幸いなことに、希佐とバージルがスタジオに到着しても、そこにはまだ加斎とダンテの姿はなかった。ダンスの稽古をしていたイライアスも、既に帰宅をした後らしい。バージルが歩道にとめたバイクにロックを掛けている間に、急いで扉の鍵を開けた希佐は、スタジオの中に入って電気と暖房をつける。
「上に行って着替えてくるから、二人が来たら中に入れてあげてね」
「おう」
自分の部屋で稽古着に着替えた希佐は、良く手入れされているタップシューズを手に取ると、それを抱えてスタジオに戻った。すると、ちょうど加斎とダンテも到着したところだったらしく、バージルが扉の前に立って二人を出迎えている背中が見える。
店が閉まる前に買い出しをしてきたという二人の手には、飲み物やちょっとしたスナックが詰め込まれたバッグが提げられていた。
軽くストレッチをはじめた希佐を横目に見ながら、二人はスタジオの隅に荷物をまとめて置き、稽古着の上に着ていたらしいコートを脱ぐ。加斎はもう何度も足を運んでいるが、ここにやって来るのが初めてのダンテは、靴を履き替えながら辺りを物珍しそうに眺めていた。
「ダンテくんも海外で舞台のお仕事をしているの?」
日本語で話すとバージルが困るだろうと思い、希佐はそう英語で問いかけた。すると、ダンテはユニヴェールにいた頃よりもずっと大人びた面差しを希佐に向けた。
「舞台の仕事もしていますが、モデルの仕事の方が多いですね。去年はパリコレでいくつかのショーにも参加しましたよ」
「うわ、すごいね」
「ようやく世界がエキゾチックでミステリアスな僕の魅力に気づいたのでしょうね」
「ダンテくんはユニヴェールにいた頃からずっと魅力的だったよ」希佐がそのように言うと、ダンテは感慨深そうにため息を漏らしながら、自らの胸を押さえた。「加斎くんに声をかけてもらって、すぐにオーディションの参加を決めたの?」
「アタルに誘われてブロードウェイの公演を観に行ったときに、これは素晴らしい舞台だと思いました。カンパニーに加われるチャンスがあれば、それを逃す手はありません。別のスケジュールでぎゅうぎゅうでしたが、全部キャンセルして、ロンドンに飛んできました」
「本当、無謀だよね」
「また僕と一緒の舞台に立てて嬉しいくせに、アタルは相変わらず素直じゃありませんね」
「嬉しがってるのはダンテの方だろ」
ああだこうだと言い争っている二人を見て、希佐は思わずバージルと顔を見合わせる。バージルは小さく肩をすくめると、事務室の方にある長テーブルへと歩いていった。その上に荷物を置き、バッグの中から取り出した靴を、パイプ椅子に腰を下ろして履き替えている。
「私には二人とも同じくらい嬉しそうに見えるよ」希佐がそう言うと、加斎とダンテは口を噤んで、こちらを見た。「そういえば、スペンサーさんがあとで迎えに来るって」
「あの人って意外とお節介なんだよなぁ」
「本番前だから心配してくれてるんだよ」
「俺たちが怪我でもして自分の舞台を台無しにされたくないだろうからね」加斎の物言いを聞いて希佐は一瞬返答に困るが、バージルが噴き出す声を聞いて、思わずそちらに目を向けた。「スペンサーって演出家や振付師としては一流だと思うけど、ときどき人間性を疑いたくなるようなことを言い出すんだ」
「あいつに関してはその認識で大正解だよ。まあ、この世界は俺も含め、人格の歪んだ連中が大勢いるから、付き合う相手はよーく選んで決めることだ」
バージルは以前、スペンサー・ロローはビジネスパートナーとしては申し分ないが、友人にはしたくないタイプだと話していた。
希佐から見たスペンサーは、多少強引な部分があることは否定できないものの、自分の感情に寄り添おうと努力をしてくれる人という認識だった。良い人かどうかは判断基準にもよるが、悪い人ではないと、希佐は思っている。
希佐がストレッチをしている間、加斎とダンテはバージルからダンスの指導を受けていた。
意外かもしれないが、バージルはイライアス以上に感覚で踊るダンサーだ。振り付けをするときも、まるで天から降ってきた啓示をそのまま体現するかのように、あっという間に完成させてしまう。振り付けそのものよりも、ダンスをより魅力的に見えるよう仕立てなおしていく作業の方に、長く時間を割いている印象が強かった。
だが、イライアスが振り付けるダンスはいつも、踊る人物のレベルと擦り合わせて考えられている。限界ギリギリのところまで無理をさせることはあっても、不可能な要求をすることは滅多にない。無理だと思えば、すぐに振り付けを変更する臨機応変さも持ち合わせている。
バージルとの大きな違いはそこだろう。イライアスが相手に合わせた振り付けをするのに対し、バージルは自らの振り付けを踊れるようになるまでレベルを引き上げさせるのだ。その完成形こそが最も美しいと信じて疑わないので、振り付けられたダンスが相手のレベルに合わせて変更されることは、ほとんどない。
しかしながら、そうしたバージルの無理難題に、いついかなるときでも食らいついてきたからこそ、希佐は短期間でめきめきとタップダンスの腕を上げていったのだろう。タップダンス界の至宝とさえ称されているダンサーから、直接教えを乞うことのできる特権を有しているという事実は、あまりに贅沢だった。
