ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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Valentine ≪番外編≫

『バレンタインのカードを選ぶの、手伝って!』

 土曜日、毎朝のルーティンを終えてアランが用意してくれた朝食を口に運んでいると、見覚えのない番号から電話が掛かって来た。一緒に食卓についていたアランに一言断りを入れ、不思議に思いながら電話に出ると、開口一番にそう言う声が聞こえてきたのだ。

「……リジー?」

『うん!』

 電話を掛けてきたのは、先月世話になったピアノの工房の孫娘、エリザベスだった。

 あれから何度か工房に足を運んでいた希佐は、何かあったら連絡をくださいと言って連絡先を書いた紙を渡していたが、まさか、エリザベスが突然掛けてくるとは思いもしていなかった。

 エリザベスの元気な返事を聞きながら横目に見た時計の針は、まだ午前七時過ぎを指していた。

 希佐が詳しい話を聞き出したところ、エリザベスは毎年父親と祖父に、手作りのバレンタインカードを渡しているのだという。今年もそうしようと思っていたが、近所に住んでいる友達に雑貨屋で買ってきた綺麗なバレンタインのカードを見せられて、気が変わったのだそうだ。小さい頃から貯めてきたお小遣いでカードとチョコレートを買い、それを二人にプレゼントして驚かせたいのだと言った。

『ねえ、キサ、手伝ってくれる?』

 どうしたものかと考え、黙り込んでしまった希佐に向かって、エリザベスは電話口の向こう側から不安そうに声をかけてくる。

 もちろん、そういう理由があるのなら、希佐も手伝うことはやぶさかではない。だが、小さな女の子を親御さんの許可なく連れ回すというのは、問題があるように思えた。

「もちろん、私で良ければお手伝いするよ。でも、このことをお父さんは知っているの?」

『ううん、知らない』

「お父さん、リジーが突然家からいなくなったら、驚かないかな」

『……すごく驚いて、心配すると思う』

「今近くにお父さんはいる?」

『下でお仕事してるよ。今日のお昼頃に、お客さんに届けるピアノの調律があるからって、工房に降りていった』

「じゃあ、忙しいんだね」希佐が小さい声でうーんと唸ると、隣に座っていたアランがこちらに一瞥をくれた。「お祖父さんは?」

『グランパは、昨日からオーストリアに行ってるんだ。月曜日に帰ってくるって』

「えっ?」

『キサのピアノを直すのに必要な材料を買い付けに行ってるんだよ』

「そうだったんだ」希佐は自分を見ているアランを見上げながら、エリザベスに話し掛けた。「だったら、こうしようか。今日もそちらにお邪魔するから、私からお父さんに事情を説明して、二人でお出掛けできるようにお願いしてみる」

『でもでも、バレンタインのカードのことは内緒にしたいの』

「分かってるよ、その辺のことは私に任せて。カードのことは分からないようにお話しするから、安心してね。時間は──十時くらいでいいかな?」

『うん、大丈夫』

「じゃあ、その頃にお家まで迎えに行くから、とびきりのお洒落をして待っててね」

『わあ……』希佐の言葉を聞いて、思わずというふうに感嘆の息を漏らしたエリザベスは、嬉しそうにくすくすと笑った。『うん、お洒落して待ってる!』

 またあとでね、と言って電話を切った希佐は、スマートフォンの画面を上に向けてテーブルに置いた。日付と時刻、そして以前撮影した劇団カオスが勢揃いしている写真がしばらく表示されたあと、画面がぱっと暗くなった。

 しかし、画面が暗くなると同時に、再びスマートフォンを手に取ると、バージル宛に短いメッセージを送る。

「出掛けるの」

「うん」

「バージルとの約束は?」

「今メッセージを送ったところ」希佐がそう応じている間に、早速バージルからのメッセージが返ってくる。「友達を連れて行きたいって言ったら、どうぞって」

「友達?」

「そう、私の小さなお友達」

 バージルにthanksというメッセージ付きの犬のスタンプを送ってから、スマートフォンをテーブルに置くと、希佐は再び食事に手を伸ばした。

 分厚く切られたバゲットのフレンチトーストにはメイプルシロップがかけられ、その上に乗せられているバターが、熱でとろりととろけている。水分を抜いたヨーグルトにはベリーが添えられ、ほんの少しだけ蜂蜜がかけられていた。希佐はフレンチトーストに添えられているサラダを食べながら、隣に座っているアランを見上げた。

「今日もずっとお仕事?」

「午前中は仕事。午後からは大英図書館に行く」

「珍しいね」

「週末で混んでるだろうから本当は行きたくないんだけど、アイルランドの図書館にある蔵書をわざわざ送ってもらったから」

 ついでだからふらふらしてくると言うアランの横顔を見つめながら、希佐はふと思い立って口を開いた。

「大英図書館って、セント・パンクラスにあるんだった?」

「うん」

「私も行こうかな」希佐の言葉を聞いて、アランはこちらを見下ろしたかと思うと、僅かに目を丸くした。「いつもロンドン図書館を利用してたから、大英図書館には行ったことがないし。夕方からなら合流できると思うのだけれど」

「君がそうしたいなら」

「本当?」ふんわりと笑う希佐を見て、アランはゆっくりと目を細める。「じゃあ、用事が済んだら連絡するね」

「分かった」

 あの日、ヘスティアのステージに立って以降、アランの雰囲気がどこか和らいで感じられるようになっていた。以前は人の目を避けるように生活していたが、今はどこか吹っ切れた様子で、一人で外出する機会も増えてきている。

 後日、何の前触れもなくダイアナが大きなトランクを二台引きずってやって来たかと思うと、アランの部屋に突撃し、古い洋服をすべて処分して、クローゼットの中を一新していった。キッチンで執筆作業をしていたアランの顔面に請求書を突きつけ、希佐には今シーズンのサンプル品だと言って何着かの冬服と、試作品の春服を置いて、颯爽と帰っていったことは、比較的記憶に新しい。

 一月に比べれば僅かに暖かくなってはきているものの、まだまだ冬真っ盛りのロンドンだ、希佐はぴたりとしたパンツにオーバーサイズのニットを着て、その上からコートを羽織った。メイクはいつもより控えめにし、髪は一つに結い上げて、中座から誕生日に贈られてきたシンプルな簪で留めつける。修理から返ってきたばかりの編み上げのブーツを履き、革のバッグの中に必要なものを詰め込むと、両手が空くように背中に背負った。

「変じゃない?」

 鏡の前で全身を確認してから、それでももう一度確認するように、希佐は事務室で執筆作業をしていたアランの前でくるりと回る。

「いいんじゃないの」

「よかった」

 ポケットから取り出したスマートフォンの画面は、九時半を知らせている。これならタクシーを呼ばなくても十時には工房に到着するだろう。そう思っていると、不意に立ち上がったアランが、希佐の首にマフラーを巻いてくれた。アランの髪の色を思わせる、紅色のマフラーだ。

「これ、どうしたの?」

「クローゼットの中に紛れ込んでた」十中八九、ダイアナの仕業だろう。「俺には合わないから、キサが使って」

「いいの?」

「ん」

「ありがとう」

「気をつけて」

 アランはそう言って希佐の額にキスをすると、椅子に腰を下ろして執筆を再開させる。自分と話をしている間も、頭の中では物語を描き続けていたのだろう。脳内がどのように情報を処理しているのか、希佐には皆目見当がつかない。

「いってきます」希佐はそう言い、アランの頬に唇を寄せた。「あとで連絡するから」

 スペンサー・ロロー演出の舞台の再演は酷く好評で、満員御礼が連日続いているらしい。希佐とバージルが観劇したプレビューも大成功を収め、マスコミや評論家らの評価も好評のようだ。

 リオはバージルから匙を投げられたというソロダンスの振り付けを完璧に踊り切り、これでどうだと言わんばかりに、希佐たちが座っていたボックス席を指差してみせた。

 バージルは参ったと言わんばかりの面持ちで拍手を送っていたが、舞台を終えた役者たちの控え室に顔を出した際には、ちょっとしたダメ出しを行なって若者たちからの顰蹙を買っていた。もっと冷静に、という指摘を受けたあと、とりあえず褒めてほしいと言ったリオの頭を、バージルは仕方なさそうに笑いながら、わしわしと掻き撫でてやっていた。

 大きな舞台、日々入れ替わる観客の前で、毎日同じ公演内容を行う。小劇場の舞台では経験があるものの、器の大きな舞台では、そうした経験が皆無に近い。ユニヴェールにいた頃から、本番一発勝負が基本だった希佐にとって、それは言わば未知の世界だ。連日同じ芝居を演じ続ける根気と、そのプレッシャーに耐え得る精神力が自分にあるのかどうかも、今の希佐には分からない。でも、楽しそうにカンパニーの仲間たちと語らっている加斎やダンテの姿を見ていると、それを無性に羨ましく思う自分もいた。

 明日はもっと良いものを──頭の中に、かつての娘の台詞が蘇る。彼女がまだ自分の中に生きているのを感じる以上、きっと、最後まで諦めずにやり遂げられるのだろうと希佐は思う。そう信じたいのかもしれない。

 工房に到着した希佐は、赤いドアの前に立ち、いつものようにブザーを短く鳴らした。それからすぐ、取っ手を回して店内に足を踏み入れると、奥で作業をしていたらしいネイサンが店先に顔を覗かせる。

「これは、キサ」ネイサンは朗らかに笑うと、手にしていた工具をエプロンのポケットに入れた。「いらっしゃい」

「こんにちは、ネイサン」

「今日もピアノを?」

 あの日から数日が過ぎた頃、希佐はネイサンからピアノを譲るという連絡を受けていた。すぐさま前金を振り込んだ希佐は、ジョシュアのところでレッスンを受けた後に、ピアノを見によく足を運んでいたのだ。ベンジャミンには、とんだ物好きもいたものだと呆れられているが、希佐がピアノを見にやって来ることを、悪くは思っていないようだった。

「いえ、今日は一つ、ネイサンにお願いがあってお邪魔したんです」

「お願いですか?」

「お昼過ぎまで私がリジーをお預かりできないかと思いまして」前例がない希佐の申し出を聞いて、ネイサンは困惑の面持ちを浮かべている。「バージルが月に一、二度、子供たちに無償でタップダンスを教えているのですが、私も体が空いているときは、お手伝いに駆り出されているんです。その教室が今日行われるんですけれど、前にリジーがタップダンスに興味があると言っていたのを思い出して。ネイサンのお許しがもらえるのなら、彼女を連れて行ってあげたいのですが」

「ああ、そういうことでしたか」

「タップシューズは子供用のものを貸し出しています。場所は、ここから少し先にある社交ダンススタジオで、歩いて十分くらいのところです。もし心配でしたら、ご一緒に来ていただいても構いません」

「いいえ、あなたが一緒なら、心配することなんて一つもありませんよ。バージルが子供たちにタップダンスを教えているという話も、以前メレディスから聞いたことがあります」

