ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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世界の終わりを乞い願う ≪番外編≫

 明日、もし世界が終わるとして、今日、何をしたいのかを考えてみる。三年前までの自分なら、そんな無意味なことを考えても仕方がないと、そう一蹴していたことだろうと、アランは思う。

 生きることに何の価値も見出せなかった。死ぬ理由もないから、惰性で生きていた。自死の道を選ぶことすら億劫だった。人間はそう簡単には死ねないのだと知った。どうせなら、生まれた日のクリスマスに、段ボールの中で毛布に包まれたまま、死んでしまえればよかったのにと、何度も思った。

 義兄のロバートにはカウンセリングを進められたが、アランは自分がそれを必要としているとは思わなかったし、この苦しみを取り払いたいとも思ってはいなかった。

 それはなぜか。自分でも良く分からない。

 でも、今考えてみればそれは、潜在的な意識の中では、自らが下した決断を、早々に後悔していたからなのだろう。カウンセラーに自分の心を暴かれることが恐ろしかったのだ。自らの心の叫びから逃げ出すために舞台を離れたのに、それと向き合うことになれば、心の整理がつかない状態のまま、自分自身の後悔を真正面から突きつけられることになる。そうなれば、取り返しのつかないことをしてしまった自らへの罪悪感に、それこそ押しつぶされていたのかもしれない。

 それでも、バージルと出会い、劇団を立ち上げると、気分は少し上向いた。少なくとも、生きる意味はできたのだ。劇団を立ち上げたからには、それを率いて活動していかなければならない。自分一人だけの問題ではないのだという現実が、アランを浮世に繋ぎ止めていた。

「あいつらの舞台は何を表現したいのかさっぱり分からない」

 劇団を立ち上げた当初は、そう言われることが多かった。それはそうだろう。劇団立ち上げはバージルを自分の傍に繋ぎ止めておくための口実でしかなかった。目的など一つもなかったのだから。

「台本が用意できなけりゃ、俺が舞台の上で道化師でも何でも演じてやるよ。そういうのは得意だからな。アメリカで散々やってきたことだ」

 ブロードウェイで名を馳せていたタップダンス界の至宝を囲うことへの罪悪感よりも、それを独占しているという優越感の方が強かったのかもしれない。

 俺は俺の好きなようにやらせてもらうと言いつつも、事務所に所属することも、エージェント契約することもせず、自らの足で仕事を取りに行き、それが終わるといつもアランのところに戻ってきて、外の世界の話をいろいろと聞かせてくれていた。バージルは常に義理堅い男だった。

 イライアスを勧誘し、ジェレマイアを誘って、アイリーンが仲間に入り、ノアの加入でようやく、劇団は劇団らしい形となった。ただ、それでも何かが足りなかった。個々の才能が目立ち過ぎるあまり、調和が取れていなかったのだ。公演は毎回満員御礼だったが、客は個々の才能を評価はしても、公演そのものを評価することはなかった。結局のところ、何を表現したいのか分からない、カオスな集団でしかなかった。

 だが、立花希佐との出会いが、アラン・ジンデルの目に見える世界を一変させた。突然現れた日本人が、がらんどうとしたスタジオの真ん中に立ち、独り芝居を演じはじめたその瞬間から、褪せていた世界が色を取り戻したのだ。まるで、そこにだけスポットライトが照射されているかのように、光り輝いて見えた。

 なぜかは分からない。でも、自分はこの瞬間を待っていたのだと、そう思った。ずっと待っていたような気がしたのだ。彼女が現れるのを。生まれてくるよりも、ずっとずっと前から。

「今の今までいったいどこで何をしてたの?」何を考えるでもなく、そう口走っていた。「なんですぐに俺のところに来なかったの?」

 希佐は酷く困惑した面持ちでアランを見つめていた。この男は一体何を言っているのだという顔をしていたのを、昨日のことのように覚えている。初対面の、見るからにむさ苦しい、得体の知れない男にそう言って迫られれば、誰だって不信感を露わにするだろう。

 でも、この奇跡のような出会いが、アランの人生を変えたのだ。この出会いがなければ、今もまだ、地の底を這うようにして生きていたに違いない。自分に相応しい死に場所を探して、彷徨っていたことだろう。死神の釜が理不尽に振り下ろされるその瞬間だけを、何年も待ち望んでいたのだから。

 そして、彼女の登場と共に、劇団カオスの評価もがらりと変わる。

 個々の才能がパズルのピースだったとするなら、ばらばらに散らばるだけだったそれを、一つ一つ丁寧に繋ぎ合わせ、一枚の美しい絵画に仕上げてくれたのが、立花希佐だった。

 希佐はいつも多くを語らなかった。ただ淡々と稽古に励む。人に指図をすることもない。その物言わぬ小さな背中に導かれるようにして、劇団の仲間たちは多くを学んでいった。

 そうして完成した『God Only Knows』は、今では劇団カオスの最高傑作と言われている。再演を望む声も多い。商業の方から声が掛かることもあったが、こればかりは満場一致で、再演はしないと決めていた。

