ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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覚醒

 誰もいない夜のスタジオは、あまりに静かだった。

 他に行くところがあると言ったアラン・ジンデルを乗せ、走り去っていくタクシーが遠ざかっていく様を、何度思い返してみたか分からない。最初の道を右に曲がったか、左に曲がったか、それすら思い出せないというのに。

 翌日曜日の朝は、普段通りの時間に目を覚ました。着替えを済ませていつも通りのルーティンをこなしていると、玄関のブザーが鳴る。まだ七時を迎えてもいない時間帯だった。一体誰だろうと思いながらスタジオの扉を開けにいくと、そこに立っていたのはミゲルだった。

「おはよう、キサ」

「ミゲル」白い息を吐き、寒そうに両手を擦り合わせているミゲルを見て、希佐は目を丸くする。「おはよう。どうしたの、こんな早い時間に」

「キサが歌っている動画を父さんに見せてもらったんだ」

 そう言ってこちらに向けられたスマートフォンの画面には、セント・パンクラス駅のピアノの前で伸びやかに歌う、希佐の姿が映し出されていた。

「すごく格好良いねって、それだけ伝えたくて」くりっとした目をキラキラと輝かせながら、ミゲルは言う。「僕、随分前に、アランと一緒にウィキッドを観に行ったことがあるんだ。だから、そのときのことを思い出して、胸がドキドキしちゃった。それに、ご近所さんたちもびっくりしてたみたいだよ。キサがすごい役者さんだって知らないのかな」

「すごい役者かどうかは分からないけれど」希佐は僅かに膝を曲げ、ミゲルと視線を合わせる。「わざわざ伝えにきてくれてありがとう。とても嬉しい」

 希佐がそう言って笑うのを見て、ミゲルは少しだけ照れたような表情を浮かべた。しかし、すぐに思い出したような顔をすると、真っ直ぐに希佐の目を見つめてくる。

「キサ、今日は教会に来ない? 日曜礼拝の後で昼食を振る舞うんだ。美味しいシチューが出るんだよ」

「でも、私が行くと騒ぎにならないかな」

「僕がずっと一緒にいてあげるから大丈夫だよ」ミゲルはそう言ってから、スタジオの中を覗き込むように見た。「アランは? まだ寝てるの?」

「え? あ、ううん、アランは──」

「ミゲル」

 そうして玄関先で話し込んでいると、石畳の道を歩いてやってきたロバートが、自らの息子の背中にそう声をかけた。ミゲルは後ろを振り返ると、父親に向かって大きく手を振っている。

 二人は教会から少し離れた場所にある、古いアパートで暮らしていた。教会に初めて訪れた日に、一緒に夕食はどうかと言って、招待をしてくれた家だ。

「この時間帯はキサが稽古をしているから、あまり長居をしてはいけないと言ったろう?」

「あっ、そうだった。ごめんなさい」

「ううん、大丈夫だよ」希佐はそう言ってから佇まいを正し、牧師のロバートを見上げた。「おはようございます、ロバート」

「おはよう、キサ」

「今日はミゲルから日曜礼拝に誘ってもらって」

「時間が許すようなら足を運んでもらえると嬉しいな。皆また君と会いたがっているんだよ」

「そうですね」ミゲルの期待するような目に抗うことができず、希佐はにこりと笑いながら頷いた。「分かりました。今日は久しぶりにお手伝いをさせてください」

「やったー!」

「ミゲル、静かに」そう言われ、ぱちん、と両手で口に蓋をする仕草がかわいらしくて、希佐はその姿を眺めながら笑みを深める。「手伝いのことは気にしなくていいよ、キサ」

「いいえ、私がお手伝いしたいんです」

 身支度を整えたらすぐに行きますと言うと、ロバートは少しだけ困ったように微笑みながらも、小さく頷いた。あとでね、と言いながら手を振るミゲルに手を振り返し、希佐はスタジオに戻る。

 自分はいつも通りの一日を過ごそうと、このときの希佐は思っていた。誰にだって家に帰りたくない気分のときはあるし、もしかしたら、一人きりで考えたいことがあったのかもしれない。それに、相手は大人だ。そこまで過剰に心配をする必要はないと、自らに言い聞かせていた。

 ルーティンを終え、シャワーを浴びて汗を流した希佐は、身綺麗な服装に着替えてから教会に向かった。

 信者を受け入れるために大きく開かれた扉からは、相変わらず冷たい風が入り込んでいる。その代わりに、教会の屋内にはいくつかの丸型ストーブが設置され、空気を暖めてくれていた。

「遅くなりました」奥の倉庫からパイプ椅子を運び出していたロバートに、希佐はそう声を掛ける。「パイプ椅子を運び出せばいいんですね」

「ストーブで温まっていてくれていいんだよ」

「動いていた方が体が温まりますから」

 だが実際には、動いていた方が余計なことを考えずに済むから、と言う方が正解だったのかもしれない。

 礼拝が始まる時間が近づいてくると、様々な肌の色をした人々が、次々と教会にやってきた。思い思いの席に着席し、礼拝が始まるのを静かに待っている人もいれば、顔馴染みの相手とお喋りを楽しんでいる人もいる。中には、昨日の動画を見たと言って、希佐に話しかけてくる人もいた。その度に、離れた場所にいてもミゲルが大急ぎで駆け付けてきて、敏腕マネージャーよろしく、その話はしちゃダメだよと釘を刺していった。

「ダメではないんですよ」持ち場に戻っていくミゲルの背中を見ながら、希佐は言う。「見てくださって、ありがとうございます」

 この教会に身を置いていると、不思議と心が癒されるのだ。人気のない高原のように、空気がとても澄んでいるように感じられる。時間がゆっくりと流れ、まるで外界とは隔絶された世界か何かのように、静寂の中に包み込まれているようだった。

 日曜礼拝は讃美歌と共に始まる。今ではすっかりピアノの腕が上達したミゲルが、讃美歌の伴奏を行っていた。

 一番後ろの席に座り、その伴奏に合わせて賛美歌を口ずさんでいると、空いていた隣の席に誰かが腰を下ろす。反射的にそちらへ目を向けると、貸し出し用の聖書と讃美歌集を手に持った田中右宙為が、驚きで目を丸くしている希佐を横目に一瞥した。思わず口を開きそうになった希佐に向かって、田中右は自らの唇にそっと人差し指を立てる。

 牧師の祈りに合わせて信者が黙祷をし、聖書の朗読と説教に耳を傾ける。その間中、希佐の隣にいる田中右は手元にある聖書にではなく、祭壇の奥の壁にある十字架に目を向けていた。

『普通、プロテスタントの教会にキリスト像はない。偶像崇拝が禁じられているからだ』田中右は日本語でそう囁いた。『だが、ここの教会の十字架には、キリストが磔にされている』

 以前この教会に足を踏みいれ、その十字架を見たときから、それを不思議に思っていたようだ。だから、牧師の話を聞くでもなく、その十字架をじっと睨むように見ていたのだろう。

 二度目の賛美歌を歌い終えると、献金用の袋が座席に回されてきた。希佐も幾らかのお金を入れて隣に回すと、田中右はそれに倣って紙幣を中に入れてから、通路を挟んだ向こう側の席の人に、袋を差し出していた。

 そして、再び賛美歌を歌ったのちに、牧師の祈りと信者たちの黙祷を行い、日曜礼拝は終わりを告げる。

 昼食のお振る舞いは毎週日曜日に行われ、材料費は信者たちの献金から賄われていた。礼拝が終わった後に、みんなで協力をし合いながらスープやシチューを作るのだが、それ以外の料理は余裕のある人たちが自然と持ち寄ってくるので、いつだって長テーブルの上は大皿で一杯だった。

「彼はキサの友達かい?」

 希佐がシチューの下準備を手伝っていると、ロバートがそう声をかけてくる。石畳の道の一角を借りて料理の支度をしている人々とは別に、田中右は未だ教会内の椅子に腰を下ろし、十字架がある辺りをじっと見つめていた。

「いえ、あの人は学校の先輩です」

「彼も役者さんなのかな」

「はい」

 ロバートは田中右の後ろ姿に見入っていたが、希佐の方に視線を戻すと朗らかに笑った。

「せっかくだから、お話をしてきたらどうだい? 人手は足りているから、こちらの心配はいらないよ」

「え、でも──」

「こっちは大丈夫だよ、キサ」ごろごろとしたじゃがいもを、水を張った大きな桶の中で洗いながら、ミゲルが希佐を見上げる。「お話ししておいでよ」

「……じゃあ、そうさせてもらいますね」

 二人の言葉に甘えることにした希佐は、たった一人で神と向き合っている田中右の傍に歩み寄った。一人分の空間を開け、何も言わずに隣に腰を下ろすと、田中右と同じものを視界の中に収める。

『今日の稽古はお休みですよ』

『知っている』田中右はこちらを見ずに答えた。『今日の夕方にロンドンを発つと伝えにきたら、ここで礼拝をやっていた』

『日本に戻られるんですか?』

『ああ』

『そうですか』希佐も正面を見据えたまま、そう静かに応じる。『根地先輩はほっとされるでしょうね』

『毎日時差も考えずに電話を掛けてくるのが煩わしかった』

 ちょっと宙為? 君ってばいつになったら日本に帰ってくるの? 君が帰って来てくれないと、全っ然稽古にならないんだよね──そう言う根地黒門の声が聞こえてくるようで、希佐は思わず笑みをこぼしてしまう。だが、その根地は希佐が最後に見たときの姿のまま、一切成長をしていない。

『お前が歌っているのを見た』

『えっ? あ、ああ、あの動画ですか?』

 田中右のタイムラインにまでそれが届いているということは、それが日本に辿り着くまでに、さほどの時間は要さないのだろう。

 そう思いながら苦笑いを浮かべている希佐を見て、田中右は僅かに目を細めた。

『迂闊でした』

『迂闊?』

『まさか、こんなことになるとは思いも寄らなくて』

『本当にそうなのか』

『はい?』

『お前は、本当は早く見つかりたいと、そう思っているのではないのか』琥珀色の目が希佐を真っ直ぐに見つめ、その言葉を突きつけてくる。『俺の目にはそう見える』

 五年もの時を逃げ回ってきた。いや、この五年間、見つからずにいられたこと自体が奇跡だったのかもしれない。だが、加斉中に存在を認知されてしまった瞬間に、その奇跡に終わりが告げられ、魔法が解けてしまった。

 見つかるのは時間の問題だと思っていた。秘密は白日の下に晒されて、いずれ間違いは正される。立花希佐は女であるという真実を、人々は知ることになるのだろう。

『お前は何もかもを終わらせたがっている』

『田中右先輩にはなんでもお見通しなんですね』

『お前ならば一生を舞台と共に生きていけるだろうと思っていた。昨日の歌を聴いたときも、俺はそう感じた。お前の歌には喜びがあった。自分だけではなく、周囲をも巻き込む、希な才能だ』

『別の方法で歌劇と出会っていたら、何の気兼ねもなく舞台に立ち続けることができたのだろうなとは思います』でも、と希佐は続ける。『性別を偽ってユニヴェールに入学したことは、後悔していません。あのときの三年間があったからこそ、私は今こうしている。たくさんの人々と出会い、様々な経験をして、人間としても成長できたのではないかと思っています』

『舞台を降りて、その後はどうする』

『日本に帰ります』そう答えた希佐を見て、田中右は一瞬だけ目を見開いた。『舞台とは何の関係もない仕事に就くか、後進を育てる道に進むか、まだ迷っているのですが』

『それでお前は耐えられるのか』

『分かりません』希佐は首を横に振る。『きっと舞台を恋しく思ったり、焦がれたりするのだと思います。でも、私はもうこれ以上、嘘を吐き続けたまま舞台に立ち続けたくはないんです。だから、自分の過去を清算できないかぎりは、もう戻っては来られない』

『お前の言う清算とはなんだ』

 ユニヴェールにいた頃から目鼻立ちがはっきりした顔をしていたが、今では更に精悍さが増している。眼差しは鋭く、半ば軽蔑するような視線を向けられると、思わず言葉に詰まってしまった。

『お前自身が女だと露見することか? 露見した上で、お前はどうなりたい? 今スキャンダルを起こせば、お前が大切にしてきたユニヴェールの看板にも、今現在抱えている舞台の看板にも、泥を塗ることになるとは考えないのか?』

『それは……』

『甘えたやつだな』

 じっとりとした目に睨みつけられても、希佐は何も言い返すことができなかった。今、過去の偽りが露見したとして、今後の舞台にどのような問題が付随することになるのか、対象があまりに巨大すぎて、希佐には非常に漠然とした想像をすることしかできない。ただ、多くの人々に迷惑をかけることになるのだろうということだけは明確で、希佐は再び尻込みをしてしまいそうになる。

 前に進むと決めたのに──希佐は、膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。

『お前がやるべきことは、自分が女であることを暴く誰かを待つことか?』田中右は小さくため息を吐いた。『本気で自分の過去を清算したいと考えているのなら、自分の口から真実を語るべきだ』

『で、でも、それでは校長先生が──』

『中座は疾うの昔に覚悟を決めている』唖然とした表情を浮かべる希佐を見て、田中右は続ける。『あの男が何の覚悟もなく女のお前をユニヴェールに招き入れたとでも? もし在学中に女であることが周囲の知るところになっていれば、あの男はすべての責任を負って校長の座を退いていただろう。それで理事も大喜びだ。あの男のやり方が気に食わないという連中は大勢いる』

『それなら、私が女であることが今表面化したら、同じことになるんじゃ……』

 希佐はそこまで言ってから、不意に、中座秋吏と電話で話したときのことを思い出した。去年の年末、コインランドリーから電話をかけたときのことだ。

「お前はもう自由になっていい。好きなように生きていい。周りの目を気にして、隠れるように生きる必要はない」

 大きな舞台のオーディションに合格したと伝えたら、中座はまるで自分のことのように喜んでくれたと同時に、そう言って希佐の心を解放しようとしてくれた。

「それはお前が自分自身の手でつかみ取った夢なんだろ。だったら、その夢を全身全霊で叶えてみせろよ。俺はまた、お前がでっけぇ舞台の真ん中で、眩しいくらいに輝いている姿を見てぇのさ。そりゃ、日本人が主役を張るんだ、こっちのマスコミは面白がって甘い蜜に群がる蟻みてぇに押し寄せてくるかもしれねぇが、そんなものは無視していい。全責任は俺が負う。それが、ユニヴェール歌劇学校の校長のけじめってやつだよ」

 ああ、あのときはまだ、この言葉に秘められた中座秋吏の覚悟を汲み取れてはいなかったのだと、希佐は思った。あのときはただ、中座が自分の心に優しく寄り添ってくれたのだと、そう思っていた。その事実が嬉しくて、深くは考えないようにしていたのかもしれない。

『……前に電話で話をしたとき、校長先生が言ってくれたんです。私はもう自由になっていいって。好きなように生きていいって』

『それはいつの話だ?』

『年末に』希佐は痞えが取れることを願って息を吐くが、胸は苦しくなる一方だった。『もう周りの目を気にして、隠れるように生きる必要はないと、そう言ってくれました。もしマスコミが大勢押し寄せてきても無視をしていい。全責任は自分が負う。それが、ユニヴェール歌劇学校の校長のけじめだ、って』

 その言葉の本当の重みを、希佐は今更ながらに感じていた。

 中座は生半可な気持ちでそのようなことを口にしたりはしない。そこにあるのは言葉通りの意味で、心の底から、立花希佐には自由に生きてほしいと、そう思ってくれているのだ。

 ずっとお前を応援していると、お前が誇らしいのだと、実の父親ですら言ってくれないようなことを、中座は真っ直ぐに伝えてくれた。

 中座ならば、自分が正しいと思うことをしろと、そう言うのだろう。自分の進みたい道を歩いて行けと。

 その言葉が嬉しくてたまらないのに、今はそれと同じくらい、とてつもなく苦しい。

『中座はお前の決断を待っている』

『はい』

『あとはお前自身が考えて決めるだけだ。あまり時間はないだろう。考えている間に、誰かがお前を見つける』

『……はい』

『人間は他者を傷つけながら生きていく動物だ』田中右が冷ややかな声でそう告げる。『今更何を悩む必要がある? お前は既に大勢の人間を傷つけ、苦しめてきただろう。その上にお前の人生は成り立っている。帰り道はもうどこにもない。振り返ったところで、そこにあるのは死屍だけだ』

 そのとき、田中右の言わんとしていることを瞬時に察知し、希佐の背筋が、ぞくり、と震えた。

『分かっているはずだ、立花希佐。お前はもう瀧姫ではない』ああ、ぞっとする。『お前が、がしゃどくろだ』

 それを、他の誰でもなく田中右宙為に言い渡されたという事実が、希佐を更なる失意のどん底へと突き落とそうとした。だが、自分がもし本当にがしゃどくろなら、これ以上落ちていく場所などありはしないのだと、そう思う。これからはもう、地の底から這い上がっていくだけなのだ。骨と化した死屍を掻き集めて作った体で、がしゃり、がしゃりと。

 ああ、でも、確かに──次の公演で演じることになっている女は間違いなく、がしゃどくろだと、希佐は思った。

 そこまで考えたところで、微かに表情を和らげた希佐を見て、田中右は僅かに目を伏せる。そして、着ていたジャケットのポケットから何かを取り出したかと思うと、握った拳を希佐の前に差し出してきた。

『……なんですか?』

 だが、田中右は何も答えない。不審に思いながらも希佐が右手を差し出すと、田中右はその手の平の上に、ぽとり、と小さな丸いものを落とした。焦げ茶色のごつごつとしたそれは、木の実か何かのように見えた。

『これは……?』

『シヴァ神の涙と言われている菩提樹の実だ』キリスト教の教会でインドの神の名前を口にすることになんの罪悪感も覚えないのか、田中右は更に続ける。『インドでは数珠を作る素材として重宝されている。これは旅の途中で拾ったものだが、俺には不要なものだ』

『い、いただけるんですか?』希佐がそう問うと、田中右の目が頷くように伏せられた。『ありがとうございます』

 こんな木の実は見たことがないと思いながら、手の平の上のそれを眺めていると、田中右が徐に立ち上がる。そして、希佐に背中を向けると、教会の外に向かって歩き出した。

『あの、せっかくなのでシチューを──』

『他にも行くところがある』

『……そうですか』希佐は椅子から立ち上がり、田中右の背中に向かって声を放つ。『校長先生によろしくお伝えください』

 すると、田中右はぴたりと足を止め、肩越しに希佐を振り返った。希佐はこちらを見つめるアンバーの目を見据え、小さく息を吐く。

『立花希佐も覚悟を決めます、と』

『……そうか』そのとき、ふと、田中右が笑みを浮かべたように、希佐には見えた。『うまくいくことを祈っている』

 イライアスは、田中右宙為は良い人だと言った。

 ユニヴェール時代、田中右宙為は希佐にとって、高い、高い壁だったのだ。好敵手と呼ぶにはおこがましく、かといって真正面から眼中にないと言われると悔しく思ってしまうような、そんな人だった。

 特に二年に進級してからは、アンバーの田中右宙為、クォーツの立花希佐と、対比するように名前を並べられることが増えた。まるで光と闇だと。

 だが、多くの者は知らない。田中右は眩いばかりの光の中に存在する一点の闇であるということを。そして立花希佐は、漆黒の中に存在する、一点の光だということも。陰陽太極図のように、曖昧に混じり合って、互いを支え合っていた。

『……ありがとうございました、田中右先輩』

 もう見えなくなってしまった人に向かって、希佐はそう言って頭を下げる。その瞬間、ぎゅっと握り締めた手の平の中にある小さな木の実が、どくん、と脈動したように感じられた。

 

 

 それからの一週間は、ただ静かに過ぎていった。

 月曜と火曜にはジョシュアとの歌の稽古を、水曜と木曜と金曜には、ルイとのダンスの稽古をいつも通りに行った。それ以外の時間は、歌やダンスの自主稽古やフランス語の勉強などに当て、孤独な七日間を過ごした。

 そのうちひょっこりと帰ってくるだろう、という楽観的な考えを捨て去ったのは、アラン・ジンデルが姿を消して、一週間が過ぎた日の夜のことだ。

 最初の一日、二日は「アランはどうしまシタか?」と尋ねてきていたルイも、週末が近づくと、何か察したような顔をして、その話題を口にすることはなくなった。

 行くところがあるらしい、今は出かけている、留守にしている、などと言い方を変えながら不在を伝える度に、希佐は自分の中にある嫌な予感が、どんどん大きくなっていくのを感じていた。

 その間、電話を掛けても一切通じず、かといって電話が掛かってくるわけでもない。自分自身の意思で帰らないのなら良いのだ。だが、もし何かの事故や事件に巻き込まれていたとしたら──そう思うと、希佐は気が狂いそうになった。

「キサ」土曜日の夕方、様子を見に来てくれたらしいイライアスが、スタジオで一人踊っていた希佐にそう声をかけてくる。「大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「……そう」

 イライアスはしばらくの間、希佐が踊っている姿を床に座って眺めていたが、もう行くね、と言って立ち上がると、足早にスタジオを出て行った。

 こういうときにはどうすればいいのかを、希佐は知っていた。何よりも、普段通りに生活をするのが一番だ。いつもの時間に目を覚まし、朝のルーティンをこなして、稽古をする。勉強をするのもいい。

 日のあるうちは会話が多いわけでもなく、ただそこにいるだけの存在だった。だから、いつも通りに過ごしている間だけは、無駄なことを考えずにいられたのだ。

 もうずっと胸が苦しかった。でも、それを吐露することはできない。そうする資格が自分にはないと分かっている。

 暖房も入れられていないスタジオで汗だくになり、倒れるまで踊り続けた希佐は、天井を見上げながら白い息を浅く吐き出した。たいして食べもせず、眠れない夜を過ごしているせいで、体力が続かないのだ。昨日もそのせいでルイを怒らせてしまった。

「こんな気持ちだったんだ……」

 五年経ってようやく、希佐は置いていかれる者の気持ちを理解することができたのだ。人を置いて逃げ出す方がずっと簡単で、楽なことだったのだと、身を持って知った。

 何一つ連絡もなく、どこにいるのか、無事でいるのかも分からない。そんな状況が延々と続く。自分はこれを五年も続け、置いていった者の心に重石を乗せて、苦しみを強いてきたのだ。

 自分のことなど忘れてほしいと思った。だが、忘れられはしないのだ。希佐がこうして毎日あの人のことを思っているように、日本に残してきた仲間たちもまた、立花希佐のことを思い出して、この身を案じているのかもしれない。そう思うと、どうしても居た堪れなくなって、希佐は一日中踊り続けていたのだった。

 だから、自分にはアランの行動をとやかく言う権利はないのだと、希佐は思う。どうして連絡をくれないのだと不満を漏らすことも、どこにいるのだと詮索して回ることも、自ら探しに出ることもしない。ただ待つだけだ。自分が探してほしくないと思ったように、アランも同じように思っているかもしれないから。

 次の日曜日は、スタジオから一歩も出ずに過ごした。冷蔵庫はずいぶん前から空っぽで、レトルトや缶詰も食べ尽くしてしまったので、冷凍庫に残っていたアイスクリームを一つだけ食べた。外は土砂降りの雨だった。

 月曜日、火曜日は歌の稽古。水曜日、木曜日、金曜日は、ダンスの稽古を行う。稽古には不思議と身が入った。その方が楽だと体が理解しているのだろう。だが、無理はいつか祟る。無気力が押し寄せてくる。それを押し退ける努力はしてみるものの、上手くはいかない。

「……相談しなきゃ」

 一番の理解者で、相談相手だった人物が傍にいない現実を、受け入れるべきだと希佐は考えていた。待っていたところで、もしかしたら、もう二度と帰ってくることはないのかもしれないのだから。

 希佐はもう何日もベッドに使っている事務室のソファに腰を下ろすと、充電が切れないようコンセントに繋いだままにしているスマートフォンを手に取り、連絡先を呼び出して、それを耳に当てた。

『Hello』いつもと変わりないスペンサー・ロローの明るい声が、電話越しに聞こえてくる。『君から連絡をくれるなんて珍しいね、キサ』

 アラン・ジンデルが姿を消したことは、希佐の口からは話していない。だが、ルイからは話を聞いているはずだ。それとも、アランが今どこにいるのかを、この人は知っているのだろうか。

 希佐は一瞬のうちに様々なことを考えるが、その感情の一切に蓋をして、口を開いた。

「実は、スペンサーさんにお話ししたいことがあるんです」

『……それは良い話? それとも、悪い話かな』

「分かりません」

 本当に分からないのだ。そう思っている希佐の感情を汲み取ったのか、スペンサーはそれ以上、深く尋ねてこようとはしなかった。

『分かった。じゃあ、明日は午後から公演の準備があるから、午前中なら少しは時間を取れるよ。十時にヘスティアはどう?』

「はい、大丈夫です」

『では、明日の十時に』

 おそらく今も、公演の準備で忙しくしていたのだろう。電話口の向こう側からは、忙しそうな話し声や、人々の動きが感じられていた。そんなときでも自分のために時間を取ってくれるというのはありがたいことだ。

 先日の動画が拡散された日以来、顔を合わせるのは初めてのことなので、もう一度きちんと謝罪もしておいた方がいい。本当なら希佐自身が出向くべきところを、演出家とプロデューサーが、向こうのカンパニーまで挨拶に行ってくれたのだから。

 希佐はかじかむ指先を擦り合わせて温めながら、部屋から持ってきた厚手の毛布で、すっぽりと体を包み込んだ。本や書類が山のように積み上がったテーブルの上に手を伸ばすと、リモコンを取ってテレビの電源を入れる。プレーヤーに入れたままにしていたフランス映画を再生すると、ソファの肘掛けに頭を乗せて横になった。

『今日はどんな一日だった?』画面の中の登場人物が、恋人に向かってそう声をかけている『私はあなたがいてくれるだけで幸せな一日だった』

 フランス語の勉強をはじめて、間もなく一ヶ月だ。ルイの言葉を理解するために大急ぎで単語を掻き集めているおかげか、日常的な会話はある程度理解できるようになってきていた。たまにフランス語で反論をすると、ルイは少し不満そうな顔をして、言葉の勉強をしている暇があるなら、一つでも多くのポジションを正確に保てるようにしろと言い返してくる。ダンスはパッションで、言葉は不要だというのが、ルイの考えらしい。とはいえ、スペンサーからはフランス語を学ぶようにと言われているので、今更やめるわけにもいかなかった。

『……あなたのいない日々は、まるで大昔の古い映画みたいに、色褪せて感じられるの』希佐はすっかり覚えてしまった台詞を、映画の登場人物に合わせて口にする。『音のない世界に迷い込んでしまったみたい。何もかもが味気なくて、それに、とても寒いのよ』

 女はそう言いながら、死んだ恋人の墓標を撫でている。

 縁起でもないと、そう思った希佐は、すぐに停止ボタンを押してテレビの電源を落とした。真っ暗になった部屋の中、手探りでスマートフォンを探し当て、今日のニュースのページを開く。死亡事故や事件の記事に、それらしい記載がないことを確認して、大きく息を吐き出した。

 どこへ行ってしまったのだろうと思う。だが、それ以上に、どうか無事でいてほしいと願っていた。毎朝教会に足を運び、神様に祈っている。もうこれ以上、自分からは何も望みません。だから、あの人がどこにいても、暖かい太陽の日差しが降り注ぎますように、と。

 もし、希佐がここに留まっていることで帰ってこられないのなら、出ていく準備が必要になるのだろう。ここはアラン・ジンデルの家なのだ。希佐は居候しているに過ぎない。平日の昼間はみっちりと稽古が入っていても、夕方からの時間と休日はある程度自由だ。他の若手の役者たちがそうしているように、掛け持ちで仕事をはじめれば、アパートの家賃を払うことも、そう難しいことではないだろう。そうすればアランがこのスタジオに戻ってくるというのなら、喜んでそうすると希佐は思っていた。

 嫌われても、憎まれても、疎まれたとしても、それで構わない。ただただ、あの人が無事でいてくれたら、もう何も望まない。だがしかし、この石が詰まっているかのような胸の痛みは、どうしようもなく希佐を苦しめた。

 何もかも自分のせいだとすら思ってしまう。自分はあの人を救おうとしたが、結果的には、その行いがアラン・ジンデルを追い詰めてしまっていたのだ。

 謝っても謝りきれない。どちらに向かって謝ればいいのかも分からない。悲しくはないのだ。つらいと漏らすことが許される身分でもない。ただ、申し訳が立たないと思う。こんなはずではなかったという言い訳は、口が裂けてもできはしない。

 アランのことを思うと、指先が凍えて、じりじりとした痺れを感じた。呼吸が浅くなって、息の吐き出し方を忘れそうになる。自分の心と体を痛めつけていなければ、正気を保つこともできない。

 体温を感じたいなどと贅沢なことは言わない。顔を見たい。声を聞きたい。それだけでいい。でも、そう思えば思うほど、自分の罪深さを思い知り、たまらなく消えたくなるのだ。

 希佐はアランがいつも枕代わりに使っていたクッションを抱き締めると、強く目を閉じた。あと何日が過ぎ去れば、この苦しみは薄らいでいくのだろう。この全身に入った無駄な力が抜けて、現実と向き合えるようになるのか。自分に何と言い聞かせれば、潔く諦めることができるのかを、誰か教えてほしい。

 

 

 翌朝も同じルーティンをこなし、教会に行ってお祈りを済ませてから、スペンサー・ロローと待ち合わせをしたヘスティアに向かった。

 ヘスティアは日曜日だけは昼間の営業も行っていて、そこで出されるサンデーローストが絶品だと有名だった。ヨークシャープディングと厚切りのローストビーフがヘスティアでは定番だが、他にもポークやマトン、ラムから選ぶことができる。添えられたポテトは甘くてホクホクとした食感だ。他にも、その時々に合わせてローストした野菜が添えられる。肉にかけるグレイビーソースはヘスティア独特の配合で、秘伝のレシピらしい。

 希佐は約束の時間よりも早くヘスティアに到着した。店内に足を踏み入れると、夜の営業とはまったく違った客層の人々が目に飛び込んでくる。親子連れも多いようだ。希佐はテーブル席を避け、誰もいないカウンター席に向かうと、そこに腰を下ろした。

「君が日曜日の昼間から顔を見せるなんて珍しいね、キサ」日曜の昼間を任されているベテランのバーテンダーが、そう声をかけてくる。「ご注文は?」

「人と待ち合わせをしているの」

「そうか。じゃあ、待ち人が現れてからもう一度注文を聞きにくるよ。飲み物はどうする?」

「お水をもらえる?」

「ああ、もちろん」

 希佐は氷の入れられたグラスと瓶を受け取ると、その場で水の代金を支払った。備え付けの栓抜きで瓶の蓋を外し、水をグラスに注ぎ入れると、僅かに口を湿らせる。

 また後でね、と言ってカウンターを離れていったバーテンダーに軽く手を振り、希佐は着ていたジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。画面を点灯させ、現在の時刻を確認する。午前九時四十分──待ち人は、まだしばらくはやってこないだろう。

