ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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ゾートロープが見せるもの

 翌日、体に疲れが蓄積していることを伝えると、ルイは臨機応変に稽古内容を変更してくれた。本来のメニューは基本のバーレッスン後に、怒涛のダンス稽古が予定されていたらしい。変更後の筋力アップのトレーニングも相当に厳しかったが、予定の時間よりも少し早めに切り上げると、今度は希佐のフランス語の勉強に付き合ってくれたので、午後は十分に体を休めることができた。

 ルイが、明日の稽古は午後からにしようと言い残し、気を利かせて帰っていったのは、午後四時を少しばかり過ぎた頃だった。

 それから間もなくすると、ぐったりとした様子のイライアスがやって来たが、しばらくの間ハンモックで横になった後、徐に起き上がって毎日のルーティンだけをこなし、言葉少なに帰っていった。

 あまりに様子がおかしかったと希佐が言うと、アランは原稿を書く手を止めてジョシュアに電話を掛けてくれたが、その話を聞く限りでは、どうやら歌の稽古で相当厳しいことを言われたようだった。

「あいつのことだから、明日には立ち直ってるだろ」

「そうだといいけれど」

 だが、それは希佐も同じだった。ルイはダンスに人並み以上の誇りと情熱を持っているからこそ、稽古中は厳しく指導した。イライアスとの稽古もきついものではあったが、そのときとは比べ物にならないほどの疲労感か、毎晩希佐の体をずっしりと重くさせていた。

 金曜の夜、稽古は適度なインターバルを挟みながら行われたのにも関わらず、希佐は自らの足で階段を上がることすら億劫になるほど、すっかり疲弊してしまっていた。事務室のソファで横になり、天井を見上げながら放心していると、椅子に座ったまま大きく伸びをしたアランが、希佐を振り返る。

「汗くらい流してきたら」アランは呆れたような口振りで言う。「風邪引く」

「うん」

「何なら抱きかかえていくけど」

「ううん、いい」

 希佐は首を横に振ると、ゆっくりと身を起こした。床に落としたクッションを拾い上げて元の場所に戻し、ふう、と大きく息を吐いてから、二階に向かって歩き出す。

「キサ」

「なに?」

「階段、気をつけて」

「うん」

 最近不注意が多いせいか、あわやという状況に度々遭遇することがあった。気を抜いているつもりはないのだが、疲労が溜まっているせいで、注意力が散漫になっているのかもしれない。

 一段、一段、慎重に足を運びながら階段を上がった希佐は、着替えを持ってバスルームに向かった。湯船に浸かりたかったが、先日の一件からも日が浅く、もしものことがあればまたアランに心配をかけてしまうと思い、風呂上がりにマッサージを行うようにしていた。

 その日もさっとシャワーを浴びてバスルームを出ると、濡れた髪を乾かし、冷蔵庫まで水を取りに向かう。その途中のテーブルでノートPCに向かっているアランの姿を見た希佐は、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

「心配しなくても、また浴槽で寝たりしないよ」

「俺がここで作業したかっただけ」

 アランはこちらを見ずに言う。希佐はまるで手癖のように、アランの髪に触れながら後ろを通り過ぎ、冷蔵庫の前に立った。クリスマスシーズンなどとうに過ぎ去ったというのに、そこには未だオーナメントが飾られている。兵隊とテディベア。どちらも日本人の希佐にとっては、クリスマスらしくない飾りなので、別段違和感はないのだが。

「イギリスの人たちって、どうしてテディベアが好きなの?」

 希佐が水を取り出しながらそう問うと、アランはPCの画面を見つめながら口を開いた。

「イギリスの多くの家庭では、子供が生まれるとテディベアを贈るんだ」

「誕生祝いに?」

「そう」アランは小さく頷いた。「最初の友達みたいな感覚なんだと思う。大体の子供はそのテディベアと四六時中一緒に過ごす」

「ふうん」

「テディベアピクニックなんていうのもあるけど」アランは酷く邪魔そうに前髪を掻き上げ、画面を見る目を細めながら言った。「幼稚園の子供たちが自宅からテディベアを連れて行って、ランチやレクリエーションを楽しんだりする」

「それはなんというか」その状況を想像してみた希佐は、思わず笑みをこぼしていた。「かわいいね」

「俺はテディベアなんて持ってなかったから、ロバートのを連れて行けって言われたけど、あいつ、絶対に貸したくないって」

「アランが乱暴にするから?」

 希佐が少しだけ冗談っぽくそう言うと、アランは横目でこちらを一瞥した。

「それもあるだろうけど、イギリス人にとってのテディベアって本当に特別なものだから、普通は他人に貸したいとは思わない。特に、どこの馬の骨とも知れない、突然自分のテリトリーに入り込んできた外の子供になんて、絶対に触られたくないだろ」

「ああ……」希佐は兄から送られてきたクリスマスプレゼントを思い出して、僅かに肩を落とした。「ごめんなさい、茶化すような言い方をして」

「怒ってないよ」

「それで、アランはどうしたの?」

「なにを」

「テディベア」

「ああ」アランは希佐の方を見ると、小さく肩をすくめた。「持っていかなかった」

「そう」

「でも、教室にランディっていう大きなテディベアがいて、それを先生が貸してくれたな」

「嬉しかった?」

「さあ」でも、とアランは続ける。「記憶に残ってるってことは、嬉しかったのかも」

 一杯の水を飲み、そのグラスを濯いでいると、アランが背後でPCを閉じた。希佐が振り返ると同時に立ち上がるので、思わず首を傾げる。

「今日はおしまいにするの?」

 希佐がそう問うと、アランはこちらを見下ろして首を横に振った。

「マッサージ」

「え?」

「してあげようか」

「えっ、いいよ」

「今やましいこと考えた?」

「か、考えてない」

「動揺した」

「してない」

「目を逸らした」

「それは……」

「それは?」

「……少しだけ」

「俺はまだ仕事があるし」アランはそう言いながら希佐の手をすくい取ると、その指先にそっと口づけた。「また今度」

 アランは思わせぶりな態度でそう言うと、スマートフォンを片手に階下へと降りていった。どこかへ電話をしに行ったのだろうと思いながら、希佐は風呂上がりだからとは言い切れない顔の火照りを冷ますように、手の平で風を送った。

 念入りなマッサージを終え、ルイに取り入れるよう言われた食材を使った夕食を作った希佐は、アランを呼びに事務室まで降りていく。しかし、そこにアランの姿はなかった。代わりに、スタジオからダンスのステップを踏む音が聞こえてくる。

 アランが踊っているのだろうか。そう思った希佐は扉の前まで歩いていくものの、ドアノブに触れたところで、すぐにその手を引っ込めた。アランのことだ、見に入ったところで怒りはしないだろう。だが、良い気分はしないのかもしれない。人に稽古をしている姿を見られたくないからこそ、誰も使っていない時間帯を見計らって、こうして一人で努力しているのではないか。

 希佐は扉に両手で触れ、こつんと額を押し当てると、短く息を吐き出した。

「このステップ……」

 もう何度耳にしたか分からない、希佐とイライアスのために振り付けられたダンスのステップだ。しかも、最も難しいクイックステップを、カウントを一度も誤ることなく、正確に踊っている。

 見たい。

 でも、だめだ。

 希佐は息を吐き切り体の力を抜くと、自らの頭の中に、自分とアランの姿を思い描いた。アランはイライアスよりも手足が長く、ホールドも大きいはずだ。その腕の中に収まったとき、自分とアランとでは、きっとバランスが悪い。

 踵はもっと高く、九センチ──希佐は無意識に、爪先に体重を乗せていた。

 アランの足の長さに合わせて、踏み出した足の着地点は、思っているよりも遠くへ。振り回されることのないように、しっかりと体の重心を意識し、その上でしなやかさも忘れてはならない。

 繋がった右手が押され、そこから伝わるエネルギーが希佐の体の中を通り抜けて、左手からアランの体へと循環していく。まるで二人で一つの生き物のように。呼吸を合わせ、歩幅を揃えて、互いが互いを強く感じながら。すべてがぴたりと重なり合ったあの瞬間には、言葉に表すことのできない、快楽にも似た快感が、全身を駆け巡るのだ。

 頭の中で、何度も何度も、聞こえてくるステップの音に合わせて一緒に踊る。そうしていると、実際に二人で踊っているような感覚に陥りかけた希佐は、慌ててその手を振り解いた。閉じていた目を開け、触れていた扉から離れる。

 時間にして十分も経過していなかった。だが、希佐の頭の中で、イライアスと組んだときの感覚に霞がかかりそうになったのだ。物凄い速さで感覚が上書きされていくのを感じ、思わずぞっとする。

 これ以上続ければ、勘の良いイライアスは、すぐに何かを察するだろう。何かが違う、と。

 希佐は踵を返すと、そのまま階段を上がり、先に一人で夕食をすませた。部屋に戻っていつも通りに日記を書くと、一日の稽古内容も事細かに記し、ノートを閉じる。

「……今日はもう寝よう」

 ばったりと倒れ込むようにしてベッドに横になった希佐は、ずるずると布団の中に潜り、大きく深呼吸をした。右手は無意識に首元に運ばれ、アランから贈られたネックレスに触れる。指先で転がすようにエメラルドを撫でながら、希佐はゆっくりと目を伏せた。

 

 翌朝も同じ時間に目を覚ました希佐は、毎朝のルーティンをこなしてから、アランが作ってくれた朝食を食べた。キッチンに立って後片付けをしていると、先に事務室に降りていったはずのアランが、階段の方から顔を覗かせる。

「今からバージルが来る」

「えっ、今から?」希佐は濡れた手を拭いながらアランを振り返った。「ルイに連絡しないと」

「ルイに会いに来るわけじゃないよ」

「そうなの?」

「スタジオを借りたいって。振り付けに手こずってるらしい」

「バージルが?」

「体貸してやって」

「え? あ、うん、分かった」

 以前にも、バージルが依頼された振り付けに困って、頭を抱えていたことがあった。目の回るような忙しさが続くと、稀にそういうことが起こるらしい。一人で考え込んでいると混迷を深めるばかりなので、アドバイスをくれと頼まれることも何度かあった。

「悪いな、キサ」一時間後、冷たい雨の中をやって来たバージルは、申し訳なさそうに言った。「稽古で疲れてるだろ」

「ううん、昨日は早めに休んだから、全然平気」

「週明けまでにって話だったのが、今日の午後六時までになんて言われちまってな」

「間に合いそう?」

「分からん」バージルはライダースジャケットの濡れた面を内側に折り込み、それを床に放る。「まあ、やるしかないな」

「私にできることなら何でも手伝うよ」

「ちゃんとバイト代払うから」

「いいよ、気にしないで」

「じゃあ、うまいもん食わせてやる」

「うん」

 バージルが任されていたのは、デビューして間もないとあるアーティストのダンスの振り付けだった。男性の二人組で、初のダンスナンバーということもあり、難易度は低めでという制限付きだ。

「俺のダンスをネットでたまたま見つけて、感銘を受けたんだとさ」

「タップダンス?」

「いや、ジャズ。ピンヒール履いて踊ったやつ」

「ああ、All That Jazzのアレンジ。あれ、私も好きだな。いつか踊ってみたい」

「俺はもう二度とごめんだけど、お前、ピンヒールでも平気で踊るもんな」

 バッグの中から引っ張り出したスピーカーを設置し、Bluetoothで音源を飛ばして、振り入れを依頼された音楽を流す。バージルのジャズダンスを見て依頼したという言葉通り、その曲調はジャズテイストだった。希佐がその場から離れると、バージルは最初から最後まで一通り踊って見せてから、納得がいかないという顔をして首を傾げる。

 ジャズダンスを踊る比率は、男性よりも女性の方がはるかに多い。やわらかい、女性的な動きが印象的なダンスなので、ダンス経験の少ない男性には、そもそも難易度が高いのかもしれなかった。

「なんかパッとしないんだよ」

「そう? 格好いいよ」

「俺が踊ればな」至極当然という顔をして、バージルは言った。「場末にあるバーなんかのショーで踊るっていうならまだしも、テレビに出るような若い連中にジャズをやらせるなんて、お歴々連中は何を考えてるだか」

「ダメなの?」

「今は流行らねぇだろ、ジャズ」

「私は好きだけれど」

「好き嫌いの問題じゃねぇの」

「でも、どうして突然期限が早まったの?」

「再来週のライブでお披露目がしたいんだと。だから、一日でも早く仕上げてくれって。ファンの反応次第では、振り付けどころか曲そのものが抹消されるらしいぞ」

 世知辛い世の中だなと漏らしながら、バージルはスマートフォンを操作して音楽を止める。その隣で、希佐はその場にしゃがみ込み、今のダンスを頭の中で反芻させていた。バージルは立ったまま腕を組み、その様子を眺めている。

「どうせならヒールを履いて踊ってもらったら?」

「は?」

「SNSで拡散されることを想定すると、インパクトと話題性って大切だと思うんだ」閉じていた目を開け、希佐はその場に立ち上がった。「もちろん、いきなりヒールを履くのは危ないから、4、5センチくらいで。試しに踊ってみようよ」

「……まさか、俺もか?」

「靴は上の物置に置いてあるんでしょう?」

「あいつはもう封印したんだ」

「じゃあ、今こそ復活させて」

「お前、俺の話を聞いてたか? ヒールで踊るのは二度とごめんだって言っただろ」

「えっ? なあに?」

 希佐がわざとらしくそう言うと、バージルは諦めたようにため息を吐き、肩を落とした。

「分かった、五分以内に靴を見つけられたら踊ってやる」

「今から?」

「あと四分五十秒──」

「あ、ちょっと待って」

 腕時計で時間を計りはじめたバージルに慌てて背中を向けた希佐は、事務室を通り抜けてそのまま階段を上っていこうとする。だが、思い出したように引き返すと、PCに向かっているアランに声を掛けた。

「バージルのヒールが物置のどの辺りにあるか知っている?」

「なんで」

「五分以内に見つけられたら、それを履いて踊ってくれるって」

「左の部屋、右奥の棚の一番上の段。段ボールの中の箱に入ってる」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 アランの記憶力は相変わらず驚異的だった。左側の物置部屋に入り、右奥にある棚の一番上にあった段ボールを下すと、その中には確かに目的の靴が押し込まれていた。片付けるときにしっかりと手入れをしていたようで、傷みなどは見受けられない。

 これなら大丈夫そうだと希佐が歩き出そうとしたそのとき、頭上から降ってきたものが鼻先をかすめ、鈍い音をたてて足元に落ちた。ぞぞぞ、と全身に鳥肌が立ち、体が一瞬硬直する。一度頭上を振り仰いでからその場に膝をついた希佐は、落ちたものを手に取って中身を確認した。

 巾着のような袋に入れられたそれは、舞台用の小道具で、置物か何かのようだった。どうやら破損などはしていないようだとほっと胸を撫で下ろした希佐は、それを空いていた場所にそっと置くと、急いでその場を後にした。

「あった?」

 箱ごと抱えて戻って来た希佐に向かって、アランが声を掛けてくる。希佐は「うん」と頷くと、通り掛かったついでに頬にキスをしてから、そのままスタジオに向かった。

「バージル、あったよ」

 箱を持って現れた希佐を見て、バージルは降参するように両手を掲げた。

「お前、アランに聞いただろ」

「うん」希佐はバージルに箱を手渡しながら頷いた。「ダメだと言われなかったから」

「こうなるだろうとは思ってたよ」

 まったく、と言いながら、バージルは箱を開けている。しかし、すぐに希佐の方を見ると、その足元に視線を落とした。

「キサ、お前の靴は?」

「あ、忘れてた」

「早く取ってこい」

 すぐに部屋からダンス用のヒールを取ってきた希佐は、その場で靴を履き替えながら、足を慣らしているバージルに目を向けた。軽く足踏みをしてみたり、前後左右に歩いてみたりしながら、感覚を取り戻しているようだ。

 透明なバンドで足の甲を固定し、希佐もゆっくりと立ち上がる。視界が一気に十センチほど高くなると、見慣れたスタジオもいつもとは違った雰囲気に感じられるのが不思議だった。

「キサ、公演控えてるんだから、足首気をつけろよ。お前に怪我でもさせたら、アランどころかスペンサーにまで何を言われるか分かったもんじゃない。最悪、殺されるだろうな」

「バージルこそ気をつけてね」

 時間をくれと言って慣らしに入ったバージルから少し離れた場所で、希佐は先ほど見た振り付けの確認を行うことにした。

 ダンスの振り付けには、振付師の癖が出ると希佐は思っている。バージルはそれが如実だ。タップダンサーだからなのか、他のジャンルのダンスを振り付ける場合も、上半身より下半身の方が動きが大きくなりがちだった。きっと、上半身にも更に動きとひねりを加えれば、より格好良いダンスに仕上がるはずだと思いながら、希佐は鏡に映る自分を見やる。

 鏡に映る自分を客観視できるようになったのは、いつ頃のことだったろう。鏡に映る立花希佐は自分であると同時に、他人でもあった。自分では見ることのできない自分──内面の部分が、ふとした瞬間に意図せず映し出される場所が、鏡だった。

 一人で稽古をしていて、何度はっとさせられたか分からない。鏡に映る自分が自分ではないと感じたとき、新たな気づきが得られることを希佐は知っている。ただ、そうした瞬間が滅多には訪れないこともまた、希佐は知っていた。

「男性的な動きの中に、あえて女性的な動きを入れたりすると、ちょっとドキッとしない?」希佐は鏡越しにバージルを見る。「例えば、イントロの最後、歌い出しの寸前辺りに──こんな感じで」

 膝を開いたまま腰を落とし、背中をしならせ、体の線を強調しながらゆっくりと立ち上がる。

「歌声が甘いから、ダンスに多少女性的な要素を加えてみたら、官能的で面白いかも」

「お前、もう振り入ってるか?」

「まだだけど、あと二、三回見ればなんとか」

「よし」バージルは気合を入れるように、自らの頬を軽く張った。「よく見とけよ」

 バージルの振り付けを体に入れたあと、二人は昼食も取らず、互いに意見を出し合いながら新たな振り付けを完成させていった。午後四時過ぎ、休憩を挟んでから完成した振り付けで動画を撮らせてくれと言うので、希佐は二つ返事で了承すると、小腹を満たすための食料を得るためにいそいそとキッチンに向かった。

 ちょうどいい具合に熟れたバナナを頬張りながら、中座が日本から送ってきた林檎を切り、それをタッパーに詰める。ケーキ用の小さなフォークをナプキンに包み、それを抱えて階段を降りていくと、アランとバージルのものではない話声が聞こえてきた。早口なフランス語だ。

「アランが呼んだの?」

「いや」椅子をくるりと回転させ、ソファに座っている二人を眺めながら、アランは首を横に振った。「多分、スペンサーだろ」

「どうしてスペンサーさんが?」

「さっき電話を掛けたときに、バージルが来てるって口を滑らせた」ああ、と苦笑いを浮かべながら声を漏らすと、アランは希佐を一瞥する。「あいつも今から来るよ。脚本が完成したからデータで送るって言ったら、今から取りに行くからいいって」

「じゃあ、書き終わったの?」

「とりあえず」

「おつかれさま」

「今日はもう何もしたくない。風呂入って寝る」

 大口を開けて欠伸をするアランを見て微笑んでから、希佐はソファの方に目を向けた。

 希佐が林檎を切っている間にやって来ていたルイは、何一つ聞き取れないほど早口なフランス語で、機嫌良く何事かをまくしたてている。それを真正面から受け止めているバージルの背中は、その迫力に押されて僅かずつ仰け反っているように見えた。

「あれ、助けてあげなくて大丈夫?」

「害があるわけでもないし」

「バージルもフランス語が話せるの?」

「それは知らないけど、見たところ困ってるみたいだし、話せないんじゃない」

「……助けないの?」

 希佐がそう繰り返し問うと、アランは大きく肩をすくめてから、再びPCに向き直った。自分は関与しないということなのだろう。プリンタを起動させると、手早くマウスを操作し、完成した脚本を印刷しはじめた。

 ふう、と息を吐き出して呼吸を整えてから、希佐は二人が座っているソファに向かって歩き出した。希佐が自分の背後に立つと、それを見上げたバージルは、僅かに安堵したような表情を浮かべる。

『こんにちは、ルイ』

『やあ、キサ』

『日本から届いた林檎をいかがですか?』

『日本の林檎かい?』

『青森という地域で実った林檎です。蜜入りなので、甘くておいしいですよ』

 そう言ってタッパーの蓋を開けば、林檎の甘い匂いが周囲に香る。途端に興味がそそられたらしいルイは、希佐が差し出したフォークを手に取ると、それで林檎を突き刺した。しゃくり、しゃくり、と小気味良い音をたてて咀嚼していたかと思えば、急に黙り込んで、次の林檎をフォークで突き刺している。

「バージルもどうぞ」

「あ、ああ……」

「もう紹介は必要ない?」希佐はそう言うと、真剣な面持ちで林檎を食べているルイに、手の平を向けた。「こちらが、パリオペラ座バレエ団の元エトワールで、ルイ」

「アランから紹介はされた」でも、とバージルは続ける。「熱意だけは伝わってくるんだが、何を言ってるのかはさっぱり分からねぇ」

『バージルはフランス語が分からないので、英語でお願いします』

「ワタシも英語は少しだけしかワカリまセン」

「なんだよ、英語話せるんじゃねぇか……」

「ほんのチョットだけデス」しゃく、しゃく、しゃく、と林檎を食べ続けながら、ルイは少しだけ悪戯っぽく笑う。「アナタのダンス、とても好きデス。前に、テアトル・ド・パリで踊ったのを見まシタ」