希佐がストレッチを終えて立ち上がると、二人を指導していたバージルがこちらを振り返る。ストレッチをしている間中、三人が踊る様子を観察していた希佐が軽くステップを踏むと、それを見た加斎とダンテが顔を見合わせていた。
「よし、キサ。頭から踊ってやるから、ちゃんと見てろよ」
「うん」
「アタル、音出してくれ」
「了解」
バージルはあまりに簡単そうに、軽々と難しいステップを踏む。見ている者に、もしかしたら自分にも同じダンスが踊れるのではないかと、そう勘違いをさせる。だが、タップダンスを踊る人間にしてみれば、次々と繰り出される技の多さには眩暈を覚えるほどだった。
以前、オーディション期間中にバージルの家で世話になっていたとき、この舞台の群舞で踊られるタップダンスを教えてもらったことがあった。だが、今回のダンスは、その何倍も難易度が高いように感じられる。
これは確かに難しいと希佐は思う。だが、ダンスの振り付けが難しければ難しいほど、この負けず嫌いに火がつくのだ。
希佐は大きな目を皿のようにして、五分弱のダンスをじっと見つめていた。一曲踊り終えたバージルは息一つ乱さないまま、後ろから見ていた希佐を振り返る。
「ま、こんなもんだ」
「うん、大体分かった」
希佐がそう言って頷くと、加斎が思わずというふうに「は?」と声を上げた。隣にいたダンテは「アタル」と声をかけ、静かにしろと言うように唇に指を立てていた。
「少しアイリッシュっぽいね」
「せっかくのロンドン公演だ、お隣の国の文化を取り入れてみたら、結構面白くなるんじゃねぇかと思ってな。だから、スペンサーに頼んで音楽にもアイリッシュっぽさを加えてもらったんだ」
これは、タップダンスとアイリッシュダンスの良さを取り入れた、バージルが得意とする振り付けの一つだ。
希佐は隣で踊ってくれるバージルに合わせ、通常よりゆっくりとしたペースでタップを踏んだ。頭で考えるよりも、体に覚えさせてしまった方が早い。こうして少しずつ振り付けを体に叩き込んでいく。
三十分と掛からず一通りの振りを入れてしまった希佐を見て、加斎は唖然としたような、どこか悔しげな表情を浮かべていた。一方、ダンテは両手を打ち鳴らし、褒め称えるように拍手をしてくれている。
「ちぇ、俺なんて振り入れに丸一日掛かったのに」
「今は公演期間中でもなんでもないし、頭の中が空っぽの状態だから、振りが入りやすいだけだと思うよ」
それから、主役を演じるリオがスタジオに現れ、稽古に合流することになった。ここにやって来る寸前まで、アンサンブルの人たちと群舞の稽古を行なっていたのだという。疲れが見えはじめていたので、怪我をする前に解散し、こちらにやって来たのだと言った。
「これでようやく約束が果たされるな」コートを脱ぎ、靴を履き替えながら、リオが希佐を見る。「君と俺とアタルで、どこかのスタジオを借りて一緒に合わせてみるって話」
「そうですね」
「まあ、俺が考えていたのは、もっとプライベートな感じだったんだけど」よっ、と言ってその場に立ち上がったリオは、靴の締め付けを確かめるように、その場で軽くステップを踏んだ。「それにしても、日本のユニヴェールって実はすごいところだよな。君やアタルが特別なのかと思ってたけど、後進組のダンテ、あいつも人並み以上にヤバい。劇場で通し稽古してて思ったんだけど、シュッとしてて立ち居振る舞いも綺麗だから、舞台上で異常に目立つんだ」
「お褒めに預かり光栄ですよ、リオ」二人の話を聞いていたらしいダンテが、少し離れた場所から嬉しそうな顔をこちらに向けた。「主役より目立つことがないように善処しますね」
「おっ、言うじゃん」
こういう男子校のようなノリを見ていると、否応なしにユニヴェールでの日々を思い出す。少し前の自分なら、思わず目を背けてしまっていたのかもしれないと、希佐は思った。でも、すべてを曝け出すと覚悟を決めた今は、大切な過去の思い出として、穏やかな気持ちで思い出すことができるような気がした。
「今、リオが踊るソロダンスのパートを、バージルに見せてもらっていたところだったんです」
「ああ、あの殺人的な新しい振り付け──」リオは、ははは、と乾いた笑い声を上げる。「あれ、何日か前にやっと完璧に踊れるようになったんだよ。マジで焦った。間に合わないかと思った」
「主役ならあれくらい踊れて当然だろうが」
「あのな、俺はまだタップダンス歴三年にも満たないんだぞ。前のダンスだって変則的すぎて体に馴染むまでに時間が掛かったってのに」
「『二月からの再演では群舞とソロパートの振り付けが改められるので、劇場に足を運んでくださるお客様方には、是非とも楽しみにしていただければと思います』とかなんとか言ってたよなぁ」
「あのな、他にどう言えっていうんだよ。それに、そうでも言わないと、自分に発破を掛けられないだろ。ったく、俺のインタビューまでチェックしやがって、もしかして暇なのか?」
「俺も暇だって言えりゃいいんだけどな。ありがたいことに向こう半年は食いっぱぐれずにすみそうだ」
「振付師の仕事ばっかり引き受けてないで、自分でも舞台に立ったらどうなんだよ。そういうオファーだって来てるんだろ?」
「今はそういう話に興味がないんだ」
「もったいない」リオはじっとりとした目でバージルを見た。「そんなこと言ってると、あっという間にジジイになるんだからな」
「俺はもう立派なジジイなんだよ。若い連中には、もっとこの老体を労ってもらいてぇもんだな」
