ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

50 / 65
あれから

 今が何時かは分からない。蛍光灯はもう何週間も前から切れた状態のまま放置されている。そもそも今時蛍光灯なんて時代遅れが過ぎるだろう。まず燃費が悪い。LED照明に変えてくれと頼んだのに、そうしたら「お前がここを去るのが先か、取り替えた電球が切れるのが先か賭けよう」という仕様もない話を持ちかけられたので、面倒くさくなって暗闇の中で作業を続けていた。窓には高性能の遮光カーテン。光源といえば目の前にある液晶ディスプレイだけだが、それが三台も並んでいれば眩しいくらいだ。執筆用、資料検索用、映像資料用という名の暇つぶし用──何とか説得して経費で落としてもらったのだから、仕事を怠けるわけにはいかない。

 最初の一、二年はうるさいものだった。作業部屋に引き篭もってばかりいないで合同稽古に顔を出せだの、まだ脚本家の真似事はいいからお前も若いうちは舞台に立って表現力を磨けだのとしつこく迫られていたが、今では誰も声をかけて来ない。

 古典には古典の魅力があるのだと説得されるたびに、自分は新しい世界を生み出し、それを表現したいのだと反論してきた。多くの人々は理解できないと呆れ顔だったが、そういう連中は、自分が脚本と演出を手掛けた舞台で殴り、黙らせた。簡単なことだった。

 ユニヴェールを卒業し、これで世界が大きく広がると思っていたのは、大きな間違いだった。あの頃の方がずっと自由で、融通が利き、開放感があったように思う。何をするにも教師の許可は必要だったが、彼らはこちらの話に耳を傾け、妥協し、説得に応じてくれた。だが、こちらのお歴々連中は違う。話に耳を傾けようとしないどころか、自分たちの価値観を押し付け、説得されるどころか説教を聞かせてくる始末だ。お前はまだ若い、未熟だ、不勉強、もっと年長者を見習い、敬え、この青二才が。正直な話、興が削がれる。

 卒業から七年、ようやく自分の才能が正しく評価されるようになってきたと、根地黒門は感じていた。もちろん、自分にも未熟な要素が多々存在することに関しては否定しないが、それを差し引いてもあまりある天賦の才があると自負している。

 玉阪は狭い。いずれ玉阪座を抜け出し、もっと別の場所で、より多くのことに挑戦してみたい。

「お前がそうしたいって言うなら、俺は止めるなんて野暮な真似はしねぇよ」十八代目玉阪比女彦、中座秋吏は言った。「だが、お前がいなくなったら、玉阪座は相当な損失を負うことになるだろうなぁ」

 中座は面白そうにくつくつと笑いながら、煙管の煙を燻らせた。

「あの頭が凝り固まった連中の下でこれだけ耐えられれば、もうどこへ行ったって折れずにやっていけるだろうよ。現に、お前みたいなやつは、玉阪座以外の場所で伸び伸びとやっていく方が、性に合ってるに違いねぇ。まあ、精々今のうちに貯えておけよ、根地。この先、誰もお前を養っちゃくれねぇんだからな」

 そう、玉阪座にいれば、たとえ舞台に立たずとも、月々の給金は得られるのだ。ユニヴェール歌劇学校にいた頃から、自分の好きなことだけに目を向け、好きなようにやらせてもらってきた。その上、給料まで発生する。ここは根地にとって永久機関のような場所だ。ここにいるかぎり、きっと、不自由することはないのだろう。

 だからこそ、ここ数年は退屈過ぎて、欠伸が止まらないのだが。

 ほんの少し前に、田中右宙為を日本に呼び戻して、無理やり舞台に立たせた。脚本の段階で、これは傑作だという仕上がりの本を書いたはいいものの、主役の一人である彦を演じられる人物は、田中右宙為以外にはいなかったのだ。

 脚本データをメールに添付して送り、頼むから出てくれとメッセージを添えると、たった一言「分かりました」とだけ返事があった。だが、それからも暫くは音沙汰がなく、玉阪に帰ってきたのは公演初日の約一ヶ月前だ。根地が日々の稽古を録画し、事細かな指示書きを毎日のように送りつけていたため、田中右は稽古初日から完璧に自らの役割をこなし、あいつのせいで公演が失敗すると文句ばかり垂れていた者たちを、完膚無きまでに打ちのめしていた。それどころか、脇を固める役者の多くとアンサンブルたちは、田中右に遅れをとってしまうほどだったのだ。

 ただ一人、高科更文だけが、田中右宙為の隣で悠然と輝いていた。

 立花希佐がユニヴェールから忽然と姿を消し、失踪したあの日から、間もなく五年が過ぎようとしている。

「ああ、いや、違うか──」根地はそう言いながら、充電がほんの僅かにしか残っていないスマートフォンを取り上げ、日付と時刻を確認する。「今日が丁度その日だね」

 織巻寿々から立花がいなくなったと連絡を受け、それを更文に告げたとき、一体何の話をしているのだという顔をして、唖然としていたことを今も鮮明に覚えている。

 もちろん、根地たちは心当たりのある場所を一晩中探し回った。だがしかし、本人を見つけられるどころか、目撃情報の一つも得られることはなかった。

 立花と懇意にしていた数人が校長室に呼び出され、事の顛末を聞かされたのは、その数日後のことだった。

 立花希佐はもうずっと前から、最後のユニヴェール公演を終えたその翌日に、誰にも何も言わず、忽然と姿を消すことを計画していたのだろう、と。

 あの時、中座秋吏はいやに落ち着き払っていた。根地はそれを奇妙に思ったが、その思いを口に出すことはなかった。中座は嘘を吐いている。そう確信していても、何も言わなかった。警察に通報するという選択肢が除外されている時点で、これは仕組まれた失踪なのだろうと、そう思ったからだ。