「そりゃどうも」

「アナタのタップダンスには、えーと、Je sens l'âme dans tes claquettes.」

「君のタップには魂を感じる」

 何を言っているのか分からずに顔を見合わせた二人を哀れに思ったのか、椅子に座ったままこちらに背を向けていたアランが、助け舟を出してくれる。

「J'ai pris ce travail parce qu'on m'a dit que je pourrais vous rencontrer.」

「そんなことだろうと思ってた」ルイの言葉を聞いて、アランが呆れたようにそう漏らした。「そいつは君に会えると聞いて、この仕事を引き受けたって言ってる」

「この仕事って、振付師の仕事か?」

「キサとイライアスのダンス指導だよ」

「Bien sûr, c'est aussi pour vous rencontrer.」

「Tais-toi.」

「アラン、照れてマスネ」

「また叩き出されたいの」

「アナタはきっと怒った顔も美しい──」

「ほら、お前、もっと食えよ」僅かに表情を引きつらせたバージルは、そう言ってルイの口に林檎を押し込んだ。「俺とキサで今から一曲踊るから、それを見たら大人しく帰れ。な?」

「何を踊るデスか?」

「ジャズ」バージルはそう答えてから、僅かに首を傾けた。「いや、違うか。ジャジーヒップホップとかチルポップ系だな。キサと二人で振り入れしたんだ」

「キサと?」

「Oui.」希佐は返事をしながら壁掛け時計に目を向ける。「バージル、そろそろ始める?」

「ああ、そうだな」

 バージルは希佐の手からタッパーを取り上げると、それをルイに押し付けた。そこから取った一切れの林檎をしゃくりと頬張りながら立ち上がり、こつ、こつ、と踵を鳴らしながら歩き出す。

「アラン、ちょっと手伝ってくれ」

「ん」

 面倒臭がるかと思いきや、アランは返事をするとすぐに立ち上がり、バージルに続いて事務所を出ていく。取り残された希佐は扉の近くに置いていた靴と室内履きを履き替えながら、ルイに目を向けた。

「カメラの設置が済んだらすぐにはじめるので、よろしければご覧になっていってください」

『私は体を良く休めるようにと言ったはずだよ』今の言葉は理解できたと思うと同時に、希佐は苦笑いを浮かべた。『それに、今はあまり他のダンスの癖をつけてほしくない』

「仲間の頼みは断れませんし、それに何より、私がバージルと一緒に踊りたかったんです。体は休まらなかったかもしれませんが、心の健康は取り戻せました」

 ルイは自らの組んだ足に頬杖をつき、興味深そうに希佐を見ている。

『私は君の心の健康を害しているかい?』

『いいえ、ルイ』Non.と言って、希佐は首を横に振る。『私は最高の舞台を作り上げるためなら、どのような努力も惜しみません。あなたの指導を受けられて光栄ですし、とても幸せです』

 拙いフランス語でどこまで正しく伝わっているのかは分からない。それでも、この思いが届くようにと、慣れない言語を必死で掻き集めながら、希佐はルイの目を真っ直ぐに見つめて言った。

「おい、キサ! 準備できたぞ!」

「はーい、今行く!」肩越しにそう返事をしてから、希佐はもう一度ルイに目を向ける。「バージルのダンス、見ていってください。格好良いですよ」

 

 

 

 交通違反ギリギリのスピードを出させてしまったタクシーに、たんまりとチップを握らせたスペンサー・ロローは、クローゼットの中から適当に引っ掴んできたジャケットを片手に、急いで車を降りた。タクシーの後ろを回り込んで、古びた扉の前に立つと、驚くほど古風なブザーに手を伸ばす。

 ブー──と鳴らし続けること十数秒、施錠を外して現れた友人の表情は、思いの外機嫌が良さそうだった。

「間に合ったかい?」

「今はじめるところだよ」

 呆れたように言ったアラン・ジンデルは、扉を大きく開いてスペンサーを招き入れた。額から吹き出る汗をシャツの袖で拭いながら、スペンサーはスタジオの中に足を踏み入れる。

 スタジオの中央には、踵の高い靴を履いた希佐とバージルの姿があった。それを取り囲むように四台のカメラがセッティングされている。振り付けの最終確認をしていたらしい希佐は、アランに招かれて入ってきたスペンサーの存在に気づくと、礼儀正しく会釈をしてみせた。

「なんだよ。お前まで来たのか、スペンサー」

「君とキサが面白いことをやっていると聞いてね。アランから脚本を受け取るついでに、是非とも拝見させていただこうと思って、こうして大急ぎでやってきたんだ」

 観客は多い方がいいだろうと言ってやると、バージルはどこかうんざりしたような顔をする。

 お前はビジネスパートナーとしては申し分ない男だが、間違っても友達にはなりたくないタイプだと面と向かって言われた日から、スペンサーはこの男のことを高く買っていた。媚びを売られるよりも、本音を語ってくれた方がずっと、好感が持てるというものだ。

 ブロードウェイで活躍していた頃から、バージルのことを見知ってはいた。非常に華のある男で、ステージの上に立つと一際輝いていたのを、今でもよく覚えている。

 交通事故に遭って足の怪我をし、もう二度とダンサーとして舞台に立つことはできないと宣告されてからは、しばらく舞台の世界から遠ざかっていた。リハビリがあまりに過酷で、それどころではなかったというのもある。

 そんなある日、気晴らしにショーを見に行こうと当時の恋人に誘われたスペンサーは、気乗りはしなかったものの、車椅子に乗せられてとある劇場に赴いた。

 そこで踊っていたのが、バージルだった。

 舞台に対する情熱を取り戻させてくれたこの男は、間もなくするとブロードウェイを去り、本国のイギリスに帰ってしまったが、いつだってスペンサーの頭の片隅には彼の姿があって、躍動感のあるタップ音を響かせ続けていた。

 ひょんなことから出会ったアラン・ジンデルと懇意にするようになったのも、バージルが理由だといっても過言ではない。互いが別々の国で同じ男に救われていたという事実は、奇跡や運命などといったドラマチックな展開を好む、いかにもハリウッド映画のような、反吐が出そうなシナリオだった。

「しかし、バージルは仕事を選ばないね」

「必死に頼み込まれたらしいから、情に流されたんだろ」

「確かに、彼は誰よりも情に厚い男ではある」

「お人好しなんだよ」

「そこ、聞こえてるからな」アランとスペンサーに向かって、バージルは吐き捨てるように言った。「ったく。そろそろはじめるから、うっかり映り込むんじゃねぇぞ」

 四台のカメラから死角になる場所といえば、事務室くらいのものだ。先にルイがやって来ているはずなので、図体のでかい三人の成人男性が顔を寄せて、狭い扉の陰からそれを覗き見る必要がある。そう考えると憂鬱極まりないが、致し方ない──そう思いながら歩いていると不意に、スペンサーの耳にバージルと希佐の会話が聞こえてきた。

「いけそうか?」

「ちょっと待って」横目を向けると、希佐は目を閉じながら、深く息を吐き出している。「最近は全然男役に触れてこなかったから、男性の感覚に上手く戻れるかどうか分からなくて」

「考えすぎるなよ、別に舞台に立つってわけじゃねぇんだから」

「でも、このダンスをお手本にして練習するんだよね?」

「まあ、そうだけど」

「それに、バージルの隣で踊るのに中途半端なことはできないよ」

「お前、そんなことばっかり言ってるな」

 二人から視線を逸らしたスペンサーは、思わず斜め前を歩いているアランを仰いだ。

 不思議なことに、希佐はこの朴念仁とよりも、バージルとの方が仲睦まじく見える。互いに腹を割って話しているように見えるのだ。バージルという男にかぎってそのようなことはないと思うが、希佐が居候していたオーディション期間中の一ヶ月で一線を越えたのではないかという下世話な思考が、スペンサーの中で途端に頭をもたげていた。

「君はあれを見て何とも思わないのかい?」

「……何の話?」

「バージルとキサだ」そう言うスペンサーを見て、アランは眉を顰めた。「私の目には、君と一緒にいるときよりも幸せそうに見える」

「誰が」

「キサが、だよ」

「ああ」何だそんなことか、とでも言うふうに、アランは鼻で笑った。「実際そうなんじゃないの」

「は?」

「俺みたいなつまらない男なんかと一緒にいるより、バージルといた方が楽しいに決まってる。実際、キサはここに来た頃から他の誰よりもバージルに懐いてる」

「彼にキサを取られると思ったことは?」

「それの何が問題なの」事務室の前までやって来ると、アランは足を止めてスペンサーを振り返った。「彼女は俺のものでもなんでもない」

「この期に及んで、君は──」

「俺の思いは伝えてある。その後で何を選択するのかは彼女の自由であるべきだ」

 この男は予防線を張っているのだろうと、スペンサーは瞬時に察知した。二人の人間が存在する以上、そこに必ずしも存在する別れを恐れるあまり、それを前提にしてものを考えている。

「どうしてそこまで俺と彼女の関係を気にするんだ?」

「君には幸せになってもらいたいと心から思っているからだよ」

「詭弁だな」

「本心さ」

「彼女と一緒にいることで俺が幸せになれたとしても、それで彼女が幸せになれるとはかぎらない」

「ああ、そうか。君はもうこれ以上、自分を傷つけたくないのだろうね」

「……何が言いたい?」

「君は何よりも自分が大切なんだ。それはそうだろう、自分自身を守り続けてきた人生だ、そう簡単に優先順位は変えられない」スペンサーは後ろを振り返り、希佐とバージルがまだ話しているのを確認してから、その先を続けた。「でも、彼女は違う。彼女は怯え、恐れながらも、傷つきながら前に進む道を選んだ。本当に強い子だね。自分を守ることよりも、大切な誰かの幸せを願い、それに寄り添える子なんだ」

 アランは話を聞いているのか、聞いていないのか分からないような態度で、希佐とバージルの方をぼんやりと眺めている。

「君がキサを最大限に尊重していることは、彼女を見ていれば分かるよ。バージルやイライアスとの距離感を見ればそれは明らかだ。だが、私がもし君の立場だったら、不快とまではいかないが、不安にはなるだろうね。彼女はなんというか、異性との距離の取り方が妙だ」

「妙なんじゃない、自然なんだ」

「自然?」

「スペンサーはキサを女性だと思ってる」

「あ、ああ、だって、彼女は女性だろう?」

「キサはスペンサーを男性だとは思っていないかもしれない」

「……ほう?」

「相手が男か女かなんていうことは、多分彼女にとっては些末な問題で、少しも重要ではないんだ。体なんてものは心を覆い隠す器でしかない。これは語弊がある言い方かもしれないけど、彼女に至っては、人間の肉体は自身を表現するための道具であって、それ以上でも以下でもない」

「君は哲学か何かを語っているのかな」

「これからはじまることを見ていれば分かる」

 アランはそう言って顎をしゃくると、スペンサーに事務室の中に入るよう促した。

 事務室のソファに腰を下ろし、なぜか空のタッパーを抱えていたルイは、小さなフォークを握っている手を軽く掲げる。

『サリュー、スペンス』

『随分とくつろいでいるようだね、ルイ』

『日本の林檎には蜂蜜でも注入されているのかな』

『……一体何の話をしているんだい?』

『日本の林檎は美味しいという話だよ』

 どうやら、ルイが抱えている空のタッパーの中には、林檎が入っていたらしい。確かに、辺りには甘い香りが漂っていた。

『ねえ、この林檎は──』

 そう何かを言いかけたルイを振り返り、アランは口元に人差し指を立てる。そして、開け放ったままの扉に寄りかかり、スタジオの方へと視線を戻した。スペンサーはルイと顔を見合わせてから、アランに倣って影の方からスタジオを覗き込む。タッパーを放ってやって来たルイは、二人の間に座り込んだ。

『んー?』カメラの録画ボタンを押して回る二人を見て、ルイが目を細める。『変だな』

『何がだい?』

『ああ、いや、キサが──』

 違和感ならばスペンサーも覚えていた。だが、その違和感の正体はすぐに判明する。そして同時に、アランが言わんとしていたことの意味を理解していた。

『──男に見えるんだ』

 劇団カオスの公演映像と、渋るアランに頼み込んで見せてもらった学生時代の過去映像では、それを見たことがあった。しかしながら、希佐が実際に男を演じている姿を見るのは、初めてのことだ。いや、これは男を演じるなどという生半可なものではないと、スペンサーは感じている。

 二人の男が、背中合わせに立っている。

 目に見えている情報をただ素直に受け入れるのなら、それが紛れもない真実だった。だがしかし、スペンサーは知っている。彼女は女性だ。それなのに、目に見えているものとスペンサー自身の認識が乖離を起こして、頭が酷く混乱していた。

『彼女は一体どれだけのものを隠し持っているんだ……?』

「さあ」その動きの一つ一つを見逃すまいとするように、アランは二人のダンスを注視していた。「俺はそれを知らないし、知りたいとも思わない」

 おそらく、この映像を受け取った人物は、バージルと踊っている相手を女だとは思わないだろう。中性的な青年と認識するのが関の山だ。外見は何一つ変わっていないというのに、その立ち居振る舞いが、彼女は男であると錯覚させる。

 男性の感覚に上手く戻れるかどうか分からない──普通、女性が男役を演じるにしても、このような言い方はしない。舞台の演出をしていれば、女性に男役を演じさせることは度々あるが、ここまで本物を感じさせる役者に出会ったことはなかった。

『すごいね、彼女』胡坐を掻いた足に頬杖をついたルイは、目線を低くして、踊る二人を食い入るように見ている。『男と女では骨格や筋肉のつき方が違うはずなのに、体の動かし方と、見る者の視線を故意に誘導させることで、胸骨や骨盤の開きなんかをカバーしている。でも、ただの舞台役者にそんなことが可能なのかな。たとえ人体について専門的に学んでいたとしても、それを実行するとなると、特別な訓練が必要になるよ』

 そのことについての話を詳しく聞いたことはなかったが、希佐は日本のユニヴェール歌劇学校に通っていたという。スペンサーはユニヴェールと聞いたとき、どこかで耳にしたことがあると感じた。そして思い出したのが、何年も前に観劇した《我死也》という舞台だった。

 とある団体から招待を受けた日本の歌劇学校が、ウエスト・エンドの劇場で歌劇の公演を行うことになった。この演目がなかなかに興味深いので、お前も観に来ないかと友人に誘われて観に行ったのが、ユニヴェール歌劇学校の海外公演だったのだ。

 舞台を観劇しているという感覚は皆無だった。神聖なアートを見せつけられているような、暴力的なまでの芸術性で頭を強く殴られ続けるような、すべてが終わった瞬間の、あの救いのない絶望的な感覚は、今も忘れられない。手足が凍え、体の芯まで冷え切って、ただただ、日本人が表現しようとする宗教的なものの考え方に、畏怖のようなものを覚えていた。その舞台脚本を十代の少年が書いたというのだから、まったくもって恐ろしい話だ。

 だが、正直なところ、我死也という物語が強く印象に残っているかと言えば、そうではない。その舞台の中心にいた役者のことだけが、強烈に、そして鮮烈に記憶に残っている。言葉を選ばなくても良いのなら、その役者以外のことは何も覚えていないと、そう言うだろう。

 希佐はあの役者のことを知っているのだろうかと、スペンサーは不意に思う。年齢的には同年代のはずだ。ただ、あの歌劇学校は本来男子校で、女性である彼女が在籍していたという時点で、それは非常に奇妙な話なのだ。

「……アラン、私はこれから君に変な質問をするけど、答えてくれるかな」

「なに」

「彼女は本当に女性なのか?」

 アランの口からは、彼女は女性だと、即答されると思っていた。だが、アランは口を噤んだまま、踊る二人の様子を眺めている。

「アラン」

「それはそんなに大事なことなの」アランはそう言うと、スペンサーを横目に一瞥した。「キサが男だったら、何か問題?」

「いや、何の問題もない」

「俺もそう思う」

 音楽が止み、ダンスが終わる。静寂が訪れ、こつ、こつ、こつ、という固い音だけが、スタジオに響いていた。すべてのカメラを停止させてようやく、ふう、と安堵したような息づかいと、話し声が聞こえてきた。

「……キサが初めてここにやって来たとき、俺は性別のことなんて考えもしなかった。でも、後になって聞かれたんだ。初めて自分を見たとき、男だと思ったのか、女だと思ったのか」

「君はなんて答えたんだい?」

「よく分からなかったって」親しげに話す二人を眺めながら、アランは目を細めている。「君も知ってると思うけど、俺は性別というものにたいして興味がない。だから、実際どちらでも良かった。君の言う通り、俺はキサの才能に強く惹かれていただけだったから」

「今は違う?」

「俺は多分、キサが男でも女でも、そのどちらでもなかったとしても、同じように──」

 しかし、アランはそこまで口にすると、自らの言葉を恥じるように口元を押さえ、隣に立っているスペンサーを睨みつけた。その様子を目の当たりにしたスペンサーは、ははは、と声を上げて笑い、その背中をとんとんと叩く。

「いやはや、愛とは実にいいものだねぇ、アラン」

「うるさい」

「君、今のは最高の口説き文句だよ。彼女が何者であっても、それを愛するという意味だろう?」

 アランはむすっとした表情を浮かべたまま、スタジオに背を向けると、PCの隣で紙を吐き出し続けているプリンターの方に向かった。印刷された紙を取り上げ、とんとんと角を整えて、空いている場所に置く。

「そういえば、キサが初めてここへ来たとき、君に何かを演じて見せてくれたと言っていたね」

「ああ」

「なんだったかな、えーっと、舞台演出家の話だったかな?」

 アランはスペンサーの言葉に肯定も否定もしない。ただ、プリンターから吐き出されてくる紙を一枚ずつ取り上げては、確認をしてから束にまとめていく。間もなくして最後の一枚が吐き出されると、アランはすべての紙をダブルクリップで一纏めにし、電子データと一緒に茶封筒の中に滑らせた。

 このままでは先日のようにスタジオから摘み出されると思ったスペンサーは、大急ぎで思考を巡らせる。

「実は、私はその独り芝居を前々から見たいと思っていたんだよ」事務室の散らかった床を縫うように歩いてきたアランは、スペンサーの前までやって来ると、脚本の入った茶封筒を無言のまま差し出してきた。「彼女に頼めば見せてくれると思うかい?」

「……嫌とは言わないと思うけど」

「では、聞いてみるとしよう」

 差し出された茶封筒を感謝の言葉と共に受け取り、スペンサーはすぐに踵を返した。

 舞台演出家の一人芝居を見たいと思っていたのは事実だった。あのアラン・ジンデルを一瞬で魅了した演技とはどんなものなのかを、見ておく必要があるとすら思っていた。それに、本物の舞台の演出家としては、主演の力量を正しく理解しておかなければならない。これ以上何かを隠されたまま舞台稽古に入られては、今後の演出にも差し障りがある。

 未だ扉の前に座り込んで物思いに耽っているルイの脇を通り抜け、スペンサーは機材の後片付けをしている希佐の下へと歩み寄った。その傍らではバージルが映像のチェックを行っている。

「ユニークな振り付けだったね」

「ああ、スペンサーさん」カメラの三脚を折りたたみながら、希佐が顔を上げた。「ほとんどはバージルの振り付けです。私はイントロと間奏の辺りを少しだけお手伝いしました」

「おかげで助かったよ」

 チェックが終わったのだろう、カメラをケースに押し込みながら、バージルは希佐を見る。

 にこりと微笑み返した希佐の表情は穏やかなもので、一つのことをやり遂げたあとの、程よい達成感を味わっているように感じられた。

「ううん。私の方こそ、楽しかった。ありがとう」

「君は本当にバージルを慕っているんだね」

「はい、バージルは私のダンスの師匠なので」

 希佐はスペンサーと対峙するとき、かなりの確率で強張った表情を見せる。自分がしてきた仕打ちを考えれば、それも当然のことだろうとスペンサーは思っていた。だが、今日は幾分それが和らいでいるようだ。

 これはチャンスだと思いながら、スペンサーは人好きのする笑顔を浮かべ、希佐の話に耳を傾けていた。

「それに、イライアスも。私はまだまだ未熟なので、彼らから多くのことを学んでいます」

「未熟なんてことはないだろう。君は十分に良くやっていると思うよ」

「ありがとうございます」

 希佐はいつだって、こうした称賛の言葉を軽く受け流す。少し困ったような顔をして。当初は、当然のことをさも特別であるかのように称えられること自体に辟易しているのかもしれないと考えていたが、どうやら違う。慣れないことに困惑している可能性も考えたが、そうでもなさそうだ。

 だが、今の発言を聞いて、スペンサーは合点がいった。

 希佐は自分を未熟な存在だと考えている。自分は未だ発展途上で、上には上の存在がいることを熟知し、自身はその足元にも及ばない存在であると、そう考えているのだろう。

 これだけの才能を持ち合わせておきながら、こんなにも謙虚でいられるものだろうかと、スペンサーは不思議に思っていた。これだけの役者だ、少しばかり得意になったところで周りもそれを咎めはしない。それなのに、まるで自分が置かれている立場を理解していない者のように、オーディション後も変わらず自然体でいる。

 大役を与えられた者は、少なからずその重圧に怯え、恐怖するものだ。希佐の場合、舞台経験は豊富だといっても、活躍の場は小劇場がほとんどだった。アンサンブルとして商業の舞台に立った経験があるからこそ、その舞台の真ん中に立つのが自分だと自覚したとき、多少は委縮するだろうと覚悟していたが、そんな様子は微塵も感じられない。