 明るい時間帯にヘスティアにやって来ると、ここで働かせてもらっていた頃のことを思い出す。メレディスが気を使ってくれていたおかげで日曜のシフトに入ることはほとんどなかったが、平日は他のスタッフよりも早くやってきて、フロアの掃除をするのも希佐の仕事の一つだった。当初は早く仕事に慣れようと自主的に行っていたことだったが、メレディスがその分の給料を上げてくれたのだ。

 掃除を早く終わらせ、他のフロアスタッフたちがやって来るまでの時間に、ピアノを弾かせてもらったり、メレディスや早めにやって来るキッチンスタッフたちにダンスを見てもらうのが、希佐は好きだった。

 またこの店で働かせてもらえれば嬉しいが、自分のような者が入るよりも、将来有望な役者の卵を雇ってもらう方がずっといいに決まっている。

 そう考えながら、希佐がスマートフォンを使ってこの辺りの求人情報を探していると、とん、と後ろから肩を叩かれた。

「やあ、待たせてしまったかな」

「いえ、時間通りです」

「でも、君は待ったんだろう?」結露したグラスの底に水が溜まっているのを見て、スペンサー・ロローが言う。「待たせてしまったお詫びに、何かご馳走させてもらおうかな」

「私はここへ来る前に食べてきたので」

「そうかい? じゃあ、私だけでもいただこうかな。ここのサンデーローストは絶品だと聞いているからね」

「ローストビーフがおすすめです。厚めがお好みなら、注文時に応じてもらえますよ」

「ああ、そういえば、君はここで働いていたんだったね」

 そう言いながらスペンサーが手を挙げると、先程のバーテンダーが戻ってくる。彼はスペンサーの注文を聞いた後に希佐を見るが、首を横に振るとすぐに下がっていった。

「先日はお騒がせをして本当にすみませんでした」

「セント・パンクラス駅でのことかな」しおらしくする希佐を見て、スペンサーはコートを脱ぎながら苦笑いを浮かべた。「私の方こそ

大人気ない姿を見せてしまって申し訳なかったと思っているよ」

「いえ、私が自分勝手な行動をしてしまったばかりに、多大なるご迷惑をおかけしてしまったことに変わりはありませんので」

「君は本当に真面目な子だねぇ」僅かに呆れたような物言いでそう口にしてから、スペンサーは思い出し笑いをする。「ああ、いや、すまない。実はね、向こうのカンパニーにご挨拶に上がったら、怒られるどころか感謝されてしまったのさ」

「えっ、感謝ですか?」

 感謝される意味が分からずに素っ頓狂な声をあげる希佐を見て、スペンサーは更に笑みを深くした。

「君のおかげでチケットが飛ぶように売れているらしい。近々君のところのスタジオ宛にチケットが送付されてくるはずだ。君を招待したいと言っていたからね。誰かを誘って一緒に観に行くといい」

「は、はい……」

「君の動画は概ね好評だよ。間を開けずに別の動画を公開したのも、それなりに功を奏したようだ。私が懸念していたイメージの定着というのも避けられたと思う。だから、もう気に病む必要はない」

 あれから二週間が過ぎて、人々が一つの事柄に熱狂できる時間の短さというものが、よく分かったような気がする。一つの事柄が話題に上ったところで、また次の話題が世間を賑わせれば、順番に忘れ去られていくものだ。ロンドンの人々は、また次の新しいことに、目を向けはじめている。

 バーテンダーが運んできた大皿を受け取り、感謝の言葉を口にしたスペンサーは、ナプキンを膝の上に敷きながら口を開いた。

「君の話というのは、このことだったのかい?」

「いえ、違うお話です」

「舞台のことについてかな」スペンサーはナイフとフォークに伸ばしかけた手を一度引いた。「食べながら聞いてもいいだろうか」

「はい、どうぞ」

 あまり愉快な話題とは言えないので、面と向かって話をするとなると、空気が重苦しくなってしまうだろう。もっと軽い気持ちで聞いてくれた方が話しやすいと、希佐は思った。

「わざわざ私に話があると持ちかけてくるくらいだ、何か重要なことなのだと推察するが……」

「私が日本にある歌劇学校の生徒だったということは、ご存知だと思います」

「ユニヴェールだね」

「はい」分厚いローストビーフを切り分け、それを頬張る様を眺めながら、希佐は続けた。「ユニヴェールは男子校です。女である私には本来入学できない場所──それが、ユニヴェール歌劇学校です」

「そうだね、不思議には思っていたよ。でも、君やアランがさも当然のようにユニヴェール時代のことについて語るから、あえて触れてはこなかったんだ。いや、無意識に触れてはいけないことだと思っていたのかな。知らないふりをしていた方が好都合、ということもある」

 希佐はスペンサーの言葉を受けて、大きく深呼吸をした。覚悟を決めるのだ。そう、決めたのだ。

「ユニヴェール時代の三年間、私は男として、あの学校に在籍していました。女だということが露見したら即退学、という条件付きで」

 膝の上に乗せた自らの左手を握り締める。冷え切った指先は、相変わらずじりじりと痺れているように感じられていた。

「君は無事にそれをやり遂げたわけだ」

「いえ、何人かの生徒には、卒業前に女であることが露見してしまっていました。二つ上の先輩には、入学試験の時点で女だと気付かれていたので、この条件は最初から破綻していたんです。私は、私を女だと知っていながらも、それを悟られないよう振る舞ってくれた人たちの助けを得て、ユニヴェールでの最終公演を迎えることができました。でも、最終的に私は良心の呵責に苛まれて、卒業前にユニヴェールから逃げ出し、日本を飛び出してしまったんです。それ以降はご存知の通り、アイルランドを経てイギリスで生活しています」

「良心の呵責、ねぇ」

「自分でも都合の良い言い方だなと思います。でも、たとえ卒業後であったとしても、私の性別が世間の知るところになってしまえば、私の夢を叶えてくれたユニヴェールの看板に泥を塗り、三年間私のことを守り続けてくれていた先生や、仲間たちに迷惑をかけてしまうと思うと、どうしても日本に留まり続けることが悪手に思えてしまって」

「うーん」スペンサーはローストビーフを咀嚼しながら、小さく唸り声を上げた。「いかにも子供が考えそうな自己犠牲的な選択だ」

「自己犠牲的……」

「これは私の想像でしかないが、おそらく、君をユニヴェールに入学させた当人は、君が卒業すると同時に、すべての情報を開示するつもりだったのではないかな。だって、そうしなければ、君はその後の人生を真っ当に生きていくことができないだろう? 最終的には君が望んだこととはいえ、話を持ちかける者がいなければ、君はユニヴェールに入学することはなかった。それに、年頃の女の子に男として振る舞えなんていう注文は、本人の人格形成にも関わってくる。最も多感な時期だからね、通常は推奨されるべきことではないと私は思う」

「では、私の選択が時期尚早だった、ということですか……?」

「これはあくまで私の個人的な考えであって、実際にどうだったかは分からないよ。今更指摘したところで詮ない話でもある。事実、君は卒業を待たずに学校から逃げ出し、後先考えることなく飛行機に飛び乗った。それで良かったのか、悪かったのかを判断するのは、当然だが私の役目ではないからね」

 そんなことは私の知ったことではない、とでも言いたげな口振りが、いっそ清々しいと希佐は思った。

「話の続きを聞こうか」

「はい」希佐は水で喉を潤してから、再び口を開いた。「私は自分が女であることを隠すために日本を出ました。ユニヴェール関係者、その母体である玉阪座、それに、ユニヴェールや玉阪座の歌劇を好きで、応援してくれているファンの目から逃れるためには、海外に行くのが得策だと、当時は考えていたからです」

「でも、君が思っていた以上に、この世界は狭かっただろう?」

「はい、想像以上に」

「舞台に魅せられた多くの役者はアメリカのブロードウェイや、ここロンドンのウエストエンドの劇場に立つことを夢見てやってくる。日本人も例外ではない。その証拠に、私は多くの日本国籍の役者と仕事をしてきたし、君やアタルもその中の一人だ。ただ残念なことに、君たちのように主役級の配役を得られる機会に恵まれることは少ない。だから、実際には多くの日本人が活躍をしていても、それは全体のごくごく少数だと思われている。たまにミュージカルの養成学校に講師として招かれるが、日本人の子供たちは意外に多いんだよ」

 希佐は外国で暮らすようになってからずっと、日本人を遠ざけて生きてきた。どこでユニヴェールに繋がっているのかが分からない以上、迂闊に人付き合いをするわけにはいかなかった。

 外国の地で日本人に出会うと、途端に嬉しくなってしまう気持ちは分かる。母国語が恋しくなって、日本語を話したくなる気持ちも理解はできるのだ。だが、名前を名乗るだけで一発アウトという事態が、希佐には起こりかねなかった。

「スペンサーさんに招待されて舞台を観に行ったとき、何人かのユニヴェールフォロワーを見かけました。日本から飛行機に乗って、遥々加斎くんの活躍を見にきた、熱心なファンの方々でした。加斉くんは嬉しかったと思います。でも、私にとっては恐怖でしかありませんでした。もし私が立花希佐だと知られてしまったら、彼女たちを起点にして、真実が広がっていってしまうのではないかと恐れたんです」

「君は目立つような行動は避けたかったわけだね。だから、商業の舞台には頑なに立たなかった。マクファーソン兄弟に請われて仕方なく応じたときも、アンサンブルに留まっていた」

「はい」

「でも、君は商業の舞台に立つと決めた。このことに関しては、私は君に対してとやかくは言えないな。なにせ、私自身が焚き付けたようなものだからね。でも、やっぱり君は断ることもできたわけだ」

「おっしゃる通りです」

 でも、断らなかった。希佐はアラン・ジンデルが描く世界の中で生きる、自分以外の誰かを見たくはなかったのだ。それと同時に、自分以外の誰かが、アラン・ジンデルが理想とする世界を忠実に演じられるとも思えなかった。今、この世界で、彼の物語を最も輝かせることができるのは自分なのだという自負が、希佐にはあった。

「私はきっと、自分自身の幕引きの瞬間を、ずっと探していたのだと思います」

「……幕引き?」

 そう言うスペンサーの表情が、ここに来て初めて怪訝そうに顰められた。口に運ぼうとしていたフォークを皿の上に置くと、口元をナプキンで拭っている。

「私は過去から逃げ続けてきました。でも、もうユニヴェールはすぐそこにまで迫ってきているんです。先日日本に帰国した田中右先輩も、ネット上で拡散された私の映像を見つけて、わざわざロンドンまで訪ねてきてくれました。多分、忠告の意味もあったのだと思います。お前はもう逃げられない、覚悟を決めろって」

「それで、君はどうするつもりなの?」

「歪曲された真実が露見してしまう前に、自分の口から伝えたいんです。ユニヴェール歌劇学校78期生、立花希佐は、女であると」

「……話は理解したよ」スペンサーは小さく咳払いをすると、体ごと希佐の方を見た。「だが、どうしてその話を私に? もっと適任者がいると思うが」

「マダム・ルーにお話しする方がいいのかもしれないとは思いましたが、まずはスペンサーさんにお話しするのが筋かと──」

「ああ、いや、そうではなくて」スペンサーはあからさまに、困ったな、という顔をしながら頭を掻いていた。「アランはこの話を知っているのかい?」

「いいえ、知りません」

 相談しようにも、その男は今、どこにいるのかも分からないのだ。希佐はそう思いながら、話を先に進める。

「ユニヴェール歌劇学校は日本でも有数の芸能育成校です。男子校に女子生徒が紛れ込んでいたことが周知となれば、日本ではそれなりの騒ぎになります。貞操観念や倫理観には厳しいお国柄ですから。それに、これは日本だけに留まらず、このロンドンにまで及ぶはずです。マスコミは面白おかしく報じるでしょう。次の公演で主演をつとめる予定の役者が、スキャンダルの的になるんです」

 希佐は自分を見つめるスペンサーの眼差しから逃げることはしなかった。真っ直ぐに見つめ返しながら、言葉が返ってくるのを待つ。

 スペンサーは無意識にズボンのポケットをまさぐるような仕草を見せたあと、思い出したように手を引き、苦笑いを浮かべた。

「いやあ、どうもいけないね。何かを深く考え込んでいると、やめたはずの煙草を体が欲してしまうようなんだ」

「煙草を吸われていたんですか?」

「怪我でダンスを辞めざるを得なくなったときに、何年かね。当時は自暴自棄になっていたんだ。薬物に依存しなかっただけマシだったとは思うけれど」スペンサーの声には、少なからず後悔が滲んでいるように感じられた。「しかし、どうかな。君のそれは、必ずしも世論から袋叩きに合うような問題ではないように思うが」

「……どうしてですか?」

「世界は変わりつつある。今は多様性が求められる世の中だよ。まあ、イギリスも伝統にうるさい国ではあるが、男女平等が叫ばれて久しい。男子校や女子校をなくして、すべての学校を共学に、なんていう運動だって行われているくらいだ。だから、多少騒ぎ立てられることはあっても、そこまで深刻に捉える必要はないのかもしれない」

 楽観的過ぎやしないかと希佐は思った。問題は、もっと根深いところにあるのだと、希佐は考えている。立花希佐が男か女かという問題よりも更に深刻なのは、五年もの間、嘘を吐き続けてきたという事実だ。潔く舞台を退き、普通の生活を送ってきたわけではない。大きな嘘を吐き通したまま、臆面もなく舞台に立ち続けてきた。

 スペンサーは希佐の深刻そうな面持ちをじっと見つめたあと、肩の力を抜くように軽く息を吐き出した。

「君のそれは人権に関わる大切な問題だ。君がそうしたいというのであれば、私は反対しないよ。それが原因で何らかのバッシングを受けることになったとしても、君を私の舞台から追い出したりはしない」

「ですが──」

「問題がないとは言わないよ。方々に頭を下げて回ったり、騒ぎを払拭するための尽力は、並大抵ではないのかもしれない。だが、君はそのリスクを負っても尚あまりある役者だ。絶対に手放すつもりはない。たとえ小さな劇場でしか公演が適わなくなったとしても、君を手放すよりはずっとマシだ」

「スペンサーさん……」

「少しは見直してくれたかい?」にっこりと笑いながら余計なことを言うスペンサーを見て、希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまった。「私たちにまで嘘を吐いていたのならまだしも、君はユニヴェール時代のことを包み隠さずに話してくれていただろう? だから、実はある程度の予測はできているし、もしかしたら過去の問題が浮き彫りになるかもしれないという話は、オーディションの段階から持ち上がっていたことではあるんだ」

「えっ、そうだったんですか?」

「キサがそのことで思い悩み続けているという話はアランから聞いていたしね」

「そう、だったんですね……」

「どのように公表するかは考えているの?」

「あ、いえ」希佐は慌てて首を横に振る。「ただ、自分の口から説明をするためには、あらかじめ動画で撮影しておくのが適しているのかなとは思っています。ユニヴェールの校長先生にも確認してもらう必要がありますし、校長先生が公表を待ってほしいとおっしゃる可能性も、皆無ではありませんから」

 この場合、日本語と英語、両方の動画を準備する必要があるのだろう。撮影時期を考え、撮影場所を確保し、機材や原稿の用意もしなければならない。

 上手くいくかは分からない。だがしかし、何もしないよりはいいと思う。良くしてくれた人たちに火の粉が飛んでしまう前に、なんとかしたいのだ。

 考えていたことを打ち明けたことで僅かに肩の力が抜け、強張っていた表情が和らいできた頃、その表情の変化を目の当たりにしていたスペンサーが、そうだ、とばかりに口を開いた。

「その動画の撮影、私が手伝わせてもらっても構わないかな」

「えっ?」

「なに、君一人では大変だろうと思ってね」

「ですが、スペンサーさんはお忙しいでしょうし──」

「時間のやりくりならどうとでもなる。それに、少しでもダメージが少なくなるように演出することも重要だ。私は君の役に立てると思うよ」

「も、もちろん、ご助力いただけるのなら、私としても大変助かるのですが……本当によろしいのでしょうか?」

「私がやらせてくれと頼み込んでいるのだから、何の問題もないだろう?」

 不安がないと言えば嘘になる。だが、自分一人で行うには、どこからはじめればいいものかと途方に暮れかけていたのも事実だ。他に相談できる相手もいない。

「……いろいろと教えていただけるとありがたいです」

「でもまあ、プロデューサーとスポンサーを説得する必要はあるんだけど。あの人のことだから、大丈夫だろう」あの人、と言うだけで、希佐の脳裏にはクロエ・ルーの姿がよぎった。「彼女、最近野良猫を拾ったとかで、一緒に住める家を探しているそうだよ」

「野良猫ですか?」

「この忙しい時期に物件探しを手伝えと言うんだ。付き合うだけ面倒だから知り合いの不動産屋を紹介しておいたけど、あの気まぐれな人に猫なんて育てられるのか心配でね」

 そう言いながら腕時計を見やったスペンサーは、あっ、と声を上げると、慌てた様子で残っている料理を掻き込みはじめた。随分長い時間話し込んでしまっていたようで、時刻は間もなく正午を迎えようとしている。

「今日は貴重なお時間をいただいてしまって……」

「いや、君とこういう話ができてよかったよ」スペンサーは財布から取り出した料理の代金をカウンターの上に置いた。「詳しい話はまた今度、近いうちに連絡をするよ」

「はい」

「歌とダンスの稽古、大分熱が入っているみたいだね」隣の椅子に置いていたコートを着ながら、スペンサーが思い出したように言う。「ルイとジョシュアが君のことを褒めていたよ。よくやっているって」

「本当ですか? 嬉しいです」

「でも、まだまだ先は長い。根を詰めすぎないように」

 ではね、と言って歩き出したスペンサーはしかし、少し進んだ先でこちらを振り返った。

「キサ」

「はい、なんですか?」

「……」

 スペンサーは希佐を真っ直ぐに見つめていたが、何やらばつが悪そうに視線を彷徨わせたかと思うと、少しだけ乱暴に頭を掻いた。

「時間があるようなら、今から舞台稽古の見学に来るかい?」

「え、今からですか?」

 希佐はそう言って目を丸くしてから、何となくその意図を察して、困ったように笑ってしまう。

「ありがとうございます。でも、午後からはダンスの稽古をしようと思っていたので、また次の機会に伺わせてください」

「稽古もいいが、たまには息抜きも必要だよ」

「はい」

 無理に食い下がるようなことはせず、スペンサー・ロローはそのままヘスティアを出て行った。タイミングを見計らっていたらしいバーテンダーは、テーブルの上の代金を胸のポケットに入れると、汚れた食器を素早く下げる。その姿を眺めながら希佐が席を立つと、バーテンダーはこちらに目を向けた。

「帰るの?」

「ごめんなさい、食事もしないで」

「いいよ」

 バーテンダーはまたおいでと言って軽く片目を瞑り、まとめた食器を抱えてキッチンへと入っていった。

 賑わいが増す一方のヘスティアを出た希佐は、冷たい空気に心地よさを覚えながら帰路についた。

 帰っているはずがないと分かっていながらも、淡い期待を抱いてしまうのは仕方がないことだ。だが、がらんどうとしている誰もいないスタジオにも、そろそろ慣れてきてしまっている。

 主人の帰りをただ静かに待っている事務室のPCの前に、希佐はコートを着たまま腰を下ろした。先程調べていた求人と物件情報を呼び出し、それらを次々とプリントアウトしていく。

 途中、間違って撮ってしまったスクリーンショットを消すためにゴミ箱のアイコンを開くと、その中に一つだけ、希佐が撮ったスクリーンショットとは別の画像が残されていた。

「……ピアノ?」

 おそらくはこれもスクリーンショットで保存されたものだろう。中古のアップライトピアノの写真の下には、店の住所と電話番号が記されている。ロンドン市内にある店舗のようだ。

 希佐は何の気なしにスマートフォンを取り出すと、そのピアノを販売しているらしい店に電話をかけてみることにした。アランが以前からピアノを買おうかどうか迷っているのを知っていたからだ。

『Hello』どこか不機嫌そうな男性の声が電話越しに聞こえてくる。『買取り? それとも修理?』

「あ、いえ、ホームページに掲載されている中古のピアノの写真を見てお電話したのですが」

『ピアノの写真? ああ、うちの倅が勝手に載せた写真か。ベーゼンドルファーのアップライトだろう? 随分前に消させたはずなんだがね。ありゃ売りもんじゃねぇんだ』

「そうだったんですね、すみません、売り物と勘違いしてしまって」

 アランも勘違いをして電話をかけ、売り物ではないと断られてしまったのだろうか。スクリーンショットを撮った画像が不要になり、ゴミ箱に入れたのかもしれない。そのまま消し忘れていただけなのだろう。

 そう思い、希佐が挨拶をしてから電話を切ろうと考えたそのとき、電話の向こう側にいる男が再び口を開いた。

『お前さん、あのピアノに興味があるのか?』

「えっ? あ、はい。ずっとピアノを買おうかどうか迷っている──知人がいて、それで」

『ありゃ古いピアノだ。廃墟で何年も放ったらかしにされていたかわいそうなやつなんだ。弦やら鍵盤やら、何から何まで全部取り替えてやらにゃ、音だって鳴りゃしないしろもんだよ』男性は訛りの強い言葉で続けた。『本体よりも修理代の方が高くつく。悪いこたぁ言わねぇから、他のピアノを探しな』

「あの、参考までにお聞きしたいのですが、その修理費というのはどのくらいかかるのでしょうか」

 すみません、勉強不足なもので──希佐がそう遜った物の言い方をすると、男性が少し驚いた様子で息を呑むのが分かった。そして、そのまま何も話さなくなってしまう。しかし、息遣いは変わらず聞こえてきているので、希佐はどうしたものかと思いながら話を続けた。

「そちらは買取りや修理を請け負っているお店なのでしょうか」

『……お前さん、一体どうやってうちの店を見つけたんだ?』

 嘘を言っても仕方がないと思い、希佐は素直に本当のことを話して聞かせた。前々からピアノを欲しがっていた人のPCのゴミ箱を開いたら、そこに一枚の画像が捨てられていたこと。その画像に、一台のピアノの写真と住所、電話番号が記されていたこと。

 希佐の話を黙って聞いていた男性は、小さく唸るような相槌を打っていたかと思うと、唐突にこちらの話を遮って声を上げた。

『お前さんの声、どっかで聞いたことがあるな』

「えっ、そうですか?」

『歌手か?』

「いいえ、違いますが」

『いや、だが、似てる』男性はそう言い、うんうんと唸っている。『孫が聞いてたんだ。間違いねぇ。ほら、有名なミュージカルの、あの歌だ。薄気味悪い、あの緑顔のやつ』

「ああ」希佐は思わず、ふふ、と笑い声を漏らしてしまった。「ウィキッドですか?」

『そうだ、そうだ』

「私が歌っている動画が少し前にSNSで拡散されてしまって。お孫さんはそれをお聞きになっていたのだと思います。でも、覚えていていただけて嬉しいです。ありがとうございます」

『あの駅のピアノは、確かヤマハだったか』

「はい」

『大量生産にしては良い音が鳴るピアノだ。悪くはねぇが、良くもねぇ。調律が少しずれてたしな』

「ああ、やっぱりそうだったんですね。歌っているとき、少しだけ音程がずれているように感じられたんです。ピアノを弾いてくれた方も、調律が必要だって」

『ほんのちょっとしたズレだがな、聞いてて気持ちが悪いだろう』

「毎日たくさんの方々が触れていかれますから、仕方がないことなのかもしれませんが」

 こうして希佐と男性はしばらくの間、取り止めのない話を続けた。当初は不機嫌そうだった声が、徐々に快活になっていく。しかし、男性が話している途中で希佐が急に咳き込むと、楽しげに話していた声が途絶えてしまった。

『お前さん、大丈夫か?』

「ちょっと乾燥しているみたいで」希佐はスマートフォンを顔から離すと、こんこん、と小さく咳をする。「もう大丈夫です」

『ああ、いや、オレもつい話し込んじまって』

「こちらこそ、お仕事中にすみませんでした。勘違いで電話をかけてしまったのに、お話相手にまでなってくださって、嬉しかったです」

 こんなふうに誰かと取り止めのない話をしたのは、どのくらいぶりのことだろうかと希佐は思った。時計を見ると、話しはじめて三十分以上が経過していたことに気づき、途端に申し訳なさを覚える。

「この度は大変失礼いたしました。でも、あなたとお話しができてよかったです。ありがとうございました」

 そう言って電話を切ろうとしたそのとき、男性が「おい」と声をかけてくる。

『その、なんだ、ピアノをな、見にくるか?』

「え?」

『お前さんが気になっとるアップライトピアノだ、ベーゼンドルファーの』

「いいんですか?」

『来たきゃ来るがいい。嫌なら来なきゃいいだけの話だ』

「行きます。行きたいです」希佐はまた深く考えもせずにそう答えていた。「ピアノ、見たいです」

『そ、そうか』若干迫力に押されたような声を出してから、男性は少しだけ笑った。『オレはベンジャミンってもんだ』

「私は希佐です」

 店は年がら年中朝から晩まで開けているので、いつでも暇なときに見に来て良いと言って、ベンジャミンは電話を切った。

 スマートフォンの充電が心許ないことに気づいた希佐は、ゴミ箱から自分が撮ったスクリーンショットだけを消し、PCの電源を落とすと、ソファのところまで歩いていって充電器を挿す。地図アプリを立ち上げて住所を入力したところ、店はジョシュアのスタジオの近所にあることが分かった。

 レッスンの帰りにでも寄ってみようと思いながら、希佐は着替えるために自分の部屋へと向かう。だが、クローゼットの中の稽古着が最後の一着になってしまったのを目の当たりにすると、この二週間近く洗濯にすら行っていなかった事実を、唐突に突きつけられた。

 ダンスの稽古か、溜まりに溜まった洗濯物を、コインランドリーに抱えていくか。

「……洗濯してこよう」

 希佐は脱ぎかけていたコートのボタンを止め、マフラーを巻き直すと、ぱんぱんに膨れ上がっている麻の袋を抱えるようにして持ち上げた。

 

 

 

 この二週間近く、アラン・ジンデルの姿を見ていない。それとなく聞いてみても、希佐はとても困ったような顔をして、どう答えたものかと悩んでいる様子だった。

「今、出掛けていていないんだ」

「行くところがあるって言ってたよ」

「そのうち帰ってくるんじゃないかな」

 そう答える希佐の表情が、日に日に暗く沈んでいくように感じられて、イライアスはとうとう、そのことについて尋ねるのはやめることにした。平日は毎日スタジオに足を運んでいるルイも、アランの姿は見ていないらしい。希佐が何も言わないうちは、口を挟むべきではないというのが、ルイの考えのようだ。

「アランが消えた?」

 歌の稽古が終わり、帰り支度をしながらイライアスがアランのことを漏らすと、ジョシュアは目を丸くして驚いていた。どうやら、この人もアランの行き先は知らないようだと、イライアスは思う。

「セント・パンクラス駅の一件が引き金になったのかもね」

「あの拡散された動画ですか?」

「自分の才能を自覚したキサは誰よりも強い。だからさ」

「……だから?」

 言っていることの意味が分からないという顔をし、首を傾げるイライアスを見て、ジョシュアはどこか呆れたような表情を浮かべる。

「自立した女性になったってことだよ。彼女はもうどこまでだって一人で歩いていける。考えようによっては、寄る辺を必要としなくなったってこと。今まではアラン・ジンデルや、君たちカオスの仲間たちに支えられて、やっと真っ直ぐに立つことができていたけれど、これからは違うんじゃないかな。だから、アランは参ってる」

「参ってる……?」

「君、何でもかんでも説明しないと理解できないの?」譜面台に置かれていた楽譜を取り、椅子から立ち上がったジョシュアは、後ろの棚にそれを戻しに行った。「アランがキサの寄る辺だったように、ここ数年はキサがアランにとっての寄る辺だったのに、彼は今、それを失いかけてる。彼女がセント・パンクラス駅で歌ったDefying Gravityが心に突き刺さって、抜けなくなったんじゃないかな。だって、あれは自立の歌だから。自分は一人でだって生きていくんだって、そう決意する歌でしょ。重力から解放されて、自由になる。今のアランは、キサの足枷にしかならないんだよ。それが分かっているから、一度距離を置こうと思ったんじゃない?」

 ジョシュアは酷く楽観的な様子で、放っておけばいいよ、と言う。それでもイライアスが不服そうな面持ちを浮かべて立ち尽くしていると、ため息を吐きながらこちらを振り返った。

「ぼくがキサにあれこれと世話を焼くのは、彼女がぼくの生徒だからだ。彼女がうまくいけばぼくの名前が売れるし、うまくいかなければ大口の仕事を失うことになる。まあ、これは君に対しても言えることだね。ぼくはアラン・ジンデルのファンではあるけど、彼の私生活にまで首を突っ込んで、あれこれ引っ掻き回すほど野暮ではないんだ」

「二人のことが気掛かりで歌に集中できないと言ったら、もっと真面目に取り合ってくれますか」

「君ねぇ……」

「このままだとキサの歌にまで──」

「彼女を甘く見ない方がいいよ、イライアス」

 今の状態が長く続けば、希佐はどんどん暗闇の中に落ちていって、そのまま戻って来られなくなるのではないかという幻想に囚われかけていたイライアスに向かって、ジョシュアはぴしゃりと言った。

「これがいいことなのかどうかは分からない。でも、彼女はこの二週間で飛躍的に伸びているし、ぼくでも非の打ち所がないくらいなんだ。ルイも似たようなことを言っているんじゃない?」

 ここ最近の希佐は異常なくらいにキレているとルイは話していた。だが、それを喜んでいる様子はなく、むしろ懸念すべきことだというふうな顔をしていた。イライアスも、それを心配しているのだ。

 自らの肉体が許容できる範囲内で、ある程度の無茶をする分には、何の問題もない。だが、希佐はときどき、その範囲外にまで足を伸ばし、より良いものを求めようと躍起になることがある。

 問題なのは、希佐にはそれを求めるだけのポテンシャルがある、ということだった。やろうと思えばできてしまう。通常、何日もかけて覚えるようなことを、たった一度手本を見せただけで再現してみせるような才能の持ち主なのだ。