 たった一度きりの、奇跡のような、あの公演。

 だからこそ、価値がある。

 あの公演後の舞台上、カーテンコールのときに希佐が見せてくれた、舞台の先にあるものを目の当たりにして初めて、アランは自らが下した過去の決断を悔いた。

 長らく味わうことのなかった、溢れんばかりの歓声と拍手。賞賛の声。満足そうな笑顔。

 そんなものに、興味はない。

 ただ、すべてを終えた後の、あの何とも形容し難い達成感だけが、舞台に立つ原動力だった。アランは観客を喜ばせるために舞台に立っていたわけではない。自分ではない誰かを演じ切ったその瞬間、一人の人間の一生を体現することでだけ得られる、快感とも呼べるような満足感が好きだった。

 舞台で演じることだけが唯一の救いだったのだ。その救いの場が穢されてしまったような気がして、そしてそこに立つ自分も、否応なく穢れているのだと思うようになって、舞台を降りた。施設で暮らしていた頃のトラウマまでもが引っ張り出されてしまっては、もうお手上げだった。

 不特定多数から向けられる視線は気持ちが悪い。周囲の目を集めるこの容姿が嫌いだ。だから、そばかすの数が一つ増えるたびに、醜くなっていく自分の顔を見て喜んだ。見られたくないという願望が髪の長さに表れ、分厚い前髪で顔を隠すようになった。わざと着古したような洋服を身にまとい、背中を丸め、いつも縮こまっていた。変人を装っていれば、人々は一瞥はくれても、目を合わせようとはしないから。

 今のままでは駄目だという思いは日に日に強くなっていっても、心の問題までは、そう簡単には解決しない。独りで踊ることには何の抵抗もなくても、まるでこの体を嬲るような眼差しを向けられるのだと思うと、人前で踊ることには恐怖しか感じなかった。

 でも、歌ならば。歌ならば、歌えるような気がした。舞台に立てば、観客の視線を一身に浴びることになる。それでも、体ではなく、声を使った表現ならば、今の自分にも可能なのではないかと。

 そうだ。三年前に、希佐と一緒にヘスティアのステージで歌ったときだって、なんてことはなかった。だが、あのときは希佐が盾になってくれたからこそ、ステージに立つことができたのだと、アランは思い直す。次は、たった一人で、ステージに立たなければならない。そうしなければ、自らに打ち勝ったことにはならないのだ。

「申し訳ないけど、君が恐れているものを克服するための対処法を、ぼくは知らない。ただの緊張からくる恐怖への対処法なら、いくらでもあるんだろうけどね。人間、そう簡単に強くはなれないよ」ジョシュアの言葉にはいつも嘘がない。だから、信用することができると、アランは思っていた。「でも、ぼくは君が歌えるということは知ってる。力は貸すよ。ぼくも、アラン・ジンデルが舞台上で歌っている姿を、またこの目で見たいからね」

 自分の仕事を終えたあと、メレディスのアパートの管理人室まで足を運び、何日か徹夜で稽古に付き合ってくれたことには、非常に感謝している。

 きっと、寝ずの準備は功を奏したのだろう。パブに集う飲んだくれたちを楽しませられる程度には、聞かせられるパーフォーマンスだったようだ。

 鳴り止まない拍手と歓声。

 中にはアランが舞台に立っていた頃から知っている顔馴染みの客もいる。そうして、多くの人々が自分に向かって手を振っている様子をぐるりと見渡してから、アランは不意にそれを見た。

 カウンターの前に立っていた希佐が、自分を見て号泣していた。下唇を噛み締めながら、泣き笑いのような表情を浮かべている。そのあまりの泣き面に目を丸くしてから、こちらに手を振ってくれる仕草を見て、アランはほっと安堵の息を吐いた。

 鍵盤に乗せていた両手が、小刻みに震えるほどの恐れと戦っていたはずなのに、希佐の顔を見ていると、すうっと肩の力が抜けていく。海の底に沈んでいたはずの自分が、いつの間にか水面を揺蕩いながら、美しい星空を見上げている。凪いだ海のように、心が穏やかになっていく。

 アンコールの用意などなかったのに、体は再びピアノと向き合っていた。店内に静寂が戻ると同時に、今度は少しも震えていない両手で、たった一人のためにピアノを弾き、歌声を披露する。

 既に終わっていたはずの自分が、もう一度歩き出すきっかけとなった舞台。予想だにしていなかった転換点。それが他ならぬ『God Only Knows』だなんて、とんだ笑い話だ。神の存在を信じていなかった自分が、すべては神のみぞ知るなどと、そんなことを思うなんて──この世界は、もしかしたらまだ、捨てたものでもないのかもしれないと、アランは思う。

