ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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アメイジング・グレイス

 あれから何度か日本に帰ることはあった。取得するビザの関係上、帰国を余儀なくされることが何度かあったからだ。滞在日数はほんの数日で、希佐はまたすぐに、逃げるようにして海外に飛んだ。日本にいる間は、念のため芸能人よろしく帽子を目深に被り、伊達メガネをかけていたが、幸いにもユニヴェール関係者と出会うことはなかった。

 一度か二度、中座秋吏に連絡をしたことがある。現在の連絡先を知られることを避けるため、公衆電話からユニヴェール経由で校長に繋いでもらった。

 繋がった電話口、希佐が名前を名乗ると、校長は安堵したように息を吐いていた。まるで、今の今まで呼吸の仕方を忘れていたとでもいうふうな、大きなため息だった。

「お前さんが生きてると分かって安心したよ」

「校長先生もお元気そうですね」

「今、どこにいるんだ?」

「日本にいます」

 聞きたいのはそういうことではないのだろう。日本のどこにいるのだと、そう聞いているのだ。だが、教えたところで意味はない。飛行機の搭乗時間が迫っていた。

「また連絡します。江西先生にもよろしくお伝えください」

 電話はすぐに切った。長く話をしているとぼろを出してしまいそうだったので、電話には十円しか入れていない。電話口の向こう側から、少し焦ったように希佐を呼ぶ声が聞こえたが、聞こえなかったふりをして、受話器を置いた。

 

 最初に向かった国はアイルランドだった。首都のダブリンに三か月滞在していた。

 気候は日本とあまり変わらない。なぜか電気をつけても薄暗く、バスルームの排水溝から妙な音が聞こえてくる格安のホテルに滞在し、特に何をするでもなく、日がな一日ぼんやりと過ごしていた。

 ある日は、朝から公園に出かけ、夕方まできらきら輝く池の水面だけを眺めて過ごした。

 ダブリンの街は音楽が盛んなようだった。朝から晩まで楽器の音色と歌声が響き渡っている。

 三年間、ユニヴェールでの生活がすべてだった希佐にとって、この三か月は体を休める良い機会だったのかもしれない。だが、何日かすると体を動かしていないことに違和感を覚えはじめ、広々とした公園の人気のない場所で、自主練と稽古をするようになった。

 

 ダブリンでの生活が気に入った希佐は、ワーキングホリデービザを取得し、アイルランドで働きながら一年を過ごした。この時、ビザを取得するために、一度日本に帰国している。

 語学学校には通わなかった。ユニヴェール在学中に独学で英語の勉強はしていたのだ。生きた英語を学ぶためには、学校へ通うよりも人々に揉まれた方が良いと考えていた。それに、ダブリンの街の人たちは優しく、親切だった。希佐の拙い英語でも親身になって耳を傾け、話を聞いてくれた。間違いを指摘し、正してくれる。おかげで、英語の上達は早かった。

 ダブリンは芸術が盛んで、劇場も多くある。貯金にはなるべく手を付けないようにしながら、働いて得たお金の多くは、演劇やミュージカルにつぎ込んだ。翌日には本屋に出かけ、昨日観劇したばかりの演目の原作を購入し、辞書を引きながら何度も読み込んだ。舞台に立っていた演者を真似、公園の奥まった場所で稽古を続けた。

 ユニヴェールを離れても、立花希佐は、歌劇に没頭し続けていた。

 ダブリンでの暮らしが半年を過ぎた頃、似たような環境を探して、今度はイギリスのユース・モビリティー・スキームを取得するための申請を行うことを決めた。運良く抽選で選ばれ、このとき取得したビザで、イギリスへの最長二年の滞在と就労が認められた。

 二度目の帰国はこの時だ。これ以降は、一度も日本に帰っていない。

 イギリス、ロンドンでの暮らしは、ダブリンでの暮らしに比べると苦しいものだった。

 昼間は、見るからに日本食からは程遠い日本食レストランで働き、客に愛想を振りまいた。給料はそれなりにもらえたが、物価が非常に高いので、客からもらえるチップがありがたかった。

