているルイは、先ほどとはまるで別人のような顔をし、希佐とイライアスの方を睨んでいる。「キサ、今日は調子悪いのかな。全然踊れていないようだけれど」
「午前中の早い時間帯からイライアスに付き合っていたら踊れなくもなるだろ」
「朝からずっと?」
「八時くらいから。昼に少し休憩したくらいで、あとはずっとスタジオにいる」
希佐は肩で呼吸をしていて、明らかに苦しそうにしていた。イライアスですら疲れた様子を覗かせているので、希佐の体の負担を軽くしようと苦心していたらしいと分かる。憧れのダンサーが目の前で自分たちのダンスを見ているのだ、多少は格好つけたくもなるだろう。
「ぼくが見たって二人は疲れてるって分かるのに、なんでこんなことをさせるわけ?」
「限界を知っておきたいのだろうね」スペンサーはジョシュアの方は見ずに答える。「それに、疲れているときほど当人たちの真価が発揮されることもある」
「ねえ、歌は喉を酷使しすぎると炎症を起こして声が枯れるんだけど、そういうのってダンスも一緒じゃないの? あんまり肉体を酷使しすぎると、怪我をすると思うんだよね、ぼくは」
「もちろん、その通りだよ」
「先は長いって言ったのはどこの誰だったかな」
「彼にも彼なりの考えがあってやっていることなのだろうから、今は静観していようじゃないか」
「休みなく働かせるのは効率的じゃないよ」
「まあまあ」不愉快だという表情を隠そうともしないジョシュアを、スペンサーは苦笑いを浮かべながら宥めすかそうとしていた。「次の一曲が終わったら止めに入ろう」
その選択が命取りにならないといいがと思いながら、アランは二人の方に視線を戻す。
僅かなインターバルが許されているのだろう、希佐は体を前屈みにさせ、膝に手をついて呼吸を整えていた。イライアスはそんな希佐に声をかけ、気づかっている。大丈夫だと言って笑う希佐の足は、痙攣を起こす寸前のようにも見えた。
止めに入るべきなのだろう。だが、バージルが言うところの過保護という言葉が、アランの脳裏をよぎる。自分の限界は自分で分かるはずだ。それに、これ以上は無理だと判断をすれば、イライアスが止めてくれる。
スペンサーが次で止めさせると言っているのだ、自分は部屋に戻って執筆の続きでもしようと踵を返しかけたアランの耳に、ぱしん、と頬を打つ音が聞こえてきた。
「あ……」
思わず足を止めて振り返ったアランの口から、意図せず声が漏れた。スペンサーとジョシュアがこちらを横目に見るが、アランの目は希佐に向けられたままだった。
知っている。あれは今までにも何度か目にしてきたものだ。イライアスもそれに気づいたのだろう、あえて声はかけず、ただその様子を見守っていた。
乱れていた呼吸が、少しずつ整っていく。張っていた肩がすとんと落ちて、背筋と首がすっと伸びる。顔つきががらりと変わる。疲労で引き攣っていた表情に柔和さが滲み、少女のようなあどけなさが表れた。
イライアスを見る目に、星が宿る。存在そのものが夢のように輝いて、眩しいほどだった。恋をしている。そう表現するのが、最も正しい。
「動画、回さないの」
「なんだって?」
「記録しておかないと後悔すると思うけど」
ジョシュアがポケットから取り出したスマートフォンで動画の撮影をはじめてすぐ、ルイが音楽を流す。I don't mean a thing──競技ダンスでも頻繁に用いられる一曲だ。アランは以前、これでバージルがタップダンスを踊っているのを見たことがあった。
腕を広げて待つイライアスの下へ、希佐は足取り軽く向かう。相手のホールドの中に収まるその瞬間、アランはいつも目を奪われていた。軽く伏し目がちに、微かに恥じらうような表情を浮かべながら、背筋を美しくしならせて、僅かに頭を傾ける。
「う、わあ……」
顔の前に構えたスマートフォン越しにそれを見ながら、ジョシュアの口から感嘆の声が漏れた。
二人が踊るペアダンスの中では最も難易度の高い振り付けだ。約一カ月前、ここで踊ったときよりも足並みが揃って感じられるのは、希佐の調子が異常なほど良いからなのだろう。小刻みなステップを踏みながら、何度も飛び上がり、フロアを駆け抜けていく。