「だけどまあ、このままだと壊れちゃうよね、彼女」ジョシュアはピアノの前に戻り、椅子に腰を下ろしながら平然とした顔で言う。「それでも、ぼくには彼女の欲求を発散させてあげることくらいが関の山だよ。その欲求が別に向けられるよりはずっといいだろう? キサが歌やダンスに集中していられるうちは、きっとまだ何も起こらない」

「でも、」

「ぼくたちにはどうしようもない問題だっていうことは、君にも分かっているはずだ。どこかに消えたアランが戻らないかぎりは、何も解決しないんだから」

 パートナーならパートナーらしく、君が支えてあげたらいいんじゃないの? と、ジョシュアは言う。もちろん、支えられるものなら支えてあげたいと、イライアスは思っていた。だがしかし、希佐自身がそれを許してはくれないのだ。いくら声を掛け、心配をしたところで、大丈夫だと言って笑顔を向けられてしまえば、もう何も言えなくなってしまう。

『困ってしまうね』

 希佐の稽古が終わるのを待つために、スタジオの外に座り込んで、ちらちらと舞うように降る雪をぼんやりと眺めていると、コートも羽織らずに外に出てきたルイが隣に立った。

『彼女、いくら叱っても言うことを聞かないんだ』

『キサは頑固なので』

『エンジン全開って感じだろ。あのキレ方は本番前のダンサーのそれと一緒だよ。まあ、一度くらいあのキレ方を経験しておくのも悪くはないけど、そのスイッチの入り方とタイミングが良くない』

 自らを抱くように両腕を体に回し、はあ、と吐き出した白い息を見送ってから、ルイはイライアスを見下ろした。

『前にもこんな感じのことはあったりした?』

『いえ』イライアスはその場に立ち上がり、ルイを見上げる。『アランがどこにいるのか、ご存知ないんですか?』

『知らないね』ルイはどちらとも判断しづらい表情で答える。『スペンサーなら知っているんじゃないか? 多分知っていても教えてはくれないと思うけど』

 そろそろ彼女の頭も冷えた頃かな、と言ってスタジオの扉を開けたルイは案の定、我関せずといった面持ちで勝手に稽古を続けていた希佐の姿を目の当たりにし、特大のため息を漏らしていた。

 頼みの綱はバージルしかいないと思い電話をしてはみたものの、昼間は一向に繋がらず、話があるから電話して、とメッセージを残すと、折り返しでかかってきたのはその日の真夜中を過ぎた頃だった。

『今仕事が終わったところなんだ。何度も掛けてきてたからよっぽどのことだろうと思って折り返したけど、お前、もう寝てただろ。明日掛け直すか?』

「ううん、今話す」

『ちょっと待ってな』

 ベッドで横になっていた体を起こしたイライアスは、電話口の向こう側で誰かと話をしているらしいバージルの声を聞きながら、この何とも言えない居心地の悪さに頭を掻いていた。

 連絡先はもう何年も前から知ってはいるが、こうして電話で話をするのはほとんど初めてのことだったのだ。イライアスが電話嫌いだと知っているバージルは、いつもアイリーンに伝言を託すか、簡単な

メッセージのやりとりをするくらいに留めてくれていた。

『悪い。もういいぞ、話ってなんだ?』

 おそらく外を歩いているのだろう。今朝は土砂降りの雨が降っていたので、いつものバイクには乗らずに出かけたのかもしれない。

「アランがどこにいるか知らない?」

『……は?』これは間違いなく何も知らなかった者の反応だと思い、イライアスは人知れず落胆してしまう。『それはどういう意味だ?』

「キサの動画が拡散されたのは知ってる?」

『あ、ああ、ノアから連絡が来た』

「多分、あの後くらいから誰もアランの姿を見てない。スタジオにもずっといないみたいだし」何かを順序立てて説明することが酷く苦手なイライアスは、半分眠っていた頭をフル回転させながら話を続けた。「キサに聞いてもはぐらかされる。どこか行くところがあるらしいって」

『キサがそう言ってるのか?』

「うん」

『じゃあ、あいつはそう言って消えたんだろうな。実際に行くところがあったのかどうかは知らねえけど』

「行き先に心当たりは……」

『俺にあると思うか?』その沈黙が答えだと理解したのだろう、バージルは小さく息を吐き出すと、あーあ、と落胆したように漏らした。『いつかこうなるんじゃねぇかなって思ってたよ』

「え?」

『お前の目にどう映っていたかは分からねぇけど、あの二人は三年前からずっと綱渡りをしてるみたいな関係だったんだ、命綱もつけないでな。だから、どちらかが足を滑らせて転落したら、もう一方を道連れにするんじゃねぇかって心配してた』スペンサーにも忠告してやってたんだけどな、とバージルは言う。『キサはどうしてる?』

「稽古してる」

『だろうな』

「今までにないくらいキレてる」

『自分のやるべきことに没頭したいんだろ』

「僕では話にならないんだ」適当にはぐらかされているように感じられて、イライアスは僅かに語気を強めてしまった。そして、少し後悔する。「……ごめん、大きな声を出して」

『いや、気にするな』

「でも、本当にそうなんだ。僕が何を言ったって、キサは聞く耳を持ってくれない。今は僕がキサのパートナーで、困っていたら支えてあげたいと思うけど、キサはそれを望んでない」

『お前はキサに頼られたいのか』

「……そう、多分」

『そういう物の考え方はやめておけ』バージルは半ば突き放すような物言いでそう言った。『他人に何かを期待していると、思い通りにならなかったときに、自分が消耗するだけだ。お前はお前のままでいればいいんだよ。キサの隣で自信を持って踊ってりゃいい』

「僕の方なんか見てもくれないのに?」

 思わずというふうにそう口走ってしまったイライアスは、しくじったとばかりに顔を顰める。しかし、バージルは一瞬の間のあと、真夜中だというにもかかわらず、突然電話口の向こう側で笑い出した。

『何だよ、お前。いじけてるのか?』

「……」

『お前、ずっとキサのことばっかり見てたもんな。舞台の上でも、そうじゃない場所でも』

「……」

『心配しなくても、あいつはお前のことをちゃんと見てるよ、イライアス。あいつのダンスには、お前の教えがしっかり息づいてる。キサがあそこまで踊れるようになったのは、お前の努力の賜物だ。稽古にだって根気よく付き合ってやってただろ』

「それは当然のことだから」

『なんで当然だなんて思うんだ?』

「僕はキサのおかげでここまで歩いてこられた」イライアスはベッドの上で自らの膝を抱えると、爪先をなぞるように指先を走らせた。「キサがいなかったら、僕は今もまだ、喋るマネキンって呼ばれていたと思う」

『ああ、お前、そんなふうに呼ばれてたっけ』

 忘れてたわ、と言ってバージルはくつくつと小さく笑う。自分のことを笑われたと感じたイライアスは僅かにむっとするが、その空気を敏感に感じ取ったバージルは、違うんだ、と言ってその声に苦々しさを滲ませた。

『俺も昔は棒っきれに靴を履かせたみたいなタップダンサーって言われてたんだよ。ビル・ボージャングル・ロビンソンとかニコラス・ブラザーズ、フレッド・アステアなんかに憧れて、タップダンスを初めてみたはいいが、これが思ったよりも難しくてな。お前にタップの才能はない、さっさと諦めろって言われてたけど、俺は聞く耳を持たなかった。お前だってそうだろ。喋るマネキンなんて呼ばれても、諦めないで足掻き続けてた。結局のところ、この世界ではそういう人間が生き残って、外野から喚き散らすことしかできなかったような連中から、順番に淘汰されていくんだ』

 そういうやつらを大勢見てきただろ、とバージルは言う。

 子供の頃から舞台の上に立っていると、特にバレエの世界では、どろどろとした嫌な面を見ることが多い。ここは嫉妬が渦巻く世界なのだと、幼いながらに感じ取っていた。他者を平気で蹴落とそうとする大人の姿を見るたびに、煌びやかな世界の影を思い知らされていた。

 子供の頃、女よりも女らしく踊ることができたイライアスは、ポアントを履かされ、本番ではチュチュを着て踊らされることがあった。女の子たちはそれを揶揄して笑っていたが、影では悔し涙を流していたことを、イライアスは知っている。年配の講師から、男よりも女らしく踊れない己を恥じろと、罵声を浴びせかけられていたから。

 だからだろうか、イライアスは自分が何でもできる人間だと、そう思っていたのかもしれない。バレエの世界では持つ側の人間で、持たざる者の気持ちは理解することができなかった。だから、アイリーンに連れられて観に行った舞台の上で輝くアラン・ジンデルの姿を見たとき、畏怖すら覚えたのだ。

 きっと自分は、こうはなれない。絶対に敵わない。自分は、自分以外の何者にもなれず、きっと、すべてに疲れたような顔をして舞台を去っていった者たちと同じような道を辿ることになるのだろうと、そ思ったのだ。

 初めて感じた敗北感は、非常に自分勝手なものだった。誰かに何かを指摘されたわけではない。ただ、圧倒的なまでの才能を前にして、勝手に負けを自覚していた。

 大学に進学することなど考えてすらいなかったイライアスは、そのままバレエの世界に進み、それで食べていくのだろうという漠然とした考えを持っていた。いつまでもアイリーンのところで世話になり続けるわけにはいかないという思いが強かったのだ。だが、彼女の母親がそれを許してはくれず、これまでの恩に報いるつもりがあるのなら、きっちり大学まで卒業してから独り立ちしなさいと、そう言ってくれた。

 決められないなら私と同じ大学に行きましょうと手を引かれ、アイリーンと一緒に入学した先に、アラン・ジンデルがいた。アイリーンは勉強のためではなく、そこにアランがいるからという理由で、大学を決めていたのだ。当時そういう生徒は大勢いて、アランが所属していた演劇サークルは、設立以来最大の人数を抱え込んでいたらしい。でも、肝心のアラン・ジンデルが舞台に立つことはなく、脚本や演出などの裏方仕事だけに従事していた。

 アイリーンに付き合って演劇サークルに入ったイライアスだったが、もちろん、やる気などは微塵もなかった。それでも、歌の才能に恵まれていたアイリーンと、子供の頃から舞台に立って踊っていたイライアスは常に一軍として駆り出され、定期公演に出演し続けていた。ある程度は何事も器用にこなすアイリーンとは違い、踊る以外に能のなかったイライアスは期待外れと陰口を叩かれることもあったが、アランだけは違っていた。

「演劇サークルなんてただのお遊びなんだから、無理にうまくやろうとする必要はないよ」

 稽古場の鏡に向かって表情を作る練習をしていたイライアスの背中に、アランがそう声をかけてきたことがあった。それが、二人の初めての会話だったように思う。

「君、演劇が好きで入ってきたわけじゃないんだろ」徐に稽古場の床に腰を下ろしたアランは、履いていた靴を脱ぎながら言った。「彼女に付き合わされただけだ」

「……彼女じゃない、です」

「そうなの?」

「はい」

「ふうん」

 アランは興味がなさそうに相槌を打つと、その場でストレッチを始めた。この頃、その頻度は減ってきていたものの、アランはまだ小劇場の舞台に立つことがあった。大学を卒業し、座長だったメレディスと一緒に劇団を退くまで、そう時間はかからなかったように思う。

「……」

 長くバレエの世界に身を置いてきたイライアスですら、アラン・ジンデルの立ち居振る舞いは、目を見張るほどに美しく感じられるものだった。その容姿は言わずもがな、真っ直ぐに伸びた首筋や、すらりと長い手足、均整のとれた体つきは、まるで歪みがないように見える。以前、着替えをしているときにちらりと盗み見た上半身の筋肉は、稀代の彫刻家によって完璧に創り上げられた彫像のようだった。

「コンテンポラリーをやってるんだって?」

「え?」

「彼女から聞いた」

「……名前、アイリーンです。あなたの大ファン」

「知ってる」アランは相変わらず興味がなさそうに相槌を打ちながら、ストレッチを続けていた。「君はイライアス」

 まさか知ってもらえているとは思わず、立ち尽くしたまま目を丸くしたイライアスを見上げて、アランは微かに口角を持ち上げた。

「一緒にやる?」

「いいんですか」

「俺はプロのダンサーじゃないから、君みたいにうまくは踊れないけど」嘘だ、と口にしかけた言葉を、イライアスは慌てて飲み込んだ。「たまにこうして一人で踊ってるから、見かけたら声をかけて」

 自分が特別だと知ったのは、それから一ヶ月ほどが過ぎた頃だった。たまにサークルの稽古場でアランと踊っていることを伝えると、アイリーンは酷く驚いた顔をして、イライアスに掴みかかってきた。

「何と言って彼を焚き付けたの?」

「焚き付けてない」血相を変えたその様子に多少狼狽えながらも、イライアスは答えた。「向こうから声をかけてきた」

「いつ? どこで? どうやって?」

「みんなが帰ったあと、稽古場に残って、その、練習をしてたら」笑われるのではないかと思い、表情を作る練習をしていたとは言えなかった。「一緒に踊るか、って」

「どうして……」

 アイリーンはこの頃からアランをしつこく追いかけ回していて、酷く煙たがられていることを理解していない様子だった。幼い時分から周りの人々にかわいがられ、否定されることなく生きてきたアイリーンにしてみれば、アランの行動こそが、理解できないものだったのかもしれない。

「……今日も行ってみるけど、アイリーンも一緒に来る?」

「行くわ! 絶対に!」

 来るのはいいけど、大人しくしてて──そう忠告するまでもなく、アイリーンは稽古場で踊っているアランの姿を目にした途端、普段の騒がしさが嘘のように静かになってしまった。

 扉を開けて入ってきた二人の姿を鏡越しに見たアランは、踊っていた足を止めると両手を腰に当て、呼吸を整えながら後ろを振り返る。ああ、今日は機嫌の悪い日だと、イライアスは一目で見抜いていた。

「今日は彼女連れ?」

「彼女じゃ──」

「か、彼女じゃないわ」頬を赤らめたアイリーンが、イライアスよりも早くそう答えていた。「イライアスは、私の弟みたいなもので……」

「そんなことは別にどうだっていいけど」

「なっ──」

「グルーピーに興味はない」アランは稽古場の隅に置いてある荷物のところまで歩いていくと、自分のタオルを拾い上げて汗を拭った。「次も連れてくるようなら、もう君とは踊らないよ」

 もしアイリーンが少しでも傷ついた顔をしていれば、イライアスも言い返していただろう。だがしかし、アイリーンはなぜか対抗心を燃やすような面持ちでアランを睨み、ふんっ、とそっぽを向いたかと思うと、自らの足で稽古場を出ていってしまった。

 廊下を曲がり、その背中が見えなくなってもまだ唖然と立ち尽くすイライアスを尻目に、アランは自らの荷物をまとめていた。

「あなたにとってアイリーンはグルーピーかもしれませんけど」たっぷりの余裕が残されているリュックを背負い、自分の隣を黙って通り過ぎようとしていたアランに向かって、イライアスはそう声をかけた。「他のグルーピーとは違います」

「……どこが?」

「もう十年以上もあなたに憧れてるんです」

「その上で、通ってる大学まで特定して追っかけてきた。これはもう立派なストーカー行為だと思うけど」

「アイリーンはあなたに認められたいんだと思います」

「なんで」

「あなたを好きだから」

 イライアスがそう言うと、アランは宝石のような緑色の目を大きく見開き、不可解そうに何度か瞬かせた。イライアスは、アランのその目の色に午後の光が差し込むと、緑が一層鮮やかに、神秘的に輝くことを知っていた。

「それ、本気で言ってるの」

「はい」

「……彼女、君が俺にそんなことを言ったと知ったら、それこそ怒鳴り散らすと思うんだけど」

「どうしてですか」

「どうしてって……」アランはそう言い淀むが、面倒臭そうに大きく息を吐き出すと、首を横に振った。「もうどうでもいいよ。俺の知ったことではないし」

 じゃあ、と言ってアランは稽古場を出て行こうとする。しかし、イライアスは無意識にその背中を呼び止めていた。

「僕もアイリーンと同じです」肩越しに振り返ったアランが、不可解そうにイライアスを見る。「僕もあなたに憧れているので」

「そう」

「僕のことも嫌になりましたか」

「いや」

「僕とアイリーンは同じなのに?」

「君と彼女は違う」アランはイライアスに背を向けて歩き出しながら、ひらりと手を振った。「俺は君を好意的に見てる。でも、俺に憧れるのはやめた方がいい。あの子にもそう言っておいて」

「アイリーンは歌がうまいんです。だから、今度──」

「知ってるよ」

 そう言って歩き去る後ろ姿を、イライアスは昨日のことのように思い出すことができた。今よりも短い赤い色の髪が、夕日を浴びて、金色に輝く様子は、あまりに美しかった。

 そうだ、自分はあの人に憧れて、バレエの世界を離れる決心をしたのだ。将来を約束された場所よりも、この人の側で、いろいろなことを学びたいと思った。だから、新しく立ち上げる劇団の仲間に誘われたときは、内心では踊り出したくなるくらいに嬉しかったことを今、思い出す。

 それなのに、あの人は少しずつ舞台の上から遠ざかって、自分の足でその場所に立つことをやめてしまった。あれほどの才能を持った天才が、どれだけ研鑽を積んでも追いつけないと思わせてくれた人が、淘汰される側に回る。それがイライアスには許せなかったのだ。

「……僕は、アランのダンスが好きなんだ」しばらくの間黙り込んだあと、イライアスがぽつりと漏らすと、バージルの小さな相槌が聞こえてきた。「今の僕じゃ絶対に勝てないって思わせてくれる背中が格好良くて、初めて舞台の上で踊る姿を見たときからずっと、今だって本当は憧れているのに……」

『お前もキサと同じなんだな』

「え?」

『キサはアランを舞台の上に引っ張り上げようと必死なんだよ。お前だって、あいつを舞台上に引きずり戻したいって思ってるんだろ?』

「キサが、アランを……?」

『アランが舞台の上でスポットライトを浴びて、キラキラ輝いてる姿が見たいんだと。俺のタップダンスとあいつのアイリッシュダンスの共闘をご所望なんて、贅沢にもほどがあるだろ?』

「……それ、僕も見たいな」

『おっ、奇遇じゃねぇか』そう言ってバージルは笑う。『実は俺も見たいんだ』

 無理にうまくやろうとしなくていい。急ぐ必要はない。焦らなくていい。ちゃんと見てる。大丈夫だから。自分の歩幅でいいんだ。

 アランがかけてくれる言葉はいつだって短く、単純で、気負いのないものばかりだった。だから、ずっと気づかなかったのだろう。その言葉の数々が、酷く特別なものだったということに。そしてそれはおそらく、アラン自身が、誰かにかけてもらいたかった言葉なのだと。

「僕も一緒に踊りたい」

『一体どんな舞台になるんだか』

「カオスな舞台だよ」そう言って、イライアスは少しだけ笑う。「僕たちらしい舞台だ」

『……そうだな』

 バージルが優しく笑うような気配を感じる。イライアスは抱えていた両足を伸ばすと、窓の外に目を向けた。今朝の土砂降りの雨が嘘だったかのように、空は晴れ渡っている。ただ、地上の光が明るすぎて、ぽっかりと浮かぶ月の他には、強く光る星がいくつか見えるだけだった。

『そういえば、メレディスには当たってみたのか?』

「ううん」

『あいつなら知ってるんじゃねぇかな、アランの居所』

「……この話をしたら、バージルならキサを心配して、すぐにでもスタジオに向かうと思ってた」

 むしろ、それを期待していたのだ。自分には吐露できない気持ちも、バージルが相手なら、希佐は楽に話せるだろうと思っていた。だがしかし、バージルは「そうだなぁ」と漏らしたかと思うと、大きく息を吐き出した。

『俺はあいつのことを分かってやれてるって思ってたけど、あのときキサに拒絶されて、本当はそうじゃなかったんだろうなって思ったら、なんだか申し訳なくなってな』

「申し訳ない?」

『あいつは賞賛されたくて舞台に立つわけじゃない。他者からの評価よりも、仲間と共有する時間や苦悩、喜びみたいなものに価値を見出してる。名声になんて興味がないんだ。ましてや、信頼してた仲間から、お前はこんなにすごいんだぞ、なんて熱弁されることを望んでなんかいない。多分、キサの才能を最も生かせるのは、あの日演じたみたいな独り芝居だ。でも、キサが求めているものは、舞台を終えた後に仲間たちと語らう、あの何物にも変え難い時間なんだろうなって、あのあと思ったんだよ』

 あの日、希佐は自らの内側に溜め込んでいた感情を、もうこれ以上は抑えきれなくなっていたように見えた。感情を堰き止めていた壁が決壊して、涙を流しているように見えた。まるで、初めて希佐に目を奪われたあの瞬間、『God only knows』の青年が咽び泣くあの演技のときのような、計り知れない絶望を感じた。

『俺の言葉があいつを傷つけたのだとしたら、今更出ていって慰めるなんて都合のいいことは出来ねぇだろ』

「キサはもう気にしてないと思う」

『どうだかな』

「怒ってたんだ」

『は? 誰が?』

「キサが」

 バージルに言われて希佐を外へ連れ出したあと、大学時代と同じような稽古着姿で走ってきたアランを見て、イライアスは驚いた。息を荒げ、汗だくで、取るものも取り敢えず駆けてきたのだ。希佐のために。それなのに、当の希佐は酷く怒ったような顔をして、アランを置き去りにして歩いていってしまった。

「アランがキサを置いて先に帰ったから怒ってたのかな」

『あー、いや、そうじゃない』

「じゃあ、どういうこと?」

『考え方によっては良い兆候なのかもしれねぇけど』足を止めるような気配のあと、バージルはどこかに腰を下ろし、再び大きなため息を吐く。『キサが感情を露わにして怒る相手なんて、あいつくらいのものだろうしな』

「どういう意味?」

『キサがなんで怒ったのかなんて、本人にしか分からねぇことだ。重要なのは、キサがアランに対して怒りを露わにしたってことで』

「どうしてそれが重要なの?」

『お前、キサに怒られたことあるか?』

「ない」

『だろ。俺もない』たたん、とタンプを踏むような音が、電話口の向こうから聞こえてくる。『多分、キサを怒らせることができるのは、アランだけなんだ』

「……よく分からないんだけど」

『それだけ心を許してる相手だってことだよ。なんか、こんなふうに言うと悔しい気持ちになるな。俺の方があいつなんかよりよっぽどキサの面倒を見てるのに』

「僕にはキサがバージルの相手をしてあげてるように見えるけど」

『おい、あながち間違いでもなさそうなことをしれっと言うなよ』

 アイリーンは小さな頃からずっとアランだけを見ていた。それが良いことなのかどうかは分からない。でも、ありとあらゆる努力をして同じ大学に入学し、自らの才能を認めさせて、アランが立ち上げた劇団に入ることができた。その間、十年以上の片思いだ。だが、どれだけ気持ちを伝えたところで、その思いが報われることはなかった。

 希佐が現れてからのアイリーンは、それはそれはつらそうで、イライアスは見ていられないと思うこともあった。ヘスティアに連れて行かれ、店じまいの時間まで愚痴を聞かされたこともある。

 私はもう何年も前からあの人のことを好きなのに、パッと現れた外国人の女の子が、ほんの数ヶ月であの人の心を攫っていったと、ぼろぼろと泣きながら嘆いていたこともあった。

 しかしながら、アイリーンが舞台に立つアランに心を奪われたように、アランもまた、希佐の才能に心を奪われていたのだとしても、何もおかしくはないのだ。

 重要なのは共に過ごしてきた時の長さではない。ほんの一瞬、きらりと煌めいたその瞬間を逃さず、目に留められたかどうか。それを目にしてしまえば最後、知らなかった頃には戻れない。まるで深みにはまっていくかのように、どんどん思いを強くしていくことでしか、心臓の鼓動を鎮めることはできないのだ。

『お前がなんとかしてやれよ、イライアス』バージルは静かに言う。『キサのパートナーなんだろ』

「でも、僕が何を言ったって──」

『この問題を解決したければ、キサよりもアランを攻めろ』

「どこにいるかも分からないのに」

『メレディスに聞け。いいか、あの男は自分に都合が悪いことを聞かれると、嘘は吐かないが、本当のことも言わない。アランの居場所を聞いて、はっきり知らないと言わないかぎりは、間違いなくその所在を知ってる。何を言われても食い下がれよ。あいつはお前みたいなやつに弱いんだ』

 これが、アラン・ジンデルが姿を消して、一週間ほどが過ぎた頃のことだ。

 イライアスは月曜日の夜、ジョシュアのところで歌の稽古を終えてから近くの書店で時間を潰すと、開店とほぼ同時にヘスティアに足を踏み入れた。この時間帯はまだ客入りが少なく、店員が暇そうにしているのを見た覚えがあったからだ。

 案の定、店内の客入りは酷くまばらで、カウンターの向こう側では、メレディスがバーテンダーと取り止めのない話をしていた。

 メレディスは、たった一人でカウンターの前に立っているイライアスを見て、珍しく目を丸くしていた。誰かが一緒に来ているはずだと思ったのか、素早く視線を走らせるが、そこには誰の姿もない。

「やあ、イライアス。君が一人で飲みにくるなんて珍しいね」

「アランがどこにいるか知りませんか」

 挨拶をするでも、アルコールの注文をするでもなく、イライアスは開口一番にそう尋ねた。相手に考える時間を与えるな、というのが、バージルの教えだったからだ。

 一瞬、メレディスが返答に困るような表情を浮かべたのを、イライアスは見逃さなかった。

「知ってるんですね」

「参ったね」絶対に目を逸らそうとしないイライアスを見て、メレディスはばつが悪そうに眉を顰める。「誰の入れ知恵かな」

「バージルです」

「なるほど」

 そう言ったメレディスは傍にいたバーテンダーに軽く耳打ちをすると、すぐに営業用の笑みを浮かべてイライアスを見る。

「ご注文は?」

 続々と店内に客が雪崩れ込んでくるのを見て、いつまでもここに留まっていられては迷惑だと思ったのだろう。イライアスも、自分の方を見てこそこそと囁き合う女性の声を聞き、いつまでもここにいたくないと感じた。

「……ジンジャーエールを」

「かしこまりました」メレディスはそう言い、少し離れたカウンター席を指した。「あちらでお待ちください」

 イライアスはカードを使って代金を支払うと、メレディスが示したカウンター席に向かった。

 ここは、先日舞台演出家の独り芝居を行なった日に、希佐と田中右宙為が並んで腰を下ろしていた場所だ。随分長い時間話し込んでいたが、昔話に花を咲かせているという雰囲気でもなかったように思う。

 希佐が精神的にダメージを負うような会話が行われていた可能性も皆無ではないが、イライアスにはあの田中右宙為という人物が、悪い人間には思えなかった。

「日本舞踊を学んだ経験があるのか」田中右は異国の訛りを感じさせる、しかし流暢な英語で、そう話しかけてきた。「着物を着て舞ったことは?」

 踊ることをやめ、首を横に振ったイライアスを見て、田中右はイライアスの膝の辺りを一瞥した。

「もっと膝を曲げて、腰を落とした方がいい。背中から臀部にかけては真っ直ぐに。姿勢は常に低く。頭を傾げて、視線は斜め下」

 日本舞踊の舞はコンテンポラリーと通ずるところがあると常々感じていた。だから、希佐と出会うよりも前に、とある日本人から舞を学んだことがある。最初は興味本位でワークショップに参加するだけだったが、その美しさや繊細さ、儚さを習得したくて、半年程の時間をかけて、学べるだけのことを体に叩き込んだのだ。

「舞の中に立花希佐の色を感じるな」

「……前に一度踊って見せてくれたことがあるから」

「お前が立花から学ぶべきことは何一つない」どこか蔑むような眼差しで、田中右はイライアスを見た。「下手な焦がれは舞の質を落とすだけだ。その感情を昇華できるほど、お前の舞は完成されていない」

 こちらを凝視する眼差しに微かな苛立ちを覚え、試すつもりでダンスの中に舞踊の舞をほんの少し滲ませただけだというのに、この田中右宙為という男は、すべてを理解したかのように語った。

「感情で踊る女と、感覚で踊る男とでは、いずれ釣り合いが取れなくなる。彼女を変えるか、お前が変わるか、そのどちらかだ」

 田中右の忠告はどれも的を射ていて、ずしんと腹に重くのしかかってくるような、思わず耳を塞ぎたくなるような辛辣さがあった。だが、そのすべてに誠実さがある。だから良い人だと、イライアスはそう言ったのだ。

「お待たせいたしました」カウンターの上を指先でなぞっていたイライアスの視界の中に、突然背の高いグラスが現れた。「ジンジャーエールです」

「……ありがとう」

「物思いに耽っていたようだけれど、何か考えごとかな?」

「アランはどこに?」

 質問には答えず、先程と同じことを問うイライアスを正面に見据え、メレディスは少しだけ呆れたような表情を窺わせた。

「これは念のために聞かせてもらいたいのだけれど、彼の居場所を知ってどうするつもりなのかな」

「あの人の身が安全かどうかを──」

「もちろん、安全だとも」メレディスは牽制するようににこりと笑った。「これで解決だ」

「どうして姿を消したんですか」

「さあ、どうしてだろうね」

「あの人のことだから、何か考えがあってのことだとは思います。闇雲に姿を消したりはしない」

「随分彼のことを信頼しているのだね」

「知っているだけです」

「ほう」

「考えなしの行動だとしたら幻滅します」

「幻滅」メレディスはその言葉が気に障ったのか、そう小さく繰り返すと、これ見よがしに口角を持ち上げて見せる。「そうは言うけれど、君は彼の何を知っているの?」

「あの人は自分に正直じゃない」それに、とイライアスは続ける。「とても臆病で、努力家な負けず嫌い。美しいものを見れば目を逸らせなくなるくせに、いつも見え透いた無関心を装ってる。本当は舞台上に未練があるのに、それを認めたがらない人です」

 そう淡々と羅列するイライアスを、メレディスは少し驚いた顔をして見つめていた。

 アラン・ジンデルは一度舞台からは遠ざかったものの、文筆の仕事をはじめて間もなくすると、新しい劇団を立ち上げた。だが、当初は劇団とは名ばかりの、よく分からない集団だったように思う。演じるよりも、踊っている時間の方がずっと長かったから。

 あの頃はまだ、アランも気紛れに踊ることがあった。でも、次第にその数は減っていって、アイリーンやノアが劇団に加わる頃にはもう、ダンスシューズを履くことすらなくなっていた。

 イライアスは、もう踊らないんですか、と聞いてみたことがある。

「踊る必要がなくなっただけ」

 アランは酷く冷めたような口振りでそう答えたが、イライアスにはなんとなく分かっていた。踊れば踊るだけ、舞台の上に戻りたくてたまらなくなるのだろうと。だから、戯れに踊ることすらやめてしまったのだ。未練を断ち切りたくて。

