ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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重力からの解放

 その日の夜、スタジオに帰ってきた希佐は、アランと一言も口を利かなかった。アランは希佐のあからさまな態度に困惑を隠しきれない様子だったが、今はそっとしておいた方がいいと判断したのだろう、無理に話しかけてくるようなこともなかった。それがよりこの筆舌に尽くしがたい感情を強くさせていることを、互いに理解していない。

 バスタブにたっぷりの湯を張り、そこへゆったりと浸りながら、希佐は大きくため息を吐く。何も考えたくなかった。それでも、考えずにはいられない。

 自らの感情を上手くコントロールできていると思っていた。大切な思い出は心の深い場所に沈めてしまって、必要なとき以外は浮かび上がってこないようにと蓋を乗せ、厳重に鍵を掛けていたつもりでいた。

 一つだけなら良かったのだ。舞台演出家の芝居をするだけなら、きっと、こんなふうにはならなかっただろう。予期せぬ外部からの刺激が、いつの間にか許容範囲を超えてしまった。内側から膨れ上がった感情が蓋を勢いよく押し上げて、外に飛び出してきてしまった。

 不甲斐ないところを見せてしまったと、希佐は思う。特に、わざわざ飛行機をキャンセルしてまで舞台を観に来てくれたジェレマイアには、悪いことをしてしまった。もっと気持ち良く送り出してあげたかったのに、と。バージルも、何が希佐の癇に触れたのかすら分からなかったはずだ。あとで話をしなければと考えながら、湯の中に潜り込み、ぶくぶくと息を吐き出す。

 例えば、このまま浮上することなく溺れてしまえたなら、どれだけいいだろう。すべてのことを投げ出して、何もかもを終わらせてしまえたなら。

 死にたいのではない。ただ、ここからいなくなりたいという思いが、刻一刻と強くなっていく。あの頃の感覚が蘇ってくる。自分で自分の存在を許すことができず、罪の重さに耐えきれなくなって、押し潰されそうになる。

『お前はお前自身の力で、自分に価値があるって証明した。だからもう、まわりも気安くお前にさわれない』

 息苦しさで遠退く意識の中、不意に高科更文の声が聞こえてきた。一年生の頃、夏公演のウィークエンド・レッスンで向井役をやり遂げ、個人賞を獲得した希佐に、更文が送ってくれた言葉だ。

『だから、自分の価値を証明し続けな。そうすれば、自分の居場所を自分で決めることができる』

 希佐は伸ばした手でバスタブの縁を掴み、最後の力を振り絞るように体を引っ張り上げた。そのまま縁に腕を引っかけ、上半身をバスタブの外側に乗り出しながら、乱れた呼吸を整える。飲んでしまった湯を吐き出すように咳き込み、目に浮かんだ涙を乱暴に拭った。

 高科更文のことを思い出すと、どうしようもなく消えたくなるのだ。自らの罪が浮き彫りになるから。でも、それとは相反する感情も、ふとした瞬間に浮かんでくる。あの人がいてくれたからこそ、諦めずにいられたのだと。高い理想を追い求め続けられたのだと。自らの価値を証明し続け、そして、自分だけの居場所を見つけることができたのだ。

 それなら、もし、自分の価値を証明できなかったとしたら、その先に待ち受けているものは何なのだろうと、希佐は考えてしまう。もしあのとき、アラン・ジンデルの前で自らの価値を証明できていなかったとしたら、きっと、その記憶に残ることすらなく、忘れ去られていたのではないか。

 立花希佐という人間の価値を証明するものがこの才能だけなのだとしたら、舞台を降りると決意を固めた今、その後の未来に一体何が残るというのだろう。何の価値もない人間に生きる意味などあるのだろうか。自分から舞台を取り上げたら、そこにはただの抜け殻だけが残って、ただの物言わぬ人形になってしまうのではないか。

 押し寄せてきたのは恐怖ではなく、いつかのような諦めにも似た感情だった。仕方のないことだと自分に言い聞かせることでしか、己を納得させることができない。これでいいのだと、半ば強引に思考を断ち切らなければ、どつぼにはまって抜け出せなくなるような気がした。

 バスルームを出て、水分補給をしてからすぐ、自分の部屋に戻る。日記には書くべきことが山のようにあった。ほとんど書き殴るように自らの感情を認めて、すべてを忘れたような気持ちになってから、ベッドの上に倒れ込んだ。

 また、明日がやって来る。そう思いながら、眠りに就いた。

 

 

 朝、いつもの時間よりも遅れて目を覚ますと、キッチンには既に朝食の仕度が整っていた。スープを温めて、と書かれたメモがテーブルの上に置かれている。希佐はその文字を指先でそっと撫でてから、バスルームに足を向けた。

 スープを温め、パンをトーストしている間に軽くストレッチをして、体を解していく。久しぶりに一人で食べる朝食に微かな味気無さを覚えながら、時計を見やった。午前八時。もう間もなくイライアスがやってくる頃だろうか。そう思っていると、テーブルの上に置いていたスマートフォンが、お馴染みの音を奏でた。知らない番号だ。

「Hello」

 咀嚼していたものを嚥下してから、希佐は慌てて電話に出た。一瞬、切れてしまったのだろうかと思うくらいの沈黙があったあと、低い声が聞こえてくる。

『田中右だ』

「田中右先輩ですか?」希佐は思わず椅子から立ち上がると、意味もなく周囲に視線を走らせた。「おはようございます」

『スタジオの近くまで来ている』

「えっ、本当ですか?」嘘を言うわけがないと思いながらも、希佐は驚いた声を上げた。「周りには何が見えますか?」

『小さな教会がある』

「そのすぐ裏手がスタジオです。二階建てのレンガ造りの建物で──」希佐はそこまで言ってから、軽く頭を振る。「いえ、すぐにお迎えに上がります。そこで待っていてください」

『分かった』

 希佐が切るまでもなく、ぷつり、と通話は途切れた。後片付けは後でしようと食器をシンクに置き、椅子の背に掛けられていたアランのカーディガンを反射的に羽織ると、急いで階段を降りていく。事務室でPCに向かっていたアランは、階段を駆け下りてきた希佐に向かって、微かに非難するような眼差しを向けた。

「キサ──」

「すぐに戻るから」

 何かを言いかけたアランの言葉を遮るようにして、そう言った希佐は、朝の挨拶すらすることなく事務室を出た。案の定、スタジオには既にイライアスの姿があり、バーレッスンを行っていた。

「おはよう、イライアス」

「おはよう」早足で目の前を通り過ぎていく希佐を視線で追いかけながら、イライアスは不思議そうに首を傾げた。「キサ、どこかに行くの?」

「五分くらいで戻るよ」そう言ってから、これでは説明が足りないと思い、扉の前で後ろを振り返る。「今からユニヴェールの先輩が稽古の見学に来るのだけれど、大丈夫?」

「昨日話していた日本の人?」

「うん」

「僕は構わないけど」

「ありがとう」

 がちゃり、と施錠を外し、重たい扉を押し開けた。途端に吹き込んできた風は冷たく、カーディガンの網目の隙間から入り込んだそれは、素肌にまとわりついて鳥肌を立てさせる。

 後ろ手に扉を閉め、カーディガンを体の前で掻き合わせながら、希佐は石畳の道を歩き出した。スタジオの前を通りかかった顔見知りに朝の挨拶をしながら、歩いてすぐの教会を目指す。最近はいろいろと立て込んでいて、牧師のロバートやミゲルに会いに行く時間もなかった。

 教会の前に辿り着いても、そこに田中右宙為の姿はなかった。だが、教会の扉は大きく開かれていて、希佐はその中を覗き込む。すると、すらりとした体躯の男が祭壇の前に立ち、壁に飾られた十字架を眺めている背中が見えた。

 古くからあるというこの教会の十字架は、木彫りの十字架だった。一本の木を削って十字架を形作り、イエス像を彫刻してある。どのくらい前に作られたものなのかは分からないが、その十字架はまるで本物の琥珀のように飴色に輝いていて、とても美しかった。両脇には控えめなステンドグラスが並び、外の光を色鮮やかに取り込んで、酷く神々しい。

『田中右先輩』希佐がその背中に声を掛けると、男は振り返った。『おはようございます』

 田中右は希佐を一瞥するが、挨拶をし返すわけでもなく、再び十字架に目を向けた。

『お早いんですね』

『向こうにいるときはもっと早かった』

 向こうとはインドのことだろうかと思いながら、希佐はその背中に歩み寄っていく。少し後ろから同じように十字架を見上げた希佐は、久しぶりにこの名状しがたい空気を感じながら、大きく息を吐き出した。

『ここがお前の言っていた教会か』

『はい』

 空気はピンと張り詰めているのに、どこか優しい。多くを許してくれるような寛大さや、罪を洗い流そうとしてくれる清らかな雰囲気があるのだ。週末になると大勢の人が、牧師の話を聞きに集まってくる。

 希佐はクリスチャンではなかったが、ここへやって来ると、いつも椅子に座ってお祈りをした。どうか、大切な人々が常に健やかでありますように。近くの人も、遠くの人も、すべからく幸せでありますように。今日もどこかで、誰かの夢が叶いますように、と。

 扉から吹き込んでくる冷たい風を浴び、ぶるりと身震いをした希佐を横目に見ると、田中右はくるりと踵を返した。希佐は胸の前で組んでいた手を解き、田中右の後ろを追いかける。

『こちらです』

 加斎中と一緒にいたとき以上の違和感を覚えながらも、希佐は田中右をスタジオまで案内した。鍵の掛かっていない扉を開き、どうぞ、と中へ通す。イヤホンをしながらウォーミングアップをしていたイライアスは、二人が入ってきたことに気づくことなくバーレッスンを続けていた。

『まだ稽古ははじまっていないんです』希佐が扉に鍵を掛けながら言うのを聞いているのかいないのか、田中右はお手本のような美しいポジションを保つイライアスの背中を不躾なほどに凝視していた。『彼が昨日話していた同じ劇団の子です。今はウォーミングアップ中なので、先に劇団の主宰を紹介します』

 鏡に映った田中右の存在に気づいても、イライアスは興味がなさそうに一瞥をくれるだけで、バーレッスンを続けていた。

 事務室の前に立ち、ふう、と息を吐く。一度目を閉じて気持ちを入れ替えてから、希佐は扉を開けた。

「アラン、今大丈夫?」

「なに」

「ユニヴェールの先輩が見学に来たのだけれど」

「……誰?」

 大きなヘッドフォンを外して首に掛けたアランは、椅子の背に腕を乗せて後ろを振り返った。隙間から顔を覗かせていた希佐は、隣にいる田中右を横目に見上げたあと、扉を大きく開いた。どうぞ、と言って先に事務室に通すと、希佐も続いて足を踏み入れる。

『劇団カオス主宰のアラン・ジンデルです』希佐は田中右に向かってそう言ってから、アランに目をやった。「彼は田中右宙為さん。ユニヴェールの一つ上の先輩で──」

「知ってる」アランは田中右を見ながら、希佐の言葉を遮るようにして言った。「我死也の」

「ご覧になったのですか」

 そう尋ねたのは田中右本人だった。流暢な英語だが、やはりどこかインドの風を感じさせる。アランは田中右を見据えたまま、小さく肩をすくめた。

「いや、俺も誘われたけど観劇には行かなかった。スペンサーには損をしたと言われたよ」

「我死也は未だ完成していない。ロンドン公演では恥ずかしいものをお見せしたと思っています」

「俺は見ていないから何とも言えないけど」

「俺はあなたの作品をいくつか観てきました」希佐は目を丸くして、傍らに立っている田中右を見上げる。「昨日、立花があなたのことを熱心に語っているのを聞いて、興味を持ちました」

「それはどうも」

 アランは関心がなさそうな口振りでそう言うと、居心地が悪そうに頭を掻いた。アランはときどき、自分の作品のことが話題に上るとどこかばつが悪そうで、その話を早く切り上げたいような雰囲気を漂わせることがあった。

「あなたの作品の多くは家族を題材にしている」感情を感じさせない平坦な声で、田中右は言う。「俺が最も評価している脚本家はかつて海のトラウマに囚われ、自身が描く脚本にそれを色濃く反映させ続けていました」

「……だから?」

「あなたには家族に対するトラウマがある」

「田中右先輩──」

「俺は、そう感じました」

 思わずぎょっとした希佐は、この人は一体なんてことを言い出すのだという顔をして、田中右を見上げた。その場で身をすくませながら、恐る恐るアランの方を見ると、前髪に隠されていても、その眼差しが真っ直ぐに田中右に向けられているのが分かった。

「そんなことはもう評論家たちに散々指摘されてきた」

「ただ、あなたの描く家族の物語はどれも現実的で、真実味があり、時に理想とは酷くかけ離れている。誰もが幸せに終わりを迎える結末には絶対になり得ない」

「ご考察痛み入るよ」

「人々の多くは物語の上辺だけをなぞり、あなたのことを分かったつもりになっているだけだ」

 田中右の言葉にアランがきょとんとするのが分かった。それから少しだけ口角を持ち上げると、田中右から目を逸らす。

「見学ならどうぞご自由に」

 アランはそう言うと、こちらに背を向けながら、首に掛けていたヘッドフォンを再び装着した。今日はキーボードで音の確認をしながら、画面上に表示された五線譜の上に音符を書き込んでいる。

 その背中を眺めながら、本当の天才とはこういう人のことを言うのだろうと、希佐は思った。この人に比べれば、自分などただの凡人でしかない。田中右宙為だって同じだ。自分のような凡人には、一生をかけても手に入れることのできない才能というものを、この二人は間違いなく持っている。

 自分はただ器用なだけの役者なのだと、希佐は少しずつ、自身のことをそのように評価するようになっていた。

 事務室の前にある、荷物置き場と化している長テーブルの側にパイプ椅子を持ってきて、そこに座るよう田中右に声をかけていると、ウォーミングアップを終えたイライアスが近くまでやって来た。

「キサ、歌のレッスンは?」

「スペンサーさんが今日はお休みしなさいって」スペンサーが話しておくと言っていたが、自分からも連絡をしておいた方がいいだろうと、今更になって思い至る。「ルイは何時に来るの?」

「午後から」

「じゃあ、まだ結構あるんだ」

 イライアスは本当に興味がないのか、田中右の存在など眼中になさそうな様子で希佐と話をしている。イライアスのバーレッスンを食い入るように見ていた田中右とは、まるで対照的だ。自分を見ている視線には気づいているのだろうが、普段から見られることに慣れすぎているイライアスには、大した問題でもないのだろう。

「イライアス、紹介するね」希佐がそう言って初めて、イライアスは田中右を真っ直ぐに見た。「ユニヴェールの先輩で田中右宙為さん」

 イライアスは握手を求めるでもなく、田中右の仄暗くさえ感じられる目をじっと見やったまま、軽く会釈をした。

『彼はイライアス、コンテンポラリーの国際的な大会で優勝経験があるダンサーです』

 田中右が申し訳程度に目礼するのを目の当たりにしたイライアスだったが、早くも興味を失ったとばかりに視線を逸らすと、傍に立つ希佐を見た。

「僕は稽古に戻るよ」

「うん」

「寒かったら暖房の設定温度を上げていいから」

 イライアスはワイヤレスのイヤホンを再度装着すると、スタジオの中央に戻りながらスマートフォンを操作し、練習曲を選んでいた。希佐はその様子から一度視線を外すと、アランがいつもそうしているように長椅子に腰を預け、イライアスが踊る姿に目を向けた。

 バージルのステップは、生命の鼓動のように精密でありながら躍動的だが、イライアスのステップはあまりに静かで、まるで風のようだと感じることがあった。たとえ高く飛び上がったとしても、爪先が繊細な着地を決めたその瞬間に、音はない。すべての動きが柔らかいのだ。体に無駄な力が入っていない。本当に、お手本のような美しいダンスを踊る。

『……壁だ』田中右が唐突に、ぽつり、と漏らした。『壁が見える』

『壁、ですか?』

 何のことを言っているのかが分からずに希佐が首を傾げると、田中右はイライアスをじっと見つめたまま言った。

『彼の踊りは退屈だ』

『……はい?』

 聞き捨てならない言葉を聞いたような気がして、希佐は思わず尋ね返す。この五年間、あまりに日本語を話してこなかったせいで、言葉の意味を正しく理解できなかったのかもしれないと、そう思った。

 イライアスのダンスが退屈だなどと、どの口が言うのだろう。

『イライアスは素晴らしいダンサーです』

『俺は彼の素晴らしさについて論じたいわけではない』田中右は希佐の方をちらとも見ずに先を続けた。『彼の踊りは型にはまり切っているように見える。自分でもそのことに気づいているはずだ。自らの殻を破り、目の前に聳え立つ壁を越えて行かないかぎり、人々は彼の踊りに、遅かれ早かれ退屈さを覚えはじめる』

『そんな、ほんの五分くらいしかイライアスのダンスを見ていないのに──』

『この程度のことは一目見れば分かることだ』

 一目でイライアスの凄さを理解できるわけがないと思う傍で、この田中右宙為ならば、それができるのかもしれないと思ってしまう。ほんの一瞬、その動きを目に留めただけで、容易に才能を見抜いてしまう。ああ、そうだ、そういう人だったと、希佐は思った。

『彼が君のパートナーなのか?』

『はい』

『足の引っ張り合いだな』

『……それはどういう意味ですか?』

『彼に君の才能を生かし切ることはできないし、君では彼を開放してやることができない。もし二人が共に舞台に立つのだとしたら、俺なら考え直すべきだと進言する』

『この舞台はまだ脚本も完成したばかりで、公演自体は当分先のことですし、まだどうなるかなんて──』

『どれほど完成された完璧な脚本の前でも、それを演じる役者が未熟なら、その舞台は決して完璧にはなり得ない』

『……我死也のことをおっしゃっているんですか?』

『俺はもうずっと自分だけの瀧姫を探している』だが、と言いながら、田中右は希佐のことを横目に見た。『瀧姫はまだ見つかっていない』

『私とイライアスは今までにだって何度も組んできました。お互いのことは熟知しています。今の私にとって、彼以上のパートナーはいません』

『本当にそう思うのか?』

『はい』

 希佐は田中右を睨むように見ながら、はっきりと、大きく頷いた。

 すると、田中右は短く「そうか」と言ったきり、黙り込んでしまう。そして、酷く真摯な眼差しでイライアスが踊る様子をしばらくの間眺めていたかと思うと、徐に立ち上がった。

『えっ? ちょっと、田中右先輩──』

 パイプ椅子から立ち上がった田中右は、希佐が止める声も聞かず、スタジオの中央で自由に踊っているイライアスのところまで歩いて行ってしまった。鏡に映る田中右の姿を見て踊るのをやめたイライアスは、僅かに呼吸を乱しながらイヤホンを外している。

「行かなくていい」長テーブルから降りて田中右の後を追いかけていこうとした希佐の背中に、そう声がかけられた。「身内に言われるよりはいいだろ」

「それって、どういう……」

「スペンサーにも似たようなことを言われたんじゃないの」

「え?」

「俺もスペンサーも君の力量を測り違えてた。今の君とイライアスとでは釣り合いが取れない。彼の言う通り、互いに互いを殺し合うだけだ」

「そんなことない」

「どうしてそう断言できる?」アランは冷ややかにも聞こえる声で静かに言う。「今の君は自分自身を客観視できていないし、自分と周囲のレベルの差も理解できていない」

「そんな言い方──」

「イライアスは分かってるって顔をしてるけど」

 田中右が何を話しているのかは分からない。だが、その話に耳を傾けているイライアスの表情は酷く真剣で、それを嫌がっているようには見えなかった。

「現段階でのキャスティングの変更はさほどのリスクにならない」

「オーディションまでやっておいて、今更キャスティングの変更?」

「別に珍しいことじゃないし、考え直すなら早いほうがいい」

 勝手なことを言っていると思いはするものの、自分は所詮雇われた身でしかないのだということを思い出し、希佐はすぐに口を噤んだ。

 決定権を持っているのはプロデューサーで、場合によってはスポンサーが口を出してくることもあるという。いくら演出家や脚本家が否を唱え、出演者が騒ぎ立てたところで、まるで駄々を捏ねる子供と同様に、聞く耳を持たれないに違いないのだ。

 希佐はアランに向けていた視線を引き剥がすと、気に入らないという表情を隠そうともせずに、再び長テーブルに腰を落ち着けた。アランはその様子を見て何かを言いかけるが、希佐と同じように口を噤むと、神経質そうに頭を掻きながら事務室の中へと引き返していった。

 確かに、キャスティングの変更を行うのであれば、早い方がいいのだろう。今はまだ公演の準備段階だ。台本の読み合わせどころか、共演者の顔合わせすら行われていない。各方面に向けた言い訳を用意することも容易いはずだ。何なら役者のせいにしてしまえばいい。

 ユニヴェールにいた頃から、そう安くないチケット代を頂くからには、それに見合った、もしくはそれ以上の舞台を完成させなければならないというプライドを持っていた。今だって同じ思いだ。少しでも懸念事項があるのなら、それを解決してからでなければ、舞台を作っていく上で不破が生じることも理解している。

 だが、だからと言って、まだ何もはじまっていない段階から脚本の改稿を繰り返し行い、未だ合わせてすらいない主演の二人は釣り合いが取れていないなどと言われ、その上でキャスティングの変更を示唆されて、納得できるとでも思っているのだろうか。

 もしものとき、下りるべきは自分だと、希佐は強く思った。

 きっと、代役はいくらでもいる。オーディションの次点はアイリーンだったのだ。アイリーンにならば、あの女優を演じられるだろうと考えていたからこそ、アランはオーディションに推薦した。それに、イライアスと横に並んだとき、絵になるのは希佐よりもアイリーンの方だ。アイリーンが無理だというのならシルヴィアだっている。

『舞台は生きた物語でなければならない。すべてが美しく溶け合ってはじめて成立する。主役だけが目立てばいいというものではない』

 スペンサーはそう言った。希佐もその通りだと思う。だからもし、自分の存在が舞台を濁らせているのだとしたら、もう考える余地はないだろう。オーディションに受かっても、受からずとも、これを最後の舞台にすると決めた。自らのエゴのために、大切な人たちの舞台を台無しにしたいとは思わない。

 イライアスと田中右は随分長い間話し込んでいた。何をそれほどまでに熱心に話しているのだろうと興味は湧いたが、二人きりで話し続けているということは、自分には聞かれたくない話題なのかもしれない。

 ふう、と小さく息を吐き出した希佐は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面にジョシュアの連絡先を呼び出した。そのままスマートフォンを耳に当て、何度目かの呼び出し音のあと、ジョシュアの声が聞こえてくる。