腹立つなぁと漏らしながらも、リオはバージルに構ってもらえることが嬉しくて仕方ないようだ。
リオは、三年前に希佐が初めて出演した劇団カオスの舞台『God Only Knows』を観てからタップダンスをはじめたのだと、そう話してくれたことがあった。自分がタップダンスをはじめるきっかけとなった舞台の振付師と仕事をできるというのは、きっと、この上なく喜ばしいことなのだろう。
「よーし、無駄話はここまでだ」こつこつこつ、とシューズで床を鳴らしながら、バージルが言った。「リオも合流したことだし、早速合わせてみるぞ。テンポはこのくらいで。キサ、大丈夫そうか?」
「うん」
「誰も一発目から合わせられるとは思ってねぇから、まあ、適当にな。お前らはビシッと合わせろよ」
バージルの足裏が打ち鳴らすリズムに合わせながら、四人は横並びになってタップを踏む。希佐は実際のテンポよりも遅いそのリズムに合わせて踊り、鏡越しに三人の様子を観察していた。
足並みが揃わないと嘆いていたが、そんなことはない。冒頭から中盤にかけては一糸乱れぬ動きで、タップ音もぴたりと合わせている。
いつもバージルと二人だけで踊っていた希佐にとっては、四人のステップが完全に合致し、タップ音が一切バラけることなく一つの音にハマって聞こえるだけで、全身に鳥肌が立つほどの爽快感を覚えていた。
だからこそ、音がバラけたその瞬間に感じる不和は、より一層の不快感を覚えてしまう。踊っている自分自身がそう感じるのであれば、観客はその瞬間、現実に引き戻されて舞台を楽しむどころではない。
「ごめん、ずれたの私だった?」
最後まで踊り切ったあと、希佐がそう切り出すと、前に立って見ていたバージルが「いや」と首を横に振った。
「全体的にバラけてた」
この少人数で合わないのは問題だと思いながら、隣の三人を横目に見やると、何とも言えない不穏な空気が漂いはじめているのを感じて、希佐はどうしたものかと思う。バージルも同じように思っているのか、腰に手を当て、足元に目を向けたまま、何かを考え込んでいる様子だ。
希佐は小さくうーんと唸りながら、鏡越しに三人の姿を眺める。
全員振り入れは完璧で、ステップもきちんと揃っているように見えた。ただ、タップ音だけが揃わない。その後、何度繰り返しても、同じポイントで音がバラバラと不揃いに鳴った。
「あ」
思わずというふうにそう声を漏らすと、全員の視線が一気に希佐に集まる。
「どうした」
「え? あ、うん」
希佐には思い当たる節があった。『God Only Knows』でタップダンスを踊ることが決まり、振り入れを終えてバージルと二人で合わせるという段階にまでなったとき、どうしても足並みが揃わずに途方に暮れたことがあった。同じように踊っているのに、なぜか音がずれてしまうのだ。原因は間違いなく自分にある。だが、その原因が分からない。そして、何度も何度も繰り返していくうちに、ふと思った。
希佐とバージルには体格差がある。身長の差だ。パートナーとの身長差は重要で、その差が開けば開くほど、合わせるのが困難になり、見た目もアンバランスになる。
イライアスとの身長差は九センチ、これは希佐の理想に近い。だが、バージルとの身長差は十三センチで、少し離れすぎている。ヒールのあるシューズを履けばその間は埋められるが、当時男役を演じていた希佐には、そうすることができなかった。
そこでどうしたかといえば、その身長差分の高さの調節を、自らの体を使って行った。着地のタイミングを僅かに変える程度の、本当に些細な差だ。バックに流れている音楽によく耳を傾け、隣で踊るバージルの癖を注意深く観察し、その瞬間にぴたりと当てる。案の定、たったそれだけのことで、すべての問題が解決した。
おそらく、加斎が新旧メンバーで息が合わないと言っていたのも、互いの癖を理解しきれていないからなのだろう。
「ダンテくん」
「はい、なんでしょう」
「ちょっと最初から一緒に踊ってみてくれないかな」
「ええ、もちろん」
自分の考えが正しければ、これで足並みが揃うはずだ──希佐は向かい合わせになって踊ることを提案し、加斎が出してくれた音に合わせて一曲を踊り切った。問題となっているポイントに差し掛かったその瞬間、ジャンプすると同時に膝を少しだけ引き上げ、着地のタイミングを合わせる。
「今の、ぴったりだったね」
振り付けは完璧に仕上がっている。ただ少しだけ、コンマ数秒の単位で着地のタイミングがずれてしまうと、タップ音が乱れて聞こえてしまうのだ。踊る相手にダンテを選んだのも、他の二人よりも身長差がある分、タイミングを測りやすいと思ったからだった。
「バージルと二人で踊っているときは、自然とそれができてしまっていたから、すぐには気づけなかったんだ。他の人と踊るといろいろ勉強になっていいね」
一通りのことを説明し、問題のポイントを中心に合わせてみること数回、当初覚えていた不快感はパッと消え去り、あとには爽快感だけが残る。一緒に稽古をしようと誘った手前、問題が解決しなかったらどうしようかと思っていた希佐だったが、どうにか糸口が見つかりそうだと、ほっと安堵の息を吐いた。
『立花って、ユニヴェールにいた頃からそうだったよな』
少し離れたところで、リオがバージルからソロダンスの稽古をつけてもらっている様子を眺めながら、加斎が日本語で声をかけてきた。
『え、何が?』