 異様だ。その一言に尽きる。

 しかしながら、もしも、上には上がいるのだと酷く痛感させられた経験があるのだとしたら。その場所が、件のユニヴェール歌劇学校だったのだとしたら。彼女のような天才が寄り集められ、育てられているのだとしたら、その学校はとんだ巣窟だとスペンサーは思った。

「キサ、実は君に一つお願いがあるんだが」

「はい、なんでしょうか」

「アランに見せたという舞台演出家の独り芝居を、私にも見せてくれないだろうか」

「え?」

「君がバージルと踊っている姿を見て、少し思うところがあってね」

「思うところ、ですか?」

 途端に強張りを見せた希佐の表情をつぶさに読み取り、スペンサーは先を急いだ。

「いや、悪い意味ではないよ。ただ、私は君のことを何も知らないと思ったのさ。君の魅力を最大限に引き出す演出をするためには、演者の力量を正しく理解しておく必要がある」

「要は、出し惜しみをするなってことだろ」

「その通りだ」呆れたように言うバージルの横やりを、スペンサーは素直に受け入れた。「どうかな、私にも見せてくれるかい?」

「もちろん、それは構いませんが」希佐は僅かに視線を彷徨わせ、誰かを探すような様子を見せる。「あの、それは今すぐにということですか?」

「いつなら見せられる?」

「今すぐにということなら、それでも大丈夫です」

「では、今すぐに」

「分かりました」

 ひと際険しい表情を浮かべてみせた希佐は、神妙な面持ちで頷いたかと思うと、台本を取ってきますと言って事務室の方に駆けていった。

 スペンサーがその背中を見送っていると、床に座り込んで機材をまとめていたバージルが、特大のため息を吐き出しながら立ち上がった。

「お前さ、なんで明日でいいとか言ってやれねぇわけ。そんな急ぎでもねぇだろうが」

「私にとっては急ぎなんだよ」スペンサーはそう言うと、バージルに向かって茶封筒を掲げてみせた。「場合によっては、脚本家先生に更なる改稿をお願いしなければならないんだ」

「あの二人を休ませてやろうって気はねぇわけか」

「君がそれを言うのかい、バージル?」

「俺はお前みたいに威圧的な態度で相手を追い込んだりしねぇからな」

「確かに、君は彼女の扱い方を熟知しているようだ。是非ともその手懐け方をご教授願いたいものだよ」間髪入れずに睨みつけられたスペンサーは、すぐさま冗談だと言って両手を挙げた。「だが、彼女の才能が計り知れないことは事実だ。それでは困るんだよ、演出家としてね」

「だったら素直にそう言えばいいだろ。お前はいちいち回りくどいんだよ。外堀から埋めようとするのはやめろ」

「君の才能のすべてを私にさらけ出してくれとでも言えばいいのかい?」

 大きなバッグに機材を詰め込み終えたバージルは、それを置いたまま自らの荷物がある場所まで歩いていく。ライダースジャケットを羽織り、荷物を小脇に抱えると、スペンサーの前まで戻って来た。

「お前は、アランがどれだけ大切にあいつを扱ってきたのかなんて、考えもしねぇんだろうな」重い機材を背中に背負いながら、バージルは静かに言った。「ここに来たばかりの頃、キサは目も当てられない状態だった。とにかくやせ細ってて、感情なんてほとんど表には出さなかったし、いつもどこか遠くを見てた。アランはあいつに無理やりアパートを引き払わせて、仕事も辞めさせて、強引にここに住まわせることを決めてたけど、そうでもしなきゃ死んでただろうなって、今になって思うんだよ」

 なぜ、今その話を聞かされているのかが分からず、スペンサーは眉を顰めていた。だが、ここで話の腰を折れば、今度こそ馬乗りになって殴り倒されるだろうと想像することは容易だった。

「まあ、お前には関係のない話だろうけど」バージルはスペンサーの顔を見て、まるで心を見透かしたようなことを言ってから、その先を続けた。「演出家なら、演出家らしく振舞え。面白半分で二人に差し出口を挟むような真似はするな。あいつらは微妙なバランスの上に成り立ってるんだ、それが片側に傾けば、途端に崩壊するような関係なんだよ」

「それはそれで問題なのではないかと思うけれどね」

「じゃあ、もっと分かりやすく言ってやろうか」バージルは鋭い眼差しで睨みつけながら、立てた人差し指をスペンサーの鼻先に突き付けた。「あいつらの関係が崩壊したら、お前の舞台も失敗に終わるぞ」

「それは困った」

「真面目に聞け」

「聞いているとも」

 ぱたぱたと軽い足音が近づいてくるのが分かる。スペンサーとバージルが同時に事務室の方を振り返ると、まだ扉の前で座り込んでいたルイが何かを察した様子で、駆け戻って来た希佐の足止めをしてくれていた。

「続きを聞こうか?」

「……いや、もういい」バージルは諦めたように首を横に振る。「俺が何を言ったって、お前は聞く耳を持たないだろ」

「そんなことはない」

「カオスは俺の家だ。その家を壊すようなことはしないでくれ」

「心得ておくよ」

 機材を抱えた格好のまま事務室の方に歩いていったバージルは、扉の前で足を止めて希佐やルイと言葉を交わしている。スペンサーはその様子を遠目に眺めながら、無意識にポケットをまさぐった。そしてすぐに、煙草はやめたことを思い出す。

 こうしてときどき、無性に煙草を吸いたくなるのだ。スペンサーは煙草の代わりに、ポケットから取り出した飴を口の中に放り込んだ。それを舌の上で転がしながら、煙草の煙を吐き出すように、ゆっくりと息を吐く。

 バージルはアランに過保護を指摘していたが、バージルも同じだけ過保護だと、スペンサーは思っていた。二人共もう子供ではないのだ、そこまで世話を焼いてやらなくても、自分のやるべきことが見えてなくてはいけない。

「……いや、私も存外過保護の気があるのかな」

 友人の恋路の邪魔をしたいわけではない。だが、それのこじれが原因で、自分の舞台を台無しにされたくもない。だが、とにもかくにも今は脚本を完成させることが第一であり、人間関係については二の次だ。スペンサーは、自分の舞台の役者が最高のパフォーマンスを見せ続けてくれるのであれば、私生活が破綻していたところで、何とも思わない人間だった。

 

 

 

 さて、困ったことになった。

 希佐はキッチンのテーブルに腰を下ろし、舞台演出家の台本を前に、頭を抱えてしまっていた。

 スペンサー・ロローに舞台演出家の独り芝居を見せてくれと言われたのは、ほんの数時間前のことだ。だが、実際その芝居をはじめると、冒頭の五分で演技を打ち切られてしまった。

「ああ、いや、どうもありがとう。もう結構だ。申し訳ないが、私は少しばかり用事を思い出したから、これで失礼させてもらうよ」

 引き留める間もなくスペンサーが出て行ってしまうと、希佐はその場で立ち尽くすしかない。遠くでこちらの様子を見守っていたルイは、呆然としている希佐を見て小さく肩をすくめてから、事務室にいるアランに声を掛けていた。

「なに」

「Spencer est parti au milieu de la journée.」

「なんで」

「Ce n'était pas ennuyeux ?」

 鏡に映る自分の姿をただじっと眺めながら、希佐はただ考えを巡らせていた。

 自分に何か不足があったのだろうか。気に障るような台詞があったのか。思っていたような演目ではなかったのか。いや、脚本には何の問題もない。日本語から英訳したのは希佐自身だが、物語の空気感を損なわないように、細心の注意を払って言葉を選んだのだ。

「キサ」傍らまでやって来たアランが、希佐の顔を覗き込む。「スペンサーはなんて言ってた」

「もう結構だ、用事を思い出したから、失礼するって」

 アランは僅かに目を伏せると、小さく息を吐き出した。そして、落ちていた台本をそっと拾い上げると、それを希佐に向かって差し出してくる。

「今日はもう終わりにしたら」

「え?」

「スペンサーのことは気にする必要ない」

「でも」

「そういうやつなんだ」

 ルイは希佐のクールダウンを見届けてから、明日こそはしっかり休むようにと言い残して、スタジオを出て行った。久しぶりにピンヒールを履いて踊ったので、腿の裏から脹ら脛にかけて酷く張っていたが、シャワー後のマッサージで大分良くなったようだ。

 だが、気もそぞろなまま夕食の支度をしていたせいで、希佐は誤って熱している鍋に指先が触れてしまい、軽い火傷を負ってしまった。慌てて流水に指先を浸すが、ヒリヒリとした皮膚の痛みは、落ち着きかけていた心のざわめきを、なぜか呼び戻そうとする。

 酷く不甲斐ない思いで火傷を負った指を見下ろしていると、事務室から階段を上ってきたアランがそれを見て、訝しげに眉を顰めた。

「何してるの」

「え? ああ、ちょっと火傷を──」

 止めたばかりの蛇口を開いたアランは、希佐の手を取ると、指先を洗い桶の中に浸させた。

「もう冷やしたから大丈夫だよ」

「いいと言うまでそうしてて」

「……分かった」

 マトン入りのアイリッシュシチューはもうほとんど完成している。あとはくつくつと煮込んで、軽く味付けをするだけだ。パンを切ってくれないかとお願いすると、アランは何も言わずにライ麦パンを切り分けてくれた。

 冬場の水は刺すような冷たさだった。五分ほどが過ぎて指先の感覚が失われてきた頃、アランは希佐の手を水の中から引き上げ、患部の具合を確かめる。幸い軽度の火傷だったようで、水ぶくれにはならずに済んだようだ。

 アランはキッチンペーパーで希佐の手の水気を丁寧に拭うと、薬箱から取ってきた軟膏を塗ってくれた。そうしてくれる大きな手があまりに優しく触れてくるので、希佐は思わず目を丸くしてアランの顔を見上げてしまう。

「なに」

「ううん」希佐はアランの顔を見上げたまま、首を横に振った。「ありがとう」

「気をつけて」

「うん」

「あとは俺がするから」

 揃って食卓に着いたのは午後七時を回った頃だった。たいした会話もなく食事を終えると、アランはさっさと後片付けを済ませて階下に降りていこうとする。

 たまりにたまったメールのリプライ作業に追われているのだと、アランは言った。今日はもう何もしないのではなかったのかと問うと、アランは返答に困るという顔をして、答えをごまかすように希佐の額にキスをしてから、キッチンを出て行った。

 そして、今に至る。

 ひっそりと静まり返ったキッチンに一人で腰を下ろし、ホチキスで留めているだけの手作りの台本を見下ろして、ただただ物思いに耽っていた。考えても、考えても、何が悪かったのかが分からないのだ。

『根地先輩に申し訳が立たないな……』

 脚本が評価されなかったのではない。自分の演技がいけなかったのだ。そう自らに言い聞かせて、希佐は落ち着きを取り戻そうとする。

 ユニヴェールを離れ、日本を飛び出して、アイルランドからイギリスへとやって来た。再び舞台の世界に戻って、約三年。やはり、根地黒門は天才だったのだと、そう思い知らされている。劇団カオス以外の舞台に立つようになって、尚更その思いは強くなった。

 この世界には、自分には遠く及ばない天才が数多く存在していることを、希佐は知っている。

 歌の天才、踊りの天才、芝居の天才、そして、万能の天才。どれだけ努力を重ねようとも追いつけない人間がいる。頭では理解していても、いつだって気持ちは抗っていて、人によっては無駄な努力だと思うようなことを、性懲りもなく続けてきた。

 ユニヴェール時代、周囲は立花希佐を天才と称した。

 だが、本当にそうなのだろうか。自分はただ器用なだけの役者ではないのか。男役と女役を自由に演じ分けられるというだけで、果たしてそれを天才と呼称してもいいものなのか。実際、ユニヴェールには男女を演じ分けられる役者は大勢いた。

 稀代のアルジャンヌという称号を冠するようになっても、それを喜んだことはなかった。所詮は女が女を演じているだけだと、頭の片隅では冷めた感情を抱いていたからなのかもしれない。稀代のアルジャンヌと呼ばれるたびに、責められているような気持ちがしていたのだ。

 演じることが生き甲斐だった。そのために生まれてきたのだとすら思っていた。だが、自らの保身のために女であることを隠し、男を演じ続けてきたことは、称えられるべきことではない。

 針を一本ずつ飲み込むような苦痛を感じていた。それでも舞台に立ち、スポットライトを一身に浴びるあの瞬間だけは、自由になることができた。心が解放された。楽に呼吸をすることができた。女であることを隠す必要のない、あの瞬間だけは。

 ユニヴェールを離れれば、日本の外にさえ出ることができれば、その呪縛から解き放たれるのだろうと思っていた。それなのに、思春期の三年間を男として生きてきた呪いは、遠い外国の地まで追いかけてきた。女を演じれば嘘っぽいと言われ、初めて与えられたのは、男役だった。

「なに、まだ起きてたの」不意にアランの声が聞こえてきて、希佐は顔を上げた。「もう十二時過ぎてるよ」

「え、本当──」希佐は壁掛け時計に向けかけた視線をアランに戻した。「……外に行っていたの? 雨の中、走ってきた?」

「これ、ただの汗だけど」

 頭から水を被ったのではないかと思うほど、アランの髪はぺたりとしぼんでしまっていた。額に貼り付いている前髪を邪魔そうに掻き上げ、Tシャツの裾をたくし上げて顔の汗を乱暴に拭っている。それでも吹き出る汗は止まらないようで、煩わしそうに頭を掻いていた。

「シャワー浴びてくる」

「あ、うん」

 Tシャツの裾を摘まみ、ぱたぱたと風を送りながら、アランはバスルームに入っていった。希佐は自身の思考が半ば停止するのを感じながら、バスルームに向けていた視線を引き剥がし、手元の台本に目を落とす。

 スタジオで稽古をしていたのだろう。滝のような汗を掻いていた。アランが下で稽古をしているときは、いつも部屋に入って、その姿を見ないようにしていたのだ。見てはいけないものだと、そう思っていたから。

 だが、アランは何ということもないという顔をして、希佐の前にその姿を曝け出していた。隠すものなど、何一つないというふうに。

 自分があれこれと考えすぎているだけなのだろうか──希佐がそう思っていると、今度は台本の隣に置いていたスマートフォンが着信を告げる。画面に表示された名前を見て、希佐の背筋に緊張が走った。遅れて時刻を確認する。アランの言う通り、既に真夜中の十二時を回っていた。

「……Hello」

『やあ、こんな夜更けにすまないね、キサ』どこか疲れているような声の調子で、スペンサー・ロローが言った。『休んでいたところだったら申し訳ない』

「いえ、眠れなくて」

『それは私が原因かな』希佐が何も答えずにいると、スペンサーは困ったように笑った。『昼間は不躾な真似をしてすまなかった。用事を思い出したというのは、もちろん嘘でね。用事を思いついた、と言った方が正しかったんだ』

「そう、ですか」

『何やら訝しんでいるようだが』

「私の演技がお気に召さなかったのではないかと、ずっと考えていたので」

『いやいや、逆だよ、キサ』

「逆?」

『名演の予感がひしひしと感じられたものだから、居ても立ってもいられなくなってね』

 希佐が思わず言葉を失っていると、髪から水滴をしたたらせながら、アランがバスルームから出てきた。

「誰と話してるの」

『やあ、アラン』希佐がスピーカーに切り替えたのを察したように、スペンサーが静かな声の調子で挨拶をする。『こんな時間に非常識なことは重々承知しているよ。今日ばかりは目を瞑ってくれ』

「まだ何も言ってない」

『急用なんだ、話を進めても構わないかな』

「はい、どうぞ」

 アランは冷蔵庫から水を取り出してくると、希佐の隣に腰を下ろした。ペットボトルの蓋を開け、ごくごくと喉を鳴らしながら、勢いよく飲み干していく。ペットボトルが、ばき、ばき、と軋むような音をたてていた。

『昼間の舞台演出家の独り芝居を見せたい人たちがいるんだ』

「見せたい人、ですか?」

『ほんの何人かにね。ああ、でも、肩肘を張る必要はないよ。みんな身内みたいなものだから』

「でも、スペンサーさんは冒頭の部分しか……」

『どうせなら、私も新鮮な気持ちで君の独り芝居を観たいからね』紙を捲るような音が、電話の向こう側から聞こえてくる。『どうかな、やってくれるかい?』

「はい、できます」

『即答だね』

「不完全燃焼のまま終わらせるのは気持ちが悪いので」

『メレディスに頼んでヘスティアの小劇場を借りたから、のびのび演じられるよ』

「えっ?」

『いやあ、君が引き受けてくれて一安心だ。勢いだけで話を進めてしまったが、君の了承を得ていなかったことを思い出してね。急で悪いけど、明日の──いや、もう今日だね。今日の午後六時にヘスティアに来てくれるかな。本番前に打ち合わせをしよう。必要なものがあればこちらで用意しておくが、何かある?』

「い、いえ、それは大丈夫ですが、今日が本番なんですか?」

『善は急げというだろう? それに、明日以降となると、どうしても予定が合わない。ヘスティアの小劇場も他の劇団の公演が入ってるっていうから、別の劇場を探すとなると、それも骨が折れる。もちろん、君が無理だというのなら、もう一度予定を立て直してはみるが……』

 思わず隣に目を向けると、アランは好きにしたらと言うふうに小さく肩をすくめ、席を立った。バスルームに戻っていったかと思うと、すぐにドライヤーの音が聞こえてくる。

「明日で大丈夫です」

『助かるよ』

「午後六時に、ヘスティアですね」

『ああ』スペンサーはどこかほっとしたように息を吐き、心なしか穏やかな声で言った。『楽しみにしているよ、キサ』

 通話が途切れた瞬間、希佐はすぐに椅子から立ち上がり、アランが髪を乾かしているバスルームへ向かった。扉を開けると、洗面台の前に立って鏡を睨んでいたアランが、ドライヤーの風を浴びながらこちらを見た。

「どうしよう」

「なにが」

「やるって言っちゃった」

「嫌なの」アランにそう問われ、希佐は首を横に振る。「じゃあ、やればいい」

「スペンサーさんは身内って言っていたけれど、誰が来ると思う?」

「お歴々連中だろうな」

「その、お歴々っていうのは……」

「オーディションで君が主役に決まった途端、早々に船を降りていった連中のこととか」かち、とドライヤーの電源を切ると、それを片付けながらアランは続けた。「それに、スペンサーがさっさと帰って行ったのは、方々に釣り針を仕掛けるためでもあったんだろ」

 洗面台の周りを丁寧に拭い、それをごみ箱の上で払ってから、アランはタオルをかごの中に放った。欠伸を漏らしながら、扉を押さえている希佐の脇を通り抜け、キッチンに戻っていく。

「印刷所に頼み込んで大急ぎで台本を刷れば、今日中にはエージェントに配って回れたはずだ。明日の夜に主演女優が独り芝居をするから見に来てくれと言えば、それなりに人は集まる。エージェントにも付き合いってものがあるし、自分と契約している役者が過去にスペンサーの舞台に起用されていれば尚のこと、無視はできない」

「でも、スペンサーさんは身内だって」

「付き合いの長い役者とエージェントが相手なら、まあ、そう呼ぶのも許容範囲だろうな」アランはテーブルに寄りかかって立つと、そこに置いてある舞台演出家の台本を手に取った。「俺やスペンサーに見せる程度だったら問題ないけど、人前で演じるなら書き直した方が良さそうなところがいくつかあったと思う」

「やっぱりそうだよね」希佐はアランの前に立って、その手元を覗き込んだ。「まだ不慣れだった頃に英訳したものだから、ところどころに違和感があって」

「手伝うよ」

「いいの?」自分を見下ろしながら頷くアランを見て、希佐はやわらかく微笑んだ。「ありがとう」

「俺も観たいから。今のキサが、あれをどんなふうに演じるのか」

「そんなに変わらないと思うけれど」

「俺は全然違うものになると思ってる」

「そう?」

「うん」

 結局、その日の夜は眠ることができなかった。

 午前八時過ぎ、日の出を迎える頃になってようやく見直しが終わり、午前中の残りの時間を使って台詞を覚え、歌とダンスの確認をした。本当はもっと時間を掛けたかったが、少しでも横になって体力の回復を図らなければ、到底最後まで演じきることはできないだろう。

 ぼうっとしながら昼食を口に運んでいた希佐だったが、急に思い出したことがあって顔を上げると、徹夜明けだというのに隣で平然と食事をしているアランを見上げた。

「ねえ、今日ってジェレマイアがアメリカに戻る日じゃなかった?」

「そうだけど」

「何時の便だっけ? 私、見送りに──」

「それなら、キャンセルしたって」えっ、と声を上げる希佐を見て、アランは続けた。「事情を話して見送りには行けないって伝えたら、キサの独り芝居を観たいから、明日の便に予定を変更するって言ってた。他のやつらも観に来るらしい」

「……いつの間に連絡をしたの?」

「キサが振りの確認をしてるとき」唖然としている希佐を見て、アランは更に続けた。「言っておくけど、俺はジェレマイアにしか話してないから」

 ジェレマイアは今、ノアの家で寝泊まりをしていたはずだ。十中八九、カオスの仲間たちに今日のことを連絡したのは、ジェレマイアではなくノアだろう。こんな面白いことを逃す手はないと、あちらこちらへと電話を掛けている様子は、容易に想像することができた。