『やあ、キサ』

 さぞや機嫌を悪くしているかと思いきや、ジョシュアはいつもと変わらぬ口振りで挨拶をした。

「おはようございます、ジョシュア」

『今日はお休みだってスペンサーから連絡がきている』

「すみません」

『謝る必要はないよ、事情は承知している。昨夜はスペンサーの命令で独り芝居をしたんでしょ? 君もいろいろと大変だね』

「命令というわけでは」

『似たようなものじゃないか。君を餌にグレアム・メイヒューを釣り上げる計画だったんだから』

「そうみたいです」

『……キサ、何かあったの?』

「えっ? どうしてですか?」

『声の調子がいつもと違う。全体的に半音くらい低い。すごく不機嫌そうだ』

 ジョシュアはピアノの前に座っているらしい。いつもの希佐の声はこの音域だけど、今はこのくらい、と言いながら、鍵盤に指を走らせている。

『喉の具合はどう? ちゃんとケアはしてる?』

「いつも通りです」

『この時期は特に乾燥をしているから気をつけないといけないよ』

「はい」

 希佐は何と言って電話を切ろうかと考えていた。しかし、その文言を切り出す前に、ジョシュアが口を開く。

『何なら明日もお休みをあげようか?』

「嫌です」希佐がそう即答をすると、だよね、と言ってジョシュアは笑った。「明日のレッスンには必ず行きます」

『じゃあ、何か歌ってみたい曲をいくつか選んできてくれないかな』

「ジャンルは……」

『何でもいいよ。往年のミュージカルソングでもいいし、流行りのポップスでも構わない。キサの好きな曲を選んできて』

「分かりました」

『楽しみにしているね』

 ジョシュアは希佐が稽古好きなことを知っている。その上で、突然の休みを言い渡されて手持ち無沙汰になっているのだと察し、ささやかな課題を与えてくれたのだろう。

『今日はゆっくり休んで。また明日ね』

 ジョシュアはそう言って電話を切った。

 希佐は耳に当てていたスマートフォンを下ろすと、画面に映し出された時刻を目の当たりにし、僅かな絶望を覚える。まだ午前九時にもなっていない。体を動かしたくてうずうずしているが、体を休ませなければいけないことも分かっていた。

 田中右宙為がスタジオを出て行ったのは、やって来てから二時間ほどが経った頃だった。不思議なことに、イライアスと田中右は妙に馬が合ったらしく、別れ際には連絡先を交換し合っていた。

「田中右先輩とは何を話していたの?」

「いろいろ教えてくれた」

「いろいろ?」

「僕の癖とか、こうするともっと良くなる、とか」

「田中右先輩が?」

「良い人だね」

「……田中右先輩が?」

「うん」

 ユニヴェールにいた頃ですら、田中右がアンバーの後輩たちを指導している姿など、ほとんど見たことがなかった。

「また来るって」

 本人がそう言ったということは、まだ日本に帰るつもりはないということなのだろう。そういう自由なところは、ユニヴェール在学時から少しも変わっていない。だが、イライアスの様子を見るに、何か酷いことを言われたというふうなことはなさそうだ。希佐は、ただそのことだけに、心底ほっとしていた。

 午後、昼食を取ってから着替えを済ませた希佐は、軽い散歩に出かけることにした。ちょうど入れ違いにやって来たルイは、散歩に行くと言う希佐を引き留めることはせず、むしろ適度な歩行は健康に良いと言って、快く送り出してくれた。

 何の当てもなくロンドンの街中を歩くのは久しぶりのことだった。

 寒くないようしっかりと着込んで、チェック柄のストールを首に巻き、空風が吹く中を歩いていく。ウエスト・エンドを出て、ナショナルギャラリーを横目に、チャリング・クロス駅の脇を通り過ぎた。テムズ川沿いの道を進んで、遠目に見えているビッグ・ベンを目指す。今日は平日なので比較的閑散としているが、それでも、この辺りまでやって来ると観光客の姿が目立った。

 ビッグ・ベンはウエストミンスター宮殿に併設されている時計塔の名称だ。この宮殿は英国の議事堂として使用されていることは有名だろう。これの東側にはウエストミンスター橋が、西側には寺院が建っている。

 希佐はそうした観光スポットをすべて素通りし、時計塔の反対側に建っている、ヴィクトリア塔の庭園に足を踏み入れた。この辺りは観光客も少なく、喧騒も僅かに遠のいて、のんびりとした時間を過ごすには最適であることを知っていた。

 木を背もたれにして腰を下ろし、芝生の地面に足を投げ出す。コートのポケットに入れていた古本を取り出して、それを膝の上に置いた。風は少し冷たいが、太陽の日差しは暖かい。だが、冬のロンドンは日没が早かった。午後四時にもなれば辺りはすっかり暗くなって、あっという間に夜を迎える。夏場ならこっそり昼寝をすることもできたかもしれないが、冬場は間違いなく風邪を引いてしまうだろう。

 ロンドンに来たばかりの頃は、アパートの部屋と職場の往復ばかりで、酷く不健康な生活を送っていた。そんな日々の中でも、週末になると、トランクの中に押し込んであった一番マシな服を着て、劇場に足を運ぶのが何よりも楽しみだった。午前中は少しだけゆっくりと休んで、午後の二時くらいからの公演を観劇する。そのあとは、舞台の余韻に浸りながらロンドンの街を散歩したり、公園を訪れてのんびりするのが常だった。公演後はいつだって胸がいっぱいで、不思議とお腹も減らず、ぐっすりと眠ることができたものだ。

 希佐はカバンの中に忍ばせてきた丸ごとの林檎を取り出すと、それを頬張りながら読書を楽しんだ。一時間程そうして過ごしたものの、さすがに冷え込んでくると、希佐はランベス橋を越えた先にある庭園美術館に向かう。

 ここはランベス宮殿の隣に位置している、古い教会の建物をそのままに用いた、英国の庭園を学べる場所だった。併設されているカフェはいつ出向いてもさほど混雑しておらず、食べ物も美味しいので、希佐は日本食レストランの給料が出るたびに、自分へのご褒美として月に一度は通っていた。

 もしかしたら、当時良くしてくれた店員がいるかもしれないと思い尋ねてみると、彼女は結婚をしてロンドンを出たと教えられる。注文したマフィンを食べていると、店員はわざわざ店の奥に飾っていた結婚式の写真を持ってきて、希佐に見せてくれた。

「彼女、すごく幸せそう」

「ロンドンに帰ってくると、いつも顔を出してくれるのよ」店員は写真立ての表面をエプロンの裾で拭いながら、嬉しそうに目を細めて言った。「あなたが来たこと、伝えておくわね」

 あの頃は身も心も余裕がなく、誰の目から見ても希佐の姿は殺伐としていたはずだが、あの店員の女性は本当に優しく接してくれた。それが仕事だと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも希佐の心は救われていたのだ。このあたたかいミルクティーと、たっぷりのクリームが乗ったマフィンの味は、きっと何年経っても忘れないのだろう。

 午後四時過ぎ、日が西側に傾いて空が夕焼け色から群青色に染まる頃、希佐は席を立った。会計を済ませて出ていくと、先ほど話をした店員が紙袋を手にして、店の外まで追いかけてくる。

「これ、もらってくれない?」紙袋の中にはマフィンとスコーンが一つずつ入っていた。「形が悪くて店に出せないものなのだけれど、味は美味しいから。お夜食でも、明日の朝ごはんにでも、どうぞ」

「ありがとうございます、いただきます」

「またゆっくりしにきてね」

「はい、また来ます」

 本当は分かっていた。この街を住み良く感じられなかったのは、自分のせいなのだと。どこの国にも良い人はいて、悪い人もいる。たまたま最初に出会った人が悪人だったからといって、すべての人がそうとはかぎらない。だが、騙された経験は頭や心にこびり付いて離れなくなり、似た人を見かけるたびに警戒心を強めていった。

 希佐はイギリスにやって来て早々、ダブリンの優しい人たちが持たせてくれた餞別のすべてを、空港からロンドンの街まで乗せてくれたウーバーの運転手に持ち逃げされたのだ。その中には、ロンドンに行ったら食費や家賃の足しにしてくれと言って渡された現金も入っていた。

 この国でも数々の善意があった。だが、希佐はそれら一つ一つに目を向けることができず、たった一つの悪意に囚われて、ロンドンでの暮らしを台無しにしようとしていたのだろう。あのカフェは、この国にも当たり前に優しい人はいるのだと、最初に思い出させてくれた場所だった。

 希佐はランベス宮殿と聖トーマス病院の前を通り過ぎ、ウエストミンスター橋を渡って議事堂の前までやってきた。

 オーディションの一次審査で行った芝居の舞台は、ちょうどこの辺りだ。ここで花売りの女と貴族の男が出会い、恋に落ちた。もちろん、実際には彼女のような花売りは存在しない。

 橋を渡らずに行った少し先の方には、ロンドン・ダンジョンと呼ばれるテーマパークや水族館もあるが、希佐は一度も足を運んだことがなかった。それどころか、ロンドン・アイと称されている有名な観覧車にすら、乗ったことがない。ロンドンに暮らすようになって長いが、観光など一切したことがなかったのだ。

 だが、観光客にも人気なコヴェント・ガーデンは、希佐のお気に入りの場所の一つだった。ミュージカル好きなら誰もが知っているであろう有名な場所で、マイ・フェア・レディという物語の舞台になっている。ロンドンの中でも歴史を感じさせる街だ。今は再開発が進んで商業地区に作り替えられているが、映画館や劇場はもちろんのこと、ストリートでは即興劇や弦楽アンサンブルなどの演奏が行われ、とても華やかな雰囲気がある。ここに来れば朝から晩まで楽しめるので、どうしようもなく時間を持て余していたときは、よく独りで遊びに来ていたものだった。

 アーケード街の店を見て回り、珍しく買い物をして満たされた気持ちになった希佐は、その足で帰路についた。タクシーを使わず、歩いて移動していたこともあり、時刻は既に午後八時を迎えようとしている。途中、カフェやレストランに入ったりと、休息を挟んだせいもあるのだろう。程よい疲労感が体全体を包み込んでいるのを感じ取ることができる。今日はぐっすり眠れそうだと思いながら、希佐はスタジオを目指して歩き出した。

 しかし、帰り道の途中でヘスティアの前を通りかかったとき、ふと足を止める。ガラス越しに見えている店内は今日も盛況のようだ。酒を飲むつもりはないが、昨日は何も言わずに出てきてしまったことを思い出して、希佐は足の爪先を店内の方に向けた。メレディスに昨日のお礼だけを言って、今日はもう帰ろうと思う。

「こんばんは、キサ」今日は、希佐がメレディスを見つけるよりも早く、メレディスが希佐を見つけた。「ショッピングにでも行ってきたのかな」

 珍しくフロアに出ていたらしいメレディスは、カウンターに向かおうとしていた希佐を見つけると、そう言って後ろから声をかけてきた。くるりと振り返った希佐は、にこやかな表情を浮かべているメレディスを見上げ、両手に持っていた荷物を僅かに掲げてみせた。

「スペンサーさんに今日は休むようにと言われたのだけれど、スタジオにいるとどうしても体を動かしたくなってしまうから、午後から散歩に出掛けていたの。ついでにショッピングも少しだけ」

「珍しいね」

「そう?」

「君にお金の使い道を聞くと、いつだって貯金をすると答えていただろう? そんな君がショッピングを楽しむようになるなんて、大きな進歩だよ」

 どこに行ってきたのか聞かせてくれる? とメレディスは言った。

 希佐は癖のように時計を見るが、まだ午後九時前であることを確認すると、メレディスを見上げて小さく頷く。今日はノンアルコールでと注文すると、メレディスは心得た様子でジンジャーエールを奢ってくれた。

「今日はヴィクトリア塔の庭園に行ってきたの」

「ああ、議事堂の向こう側にある庭園だね」カウンター席に座った希佐の前にドライフルーツを出してくれながら、メレディスは言った。「美しくて心安らぐ場所ではあるけれど、今の時期は少し冷えるのではないかな」

「今日は日差しが暖かかったから。でも、風が冷たくてあまり長居はできなかった。子供たちは大はしゃぎでブランコの取り合いをしていたけれど」

「あの辺りで次に行くとなると──」うーん、と小さく唸り声を上げながら、メレディスは天井のシャンデリアを見上げている。「バッキンガム宮殿方面かな。近くにはウエストミンスター大聖堂やヴィクトリア宮殿劇場があるから、かなりの見応えがある」

「私、あの辺りってあまり行ったことがないの」

「じゃあ、今度連れて行ってあげようか」メレディスは魅力的に微笑むと、希佐の目を覗き込んで言った。「その後は、フォートナム&メイソンで紅茶でも」

「考えておく」

 くすくすと笑いながら応じる希佐を見て、メレディスは面白そうに笑みを深めた。

「正解は、ランベス橋を渡った先にある庭園美術館でした。ロンドンに来たばかりの頃はよく通っていたの」

「へえ」

「あとは病院の方からウエストミンスター橋を渡って、コヴェントガーデンで少しだけお買い物をして、今ここにいる」

「楽しかったみたいだね」

「うん」希佐はジンジャーエールで喉を潤してから、再び口を開いた。「最近はずっとスタジオにこもりきりだったから、良いリフレッシュになったよ。明日からもまた頑張れそう」

「それはよかった」

 メレディスはそう言ってから、急ぎ足でやってきたスタッフの耳打ちを受け、ちょっと待ってて、と言ってその場を離れていった。

 一人取り残された希佐は、せっかく出してもらったのだからと苺のドライフルーツを指先でつまみ取り、それを口の中に放り込む。甘酸っぱい味と香りを堪能しながらジンジャーエールを飲むと、まるでカクテルを飲んだときのような後味が、すうっと鼻に抜けていった。

 なるほど、これは美味しい組み合わせだと思いながら、希佐が頭の中のノートに書き込んでいると、その声は唐突に聞こえてきた。

「あっ、KISAだ!」

 突然自分の名前を叫ばれた希佐は、ほとんど反射的に、声が聞こえた方向に目を向けていた。しかし、左右に視線を巡らせても、こちらを見ている人物を見つけることができない。

 聞き間違いだろうか。いや、でも確かに自分の名前が──希佐がそのように考えながらカウンターに目を戻そうとしたそのとき、不意に手を引かれる。驚いて視界を下に向けると、一人の女の子がきらきらとした目でこちらを見上げていた。

「今日は女の子なの?」くりっとしたブラウンの目には、目を丸くしている自分の姿が映り込んでいた。「うわあ、髪が長い!」

 見たところ六歳くらいの女の子は、希佐の手をぎゅっと握り締めたまま離そうとしなかった。

 劇団カオスの舞台を観に来てくれていたのだろうか。だが、ここ一年近くは公演を行っていない。ゲスト出演をした舞台の公演だろうか。それならば何本か男役でも舞台に立ったことがある。

 希佐はそのようなことを目まぐるしく考えながら、椅子から立ち上がると、女の子と視線を合わせるために腰を屈めた。

「はい、今日は女の子です」希佐は空いている方の手で、自らの髪を撫でつける。「私が出ている舞台を観に来てくれたことがあるんですか?」

「うん」

「ありがとうございます」

 ヘスティアにいると、こうして声をかけられることはあった。だがしかし、こんなに小さな子供は初めてだ。しかも、夜のパブは子供の入店が禁じられているので、見つかったら問題になる。

「今日は誰と一緒に来たんですか?」

「お父さんと」

「そのお父さんは、今どこに──」

 希佐がそう言って辺りを見回そうとしたとき、一人の男性がフロアの人並みを掻き分けてやってくるのが見えた。その男性は女の子を見つけると、焦った様子で駆け寄ってくる。

「リジー!」

「ダディ!」女の子は悪びれもせずににっこりと笑うと、目の前にいる希佐を指した。「見て! 本物のKISAだよ!」

「傍を離れないようにとあれほど──って、えっ? あ、ああ……」

 男性は両膝に手を置き、体を前屈みにしたまま、惚けたように希佐のことを見ている。視線を逸らすのも失礼だと思い、見つめ合いながら曖昧な笑みを浮かべると、男性は「わあ!」と大きな声を上げ、その場に尻餅をついてしまった。

「す、すみませんっ、娘がお邪魔をしてしまったようで──」

「この時間帯の未成年の入店は禁じられているので、小さいお子様はご自宅に連れ帰った方がよろしいのではないかと思うのですが」

「ああ、いえ、違うんです」男はその場によろよろと立ち上がると、女の子を手招いて自らの傍に置いた。「この上の劇場で公演を控えているので、今夜はその準備に来ただけなんです。シッターが体調を崩して来られなくなってしまったので、連れてくる他なくて……」

「それに、私も出演者なのよ」

「そうなんですか?」

「本当はもっと早い時間に来るはずだったのに、ダディったら衣装作りで寝ていなかったものだから、ついうっかり居眠りをしちゃったの」

「それは大変でしたね」

「あはは」男性はそう力なく笑う。「でも、この公演が終わればしばらくは落ち着いた生活が送れそうなので、もう少しの辛抱です」

 はつらつとした女の子とは違い、父親の方には、なんとなくやつれた印象があった。目の下にはくっきりとした隈が浮かんでいる。

「親子で出演されるのですか?」

「いえ、私はただの裏方ですよ。娘のおまけみたいなものです」

 子役のうちは、親がマネージャーの役割を果たすことは珍しいことではないらしい。これまでの舞台でも、そういう子役と共演をする機会は度々あった。自身の意思というよりも、親の望みを叶える形で舞台に立っている子供もいれば、この女の子のように舞台に立つことが楽しくてたまらないというふうな子供もいる。

「ネイサン」フロアの方から歩いてきたメレディスが、やや呆れた口ぶりで男性に声をかけた。「僕はいつまで君を待っていればいいんだろうね」

「すまない、メレディス」

「君も昼間みたいに店内をうろうろしてはいけないよ、エリザベス。本当は店の中に入ってはいけないのだからね」

「ごめんなさい」

「準備は明日の午前中からでも十分に間に合うし、僕も手伝うと言ったじゃないか」

「私は君と違って要領が良くないから、人より早めに取り掛からないと、帳尻が合わなくなるんだよ」

 はあ、とあからさまにため息を吐くメレディスを見て、希佐は小さな違和感を覚えた。だが、それを嫌に感じないのは、側から見ても、二人が気心の知れた間柄であると分かるからなのかもしれない。

 希佐が自分を見ていることに気づいたメレディスは、少しだけ困ったような微笑を浮かべると、自らの手の平を男性に差し向けた。

「彼はネイサン。その昔、彼の夫人が私の劇団に所属していてね。当時、彼女は劇団の看板女優だったんだ。ネイサンと結婚をするから退団したいと言われたときは、この男を殺してやろうかと思ったものだよ」

「物騒だなぁ」

 朗らかな口振りでそう言いながら頭を掻いているネイサンの隣では、女の子が爪先立ちになって、自らを大きくアピールしている。

「ねえねえ、メレディス! 私も、私も!」

「こちらはエリザベス。ネイサンの娘で、小さな舞台女優だ」メレディスにそう紹介をされたエリザベスは、ふふん、と鼻息を荒くしながら、大きく胸を張った。「この子はアイリーンにも負けないほどの歌姫でもあってね」

「まだアイリーンみたいには歌えないけど、アイリーンみたいな歌える女優になって、劇団カオスに入るのが私の夢なの」

「……そっか」希佐は一瞬面食らったが、すぐにエリザベスに向かって穏やかに微笑みかける。「夢が叶うといいですね」

 叶う可能性のある夢を見られるのは、とても幸せなことだと思う。

 ユニヴェールに入りたいと願っても、女だからと夢を諦めようとしていた自分にとって、それはあまりに羨ましく、希望の感じられる話だった。

「だから、私が大きくなるまでは、KISAがカオスを守ってね」

「え?」

「せっかく有名な舞台女優になっても、そのときになってカオスがなくなっていたら、私の夢は叶わなくなっちゃうから」

「でも、私には……」

「私はアイリーンのファンだけど、ダディはKISAのファンなんだよ」エリザベスがそう言うのを聞きながら、ネイサンは恥ずかしそうに鼻の頭を掻いている。「KISAが来てからカオスは変わったって言ってた。何かすごい人たちの集まりであることは間違いないけど、何をしたいのか分からない人たちだったのが、KISAが来てから急にまとまりだしたって。多分、今はKISAがカオスの看板なんだろうなって」

「……君、舞台経験もないのに、娘にそんな大層なことを言っているの?」

「舞台経験はないけど、舞台を観る目は肥えているつもりだよ」

「そういえば、うちの看板女優にダメ出しをした観客は、後にも先にも君だけだったね」

 昔を懐かしむように言ったメレディスの眉根には、注意深く見なければ分からないほどの、小さな皺が寄っていた。

 鍵は預けておくから戸締りまでよろしく頼むよと言って、メレディスは適当なところで話を切り上げた。

 今度こそ離れ離れにならないようにと、二人は手を繋いで階段の方へと歩いていく。その親子の後ろ姿を見送るメレディスの眼差しは、どこか切なさを感じさせるものだった。

「それで」メレディスの声音がいつも通りに戻った。「君とは何をどこまで話したのだったかな」

「今日は良い気晴らしができたっていう話」

「ああ、そうだったね」

 カウンターの内側に戻っていったメレディスは、希佐のグラスが空になっているのを見つけて、次の一杯を勧めてきた。常温の炭酸水が欲しいと告げると、メレディスは栓を抜いた瓶ごとカウンターに乗せてくれる。

「私がカオスの看板だって」希佐は少しだけ自虐的に笑った。「おかしいね」

「それはどうして?」

「だって、カオスのファンの人たちにしてみれば、私なんて何処の馬の骨とも知れない役者だったでしょう? 正直な話、今だってそうなんじゃないかなって思うよ」

「最初はそうだったかもしれない。でも、君は多くの努力をこつこつと積み上げて、今の自分の地位を確立したのだよ、キサ。それは誇るべきことだと僕は思う」

「私が今こうしていられるのは、偶然に偶然が重なった結果だよ。与えてもらったことを一つずつこなしていたら、それがなんとなく評価されたことで、地盤が固まってきたような気がしているだけ。私はね、きっと根っからの根無し草なんだ。どこにも拠り所のない、ふわふわ漂う浮雲みたいな」