 アランはその未練を断ち切る手段として、感情を制御する術を覚えたようだった。見る者によっては堕落したとも取れる日常を送ることで、これまでの人間関係すら絶って、孤独な道を歩いていくことを選んだ。仕事、仕事、仕事の生活を送っていた。眠ることも、食べることも疎かにして。まるで、早く死にたいとでもいうふうに。

 その暗く沈んだ深い緑色の目に光が戻ったのは、本当に突然のことで、カオスの仲間たちは酷く驚いていた。何の前兆もなく、劇団に新人が入るからと言ったその眼差しは、かつての輝きを取り戻したように見えて、イライアスは嬉しいやら悔しいやらで、しばらくの間は何も考えることができなかった。

 もう諦めていたのだ。アラン・ジンデルを舞台の上に引きずり戻すことはできないのだろうと。それなのに、どこの馬の骨とも分からない誰かが、その目に光を取り戻させたのだと思うと、嫉妬にも似た感情が腹の中をぐるぐると駆け巡るようで、なんとも言えない気持ちになった。

 だから、とぼとぼとした足取りでスタジオに現れ、どこか怯えたような顔で周りを見回す希佐の姿を初めて見たときは、何かの間違いだろうと思った。才能のある人間はいつだって、イライアスの目には輝いて見えていたのだ。だがしかし、希佐の周りに漂う雰囲気はといえば、もくもくとした黒い煙のような、見るに耐えないものだった。見ていたくないと、そう思わせる何かが、当時の希佐にはあった。

 良く言えば平均的。悪く言えばただの平凡。それが、第一印象。

 なぜそんな子がアラン・ジンデルの目に留まったのか、イライアスは不思議でならなかった。スタジオにまで住まわせ、仕事まで工面してやる意味が分からなかった。

「……あなたはどうしてキサをこの店で雇うと決めたんですか」イライアスはメレディスを見上げ、思わずというふうに尋ねる。「アランに頼まれたからですか」

「そうだね」

「ただそれだけの理由で?」

 メレディスは確かに若い才能を助けるために、自らの店で若手の役者を雇うことが多い。だが、まずは面接があって、メレディス自身がその才能を認めないかぎりは、スタッフとして雇うことはないと聞いている。

「あのアランが僕に女の子の面倒を見てほしいと頼み込んできた。そんなことは初めてだったし、それにね、彼女の才能について語る彼の眼差しがあまりに輝いていたものだから、断るに断れなかったのだよ。まあ、当時はスタッフが何人か辞めてしまった状態のままで店を回していたから、人員がほしかったというのもあるのだけれどね」

「僕は最初、キサのことを、ただの平凡な女の子だと思ってました。アランがどうしてあそこまで固執するのか、分からなかった」

「私も同じだよ。アランが熱弁を振るっていた割には、普通の女の子が来たなと思っていた。彼女の歌を聞くまではね」

 当時その場に居合わせたノアとジェレマイアが、希佐とアランのデュエットについて、興奮気味に報告してきたことを覚えている。本当にすごかったという言葉に、あのアランが歌ったのなら、それは当然のことだろうとイライアスは思った。同時に、もう何年もステージになど上がったことのない男を、出会って間もない外国人の女の子が引きずり上げたという事実に、愕然とした。

「あのときはちょっとしたテストのつもりだった。スタッフを雇うときはいつも面接をして、得意分野を披露してもらう決まりだったのだけれど、キサの場合はそれがなかったからね。それにまさか、アランが彼女と一緒に歌ってくれるとは思わなかった。あれはとんだ副産物だったよ」

「……『God only knows』の台本が渡されてしばらく経ってから、みんなで読み合わせをしたんです。そのときはなんとも思わなかったのに、読み合わせのあとでアランがほんの少しだけダメ出しをしたら、帰り際に、僕はすごく美しいものをこの目に見た──」

 まるで真っ暗闇の中でスポットライトを浴びているみたいに、ただ希佐だけが、あの場所で美しく輝いて見えた。イライアスはその瞬間を目に焼きつけたくて、片時も目を逸らさず、小さな体から滲み出るような絶望を、一身に浴び続けていたいとさえ思っていた。

「──僕はそのとき、キサの演技を目の当たりにして、舞台に立つアランを初めて見た日のことを思い出したんです」

「確かに、あの二人はどこか似ているところがあるね」

「圧倒的な才能が目の前に現れたら、あとはもうそれに屈服するしかない。あの二人だけです。一目見たその瞬間に、自分には絶対に勝ち目がないと、そう思わせてくれたのは」

 イライアスの夢はもう一度アランと一緒に踊ることだった。希佐が現れ、自分よりもすごいと思えるパートナーを手に入れて、また夢が増えた。この人と一緒に、大舞台に立ちたい。でも本当は、二人の隣に肩を並べて踊る自分を、誇れるようになりたい。

「……僕は嫌なんだ」

「何がだい?」

「何もできずに後悔するのは、嫌だ」イライアスは手元に落としていた視線を上げ、朗らかな表情を浮かべるメレディスを見た。「ただの思い出になんてできない。僕はアランのダンスも、歌も好きだ。本当はあの人みたいになりたかった。あの人の背中だけを追いかけてきた。でも、今は違う。あの人と正々堂々と競い合いたい。それだけの実力は身につけてきたから。キサを一番に輝かせられるのは、あの人じゃなくて、僕だって証明したい」

 すごい人だと思っている。今だって同じ気持ちだ。だが、いつまでも失われた日々を嘆いてばかりいては、前には進めないとイライアスは思う。かつては諦めてしまった。でも今なら、それができるような気がするのだ。

「アランの居場所を知りたいのは、半分はキサのためでもあるけど、あとの半分は、僕自身のためです。僕が、あの人の横っ面を引っ叩いて、正気に戻したいんだ」

 そのように言い切るイライアスを見て、もう我慢がならないというふうに、メレディスはくすくすと声をあげて笑い出した。その様子を見て呆然としてから、イライアスはすぐさまムッとした面持ちを浮かべる。酷く馬鹿にされているような気がした。

「ごめんごめん、気を悪くしたのなら謝るよ。悪気はないんだ。ただ、君の口からそんな言葉を聞けるなんて思ってもみなかったから、嬉しくてね」

「……」

「僕はね、君がもしキサのためにアランの居場所を聞きに来たと言ったら、何を言われても教えないつもりだった。彼女がアランの居場所を知りたいと思っているのなら、自分の足で聞きにくるだろう。でも君は、自分が知りたいからという理由で、ここまで来てくれた」

「一番はキサのためです」そう正直に言うイライアスを、メレディスは興味深そうに見る。「今、キサのたがが外れた状態で、手が付けられないんです」

「どういうこと?」

「この三年間で一番キレてます。歌はともかく、ダンスの伸びが飛躍的で、ルイも僕も困惑してて。休むように言ってもいうことを聞かないんです。このままだと体を壊すって分かるから」

「アランが側にいれば強制的にやめさせられる」

「はい」

「キサはアランのことをなんて言っているの?」

「なにも」イライアスは軽く首を横に振る。「なんでもないって顔をしてます」

「そんなことはないのだろうけれどね」

「不安を埋めるために稽古に没頭してるようにしか見えなくて」

 何も考える必要がないように、ただただ、目の前にある課題と向き合っている。

 歌やダンスなどの表現に絶対はない。どれだけ稽古を積んでも、肝心の本番で失敗することだってままある世界だ。演者は常に失敗を恐れている。だから、そうした恐れや不安を払拭するために、人一倍の稽古を重ねるのだ。己の芸を、少しでも完璧に近づけるために。

 だが、希佐の場合は違う。希佐が抱えている不安は、舞台に対するものではない。希佐は舞台上の失敗ですら特別にすることのできる役者だ。まるでそれが台本通りだというふうに、自然にリカバリーすることができる。舞台にアクシデントはつきものだ、それをどのようにカバーするかを考えるのが面白いのだと、前に希佐は話していた。

 この三年間、二人は寄り添うようにして暮らしてきた。

 希佐は母国から遠く離れたこのイギリスの地で、頼れる相手もいない状況の中、導かれるようにしてアラン・ジンデルと出会ったのだ。こういうことを、人々は運命と呼ぶのかもしれない。

「……アランはどうして、キサの傍から離れていったんですか?」

「そういうことは僕にではなく、直接本人に聞いた方がいい」

 待ってて、と言ったメレディスは、ポケットからスマートフォンを取り出すと、素早く連絡先を表示させ、それを耳に当てた。だが、相手が電話に出る様子はない。メレディスはそれでも根気よく待ち続け、数十秒後、小さく息を吐き出した。

「電話にはすぐに出てくれと頼んだはずだよ」店内の騒がしさもあり、相手の声が漏れ聞こえてくることはなかった。「また倒れているなんてことがあったら、そのときは──ああ、そうだね、悪かったよ」

 電話口の向こう側には見えない苦笑いを浮かべたメレディスは、自分を見ているイライアスの眼差しに気づくと、もう少し待ってというふうに人差し指を立てた。

「食事は? 相変わらず寝てもいないんだろう? え? 今何時って、もうすぐ午後六時──まさか、朝からずっと踊りっぱなしなのかい? アラン、いい加減にしないと本当にまた──」

「メレディス」

 イライアスはそう言うと、早く変わってくれと懇願するような眼差しを浮かべ、手を伸ばした。メレディスはその手元を一瞥し、もう一度息を吐く。そして、電話の向こう側にいるはずの相手には何も言わないまま、手にしていたスマートフォンをイライアスに手渡した。

『そうやって小言を言うために連絡してきたなら、もう切るけど──』

「アラン」スマートフォンを耳に当て、イライアスがそう声を上げると、アラン・ジンデルは途端に口を噤んだ。「今どこにいるんですか」

『……イライアスか』

「どこにいるんですか」

『俺が素直に教えるとでも思ってるの』

「思いません」イライアスが即答すると、微かに息を漏らすような声が聞こえてきた。「でも、思いのほか元気そうでよかったです」

『この声を聞いてよくもそんなふうに言えるものだよ』

「朝からずっと踊ってるって本当ですか」

『……ああ』

「僕は、あなたはもう何もかも嫌になって、キサの前から逃げ出したんじゃないかって思ってました」イライアスは自分の中に、怒りとはまた違う、沸るような思いが芽生えるのを感じていた。「だけど、違うんですね」

『いや、君の言う通り、俺は尻尾を巻いて逃げ出したんだよ』

「本当に?」

『俺ではキサの隣にはいられない』アランはどこか疲れたような口振りで言う。『今のままでは、到底無理な話だと思う』

「どうしてキサにそう伝えないんですか」

『そんなことないって言うに決まってるから』

「じゃあ、いつになったらキサの隣に立っていいって、自分に自信を持てるようになるんですか」

『分からない』

「十年近くのブランクを甘く見てませんか」なんだか少し腹が立って、イライアスは語気を強める。「僕は半月躍らなかっただけで、元通りになるまでに二ヶ月以上も時間がかかりました。十年近くもダンスから遠ざかっていたあなたが、一年や二年で自分で納得のできるダンスを取り戻せるわけがない。あなたはその間、ずっとキサのことを待たせ続けるつもりですか」

 アランは何も答えない。痛いところを突かれ、何も言えなくなったのだろう。電話口の向こう側から漂ってくる空気に、酷く参っているような気配を感じるものの、イライアスは構わずに続けた。

「あなたがそうやって悠長なことをしている間に、キサは自分のやるべきことを終えて、日本に帰ってしまうんじゃないですか」

『そうだな』

「あなたがそんなふうに腑抜けているなら、僕がキサを攫っていきますけど、それでもいいんですか」

『それは……』ぐ、と喉の奥が鳴るような音が、微かに聞こえてくる。『俺が決めることじゃない』

「あなたは意気地がない人だ」イライアスはあまりの悔しさに、声を震わせ、喉を詰まらせながら言った。「後悔するくらいなら、手放すべきじゃない」

 舞台に立つ自分も、隣にいてくれる大切な人も、手放すべきではない。決して掴んだ手を離してはいけないのだ。見渡すかぎりの広い海原の上、もしくは人で溢れ返った雑多の中、繋いだ手を離さずにいれば、互いを見失うことはないのだから。

「もう少し周りに目を向けてください。それとも、周りを見回した上で、頼れる相手はメレディスしかいないと、あなたはそう思ったんですか」だとしたら、とても惨めな気持ちになってしまうと、イライアスは思う。「なんのために僕たちがいるんですか。なんのために、僕がバレエを捨ててまで、あなたの傍にいることを選んだと思ってるんですか。僕はあなたに──アラン・ジンデルという舞台人に憧れて、その背中を追いかけることで、ここまで歩いてこられたんです。舞台の上に立ち続けていようと、舞台から離れていようと、あなたは僕の憧れの人なのに、もうこれ以上、僕を幻滅させないでください」

 電話口に向かってまくし立てるように言うイライアスを、カウンターの向こう側からメレディスがじっと見ている。おかしなことを口走ろうものなら、すぐにもスマートフォンを取り上げようとしているかのようだ。それでも、イライアスは自らの心の叫びを偽ろうとは思わなかった。

 諸刃の剣だということは分かっている。ただでさえ塞ぎ込んでいる者に、追い討ちをかけかねないということも理解していた。だがしかし、この程度で折れてしまう心なら、それこそ、十年近くのブランクを埋めることなど一生できはしないだろう。

『随分と好き勝手なことを言ってくれるんだな』

「これが僕の本心です」

 沈黙が続く。

 ああ、この人には自分の言葉は届かなかったのだろうと、そう思ったイライアスが手元のスマートフォンをメレディスに返そうとしたとき、意を決したような息遣いが聞こえてきた。

『そんなに言うなら、手伝って』

「え?」

『鏡に向かって自分相手に踊るのには正直限界を感じてた。もちろん、君がよければの話だけど』

「……僕でいいんですか」

『他の誰に頼めるの』

「バージルとか」

『彼は俺に構ってる暇なんかないよ』

 確かに、電話で話したときも、真夜中まで仕事をしているふうだった。おそらく、舞台の振り入れに手間取っているのだろう。そうでなくても、常にいくつもの仕事を掛け持ちしているような人気の振付師だ。再公演が行われる予定のスペンサーの舞台でも、新たな振り付けの依頼をされていると聞いている。

「分かりました、僕が手伝います」

『そう』相槌を打つ声音に、微かな高揚感が滲んだ気がした。『じゃあ、メレディスに代わって。それから、俺と話したことは、キサには言わないでほしい』

「でも──」

『まだ覚悟が決まらないんだ、頼む』

「……分かりました」

 正直なところ、希佐に黙っているのは後ろめたいと、イライアスは思った。だが、ここから先のことには、自分が口出しをすべきではないということも、理解はできるのだ。

 今は聞き分けよくして、そのうち機会を窺いつつ話を振ってみようと考えたイライアスは、アランの頼みに絞り出すような声でそう応じてから、今度こそスマートフォンをメレディスの手に返した。

 メレディスはイライアスの様子を窺いながらスマートフォンを耳に当て、変わったよ、と言う。

「ああ、うん、分かった。君がそう言うなら──いや、大丈夫だよ。君こそ──ああ、はいはい、もう小言は言わないよ」

 まるで本物の父親か兄のようだとイライアスは思う。だが、それに対しての不信感はなかった。イライアス自身も、自分が母と呼べる人とは、血の繋がりがないからだ。無償の愛情に血縁は関係ないのだと教えられた。それでも、この人の愛情表現は過剰だと感じるが。

 間もなくして電話を切ったメレディスは、胸元から取り出した自身の名刺の裏側に、とある場所の住所を流れるような字体で書き込んだ。それをイライアスに手渡すと、高級そうなボールペンを胸のポケットに引っ掛ける。

「他言はしないようにね」

「……はい」

「随分と不服そうだ」

「キサに申し訳ないと思って」

「でも、きっとこれが最後のチャンスなのだよ」

「最後?」

「アランがここでキサが差し伸べている手を払い除ければ、二人はもう二度と元通りには戻れない。キサはもうその覚悟を決めているはずだ。あとはもうアランの決断次第なのだろうね」

「キサがいつまでも待ってくれるとはかぎりません」

 希佐に残された時間は、限られているから。次の公演が終わったら日本に帰ると、イライアスはアランからそう聞いている。

 希佐のことだから、悔いを残すようなことはしたくないはずだ。おそらく、アラン・ジンデル自身か、彼が描いた世界かを選ぶ必要に駆られれば、後者を選ぶのだろう。演じることに生き甲斐を感じる人間は、何を差し置いてでも、舞台を選ぶに決まっている。

「君がキサを攫っていく?」

「……僕は、二人が好きだから。だから、あの二人が一緒にいて、笑い合ってる姿を見られるだけでいいんです。あれは、売り言葉に買い言葉みたいな感じで」

「今日は君のことをより多く知れたような気がするよ」メレディスはにこりと笑ってみせると、自分を呼んでいるスタッフに向かって軽く手を挙げた。「君自身が踊るダンスのように、情熱的な子だ」

「僕はアランよりもずっと臆病なんだ」

「どうして?」

「二人を見ていると、別れは必然だと思わされるから」だから、踏み込めない。「人生の一瞬みたいな時間を一緒にいるよりも、ずっと友達のままでいた方が、幸せだと思う」

「そうだね、それは僕も同じ意見だよ」

 この手土産を持っていくといい、役に立つからと言われて、イライアスはメレディスから、高級チョコレート店のアソートを押し付けられた。アランはよくこうした贈り物をされているが、食べきれないからと言って、カオスの仲間たちに分配している。

 だから、こんな手土産は必要ないと思うと言うより早く、メレディスはイライアスに向かってぱちんとウィンクをすると、そのまま仕事に戻っていってしまった。

 イライアスは氷が溶けて薄まってしまったジンジャーエールを一気に飲み干すと、椅子から立ち上がり、足元に置いていたリュックを背負う。持っていくようにと押し付けられたチョコレート店の紙袋を片手に、もう一方には名刺を手にして、足早に店を出た。

 スマートフォンの地図アプリに住所を入力すると、目的地はここから歩いて十分ほどの距離にあると分かった。スタジオとは真逆の方向だ。それでも、街を出歩いていれば、希佐とアランが偶然鉢合わせる可能性は皆無ではない。

 タクシーを使うまでもないと、イライアスは地図アプリの指示に従って、目的地まで歩いていくことにした。ジンジャーエール分のカロリーを早急に消費したいという気持ちもあった。

 そうして辿り着いたのは、築百年ほど経っているのではないかと思うほどの、古びたレンガ造りのアパートだった。ただ、内装は改築を行なっているようで、とても明るく清潔感がある。床や壁は大理石が用いられ、グラウンドフロアの天井には洒落たシャンデリアが灯されていた。フロアの一角には談話用のテーブルやソファが用意されている。

 名刺の裏に記された住所の下には、Manager's roomへ行くように、と書き添えられていた。まずはそこへ挨拶に行けということなのだろうか。面倒だなと思いながらも、イライアスは文面の指示に従い、フロアの奥まった場所にある扉の方へと歩いていく。

 インターホンを押すと、ブー、というスタジオと同じ呼び出し音が聞こえてきた。十秒以上待っても応答がなく、イライアスがもう一度インターホンに手を伸ばそうとすると、パタパタと軽い足音が近づいてくるのが聞こえ、内側から扉が開かれる。

「いらっしゃい」

 そう言って自分を出迎えた人物を見て、イライアスは思わず目を丸くした。緩くウエーブのかかった豊かなブロンドの髪を下ろし、青い目をやわらかく細めた女性が、真っ直ぐにこちらを見ている。

「……あの、アランは」

「あの子なら今日は朝からずっとこの奥で踊ってるわ」

「あ、いえ、そうではなくて……」

「あら、それ、私の大好きなチョコレートじゃない?」そう言った女性──クロエ・ルーは、イライアスが提げていた紙袋に手を伸ばした。「どうもありがとう」

 きょとんとした面持ちを浮かべるイライアスを見て、クロエは機嫌が良さそうに笑っていた。そして、チョコレートの紙袋を大切そうに胸の前で抱えたかと思うと、こちらに背を向ける。

「さあ、どうぞ。入ってくださいな」状況がうまく飲み込めないまま、イライアスはクロエの後に続いて室内に足を踏み入れた。「後ろ、鍵を閉めてくれる?」

 言われるがままに扉の施錠をしながら、イライアスは大きく息を吐き出し、呼吸を整えた。

 なぜここにクロエ・ルーがいるのだろうという不可解さと、なぜアランがこの人と一緒にいるのだろうという疑問が、交互に浮上しては、頭の中で互いに激しく殴り合っている。

「ほら、早くいらっしゃい」

 何が何だか訳が分からない。イライアスは混乱する思考を置き去りにして、クロエの後を追いかけた。

 扉には管理人室という表示があったものの、室内は普通の住居と変わらない造りをしていた。玄関を入ると、僅かに伸びた廊下の先が開けていて、そこがダイニングキッチンになっている。奥にはテレビを囲んでくつろげるリビングが見えた。室内は木を基調とした家具で統一され、静かな落ち着きを感じさせる。レースのカーテンがかけられた窓の外には、アパートの裏庭が見えていた。

「紅茶はいかが?」

「いえ、結構です」イライアスは動揺を悟られないよう、普段通りの自分を演じながら、ゆっくりと首を横に振った。「アランはどこですか?」

「廊下の突き当たりにある部屋よ。小さいけれどダンススタジオがあるの。そこで踊っているわ」

「見に行っても構いませんか」

「ええ、どうぞ」

 こちらの様子になど見向きもせず、既にチョコレートの箱を開けにかかっているクロエの姿を横目に、イライアスは廊下の奥に向かって歩き出した。だが、目的の扉の前に立っても、内側からの物音は一切聞こえてはこない。その場でもう一度呼吸を整え、クロエが後ろからついてきていないことを確かめてから、意を決して扉を押し開いた。

 そのダンススタジオは、アランが住んでいる家のスタジオに比べれば狭いものの、数人で稽古をするには十分な広さがあった。

 一面は鏡張りになっていて、その向かい側の面には、バレエのバーが備え付けられている。照明が暗いのは、アラン自身が強い光を嫌ったからだろう。天井から吊り下げられた四方のスピーカーからは、耳馴染みのあるピアノの演奏が流されている。

 ショパンのバラード第一番、ト短調。

 この曲はノイマイヤー版の椿姫や、有名な映画などにも用いられている楽曲で、クラシック音楽に造詣がない者でも、一度は耳にしたことがあるはずの有名曲だ。どこか物悲しく、儚げなのにもかかわらず、奏でられる超絶技巧が激しい胸の内を表すようで、ダンス音楽として用いられることもある。重々しさを感じさせる音色もあれば、軽やかさを感じさせる旋律もあり、楽曲自体の魅力を損なわないように踊り切るのは、まさに至難の技だ。

 暖房もほとんど効いていない部屋の中で、アラン・ジンデルは燃えるような赤い色の髪を振り乱しながら、一心不乱に踊っていた。裸足で踊っているせいか、足音はほとんど聞こえない。時折、振り乱した髪から汗が吹き飛び、それが照明に照らされて、宝石のようにきらりと輝いた。

 コンテンポラリーだ。アランは学生時代、最も得意なのはアイリッシュダンスだが、好きなのは自由度の高いコンテンポラリーだと話していた。尤も、見るのが専門で、自身で踊ることは滅多にないと、そう言っていたが。

 この感情を、どのように言葉にするべきなのだろうと、イライアスは思う。まず、この人の前には、そもそもブランクなどという壁は存在しなかったのだということを、残酷にも突き付けられていた。

 ダンスの最も重要な要素はセンスだ。センスのない人間がいくら稽古を積んだところで、ある程度は技術を身につけられても、最高のダンスを踊ることは難しい。

 神に愛されるようなダンサーは、体で音楽を奏でるようにして踊る。無音の世界で踊っていても、自然と音楽が聞こえてくる。ただ、そこに立っているだけでも、圧倒的に美しい。

 イライアスはぞっとした。息を荒げ、汗を振り撒きながら踊る様は一見無様でもあるのに、どうしても目を逸らすことができない。感情が赴くままに、まるで神からの啓示を受けた者のように、手足が動いているようだった。どうすれば自らの体を最も美しく見せることができるのかを、熟知している者の動きだ。頭の天辺から足の爪先まで、決して軸がぶれず、どんなに不安定に体を傾けようとも、倒れることがない。

 大学の頃も稽古場で一人、こうして一心不乱に踊っていることがあった。そういう日は決まって自分から声をかけることができず、稽古場の隅で、この人が踊る姿をただじっと、黙って見つめていた。そして今も、当時と同じように、こうして言葉もなく扉の前で立ち尽くしている。

 十分程の曲を通して踊り終えたあと、アランはその場にばったりと倒れ込んだ。放心したようにその姿を眺めていたイライアスは、テーブルの上に置かれている水とタオルを見つけ、それを手に歩み寄っていく。

 無言のまま差し出したそれを、アランは上半身を起こし、黙ったまま受け取った。いや、言葉を発することすらできないのだろう。酸素を求めるように肩を大きく上下させながら、生ぬるい水をごくごくと飲み干していく。

 アランは顔の上にタオルを乗せると、再び硬い床の上で横になった。何か思うところがあるとでもいうふうに、空になったペットボトルをばきばきと握り締め、ゆっくりと呼吸を整えようとしている。

「毎日こんなことをしてるんですか」アランは答えない。「すぐに体を壊しますよ」

 希佐と一緒だと思った。何かを必死で繋ぎ止めようとするように、ただただ夢中になって踊る。目には見えないものを手繰り寄せて、自らの腕の中に閉じ込めようとしている。だが、技術に体が追いついてこない。体力が圧倒的に足りていないのだ。一曲踊り終える毎に床に伏すような踊り方では、そのうち体が悲鳴を上げて、必ずどこかを痛めることになるだろう。

「あなたは何をしてるんですか」

 思わずそう問うと、アランは顔の上のタオルを引き剥がし、傍に立っているイライアスを見上げた。呼吸は大分落ち着いていたが、汗は滝のように流れ続けている。あとでフロアのモップ掛けをしないと、とイライアスは無意識に考えていた。

「自分の根性を叩き直してる」

「成果は?」

「あまりないかな」

「足元がフラフラしてるし、膝もガクガクで、酷いものでした」

「でも、最後まで踊りきれた」アランは天井をぼんやりと眺めながら言った。「やっぱり人の目は必要だな。一人で踊ってると、どうしても途中でやめたくなる」

「あの人には見てもらわないんですか」

「あの人? ああ、あの女」アランはゆっくりと上半身を起こすと、酷く邪魔そうに前髪を掻き上げた。「ここには入るなって言ってある」

 全身に痛みがあるようで、立ち上がることすら億劫そうだった。体中の筋肉が限界を訴えているのだろう。少し動くだけでも、ぎしぎしと軋むような感覚に襲われているはずだ。

「あー、足攣りそう」

 アランはそう独り言ちると、バレエバーの方まで歩いていき、そこに踵を引っ掛けて足の筋を伸ばす。小さく唸るような声を漏らしながら息を吐き出し、次の瞬間には、己のダンスの反省点をぶつぶつと呟いていた。

「今日はもう終わりにしてください」これ以上踊り続けたところで、何もいいことはない。「本当に怪我をしますよ」

「君が言うと説得力が違うな」

「あれは若気の至りです」

 大学に入って最初の年、少しでもこの人に近づきたくて必要以上に稽古をした結果、イライアスは足を痛めた。幼い頃からバレエを踊り続けてきた自分がまさかと思ったが、現実は現実だ。幸い怪我の具合は軽度で、半月間安静にしていればよかったのだが、たったそれだけの時間でも、イライアスにとっては拷問に等しいものだった。元通りに踊れるようになるまでの二ヶ月は、酷くもどかしい思いをした。

「分かった。休むよ」

 イライアスの睨むような眼差しを受け、アランはため息まじりにそう応じると、その場に腰を下ろした。酷使した体の疲れを少しでも癒すために、念入りなストレッチを行っている。だが、連日踊り続けているのだとしたら、この程度のストレッチやマッサージでは、あまり意味はなさそうだ。

「あとで良い三療師を紹介します」

「それはどうも」

「何か食べたいものがあれば近くの店で買ってきますけど」

「いいよ、そんなことしなくて」アランはイライアスを見上げると、僅かに呆れたような顔をした。「メレディスが買い込んできた食材が山のようにあるから」

 普段と雰囲気が違うと、そう感じたのは気のせいではないだろう。

 言うなれば、大学時代の面影を強くしているような、そんな雰囲気がある。憑き物が落ちたとは言わないまでも、どこか肩の荷が降りたような、ぬかるみから脱しかけているような、そんな感じを受け取ることができた。

「……明日、また来てもいいですか」ストレッチをする後ろ姿に向かってそう声を掛けると、アランは体を捻りながらイライアスを振り返る。「あなたが無茶をしないように見張ります」

「いつでもどうぞ。このスタジオも好きなときに使っていい。なんなら泊まってもいいけど、あの女がいるから嫌か」

「あ、あの……」

 これは聞いてもいいことなのかどうか分からず、イライアスが思わず言い淀んでいると、何のことかをすぐさま察知したアランが、平然とした口振りで話し出した。

「ここであの女と暮らしてる」目を丸くするイライアスを振り返り、アランは少しだけ口角を持ち上げた。「ここはメレディスが管理してる賃貸アパートなんだ。俺は子供の頃からここに出入りしてて、家出するたびに転がり込んでた。管理人室とは名ばかりの、劇団員の溜まり場だったんだよ。メレディスの家は、このアパートの最上階」

「でも、どうしてあの人と一緒に……?」

「拾った野良猫をホテルに連れ込もうとしたら追い出されたらしい」

「野良猫?」

「雨の中で衰弱してたのを見つけて拾ったはいいけど、部屋に連れて行ったらホテルのメイドに見つかって、間もなくしてやってきた支配人にやんわりと追い出されたって聞いてる。そこでメレディスに泣きついたら、住む部屋が見つかるまでは、ここを使えばいいっていう話になって」

「それで、先にこの部屋を使っていたアランと、あの人が一緒に生活をすることになった」

「迷惑な話だろ」

「あなたがそれを言うんですね」

「ここのスタジオの改装費には、微々たるものだけど、当時の俺のバイト代も含まれてるんだ。だから、俺にはここを使う権利がある」

 アランがそう言った次の刹那、にゃーん、という鳴き声とともに、スタジオの扉が開かれた。反射的に後ろを振り返ると、ととと、と急ぎ足でやってきた毛並みの良い純白の猫が、イライアスの方など見向きもせず、アランの下へと駆け寄っていく。

 短く鳴き、ゴロゴロと喉を鳴らす猫の頭を優しく撫でてやりながら、アランは開け放たれた扉の方を睨みつけた。

「そんな怖い顔をして睨まないでちょうだい」クロエはころころと笑いながら言う。「その子がドアを引っ掻いて中に入りたがっていたのよ。傷がついたりしたら大変でしょう?」