「さっきバージルに確認をしたら、リジーを連れていっても構わないと言ってくれたので、あとはネイサンの了承を得るのと、リジー本人の意思を確認するだけ──」

「行く、行くよ! 絶対行く!」

 タタタッ、と階段を降りてきたエリザベスは、希佐がお洒落をしておいてねと言ったその言葉通り、とても可愛らしいワンピース姿で現れた。リジーは希佐の前に立つと、胸の前で祈るように両手を組み合わせ、父親のネイサンを上目遣いに見上げる。

「ね、ダディ、お願い。行ってもいいでしょ?」

「なるほど」

 既に出掛ける準備を終えてしまっている娘の姿を見たネイサンは、すべてを察したかのような面持ちでそう漏らしたかと思うと、エリザベスと視線を合わせるためにその場に膝をついた。

「キサに迷惑をかけないと約束をできるかい?」

「うん」

「もし何かが上手くいかなかったとしても、駄々をこねたり、癇癪を起こしたりしないね?」

「大丈夫」

「必ず三時までには帰って来ること」

「分かった」

「じゃあ、上に行ってコートと荷物を取っておいで」

「はーい!」エリザベスはそう元気よく返事をすると、満面の笑みを浮かべて希佐を振り返る。「キサ、ちょっと待ってて」

「慌てて怪我をしないようにね」

「分かってるって」

 階段を駆け上がっていく背中を見守りながら、ネイサンがゆっくりと腰を上げた。希佐は苦笑いを浮かべているその横顔を見上げ、少し申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「リジーがあなたに頼んだんですね」ネイサンはそう言うと、希佐を見下ろした。「昨夜から何かを探してるなとは思っていたのですが、あれはあなたの連絡先が書かれた紙を探していたのでしょう」

「すみません、リジーから口止めをされていて」

「あなたが謝る必要はありませんよ」ネイサンは苦笑いを浮かべながらも、首を横に振った。「むしろ、謝るのはこちらの方です。突然のお願いだったでしょうに、リジーの頼みを聞き入れてくださってありがとうございます。妻が亡くなってからはご存知の通り男世帯で、あの子の周りには大人の女性が少ないものですから……」

 母親のいない家庭がどんなものなのかということは、希佐も理解している。今はまだ幼い分、困ることは少ないのかもしれないが、この先困惑することは増えていくのだろう。

「私でも何かお力になれることがあれば、いつでもおっしゃってください」

「ありがとうございます」

 ネイサンはやはり少しだけ申し訳なさそうに、でもどこか心強く思ってくれているような顔で、希佐を見ていた。

「キサ、準備できたよ! 行こう!」

 勢いよく階段を降りてきたエリザベスは、そのまま希佐の腕を取ると、ぐいぐいとその体を引きずっていこうとする。

「リジー、お父さんにご挨拶をしていったら?」

「あっ、うん」

 気が急くあまり忘れていたというふうな表情でハッとしたエリザベスは、慌ててネイサンに駆け寄ると、抱き上げてくれというように両腕を高く上げた。軽々と抱き上げられたエリザベスは、ネイサンの首に両腕を回して強く抱き締めたあと、頬に押しつけるようなキスをする。

「キサの言うことを聞いて、いい子にするんだよ」

「ダディもいい子でね」

 頬に鼻先を擦り寄せられたエリザベスは、くすぐったそうに身を捩らせながら、くすくすと笑っている。床にそっと下ろされ、希佐の傍まで戻ってくると、ネイサンは僅かに心配そうな顔をしてこちらを見た。

「よろしくお願いします」

「はい、責任を持ってお預かりします」

 希佐とエリザベスはしっかりと手を繋ぎ、行ってきますと挨拶をしてから、工房を後にした。道に出て最初の角を曲がると、エリザベスは我慢ならないとばかりにキラキラと輝く目で希佐を見上げ、口を開く。

「私、バージルにタップダンスを教えてもらえるの?」

「そうだよ」希佐は隣を歩くエリザベスを見下ろし、にこりと笑いかけた。「お友達を連れて行きたいって言ったら、是非来てくださいって」

「うわあ……」エリザベスがそうため息を漏らすと、その目の前に真っ白い息が広がった。「バージルって格好いいよね」

「そうだね」

「前にヘスティアの近くで見かけたことがあるんだぁ。手を振ったらね、振り返してくれたんだよ。私のこと、覚えてくれてるかなぁ」

 それは難しいのではないかと思った希佐だったが、お馴染みの社交ダンススタジオに連れ立ってやって来た希佐とエリザベスの姿を見ると、バージルはなんだと言わんばかりの面持ちでエリザベスを見た。

「お前の友達ってこのお嬢ちゃんだったのか」

 希佐に声を掛けてきたときの積極性は何処へやら、エリザベスはもじもじとしながら、恥ずかしそうに希佐の背中に身を隠した。

「この子を知っているの?」

「知ってるっていうか、メレディスに用があってヘスティアに顔を出した帰りに、外で見かけて手を振ってくれたんだ」バージルはそう言うと、腰を屈めて、希佐の後ろに隠れているエリザベスを覗き込むようにして見た。「だよな、お嬢ちゃん?」

「お、覚えてるの……?」

「おう、あのときはありがとうな」

「バージル、こんなに小さくてかわいいファンは珍しいもんね」

「珍しいとか言うな」悪戯っぽい顔をして茶化す希佐の額を、バージルは人差し指で軽く小突いた。「お嬢ちゃんは若いのに見る目がある。かなりお目が高い」

「お嬢ちゃんじゃないよ」

「ん?」

「私、エリザベスっていうの。みんなは、リジーって呼んでる」

「俺はバージル」バージルはそう言って、自らの右手を差し出した。「よろしくな、リジー」

 こうした無償のダンス教室を定期的に行なっているからか、バージルは子供の扱いに慣れている様子だった。とはいっても、子供たちを過剰に子供扱いするわけではなく、一人の人間として誠実に接しているのが分かる。だからこそ、子供たちもバージルを酷く慕っているのだろう。

 それはエリザベスも例外ではなかったようで、タップダンスの稽古を終え、子供たちにと用意されていたランチを食べるときにも、他の子供たちと一緒に、バージルの隣を奪い合うという席取りゲームに参戦していた。帰る頃には当初の恥ずかしげな様子は影を顰め、自分はもうずっと前からバージルと知り合いなんだということを、周りの子供たちに自慢するくらいにはなっていた。

「あの子、ネイサンのところの子だろ?」

「やっぱり知ってたんだ」

「アランを引きずって嫁さんの葬儀に行ったんだ。子供の成長ってのは早いもんだよな、あれから三年しか経ってないってのに、もう一丁前の口を利くようになってるんだから」

「三年前? アランを引きずって、って……」

「ああ、確かお前が来る一週間くらい前かな、ネイサンの嫁さんが亡くなって、葬儀が執り行われたんだ。昔の劇団の連中が大勢来るだろうし、アランは行きたがらなかったんだけど、あとになって後悔しても遅いぞって脅して、俺が無理やり引きずって行ったんだよ。彼女はメレディスと一緒に劇団を発足させた立役者だったし、アランは相当目を掛けてもらってたって話だから、最後の挨拶くらいはさせておくべきだと思ってな」

 そうだ、エリザベスの母親は、アランが前に所属していた劇団の看板女優なのだ。それならば、その結婚相手がピアノの修理工房の跡取り息子だということも、もちろん知っているのだろう。

 バージルの話振りでは、あの家族との交流はなさそうだが、件のピアノのことを考えると、何らかの因果性があるのではないかと、希佐はそう思わずにはいられなかった。

「リジーは大きくなったら劇団カオスに入るのが夢なんだって」

「へえ、そりゃあまた難儀な夢を見つけたもんだな」

「あの子は歌が上手だから、将来はアイリーンみたいな歌姫になるんじゃないかな。もう劇団にも所属していて、子役として活動しているみたいだし」

「どうりで飲み込みが早いわけだ」

「さっき、次もまた参加したいって言ってたよ」

「そいつは嬉しいね」

 楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていった。

 子供たちはいつも、あともう少しだけと食い下がるものの、バージルにまた今度なと宥められて、迎えに来た保護者と一緒にダンススタジオから帰っていく。親が迎えに来られない子供たちは、ダンススタジオのオーナーが、車で家まで送り届けてくれていた。

「またな、リジー」

「うん! またね、バージル」

 二人がハイファイブする様子を微笑ましく思いながら見ていた希佐だったが、それが物欲しそうな表情に見えたのか、バージルはこちらに向かっても両手を掲げて見せる。希佐は一瞬目を丸くするが、くすりと小さく笑い声を漏らすと、自らの両手をバージルの両手に合わせ、パチン、と音を鳴らした。

「今日も手伝ってくれてありがとうな」

「ううん、またいつでも声を掛けて」希佐は首を横に振ってから、少しだけ真面目な面持ちを浮かべた。「子供たちと一緒に踊っているとね、なんだか初心にかえれるような気がするんだ。基本に立ち返ってダンスについて考える良い機会になっているんだと思う。驕り高ぶることのないように、常に謙虚な気持ちでいようって」

「お前はもうこれ以上謙虚になる必要はねぇよ。少しくらい傲慢になったっていい。それだけの努力はしてるんだからな」

 事前に下調べをしたという店まで向かう道すがら、エリザベスは上機嫌で鼻歌を歌っていた。タップダンスの稽古が楽しくて仕方なかったらしい。タップシューズは貸し出しも行っているので、エリザベスも他の多くの子供たちと同様に、練習用の靴を持ち帰って来ていた。

「次までにたくさんお稽古をして、バージルをびっくりさせるんだ」

 大人でも、子供でも、未来に生き甲斐を思い描けるというのは、とても良いことだと、希佐は思う。

「あっ、ここだよ!」

 希佐が手を引いて連れてこられたのは、コヴェントガーデンの一角だった。手書きのメモを見ながら、必死に看板の文字と照らし合わせていたエリザベスは、目的の店を見つけると、ぐいぐいと希佐の手を引っ張って声を上げる。

 その店は、見るからに子供が好きそうな雰囲気とは程遠い、シックで高級感のある外装をしていた。もう百年も前からここに建っているのではないかと思うような出立ちだ。ショーウィンドウには古いオークの書斎机と椅子、机の上にはレターセットやポストカード、シーリングスタンプなどの類が、美しくディスプレイされている。

 随分大人っぽい店を選んだなと思いながら、希佐はエリザベスに連れられて店の中に足を踏み入れた。

 扉を開くと、からん、ころん、とカウベルのような音が鳴る。店内に客の姿はなく、少しだけ鼻につく蝋を溶かしたような匂いがするものの、不快感はない。外の喧騒とはかけ離れた、まるで別世界のような雰囲気が、辺りには漂っている。

「やあ、いらっしゃい」

 少しだけふくよかな、長い口髭を蓄えた老齢の男性が、店の奥からそう声を掛けてきた。エリザベスは一瞬、驚いた様子で肩を震わせるが、その男性を目に留めると、背伸びをして希佐の耳に顔を寄せた。