 自分がもし舞台を降りていなければ。メレディスに勧められて脚本の仕事を引き受けていなければ。バージルのタップダンスを見ていなければ。劇団を立ち上げていなければ。気の合う仲間たちと出会っていなければ、希佐とは出会うこともなかった。

 立花希佐がユニヴェールに入学していなければ。良心の呵責に苛まれて日本を飛び出していなければ。最初の飛行機の行き先がダブリンでなければ。このロンドンで生活することを選択していなければ。あの日、ミゲルがピアノを弾いていなければ。スタジオ裏の教会を訪れていなければ。義兄が希佐の歌うアメイジング・グレイスを聞いていなければ。希佐がディナーの誘いを受けていなければ、アランと出会うことは決してなかった。

 これをただの偶然で片づけられるほど、アランは物事を楽観視してはいない。もし一つでも違った選択をしていれば、二本の道が交わることはなかったのだ。

 だが、これを運命と言わずして、何と言うのだろう。自分たちは出会うべくして出会ったのだと、そう思うことの方が、ずっと自然なのだ。だが、二本の道が交わったその先にあるものが何なのかは分からない。天国か、地獄か。それこそ、神のみぞ知ることだ。

 覚悟は決めた。自分の存在が望まれているかぎりは、隣にいる。最後の瞬間が訪れるそのときまで、握った手を離したくないのだ。君を支えると言ったあの約束を、反故にするつもりはない。

 ステージに駆け上がってきたバージルは、柄にもなく感傷的な面持ちを浮かべ、アランの体を力一杯に抱き締めた。

「相変わらず人騒がせな野郎だよ、お前は」体が解放されると同時に、今度はぐりぐりと頭を掻き撫でられるが、アランはそれを払いのけようとは思わなかった。「よく頑張ったな」

 まるで子供を誉めるような口振りでそう言うと、バージルはステージの下に一瞥をくれる。ダイアナに背中を押されながらやって来る希佐の姿を見ると、僅かに目を伏せた。

「俺たちは現状に甘んじていたんだ」顔馴染みの常連客に声をかけられながら、希佐がステージに近づいてくる。「それを、六千マイルも離れた国からやってきたお嬢ちゃんが、こんなふうに状況をひっくり返しちまうんだから、人生は何が起こるか分からないよな」

 再び舞台の上に立ちたいと夢見たことはある。でも、それを実現するだけの労力を割こうとしたことは、ただの一度もなかった。

 一番は、この身を人目に晒すことが怖かったから。そして、役者として積み上げてきた日々を棒に振り、努力を怠ってきた自分に失望することが、目に見えていたから。理由をあげればきりがない、でも、すべてはただの言い訳だ。

 怯え、縮こまって、じっとしていれば、ただ平坦な道を歩いていける。平穏な暮らしが約束されている。それでいいと思っていた。最初から再挑戦することを諦めて、バージルの言う通り、現状に甘んじていたのだ。

 バージルがステージを降りると、今度は希佐がステージに上がってきた。生意気なことを口にしながら、泣きそうな顔をして笑う。

 どれだけ感謝してもし足りないのに、口から出てきた言葉は「ありがとう」の一言だけだった。それでも、希佐は眩しげに目を細めてから、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

「おかえり、アラン」

 あれほど人の視線が煩わしくて堪らなかったというのに、この琥珀色の目に見つめられることだけは、最初から不快に思わなかった。好奇の眼差しであることに変わりはなかったはずだ。それなのに、その眼差しはあまりに純粋で、悪意がなく、この顔の向こう側にある何かを見ようとしているように感じられた。

 ステージの下から、早く歌えー、と囃し立てるような声が掛けられる。これだから酔っ払いはと呆れている傍らでは、希佐が律儀にももう少し待ってくださいね、と応じていた。

「あの」ステージの下にいるパブの客と話をしていた希佐が、ゆっくりとこちらを振り返り、どこか他人行儀に声をかけてきた。「何を歌えばいいんでしょうか?」

 出会ったばかりの頃に話していたアイルランド訛りの英語で、希佐は悪戯っぽく言う。

 あれからたった三年しか経っていないのかと、アランは思った。もう何年も、何十年も、ずっと側にいるような気がする。そう感じてしまうほどに、この三年間は密度が濃く、あまりに充実していた。

「何なら歌えるの?」

「私、洋楽はあんまり知らないんです」

「あんまりってことは、歌える曲はあるってことだろ。好きな曲でいいよ、合わせる」

 まるで何度も読み込んだ台本の台詞のように、するすると言葉が出てくる。昨日のことのように思い出せるのだ。ピアノを弾きながら、希佐の歌声に心を奪われていた、あの瞬間のことを。

 希佐は三年前と同じ言葉を繰り返すアランを見て、嬉しそうに笑うと、スタンドに立て掛けられているギターを手に取った。ピアノの前まで歩いて行き、鍵盤を突きながらギターの音程を確認している。