 食事のあと、歯を磨きながらスマートフォンのアラームを設定していると、手の中でそれが振動する。届いたメッセージを開くと、イライアスからだった。

『今夜の独り芝居、観に行くよ。楽しみ』

 短いメッセージだったが、それがイライアスらしい。文末にはなぜかヒヨコのスタンプが押してあって、希佐は思わず笑ってしまった。

 アランも仮眠をすると言っていたことを思い出した希佐は、歯を磨き終えてバスルームを出ると、そのままアランの部屋を覗きに行った。僅かに開いていたドアの隙間から中を覗き込むと、アランがベッドに腰を下ろしてスマートフォンを操作している姿が見えた。

「なに」

「アランは何時に起きるのかなと思って」

「俺は二時間くらい寝られればいいから」

「私は──」

「ギリギリまで寝てていいよ。五時になったら起こしに行く」

「アラン、ちゃんと起きられる?」心配だという顔をした希佐を見て、アランは僅かに唇を尖らせながら鼻筋を掻いた。「私はアラームで起きられるから大丈夫だけれど」

 かこ、かこ、と音を鳴らしながらスマートフォンを執拗に操作しているので、何をしているのだろうと手元を覗き込みに行くと、アランは三時から一分置きにいくつものアラームを仕掛けていた。

「これならちゃんと起きられそうだね」

 希佐がくすくす笑いながらそう言うと、アランは画面を暗転させたスマートフォンを枕元に放った。そして、希佐に向かって手を伸ばし、手首を掴んで自らの腕の中に引きずり込む。ぎゅう、と押しつぶすように抱き締められた希佐は、少しの間目を白黒させていたが、何とか胸を押し返すと目と鼻の先にあるアランの顔を見上げた。

「アラン、早く寝ないと」

「ここで寝たら」

「私はそれでもいいけれど」

「ここにいて」

 囁くような声でそう言ったアランは、希佐の頬に唇を押し当てる。そのまま首筋に顔を埋めるので、やわらかい髪に素肌をくすぐられ、希佐は小さく肩をすくめて笑い声を漏らした。

「手、大丈夫なの」

「え?」ああ、と希佐は思い出したように自分の指先を見やる。「うん、もう痛くない」

「そう」

「せっかく脚本を書き終えたのに、全然ゆっくりできなかったね」

「いいんだ」

「手伝ってくれて、ありがとう」アランは無言のまま首を横に振った。「今日は上手くやれるかな」

「君がやりたいようにやればいい」ゆっくり身を起こしたアランの髪を、希佐は耳に掛けてやる。「上手くやろうなんて、考えなくていい」

 深い、深い緑色の目を見ていると、ざわざわとさざめていた心が、すうっと凪いでいくのが分かる。強張っていた肩の力が抜けて、呼吸が楽になるのを感じる。アランの胸に倒れ込むと、体がすっぽりと包み込まれて、分け与え合う体温はあまりに心地が良かった。

 

 二人揃って寝坊することもなく、午後六時より少し前にヘスティアに到着すると、店は通常通りの営業を行っていた。午後五時開店ということもあり、客の入りはまだ少ない。先にやって来ていたスペンサー・ロローは、カウンターに腰を下ろして、ヘスティアの王様を独り占めにしていた。

「昨日の今日で悪かったね」

「いえ、大丈夫です」

「早速だけど、劇場に移動しようか。開場は七時半だから、それまでは準備に使えるよ」

 スペンサーはカウンターの向こう側にいるメレディスに向かって軽く目配せをすると、椅子から立ち上がって歩き出した。希佐はそれを追いかける前に、カウンターに歩み寄り、そこに立っているメレディスを見上げる。

「こんばんは、メレディス」

「やあ、キサ」メレディスはいつも通り、希佐に優しく微笑みかけてきた。「君も次から次へと大変だね」

「メレディスも突然で驚いたでしょう?」

「そうでもないよ。僕は場所を提供するだけだし、それに、こういうことには慣れているから。でも、残念だな」

「なにが?」

「君の独り芝居をこの目で見ることができない」メレディスはカウンターに頬杖をつき、魅力的な微笑を浮かべる。「僕もこっそり観に行こうかな」

「ヘスティアの王様が営業時間中にお店を抜け出して大丈夫なの?」

「大丈夫ではないから、スペンサーにお願いをして、あとで映像データを回してもらうことにしたよ。自分の劇場で上演される舞台は、逃すことなくすべて観ると決めているんだ」

「今回はアランの脚本ではないけれど」

「もちろん、知っているとも」

 希佐はなぜか、メレディスの心を探るような言葉を口にしてしまった。すると、まるでメレディスがそれを察したような表情を浮かべた気がして、僅かに逡巡する。

「僕はね、君のファンでもあるのだよ、キサ」

「うん」

「スペンサーは君の才能を信じているからこそ、こういう機会を作ったのだと思う。まだ君という才能を知らない人々に、それを認めさせたいのだろうね。きっと、彼は悔しいんだよ」

「悔しい?」

「アランも同じ気持ちなんじゃないのかな」

 メレディスが希佐の背後に目を向けるのに合わせて、後ろを振り返る。すると、背後に立っていたアランは小さく肩をすくめてから、希佐を見下ろした。

「早く行かないと、スペンサーが二階から大声で君の名前を叫ぶよ」

「えっ」

 そう言われて、希佐は慌てて二階を振り仰ぐ。大体の営業時間中は立ち入りが禁止になっているその場所に立っていたスペンサーは、柵越しに立ってこちらを見下ろし、早くしてくれというふうに手招いていた。

「成功することを祈っているよ、キサ」

「ありがとう」

 希佐は軽く目を伏せるようにしてメレディスから視線を外すと、その場を後にしようとした。しかし、メレディスに呼び止められたアランはそのまま留まり、希佐に向かって先に行くように言う。

 分かったと頷いた希佐は、早足で階段の方へと向かった。途中、顔馴染みの客に声をかけられて挨拶を返しながら、メレディスとアランは何の話をしているのだろうと、そう考えていた。

 希佐はイライアスからあの話を聞いて以来、メレディスがアランのことを実際にはどのように思っているのか、それを気掛かりに感じていた。親子のようであり、兄弟のようでも、親友のようでもある二人の間柄が、希佐は本当に好きだったのだ。希佐の見方が変わってしまっただけで、二人の関係はこの先も、これまでと何一つ変わらずに続いていくことは分かっている。ただ、この心のもやもやは、いつまで経っても消えてはなくならないのかもしれない。

 だが、二人の間にある事柄は、自分には何の関係もないことだ──希佐は階段に足をかけながら、自らにそう言い聞かせた。今はこの問題で心を乱している場合ではない。そもそも、メレディスが自分に優しくしてくれた事実は、何があっても消えはしないのだ。メレディスには散々救われてきた。それに疑いの目を向けるなんて、どうかしている。

 希佐は大きく息を吐くと、顔を上げた。今は、自分がやるべきことをする。ただ、それだけだ。

「お待たせしました」

「アランは──まあ、待たなくてもいいか」

 先に行こうと言って、スペンサーは劇場に向かって歩き出した。希佐はその後ろを追いかけながら、妙な息苦しさを振り払うために、何度かに分けて深呼吸をする。ここ最近はあまり天気が良くなかったので、劇場内の換気をしていなかったのだろう。僅かに空気が澱んで感じられた。

「台本は持ってきているかい?」

「はい」希佐は、念のために五部ほど刷ってきた台本の一冊をバッグから取り出し、それをスペンサーに手渡した。「スペンサーさんから連絡を頂いたあと、アランと一緒に少しだけ手を加えました」

「もしかして寝てない?」

「四、五時間は寝たので大丈夫です」

「そう。じゃあ、軽くで良いから構成を教えてもらえるかな」

 舞台の前まで歩いてきたスペンサーは、最前列の座席に腰を下ろすと、台本を膝の上に置いてこちらを見上げた。希佐は自分用に刷った台本を取り出すと、殴り書きがされたページを開きながら、順繰りに説明していく。

「冒頭の台詞に変更はありません。ただ、ここはもっと神様然と演じた方が面白くなると、アランは言っていました。観客が拍子抜けをして退屈さを覚えるくらいの方が、その後が引き立つと」

「アランが演出を?」

「いくつかアドバイスをしてもらいました」そう言いながら、希佐は台本の間に挟んでいたディスクを取り出す。「途中で歌とダンスも入るので、音も作ってくれたんです」

 スペンサーは少しだけ驚いたような顔をして、大きく見開いた目を瞬かせていた。

「それ、ちょっと聞かせてもらえる?」

「はい」

 すぐに音の確認ができるよう、スマートフォンにも入れていた音源を、その場で流す。それは一晩で作ったとは思えないほどの完成度で、何層にも重なる打ち込みが、まるでオーケストラの演奏を思わせた。

「音に合わせた歌とダンスの確認も済んでいます」

 スペンサーが希佐のスマートフォンから流れる音を聞いていると、メレディスとの話を終えたらしいアランが劇場に入ってきた。スペンサーから二席離れた場所に腰を下ろし、希佐に向かって手を差し出してくる。

「台本、見せて」

「これ?」

「うん」

 希佐は自分の台本をアランに差し出した。

 走り書きの中には日本語で書かれている部分もあるが、大体が英語で記されている。英語の方がコストが低く、尚且つ単語の持つ力が大きいので、メモを書いたときの感情を瞬間的に思い出すことができるのだ。日本語の部分は未だ多言語では表しにくい、心の機微に関する事柄が多い。

 アランはポケットに丸めて差し込んでいた台本を取り出すと、希佐のメモ書きを見ながら、自分の台本にも何かを書き込んでいた。

「台詞から歌に入る音出しのタイミングをもう一度確認したい」

「うん」

「君のダンスのステップに音をハメてるから、これも本番前に確認しておいた方がいい。スマホの音と、ここの音響とでは聞こえ方がかなり違うから、微妙にずれてるかも」

「分かった」

「まあ、どちらの音も飾りみたいなものだし、君の邪魔をしない程度に袖で調節する」

「はい」

「ん」

 こうしてアランと話をしていると、公演前のピリッとした空気感を思い出す。劇団カオスがここで最後に公演をしたのは、もう一年以上も前のことだ。それに、希佐にとってはもしかしたら、これがこの舞台に立つ最後の機会になるのかもしれない。そう思うと、背筋がしゃんと伸び、身が引き締まるような思いがした。

「何か言いたいことがあれば、どうぞ」

 アランは台本に目を落としたまま、二つ離れた席の向こう側に座っているスペンサーに声を掛けた。二人の様子をどこか物言いたげな目で見ていたスペンサーは、困ったように頭を掻きながら苦笑いのような表情を浮かべる。

「演出は私の仕事だとばかり思っていたのだけれどね」

「今日の俺は音響係だから」

「君が彼女にアドバイスをしてくれたそうだから、私から言わなければいけないことは何もなさそうだよ」

「今回は特に身内が相手だからな」身内、という言葉を、アランは微かに強調する。「凝った演出も必要ないだろ」

「君も嫌味な言い方をするね」

「騙し討ちをするような真似はするなと言っておいたはずだけど」

「Nous ne voulons pas mettre une pression excessive sur Kisa.」

「プレッシャーかどうかを決めるのはキサ自身だ」

「アラン──」

「演者を取り戻したい気持ちは分かる。当て書きをした手前、俺だって戻ってきてくれればありがたいとは思うけど、それだって、どうしてもというわけじゃない」

「私が彼以外には考えられないと言ったら?」

「自分ひとりの力で取り戻すべきだったな」もしくは、と言うアランの表情には、呆れが滲んでいた。「真正面からキサに助けてくれと頼むべきだった。キサなら二つ返事で了承してくれたと思うよ」

 何とも言えない雰囲気が辺りに漂い、希佐は口を噤んだまま、アランとスペンサーの間で視線を巡らせていた。アランに怒っているような様子は見られないが、スペンサーにはどこか叱られた子供のような空気がまとわりついている。

 はあ、と脱力しきったため息を吐いたスペンサーは、額を手の平で覆い、座った格好のまま上半身を前に倒した。その状態のまましばらく黙り込んでいたが、意を決したように身を起こすと、アランと顔を見合わせていた希佐を見上げた。

「グレアム・メイヒューという役者を知っているかな」

「舞台を何度か拝見したことがあります。それから、直接お話したことはありませんが、ヘスティアでもお見掛けしました」

 それも一度や二度ではない。いつも多くの人を周りに従えていた。周りの人々は、その役者の顔色を常に窺っていて、機嫌を損ねないように必死だったことを、今でも覚えている。希佐がまだ、ヘスティアのフロア係として働いていた頃のことだ。

「ここで見掛けたことがあるのなら、詳しい説明が省けて助かるよ。私が言うのもなんだが、彼はとにかく癖の強い人間でね。一部で腫れ物扱いをされているだけのことはある、なんていうか、人を選ぶ人間なんだ。気に入らないことがあるとすぐにへそを曲げるから、周りはそうならないように気を使うわけだけれど、大体は上手くいかない」

「でも、彼は天性の役者だ」

「そう」アランの言葉に、スペンサーは神妙な面持ちで頷いた。「役者として舞台に立てば、誰もが一目で彼に魅了される。そこに立っているだけで絵になる、そういう魅力がある役者なんだ。その彼がどういうわけかシルヴィアのことを酷く気に入っていてね。我々のカンパニーに加わってほしいと頼みにいったとき、暗にシルヴィアが主役を演じるなら引き受けても構わない、みたいな、そういう雰囲気になってしまっていたんだよ。だから、シルヴィアには私の推薦でオーディションを受けてもらうと、そう伝えた。彼女がオーディションに合格するかどうかは、彼女の努力次第だと言ってね」

 何となく事態を察することができた希佐は、あー、と声を漏らしながら、言うべき言葉を探していた。

「グレアムは今のウエスト・エンド・シアターを語る上で決して外すことのできない役者なんだ」

「だから、今度の舞台にも出てほしいと思っているんですか?」

「彼に固執しているのはプロデューサーだよ。スポンサーも強く望んでいる。彼が出演すればそれだけで話題になるし、大勢のファンが彼を見るために劇場まで押し寄せてくるわけだからね」

 当てが外れた、ということなのだろう。自分が期待した通りにならず、落胆してしまう気持ちは理解できる。だが、その感情を仕事にまで持ち込み、思い通りにならなければこの話はなかったことに、などということが許されて良いのだろうか。いや、許されてきたからこそ、そうしたことがまかり通っているのだろう。

「キサ」これまでにない真剣な面持ちで、スペンサーは希佐を見つめてくる。「私は彼が欲しい」

 舞台に立つグレアム・メイヒューという役者を見たことがある。アランの言葉通り、希佐はその男を目の当たりにした瞬間、天性の才能を感じた。ともすれば主役すら食ってしまいそうな脇役。凛とした立ち居振る舞い。年齢に見合った色気が体から香る。とある舞台の初日、最初から最後まで、その役者の姿だけを目で追いかけてしまっていた。

 だから、ほんの少しだけ、がっかりしてしまったのだ。役者と役柄はまったく別の存在だということは分かっている。それでも、演じた役柄とそれを演じた人間との落差に、若干の失望を覚えてしまった。当人にしてみれば、勝手な妄想を押し付けられて、良い迷惑だろう。

「正直な話、私もアランも、彼をいけ好かない人間だと思っているよ。でも、私たちの舞台には、グレアム・メイヒューという役者が必要なんだ。彼の人間性にさえ目を瞑ることができれば、あんなにも良い役者は他にいないと思える」

「本当に必要な方なんですね」

「ああ、そうだ」スペンサーは大きく頷いた。「彼を取り戻すためには、君を、彼に認めさせる必要がある。シルヴィア以上の女優であることを知らしめる必要があるんだ。だから、私は君の力を借りたい。君を認めさせたい。彼が君を前にしてひれ伏す姿を見たいんだよ」

「……今夜のことを、メイヒューさんにはどのようにお伝えしたんですか?」

「君のことを見てほしいとだけ」

「その上で舞台に出演するかどうかを判断してほしい、ということですか?」

「このやり方では、君にすべてを委ねてしまうことになる。だから、君は何も知らないままでいた方がいいと、私が個人的に判断をした。君を信じていないわけではないよ。君を信じているからこそ、騙し打ちのような真似をしてでも、彼に君を認めさせたかった。だが、もし彼が戻らなかったとしても、それは君の責任ではない。私の力が及ばなかっただけのことだ」

 この問題の善悪について論じるつもりはなかった。それはもはや意味のないことだから。今、最も重要なのは、自分たちの舞台にとって何が最善なのかを考え、行動に移すことだろう。もだもだと考え込んでいる時間などはない。

 人格にいかなる欠点があるにせよ、舞台に対する情熱は、その立ち居振る舞いからひしひしと感じられた。舞台に立つ姿を思い出すたびに、胸がときめくのだ。それが、自らの答えなのだろうと希佐は思う。

「分かりました」希佐は一呼吸置いてから続けた。「私にでき得る限りの最善を尽くします」

「ありがとう、キサ」

 ほっとしたような息を吐いたスペンサーを横目に見ながら、アランが椅子から立ち上がった。メモを書き写し終えた台本を希佐に差し出したかと思うと、舞台の袖に向かって歩いていく。

「ほら、確認が必要なところだけやるよ」

「うん」

「スペンサーはそこから全体像を見てて」

「引き受けた」

「何か気になることがあったら教えてください」

「ああ、分かったよ」

 袖から何歩で舞台の中央に辿り着けるか。その場で発した声がどのように響くのか。目印がなくとも、その木目で覚えている。小さな傷や染みが立ち位置を教えてくれる。

 思い返してみれば、観客を入れた劇場で独り芝居を行うのは、希佐には初めての経験だった。いつだって共に舞台に立ち、心の支えとなってくれていたカオスの仲間たちは、ここにはいない。それでも、不思議と孤独を感じてはいなかった。それどころか、わくわくとしているのだ。

 たとえ非公開であったとしても、観客の前で演じられる。肌がヒリヒリと痺れるような、あの感覚の中に身を置くことで、正しく呼吸することができる。生きていることを実感できる。自分ではない誰かを演じることでしか、本当の自分を解放してやることができないのだ。

 午後七時半、劇場を開場する。舞台を覆い隠している緞帳の隙間からその様子を覗き込んでいた希佐は、ぞろぞろと連なるようにして入ってくる人々を眺めていた。

「見に来るのは、ほんの数人って言っていなかった?」

「あいつにとっては、これでもほんの数人の内なんだろ」希佐の頭上から同じように客席を覗いていたアランが、呆れを隠さずに言う。「客入りは悪くない」

「こんな大袈裟なことになるなんて思ってなかった」

「怖気づいた?」

「まさか」希佐は、ふふ、と笑う。「楽しみなんだ」

「肝が据わってるよ、本当に」

「独り芝居をさせてもらえる機会なんて滅多にないと思うし」

 人様の脚本を当人の許可なく使用することに罪悪感は覚えていた。だがそれでも、あの人ならこれを面白がってくれるだろうと、希佐は思う。

 根地黒門の卒業後、放置されていた段ボールの中に、この脚本が残されているのを見つけた。これだけが、まるで置き土産のように残されていたのだ。故意に置いていったのか、うっかり忘れていったのかは分からない。だが、オリジナルの脚本が希佐の手に渡っていなければ、希佐はアランの前で舞台演出家を演じてみせることはなかった。そして、アランも希佐をカオスに勧誘することはなかったのだろう。そう思うと、酷く感慨深いものがある。

「キサ、本番前にもう一度確認しておこう」

「うん、分かっ──」

 来客の対応に追われているスペンサーの様子を、緞帳の隙間から眺めていた希佐は、アランの声を聞いて踵を返そうとした。しかし、スペンサーから視線を外したその刹那、ぞわり、とした悪寒が走る。突然の眩暈を覚えた次の瞬間、腰が抜けてその場に尻もちをつくと、今度は奇妙な笑いが込み上げてきた。

 ああ、本当に、今日は何という日なのだろう。

 

 

 

 これが、グレアム・メイヒューの仕業であることは明白だった。スペンサー・ロローが声をかけたのは、ほんの数人のエージェントとグレアム・メイヒューその人だけだったからだ。エージェントがこの話に興味を持った役者を連れてくることは想定していたが、ここまで舞台関係者が揃い踏みとなると、誰かの差し金を疑わずにはいられない。

 約束の時間から少し遅れてやって来たグレアムは、招待されたわけでもない観客の相手をせざるを得なかったスペンサーを見つけるなり、にやりと嫌味っぽく笑った。傍には贔屓にしている女優、最終審査で不合格となったシルヴィアと、一人の若い男を連れていた。どこかで見た顔だと思ったが、今は記憶の海に潜っている暇などない。

「Mr.メイヒュー」

「やあ、Monsieur」嫌味ったらしいフランス語の発音にイラっとするが、スペンサーは持ち前の笑みを顔面に貼り付けた。「お招きいただき感謝するよ。せっかくの機会だからね、友人たちにも声をかけさせてもらったんだ。みんな喜んで見に行くと言ってくれてね。別に構わなかっただろう? 君たちにとっても、これは良い宣伝になるはずだ」

 グレアムの腕に自らの腕を絡ませ、シルヴィアはくすくすと笑っている。ああ、これはこの子の入れ知恵かと思いながら、スペンサーはグレアムと連れの二人を最前列の席に案内した。

「その、なんていったかな、キサという子はどんな子なんだ?」

「とても平凡な子よ」席に着きながら、シルヴィアはグレアムの質問に答えている。「こういう古風な小劇場向きの女優ね。大舞台に立つには派手さが足りないんじゃないかしら。日本人だから悪目立ちはするのでしょうけど。私やアイリーンを差し置いて主役の座を射止めるなんて、本来なら考えられないことだわ。演出家と寝たんじゃないか、なんていう噂もあるのよ──あら、失礼」