 スタジオの中に入ってきたクロエは、手前に立っていたイライアスに向かってにこりと微笑みかけてから、目の前を通り過ぎてアランのところまで歩いて行った。

 猫は長い尻尾をアランの腕に器用に巻きつけていたが、クロエの手に抱き上げられると、それを非難するように小さく鳴いた。

「二人とも、お夕食はどうするの? せっかくだからデリバリーでも頼みましょうか?」

「いらない」

「……僕も結構です」

「あら、そう」つまらないとでも言うふうに不満そうな面持ちを浮かべながら、クロエは腕の中の猫を撫でている。「若い男の子たちは冷たいわね。あなたもそう思うでしょう、アゼリア?」

 アゼリアというのがその猫の名前らしい。クロエは同意を求めるようにアゼリアの緑色の目を覗き込むものの、猫はそれを嫌がるように身を捩り、顔の高さから静かに床に降り立った。

 まあ、と漏らすクロエを横目に、アランは徐に立ち上がると、タオルと空になったペットボトルを拾い上げながら口を開いた。

「その猫、カオマニーだ。どこかの飼い猫だろうから、あんたが一緒に住む家を探すより、その猫を探してる飼い主を探した方がいい」

「カオマニー?」

「最近までタイの王族だけが飼育してた猫だ。近頃ではイギリスでも繁殖してるらしいから、ブリーダーを当たればすぐに飼い主は見つかる」

「それは残念ね」

「こいつはあんたに飼われるより、飼い主の元に戻った方がずっと幸せだ」

「そんなに懐かれて、手放すのが惜しくなったりはしないのかしら」

「どんなに懐かれたところで、こいつは俺の猫じゃない」

 アランはそう言いながらも、自らの足に擦り寄ってくる猫を優しく抱き上げると、その小さな額にそっと唇を寄せていた。

「君はもう帰った方がいい」猫からイライアスに目を向けたアランが、静かに言った。「明日も歌の稽古があるんだろ」

「はい。でも、明日また来ます。必ず」

「ああ」

 アランが風呂に入るタイミングに合わせて、イライアスはアパートの管理人室を後にした。

 希佐のことが心配になって様子を見にいくが、昨日までと同じように、自分の稽古が終わった後も、自主的に稽古を続けていた。この二人は離れていても、どこかで通じ合っているのだろうかとイライアスは思う。ただ、目指している方向や目的が微妙にずれているような気がして、若干の危うさを覚えていた。

 それから毎日のようにアパートの管理人室に足を運び、イライアスは真夜中を過ぎる時間帯まで、アランに付き合って踊り続けた。こうなったらこの人の気が済むまで見守ろうと、そう決めたからだ。だがしかし、罪悪感は募るばかりで、ただただ希佐に申し訳なく、重力に押し潰されるような、そんな窮屈さを覚えていた。

 だから、翌週の日曜日は、少し早めにアランとの稽古を切り上げて、希佐の様子を見に行こうとスタジオに向かったのだ。

 その日もまた一人でダンスの稽古をしているのだろうと思い、イライアスはいつものようにカオスの全員が持っている合鍵を使って、スタジオの扉の施錠を外した。

 だが、ここのところ毎日狂ったように踊っていた希佐の姿は、スタジオにはなかった。事務室を覗き込み、念のために二階も確認してみたが、希佐は留守にしているらしい。

「珍しい」

 買い出しにでも行っているのだろうか。そう思いながら階段を降り、事務室に足を踏み入れたところで、奇妙な違和感を覚える。

 この部屋は一見乱雑なようで、その実はよく整頓されているのだ。異常に物が多い分、足の踏み場がほとんどないので、ごちゃごちゃとした見た目になっている。その証拠に、アランはこの部屋のどこに何があるのかを、完璧に把握していた。

 だから、プリンターの排出口に、印刷したままの紙をそのまま放置するなんてことは、基本的にはあり得ない。急いでいて片付け忘れたのだろうかと思いながら、イライアスは何の気なしに歩み寄り、一番上の紙を手に取って見た。

「……求人情報?」

 イライアスは思わずそう口に出して、僅かに首を傾げる。どうしてこんなものを印刷したのだろうと思いながら、他の紙もすべて手に取ると、それらを一枚ずつ確認していった。

 求人情報は主に夜間のものが多かった。パブやバーの類だ。他には間取りの小さなアパートの物件情報が数件分、印刷された状態のまま放置されていた。

 イライアスには、これを印刷したのがアラン・ジンデルだとは到底思えなかった。だが、アラン以外にこのプリンターを使用する者は、希佐以外にはいない。

 希佐はここを出ていこうとしているのだろうか。ここを出て、どこかでアパートの部屋を借り、一人で暮らす心積りなのか。昼間は稽古をし、夜は働いて、一人で暮らしていくための生活費を稼ごうとしているのか。

 それが考えに考え抜いて出した結論だというのなら、反対する理由はない。だが、イライアスにはそうは思えなかった。何らかの衝動に駆られているのだろう。例えば、自分のせいでアラン・ジンデルがこのスタジオを出て行ったのだと思っているのなら、希佐はこれまでの生活を何の躊躇いもなく捨て、自らの足でここを去るはずだ。

 メレディスにもそう伝えたように、イライアスは二人が隣り合っている姿を見るのが好きだった。時折視線を交わらせ、言葉もなく見つめ合っている姿を見ると、心が暖かくなって、満たされるような気持ちになった。その形を、壊してほしくはない。

 イライアスはほんの少しだけ躊躇った後に、自らのスマートフォンを手に取った。微かに震える手で操作をし、先程別れたばかりの相手に電話をかける。

『なに』

 一向にコール音は途切れなかったが、それでも根気強く待っていると、間もなくして不機嫌そうな声が聞こえてきた。何を言っているのかまでは分からないが、小さくクロエ・ルーの声が聞こえている。

「……大丈夫ですか」

『ちょっと待って』

 あんたには関係ないことだ──アランはそう言うと、どこかに向かって歩き出したようだ。パタン、と扉を閉める音が聞こえたかと思うと、はあ、と大きなため息が聞こえてくる。

『ごめん』アランは感情を抑え込むような声で言った。『なにか忘れ物でもしたの』

「今、スタジオに来てるんですけど」

『イライアス──』

「キサはいません。外出してるみたいで」咎められる前に急いで言い返してから、イライアスは手元の紙に視線を落とした。「それで、あの、アランはここを出ていく前に、事務室のプリンターで何かを印刷しましたか」

『いや』

「じゃあ、やっぱりキサが……」

『どうかしたの』

 言い淀むイライアスの声を聞いて、アランの声が微かに低くなる。

 イライアスは一瞬、希佐の決断をアランが咎めるのはお門違いだと思ったが、すぐさまその思考を意図的に脇へ押しやると、実は、と話し出した。

「求人と物件情報を印刷した紙がプリンターに残されてて」他人の秘密を勝手に盗み見、それを密告しているようで、イライアスは自分の行為に酷く気分が悪くなった。「あなたがしたのでなければ、キサですよね」

『多分』

「アラン、早くしないと、もしかしたら取り返しのつかないことに──」

 イライアスがそう言いかけたそのとき、がちゃ、と扉の開く音がスタジオの方から聞こえてきた。

『あれ、おかしいな』聞き慣れない日本語が、しかし聞き慣れた声音で呟かれる。『鍵、閉めたはずなんだけど』

 希佐が帰ってきたのだ。そう思ったイライアスは、咄嗟にスマートフォンをポケットに押し込むと、もう一方の手に持った数枚の紙を見下ろす。問いただすべきか、それとも黙って見過ごすべきか──そう思い悩んでいるうちに、そろり、と小さな頭がスタジオの方から事務室を覗いた。

「ああ、なんだ、よかった」希佐は青白い顔をしたまま、ほっと胸を撫で下ろしていた。「イライアスだったんだね」

「ごめん、驚かせて」

「ううん。鍵を閉め忘れていたのかもしれないと思って、少し心配になっただけ」

 泥棒だったらどうしようかと思ったよ、と言って、希佐は笑っていた。だが、胸の前で抱えている麻の袋に回された両手は、関節が白く浮き上がるほど強く握り締められている。

 三年前、暴漢がこのスタジオに押し入ったときのことを、希佐は思い出しているのだろうと、イライアスには察することができた。そして同時に、配慮が足りず、嫌な思いをさせてしまった自分に、酷く失望する。

 だから、手にしていた紙の存在を、ほんの一瞬だけ失念してしまっていたのだ。それを後ろ手に隠すこともせず、手に握りしめているイライアスを見て、希佐は形の良い目をくりっと丸くすると、ぱち、ぱち、と大きく瞬いていた。

「イライアス、それって……」

 ちらり、とプリンターの方を一瞥する希佐を見て、やはりこれは彼女が印刷したものなのだと、イライアスは確信する。そして、もう言い逃れをすることは難しいだろうと悟り、勇気を振り絞って踏み込んでみることにした。

「キサ」

「うん?」

「ここを出ていくつもりなの?」まさか、真っ直ぐに問われるとは思わなかったというふうな顔で、希佐は驚いているように見えた。「勝手に見てごめん。でも、これはどういうことなのかと思って……」

 希佐はどう言ったものかと悩むように眉を顰めてから、観念したような顔をして笑うと、事務室の中に入ってきた。

「上でお茶でもどう?」

「う、うん」

「それも持ってきてね」

 イライアスが握り締めてくしゃくしゃにしてしまった紙を一瞥し、希佐は階段を上っていく。イライアスはその後ろを追いかけながら、歩く度にふわふわと揺れる豊かな髪を眺めていた。毛先が絡まっているのを見つけて手を伸ばしかけるが、すぐに引っ込める。アイリーンの髪に触れるのとは訳が違うのだと思い、階段を上る足元に視線を落とした。

「イライアスはどの茶葉が好きなんだっけ」

 手を洗い、ケトルをコンロの火に掛けると、希佐がそう問いかけてきた。足場に上ってシンク上の戸棚を開け、そこにずらりと並んでいる紅茶の缶を眺めている。アランが好んで飲んでいるのはダージリンだ。だが、ミルクティーを淹れる場合は、ダージリンとアッサムをブレンドしている。

『仲良くなりたい人が現れたら、まずは相手の紅茶の好みを知って、それをプレゼントするといいわ』そう教えてくれたのは、アイリーンの母親だった。『好きな紅茶を贈られて嬉しくない人はいないし、それに、その紅茶の缶を手に取るたびに、その人はあなたのことを思い出してくれるのよ』

 そういえば、アランは紅茶の好みを教えてくれるまでに、随分時間がかかったような気がすると思いながら、イライアスは戸棚の端を指さした。

「僕はセイロンが好き」イライアスがそう言うと、希佐はセイロンの缶を手に取った。「キサは?」

「私? うーん、特にこれといってこだわりはないけれど、ダージリンが多いかな。最近はグリーンティーをよく飲んでるよ。ユニヴェールの校長先生が送ってくれるんだ」

 お湯が沸くまで待っててと言い、希佐は抱えてきた袋を掴んで、自分の部屋に入っていった。おそらくコインランドリーで洗濯をしてきたのだろう。

 イライアスは背負っていたリュックを椅子に置くと、被っていた帽子とマフラーを外して、コートを脱ごうとした。だが、ここは妙に肌寒い。脱ぎかけのコートを羽織り直したイライアスは、その格好のまま椅子に腰を下ろした。

「あ、ごめんね、イライアス。今暖房をつけるから」

 けほん、けほん、と咳をしながら部屋を出てきた希佐は、キッチンの引き出しの中に仕舞い込まれていたリモコンを取り出し、エアコンの電源を入れた。加湿器から空のタンクを抜き取ると、流しで水を入れている。

「いいよ、イライアス」湯が沸いたことに気づいてイライアスが腰を上げようとすると、加湿器にタンクを戻していた希佐が声を上げた。「座ってて」

 希佐は慣れた様子で紅茶を淹れると、いつもイライアスが使っているマグを温めてから、そこに琥珀色の液体を注ぎ入れた。両手に持ったマグをテーブルの上に置き、イライアスの正面に腰を下ろす。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 生暖かい風がエアコンから吐き出され、希佐の前髪を揺らしている。伏せた目が瞬きをすると、長い睫毛が微かに震えた。アンバーの目にいつものような輝きを見出すことができず、イライアスにはどのような言葉をかければ正解なのかが分からない。

 それでも、膝の上に置いた両手にぎゅっと力を込め、ゆっくりと息を吐き出した。ポケットの中のスマートフォンは、スピーカーに切り替えた通話状態のままだ。

「キサ──」

「そうだよ」

「えっ?」

「ここを出ていこうと思っているんだ」両手で包み込むようにして持っていたマグから視線を上げた希佐は、輝きを失った目でイライアスを見た。「どんな理由でアランが出ていったのかは分からないけれど、こんなのっておかしいでしょう? ここに住まわせてもらっているのは私の方なんだから、あの人が出ていかなければならない理由なんてない。私が出ていけば、あの人はここに帰ってこられるから」

「アランに相談は──」

「ここにいない人とどう相談をすればいいの?」

「でも」

「電話を掛けても出てくれなかったし、メッセージも未読のまま。多分、しつこくしすぎたんだと思う。アランの気持ちよりも、自分の感情を優先させた結果がこれなんだ。私はアランのことを助けたいと思った。だけど、あの人にとってはきっと大きなお世話で、ずっと重荷だったんだと思う。だから、そういうことはもうやめようって」

「キサ……」

「私も地に足をつけて、自分の足で歩く練習をしないと。いつまでも負んぶに抱っこじゃ、この先一人で生きていないから」

「どうして」

「え?」

「一人で生きていこうなんて、そんなこと、考える必要ない」イライアスは何故か喉が詰まって言葉をうまく発せられず、小さく咳払いをした。「キサは一人じゃない。アランだって、きっと、何か理由があって……多分、何か理由が……」

「イライアスはアランが好きなんだね」

「キサだって」

「うん、大好き」

 こんなに思い合っているのに、その言葉を口にした瞬間だけは、アンバーの目に光が戻るのに、どうしてすれ違ってしまうのだろう。不要な誤解を生んでしまうのだろう。ほんの少しの言葉を交わすだけで、完全に分かり合えるはずなのに。

「大好きだから、迷惑をかけたくない。お荷物になりたくない。私の存在があの人を苦しめているのなら、それを取り除いてあげたい」

 イライアスは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。握り締めた拳の内側に、爪が突き刺さるほど強く力を込める。

「ねえ、イライアス」

「うん」

「アランに伝えて」ハッとして顔を上げたイライアスを見て、希佐は優しく微笑んでいた。「ごめんなさいって。三年前から、今までずっと。私があなたの平穏を壊してしまった。安全な逃げ場所を奪ってしまった。でも、そんなつもりはなかったの。ただ、私はただ、あの人と同じ世界を共有したかった。同じ舞台の上で、千のスポットライトを浴びて光り輝くあの人の、隣に立ってみたかった」

 まるで叶わない願いを語るように、しんみりと、希佐は言った。声も出さず、ぽろぽろと涙をこぼしながら。

「どうして僕がアランと……」

「分かるよ」希佐はそう言って泣きながら笑う。「イライアス、アランの匂いがする」

「……匂い?」

「この三年間、ずっと一緒にいたんだから」

 そう言って泣きながら笑う表情すら美しいと思ってしまう自分は、どうかしているのだろうとイライアスは思った。自分もこんなふうに思われてみたいと、嫉妬とは違う、焦がれるような思いで、胸の中が満たされていた。

「家を探す。あと、仕事も。昼間は公演に向けての稽古をして、夜働く。イライアスやアイリーンみたいに売れっ子じゃないから、コツコツ働かないとね。舞台の裏方とかも楽しそうだなって、コインランドリーで洗濯をしながら考えてたんだ」

 希佐とイライアスは、カンパニーと独占契約を交わしている。要は、その契約が生きている間は、他の舞台に出演することはできないということだ。プロモーションが始まればそれなりの実入りはあるが、それまでは一切の収入がなくなる。

 一人で暮らしていくとなると、貯金を切り崩すか、舞台以外での働き口を探さなければならない。ロンドンの物価は、若手の役者にはあまりに高すぎるからだ。

 イライアスは、希佐と初めて出会った三年前のことを思い出し、すぐに頭を振った。あの頃のように、痩せて疲れ切った希佐の姿など、もう二度と見たくはないと思う。

「キサ、考え直して」

「イライアス」

「本格的な舞台稽古がはじまったら働いている暇なんてなくなるよ。合間にはプロモーション活動もある。僕は慣れてるから平気だけど、キサはそうじゃない」

「でも」

「本当にアランのことを好きなら、これから先のことは、あの人と話をしてから決めて。二人で話し合って、それでもキサがここを出ていくと言うなら、もう僕は何も言わないから」

 嘘は吐いていなかった。ただ、本当のことを、知っていることを話さなかっただけ。だがそれは、イライアス自身が考えていた以上に、心の負担が大きかった。しかも、希佐は真実に気が付いていながら、一度として問い詰めようとはせずに黙っていた。

「……僕、嘘を吐くのは苦手だ」

「うん」

「だから聞かなかったの?」

 嘘を吐かなくて済むように、何も聞かなかったのか──イライアスがそう思いながら尋ねても、希佐は曖昧に笑うばかりで、何も言わなかった。

「アランに帰ってきてほしい?」

「彼が帰ってきたければ」その答えに怪訝そうな顔をすると、希佐は先を続けた。「私はね、誰にも何も言わずに日本を出てきたの。出ていくことを知っていた数少ない人たちにも、所在を教えなかった。五年間、校長先生以外とは連絡も取っていない。加斎くんや田中右先輩は例外だけれど。そんな私が、アランに帰ってきてほしいなんて、口が裂けても言えるわけがない」

 だが、それは暗に、帰ってきてほしいと言っているようなものだった。イライアスは、ポケットに忍ばせているスマートフォンの向こう側で、これを聞いているかもしれないアランのことを考えながら、口を開いた。

「ここにアランはいない。君が何を言っても、それを聞いているのは僕だけだよ、キサ。だから、本当の気持ちを聞かせて」涙で潤んだ目が、イライアスを真っ直ぐに見つめていた。「アランに帰ってきてほしい?」

「……わ、私は」

 そのときはじめて、希佐の声が大きく震えた。わっと泣き出したいのを堪えるように、両手で顔を覆いながら俯くと、肩を小刻みに震わせる。嗚咽のような声を漏らすが、その感情を押し込めようと、体全体に力を入れて縮こまっているのが分かった。

 イライアスは静かに立ち上がると、隣の椅子に移動し、苦しそうに息を詰めている希佐の背中に触れた。慰めるように、トントン、とぎこちない手付きで撫でていると、希佐は顔を覆っていた両手を下ろした。

「……本当はここにいたい」ぽつり、と呟くような声で希佐は言った。「ずっとここにいたい。どこにも行きたくない」

「うん」

「私は、私は──」希佐は俯いた格好のまま、両腕で自らの体を抱いた。「アランに、帰ってきてほしい」

 けほん、けほん、と希佐は続けて咳をする。すっかりぬるくなった紅茶の入ったマグに手を伸ばし、それをごくごくと飲むと、些か落ち着いたようだった。

「大丈夫?」

「うん」はあ、と大きく息を吐き、希佐はイライアスを見た。「ごめんね、イライアス」

「え?」

「こんなこと、あなたに言っても仕方がないのに」でも、と言って、希佐は赤くなった眦を僅かに下げて笑った。「ありがとう」

 アランのところまで連れて行こうかと言い掛けた口に、イライアスは寸前のところで蓋をする。自ら口を割ったわけではないものの、希佐には言わないでくれという約束を果たすことができなかった。これ以上の不義理を働くわけにはいかない。

 イライアスが黙り込んだままでいると、希佐はまた少しだけ咳をして、喉の辺りを押さえる。眉を顰めるイライアスを横目に見てから立ち上がった。

「やっぱり乾燥してるのかな」

「違う」ふらりとよろめいた希佐の腕を掴んで、イライアスはその体を椅子に戻した。「キサ、顔が赤い」

 前髪を掻き分けて触れた額はじっとりと汗を掻いていて、酷く熱かった。顔を覗き込むと、その表情が朦朧としているようにも見える。

「ごめん、少し抱えるよ」

 イライアスは背中と膝裏に腕を差し入れると、そのまま希佐の体を抱き上げた。足早に希佐の部屋の前まで移動し、片手で素早くドアを開けて、奥に見えているベッドにその軽い体を下ろす。

「寒い? 暑い?」

「少し寒い」

「分かった」

 待ってて、と言いながら希佐の体に布団をかけたイライアスは、部屋の外に出てドアを閉めてから、ポケットから取り出したスマートフォンをスピーカーから切り替え、耳に当てた。

「アラン」

『聞いてた』電話口の向こう側から、ごそごそという音が聞こえてくる。『冷蔵庫、なにか入ってる?』

「……いえ、空っぽみたいなものです」

 冷蔵庫に駆け寄り、戸を開いて中を覗き込むと、卵か何個かと賞味期限の切れた牛乳、加工食品がいくつか入っているだけだった。なんとなく開いた冷凍庫の中には、アランが好きなアイスクリームが必要以上に詰め込まれている。

『必要そうなものを買っていくから、君は傍にいてやって』

「はい」

『毛布が足りないようなら、俺の部屋のベッドから引き剥がして持っていっていい。薬はバスルームの鏡の裏にパラセタモールが入ってるから、飲ませられるようなら飲ませて』

「分かりました」

『下に着いたら連絡する』

 ぷつ、と通話が途切れる。イライアスはバッテリーの残量を確認してから、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。

 アランの部屋のベッドから引き剥がした毛布を抱えて希佐の部屋に戻り、それを上掛けの上から掛けてやると、希佐の眉間に不快そうに寄っていた皺が、微かに和らいだように感じられた。

 イライアスは常温の水をグラスに注ぎ、それとパラセタモールの箱を手に持って、再び希佐の部屋に戻った。

「キサ、起き上がれる? 薬、飲んだ方がいい」

「うん」

 親鳥から与えられたものを何の疑いもなく口に含む雛のように、希佐はイライアスが手の平に乗せた錠剤を口の中に放り、それを水で押し流した。

「イライアス」

「ん?」

「ベッドまで運んでもらって、薬まで飲ませてもらったのに言えることではないと思うけれど、移ると良くないから、もう帰った方がいいよ。あとのことは、自分で何とかするし」

「駄目だよ、キサ。こういうときは、気にせず人を頼っていいんだ。キサだって僕が熱を出して倒れたら、傍にいて看病してくれる」

「それはそうだけれど」

「それと同じことだから」

 イライアスは希佐に横になるように促すと、その体に布団をかけてやった。暖房の設定温度をまた少しだけ上げて、ペットボトルの水を手の届く場所に並べて置く。

「何か食べたいものはある?」毛布に顔の半分を埋め、希佐は首を横に振った。「それなら、食べられそうなものは?」

「ありがとう。でも、今はいらないかな」

 あの冷蔵庫の中を見るに、アランがいなくなってからずっと、まともな食事はしていなかったのだろう。それであの稽古量ならば、体調を崩すのも当然の話だ。

 アイリーンはこういうときに何をしていたっけ、と思いながら、イライアスはこんこんと咳をしている希佐を痛々しそうに見た。酷く丈夫な自分の体は滅多なことでは風邪を引かず、たとえ寝込むようなことがあっても、アイリーンがあれこれと世話を焼いてくれていた。

 イライアスは一瞬、アイリーンに事情を話して何をすべきか教えてもらおうかとも考えたが、彼女は今実家に戻っていて、他人の心配をしていられるような状況ではないかもしれない。

 しかし、イライアスが椅子に腰を下ろして間もなくすると、少し呼吸は荒いものの、希佐の寝息が聞こえはじめる。こちらに背を向けて眠っているので確認はできないが、小さな声で名前を呼んでみても、返事はない。

 その場から立ち上がったイライアスは、物音を立てないように部屋を出ると、ドアをそっと閉めた。振動しているスマートフォンを耳に当てがい、今行きます、と言って切る。

 案の定、アランはイライアスに買ってきた荷物を手渡すと、すぐに踵を返そうとした。だが、イライアスは荷物を受け取らず、キッチンから持ってきた自分のリュックを背負う。アランはその様子を怪訝そうに見ていたが、イライアスは気にしなかった。

「僕は帰ります」

「イライアス」

「駄目なんですよ」イライアスはニットの帽子を目深に被り、マフラーを巻きながら言った。「僕が相手だとキサは気を使ってしまうんです。だから、傍にいるのはあなたの方がいい」

「でも──」

「この機会を逃したら、あなたはまた適当な理由を見つけて、キサと顔を合わせることを遠ざけようとする。キサは自分のせいであなたが出ていったと思っています。でも、実際はそうじゃない。この誤解を解いてください。電話越しに僕たちの話を聞いていたなら、キサの思いは理解できたはずです。取り返しのつかないことになったら、あなたはまた後悔することになる。舞台から離れてしまったことを悔いたときと同じように」

 イライアスはこのとき、この人のこんなに情けない顔を初めて見たと、そう思った。どうしたらいいのか分からないという表情で、まるで道に迷ってしまった子供のように、戸惑いを隠さない。

 ずっと雲の上の存在だと思っていた人が、自分と同じ人間だったのだと知り、イライアスはつい嬉しくなってしまった。

「覚悟なんていうものは、いつまで待っても決まるものではありません」ふ、と笑みをこぼすイライアスを見て、アランは緑の目をゆっくりと見開いた。「覚悟は自分で決めるものです。少なくとも僕は、そうしてきました。本当は怖いけど、それでも前に進むんです。踊り続けていれば、誰かが見つけてくれる。歌い続けていれば、誰かが特別だと思ってくれる。あなたは本物です、アラン。あなたのことを、ずっと見てきたこの僕が言うんだから、間違いない」

 希佐が泣きながら言っていた。

『──私はただ、あの人と同じ世界を共有したかった。同じ舞台の上で、千のスポットライトを浴びて光り輝くあの人の、隣に立ってみたかった』

 イライアスには、その気持ちが痛いほどよく分かるのだ。もう何年も同じ願いを抱えて生きてきたから。だが、ほとんど諦めかけていた。叶うわけのない願いだと。でも、今は違う。希望を抱いている。

「僕も、千のスポットライトを浴びて光り輝くあなたを、この目で見たい。同じ舞台に立ちたい。それが、今の僕の夢なんです」

 だから、もうそれ以上のことは望まない。

 好きな人の隣には立てなくても構わない。

 大好きな人たちがこの先もずっと、幸せであるのなら。

 

 

 暑い──希佐は体に乗っている重たいものを剥ぐと、新鮮な空気を求めるように、口を開けて大きく息を吸い込んだ。しかし、冷たく乾いた空気は喉の乾燥を助長させ、嘔吐くように咳き込んでしまう。

 すると、背中にするりと差し入れられた手の平が、希佐の体をゆっくりと起こした。背中を撫でてくれる手が優しく、その安心感も相まって、しつこい咳が徐々に治まっていく。黙って水を飲まされた後、再びベッドに横たわるよう誘導された。

 目を開けることすら億劫だった。これが夢なのか、現実なのかもよく分からない。

 コインランドリーの暖房が故障中で、寒い思いをしながら洗濯が終わるのを待っているときから、調子が悪いことは自覚していた。酷く悪寒がして、震えている希佐を心配した顔馴染みの女性が、温かい飲み物を買ってきてくれたほどだ。

 体の不調は、心までをも弱くしてしまう。押し込めていた心細さはあっという間に蓋を押し上げ、外に飛び出してきてしまった。無駄な心配をかけるだけだと、言葉にすることを避けていた感情をイライアスには吐露してしまい、最終的にはこのざまだ。

 朦朧とした意識の中でぐるぐると同じようなことばかりを考えていると、不意に、額に大きな手の平が押し当てられた。ひんやりとした手だ。そう感じるのは、自分の熱が高くなりすぎたからなのだろうか。だが、その手の触れ方を、希佐は知っている。

 まさか、と思いながらうっすらと目を開くと、いるはずのない人が自分の顔を覗き込んでいた。なんだ、夢か──希佐は前髪越しに見える緑の目を見上げながら、未練がましい自らの感情を嘲笑う。

「気分はどう?」そう気遣わしげに問いかけてくる声も、自分の妄想に過ぎないのだろう。「キサ」

「あなたがここにいるはずない」

 希佐が少し掠れた声でそう言うのを、その人は困ったような顔をして見下ろしていた。額を覆っていた手の平は輪郭をなぞるように下りて、火照った頬を包み込む。

「だけど」希佐は目を閉じ、猫のようにその手の平に擦り寄ると、ゆったりと体の力を抜いた。「これが夢でも、あなたに会えて、私は嬉しい」

 しかしながら、これが夢ではなかったのだと知るのは、もう一眠りしたあとだった。

 カタカタ、カタ、とキーボードを叩く音が聞こえた気がして目を開けると、ぼやけた視界の中で、机に向かっているアラン・ジンデルの姿が見える。真っ暗な部屋の中、ノートPCの画面の明かりだけが煌々とし、その光がアランの顔を青白く照らしていた。

 軽率に声をかけてしまったら、この魔法がとけてしまうのではないかと思い、希佐は口を噤んだまま、その横顔をじっと見つめていた。自分のことに気づいてくれるのを、ただ静かに待ち続けた。伸ばしたくなる手でしっかりとシーツを握り締め、名前を呼びたくなる唇を引き結んで。

 アランのことは、イライアスが呼んでくれたのだろう。だが、自分の具合が悪いと説明を受けたからといって、おいそれとやってくるだろうかと、希佐は思う。この二週間、連絡一つ寄越さなかったこの人が、ひょっこりと姿を現したのには、別の理由があるのではないかと勘繰ってしまう。

 もしすべてに終わりを告げるつもりなら、もう優しくしてくれる必要なんてないのにと、希佐がそのようなことを考えていると、本当に唐突に、アランの顔がこちらに向けられた。

 視線が交わり合い、ばちん、と静電気が爆ぜるような衝動を覚えても、希佐は何も言わなかった。アランも同じように何も言わなかったが、すっと伸ばした手で額と首筋に触れると、安堵したように息を吐く。

「熱はかなり下がってるけど、何か食べて、もう一度薬を飲んだ方がいい」アランはノートPCを閉じると、テーブルランプの電源を入れた。「何か作ってくるから、その間に着替えておいて」

 こくん、と頷く希佐の頬をそっと撫でてから、アランは部屋を出ていった。ベッドで横になったまま五分ほど天井を眺めていたが、こうしていても埒が明かないと思い、重たい体をのろのろと起こす。