「サンタさんみたいだね」

 こそこそと囁くように言ってはいるものの、このひっそりと静まり返っている店内では、それはあまり意味をなしていない。大いに賛同したい気持ちではあったが、本人の前で肯定して良いものかと迷っていると、男性は丸眼鏡の向こう側の青い目を優しげに細め、口元に人差し指を立てて見せた。まるで、内緒だよ、とでも言うふうに。その様子を見たエリザベスは自らの口に手の平で蓋をすると、神妙な面持ちで大きく頷き、次いで店内に視線を走らせていた。

 イギリス人はよくカードを送り合っている印象がある。こうした雑貨などを取り扱う店に限らず、駅の売店やスーパーマーケット、書店などでもカードが売られているので、そういう国民性なのだろう。

 女性から男性にチョコレートを贈ることが多い日本とは違って、イギリスでは男女関係なく贈り物をする。カードも同様だ。他にも、花束やアクセサリー、香水やワインなどが定番らしい。

 季節もののカードは入り口から近い場所にある棚に並べられていた。値段は思ったよりも高くなく、おそらくエリザベスのお小遣いでも買える範囲内だと分かり、希佐は安堵の息を吐く。

「うわあ」エリザベスは棚に並んだたくさんのカードを目の当たりにすると、目をまん丸にして声を漏らした。「目移りしちゃう」

「ゆっくり選んでいいよ」

「キサは誰かにカードを送らないの?」

「私?」

 あれを取ってほしいと言って、エリザベスは高い場所にあるカードを指差す。

「イギリスではね、バレンタインのカードは匿名で送るって決まりがあるんだよ。大人は、あなたを密かに慕う者より、って書いて送ったりするんだって」

 バレンタインカードを送ったことは一度もない。カオスの仲間たちにデジタルのメッセージカードを送ることはあったが、実物のカードを手書きのメッセージ付きで誰かに送ったことはなかった。アランがこうしたイベントに一切の興味を示さないので、送る必要性すら感じていなかったのだ。

 それに、希佐がチョコレートを贈らずとも、バレンタインシーズンになると、舞台や映画、出版関係で付き合いのある女性たちからスタジオ宛に高級なお菓子や、アランと同じ名前のお酒が次々と送られてくる。その度に、酷くうんざりとしたアランの顔を見ているので、渡すだけ迷惑なのだろうと希佐は考えていた。添えられているメッセージカードも、一度目を通してすぐに処分してしまう姿を目の当たりにしている。

「キサは好きな人いないの?」

「えっ?」

「大切な人のことだよ」エリザベスは真剣な顔でカードを吟味しながら続けた。「ダディはね、私にもいつか、ダディにとってのマミィみたいな人が現れるよって言うんだ。でも、まだそういう人には出会っていないから、それまではダディとグランパにカードを送ってあげるの」

「大切な人、かぁ……」

「キサの家族は?」

「日本にお父さんがいるよ。それから、お兄ちゃんもいる」

「キサのお兄ちゃん?」エリザベスはそう言うと、カードから顔を上げて希佐を見た。「キサのお兄ちゃんも役者なの?」

「役者になるはずだったんだけど、そうなる前にどこかに行ってしまって、今はどこにいるのか分からないの」

「それってどういうこと?」

「行方不明なんだ」

 子供に話すことではないのかもしれないと思いはするが、エリザベスは「ふうん」と相槌を打つだけで、再びカード選びに集中しはじめた。希佐はうんうんと唸りながらカードを選んでいる、エリザベスの小さな頭を見下ろしながら、そっとやわらかく微笑んだ。

 いつ終わらせれば良いのかも分からない仕送りは、今もまだ続けている。ユニヴェールにいた頃から、今の今まで仕送りを続けているが、父親から連絡が来たことは一度だってなかった。

 とはいえ、ユニヴェールを飛び出して以降の自分の居場所を直接知らせたこともないので、お互い様といえばお互い様だ。振込先を見れば大方の見当はつくだろうが、わざわざ連れ戻しにくるような父親でもない。きっと、月毎に決まった金額が手元に届けば、それで満足なのだ。

 希佐はエリザベスの隣に立ったまま、店内をぐるりと見回した。羽ペンやガラスペン、インク、シーリングスタンプなどが、棚に整然と並べられている。他にも、アンティークの小物や机、ちょっとした家具なども売りに出されているらしい。

 それらを興味深く思いながら眺めていると、ふと、あるものが希佐の目に留まった。ワイングラスほどの背丈しかない、小柄なテディベアのぬいぐるみだ。それは、赤っぽい毛色の、緑色の目をした、愛らしい顔のテディベアだった。

 希佐は不意に、以前テディベアについて話をしたときの、アランの言葉を思い出した。

『イギリスの多くの家庭では、子供が生まれるとテディベアを贈るんだ』

 でも、アランはテディベアを持っていなかったから、学校の行事の際には、教室に置かれていたランディという名前のテディベアを借りたと、そう言っていた。

 子供の頃のアランは、周りの子供たちがテディベアを抱えている姿を見て、何を思っていたのだろう。羨ましく思ったのだろうか。だからこそ、ランディの存在を、大人になった今も覚えていたのか。

「キサ」下から名前を呼ばれ、希佐は慌てて視線を戻す。「これとこれ、どっちが良いかな」

「この、開くとハートが飛び出してくる方は?」

「やっぱりこれがかわいいよね」エリザベスはもう一枚のカードを見せてくれる。「グランパには、こっちのピアノのやつにする」

「どちらのカードも素敵だね」

「キサは何も買わなくていいの?」

「私は──」希佐はテディベアを横目に見てから、首を横に振った。「うん、私は大丈夫」

 エリザベスが会計を済ませるのを隣で見届け、帰り際にもう一度だけテディベアを見やってから、希佐は小さな手を引いてその店を後にした。

 今度はチョコレートを買いに行きたいというので、一粒から購入できる店舗に連れて行くと、エリザベスはまるで宝石でも眺めるかのようなキラキラとした目で、ショーケース越しに小さなチョコレートを見ていた。店の人の好意で味見をさせてもらったチョコレートが気に入ったようで、それを一粒ずつ小さな箱に入れてもらうと、赤いリボンをかけてもらい、大切そうにバッグの中にしまっていた。

 三時まではまだ時間があるからと、工房に帰る道の途中にあったカフェに入って二人でココアを飲み、今日一日のことを振り返る。

「あのね」首に巻いていたマフラーを外し、それを膝の上でもぞもぞといじくりながら、エリザベスが少しだけ残念そうに言った。「私、本当はね、もうほとんどマミィのことを覚えてないんだ」

「リジー……」

「悲しいとか、そんなふうには思わないんだよ。だって、マミィが出てる公演の映像はいつだって見られるし、それに、お歌だっていつでも聞くことができるから。でもね、時々だけど、ダディがかわいそうだなって思うの」

「どうして?」

「マミィのことを思い出したときに、お話をする相手が誰もいないでしょ。ダディとグランパは、仲が悪いわけじゃないけど、お仕事のこと以外のお話はあんまりしたくないみたい」

 希佐は時間が許す限り、エリザベスの話を真剣に聞いてあげようと思った。ぽろぽろと吐露するように話す様子は、苦しそうでも、つらそうでもなかったが、この感情はいつまでも小さな体の中に留めておいてはいけないと、そう思ったのだ。

「きっとね、私が覚えてるマミィって、テレビに映ってる映像としてのマミィなんだと思うんだ。前に、マミィがマイ・フェア・レディのお歌を歌ってくれたって話したけど、それだって、何度もテレビで見たから覚えてるってだけで、本当の記憶はどこにもない」

 希佐も時々、自分が覚えている継希の記憶が本物なのかどうか、考えることがあった。継希を最後に見たのは、ユニヴェールの舞台に立ち、誰よりも鮮烈な輝きを放って劇場中の目という目を奪い去る、あの姿だった。

 あのときは、継希が本当に月の王にでもなってしまったのではないかと思うほど、遠い存在に思えていた。そして今は、月よりも遥か遙か遠く、目に見ることもできない存在になってしまっている。

「ごめんね、キサ」

「えっ、どうして謝るの?」

 突然の謝罪に目を丸くする希佐を見て、エリザベスはどこか困ったように苦笑いを浮かべる。

「今日はとっても楽しかったよ。ダディ以外の人とお買い物に行くなんて初めてだったんだ。でも、マミィが生きてた頃は、今日みたいに手を繋いでお買い物に出掛けたり、こうしてカフェでココアを飲んだりしたことがあったのかなって、そんなふうに思っちゃった。キサは私のマミィじゃないのにね」

 だから、ごめんね、とエリザベスは言う。

 希佐はその瞬間、目の前にある小さな命を、力一杯に抱き締めたくて仕方がなくなった。でも、それをしてはいけないと、自らに言い聞かせる。エリザベスが求めているのは母親の温もりで、赤の他人の同情ではない。

「謝ることなんてないんだよ、リジー。私も楽しかった。だから、これからもお出掛けをしたくなったときは、いつでも声をかけてね。週末なら都合がつくことも多いし、何ならスタジオに稽古を見学しにきてもいいよ」

「えっ、本当?」

「土曜と日曜は稽古がお休みなんだけど、私かイライアスは稽古をしているし、たまにカオスの人たちが──」

「アイリーンも来る?」

 エリザベスは希佐の言葉を先回りして、食い気味に問いかけてくる。そういえば、エリザベスはアイリーンのファンだったのだと思いながら、希佐は小さく頷いた。

「時々差し入れを持ってきてくれるよ。最近は忙しいみたいで、あまり顔を見てはいないけれど」

「そうなんだ……」

「今度会ったらリジーのことを話しておくね」

 言葉もなく、こくこく、こくこく、と熱心に頷く様子を見て、希佐は思わず表情を綻ばせた。

 約束の時間よりも少しだけ早くエリザベスを工房まで送り届けた希佐は、お茶を飲んでいきませんか、というネイサンの申し出を丁重に断った。

「すみません、この後に人と会う約束をしていて」希佐はそう言ってから、僅かに腰をかがめてエリザベスと視線を合わせた。「またね、リジー。バージルに習ったステップ、忘れず稽古しておいて」

「うん、分かった」ぎゅ、としがみつくように抱きついてきた体を受け止め、希佐はその背中をとんとんと優しく撫でる。「今日はありがとう、キサ」

「どういたしまして」

 エリザベスの様子から何かを察したような表情を浮かべ、ネイサンは希佐に複雑そうな眼差しを向ける。きっと、エリザベスが訥々と話してくれたことは、父親に伝えておくべきなのだろう。