 自分でも、自分が不必要に卑屈になっていて、手に負えない厄介な女になっていることが自覚できた。酒も飲んでいない、素面の状態でこれなのだから、本当にたちが悪い。

 それなのに、メレディスはそんな希佐を見ると、ふっと吐息を漏らすように笑った。

「君はここへふらっと現れたときのように、またふらっとどこかへいなくなってしまうのかもしれないね」

「……そう思う?」

「君は一度した約束を違えるような子ではないと思うから、次の公演が終わるまでは、どんなに苦しくてもこのウエスト・エンドから出ていくことはないだろうね。でも、その公演が終わった後は分からないな」

 メレディスは鋭い。おそらくアランよりもずっとだ。だから、隠し事をすることはできない。誰かがヘスティアで嘘を吐けば、嘘を嘘と認めた上で、それを真実として肯定してしまえる人なのだ。

 この人は、多くのことを、本当にどうでもいいと思っている。自分が手に入れたいもの、気に入ったもの、手を差し伸べてやりたいと思ったものにだけ、惜しみなく救いを与える。希佐自身もその恩恵に肖っているのだ。

 希佐を見据えたままゆっくりと息を吐き出したメレディスは、唐突に昨夜の舞台のことについて話し出した。

「昨日の独り芝居を見せてもらって思ったのは、君が捨て身で舞台に挑んでいるということだった。君には自分の舞台の終わりが見えているのではないかと思ったよ。終わりに向かってゆっくり歩いていると感じた。あの舞台演出家自身のように、自らの終焉を悟り、その日を迎える前にすべてを清算しようとしているような、いっそ清々しいくらいの潔さを覚えたんだ」

 メレディスは希佐の返事を期待してはいないようだった。その証拠に、希佐が口を開くことを待たず、先の言葉を続けた。

「僕は実際にこの目で観たわけではないから何とも言えないけれど、キサの独り芝居は凄まじく壮絶だったのだと思うよ。二階から降りてきた観客の多くは、まるで悪夢でも観てきたみたいな顔をして、しばらくは口も利けない様子でね、黙って呆けたように座っているだけだった。もちろん、脚本の強さというものもあるのだろうけれど、脚本を本物にするのは役者の強さだ。完璧な脚本と、完璧な役者、これが揃ってようやく、本物の舞台が完成する」

「本物の、舞台……」

「実を言うと、僕はこの本物の舞台というものに強い憧れを抱いていてね。いつかそういう舞台を作り上げたいと願いながら、劇団の活動を続けていたんだ。でも、かなしいかな、僕では本物の舞台には手が届かなかったのだよ。僕には、人の上に立ってあれこれと指図をする才能はあっても、本物の舞台を構築する才能はなかったのさ」

「……その、本物の舞台というもののために、アランを育てようとしていたの?」

「そうだね」メレディスは否定しなかった。「彼の才能には驚かされてばかりだった。忘れもしないよ。アランが養父に連れられてきた日は、ちょうど翌日に控えた小さな催しの通し稽古をしていてね。当時はまだ劇団を立ち上げたばかりだったから、無料でお芝居を見せて、劇団員を募る計画を立てていたんだ」

 遠い遠い昔の出来事を懐かしむように目を細め、メレディスは語る。

「彼はこの上の劇場を物珍しそうに眺めながら、通し稽古を盗み見ていたよ。稽古が終わって、一人、また一人と劇団員たちは帰っていくのに、アランは最前列の席に座って、誰もいない舞台をじっと睨んでいた。声をかけても返事すらしない。どうしたものかと思っていると、彼は徐に立ち上がって、舞台に上がり、演じはじめたんだ。たった一度観ただけの演目を、舞台経験のない少年が、一言一句違わずにね」

 希佐の目にはそのときの情景が浮かんでくるようだった。

 きっと、あの美しい緑色の目をきらきらと輝かせながら、誰の姿もない無人の客席に向かって、ここが自分の生きる世界なのだと、そう高らかに宣言していたのかもしれない。

 ようやく辿り着いた自分だけの居場所。やっと出会うことのできた生き甲斐。舞台の上と、それ以外。現実から逃れるようにのめり込んで、どんどん深みにはまっていく様を、容易に想像することができる。立花希佐がそうであるのと同じように。

「僕はこれほどの才能に出会ったことがなかった。だから、正直なところとても戸惑っていたし、最初のうちは彼の才能を持て余していたよ。どんな難題を与えても、彼は一時間とかからず自分のものにしてしまうから、次々と課題を用意してやるしかなかったんだ」

「アランを飽きさせるわけにはいかなかった?」

「そう」メレディスは小さく頷いた。「彼を飽きさせてしまったら、この世界への興味を失ってしまうだろうと思った。だから、劇団員や、外部の友人らにも協力を求めて、与えられるだけ与え続けたんだ。誰も彼を傷つけることのない居場所を確保するためには、そうすることが必要だったからね」

「でも」

 その結果、アラン・ジンデルは舞台に嫌悪感を抱くようになり、ついには立つことをやめてしまった。そう思っている希佐の心を読み取ったかのような表情を浮かべたメレディスは、静かに続けた。

「アランを施設から引き取った牧師は、この辺りではちょっとした人格者として知られていてね。施設から子供を引き取ったと聞いたときは、誰もがその行いを称賛したものだ。彼は小さな教会の牧師で、実入りがさほど多くないことは、この辺りの人間なら誰もが知っていたからね。当時、あの教会の経営は、ほとんど寄付で成り立っていたんだ。だからこそ、出自の分からない多少乱暴で口の聞き方も知らない少年を引き取るという行いは、周囲の人々の目には尊いことのように映っていた」

 メレディスは、希佐の後ろを通りかかった馴染みの客に向かって軽く手を上げ、朗らかに微笑みかけた。馴染みの客は二人の雰囲気を的確に読み取ったのだろう、話しかけることはせずに、そのまま通り過ぎていく。

「でも、実際の牧師は、周りが思っていたような人格者ではなかったんだ。ただの偽善と称讃のために、恵まれない子供を引き取った。アランはご覧の通りの容姿だからね、閑古鳥が鳴くような小さな教会の人寄せには、十分な役割を果たすと想像していたのだろう」

「そんな……」

「だけど、蓋を開けてみたら、その美しい顔の少年は、手のつけようがないくらいの乱暴者だった。私の劇団には、言葉遣いを正すために連れてこられたんだよ。行く先々の施設で問題を起こしてたらい回しにされていたようだから、いろいろな地方の訛りが混在していて、確かに酷いものだった。あれではとてもではないけれど教会の手伝いはさせられない」

 アラン自身もそのように話していたことを希佐は覚えている。自分の今の話し方は、メレディスの劇団に入ってから身につけたものだと、そう言っていた。

 イギリス人にとっての英語はステータスだ。

 ロンドンにやってきた当初、アイルランド訛りの英語を話していた希佐は、それを揶揄われるという経験を何度かしたことがあった。だが、最も美しいとされる発音を毎日耳から取り入れ、自然と話せるようになってからは、いつの間にかそうした経験からは少しずつ遠ざかっていった。希佐は、美しいクイーンズインングリッシュを話す者が、この社会では優遇されるのだと、身をもって知ったのだ。

「牧師が望んだ通り、アランは美しい発音と言葉遣いを手に入れた。人との付き合い方や、礼儀も少しずつ学んでいった。乱暴な振る舞いも減っていって、劇団員たちとも打ち解けていったよ。でも、牧師は直に、教会の手伝いもせず劇団の活動にのめり込んでいく彼を、許せなくなっていった」

 話を聞けば聞くほどに、心か苦しくなっていく。四方からぎゅうぎゅうと押し潰されるような窮屈さを覚え、呼吸が浅くなっていくのが分かった。自分は聞いてはならない話を聞いているような、そんな罪悪感に見舞われてしまう。

「牧師はアランを僕の劇団から遠ざけたがった。彼の望みは既に叶っているのだから、そう長居させる必要がなかったというのも、あったのだと思う。でも、アランのような才能を持った人間は、そう多くいない。これは神から授かった贈り物だ、それを認めず、彼から才能を取り上げるのは神に対する冒涜だと、そう言ってやろうと思った」

 しかし、メレディスの表情を見れば、それが上手くいかなかったことは明白だった。

「僕は牧師と直接話をするために教会に行ったよ。そして、見てしまったんだ。教会の奥にある小部屋で、牧師が彼に暴言を浴びせかけ、暴力を振るっている様子をね。僕は黙っていられず、間に割って入った。警察に通報すると言ったんだ。でも、アランに止められてしまってね。警察なんかに通報されてしまったら、自分は施設に送り戻されることになる。あんなところに戻るくらいなら、ここで地獄を味わい続けた方がずっといいって」

 希佐はときどき、アラン自身の口から昔話を聞く機会があった。アランはそうした話を大抵は平然とした口ぶりで、たいしたことのない問題だというふうに話す。だから、希佐はことの重大さを正しく理解はしていないのだろうと、いつも思っていた。

 現実は希佐が想像していた以上に残酷なもので、アランの心は希佐が思っていたよりもずっと深く傷つき、今もそのときの膿を吐き出し続けているのかもしれない。

「僕はアランの気持ちを優先して、警察に通報することはしなかった。でも、牧師には交換条件を突き付けた。警察には通報しないし、ここで目撃したことも口外しない。その代わりに、アランに劇団の活動を続けさせてほしいと。牧師は劇団の活動に掛かる金を出したくないと渋った。当時は劇団員から月謝をもらっていたんだよ。でも、たいした金額ではなかったから、大人たちがアランのために少しずつ出し合って、彼の大切な居場所を守ることに決めたんだ」

「……イライアスが言っていたの。あなたがアランにしてあげていたことは、どこか異常だって」

「はたから見たら、そう感じられて当然なのかもしれないね」メレディスはそう言いながら笑った。「僕たちにできることは、彼にありとあらゆる可能性を見せてあげることだけだったんだよ。そうすることで、彼は多くの選択肢の中から、自分の未来を選んでいくだろうと考えたんだ。養父の庇護下から抜け出すためには彼の才能を生かすべきだと思っていたし、それに、舞台人としても成功してほしいと願っていた。劇団の誰もがね」

「……そう」

「その言い方」軽く目を伏せたメレディスは、優しげに笑みを深める。「アランによく似てきたね」

「そう、かな」

「彼はね、口には出さないけれど、常に自分が一番だと思っているような子なんだ。人の才能を誰よりも的確に見抜くからこそ、それと自分の才能を無意識のうちに比べてしまうのだろうね」希佐が瓶を手に取り、生ぬるい炭酸水をグラスに注ぐ様子を眺めながら、メレディスは言った。「だから、自分の許容範囲を超えた才能を目の当たりにすると、それに魅了されてしまう。それと同時に、嫉妬もする。初めてバージルのタップダンスを見たときもそうだったよ。きっと、昨日の君の独り芝居も同じだ」

「アランは、私の力量を測り違えていたって」

「まあ、そうだろうね」その返答に目を丸くする希佐を見て、メレディスは至極当然だというふうな顔をして続けた。「要は、君はアランに甘く見られていたということだよ」

「甘く……?」

「キサの才能はすごい。目を見張るものがある。でも、だからと言って自分にとっての脅威にはなり得ないだろう──こういう考えが少なからずあった、というところかな」

「どうしてそんなふうに考える必要があるの? 私とアランとでは立っている場所が違うのに」

「今まではそうだったのだろうけれど」メレディスはどこか呆れたように苦笑し、肩をすくめた。「アランは君の才能に嫉妬しているんだよ。あとは、そうだな、焦りを感じているのかもしれないね。君くらいの才能があれば、もうこの世界のどこへ行ったとしても、一流の舞台人として生きていけるだろうから。君をこのウエスト・エンドに留めておくためには、今のままではいけないと思いはじめたのかもしれない」

「昨日の独り芝居を観てそう思ったということ?」

「もっと前からだよ」

「でも、あの人は絶対に、私に『行かないでくれ』なんて言わない」

 希佐が反射的にそう言い返すと、メレディスは一瞬面食らった様子で言葉を失っていた。そして、一度開きかけた唇を閉じると、言葉を選ぶようにしながら口を開いた。

「アランは相手が君だから引き止めないのではないよ。他の誰が相手でも、去る者を追うことはしない。なぜなら、それは彼自身が引き止められることを望んではいないからだ。彼が人に強要しないのは、自分も強要されたくないからなんだ。でももし、アランが君に何かを強要したり、引き止めたりする瞬間が訪れたのだとしたら、それは君が彼にとって何者もに変えがたく、そして──」

 メレディスはそこまで言ったところで、突然言葉を途切れさせた。視線は希佐の顔に向けたまま、口から吸った息を、鼻からゆっくりと吐き出しているのが分かる。視線が一瞬だけ、左右に素早く動いた。

「珍しいわね、あなたが一人のお客さまに付きっきりなんて」

 コツ、コツ、コツ、と踵の高い靴を履いていると分かる足音が、背後から近づいてくる。同時に、甘ったるい花のような香水の匂いが、空気を伝って希佐の体にまとわりついてくるような感覚があった。

「他のテーブルでも散々噂されていたから、相手はどんな美人なのかと思っていたら、あなた、キサじゃないの」

「えっ?」

 自分の名前を呼ばれた希佐は、すぐに後ろを振り返った。

 目の前に立っていたのは、深いグリーンのパンツスーツを身に纏った一人の女性だった。ジャケットの下は素肌にベストを着ているのか、形良い胸の膨らみが僅かに覗いている。ゆったりと巻いているブロンドの髪があまりに艶やかなので、色鮮やかなアクセサリーの類など必要ないようだ。その人は希佐の目と鼻の先まで顔を寄せると、顔の半分を隠すほどの大きなサングラスを僅かにずらし、青い目を覗かせた。

「あなた、舞台の上にいるとあんなに華やかなのに、こうして見ると至って普通なのね」

「あ、あの、こんばんは」

「ええ、こんばんは」そう言って、ゾッとするほど美しい微笑みを浮かべたのは、オーディションのときに審査員として席に座っていた、クロエ・ルーその人だった。「緊張しないでいいのよ。今夜は完全にプライペートなんだから」

 そのまま掛けていたサングラスを外したクロエは、柄の先を口元に押し付けるようにして折り畳み、それをカウンターの上に置いた。

「マダム・ルー」恭しくその名を呼ぶメレディスを見て、クロエは青い目を三日月のように細める。「ご注文は?」

「おまかせするわ」

「かしこまりました」

 メレディスは希佐に向かって軽く目配せをしてから、その場を離れていった。

「お隣よろしいかしら」

 クロエは希佐が返事をするより早く、すぐ隣の椅子に腰を下ろすと、何が入れられているのか分からないほど小さなバッグをサングラスの隣に置いた。

「今夜はお一人なの?」

「はい」

「私もよ。今日はメディアのインタビューをいくつか受けてきたの。どこぞのレストランでディナーでもと誘われたのだけれど、丁重にお断りしたわ。こう見えても一仕事終えてくたくたなんだから」

 間もなくして戻ってきたメレディスの手には、一本のボトルとブランデー用のグラスがあった。

「あの人たち、どうして同じ質問ばかりを繰り返すのかしら。新しい恋人やら、結婚やら、そんな話ばかり。ねえ、こんな質問は時代遅れだと思わない? そんなくだらない質問をする暇があるなら、もっと新しいプロジェクトについて聞いてもらいたいものだわ」

 焼けた夕焼けのような色をしたブランデーが、グラスの中に少量だけ注がれる。メレディスは店のロゴが入っていない白いコースターをカウンターに置き、その上に音も立てずにグラスを乗せた。

「アルマニャックのオール・ダージュです」

「ありがとう。この子にも同じものをお願いできるかしら」

「あ、いえ、私は……」

「あら、遠慮はいらないのよ」

「明日は午前中から歌のレッスンがあるので」

「ああ、それなら仕方がないわね」クロエは驚くほどあっさりと引き下がった。「それ、美味しい?」

「はい、美味しいです」

「メレディス」

「ご用意いたします」

 希佐の前に置かれている小皿の上には、まだ苺のドライフルーツが残っていた。それを見たクロエは、自分の前にも同じものが用意されると、添えられていたフォークで苺を刺し、歯先で小さく食いちぎりながらゆっくりと咀嚼している。

 あまり不躾な眼差しを向けてはならないと分かっていても、希佐はその所作に目を奪われ、視線を逸らすことができなくなっていた。クロエ・ルーは、まるで周囲の光という光をすべて集めているかのように、光り輝いて見えたのだ。

「キサ、そろそろタクシーを呼ぼうか」

「もうそんな時間?」

「もうすぐ十一時になるよ。明日もレッスンがあるなら、早く帰って休んだ方がいい」

 希佐が、そうだね、と言って頷こうとしたとき、隣でブランデーのグラスを手の平で温めながら、クロエが口を開いた。

「私、もう少しあなたとお話をしたいわ」

「マダム、彼女は──」

「お家までは私がタクシーで送り届けるから心配しないで」そういうことではないのだ、という顔をして困っているメレディスを尻目に、クロエは希佐を見た。「ね、もう少しだけ」

 この目を知っているような気がすると、希佐は思った。なぜそう感じるのかは分からない。しかしながら、どういうわけかその目に見つめられていると思うと、抗おうという気持ちすら湧かなかった。

「では、もう少しだけ」

「ほら、私の勝ちよ、メレディス」

 プライベートだと公言しているとはいえ、相手は自分が立つ予定の舞台のプロデューサーだ。スペンサーはクロエ・ルーのことをパトロンと呼んで、その発言を重要視している様子だった。当然失礼は許されないが、酒の席での誘いを無下に断るというのも、あまり良いことではないように思える。

 メレディスは希佐の下した決断に思うところがあるような顔をしていたが、二階の方に視線を向けたかと思うと、二人に断りを入れてからこの場を離れていった。先程の親子が準備を終えて、劇場から出てきたのかもしれない。

「あなた、演出家と寝ているって本当?」

「は、い?」

 喉の渇きを覚えてグラスに手を伸ばし、それを口に運ぼうとしていた希佐は、その唐突な問いかけに、思わず裏返った声をあげてしまった。つるりと手の内から滑り落ちそうになったグラスを、反対の手で慌てて掴み、ほう、と息を吐き出す。このグラスの値段が高いことを、希佐は知っていた。

「やっぱりただの噂話だったみたいね」

「は、はい……」

「その話がもし本当だったら、彼の母親に愉快な土産話ができると思っていたのに、残念だわ」

「彼の?」

「スペンサー・ロローの母親よ。私の大親友なの」

「自分の息子が、自分と寝た役者を主演に起用したなんて話が、愉快なお土産話になるとは思えないのですが……」

「だってあの子、前の恋人と別れてから、ちっとも浮ついた話がないのよ。だったら、役者と寝て、情に任せてその子を主演の座に据えるくらいのことをしてくれた方が、母親としては安心できそうなものじゃない?」

「そ、そうでしょうか」

「まあ、時代遅れな話よね、演出家と寝て良い役をもらおうなんていうのは」

 クロエがブランデーグラスを口に運ぶ様子を、希佐は横目でこっそり盗み見ていた。

 深紅に染められた爪は作り物のように形が良く、指はすらりと細長い。左手の中指と薬指の間でグラスの足を挟んで、それを口元に運ぶ仕草はあまりに洗練されていた。ブランデーを口に含み、嚥下すると同時に上下する喉の動きが、酷く色っぽい。グラスを下ろしながら、ブランデーで濡れた唇を舌先で舐め取る仕草を目の当たりにして、希佐の心臓が大きく跳ねた。

「昨日、ここの上の劇場で独り芝居をしたのですってね」

「はい」

「仕事が入っていなければ私も観たかったわ。年末年始はずっとフランスに帰っていて、ロンドンに戻ってきたのは今朝だったの。もうすぐ新作映画の上映が始まるし、プレミアも控えているから大忙しで」

「そうだったんですね」

「映画の仕事には興味ないの?」

「オファーをいただいたことはあります」ゆらり、ゆらり、とグラスの中でブランデーが揺れている。「でも、私には舞台の方が性に合っているので、すべてお断りしています」

「舞台人ってみんなそう言うのよね。ほら、昔から舞台作品が映画化されるたびに、そんなものは邪道だなんて言って、髪を振り乱しながら怒り散らす人たちがいるじゃない?」

 希佐は否定も肯定もせず、ただ黙って、曖昧に笑うだけに留めていた。

「舞台って閉じられた芸術だと思うの。映画は開かれた娯楽。どちらが良いかなんて論じるつもりはないけれど、明らかに後者の方が儲かるのよね。それで業界が潤って、映画を観て舞台にも興味を持ってくれた人が劇場に足を運んでくれるのなら、どちらにとっても損ではないでしょう?」

「はい」

「私はどちらの世界も好きよ。舞台には舞台の、映画には映画の良さがある。例えば、ロングラン公演されている舞台ではキャストの交代が常だけれど、人によっては前任者の方が良かったなんて言って、後任を受け入れないことがあるわよね。でも、映画は永遠に変わらない。たとえリメイクされたとしても、自分で好きな方を選んで観ることができる。舞台は生き物だとよく言われるけれど、私は、映画は彫刻だと思うのよ。大きな硬い一枚岩を、監督が小さな彫刻刀で地道に彫って、一つの作品を創り上げていくの」

「素敵な考え方ですね」

「あなたはきっと銀幕の世界でも舞台の上と同じくらい輝くわ。映画に出てみたくなったら声をかけてちょうだい。適当な監督を紹介してあげる」

「ありがとうございます」

 にこりと微笑んで感謝の言葉を述べた希佐をじっと見ていたクロエは、カウンターの下で足を組み直しながら、呆れた様子で頬杖をついた。

「本当に舞台以外には興味がないみたいね」

「そんなことはないのですが」

「映画は? 観たりすることはあるの?」

「最近はフランス映画をよく観ています。スペンサーさんからフランス語を学ぶようにと言われているので、勉強のために」

『勉強を始めてどのくらい?』

『一、二週間くらいです』

『本当に?』

『周囲にフランス語を話せる人が多いので、学ばせてもらっています』

 カウンターに頬杖をついていた格好から姿勢を正したクロエは、本当に驚いたという顔をして希佐を見た。

「実はね、あなたにフランス語を学ばせるように言ったのは、私なのよ。もちろん、役作りの一環ではあるのだけれど、あなたがフランス語を話せれば、プロモーションも広く行えるでしょう? 今度の舞台は是非ともフランスのファンにも観てもらいたいと思っているから」

「ご期待に添えるよう善処します」

「堅苦しい物言いはよして」クロエは希佐の言い様が気に入らなかったのか、目を細めて不満を露わにした。「これから長いお付き合いになるのよ、私たち。もっと仲良くやりましょ」