 後日、立花希佐は家の事情で、早期卒業という扱いになったと聞かされた。急いで荷物をまとめ、実家に帰らざるを得ない状況にあったのだと、ユニヴェール生は説明を受けたらしい。本来なら卒業式で主役となるはずだった存在が姿を消したユニヴェールは、まるで月を失った夜のような静けさに包まれていたことだろう。

 高科更文は、まるで暴れ馬時代に戻ってしまったかのように荒れていたが、あの頃のように誰かに当たることは決してなかった。その代わりに、誰とも口を利かず、ただただ稽古に没頭し、自らの芸を磨くことだけに集中していた。周囲から孤立することを喜んでいるようにすら見えていた。

「フミ」合同稽古の休憩中、稽古場の隅で柔軟を続けていた更文に歩み寄った睦実介が、いつもと変わらぬ口振りで声を掛けた。「このままはよくない」

 誰もが固唾を飲んで見守っていた。

 あれだけ存在感のある男が、冷たい空気を纏わせたままやって来れば、稽古場は途端にピリッとした刺激のある空間に生まれ変わる。根地や睦実、ユニヴェールの同期生たちは慣れたものだが、先輩や後輩はたまったものではない。

「まあ、いいんじゃないですか」菅知聖治が他人事のように言っていた。「あの人が稽古場に入ってくると、だらけた空気が一掃されるので、稽古に集中できますし」

「でも、それってまるで恐怖による支配よねぇ」困ったわ、と漏らしたのは、忍成司だ。「このままはよくない──カイの言いたいことは分かるわ。私だって、フミにはこれ以上孤立してもらいたくはないもの。彼、希佐がいなくなってからずっと、誰にも触れる事のできない場所に心を閉じ込めて、自分を責めているみたい」

 高科更文が怠けているのなら、玉阪座のお歴々や先輩方も、面と向かって文句を言えたのだろう。だがしかし、更文はただ実直に、黙々と稽古をしているだけなのだ。表面上は誰にも迷惑をかけていない。周りの人間が勝手にその雰囲気に飲まれて、被害者面をしているだけだ。

 あれをどうにかしてくれと抗議を受けた十八代目玉阪比女彦は、鶴の一声を寄越すどころか「放っておけ」の一言を放ち、傍観を決め込んでいた。

「大いに結構じゃねぇか」中座が面白そうに笑っていたことを覚えている。「あいつはあれで芸に磨きが掛かってるんだ、何も悪いことばかりじゃねぇだろ? 周りの連中にもいい刺激になるだろうしな」

 中座ですら触れようとしない問題に、そうして自ら進んで歩み寄った初めての人物が、睦実介だった。

 介はいつも少し離れた場所から更文を観察し、常に何かを考えている様子だった。自分が説得を試みたところで逆鱗に触れると理解していた根地は、こうして介が更文に歩み寄っていくのを待っていた節がある。

 そもそも、現状に対してさほどの逼迫性を感じていなかった根地にしてみれば、この問題を楽しむだけの心の余裕を持ち合わせていた。

 高科更文の二度の喪失経験は、今後の演技に間違いなく深みを与えるはずだ。周囲はなぜそれを喜ぶことができないのか。この経験を活かした脚本は既に、頭の中で二、三本が完成に近づいていた。

「何の話だよ、カイ」

 壁を背にして座っていた更文が、介を見上げて言った。

「本当はお前にも分かっているはずだ」久しぶりに合同稽古に出てきてよかったと思いながら、根地は二人の様子を横目に見ていた。「あいつは自分の道を自分で選び、歩き出したのだと」

「……なあ、お前、本当に何の話をしてるんだ?」

「フミだけがつらいわけじゃない。それなのに、お前は──」

 おっ、と思いながら身を起こした根地は、介の次なる言葉に期待した。地雷を踏み、爆発を招くつもりか。それはそれで面白いが、時と場所を選んだ方が身のためだ。大体、立花希佐が女であるという情報は公表されておらず、二人が恋人関係にあったことは、身内と呼べるほど近しい関係の者たちしか知らない。

 さあさあ、どうする──そう思いながら舌なめずりをする根地を、司がどこか蔑むような目で見ていた。

「──お前は、その悲しみを誰とも共有しようとしない。いくら口を噤み、必死になって思いを閉じ込めていても、お前の中にある蟠りは解消されないと、俺は思う」

「なぁんだ、つまらないな」根地が胡座を掻いた足に頬杖をついて不満そうに漏らすと、近くにいた菅知がこちらを見た。「久しぶりに感情を大爆発させるフミが見られると思ったのに」