「──『Shallow』は?」

「え?」

「ジョシュアから練習曲に使ったって聞いてるけど」

「ギター、導入部分しか弾けないよ」

「残りは俺がピアノで請け負う」

「本当に何でも弾けるんだね」

「練習した」首を傾げる希佐を見て、アランは小さく肩をすくめた。「一緒に歌いたいと思って」

「私と?」

「そう」

 希佐は唖然とした表情を見せたあと、本当に嬉しそうに、まるでとろけるような笑みを浮かべた。肩に掛けたストラップの位置を直しながら、小さく咳払いをする。

「こうしていると三年前を思い出すね」ピアノの前に腰を下ろしながら、アランは頷いた。「三年も一緒にいるのに、私はアランの歌を聞いて、あなたのことをまだ何も知らないんだって、そう思ったの」

「キサの独り芝居を見たあと、俺も思った。君を知ったつもりになっていただけなんだって」

「アランのこと、もっと知りたい」

「俺も」アランが伸ばした手を、希佐がそっと握り締める。「君を知りたい」

「またここからはじめる?」

「うん」握り返された手から、自分と同じだけの熱いものを感じる。「はじめよう」

 物語はいつか必ず終わりを迎える。でも、物語の中を生きている主人公たちの人生は、その後もずっと続いていくのだ。

 聴覚を失った少年は、ある日、世界の音を取り戻したのかもしれない。盲目の少女は、度重なる手術の末に光を取り戻し、画家になる夢を叶えたのかもしれない。道を違えたかのように思えた二人は、再び手と手を取り合って、共に歩む道を選んだのかもしれない。

 物語のその後にある人生は、それぞれが自由に決められる。しかしながら、思い通りになるとはかぎらない。それでも、物語は終焉に向かって進み出すその瞬間が最も美しいということを、アランは知っている。

 ハッピーエンドは人々の心に残らない。

 幸せな思い出として風化するくらいなら、いつか彼女が年老いて、幸福な生を全うしたその最期の瞬間に、心に負った深い傷として思い出されたい。今際のときに、もう一度あなたに会いたいと、そう思われたい。病院のベッドの上で、彼女の手を握ることが許された誰かではなく、自分を思って死んでほしい。心から、そう思う。

 ギターを構えた希佐は、ピアノの隣に立つと、アランと向き合いながら弦を爪弾いた。店内の客からは、その耳馴染みのあるメロディーラインを耳にした途端、小さく歓声が上がる。希佐は店内を見回し、歓声に応えるように微かに口角を持ち上げてから、その視線を再びアランに戻した。電源の入っていないマイクを一瞥してから、まるで挑発するように目を細めて見せる。

 希佐と歌を合わせたことは数える程度しかない。それでも、完璧に調和させられる自信が、アランにはあった。

 頭の中ではもう何度、共に歌ったか知れない。公演の歌唱曲を制作するとき、透明感のある美しい声が最も活かせる音域を探しながら、頭の中ではその歌声を常に響かせ続けていた。

 だが、本番の歌声はいつだって、アラン・ジンデルの想像を超えてくる。公演の度に、これが最期の舞台になるかもしれないというふうな、並々ならない熱量を感じていた。真実、そのように思って、舞台に立っていたのだろう。いつか見つかってしまうかもしれないという恐怖に怯えながら、それでも、舞台に立つことを諦めることはしなかった。

 立花希佐の人生から舞台を切り離すことはできない。舞台を諦めたその瞬間、舞台人・立花希佐は文字通り死ぬのだろう。

「私は、舞台の上で死にたい」それが立花希佐の願いだというのなら、叶えてやりたい。「アラン・ジンデル以外には、私を殺せない」

 君が夢から覚めてしまう前に、俺の才能が君を殺すから。

 ギターの音色に合わせて、マイクを通さずに歌う。店内は先程よりも更に静まり返って、衣擦れの音すら聞こえない。誰もがアラン・ジンデルの歌声と、立花希佐のギターの音色に耳を傾けている。

 そしてもう一度、明日、もし世界が終わるとして、今日、何をしたいのかを、アランは考えてみた。

 だが、既に答えは決まっていた。立花希佐と一緒にいたい。滅びゆく世界の中で、ピアノを奏でながら歌声を重ねていたい。世界が終わるその瞬間まで、その手を握り、踊っていたい。

 そんなふうに言ったところで、彼女は困ったように笑うばかりで、何も応えはしないのだろう。それが分かっているからこそ、あえてこの思いを伝えようとは思わない。

 世界が終わるそのときに、隣にいられないのなら、こうしている今この瞬間に、世界が滅びてしまえばいい。そんな自分勝手で残酷なことを考えながら、歌声を明け渡す。

 それはすべての迷いが消え去った者の歌声だった。重力から解放された者の歌声だ。立花希佐を地上に繋ぎ止めておくための重石は、もうどこにもない。

 三年前、その透明なる歌声の美しさに、酷く魅了された。三年後の今、その限りなく透明に近い色をした歌声には、このロンドンで暮らしてきた日々の色が滲み、力強さが増している。無視することのできない意志を感じる。