むしろ、イライアスが希佐に引きずられているように見えたが、そこはすぐに修正を加えていた。先へ、先へと一人で行こうとする希佐を自らの腕の中に引き留め、自身のリードの中で華として咲かせている。アランたちの前を、二人は風のように走り抜けていく。
希佐を追いかけていたはずの目が、いつの間にかイライアスに向けられていたことに気づいたのは、その顔に浮かぶ笑顔を見て、心の奥底が燻るように疼いたからだった。
そうだ、希佐の言う通りだ。自分は、イライアスが羨ましくて仕方がないのだと、アランは認めざるを得なかった。
自分が途中で諦めてしまったすべてを、イライアスは持っている。たとえどのような苦難が降りかかろうとも、決して背かず、道を逸れずに、努力を惜しまず、まっすぐに歩き続けてきた。自分にはできなかったすべてを、イライアスは成し遂げている。
希佐は、アランとイライアスはどこか似ていると、そう言った。だが、実際には違う。イライアスの方がずっと強い人間で、自分はあまりに弱く、脆かったのだ。他者に流されることのない確固たる信念を持った男と、自らの意思を貫き通すことすらできず、高くなっていた鼻っ柱を折られ、自信を喪失してしまった哀れな男。
「イライアスがあんなふうに笑っているのを初めて見たよ」スペンサーが驚いたように吐露する。「あんな顔を引き出してしまうんだから、つくづく恐ろしい役者だね、彼女は」
イライアスは己の自意識を踏みつけ、飛び越えて、希佐の背中を追いかけていくのだろう。置いていかれまいと手を伸ばして、共に駆けていくに違いない。
自分はその間も、海面に浮上することができず、海の中で苦しいともがいている。差し伸べられた手を掴もうとしても、自意識が邪魔をして水を掻くばかりだ。自分の力だけで水を蹴り、海面に浮上しなければ、後はもう、苦しみながら死んでいくしかないというのに。
楽しそうに、飛んで、跳ねて、舞い、踊る。
自分が簡単に手放してしまったものが、今、そこにある。本当は、あんなふうになりたかった。現実を忘れてしまうくらい、舞台に夢中なままでいたかった。
自分ではない誰かを演じることで、日々救われていた。つらい現実を忘れられた。舞台の上でなら、自分はみなしごでも養い子でもなく、そこにはあたたかな家庭があって、家族がいて、たとえそれが仮初めのものであったとしても、そのときだけは幸せだった。せめて、幸せでありたかった。
もう一度、あんなふうに笑って踊ることができるのなら、もう、あとはいつ死んだって構わない。
イライアスの手に送り出され、勢いのままに二回転──ぴたりと止まったその視線の先に、満足そうな笑みを浮かべたルイの姿があった。たっぷりと五秒ほど見つめ合ったあと、胸に手を当てて膝を折り曲げ、深々とお辞儀をする。
その状態からいつものように頭をもたげた途端、抗うことのできない立ち眩みに襲われ、希佐は真後ろに倒れ込みそうになった。顔から血の気が引いたのも束の間、隣から伸びてきたイライアスの腕が腰に絡みつき、体がぐっと引き寄せられる。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう」
だが、残念なことに、今日はもうこれ以上踊れるような気がしない。体が酸素を求めるがままに呼吸を繰り返していると、ぱちぱちぱち、と拍手の音が聞こえてきた。顔を上げれば、鏡の前に立っていたルイがこちらにやって来て、イライアスの体ごと希佐のことを強く抱き締める。
「C'était une très belle danse!」ぎゅうぎゅうと締め付けられる感覚の中、興奮した声が耳元で叫ぶように言った。「Sa danse était spectaculaire et pleine de joie. Elias, ton sourire est aussi très beau.」
何を言われているのかはさっぱり分からなかったが、何かを褒められていることは理解できた。なぜなら、ルイの言葉を聞いていたイライアスの表情が、どこか嬉しそうに見えたからだ。