「根地さんってたまに無神経なことを言わはりますよね」

「あら、聖治、違うわよ」司はそう言い、にっこりと笑った。「コクトは常に無神経なの」

「まあっ、酷いわっ、そんな言い方するなんてっ」

「自分に都合が悪くなるとすぐに茶化そうとするのも悪い癖よ」

 半ば、どうでもいいと思っている自分がいることは、否定しないと認めよう。ここはもうユニヴェール歌劇学校ではない。似た者同士で寄せ集められていた学生時代とは違う。協調性よりも同調性を基本とする世界だ。もちろん、一部例外も存在するが。

「高科さんはユニヴェールにいた頃から立花によく目を掛けてはりましたけど、あんな状態になるほどの仲やったんですか?」

「まあね」

「聖治だって、海堂が何も言わずにどこかへ姿を消してしまったら、フミのように傷つくんじゃないかしら」

「海堂さんはそんな無責任なことをしはる人やありません」でも、と菅知は続ける。「もし本当に、海堂さんが誰にも何も言わずにいなくなりはったら、何か酷く思い詰めていはったんやろなと思います」

「それに気づいてあげられなかったことを悔やむとは思わない?」司はまるで諭すような物言いで言った。「フミはそれを悔やんでいるのよ。きっと自分が許せないのね。だって、海堂の一番近くに聖治がいたように、希佐の一番近くには、ずっとフミがいたんだもの」

 玉阪座の関係者は、立花希佐の失踪を全員が知っている。隠し通すことはできないと考えてのことだろう。中座秋吏は真実を公表した上で、緘口令を敷いた。情報が漏洩した場合、必ず犯人を炙り出し、玉阪座からつまみ出すとさえ言った。

 玉阪座は立花希佐を欲していた。あれほどスター性のある役者は滅多に現れないことを知っているが故に、喉から手が出るほど欲しがっていた。あの輝きは天性のものだ。このまま手放すには惜しすぎる。

 ユニヴェール歌劇学校は本来、玉阪座で活躍する役者を育てるための機関だ。多くの子供たちは、玉阪座に入門することを目標にしてやってくる。

 だがしかし、立花希佐は違っていた。

 立花はユニヴェールに入学し、そこで演じることに重きを置いていた。その先にある世界になどは目もくれず、今目の前にある人生だけを謳歌しているように見えていた。いや、見えていたのではない。まさしくその通りだったのだろう。ユニヴェール歌劇学校での日々は、立花希佐にとって、この先の人生のすべてを投げ打ってでも叶えたい夢だったのだ。

 だが、立花希佐は女だった。本来、ユニヴェール歌劇学校に入学する資格すら持たない人間だ。ユニヴェール歌劇、そしてその母体である玉阪座は、男性のみで舞台歌劇を作り上げている。それは古くから続く伝統だ。そう簡単に変えられるものではない。

 それでも、中座秋吏は立花希佐の入学を認めた。正しくは、中座が校長という立場を利用し、立花希佐にユニヴェールへの入学話を持ちかけた。

 そこにどのような理由があったにせよ、根地はこれを正しいことだったと認めたくはない。玉阪座やユニヴェールの歌劇は、男性のみで作られるものだからこそ価値がある。その聖域に、校長の独断で女を立ち入らせるなど、もってのほかだ。校長が十八代目玉阪比女彦だからこそ、伝統を重んじなければならないと根地は思う。

 しかしその反面、いつまでも古いしきたりに囚われ続けていることにもまた、同等かそれ以上の憤りを覚えていることも事実だった。

 古典には古典の良さがある。もちろんその通りだ。だが、新しいことにも挑戦していかなければ、いずれ時代から取り残され、淘汰されていく可能性だってあるのではないか。能や狂言、日本舞踊や歌舞伎などが消えてなくならないのと同じように、玉阪歌劇も消滅しないと言い切れるのか。未来のことは、誰にも分からない。

 伝統と革新。

 立花希佐と出会い、彼女が女であるという事実を突きつけられてからずっと、根地黒門の頭の中では常に、この二つの言葉がせめぎ合っている。立花が消息を経って五年、未だ勝敗は決していない。

 彼女との出会いは特別なものだったと、根地は思っている。

 正直な話、立花希佐は女だったと中座の口から告げられるその瞬間まで、根地は彼女の性別を意識したことがなかった。

 まず、ユニヴェールに在籍している時点で、すべての生徒が男であるという大前提がある。どれだけ女性らしい容姿をしていようが、目の前にいる人間は男だ。その事実が、根地黒門に安心と安全、そして安寧をもたらしていた。女と関わり合いになることを避けてきた自分にとって、ユニヴェールは楽園のような場所だった。

 だが、中座から立花が女だったと告げられたとき、根地は動揺すらしなかった。まるで最初からその事実を知っていたかのような顔で、真実を告げる中座を見ていた。おそらく、深層心理の奥底では、立花希佐が女であることを確信していたのだ。でも、真実には目を瞑り、彼女は男であると自己暗示をかけ、平然と向き合ってきた。