 汗でべとべととした体が気持ち悪く、着替えとタオルを抱えると、希佐は部屋を出た。キッチンに立っていたアランはこちらを振り返り、途端に眉を顰める。

「キサ──」

「体を拭くだけ」

「ドアは開けておいて」

「うん」

 鏡の前に立ち、栓をした洗面台にお湯を溜めた。そこにタオルを放り込んでから、着ていたものを次々と脱ぎ捨てていく。この二週間、まともに鏡を見てもいなかったと思いながら、体の線を確かめるようにタオルで汗を拭っていった。

「……筋肉、落ちてる」

 痩せてきている、しっかり食べろ、とルイから口を酸っぱくして注意されていたのに、それを守らなかったせいだろう。次に抱え上げられたら、体重の減少がはっきりしてしまう。職業柄なのか、それともルイ自身の特技なのか、抱き上げるだけで女性の体重を言い当てられるというのだ。

 これ以上体が冷えないうちに服を着込んだ希佐は、足元に散らばった服や下着をかき集め、それを洗濯物の籠の中に放った。ぼさぼさになっている髪を手櫛で軽く整えてから、バスルームを出ていく。

「大丈夫だった?」

「うん」肩越しに振り返ったアランに向かって頷いてから、希佐はキッチンのテーブルを指した。「ここに座っていてもいい?」

 アランは少しだけ考えてから、いいよ、と言う。希佐が了承を得てから椅子に腰を下ろすと、自らが着ていた厚手のニットカーディガンを着せてくれた。

 希佐は椅子の上に両足を引き上げ、自らの顎に膝を乗せながら、キッチンに立っているアランの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。今もまだ夢を見ているような心地ではあるが、きっとこれは現実だ。

 そういえば、髪を切ってあげるという約束を果たせていないと、アランの後頭部で結えられている髪を見て思う。それに、トラファルガー広場にあるナショナルギャラリーに行くという約束も、果たされていない。これまでに、幾つもの些細な約束を繰り返しては、果たされないまま反故にされてきた。

 あれをしよう、これをしよう、いつか、また今度、次の機会に。

 自分はまだ、その体に触れる権利を有しているのだろうかと、希佐は考える。でも結局は、拒絶されることが恐ろしくて、椅子から立ち上がることもできない。

「食べきれなかったら残していいから」

 そう言ってアランが目の前に差し出した料理を見て、希佐は思わず目を丸くしてしまった。ゆるく炊かれた白米が光り輝き、ほんのりと黄色に染まって、湯気を立ち上らせている。真ん中には大きな赤い梅干しが一つ乗せられていた。

「おかゆ……」希佐は顔をあげ、差し出されたスプーンを受け取りながら、ぽつりと漏らす。「どうして」

「日本の食材を売ってるマーケットの店員に聞いた。日本では風邪を引いたら何を食べるのか。作り方も教えてもらった」

 アランはそう言うと、おかゆの作り方が簡潔に記されたメモ書きを見せてくれた。それは見るからにアランの筆跡ではなく、少し硬さのあるローマ字で記されていた。

 おかゆを食べるなんて何年振りのことだろう。外国で売っている日本米は高価で、なかなか手が届かない食材だった。そもそも炊飯器もないので、米は鍋で炊く必要があったし、米から作るおかゆは手間がかかる。具合が悪いときほど避けてきた料理だ。

「ありがとう、アラン」

「早く食べないと冷める」

「うん、いただきます」

 希佐はそう言うと、スプーンに掬い取ったおかゆを口元まで運ぶ。

 まだ熱いそれに、ふうふう、と息を吹きかけている様子を、正面の椅子に腰を下ろしたアランが、どこか不安そうな面持ちで見つめていた。

 口に頬張った瞬間、かつおだしが、ふわりと香る。とろりと溶けるような舌触りのあと、卵の風味が鼻を抜けた。梅干しの端をスプーンの先で崩し、二口目を口に運ぶ。つんとする酸味が、やさしいおかゆの中に溶け込んで、まろやかな味わいになった。

「おいしい」

「そう」アランはそう言うと、ほう、と息を吐き出した。「よかった」

 日本の味だ、と希佐は思った。もう何年も味わってこなかった、故郷の味だと。素朴だけど、あたたかい。飾らないのに、きらきらと輝いている。

 大昔、自分が風邪を引いて寝込んでしまったときに、継希が作ってくれたたまご粥を思い出して、希佐は自分でも分からないうちに、ぽろぽろと涙をこぼしてしまっていた。

「キサ……」

 そう名前を呼ばれて初めて、頬を伝う熱いものを自覚し、希佐は慌てて自らの手の平で頬を拭う。風邪で気持ちが弱っているから、涙腺まで緩んでしまっているのだ。そう自分に言い聞かせて、にこりと笑う。

「ごめんなさい、なんでもないの。ただ、これを食べていたら、なんだかとても懐かしい気持ちになって」

「……そう」

「うん」

 何も話さないまま食べ続けていた希佐の器が空になると、アランは椅子から立ち上がった。空になった器とスプーンを取り上げ、こちらに背を向ける。

「ごちそうさま」

「ん」

「後片付け──」

「全部俺がやるから、君は薬を飲んだらベッドに戻って」

 どうして戻ってきてくれたの。なぜこんなふうに優しくしてくれるの。泣いてしまった理由を問いたださないの。慰めてはくれないの。またすぐに出ていってしまうの。いつ帰ってくるの。それとも、もうすべては終わってしまったあとなの。

 次から次へと浮かぶ疑問は、泡のように消えるわけもなく、頭の中に留まり続けていた。だが、それを吐き出すこともできず、言われるがままに薬を飲んだ希佐は、ヒリヒリと痛む瞼を撫でながら自分の部屋に戻る。

 脱いだカーディガンを椅子の背もたれに掛けると、もぞもぞとベッドの中に潜り込み、膝を抱えるようにして丸くなった。おかゆを食べて温まっていた体はすぐにもぽかぽかとしてきて、希佐を眠りの世界へと誘おうとしてくる。

 いっそのこと、このまま眠ってしまおうか。でも、明日の朝になっても、アランがここにいてくれる保証はどこにもない。いなくなってしまうのだとしても、もう少しだけ傍にいて、手を握っていてほしいと思った。希佐は、アランの大きな手が、とても好きなのだ。

「着ていればいいのに」

 横になると眠ってしまいそうで、枕に寄りかかって今日の分の日記を書いていると、最後の一文を書いている最中にアランが部屋の中に入ってきた。椅子の背もたれに掛けられているカーディガンを手に取ると、それを再び肩にかけてくれようとする。しかし、希佐は首を横に振ると、日記帳を机の上に置いてから、ベッドの中に入った。

「……今何時?」

「九時過ぎ」

 アランはベッドの縁に腰を下ろし、希佐の首元まで布団を引き上げてくれた。枕の位置を整えてそこに頭を乗せた希佐は、布団の中から引き抜いた右手を、アランに向かって差し出す。すると、アランはその手を一瞥してから、ふと表情を和らげ、重ねるようにして握り返してきた。

「何も言わないんだな」

「アランこそ」希佐は緑色の目をじっと覗き込む。「それとも、何か言ってほしい?」

「口汚く罵られた方がずっと気が楽だろうなとは思う」

「そうだろうなと思って」

 アランは希佐にじっと見つめられたまま、その眼差しから決して逃れようとはしなかった。舞台演出家の独り芝居を終えてからは、目が合ってもすぐに逸らされ、二週間前に至っては視線すら合わせてはもらえなかったのだから、相当な進歩だ。こうして相手に触れ、体温を感じ合うことすら、懐かしく感じられる。

「ごめんなさい」

 分かっている。本当は、分かっているのだ。自分が考えていることは独りよがりな妄想でしかない。アランが語る後悔の言葉を良いように解釈し、勝手な考えを押し付けているにすぎないのだと。

 本来はもっと、ゆっくりとした歩調で進むべきことなのだ。急ぐべきことではない。自分にはもう時間がないからと、アランに対しても身勝手極まりないタイムリミットを設定して、それに従わせようとしていた。考えてみれば、悍ましいことだ。アランにはアランのペースがある。最も避けるべきことは、立花希佐の選択がアラン・ジンデルの未来を台無しにしてしまうことだろう。妙なプレッシャーをかけるべきではない。アランのことを思うのであれば、ここは静かに身を引くべきなのだ。

 アランのこれから先に待ち構えているであろう輝かしい未来に比べれば、自分の未来など、結末が決まりきった退屈な物語でしかない。アランの前には無限の可能性が広がっている。終わりを選択した自分にはないものだ。だから、自分の夢を叶えるよりも、そちらを優先するべきだ。自分のような役者は他にもいる。でも、アラン・ジンデルのような才能は、変えが効かない。

「嫌われたわけじゃないってことは分かってる。でも、もし私の存在を疎ましく思うようなことがあるのなら、私はもうあなたの傍にいるべきじゃないと思ってる」

「君のことを疎ましく思ったことなんてない」

「でも、実際あなたは──」

「キサと一緒にいるのが嫌になって出ていったわけじゃない」アランの口振りは酷く落ち着き払っていて、覚悟を決めようとしている人のそれと良く似ていた。「俺は、俺自身に嫌気が差して出ていったんだ。前にも言ったろ、俺は君なしでは生きていけないって」

「……うん」

「自分でも最低なことを言ったと思う。まるで君を脅すみたいに。キサが言ったように、俺は自分のことで精一杯で、君のことなんて考えている余裕がなかった。君を支えるなんて言っておきながら、本当に無責任だ」

 じわり、じわりと体温が溶け合って、重ね合わされた手の境界線が合間になっていく。この体温にただ身を委ねることができたなら、どんなにか幸せだろうと、希佐は思った。

「俺は君が羨ましくてたまらなかったんだよ。君やイライアス、バージルやアイリーン、ノア、ジェレマイア──カオスの公演が行われる度に、心臓をナイフの先で抉られるみたいな痛みを感じてた。楽しそうに舞台上で演じているカオスの連中を舞台袖から眺めていると、自分だけが世界の外側にいるような、そんな疎外感を覚えていた。君がやって来る前までは、そんなふうに思ったことなんて、一度だってなかったのに」

 アランの親指の腹が、愛おしいものに触れるように優しく、希佐の手の甲を撫でる。

「君の存在が、すっかり忘れ去られていた俺の感情を呼び起こした。舞台を降りると決意したときは、もう二度とここには戻らないだろうと思っていた。何の未練もない。むしろ喜んでいたくらいなのにな。やっと終わる、解放されるんだって」

 舞台に立って一躍注目を浴びると、自分は何も変わらないつもりでいても、周りの見る目が変わってくる。聞こえてくる声の中には、純粋な好意とあからさまな悪意が入り乱れていて、雑音のようにしか聞こえないこともあった。耳を塞いで聞こえないふりをしていても、今度は目に見える形で向けられる様々な感情が、心を掻き乱していく。

 目を閉じ、耳を塞いで、それでも舞台に立ち続けることはできるだろう。でも、そうしてまで立ち続ける舞台に、果たして喜びを見出すことはできるのだろうか。

「君に伝えた言葉に偽りはない。すべて本心だ。だから、訂正するつもりはない。俺は君を気持ち良く送り出してやりたいとも思っているし、同時に、ずっとここにいてほしいとも思ってる。だからといって、自分の気持ちを押し付けたいわけじゃない。最後には、君の決断を尊重したい」

 これが、好きにしたら、という言葉の裏に隠れていた感情だったのだ。本当に、本当に言葉が足りないと思いながら、希佐は泣き笑いのような表情を浮かべた。

「だから、俺はこの二つの願望を、同時に叶えてやろうと思う」

「……どうやって?」

「君が何の心配もなく俺を置いて日本に帰れるように。もしかしたら、日本に帰りたくないと思ってもらえるくらいには、もう一度努力をしたい。君を見てそれを妬ましく思ったり、羨ましく感じたりするだけでは駄目なんだ。俺を見て、君が悔しがるくらいじゃないと、釣り合いが取れない」

「釣り合い……」

「あともう少しなんだ」アランの手が、ぎゅ、と希佐の手を強く握る。「もう少しで誓えるような気がするんだ。またあの舞台に立つ。もう逃げない。二度と目を逸らさない。自分からも、君からも」

「アラン……」

「待ってて」アランの左手が伸びてきて、希佐の頬をするりと撫でた。「もうすぐだから」

「……本当に自分勝手な人」

「ごめん」

「でも」希佐はそう切り出しながら、アランの手を握り返した。「しょうがないから、待っていてあげる」

「キサ……」

「私たち、イライアスに感謝しないと」

「うん」

「ねえ」

「なに」

「今の私とイライアスでは釣り合いが取れないとあなたは言ったけれど」僅かに強張るアランの表情を見ながら、希佐は続ける。「なんとなくだけれど、分かったような気がする」

「……なにを?」

「私もイライアスもお互いに探り探りで、本気でぶつかり合っていないような気がする。相手に遠慮している感じがする。機嫌を窺っているわけではないけれど、なんていうか、相手に合わせている感じがすると思ったの。私はイライアスとのレベルの差を気にしすぎて、自分のダンスに集中できていないし、イライアスは自分を殺して私に合わせようとしてくれている。それって、お互いを気遣いあっているようで、実際には、お互いに自分の良いところを邪魔し合っているということでしょう? 本物のパートナーになりたいなら、個性を活かし合った方がいい」

「彼は君を誰よりも輝かせたがっている。それが悪いことだとは言わない。でも、その上で自分自身も輝くようでないと、舞台の世界では蛹は蝶になれない」

 幼虫が蛹になると、あの硬い殻の中では体がどろどろに溶けて、成虫になるための準備をはじめるのだという。もしイライアスがまだ蛹の状態なのだとしたら、次の公演の舞台上で熱いくらいのスポットライトを浴び、ついに、成虫として美しい羽を広げるのかもしれない。

「君には素晴らしい才能がある」

「そうかな」

 その言葉とは裏腹に、不遜な態度で冗談っぽく言うと、アランはそれを見て表情を和らげた。

「俺が教えられることはもうなにもない。そもそも、俺が教えられることなんて、さほど多くはなかったんだ。だから、君はもう自分の足で好きなように歩いていけばいい。後ろを振り返る必要もない。走って追いかけていくよ、君を」

 心がざわざわとする。追いかけていく立場だった自分が、誰かから追いかけられることになるとは、思いもしていなかった。だが、不思議と悪い感情が湧き上がってくることはなく、今はただその言葉を信じて待とうと、そう思うことができる。

「少し話しすぎたな」ちらりと時計を横目に見たアランは、希佐の手を握ったまま身を乗り出した。「目を閉じて」

 体を捩るようにして布団に潜り込み、息を吐きながら目を閉じた希佐の額に、あたたかくてやわらかいものが少しだけ長く触れる。ふわりと香るシャンプーの匂いを感じて口角を持ち上げると、アランは吐息を漏らすようにして笑い、希佐の髪を梳くようにして撫でた。

 

 

 翌朝になると、熱は嘘のように下がっていて、喉の痛みもすっかりなくなり、気分よく目覚めることができた。酷くなる前に対処してもらえたのが良かったのかもしれない。

 ベッドの上で軽く体を伸ばしてから寝室を出ていくと、テーブルの上には朝食の支度が整っていた。そこに添えられていたメモを手に取り、希佐は声を出して読み上げる。

「『鍋にチキンスープが入ってる。冷蔵庫の中も見ること。ジョシュアとルイには俺から連絡をしておくから、今週一週間は大事を取って安静にしているように。何かあったら電話して』……」

 朝の挨拶くらいさせてくれればいいのにと思いながら、希佐はその文字を指でなぞった。自分用のメモを書くときはいつだって流れるような筆記体で書いているが、それを希佐が読めないと知っていて、やわらかいブロック体で書き記してくれている。

 きっと、一晩中眠らずに看病してくれていたのだろう。意識が浮上しかける度に、人の気配がすぐ傍にあるのが分かって、それが希佐に何とも言えない安心感を与えてくれていた。

 しかし、お風呂に入ろうとバスルームに足を向け、バスタブに湯を張ろうとしたそのとき、希佐は奇妙な異変に気づく。右手の薬指の爪が、深緑に染められていたのだ。もちろん、自分の手でマニキュアを塗った覚えはない。

 希佐はそれを見て呆れたように笑うが、本当はどんなに高価な贈り物をもらったときよりもずっと嬉しくて、バスタブの湯に浸かっている間中、惚けたようにその薬指の爪をずっと眺めていた。

 月曜日と火曜日は、歌の稽古をお休みした。どこにも外出せず、稽古もせずに、スタジオで語学の勉強をしていると、火曜日の午後、ジョシュアがお見舞いにやって来てくれた。

「昨日から、アシスタントが差し入れを持っていけってうるさいんだよね。だから、来ちゃった。でも、すぐに帰るよ。思ったよりも元気そうでよかった」

「月曜には熱もすっかり下がっていたのですが」

「アランが大事を取れって言ったんでしょ?」近所のデリカテッセンで購入してきたものをテーブルの上に置きながら、ジョシュアは小さく肩をすくめた。「なに、すっかり仲直り?」

「よく分かりません」そう言って困ったように笑う希佐を見て、ジョシュアは「ふうん」と、さして興味がなさそうに相槌を打った。「ただ、あの人が戻ってくるのを待つと決めたんです」

「まあ、好きにしたらいいよ。僕は君が真面目に歌の稽古に取り組んでくれさえすれば、それでいいから。彼が姿を消したあとも、私情を挟まず、努力を続けていたしね。稽古自体が君の気を紛らせる手段だったのかもしれないけれど」

 そうは言うが、自分の体調とアランとのその後が少しは気になっているからこそ、こうして足を運んでくれたのだろうと希佐は思う。

「昼食は? まだなら一緒に食べようよ」

 もしかしたら、アランからそれとなく様子を見ておいてほしいと、そう言われたのかもしれないけれど。

 水曜日、ダンスの稽古はないのにもかかわらず、今度はルイがスタジオに現れた。希佐が本当に休んでいるかどうかを確かめにきたのだという。せっかくですからお茶でもいかがですかとフランス語で誘うと、ルイは「Oui.」と言って機嫌良く二階に上がっていった。

『君は何をやっても飲み込みが早いね』希佐が紅茶の入ったマグを差し出すと、ルイはそれを受け取りながら感心したように言った。『私ももう少し熱心に英語を勉強するべきかな』

『ルイの英語、私は好きですよ』

「君の英語は、鼻持ちならない感じがいいデスね」

『……それはきっと褒め言葉ではないと思います』

『イギリス人が話す英語は気取って聞こえるんだ』

『私の英語もですか?』

『十分な褒め言葉だろう?』

 ルイは休んでいる間に見ておくようにと言って、バレエ公演の映像データをどっさり置いていってくれた。その中には現役時代のルイの姿もあり、途中からは希佐の様子を見に毎日顔を見せてくれるイライアスと一緒に、食い入るように鑑賞していた。

「ルイはソロのダンサーとしても天才的だったけど、プリマのサポートとしても群を抜いていて、彼と踊りたいってプリマは大勢いたんだ。ルイのリフトは女性をより美しく見せるんだよ」

 イライアスはリモコンを握り締め、一時停止や巻き戻しを繰り返しながら、熱心にダンスの解説をしてくれた。

 ここ数日のイライアスは妙に生き生きとしていて、毎日が楽しそうだ。希佐がそれとなく理由を聞いてみると、イライアスは少しだけ恥ずかしそうに笑って、首を横に振った。

「内緒」

 金曜日の夜、イライアスが帰っていった後、希佐はスタジオに降りて少しだけ踊った。念入りなストレッチだけは毎日欠かさず行っていたので、体が鈍っている感覚はあまりない。それどころか、十分な休息を経た体は、酷く軽く感じられるほどだった。

 自分が演劇ごっこに夢中になっていた頃にはもう、イライアスは本格的なバレエのレッスンを受けていたのだろう。もし自分にも同じだけの経験があったなら、もっと納得のできるダンスを踊ることができたのだろうか。それとも、それでも納得ができず、より多くの経験を求めて旅に出ただろうか。イライアスが今、そうしているように。

 希佐は今まで、自分のダンスのレベルはイライアスよりもはるかに劣っていて、パートナーと呼んでもらえるような実力すらないと、そう思っていた。イライアスも、そうした感情を汲み取っていたからこそ、自分の輝きを半減させてでも、希佐を輝かせようとしてくれていたのかもしれない。

 そもそも、パートナー格差があるのは当然のことなのだ。レベルの違いがあるのは、誰の目から見ても明らかだ。そう理解はしていても、希佐の中にある無意識の劣等感が、きっと自意識の邪魔をしていた。なんとかイライアスとの釣り合いを保てるように、自らの能力以上の力を発揮しようなどと、分不相応なことを考えていた。

 今度からはもっとイライアスに頼ってみよう。身を委ね、すべてを預けてみよう。大丈夫、イライアスならきっと、受け止めてくれるから。

 そして、土曜日。稽古をするために、午前中からスタジオにやって来るというイライアスに留守を預け、希佐は午後から一人で出かけることを以前から決めていた。

「どこに行くの?」

「ジョシュアのスタジオの近くだよ。ピアノの修理をしている工房があるんだ」

「工房?」

「うん」

「そう」イライアスは不思議そうな顔をしながらも、それ以上食い下がることはせずに送り出してくれた。「気をつけてね」

「ありがとう」

 体を冷やさないように、暖かい格好をしてスタジオの外に出ると、頭上には雲一つない快晴が広がっていた。こんなに天気が良いのは、本当に久しぶりのことだ。ただ、空気は肌をちくちくと刺すように冷たく、露出した両手の熱はあっという間に奪われていく。

 コートのポケットに入れていた毛糸の手袋を引っ張り出し、それを順番に装着しながら、希佐はその場から歩き出した。途中、イギリスの女王陛下も舌鼓を打つというチョコレート店に寄り、手土産を購入することも忘れなかった。

 いつもの歩き慣れた道を進み、ジョシュアのスタジオがある建物の前を通り過ぎて、スマートフォンの地図アプリの指示通りに進んでいくと、大通りから脇道に逸れ、更に小道へと入った場所に、その古い工房はあった。

 大通りからはさほど離れていないはずだが、車も通り抜けられない道なので、酷くひっそりとした雰囲気がある。建物から突き出した杭にぶら下げられ、赤茶けた錆に覆われた看板には、グランドピアノの絵が描かれていた。通りに面した窓はすべて磨りガラスになっていて、店内をこっそり覗き見るということはできそうにない。ただ、赤いペンキで塗装されたドアだけが、異様なまでに鮮烈だった。

 希佐はそのドアの前に立ち、呼び鈴を探して視線を彷徨わせる。だが、それらしいものはどこにも見当たらない。ドアをノックしてみるものの、返答はなかった。

 年がら年中、朝から晩まで店を開けているとは話していたが、ときには出掛けていることもあるだろう。でも、もしかしたら来訪に気づいていないだけかもしれない。

 取っ手に触れた希佐は。それを軽く下に押し込むと、ドアを手前に引いてみた。すると、その真っ赤なドアは何の抵抗もなく開き、希佐を店内に迎え入れようとする。

「ごめんください」店内には入らず、ドアの隙間から顔を覗かせて、希佐はそのように声をかけた。「どなたかいらっしゃいますか?」

 店内からは暖められた空気がゆっくりと流れ出てくる。同時に、木の香りが漂ってきていた。

 入ってすぐの場所には何台ものピアノが所狭しと並べられており、その眺めは圧巻の一言だ。わあ、と希佐が感嘆の声を漏らすと、店の奥の方から、不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「どこの誰かは知らんが、用があるならさっさと入れ。店の中が冷えるだろうが」

「あっ、はい。すみません」

 希佐はその声に驚いてびくりと肩を震わせてから、慌てて店内に足を踏み入れ、後ろ手にそっとドアを閉めた。そして、手袋とマフラーを外し、コートを脱いで、それを腕に掛ける。

「あの」声は聞こえても姿が見えない相手に向かって、希佐は声をかけた。「以前ベーゼンドルファーのピアノのことでお電話を差し上げた希佐と申しますが……」

「ああ、なんだ、お前さんか」

「はい」

「そこで待ってろ、今行くからな」

 何かの作業をしている最中だったのだろう、男性はそう言うと、掛け声と共に立ち上がったようだ。いたたた、と痛む体をとんとんと叩くような音が聞こえ、足音も近づいてくる。しかし、電話口ではベンジャミンと名乗ったその男性は、店の奥から出てくるなり、希佐のことを見て驚いたように足を止めた。

 ベンジャミンは希佐が想像していた通りの人だった。年齢は六十代か七十代くらいだろうか。白髪の頭には、鳶色の髪がまだ少しだけ残っている。厳格そうな顔付きは、いかにも職人然としていた。

「はじめまして、こんにちは」

「あ、ああ」

「あの、なにか……?」

「いや、なんだ、たいしたことじゃない」ベンジャミンはそう言いながら、寝癖が立ったままのような髪を、がしがしと乱暴に掻いた。「その、外国人だとは思わなくてな」

「えっ? ああ、すみません、先に日本人だとお伝えしておけばよかったですね。配慮が足りませんでした」

 イギリスで暮らすようになってからは、自分が外国人であるということを常に意識するようにしていた。こうして唐突に、外国人という言葉を向けられる度に、なんとなく驚いてしまうからだ。自分はもう長くこの国で暮らしていても、初めて出会う人たちにとっては、ただの外国人に他ならない。

「いや、違うんだ、悪く思わないでくれ」

「はい?」

「お前さんの言葉があまりに自然だったもんで、勝手にイギリス人だと思い込んでただけでな……」そうばつが悪そうに言うベンジャミンを見て、希佐は思わず笑みを深めていた。「ああ、そうだ、ベーゼンドルファーだったな」

「見せていただけますか?」

「そういう約束だったろう」ベンジャミンはそう言うと、鼻の頭を掻きながら希佐に背を向けた。「こっちだ」

 希佐はピアノの合間を縫うように進み、ベンジャミンの後を追いかけて店の奥へと向かった。手前の店舗と奥の工房に仕切りはなく、ただ目隠しのカーテンだけが掛けられている。そこを潜って行った先には、修理中のグランドピアノが一台置かれていた。

「この辺りは昔から楽器の工房が多くてな。まあ、オレみたいに骨董品みたいなピアノばっかり集めてる職人は、他にいないがね」

「古いピアノがお好きなんですか?」

「鳴りが違うんだよ」修理中のピアノの前で足を止めた希佐を振り返り、ベンジャミンは言った。「職人が部品の一つから丹精込めて作り上げたピアノってのは魂が宿るもんだ。一台、一台、音色が違う。でも、ピアノも人間と同じでな、古くなりゃ見向きもされなくなって、どんどん錆び付いていくのさ」

 こっちに来てくれと言って、ベンジャミンは更に奥まった場所にある、ガレージのような開けた場所に希佐を案内した。そこには、おそらく修理してもらえるのを待っているピアノが何台も、何台も、どこか物悲しげに並べられていた。

「これが、お前さんの見たがっていたベーゼンドルファーだ」

 ベンジャミンはそう言うと、ピアノを覆っていた黒い布を取り去った。そのアップライトピアノは、写真で見る以上に傷だらけで、ぼろぼろの状態だった。部分的に腐食してしまっているところもある。

「触っても構いませんか?」

「ああ」

 蓋を持ち上げ、酷く黄ばんだ鍵盤を押してみても、音は鳴らない。かす、という、何の音かも分からないような、掠れた音が聞こえるだけだった。

 きっと、このピアノは、ここで修理されるのを待っている他のどのピアノよりも、惨めで、哀れで、かわいそうなピアノなのかもしれない。ベンジャミンが言ったように、この年老いたピアノは、誰にも見向きもされないまま、錆び付いて、忘れ去られていく運命にあるのかもしれない。

 でも、希佐にはこのピアノが、酷く魅力的に見えていた。理由は分からない。ただ、無性に惹かれている。なぜか、愛おしいとすら思うのだ。

「どうだ、満足か?」黙ってピアノを見下ろしている希佐に向かって、ベンジャミンは言う。「お前さんが言ってた、ピアノを欲しがっている知人ってのには、大人しく別のピアノを買うように言ってやることだな」

「このピアノは、廃墟で何年も放置されていたとおっしゃっていましたが……」

「ん? ああ、そうだ」ベンジャミンは鍵盤の蓋を閉じると、ピアノの上から再び覆いを掛けた。「これは、もう何年も前に閉鎖された児童養護施設にあったピアノでな。歴史ある施設だったそうだが、老朽化が原因で閉じられてからも、しばらくは取り壊しも行われなかったらしい。数年後には廃墟になって、そこを遊び場にしていたガキが大怪我をしたとかで保護者が騒ぎ立ててな、急遽取り壊しが決まったんだ。最近の話さ」

「児童、養護施設……」

「だが、このピアノにはどこかの名のあるお貴族様が寄付した、なんていう逸話があるそうでな。そう簡単には処分できないと判断して、どこかに修理できる職人はいないかと方々を探し回ったらしいが。こんなピアノを直してやろうなんて思う職人はいるわけがない。第一に金、第二に手間、第三に時間だ。このピアノを直すくらいなら、新しく作った方が早いからな。まあ、そんなこんなで、オレみたいな物好きな職人崩れに、そのお役目が回ってきたってわけだ」

 もしかしたら、と希佐は思う。もしかしたらアランは、その児童養護施設にいたことがあったのではないだろうか。そこで、このピアノに触れ、弾いていたのではないか。何処かからこのピアノの話を聞きつけ、そして、ついに見つけたのではないか。

「……このピアノ、修理はされるんですか?」

「さあてね」ベンジャミンは大きく肩をすくめた。「どう手を尽くしても無理なようなら、処分して構わないと言われてる。所有権はオレに渡ってるからな、このピアノをどうしようがオレの自由だ」

「欲しいと言ったら、譲っていただけますか?」

「……なんだって?」

「修理にかかるお代はお支払いします」希佐は考えるよりも先に、思っていることを口に出してしまっていた。「時間はどれだけ掛かっても構いません。一年でも二年でも、五年でも待ちます。ですから、このピアノを、私に譲っていただけませんか?」

 そう言う希佐に、ベンジャミンは信じられないものを見るような目を向けてくる。それはそうだろう、散々新しいピアノを買った方がいいと言われているのにもかかわらず、一向に聞く耳を持たないのだ。

「電話でも言ったはずだがな、これは売り物じゃないんだ」

「分かっています」

「新しいピアノを買った方がずっと安く済む。お前さん、ベーゼンドルファーのピアノの値段は知ってるか?」

「調べてきました」

「同じ型のアップライトピアノを、新品で買った方が安いと言ったら、諦めてくれるかね」ベンジャミンは付き合っていられないというふうに、大きくため息を吐いた。「このピアノの修理は、新しいピアノを一から組み上げるよりも、ずっと手間と時間がかかるんだ。お前さんみたいなお嬢さんには払える金額じゃなかろうよ」