とりあえずのところはほっと胸を撫で下ろした希佐は、何とか自分の両足でその場に立つと、後ろを振り返ってスペンサーやジョシュアの方を見る。スペンサーはステップを踏むような足取りで三人の下までやって来ると、にっこりとした笑顔を浮かべた。
「最後のクイックステップは格別だったね。久しぶりにダンサー心が疼いたよ」
「ご満足いただけて良かったです」
「自分の役柄をイメージして踊ったのかい?」希佐は滴る汗を拭いながら頷く。「すごくよかったよ。でも、不思議だね。君は自分の意思で踊るよりも、何かを演じながら踊るときの方が、明らかにパフォーマンス能力が向上する」
「歌うときもそうだよ」手に持ったスマートフォンを操作しながら、ジョシュアが言った。「キサは役が入った途端に、歌い方が変わる。声帯の使い方からして違うから、ずっと不思議に思っていたんだよね」
周りが自分の話をしているということは分かるが、頭がぼうっとしていて、話題についていくことができない。それでも何とか意識を保っていると、イライアスがスタジオの隅にある小さな冷蔵庫から、良く冷えた水を持ってきてくれた。渡されたペットボトルの蓋を開けられずに手こずっていると、代わりに開けてくれる。
「アナタは二次審査よりも一次審査の方がよく踊れてました」水を飲んでいる希佐に向かって、ルイがそう声を掛けてくる。「でも、今日の方がずっとイイ」
「ありがとうございます」
「互いに信頼してるの、分かります。特にイライアス、よくキサを支えました」
イライアスの表情からは笑顔がすっかり消えてしまっていた。それどころか、無表情を通り越して、眠たげな面持ちを浮かべているのが分かる。
「キサ」
「はい」
「まず、足を鍛えます。それから、彼についていくための体力も必要デス」ルイは希佐の震える膝を一瞥し、先を続けた。「今、体重はどのくらい?」
「7ストーンと8ストーンの間を──」
「キログラムがいいデス」
「49か50キロくらいです」
「身長は?」
「5フィート──いえ、168センチあります」
「うーん」そう唸り声を上げながら、ルイは希佐のウエストを両手で包み込むようにして掴んだ。「Je pense que je suis trop maigre.」
「え?」
「痩せすぎだと言っているよ」スペンサーがルイの言葉を訳して伝える。「確かに、筋肉量を少し増やした方がいいかもしれない」
そう言うスペンサーの言葉を聞いて、ジョシュアは「ほらね」と得意そうにしてみせた。
「バレリーナではないのだから、細くある必要ない」
「はい」
「食生活、見直してくだサイ」
「Oui.」
「良い返事デスネ」
身長は多少伸びたが、体重はユニヴェール時代から変わっていない。いや、本当はもっと痩せていたのを、食生活を改善させてようやくここまで戻したのだ。希佐自身はこれで調子が良いと思っているのだが、ダンスのプロが増やした方がいいというのなら、そちらが正解なのだろう。
「デリで買ってきたものがまだたくさん残っているし、みんなで夕食にするのはどう?」
そのジョシュアの提案は全員に受け入れられた。希佐とイライアスはクールダウンをしてから行くと伝え、スタジオに残る。あの三人に付き合わされるアランの姿を想像して、希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「キサはすごいね」がちがちに固まりそうになっている体を念入りに解していると、イライアスが希佐の方を見て言った。「いつだって僕の上を飛び越えていく」
「まさか」
「本当だよ」
いつになく真剣な顔をしているように思えて、希佐は開きかけていた口を噤む。希佐にしてみれば、イライアスの方がずっとすごい存在で、そのような人に僕の上を飛び越えていくなどと言われることは、酷く恐れ多いことのように思えた。
「キサの存在は僕の励みになっているんだ」
「本当?」
「尊敬してる」