 三年の冬公演後に開きそうになったパンドラの箱。根地は、もしかしたらと、そう思っていたことがある。だが、ハヴェンナの女を演じた冬公演以降、これまでは根地の作業部屋に頻繁に足を運んでいた立花が、個人的な理由で訪ねてくることはなくなった。

 だから、開きかけていたパンドラの箱の蓋はゆっくりと閉じて、まるで何事もなかったかのように、無事に最後のユニヴェール公演を終えることができたのだ。根地黒門にとって、女は鬼門であると知っていたからこそ、立花希佐は自らの意志で距離を置くようになった。

 根地は立花希佐の才能を心の底から愛していた。だが、彼女に恋をしていたかといえば、それは疑問だ。そもそも、根地には恋心というものがよく分からないし、この先も一生、分かりたくないと思う。

 ユニヴェール歌劇に女は必要ないというのが、根地黒門の考えだ。しかしながら、根地がユニヴェールの最終学年で描いてきた物語のすべてに、立花希佐は必要不可欠な存在だった。

 女は必要ない。

 でも、立花希佐は必要だったのだ。

 この矛盾した感情の矛先が向かう先は、机の上に置かれた紙とペンだ。もう何冊目になるかも分からないネタ帳に、誰にも演じられることのない脚本が、次々と完成していった。

 頭の中に思い描く舞台の中心にはいつも同じ人物が立っている。一人の観客もいない舞台の上で、千のスポットライトを浴び、光り輝いている。男でも、女でもない、天性の役者が。

「こんな俺でも話し相手くらいにはなれる」酷く真面目腐った態度と声音でそう言うので、根地は思わず吹き出しそうになってしまった。「だから、溜め込まないで話してくれ。俺はお前の力になりたい」

「……お前、この状況下で、よく恥ずかしげもなくそんなことを言えるな」

「恥ずかしいことを言っているつもりはないんだが」

 そう言いながら、介は少しだけ困ったような表情を浮かべていた。

 いずれにせよ、この出来事がきっかけで、更文は少しずつ以前の精神状態を取り戻していった。あれだけ大勢の前で晒し者にされたことが、相当堪えたらしい。

「もうあんな目には合いたくねぇからな」

「そうよ、フーミン。あんたももう良い大人なんだから、自分のご機嫌くらい自分で取れるようになりなさい」

「うるせー」

「まっ、なんて反抗的な子なの? お母さんはそんな子に育てた覚えはありませんよ!」

「俺はおまーに育てられた覚えがねーんだけどな」

 こうして、高科更文からは徐々に剣が失われていった。そして、腑抜けの時代に突入していくのだが、これ以上は話が長くなるのでまたの機会にしておこう。因みに、その腑抜けの時代から完全に脱したのは、立花希佐が失踪してから四年と少しが過ぎた頃だ。

 当人にどのような心境の変化があったのかは分からない。ただ単に吹っ切れただけなのかもしれないが、以降、更文はより精力的に芸事に励むようになっていった。

「別に、大した心境の変化じゃねーよ」前に、更文と司の会話を、ついうっかり聞いてしまったことがある。「たださ、今の俺の惨状を見て、あいつがどう思うかなって考えたんだ。それで、あいつにだけは幻滅されたくねぇなって、そう思っただけ」

「あの子があなたのことを幻滅するわけがないじゃない」司はまるで菩薩のような微笑を浮かべ、更文を見上げていた。「フミが誰よりも努力してきたことを、私は知っているわ」

 何はともあれ、更文が立ち直れたのであれば、それはいいことだ。時期を見計らって、そろそろ次の段階に進むべき頃合いが近づいてきている。

「しかし、五年か……」根地はそう呟きながら、ディスプレイに動画共有サイトのトップページを開いた。「案外掛かったね、フミ」

 その都度ログアウトしているアカウントにパスワードの入力し、サイトにログインをした根地は、非公開にしているリストを開いた。

「君がもだもだしている間に、立花くんは随分遠いところまで行ってしまったよ」

 作業用のBGMとして、海外のトレーラーやプレビュー映像を無作為に連続再生していたとき、根地は奇跡的にもその歌声と出会った。

 厳密には二年ほど前のことだ。おすすめ動画として唐突に再生されたその映像は、スマートフォンで録画されたものだとすぐに分かるほど、酷くお粗末な音をしていた。がやがやとした喧騒に耳を傾ければ、英語での会話が聞こえてくる。発音から察するに、イギリスだろう。

 どうしてこんな動画が、良質な舞台映像の間に差し込まれるのだと思いながら、根地は興味のない動画という文字にカーソルを合わせようとした。しかし次の瞬間、聞こえてきた声に思わず息を呑む。

『There was a time when men were kind──』

 それは聞き覚えのある声だった。いや、聞き覚えがあるなんて言葉では足りない。思わず、心臓が、止まりそうになった。

 いつの間にか喧騒は消え去り、その歌声だけが画面越しに聞こえてきていた。薄暗い室内。どうやらバーかパブのような場所のようだ。その店内の奥まった場所にある小さなステージの上に立ち、その女性は歌っていた。