『周りの人たちが困っていると、放ってはおけないんだ。いつもクォーツのために奔走してたことは、俺でも知ってるくらいだし』
『キサはいつだって周りがよく見えている子でしたからね』
『そうかな』希佐は苦笑いを浮かべながら、でも、と続ける。『ユニヴェールにいた人たちは、周りがよく見えている人ばかりだったと思うよ。私自身、たくさんの人に迷惑をかけて、守られながら過ごしてきたから、それがよく分かるんだ』
『立花が女だと気づいていて』以前だったら、その言葉に体が硬直していたかもしれない。だが今は、すんなり受け止めることができる。『それでも、その秘密を今まで黙って抱えてきた人たちはみんな、君のことを好きなんだ。君が特別ってわけじゃない。同じ場所を目指して切磋琢磨している仲間として、君を尊敬してた。男だとか、女だとか、そんなことは気にならないくらい、俺は君に憧れてたし、君に夢中だったよ』
『加斎くん……』
『ユニヴェール時代はどうしたら君を俺のパートナーにできるか必死で考えていたけど、今は、どうしたら君と同じ舞台に立てるかを考えてる。俺たちの役者人生はまだまだ続いていくんだし、いつかお互いの道が交わり合う日が来るんじゃないかって、希望を持ってるんだ』
残念だけど、そんな未来は訪れないかもしれない、とは言えなかった。ただ曖昧に笑って、肯定も、否定もしない。希佐自身も望みを捨てたいわけではなかった。この道の先にある未来がどうなるのかは、まだ誰にも分からないのだから。
「おい、キサ」
三人でユニヴェール時代を振り返りながら、取り止めのない話を続けていると、不意にバージルが声をかけてきた。二人に断りを入れてからバージルのところまで歩いていくと、その傍らには、息を乱しているリオの姿がある。
「なに?」
「さっき見せたソロダンス、頭に入ってるか?」
「あー、うん、大丈夫だと思う」
「マジかよ……」
「踊ってみようか?」
「ああ、頼む。別のやつのダンスで頭の中をリセットしたいんだ」
ソロダンスは、リオの役柄に合わせた振り付けになっていて、豪快でありながらも繊細、至るところに散りばめられた遊び心が、見ているものを飽きさせない仕上がりなっている。
だが、このソロダンスは、以前までの公演には存在しないものだった。長い公演期間を経てタップダンスの上達が著しいリオを、もう一段階上のステージまで引き上げてやるために、スペンサー・ロローからスペシャルなソロダンスを用意してくれと、バージルはそう頼まれたのだという。
この振り付けは確かに特別だ。『God Only Knows』のラストで踊ったダンスと同等か、それ以上に難易度が高い。
でも、踊れる──希佐は、その事実に、我ながら驚いていた。
この約1ヶ月の間続けてきたルイとの基礎的な稽古が生きているのか、体幹が今まで以上に安定し、一切軸がぶれなかった。自らの体を痛めつけるように踊っていた日々は、体が重たく、やっとの思いで動かしているような感覚があった。それなのに、ろくに体も動かせなかったこの一週間を経て、体はこんなにも軽く、自由に動く。
ああ、楽しい。楽しい。楽しい。
途中、まるっと、すっぽり振り付けが飛んでしまったが、希佐は最後まで夢中で踊り続けた。音楽がとまらないかぎり、踊ることをやめない。アドリブで舞い、踊る。こんなに気持ちの良いことを、やめられるはずがない。
結局、ソロダンスから群舞の流れを最後まで踊り終えた希佐は、息を乱しながら隣に立つバージルに目を向けた。すると、バージルは、にっ、と嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、希佐の肩を抱え込んで頭をぐりぐりと撫でる。
「よーしよしよし、さすがは俺の弟子だ。お前ってやつは、相変わらず期待を裏切らねぇな、まったくよ」
「ちょっとバージル、髪が絡まるって」
「見ろよ、あの演出家先生の顔」希佐はそう言われて初めて、アランとスペンサーが、スタジオの扉付近でこちらを見ていたことに気づいた。「顰めっ面じゃねぇか」
バージルは他人事のようにくつくつと笑いながら言う。
いつの間にやって来ていたのだろう、希佐はそう思いながら、悪戯が見つかってしまった子供のように視線を彷徨わせながら、バージルの影に体の半分を隠した。
「すみません、スペンサーさん。バージルの振り付けがあまりに格好良かったので、つい踊りたくなってしまって」
「ああ、いや、違うんだよ。さっきコンタクトを落としてしまってね、こんな顔でもしないとよく見えなかったんだ。別に睨んでいたわけじゃない」
こんな日に限って眼鏡を忘れてくるなんてと漏らしながら、スペンサーは悔しそうにしている。怒られるわけではなさそうだとバージルの影から抜け出した希佐は、どこか疲れた様子でマフラーを外し、ため息を吐いているアランに目を向けた。
人前に立って表現することを何年も避けて来た人が、馴染みのパブとはいえ、ステージに立って歌ったのだ。それは疲れもするだろう。希佐がそう思いながら見つめていると、その視線に気づいたアランがこちらを見る。
「なに」
「ううん」やはり、全然見慣れない。「なんでもない」
希佐のすぐ隣では、リオが「嘘だろ」と呟きながら、膝に手をついて項垂れていた。
「俺の三週間が……」
「格の違いってやつだな」
はっはっは、と意地悪に笑うバージルを軽く睨んで黙らせ、希佐は慌ててリオの肩に手を乗せた。