 立花希佐はストーリーテラーだ。歌は希佐自身の物語となり、それを語るように歌うことで、聞く者の心に深く浸透していく。それは、誰にでもできることではない。天賦の才能なのだ。こんな才能を他には知らないと、アランは思う。

 残り少ない時間を無駄にすることはもうやめた。どう足掻いても結末を変えられないのなら、彼女との残された日々を共に生きよう。そして、残りの人生はその思い出だけを糧にして、たった一人で生きていく。もう二度と、立花希佐のような存在には巡り会えないと分かるから。だから、一つ一つの思い出を、心の中にある綺麗な箱の中に閉じ込めておくのだ。誰にも侵されることのない場所に、そっと隠しておく。決して終わりが訪れることのない、永遠の場所に。

 

 

 アラン・ジンデルがステージを降りると、店内はそわそわと落ち着きをなくし、半ば騒然とした状態になった。しかし、当人はといえば我関せずというふうな面持ちで、ステージから真っ直ぐにカウンターへと向かい、そこにいたメレディスに水をくれと注文している。

 その近くに立っていた女性はアランを見上げると、あからさまに頬を赤らめ、ステージでの歌声を褒め称えていた。アランは差し出されたグラスを受け取りながらその様子を一瞥すると、どうも、と一言だけ返し、すぐに背中を向ける。

「キサ、水」

「ありがとう」

 二つ持っているうちの一方を差し出してきたアランに礼を言い、希佐はそのグラスを受け取ると、微かに柑橘の香りがする水をぐいっと呷った。まるでエールを飲み干した後のように大きく息を吐くと、傍にいたダイアナが、ふふ、と小さく笑う。

 アランのことを劇団時代から知っている常連客たちが、次から次へと押しかけてきては、今夜のサプライズを酷く喜んだ様子で声をかけていた。中には熱くなった目頭を抑え、バージルのように感極まって泣き出す者もいたほどだ。アラン・ジンデルが舞台上に戻るのを待ち望んでいた者は、想像以上に多かったらしい。普段通り、適当に受け流しながらも、どこか満更でもなさそうに見えたのは、きっと気のせいではない。

 遅れてヘスティアにやって来たスペンサー・ロローは、舞台の通し稽古を終えてへとへとになっている加斎中を引き連れて現れた。しかし、希佐は加斎の後ろに見知った顔を見つけて、思わず目を丸くする。すらりとした長身のその男性は、加斎の後ろから、希佐に向かってひらひらと機嫌良く手を振っていた。

『えっ、ダンテくん?』

『チャオ』加斎を押し退けて前に出てきたダンテ軍平は、希佐の手を取ると、その甲にそっと口付けた。『会いたかったですよ、キサ』

『あっ、うん、私も会えて嬉しいよ』

『最後のユニヴェール公演以来ですね。うーん、相変わらずの美しさに目が眩みそうです』

『ありがとう』

 あはは、と乾いた笑いを漏らしながら、希佐は説明を求めるように加斎に目を向けた。すると、スマートフォンの画面に視線を落としていた加斎がその眼差しに気づき、顔を上げる。

『実は、ダンテも来月からの公演に出演することになったんだよ』

『そうなの?』

『別の仕事が入ってカンパニーから抜けた演者の穴を埋めるために、急遽オーディションが行われたんだ。スペンサーから即戦力のダンサーはいないかって聞かれたから、ダンテを紹介した』

『オーディションにもバッチリ合格です』

『そうだったんだ』希佐は握られている手を見やってから、ダンテを見上げて笑った。『おめでとう、ダンテくん』

『あっ、言っておくけど、俺は立花のことは何も話してないから。こいつが俺とスペンサーの話を盗み聞きして──』

『盗み聞きとは人聞きが悪いですね、アタル』

『だってそうだろ』

『ちょっと小耳に挟んだだけですよ』

 どうやら、二人の関係性はユニヴェールにいた頃から、何一つ変わってはいないようだ。希佐が二人の様子を懐かしく思いながら眺めていると、よう、と親しげに挨拶をする声が背後から聞こえてきた。