 ゾクゾク、と全身に鳥肌が立ち、呼吸をすることすら忘れ、その歌に聞き入っていたことを、根地は今も覚えている。

 それはまるでトレゾールを思わせる歌声だった。アルジャンヌとしてユニヴェールで演じていた頃よりも声に深みが増していた。いや、それ以上に、表現力に磨きがかかっていた。

 違う、そうじゃない。これは、演じているんじゃない。

 自らの心の内を吐露するような、喜びや苦しみ、ありとあらゆる感情を吐き出すような、魂の歌声。ユニヴェール時代には表現することが許されなかった、人間の“女”の部分が、前面に押し出されている。

「いや、そんな、まさか──」

 ぎゅう、と心臓が握り潰されるような感覚を覚えるが、根地はゆっくりと鼻から息を吐き出すと、心臓の鼓動を大人しくさせた。そして、これが現実であることを確かめようと、作業部屋の外に出る。

 板張りの稽古部屋には、合同稽古待ちの座員が大勢集まっていた。掻き毟った頭をそのままに現れた根地を見て、出入り口付近にいた司が呆れたような目を向けてくる。

「コクト、身嗜みにはもっと気をつけた方がいいわよ。あなた、次の舞台では比女を演じるんでしょう?」

「え、ああ、うん、そうだね」

「……あなた、具合でも悪い?」呆れの表情を消した司は、すぐに心配そうな面持ちを浮かべた。「顔が真っ青よ」

「太陽の光を浴びること自体が久しぶりだから。それに、ここ二、三日はまともに寝てない」

「ちゃんと食べてるの?」首を横に振る根地を見て、司は大きくため息を吐いた。「今日はもうお家に帰って、ゆっくり休んだらどう?」

「まだ仕事が残っているから、それが片付くまでは帰れないよ。締め切り間近の脚本があと二本あるんだ」

「じゃあ、今日の合同稽古はお休みするのね。そんな状態で出てこられたら周りが迷惑するわ。後で何か消化にいい食べ物を差し入れてあげるから、それまでは作業部屋で大人しくしていなさい」

「母さんや、いつもすまないねぇ」

 あえてそのようにふざけた態度を取る根地を横目に睨みつけ、司は稽古部屋の奥にいる弟のところへと歩いていった。

 昼間の刺すような光を浴びても尚、現状は現実味を帯びない。誰かに横っ面でも引っ叩いてもらおうと思い、窓際で外の景色を眺めていた高科更文の下に向かう。

「フーミン、フーミン」

「ん?」

「ちょっと一発殴ってくれない?」

「……はあ?」

「これが夢なのか現実なのか、僕にはよく分からなくてさ。ビンタでもしてもらえれば、それがはっきりするんじゃないかと思って」

 更文は唖然とした顔をして根地を見ていたが、ふう、と息を吐いたかと思うと、真正面に立つ。

「よし、じゃあ、歯ぁ食いしばれよ」

「どんとこい」

 根地は来る衝撃に備えて両足を踏ん張らせ、眉間に皺が寄るほど強く目を瞑った。だがしかし、いつまで経っても衝撃が襲ってくることはなく、根地は現状確認のためにうっすらと片目を開く。すると、両腕を胸の前で組んだ更文が、付き合っていられないというふうな表情を浮かべて、こちらを見ていた。

「この俺の顔を見てもまだ、これが夢だと思うっていうなら、本気の一発をお見舞いしてやるよ」

「そんな人を蔑むような目で見るのはよしてちょうだい」

「司にも休んでろって言われたんだろ」更文はそう言うと、根地の肩をとんとんと叩く。「お前、マジで顔色悪いぞ。疲れが溜まって白昼夢でも見たんじゃねぇの?」

「まあ、そうだね、ある意味ではそうかも……」

「幽霊でも見たみてぇな顔してるからな」

 根地はふらふらとした足取りで作業部屋に戻ると、もしかしたら他人の空似という可能性も皆無ではないと思い、先程の動画をもう一度再生してみることにした。だが、その歌声を聞けば聞くほど、他人とは思えなくなっていく。

 その動画を何十回と再生したあと、根地は同じチャンネルから投稿されている動画の中から、もう一本の掘り出しものを見つけ出した。

 すぐに、それも同じ店内のステージを撮影したものだと分かる。慌ててスマートフォンを構えたのだろう、手振れが酷く、視点が定まるまでに時間が掛かっていた。

 撮影者とステージの間には結構な距離があり、そこに立っている人物の顔はよく見えない。だが、一人がピアノに腰を下ろし、もう一人がスタンドマイクの前でギターを構えているということは分かった。

『Erm……』マイクの電源を入れ、流暢な英語で話し出す。『My name is Kisa. I'm a newcomer to Mr Allan's theatre company.』

『Don't say “Mister”.』

 男の声がマイクを通して聞こえた瞬間、何が面白いのかは分からないが、店の中が暖かい笑いに包まれた。そして、マイクの前に立っている女──自らをキサと名乗った女も、ふふ、と小さく笑うのが分かった。

『As a poor actor like me, I don't have the reserves to buy you all a drink, so I'm going to perform a song instead. It's a song from a film about the city of Dublin, Ireland.』