「私は覚えが早いだけで、ダンスの出来としてはまだまだですよ。ほら、途中も振りがすっぽり抜けてしまって、なんとかアドリブで繋げてごまかしてしまいましたし」
「いやさ、何って、そのアドリブがヤバかったんだって」リオは伏せていた顔を上げると、苦々しい面持ちのまま希佐を見据えた。「君がアドリブで踊ったステップ、俺がどうしてもできなくて、バージルに匙を投げられたやつ」
「え、どこですか?」
「こう、真上に跳び上がって、蹴り上げた足を──」
こつ、とタップ音と呼ぶにはあまりにも心許ない音を鳴らし、リオはその場に着地する。実際には、垂直に跳び上がり、蹴り上げた足の裏同士を空中で数度叩く、難易度の高い技だ。希佐も最初は、どのように音を鳴らしているのか、まったく理解することができなかった。
「前よりは良い感じに出来てるから、あともう一歩ってところだな。百発百中で出来るようになったら、あのステップに戻していいぞ」
「クソ、その顔腹立つ……」
「悔しかったらもっと体を鍛えて筋肉をつけろ。お前のダンスは確かに光ってるし、同世代の中では頭一つ抜きん出てるのかもしれねぇが、お前自身がお前の才能に助けられている部分が大きいんだよ」
「は?」
「今までは何やっても簡単に踊れてたんだろうけどな、もっと上を目指したいなら、苦手なことから目を逸らすのはやめにすることだ。今からでも体を鍛え直せ。長く舞台に立ち続けたければ、基礎的な稽古に重点を置くんだ。今みたいな踊り方を続けていたら、十年もしないうちにガタが来る。膝に爆弾抱えて、痛み止め飲みながら踊り続けるなんて、地獄以外の何物でもないぞ」
まるで、バージル自身にそうした経験があるとでもいうふうな口振りに、リオは何も言い返すことができない様子だった。
「まあ、お前が稽古に付き合ってやることで、アンサンブルの連中の士気が上がるってのは確かにある。でも、限界が来る前に休めよ。本番はこれからなんだ、あんまり無茶をするな。自分の教え子が怪我に苦しむ姿を見るっていうのは、気分がいいもんじゃねぇからな」
「……自己管理はしてる、ただ少し疲れが溜まってるだけで」
「だとさ、演出家先生」バージルはそう言うと、二人の話を黙って聞いていたスペンサーを見やった。「プレビューでボロクソに言われる前に、明日は休ませてやった方が良さそうだな」
「どうやらそのようだね」
「仕方がねぇから、時間を見つけて様子を見に行ってやる」
前に、イライアスが言っていた。才能のある人間は、自らの才能を過信してしまうことがあるのだと。何をしてもそつなくこなせてしまうが故に、いつの間にかそれが当然であるかのような錯覚を起こし、努力の方向を見誤ってしまう。基礎的な訓練などしなくとも、若いうちは体が動くので、難しい動きでも押し通してしまえるのだ。だが、結局は無理をしていることに変わりはなく、少しずつ疲労は蓄積されていき、最後にはそのツケを払うことになるのだ、と。
「今日は疲れてるなとか、調子が悪いなと思ったら、無理をしないで休んでいいんだよ。無理を押した挙げ句に怪我でもしたら、一日二日の休みでは済まなくなる。僕は学生時代にそれをして痛い目を見たから、キサにはそんなふうになってほしくない」
アランが姿を見せなかった間も、狂ったように踊り続けていた希佐の体を誰よりも心配してくれていたのが、イライアスだった。
舞台に立って踊ることに生のすべてを捧げているように感じられるイライアスは、他の誰よりも多くの時間を割いて自分自身と向き合い、肉体作りに励んでいる。徹底した食事管理と毎日のルーティン。誰にでも真似のできることではないが、それをできる人間が、いつまでも舞台の第一線で活躍できる人なのだろうと、希佐は思っていた。
公演前、劇場での通し稽古が行われている段階にあって、それでも見せ場のダンスが完成していないという状況は、主演を務めるリオにとっては大きな不安要素だろう。ここへ来る前もアンサンブルに付き合って稽古をしていたと話していたので、その分の疲れも蓄積しているはずだ。
バージルはリオの焦りと疲労度合いを察し、あえて忠告するようなことを言ったに違いない。スペンサーにも釘を刺す、という意味合いもあったのかもしれないが。
そのとき、アランが全員の前を素通りし、事務室に向かおうとするのを、加斎が引き止めていた。足を止めて振り返るアランの下に駆け寄った加斎は、ダンテのことを紹介している。
「ああ、そうだ」その様子を希佐が見ていると、スペンサーが不意に声をかけてきた。「キサも明後日のプレビューを観に来ないかい?」
「プレビューですか?」
「来るならバージルの隣を開けておくよ。因みに、アランは来られないそうだ。失踪している間の仕事が山積みだとかでね、観劇している暇もないらしい」
「それはあいつの自業自得だろ」バージルはそう言って肩をすくめてから、希佐を見た。「行くなら迎えに来るけど、どうする?」
バージルと二人でスペンサーの舞台を観に行くことには、一つも良い思い出がなく、希佐は思わず逡巡してしまう。どうしたものかとアランの背中に目を向けてみるが、相談をしてみたところで、好きにすればいいと言われるに決まっていた。
「商業の舞台に対するマスコミの空気感を肌で感じるためにも、一度足を運んでみた方がいいとは思うよ」
「……そうですね」希佐はアランの背中から視線を戻し、小さく頷いた。「バージルと一緒に伺います」