 ニット帽を目深に被った男を、シルヴィアの隣に座らせる。シルヴィアは寸前まで浮かべていたにやけ顔を引っ込めると、その男を気味が悪そうに睨んだ。どうやら、連れではあるが、旧知の仲というわけではないらしい。

「そういう噂話を鵜呑みにするのは良くないな、シルヴィア」

「まあ、グレアム」首を捻りそうな勢いで、シルヴィアは男からグレアムに視線を戻す。「ええ、でも、そうね。これからは気をつけるわ」

 世渡り上手とはこういう者のことをいうのだろうとスペンサーは思った。長い物に巻かれ、取り入ることで息が長くなる役者は、確かにいる。だが、己の若さと美貌を利用して大御所に飼われる女優も、それを支援する俳優も、今となっては時代遅れだ。

 希佐は平凡なのではない。品があるのだ。謙虚で奥ゆかしく、誠実で──スペンサーは頭の中では反論しながらも、余計なことは言うまいと心に決めていた。

「芝居を見てやってくれとこの私を呼びつけるくらいだ、君はその女優に相当な価値を見出しているのだろうね、スペンサー」

「ええ、それはもちろん」

「私は、このシルヴィアが若手の中では随一の女優だと思っている。アラン・ジンデルのところのアイリーンも捨てがたいが、彼女は歌一辺倒だ。だが、この子には歌、ダンス、芝居、舞台人として必要な要素が全て揃っている」

「確かに」

 その主張に反論するつもりはない。シルヴィアは間違いなく素晴らしい女優だ。今回はその高い鼻っ柱が折られる結果になったというだけで、彼女を自分の舞台に起用したいと考える演出家は多い。

「シルヴィアは素晴らしい女優です。もちろん、アイリーンも。実は、彼女には今度の舞台に出演してもらうつもりでいます」

「……何ですって?」

「君のエージェントにも連絡したのだけれど、良い返事をもらえなくてね」これは事実だ。「残念だったが、別の女優を起用させてもらうことにしたよ」

 シルヴィアはプライドが高い。主演のオーディションを受けた結果不合格となった舞台で、端役を演じることなどできないだろうと、エージェントは考えたのだろう。

「間もなく開演します」スペンサーは腕時計を見やり、グレアムに向かって言った。「どうぞ、楽しんで」

 観客の誘導は劇団カオスの面々が買って出てくれていた。自分たちは後ろの方の席で構わないからと言った彼らは、今は仲良く横並びになって腰を下ろし、緞帳が開くのを待っている。

 スペンサーはその場を離れると、スマートフォンを手に取りながら、劇場の後方に向かって歩き出した。客の入りはそれなりだ。こんなはずではなかったのだがと苦笑いを浮かべ、スマートフォンを耳に当てる。

「準備は?」

『キサ次第だけど』

「彼女、どうかしたの?」

『本番前にすっ転んだ』

「どうしてまた」

『驚いて腰が抜けたって』

「驚いた?」スペンサーは両開きになっている出入り口の扉を、片側ずつ閉めていく。「ああ、観客が思った以上に多かったからかな。すまないね、私にとってもこれは想定外だったよ」

『いや、そういうことでは──』

 アランがどこか歯切れの悪い物言いでそう言ったあと、別人の声が電話口から聞こえてきた。何を言っているのかまでは分からない。アランはそれに相槌を打つと、再びこちらに向かって話しかけてくる。

『もうはじめられるって』

「観客は全員席に着いた。こちらも準備は整っているよ」

『何か伝えることは?』

「何もない」スペンサーはそう言い切った。「今夜は私も一観客として楽しませてもらうよ」

『……三十秒後に、暗転させて』

 ぷつ、とこちらの返事を待たずに通話が切れた。スペンサーは劇場照明の電源の前に立ち、時計の秒針に視線を落としている。時間は丁度七時半。予定通りの時刻だ。

 十秒前、九、八、七、六──秒針が丁度三十秒後を指示したその瞬間、スペンサーは劇場の照明を落とした。ざわざわとしていた会場内が一瞬にして静まり返り、視線が一気に舞台に集中する。スペンサーはそのまま壁に寄りかかって立つと、緞帳が開くのを待った。

 真っ暗闇の中、緞帳が開く衣擦れの音だけが聞こえてくる。だがしかし、緞帳が開いたその向こう側に現れた舞台もまた、暗闇だ。

 たっぷりの間が置かれる。ざわ、ざわ、と、喧騒が微かに戻りかけたそのとき、玲瓏な声が劇場内に響いた。

「天には目覚めの光を──」その声音は、普段の希佐からは想像もつかないほど低く、そして、太い。「──地は安らかに眠れる土をいっぱいに敷け」

 ゆっくりと、もったいつけるように、その声はこの世界に命じている。

 だが、スペンサーは奇妙な違和感を覚えた。

「子守唄は打ち寄せる波の音、木々のざわめきをゆりかごとしよう。そして、太陽と月と星をおもちゃにして遊ぶといい。ひとりでも寂しくないように、水に魚を泳がせ、空に鳥を放とう」

「……ああ、そうか」スペンサーは小さく独り言ちる。「呼吸だ」

 息遣いが聞こえなかった。希佐はマイクに声を通していない。それでも、その声はこの劇場を確かに満たしている。相当な量の息を蓄えなければ、これほどの声量を保つことはできないだろう。それなのにもかかわらず、呼吸音が一切聞こえてこない。

「これですべて揃った……」ここで初めて、微かに呼吸する気配を感じた。「ん? どうしたことだ。目覚めの光はいいが、大地いっぱいの土が足りないぞ……これでは波は滝となり、木々も滑り落ちる……」

 その声にほんの僅かな動揺が滲んだ。神が世界を創造している最中に、何らかのトラブルに見舞われたらしい。誰もがそうと思った次の瞬間、ちっ、と小さな舌打ちが聞こえてきた。

「おい、土の手配はどうなっているんだ!」

 声音ががらりと変わった。低く、太かった声が少しだけ高くなり、訛りが混じる。

 そして、舞台の中央にある照明だけが点された。白い、何の飾りもないワンピースを着た希佐が、そこに立っている。裾は足元を隠すほど長い。その衣装は、神の装束にも、体を覆うローブにも、可憐な少女にも、寝間着をまとう少年にも見えた。

「舞台に土をくまなく敷き詰めろと言ったはずだろう! でなきゃ演出できない!」

 偏屈さを感じさせると同時に、どこか神経質そうな口振りで、舞台演出家が怒鳴りつける。

 天地創造の瞬間を見せられているものとばかり思っていた観客は、突然の舵切りに困惑しているようだ。劇場の空気に揺らぎが表れたその隙の見逃さず、希佐はテンポよく立ち位置を変えた。

「そんなことしたら、土代で予算が全部吹っ飛んじゃいますよ」

 希佐は声音と訛りを巧みに使い分け、次々と人格を乗り換えていく。

「だいたい、舞台に本物の土や、水や、木をおいて、役者にニワトリを持たせとくだけって、どんな演出よ。そんなんだから、本番前に女優が降板するんでしょ」

 代わる代わる出てくる人格は、表情や話し方だけでなく、体に出る癖までもが違う。ぴんと背筋が伸びていたかと思えば、斜に構えた姿勢を作り、話しているのが別人であるということを、一目で分かるように演じ分けていた。

「舞台を作るために必要なことをしているだけだ。ついてこれない奴が悪い」

 まるで空っぽの器だとスペンサーは思った。演じる人物の魂を瞬間的に体の中に取り込み、何の違和感もなく演じてみせたあと、あっという間にその人物の魂を吐き出して、また別の誰かを体に取り込んでいく。

 白い紙を赤く染めたあと、その上から別の色を塗るのではなく、瞬時に白く戻した後で、次は緑に、といった具合に。

「そこ、魚も鮮度を保っておけ! それから、鳥! 逃げてる!」

 舞台演出家が舞台の一角を指で差す。すると、腰を屈め、両手を前に出して走り出した何者かが、それを天高く突き上げた。

「お父さん! 鳥を捕まえたよ!」

 なんて無邪気な声音なのだろう。純粋無垢。穢れを知らない、幼い子供。ただただ父親に褒められたくて、そうしていると分かる。子供は舞台演出家の下に駆け戻ると、両手に抱えた鶏を差し出した。

「でかした。だが、お前が捕まえられるようじゃ、その鳥は役者失格だな。そいつは自由な鳥を演じなければならないんだから……今日の晩御飯にしよう」

 舞台演出家は、どこかぶっきら棒に子供の頭を撫で、褒めてやる。

 受け取った鶏を小脇に抱え、足元にある鳥籠に押し込みながら、ぽつり、と呟いた一言で、劇場に小さな笑いが起こった。

「そこの君」演出家はそう言うと、最前列に座っている客を指した。「この鳥はどう料理するのがいいと思う? 私はこの羽毛をむしり取って、豪快に丸焼きにするのも捨てがたいと考えるが……」

 スペンサーの見間違いでなければ、演出家が指した観客は、グレアムが連れてきたニットの帽子を目深に被った若い男だった。だが、男は何も答えない。僅かな沈黙のあと、演出家は絶妙な間を取って、再び声をあげた。

「おい、こんな不愛想なスタッフを連れてきたのは一体どこのどいつだ?」そう不満の声を漏らしながら、演出家は小上がりになっている舞台を降りていく。「もしかして、君が?」

「いかにも」

「ほう」演出家はまるで値踏みするような目でグレアム・メイヒューを見た。「君はあの鳥をどのように調理するのが正解だと思う?」

「そうだな」グレアムは同じ舞台に立つ役者のように、仰々しい口振りで応じた。「スタッフド・チキンブレストはどうかね? 君の子供も喜ぶと思うが――」

「まあ、私は最初からコロネーションチキンにしようと決めていたのだがね」

 演出家はあろうことかグレアムの言葉を遮り、途端に興味を失ったという顔をして、舞台の下を右へ、左へと歩き出した。観客たちの頭が、演出家に合わせて右へ、左へと動くのを、スペンサーは眺めている。

「あー、今日は一体どうしたというんだ? どこぞのエージェントが女優を連れて挨拶に来るとは聞いているが、それにしたって、見学者の人数が多すぎるだろう」

 そう言った演出家は、誰かの姿を探すように視線を彷徨わせてから、苛立たしげに声を上げた。

「おい、ノア! ノアはどこだ?」

「……へっ? ぼ、僕? ノアって僕のこと?」劇場の一番後ろの座席に座っていたノアが、驚いたように声を上げながら、その場に立ち上がった。「はいはーい、ここにいまーす!」

「お前、そんなところでなにをしている」

 大勢の観客たちを挟んで、演出家は最後尾にいるノアに話しかけた。

 今頃、舞台袖にいるアランは呆れ返っていることだろう。台本にこんな余興は描かれていない。ト書きすらされていない。舞台演出家の独壇場だ。

 急に呼びつけられたノアは最初こそ戸惑っていたが、あっという間に腹を括ると、演出家の問いかけに応じはじめた。こうした希佐のアドリブには、カオスの公演で慣れているのかもしれない。

「なにって、今日も今日とてカメラ係ですよ。面倒事はみーんな僕に押し付けるんだから」

「私はそんなことを頼んだ覚えはないが、まあいい。それが終わったら、今度は料理係だ。そこの籠に入っている鳥の下処理を頼んだぞ」

「えー、なんで僕が──」

「鳥の下処理は下っ端の仕事と決まっている」

「鳥の下処理の仕方なんて知りませんよ」

「お前がその手に持っている平べったい機械を使って調べればいいだろう」

「そんなふうに言うんだったら、自分でやってください」

「私は演出家──そう、舞台演出家だ」くるりとその場で身を翻した演出家は、舞台上へと戻っていく。「私は演出家、最高の舞台を作るために、今日も創造で忙しいのだ」

 舞台の中央に立つと、ごほん、と咳払いをし、舞台演出家は恭しくお辞儀をした。

「私は演出家。舞台の上で生の一瞬を人々に焼きつける」

 背景音楽も、それに合わせた歌とダンスも、たった一晩の付け焼刃だとは、誰も思わないだろう。脚本自体はもう何年も前から存在していたものらしいが、アランの前で演じたというのは、もう三年も前のことだと話していた。

「……参っちゃうんだよなぁ」

 スペンサーは頭を乱暴に掻きながら、思わず漏らすようにそう呟いた。

 緞帳が上がってすぐの、あの冷たい空気は、いつの間にか消え去っていた。

 希佐にとってこの劇場は馴染みの場所だ。自分のホームのように思っていることだろう。だが、目の前にいる観客たちは違う。希佐の粗を探し、品定めをしにやってきた者たちばかりだ。それを、冒頭のほんの数分で、味方に付けてしまった。

「──あの、すみません、ユニアプロダクションの者ですが……」そろり、そろり、と下手の方から、頼りなげな人物が顔を覗かせる。「この度は、そのぉ、ご紹介した女優がとんだ失礼をいたしまして……」

「ああ、ようやく来たのか」演出家は大きくため息を吐く。「逃げた女優は元気?」

「ええ、ええ、それはもう、元気も元気──」

「それで、代役は?」

「はっ、はい、それに関してはお任せください。うちで一番の厄介者……いえ、個性派女優を連れてきました──ほら、早くおいで、先生にご挨拶を」

 すうっと、舞台上の空気が一変したのは、そのときだった。客席の冷たさが舞台を飲み込もうとする瞬間は、これまでも度々目にしてきたことがある。だが、舞台上の冷気が客席を丸ごと飲み込んでいく様子は、そう見られるものではない。

「How do you do ?」

 最近ではついぞ聞くことのないその古風な挨拶が、この女優は風変りである、ということを助長させる。だが、少し掠れたような低く魅力的な声音が、鼓膜にやわらかく爪を立て、くすぐるように語り掛けてくるのだ。

「あなたが演出した舞台、以前から拝見していました。一緒にお仕事できるなんて光栄です」

 ゾッとした。その声が、ゆっくり、ゆっくりと、耳から脳へと伝達され、思考を浸食し、支配されていくのが分かったからだ。普段の希佐を知っているからこそ、どこにそんな引き出しを隠し持っていたのだと、そう思わずにはいられない。普段の朗らかさとは打って変わり、香るような妖艶さが、観客の目だけでは飽き足らず、心までをも奪っていく。

「厄介者なんだって? 奇遇だな、それなら私もだ」

「あなたが厄介者?」ゾクゾクとした快感にも似た感覚が足元から駆け上がり、全身に鳥肌が立った。「周りの人間はよほど鈍いのでしょうね。私はあなたに魅力しか感じません」

 この得体の知れない女優が、一瞬にして演出家の存在感を上回り、舞台をコントロールしはじめるかのようだった。女優の振る舞いが、口にする言葉が、声が、気になって仕方がない。あれだけ風変りに思えていた演出家が、常人に感じられる。

「──天才に向かって、凡人に合わせろなんて傲慢だわ。私はこんなにあなたの才能に夢中なのに」

 そうか、と思いながら、スペンサーは口元を覆った。

 観客たちの多くは今、舞台演出家に自らを重ね、この独り芝居を観ているだろう。そうなるよう誘導されている。

 独り芝居にしては登場人物が多く、ましてや主役である演出家が個性的であるために、どこに感情移入をすればいいのか分からなかった。だが、より風変わりな女優が登場することで、観客の感情に変化が生まれる。女優が言葉を重ねれば重ねるほど、演出家と同じように、彼女に心が囚われていく。

「彼女なら私のことを理解してくれるのかもしれない……彼女なら……だが、そう考えれば考えるほど、舞台が作れなくなる……ああ、もはや、彼女のことしか考えられない……!」

 他の観客もスペンサーと同じ気持ちだろう。演出家が舞台上に現れていても、脳裏には女優の姿がちらつくのだ。まるで愛を育むかのように、それぞれの想像の中で、女優は美しさを増していく。そして、観客はそれが実像なのか、虚像なのかも分からなくなるのだ。

「だめだ、なにひとつ思い浮かばない」それでも、演出家は頭上の光を見上げる。「今じゃテレビをにぎわすエンターテイメント漬けの君。かわって僕は海に沈んだ藻屑」

 海の底から天上に輝く太陽を見上げ、それを渇望するように、演出家は震える片腕を突き上げる。しかし、もう一方の手は何かを暗示するように、自らの首を鷲掴みにしていた。

「……幕引き、かな」

 女優に恋をした演出家は、自らの感情に溺れ、海の底へと沈んでいった。暗闇の中、虚無と闘いながら、それでも光を求め続けたが、女優が天才と称した才能は失われたのだろう。女優は自らに翼を与えた演出家を捨て、大海へと旅立っていったのか。

 女優は言った。私はこんなにあなたの才能に夢中なのに、と。女優は元より、演出家の才能にしか興味がなかったのかもしれない。それを利用するために、愛らしい猫のようにすり寄ってきただけなのかもしれない。

 よたり、よたりと、演出家は舞台の真ん中から姿を消す。体を引きずるように、いや、死神に引きずられていくかのような足取りで、暗闇の中に消えていく。

「──父さん!」

 初登場時よりも少しだけ成長した様子の息子が、ライトの下に駆け出してくる。数年の時間の経過を感じさせる演出だ。息子は光の中に立ち、じっと、暗闇を見つめている。しかし、その暗闇を見つめていた面差しに、ふと、幼さが戻った。

「dad……」

 演出家が去って終わりではなく、一人取り残された子供が父を呼ぶ声で、舞台は幕を下ろす。たとえ演出家が破滅を迎えても、物語はこの先も続いていくことを思わせる。

 この結末は気持ちの良いものではない。だが、観る者にそう思わせた時点で、脚本家や演出家、演者の勝利だ。後味の悪い物語は、それを観た者の心に大なり小なり傷跡を残し、長きに渡る語り草となるのだから。

 希佐はもう静寂を恐れてはいないだろう。拍手一つ起こらない中、舞台上の照明が消され、緞帳が閉じられた。スペンサーが劇場の灯りを点すとようやく、辺りから思い出したように息遣いが聞こえはじめる。

 どうやら、カーテンコールは行われないようだ。

 

 

 

 暗闇の中、大きく息を吐く。途中即興を挟んだせいで、終了予定時刻よりも長引いてしまったが、何とか無事に終えることができた。大喝采とはいかなかったが、仕方がない。沈黙もまた正しい評価の一つだと思いながら、希佐はアランが待っている舞台袖に足を向けた。

 だが、演技後特有の高揚感とは違う、のぼせたような感覚に頭を捻ったそのとき、生ぬるいものが鼻の奥から流れてくるのを感じた。咄嗟に手の平で鼻と口元を押さえ、袖に駆け込んでいく。

「アラン、私のバッグの中からタオルを取ってくれる?」

 舞台側の照明を点灯させていたアランは、希佐を振り返るとすべてを察した様子で、素早くタオルを取り出してくれた。感謝の言葉を口にしながら受け取った希佐は、自らの鼻にタオルを押し当て、困ったように笑った。

「座って」

 アランは少し離れたところから椅子を引っ張ってくると、そこに希佐を座らせた。姿勢を前屈みになるように促し、肩から自分のコートをかけてくれる。

「舞台が終わってからでよかった」希佐は様子を確かめるために、鼻からタオルを外した。「お芝居中に鼻血を出すなんて恥ずかしいから」

 ぽた、ぽた、とタオルに落ちる鮮血を見て、希佐は再びタオルを鼻に当てた。鼻血を出すなんて、何年振りのことだろう。子供のとき以来だろうか──そう思っていると、アランが目の前で膝をつき、顔を覗き込んできた。

「気分は?」

「悪くないよ」希佐は緑の目に見つめられたまま、首を横に振った。「ただ少しのぼせたみたいな感じがするだけ」

「熱は──なさそうだけど」

 アランは希佐の額と首筋に手の甲で触れ、熱がないことを確認していた。舞台の後で体温はいくらか高くなっているだろうが、病的なほどの上昇ではない。公演後は疲れが出て寝込むことが多かったので、それを心配してくれたのだろう。

「舞台演出家のお芝居、どうだった?」こんな姿では格好がつかないと思いながらも、そう尋ねずにはいられなかった。「全然違うものになっていた?」

 そう問われたアランは、希佐に向けていた視線を横に逸らすと、客席のある方へと目を向ける。劇場は徐々に喧騒を取り戻しはじめていた。

「言葉にするのが難しいんだ」アランはぽつりと漏らすように言う。「まだ消化しきれてない」

「それは……」

「出来が悪かったとか、そういうことじゃない」

 熱が冷めていく。体の中で燃え盛っていた炎が、じりじりとした燻りになり、そして、消えていく。

 アランの表情には曇りがあった。言葉にしづらい感情を抱え込んでいるかのように。今の演技に、何か思うところがあったのかもしれない。希佐はそれ以上踏み込むことが恐ろしくなって、食い下がって尋ねることはしなかった。

 そのとき、タイミングが良いのか、悪いのか、観客席と舞台を繋ぐ扉が叩かれた。反射的に腰を上げようとした希佐を制し、アランがそちらへ向かって歩き出す。以前、カオスの公演中に観客が勝手に入ってくるという事件があって以来、常に鍵を掛けておくようにしていた。

 因みに、そのとき入ってきたのはイライアスの熱狂的なファンの女の子で、どうしても差し入れをしたいのだと言って、可愛らしくラッピングされたクッキーのようなものを置いていった。イライアスは公演後、どこか困ったような顔をしてその差し入れを手にしていたが、丁度その前を通りかかったアイリーンは、有無も言わせずにそれを取り上げ、ごみ箱に叩き込んでいた。