「アタルとダンテじゃねぇか」希佐の後ろから現れたバージルは、希佐の手を握って離さないダンテの手を見下ろした。「お前、いつまでキサの手ぇ握ってるつもりだ?」

「おっと、これは失礼しました」

 希佐の手がダンテから解放されるのを見届けてから、バージルは再びスマートフォンに見入っている加斎に声をかけた。

「通し稽古は上手くいったのか?」

「バージルが新しく振り付けたダンスが悪魔の所業すぎて、こんなギリギリになっても群舞が揃わないんですよ。明後日はプレビュー当日だっていうのに」

「なんだよ、まだ一日あるだろ。弱音を吐くな。それに、少しくらい難易度を上げなきゃ面白くねぇだろうが」

「それはそうですけど」

「あの程度のタップダンス、こいつなら1日で踊れるようになるぞ」

「えっ、私?」こいつ、と言いながら、バージルは希佐の肩に腕を回した。「どんな振り付けなの?」

「これだよ」

 先程から熱心に見ていたのは、再公演にあたってバージルが新たに振り付けをしたタップダンスの映像だったらしい。希佐は差し出されたスマートフォンを受け取ると、その画面をバージルと一緒に覗き込んだ。

 ボタンを押すと、時間にして五分弱程の群舞の映像が再生された。全体を映しているので、細かいステップまでは確認することができないが、確かに難易度は高いダンスのようだ。

「私は群舞の経験がないから大したことは言えないのだけれど、重要なのは全員の動きを揃えることと、タップ音に乱れを生じさせないことでしょう? だったら、最初から全員で揃えようとするんじゃなくて、まずは少人数で合わせてみたらいいんじゃないかな。二人が揃ったら三人、三人が揃ったら四人、みたいな感じで。犯人探しをするわけではないけれど、ダンスってそれぞれに個性があるから」

「それもやってはみたんだけどさ」

「上手くいかないの?」

「そうなんだ。新旧メンバーで息が合わない感じ。まあ、今回のオーディション合格者はまだ振り入れで精一杯っていうのも分かるんだけど、ここにきて誰かさんのせいで難易度が爆上がりしたから、みんなピリピリしてるんだと思う。せっかくウエストエンドに受け入れられて、ロングランが決定したところなのに、一週間やそこらでクローズするなんて格好悪いし」

「難易度を上げろっていうのが演出家のご要望だ、仕方ねぇだろ」

「俺は文句ないよ。振りだって完璧に入ってる。何より、バージルの振り付けが気に入っているんだ。あの群舞が完璧に揃ったら評価は高いと思う。だから、絶対に成功させたいんだよ」

「じゃあ、これから一緒に稽古をする? あ、でも、私と一緒に稽古をしても実りなんてないかな」

「立花が付き合ってくれるなんて願ってもないことだよ。でも、いいの? スペンサーが、立花は病み上がりだって言ってたけど」

「私ならもう十分休ませてもらったから大丈夫だよ。バージルも稽古に付き合ってくれる?」

「ああ、俺は別に構わねぇよ。ハンナもヘレンのところで預かってもらってるからな」

「ダンテくんも来る?」

「もちろん、僕も行きます」

「それなら、決まりだね」

 希佐は手にしていたスマートフォンを加斎に返すと、その場で後ろを振り返った。

「アラン」希佐がそう声をかけると、心なしか頬が痩けたように見えるスペンサー・ロローと話をしていたアランが、こちらに目を向ける。「今日はこのまま帰ってくる?」

「……なんで?」

「みんなでタップダンスの稽古をしようと思うんだけど、スタジオを使わせてもらいたいなと思って」

 アランは希佐の物言いに一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、言葉の意図を理解すると同時に、微かに強張っていた表情を緩ませた。

「好きに使っていいよ」

「ありがとう」

 善は急げだ、早くスタジオに帰って稽古をしようと言いかけ、希佐は思わず口を噤む。加斎がぽかんとした面持ちで、アランの横顔を見ていたからだ。

「加斎くん、どうしたの?」

「えっ? あ、ううん、何でもない」大きな目を何度も瞬かせ、不思議そうに首を傾げている様子を見て、バージルがくつくつと笑っていた。『ねえ、あれって、本当にあのアラン?』

『そうだよ』

『ヤバくない?』思わずというふうに日本語でそう言うと、加斎は真顔で続けた。『あの人って、あんな顔してたんだ』

『まるでミケランジェロの彫刻のような麗しさを感じますね』

「ほら、ガキ共、稽古するならさっさと行くぞ」

 日本語で話をしていても、何となくその会話の雰囲気を察したのか、バージルはそう言うとすぐに加斎とダンテの肩に手を回し、そのまま出口の方に向かって歩き出した。

「先に外行ってるぞ、キサ」

「うん、私もすぐ行く」

 ただ近くにいるだけで感じる。方々から向けられる、好奇の眼差しが。ただ純粋に、その美しさに見惚れる者もいれば、げびた目を向けながら、こそこそと囁き合うような、不快に感じる視線も少なくはない。イライアスも以前漏らしていたことがあった。あからさまな視線はすぐに分かると。

 少し離れた場所から、話が一段落するのを待っていると、こちらの存在に気づいたスペンサーが希佐を手招いた。

「すまないね、キサ。病み上がりにうちの連中の面倒を見てもらうみたいで」

「いえ」

「プレビューまでに見通しが立たなければ、前の振りに戻すと言ったら、アタルが物凄い剣幕で楯突いてきてね。ヘスティアまで勝手に付いてきた挙げ句、道中で延々と説得しようとしてくるものだから、今は余計に頭痛が酷くて」