「では、そのように手配をしておこう」
スペンサーはその後、アランに軽く声をかけると、外にタクシーを待たせているからと言って、もっと稽古をしたいという加斎たちを引き連れてスタジオを出ていった。
「君たちならそう言うだろうと思ったから、こうしてわざわざ迎えに来たんだよ。まったく、稽古熱心なのは感心するが、うちの子供たちは限度というものを知らなくて困る」
加斎たちが姿を消すと、スタジオ内は急にがらんどうとして、ひっそりと静まり返った。嵐のように去っていった若者たちを見送り、大きくため息を吐いたアランは今度こそ、事務室に向かって歩いていく。バージルはその背中を眺めて苦笑いを見せた後、帰り支度をはじめた。
「お前もほどほどのところで切り上げろよ、キサ」
「あ、うん」希佐は長テーブルの方に向かうバージルの後ろを追いかけた。「明後日は何時頃に迎えに来てくれるの?」
「プレビューは午後五時半からだからな、バイクで行くかタクシーで行くかにもよるが、四時くらいには迎えに来る」
「パンツスーツを着て行くから、私はバイクでも大丈夫だよ。道路が混む時間帯でしょ?」
「じゃあ、そうするか」
「うん」
バージルは普段から気分の浮き沈みが少ない方で、周囲の雰囲気に自身の機嫌が左右されることはほどんどない。だが今日は、酷く機嫌が良さそうで、まるで鼻歌でも歌い出すのではないかと思うほどの、穏やかな空気感を辺りに漂わせていた。
「アランと話していかなくていいの?」
希佐がそう問うと、バージルは椅子に座って靴を履き替えながら、こちらを見上げた。
「話、ねぇ」ブーツに足を押し込み、紐を編み上げながら、バージルは言う。「これといって話したいことはねぇな。言いたいことは全部伝えたし、あいつだって俺なんかにつべこべ言われたくねぇだろ」
「そうかな」
「そうなんだよ」何か物言いたげな眼差しを向けながら、バージルは椅子から立ち上がる。「それに、会話が必要なのはお前たちの方なんじゃねぇのか?」
「え?」
「お前は自分があいつのしたことに対してとやかく言う権利はないって思ってるのかもしれねぇけど、俺は怒鳴りつけるくらいのことをしても構わないと思うけどな」
「それは……」
「お前の過去と、今回のこととは何の関係もない。キサ自身が自分の過去に対して罪の意識を持っているのだとしても、その過去と目の前にいる男との間には、何の因果関係もないんだ。それに、過去の自分と今の自分を繋ぎ合わせて考えるなんて、あまりにも無意味だろ。五年経って、きっとお前は変わったんだ。ここで初めて顔を合わせた三年前よりもずっと強い、良い女になった。それは間違いない」
本当に変わることができたのか、希佐自身にはまだ、よく分からない。最後のユニヴェール公演を終え、後先考えることなく日本を逃げ出してきたあの日から五年が経った今も、心の中にはあの頃と何一つ変わっていない自分がいる。でも、その自分がいたからこそ、こうして舞台を諦めることなく生きてこられたような気もしていた。
人は変わりたくないと願っても、周りを取り囲む人々や、時の流れと共に変わりゆく生き物だ。だが、変わろうとしても、変われないことはある。変わろうとする自分を、無理に変える必要はないと言ってくれる人もいる。
それでも、もし変わることができているのだとしたら、良い方向に変わっていたいと希佐は思った。五年前の自分に恥じない自分でいたいと思うのだ。日本を飛び出し、新しい土地での生活を経て、少しはましな人間になることができたと、そう胸を張って言えるようになりたい。
それ以上は多くを語らず、バージルは希佐の肩をとんとんと軽く叩くと、荷物を背負ってスタジオを出ていった。閑静な住宅街に響いたエンジン音は、すぐに遠ざかって聞こえなくなる。
希佐は僅かに開いた扉の隙間から、事務室の中を覗き込んだ。アランはコートも脱がないままPCの前に腰を下ろし、自分がここにいない間に届いたメールのチェックと、返信作業を行っているようだった。それはこの三年間、毎日のように見続けていた背中だというのに、今は妙に現実味を帯びない。この二ヶ月間は、一緒に過ごした時間の方が短く、以前よりも少しだけ遠い存在に感じられている。
髪を短く切り、すっきりとした服を着て、ジャケットを羽織っただけなのに──希佐はそう思うと、開いたままになっていた扉をそっと閉じ、再びスタジオの中央に戻った。
久しぶりに踊ったタップダンスはやはり面白く、興味深いものだった。踊る者の個性が音に現れ、同じステップを踏んでいるのに、まったく違った雰囲気が作り上げられていく様は、見聞きしていて飽きることがない。
日本を出て五年、ここへ来て三年──希佐は、鏡に映る自分の姿ををじっと眺める。
きっと、外見もそれなりに変わっているのだろう。自らを客観視してみるならば、髪は随分と長くなった。少年を演じていたあの頃に比べると、女性らしくなったようにも見える。あんなにも女になることを恐れていたというのに。
あの夢の三年間を超えてやって来たダブリン、そしてこのロンドンでの日々は、自らの演技に深みを与えるものになっているのだろうか。才能豊かなダンサーたちから学んだ踊りには、磨きがかかっているのだろうか。学んだ歌は、誰かの心に届いたのだろうか。