「こんな訳の分からないものはさっさと捨ててしまいなさい。善意のふりをした悪意だってあるのよ。罪悪感なんて覚える必要はないわ」

「……強い」

 希佐と一緒にその一部始終を見守っていたジェレマイアが、そう小さく呟いていた。

 だが、礼儀正しく扉を叩いていたのは熱狂的なファンではなく、他ならぬスペンサー・ロローだった。スペンサーはアランに軽く視線を送った後、椅子に座ってタオルを顔に押し当てている希佐を見て、目を丸くする。

「どうしたんだい?」

「あ、いえ、なんでもないんです」希佐は慌てて頭を振った。「少し鼻血が出てしまって」

「鼻血?」

「もう止まったみたいなので、大丈夫です」

 希佐はメイク道具の中から手鏡を引っ張り出し、水を湿らせたコットンで血を丁寧に拭った。幸い、鼻血は一時的なものだったようで、五分とせずに止まってくれた。衣装も汚れていない。しかし、これは処分した方が良さそうだと思いながら、希佐は血の滲んだタオルを見下ろしていた。

「外の賑やかし連中は?」

「今頃は悶々としながら下で酒でも飲んでいるのではないかな」スペンサーは苦笑いを浮かべながら、大きく肩をすくめる。「カオスの子たちが誘導を手伝ってくれているよ。あとで一杯奢ってあげないとね」

「一杯で済めばいいけど」

「店に付けておいてもらえれば全額私が払うよ」スペンサーはそう言うと、思い出したように希佐の方を向いた。「君にもギャラを支払わなくてはいけないね」

「えっ?」

「こんな大勢の前で演じさせてしまったのだから、当然だろう?」

「い、いえ、私はそんなつもりで演じたわけでは。それに、これはほんのお手伝いのつもりで……」

「では、その助力に対するせめてもの感謝の気持ちということで」

 事務所の口座に振り込んでおくからね、と言うスペンサーに言い返す間もなく、話は先へ、先へと進んでいってしまう。希佐が開きかけた口を噤み、諦めたように息を吐くと、スペンサーはそれを見て小さく笑っていた。

 希佐が奥の控室で着替えを済ませて戻ってくると、アランとスペンサーはタブレットを使って、先ほどの独り芝居の映像を見返していた。希佐がアランの隣に立って画面を覗き込むと、それを持っていたスペンサーが、タブレットをこちら側に傾けてくれる。映し出されていたのは、演出家の前に女優が現れる場面だった。

「How do you do ? ──この一言は秀逸だったね」スペンサーが言った。「聞き様によっては酷く古臭いが、同時に品があって、風変わりでもある。このたった一言で、観客にはこの女優が普通とは違う感性の持ち主だということが伝わる」

 希佐がHelloと訳していたその台詞を、How do you do ? にした方が印象に残ると、そう助言してくれたのはアランだった。いまどき、イギリスでもそんな挨拶をする者はほとんどいない。少なくとも、アイルランドとイギリスで五年暮らしている希佐は、一度だってHow do you do ? と挨拶されたことはなかった。

「絶対にそうした方がいいとは言わないけど、君が俺の前で演じたときからの違和感だったから、頭の片隅にでも入れておいて」

 希佐は舞台がはじまる寸前になっても、女優にどちらの台詞を言わせるのかを決められず、結局は本人に任せることにした。そのときになって、演出家と対峙したその瞬間の女優の判断に従うと、希佐は決めたのだ。

 今回、希佐は女優を誇張して演じた。演出家に取り入り、利用して、陥れるような、想像に易い人物像をイメージした。だが、それだけでは物足りない。ずる賢くはあるが憎めない、悪事を働かれても思わず赦してしまうような愛嬌や、少女のような純粋さと、それとは相反する品の良さを役柄に織り込んだ。

 その結果、出てきた最初の一言が、How do you do ? だったのだ。それは希佐が選んだものではない。女優に選ばされたという感覚の方が近かった。

「そうした方が印象に残るとアランが言ってくれたので」

「俺は提案しただけ」流れる映像を見続けながら、アランはなんでもないことのように言う。「選んだのはキサだから」

「本来はHelloだけだったんです」

「他言語を翻訳するのは難しいだろう?」

「はい、とても」

「いずれにせよ、アランの提案を採用したのは良い判断だった。女優も魅力的に演じられていた。私も舞台上の演出家のように、彼女に心を奪われそうになってしまったよ」希佐の目には、スペンサーはどこか憂いを帯びたような表情を浮かべているように見えた。「この世界で仕事をしていると、誰でも一度は自身の才能の枯渇について考えざるを得ない日がやってくる。今日、劇場に集まっていた多くの人々は、おそらくそうした恐怖と向き合ったことのある者が大多数だ。だから、今回の独り芝居は余計に刺さったのだろうね。才能が消える原因は数あれど、その現実が自分の目の前に訪れたとしたら、その足が向かう先は、あの舞台演出家と同じ場所なのかもしれないのだから」

 表現者は皆往々にして才能の枯渇に怯えている。自らの才能が尽きる場所には一体何が待ち構えているのかは、誰にも分からない。あの舞台演出家のように幕引きを選ぶ者もいれば、新たな門出を喜んで迎え入れる者もいるのだろう。希佐は、自分ならどちらを選ぶのだろうと考えてみるが、きっとまだ、その答えは得られない。

「さて、そろそろ下に降りるかい?」アランがじっと見入っていたタブレットを取り上げ、スペンサーはそれを小脇に挟んだ。「もう大丈夫そうかな」

「あっ、はい。もう大丈夫です」

 スペンサーは何か物言いたげにアランを見たが、すぐに希佐に向かって微笑みかけると、先に立って舞台裏を出て行った。

 希佐が隣を見上げると、アランは心ここに在らずといったふうな表情で、ぼんやりと宙を眺めている。何か物思いに耽っているときや、考え事をしているときの顔だ。経験上、放っておくのが一番だと理解はしているものの、いつまでもここに残しておくわけにもいかない。

「アラン」

「ん」

「とりあえず下に降りて何か食べない? 私、お腹が減ってしまって」

「俺には酒がいる」

「え?」

「考えをまとめたいんだ」

 アランはそう言うと、コートと荷物を引っ掴み、スペンサーの後を追いかけていった。

 最後に残された希佐は、机の上に置いてある鍵を手に取り、舞台上や舞台裏、控え室の見回りを済ませてから、消灯をして出ていく。じゃらじゃらと連なった鍵の中から適合する一本を選び出し、目の前の扉の鍵を閉めて、ため息を一つ吐いた。

 カオスの仲間たちが戸締まりまでしてくれたとは思うが、それでも確認のためにもう一度見て回っていると、少し慌てたような不揃いな足音が劇場内に駆け込んできた。

「すまない、キサ」最後の窓を確認し終え、カーテンの下からするりと出てきた希佐を見て、スペンサーが申し訳なさそうに詫びた。「鍵の管理を怠ってしまった」

「戸締まりの確認は終わっています」希佐はその手に持っていた鍵をスペンサーに差し出した。「あとは正面扉の鍵をかけるだけです」

「ありがとう。疲れているだろうに、本当にすまなかったね」

「いいえ、慣れていますから」

 劇場の鍵を受け取ったスペンサーは、希佐を先に外へ出すと、自らの手で正面扉の鍵を閉めにかかっていた。

 二階ロビーにはもう誰の姿もない。独り芝居を観に来ているはずのカオスの皆も、先に出て行ったアランも、もう下に降りていってしまったのだろう。

 希佐は、スペンサーが扉の鍵を探し出すのに手こずっている間、ロビーの長椅子に座ってそれを待っていた。いつかの打ち上げの日、ここの長椅子でアランと話をしたことを思い出しながら、ビロードのような手触りの座面を撫でる。

 ああ、あれからもう三年ものときが過ぎようとしているのかと、希佐は今更ながらに思った。イギリスにやって来て四年だ。まさか自分が、こうしてまた舞台に立ち、大勢の人の前で芝居をすることになるとは、日本を出て来たばかりの自分には想像もできなかったことだろう。

 つらいことも多かったが、自由に生きることができた、幸せな日々だった。だが、そろそろ帳尻合わせがはじまろうとしているのかもしれない。あれから五年が経とうとしている今、何も言わずに逃げて来たことへの責任を果たすべきときが近いのかもしれないと、希佐はそう思うのだ。あの日、あのホールで、加斎中と再会してしまった瞬間からずっと、考えている。

「──サ、……キサ?」

「え?」

「本当に大丈夫かい?」

 いつからそこに立っていたのか、スペンサーが気づかわしげな表情を浮かべ、こちらを見下ろしていた。目を瞬かせている希佐を見てから、スペンサーは腕時計を一瞥する。一瞬視線を左右に動かし、迷うような仕草を見せたが、小さく息を吐くと希佐の隣に腰を下ろした。

「君に無理を強いてしまった私が言うべきことではないのだろうが、明日はゆっくり休んだ方がいいだろうね」

「明日はジョシュアと歌の稽古が──」

「彼には私から話しておく」スペンサーは希佐の目を見つめ、首を横に振る。「明日は休みなさい」

「……」

「旅はまだはじまったばかりなんだ、キサ。先は長い。無理は禁物だよ」

 希佐はルイにもよく休めと言われたばかりだった。だが、その言いつけを守らず、昨日は夜も眠らずに頭と体を酷使し続けたのだ。どこかでしっかり休まなくては、この蓄積された疲れは、いつまで経っても解消されないのだろう。

「……分かりました」

「本当は分かりたくないという顔をしているね」不満そうな顔をしている希佐を見て、スペンサーは笑った。「君やイライアスのストイックさには脱帽するが、私たちは皆、同じ人間だ。疲れたら休む。そうしないと、体を壊す。体を壊してしまったら、君の大好きな稽古ができなくなる。稽古ができなくなると、その先はどうなると思う?」

「みなさんに迷惑をかけることになります」

「場合によっては舞台に立てなくなる可能性だってある。役者は体が資本だ。体調は常に万全に保っておくこと。ただし、先ほども言った通り、我々は人間だ。どうしようもないときだってあるさ。そういうときは、休めばいい。誰も君を咎めたりしないよ」

「……私、そんなに弱って見えますか?」希佐がそう問いかけると、スペンサーは少しだけ目を見開いてから、やや遠慮がちに頷いた。「そうですか」

「弱っているというより、正しくは疲れているように見える、かな」スペンサーは再び腕時計を見やりながら、言葉を選ぶようにして言った。「あれだけの芝居を見せてくれたのだから、それは当然のことだ」

 どういえば君に伝わるのかな、と多少困ったように呟き、スペンサーは考えながら先を続けた。

「私は君の引き出しの多さに驚愕しているし、尽きることのない才能を見せつけられたような気がして、喜びを感じると同時に、恐怖すら覚えている」

「恐怖……」

「私の手には余るのではないか、ということだよ」

「そんなことは」

「では、正直な話をしよう、キサ」意を決した顔をして、スペンサーは希佐の目を見つめた。「私は今夜、君の独り芝居を見て、これはもう私の手には負えないかもしれないと思った」

 それはどういう意味なのだろうと希佐は思った。

 今回の独り芝居は失敗に終わったということなのだろうか。オーディションの結果は間違いだったと、そう言わせてしまうのだろうか。芝居後の沈黙が意味することを考えはじめると、背筋や首筋ばかりか、指先までもが冷たくなる。

「これはおそらくだが、アランも同じ思いなのではないかと考えている」

「え……?」

「すべてが君一人で完結してしまうんだよ」

「あ、あの、それはどういう……」

「君は私の舞台を壊しかねないと思った。一人舞台──独壇場といえば分かりやすいかな。今のままではきっと、周りのキャストは君に飲まれて、その姿を霞ませてしまう。観客は君の姿を目で追うだろう。君が舞台から捌ければ、観客は君の姿を探す。物語などそっちのけで、ただ君を見ていたくてたまらなくなる」

「あっ……」

「君にもそういう経験があるだろう?」スペンサーは神妙な面持ちで言った。「確かにその舞台を見ていたはずなのに、その役者のこと以外は何も思い出せない。少なくとも私の定義では、そういう舞台は総じて失敗作だ。舞台は生きた物語でなければならない。すべてが美しく溶け合ってはじめて成立する。主役だけが目立てばいいというものではない。そうだろう?」

「はい」

 グレアム・メイヒューがそれだった。そして、田中右宙為だ。

 アンバーの凱旋公演を見たとき、何か途轍もないものを見せられているという感覚があった。田中右宙為の圧倒的な演技力と、神々しいまでの存在感。それは舞台というよりも、神秘的なアートに近いなにかを見ているようだった。我死也は田中右宙為の代名詞のように語られていたが、それを見る多くの者は、あの物語を正しく理解してはいなかっただろう。ただ、田中右宙為に圧倒されたい。そんな欲求がいつだって、あの頃のユニヴェール劇場には満ち満ちていた。

「私は君を見くびっていたんだよ、キサ」スペンサーは懺悔するように言った。「今度の舞台をダブル主演にしたはいいが、もしかしたら君はイライアスに食われることになるかもしれないと、そう懸念していた。でも、君は私の想像をはるかに超えた役者だった。君は相手役のイライアスどころか、舞台全体を丸のみにするようなとんでもない怪物だったと、今日、改めて気づかされたんだ」

 そんなものを望んではいない。望んだこともない。

「プロデューサーがグレアムを推したとき、私はアランが反対するだろうと思っていたんだよ。アランはあの役者を好いてはいないからね。でも、彼は二つ返事で了承した。彼の魅力が余すところなく発揮されるよう脚本を書いた。彼は舞台の秩序を乱す役者だ。グレアム・メイヒューの魅力が発揮されればされるほど、舞台は壊れていく。妙だとは思わないかい?」

「……何がでしょうか」

「アランが今度の舞台の脚本を書きはじめたのは今から一年近く前のことになる」

「え、そんなに前から……?」

「その間も、私はグレアムにアプローチをし続けた。だが、芳しい返事はもらえなくてね。でも、脚本の初稿が完成してすぐ、私はそれを持ってグレアムに会いに行った。その頃にはもう女優役のオーディションをすることは決まっていたから、彼は自分がこの役を引き受ける代わりに、シルヴィアを女優役にしろと言ってきたんだよ」

「私はシルヴィアさんなら女優の役を演じられたと思います」

「ああ、そうだね。彼女なら器用に演じられただろう。でも、広い舞台の上で、グレアム・メイヒューの隣に並んでいる彼女の姿を、私はどうしても想像することができなかった。彼女は舞台女優としての要素をすべて兼ね備えている、類まれな役者の一人だ。だからこそ、グレアムは彼女に目を掛けている。そんな彼女でも、あの役者の隣では霞んでしまうと、私は気づいた。オーディション期間中にね」

 希佐はシルヴィアが出演した舞台のいくつかを観劇したことがあった。オーディションの最終審査前に、ライバルのレベルを知っておいた方がいいと言われ、ジョシュアに渡された映像と音楽データを見聞きしていて、観たことがあると気づいたのだ。シルヴィアは様々なタイプの役柄を自在に演じ分ける。だから、それぞれの舞台で演じていた役者が同一人物であると、希佐には分からなかった。

「アランには分かっていたはずだ。グレアム・メイヒューを最大限に活かす脚本を書いたなら、生半可な女優ではその隣には立てないだろうと。でも、アランはアイリーンにならそれが可能だと思うと言った。うん、そうだろうなと、私も思ったよ。彼女はまだ荒削りだが、演技も上達してきているし、何より歌唱力が抜群で、舞台映えのする子だ。彼女もまた、イライアスと同様に、アランの手で大切に育てられてきた役者だからね。一次審査のとき、私はシルヴィアよりもアイリーンの方が可能性はあると思った──君が、最後の最後に現れるまでは」

 そう言って、スペンサーはまた腕時計に視線を落とす。次いで、希佐の頭越しに階段の方を見たかと思うと、腕時計を巻いた方の手をすっと持ち上げた。希佐が背後を振り返ると、そこにはヘスティアの制服を着たスタッフの姿があった。

「あの、メイヒューさんが、お話があると……」

「あと五分だけ待ってもらってくれ」

「ですが──」

「彼女と大切な話をしているんだ」

「……分かりました、そのようにお伝えしておきます」

 そのスタッフはおずおずと階段を降りていく。スペンサーはその足音がすっかり遠ざかるのを待ってから、再び口を開いた。

「そういえば、君とはゆっくり話せた試しがなかったね」そう言いながら、スペンサーは苦笑いを浮かべた。「私は君に警戒されているようだし」

「い、いえ、そのようなことは……」

 動揺を隠し通せなかった希佐を見て、スペンサーは微笑ましそうに笑みを深めた。咄嗟に取り繕って見せたところで、下手な嘘はお見通しということなのだろう。観念したようにへらりと笑う希佐を目の当たりにしたスペンサーは、いつもの人好きのするような笑みとはまた違った、朗らかな表情を見せた。

「私はね、一次審査で演じる君の姿を見て、本当に驚いたんだよ。自分の中には確かな女優像があったはずなのに、舞台上で輝く君の姿を見ていたら、これだとしか思えなくなったんだ。そして、私は半ば確信した。あの役は間違いなく、アラン・ジンデルが君に当て書きをして書いたものだとね」

「まさか、当て書きなんて。アランは私がオーディションを受けることにずっと反対していました」

「だから、私は妙だとは思わないか、と言ったんだ」スペンサーは僅かに首を傾ける。「アランは無意識のうちに、グレアム・メイヒューの隣で同じだけ強い光を放つことができる役者は、君しかいないと思うようになったのかもしれない。結果、あの女優の役柄には、君自身の要素が色濃く反映された。君ならこう動く、こう話す、こう演じる──もちろん、それが事実かどうかは、誰にも分からないことだ。すべてが君の演技力のなせる技だと考えることもできる」

 いや、違う。アランは最初から言っていたはずだ。この舞台に君以上に相応しい役者はいない、と。

 希佐がそのときのことをとつとつと話して聞かせると、スペンサーは小さく唸り声を上げてから、その場に立ち上がった。誰かが階段を上ってくる足音が聞こえてくる。

「私はあの脚本の仕上がりに納得しているよ。それに、最終以前の審査で彼が君を推したことはただの一度もなかった。君は審査員の総意で主演女優に選ばれたんだ。何一つ後ろめたく思う必要はない」

 こそっと耳元で囁くようにそう言ったあと、スペンサーは屈めていた身を起こして、階段の方へと歩いていった。

 長椅子に座ったまま一点を見つめ、停止しそうになる思考を懸命に巡らせながら、希佐は必死に考えていた。

 今日の舞台演出家の舞台に登場する女優は、故意に今度の舞台の女優をイメージして演じていた。その方が、グレアム・メイヒューに意図するところが伝わりやすいだろうと判断したからだ。だが、故意にそうしたことで、それがアランを悩ませる結果になったのだとしたら、それは本意ではない。

 考えをまとめたい、とはどういう意味だったのだろう。言葉にするのが難しい、まだ消化しきれていないというのは、一体何に対して向けられた感情なのか。希佐は、自分が演じている映像を食い入るように見ていたアランの横顔を思い出し、妙な胸騒ぎを覚えていた。

「Lady」

 まさか自分が呼ばれているとは思わず返事をせずにいると、伏せた視界に何者かの足が映り込んだ。反射的に顔を上げた希佐の目の前に現れたのは、観客席の最前列に腰を下ろしていたグレアム・メイヒューその人だった。希佐は失礼にならないようその場に立ち上がると、すっと差し出された手を見下ろす。

「グレアム・メイヒューだ」

「存じ上げています」希佐は差し出された手をそっと握る。「希佐です」

「君のような女優が、今日という日までこのウエスト・エンドで無名のままでいられたとは、にわかには信じられない」

「それはお褒めいただいていると解釈してよろしいのでしょうか」

「もちろん、褒めているとも。称賛していると言ってもいい。まるでサラ・ベルナールの再来だ」

 サラ・ベルナールというのは、男役と女役の両方を演じ分けた、19世紀フランスを代表する舞台女優だ。ユニヴェールにいた頃、座学の授業で習ったのを覚えている。世界初の国際スターともいわれている女性だ。

「光栄です。ありがとうございます」

 希佐はそう言って軽く握った手を離そうとするが、グレアムはそれを察したように握る手に力を込めると、ぐっと引くようにして希佐の体を引き寄せた。目と鼻の先に迫った顔は左右対称に整っていて、目尻が少し垂れている青色の強い目は、まるで湖の底のような深さを感じさせる。

「私は、君が演じる女優に感銘を受けた。この気持ちをどう言葉にして伝えるべきか、ずっと考えあぐねていたよ。でも、それは酷くシンプルな感情だった。恋に落ちたんだ──そう、私は君が演じる女優に、恋をしてしまったんだ」

 目と鼻の先に迫る顔を見ても、希佐は平然としていた。表情一つ変えずにグレアムの目を見つめ返し、言うべき言葉を探している。失礼があってはいけない。気分を害することのないように、やんわりと、この場を離れたいと思った。

「難儀な女性に恋をされましたね」希佐は目を逸らさないまま言う。「私もその昔、月の王に恋をしたことがあります」

「……月の王?」

「もう遠い存在です」

「私にはよく分からないが」

「演出家亡き今、女優の行方は杳として知れません。もしかしたら、女優など初めから存在していなかったのでは?」青黒い目を丸くするグレアムを見て、希佐は続けた。「女優は演出家が創り出した幻影だった──そういう解釈も可能ですね」

 そう言ってにこりと笑いかける希佐を目の当たりにして、グレアムはますます困惑顔を浮かべていた。対して、その一部始終を目撃していたスペンサーは、思わず吹き出してしまった自らの失態を誤魔化そうとするように、小さく咳払いをした。