「ありがとう。でも、私だってイライアスのことを尊敬しているよ。今度も舞台だって、イライアスと一緒に立てるのがすごく嬉しいし、あなたと釣り合いを保つためには、もっと努力しないとって思う」
「キサはもう十分に努力してるよ」
「そうかな」
「キサがどんな要求にも応えてしまうから、周りはそれが簡単なことなんだって勘違いする。簡単なことなんて何一つない」
「イライアスは優しいね」
「僕が、優しい?」希佐の言葉に、イライアスは少し困ったような顔をした。「僕、優しくないよ」
「そんなことない」
「本当のことを言ってるだけ」
イライアスの言葉にはいつも嘘がない。誰が聞いてもそれが実直な言葉だと分かる。だからこそ、その正直すぎる言葉を向けられた人の中には、イライアスが氷のような心を持った冷たい人間だと、そう思ってしまう人もいるのだろう。だが、こんなにも真摯にパートナーと向き合い、相手の能力を引き出そうとしてくれる相手役に恵まれることは、このロンドンでは滅多にない。
華と器で表すのなら、イライアスは間違いなく華だ。器にしてしまうには勿体ない。自分がもっと輝かせてあげなければと、希佐は思う。クイックステップを踊っていたときのような、それを見た者が恋に落ちてしまうくらいの笑顔を、舞台上でも引き出してあげたいのだ。
いつもより時間をかけたクールダウンを終えて二階に向かうと、キッチンは軽いパーティ状態だった。ジョシュアが手土産に買ってきたワインを開け、それをマグに注いで豪快に飲みながら、英語とフランス語をごちゃ混ぜにして会話をしている。
「イライアス、先にシャワーを使って」
「え?」
「私は後でいいから」希佐はバスルームのドアを開けると、イライアスをその中に押し込んだ。「タオルの場所は知ってたよね。使い終わったタオルはかごに入れておいてくれればいいから」
「あ、いや、あの」
「そのまま外に出たら帰るまでに風邪を引くかもしれないし、何より気持ちが悪いでしょう?」
ごゆっくり、と言ってドアを閉めた希佐は、とりあえず顔を洗うためにキッチンに足を向けた。
テーブルを囲んでいる四人の男たちの中で、唯一アランだけが不愉快そうな雰囲気を隠そうともせず、頬杖をついて退屈そうにしている。その後ろに回り込んでシンクの前に立ち、希佐が手と顔を洗っていると、すっくと立ちあがったアランが上の棚からタオルを取り出してくれた。
「ありがとう」
「足、大丈夫なの」
「うん、ほぐしたら大分良くなった」希佐はタオルから顔を上げ、アランを見上げた。「あとで念入りにマッサージをすれば、明日はなんとか最小限の筋肉痛で済みそう」
「そう」
「そんなことより、みなさん楽しそうだね」
「仕事の邪魔だから早く帰れって言ってるんだけど」
「私がここにいるから、下に行って続きを書いてきてもいいよ」
「君にこの有象無象の相手は無理だ」
「誰が有象無象だって?」こちらの話に耳をそばだてていたらしいスペンサーが、聞き捨てならないというふうに言った。「我々のような、稀有な才能を持った演劇界の将来を背負って立つ優秀な人材に向かって、よくもまあ有象無象などと言えるものだね、アラン」
「酒を飲んで声をでかくするような連中は全員がすべからく有象無象だろ」
「君もそろそろ新進気鋭の脚本家から脱却したい頃合いだろう?」
「別に」アランはそう言いながら、冷蔵庫から取り出した二リットルの水をテーブルの上に置くと、空になったワインボトルを取り上げた。「演出家なんか辞めたいって嘯いてたのはどこの誰だよ」
「他に食える仕事があるなら今すぐにだって辞める心積もりは常にあるさ。それどころか、毎度思っているんだよ、この舞台が私にとっての最後の舞台になるだろうってね」
「え……?」
「おや、驚いたかい?」希佐の反応を見て、酔いが回った様子のスペンサーは笑った。「どうやら、演出家は私にとっての天職だったようでね。ただ、この天職を一生の仕事にしたいと思えるほど好きになれるかどうかは、まったくの別問題だった。なにせ、この仕事はありとあらゆる方向からがんじがらめにされて、自由に身動きが取れない。舞台の上で自由に舞い踊っていた私に言わせれば、窮屈極まりない仕事だよ」