 相変わらず、週末には劇場に足を運び、数多くの刺激に触れ続けた。勉強も怠らなかった。稽古も続けた。この頃にはもう英語に慣れ、日常会話に不自由することはなくなっていた。品の悪い客に対して、英語で言い返せる程度には度胸も身についていた。

 

 朝、目を覚ます。準備をし、仕事に出かける。お世辞にも美味しいとは言えない賄いで腹を満たし、夜まで働く。デリで安くなっていた総菜とパンを買い、ふらふらとした足取りで帰宅をすると、食事をしながら昨日の勉強の続きをして、真夜中を過ぎてから冷たいベッドに入って泥のように眠った。

 週末だけが唯一の楽しみだった。演劇やミュージカルのチケットは安くなかったが、普段の生活を切り詰めてでも、絶対に通い続けるのだと決めていた。

 しかしながら、希佐の心と体は、日に日に疲弊していった。無茶な生活を続けていたのだ、当然だろう。ダブリンには友人がいたが、ロンドンにはいない。職場に行けば人と話はするものの、仕事上の付き合いというだけで、深入りをすることはなかった。

 

 ロンドンにやってきて一年、日本を出て二年と少しが過ぎた頃、希佐は初めて、帰りたい、と心から思った。

 見慣れてきたはずなのに、自分の生まれ故郷とはまるで違う街並み。価値観の違う人々。飛び交う言語は異国のものだ。外国人として好奇の目に晒されることもある。女性であることを隠さずに済む国にいるというのに、下卑た目で見られることが嫌で、男を演じることもあった。

 もう駄目かもしれないと思った。一人には慣れているはずだ。それなのに、どうしてもつらくてたまらなくなった。何よりも孤独が恐ろしかった。どろどろとした黒いへどろのような感情が、心を埋め尽くしていくようだった。目の前が真っ暗になって、ただただ、ユニヴェールでの生活が光り輝く懐かしいものに感じられて、たまらない気持ちになった。

 

 ふらり、ふらり、とロンドンの街を当てもなく歩き続けた。徘徊と言った方が正しいのかもしれない。そろそろ貯金も底をつこうかという頃だった。

 金曜日の夜。そう、その日は、金曜日の夜だった。

「……全然きらめいてなんかない」

 金色のきらめきなんて、どこにも見当たらないではないか。

 希佐がそう思ったとき、不意に、聞き覚えのある音楽が微かに聞こえてきた。ピアノの音色だ。ユニヴェール時代に歌唱の授業で歌ったことがある。

 その音楽に誘われるようにして歩いて行くと、希佐の目の前に小さな教会が現れた。少し拙い、授業で少し習っただけの希佐の方がまだ上手く弾けるのではないかと思うピアノの演奏が、その教会から聞こえてきている。

 教会の門戸は開かれていた。希佐の足は躊躇いながらもその場所へと向かう。

 小ぢんまりとした教会だった。ユニヴェールの近くにある、介が子供たちのために足繁く通っていた教会と似ているように感じた。左右に五列ずつ長椅子が置かれ、正面には救い主が描かれたステンドグラスが見える。その手前、一段高くなった場所に、一台の古いピアノがあった。

 小さな男の子は、希佐が入ってきたことにも気づかず、ピアノを弾き続けている。譜面台に置いてある楽譜と必死で睨めっこをしながら、たどたどしい手付きで鍵盤を叩いていた。

 希佐は男の子から少し離れた場所に座り、その演奏に耳を傾けた。

 もう何もかもが嫌になって、このまま消えてなくなってしまいたいと思っていた希佐の心に、そのたどたどしくも純粋なピアノの音色が、じんわりと沁みていく。ぽーん、ぽーん、と気持ち良く響くピアノの音色が、途端に輝いて感じられた。金色に、きらめいていた。

 

 アメイジング・グレイス。この国、イギリスの牧師ジョン・ニュートンが作詞をした、讃美歌だ。

 希佐は無意識にその歌を口遊んでいた。驚いた男の子が演奏をやめ、こちらを振り返っても、歌うことをやめられなかった。両の目からは涙がとめどなくこぼれ落ちていく。それでも、希佐は震える声で、最後まで歌い続けた。