 エリザベスには手を洗いに行かせ、自分は店先まで見送りに出てきたネイサンに、希佐は先程のカフェで吐露されたことを掻い摘んで話して聞かせた。

「そうでしたか、あの子がそんなことを……」

「リジーはとても利発な子ですね」

「そうならざるを得なかったのかもしれません。可能なかぎり娘と過ごすための時間を作ろうとはしているのですが」

 情けない、と言わんばかりの面持ちで眉を顰めるネイサンを見て、希佐は小さく息を吐き出した。きっと、父親よりも娘のエリザベスの方がずっと、周りがよく見えているに違いない。

「生意気なことを言うようですが、子供は大人が思っている以上に、周りがよく見えているものですよ」

「え?」

「私は、リジーはあなたやベンジャミンさんからたくさんの愛情を受け取っていると感じました。だから、今まで通りに彼女を愛してあげれば、それでいいのだと思います。それから、これからはリジーに気を使わず、お母さんの思い出話をたくさん聞かせてあげてください。覚えていたい思い出が少しずつ消えていって、舞台上のお母さんしか思い出せなくなってしまうのが、彼女は寂しいのだと思います」

 記憶は徐々に失われていくものだ。希佐はもう既に、継希の声を思い出すことができなくなっている。おそらく、もっと時間が経過すれば、誰よりも愛していた兄の顔すら、朧げにしか思い出すことができなくなるのだろう。

「すみません、差し出がましいことを言って」

「あっ、いえ、そうではないんです」両目を大きく見開き、驚いたように希佐の話を聞いていたネイサンが、どこか泣きそうな表情を浮かべながら笑った。「今際のときに、妻が言ったことを思い出してしまって」

「奥さんが?」

「リジーはしっかりした子だから、自分がいなくなってもつらいそぶりを見せないかもしれない。でも、それは心配をかけないように強がっているだけで、本当は母親に会いたくてたまらないはずだって。だから、もしリジーがそんな素振りを少しでも見せたら、あなたが一緒に泣いてあげてと、そう言われました」

「そうだったんですね」

「母親の話をするとき、あの子はいつも満面の笑みを浮かべて、楽しそうに、嬉しそうに話すんです。まるで、私や父を励まそうとするように。私たちは、そんな娘の存在に救われていたんですよ。本来なら、私たちが彼女を守らなければならないのに」

「家族って、支え合うものでしょう?」そんな、どこか心にもないことを言いながら、希佐は笑う。「だから、大人が小さな女の子に救われることがあったって、私はいいと思います」

 本当は、どのように答えるのが正解だったのか、希佐には分からない。ただ、正解に近い言葉を尤もらしく並べて、それでこの人の心の罪悪感が少しでも拭われるのなら、それでいいのだと思った。

 希佐は母親の温もりも、父親の優しさも知らないのだから。

 この何とも言えない感情を引きずったまま、アランと合流していいものかと思いながらも、希佐は大通りに出ると、駅に向かって足を進める。駅に到着し、列車に乗る前にメッセージを送ると、すぐに返信があった。

『館内のカフェでコーヒー飲んでる。急がないでいい』

 希佐は既読をつけて、画面を暗転させる。目の前に停車した列車に乗り込み、家族連れの乗客の側に身を寄せると、そのままセント・パンクラス駅まで向かった。

 大英図書館は、セント・パンクラス駅の隣、ユーストン通り沿いにある。世界的に見ても一、二を争う蔵書数を誇る図書館で、一般の書籍の他にも、楽譜や演劇の脚本なども保管されているらしい。

「あっ……」

 入り口前の表示を見て、希佐は思わず声を上げてしまった。月曜から木曜までの閉館時間は午後八時だが、土日の閉館時間は午後五時となっている。スマートフォンの画面で時刻を確認すると、閉館時間まではもう一時間もなかった。

 希佐は急ぎ足で図書館内に足を踏み入れると、真っ先にカフェスペースに向かった。壁一面を覆うガラス張りの本棚は圧巻だったが、それを見上げて口をあんぐりと開いている場合ではない。

 閉館間際だというのに、座席はどこも一杯だった。机に向かって勉強している者もいれば、何らかの議論を楽しんでいる者たちもいる。時間帯のせいか、観光客の姿はまばらなようだ。日本の図書館のようにただひっそりと静まり返っているのとは違い、程よい静けさが、ロンドンの図書館にはある。

 どの辺りにいるのか聞いてみようと思い、希佐はスマートフォンに視線を落としかけた。しかしその刹那、奥まった壁際の座席に見知った赤毛の頭を見つけて、思わず息を漏らした。

 視線だ。まるで、視線の流れが見えるようだと思った。不自然に視線が集中している。ユニヴェール時代にも、近場のカフェで似たようなことを経験したなと考えていると、赤毛の頭が徐にもたげられた。

 アラン・ジンデルはさっと周囲に視線を走らせたあと、カフェの出入り口付近に立っている希佐を見つけ、僅かに首を傾けた。希佐はアランに向かって軽く手を挙げ、カウンターでコーヒーを買ってから、テーブルに足を向ける。

「五時に閉館するって分かっていたなら、そう教えてくれたらよかったのに」希佐が向かい側の椅子に腰を下ろすのを、アランはテーブルに頬杖をついて眺めている。「もう閉館まで一時間しかないから、中を見て回れないよ」

「俺は暇潰し程度に見て回ったけど」

「何か面白いものはあった?」

「シェイクスピアの肉筆の脚本原稿」アランはそう言いながら、テーブルの上一杯に広げていた本やノートを閉じて、希佐のコーヒーを置くスペースを作ってくれた。「近くなんだし、また来れば?」

 いつでも行けると思っている場所ほど、足を運ばないことの方が多い。特に近所の観光名所なんかは、この先一生行くことはないのだろうと、既に悟ってしまっていた。

「──何を描いていたの?」希佐は話を逸らすようにそう言い、テーブルの上に広げられていたスケッチブックを覗き込んだ。「何かのデザイン?」

「舞台衣装のデザイン画、の下地みたいなやつ。ダイアナに頼まれたんだ、イメージだけでも掴んでおきたいからって」

「全部で何着くらい?」

「さあ」アランは小さく肩をすくめながら、まるで他人事のように言う。「君の衣装だけで十セットはありそうだけど」

「そんなに?」

「そういう役だから」

 スケッチブックの中には女優の普段着、ドレス、ネグリジェ、アクセサリー、靴や帽子などのデザインの他にも、色のイメージまで事細かに記されていた。カオスの舞台で着る衣装のデザイン画と同じくらいしっかりとしていて、これではもはやイメージ画とは呼べないだろう。さすがのダイアナも、ここまでする必要はないと言って、呆れてしまいそうだ。

「見てていいよ」アランはそう言いながら立ち上がる。「本を返してくるから、ここで待ってて」

「うん、分かった」

 数冊の本を抱えて離れていくアランの背中を肩越しに見送ってから、希佐は再び手元のスケッチブックに目を落とす。主要登場人物の衣装案が数点ずつ描かれているそれは、この図書館の売店で購入したもののようだ。何なら、テーブルの隅に置かれている十二色の色鉛筆も、ここで買ったものなのかもしれない。

 登場人物たちのことを誰よりも理解しているのは、脚本家のアラン・ジンデルだ。カオスの公演で着る衣装一つ取ってみても、それを着る登場人物らしい意匠が施され、刺繍やレースの模様にまで拘っていることもある。今回も、衣装の中に何か秘密が隠されているのではないかと思いながら、そのデザイン画を食い入るように見入っていると、希佐はとある走り書きを見つけた。

『──髪のことはまだ決めてない』流れるような筆記体だったが、かろうじてそう読み取れる。『切るか、染めるか、ウィッグか。スペンスはウィッグが嫌いだから、切ったり染めたりさせたいらしいけど、今のところは保留で』

 ああ、そうかと思いながら、希佐は自らの前髪にそっと触れた。

 これまでの舞台では、地毛とウィッグをうまく使い分けてきたが、演出家の意向次第では、この長く伸びた髪をバッサリと切る必要が生じることもあるのだろう。場合によっては染めることもあるのかもしれない。それらに関しては何の抵抗もないが、この慣れ親しんだ髪の毛と別れるのは、少しだけ寂しいような気もした。

「失礼、ミスター」隣からそう呼び掛けられて顔を上げると、少し前まで女性客が座っていたその席に、別の男性が腰を下ろしていた。「少しお時間よろしいですか?」

「え、私ですか?」

「はい」

 男性に間違われたのは久しぶりだと思いながら、希佐は開いていたスケッチブックを閉じる。エリザベスと一緒に出歩く手前、外国人の女と子供だけで出掛けるのは些か物騒かと思い、男性のような服装と立ち居振る舞いを心掛けていたのが、まだ体から抜けていなかったのだろう。

「実は私、こういう者なのですが──」清潔な身なりをしたその男性が差し出してきたのは、一枚の名刺だった。「芸能事務所のエージェントをしておりまして」

「はい」

「単刀直入にお尋ねしますが、芸能の世界に興味はありませんか?」

 道を歩いていてスカウトに声をかけられることはあったが、まさか、こんな場所にまでエージェントが出没するなどとは思いもしない。渡された名刺が本物ならば、この男性はかなり有名な事務所のエージェントだ。

「実はですね、今日は久しぶりの休日で、息抜きのために大英図書館までやって来たので、仕事をするつもりなんてさらさらなかったのですが、このカフェに入ってきた途端、あなたの姿が目に飛び込んできまして。もう本当に、オーラがすごい。一目見た瞬間に確信しましたよ、あなたは成功するって」

「あの、すみません、私は──」

「いやいや、最初は誰でもそう言うんですよ。自分はそういう世界には興味がないってね。でも、本当はそうじゃないんです。人間誰しも心の中では富や名声、成功を望んでいるんです。あなたのような容貌は特に売れ線ですから、まずはSNSから始めて──」

「へえ」男性の熱心な声音とは対照的な、あまり関心のなさそうな声が、不意に頭上から聞こえてくる。「昨今のスカウトってそんなしょうもない勧誘の仕方をするようになったんだ」

 すっ、と指先から抜き取られた名刺を、アランは蔑むような目をして一瞥する。くるりとひっくり返して裏側を確認してから、それを男性の膝の上に放った。

「君の事務所の代表を知ってる。でも、最近は方針を変えたのか。以前は劇場やショーに足繁く通って、所属タレントを厳選してる感じだったけど、今は見目さえよければ誰でもいい感じなの」淡々と話すアラン・ジンデルを、半ば放心したような顔をして、男性はじっと凝視している。「キサ、行くよ」

「えっ、あ、うん」

 テーブルの上のものを手早く片づけ、それを売店の紙袋の中に入れると、アランは希佐の手を取って歩き出した。

「ああいうやつの話は真面目に聞くだけ無駄だから」

「役者してますって言おうとしたんだけど、遮られてしまって」

「外見重視で素人を大勢囲い込んで、インフルエンサーを育てるのが最近の流行りらしい。宣伝活動は本人に任せて、事務所はそれを逐一チェックしてるだけでいいんだから、楽な仕事だよ。固定ファンがいる状態でデビューさせれば、大コケすることもない」