「あの、でも……」

「なあに?」

 いや、余計なことは言わない方がいい──希佐は咄嗟にそう判断すると、首を横に振った。

「昨日の私の独り芝居をご覧になりたいのなら、スペンサーさんにお願いをすれば、映像データを渡してもらえると思います」

「データはもう送られてきているのよ。まだ観てはいないけれど。私が観たかったと言ったのは、あなたが目の前で演じる姿なの。グレアムが羨ましいわ、それを特等席で観ることができたのだから」

「メイヒューさんのこともご存知だったんですね」

「一応はプロデューサーということになっていますからね。出資者と言った方が正しいような気はしているのだけれど、まあ、原案者でもあるわけだから、プロデューサーを名乗っても許されるでしょう?」

 ざわざわと心がざわめくのは、何か嫌な予感が起こる前触れなのではないかと思ってしまう。最近はずっとそうだ。誰かが耳元でこそこそと何かを囁き続けているのに、それを言葉として聞き取ることができない。今だって、何かが聞こえているような気がするのだ。

 クロエは、カウンターの向こう側を通りかかったバーテンダーに向かって、空になったグラスを掲げて見せた。希佐が働かせてもらっていた頃から在籍しているそのバーテンダーは心得たように頷くと、新しいグラスに注いだブランデーと、空になったグラスをすぐに取り替えた。

「これが終わるまではお話に付き合ってね」クロエは手の平でブランデーの注がれたグラスを温めながら言う。「そうしたらタクシーでお家まで送り届けてあげるわ」

「いえ、私は歩いて帰れるので」

「夜の一人歩きは危険よ。いいから、私の言う通りになさいな」

「……では、お言葉に甘えさせていただきます」

 十二時を迎える少し前になって、クロエのブランデーのグラスが空になった。その寸前まで二人は取り止めのない話を続けていたが、クロエは時刻を確認してから先程のバーテンダーを近くまで呼び寄せると、タクシーを呼ぶように言う。

「かしこまりました」

 バーテンダーは少し離れたところまで歩いて行き、スマートフォンを取り出して、提携のタクシー会社に電話をしていた。

「メレディスったら、こんな上客を置き去りにしたまま戻ってこないなんて、本当にいい度胸をしているわね」

 カウンターに預けていたコートを羽織り、サングラスを装着したクロエは、そう言いながら腰に手を当てて辺りを見回している。希佐も辺りを見渡してみるが、フロアのどこにもメレディスの姿は見当たらなかった。

 希佐が視線を戻すと、クロエはコートのポケットから取り出したシガレットケースの蓋を開けていた。中から取り出した黒い紙巻きの煙草を唇で咥え、ライターで火をつけようとしているのをめざと見つけたバーテンダーが、慌てて止めに入る。

「マダム。申し訳ございませんが、当店は禁煙となっております」

「そうだったわね」

 禁煙だということを本当に失念していたようだ。クロエは咥えていた煙草を手に取ると、すっと握り拳の中に収めた。シガレットケースの代わりに携帯用の小さな灰入れを取り出し、歩き出す。

「ちょっと外で吸ってくるわ」

「……あっ、はい、分かりました」

 なぜだろう、と希佐は思う。クロエ・ルーの一挙一動が気になってたまらないのだ。その視線の先、何かに触れる指先、声の向かう方へと意識が運ばれていく。この美しい人が煙草を吸い、煙を燻らす姿をどうしても見たくて、希佐はガラス越しにその様子を盗み見ていた。

「彼女が気になるの?」

 待てを言い渡された飼い犬のようにカウンターの前に立ち呆けていると、後ろからそう声をかけられた。振り返った先にはメレディスの姿があって、希佐と同じようにガラスの向こう側に見える、まるで映画の一場面のような情景に目を向けている。

「目を逸らすことができなくて」

「美しい人だからね」

 メレディスはそう言いながら、まるで無理やり引き剥がすように、店外にいるクロエから店内に視線を戻した。

「メレディスはあの人と昔からの知り合いなの?」

「僕の父の代からここに通っているよ。店の手伝いをしていると、彼女はこれでミルクでも飲みなさいと言って、チップをくれてね。坊やと呼ばれなくなったのはつい最近のことだ」

「メレディスが坊や?」

 驚いたように目を丸くする希佐を見て、メレディスはどこか困ったように笑った。

 クロエ・ルーは、年齢的にはメレディスとあまり変わらないように見受けられる。それどころか、見たところではメレディスよりも若い印象を受けるくらいだ。

「彼女は今年で四十八歳になるはずだ」メレディスは希佐の心を見透かしたように言った。「女性の年齢を他言するのは紳士にあるまじきことではあるけれど、そういうことを気にする人ではないから」

「メレディスは何歳?」

「僕は四十五だよ」

「バージルより年上だったんだ」

「彼はどちらかというと老け顔だからね」

「じゃあ、劇団を立ち上げたのは大学生の頃?」

「そうだよ。最初は大学の演劇サークルに所属していたのだけれど、方向性の違いを感じて、外部に劇団を立ち上げることにしたんだ」

 そのとき、メレディス、とバーテンダーが声をかけてくる。窓の外を指しているので、希佐も釣られるようにしてそちらを見やると、ちょうど店の前に一台のタクシーが停車するところだった。

「あ、ちょっと待って」

 見送りに出て行こうとするメレディスを引き留め、希佐はクロエがカウンターに置いたままにしていた小さなバッグを手に取った。中には口紅くらいしか入らないのではないだろうか。そう思いながら、メレディスの背中を追いかける。

「お忘れ物です」

「あら、すっかり忘れていたわ。どうもありがとう」

 希佐が差し出したバッグを受け取ると、クロエはその中から丁寧に折り畳まれた紙幣を一枚取り出し、それをメレディスのジャケットの胸ポケットに滑り込ませた。

「ご馳走さま、坊や」つん、とメレディスの鼻先を突いたクロエは、まるで少女のように悪戯っぽく笑う。「また来るわ」

「お待ちしております、マダム」

 礼儀正しく目礼をするメレディスを見上げ、クロエは僅かな不満を顔に出す。それでもメレディスはにこやかな表情を崩さず、タクシーのところまで歩いて行くと、自らの手で後部座席のドアを開いた。

「まったく、いつだってつれないんだから」

 クロエはそう言いながらタクシーに乗り込んでいく。その中から手招かれた希佐は、小さく息を吐き出してから、その後ろを追いかけた。しかし、タクシーに乗ろうとしたその瞬間、希佐の耳元でメレディスが囁きかける。

「彼女には気をつけて」

「えっ?」

「おやすみ」

 何て言ったのかを聞き返した希佐に向かって朗らかに挨拶をすると、メレディスは外側からタクシーのドアを閉めた。いつもならタクシーが去るまで見送るメレディスが、早々に戻っていく後ろ姿を唖然と眺めていると、クロエに肩を叩かれる。

「運転手に行き先を伝えてちょうだい。それとも、私と一緒にホテルに行きたいの?」

「い、いえ、すみません」

 希佐はスタジオ近辺の通りの名前を告げると、シートに深く身を鎮めた。運転手は静かに車を発進させる。車内には甘い香水の匂いと、それとは相反するような煙草の苦い香りが漂っていた。

「メレディスとは親しいの?」

「親しいというよりも、私が一方的によくしてもらっています。本格的に役者の仕事をはじめる前までは、ヘスティアで働かせてもらっていたので」

「でも、あなた、彼に相当気に入られているわよ」

「そうでしょうか」

「あの子が他の客を放って一人の客とだけ話をするなんて珍しいことだもの。それに、自分からタクシーを呼ぼうかなんて、私には一度だって言ってくれたことがないわ」

「私には酔い潰れて迷惑をかけてしまった前科があるので、そうならないように気を使ってくれているのだと思います」

「あなたがどうでもいい女だったら、そんな前科があったとしても、あの子は構わず放っておくでしょうね」

 メレディスのことを坊やと呼んだり、あの子と呼んでみたりと、あなたの方がずっと親しげだと思いはするものの、希佐は余計なことは言わずに黙っている。

「キサ」

「はい」

「あなたって誰に対してもそうなの?」

「……何のことでしょうか」

「人の話には熱心に耳を傾けるけれど、自分のことは必要以上に話さないでしょう? それは極端な秘密主義ということ? それとも、周りには話せない秘密を大事に抱え込んでいるのかしら」

「お酒の席でお話しできるような愉快な話題を持ち合わせてはいないので」希佐は自らの気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりとした口振りで話をした。「それに、私がお話しするよりも、ルーさんがお話をされていた方が──」

「Missは結構よ」今までよりも僅かに低い声でクロエが言う。「クロエと呼んで。それが嫌ならマダムでいいわ」

「……マダム・ルーのお話をお聞きしている方が、私が楽しかったものですから」

「お上手ね」

 タクシーに乗り込む寸前、メレディスが警告をするように言った言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。だが、警戒心を露わにすれば、すぐに何かを感づかれてしまうような気がする。この密室の中で平常心を保ち続けるためには、もっと多くの新鮮な空気が必要だと、希佐はそう思った。この甘ったるい香水と、煙草の煙の匂いが、正解を導き出そうとしている思考の妨げになっている。

「すみませんが、窓を開けても構いませんか?」

「ええ、どうぞ」

 窓を薄く開くと、冷えた風が車内に吹き込んでくる。運転手が不機嫌そうな顔でバックミラー越しにこちらを見るが、希佐は構わなかった。圧倒的な存在感に脳内が占拠されてしまう前に、早くスタジオに辿り着いてくれと、祈るような気持ちだった。

「そうだわ」冷たい風を浴びながら窓の外を見ている希佐に向かって、クロエが言った。「あなたの連絡先を教えてくれない?」

「私の連絡先、ですか?」

「嫌かしら」

「いえ」

 希佐は差し出されたスマートフォンを手に取ると、自分の名前と連絡先を登録し、クロエの手にそれを返した。すると、クロエはすぐに希佐のスマートフォンを鳴らし、電話番号の交換をする。

「完全にプライベートな番号だから」ふふ、と笑いながら、クロエは続ける。「他言はしないでちょうだいね」

「はい」

「今度一緒にお食事でもいきましょう。あなたのこと、もっとちゃんと知っておきたいのよ。インタビューで主演女優のことを聞かれたときに、何も答えられないようではプロデューサー失格でしょう?」

「ぜひ、よろしくお願いします」

「約束よ」

 クロエはそう言うと、希佐に向かって右手の小指を差し出してきた。指切りは日本独特の文化だとばかり思っていたが、どうやらそうとも言えないらしい。

 指切りなんて子供の頃以来だ。そう思いながら、同じように右手の小指を差し出そうとしたとき、それはあまりに突然に、希佐の目に飛び込んできた。

 クロエ・ルーの小指に、ピンキーリングが嵌められていたのだ。金色に輝くその細い指輪には、小さなエメラルドが埋め込まれている。これはただの偶然だと瞬時に判断した思考とは裏腹に、希佐の目は確かに捉えていた。希佐自身が誤ってぶつけたときに付けてしまった傷が、そのまま、埋め込まれたエメラルドのすぐ脇にある。

「キサ?」

 希佐は言葉を発することもできず、ただ、クロエの小指に自らの小指を絡めた。その瞬間、クロエは希佐の目をじっと見つめ、酷く艶やかな表情でにっこりと微笑んだ。まるで、何もかも、すべてを知っているのだと、見透かすふうな眼差しで。

 そこからどんな話をして、何を口走り、どのようにしてタクシーを降りたのか、希佐はよく覚えていなかった。気がつくとスタジオの前に立ち尽くし、ぼうっと扉を見つめていたからだ。

 にゃあ、という猫の声で我に返る。足元に目を向けると、この辺りでよく見かける黒猫が、希佐の目の前を横切っていくところだった。

 希佐は黒猫の姿が暗闇の中に消えていくのを見送ってから、バッグの中の鍵を取り出し、目の前の扉の施錠を外した。いつもなら今頃はアランがスタジオを使っている時間帯だったが、スタジオの明かりは落とされている。

 中に入ってすぐに鍵を閉め、スマートフォンのライトを頼りにして歩いた。どうかそこにいないでくれと願いながら扉を開いても、事務室のいつもの席にはアランの後ろ姿があって、希佐は軽い絶望を覚えてしまった。どんな顔をして、どんな声で、どんなふうに言葉を掛ければいいのか、まったく分からないのだ。

 希佐はスマートフォンを握りしめたまま、早すぎず、かといって遅すぎない程度の速さで歩きながら、アランの隣を通り過ぎようとした。幸いにも、耳には昼間と同様ヘッドホンが掛けられているので、声をかけずに素通りしても不自然ではない。

 だがしかし、アランは希佐が自分の隣までやって来るのを見計らっていたかのように、腕を伸ばして通り道を塞いだ。ごちゃごちゃとした荷物を踏み越えていくこともできたが、希佐は素直に足を止め、画面に目を向けたままのアランの横顔を見やる。

「遅くなるなら連絡の一つくらい──」

 アランはそう言いかけてから、唐突に言葉を失った。そして、不審そうにゆっくりと顔を顰めたかと思うと、伸ばしていた手で希佐の手首を掴む。

「今まで、どこで、誰と、何をしてた?」

「……え?」希佐の手首を締め付けるように、アランの手の力が強くなるのが分かる。「どうして、そんなこと──」

「答えて」

「……ヘスティアでメレディスと話してた」希佐は咄嗟にそう答えていた。「アラン、痛いよ」

「他には」

 外の風よりも冷たい、ぞくりとするほどの冷ややかな眼差しを向けられて、希佐は小さく息を飲む。握られている手に力が入らなくなって、手にしていたスマートフォンが音をたてて床に落ちても、アランは睨むことをやめなかった。

「……どうして、そんな怖い顔をするの」

「君が本当のことを言わないから」

「私がどこで誰と会っていたってアランには関係ない」

 売り言葉に買い言葉とはこのことを言うのだろう。昨夜の腹立たしさはまだ健在で、このような状況下ですら反抗心を燃やしてしまうほど、自分の心は未だにこの男を許してはいないのだと、希佐は理解した。

「ねえ、離して」希佐は毅然とした態度でそう言った。「アラン」

 小さく舌を打ったアランは、希佐の手首から手を離すと、いつものようにPCに向き直る。冷めやらぬ怒りを鎮めようとしているのか、深い呼吸を何度か繰り返した後、ごめん、と小さく謝った。

「君は何も悪くない。君がどこで誰と会っていても、俺にはそれを詮索する権利も、資格もない。俺は、俺は……」

 アランはそう言って希佐から顔を背けると、結んでいた髪を解いて、その表情を隠した。

「……俺は、もう君には必要のない存在なのかもしれない」

「待って、何を言って──」

「君はもう一人でもやっていける。俺の助けなんて必要としてない。昨日の独り芝居でそれを証明した」

「そんなことない」

「君のことを思うと平常心を保っていられなくなるんだ」

「……どういう意味?」

「君を見ていると自分が惨めでたまらなくなる」

 希佐は一瞬自分の耳を疑った。心臓が一気に血液を送り出したせいで、強い目眩を感じる。気が遠くなりかける意識を寸前のところで引きずり戻し、ゆっくりと息を吐き出した。

「ずっと、そんなふうに思っていたの?」

「ずっとじゃない」でも、とアランは続ける。「君の独り芝居を観て、それがはっきりした。前からそんな気はしてた。君が何か大きなことを決断するたびに、俺は君の行動力と自分の器の小ささに辟易してたんだ。君が成功を一つずつ重ねていくたびに、無益な自分に嫌気がさしてた」

「……嘘でしょ」

「俺は自分が有益な存在だと証明するために君を利用してた。君の手助けをしているうちは、自分が誰かに必要とされていると、そう思えたから」

 違う、そうじゃない、そんなんじゃない──否定の言葉が次々と頭に湧いては消えていく。今は何を反論してもこの人の心まで届かないような、そんな気がして、反論をする気すら起きなかった。

「考えてみれば、最初からそうだったよ。俺は嫌がる君を無理やり劇団に連れ込んで、こんなボロいスタジオに住まわせて、その上仕事まで工面して、何かをしてやった気になっていただけだ。俺は今までずっと、君をどうにか繋ぎ止めようと必死だった。俺に可能なかぎりの手を尽くして、君を必死に輝かせ続けた。だけど、君が輝けば輝くほど、俺はどんどん暗闇のどん底に沈んでいった」

 こんなにも才能に溢れた人が、一体何を言っているのだと、希佐はそう思わずにはいられなかった。だが、アランの気持ちも分かるのだ。この人はきっと、他者の才能を見抜く力は持っていても、自分の才能を認めてやれるだけの自己肯定感がない。自分に対する不安や不満、不信感ばかりが優ってしまい、才能が霞んで見えなくなっているのだ。

「分かってたはずなのにな、最後には誰もいなくなることくらい」

「アラン……」

 希佐は、手の平で額を覆い、項垂れるような格好になったアランの肩に触れようとした。しかし、その手を振り払われるかもしれないと思うと、急に恐ろしくなって、震える拳を握り締めることしかできない。

「カオスの連中はいずれ全員が独り立ちする。バージルは元々ここを必要としない孤高のダンサーで、ジェレマイアは怪我が治って自由の身だ。ノアは学者になると言っているし、アイリーンやイライアスはとっくに俺の下から巣立っていった。君だってそうだ。今度の舞台を最後に、俺の手の届かないところに行く」

 好きにしたらいいと言ったのはどの口だと言い返せなかったのは、項垂れるアランの姿があまりに悲痛で、確かに惨めで、これ以上打ちのめされている姿を見たくないからでもあった。

 それなのに、この人はあまりにも的確に、希佐の地雷を踏み抜いてくる。幻滅させるような言葉を吐き出して、取り返しのつかなくなりそうな方向へと推しやっていく。

「今の俺はきっと、君なしでは生きていけない」

「やめてよ」

「事実だ」事実なんだ、と続く声が、酷く弱々しい。「だけど、君は俺がいなくても生きていける」

「それは、あなたが──」

「そうなるように導いてきた」アランは希佐の言葉を先回りして言う。「君がどこへ行っても舞台を続けていけるように、導いてきたんだ。それなのに、君は舞台を降りると言う。俺が何よりも許せないのは、そんな愚かな決断をしようとしている君を、引き留められない自分自身だ。君は辞めると言ったら辞める。だから、本当はこんなことを言いたくない。君にとっての最後の舞台を最高の幕引きにしてやって、最高の舞台人生だったって言ってくれたら……それで、君が笑顔で故郷に帰っていくなら、俺は幸せだって、そう言ってやりたかったのに」

 いつだって飄々としているこの人は、ときどき弱った姿を見せることはあっても、ここまで持ち崩していたことは一度としてなかった。

 もしかしたら、今度は自分がこの人の地雷を踏み抜いてしまったのではないかと、希佐は思う。だが、希佐が口を開く前から、アランの様子は妙だった。

 本当は自分にも余裕などないというのに、この追い討ちをかけるような仕打ちは、希佐の心にひび割れを入れる程度には衝撃的だった。

 どうにかしようにも、今は無理だと希佐は思う。この腕を差し伸べて、抱き締めることすら躊躇われた。そうすることで、諸共奈落の底に落ちていってしまうような、そんな予感がする。

「……私は今、自分のことだけで精一杯なんだ」希佐は自分の声が震えていることに気づいていながらも、先を続けた。「アランも、同じなんだと思う」

 痛みを覚えるくらい強く下唇を噛み、希佐は今にも泣き出しそうになる感情から、必死に意識を逸らそうとしていた。

「今の私には、あなたの思いまで背負う余裕はない。本当は助けてあげたいけれど、私ではあなたを助けてあげられない」

 自分の言葉がまるで残酷な死刑宣告のように、アランの耳に届いているのではないか。突き放されていると、そう感じているのではないか。だが、そうではないのだ。今ここで、目の前に立ちはだかる壁から逃げ出してしまったら、もう二度と同じ場所には戻れなくなることを、希佐は知っている。

「私、知っているの、この感覚。どこまでも落ちていく寸前の、嫌な感じ。私たちは、これ以上進んだら引き返せないところまで、分け入ってきてしまった。ここから引き返す方法は、もう誰にも分からない。自分自身で見つけるしかない」

 だから、今は突き放すしかない。互いが互いの道を見つけ出すまでは。自分の納得する答えを見つけ出し、一人で歩き出せるという確信を持てるまでは。立花希佐がアラン・ジンデルを、アラン・ジンデルが立花希佐を、必要としなくなるまでは。

「バージルが言ってた。私たちは共依存してるって」項垂れていた身を起こし、アランが分厚い前髪越しに希佐を見た。「私たち、お互いに分かってる。このままじゃいけないんだって。だから悩んでる。こんなに苦しんでる」

 本当はつらい。つらくてたまらないのだ。自分で見つけた、自分だけの居場所から抜け出して、その先にある世界になど行きたいとは思わない。でも、現状に甘んじてしまったら、満足してしまったとしたら、生きる意味を見失ってしまうから。だから、根雪を掻き分けて、無理やりにでも這い出して、次の光を求めにいく。きっと、その場所にもこの人はいてくれるはずだと、そう信じているから。

「カオスのみんなが独り立ちをするのだとしても、あなたがそれを見送る立場である必要はないんだよ、アラン。一緒に独り立ちをしたっていい。それに、親の下を飛び立った雛鳥が戻ってきてはいけない理由もない。あなたが声をかければ、みんなはすぐに帰ってきてくれる。独り立ちをしたからって、独りで生きていけるようになるわけじゃない。みんなにはアランが必要なんだよ。もちろん、私にも」

「俺は……」

「今みたいに同じ場所に留まり続けていたら、置いていかれるのは当たり前。それが嫌だったら、追いかけていくしかない。歩いても追いつけないなら、走っていくしかない」

 この人は自分が何をするべきか分かっている。だからこそ、少しずつ前に進もうとしている最中だったはずだ。

 こんなことを言える立場ではないのにと思いながら、希佐はアランの緑色の目を真っ直ぐに見つめた。

「私はいつかあなたの前からいなくなる。そんなことは、初めから分かっていたんでしょう?」

「キサ……」

「あなたがなんて言おうと、私は自分の過去を清算できないかぎり、これきりで舞台を降りる。でも、だからといって、あなたが必要のない存在になるわけじゃない。だって、あなたは私の命の恩人で、何者でもなかった私を受け入れて、居場所をくれた人だから」

 これ以上は刺さらないくらいに深く、心臓にナイフを突き立てられている人間に、希佐はもっと深いところまで、その痛みを与えようとしているのかもしれない。だが、もしそうだったとしても、口にした言葉を今更なかったことにはできないのだ。