「あー、それは分かるなぁ」ジョシュアは残っていたワインをぐびぐびと飲み干したあと、大きな声で同意する。「今の仕事、自分に向いているとは思うんだけど、どうにもしっくりこない感じがあるんだよね。かといって、他にやりたいこともないから、このままずるずる続けていくんだろうな」
「アナタたちはまだ若いのデスから、まだまだ先は長いデスネ」
「え、ルイって何歳?」
「45デス」
「はあ?」ジョシュアは驚いたような声を上げてから、けらけらと笑い出した。「バージルが今年で40って聞いたときも驚いたけど、ルイは45歳? うわあ、ダンサーの間では若返りの秘薬でも出回っているの?」
「ああ、そうでした、バージル!」
座っていた椅子を倒しそうな勢いで立ち上がったルイは、男たちの迫力に圧倒されて立ち尽くしている希佐の前までやって来ると、タオルを握っていた手を取った。
「バージル、連絡してくれる言いましたネ」
「えっ? あ、はい、そういえば……」
「お願いします」
そう懇願されてしまっては、無下に断るわけにもいかない。
希佐は握られていた手をやんわりと解くと、キッチンの隅に置いて充電していた自分のスマートフォンを手に取り、画面にバージルの連絡先を表示させた。時刻は午後九時前──可能なら出ないでくれた方がいいような気がすると思いながら、スマートフォンを耳に当てる。
『おう、新年早々どうした?』三コールも鳴らないうちに出てしまったバージルの声を聞いて、希佐は思わずため息を吐いてしまった。『おい、なんだよ、ため息なんか吐いて』
「実は、バージルに会いたがっている人がいるんだけど」
『……待て、お前のその口振りを聞くかぎりじゃ、あんまり良い予感はしねぇな』
「違うの。急な話だから、バージルが驚くだろうと思って」視線を感じて肩越しに後ろを振り返ると、ルイは期待に満ちた面持ちで希佐を見つめていた。「ルイってバレエダンサーを知っている? パリの──」
『オペラ座バレエ団のエトワールか?』
「うん、そう」希佐は頷きながら、自分のことを呆れたように見ているアランに横目を向けた。「実は、その彼からバージルに連絡をしてほしいと言われていて……」
『なんでまた』
「分からないけれど、バージルのファンなのかも。いつか一緒に舞台に立ちたいって言っていたから」
『へえ』
「今から来られたりはしないよね?」
『悪いけど、これからハンナを風呂に入れるんだ。あいつ、公園で遊んでたら急に池の中に飛び込みやがって、今体中ドロドロなんだよ』
「うわ、それは大変だったね」
『明日からもしばらくは立て込んでるな』
「それなら、都合のいいときに、少しでもいいから顔を見せに来てくれないかな。これからしばらくは、ここのスタジオでダンスの稽古を見てもらうことになっているんだ」
『……お前、なんでそんな必死なんだ?』
「物凄くキラキラした目でこっちを見ているから、がっかりさせたくなくて……」
口元に手を当て、こそこそと囁くように話しながら、希佐はルイに向かってにこりと微笑みかける。ゆっくり動きながらアランの陰に入ると、その場にしゃがみ込んでから次の言葉を待った。
『俺が行かないと稽古の雰囲気が悪くなる感じがあるのか?』
「え? ううん、そんなことはないと思う」
ここでバージルは来られないと伝えたところで、酷くがっかりはするだろうが、不和が起こることはないだろう。希佐がひそひそ声でそう伝えると、バージルは何秒か黙り込んだあと、短く息を吐いた。
『まあ、暇なときに行って挨拶するくらいならいいか』
「本当?」
『お前に人を紹介されるのも悪くないと思ってな』
「別に私が紹介するわけでは……」
『いや、俺はお前の紹介でそいつと会うんだよ。今のうちに恩を売っておけば、後でお前に良いことがあるかもしれないしな』
「私はそんなふうには──」
『分かってるって』バージルはそう言いながらくつくつと笑った。『じゃ、もういいか? ハンナが待ってる』
「あ、うん、大変なときにごめんなさい。ハンナによろしくね」