「アラン、詳しいね」

「何年この業界にいると思ってるの」

 しかし、敏腕エージェントから無事に逃げ果せることは難しかった。大英図書館の建物を出たところで、後ろを追いかけてきた男性に捕まってしまい、アランは酷く面倒臭そうに大きなため息を吐く。

「す、すみません、あの、め、名刺だけでも、受け取ってください」

「下っ端の名刺はいらない」

「そ、そう言わずに──」

「彼女は君のところの代表から直接名刺を受け取ってる」

「えっ、彼女……?」

「目の付け所は悪くないけど、強引なスカウトは事務所の理念に反するんじゃないの」アランはじっとりとした目で男性を見てから、取り出したスケッチブックに何かを書きつけると、それを破り取って男性のコートのポケットに押し込んだ。「社長によろしく」

 アランはそのまま手を取って歩いて行こうとしたが、希佐がちょっと待ってと言って引き留めると、どこか呆れたような顔をして手を離してくれた。

 自分のことよりもアランを熱心に見つめている男性の前に戻ると、希佐はその手に握られている名刺を指す。

「あの、よろしければ、そのお名刺をいただけませんか?」

「へっ? あっ、なんですか?」

「お名刺をいただきたいのですが」

「えっ、あっ、いいんですか?」

「またご縁がありましたら、よろしくお願いします」

 再び差し出された名刺は角が折れ曲がっていたが、希佐は構わずにそれを受け取り、軽く会釈をしてからアランのところに戻った。隣に並んで歩きながら、折れてしまった名刺の角を伸ばしていると、アランの呆れたような眼差しが降り注ぐ。

「名刺のコレクションでもしてるの」

「何かのときに役立つことがあるかもしれないし」

「もっと効力のある名刺を持っているのに?」

「日本には『袖振り合うも他生の縁、躓く石も縁の端』っていう諺があるんだよ。人と出会うことは偶然なんかじゃなくて、前世の縁や約束事によるものなんだって」

 希佐はそう言いながら、受け取った名刺がこれ以上曲がってしまわないように、財布の中にそっとしまった。アランはそうした希佐の様子を物言いたげに見ていたが、何を言っても無駄だと思ったのだろう、息を吐き出しながら小さく頭を振っていた。

「どこか他に行くところは?」希佐が問うと、アランは首を横に振る。「じゃあ、何か食べて帰らない? ご馳走するよ」

「今日と明日はどこも混んでると思うけど」

「どうして?」

「バレンタイン前の週末だから」

「あ、そっか」そういうものなのか、と希佐は思う。「それなら、デリで何か美味しそうなものを買って帰ろう」

 セント・パンクラス駅から列車に乗り、よく行くデリカテッセンの最寄駅で下車すると、アランが言った通り、ロンドンの街中はカップルの姿が普段よりも多く見受けられた。まだバレンタインを迎えてはいないものの、この週末に食事だけでも楽しもうと街に出てきたのだろう。

「アラン」広場を通り抜けて行こうとしたとき、近くのカフェが店頭でホットチョコを販売しているのを見つけ、希佐はアランの手を取って引き留めた。「ホットチョコを飲んでいかない?」

「ご馳走してくれるの」

 首を横に振られるかと思いきや、アランは白い息を吐き出しながらそう言う。赤く染まった鼻を啜り、酷く寒そうにしている様子を目の当たりにした希佐は、思わず、ふふ、と笑ってしまった。

「もちろん、ご馳走するよ」

 きっと、可愛いなどと言ったら臍を曲げてしまうだろう。だから、希佐は黙ったまま、アランの手を引いてカフェの店先に出ている露店まで歩いて行く。

「二つください」

 受け取った紙コップをアランに渡し、二つ分のホットチョコの代金を支払った希佐は、寒そうにしているアランを空いていたベンチまで誘導した。その場に座らせ、朝出るときに巻いてくれたマフラーを解くと、それをアランの首に掛けてやる。

「寒がりなんだからもっと暖かい格好をしたらいいのに」

「行きはタクシーだったから、帰りのことまで考えてなかった」

 アランの首にマフラーをふんわりと巻き付けると、希佐は一方の紙コップを受け取り、隣に座った。いつものように物思いに耽りながら出掛ける準備をしていて、身支度がおろそかになってしまったのだろうと、希佐には容易に想像することができた。

 互いに何も言わず、目の前を行き交う人々や、街灯の明かりに照らされる街並みを眺めながら、ホットチョコをゆっくりと口に運ぶ。

 間もなくすると、希佐よりも早くホットチョコを飲み終えたアランが、白い息を吐き出しながらベンチの背もたれに寄りかかり、仰け反るような格好をして暗い空を降り仰いだ。

 視線が、刺さる。

 闇夜の風に靡く赤い髪や、すうっと通った鼻筋や、仰け反ることで強調されている喉仏や、長い睫毛に縁取られた緑の目に、やはり視線が集中する。

「首」

「え?」

「寒くないの」

 アランはそう言いながら身を起こすと、希佐の髪をまとめ上げている簪をすっと抜き取った。くるりとまとめられていた髪は支えを失って落ち、夜風に晒されていた首を覆い隠す。内側に空気を含んだ髪は確かに温かく、マフラーのぬくもりを失った首筋の強張りが、少しずつ解けていくのを感じていた。

「もし髪を切るなら、私もダイアナに切ってもらおうかな」希佐は乱れた髪を撫で付けながら言う。「スケッチブックに書いてあるのを見たの」

「別に無理に切る必要はない」

「でも、スペンサーさんはウィッグが嫌いなんでしょ?」

「嫌いだけど、無理強いはしないと思う」

「どうかな」希佐は甚だ疑問だという顔をした。「あの人のことだから、私が自分の口から切りますとか、染めますって言うように、上手く差し向けてくると思うけれど」

 そう言う希佐を、アランは目を丸くして見た。

「なに?」

「それが分かっているのに、どうして君はあいつの言いなりになるのかと思って」

「私にだって思うところはあるよ。でも、それが結果的には最善に近い道だと思うから」

「妥協してるんだ」

「歩み寄っているの」

「君のそれは譲歩だよ」

「今はね」希佐は空になった紙コップをくしゃりと押しつぶす。「でも、いつか反旗を翻すかも。納得のいかない演出をされたら、黙っていられる自信がないから」

 アラン・ジンデルの脚本を、スペンサー・ロローがどのように演出するのか、興味はあるのだ。だが、アラン・ジンデルの描く世界を最も理解しているのは脚本家自身であり、その演出の下で役柄を演じ続けてきた希佐にしてみれば、納得がいかないことも多々出てくるのではないかと思ってしまう。

「スペンサーは自分が作る舞台に対するこだわりが強い。でも、君は自分なりの解釈で、あいつの頭を何度もぶん殴ってる。今のところはいい勝負をしてるんじゃないの」アランはそう言うと、希佐の髪に手を触れ、絡まった毛先を丁寧に解いていく。「ようやく完成した脚本は、俺のどろどろとした見るに耐えない怨念と、最終審査のときに君が見せてくれたような圧倒的な美しさが混在した、カオスみたいな仕上がりだ。正直、何が面白いのかさっぱり分からない」

「初稿の方が良かった?」

「俺には正しく判断することができない。俺は依頼されたものを書いただけで、中身の良し悪しを決めるのは別の人間がすることだ。あとは可能な限り裏方に回りたい。その方が性に合ってる」

「衣装をデザインしたり、音楽を作ったり?」

「そうさせてもらえるのなら」希佐の髪を梳くように撫でながら、アランは目を細める。「俺なりの、せめてもの餞だよ」

「餞?」

「君の最後の舞台がより良いものになるように、出来る限りのことをしようと決めた」

 最後の舞台。その言葉が、希佐だけではなく、アランの両肩にも重くのし掛かっているような印象を覚えた。だが、それだけではない。もしかしたら、もう二度とこんなふうには、二人でバレンタインを過ごすことなどないのかもしれないと、希佐は思う。

 来年の今頃、もう既に公演ははじまり、終わっているのか。成功するのか、失敗か。まだ何も定かではない。ただ一つ、きっと、もう二度と同じ二月を過ごすことはできないのだろうという、漠然とした確信があった。

「キサ」名前を呼ばれ、顔を上げる。「何を考えてるの」

「……見られてるな、って」

「誰が」

「アランが」アランの大きな手の平が、希佐の頬を覆うようにして触れた。「視線を感じない?」

「自分に向けられる視線は無視できるのに、俺に向けられる視線は無視できないんだな」

 言われてみれば、その通りだ。希佐が目から鱗が落ちたような顔をしていると、アランは呆れたような表情を浮かべ、手の平を髪の中に差し入れた。手の平は頭皮を撫でるように後頭部まで進み、すうっ、と指の間に髪の毛を滑らせ、ゆっくりと抜き去られる。

「君だっていつも見られてる」

 見られることには、慣れてしまっていたのだ。

 ユニヴェールの一年目にはあまり感じることがなかったものの、二年目以降は、校内でも校外でも視線を感じることが増え、玉阪の街まで降りて行くと、それは殊更如実に感じられたものだ。常に人の視線を意識しながら生きていると、日に日にストレスが蓄積されていく。希佐の場合、女であることが露見しないよう細心の注意を払い続けていた分、周囲からの視線には誰よりも敏感になってしまっていた。

「見られるのが嫌だなんて言ってたら、役者なんか務まらねぇぞ」二年目のある日、校長室に行って不安を吐露すると、中座は希佐を見て呆れた顔をした。「俺らの家業は見られてなんぼの世界なんだ、胸を張って堂々としてりゃいい」

「でも、一度視線が気になりはじめると、とにかく落ち着かなくなってしまって。自分の部屋か、校長先生のお部屋以外では気も抜けませんし……」

「俺にしてみれば、目を掛けてる気に入りの生徒が頼ってくれるってだけで嬉しいもんだが、心穏やかに芸事に励める環境がなけりゃ、お前が舞台で輝いてる姿も見られなくなっちまうからなぁ」

 中座は視線を受け流せと言った。お前が望もうが望むまいが、周りの人間はお前を見るだろう。だが、それは一時的なものだ。川の水が一所に留まり続けることがないように、人の視線もまた、同じように移り変わっていく。流れを堰き止められた水は、遅かれ早かれ腐っちまうぞ、と。

「人間って生き物は、魅力的なものに遭遇すれば、自然と目を奪われちまうもんなんだよ。引き寄せられるみてえにな。その力には、誰も抗うことなんかできねえのさ」

 正直なところ、当時はそのアドバイスの意味するところが、希佐にはよく分からなかった。その言葉をしっかりと理解することができたのは、ユニヴェールの三年目に入ろうとしている頃だった。

 周囲から向けられる視線は水だ。今までの希佐は、その流れを堰き止める大きな岩だった。視線を自然と受け流すことができず、むしろそれを意識するあまり、負の感情を滞留させ、腐らせてしまっていたのだろう。