「私は、舞台の上で死にたい」

「……俺に君を殺せと言ってるの」

「私の命を救った責任を取って」希佐はアランの目の瞳孔が大きく開くのを、その目に見ていた。「アラン・ジンデル以外には、私を殺せない」

 もうずっと、ずっと前から、誰かが殺してくれるのを待っていた。この息の根を止めて、早く楽にしてくれる人が現れるのを、ずっと切望していた。舞台から舞台へと渡り歩きながら、相応しい人を探し続けてきた。決して満たされることのなかったこの心を、満たしてくれる人を、探し求めてきた。それが、希佐自身の生き続ける意味にも繋がっていた。

 舞台に立てば立つほど、経験を積めば積むほどに、希佐の理想は高く、誰の手も届かない高みへと向かって伸びていった。

 足りない。足りない。まだ、足りない。

 満たして。満たして。どうか、満たして。

 この夢が覚めてしまう前に、あなたの才能で私を殺して。

 

 

 

 それから数日間、スタジオでの日々は驚くほどいつも通りに過ぎていった。すべてとは言わないまでも、互いに腹に抱えていたことを言い合ったことで、すっきりした部分はあったのかもしれない。ただ、互いに体に触れ合うことも、一つのベッドで身を寄せ合って眠ることもなく、酷く歪な共存関係が平然と続けられていた。

 不思議なことに、田中右宙為はあれから毎日スタジオに現れ、希佐とイライアスの稽古を見学していた。日本からイギリスに戻ってきた加斎が、土産物を携えてスタジオにやって来たときも、そこには当然のように田中右の姿があった。

『──はあっ? えっ?』

 スタジオに足を踏み入れるなり手にしていた荷物をどさっと落とした加斉は、苦笑いを浮かべながら扉に鍵をかけている希佐を振り返った。

『なっ、なんで? どうして田中右先輩が──?』

『私に会いに来てくれたんだって』田中右がこのスタジオにいること自体に慣れ切ってしまっていた希佐は、呆れ半分でそう応じる。『玉阪座の舞台稽古があるから、本当なら日本に帰らないといけないらしいんだけど』

『あ、そういえば菅知先輩がそんなことを言っていたな。今度、玉阪座の若手だけで新作の舞台をやるって。でも、ちょっとした問題があって、稽古をはじめられないとかなんとか……』

『そのちょっとした問題が田中右先輩なんじゃないかな。彦を任せられてるって言っていたし、田中右先輩がいないと、本格的な稽古をはじめられないんだと思うよ』

『まあ、田中右先輩らしいと言えばらしいんだけど』

 お土産、足りるかな──と言いながら、加斉はアランがいる事務室の方へと歩いていった。当の田中右はといえば、加斉が姿を現しても別段驚いた様子も見せず、横目に一瞥をくれてやるだけだった。

 空港から真っ直ぐにやって来て、体が酷く凝り固まっているという加斉を誘って一緒にストレッチをしていると、ルイは時間通りにやって来る。その姿を目に留めるなり、せっかく解した体を再びコチコチに固まらせた加斉は、希佐に向かって説明を求める視線を投げかけてきた。

 ルイはすっかり顔見知りになった田中右に向かって、親しげにフランス語で挨拶をしているところだった。

『あ、あの人って、まさか、パリ・オペラ座の元エトワールの……?』

『そうだよ』希佐は加斉に日本語で答えてから、こちらに歩いてくるルイに挨拶をした。「Bonjour,Louis」

「Salut,Kisa」ルイはひらりと手を振ってから、希佐の隣に立っている加斉を見た。「彼は?」

「日本で通っていた学校の同期で、加斉中くんです。普段はブロードウェイで活躍している役者ですが、ロンドン公演で昨年からこちらに滞在しています。出演している舞台のロングランが決定しているので、まだしばらくはロンドンに──いるんだよね?」

 こくん、と言葉もなく頷く加斉に、今度はルイの紹介をする。

「この方は、パリ・オペラ座バレエ団で活躍されていた、元エトワールのルイ。今は、私とイライアスにダンスの稽古をつけてくださっているんだ」

『バージルのときも思ったけど、君ってダンスの先生に恵まれすぎじゃない?』

『私もそう思う』

「バージル?」突然の日本語に困惑したような顔をするが、ルイがバージルの名前を聞き逃すわけがなかった。「バージルがどうしまシタか?」

『加斎くんもバージルにタップダンスを習ったことがあるんです』希佐はフランス語で答えた。『彼が出演する舞台のタップダンスを、バージルが振り付けました』

『それは是非とも観に行かなくては』

『素敵な舞台でしたよ』

 そうして希佐がフランス語を話しているのを、加斉はどこか呆気に取られたような顔をして眺めていた。

 だが、せっかくだから一緒に稽古をしていかないかとルイに声をかけられると、加斉はその誘いに意気揚々と応じる。しかしながら、日本に帰っていた二週間ほどはあまり体を動かしていなかったらしい。最初のバーレッスンを終えた段階で、加斉の膝は微かに震えてしまっていた。

「稽古をはじめたばかりの頃のキサみたいデスね」ルイは笑いもせずに、そうダメ出しをする。「On dirait un faon nouveau-né.」

「え、今なんて……?」

「生まれたての小鹿みたい、だって」希佐も同じように言われたので、その言葉はよく覚えていた。「日本に帰っても稽古はしていたの?」

「実家に帰った何日かは軽く体を動かす程度だったけど、それ以外はユニヴェールの稽古場を借りたりして、ちゃんとやっていたつもりなんだけどなぁ」

「それなら、後輩たちへの指導の方が忙しかったんじゃない? 加斎くんはブロードウェイでも活躍しているし、学校に残っていたオニキス生はみんな、プロのダンスを教わりたがったでしょう?」

「それが、まあ、そうなんだよね」

 加斎はそう言って、どこか困ったような、照れているような面差しで、頭を掻いていた。

 スペンサーのところに挨拶に行くからと、加斉はバーレッスンの疲れが抜けた頃に、スタジオを出ていった。田中右もそれを追いかけるようにして姿を消す。その背中に向かって、明日は土曜日だからレッスンはないよ、とルイがフランス語で伝えていたが、返事がないので正しく伝わったかどうかは分からなかった。

 ルイの稽古にも随分慣れてきた希佐だったが、さすがに三日目の終わりの頃には疲労も膨らみ、体がずっしりと重たく感じられていた。いつもよりも念入りに稽古後のストレッチをしていると、歌のレッスンを終えたらしいイライアスがスタジオに入ってくる。

 希佐が手を振ると、イライアスは軽く手を振り返してから、こちらに向かって歩いてきた。

「ルイは?」

「向こうでアランと話してる」希佐は股関節の辺りをほぐしながら答えた。「今日はどうだった?」

「ダンスみたいに感覚で歌うなって言われた」イライアスはその指摘が気に入らなかったらしい。僅かに眉を顰めて、不服そうな顔をしている。「でも、考えながら歌うと、考えながら歌うなって言われる」

「そう言われると難しいよね」

 イライアスは希佐の言葉にこくりと頷くと、荷物を置いてくると言って、スタジオの隅の方へと歩いていった。帽子とマフラーを取り、背負っていたリュックを下ろすと、肩や首を回して周辺の筋肉を柔らかくしている。

『今の君とイライアスとでは釣り合いが取れない。彼の言う通り、互いに互いを殺し合うだけだ』

 アランに言われた言葉が、ずっと頭の中に引っかかっている。カオスの公演では何度も組んで一緒に踊ってきた相手だ。パートナー歴は長い方だろう。だからこそ、なぜ今更になってそのようなことを言い出すのか、希佐にはその真意が分からなかった。だが、アランに言わせれば、イライアスはそれを分かっているのだという。

 分かっていないのは自分だけなのだと思うと、希佐は急に周りから置き去りにされたような気持ちになって、己の不甲斐なさに嫌気が差した。

 いつだって目の前には追いかける背中があった。その背中を必死になって追いかけていると、自分に足りなかったものが見えてきて、新たな課題が浮き彫りになる。ずっと、その繰り返しだった。課題を乗り越えていくたびに、自分にもこんなことが出来るようになったのだと、密かな喜びを覚えていた。

 希佐にとって、バージルやイライアスのダンス、アイリーンの歌は、超えられない壁のように高く聳え立っているものだった。彼らは希佐の手が届かない山の頂に立っている。だからこそ、ずっと追いかけていたい背中だった。それらを追いかけているかぎりは、自分は今より少しでも高い場所を目指して進んでいるのだと、そう思うことができたから。

 一体どうすれば、その釣り合いというものを取り戻すことができるのだろう。互いに互いを殺し合うことなく、生かし合えるようになるのか。その肝心なところを、誰も教えてはくれない。

 だからと言って、他者から与えられる回答を期待してるわけではなかった。自分自身でその答えを見つけ出さなければ、何の意味もないということは、希佐にも分かっている。

 ルイとイライアスが帰り、風呂に入ったあとは、アランと向かい合わせに座って夕飯を食べた。交わされる会話は、至って当たり障りのない、今日一日の成果を互いに報告し合う程度だ。意見を求め合うこともなく、一方的に話をするだけですべてが完結する。

 ただ単なる喧嘩をしているだけの方が、おそらくは健全なのだろう。何事もなかったかのような顔をして、平然と向き合っているこの状況は、あまりに異常だった。

 自分の部屋に戻って日記を書き終えた希佐は、大きく息を吐き出しながら室内を見回した。いつも小綺麗にはしているつもりだが、最近は物が増える一方で、たいして広くもない部屋の中がより狭くなりつつある。本棚からは本が、クローゼットからは洋服が溢れ出して、床に積み上げられている状態だ。

「……片付けようかな」

 あとはもうベッドで横になって眠るだけだ。この際、いらないものはすべて処分して、部屋の中をすっきりさせてしまおうと希佐は思い立った。もう読まない本や、もらったまま一度も着ていない洋服がたくさんある。捨ててしまうのは気が引けると溜め込んでいては、いつまで経っても片付かない。

 希佐は台所の棚からゴミ袋を取ってくると、今度は身に着ける機会がなさそうな洋服を、その中に詰め込んでいった。元々、洋服はそんなに必要がないのだ。普段着と練習着、よそ行きのドレスが何着かあれば事足りる。コートも春と冬で二着ずつあれば十分だった。

 スマートフォンでフランス映画を聞き流しながら、クローゼットの中身を引っ張り出す。何年も履き続け、靴底が剥がれかけているブーツを睨み付けて五分、これは修理に持っていこうと元の場所に戻しておいた。

 結局、ゴミ袋二つ分の洋服を処分することにした希佐は、それを抱えて部屋の隅まで運んでいく。ダブリンを出てくるとき、本と洋服のほとんどは教会に寄付をしてきたのだが、これはどうするべきなのだろう。明日になったらロバートに聞きに行こうと思いながら、今度は本棚に目を向けた。

 何度も読み返す本は、本棚の手に取りやすい場所に入れてある。一番上の段や足元などの低い場所にある本は、一度読んだきり、二度と手に取っていないものも多い。舞台関連の本は、今のところは読み返す予定がなくても、手放すつもりはなかった。英語になれるために古本屋で買った小説などは、もう必要ないだろう。

 そのとき、不意にドアがノックされた。耳に聞こえてくるフランス語をぼんやりと繰り返しながら本の選別をしていた希佐は、反射的に返事をしてしまう。酷く散らかっている部屋を見渡して苦笑いを浮かべていると、そんなことはお構いなしにドアが開かれた。

「キサ、ちょっと話が──」

 ガチャリ、と開かれたドアの向こうから、アランが部屋の中を覗き込む。両手に一冊ずつの本を持っていた希佐は、その格好のまま肩越しに後ろを振り返った。

「何のお話?」

「……君、なにしてるの」

「何って、部屋の片付けだけれど」

「こんな時間から?」

「こんな時間にしかできないから」振り返ったアランの表情がどこか唖然としているように見えて、希佐は首を傾げる。「話って?」

 一冊は本棚に戻し、もう一冊は机の上に置いて、希佐はドアの前に立っているアランのところまで歩いていった。アランは室内に向けていた視線をゆっくりと滑らせ、目の前にいる希佐を見下ろす。

「明日、何か予定ある?」

「ううん」

「スペンサーが午後から劇場の下見に付き合って欲しいと言ってる」

「私に?」目を丸くする希佐を見て、アランは頷いた。「それは構わないけれど、どうして私なの? それに、下見って?」

「予定していた劇場が借りられるかどうか分からないから、いくつか候補を考えてる。明日はそのうちの一つを見に行くんだけど、君の声で響きを確認したいって」

「そういうことなら、うん、分かった」

「……そっちの袋は?」

「え? ああ、これは着なくなった洋服。このまま処分するか、寄付をするか考えていたところ」希佐は短くそう答えてから、すぐに話を戻した。「それで、私は午後何時にどこに行けばいいの?」

「劇場まではジョシュアが連れて行ってくれる。二時までに行けば間に合う」

「午後二時までに、ジョシュアのスタジオ──」希佐はベッドの上でフランス映画を上映し続けていたスマートフォンに駆け寄り、それを手に取ってスケジュール用のアプリに予定を書き込んだ。「分かった、忘れずに行く」

「俺も劇場には行く予定だけど、明日は午前中から別件の用事があって、出掛けないといけない」

「そうなの? 珍しいね」

「ここは君一人だけになるけど、大丈夫?」

「うん」

「戸締りだけは気をつけて」

「子供じゃないんだから、大丈夫」そう言って笑う希佐を、アランはどこか物言いたげに見ている。「もう三年も前のことだよ、アラン。心配してくれるのは嬉しいけれど、本当に大丈夫だから」

「……そう」

「うん」

 ああ、見えない壁を作っているのは、自分の方だ──希佐はこのとき、強くそう感じた。こちらに踏み込んでこようとしている足から逃れるように、近づいてきた分だけ、自分を後退させている。

 希佐は以前にも同じことをした。平然を装い、いつも通りに振る舞い続けた挙げ句の果てに、その人の前からふらっと消えた。そのときは、そうすることが最善だと思い込んでいた。だが今は、それが間違った方法であるということを理解している。

「話はそれでおしまい?」

「うん」

「じゃあ、私は片付けに戻るね」

「キサ」

「ん?」アランに背を向け、本棚を眺めながら返事をする。「なに?」

「……いや、おやすみ」

「おやすみなさい」

 そうやって飲み込んでしまった言葉の数々を、本当は聞かせてほしい。一体何を伝えようとしてくれていたのか。何もかも、すべてが手遅れになってしまう前に。

 

 

 翌日、アランは朝食を終えてすぐに、小綺麗な格好をしてスタジオを出て行った。洗濯した衣服の中から適当に選んだものを着てどこへでも行く人が、妙に着飾って出ていくのを複雑な思いで見送った。

 希佐はいつも通りのルーティンをこなし、少しだけフランス語の勉強をしてから、約束の時間よりも早くスタジオを後にする。

 ジョシュアのスタジオにある小さな自習室は、いつでも好きに使っていいと言われているので、そこで少し声を出してから劇場に行こうと考えてのことだ。声の響きを確認したいと言っているからには、何か歌ってくれと頼まれるかもしれない。軽くでも喉を温めておいた方がいいだろう。

「こんにちは」

 希佐がスタジオの扉を開けて入っていくと、受付のカウンターでランチを食べていたアシスタントが、大急ぎでサンドイッチを紙袋に押し込もうとした。しかし、入ってきたのが希佐だと気づくと、ほっと安堵した様子で息を吐く。

「自習室を使わせてもらいたいのですが」

「ええ、いいですよ」

「ジョシュアはレッスン中ですか?」

「いえ、今日は別件の仕事を──」喉にパンくずでも引っかかってしまったのか、アシスタントは大きく咳払いをした。「舞台音楽の編曲作業中です」

「そうなんですね」それなら邪魔をしない方がいいだろうと思い、希佐は近くの店で買ってきたコーヒーを二つ、カウンターに置いた。「これ、差し入れです」

「わあ、いつもありがとうございます」

「それと、お店の人がクッキーをおまけしてくれたので、よろしければ」

「えっ、私がもらっていいんですか?」

「どうぞ」コートのポケットから取り出した大きなざっくりとしたクッキーを、希佐はアシスタントに手渡した。「じゃあ、自習室をお借りします」

「はい」

 クッキーを受け取ったアシスタントは嬉しそうにほくほくとした笑みを浮かべながら、狭い廊下の先にある自習室に向かう希佐の背中を見送った。

 ここの自習室は本当に狭い。電子ピアノを置くスペースはかろうじて確保されているものの、まず椅子を置く場所がないので、この部屋では座ることもできなかった。一人ならば多少のゆとりはあるが、二人になれば窮屈だ。ただ、防音設備だけは完璧なので、どれだけ大きな声を上げたところで外には聞こえないようだった。

 希佐は抱えていたバッグを下ろし、マフラーを外してコートを脱ぐと、電子ピアノの電源を入れた。一つ一つの音を確認しながら、ゆっくりと喉を慣らしていく。男性役を演じることは少しずつ減ってきてはいるが、自らが出すことのできる最低音から、半音ずつ丁寧に、最高音まで。

 今日は喉の調子が良いようだと思いながら、バッグの中から楽譜を取り出そうとしていると、不意に扉が開かれた。希佐が扉の方に目を向ければ、コーヒーの入った大きな紙コップを手に持ったジョシュアが、こちらを覗き込んでいた。

「やあ、キサ。コーヒーをありがとう」

「こんにちは、ジョシュア」

「自主練習とは精が出るね」

「スペンサーさんがホールの響きを確認したいと話していたそうなので、少し声出しをしておいた方がいいかなと思って」

「ぼくの仕事は一段落ついたから、向こうで見てあげようと思って呼びにきたんだ」

「いいんですか?」

「もちろん」嬉しそうに足元の荷物を抱え上げた希佐を見て、ジョシュアは少しだけ笑う。「ピアノの電源はちゃんと落としてね」

「はい」

 前を歩くジョシュアの後ろを追いかけながら、希佐は考える。この人も以前は舞台人だったのだ。だが、今はこうしてボイストレーナーとして、後進を育てる仕事に従事している。年はまだ若い。演技力については分からないが、歌唱力についてはアランのお墨付きだ。しかし、そのアラン・ジンデルの存在が、この人を舞台から遠ざける大きな要因の一つとなった。

 いつものレッスン室に入り、ジョシュアの指示通りに声を出す。言われた通りに歌う。自分でも、自分の歌が少しずつ良くなっているのが分かる。それなのに、なぜか心が満たされない。満足ができない。その理由が、分からない。

「うーん」ピアノを弾いていた手を止め、ジョシュアが悩ましげに声をあげた。「君、今何を考えてた?」

「え?」

「何を考えながら歌ってた?」

「……なにも」嘘を言っても仕方がないと思い、希佐は自らの過失を素直に認めた。「すみません」

「怒ってるわけじゃないから、勘違いしないで」

 ジョシュアは軽い口振りでそう言うと、譜面台に乗せていた楽譜を閉じながら、椅子に座るよう希佐に目配せをした。

「ぼくも観に行けばよかったな、君の独り芝居」

「映像データなら──」

「映像は観たよ、もちろん。ただ、舞台は生で見てこそ、その真価を発揮するとぼくは信じているんだ。君と一緒に仕事をしたのは結構前のことだし、それから今まで、君は切れ目なく舞台に立ち続けてきただろう? だから多分、君はぼくの知っている君ではなくなっていると思うんだ。それを見て、認識を改めておきたかったんだけど」

「何も変わったところはないと思いますが」

「まさか」ジョシュアは信じられないというふうな顔をして、大きく頭を振る。「君の歌唱力は間違いなく伸びているよ。バージルに連れられて来た頃と比べたら、雲泥の差──とまでは言わないけど、誰が聞いても分かるくらいには上達してる」

「そうなんでしょうか」希佐はそう言われても腑に落ちない。「自分ではよく分からないんです」

「……君、もしかして現状に疑問を持っているの?」

「疑問、ですか?」

「自分が今置かれている状況に対して思うところがあるとか、環境の変化についていけなくて困惑しているとか、自分自身の評価と周りからの評価に大きな差異を感じているとか」

 違うと否定することもできずに黙り込んでいる希佐を見て、ジョシュアは「なるほどね」と言って僅かに神妙な面持ちを浮かべた。

「キサは、自分に対する周囲の反応に疑念を抱いているんじゃない? 過大に評価をされているとか、過剰に称賛されているとか、そういうふうに感じているのだと思うけど、違う?」

「……そう、なんだと思います」

「違うなら違うでいいんだよ」

 ゆるゆると首を横に振る希佐を見て、ジョシュアはただ、うん、と頷いて、話し出すのを待ってくれていた。

「……自分の才能というものが、私にはよく分からないんです」

「もう少し詳しく話してくれる?」

 ジョシュアは鍵盤にフェルトの覆いを掛けると、そっと蓋を閉める。希佐はその様子をぼんやりと眺めながら、漠然としたイメージを表現するための言葉を探していた。

「アイリーンには歌の才能があって、イライアスにはダンスの才能があります。周囲から天才と称されるほどの才能です」

「そうだね」

「アランにだって、数々の名作をこの世に生み出してきた才能があります。歌って、踊れて、お芝居もできた──万能の天才です」

「キサは舞台に立ってるアランの姿を見たことがある?」

「ありません」

「見たい?」

「え?」

「見られるよ」どこだったかな、と言いながら立ち上がったジョシュアは、大量の楽譜が収納されている棚の引き出しを開けに向かった。「2010年くらいの映像かな。本当は撮影禁止だったんだけど、こっそり撮ってたんだ。バレていたとは思うんだけど、子供だったから目溢しをしてもらっていたのかも」

 あったあった、と取り出して来たのは、一枚の白いディスクだった。スマートフォンで撮影したデータを焼いたものらしい。何年も前の映像だから画質は粗いけれど、と言いながら、ディスクをサイドテーブル上のノートPCにセットしている。

 素早く飲み込まれていったディスクを見届けてから、希佐は困惑の面持ちでジョシュアの横顔を見やった。まだ見るとも見ないとも言っていない。それなのに、ジョシュアは希佐が何と答えるかなど分かりきっているという顔で、ノートPCの画面をこちらに向けて来た。

「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ、怖いものじゃない。劇場の一番後ろから撮ってるから、観客の頭で演者の顔もよく見えないし、声も割れてる」

 自動で再生されてしまった映像に、希佐はそっと薄目を向けた。映像は確かに荒く、手振れがあって、舞台を純粋に楽しめるような状態ではない。ざあざあと雨が激しく降っているような音も聞こえている。