 一瞬の沈黙。

 言い淀むような気配のあと、キサと名乗った女は続けた。

『...... I left Japan two years ago and went to Ireland on my own. I didn't know my way around and I didn't speak a word of English, but the people of Dublin welcomed me with open arms. That's why I love that film and that song.』

 根地はこの動画が投稿された日付を咄嗟に確認し、目を見張る。まだ一年も経っていない。最後のユニヴェール公演を終えた翌日、誰にも何も告げずに立花希佐が向かった先は、アイルランドのダブリンだったのだ。

 ギターとピアノの音色が重なり、切ないメロディーを奏でる。

 第一声は、ユニヴェール時代の立花希佐の歌声と近いものが感じられた。先程聞いた、レ・ミゼラブルの夢やぶれてよりも、やや荒削りな印象を覚える。だが、男と女の歌声は寄り添うように溶け合って、まるで、それでようやく一つの音楽が完成するかのような、相性の良さが感じられた。

「立花くん……」根地は思わずその名前を呟いていた。ようやく見つけ出したミューズ。「やっぱり君は、舞台からは離れられない宿命にある子なんだね」

 なぜ海外に行こうと思ったのかは分からない。

 当初は、性別を偽って周囲の人々を騙し続けていたという良心の呵責に苛まれ、玉阪を出て行ったのだろうと思っていた。あれだけの才能を持った役者がどこかで舞台活動を再開させれば、すぐにも噂が立ち、たちまち居所が知れてしまう。当人もそれを自覚し、今はもう舞台を離れ、演じることから遠ざかった生き方をしているのだろうと、そう思っていた。

 だが、違った。

 日本以外の場所で、また一からやり直そうとこの玉阪から出て行ったのだとしたら。自らの性別を偽らずに済む新天地で、舞台人としての第一歩を踏み出そうとしているのだとしたら。

 誰にも言えないと、根地は思った。

 立花希佐の居場所を知れば、その誰もが、今すぐにでも連れ戻そうと動き出すだろう。そうでなくても、彼女を探しに行こうとするに違いない。特に、高科更文にだけは、知らせては駄目だと強く思う。

 当時の更文ならば、どんなことを差し置いてでも、脇目も振らずに迎えにいくことが想像に容易かったからだ。過去を脱し、自らの人生をやり直そうとしている人間の邪魔をすることは、酷く罪深いことのように思えた。

 だから、誰にも言わなかったのだ。

 誰にも言わず、密かに見守り続けてきた。

 見守ると言えば聞こえはいいが、実際には、執拗に追いかけ続けていただけなのだろう。誰かが無断で撮影した動画が共有サイトにアップロードされるたびに、それを眺めては、彼女の成長を喜んでいた。

 だがつい先日、海外にいる知り合いから、素敵な映像が撮れたよと、一本の動画が送り付けられてきた。君が気に入るタイプの子じゃないかなと、そう添えられていた動画に映っていたのは、他ならぬ立花希佐その人だった。

 それは、これまで見てきたどの動画よりも鮮明で、画質も、音質もずば抜けて良かった。それはそうだろう、カメラマンの仕事をしている知り合いが、実際にその場に居合わせ、偶然撮影した映像だったのだ。もちろん、立花希佐の顔も、間違いなく本人だと断言できるほど明瞭に映し出されていた。

 イギリスはロンドン、セント・パンクラス駅のストリートピアノの隣で歌う立花希佐は、既に完成されていた。少なくとも、根地の目にはそう見えた。誰かが、彼女を完成させたのだと、そう確信した。

 もう笑うしかない。

 過去に囚われ、大切な人を失った世界でもがき苦しんでいた人間がいたというのに、この画面の向こう側にいる彼女は、そんなことなどお構いなしに、重力すら諸共せず飛び立とうとしているのだから。

 だが、もう五年もの時が過ぎた。そろそろこの秘密を打ち明けても良い頃合いだ。その上で、高科更文がどのような決断を下すかは、当人の意思に委ねられるべきだろう。今の更文にならば、冷静な判断を下せるはずだと、根地は信じている。

「僕も後味が悪いまま玉阪を去るのは気持ちが悪いからね」

 できることなら、何もかもを見届けてから玉阪を去りたいと思う。

 すべてが綺麗にまるっと解決することはないにしても、どちらか一方だけが幸せになり、一方は不幸を引きずったままというのは、割に合わない。

 どちらか一方に肩入れをするような物の見方は良くないと思いはするものの、この五年間を高科更文の傍で過ごしてきた根地にしてみれば、肩入れ上等という気持ちの方が優っているのは、仕方がないことだ。どうにかこうにか、決着をつけて欲しいと思う。

 しかしながら、何をどのようにして切り出すべきかは、正直なところはかりかねていた。今のところはまだ、あまり話を大きくしたくはない。だが、自分に更文の心を乱さないよう配慮しながら話をするという高等な真似が出来るかといえば、きっと不可能に近いだろう。

「はてさて、どうしたものか」

 スマートフォンを片手に、根地は頬杖をつく。

 時刻は午後五時だ。高科更文は今現在、高科家当代からの呼び出しを受けて、実家に帰省中だった。またお見合い話じゃないかと茶化す根地の頭を小突き、ちゃんと稽古しろよと言い残して、更文はこの作業部屋を出ていった。