 それからというもの、希佐は人から向けられる視線を、流れゆく水と同じだと考えるようになった。

「俺は風だと思うようにしてた」希佐の話を聞き終えたアランが、そう口にする。「風は気まぐれで人の迷惑を考えないけど、すぐにどこかへいなくなるから」

 だが、自らに向けられる視線を受け流す術は習得できても、自分以外の誰かに集中する不自然な視線の流れを無視することは、どうやらできないらしい。

 アランは希佐の手から潰れた紙コップを取り上げると、自分のコップと一緒に、すぐ近くのゴミ箱の中にそれを放り込んだ。希佐は、目の前まで戻ってきたアランが差し出す手に掴まり、ベンチから立ち上がる。

「デリはやめて、このまま真っ直ぐ帰ろう」希佐の指に自らの指を絡ませながら、アランが言った。「俺が何か作る」

「え、でも」

「寒い。早く帰りたい」

 アランはそう言いながら視線を素早く動かすと、大通りに向かって歩き出した。くい、と引き寄せられた手が、そっとポケットに招き入れられる。

 道で捕まえたタクシーに乗り込み、夜の灯りに照らし出されている街並みを窓越しに眺めている間中、アランの手は希佐の手に絡められたまま、親指の腹で慈しむように優しく撫で続けていた。

 

 

 翌日、アランは昼前に出掛けて行った。

 アラン・ジンデルが脚本家になるきっかけとなった作品、斜陽の雲の映画監督が、新しい映画の撮影のためにロンドンを訪れているらしい。久しぶりに会って話さないかと連絡が来たから、少し顔を見せてくると言って、心なしか軽い足取りで出て行った。その様子を見るに、件の映画監督とは良好な関係を築けているのだろうと、希佐は思う。面倒臭がらずに出掛けて行ったのが、その証拠だ。

「あっ、ほら、やっぱり稽古していたのね」

 午後になってから希佐が軽く体を動かしていると、アイリーンがイライアスと一緒にスタジオにやって来た。アイリーンはスタジオの真ん中で踊っている希佐を見ると、呆れた顔をしながら中に入ってくる。

「週末くらい体を休めなさいよ、キサ」

「でも、明日からの稽古のために、少しくらいは体を慣らしておかないと──」

「月曜と火曜は歌のレッスンだって聞いてますけど?」

「帰ってきてからイライアスと一緒に稽古をするんだ」自分を睨むアイリーンの眼差しに気圧されながら、希佐は苦笑いを浮かべた。「いつもってわけじゃないけど」

「あなたは根を詰め過ぎて体調を崩すことが多いんだから、気をつけなさいって言っているの。先月だってそれで倒れたって聞いたわよ」

「う、うん……」

「まったく、ほどほどにしなさいよね」ふう、とため息を吐いてから、アイリーンは背後で稽古の準備に取り掛かっているイライアスを振り返る。「私はあなたにも言ってるのよ、イライアス」

「毎日体を動かさないと気持ちが悪い」

「私だってそう思うときはあるけれど、喉のためには休むことが必要だと思って──」

「さっきからずっとこの調子なんだ」イライアスは珍しくうんざりしたような表情を浮かべ、希佐を見た。「キサが倒れたって話を自分だけ知らなかったから怒ってる」

「怒ってないわよ」アイリーンはそう言ってから、ストレッチをはじめたイライアスに向かって念を押すように続けた。「本当に一時間だけよ、イライアス。今日はあなたを連れて帰るように言われてるんだから」

「今日も、だと思うけど」

「あなたが私と一緒じゃないと全然家に帰らないからでしょう? 私だって暇じゃないんですからね」

 家に帰ればスタジオがあるのにと零しながら、アイリーンは再び大きなため息を吐く。それからもう一度希佐に向き直ると、事務室の方を一瞥した。

「アランはいないの?」

「うん、出掛けてるよ」希佐はタオルで汗を拭いながら言った。「アメリカから懇意にしている方がいらしているみたいで」

「へえ、珍しいのね。アランにそんな人がいたなんて意外だわ」

「斜陽の雲の監督だって言ってた」

「……はっ? えっ?」

 アイリーンは大きな目を更にこぼれ落ちそうなほど大きく見開き、手に持っていた荷物をスタジオの床に落とすと、両手で自らの頬を覆った。

「ゴダン? レオナール・ゴダン?」

「知っている人?」

「知っているもなにも、超有名人でしょう? 知らない人なんている?」ポカン、とした面持ちをしている希佐を目の当たりにして、アイリーンは唖然とした表情を見せた。「嘘でしょう? あなた、ゴダンを知らないの? 斜陽の雲でありとあらゆる監督賞を獲得した時の人よ?」

「そうなんだ」

「そうなんだ、じゃないわよ。あなたね、アランが脚本家として今も評価されているのは、この作品があったからなのよ? ゴダンは元々写真家でね、私、彼の写真集は全部持っているわ。ええ、そうよ、恥ずかしいことだけれど、親のコネを使ってまでサイン本を手に入れてやったわよ。ゴダンはオートグラフを書かないことで有名なの。でも、ファンとしてはどうしても手に入れたいじゃない? だからもう恥も外聞もかなぐり捨てて、お父さまにお願いしたわ」

 レオナール・ゴダンは、スペンサー・ロローと同じく、イギリス人とフランス人のダブルなのだそうだ。厳密には、イタリアとクロアチアの血も入っているらしいが、アイリーンがあまりに早口で話すので、希佐には正しく聞き取ることが酷く難しかった。

 両親共に写真家で、幼い頃からカメラに囲まれた生活をしていたゴダンは、自然とファインダーを覗くことが趣味となり、学生時代には国際的なコンテストで、常に表彰されるほどの腕前となっていたらしい。デジタルではなく、アナログにこだわっているゴダンは、未だに一眼レフのフィルムカメラを愛用しているという。加工を一切用いることなく、光と影を巧みに操りながら撮影される写真の芸術性が高く評価されている、という話だ。

「斜陽の雲は、彼の初映画監督作品だったの。アランがあの映画の脚本を書いたと知ったのは、映画が公開されてからのことよ。本当に心臓が口から飛び出すんじゃないかと思ったわ」

「でも、確か、アランに映画の脚本の話を勧めたのって……」

「メレディスよ」アイリーンは大きく息を一つ吐き出し、心を落ち着かせてから、足元に落ちた荷物を取り上げた。「あの人の交友関係って本当にどうなっているのかしらね」

 それからきっかり一時間、アイリーンは希佐にレオナール・ゴダンについてレクチャーしたあと、まだ稽古し足りないと文句を言うイライアスを引き連れて、スタジオを出ていこうとする。

「あ、そうだわ」忘れてたと言いながら、アイリーンは荷物の中にあった紙袋を希佐に向かって差し出した。「今年もたくさん届いているのでしょうけれど、一応ね。二人で一緒に食べて」

「ありがとう」誰でも知っている有名な高級チョコレート専門店の紙袋を受け取りながら、希佐は困った顔をした。「ごめんなさい、何も用意をしていなくて」

「あら、キサは私にお花を贈ってくれたでしょう?」希佐は今朝のうちに、カオスの仲間に花束の画像を贈っていた。画像に添付されているコードをロンドンにある特定の花屋で照会すると、同じ花束が受け取れるシステムになっている。「早速帰りに受け取って帰るわね、ありがとう」

 きっと、アイリーンはこの御礼も兼ねて、わざわざスタジオまでやって来てくれたのだろう。イライアスは帰り際に、ピンク色のバラの花を一本、手渡してくれた。

「ありがとう、イライアス」

「君の髪の色と同じ」イライアスはそう言うと、少しだけ微笑んだ。「良いバレンタインを」

 稽古を切り上げて二階に上がった希佐は、シャワーを浴びる前にバラの花の水切りをすると、余分な歯を落としてから、捨てずにいた空のワインボトルにそれを飾った。アイリーンからもらったチョコレートを寄り添わせるように置き、ようやくバスルームに向かう。

 希佐はシャワーを浴びながら、昨日見たテディベアのことを思い出していた。店を出た瞬間から、あのテディベアが頭の片隅にずっといて、まるで迎えに来てくれと言われているようだと、希佐は感じていた。

「うーん」バスタブに浸かりながら、希佐は小さく唸り声を上げる。「迷惑じゃないかなぁ……」

 花はいつか枯れるし、チョコレートは食べればなくなってしまうが、テディベアが自分の足でいなくなることはない。気に入らなかったら捨てて欲しいと言うくらいなら、プレゼントしない方がいいに決まっている。そもそも、大人の男性にテディベアを贈ること自体が、この国では非常識なのではないか。

 うんうんと唸りながら髪を乾かし、着替えを済ませた希佐は、とりあえずもう一度あのテディベアに会いに行ってみようと、暖かい格好をしてスタジオを出た。時刻は午後四時を過ぎていた。

 コツ、コツ、と鳴る靴の踵の音に耳を澄ませながら、昨日以上にバレンタインの雰囲気を色濃くさせている街中を、一人で歩く。カップルだらけのコヴェントガーデンに到着し、昨日訪れたショップに足を踏み入れると、そこは相変わらず別世界のように静まり返っていた。

「いらっしゃい」

 昨日と同じように、たっぷりとした口髭を蓄えた老齢の男性が、穏やかに声をかけてきた。希佐は素早く会釈をして、テディベアが座っていた棚の前に急ぐ。

「あっ……」

 だがしかし、昨日は確かにそこにいたはずのテディベアは、忽然と姿を消してしまっていた。ふわふわとした赤っぽい毛色の、緑色の目をした愛らしい熊は、どうやら誰かの手に渡ってしまったらしい。

 がっかりと肩を落としてしまった希佐だったが、せっかく来たのだからカードくらいは買って帰ろうと、出入り口近くの棚の前に足を向けた。可愛らしいものから、凝ったものまで様々あるが、アランに贈るものはシンプルな方が嫌がられないような気がする。

「……あれ?」

 数多くあるカードの中から一枚を選び、カウンターに向かった希佐は、思わず目を丸くした。昨日までは棚の中にいたテディベアが、カウンターの一角で小さな椅子に座っていたのだ。

「あ、あの」希佐はテディベアから顔を上げると、カウンターの向こう側にいる男性に声をかけた。「このテディベアは売り物ですか?」

 まるで定型文のような英語で話しかけてしまった希佐を見て、男性はにこりと笑みを深めるが、何も言わない。

「実は、昨日もここへ来たのですが」

「もちろん、覚えておりますとも」

「あ、はい」男性の朗らかな口振りを聞いて僅かに気持ちが落ち着いてきた希佐は、ゆっくりとその先を続ける。「あちらの棚にこの子がいるのを見かけてから、ずっと気になっていたんです。家に帰って、ベッドに入ってからも、何度もこの子のことを思い出してしまって」

 ふわふわとした赤毛が、店内を温める暖房の風を浴びて、そよそよと揺れていた。頭上のライトを反射させている緑色の目が生き生きと輝いて見え、希佐は思わず表情を和ませる。