「この日は天気が悪かったんだよね」そう言いながら、ジョシュアは少しだけPCの音量を上げた。「ぼくはアランの歌をもう一度聞きたくて、この公演を二日連続で観に行ったんだ。バイトの給料日前で、財布にチケット代も残っていなかったから、親に金を貸してくれって頼み込んだよ。だけど、肝心の当日券がぼくの目の前で完売しちゃってね。でも、どうしても観たかったから、立ち見でもいいからお願いしますって拝み倒したんだ」

「それで入れるものなんですか?」

「普通は無理じゃないかな」ジョシュアは当時のことを思い出しているのか、ふふ、とおかしそうに笑う。「チケット代を握りしめて、受付のスタッフを拝み倒していると、ラッキーなことに、丁度良く座長のメレディスが通りかかったんだ。彼はぼくの話を聞いたあと、二つ返事で了承して、劇場内に通してくれた。チケット代を渡そうとしたら、それは親に返しなさいってさ」

「メレディスらしいですね」

「ぼくは変な人だなって思ったけど」

 もうすぐだ、とジョシュアは言う。希佐は小さく息を吐くと、意を決して画面と向き合った。いつかこういう瞬間が訪れると想像してはいたのだ。だから、心の準備は整っている。

 画質は荒く、音声も悪い。十年以上前のスマートフォンで撮影しているのだから、それも当然だろう。だがしかし、ノートPCのスピーカーから聞こえてくるその歌声は、そうした機械のお粗末な性能すら凌駕するほどの、圧倒的な才能を感じさせるものだった。

 何列にも及ぶ客席の、観客たちの頭が邪魔で、舞台の上の様子はほとんど映し出されてはいなかった。聞こえてくるのは、降り止まない雨の音と、ピアノの音色と、その歌声だけだった。

 男とも女ともつかない、高くも低くもない、透明なようで間違いなく歌っている本人の色がある、艶があるようで少し掠れた、唯一無二の歌声が、スピーカー越しに聞こえてきていた。少年と青年の狭間にある、変声期前の声とも違う、大人になりかけている子供の声が、劇場全体を包み込んでいるのが分かる。

 それはまるで美しいオペラの一幕のような、悲壮的なレチタティーヴォから、叙情的なアリアへ。神様ですらこの歌に酔いしれているように、外の雨足が弱まっていく。

 スポットライトなど必要ないのではないか。微動だにしない観客たちの頭の間から時折垣間見えるその姿は、ただそこにいるだけで光り輝いている。この世のものとは思えない、神の芸術品だ。

「君が知っているアランの才能なんてほんのごく一部なんだよ」

 ティッシュを箱ごと顔の前に差し出されてはじめて、希佐は自分が涙を流していたことに気づいた。暗転し、何も映し出さなくなった画面には、みっともなく表情を歪ませている自分自身の顔が鏡のように映っている。

 何度だって聞きたくなる歌声だった。だが、その歌声を聞いたのと同じ数だけ、心が打ちのめされる。マーラーのハンマーで頭を打ち付けられるような、身が竦んでしまうほどの衝撃が、未だに全身に駆け巡っている。

「アラン・ジンデルはとてつもない才能を持っている。君が言うように、彼は万能の天才だよ。でも、だからこそ、彼はいつだって孤独だった。天才故の苦悩ってやつを、誰にも理解をされなかったから」

 ジョシュアは壁掛けの時計で時刻を確認すると、希佐の方に向けられていたノートPCからディスクを取り出し、それを片付けはじめた。

「通常、舞台に立つ人間は内面に目を向けられることが少ない。役者個人の熱烈なファンともなれば話は別だけれど、多くの舞台ファンにとっては、目に見えるもの、耳で聞こえるものがすべての世界だ。役者が良い演技をしてくれさえすれば、他はどうだって構わない。グレアム・メイヒューが良い例だよ。ああ、いや、あれは悪い例なのかな」

 電源を落とさないまま画面を閉じたノートPCを、ジョシュアは革のケースの中に押し込んだ。それを足元に置いていたバッグの中に入れると、ピアノの上に投げ出されていた腕時計を右手に巻く。

「約束の時間まではまだ少し余裕があるから、ちょっと寄り道をしていこうか」

「どこに寄っていくんですか?」

「才能が目に見える場所だよ」

 準備をしてと言われた希佐は、急いでコートを羽織り、ぐるぐるとマフラーを巻いた。譜面台の上で閉じられていた楽譜をバッグの中に入れると、先にレッスン室を出ていたジョシュアの跡を追いかける。

「今日はもう帰っていいよ」ジョシュアはアシスタントにそう声をかけていた。「戸締りの確認だけよろしくね」

「はい」

「おつかれさまでした」

 スタジオを出ていく間際に希佐がそう声をかけると、アシスタントは嬉しそうに笑って、軽く会釈をした。

 二人がスタジオを出て行くと、目の前の大通りに丁度よく流しのタクシーが通りかかる。ジョシュアが軽く手を挙げると、タクシーは少し進んだ先で停車した。

「セント・パンクラス駅までお願いします」

 希佐を先に乗り込ませ、自身もそれに続くと、ドアを閉めながらジョシュアが行き先を告げる。運転手は「かしこまりました」と丁寧に応じ、ジョシュアが席に座るのを確認してから、タクシーをゆっくりと発車させた。

「セント・パンクラス駅ですか?」

「そうだよ」

「劇場までは電車に乗って行くんですか?」

「いいや、これから行く劇場は真逆の方向にある」

「じゃあ、どうして……」

「それは到着してからのお楽しみ」

 タクシーの運転手は混雑していない道を選んで、すいすいと車を走らせ、二人を駅まで連れて行ってくれた。ジョシュアはスマートフォンを翳して料金を支払うと、先に外へ出て、希佐に向かって手を差し出してくる。その手に掴まってタクシーの外に出た希佐は、ロンドンに長く住んでいながらも、一度も利用したことのない大きな駅を見上げて、無意識に感嘆の息を漏らしていた。

 国会議事堂のような大きな建物に、時計塔がそびえ立っている。まるで城のようだと思っていると、既に先を歩き出していたジョシュアが、行くよ、と声をかけてきた。

 希佐は、たくさんの人々が出入りしている正面入り口から、構内に足を踏み入れた。週末ということもあり、人の往来は多いようだ。気をつけて歩かなければ肩と肩がぶつかってしまいそうになるが、人々は互いに関心などない様子で、脇目も振らずに自らの目的地に向かって歩いていく。

 何も言わずに進んでいくジョシュアの後ろについていくと、ある瞬間、どこからかピアノの音色が聞こえてくるのが分かった。

 とても開けた空間の両側には、カフェやアパレル、雑貨店などの商業店が軒を連ねている。その間を、一人でトランクを引っ張って歩く人もいれば、家族連れ、カップル、様々な年齢層、様々な肌の色の人々が、足早に行き交っていた。

 その中に、ぽつん、と一台のアップライトピアノが置かれていた。一人の青年がピアノの前に座り、誰でも聞いたことがあるほど有名なポップスソングを演奏している。

「さあ、ここに座って」

 ジョシュアはピアノから少し離れた場所にあるベンチに腰を下ろすと、希佐をその隣に座らせた。言われるがままに座った希佐は、ジョシュアと同じように、ピアノを弾いている青年の方に目を向けた。

「この駅にはストリートピアノが二台あるんだけど、あそこで男性が弾いているピアノは、著名なミュージシャンが寄付したものなんだ。誰でも自由に弾くことができる」

「そういうピアノがあるのは知っています」

「ああやって、毎日何人もの人があのピアノに触れていく。ピアノを寄付したミュージシャンのファンや、この駅を訪れた記念に弾いていく人、次の電車が来るまでの暇潰し、ただの目立ちたがり屋の度胸試しとか、まあ、動機はそれぞれだよね」

 青年の周りには、二、三人の人が集まって、ピアノの演奏に耳を傾けていた。だが、人々はすぐに興味を失った様子で顔を背け、トランクを引っ張ってどこかへと歩いていく。間もなくすると、青年の周りからは人々が次々と消え去って、寂しげな演奏が構内に響くだけになってしまった。

「残酷でしょ?」ジョシュアが演奏を聴きながら言った。「こんなに大勢の人たちが周りを歩いているのに、誰も自分の演奏に興味を持ってくれない。それが目に見えて分かってしまう」

「……だから、才能が目に見える場所なんですか?」

「うん」ジョシュアは希佐を横目に一瞥してから、演奏を終えて立ち去ろうとしている青年の背中を見やった。「下手な演奏をすれば、それを鼻で笑っていく人がいる。弾き語りをしていく人も少なくはないけれど、それを最後まで聞いてもらえるのは稀なことだ。たった五分という時間ですら、聴く人の心を引き止めて、その場に釘付けにすることは酷く難しい」

「ジョシュアもここで演奏したことが?」

「何度かね」

「最後まで聞いてもらえましたか?」

「ほんの何人かに」

 次の人が椅子に座り、辺りをきょろきょろと見回してから、有名なクラシックの曲を演奏しはじめた。友人か、恋人か、それとも家族か。その女性に寄り添うようにして、一人の男性が立っている。にこにこと笑って演奏を聞くその姿は、とても微笑ましいものだった。

「人の注目を集めたければ、それなりに方法はあるんだ。誰もが知っている有名な曲を演奏するだとか、超絶技巧を披露するだとか、いろいろとね。一時の注目を集めたいだけなら、もちろんそれで十分なんだと思う。でも、ぼくたちのような仕事をしている人間には、それだけでは不十分なんだ。演奏自体はたどたどしくたって、そこに感情を入れられる方法を知っている人の方が、ずっと価値のある音楽を奏でられる」

 このセント・パンクラス駅で、名前も知らない、思い出そうとしても顔さえ覚えていない誰かの演奏を聞いた人間が、夜の帳が降りてベッドに横たわったとき、不意に思い出す。暗闇の中で天井を見上げながら、頭の中で鳴り続ける音楽の余韻に酔いしれてもらえるような人が、本物の才能を持った人間なのかもしれないと、希佐は思った。

「ぼくはね、あの日聴いてしまったアラン・ジンデルの歌声に、今もまだ囚われ続けているんだよ」

 何人もの人々が、代わる代わるにピアノを弾いていく。だが、その誰もが人の目を引くことすらなく、ピアノの前を離れていく。その様子をぼんやりと眺めていたジョシュアが、スタジオで話していたことの続きを、ぽつり、ぽつり、と語ってくれた。

「もう一度聴きたいと思ったのは、もしかしたら何かの間違いかもしれないと思ったからなんだ。そんなはずがない、このぼくが自分以外の誰かの歌に魅了されるはずがないってね。でも、二度目に聴いたときの方が、一度目なんかよりもずっと圧倒されて、才能の暴力を振るわれたように感じられた。だけど、もしかしたら神様か何かの悪戯で、ぼくなんかにもあんなふうに歌える日がやって来るんじゃないかと思って、何年かは必死に努力したんだ。まあ、結果は知っているよね。ぼくは、彼が最後に立った舞台を観て完膚なきまでに打ちのめされて、舞台から降りる決意をした。歌も、ダンスも、芝居も──あの舞台は、脚本も演出も全部、アラン・ジンデルが手掛けたものだったんだ。それを聞いたらもう、ぼくの心はぽっきり折れてしまって、舞台に立つ情熱なんてすっかり失われてしまったんだよね」

 何でもないことのように、ジョシュアは淡々と話をしている。遠い過去の思い出として、既に自らの中で消化し終えた問題なのかもしれない。それでも、ここではないどこかを見つめるように、懐かしそうに細められる眼差しが、どこか切なそうにも感じられた。

「あのね、キサ」

「はい」

「才能なんてものは、所詮自分以外の他者から与えられる称号のようなものなんだよ。自分には才能があるなんて嘯いているような人もいるけど、そういう人たちはある程度のところまでは上り詰められても、多分頂点は目指せない。必ずどこかで躓いて一気に転がり落ちてくる。だからこそ、ぼくは君のスタンスが好きなんだ。君は常に自分自身の才能を疑っていて、驕ることもなければ、努力を怠ることもしない。この世界には、自分の才能を自覚することが必要な人もいれば、それを自覚しないまま、ただがむしゃらに突き進んだ方がいい人だっているんだ」

「私は自覚をしない方がいいということですか?」

「少なくとも、アラン・ジンデルはそんなふうに考えていたんじゃないかな」直接本人から聞いたわけじゃないから何とも言えないけど、と言って、ジョシュアは続けた。「彼、これまでに君の歌や芝居を、諸手をあげて称賛したことがあった?」

 考えるまでもなく、答えはノーだ。希佐はすぐさま首を横に振った。

「いつもは悪くなかったと言ってくれます。もっと詳しく聞きたいと言えば、事細かに教えてくれるんですけど、大抵の場合はダメ出しが多かったです」

 綺麗な箱の中に閉じ込めておきたい歌声だったと、そう褒めてくれたときの言葉は自分の心の中だけに留めておきたくて、希佐はあえて黙っていた。

「君が慢心する姿なんて想像することすらできないけれど、彼には特別な何かが見えていたのかもしれないね。例えば、君が自分の才能を自覚してしまうと、君にとって何かマイナスになることがある、とかさ」

 アランの考えていることは、未だによく分からない。でも、何か意図するところがあるのだろうと思い、深く尋ねることもしてこなかったし、希佐自身もそれで構わないと思ってしまっていた。アラン・ジンデルの考えることが、自分にとって不利に働くことがあるかもしれないなどとは、考えてみたこともなかったからだ。

「君と彼は存外似ているのだと思うよ」

「……はい」

「君たちは絶望の先にある光に向かって歌っているような感じがするんだ。でも、その光が何を意味するものなのかは、君たち自身にも分からない。だから、なんとなく尻込みをしてしまう。だって、綺麗に光っているからって、それが良いものとはかぎらないじゃないか。多分、アランはその光を見に行くことなく、舞台を降りてしまったんじゃないかな。だから、余計に不安なんだよ。その何か分からないものを目指して進んで行こうとする君を、そのまま進ませるべきか、引き止めるべきか、考えあぐねているのかもしれないね」

 舞台演出家の独り芝居を行ったあの日の夜から、今日という日まで、アランはずっと何かに悩み、考え続けているようだった。

 希佐はこれまでと同じように、そこに触れようとはせず、ただ見ないふりをし続けていた。今ある形を崩してしまうより、その形を保ったまま無知を装っている方が、ずっと楽だと分かっていたからだ。自分が見つけた、自分だけの居場所を壊してしまうことが、何よりも恐ろしかった。だから、ただ黙って、現状に甘んじていたのだ。そのあまりの居心地の良さに慣れすぎてしまったせいで、失うことが恐ろしくなってしまったから。

 だが、気づいたのだ。失うことを恐れていたら、何も成すことはできないのだと。それを捨て去る覚悟を持たないかぎり、前に進むことはできない。両手に握りしめたすべてのものを手放し、茨の道を裸足で歩いて行くことのできる者だけが、新境地へと脚を踏み入れることができる。

「そろそろ劇場に向かわないと約束の時間までに間に合わないね」

 右手に巻きつけた時計に視線を落としたジョシュアが言った。同時に腰を上げるが、希佐は隣に腰を下ろしたまま、今は無人になっているピアノに目を向けている。

 希佐には自分の才能が分からない。人の才能は他者から与えられる称号のようなものだと言われたところで、それが本当に正しいことなのかどうかも分からなかった。でも、ここが本当に人の才能というものを浮き彫りにする場所だというのなら、自分の力を試してみたいと思う。周囲の人々が口を揃えて言うように、自分には人に羨まれるような才能があるのかどうかを、確かめてみたいのだ。あの人の庇護下におらずとも、その力を発揮できるのだと証明したい。何よりも、自分自身のために。

 一台のピアノを睨むように見つめている希佐を見下ろし、ジョシュアはふっと息を漏らすようにして笑った。

「自分の才能を試してみる?」

「いいんですか?」

「いいもなにも、それを決断するのはキサ自身だよ。君がそうしたいと言うのなら、ぼくは喜んで手伝うけれど」

「やります」希佐は考えるよりも先に即答していた。「やりたいです」

「よし。じゃあ、やろうか」ジョシュアはピアノに向かって歩き出しながら言う。「当然だけど一発勝負だよ。そういうの、得意でしょ」

「はい、得意です」

「君のそういうところ大好き」ジョシュアは肩越しに振り返りながら面白そうに笑った。「選曲に悩んでいる時間はないから、今週の練習曲でいいよね」

「……分かりました」

 少しばかりの不安はあるが、あれこれと考えている時間はない。歌うと決めたからには、歌うのだ。そう思いながら軽く咳払いをしていると、その様子を見ていたジョシュアが口を開く。

「大丈夫だよ、キサ」

「なにがですか?」

「今の君になら歌える。そういう顔をしている」

「顔?」

「ぼくが見たところ、重力にだって逆らえそうな顔だね」

 ジョシュアは着ていたコートを脱ぐと、足元に置いたバッグの上にそれを放り、ニットの袖を腕まくりしながらピアノの前に腰を下ろした。希佐が肩にかけていたバッグの中から楽譜を取り出そうとすると、ジョシュアは首を横に振る。

「暗譜してる」

「ですよね」

「君には必要?」

「いいえ」

 三年前、ウィキッドを観に行ったと話をしたとき、あなたはエルファバよりもグリンダだと、アイリーンから言われたことがある。

 あのときは、確かにその通りだと思ったものだ。自分よりもアイリーンの方がエルファバには向いていると。何より、この歌を歌い上げられるだけの歌唱力が、当時の希佐にはなかったのだ。でも、いつかは歌ってみたいという憧れだけは、常に抱いていた。

 自分自身を鼓舞する歌。すべての重圧から解き放たれ、自分自身が選んだ道を突き進んでいくことを決意する歌。誰かが定めた限界など知ったことではない。重力すらものともせずに、限界のさらにその先へと飛んでいくのだと、高らかに宣言をする歌。

 希佐は足元にバッグを放ると、その場で大きく息を吸い込んだ。

 本当は少しだけ怖いのだ。もし誰一人として足を止めてくれる者がいなかったら。歌に耳を傾けてすらもらえなかったら。心ない言葉を投げつけられたら──などと、頭の片隅では考えてしまう。

 だがしかし、自分で自分の才能を認められる瞬間がもし訪れるのだとするなら、今このときを逃したらもう二度と、そのチャンスは巡ってこないのではないかと、希佐は思うのだ。

 劇場に足を運んだことすらないかもしれない人々の足をとめ、自分の歌を届けることができたなら。今夜、ベッドの中でこの瞬間のことを思い出し、ほんの少しでもその人々の心の中に何かの種を植え付けることができたなら、それが自分の才能なのだと、認めることができるのかもしれない。

 与えられるのは、たった一度きりのチャンスだ。ユニヴェールにいた頃からそうだった。そして、このロンドンにやって来てからも、そのチャンスを生かし続けてきた。

 たった一人でもいい。もし誰かが足を止めて、自分の歌に耳を傾けてくれたなら、きっと、その人が立花希佐の才能を証明してくれるはずだと、そう信じて。

「準備はいい?」

「はい」

 ジョシュアは譜面台に置いたスマートフォンの録画ボタンを押すと、ふう、と息を吐き出してから、傍に立つ希佐を見上げた。最後の確認をするかのようなその眼差しに小さく頷きかけると、ジョシュアは鍵盤に手を掛ける。

 五小節の前奏。その音色が奏でられている間に、すべてを投げ打つ覚悟を固めた。他の誰のためでもない。ただ、自分自身の価値を証明するために、歌うのだ。

 心の奥底から沸き立つものがある。それが歌声に乗って、体の外側に解放されていくようだった。ずっと、もうずっと、何年も前からたった一人で抱え込んできた呪いのような思いが、自らの歌声の中に溶け込んで、空気を大きく振動させている。

 抑圧の中で生きてきた。女であることを隠し、男であると偽って生きると決めたあの日から、自らに呪いをかけてきた。その後の人生のすべてを賭けてでも、夢を叶えたかったのだ。

 だが、約束の三年が過ぎ去っても、立花希佐の呪いが解けることはなかった。しかし、今思えばそれも自業自得だろう。後先を考えず、呪いを解く術も分からないまま逃げ出してきたのだ。呪いの元から遠ざかれば、きっと自由になれるだろうという、甘い考えを持っていた。

 いつまでこうして生きていけばいいのか。過去から逃げ続け、未来に怯えて、いつまで今を生きていればいいのか。

 途方に暮れてしまっていた。過去は決して変えられないと分かっているのに、すべての人の記憶から立花希佐という人間の存在を消して欲しいとすら、神様に願っていた。

 でも、少しずつ分かってきたのだ。今という時間は一瞬にして過ぎ去っていく。過去からは決して逃れられないし、未来は確実に迫ってくるものだ。この世界で生きているかぎりは、自らの過去を清算しなければならないときが必ず訪れる。

 どんなに願ったって、過去を変えることはできない。いや、変えたくなどない。あの夢の三年間があったからこそ、自分は今、ここにこうして立っていられるのだ。

 自らの過去は否定しない。否定したくなどない。きっと、こんなに素晴らしい人生は他にない。もし今死んで、再び生まれ変わったとしても、もう一度立花希佐の人生を歩みたいのだ。

 昨日も、今日も、明日もずっと、本当は、舞台の上でも、それ以外の場所でも、胸を張って生きていたい。何かに怯えることも、苦しめられることもなく、ただ、正しく呼吸をしていたい。もうこれ以上、何かの影に隠れて生きていたくはない。

 立花希佐は女だ。女の体で生まれてきた。だが、一体それの何が問題だというのか。男であろうと、女であろうと、そのどちらでもなかろうと、人間としての尊厳が認められているかぎりは、誰にでも自由に生きる権利がある。

 もしかしたら、過去の償いをすることなく生きてきた人間に、自由を語る権利などないのかもしれない。だが、自らの手でこの呪いを解いてやらなければ、立花希佐は永遠に暗闇の中を彷徨って、その先にある光を求めて歌うことしかできないままだろう。自らの過去と向き合うことも、未来へ向けて歩き出すことも、現在と決別することもできない。

 眩いばかりの光が、もうすぐそこに見えているのだ。手を伸ばせば届きそうなところまでやって来ている。だから、どうか許してほしい。その光が何なのかを、確かめさせてほしい。それが希望でも、たとえ絶望だったとしても、すべてを受け入れてみせるから。

 きっと、夢は叶う。チャンスに恵まれさえすれば。その夢に向かって、諦めることなく手を伸ばし続けられたなら。その夢が叶うのだということを、最後の瞬間まで信じ続けることができたなら。