 本来なら一週間の予定だった短期公演が、好評につき長期間興行となったことは、脚本、演出を担当していた根地にとっては嬉しい誤算だった。だが、主役の比女と彦に飽きが見えはじめたところで、舞台の幕を閉じることを決めたのだ。その千秋楽は、つい先日終わりを迎えたばかりだった。

 連日の満員御礼を逃す手はないとお歴々は言い張っていたが、田中右宙為の演技に斑が出てきた時点で、結局のところは潮時だったのだろう。その程度の斑なら問題ないと食い下がられたものの、根地は頑なに首を縦には振らなかった。宙為の心が舞台から離れていくにつれて、更文の苛立ちが募っていくことに気づいていたからだ。主役二人の不和は舞台の不和に繋がる。それではせっかくの成功も台無しだ。

 家族水入らずの時間に水を差すのは本意ではない。

 根地は暇ができたら連絡をするようメッセージを送ると、スマートフォンを机の上に伏せて置き、PCをシャットダウンさせた。真っ暗闇の中、何もないと記憶している場所を的確に歩くと、扉の脇に立てかけてあるヨガマットを手に取って部屋の外に出る。

 適当に体を動かし、稽古をした体で帰ろうなどと考えながら稽古場に足を踏み入れた根地は、そこにいた人物の後ろ姿を見て、思わず目を丸くした。

 公演から解放され、すぐにも姿を消すのだろうと思っていたが、未だ玉阪座に居残っているというのも、不気味な話だと思う。

「やあ、宙為」誰もいない稽古場の中央で、珍しくも日舞を舞っていたその背中に声をかけると、宙為は後ろを振り返った。「こんなところで稽古とは珍しいじゃないか」

「根地さんが稽古場に姿を表すより珍しいことではないと思います」

「それは確かにその通り」稽古場を一緒に使わせてもらってもいいかと問うと、宙為はこくりと頷いた。「それにしても、君が日舞を舞うなんて珍しいこともあったものだねぇ。あっ、なに? もしかして、高科の更文さんに感化されちゃったとか? なんだかんだで、二人で組んだのは初めてのことだもんね」

 飴色に染まった板張りの床にヨガマットを敷き、その上でストレッチをしながら話しかけてはみるものの、当然のように返事はない。だが、何事かを考えているようにも見える横顔を視界に捉えた根地は、向こうから何か話し出すのを黙って待つことにした。

「根地さん」

「うん? なんだい、宙為」

「これを持って、そこに立っていてください」

「えっ?」

 これと言って差し出されたのは、宙為のスマートフォンだった。そこというのは、宙為から少し離れた真正面の位置だ。マットの上から立ち上がった根地は、宙為の手からスマートフォンを受け取ると、言われるがままに指示された場所に立った。

「もしかして、僕に舞を撮影しろって言ってる? 一体どういう風の吹き回しだい?」

 やはり返答は得られなかったが、根地はすぐにカメラを起動させると、録画ボタンを押してから、すぐに手で合図を送った。

 アンバーにいた頃から、何を考えているのかが分かりにくい後輩ではあったが、無意味なことは一切しない人間だ。何か深い理由があるのだろう。それに、田中右宙為の舞を目の前で堪能できるのだから、これ以上の贅沢はない。

「……ん?」

 田中右宙為の舞は、どこか不気味で、美しい。

 死体の埋まった桜の木の下で夜な夜な舞う美女がいる。だが、日の下でその美女の姿を見た者はいない。ある日、大雨が降った翌日に桜の木の下に行ってみると、青白い手が土の中から覗いていた。それを掘り返してみると、なんとそこには、夜な夜な舞っていたあの美女の死体が埋められていた。

 田中右宙為は、そんな物語が似合うような舞を踊る。おどろおどろしいが、どうしても目を逸らすことができない。不思議な魅力と、圧倒的な技術で、見る者を圧倒する。

 本来は、高科流を受け継ぐ更文とはまったく違う舞を踊るが、今日はどこか、いつもと勝手が違うようだ。艶やかで、どこか媚びるような──やはり、高科流を思わせる女踊りの舞に近い。水のようにしなやかに、雅楽の音色が聞こえてくるような舞は、あまりに極上だ。思わず酒を一献いただきたくなる。

「君が女踊りを踊って見せてくれるとは思わなかったよ」

 宙為は踊り終えるとその場で大きく息を吐き出し、こちらを見据えた。根地は録画を切ると、スマートフォンを宙為の手に返す。

「しかも、今のは高科流だ。君がフミに感化されるとは思えないんだけど」宙為は大きな図体で小さな機器を操作していたかと思うと、それを徐にポケットにしまった。「もう一度聞くよ、宙為。どういう風の吹き回しなんだい?」