「だから、もう一度会いに行ってみようと思って来てみたら、棚の中からいなくなっていたので、もう売れてしまったのかと……」でも、と希佐は言う。「この子は売り物ではないのですね」

 よく見れば、値札の類はどこにも付けられていなかった。その代わりに、胸元に飾られている小さな金色のペンダントには、ジェームズという名前が記されている。

 触れることすら憚れて、腰を屈めてその可愛らしい顔を覗き込んでいると、男性がにこにこと笑いながら口を開いた。

「この店の中にあるものは、すべて値段をつけられた売り物です。ただし、物によってはお売りする相手を選ばせてもらっています。こいつもその例外ではありません」

 こいつ、と言いながら、男性はテディベアの頭をそっと突いた。

「ジェームズとは、もうかれこれ十年来の付き合いがありましてね。フランスはパリまで店の仕入れに出向いたときに、とあるアンティークショップで見かけて、あまりの可愛らしさに一目惚れしてしまったんですよ。元々は売り物として購入したのですが、何とも愛着が湧いてしまって、なかなか送り出すことができず、今に至ります」

「十年も……」

「この子が生まれたのはもっとずっと昔のことだそうですよ。どこかの名のある貴族の持ち物だったそうですが、何らかの理由で没落後、その家の持ち物が競売にかけられたそうで、このジェームズもその中の一つだったそうです」

「そうなんですか」

「これまでにも、ジェームズを譲ってほしいと言われたことは何度もあったのですが、その度にこいつの顔に影が差すような気がしましてね。それに、こいつもここを気に入ってくれているなら、店主の私が引退するまでは、ここで一緒に店を守っていてくれたらと、そう思っていたんです──昨日までは、ですが」

「えっ?」

「昨日、あなたがジェームズを名残惜しそうに見つめてから帰っていくのを、ここから見ていました。てっきりその場で譲って欲しいとお願いされるのではないかと思っていたのですが、あなたはあまりにあっさりと帰っていかれた」

 希佐は違うのだと口を開きかけるが、言葉を紡ぐことなく、その口を閉ざした。だが、男性は希佐が再び話し出すのを待つように、口を噤み続けている。

「……イギリスでは、子供が生まれるとテディベアが贈られるそうですね」ええ、と男性は頷いた。「私の大切な人は施設で育ったので、自分のテディベアを持っていなくて。幼稚園などでは、子供たちがレクリエーションでテディベアを連れていく日があると聞きました。一緒にランチを楽しむんだって」

「イギリスの伝統のようなものですね」

「彼を引き取ったお家にはお兄さんがいて、ご両親はそのお兄さんのテディベアを連れていくように言ったのですが、絶対に嫌だと貸してはもらえなかったそうなんです」

 当時のロバートに悪気はなかったはずだ。相手が実の兄弟だったとしても、テディベアを貸すことはなかったかもしれない。だが、テディベアを連れずに登園したアランのことを思うと、希佐はとても切ない気持ちになる。

「でも、園の先生がとてもいい人だったみたいで、教室にいたランディっていう大きなテディベアを、彼に貸してくれたと聞きました。私が嬉しかったかどうかを聞いたら、記憶に残っているということは、きっと嬉しかったんだろうって」

 でも本当は、アランも自分だけのテディベアが欲しかったのではないかと、希佐は思う。

 聞き分けの良い子供であってほしくないと、そう思ってしまうのだ。我儘を言える子であってほしい。自分には親がいないから、捨て子だから、貰われた子だからと、我慢をするような子であってほしくなかった。愛されることも、幸せになることも、夢を追いかけることも、諦めないでほしいと思う。

 人の過去に祈りを捧げたところで何の意味もないのだとしても、そう願わずにはいられなかった。

「このテディベアを見たとき、彼のことが脳裏をよぎりました。このテディベアを彼に贈りたいと思ったんです。だって、この子はあの人にとても良く似ているから」

 とても良く似ているから、より強く惹かれたのだろう。時折、このテディベアと同じように緑の目を輝かせて、こちらを見つめてくれるあの瞬間が、希佐はとても好きなのだ。

「もしよろしければ、このテディベアを、私に譲ってはいただけませんか?」

 男性は希佐の頼みを二つ返事で了承してくれた。大きなやわらかい布で包み込むようにラッピングをし、真っ赤なリボンを掛けてくれながら、男性は言った。

「素敵なバレンタインの贈り物になりますね」

「喜んでもらえるかが心配で」

「喜んでくれますとも」男性は紙袋の中にジェームズをきちんと座らせ、一緒に購入したカードは別の袋に入れて、希佐の手から代金を受け取った。「またおいでください。あの小さなお嬢さんや、あなたの大切な人もご一緒に」

「はい」ジェームズを胸の前で抱えるように持ちながら、希佐は頭を下げる。「ありがとうございました」

「ジェームズをよろしくお願いします」

 そう言って快く送り出してくれるが、きっと、心のどこかでは寂しさも感じているのだろう。男性は店先まで希佐を見送りに出てくると、紙袋の上からそっとジェームズに触れ、幸せにな、と声を掛けてやっていた。

 すぐに帰るつもりで出てきたが、時刻は既に七時を迎えようとしていた。アランは夕食を外で食べてくるのだろうか──そう思いながらポケットのスマートフォンを取り出すと、メッセージが届いていることに気づく。

『今日は遅くなりそうだから、待たないで』

『分かった』

 そう短く返事を打ってから、希佐はコヴェントガーデン内にあるデリに立ち寄り、適当なものを見繕ってから帰路についた。途中、よく行くチョコレート専門店の前を通りかかると、幸か不幸か店員に見つかってしまい、せっかくだからといつもの量り売りのチョコレートを注文する。すると、店員はにこにことしながら、わざわざバレンタイン用のラッピングを施してくれた。

「素敵なバレンタインを」

「ありがとうございます。あなたも、どうか素敵なバレンタインを」

 帰宅してすぐ、希佐は丁寧に手を洗うと、アランが帰ってこないうちに、買ってきたカードにメッセージを書き込んだ。連れ帰ってきたテディベアのジェームズを紙袋からそっと取り出して、アランの部屋の、ベッドの枕元に置く。カードも忘れずに添えると、ラッピングの上からジェームズの頭を撫で、その場を離れた。

 アランが帰って来たのは、希佐がジョシュアとのレッスンで歌う課題曲を選びながら軽い食事を終え、自分の部屋に戻ってフランス語の勉強をしているときだった。時間は十二時を回ったところだ。

 もうそんな時間かと思いながら、天井に向かってぐっと伸びをしていると、部屋のドアが叩かれる。

「はーい」

 希佐はすぐに返事をするが、ドアは開かない。どうしたのだろうと思いながら、手にしていたペンを置き、机の上をそのままに立ち上がる。

「開けて入って来ていいのに──」

 部屋の前には、外から帰ってきたそのままの格好で、アランが立っていた。昨日と同じように鼻の頭を赤くさせているが、頬も僅かに赤らんでいる。少しのアルコールと、嗅ぎ慣れない甘い香りもするようだ。

「おかえりなさい」何も言わずに立っているだけのアランを見上げ、希佐は思わず眉を顰める。「どうしたの?」

「バレンタイン」

「え? うん、そうだね」時刻は日付を越え、十四日を迎えていた。「昼間のうちにアイリーンとイライアスが来て、お花とチョコレートをくれたんだ」

「そうじゃなくて」

 首を傾げる希佐を見て、視線を落ち着きなく右往左往させてから、アランは背中に回していた手を前に出す。そして、その手に持っていたものを、希佐の前に差し出した。

 綺麗にラッピングされたそれは、バラの花束だった。赤いバラが四本と、白いバラが五本、その周りを小さなかすみ草の花が飾り立てている、美しいブーケだ。

「これを、私に?」

「そう」アランはどこか気恥ずかしそうにしながら、小さく頷く。「他に誰がいるの」

 希佐は大きく見開いた目を何度も瞬かせたあと、黙ったまま差し出され続けている花束を、そっと受け取った。

「どうもありがとう」妙にドキドキしている胸の鼓動を感じながら、希佐は照れたように笑った。「すごく嬉しい」

 花を贈られること自体は初めてのことではない。だが、こんなにも鼓動が高鳴るのは初めてのことで、希佐は内心酷く戸惑っていた。大切な人から贈られる花束がこんなにも嬉しいものだったとは、知らなかったのだ。

 希佐は胸に抱いた花束に鼻先を近づけると、ゆっくりとその香りを吸い込んだ。甘い、優しい香りが、脳髄を麻痺させるかのように、じんわりと広がっていく。

「本当にありがとう」

「うん」

「花瓶に生けてあげないと」

 確か物置に使っていないガラスの花瓶があったはずだと、希佐はアランの手に一度花束を返すと、部屋を出て奥の物置部屋に向かった。案の定、右側の部屋に入ってすぐのところにある戸棚の中に、青い花瓶が仕舞い込まれていた。

「アラン、これ使ってもいい?」物置部屋の扉の前までついて来ていたアランに問うと、こくりと頷かれる。「綺麗な花瓶だね」

「ダイアナが旅行先のベネチアから送りつけてきたやつ」

「そうなの?」

「彼女、土産物の趣味が悪いんだ」

「そんなことないよ」

 ずっしりと重いそれを抱え上げた希佐は、アランから花束を受け取り、そのままキッチンに向かう。埃をかぶってしまっている花瓶を丁寧に洗ってから、テーブルに置いていた花束を手に取ってラッピングを外し、イライアスからもらったバラと同じように、水切りを済ませた。

「手慣れてる」

「中学生の頃にお花屋さんのお手伝いをしたことがあって、水切りの仕方はそこで教えてもらったんだ」

「ふうん」

 アランは、希佐が余分な葉と茎を切り落としている様子を、少しの間興味深そうに眺めていた。しかし、間もなくすると着替えてくると言って、自らの部屋へと足を向ける。

 希佐は思わず、あっ、と声を漏らしそうになるが、寸前のところで踏み留まった。勢いよく吸い込んでしまった息は、時間をかけてゆっくりと吐き出し、平静を装ってバラの花を花瓶に生けていく。

 しかしながら、希佐が花瓶にバラとかすみ草を生け終わっても、アランがキッチンに戻ってくることはなかった。

 もしかしたら、枕元に置いた贈り物には気づかず、そのまま疲れて眠ってしまったのかもしれないと、希佐は思う。だが、こっそりと覗き込んだ部屋の中で、アランはベッドに腰を下ろし、膝の上に置いたテディベアをじっと見つめていた。

「……アラン?」

「なに」

「迷惑だったかな」

 テディベアを見下ろしたまま微動だにしないアランを見て、希佐は自分の中から、花束を受け取ったときの高揚感が失われていくのを感じていた。ぽかぽかと暖かかった心が急激に冷え込んで、身震いすら覚えそうになる。