 何も願わない者の夢が叶うことは絶対にないということを、希佐は知っている。目の前に聳え立つ高い壁だって、重力に逆らえば、それを飛んで越えていけるということも。

 もっと、もっと高く、その更に先にある、未だ到達したことのない頂まで、きっと飛んでいける。美しい景色を見に行ける。熱いくらいのスポットライトを浴びて、私はまだ輝くことができる。

 まだ終わっていない。まだ、終わらせることはできない。自らの手で掴み取った、最初で最後の夢を叶えるまでは、立ち止まることはできない。

 さよならのキスをして、この国から飛び立つ、その日までは。

 最後のロングトーンを歌い終わったその瞬間、希佐は吐き切った息を一瞬止め、取り戻そうとするように大きく息を吸い込んだ。その刹那、酷い耳鳴りがして、思わず眉を顰めてしまう。しかし、その理由が割れんばかりの拍手と、大歓声が原因だということに、僅かに遅れて気がついた。

 ピアノの周りには、驚くほどの人集りができていた。

 先程までは、人々が無関心に行き交うだけだった広い通路が、今は足を止めた人々で埋め尽くされている。様々な人種、様々な肌の色の人々、老いも若きも関係なく、誰もが驚愕や喜びの表情をこちらに向けて、両手を打ち鳴らしていた。

「おっと」

 その思いもよらぬ光景を目の当たりにし、腰を抜かしそうになってしまった希佐の体を、ジョシュアが慌てたように支える。

「大丈夫?」

「は、はい……」

「驚いた?」ジョシュアは希佐が一人で立っていることを確かめると、掴んでいた手を離して、ゆっくりと辺りを見回した。「これが君の才能だよ」

「これが、私の才能……」

「ぼく、ピアノを弾きながらゾクゾクしちゃって。ほら見てよ、鳥肌が治まらないんだから」

 ジョシュアはそう言いながら、希佐に向かって袖を捲り上げた腕を見せつけてくる。しかし次の瞬間、手首に巻かれた時計に目を留めたかと思うと、ぎょっとしたような声をあげた。

「うわ、ヤバっ。早くしないと約束の時間に間に合わないよ、キサ」

「えっ? あっ、本当だ」

「ほら、急いで急いで」

 希佐が一緒になって腕時計を覗き込んでいると、ジョシュアは足元に放っていたバッグを拾って押し付けてくる。自分のコートと荷物を抱え上げると、希佐の手を掴んで、人並みを掻き分けるようにして走り出した。

「はいはーい、ごめんなさいねー。ちょっと通してくださーい」

「す、すみません、あっ、ごめんなさい」

 何度も人とぶつかる度に平謝りをしながら、二人はようやく人集りの中を抜け出すと、駅の構内を駆け抜けた。外に出たところで、丁度よく乗客が降りたところだったタクシーに乗り込み、ジョシュアが行き先を告げる。

「十五分くらいで着きませんか?」

「えっ、十五分ですか?」ジョシュアの言葉に、運転手は苦笑いを浮かべながら答えた。「いやあ、週末で道も混んでいるし、無理じゃないかなぁ。まあでも、一応頑張ってみますよ」

「お願いします」

 座席から身を乗り出して運転手と話をしていたジョシュアは、その手に握りしめていたスマートフォンの画面を見ながら、どっと背もたれに倒れ込む。そして、駅での映像が間違いなく録画されていることを確認すると、その画面を隣に座っている希佐に向けてきた。

「あとでデータを送るから、客観的な目で見てみるといいよ」

「はい」

「それにしても、気持ち良さそうに歌っていたね」

「そうでしたか?」

「ぼくも久しぶりに楽しかったな。最近は観客の前で演奏する機会なんてなかったから、貴重な経験をさせてもらったよ」

 君のおかげで忘れていた感覚を思い出すことができたと、ジョシュアは嬉しそうに言った。

 希佐はあの瞬間、実際の舞台に立ったとき以上の、熱く、滾るような思いを感じていた。難曲を歌い終えたあとの、自分は無事にやり遂げたのだという安堵感とは違う、あの何でもない瞬間に、自分はこの見ず知らずの人々に受け入れられたのだという高揚感が、頭を真っ白にさせていた。

 大通りを避け、ありとあらゆる名前の裏通りを駆使した誇り高きロンドンタクシーの運転手は、ほとんど頼んだ時間通りに劇場前にタクシーを停車させた。

 どんなもんだという顔をして振り返った運転手に向かって、満足そうににっこりと微笑んでみせたジョシュアは、本来の料金よりもずっと多い金額を現金で支払い、颯爽とタクシーを降りて行く。

「遅刻したらどうしようかと思ったよ」続いて希佐が降りるとタクシーのドアを閉め、それからすぐに劇場の正面玄関に向かって歩きながら、ジョシュアが言った。「他にもいくつか劇場を見て回る予定だから、予算の都合上一時間しか借りられなくて」

「予定している劇場よりもずっと小さいんですね」

「まあ、そりゃあね。そもそも、新作の舞台且つ初演の段階で、あんな大きな劇場を埋めようなんて考えがどうかしているんだよ。正直な話、分不相応だよね」

 確かにその通りだと思いながらも、希佐は何も言わず、曖昧に笑って返答をごまかした。あれだけのキャパシティがある劇場を満たすためには、演目の絶大な知名度と演者の集客力が必要不可欠だ。いくら傍を大御所の舞台役者で固めようとも、主演が若手二人では何とも心許ない。

「最終的な目標として掲げるにはいいと思うんだけどさ」

 ジョシュアが先に立って開けてくれた扉を通り抜け、ロビーに足を踏み入れる。そこは比較的こぢんまりとした印象の劇場だったが、格式のある、荘厳な雰囲気を漂わせていた。

「バロック様式の古い劇場だよ。私的な意見としては、音響がちょっと微妙っていう印象かな。音が吸収されて響きが悪い。オケを入れられないからデジタルだし、アランが嫌がるんじゃないかなぁ」

「アランが?」

「あの人、音楽に対してかなりのこだわりがあるでしょ。カオスの公演で使用する音楽のほとんどは、打ち込みとかじゃなくて、楽団に依頼して録音したものを使ってる。普通はしないよ、そんなこと」

「そうなんですね」

 ぱっとしない返事をする希佐を横目に見て、ジョシュアは僅かに呆れたような顔をした。

「舞台の脚本、演出、作詞作曲編曲作業、その上舞台衣装までデザインをする。そのすべてが一人の人間の頭の中で完結するんだよ。この人ちょっとおかしいなとか思ったりしなかったの?」

「いつ寝ているんだろうなとは思っていました」的外れなことを言う希佐を、ジョシュアはやはり怪訝そうな顔をして見ている。「学生時代にも、そういう先輩がいたんです。だから、そういうマルチな人はどこにでもいるんだな、と……」

「あー、そういうこと」ロビーを進みながら、ジョシュアは何やら訳知り顔で言った。「君がどうしてそんな平然とした顔で、アランの隣にいられるのかを疑問に思っていたんだけど、その理由がなんとなく分かったような気がするよ」

「あの、それは……」

「多分君の学校の先輩も、アラン・ジンデルという天才も、周りと比べていいような人間じゃないの。本来なら、千人に一人とか、もしかしたら一万人に一人いるかどうかも分からない逸材なんだよ。ダイヤモンドなんかよりもずっと価値のある人のことを、君はまるで道端に転がる石ころみたいに扱うんだもんなぁ」

「石ころみたいになんて、そんなことは──」

「冗談だってば」本気で反論しようとする希佐を見て、ジョシュアはくすくすと笑う。「でも、そういう君だからこそ、彼は君の隣を居心地良く感じているのかもしれないね」

 他意などないというふうな口振りでそう言ったジョシュアは、劇場の客席へと続く扉の前に立っていた警備員に声を掛けてから、目の前にある重厚な扉を押し開いた。

 劇場の内部に足を踏み入れると、そこは外観からは想像もできないほど、予想外に広く感じられる空間だった。客席は三階まであり、二、三階には巣のようなボックス席がいくつか設置されている。舞台に立ったときの印象は、ユニヴェール劇場に近いものがあるのではないかと、希佐は思った。

 高い天井を見上げながら歩いていると、希佐の後ろから入ってきたジョシュアがその背中を押し、最前列の座席まで急がせる。そこには舞台を背にして立っているスペンサー・ロローの姿と、座席に腰を下ろしている、もっさりとした赤毛の後ろ頭が見えた。

 座席に座っている人物と話をしていたスペンサーは、希佐とジョシュアが劇場に入ってきたのを目に留めると、大袈裟なくらいに大きくため息を吐いた。

「ようやくお出ましか」

「えっ、何? ぼくたち遅刻した? 時間通りだよね?」舞台の前までやって来ると、ジョシュアはそう言って腕時計を確認する。「ほら、たった今二時になったところだよ」

「そうだね、約束の時間通りだ」

 そう言うスペンサーは妙に威圧的な態度で希佐とジョシュアを睨んでいる。その理由が分からずに、希佐とジョシュアが無言のまま顔を見合わせていると、近くの座席に座っていたアランが、持っていたスマートフォンを掲げた。

 照明の加減で画面に光が反射して何が映っているのかは見えなかったが、そこから聞こえてきていたのは、ジョシュアが弾くピアノの美しい音色と、希佐の伸びやかな歌声だった。

「えっ、さっきのデータをもう送っていたんですか?」

「まさか。まだ誰にも送っていないよ。あとで見せびらかして自慢をしようと思っていたんだから」

「どこの誰かも知らない連中が散々君たちを自慢して回ってるけど」

「……どういう意味?」

「君たちがセント・パンクラス駅に設置されているエルトン・ジョンのピアノで、ウィキッドのDefying Gravityを披露している映像が、世界中に拡散されてる」

「……はい?」

 淡々としたアランの説明に、希佐は思わず言葉を失う。

「これは実に愉快で興味深い現象だ。君が、私の舞台の主演でなかったなら、諸手を挙げて大喜びをしていた」スペンサーはそう言いながら目と鼻の先までやって来ると、立てた人差し指を希佐の額に突き立てた。「君にはまっさらな状態のまま、私の舞台に立ってもらいたかったんだ。でも、この動画が拡散されてしまったことで、君はセント・パンクラス駅にあるストリートピアノで、ウィキッドのDefying Gravityを歌ってSNSで話題になった、ただの無名な舞台女優になってしまった」

「で、でも、私の映像はこれまでにも──」

「規模が違うんだよ」

 スペンサーはそう言うと、アランの手から取り上げたスマートフォンの画面を、今度こそ希佐にも見えるように掲げてみせた。

 ハートの隣にある数字と、矢印の隣にある数字が、くるくると恐ろしい速さで増えていく様子を目の当たりにした希佐は、思わず両手で口元を覆う。

「私はこれから方々に事情を説明して回らなければならないし、向こうのカンパニーにもご挨拶に出向く必要がある。現行の舞台と先行きが不透明な舞台を抱えたこの忙しい時期に、君はありがたくも仕事を増やしてくれたわけだ」

「それは……」こんなふうに、苛立ちを露わにするスペンサーを目の当たりにするのは、初めてのことだった。「すみません」

「ヘスティアのような閉鎖された場所で歌うのは構わない。あの店には暗黙の了解があって、多少のルール違反はあっても、各々が撮影した映像は表に出ること自体が少ないからね。でも、善意か悪意かも分からない不特定多数の目がある場所で歌えば、こういう騒ぎになる。そんなことは少し考えれば分かることだろう?」

「待って」希佐の後ろに立っていたジョシュアが、そう言って前に出た。「キサをあの駅に連れて行ったのはぼくだ。歌うように仕向けたのも、このぼくだよ」

「彼女には歌わない選択肢もあったはずだ」

「役者の悩みを解消できないまま舞台の稽古に挑ませるのと、多少の犠牲を払ってでもその悩みを解決してから稽古に挑ませるの、どちらが効率的?」

「話の論点を差し替えないでくれないか」

「君たちはキサのことを振り回す一方で、キサ自身が抱えている問題には見向きもしないんだね」ジョシュアは希佐が聞いたこともないような冷ややかな声で言った。「キサにはまっさらな状態のまま自分の舞台に立ってもらいたい? そもそも、その考えをキサには伝えていたの? 契約書でも交わした? 君にとっての舞台演出家がどれだけ偉い立場にあるのかは知らないけど、彼女の行動自体を制限させるよう命じることはできないはずだ」

「違う、私が言いたいのは──」

「勝手なことをして悪かったとは思うよ。でも、君がキサに独り芝居を強要した後の彼女の歌声は、あまりに澱んでいて、聞くに耐えなかったんだ。疲れのせいかと思ったけど、それも違った。どんなに稽古を重ねて上手く歌えるようになったって、ただそれだけの彼女にはなんの価値もない──ごめんね、キサ、こんな言い方をして」

「えっ? あ、いえ、大丈夫です」

「普通、オーディションに合格した役者は、自分の才能を自覚し、自信を持てるようになるものだ。ぼくはそういう子を大勢見てきた。それなのに、キサの場合は真逆なんだよね。どんどん自信を失っていく。自分の才能に対して疑心暗鬼になって、ついには疑問を持ちはじめていた。でも、こういう子は皆無というわけじゃない。真っ直ぐで誠実な子ほど、こういう状況に陥りやすいんだ。だからこそフォローが必要なのに、君たちときたら、まるで自分のことだけで精一杯って顔だよね。忙しいのはみんな一緒だよ。ぼくだって仕事を山のように抱えてるけど、それを言い訳にはしない。君たちみたいにはなりたくないから」

 普段からにこにこと機嫌良くしている人が、こうして冷ややかな表情を浮かべ、声を低くして捲し立てる姿には、おそろしいまでの迫力があった。向かい合っているスペンサーは、半ばぎょっとしたような面持ちで、ジョシュアのことを見やっている。

「どれだけ役者の才能を引き出せるかが演出家の腕の見せ所でしょ。それなのに、役者自身に自分の才能を疑わせるようなことをしているようじゃ、演出家失格なんじゃないの? 悪いけど、ぼくはそう思うよ。キサのことを頭ごなしに叱りつける前に、もっと彼女の話を聞いてあげるべきだったんじゃない? キサは確かに頑張り屋さんだけど、何でもかんでも自分一人だけの力で解決できるわけじゃないんだ。歌やダンスのレベルを底上げする前に、もっと重要な問題に目を向けるべきだったね」

 しん、と静まり返った劇場内に、ぱちぱち、と軽い拍手の音が響いた。全員の視線が一瞬にしてそちらに向けられる。

 いつからそこに腰を下ろしていたのだろう。もしくは最初からそこにいたのかもしれないとも思ったが、他の人々の反応を見るに、唐突に現れたものと考えた方が正解のようだ。

 クロエ・ルーは、先日ヘスティアで会ったときとはまるで違った、清楚な白いワンピース姿で、最前列の座席の端に足を組んで座っていた。高い鼻筋に乗せていた先日と同じサングラスを外すと、隣の座椅子の背もたれに腕をかけながらスペンサーを見る。

「勝手なイメージの押し付けは良くないわね、スペンス」

「マダム」

「いいじゃないの、彼女みたいな子には、ある程度は好きにやらせてあげるべきだわ。私も回ってきた動画を見たけれど、彼女、とっても輝いていたわよ」

「でも、そういう問題では……」

「もっとポジティブに考えなさい。良い宣伝になったと思えばいいの。まあ、売名行為を疑われる可能性は否めないけれど、本人にその意図はないようだし、マスコミやアンチの否定的な意見は無視すればいい」

 床から浮かせていたヒールの踵を下ろし、すっくと立ち上がる様子を見ると、その体幹の素晴らしさに目が留まる。ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてきたクロエは、座っているアランの前で足を止めると、そちらに向かって「ねえ」と声をかけた。

「黙りはおよしなさいな」アランはクロエを一瞥し、すぐに視線を逸らした。「キサはあなたの考えを聞きたがっているのではない?」

 クロエのその口振りは、どこか相手を諭すような物言いだった。言葉をかけられたアランは小さく息を吐いたかと思うと、神経質そうに頭を掻きながら口を開く。

「特定の色をつけたくないなら、色に色を重ねればいい。世間のイメージなんていくらでも上書きできる。例えば、プロモーションの段階で彼女を全面的に前に押し出して、往年のミュージカルソングを積極的に歌ってもらうとか。どうせ、一つ注目を集めれば、面白がって化石を掘り返そうとする連中も出てくるんだ。なんなら、これ自体をプロモーションの一環にしてしまっても構わないと思う。ゲリラ的にパフォーマンスを行って、キサを売り出していくことも、悪い考えではない」

 自分の起こした問題が、大人たちを困らせている。スペンサーに至っては本気で腹を立てている様子だ。公演までの計画を綿密に練っていたに違いない。その計画を台無しにされれば、怒りを露わにもしたくもなるだろう。

 もし、自分の行いが遊び半分に感じられたのだとしたら、それは謝らなければならないと思う。だが、希佐は間違いなく真剣で、大真面目だった。これは必要なことだったのだ。それだけは、確信を持って言える。

「それから、KISAという役者を自分の思う通りに動かしてやろうなんて無謀な考えは、早々に捨て去ったほうがいい。このじゃじゃ馬は脚本家や演出家の指示に素直に従うような役者じゃないよ。彼女が言ったように、ある程度は好きにやらせてやった方が役者としても生きる。だからといって、好き勝手なことをしていいわけではないけど」

「……ごめんなさい」

「俺に謝ったって仕方がない」

 この場では、謝る以外の最善策が見つからず、そう言われてしまっては途方に暮れるしかない。希佐が神妙な面持ちを浮かべて隣を見やると、ジョシュアは完全に意見を対立させてしまったスペンサーのことを睨みつけたまま、微動だにしていなかった。スペンサーはといえば、唇を真横に引き結んで奥歯を噛み締め、何事かを考え込んでいる様子だった。

「まったくもう」パン、パン、と先ほどよりも大きく両手を打ち鳴らしたクロエは、アランから希佐に向き直る。「ホント、男って生き物は頼りにならないわ。あなただってそう思うでしょう?」

「え? あ、いえ、その……」

「頭を切り替えなさい、スペンス。あなたはもうちょっと臨機応変にならなくてはダメね。計画の一つや二つ、今から立て直せばいいだけのことでしょう? あちらのカンパニーには、私も一緒にご挨拶に行ってあげるから、いつまでもそんな顔をしていないの」

 ほらほら、と言いながら、クロエはスペンサーの両頬を抓り、無理やりに笑顔を作っている。まるで子供と母親だ。希佐がそう思っている隣では、ジョシュアがそれを嘲笑するように鼻で笑っていた。

「そうやって笑っているけれど、そもそもの元凶はあなたなのよ。これからは自分勝手な行動は控えるようになさいね」さすがのジョシュアも、クロエに向かっては反論することができないらしい。「とはいえ、過剰なパフォーマンスがダメだと言っているわけではないわ。そういう面白いことをするのは私も大賛成だから、これからはきちんと許可を得るようにするのよ」

「はーい、マミィ」

「あら、素直でかわいい坊やだこと」

 少しもへこたれた様子のないジョシュアを逞しく思いながら見ていると、クロエは今度、希佐と向かい合うようにして正面に立った。左手首の内側に向いた、不釣り合いなほど古い腕時計を一瞥したクロエは、両手を腰に当てて希佐を見下ろしてくる。

「本来の目的は覚えている?」

「劇場の下見をするので、私の声で響きを確認したい、と」

「そうよ。早くそれを済ませてしまいましょう」

「でも──」

「この場合は、演出家よりもプロデューサーの意見を聞くべきね。もう三十分も時間を無駄にしているの。ピアノは用意してもらっているから、あなた、またこの子を手伝ってあげてくれる?」

「もちろん」

「Defying Gravityも良かったけれど、それとは印象の違う曲を選んで歌ってちょうだい。それを私が撮影して、私のSNSアカウントを使って公開するわ」

「マダム、それは──」

「あら、いけない?」クロエは悪戯っぽい笑みを浮かべ、スペンサーを黙らせた。「私、インタビューで次の仕事の話をする機会が増えてきているのよ。そろそろ舞台の話をしたいなと思っていた頃合いだったの。ああ、今夜のインタビューが楽しみだわ。一体何を聞かれるのかしら、わくわくしちゃうわね」

 これは子供の頃、行き先の分からない電車に乗せられたときの、窓の外に見えている景色が目まぐるしく変わっていく様子を見ていることしかできない、あの感覚に似ていると感じた。

 景色が変化していくように、自分を取り巻く環境も、こうして少しずつ変わっていくのだろうかと希佐は思う。誰かの思惑の中を運ばれていけば、いずれ終着駅に辿り着けるのだろうか。

 いつだって自分のタイミングで、マイペースに歩いてきたのだということを、今になって希佐は実感する。周りの人々は希佐自身の意思を尊重し、その行動に思うところがあったとしても、多くは口を挟まずに、自由にやらせてくれていた。以前から知っていたことではあったが、より今、それを強く感じている。今まで乗ってきた電車はいつだって、好きなときに、途中で降りることができたのだから。

 なんとかして恩返しをしたいとは思うが、何をすれば彼らに報いることができるのかが、希佐には分からないままだった。

「キサ」促されるように名前を呼ばれ、希佐は我に返る。「時間がないのよ」

「はい」

 そう返事をして、すぐさま舞台に上がろうとした希佐の視界の隅に、鮮やかな赤毛が映り込んだ。思わず足を止めて振り返るものの、その眼差しは明後日の方に向けられている。

 希佐は声をかけようとして口を開きかけるが、喉を震わせることなく、再びその口を閉じた。昨夜の自らの態度を振り返り、自分から気安く話しかける権利など、ないのではないかと思ってしまう。

『今の俺はきっと、君なしでは生きていけない』

 そう言ったときのアランの顔が、脳裏をよぎる。あのときの、明らかに弱りきっているその姿を見て、あからさまに狼狽えてしまったことを、希佐は後悔していた。

 もっと他に言い様はあったのではないか。突き放すような物言いが、この繊細な人を一層傷つけてしまったのではないか。開きかけた心の扉に、鍵を掛けさせてしまったのではないか。

 何度も、何度も試みてきた。この人を奈落の底から引っ張り上げようとしてきた。だが、あと少しで指先が触れ、その手を掴めると思った次の瞬間には、また振り出しに戻ってしまっている。

「……」

 手助けをするのは、もうこれで最後にしようと、希佐は思った。

 これで届かなければ、もう何をしても無駄なのだ。バージルが言っていた。本人にその意思がなければ、いくら周囲が救い出そうとしたところで、なんの意味もないのだと。

 アランに背を向け、舞台の上から差し出してくれているジョシュアの手を掴み、希佐は段差をよじ登る。ジョシュアは希佐の顔を覗き込むと、僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。