希佐は不意に思い立って、『God Only Knows』の終盤で披露したソロダンスを踊ってみる。バージルが振り付けてくれた最高のタップダンス。こうして踊っていると、初めて劇団カオスの一員として立った公演のことを、まるで昨日のことのように思い出すことができた。
数年ぶりの舞台。熱いくらいのスポットライト。突き刺すような観客の視線。割れんばかりの拍手と歓声。忘れかけていた感情。失いかけていた生き甲斐。思い出した呼吸。長らく耳にすることのなかった称賛の言葉。
周りの人々は、君には才能があると言ってくれる。君は天才なのだと。それはもうユニヴェール時代から嫌気が差すほど言われてきた言葉だった。当初は特別な響きを孕んでいたその言葉も、次第に陳腐に聞こえるようになり、最終的には言葉そのものの意味を信じられず、ありふれた褒め言葉のようにしか感じられなくなっていった。
天才は特別などではない。天才も努力の人なのだ。それを何も知らない誰かが、あの人は努力もせずに何でもできるなどと吹聴し、あらぬ誤解を生む。才能ある人間が、血の滲むような努力の末に手に入れられる天才という称号を、人はあまりに軽んじすぎていると、希佐は思っていた。
常人には決して手の届かない才能を得られる泉があるとしよう。その泉に全身を浸し、喉を潤せば、何でも欲しい才能が手に入れられるとしたら、人々は形振り構わず飛び込むのかもしれない。
だが、才能を得られる代償として、自らが最も大切にしているものが奪われるとしたら、どうだろうか。常人ならば、まず間違いなく躊躇いを見せるだろう。しかし、中には大切なものの一つや二つなら、代償として差し出しても構わないという者が現れるかもしれない。
それでも、才能を得られる代償として、一週間を残したそれ以外のお前の寿命を差し出せと言われれば、答えは違ってくる。才能を得たところで、残りの寿命が一週間しかないのなら、何の意味もないと、そう思うのだろう。
もし自分がその泉の前に立っていたならば、と希佐は考える。そして、深く考えるまでもなく、自分は何の躊躇いもなくその泉に飛び込むのだろうと、そう思った。
何も才能が欲しいわけではないのだ。天才と呼ばれたいのでもない。ただ、見てみたい。才能を得た者だけが見ることのできる世界というものを。その世界はどんな色に染まっているのか、どんな音楽を奏でているのか、どんな絶望で満たされているのか。ただ、知りたいだけなのだ。
それを知るためならば、たとえこの先一週間しか生きられないのだとしても、そうするだけの価値はあると希佐は思う。残された一週間で世界を魅了し、記憶を植え付け、華々しく散るように去っていく。
きっと、それは何よりも美しく、そして同時に浅ましく、醜い、最期なのだろう。
だが、そんな泉はこの世には存在しない。だからこそ、努力をするのだ。努力に努力を重ね、常人には見ることのできない世界を見渡すために、遥か彼方の高みを目指す。そうすることのできる者だけが、天才と呼ばれるべきなのだ。
だから希佐は、君は努力の天才だと言われることだけは、とても嬉しく思っていた。自分の尊敬する人たちがこの努力を認め、正当に評価してくれるだけで、この先も同じように生きていけると思うから。
でも、もしかしたら、最期の一週間に見る世界は、思っていたほど素晴らしいものではないかもしれない。なんだ、こんなものかと、落胆する可能性だって大いにある。それに、神秘の力を借りて才能を得たところで、そこに達成感などがあるわけもなく、ただ虚しいだけの一週間を過ごす羽目になるのかもしれないと、そうも思う。
「キサ」
不意に呼ばれ、振り返る。乱れた呼吸をそのままに、少し離れたところでこちらを見ているその人に目を留めて、眩しさに目を細めた。
アラン・ジンデルと対峙したときの自らの感情が、二ヶ月前の自分とはあまりに違うという事実を、受け止めなければならない。ただ穏やかで、幸せだった日々は幕を下ろし、次の幕へと進み出そうとしているのだ。
これまでと変わらず、アランのことを愛おしいと思う。だが、それと同じくらい、妬ましくもあった。羨ましいとも思うのだ。
でも、同じように羨ましがられていることを、希佐は知っている。妬ましく思われていることも。そして、何よりも愛おしいと、そう思ってくれていることも。
「……本当はね、すごく寂しかったんだ」もうずっと、ずっと昔から、生きているだけで寂しかった。「あなたが、私の心を満たしてくれていたんだって、分かったの」
立花継希の存在だけが、自分をこの世界に繋ぎ止めているのではないかと、そう錯覚することすらあった。だから、継希の失踪は、希佐のすべてを破綻させた。喪失をしった。ひとりぼっちの孤独を知り、どうにもならないのだという諦めを知った。
幼かった希佐は、いつも継希の後ろ追いかけ回し、何をするにも兄の真似をしたがった。それでも、ユニヴェールに行くことだけは真似をできないと、悔しい思いを抱えながら、クリスマス毎に贈られてくるぬいぐるみを強く抱き締めていた。あの日、家の近所にある神社で、ユニヴェール歌劇学校の校長、中座秋吏と出会うまでは。
希佐は、ユニヴェールに行けば継希を近くに感じられるだろうと信じていた。しかし、近づけば近づくほど、その存在は遠くなる。まるで影や煙を掴むような思いをするばかりで、伸ばした手の指先はいつだって宙を掻いた。立花継希はいつだってそこにいるのに、実際にはどこにもいない。