「その子、ジェームズっていうの。お店で見かけたとき、アランとテディベアの話をしたときのことを思い出して、それで──ごめんなさい」希佐は沈黙に耐えられず、早口で続ける。「余計なお世話だったよね」

「そんなこと言ってない」

「だけど」

「違うんだ」アランはそう言うと、ベッドに腰を下ろしたまま、ドアの影から部屋を覗いている希佐に向かって手を伸ばした。「年甲斐もなく喜んでいいものなのか分からなくて」

「それは、嬉しいってこと?」

「うん」部屋に足を踏み入れ、その手を掴むと、アランは自らの膝に希佐を座らせた。「ありがとう、大切にする」

「一応チョコレートも買ったのだけれど、明日になったらたくさん届くと思うから」

「君から与えられるものはなんでも嬉しい」

 ジェームズが傍にそっと避けられると、アランの手が腰に絡み付いてきた。もう一方の手で太ももを持ち上げられ、アランの体に跨るような格好になると、互いの顔を正面から見つめ合った。

「酔ってるでしょ」

「少しだけ」

「ウイスキーの匂い」顔が寄せられ、唇の際に鼻先が掠める。「何杯飲んだの?」

「一本飲んだ」

「監督さんと二人で?」

 頷くアランを見て、よくも平然としていられるものだと希佐は思う。いや、もしかしたら、平然として見えるだけで、実際には酩酊しているのだろうか。よく見れば、心なしか目元がとろんとしているようにも感じられる。

「今日はもう休んだら?」

「風呂に入りたい」

「駄目だよ」肩にもたれかかってくる頭を押し退け、希佐は言う。「ちょっと待ってて、お水を──」

「行かないで」

 この人は一体今なんと言ったのだと、そう希佐が思っていると、両腕を回された腰がぎゅうと締め付けられるように抱き寄せられた。希佐の首に鼻筋を擦り寄せたあと、唇を優しく押し当ててくる。

「キサ」

「ん?」

「好きだ」直接耳に囁きかけられる声が、酷く甘い。「愛してる」

「知ってるよ」

「本当に?」

 ここまで酒に酔ったアラン・ジンデルの姿を見たことがなかった希佐は、この目の前にいる男がどの程度自らの意識を制御できているのかを、判断することができなかった。ただ、今日はいつもと様子が違う、ということだけはよく分かる。朝になってこの記憶が残っていたとしたら、頭を抱えてしまうのではないだろうか。

 だが、もしそうなったとしたら、目一杯からかってやるのも面白いのではないかと、希佐は思う。いつだって翻弄してくる仕返しに。

「俺が君をどれだけ大切に思っているか、君はきっと知らないんだ」

「そんなことない」

「本当は毎晩君の隣で眠りたい」アランは首筋に顔を埋めたまま、五本の指先で希佐の背中をゆっくりと撫で上げた。「朝になって目が覚めたとき、少し掠れた君の声が俺の名前を呼んで、挨拶をしてくれるあの瞬間が、何より幸せなんだ」

「そう」

「俺のシャツを着た君が先にベッドを出て、床に落ちたものを拾い集めている姿を見るのが好きだ」

「うん」

「冷たそうに爪先立ちになって歩く姿も」僅かに頭をもたげたアランは、耳の裏側にキスをする。「部屋の寒さに耐えられなくなって、もう一度ベッドに戻ってくるところも。冷えた足を俺に押し当てて暖を取るところも。寝ている俺を抱き締めて、こっそり囁いてくれる言葉も全部、すべてが愛おしくて──」

 アラン自身がそう口にしたわけではない。それなのになぜか、君を離したくないと、そう言われたような気がした。

 持ち上げた手を頬に添え、上向かせた顔を両手で包み込む。自分も同じ気持ちだと口にすることができない代わりに、赤く熟れたような唇にそっと口付けをした。

 自分がどれだけ大切にされているかを、希佐は正しく理解しているつもりだった。こちらを見つめる眼差しや、手を握ってくれるときの触れ方や、こうして酔っているときですら、こちらの意思を尊重しようとしてくれているところからも、それを強く感じ取っている。いつだってどこかに逃げ道を用意して、無理強いをすることもない。

 それでもたまには、強く求められたいと、そう思ってしまうのは贅沢なのだろうか。それ自体が、自らで選択することから逃げているのではないかと考えてしまうのは、酷く意地が悪いのだろうか。

 いや、その通りだと、希佐は思った。

 誰よりも意地が悪いのは、自分自身だ。この人の優しさに付け入り、甘えている自分自身が、誰よりもずるい。避けられない別れを仄めかしておきながら、あなたを愛しているなどと言うこの口は、驚くほどに純粋なこの人の心を穢す、毒を吐き出すことしかできない。

 希佐から何度か唇を重ねると、その求めに応じるように、アランが下唇をやわらかく食んだ。開いた唇の隙間から分け入ってきた生温い舌を受け入れ、上顎を舐るその舌先をゆるゆると吸い上げる。

 頬に添えていた両手を滑らせ、アランの首に腕を回した希佐は、指先にネックレスのチェーンを引っ掛けた。それを軽く引っ張ると、シャツの襟元から小さな琥珀が覗く。自分と離れている間も、この太古の石がこの人の傍にいたのだと思うと、奇妙なことに嫉妬にも似た気持ちが芽生えるのを感じた。この人の命に最も近い場所で、その体温に包まれているのだ。今の希佐には、それが酷く羨ましいことのように思えた。

 腰を支え、脇腹を撫で上げる大きな手の平や、享受される口付けを感じながら、希佐はアランのシャツのボタンに手を掛けた。だが、下ろしたばかりのシャツはボタンが固く、上手く外すことができない。

「代ろうか」キスの合間に囁かれた言葉に対して首を横に振ると、アランがくすりと笑った。「ダイアナの呪いかな」

 焦っては駄目よ、と言われているような感覚になり、思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 希佐は、アランが額や瞼、眦にキスをしてくれている間にボタンを外しきると、アランの体をベッドに押し倒し、心臓の音に耳を傾けるためにぴたりと身を寄せた。

 とく、とく、とく、という音を聞きながら、自分は今、この人の命の最も近くにいるのだと思い、ほう、と息を漏らす。まるで、自分がこの人の命を握っているのだという、背徳的な気持ちになった。

 アランの手の平が、何度も何度も、繰り返し希佐の頭を撫でる。落ち着いた心音と、頭を撫でてくれる手の心地良さに眠気を誘われた希佐だったが、その手が徐々に力を失い、ある瞬間、ぱたりとベッドに落ちたのを感じて、そっと顔を上げた。

 アランは、シャツをはだけさせた格好のまま、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。希佐は一瞬だけ唖然としたあと、思わず笑みをこぼす。昼間から真夜中過ぎまで出掛けるなど滅多にないことだ。酷く疲れていたのだろう。

 体の上から退いた希佐は、深く寝入ってしまったアランの足をベッドの上に持ち上げると、靴を脱がせ、その体を羽毛の布団で覆った。傍に転がっていたテディベアのジェームズを机の上に置き、一度部屋を後にする。キッチンを片付け、花束を飾った花瓶をテーブルの上に移し、スタジオまで降りて戸締りの確認を済ませてから、再びアランの部屋に戻ってきた。

 パジャマに着替えるのが面倒で、着ていた服をその場で脱ぎ捨て、下着姿のままベッドの中に忍び込む。持ち上げた腕の下に体を入れ、寄り添うようにして横になると、胸元に手を置いた。

「Fais de beaux rêves.」

 朝、目を覚ましたアランが今夜のことを覚えていなくても、希佐はこの先もきっと忘れないのだろう。行かないでくれと縋り、本当は毎晩君の隣で眠りたいと吐露した、あの寂しげな声を。

 

 

 流石のアラン・ジンデルも、ウイスキーを浴びるように飲めば、二日酔いにもなるようだ。

 希佐が早朝の稽古後に、湯を張ったバスタブの中でマッサージをしていると、具合の悪そうな顔色をしたアランが、突然バスルームに現れた。

「おはよう、アラン」

「ん」

 髪や体を洗うでもなく、そのままバスタブの中に足を入れたアランは、端に寄った希佐に背を向けて体を湯に浸した。

「髪を洗ってあげようか?」

「今はいい」

 いつもより低い声で答えるアランの肩に後ろから腕を回し、希佐はその体を自らの方に引き寄せた。何の抵抗もなく希佐の胸に頭を寄り掛からせたアランは、頭の天辺から湯を浴びせかけられても、何も言わずにぼうっと壁を眺めている。

「大丈夫?」

「頭が割れそう」

「珍しいね」

「俺はいいけど、後でレオに連絡しないと」レオ、というのは、レオナール・ゴダンという映画監督のことだろう。「まあ、あの人のことだから平然と仕事をしてるんだろうけど」

「昨日は楽しかった?」

 希佐は自分の胸に寄り掛かっているアランの髪に触れながら、そう問いかける。すると、アランは僅かにこちらを振り返り、二日酔いで濁ったように見える緑色の目を希佐に向けた。

「レオに君を紹介したい」

「私を?」

「近いうちに会ってほしいんだけど」

「それはもちろん構わないけれど」その返事を聞くと同時に前を向いてしまったアランの体を、後ろから緩く抱き締め、希佐は続けた。「私の話をしてくれたの?」

「レオが聞きたがるから」

「あなたの口からどんな話を聞かされたのか、しっかり教えてもらわないと」

「別に聞かれて困るようなことは言ってない」アランは取り繕うでもなく言った。「大切な人を紹介したいって言っただけ」

 ああ、この人はきっと、昨夜のことを余すことなく覚えているのだろうと、希佐は思った。アランは口を噤んだ一瞬の間から何かを感じ取ったのか、肩越しに後ろを振り返る。

「なんで黙るの」

「アランが私のことを誰かに紹介したいなんて、初めてだから」

「カオスの連中とかメレディスにだって紹介した。スペンサーにも」

「アランは私を役者として紹介したいの?」

「俺の話、聞いてた?」アランは少し呆れたように言う。「しばらくはロンドンにいるって言ってるし、君の都合の良い日があれば」

「私は週末なら大丈夫だよ」

「じゃあ、向こうの都合を聞いてみる」

 レオナール・ゴダンという人物は、人付き合いを面倒に感じているとばかり思っていたアランが、積極的に関わりたいと思うような、そんな人のようだ。そして、その人に自分のことを紹介したいと、そう言ってくれている。

 それは何だか、とても不思議な感覚だった。

 恥ずかしいような、照れ臭いような、くすぐったいような。でも、嫌な感じはしない。むしろ、嬉しいとすら思っている。

 しかし、それと同時に感じているのは、胸を締め付けられるような罪悪感と、己に対する嫌悪感だった。

 終わりは刻一刻と近づいているのだ。今、この身に感じている幸福感は、いつまでも続くものではない。

 その事実に目を瞑り、また今日も生きていく。

 最後の審判が下される、その日まで。

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