「頭痛、大丈夫ですか?」

「ああ、私のこれはただの寝不足だから、気にするほどのことじゃない。公演前はいつもこんな感じだよ」

 メレディスがスペンサーは毎日寝酒を求めてやってくると話していたが、どうやらアルコールの力を借りても、あまり眠ることはできていないらしい。ジョシュアが言っていたが、確かに、人は見かけによらないものだと希佐は思う。

「君は周りがよく見える子のようだから、彼らのダンスについて何か気づいたことがあれば、なんなりと言ってやってくれ」

 バージルが稽古を見てくれるのだから、自分が出る幕は一切ないだろうと思いながらも、希佐は小さく頷いた。

「あら、キサ。もう帰るの?」カウンターに並んで腰を下ろし、ジョシュアと話をしていたダイアナが、こちらを振り返る。「一杯奢らせてって言ったのに」

「ごめんね、ダイアナ」

「いいわ」至極申し訳なさそうに謝罪する希佐を見て、ダイアナはすんなりとそれを受け入れた。「でも、私がアメリカから帰ってきたときは、体をあけておいてちょうだいね。今度は一日中付き合ってもらうわよ」

「うん」

 ダイアナがアメリカで行われる映画の授賞式に向かうのは約一週間後だ。着付けをするために、ダイアナのドレスを着る俳優について行くのだと聞いている。ついでにニューヨーク観光もしてくるそうだ。今からでも一人分くらいはどうとでもなるので、スタッフとして一緒に来るかと誘われたが、希佐は それを断っていた。今朝までに誘われていたとしたら、もしかしたら気晴らしのために行くと答えていたかもしれないが、今となってはその気もない。

「さっきの歌、良かったよ」ダイアナの隣に座っていたジョシュアが機嫌良く言う。「ギターは改善の余地が大ありだけど」

「頑張って練習します」

「ほどほどにね」

 時間はいくらあっても足りない。やりたいことが多すぎるから。

 君はまだまだ若いからと言われる機会は多いが、だからと言って、何の前触れもなく訪れるかもしれない命の終わりを回避することは、誰にもできない。

 明日、もしかしたら地球に隕石が落ちてきて、世界が滅ぶかもしれない。不慮の事故に巻き込まれて、この命の灯が消えてしまうかもしれない。だから、まだ年端もいかないからといって、それで安心することはできないのだ。

 継希に置いていかれたと知ったとき、確かに、これまでに味わったことのない喪失感を覚えた。心にぽっかりと空いた穴は、未だに埋まることはない。だが、それでも立ち直ることができたのは、二人の間には間違いなく血の繋がりがあって、互いを家族と呼び合える関係があったからだろうと、希佐は思っていた。

 しかし、希佐とアランの間には、不確かな繋がりしかない。明確な言葉では言い表すことのできない、あやふやな関係性が、この三年の間ずっと続いている。その関係が断たれた瞬間、二人を繋いでいた脆い糸はぷつりと切れて、すべてが無に帰すと分かるから。

 それでも、まだもう少しだけ、この糸で繋がったままでいたいと希佐は思う。求めたいし、求められたいのだ。与えたいし、与えられたい。バージルが言ったような共依存という形ではなく、それぞれの足で自立しながらも、互いを支え合えるような関係性でいたい。二人が道を違えたあとも、辛さや苦しみで押し潰されずにすむように。

「じゃあ、私は先に帰ってるから」

 こうして隣に立っていると、周囲からの露骨な眼差しが感じられ、希佐は自分が見られているわけでもないのに、ぞわぞわとするような不快感にも似たものを首の裏側に覚えていた。視線が針のような形をしていたら、それが柔肌にちくちくと突き刺さっていることだろう。

 横顔を見上げた格好のまま思わず顔を顰めると、こちらを見下ろすアランの表情が、微かに柔らかくなったような気がした。一瞬だけ、どくん、と大きく波打った心臓の鼓動が治らないうちに、アランは希佐の首筋に手を添え、体を軽く引き寄せる。

 背中を丸めたアランが、希佐の耳の近い場所に唇を押し当てるのと、それを間近に見ていたスペンサーが愉快そうに口笛を吹いたのは、ほぼ同時のことだった。

 目を白黒としている希佐の顔を覗き込んでいたアランは、その後すぐに希佐の体を解放する。

「バージルが早くしろって」

 店の外壁沿いにバイクを停めていたバージルは、その傍に立ちながら、うんざりしたような顔をして窓ガラスをこつこつと叩いていた。白い息を吐き出しながら、早くしろ、と言っているのが口の動きで分かる。