『ああ、じゃあな』
電話が切れる間際、わん、と吠えるハンナの声が聞こえてくる。ごめん、ごめん、と続く優しげな声のその先は、聞くことができなかった。
暗転させたスマートフォンを抱いて安堵の息を吐いた希佐は、アランの影から出て行くと、まるで少年のような顔をしてこちらを見ているルイと向き合った。これが、あの厳しい眼差しで自分のことを睨んでいた人と同一人物とは、どうしても思えない。
「今夜は来られないと言っていました」おう、と漏らしてしゅんとしてしまった様子を見て、希佐は慌てて続ける。「でも、時間があるときにスタジオまで顔を見せに来てくれると言っていたので──」
希佐が最後まで言い終えないうちに、ルイの表情がパッと明るくなった。酷く嬉しそうだ。本当にバージルのファンなのかもしれない。
とりあえず、喜んでもらえて良かったと希佐が思っていると、ダンスを終えたときと同じように、ルイが両腕を広げてこちらに近づいてきた。
またあの力強いハグかと身構えた瞬間、後ろから伸びてきた腕が希佐の腰に回り、ぐっと引き寄せられる。すとんと腰を下ろす感覚のあと、反対側から伸びてきたもう一方の手が、目と鼻の先まで迫っていたルイの額を鷲掴みにした。
「Ne touchez pas à mon trésor.」
アランの膝に抱えられた希佐の耳に、その声が届く。相変わらず意味が分からないのに、それが何か特別な言葉のような気がして、その言葉の響きを何度も頭の中で繰り返した。
ぱちり、ぱちり、と瞬きを繰り返してから、ルイはアランと希佐を交互に見やり、にやりと含みのある笑みを浮かべる。アランの手を逃れるように身を引くと、ルイはスペンサーの方を見やって言った。
「Ces deux personnes étaient-elles plus qu'un dramaturge et sa muse ?」
「Je vous l'ai dit, n'est-ce pas ? Ne vous frottez pas à Kisa.」
「Vous ne pouvez pas ignorer les belles personnes.」
「C'est pourquoi vous êtes dans le radar d'Alan.」
「Parce qu'il y a très peu de personnes dans notre monde qui sont aussi belles que lui.」
ルイが話せば話すほど、アランの機嫌が悪くなっていく。元々悪かった雰囲気がますます険悪なものになり、小さな舌打ちすら聞こえてきた。
「アラン?」
「……ごめん」アランは希佐から手を離すと、その場に立ち上がらせた。「もう帰らせる」
その言葉通り、アランはスペンサーとルイをスタジオから叩き出した。荒らしたテーブルの後片付けを買って出たジョシュアは残ることが許され、アランに追い立てられていった二人を思いながら、くすくすと面白そうに笑っている。
「アランって意外と独占欲が強かったんだね」
「え?」
「もっと放任主義なのかと思っていたけれど」希佐は後片付けを手伝いながら、どう答えたものかと思い、困ったように笑った。「ほら、オーディション期間中にぼくから電話をしたときは、好きにしたらって態度だったじゃない」
「はい」
「ぼくは良いことだと思うな」
「良いこと、ですか?」
「アラン・ジンデルって役者はね、舞台上では完全無敵って感じだったんだ。芝居、歌、ダンス──立ち居振る舞いのすべてが完璧だった。でも、舞台を一歩降りるとその表情を失って、ファンの声援に応えることもしないで、さーっといなくなる」
ジョシュアがそこまで話したところで、イライアスがバスルームから顔を覗かせた。ドライヤーを貸してほしいと言うので、脱衣所の棚から出して渡してやると、礼を言って髪を乾かしはじめる。
希佐がキッチンに戻ると、ジョシュアはシンクの前に立って汚れ物を洗ってくれていた。