「多少の蓄えはあるんです」それに、と言いながら、希佐は黒い布越しにピアノに触れた。「お金は自分が努力をすればあとでいくらでも貯められますが、このピアノは世界に一台だけです。もし処分されてしまったら、取り返しがつきません」

「お前さん、どうしてそうまでして──」

 きゅっと眉を顰め、不思議でしょうがないという顔をしながらそう言いかけたベンジャミンの言葉は、どかどかという足音ともに聞こえてきた「grandpa!!」という声に遮られた。

「お祖父ちゃん1 ダディが早くお昼を食べてって言ってる、よ──」そう言いながら、ピアノの墓場のような場所にひょっこりと顔を覗かせた少女は、ベンジャミンと一緒にいる希佐に目を止めると、ハッと大きく息を呑む。「──KISAだ!」

 もの凄いデジャブを感じると思いながら、希佐は自分の名前を大声で叫んだ少女に向かって小さく手を振った。少女も反射的に手を振り返すが、興奮した様子でふんふんと鼻で息を吐くと、来た道を大急ぎで戻っていく。

「ダディ! ダディ、早く降りてきて! KISAが来てるよ!」

「えっ、誰が来てるって?」

「KISAだってば! カオスのKISAがお祖父ちゃんと一緒にいる! なんで? どうして?」

 本当に世間は狭い。そう思いながら、苦笑いを浮かべていると、ベンジャミンが訝しげな顔を希佐に向けた。

「……お前さん、うちの孫を知っとるのか?」

「以前ヘスティアでお会いしました。公演の準備をしていたとかで」

 早く、早く、と急かす声と、何度も階段を上り下りするような足音が聞こえ、間もなくすると少女に手を引かれた父親が姿を現した。

「これはどうも、いらっしゃい」

「こんにちは、ネイサンさん。それに、エリザベスさんも」

 希佐がにこりと微笑みかけると、エリザベスは履いていたスカートを摘んでそっと持ち上げ、カーテシーをして見せてくれた。

「それじゃあ、あなたがそのピアノに興味を示してくれたという方だったんですね。すみません、あの日はあいにく出払っていたもので、普段は対応しない父に電話番を任せていたものですから」

「ベンジャミンさんにはとても丁寧に対応していただきました。ピアノを見に来てもいいと言ってくださったので、図々しくもお言葉に甘えてしまって」

「そのピアノはもうご覧になりましたか?」

「はい、見せていただきました」

「こちらのお嬢さんは、このピアノの修理をご所望だとさ。費用は

出すと言っとる」

「願ってもないことじゃないか、父さん」ふん、と吐き捨てるように息を吐き、部屋を出て行こうとするベンジャミンの背中に、ネイサンは声をかけた。「修理費がかさむから手をつけられないと言っていただろう?」

「お前、こんなお嬢さんに修理代を出させるつもりなのか? 少なく見積もっても二万ポンドはかかるぞ」

「彼女自身が出すと言っているのに、一体何が問題なの?」

「とにかく、あのピアノは売り物じゃない。オレは売るつもりはないからな」

「父さん──」

「そこのピアノ、修理は済んだから、あとはお前の仕事だ。それが終わったら持ち主に連絡をしろ。取りに来るなり、売りに出すなり、決めなきゃならんからな」

「……分かったよ」

 荒々しい足音を立てながら階段を上がっていく音を聞きながら、ネイサンは困ったように頭を掻いていた。しかし、それからすぐに希佐に目を向けると、苦笑を浮かべながら僅かに頭を下げた。

「父はあの通りの頑固者で……」

「いえ、私が悪いんです。ベンジャミンさんは、最初からあのピアノは売り物ではないとおっしゃっていたのに、私がそれを譲って欲しいと騒ぎ立ててしまって」

「実は、あの写真をホームページ上に公開したとき、他にも何件かあのピアノを譲ってほしいと言われたことがあるんですよ。でも、父はずっと売り物じゃないの一点張りで」

「そうだったんですね」

 ベンジャミンの様子を見るに、今日のところは大人しく帰るしかなさそうだ。本当にあのピアノを手に入れるつもりなら、これからも足蹴く通い詰め、少しずつ交渉していくしかないのかもしれない。

 はあ、と無意識にため息を吐いてしまっていた希佐を、ネイサンの隣に立っていたエリザベスが見上げてきた。そして、あの日と同じように希佐の手をぎゅっと掴むと、満面の笑みを浮かべる。

「ねえ、せっかく遊びに来てくれたんだから、お茶を飲んでいってよ。さっき焼いたクッキーが、そろそろ焼き上がると思うから」

「え、でも……」

「お時間があるなら、どうぞ上がっていってください」

 希佐は困ったようにネイサンを見上げるものの、エリザベスと良く似た邪気のない笑顔が向けられると、観念せざるを得なくなる。

「じゃあ、少しだけ」

「やったー!」

「あ、わっ、ちょっと待って」

 大喜びのエリザベスにぐいぐいと手を引かれながら、希佐は暗い階段を上がり、建物の二階に足を踏み入れた。一階の店舗や工房の薄暗さとは対照的に、住居になっているらしい二階は、眩しさを覚えるほど明るかった。

 ダイニングではベンジャミンがむすっとした顔のまま食事を取っている。希佐がエリザベスに連れられてやってきたのを一瞥し、やれやれ、とでもいうふうに肩をすくめていた。

「父さんも紅茶をどう?」

「すぐ仕事に戻る」

「じゃあ、ポットに入れて持っていくよ」

 こっちこっちと連れて来られたリビングで、希佐は座って待つように言われた。言われるがままに腰を下ろすと、エリザベスはテレビの電源を入れてから、たたたっとキッチンの方へ駆けていく。

「お祖父ちゃんもクッキー食べるでしょ?」

「ん? あ、ああ」

「たくさん焼いたから、いっぱい食べていいよ」

「ああ」

「今袋に入れてあげるね」

 どうやらベンジャミンは、息子のネイサンに対しては辛口でも、孫のエリザベスには強く物を言うことができないようだ。何を言われても半ばたじたじといったふうで、目に入れても痛くないと思っているような、少しだけやわらかな雰囲気を感じさせた。

 普段、ほとんどテレビを見ることがない希佐は、放送されている番組の流れについていくことができず、こっそりボリュームを下げる。テレビ台の周辺には、家族写真が何枚も飾られていて、希佐はそちらの方を熱心に眺めていた。

 ネイサンやエリザベスと一緒に写っている美しい女性が、メレディスの劇団の看板女優だったという女性なのだろう。中には、劇団仲間たちと撮影した、舞台衣装を身にまとった写真もある。この女性とアランは同時期に劇団に所属しているはずなので、どこかにアランが写り込んでいるかもしれない。

「どうぞ、近くに行って見てください」ソファに座ったまま目を凝らして写真を眺めている希佐を見て、ネイサンが笑いながら言った。「妻の劇団時代の写真に興味があるのでしたら、アルバムを持ってきましょうか?」

「いいんですか?」

「もちろん」

 テーブルの上に紅茶とお菓子を並べてから、ネイサンは壁に沿って置いてある棚の前に立ち、分厚いアルバムを大切そうに抱えて持ってきてくれた。

 私も見る! と言いながら、それでも慎重に砂糖とミルクのポットをトレイに乗せて運んできたエリザベスは、まるで仲の良い親戚の子供のように、希佐の隣にぴたりと密着して座った。

「さあ、どうぞ」

「ありがとうございます」

 アルバムを受け取った希佐は、エリザベスにもよく見えるようにと、二人の丁度真ん中にそれを置いた。表紙には、Just Robinと記されている。ロビンとは、日本で言うところの駒鳥のことだろう。ヨーロッパコマドリは、イギリスの国鳥でもある。

「ロビン・レッドブレストというのが、本来の劇団の名前だそうです。でも、いつの間にか、ただのロビンと呼ぶようになったそうで」

「ただのロビン?」

「妻はロビン・レッドブレストじゃ長くて呼びにくいでしょと言っていました。それで、鳥のロビンと混同しないように、頭にJustをつけたとか」

「かわいい名前ですね」

「カオスも良い劇団名だと思いますよ」

「アランは皮肉で名付けたと言っていました。連中の舞台はまるでカオスだ! って言われたのが、よほど気に障ったらしくて」

「いいじゃないですか、混沌。私は妻に連れられて初演から足を運んでいますが、各々の得意分野を活かした、挑戦的な演目に毎度驚かされていました。あ、もちろん、あなたの初舞台も拝見しましたよ」

「本当ですか? ありがとうございます」

「カオスはいつか化けると思っていましたが、あなたがその起爆剤だったのでしょうね。『God Only Knows』は本当に素晴らしかった」

 私は下で仕事をしているので、何かあったら呼んでくださいと言って、ネイサンはエリザベスに希佐の相手を任せると、階段を降りていった。

 希佐がポットからカップに紅茶を注いでいる傍では、既にエリザベスがアルバムを機嫌良く眺めはじめている。写真の一枚一枚には、そのときにしか感じられない劇団活動の尊い瞬間が切り取られていて、希佐にはそれが、酷く眩しくて堪らないものに見えた。

「あっ……」

 次々と捲られていくページの中にアランの姿は見つけられず、写真嫌いは昔からのことだったのかもしれないと、半ば諦めかけていたそのとき、希佐は一枚の写真を見つけた。

 若かりし頃のメレディス、そして、看板女優に挟まれるようにして立っている、ほっそりとした赤毛の少年が、何ともいえない仏頂面でこちらを睨んでいた。写真には直に『debut』と書き込まれている。

「すっごく綺麗な子だよね」希佐が見ている写真に目を留め、エリザベスはうっとりした様子で言った。「でも、もう舞台には立ってないって、ダディが言ってた」

 何と表現するのが最も正しい賛美の言葉なのかは、きっと誰にも分からない。どのような言葉で褒め称えようとも、そのすべてが陳腐に聞こえるような、圧倒的な美しさが、そこには写し出されている。

 西洋人特有の、ほんの数年しかない少年時代の特権とも言える、中性的な一瞬の切り取り。目を奪われ、言葉を失ってしまう。当時、この少年が舞台上を立ち回り、歌い、舞う姿を見た者は、一体何を思ったのだろう。もし、自分もその姿を見ていたとしたら、他の観客たちと同じように、この少年を崇拝するようになったのだろうか。

「とっても嫌なことがあって、役者を辞めちゃったんだって」

「……え?」

「私には難しくてよく分からなかったけど、うーんとね、ダディは、大人が守り切ってあげられなかったんだろうねって言ってたよ」

 アランが自らの足で舞台を降りた直接的な理由を、希佐は知らない。だが、何らかのトラウマがあるのかもしれないとは思っていた。昔の話をして聞かせてくれるとき、強い拒絶反応を示すかのように、その表情に不快感を表すことがあったからだ。舞台に立っていた頃の思い出を、楽しそうに話してくれたことは一度もない。

 アランが写っている写真は、後にも先にもそれ一枚きりだった。

 アルバムを最後まで見終えたエリザベスは、満足そうにため息を吐きながら、ぬるくなってしまった紅茶に手を伸ばす。

「私もマミィみたいな舞台女優になるのが夢なんだ」ごくごくごく、と紅茶を飲み干すと、エリザベスは隣に座っている希佐を見上げた。「それでね、いつかマイ・フェア・レディの再演が決まったら、オーディションを受けてイライザ役を勝ち取るの」

 マイ・フェア・レディはこのイギリスはロンドンを舞台としたミュージカルだ。この界隈に住んでいる人々ならば、身近に感じている演目だろう。だが、初演はアメリカのブロードウェイで行われ、ロンドン公演はその後に上演された。下町生まれの訛りの強い娘が、上流階級の話し方と礼儀作法を学び、レディに至るまでの物語だ。

「お祖父ちゃんがね、お祖母ちゃんとの初めてのデートで観にいったのが、マイ・フェア・レディのロンドン公演だったんだって。お酒を飲んで機嫌が良いときは、そのときのことを楽しそうにお話ししてくれるんだ」

「じゃあ、ベンジャミンさんにとっての思い出の舞台なんですね」

「うん」エリザベスは嬉しそうに頷くと、その場に立ち上がり、スカートの裾を翻しながらくるりと回った。「マミィが生きていた頃は、この家の中は音楽でいっぱいだったんだ。ダディとお祖父ちゃんだっていつもにこにこしてたのに、マミィがいなくなってからは、ずーっとこんな顔ばっかりしてる」

 こんな顔と言いながら、エリザベスは自らの顔を指差し、眉間に深い皺を刻んでみせた。そうして伝えようとしていることは分かるが、頬を膨らませ、唇を尖らせるその表情には、見ている者の顔を綻ばせる愛らしさがあった。

「マイ・フェア・レディのお歌もね、よく歌ってくれたんだよ」エリザベスはそう言ったかと思うと、可愛らしい声を転がしながら、最初の一節を歌ってくれる。「キサも歌える?」

「『I could have danced all night』なら、お歌の先生に習ったことがあります。でも『Wouldn't it Be Loverly』はコックニー訛りが難しくて、まだ練習中です」

「コックニー訛りならお祖父ちゃんに習うといいよ」エリザベスはそう言うと、ふふ、とおかしそうに笑った。「そうだ。ねえ、下に行ってダディにピアノを弾いてもらおうよ。私、キサのお歌を聴きたいなぁ」

「えっ、私の?」

「ダディはKISAのファンだから、きっと喜ぶよ」

「で、でも、お仕事の最中なんじゃ──」

「いいの、いいの」

 善は急げとばかりに、希佐の手を取って立ち上がらせたエリザベスは、ここへ連れて来たときと同じように、ぐいぐいとその手を引いて歩き出した。階段は危ないからゆっくり降りるように言うと、エリザベスは片手を手すりに乗せ、少しだけ慎重になって階下に向かう。

「あのね、二人ともピアノの調律師なんだけど、お祖父ちゃんはお耳が悪くなってしまったから、ピアノのチューニングは全部ダディのお仕事なの」

 あとはお前の仕事だと言ったのは、調律を済ませるようにという意味だったのだろう。ネイサンは修理を終えたピアノの前に立ち、一音ずつ音を確認しながら、丁寧にピンの調整作業を行なっている。

 ネイサンは先程までの穏やかな面持ちとは打って変わり、酷く真剣な面持ちでピアノと向き合っていた。エリザベスは、希佐の手を握ったまま階段の前に立ち尽くしていたが、ポーン、ポーン、と鳴らされる音のピッチがぴたりとぶつかったのを確実に聞き取ると、ここぞとばかりに足を踏み出す。

「ダディ、今平気?」

「なんだい?」

「ダディもキサのお歌を聞きたいんじゃないかと思って」

「もちろん、KISAの歌なら──って、えっ?」椅子の上に置いていたノートを取り上げ、何かを書きつけていたネイサンは、驚いたように顔を上げる。「ああ、いや、えっ? いやいや、そんな、でも……」

 ネイサンの中で、聞きたいという気持ちと、申し訳ないという気持ちが、忙しなくせめぎ合っているのが手に取るように分かる。その泡を食ったような様子に思わず笑う希佐を見て、ネイサンは困ったような表情を浮かべ、頭を掻いていた。

「エリザベスさんが──」

「リジーでいいよ」

「──リジーが、ネイサンさんにピアノを弾いてもらえばいいと」エリザベスは楽しみでならないという様子で、希佐と繋いでいる方の手をぶんぶんと振っていた。「『I could have danced all night』の伴奏をしていただけますか?」

「……リジー、君の入れ知恵だね」

「さあ、なんのこと?」

 ネイサンは腰に手を当て、ふうん、と息を吐き出しながら、カーテンで仕切られた向こう側を窺うような仕草を見せた。しかし、手にしていたノートとペンを椅子の上に戻すと、よし、と声を上げる。

「これで父の気が変わるなら安いものだ」

「私、あのスタインウェイのピアノがいいな!」

 そう言ってエリザベスが指したのは、たくさんのピアノが並んでいる中の最も奥まった場所に置かれている、普通のグランドピアノよりもひと回りほど小さいものだった。

 しかしながら、よしと意気込んだまでは良かったが、ピアノの前に腰を下ろして鍵盤に手を置いた途端、ネイサンの表情が曇った。どうしたのだろうと思い希佐が見ていると、その眼差しに気づいたネイサンが、思わずというふうに苦笑いを浮かべる。

「実は、もう三年以上この曲は弾いていないんです」

「奥様が亡くなられてからですか?」

「はい」何から何まで話してしまったことを咎められると思ったのか、エリザベスは希佐の背中にすっと隠れてしまう。「怒ってはいないよ、リジー」

「……私、マミィがいた頃みたいに、またお家で楽しく歌いたいの」

「そうだね」

「キサのお歌を聞いたら、お祖父ちゃんもきっと考えが変わるよ。この前だってDefying gravityをこっそり何回も聞き直してたの、私知ってるんだから」

 奥の部屋で作業をしているベンジャミンに聞こえないよう、ネイサンの耳元に顔を寄せて、エリザベスはこそこそと話している。

 そういえば、以前電話で話をしたとき、話し声を聞いただけで孫が聞いていた歌を歌っている声と同じだと、そう言い当てられたことを希佐は思い出していた。

「お祖父ちゃん、絶対にキサのことを好きなんだよ」こそこそと話している声が筒抜けになっているとは思っていないのか、エリザベスはネイサンの耳元で囁き続けている。「そうじゃなかったら、ピアノを見に来ないかなんて、誘うわけないもん」

 至って真面目に話しているエリザベスとは対照的に、ネイサンは今にも笑い出したいのを堪えているような表情で、頬を引き攣らせていた。それでもかろうじて、そうだね、と平然を装って相槌を打っている。

 その話をにこにこと聞いていた希佐も、何の前触れもなくこちらを振り返るエリザベスに合わせて、何も聞いていませんという顔で、別のピアノに興味を引かれているようなふりをした。

「キサさん」改まったように名前を呼ばれ、希佐はネイサンの方を向いて「はい」と返事をする。「一曲、歌っていただけますか? 何せ三年ぶりなもので、手が震えて上手く弾けないかもしれませんが……」

「私も声出しをしていないので、ご期待に添えるほど上手に歌えるかは分かりませんが、それでもよろしければ」

 人の心根にある優しい気持ちは、楽器の音色にも、歌う者の声にも反映されるものだ。こんなにも穏やかな気持ちで歌を歌ったことなどあっただろうかと、希佐は思う。あの大きなホールでパイプオルガンの伴奏に合わせてアメイジング・グレイスを歌ったときとも違う、朗らかな気持ちがしている。まるですぐそばに誰かが寄り添って、こう歌えばいいのだと教え、導いてくれているようだと感じた。

 歌声に誘われるようにして出てきたベンジャミンは、俺はジュリー・アンドリュース以外は認めん、と漏らしながらも、希佐の歌声を気に入ってくれた様子だった。

「お祖父ちゃん、あのピアノを直して、キサに譲ってあげてよ!」

 そう言ってくれたエリザベスの言葉が、最後の一押しになったようだ。これ見よがしに咳払いをしながらこちらに背を向けたかと思うと、ぼさぼさの頭を乱暴に掻きながら、ボソリと漏らす。

「……まあ、考えてやらんこともないがな」

 思わず顔を見合わせ、にっこりと笑い合ったのは、三人だけの秘密だ。

 午後五時が過ぎ、日も陰ってしまった頃、希佐はすっかり長居をしてしまった工房を後にすることにした。エリザベスは泊まっていけばいいのにと言って下唇を噛んでいたが、また遊びに来ると約束をして、その申し出は丁重に断った。

「今日はありがとうございました」

 そう感謝の気持ちを伝えられたのは、この辺りは暗くなると人気がなく危険だからと、ネイサンが大通りまで見送りに出てきてくれた、道すがらのことだ。

 突然押し掛けていった身であるのにもかかわらず、そのような言葉を向けられた希佐は、思わず目を丸くしてしまう。

「いえ、私は何も……」

「家の中であんなに楽しそうにしている娘を見るのは、本当に久しぶりだったんです。それに、ヘスティアであなたに会ってから、あの子はあなたの話ばかりしているんですよ。SNSで拡散されていた動画を見たときは、それはもう大興奮で」

 もうすっかりあなたの大ファンなんです、と言う表情は、娘を慈しむ父親そのものだった。自分は一度も向けられたことのない、かつては向けられたことがあったのだとしても、覚えのない眼差しだと希佐は思った。

「父も、あの様子なら、ベーゼンドルファーのピアノを譲ると言うと思います」

「ご無理を押し通すようで申し訳なくも思うのですが」

「いえ、実は買い取っていただけるのなら、それはうちとしてもありがたいお話なんです」あはは、と苦笑いを浮かべながら、ネイサンは父親と良く似た仕草で頭を掻いた。「お恥ずかしながら、ここのところ経営難が続いていまして。それもこれも、父が他所の家で不要になったピアノを積極的に買い取るからなんですけどね。今は中古で良いピアノより、新品でそれなりのピアノを買う方が主流のようなので、うちのような下町の工房は調律やら調整やらを請け負って、細々と続けていくだけで精一杯なんです」

「そうなんですね」

「あ、すみません、こんなどうしようもない話をお聞かせして」

「いいえ」

 きっと、家族や友人の前では気安く吐露できないことなのだろう。さほど深い間柄でない方が、あまり考え込まずに話せることもあるはずだ。希佐はそう思いながら、余計な口は挟まず、ネイサンの話に耳を傾けることにした。

「……あのピアノについて、以前にも何件か譲ってほしいと問い合わせがあったと言いましたが、そのどれもが音が鳴らない状態でも構わない、外側だけを元通りに修復してくれればいい、店や部屋のインテリアとして飾るだけだから、というものでした。父はまずそれが気に入らなかったのだと思います。あの人は昔、ベーゼンドルファーの工房で働いていたんですよ」

「えっ、そうなんですか?」

「はい。だから、あのピアノのことも放っておけなかったのだと思います」

 自分が働いていた工房で作られ、かつては宝石のように輝いていたピアノが、見るも無惨に成り果てているのを目の当たりにして、きっと心を痛めたことだろう。もしかしたら、アランも同じ気持ちだったのだろうか。

 大通りまで出てくると、これまでの静けさが嘘だったかのように、突然の喧騒が戻ってくる。まるで別世界から戻ってきたかのようだ。目の前を行き交う車を眺めながら希佐がそのようなことを思っていると、ネイサンがポケットから取り出したものを、そっと差し出してきた。

「これは娘からです」

 赤と緑のリボンでラッピングされた透明なビニール袋の中には、丸く型抜きされたクッキーが入れられていた。そして、一通の封筒が添えられている。

「ありがとうございます」

「父と話をして、なるべく近いうちにご連絡を差し上げるので、お待ちいただけるでしょうか」

「はい、もちろん」

 そう言って微笑む希佐を、ネイサンはどこか眩しそうに、目を細めて見た。

「あなたの歌、本当に素敵でした。真冬の空のように透き通る青色をしていて、水や風のように形を持たないからこそ、聞く人の心にぴたりと寄り添えるんですね」

「……そんなふうに言ってもらったの、初めてです」

 目を丸くする希佐を見て、ネイサンは穏やかに笑う。

「あなたが出演される次の舞台を楽しみにしています。娘や父と一緒に、これからもずっと応援しています」

 この世界には、思いもよらぬ出会いがあれば、決められた別れもある。でも、何よりも重要なのは、そうした出会いや別れを、ただそれだけのものにしないことだ。

 日本には、袖振り合うも多生の縁、という諺がある。きっと、自分がこの国にやってきたことには、何か特別な意味があるのだろう。そして、この国で出会ってきた人々とも、出会うべくして出会ったのだと希佐は思う。無意味なものなど何もなかった。きっと、この世界から消えてしまいたいと願い続けていた、あの空白の二年間ですら、希佐にとっては大きな意味を持つ日々だったのだ。

 ネイサンと別れ、希佐は雑多に紛れながら歩き出した。週末ということもあって、街の人出は多い。

 もう少し人の流れが落ち着くまでカフェで休憩でもしようかと思った希佐だったが、ジョシュアのスタジオにまだ明かりが点いているのを見て、考えを改めた。近くのコーヒーショップで飲み物をテイクアウトし、すぐに引き返してくる。

「こんばんはー」

 そう言いながらドアを開けるが、受付にいつものアシスタントの姿はなかった。希佐は後ろ手にドアを閉めてから、短い廊下を突き当たりまで進み、カウンターの中を覗き込む。ごく稀に、アシスタントがカウンターの内側で、崩れるようにして眠っていることがあるのだ。

「よかった、いないや」

 希佐はほっと安堵の息を吐きながら乗り出していた身を起こし、更に奥へと向かった。いつもレッスンを行なっている部屋の前に立つと、片手で二つのコーヒーを抱えている間に、素早くドアをノックする。

「はーい、どうぞー」

 そのどこか気の抜けたような返事を聞いてから、希佐は目の前のドアをそっと押し開いた。

「こんばんは、ジョシュア」

「やあ、キサ」ドアの隙間から部屋の中を覗き込むと、ジョシュアはピアノの前に座り、譜面台の楽譜に何かを書き込んでいるところだった。「自習室を使いにきたの?」

「いえ、下の道を通りかかったらスタジオに明かりが見えたので、差し入れに」

「わお、気が利くね」

「甘い方と苦い方、どちらが良いですか?」

「あ、もしかしてアシスタントの分も買ってきてくれたの? ごめんね、彼女今日はお休みなんだ」楽譜への書き込みが終わると、ジョシュアは初めてこちらに顔を向けた。「じゃあ、苦い方をもらおうかな」

「はい、どうぞ」

「ありがとう」コーヒーはまだ十分に熱いらしく、ジョシュアはカップの蓋を外すと、ふうふう、と息を吹きかけている。「今日はどこかに出かけていたの?」

「午後からピアノの工房にお邪魔していました」

「工房?」ジョシュアはそう言って首を傾げてから、あっ、と声を上げる。「もしかしてネイサンのところ? この辺りから歩いて行ける距離となると、あそこくらいでしょ?」

「ご存知なんですか?」

「ご存知もなにも、このピアノは定期的に彼のメンテナンスを受けてるよ。彼の調律は最高なんだよねぇ。調整も注文通りにやってくれるから、もう他には頼めなくなっちゃって」

「すごい人なんですね……」

「耳がいいのさ。それに、共感覚っていうのも大きいのかなぁ」

「共感覚?」

「音や文字に、特定の色や形、時には味を感じたりする人たちのことだよ。ぼくも詳しいことは分からないけれど、人間誰しも赤ん坊の頃には持ち合わせている能力らしいね。大体の人は物心つく前に消えてしまうものを、稀に保持したまま大人になる人がいる」

 真冬の空のように透き通る青色をしていて、水や風のように形を持たない──独特な言葉で褒めてくれる人だと思ったが、ジョシュアの言葉を踏まえれば、それも納得することができる。

「でも、どうして君があの工房に?」

「それは──」

 希佐がその問いかけに答えようとしたとき、コートのポケットに入っているスマートフォンが、控えめな音で着信を告げた。伺いを立てるように目を向けると、ジョシュアはどうぞと言うふうに、手の平を差し向けてくる。

「すみません」

 希佐は一言断ってからスマートフォンを取り出すと、画面に表示されている名前を見て目を丸くした。ジョシュアに背を向け、その場から数歩離れてから、スマートフォンを耳に当てる。

「──ダイアナ?」

『ハァイ、キサ』お酒でも飲んでいるのかと思うほどのテンションの高さで、ダイアナが第一声を上げる。『あなた、元気なの?』

「えっ? あ、うん、元気だよ。ダイアナは?」

『私はこの通り元気よ。でも、もうほんっとうに忙しくて忙しくて、体より先に頭が参っちゃうんじゃないかしらって心配だったのだけれど、まあ、なんとかやっているわ。昔から体力と美的センスだけには自信があるのよ』

「授賞式用のドレスを作るからアトリエにこもるって言ってたけれど、それはもう終わったの?」

『まさか!』ダイアナは乾いた笑い声をあげる。『まだまだ終わらないわよ。あと五着は作らないといけないの。それも来月半ばまでにね。まったく、嫌になっちゃうわ。こんな仕事、一体誰が引き受けたのかしら』

 あら、私だったわね! という声は、聞いていて心配になるくらいに、とにかく明るかった。以前にも、ロンドンコレクションの数日前に、妙にハイテンションで電話をかけてきたことがあったのだ。

『それにね、クライアントから同じような内容の電話が次々掛かってくるのよ。今日はその対応だけで一日が過ぎていったわ。まったくもって時間の無駄よね。あの子たち、黙って待っていられないのかしら。うちの犬たちの方がずっとお利口さんよ。こんなこと、本当は言ってはいけないのでしょうけれど、ほんっとうにストレスなの。注文をつけるのは簡単よね。まだ誰も見たことのないような夢のドレスを作ってちょうだい、なんてことを平気で言うんだから──』

 息つく暇もなく話し続けるダイアナの声を聞いていると、希佐は少しずつ不安に苛まれて、電話を切るに切れなくなってしまった。かといって、このまま長話をするわけにもいかない。希佐は肩身の狭い思いをしながら、部屋の隅に寄ると、ダイアナに小声で話しかけた。

「ダイアナ、だ、大丈夫? 疲れてるんじゃない?」

『疲労ってどんな感じだったかしら』

「休んだ方がいいよ。ちゃんと寝てるの?』

『三日前に少しだけ仮眠をとったわ』

「駄目だよ、もっとちゃんと休まないと。誰かお手伝いをしてくれる人はいないの? お針子さんとか」

『いることにはいるのだけれど、私、人に頼るのが苦手な人間なのよね。キサだってそうでしょう? 自分でできることは、なるべく自分でやってしまいたいのよ。ほら、自分が勝手に期待をしておいて、その通りにならないと裏切られたみたいな気持ちになるの、あれが嫌なのよ。そんな気持ちになるくらいなら、最初から何でも一人でやってしまった方がずっと楽でしょう?』

「でも、期待されるって嬉しいものだよ」希佐は思ったままの言葉を口にしていた。「それが尊敬している相手からの期待なら、尚のこと嬉しいと思う。少なくとも、私はダイアナみたいな人から期待してるよなんて言われたら、もっと頑張ろうって思えるけどな」

『……変なプレッシャーにならないかしら』

「人それぞれじゃないかな」どう言えばいいのだろうと思いながら、希佐は小さく唸り声を上げた。「あのね、私がカオスに入ってすぐの頃、台本の読み合わせのときに、アランから言われたことがあるの。『期待値の半分にも到達してない』って」