「何考えてるの?」

「何を歌おうか考えていただけです」

「そんな顔には見えないけど」ジョシュアはそう言いながら、舞台の上に置かれているピアノの方へと歩いていく。「それで、何を歌うことにしたの?」

「公私混同をしても構いませんか?」

「へっ?」

「誰かのために歌ってもいいですか?」

 ジョシュアは以前、希佐に向かって、自分のために歌えるようになれと言った。言われていることの意味は分かっていたが、その言葉の意図を完全に掴むことができたのは、つい先程のことだ。

 自分のために歌うということは、自分に自信を持つということなのだろう。自分と向き合い、自分を認め、自分の才能を受け入れる。ただそれだけのことが、希佐には理解することができず、何よりも難しいことだったのだ。だが、自分のために歌うコツというものは、掴めたような気がしている。

 ジョシュアは希佐の意図を察したような顔をすると、その肩越しにチラリとアランを見やってから、呆れた様子で肩をすくめた。

「君も懲りないね」

「私はあの人に救われたから」だから、と希佐は言う。「私もあの人を救ってあげたいんです」

「それを彼が望んでいなかったとしたら?」

「もう金輪際、あの人のことを救おうだなんて思いません」

「本当に?」

「はい」

 ジョシュアは、はあ、とこれ見よがしなため息を吐いてみせる。それから、調律の具合を確かめるように鍵盤の上で指を走らせてから、小さく頷いた。

「ぼくは誰かのために歌ってはいけないと言った覚えはないよ」

「はい」

「いいんじゃない、好きな曲を、好きなように歌えばさ。何か指定されたわけでもないし。それに、彼のために歌う君の姿には、いつも心打たれるものがあるんだよね。誠実で、切実で、それなのに、どこか強引なんだ」

 もっと、もっと上手く歌えるようになりたいのだ。地の底からあなたを引っ張り上げられるくらいに。この歌声に呼び寄せられて、暗い洞窟の中からうっかり顔を覗かせてしまうくらいに。深い深い湖の底に差し込むヴェールのような光のように、この歌声で、優しくあなたに寄り添っていたい。

 その時間を、残された限りある日々を、どうか奪わないで。あなたに殺されたい私が、あなたを生かす歌を、精一杯に歌うから。

 

 

 

 知っていた。この子がいつだって、彼のために歌っているということは。希佐が初めて立った劇団カオスの舞台『God only knows』のときからそうだった。その豊かな才能に一目で嫉妬を覚えるほどだったが、それと同時に、常に違和感が付き纏っていたのだ。

 今もまだアラン・ジンデルのファンを公言しているジョシュアは、チケットさえ入手することができれば、劇団カオスの公演は必ず観に行っている。

 劇団カオスに日本人の役者が加入すると聞いたときは、どうしたものかと思ったものだ。

 日本の演劇のレベルがどの程度のものかなど、考えたこともなかった。若い頃は、このウエスト・エンドで生まれ育ってきた者の矜持として、それ以外の場所で行われている舞台に対して、強い敵意のようなものを抱いていた。ブロードウェイもその例外ではなかった。一人前に自分が一番だという根拠のない自信を持っていたし、歌うことなら誰にも負けないという自負もあった。まあ、その自信や自負は、木っ端微塵に吹き飛ばされるわけだが。

 舞台に立つ希佐の存在感は並々ならぬものだった。歌唱に多少の難はあったが、それをカバーしてあまりあるほどの演技力と、生まれ持っての恵まれた身体能力があるということは、すぐに分かった。

 ウエスト・エンドでもこのような逸材はなかなか見かけない。そもそも、この広いようで狭い街に彼女のような新人が現れれば、とっくの昔にその噂が耳に入っていたはずだ。だが、希佐の登場はまさに青天の霹靂で、一部の界隈をざわつかせていた。

 ジョシュアが抱いていた違和感は、カオスとは別の舞台で、希佐と仕事を共にしたときに明確化された。希佐のあらゆる技術は、周囲の役者より抜きん出ていたものの、カオスの舞台に立っているときほど輝いてはいなかったのだ。

 カオスの舞台で感じたあの圧倒的なまでの才能は、もしかしたら自分の勘違いだったのかもしれないとジョシュアは思った。しかし、満を持して次のカオスの舞台に足を運ぶと、希佐は以前の公演のときよりも眩い光を放っていて、ジョシュアは度肝を抜かれてしまった。

 そして、理解する。この子は、アラン・ジンデルの描く世界でこそ、その有り余る才能をフルに発揮することができるのだと。それは言い換えれば、アラン・ジンデルの描く世界でしか、その才能を正しく発揮できないということだった。

 だから、ジョシュアは言ったのだ。他人のためだけではなく、自分のために歌えるようにならなければならない。その歌い方はあまりに危うく、歌を届けたい誰かが消失すれば、希佐自身の良さが半減してしまうだろうと。

 しかし、当の希佐は言われていることの意味が分からないという顔で、それでもなんとかこちらの要求に応えようと、必死に稽古を重ねていった。彼女は驚くほどの努力家で、次までにやってくるようにと出した課題を欠かしたことは、これまでにただの一度もなかった。

 故に、歌唱力の上達は著しかった。歌えば歌うほど上手くなっていく。歌を聞かせたい相手の存在が明確なほど、その歌声は美しく研磨されていった。持ち前の表現力も相まって、その神がかり的な歌声はオーディションでも高く評価され、合格するに至ったのだろう。

 だが、オーディションに合格してからは、奇妙なことに、希佐の歌声からは少しずつ光が失われていった。

『……自分の才能というものが、私にはよく分からないんです』

 希佐はどこか呆然とした様子でそう言った。

 まるでオーディションの最終審査がピークだったかのように、美しく咲き誇っていたはずの白薔薇が、ゆっくりと萎れていく様を見ているかのようだった。

 オーディションに合格すると同時に、その輝きを失い、期待外れに終わってしまう役者は、確かに存在する。緊張の糸が切れ、稽古に身が入らなくなり、すべてを台無しにする役者は少なからずいるのだ。

 自信を失い、自分の才能を信じられず、疑問を持つようになってしまっては、これまでと同じようには歌えない。本来であれば、オーディションを終えたばかりの、そのおそろしく疲弊しているときほど、役者には念入りなケアが必要なのだ。

 だが、その程度のことは、希佐の周囲の人間は十分に熟知しているだろう。稽古狂いの希佐を休ませることは至難の技だとジョシュアも思う。それでも、そうした事情を説明してでも、休息を与えるべきだったのだ。次々に人前に立たせ、歌や独り芝居を披露させること以上に必要なことは、山ほどあった。

 何を焦っているんだか──ジョシュアはピアノの前に腰を下ろしながら、舞台の下からこちらを睨んでいるスペンサー・ロローを一瞥した。聞いていた通りの嫌なやつだと思う。これまでに何人もの役者を使い潰してきたという噂も、もしかしたら事実なのかもしれない。

「自分のタイミングでいいよ、キサ」

「はい」

 荒療治だとは思った。自分のやろうとしていることは、スペンサー・ロローのしたことと、何ら変わりないのかもしれないと。それでも、このまま泥沼に陥るよりはマシだと自らに言い聞かせ、希佐をあの場所に連れ出した。ジョシュアもかつて、あのセント・パンクラス駅にあるストリートピアノで、自分の音楽を取り戻すことができたから。

 希佐はゆっくりと舞台の真ん中に向かって歩いていく。呼吸を整えながら。その後ろ姿は一見すると小さい。それなのに、驚くほどの存在感があるのだ。今日、つい先ほどまで強い迷いを感じていた人物の背中とは、到底思えない。

 自分の歌を手に入れた者の強さを思い知れと思いながら、ジョシュアはスペンサーを睨み返した。そして、そのままアラン・ジンデルに視線を滑らせる。

『編曲作業を手伝ってほしいんだ』突然連絡をしてきたかと思えば、アランは挨拶すらせず、開口一番にそう言った。『何曲か仮歌を作ってるんだけど、作詞と作曲で手一杯だから』

 ジョシュアは事情は聞かず、二つ返事でそれを了承した。

 もちろん、暇をしているわけではない。だが、自らの忙しさと、まだ世に出ていないアラン・ジンデルの歌曲を誰よりも早く聴く権利を得られる現実とを天秤に掛けたとき、傾く方向は決まっていた。

 アランの歌声は少しも衰えてはいなかった。

 その事実を喜ばしく思うと同時に、やはり悔しくもなる。だが一番には、再びスポットライトの下に立って、観客の視線を掻っ攫い、その圧倒的な才能でぶん殴って欲しいと、そう思った。

『それから』アランはまるでついでの話のように先を続けた。『もしキサが悩んでいるようだったら、話を聞いてやって。俺では力になってやれない』

 そう頼まれたから引き受けたわけではない。でも、頼まれていなかったら、ここまで踏み込むことができていたかも分からない。

 年末、希佐が歌うOn my ownを聴いていたときから、様子がおかしいとは思っていた。希佐の歌に何か思うところでもあったのだろう。しかしながら、それ以降はいつもの調子を取り戻したようにも見受けられたが、イライアスから聞かされた話によると、事態はジョシュアが想像しているよりも深刻らしいと知った。

 おそらく、二人の間にある何らかの問題が、希佐が調子を落としていた一つの要因にはなっていたはずだ。だが、それ以上にアランの具合が悪そうに見えるのは、ジョシュアの気のせいではない。

 経験上、こういった迷いは早々に断ち切ってしまった方がいいことを、ジョシュアは身をもって知っていた。過去は過去と割り切っているジョシュアとは違い、アランは未だ、あの頃に心を置き去りにしたままだ。

 アランはやり残したことがあると話していた。未練や後悔のようなものがあると。彼が言っていた通り、過去を完全に取り戻すことは不可能だ。十年程あるブランクを取り戻すために必要な時間は、きっと途方もない。だが、本人にその強い意思があるのだとすれば、話は別だった。その歌声は昔と変わらず、聴く者を魅了し、心を奪い去る。

 ずっと待っていたのだ。彼が舞台の上に戻る、そのときを。

 ジョシュアはアラン・ジンデル以上の役者を一人も知らない。だから、希佐がこれで最後だと言うのなら、それに賭けてみたいと思った。便乗してみよう。それでも無理なら、もう潔く諦めるしかない。いずれにしても、過去の思い出は美しいままなのだから。

 希佐が肩越しに振り返り、こちらに向かって小さく頷きかけてきた。ジョシュアもそれに頷き返すと、二人で呼吸を揃えるように、同時に息を吐き出す。

 ピアノの鍵盤が氷のように冷たく感じられた。

 久しぶりに、酷く緊張している。

 ああ、この緊張感が、たまらなく好きなのだ。

 

 

 

 この劇場に備え付けのグランドピアノの音色は知っていた。だが、それがいつもとは違う。尖った部分が一歳ない。劇場全体を包み込もうかという、まるい、やわらかで、やさしい音色だ。

 正直な話、ジョシュアというボイストレーナーの名を聞いたことは、ただの一度もなかった。昔は小さな劇団に所属していたらしい。

 アラン・ジンデルが言うには、個性ある魅力的なシンガーでもあったそうだ。舞台を降りてからは、ソングライターや舞台音楽などの仕事の傍らで、ボイストレーナーをしているという。聞くところによると、かなり評価の高い指導者のようで、イギリス内外から彼のレッスンを目的にやってくるアーティストも多いという話だ。

 年齢は自分よりも年下で、アランと同じくらいだろうと、スペンサーは考える。当初から、いやに敵意のようなものを感じるとは思っていたが、今日、それがどうやら如実となった。

「ぼくがこの仕事を引き受けるのは、あなたが彼女を使い潰さないように監視するためです」ヘスティアの一角で酒を飲み交わしながら話でもしようと思っていたが、ジョシュアはあのとき、スペンサーの前では一滴もアルコールを口にしようとはしなかった。「アラン・ジンデルが時間をかけて育ててきた才能を壊されたくはないので」

「君は私のことを何だと思っているんだい?」

「人間じゃないんですか?」ジョシュアははぐらかすようにそう言った。「ぼくを歌唱指導者として雇うつもりなら、こちら側のことにはあまり口出しをしないでほしいと、先にお願いしておきます。役者の歌について何か思うところがあれば、まずはぼくに話してください」

「なるべくそうしよう」

「必ず、お願いします」

 すぐに友人にはなれないタイプの男だと分かった。だが、自分は彼の才能を金で買っているだけだと、スペンサーは自分に言い聞かせる。舞台を成功させるためには、手段を選んではいられない。気の合いそうにない相手とも、喜んで仕事をする。

 だが、バージルを相手にしても同じことを思ったように、スペンサーはこのジョシュアという男のことを、憎たらしくは思っても、嫌うことはできそうにないと思った。

「こんな短期間で……」

 本当に、一体どのような魔法を使えば、ここまで劇的に歌い方を変えさせることができるのか。最終審査でThe Roseを歌ったときは、まるでこの世のものとは思えない、得体の知れない怪物がそこにいると、そう感じたものだ。それなのに今は、地に足のついた一人の女性が、舞台の上に立っている。ピアノの音色と寄り添い合いながら、まるで弦楽器のような心地の良い歌声を響かせて、語りかけるように歌っている。

 寸前まで感じていた怒りの感情は、一瞬にして消えてしまっていた。その感情にも勝る衝撃の方が、ずっと強かったのだ。

 クロエ・ルーはDefying Gravityとは印象の違う曲を歌うようにとリクエストをした。その注文通りだ。聴衆の魂を震わせるような楽曲を見事に歌い上げたかと思えば、The Roseのように、たった一人の人間にだけ届けようとするかのような繊細な楽曲まで、いとも容易く歌いこなしてしまう。

 年末のon my ownから先日の舞台演出家の独り芝居を経て、いつも以上に様子をおかしくしていた数少ない友人の一人を、こっそりと横目に窺う。アランは背もたれに体を預け、肘掛けに頬杖をつきながら、微動だにせず舞台に目を向けていた。分厚い前髪のカーテンの奥に隠された顔には、どのような表情を浮かべているのか。

 もはや茶化す気にもなれない。彼女は本気なのだ。この朴念仁を舞台上に引っ張り上げようとしている。もう何度も、何度も同じことを繰り返しては、失敗に終わってきたに違いないことを、めげもせずに続けている。

 スペンサーは舞台に立っていた頃のアラン・ジンデルを知らない。

 アランを認識したのは、初めて脚本を手掛けた映画が権威ある賞にノミネートされ、同時に脚本家賞を受賞したときのことだった。

 演出家として再スタートを切ったばかりの自分は、まだまだ箸にも棒にも引っ掛からない状態だというのに、自分よりも若い、しかも新人の脚本家が初めての作品で賞を受賞したと知って、勝手に腹を立てていた。それが、計り知れない挫折の果てに得た栄光だとは、知る由もなかった。

 足に怪我を負い、踊れなくなった自分とは違う。自由に動く手足がありながら、舞台を降りる決意をした。詳しい理由を聞いたことはない。だが、成り行きでも劇団カオスを結成し、再び舞台と向き合うようになって、導かれるようにして一人の女性と出会った。

 その人が、自分にならあなたの夢を叶えられると、そう歌っている。そのためになら、この地の果てにでも行けると。

 人の一生において、こんなにも誰かに愛される幸運な人間が、一体どれだけいるのだろう。自分の寿命を削ってでも、その命を分け与えようとする特異な人間が、一体どれだけいるのか。

 まるで創られたかのような物語だ。だが、スペンサー・ロローは今まさに、それを目の当たりにしている。

 ジョシュアが聞き及んでいる噂はおそらく正しい。スペンサーは自らの舞台を成功させるために、数々の犠牲を払ってきた。初演を迎えて間もなくすると、体調不良を理由に降板した役者も少なくはない。何もかもを自分の物差しで測ってしまうが故に、周囲との差異を見誤り、そうした失敗を繰り返してきた。

「俺は君の物の考え方には賛同できない」舞台の脚本を書いてほしいと話を持ちかけるとすぐに、アランは言った。「役者やスタッフに対しては常に誠実であるべきだ。演出家なんて周りの人間が居てこそ成り立つ仕事だろ。脚本家だってそうだ。君が舞台に対する考え方を改めないかぎり、君とは一緒に仕事をしたくない」

 だから、出来得るかぎりの誠実さを総動員して努力してきたつもりだった。感情を露わにせず、腹の立つことがあっても別の場所でそれを解消し、何事もなかったかのように振る舞った。

 希佐という役者はスペンサーの思う通りにならない。それがもどかしく、同時に腹立たしくもあった。いつだって、自分の想像を軽々と飛び越え、遥か彼方に着地を決めるのだ。その度に演出を考え直す羽目になる。もっと、もっとこの役者を生かせる演出があるはずだと。

 堪忍袋の緒が切れたことは素直に認めよう。じゃじゃ馬ならしの存在は必要不可欠だ。自分の手には負えないとスペンサーは思った。

 この才能を育んできた男は、今更になって、その存在に尻込みをしてしまっている。自分が想像していた以上に大きく成長してしまった姿を目の当たりにし、困惑を隠し切れずにいるのだろう。その気持ちは、痛いくらいによく分かる。

 いくら相手を引っ張り上げようとしたところで、本人にその意思がなければ、何の意味もない。ここは、何の目的もなく留まり続けられる世界ではないからだ。その点、アラン・ジンデルにとって、脚本家の仕事は都合が良かったのだろう。頭の中に降って湧く悪夢を次々と吐き出し、それを捨て去る作業をすることで、彼はある意味で救われていたのだ。

「この仕事に方が付いたら、俺はどうなるんだろうな」スタジオにある事務室の天井を見上げ、どこか弱々しい口振りで、そう漏らしていたことがあった。「その後も変わらずこうしているのか、今よりもっと堕落した生き方を送るようになるのか」

 身を削って演じる役者と、脚本家。二人の出会いは奇跡のようでありながらも、出会うべくして出会ったのではないかと、そう思う瞬間がある。神のお導きというやつだ。だからこそ、危うい。

 今になって、あのときのバージルの言葉が、スペンサーの中に響いてきていた。二人の関係が崩壊したら、お前の舞台も失敗に終わると、バージルは言ったのだ。

 実際、その通りなのかもしれないと、ここ最近の二人の様子を見ていて思う。だが、どちらの存在もこの舞台には欠かせない。ここで終わられてしまっては困る。

 それでも今は、こんなにも誰かに愛されているこの男を羨ましく思う気持ちの方が、ずっと大きかった。

「ああ、やっぱりいいわね、あの子」希佐が歌い終え、録画を切ったという合図を舞台に向かって送ってから、こちらに戻ってきたクロエが言った。「若い頃の私を見ているみたい」

「マダムは今でもまだ十分にお若いですよ」

「そう言っておけば女が喜ぶと本気で思っているのなら、それは大きな間違いよ、スペンス」

 クロエはそう言いながらスペンサーの隣に腰を下ろした。そして、ピアノの側で今の歌について話し合っているであろう二人の方に目を向け、ふふ、と小さく笑う。

「ねえ、あの子たちって、やっぱりそういう関係なのかしら」

「誰のことです?」

「脚本家と主演女優」この人は、こういう下世話な話が好きなのだ。「歌っている最中に見つめ合ったりなんかして、かわいいわね」

「変なちょっかいをかけないでくださいよ、マダム」

「あら、どうして?」

「俺が知る中で最も勘の鋭い男が言ってるんです。あの二人の関係が崩壊したら、舞台は失敗するって」

「まあ、それは大変ね」

 大変ねと言いながらも、クロエ・ルーは可憐に目を細め、少女のように悪戯っぽく笑うのだ。そして、手慣れた様子でスマートフォンを操作していたかと思うと、誰の許可を得るでもなく、たった今撮影した映像を加工することさえせずに、自身のアカウントを使ってアップロードしてしまった。

「My Diva──っと、これでいいわ」

「相変わらず自分勝手な人だ」

「女はこれくらい自分勝手な方が愛されるのよ。だって、目が離せなくなるでしょう?」そう言って、クロエは希佐を指差す。「彼女だってそうだわ。普段は謙虚で控えめなのに、舞台に立った途端、まるで人が変わったみたいに自分勝手になる。視線を独り占めにして、周りの人間を霞ませる。スポンサーが騒ぎ立てるからダブル主演にして鎮静化を図ったけれど、彼、本当に大丈夫なのかしら。今のあの子の隣にいて映える役者とは思えないわね」

「イライアスは良い役者ですよ。むしろ、彼以上にキサの隣で映える相手役は、今のロンドンには存在しません」

「その言い方だと、私の耳には、彼で妥協していると言っているみたいに聞こえるのだけれど」

「彼ならやり遂げられます。気骨のある役者ですから」

「彼のダンスを一度間近で見てみたいわ。そうしたら、私の考えも変わるかもしれないわね」

「ルイと相談をしてみます」

「お願い」

 不意に、アランが座っている方に視線を走らせる。すると、アランは顔を伏せ、頭を抱えるように手の平で額を覆っていた。一目で重症だと分かるものの、声をかけたところで一蹴されるのが落ちだ。

「私が慰めてきてあげようかしら」

「やめてください」

「いやね、冗談よ」

 ふふ、ふふふ、と笑うその様子は、先日希佐がヘスティアの劇場で演じてみせた舞台演出家の独り芝居に登場する、あのミステリアスな女優に酷似していた。

 希佐が似せているのか、クロエが真似ているのか、今はまだ判断がつかない。だが、スペンサーの背筋には、何故か薄ら寒いものが付き纏い、ぶるりとした身震いを抑えることができなかった。

 

 

 

 セント・パンクラス駅の動画と劇場で披露した歌の動画は、瞬く間にイギリス中に拡散された。加斉中の話によれば、アメリカのブロードウェイでもかなりの話題になっているらしい。あの動画が日本に届くのも時間の問題だろう。パンドラの箱が開こうとしている。

 だが、希佐の心は思っていたよりも冷静に、目の前の現実を受け入れようとしていた。こうなることは分かっていたのだ。そこにはきっと、遅いか、早いかの違いしかない。

 動画の拡散後、起こった変化は一つだけだ。

 アラン・ジンデルが忽然と姿を消した。

 ただ、それだけ。

 一日、三日、一週間──一月の半ばを過ぎても、アランはスタジオにも戻らず、連絡すら寄越さないので、どこにいるのかは見当もつかない。

 劇場からは同じタクシーに乗り、スタジオに帰ってきた。しかしながら、そこで降りたのは希佐だけだ。他に行くところがあるから、と言ってタクシーの車内に残り、走り去った。

 それが、最後に見た、アラン・ジンデルの姿だった。

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