「ぼくの目にはさ、舞台以外の何もかもを面倒くさがっているように見えていたんだよね」隣に立って洗い終えた食器をタオルで拭っていると、ジョシュアは先ほどの続きを話し出した。「彼にとっては舞台がすべてだと思っていたのに、さっさと離れていってしまったから、ああ、アラン・ジンデルにとっての舞台はその程度のものだったんだなって思って、少しがっかりもした」
「ジョシュアはアランのファンだったんですね」
「今だってファンだよ」ジョシュアは嬉しそうに笑う。「だから、ふとした瞬間に彼の素の部分というか、隙が見えたりすると嬉しくなる。本来はこういう人間性なんだって分かるからね」
「その気持ちは分かります」
「張り詰めた糸を緩ませてくれる人に出会えて良かったんじゃないかな」
「それって私のことですか?」
「おや、その自覚がおありとはね」ジョシュアは茶化すように言った。「ぼくたちくらいの年齢になると、現状を受け入れることに慣れすぎてしまって、なかなか新しいことには踏み出しにくいものなんだよ。でも、彼はそれをはじめようとしている。君の影響が大きいのだろうね」
「そうだったら嬉しいです」
「キサはなんていうか、追い詰められると何をしでかすか分からない危うさみたいなものがあるから、彼はそれを放っておけないのかもしれないよ」
「……どういう意味です?」
「もしものときには、君を助けるヒーローになりたいとか」
「アランがですか?」
「ヒーローというよりも白馬の王子様かな。ほら、ブリーチズを履かせてさ。似合うと思うよ」
「確かに」希佐は真剣な面持ちを浮かべ、その姿を頭の中で思い浮かべた。「似合うと思います」
二人は顔を見合わせ、途端に破顔すると、声を上げて笑った。
ぐったりした様子で階段を上がってきたアランと、髪を乾かし終えてバスルームを出てきたイライアスは、そんな二人の様子を見て不可解そうに顔を見合わせている。
「ああ、笑った、笑った」目尻から流れてくる涙を拭いながら、ジョシュアはまだ少し息苦しそうに続けた。「さて、と。後片付けも終わったことだし、ぼくもそろそろ退散しようかな。イライアス、君はどうする? 今帰るならタクシーで家まで送ってあげるよ」
「一緒に帰ります。明日からのレッスンについても確認しておきたいので」
「オーケイ。じゃあ、通りまで出てタクシーを拾おうか」テーブルの脚に立てかけていた荷物を手に取り、ジョシュアはアランを見上げた。「あの二人、あんなにお酒が弱いとはね」
「君も大概だったと思うけど」
「ぼくのは演技だよ、演技。せっかくのお酒の席なのに、仏頂面をぶら下げて場の空気を悪くするようなことはするなっていう、先祖代々のお言いつけなの」
遠回しにアランを非難するようなことを爽やかに言ってのけてから、ジョシュアは希佐を振り返った。
「レッスンのスケジュールについてはあとでメールを送るから」
「はい、よろしくお願いします」
「ダンスのレッスンで体力を持っていかれるだろうけど、歌の稽古もあるんだから、余力を残しておいてね」
「善処します」
「よろしい」
じゃ、おやすみ──ジョシュアはそう言うと、イライアスに軽く目配せをしてから階段を降りていく。希佐がスタジオの外まで見送りをしようと足を踏み出しかけると、イライアスがそれを制した。
「キサも早くシャワーを浴びて。今日は僕が鍵を閉めて帰るから、見送りはいらない」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」希佐は踏み出した足を戻す。「今日はお疲れさま、イライアス。ゆっくり休んでね」
「キサも」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
イライアスは希佐に向かってそう挨拶をしてから、アランに向かって軽く目礼をすると、ジョシュアの後を追って階段を降りていった。
「おっと、っと」
アランと二人だけになった途端、希佐は緊張の糸が切れてしまったように、体の力がすっと抜けていくのを感じた。倒れそうになった体を背中から支えてくれたアランを見上げると、こちらを見下ろした前髪越しに緑色の目が見える。