「スペンサー、この子は今英語を話しているか? 私には何の話をしているのかさっぱり分からん」

「即興劇のようなものですよ、Mr.メイヒュー」

「その割には話が見えてこない。この子の言う月の王と演出家の女優に、一体何の関係が?」

「どちらも手の届かない存在だからこそ美しいということでは?」

 希佐はグレアムが頭を悩ませているうちに、掴まれていた手をやんわりと解き、後ろ手に回した。

「失礼ですが、客席でご一緒だったお連れの方はどちらに?」

「シルヴィアのことか?」

「いえ、帽子を被った男性の方です」

「ああ、あの男か」グレアムはいつの間にか離れてしまっていた手を不思議そうに見てから、それでもきちんと希佐の疑問に答えてくれた。「友人からの頼みで、今は私の家で預かっているんだ。確か、友人の友人の知り合いだという話だが──彼がどうかしたのかね?」

 友人の友人の知り合いとは、それはもうまったくの赤の他人ということなのでは、と思いながら、希佐は階下の方を一瞥する。

「つまらない男だよ、彼は」

「ご紹介いただけますか?」

「彼を?」こくりと頷く希佐を見て、グレアムは理解に苦しむという顔をした。「それは構わないが」

「ありがとうございます」

 不審そうな顔をしながらも、グレアムは「こちらに」と言って歩き出す。希佐が黙ってその後をついていくと、その途中に立っていたスペンサーが隣に並んだ。

「驚いたよ」

「なにがです?」

「君は男のあしらい方がうまい」

「そうでしょうか」

「狼には気をつけろと忠告をするまでもなかったね」

 こそこそと囁き合っている二人を、前を歩いていたグレアムが振り返る。希佐とスペンサーは一定の距離を保つと、揃って人好きのする笑みを浮かべた。

 希佐の頭を悩ませていることは他にもあった。だから余計に混乱してしまっているのかもしれない。こういうときは、比較的易い方から解決していくべきだ。

 階段を降りていくと、フロアの視線が自分たちに集中するのを、希佐は肌で感じ取っていた。ステージ脇のいつものテーブルには、劇団カオスの仲間たちが集まっている。ご機嫌そうなノアが手を振ってくれたので、希佐もそっと振り返しておいた。

 グレアムは女性にこそ愛想を振りまいていたが、男性に対しては酷く不愛想だった。フロアの真ん中を突っ切ってカウンター席を目指す背中には、他者を侮るような傲慢さが窺える。それは自信の表れであると同時に、どこか虚勢を張っているようにも感じられた。

「君」グレアムはカウンター席の椅子に座っている、すらりとした線の細い背中に声を掛けた。「今夜の主演女優が君と話をしたいそうだよ」

 この男は英語を理解しているのかどうかも分らんがね、と言いながら、グレアムは希佐に自らの場所を譲った。希佐は軽く会釈をしてから、一歩、前に進み出る。

『お久しぶりです』希佐はその背中に、日本語で声を掛けた。『田中右先輩』

 どのような経緯でこのロンドンにやって来たのかは分からない。だが、希佐が見間違えるはずもない。はあ、と小さく息を吐き出し、被っていたニット帽を脱ぎながらこちらを振り返ったのは、確かに、田中右宙為その人だった。

『立花希佐』

『はい、立花です』

 田中右の姿を最後に見たのは、一学年上の先輩たちが学び舎を離れるその日、卒業式だった。綺麗に整列したアンバーの後輩たちに送り出されていた田中右は、号泣している後輩たちを前にしてもいつもの調子を崩さず、感慨に浸る様子すら見せずにユニヴェールを去っていった。

 卒業後は玉阪座に籍を置いたまま、海外での活動を中心に行っていると聞いていた。先日電話をした中座秋吏の話では、現在はインドにいるということだったので、緞帳の隙間からその姿を見つけたときは、驚きのあまり腰を抜かして、アランを心配させてしまったのだ。

『あれは根地先輩の脚本か?』

『日本を発つときに、こっそり持って出たんです。今回の独り芝居のことを根地先輩はご存じありません。こんな大事になるとは思っていなくて』

 突然日本語で話しはじめた二人を見て、スペンサーとグレアムは顔を見合わせていた。しかし、次の瞬間、希佐の後ろに立っていたスペンサーがはっと息を飲む。

「ああ、そうだ、思い出した。どこかで見た顔だと思っていたんだ」希佐が振り返ると、スペンサーは些かすっきりしたような面持ちで田中右を見ていた。「君は、我死也の舞台でがしゃどくろを演じていた子だね」

「彼をご存じなんですか?」

 そう言って目を丸くすると、スペンサーは田中右から希佐に視線を戻した。

「何年も前にウエスト・エンドの劇場で上演された日本の学生の舞台を、友人に誘われて観に行ったことがあったんだよ。ユニヴェール歌劇学校、我死也──でも、ああ、そうか。そういうことだったのか」

 これで合点がいったとでもいうふうに、スペンサーはうんうんと頷き、何かに納得していた。

 ならば、スペンサー・ロローは希佐と出会う以前から、日本にあるユニヴェール歌劇学校を認知していたということになる。これが一体何を意味するのかを考え、目を白黒とさせている希佐の傍らでは、グレアム・メイヒューも同じように混乱している様子だった。

「ちょっと待ってくれ、これは一体どういうことなんだ?」

「Mr.田中右は私が通っていた学校の先輩です。彼が所属していたクラスが海外公演を行ったのですが、ロンドンで行われたその公演を、スペンサーさんがご覧になっていたそうです」

『中座からはお前が卒業式前に行方不明になったと聞かされていた』話の流れを汲まず、田中右は希佐に話しかけ続けた。『失踪したとな』

『あ、はい……そう、ですね。校長先生がおっしゃったことは事実だと思います』

『自分事なのに、思う、というのは奇妙な口振りだ』

『校長先生が田中右先輩に対してどのようにお話になったのか、私には分かりませんから』

『そうか』

『はい』

 田中右宙為の印象はユニヴェールにいた頃と少しも変わっていない。背がすらりと高く、僅かに猫背。じっとりとした暗い色の目で、こちらを見下ろしてくる。ただ、以前よりも少しだけ筋肉質になっているような気がした。よく切れるナイフのように鋭利な眼差しは、当時の希佐には、怯えるに値するだけの威圧感があった。だが、今となっては、それが懐かしい。

『校長先生から、田中右先輩はインドにいるとお聞きしていました。なぜロンドンに?』

『お前のことを見に来た』

『えっ?』

『ユニヴェールから逃げ出したはずのお前が、ロンドンで演劇を続けていると知って、興味を持った』

『……私がロンドンにいることを、どうやって知ったんですか?』

『俺に問うまでもないだろう、立花希佐。お前なら既に気づいているはずだ』

 田中右の言葉の意味が理解できても、希佐はその現実から目を背け続けている。時間の問題だということは、もうずっと前から分かっていたことだ。だからこそ、審判の日が訪れるそのときまでは、幸福な暮らしを送っていたかった。

『そういえば、田中右先輩はどうしてメイヒューさんのお宅に?』

『中座の紹介だ』

『校長先生の?』

『厳密には、中座の知り合いの知り合いだと聞いている』そんな細い繋がりでよくも預かってもらえたものだと、希佐が内心で苦笑いを浮かべていると、田中右は更に続けた。『ロンドンに長居をするつもりはない』

『またインドに戻るんですか?』

『いや──』

 そうして何かを言いかけた田中右だったが、希佐に向けていた視線を僅かに持ち上げ、その口を噤んだ。とん、と肩に手を乗せられて後ろを振り返ると、そこにはバージルが立っている。

「よう」バージルは周囲に向かって軽く挨拶をしてから、希佐を見下ろした。「いつまで経ってもテーブルに来ねぇから様子を見に来たんだけど、取り込み中だったか」

「ユニヴェールの先輩が私の独り芝居を観に来てくれていたの」

「ユニヴェールの?」

『田中右先輩』希佐はバージルから田中右に視線を戻す。『この人は、私が所属している劇団の仲間で、バージルです。「バージル、この人は田中右宙為さん。学年が一つ上の先輩。学生の頃にロンドンで海外公演をしたことがあるんだ。スペンサーさんがそれを見たって」

「へえ」バージルはそう言うと、にっと親しげに笑い、田中右に向かって右手を差し出した。「よろしくな、チューイ」

「……よろしくお願いします」

 どこかインドの風を感じる、訛りのある英語だったが、バージルは気にも留めていない様子だ。握り返された手を何度か上下させると、ぱっと離し、今度はスペンサーに目を向ける。

「アラン、先に帰るって十五分くらい前に出て行ったぞ」

「えっ?」

「お前のことは俺がスタジオまで送ってやるから心配すんな」驚きの声をあげた希佐に向かって、バージルは努めて明るく言った。「考えたいことがあるんだとさ。落ち着くまでは放っておいてやれ。あれは長引くかもしれねぇけどな」

「長引くって……」

「お前の芝居を観て思うところでもあったんだろ。あんな感じの顔は久しぶりに見たから、何となく引き留められなくてな」

「まあ、アランがいなくても話は進められるから、私は構わないよ」

 なぜこんなにも嫌な予感がするのか、希佐には分からなかった。だが、体がぞくぞくと震えて、手足が酷く凍えているのだ。吐き出す息まで冷たく感じられる。

 そうした希佐の動揺が伝わったのかもしれない。スペンサーはその様子を一瞥してから、目の前にいるグレアム・メイヒューと向き合った。

「そちらでは旧友との再会を喜んでいてもらうとして。Mr.メイヒュー、私は今一度、あなたに問います」多くの人の目が、こちらに向けられている。そんな中で、スペンサーは臆することなく問いかけた。「今夜、あなたは彼女の演技をその目で見ました。だから、より正しい判断を下せるはずです。彼女は確かに無名の新人ですが、誰にでも無名の新人時代はある。ですが、新人だからこそ、その周りをあなたのようなベテランの舞台人で固める必要があるのです」

「おいおい、スペンサー。お前どうしちまった──っ」

 余計な口を挟んで冷やかそうとしたバージルの腹に、希佐は自らの肘を押し付けた。強くしたつもりはなかったが、丁度鳩尾の辺りに入ってしまったのだろう、バージルは小さく呻き声をあげる。お前な、と恨みがましそうに漏らしながら、腹の辺りを撫でさすっていた。

 田中右宙為の方が、ずっとよく空気を読んでいたようだ。それとも、興味がないのだろうか。ニット帽をかぶり直すと、再び脚の長い椅子に腰を下ろし、残っていた飲み物を口に運んでいる。

「キサはあなたの輝きにも決して見劣りしない。そして、あなたの魅力をより引き出すことのできる女優でもある。あなたはそういう女優を探していたのでしょう?」

「……いかにも」希佐がアドリブに巻き込んだときとは違う、嬉々としてではなく、どこか憂いを帯びた表情を浮かべてグレアムは頷いた。「私は常に、私の隣に並ぶだけの価値がある女優を探してきた。見つからなければ、育てればいいのだと考えた」

「それがシルヴィアですね」

「彼女はいい女優だ。だが、君が見つけてきた宝石には、ダイヤモンド以上の価値がある」

 こういう世界なのだということは、嫌と言うほど承知している。安易に優劣をつけられる世界だ。ただ見た目で判断されることもあれば、歌唱力やダンスの上手さで、比較的正当に評価されることもある。だが、最も曖昧な評価が、才能だ。

 才能の煌めきは、誰にでも見えるものではない。ただ何となくすごいという、なぜかは分からないが見ていると感情が揺さぶられる、などという感覚を、上手く言語化して伝えられるものは少ないだろう。

 自分が選ばれなかった理由を求めたとき、明確な答えが提示される場合は、酷く運がいいのだ。自らの改善点を指摘されれば、それを次に生かすことができる。だが、圧倒的な才能を前に敗北した者は、暗闇に沈む劣等感の中で、理不尽に傷を負わされることもあるのだ。人の心は容易に折れてしまう。

 昨日までは確かに笑っていたはずの誰かが、翌日には姿を消していた。何人も、何人も。お前に俺たちの気持ちは分からないと罵られたこともあった。だから、知っているのだ。互いに相容れない存在なのだということは。

 選ばれた者に、選ばれなかった者の気持ちは分からない。だが、選ばれなかった者に、選ばれ続ける者の苦しみは分からない。それでも、選ばれなかった者は言うのだろう、選ばれ続ける方がいいに決まっていると。人を蹴落としながら登った山から見渡す景色は、さぞや素晴らしいものなのだろうな、と。

「この言葉を口にするのは、これで最後にします、Mr.メイヒュー」スペンサーは厳かな口振りで問いかけた。「我々のカンパニーに加わってくださいますか」

 演出家らしいシチュエーション作りだと思わずにはいられない。これだけ大勢の目が自分に向けられていれば、気分は高揚し、気持ちは大きくなる。断るはずがないのだ。他ならぬ希佐が、心の奥底では断られることを密かに望んでいるとも知らず、首を縦に振るのだろう。

「いいとも」グレアムの方から差し出された手を、スペンサーは力強く握り返した。「私も君たちのカンパニーに加わろうじゃないか」

 ぎゅ、と胃が縮み、軋むような痛みを覚える。だが、それは一瞬のことだった。気のせいだったのかもしれないと思いながら、希佐はこちらを振り返ったスペンサーに向かって、にこりと微笑みかけた。

「ありがとう、キサ。君のおかげだ」

「お力になれて良かったです」

 煌びやかで美しい世界の裏側はいつだって、どろどろとしていて、醜く、残酷な一面も持ち合わせている。ここは嫉妬の世界だ。ありとあらゆる嫉妬が渦巻いていて、身を焦がし、火傷のように焼き付いては、硬い皮膚で傷口を覆い隠していく。そうすることで自分の心を守っている。本当は、嫉妬されるばかりの人間だって、誰かに嫉妬しているかもしれないのに。

 最近になってまた、怨嗟の声に犯される夢を見るようになっていた。ユニヴェールにいた頃、特に配役発表後によく見ていた夢だ。オーディションを終えてからはまだ日が浅い。きっとその影響なのだろう。また肩の荷が重くなるのかと、そう思ってしまうのは、この疲れが原因だと思いたかった。自分のこの浅ましい感情が嫌いだと、そう希佐は思った。

『今日来られたのは偶然なんですか?』田中右と話をしたいからと言ってバージルをテーブルに戻らせ、希佐は隣の席に腰を下ろした。『メイヒューさんが私の名前を口にしたとは思えないのですが』

 スペンサーとグレアムは別のテーブルに場所を移し、これからのことについて話し合っている最中だ。

 グレアムと一緒にいたはずのシルヴィアの姿は、一階に降りてきてから一度も見ていない。シルヴィアはただでさえ、オーディションの結果に納得をしていなかった。その上、グレアム・メイヒューが希佐のことを気に入ってしまったとなれば、内に秘めた憎悪は高まるばかりだろう。

『日本人の若い女優が劇場で独り芝居をすると聞かされた』

『それだけで私だと?』

『可能性は高い』

『お芝居はどうでした?』

『俺はお前に透明な器を求めた』よく見ると、田中右のグラスに注がれているものは、ただの水だと分かる。『だが、お前はもう透明な器ではないと、今日の芝居を見て確信した』

『では、今度こそ興味を失いましたか?』

『興味は変わらず持っている』その意外な返答に、希佐は目を丸くした。『今のお前が滝姫を演じたらどうなるのかを見てみたいと思った』

 希佐は思わず絶句し、隣に座っている田中右の横顔を凝視してしまった。

 田中右は物静かな眼差しをグラスに注いでいる。グラスの中の氷は既に溶けきっていて、側面には大量の水滴が付着し、結合したそれらが流れ落ちて、テーブルの上を濡らしていた。

『田中右先輩ががしゃどくろをやってくださるんですか?』

 希佐の問いかけに田中右は応じない。だが、あの田中右宙為が冗談を言うとも思えずに希佐が困惑していると、カウンター越しにメレディスが現れた。田中右に新しい水と、希佐にも同じものを用意してくれる。

「ありがとう、メレディス」

「酷く疲れた顔をしているからね、今日はお酒を飲んではいけないよ」

「うん、分かってる」

「何か食べるかい?」

「ああ、そういえば、お腹ぺこぺこだったんだ」言われて初めて、希佐は自分が空腹であったことを思い出した。「何か温かいものが食べたい」

「では、当店特製のシチューをご馳走してあげよう」

「わあ、ありがとう」希佐はメレディスに向かってそう言ってから、田中右を見た。『田中右先輩もシチューをいただきませんか? ここのシチューは水の代わりにエールを使って煮込んでいるんです。とても美味しいですよ』

 返事の代わりに、田中右の腹がぐうと鳴る。希佐とメレディスは思わず顔を見合わせてから、ふふ、と小さく笑った。心なしか決まりが悪そうにして見える田中右に向かって、メレディスは朗らかな口振りでお待ちくださいと言うと、店の奥へと入っていった。

『私、少しの間ここで働かせてもらっていたんです』田中右は腹をゆるゆるとさすりながら、希佐を横目に見た。『何の当てもなく日本を飛び出して、最初はアイルランドのダブリンに身を寄せました。ダブリンって、どこか日本の雰囲気に似ていたんです。人と人との距離の取り方が、何だかとても心地よかった。でも、ビザは一年で切れてしまうから、じゃあ今度はイギリスに行ってみようって思ったんです』

 田中右が自分の話を聞いているのかは分からなかったが、それでも希佐は話し続ける。

『でも、最初のうちはあまり上手くいかなくて。転機が訪れたのは、ロンドンに来てから一年と少しが経った頃でした。夜の町をふらふらしていたら、暗闇の中からピアノの音色が聞こえてきたんです。たどたどしいけど、懸命なアメイジング・グレイス──ユニヴェールで習った歌が聞こえてきて。その音色に誘われて足を踏み入れた教会で、天使みたいな男の子と牧師さまに出会いました』

『……その親子がお前の転機か』

『はい』希佐は頷き、やわらかく微笑んだ。『ある日、牧師さまが私をアランと引き合わせてくださいました。アランは、私が所属している劇団カオスの主宰で、脚本、演出、舞台音楽、衣装デザインまで、何でも一人で出来てしまう人なんです』

『まるで根地先輩だ』

『そうですね』ふわりと笑みを深める希佐を見て、田中右は僅かに目を細めた。『アランと出会ったことで、私のロンドンでの生活は一変しました。歌劇や舞台のことが忘れられず、劇場通いをするだけだった私が、また舞台に立つことになったんです。丁度その頃からでした、ここで働かせてもらうようになったのは』

『そうか』

『はい』

 メレディスが運んできてくれたエールシチューを並んで食べながら、二人は少しの間黙り込んでいた。田中右が熱々のシチューに息を吹きかけている様は、希佐にとって不思議な光景だった。あれだけ近寄りがたく、恐ろしいとさえ思っていた人と一緒に、遠い異国の地でシチューを食べている。それは少し奇妙で、面白い。

『俺は一度日本に帰る』シチューを食べ終わる頃、田中右が唐突にそう言った。『根地先輩の書いた脚本で、玉阪座の舞台に出る』

『そうなんですね』

『俺が彦、高科更文が比女だ』

『それは……』

 観てみたい、という言葉を、希佐は咄嗟に飲み込んだ。自分にその言葉を口にする資格がないことくらいは、理解していたからだ。

『玉阪座の若手の役者だけで編成された舞台だ。まだ公にはされていない』田中右はそう言いながら、ナプキンで口元を拭っている。『根地先輩には、二人が並んだ姿を見たいから帰ってきてくれと言われている』

『じゃあ、すぐに戻られるんですか?』

『そのつもりだったが』田中右は希佐の方に顔を向けた。『気が変わった』

『……気が変わった、というと』

『もう少しここに残る』

『でも、根地先輩には帰ってきてほしいと言われているのでは……?』

『いつまでに帰ってこいと指示はされなかった』

 既に舞台の話が決まっていて、比女と彦以外の配役も発表されているのだとしたら、そろそろ舞台稽古がはじまるということだ。根地黒門は一日でも早く帰ってきてほしいと思っているに違いない。だが、あの人のことだ、田中右が遅れて帰ってきたところで、たいして怒りもしないのだろうと、希佐は思った。

『この辺りの劇場地区では、連日様々な公演が行われているので、それを観て回るのも楽しいと思います。ここの小劇場でも近々公演があるそうです』

『お前は普段どこで稽古をしている』

『私ですか?』手にしていたグラスの氷が、カラン、と音をたてて崩れた。『住んでいる部屋の下がスタジオになっているので、基本的にはそこで稽古をしています』

『そうか』

『見学にいらっしゃいますか?』

 考えることもせずに自然とその言葉が口をついて出た。希佐は自らの言葉に驚いていたが、それは田中右も同じだったようだ。まさか、希佐の方から誘ってくるとは思ってもいなかったという顔で、こちらをじっと見つめてくる。

『明日は休むようにとスペンサーさんからきつく言われているので、私の稽古はありませんが、同じ劇団の子のダンスレッスンがあります。今度の公演で一緒に主演を務める役者です。彼の得意としているジャンルがコンテンポラリーなので、田中右先輩にも通じるところがあるのではないかと思うのですが』

『……場所は』

『住所を教えます』希佐は余分に用意しておいた舞台演出家の台本の裏に、スタジオの住所と、自らの連絡先を書き記した。『スマートフォンの地図アプリで住所を入力すればすぐに分かると思います。タクシーを使う場合は、ブラックキャブを利用してください。あの辺りは住宅街で道が入り組んでいるので、ミニキャブだと辿り着けないことがあるんです』