『ええ』

「そのときは、なんだこの人はって思ったんだよね。私は本気で読み上げたのにって。でも、実際の私は全然本気なんかではなくて、多分、心のどこかではアランの様子を窺っていたんだと思う。この人はどんな目を持っていて、自分にどこまでのことを求めているのか、それが知りたかったんだ」

『あなた、そういうところがあるわよね』

「そうかな」そうよ、と言う声を聞きながら、希佐は笑った。「それに、期待値の半分にも到達していないっていうことは、自分に少なからず期待してくれているということでしょう? わざわざそんなふうに言ってくれるということは、私の才能に可能性を見出してくれているっていう解釈もできる。私は、アランのその言葉で奮起したんだよね。奮起といえば聞こえはいいけど、そのときの感情としては、何クソって感じだったんだけど──」

 希佐の口から思わずというふうに飛び出した耳慣れないスラングに、ダイアナは一瞬絶句したあと、けらけらと声を上げて笑い出した。希佐はばつの悪さを覚えながらも、話の先を続けた。

「──要は、期待は相手の受け取り方次第なんだと思う。あの頃、何もかもを失って自暴自棄になっていた私に、君はもっと出来るんだって言ってもらえて、本当に良かったと思ってるよ。だから、ダイアナのところで手伝ってくれているお針子さんたちも、本当にダイアナのことを慕っているのなら、期待に応えてくれるんじゃないかな」

 ──と、私は思うけれど、と言う希佐の声を聞いたあと、ダイアナは少しの間だけ黙り込んでいた。

 希佐がそろりと後ろを振り返ると、譜面台から取り上げた楽譜を眺めていたジョシュアが、気にしなくていいというふうに、手にしていた楽譜を軽く振ってみせる。

『……ええ、そうね。あなたの言う通りかもしれないわ』

「もしかしたら、とても無責任なことを言っているのかもしれないけれど」

『そんなことないわよ』ダイアナはそう言ったあと、いつもより少しだけ低い声で、ありがとう、と言った。『ねえ、キサ。今夜は一杯奢らせてちょうだい』

「えっ、今から?」

『あら、ダメなの?』

「ううん、私は大丈夫だけど。ダイアナ、疲れてるんでしょ?」

『私は平気よ。でも、お手伝いの子たちはへとへとでしょうから、今日はもうお家に帰して、ゆっくりしてもらおうと思って。そういえば今朝、もう一週間以上家に帰ってないって愚痴られたんだったわ。あなたも、私の愚痴を聞いてくれると嬉しいのだけれど』

「いいよ、分かった。愚痴くらい私がいくらでも聞いてあげるから、今夜は十時には帰宅すること。シャワーを浴びて、ぐっすり眠るの。いい?」

『いくらなんでもその門限は早すぎないかしら。少なくとも十二時の鐘が鳴るまでは粘りたいわね』

 前のコレクションのときにも同じようなことを言っていたと、釘を刺そうとしたそのとき、希佐の視界にコートを着込んでいるジョシュアの姿が入り込んだ。カシミアのマフラーを首に巻き、手書きの楽譜をまとめてバッグの中に入れている。

「すみません、今からどこかにお出かけですか?」

「ん? ああ、ヘスティアで人と会う約束をしてるんだ。君も来る? どうせ今から飲みに行くんでしょ?」

「え、でも──」

『……キサ? あなた今どこにいるの?』

「えっ? あ、えっと、ジョシュアのところ」

『ジョシュア、ジョシュア──え? ああ、あの歌の先生ね』

「どうするの?」

「あっ、え、どうしよう。ダイアナ、どうする? ヘスティアでいい?」

『もちろん、いいわ』

「じゃ、じゃあ、一緒に行きます」

 あとでね、と言って慌てて電話を切った希佐は、コーヒーを手に部屋を出ていくジョシュアの後ろを追いかけた。

「それにしても、君は絶妙なタイミングで現れるねぇ」

 なんのことを言われているのかが分からず、蓋の隙間から溢れ出てきてしまったコーヒーを舌先で掬い取りながら不思議そうにしている希佐を見て、ジョシュアはどこか呆れたように笑った。

「いや、こちらの話さ。ほら、君は先に行って、通りでタクシーを拾っておいて」

「はい」

 このスタジオの近所には、運転手たちが良く利用している食堂があるので、タクシーはすぐに掴まった。

 外に立ってジョシュアが出てくるのを待っていると、先に乗っていればいいのにと言いながら、タクシーのドアを開けてくれた。後から乗り込んできたジョシュアが郵便番号と店名を告げると、タクシーはヘスティアに向けて走り出した。

「ヘスティアでは誰と会うお約束をしているんですか?」

「スペンサー・ロローだよ」ジョシュアはそう言いながら、ポンポン、とバッグを叩く。「楽譜を渡すんだ」

「楽譜?」

「次の公演の仮歌。ぼくが編曲を頼まれていたんだよ。新作の舞台だし、脚本に合わせていくつか曲を用意しておいた方が、イメージも掴みやすいでしょ。もしかしたら、君が歌入れすることになるのかもしれないね」

 自分が知らされていないだけで、裏では次々と重要な決断が下され、少しずつでも何かが決定され続けているのだろうと、希佐は思う。そんな大切なときに、自分は一体何をしているのだろうと思いはするが、今やるべきことは、大舞台に向けた稽古に耐え得るだけの体作りなのだろうとも思うのだ。

 本来ならば、人の心配をしている余裕などありはしない。それなのに、私情から根を詰めすぎて体調を崩してしまった自分を、何一つ嫌味も言わずに休ませてくれる。

 本当に恵まれている。どこに行っても。周りの人々に、助けられている。それを決して忘れてはいけないのだ。

「そういえば、ウィキッドの招待状、君のところにも届いた?」

「あ、はい。予定はそちらに任せるので、観劇の日時を指定してほしいって」

「そういうのが一番困るよね。でも、断るわけにもいかないしさ。君はもういつ行くか決めたの?」

「いえ、まだです」

「早めに返事をした方がいいよ。先方にも迷惑が掛かるから。まあ、かくいうぼくも返事を先送りにしてるんだけど。まずはスケジュールの調整をしないと。それでも行けそうになかったら、アシスタントに譲ろうかな」

 タクシーがゆっくりと停車する。ジョシュアがカードで支払いを終えるのを待ち、希佐はドアを開けて外に出た。暑いと感じる程だった車内から、小雪が散らつきはじめている外に一歩足を踏み出すと、背筋がしゃんとするような気持ちの良さを覚える。

「一応六時に待ち合わせをしてるんだけど、舞台の準備が押してるらしいから、遅れてくるんだろうなぁ」

「スペンサーさんの舞台、確か来月の一日からでしたよね」

「三日後だよ。ドレスリハーサルやらプレビューなんかもあるだろうし、マスコミのインタビューやらテレビ出演やら、大忙しだろうに。別の公演準備まで抱えてるんだから、本当に物好きだよね」

 並んで歩道を横断し、ジョシュアが開けてくれたドアを潜って、ヘスティアに足を踏み入れる。

 空調が効きすぎないようにと、メレディスが気を使っているので、店内はいつも通り少し涼しいくらいだった。他の店では、エールがよく売れるからと、冬場の空調を強めに設定することがあるらしい。

 僕はお客様に心地良く過ごしてもらいたいからね、と言って、メレディスは寒いと思う人にはコートの着用をすすめていた。そういう人たちも、アルコールを摂取することで体温が上がり、気づくとコートを脱いでいるものだ。結果、快適に過ごすことができる。

「キサ、何飲む? 奢るよ」

「いえ、私は自分で──」

「大丈夫、次の一杯は君に奢ってもらうから」

 その物言いに少しだけ笑ってしまった希佐は、店のバーテンダーに向かってジンジャーエールを注文する。

「やあ、いらっしゃい」

 カウンターで他の客の相手をしていたメレディスは、ジョシュアが二人分の料金をカードで支払っていると、にこにこと機嫌良く笑いながら歩み寄ってきた。

「こんばんは、王様」

 希佐がそう挨拶をすると、メレディスは更に笑みを深める。飲み物を受け取りながらその様子を見ていたジョシュアは、ジンジャーエールを希佐に手渡しながら、メレディスに声をかけた。

「スペンサー・ロローは来てないよね?」

「今日はまだ見ていないな」

「今日は?」

「ここ最近は寝酒を飲みに毎日顔を見せてくれているよ」

「なに、彼って本番前はお酒の力を借りないと眠れないタイプの人だったの? そんな繊細な人間には見えないけど」

「人は見かけによらないものだよ、ジョシュア」

「キサは?」

「私ですか?」

「本番前はどんな感じ?」

「ぐっすり眠れます」

「本当だ」ジョシュアはそう言うと、悪戯っぽく笑った。「人は見かけによらないね」

 カウンターに腰を下ろして二人で話をしていると、多くの人がジョシュアの顔を見るなり、親しげに話しかけてくる。それは昔の劇団の仲間だったり、歌を教えている生徒だったり、学校の同級生だったりと様々だ。そして、隣に座っている希佐に気づくと、少しだけ驚いたような顔をする。

「君ってば商業デビューもまだなのに、ここじゃ相当な有名人になっちゃったね」

「動画が拡散されたあとなので、面白がって声をかけてくれる人も多いみたいです。それに、ここは元々顔見知りの方が多いので」

「ぼくの見立てでは、カオスのKISA目当てに来てるお客は少なくないと思うけどなぁ。君、さっきから結構隠し撮りとかされてるよ。そういうの気にならないの?」

「学生時代からこんな感じなので、そういう感覚が麻痺してるのかもしれません。でも、ここの店はスタッフが隠し撮りの現場を目撃すると、その場で削除するようにお願いしてくれるので、比較的安心できるんですよ」

「あー、それに、ここの王様には睨まれたくないもんね」棚に収められている酒瓶を取りに来たメレディスにも聞こえるような声で、ジョシュアは言う。「こわーい王様だから」

「王国のルールに従ってくれる善良なお客様には優しい王様として接しているつもりだよ」

「この人、地獄耳って言われてるんだ。きっと頭の後ろにも目がついてるんだよ。舞台関係者の中にはメレディスに弱みを握られている人が大勢いるって噂だしね」

「妙なことをキサに吹き込まないでくれるかな」

「だって、キサってばメレディスのことを誰にでも優しい紳士だと思い込んでるみたいだから、そういう幻想は早いうちに取っ払っておいた方がいいかなと思って」

「メレディスは紳士でしょう?」

「ほらね」目を丸くする希佐を見て、ジョシュアは大きく肩をすくめる。「間違いは正さないと」

「ありがとう、キサ」

 にっこりと微笑み、希佐に向かって軽くウィンクをしたメレディスは、ジョシュアに向かっては一瞥をくれてやることもせず、別の客のところへと歩いて行ってしまった。

 少し年配の客を相手に、酒の説明をしているメレディスの姿を遠目に眺めながら、希佐は口を開いた。

「あの人がどういう人なのかは、なんとなく分かります」

「へえ」

「結構打算的な人なんですよね。人間関係の損得勘定が得意なんだと思うんです。あ、そういうところは、ジョシュアと似ているんじゃないですか?」

「君ね……」にこにこと笑いながら言う希佐を、ジョシュアはじっとりとした目で睨みつけてくる。「打算的っていうのは否定しないけど、メレディスに似てるって言われるのは心外だな。ぼく、あそこまで性格は悪くないつもりだよ」

「同族嫌悪って言葉、知ってますか?」

「君って随分難しい言葉を知ってるんだね」

 イギリス人は一見すると冷めたような印象を持たれがちだ。日本と同じ島国なので、閉鎖的な部分もある。だがしかし、気に入った人間を一度懐に入れてしまえば、どろどろになるくらい甘やかしてくれるということを、希佐は知っている。メレディスも、ジョシュアも、そういうタイプの人間だ。

 くすくすと笑いながらジンジャーエールのグラスを口に運ぶ希佐を、ジョシュアはやはり不満そうに睨んでいた。そして、グラスを仰いでエールを飲み干すと、メレディスに向かって手を挙げる。

「王様、同じのをもう一杯」

「今持って行くよ」

 次の一杯は自分が奢るという約束だ。そう思った希佐が、財布から紙幣を取り出そうとすると、何の前触れもなくすっと背後から伸びてきた手が、希佐の手をそっと押さえつけた。

「今日は私に奢らせてって言ったのに、あなたが別のオトコと飲んでるから、何だかちょっと妬けちゃったわ」

「わ、ダイアナ──」

 びっくりして胸を抑えている希佐を尻目に、ジョシュアは最初から酒代なと払わせるつもりはなかったというふうな顔で、しれっと支払いを済ませていた。

「ちょっと、キサ。あなた、随分楽しそうじゃないの? 私との約束を反故にしてお歌の先生と仲良く飲んでたってわけ?」

「これ、ジンジャーエールだよ」

「あら、本当だわ」希佐が差し出したグラスを受け取り、それを一口だけ飲むと、ダイアナはにっこりと笑った。「待っててくれてありがと、キサ」

 ジョシュアにグラスを引き渡したメレディスは、希佐の後ろに立っているダイアナに一瞥を向けたあと、そのまま視線を横に滑らせた。そして、すうっと眩しそうに目を細めたかと思うと、途端にやわらかい表情を浮かべる。

「やあ、大分さっぱりしたね」ふわり、と香った嗅ぎなれた匂いに、希佐はゆっくりと後ろを振り返る。「アラン」

 そこに立っているのは、間違いなくアラン・ジンデルだ。だがしかし、顔の半分以上を隠していた分厚い前髪や、全体的にもっさりとしていた赤い髪は、短く切り揃えられている。緩い癖毛の髪は整髪剤で無造作に整えられて、その顔を隠すものは何もない。

「……アラン?」

「ん」

「髪、切ったの?」

 ダイアナは、何も言わずに風通しの良くなった首筋を撫でているアランの背中を押し、その大きな図体を希佐の前に突き出した。言葉を急かすように背中を突いているようだが、アランはそれを迷惑そうに振り返ってから、椅子に座っている希佐を見下ろす。

「……切った。ダイアナが」ダイアナがせっかく整えてくれたのだろう髪を、アランは気に入らない様子でくしゃりと掻き上げた。「こんなに短くしろなんて言ってないのに」

「あら、なかなか似合ってるわよ。ねえ、キサ?」

「え? あ、うん」どうやら無理やり切られたわけではなさそうだと思った希佐は、まるで恥ずかしがっているかのように視線を合わせようとしないアランを、まっすぐに見上げた。「素敵だよ、アラン」

 ちらりと向けられた緑色の目が、何かに怯えるような色を孕ませているように見えて、希佐は思わず心配になる。自らの手を差し伸べて頬に触れようとするが、寸前のところでアランの手に捉まり、振り払われるどころか、強く握り締められた。その手が、信じられないほどに冷たくて、希佐は大きく目を見開く。

「……どうしたの?」

 周囲からは、こそこそと囁き合うような声が聞こえてきていた。これだけ目立つ二人が並んで立っていれば、人目も集めるだろう。

「あれ、誰?」「格好良くない?」「素敵」「ちょっと、声かけてきたら?」

 希佐は知っている。こういう人ほど直接声をかけてはこないし、その度胸もないということを。ただ噂話をするように、こそこそと話をしているのが好きなのだ。まるで美術品を鑑賞するかのように、少し離れた場所から、ああでもない、こうでもないと。

「キサ」

「うん」

 握っていた手が離れた瞬間、今度はアランの両腕が希佐の体を包み込んだ。目を白黒とさせている希佐の耳元に唇を寄せたアランは、ゆっくりと息を吐き出す。

「俺から目を逸らさないで」そう言うアランの体からは、微かな震えを感じていた。「本当は、怖いんだ」

「……アラン?」

 ぎゅう、と縋るような両腕の力に、希佐は思わず言葉を失った。話が一向に見えてこないまま、しかし何かと戦い、怯えているようにも見えるアランの背中に腕を回すと、精一杯体を密着させる。

「大丈夫」希佐は囁き、言い聞かせるように言った。「絶対にあなたから目を逸らしたりしない。怖いことからも、私が守ってあげる。だから、大丈夫だよ」

「……うん」

 ゆっくりと身を起こしたアランの顔を覗き込み、変に癖のついてしまった髪を、希佐が撫で付けるようにして掻き上げる。美しい緑の目には、宝石のような輝きを取り戻しかけていた。

「アラン」カウンターの向こう側からメレディスが声を掛けてくる。「準備はできてる」

「分かった」

「楽しんでおいで」

「それはどうかな」

「君の心持ち次第だよ」

 大きく息を吸い込み、倍以上の時間をかけて、それを吐き出していく。そして、アランは着ていたコートを脱ぐと、それを希佐に預けてすぐ、その場で踵を返した。すっと背筋を伸ばし、毅然と頭を上げて、自信しかないというふうな出立ちで。

「……嘘」

「キサ、今何か言った?」

「すごくドキドキしてた」不安で堪らないというふうに体を震わせ、指先を凍えさせて、怖いのだと言った。「どうして、こんな──」

「彼が自分で望んだことさ」

「えっ?」

「もう君を見て嫉妬に狂うのは終わりにしたいんだって」そう言いながら椅子から降りたジョシュアは、店内にある小さなステージの方に

体を向けた。「あの人、昔からただの天才だとばっかり思ってたけど、違ったみたい。君とまったく同じタイプの人間だったよ」

「それは……」

「努力の天才さ。面倒臭がりのくせに、よくやるよ。まあ、おかげでぼくはここ何日か寝てないわけだけど」

 うまく状況が飲み込めず、それでも他の人たちと同じようにステージに目を向けた希佐は、そこへ上がる後ろ姿を見て、大きく目を見張った。隣では、ジョシュアが悠長に大欠伸を漏らしている。

「あ、あの、これは一体──」

「いいから見ていなさい」

「ダイアナ」

「あなた、目を逸らさないって言ったんじゃなかったの?」

 そう言われてはっとする。そうだ、目を逸らさないと、自分の口で言ったのだ。だから、希佐はそれを見なければならない。その目に焼き付けなければならない。

 店内が先程までとは違った喧騒に包まれていた。多くの人々がステージの方に目を向け、これからはじまることを予感しながら、顔を見合わせている。

 こうして唐突にステージがはじまることは、ヘスティアでは珍しいことでも、特別なことでもない。よくあることだ。だが、そこに立っている人物に気づいた者の多くは、希佐と同じように目を見張っていることだろう。まさかと思いながら、我が目を疑っているのかもしれない。これは、夢ではないのかと。

 三年前のある日、アランは希佐と一緒に、気紛れにあのステージの上に立った。ピアノを弾いて、一緒に『Falling Slowly』を歌ってくれた。当時の希佐には、それが酷く特別なことだとは知る由もなかった。でも、あれから三年もの時が過ぎ去った、今なら分かる。

 これはきっと奇跡のような光景で、多くの人が待ち望み、しかしながら決して叶わない夢だと諦めていた、そんな一幕なのではないか。

 アランがピアノの前の椅子に座る。スタンドに設置されたマイクの電源を入れると、プチン、という音が店内に響いた。その頃にはもう、辺りは静寂に支配されている。

 自分が舞台に立っているとき、もしかしたらアランもこんな気持ちだったのだろうかと、希佐は思った。まるで自分のことのように体が強張り、緊張しているのが分かる。あの忘れがたい冬公演、オー・ラマ・ハヴェンナと同じくらい。

 希佐はアランから預かったコートを抱きしめながら、ただ一心にステージを見つめていた。舞台の上に立つことが怖いと思う気持ちは、痛いほど良く分かるから。だからこそ、目を逸らさない。何があっても、絶対に。

 ピアノの鍵盤に指をかけ、ただ呼吸するだけの横顔を見て、誰かが心酔しきったようなため息を漏らした。

 絵になる、とはこういうことを言うのだろう。ただそこにいるだけで目を奪われる。現実には存在しないスポットライトを浴びて、光り輝いて見える。心がざわつき、肌がヒリつく。何かすごいことがはじまるという予感が、心臓の鼓動を大きく高鳴らせる。

 マイクを通して深呼吸する音が聞こえてきた。そして次の瞬間、アランの指先がピアノの鍵盤を弾く。ミュージカルソングはいつだってイントロの数小節が印象的だ。最初の一小節を聞いただけで、何の曲かが分かる。この歌も例外ではなかった。

 アラン・ジンデルが歌う姿を見たのは、出会ってからの三年間で、ほんの数回だけだ。もちろん、カオスの公演前にはすべての歌唱曲に歌を吹き込んでくれるが、いつもどこかのレコーディングスタジオまで、たった一人で出掛けていた。

 公演の歌唱曲を覚えるとき、希佐は何度も何度も、完璧に完成されたアランの歌声を、毎日のように繰り返し聞いていた。だが、今聞いているこの歌は、今までに聞いてきたどの歌声とも違う。

 自分はただ、アラン・ジンデルという人を、知ったつもりになっていただけだったのだと、そう思い知らされる。そうだ、たった三年間の付き合いで、一体何を理解できるというのか。知らないことの方が圧倒的に多いのは当然のことで、それを嘆いたところで何の足しにもならないというのに。

 なんて烏滸がましいことを考えていたのだろうと、希佐は思った。

「ちょっと、変なこと考えてない?」体の震えが止まらず、それでもステージから目を逸らすことができずにいる希佐の隣で、ジョシュアが言った。「言ったでしょ、君が知っているアランの才能なんて、ほんのごく一部だって」

「……はい」

「ああやって人前に立って芸を披露することに、才能の有無は関係ない。何をやっても下手くそな人間だって、神経が図太ければ一万人の人間を前に醜態を晒したところで何とも思わないけど、舞台に対する恐れや嫌悪感から第一線を離れた人間にとっては、たった一人の人間が相手だろうと、体が拒絶反応を示すものなんだ。それを克服することがどんなに大変なことか、ぼくには分からない」

 何一つ形容する言葉が思い浮かばないのだ。ただただ圧倒されている。与えられるものを消化することに精一杯で、自らの感情の処理まで追いつかない。

「多分、アランも今の君と同じ気持ちだったんじゃないの」

「同じ?」

「君は今、アランの才能に圧倒されてる。でも、アランも君の才能に圧倒されたんだ。アランの様子がおかしかったのは、この前、ここの上で独り芝居をやってからでしょ?」

「あ、はい……」

「ぼくに言わせれば、君たちは人の才能には酷く敏感なのに、自分の才能には恐ろしく鈍感すぎる。それに、自らに課す理想も高すぎるんだ。まあ、その理想を実現させられるだけの能力がある分、余計に面倒臭いんだけど」

 こんなにも感情を剥き出しにして、何かを表現できる人だったなんて、初めて知った。自らの内側にひた隠しにしてきた思いのすべてを、こんなふうに吐き出して昇華できるなんて、知らなかった。

「君たちは舞台に立ち続けたいと願う役者たちがこぞって欲しがるような才能を持ち合わせているのに、自分は大したことがない人間だと思い込んでる。ことの発端はそこだよ。君たちのような人間は、自分の才能を自覚しないかぎり、とにかく前には進めないんだ。常に自分にストッパーをかけているような状態がずっと続いてきたからね」

 舞台に立つということは、楽しいことばかりではない。そんなことは、身に染みて理解しているはずだ。それでも、がむしゃらに足掻いて、這い上がってこようとしている。深い海の底から、浮き上がってこようとしている。

「君の場合も、彼の場合も、誰かが優しく手を引いてやるなんて方法じゃ、いつまで経っても気づかないと思った。だから、多少の荒療治が必要だったんだよ。でも、もしこれでも駄目なら、彼に先はないだろうね」

 アランは言っていた。俺を見て、君が悔しがるくらいじゃないと、釣り合いが取れない、と。

 パートナー同士の釣り合いについては、ユニヴェール時代から頭を悩ませてきた問題だった。特に、一年生のユニヴェール公演の頃は、パートナーのあまりの偉大さに耐えきれず、押しつぶされそうになってしまったほどだ。でも、パートナーとしてのあり方を教えてくれたのも、あの人だった。お互いから決して目を逸らさず、どんなときも向き合い続け、共に歩みを進めていければ、越えられない壁などないのだと、教えてくれた。

 人と人とが向き合うときも、きっと同じだ。

 でも、自分とアランには、それだけでは足りないのだろうと希佐は思った。飢えが必要なのだ。満たされない何かが。満足してはいけない。だから、ずっと不安だった。

「……よかった」アランの歌を聴き終え、号泣しながら、希佐は笑った。「ちゃんと、悔しい」

 この才能が羨ましい。自分にはないものを持っているアラン・ジンデルを妬ましく思う。あらゆる才能の中でも一つくらいは、自分の方が優っていると証明したい。でも、そんなこと以上に今は、嬉しくてたまらなかった。今すぐに駆け寄って行って、力一杯に抱きしめ、キスの雨を降らせたいくらいに。

 ピアノの前に座った格好のまま、ぼんやりと放心しているアラン・ジンデルに向かって、大喝采が巻き起こる。大勢の人々が手を振っている。

 アランはステージの上からぐるりとそれを見渡してから、号泣する希佐に目を留めて少しだけ目を丸くしたあと、ほっとしたような表情を浮かべた。

「One more song!」

 そう叫ぶ聞き覚えのある声に、希佐は思わず目を向けた。出入り口の扉の前に、ライダースジャケットを着て、小脇にヘルメットを抱えたバージルが、ステージに向かって叫んでいた。

「私が呼んだのよ」ふふ、と悪戯っぽく笑いながら、ダイアナが言った。「彼もこれを待ち望んでいた一人だものね」

 バージルの声に続いて、誰かが「We want more!」と叫ぶ。囃し立てるような口笛や、歓声や、拍手で満たされていく。

 その様子に小さくため息を吐いたアランは、マイクに向かって、Shhhhと言った。店内が徐々に静かになってくると、再び鍵盤に指をかける。

 まるで宝石がころころと転がるような音色を奏でながら、詩を語るように歌う声が、じんわりと心に染み入ってくるようだった。歌っている最中にこちらを見つめる眼差しを感じて、急に胸が苦しくなる。

「私は、アラン・ジンデル以上に愛に飢えている人を知らないわ」隣でその歌を聞いているダイアナが、その目にうっすらと涙を浮かべながら言った。「でも、彼以上に愛情深い人も知らないのよね」

 うん、と掠れた声で頷く希佐の腕を、ダイアナが小突く。

「あなたがいたから、彼は前を向いて歩き出すことができたのよ、キサ」

「そうなのかな」

「神様があなたをアランの下に遣わしてくださったのかもしれないわね」短いアンコールの曲が終わると、ダイアナは拍手をしながら美しく微笑した。「これが、神のみぞ知るってことなのかしら」

 ピアノの前から立ち上がり、ステージを降りようとしているアランに向かって、彼を昔から知っている常連客が、もっと歌えと揶揄っている声が聞こえてきた。面倒臭い、と答えている声を聞き、希佐は少しだけ笑う。

 ふと出入り口前を見やると、バージルは手の甲で目元を拭うような仕草を見せたあと、テーブルの合間を縫って、早足でステージの方に向かった。飛び上がるようにステージに上ったバージルは、感極まった様子で、力一杯にアランの体を抱き締める。

「あの人酔っ払ってるの?」ジョシュアが冗談を言うような口振りでそう言うのを聞き、希佐は堪らず、声を上げて笑った。「こんないいもの見逃して、スペンサー・ロローは悔し泣きするだろうね」

 ざまあみろ、と言いながら、くるりと振り返ったジョシュアは、そこでステージを見守っていたメレディスに新しい酒を注文している。

 メレディスは細めていた目を伏せ、感慨深そうに大きなため息を漏らすと、かしこまりました、と言ってその場を離れていった。

「キサ」

「え、なに?」

「あなたも行ってきなさいよ」

「えっ?」

「こんなことになるなら、カオスの他の子たちにも声をかけるべきだったわね」希佐の手からアランのコートを取り上げたダイアナは、その背中をぐいぐいとステージの方へと押しやろうとする。「でも、また次の機会があるでしょうし」

「あっ、ちょっと、ダイアナ──」

「ほら、早くしないとあなたのオトコが、別のオンナに横取りされるわよ」

 その言葉を聞いてからもう一度ステージの方を見やれば、なるほど確かに、ステージの下には煌びやかな女性陣が集まり、アランが降りてくるのを待ち構えている様子が見受けられた。

 アランがグルーピーに取り囲まれている様子は、それはそれで面白いのかもしれないと思っていると、顔馴染みの常連客が、希佐の存在に気づいて声を上げた。

「おっ、カオスの歌姫までご登場じゃねぇか」

「何言ってんだ、カオスの歌姫はアイリーンだろうが」

「キサも一曲歌ってよー」

「酔っ払いは一度言い出すと聞かないぞ」

 はっはっは、と、昔良くチップをくれた恰幅の良い常連客が、腹を揺らしながら笑っている。希佐はその常連客に向かって軽く笑いかけると、ダイアナの手に押し出されるようにして、ステージに向かって歩き出した。

 まさか。まさか、こんな日が、こんなにも早く訪れるなんて、思いもしていなかった。いつか同じ舞台の上に立ちたい。その夢が、本当に叶うなんて。

「よう、キサ」

「こんばんは、バージル」

 にっ、と笑ったバージルは、アランの肩をとんと叩くと、ステージから飛び降りる。そのままカウンターの方に歩いて行く背中を見送り、希佐はもう一度ステージの上を見上げた。まるで磁力で引き寄せ合うかのように、希佐とアランの視線がまっすぐに交わる。

 アランは希佐の顔を見て、ほんの少しだけその表情を固くさせた。

「どうだった」

「悪くなかったよ」

 希佐は、アランがいつも言ってくれていた言葉を、そっくりそのまま返してみる。すると、アランは緑色の目を大きく見開いて、それからゆっくり細めたかと思うと、憑き物が落ちたような顔をして穏やかに微笑んだ。

 ステージの上から身を乗り出し、差し伸べられた手を、希佐はしっかりと掴む。そのままステージの上に引っ張り上げられたとき、希佐はアランの手を握り締めたまま、耳元に唇を寄せた。

「本当は、綺麗な箱の中に閉じ込めておきたい歌声だと思った」

「よく言うよ」

 三年間、ずっと隣にいてくれた人なのに、まるで初めて会った人のように感じるのは、自分を見つめる眼差しが、これまでとは違うと感じるからなのかもしれない。どこか後ろめたさを覚えているような、引け目を感じているような眼差しではなく、純粋で真っ直ぐな思いが向けられていると分かるから。

「キサ」

「ん?」

「ありがとう」

 そう言って微笑んだ顔があまりに美しすぎて、思わず目を逸らしてしまいそうになる。それでもなんとか持ち堪えて、今伝えるべき言葉を探しながら、にっこりと笑い返した。

「おかえり、アラン」

 きっともう、この人は、どこへでも一人で歩いていけるのだろうと、希佐は思った。

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