 両手で顔を覆うこともしなかった。

 まるで子供のように、声をあげて泣いた。

 こんなに遠くまで来てしまった。たった一人で。それを望んでいたはずだった。誰も立花希佐という存在を知らない土地で、新しい人生をはじめるのだ、と。自分だけの夢を見つけて、女として、やり直すために。こんなところまで逃げてきてしまった。大切なものを、捨ててまでも。

 ひとしきり泣いて、泣いて、泣き疲れた頃、ピアノの丸椅子に座っていた男の子が、こちらに向かって歩いてきた。希佐は手の平で顔を拭う。視界の端に、少し褪せた赤色が映り込んだ。

「……ごめんね、驚かせてしまって」

「ううん」目の前までやってきた男の子は、首を横に振ると、希佐の顔をじっと見つめた。「お姉さん、歌が上手なんだね」

「ありがとう。でも、全然上手に歌えなかったよ」

「そんなことない。きっと、神様に届いたよ」

「え?」

「お姉さんの歌には心がこもっていたもの」

「……そう、かな」

「とても綺麗だった」

 男の子は驚くほど美しく笑う。まるで、天使のように。男の子の優しさが骨身に沁みて、希佐はまた泣きたくなった。

「ミゲル」

 希佐はその声に驚き、びくりと肩を震わせた。自らの名前を呼ばれた男の子は、希佐の頭越しに向こうを見やり、浮かべていた笑みをより深くする。

「パパ!」男の子はぱっと駆けて行った。「パパもお姉さんの歌を聞いていたでしょ?」

「ああ、もちろん」

 希佐は慌てて立ち上がった。そして、あまりの恥ずかしさに赤面し、両手で頬を覆う。

 ああ、なんて姿を見せてしまったのだろうと思いながら、恐々と後ろを振り返った。

「す、すみません、あの、こんな姿をお見せしてしまって、その……」

「大丈夫ですよ」

 涙でぼうっとした視界の中に、一人の男の人が立っていた。希佐はもう一度涙を拭い、瞬きをする。鮮明になった視界の先に現れたまだ若い男の人は、優しげな笑みをたたえ、こちらを見ていた。

「私はこの教会の牧師でロバートと言います。この子は息子のミゲルです」

「わ、私は、希佐です」

「キサ?」

 男の子が不思議な響きを堪能するように復唱した。希佐はそれを聞いて少しだけ笑うと、男の人を見る。

「通りを歩いていたらピアノの音色が聞こえて、つい懐かしい気持ちになってしまって」

「懐かしい?」

「私、日本の歌劇学校に通っていたのですが、そこで習ったんです。アメイジング・グレイス」

「ほう」

「ご迷惑でしたよね。本当にすみません。すぐに出て行きますので」

 穴があったら入りたいと思いながら、希佐は長椅子の間を抜けて中央の通路に出た。壁掛け時計に目をやると、時刻は九時近くを差している。

 しかし、悪いことは続くものだ。子供のように泣きじゃくる姿を見られ、ただでさえ醜態を晒しているというのに、希佐はその恥をさらに上塗りしてしまった。

 ぐう、と、腹が鳴ったのだ。今日は朝から何も食べていなかった。食欲がなかったからだ。だが、今更になって腹が減ってきたのだろう、続けざまに、ぐう、と鳴る。

 みるみるうちに赤くなっていく希佐の顔を見て、男の子はくすくすと笑った。父親も笑っているが、どこか申し訳なさそうだ。これはもう笑ってごまかすしかないと思った希佐は、あはは、と声をあげた。

「お姉さん、うちでご飯を食べていきなよ」

「えっ?」

「今日はピアノの練習をしていたから、僕もまだ食べてないんだ」

「で、でも……」

「よろしければ、ぜひ」

「あっ、ええと、それじゃあ……」

 もし本当に神の思し召しというものがあるのだとしたら、これがそうだったのだろうと、後になって思う。立花希佐は、遠いイギリスはロンドンの地で、この親子に救われたのだ。この出会いから、事態は徐々に好転していくことになる。

 もちろんこのときは、そんなことなど知る由もなかったのだが。

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