「私も後ほど子供たちを回収しにスタジオに寄らせてもらうよ」

「はい、そう伝えておきます」

 あとでね、と言って数歩足を進めた希佐だったが、急に思い立って

踵を返すと、再びアランの傍に戻った。腕に手を添え、目一杯のつま先立ちをして、そばかすの散った頬に軽くキスをする。リップが移ってしまった部分を親指の腹でそっと拭い、目を細めるようにして微笑みかけてから、今度こそ店の外に足を向けた。

「バージル、お待たせ──」

 希佐が店の外に出て待ち人のところまで早足で向かうと、当のバージルはヘルメットを抱えるようにして体を折り、ヒイヒイと声を殺して笑っていた。唖然としてその様子を眺めていた希佐が、思わずというふうに店内に目を向けると、むっとしたような面持ちのアランがこちらから目を逸らすところだった。

「どうしたの?」

「いやあ、あいつのあんな顔、初めて見たと思ってな」

「あんな顔?」

 希佐は首を傾げると、再び店内に目を向ける。しかし、アランは既にスペンサーとの会話に戻り、こちらを見ようとする気配もない。

「一時はどうなることかと心配したが、無事に収まったみてぇだな」バージルはそう言うと、希佐の頭をくしゃくしゃと撫でた。「俺にはできなかったことを、お前とイライアスがやってくれたよ」

「イライアス?」

 くしゃくしゃにされた髪を手櫛で整え終えると、バージルは抱えていたヘルメットを希佐の頭にすっぽりと被せる。そして、座席の下から予備用のヘルメットを取り出すと、自分はそれを被りながら口を開いた。

「あいつもあいつで、アランにはずっと思うところがあったんだ。だけど、俺もあいつも、アランが引いた境界線の向こう側に踏み込もうとはしてこなかった。どうすることが正解で、不正解なのかも分からねぇような状況だったしな。余計なことを言ってあいつの機嫌を損ねちまったら、それこそ元も子もないだろ。そんなふうに相手の腹を探ってタイミングを見計らっているうちに、とうとう俺たちは何をすることもできないまま、現状に甘んじる方を選択していたんだ」

「でもそれは、アランを傷つけないためでしょう?」

「いや」バージルはいともあっさり首を横に振る。「その方が絶対的に楽だったからだよ。それに、あいつが実際には何を求めているかなんて、当時の俺たちには分からなかったからな。お前が現れてからだよ、アランがあそこまで貪欲に、自分から欲しいものに手を伸ばすようになったのは」

 ありがとな、と言った声が微かに震えたような気がして、希佐はバージルの顔を覗き込む。しかし、バージルはそれを嫌がるように顔を逸らすと、バイクを押しながら歩き出した。

「アタルとダンテは先に行かせた。リオも合流するらしい。早く行ってやらないと、三人をスタジオの外で待たせることになるぞ」

「風邪を引いたら大変だね」

 車道に出たバイクの座席に、バージルが腰を据える。希佐がそれに続いて後部座席に乗り込むと、バージルはエンジンをかけた。

「俺の唯一の弟子の才能がどんなもんか、連中に見せてやれよ」

「バージルからそんなふうに言ってもらえる日が来るなんて、三年前には想像したこともなかったな」

「まあ、あの頃は初心者に毛が生えた程度のレベルだったからな」ふん、とバージルは鼻で笑う。「お前は俺が手塩にかけて育てたタップダンサーだ。それでも連中に引けを取るようじゃ、まだまだ修行が足りねぇんだろうよ」

「師匠に恥をかかせないためにも、精一杯頑張ります」

「おう」

 希佐はバージルが誰よりも相手の意見を尊重してくれる人物だということを知っている。相手が嫌がることは絶対にさせない。助けを求めれば、いつだってそれに応じてくれる、優しく、思いやりのある人だ。だから、本当はずっと待っていたのだろう。アランから、助けてほしい、手を貸して欲しいと、そう言われる瞬間を。

 バージルは希佐の両腕が自分の腰に回されているのを確認すると、エンジンを一度大きく吹かしてから、ゆっくりとバイクを発進させた。希佐を気遣うように、少しずつスピードを上げていく。

「バージルもアランが大好きなんだね」

 信号で止まる間際に希佐がそう漏らすと、バージルは地面に片足をつきながら、肩越しに後ろを振り返った。

「ん? 今何か言ったか?」

「ううん、何も」

「走ってる最中にあんまり喋るなよ。急ブレーキ踏んだら舌噛むぞ」

「うん」

「お前乗せてるときに事故なんて起こしたら事だからな」

「私を乗せていないときでも安全運転でね」

「そう心掛けてるよ」

 信号が青に変わる。走り出す寸前、バージルはいつも自らの腰に回された希佐の手をとんとんと叩いてから、バイクを発進させた。今日も同じように、バージルの手が希佐の手の甲を軽く叩く。

 一月末、夜のロンドンの風は刺すように冷たい。見上げた空の雲間からは、僅かに欠けた月が、下界を銀色に照らし出していた。

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