「ありがとう」
「大丈夫なの」
「少し気が抜けてしまって」希佐はよっと寄り掛かっていた身を起こすと、バスルームに向かって歩きはじめた。「今日はお風呂に入ってマッサージをしたら、すぐに寝ようかな」
「お湯に浸かったまま居眠りしないで」
「うん」
分かったと頷いたのはどの口か、とにもかくにもくたくたになってしまっていた希佐は、湯に浸かっている間にすっかり眠たくなってしまい、バスタブのふちに頭を乗せて意識を朦朧とさせていた。早く湯から上がらなければと思うのだが、体が酷く重たく感じられ、動かすことすら億劫だったのだ。
だが、熱いくらいだった湯が人肌ほどまで温くなってきたのを肌で感じ、このままでは風邪を引くと思った希佐は、重い瞼をこじ開けるように薄目を開け、意を決してバスタブのふちに両手を掛けた。しかし、手を掛けた場所が悪かったのだろう、その手がつるりと滑り、体がバランスを失ってしまう。倒れた体はそのままぬるま湯の中に落ち、ふ、と意識が遠退いた。
あ、まずい──と、希佐は思った。
だが、不思議と息苦しさは感じなかった。ただ、まるで眠る間際のようにじわじわと五感が奪われて、むしろ心地の良い感覚に包まれていると感じる。このまま、この感覚に身を委ねたらどうなるのだろうと思いながら、それでも最後の力を振り絞って右手を突き上げると、誰かの手がそれを力強く握り締め、引き上げた。
「──っ」
誰かの腕に抱えられた希佐は、上半身を前のめりにさせられると、大きく咳き込みながら飲み込んだ水を何度か吐き出した。げほん、げほん、と咳をし続ける希佐の背中を撫でさする手は大きく、あたたかい。間もなくすると、手繰り寄せたタオルに全身を包まれ、バスタブのふちに体を下された。
「様子を見に来て正解だった」片腕で希佐の体を支えながら、もう一方の手では、顔に貼り付いた髪を掻き上げている。「だから居眠りをするなと言ったのに」
「ご、めんなさ、」
「俺に謝ってどうするの」
けほん、と軽くなった咳を聞いて、アランは複雑な感情が入り混じったような息を吐き出した。それから、ぐったりとしている希佐の体の水気を丁寧に拭うと、横抱きにしてバスルームを出る。部屋のベッドにそっと下ろすと、水を取ってくるから服を着ておいてと言って、すぐに出て行った。
このままひんやりと冷たいシーツに横たわって眠りたいと思いながら、希佐はクローゼットから取り出した下着を身にまとい、パジャマ代わりのTシャツとショートパンツをのろのろと着込んだ。手足に力が入らず、それでも壁伝いにベッドまで戻ると、そのままうつ伏せに倒れ込む。
年末年始は少し余計に休みを取ったつもりでいたが、自分が思っていたほど体は休まっていなかったようだ。明日はルイに頼んで緩めのメニューにしてもらおうと、そのようなことをぼんやりと考えていると、開け放ったままのドアからアランが戻ってきた。
「起き上がれる?」
「うん」
「飲んで」
グラスに入れられた冷たい水を最後まで飲み干すと、アランは空になったグラスを受け取り、希佐の体をベッドに横たわらせた。布団をかけてからベッドの縁に腰を下ろし、希佐の顔を覗き込んで、優しく頬に触れる。
「頼むから」親指がまなじりを撫でるのに合わせて、希佐は大きく息を吐き出した。「もっと自分を大切にして」
その声には驚くほどの切実さが感じられて、希佐の眠りたがっていた意識が、ほんの少しだけ浮上した。力の入らない腕を持ち上げ、顔を覆い隠している前髪を耳に掛けてやると、なぜか泣きそうな顔がこちらを見下ろしている。
「アラン」思っていた以上に掠れた声で、その名を呼んだ。「泣いているの?」
「泣いてない」
「泣かないで」
「泣いてないって」
それでも両腕を差し伸ばすと、アランは倒れるようにして希佐の胸に顔を埋めてくる。希佐はなだめるように、ゆっくり、ゆっくりと、何度もやわらかい髪を撫でた。
胸にかかる心地の良い重みを感じながら、自分は今、きっとこの人のために生きているのかもしれないと、希佐はそう思っていた。