 ブラックキャブとミニキャブの違いが分からないという田中右に簡単な説明をしていると、二人での話を終えたらしいスペンサーとグレアムがカウンター席に戻ってきた。希佐は住所を書いた台本を田中右に手渡しながら、スペンサーに目を向ける。

「明日のイライアスの稽古ですが、彼が見学に来ても構いませんか?」

「私は構わないよ」スペンサーは二つ返事で了承した。「ルイやイライアスも人の目を気にするタイプではないからね」

「アランには私から話しておきます」

 それからすぐ、田中右宙為はグレアム・メイヒューに連れられて帰っていった。スペンサーは帰り際に名刺を手渡していたようだ。田中右は学生時代から世界的な注目を浴びていた役者なので、これを機に繋がりを持っておきたいというのが、演出家としての性なのかもしれない。

 見送りに出て行こうとすると、それをやんわりと断られた希佐は、メレディスにシチューの礼を言ってからカウンター席を離れた。途中で何度か呼び止められながら、ようやく仲間たちが待っているテーブルに到着すると、むすっとした顔のノアが一番に迎えてくれた。

「おそーい」

「ごめん、ノア。久しぶりに会った学校の先輩と少し話し込んでしまって」

「全然少しじゃない。キサが降りて来てから、もう一時間近く経ってるよ」

「ごめんなさい、本当に」希佐はそう言いながら、アイリーンの隣に座った。「今日は観に来てくれてありがとう。それに、お客さんの誘導とかも手伝ってくれたって」

「いいのよ。その程度のことはなんてことないわ。あなたの方こそ、今日の独り芝居は昨日の夜に突然決まったのでしょう? 準備、大変だったんじゃない?」

「ううん、アランがいろいろと手伝ってくれたから。でも、あんなに大勢の人たちが集まるとは思っていなくて、驚いてしまったけれど」

「ほとんどの人がグレアム・メイヒューに呼ばれて来たって言っていたわよ」

「そもそもがメイヒューさんに観てもらうための独り芝居だったんだ。劇場が空席ばかりだと寂しいと思って、周りの人たちに声を掛けてくれたのかも」

「あなた、それ本気で言っているの?」アイリーンはワインをぐいっと呷ってから、細めた目で睨むように希佐を見た。「悪意に決まってるでしょ。悪意よ、悪意。間違いないわ。あなたのことを、大勢の人たちの前で笑いものにしようとしていたのよ。でも、キサの芝居が思っていた以上に素晴らしかったものだから、くるっと手のひらを返したの。あの男が魅力的なのは舞台の上でだけ。キサに限ってそんなことはないと思うけれど、あの男には気をつけなさい。じゃないと、シルヴィアみたいな目に遭うことになるわよ」

「……シルヴィアさん、どうかしたの?」

 希佐がそう問いかけたとき、ジェレマイアがすっくと腰を上げた。次の飲み物を買いに行こうとしているようだ。それを見たアイリーンは、ポケットから取り出した紙幣をジェレマイアに手渡し、空のワイングラスを掲げてみせる。

「あなたも好きなものを頼んでいいわよ。またしばらく会えないのだし、今日は奢ってあげるわ」

「そりゃどうも」ジェレマイアは胸に手を当て、軽くお辞儀をしてみせた。「キサは?」

「お酒はいらないかな」

「んじゃ、何かアルコール抜きのものを買ってくるよ」

「ありがとう、ジェレマイア」

「いえいえ、お姫様方の靴の底をすり減らすくらいなら、オレが何往復でもしますとも」

 スペンサーは店につけておいてくれれば後は自分が払うと言っていたが、誰一人としてその好意に甘えようとする者はいなかった。スペンサー・ロローに金を払わせたら後が怖そうだから、という気持ちなら、希佐も理解することはできる。

「シルヴィアはね、自分だけは特別だって信じていたの」アイリーンは薄く切り分けられたチーズをフォークで差し、それを口元に運びながら言った。「自分はあのグレアム・メイヒューに選ばれたんだって。案外本気で恋してたんじゃないかしら。恋をするなとは言わないけれど、どんな男かなんて分かり切っていたでしょうに」

「そんなに酷い人なの?」

「酷い人かどうかは分からないわ。私はそこまでのことが言えるほど、あの人のことを知っているとは言えないもの。でも、あの人に捨てられた女の子は大勢知っているから、女癖の悪い最低な男だっていうことは分かるのよ」

 だが、スペンサーは別の言い方をしていたと、希佐は思う。

『キサはあなたの輝きにも決して見劣りしない。そして、あなたの魅力をより引き出すことのできる女優でもある。あなたはそういう女優を探していたのでしょう?』

 それに対して、グレアムはこう応じていた。

『私は常に、私の隣に並ぶだけの価値がある女優を探してきた。見つからなければ、育てればいいのだと考えた』

 グレアム・メイヒューと、その隣にいることが許されてきた女性たちが、どのような関係の下に成り立っていたのかは分からないことだ。希佐はその行為を、擁護しようとも、非難しようとも思わない。だが、その二人の間には考え方の齟齬があって、それを上手く埋められなかった結果が、周囲からの評価なのではないかと思うのだ。

 もし、グレアムが女優を育てようとしていたのだとしたら、それはそんなにも責められるべきことなのだろうか。時代錯誤という問題は確かにある。しかし、自分の隣に立ち、互いを輝かせ合うことのできる唯一無二のパートナーを欲する気持ちは、誰にだってあるものだ。もちろん、だからといって女の子を傷つけて良い理由にはならないのだが。

「案の定、シルヴィアはあの男に捨てられてしまった」不運な物語の結末を告げるように淡々と、アイリーンは言った。「あの男の好意が自分からあなたに移ってしまったのが分かって、泣き叫びながら店を出て行ったわ。グレアムがシルヴィアを隣に置いていた時間が、他の子たちよりも長かっただけに、ショックがより大きかったのでしょうね」

 同情はしないが、かわいそうだとは思うと言いながら、アイリーンはワイングラスを手に戻ってきたジェレマイアを迎え入れた。希佐にはノンアルコールのカクテルを、自らにはエールを買ってきたジェレマイアは、元の席に戻ってノアやバージルと話しはじめる。

「こんなことを言うとあなたの気を悪くしてしまうとは思うのだけれど、あの子、あなたに相当の恨みを持っているわよ。あなたがオーディションに受かったのは、不正をしたからだと触れ回っていたみたいだし──」

「キサは不正なんかしない」アイリーンを挟んだ向こう隣りで、机に突っ伏していたイライアスがむっくと起き上がった。「今日の舞台を観れば不正をしたなんて言えるわけがない」

「イライアス、こんな調子でずっと怒っているのよ」アイリーンはそう言って少しだけ笑った。「でも、そうね。今日の独り芝居のおかげで、シルヴィアが触れ回りたがっていた噂は、完全に立ち消えたのではないかしら。あれを観れば、あなたが実力でオーディションに合格したということが分かるもの」

「そう、かな」

「なあに、キサ。あなた、まだ自分に自信が持てないの?」アイリーンはそう言うと、希佐の頬を両手で挟み、半ば無理やり自らの方に向かせた。「そういう謙遜的な態度からはそろそろ卒業しなさいって前々から言っているでしょう? 日本人の間では、そういう謙虚な態度が美徳とされているのかもしれないけれど、場合によっては嫌味に見えるの。あなたは何も悪くないのだから、堂々としていなさい」

「う、うん」

「本当、なんでなのかしら。舞台の上ではあんなに自信満々で自由奔放に走り回っている子が、そこから一歩でも離れると途端に大人しくなってしまうのだから、それはアランも動揺するわよ」

 アイリーンがそう口にすると、まるでそう示し合わせたかのように、テーブルにいた全員が口を噤んだ。思わずバージルを横目に見ると、放してやれと言うその言葉で、アイリーンが希佐の顔を解放してくれた。

「あのな、キサ」

「なに?」

「あの静寂の意味を理解できてるか?」

「え?」

「お前、ここのステージで歌ったときやら、カオスの公演後やら、それ以外の舞台でも、終わったあとは散々もてはやされていただろ? 今回はそれがない。何でなのか分かってるか?」

「……舞台の出来が悪かったから?」

 アランはそうではないと否定してくれたが、大衆がどのように判断したのかは、希佐には分からないことだ。

 そう、自信がない。アイリーンが言うように、舞台に立っているときはただがむしゃらで、余裕の有無すら考えている余裕はなく、ただ自由を楽しんでいた。恐ろしくなるくらいの解放感を味わいながら、幸福を味わっている。だが、スポットライトが消え、緞帳が閉まると、途端に体の熱が奪われていくのだ。まるでのぼせるような、ぼうっとした感覚はあっという間に消え去って、現実が見えてくる。幸福感が徐々に薄れていく。息が、苦しくなる。

「出来が悪い? あれが?」まさか、と言って目を丸くしたのは、ノアだった。「他のみんなに比べたら、僕なんてそれこそもぐりみたいなものだけどさ、あの静寂が意味することくらいなら分かるよ」

 本当に分からないのかと疑うような眼差しを向けてきたあと、まあ、キサだもんねと、ノアは呆れたように苦笑いを浮かべた。手にしたグラスを大きく呷り、口の端から流れ落ちた一筋のエールを手の甲で拭うと、大きく息を吐いた。

「圧倒だよ、圧倒。こう、完膚なきまでにプライドを叩き潰されて、心をズタズタにされる感じ。まるでさ、演出家と一緒に、自分の中にある才能が失われていくような感覚になっちゃったんだよね。あの女優にすべて喰らい尽くされるんじゃないかっていう恐怖とか」

「ゾクゾクした」

「そう、ゾクゾク」イライアスの言葉に、ノアは同意する。「ずっと肌がザワザワしてて、空気がピリピリしてるんだよ。言葉にできない、感覚的な感情がぐわっと押し寄せてきて、頭の中が一瞬で満たされるんだ。僕が役作りをするときの感覚に近いんだけど、そんな話はどうでもいいか」

「ああ、それ分かるわ」椅子の背凭れに寄りかかり、胸の前に腕を組んだ状態で、天井のシャンデリアを見上げていたジェレマイアがぽつりと言った。「頭の中が一瞬で満たされるってやつ。舞台上に女優が表れると、それ以外のことを考えられなくなるんだよなぁ。別の人物が顔を出すと、奇妙な喪失感があったりして」

「キサはさ、いい意味で鈍感なんだよ。僕はそのまんまのキサでいいと思うけど、そこのオジサンはそうは思ってないみたい」

 テーブルに身を乗り出したノアは、希佐に向かってこそこそと囁くように言いながら、隣に座っているバージルのことをこれ見よがしに指さした。すると、バージルはノアの服を掴んで椅子に引き戻し、余計なことは言うなというふうに睨みつける。

「今回は独り芝居だったからな、今まで見えていなかったものが浮き彫りになったんだ。舞台っていうのは大抵の場合、その役者の個性や得意分野を活かした構成がされる。まあ、例外もあるけどな。例えば、俺やイライアスの場合はダンス、アイリーンなら歌に特化した脚本が用意されるのが普通だ。その点、キサは万能型だから、カオスの公演ではどちらの見せ場も用意される。でも、その構成だと問題があるんだ」

「キサは全力を出し切れない」

「そうだ。イライアスの言う通り、キサは全力を出し切れない構成になってる。カオスは人数も少ないし、ほとんど全員が出ずっぱりだからな。休んでる暇もない。ダンスを踊り、歌を歌い、芝居もするとなると、必ずどこかで妥協して、体力を温存させておく必要性が生じる」

 舞台に立つ上でのペース配分は重要だ。スタートから全力疾走してしまえば、ゴールまで辿り着くことはできない。

 ダンスの稽古中、バージルはよく言っていた。力の抜き方を覚えろ、と。

 公演中、平均して良いパフォーマンスを披露し続けるためには、すべてに全力を注ぎ込もうとするのではなく、ポイントに重点を置くようにした方がいい。流すところは流し、決めるところは決めろ。そうしないと、お前の場合は最後まで体力が持たないと、そう何度も釘を刺されていた。

「でも、今回は一時間程度の独り芝居だった。相当疲れはするだろうが、わざわざ自分を曲げてまで妥協をする必要は微塵もない。それに、舞台は登場人物が多ければ多いほど、その情報量の多さに目が散って、ひとところに注目することがほとんどねぇからな。だからこそ、独り芝居は恐ろしいんだ。視線が一人に集中するから、本当なら粗が目立つ。たった三分のタップダンスを一人で踊るだけで精神をすり減らすやつだっているのに、一時間以上もそれをやり続けるなんて、俺には絶対に無理な芸当だ」

 担ぎ上げられている。そのように感じてしまうのは、自分の物の考え方が捻くれているからだろうかと、希佐は思った。いつだって周りが過剰に評価をしてくれるだけで、実際にはただ踊ることが、歌うことが、演じることが好きなだけの、等身大の人間でしかないのに。

 大衆に認められたいと思ったことは、ただの一度もないのだ。何のために舞台に立つのかと問われれば、自分のためだと答えるだろう。そうすることでしか己に生きる価値を見出すことができないからだと。ただ、この体の内側から溢れ出る感情を舞台上で表現することだけが、己の承認欲求を満たしてくれる。

 黙り込んでいる希佐の様子をじっと見ていたバージルは、僅かに表情をやわらげた。

「お前自身は何も変わってねぇよ、キサ」酷く優しい声色で、バージルが言った。「でも、お前を見る周りの目が変わったんだ。お前は自分の実力を証明した。だから周りの連中は、誰もお前に触ることができなくなったんだよ」

 バージルの言葉が鼓膜に到達した瞬間、希佐はぐるりと視界が反転するような眩暈を覚えた。

「……あ、あ」

 声にならない声が、開いた唇からこぼれ落ちる。何か言わなければと思うのに、言葉を紡ぐことができない。ただ、ずん、と心臓を突き刺されるような衝撃に、声だけが漏れる。咄嗟に両手で口に蓋をしたが、それをごまかしきることはできなかったはずだ。顔を伏せ、体を窮屈に縮こまらせて、この発作のような現象が遠ざかるのを待つことしかできない。

「ちょ、ちょっと、キサ? どうしたの?」隣に座っていたアイリーンが、希佐の背中に手の平を這わせながら言った。「えっ、ちょっとジェレマイア、キサに何を飲ませたのよ」

「な、なにって、ただのノンアルコールカクテルで……」

 ぐるぐると思考が巡る。過去の記憶が波のように押し寄せてくる。ゾートロープが回転するように、何度も何度も、同じ記憶が再生される。ずきずきと心が疼く。膿を生み出すように、醜く蠢いているようだった。

 希佐は、今すぐに心臓を吐き出して、自らの手でナイフを突き立てたいという衝動に駆られていた。それでこの苦しみから解放されるのなら容易いものだと思う。

 ああ、こんなにも必死になって、あらゆる感情に蓋をし続けてきたのに。

 ユニヴェール。舞台演出家。根地黒門。我死也。田中右宙為。そして、高科更文。

 本当は大声で叫びたかった。もう嫌だと。自らの中にある二つの感情の板挟みになって、それでも自分を騙し続けながら、平気な顔をして生きていたくはないのだと。

「アイリーン、退いて」

「えっ?」

「そこ、退いて」

 何者かの手の平が、希佐の二の腕にそっと触れた。まるで、真綿をやわらかく包み込むかのような優しい手の動きで、触れた二の腕をゆっくりと撫でおろす。

「キサ」いつもはひんやりと冷たく感じられる声音が、今はなぜかあたたかく聞こえた。「大丈夫だよ、キサ」

 大丈夫だから、という何の根拠もない言葉で、頭の中にあるゾートロープが動きを止めた。

「僕はずっと君だけを見てきた」

 二の腕から肘へ、肘から手首へ、そのまま甲を滑った指先は、希佐の手を力強く握り締めた。

「僕は、君がいつだって感情を押し殺しながら踊っているのを知ってた」

「イライアス?」

「僕だけが知ってたんだ。それなのに、気づかないふりをしてた」アイリーンが驚いたように呼ぶ声を無視して、イライアスは続ける。「ごめん、キサ」

 希佐はゆっくりと首を横に振った。イライアスが謝らなければいけないことなど何一つないのだ。この感情は他の誰のものでもない。希佐自身が抱えていかなければならないものだ。すべてが終わり、審判の日を迎える、その日まで。

『自分の価値を証明し続けな』そのとき、希佐の頭の中では確かに、あの日の言葉が鮮明によみがえった。『そうすれば、自分の居場所を自分で決めることができる』

 希佐ははっと息を飲んだ。大きく見開いた目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。どこにも触れることなく落ちた雫は、希佐の手を握ってくれているイライアスの手の甲に、ぽとりと落ちた。

「キサ……」

『フミさ、ん』奥歯を噛み締め、唇を真横に引き結んで、それでも我慢することができずに、希佐はその名前を囁いてしまった。『どうして、こんな……』

 自分で選んだ、自分だけの居場所。そこで自らの価値を証明することができたのに、なぜこんなにも苦しいのだろう、嬉しくないのだろうと考えたとき、希佐は不意に悟る。自分はただ、よく頑張ったなと言って、頭を撫でてもらいたいだけなのだと。称賛の言葉などいらない。ただ、仲間たちと分かち合う歓びだけが、自分の原動力になっていたのだ。根本の部分に存在していたのは、あの人と同じ、誰かに認められたいという欲求だった。

「こんなときになにやってんだよ、あの馬鹿は──」

 手にしていたスマートフォンをテーブルの上に投げ出したバージルは、椅子からすっくと立ち上がった。テーブルの上をぐるりと回り込んできたかと思うと、希佐の肩に触れようとする。だが、その瞬間に肩がびくりと上下したのを目の当たりにして、ゆっくりとその手を引いた。

「イライアス、悪いけどキサを外に連れて行ってやってくれ」

「でも」

「いいから」

「……分かった」

 イライアスは荷物を手に取ると、がちがちに硬くなっている体を気遣うようにしながら、希佐をその場に立ち上がらせた。肩からコートを掛けると、自分のニット帽を目深に被せてくる。

「悪かったな、キサ」立ち尽くす希佐を見て、バージルが言った。「配慮が足りなかった」

「ううん、謝らないで。誰も悪くない。これは、私の問題だから」

「そうか」

「ごめんなさい」

「お前こそ、謝るなよ」

 へらりと頼りなく笑うバージルの顔を見ていられず、希佐は思わず顔を逸らした。自らの横っ面を引っ叩いて、何をやっているのだと罵りたくても、それをするだけの気力がなかった。

「行こう、キサ」

 イライアスは希佐の手首を掴み、前に立って歩き出す。手を引かれて歩いていると、くるくる、くるくると、再びゾートロープが頭の中で回り出した。手に手を取って一組の男女が踊っている様子が浮かび上がっている。遠すぎて顔は見えない。一人は自分だと分かった。でも、一緒に踊っている相手だけが酷くぼやけていて、誰なのかが分からない。

 二人がヘスティアの外に出て行くのと、暗い道を駆けてくる足音がすぐ近くで止まったのは、ほとんど同時のことだった。酷く乱れた息遣いが聞こえてそちらに目を向けると、白い息を吐き出しながら呼吸を整えている、アラン・ジンデルの姿があった。

「アラン……」

 そう驚きの声を上げたのはイライアスだった。こんなアランの姿は初めて見るというふうな唖然とした面持ちで、静かにその名前を呼ぶ。稽古着にカーディガンを羽織った格好でやってきたアランは、前髪を邪魔そうに掻き上げてから、Tシャツの裾を持ち上げて顔の汗を拭っていた。

「先に帰って、稽古をしていたの?」希佐の問いに、アランは小さく頷く。「そう」

 この、腹の底から湧き上がるような感情が一体何なのか、希佐にはよく分からなかった。

「ありがとう、イライアス」

「え、あ、うん」イライアスは荷物を手渡し、僅かに戸惑いながらも、希佐の顔を覗き込んだ。「もう大丈夫?」

「うん、もう平気。みんなにもそう伝えて、驚かせてごめんなさいって」

「分かった」

「また明日ね」

「う、うん」

 希佐は被せてもらった帽子をイライアスの頭に乗せると、特に何を考えるわけでもなく、その頬にキスをした。えっ、と小さく声を漏らしたイライアスに背を向けた希佐は、ようやく呼吸が整いはじめたアランの方へと歩いていく。

「キサ、さっきは──」

 そう何か言いかけたアランのすぐ隣を、希佐はそのまま素通りした。

 この、歯車が食い違ってしまったような感覚を、希佐は知らない。何かとても冷たいものが体の中心にあって、優しい気持ちも、穏やかな心も、どこかに行ってしまったように感じる。

「キサ」

「なに」

「キサ、待って」

 こつ、こつ、と踵を鳴らしながら歩く希佐の後ろを追いかけてきたアランは、そのまま右腕を掴んだ。引き留められた希佐は、前を向いたまま足を止める。

「バージルから連絡がきた」

「そう」

「気分が悪そうだって」アランはそう言うと、希佐の顔を覗き込もうと前屈みになる。「向こうでタクシーを──」

「歩いて帰れるから」

 違う、そうじゃない、そんなふうな言い方をしたいわけではないのだ。そう思うのに、自分の顔を覗き込んだアランが、どこかぎょっとしたような表情を浮かべたのが気に入らなかった。希佐は腕を掴んでいたアランの手を軽く振り解くと、再び一人で歩きはじめる。

 ああ、これは、多分。

「……キサ、もしかして怒ってるの」

「知らない」

 これは、多分、きっと、そういうことなのだろう。

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