在学中、大伊達山に足を運ぶたびに、継希が今もまだこの山のどこかにいるような気がして、その姿を探し求めて彷徨い歩いたこともある。そんなこと、あるわけがないと分かっていたのに。
日本を遠く離れると同時に、微かにだが、確かに感じられていた継希との繋がりのようなものが、ぷつり、と途絶えてしまったような感覚があった。もしかしたら、そのか細い繋がりは、自分自身の手で断ち切ってしまったのかもしれないとも思う。自分自身も、兄と同じ失踪という道を辿ることで、その真意を知りたかったのかもしれない。最後の最後まで、兄の後ろを追いかけ回し、同じ景色を見てみたかったのだろう。
結果、希佐はあまりの孤独に耐えきれず、押し潰されそうになり、道ならぬ方向へと歩みを進めようとしていた。
何か目的があって日本を飛び出したわけではない。ユニヴェールから遠くへ逃げることだけが目的だった。だから、遠い異国の地で、自分は一体何のために生きているのかすら、希佐には分からなくなっていた。
そんなときに出会ったのが、ロバートとミゲルの親子だ。そして、孤独に打ちのめされ、心身ともに疲弊しきっていた希佐に居場所を与えてくれたのが、他ならぬアラン・ジンデルだった。
アランが与えてくれたものは、居場所だけではない。孤独に打ち震えていた心を、その才能で満たしてくれた。多くを語らない代わりに、この三年もの間、ずっと隣で寄り添ってくれていた。希佐はいつしか孤独を感じることも、寂しさを覚えることもなくなっていた。
心を許すことのできる気の置けない仲間と出会えたのも、このロンドンで心優しい人々と出会うことができたのも、かけがえのない経験を得ることができたのも、すべてアラン・ジンデルがその手を差し伸べ、共に歩いてきてくれたおかげなのだと思う。
「でも」希佐はそう言って僅かに口を窄めた。「今もまだ、少しだけ寂しい」
「どうして」
「どうしてだろうね」そう言って小さく笑うと、アランは希佐の方に向かって足を一歩踏み出した。「アランが知らない人みたいに見えるからかな」
「俺はなにも変わらない」
「変わってほしいと思ったことはないよ」
「知ってる」
希佐の目の前で足を止めたアランは、自分を見上げている琥珀色の目をじっと見つめていた。遮るもののなくなった緑の目の色はあまりにも鮮やかで、目の奥に潜んでいた怯えのような感情は、今や影を潜めていた。
「あなたはなにも変わっていない。ただ、私があなたのことを知ろうとしてこなかっただけ」すっと伸びてきた手が頬に添えられると、希佐は僅かに目を伏せた。「話に聞くだけでは人の本質は見えて来ないから、今日は実際にそれを目の当たりにして、あなたの才能を思い知らされた」
伏せられた顔を、頬に添えられた手がそっと持ち上げる。再び視線が交わると、アランは先の言葉を促すように、そのままゆっくりと瞬いた。
「悔しくなったんだ」
「うん」
「でも、それ以上に嬉しかった」
内に秘めていた感情を剥き出しにして、命を削り取るみたいに歌う姿は、まるで自分と同じようだと、そう思った。
こうして優しい眼差しに見つめられていると、自分は酷く愛されているのだと自覚する。その目を見つめ返し、やわらかな笑みを浮かべたそのとき、背中に回された両腕が希佐の体を力強く抱き寄せた。
「私、汗掻いてるよ、アラン」
「気にしない」
「私が気にするのに」
そう言いながらも、希佐はアランの背中に両手を回し、コートの生地がしわになるくらい強く、ぎゅっと握り締める。すると、アランは何も言わないまま、希佐の体をすっぽりと包み込むように抱き締め、首筋に顔を埋めた。
「C'est la première fois que je pense autant à quelqu’un.」希佐がそのように言うと、アランは微かに息を呑む。「こんなふうに誰かを思うのは、初めて」
他の誰かをこんなふうに思うことは、もう二度とないのだろうと希佐は思う。もしこの人と遠く離れるときがやってきて、別の誰かと出会い、恋に落ちるのだとしても、きっともう、こんなふうには誰かを思えない。
アランの指先が髪留めを解くと、たっぷりとした豊かな髪がすとんと落ちて、途端に二人は同じ香りに包まれた。アランの手の平が、後頭部からゆっくりと髪の中に差し込まれるのに合わせて、希佐は促されるようにして顔を上げる。
「Je t’aime.」焦げつきそうなほど熱い眼差しを向けながら、アランが言った。「I love you so much,Kisa」
「私も」希佐は短くなったアランの髪に触れながら、日本語で囁くように言う。『あなたを愛してる』
アランの指先が希佐の下唇をゆっくりと舐るようになぞった。その焦ったい感覚に、希佐は思わず目を伏せて、熱い吐息を漏らす。髪に触れていた指先で頬を撫で、首筋を辿り、手の平を胸元に滑らせたとき、アランは徐にその手を取った。そして、思わせぶりに手の甲に口づけをしたあと、希佐の手をそっと離す。
淡い期待を抱くも結局は何も起こらず、唖然としている顔を見下ろして、アランは少しだけ意地悪く笑うと、希佐の耳元に唇を寄せた。
「あとでパンケーキを焼くから、先にシャワーを浴びてきたら」
ちゅ、と音を立てて耳にキスをしてから、アランはその場で踵を返した。広い背中に向かって、少しだけ怒ったような声で名前を呼ぶと、アランは軽く受け流すように、肩越しにひらりと手を振った。