「知人が見せてほしいというので」

「知人?」

「立花希佐の今のパートナーです」

「……」衝撃的な言葉が聞こえてきたような気がして、根地は思わず返事が遅れる。「今、なんて?」

「立花希佐に会ってきました」根地は唖然としたあと、途端に合点がいった。「ロンドンで」

 インドに長らく滞在していたという宙為が帰国し、稽古に合流してからというもの、妙に更文に突っ掛かるなとは思っていたのだ。

「宙為……」

「あなただって知っていたのでしょう」

「それはそうだけど、だからって」

「正直、拍子抜けでした」

 稽古場の隅に置いてある荷物に向かって歩き出しながら、宙為が言った。根地はその背中を目で追いかけながら、次ぐ言葉を待つ。

「今の高科更文では、立花希佐を取り戻すことなど、到底できはしない」

「宙為」

「今回、組んでみて分かりました。もし高科更文が今の立花希佐に会えば、最悪立ち直れなくなる。自信を喪失させることになる。あなたがやろうとしていることは、得策とは言えない」

「僕がやろうとしていること?」

「あの男に立花希佐の居場所を知らせるつもりでしょう」

「どうしてそんなことが分かるんだい?」

「あなたの書く脚本はいつもたちが悪い」

 それが答えだとでもいうふうに言い放ち、宙為は床に転がっていた自分の荷物を取り上げると、挨拶もしないで稽古場を出て行ってしまった。稽古場に一人取り残された根地は、その場に胡座を掻いて座り込み、小さく頭を抱える。

 確かに、今回の舞台の脚本は、更文の心情を試すような部分が随所にあった。過去を掘り返し、心の傷を抉り、塩を塗り込むような、そんな内容でもあった。だが、自らの心根と対峙し、向き合い、最終的にはそれを乗り越えることができたはずだと、根地は思っている。

 失踪する女を見事に演じ切った高科更文になら、この先に何が待ち構えていようと、すべてを受け入れられるはずだと、そう思うのだ。

「……君があの公演に出演することを承諾したのは、それを確かめるためだったのかい? 宙為」

 しかし、それは一体何のために──?

 それに、あの田中右宙為にそこまでのことを言わしめる立花希佐は、一体どのような成長を遂げているというのだろう。あの完成された歌声以上の何かが、彼女には隠されているというのか。

「決意が揺らぎそうになるようなことを、言わないでほしいね」

 自分以外には誰もいない、がらんどうとした稽古場の壁に、そう言う根地黒門の如何とも表現し難い声が、吸い込まれて、そして消えていった。

 

 

 

 午前九時、いつものように朝のルーティンをこなし、シャワーを浴びてから、アランが用意してくれた食事を食べ終えた立花希佐は、身支度を整えて姿見の前に立っていた。

 二月二十七日、日曜日。

 最後のユニヴェール公演から丁度五年後の今日、希佐はアラン・ジンデルの恩人とも呼べる人物、写真家兼映画監督のレオナール・ゴダンと会う約束をしていた。

「明日はどんな格好をしていけばいいかな」

 前日の夜、希佐がベッドに寝転がったままそう問うと、冷蔵庫から水を取って来てくれたアランが、それを差し出しながら不思議そうな顔をした。

「別に、好きな格好をしていけばいいと思うけど」

「デニムにニットっていうわけにもいかないでしょう?」

「何をそんなに気にしてるの」

「失礼があってはいけないと思って」

「いいよ、いつも通りで」

「でも、アイリーンがすごい人だって言ってた」

 一糸纏わぬ姿で身を起こし、差し出されたペットボトルの水を飲んでいると、アランが足元に落ちていたシャツを拾って肩にかけてくれる。片方ずつ腕を通したあと、アランが代わりにボタンを数個留めてくれた。希佐はその様子を眺めてから、再びアランの顔を見上げる。

「陛下からナイトの称号を下されたって」

「本人はさほどありがたがってなかった」希佐の唇の端に引っ掛かった髪の毛を指先で外し、アランはそのまま頬に触れる。「気安い人だよ。君が思っているようなお堅い人間じゃない」

 俺みたいな役者崩れの社会不適合者を、脚本家として迎え入れる度量のある人なんだから、とアランは平然とした面持ちで話していた。

 希佐は鏡に映る自分の姿を見て、よし、と小さく頷く。

 もし、そのままどこかに食事へ行くことになったとしても大丈夫なように、希佐は最低限は小綺麗な格好に努めた。

 赤いウールのロングスカートに黒いハイネックのニットを合わせ、アウターには先日ダイアナから譲り受けた肌触りの良い象牙色のコートを羽織る。踵の高いブーツをクローゼットの奥から引っ張り出し、丁寧に埃を払ってからそれを履いた。

 アランの隣を歩くとなると、そこそこ気合いを入れた格好をしなければ、見るからに月とすっぽんだ。ただただ悪目立ちをしてしまう。アラン・ジンデルに恥をかかせないためにも、頭の中に住み着いている小さなアイリーンに、コーディネートの採点をしてもらった。

 まあ、ぎりぎり及第点ね──そう言ってくれたアイリーンに心の中で感謝の言葉を述べた希佐は、緩く巻いた髪を手櫛で整えてから、小さなバッグを掴んで部屋の外に出た。

「ごめんなさい、待たせてしまって」

 既に出掛ける準備を終えて、キッチンの椅子に腰を下ろしていたアランは、部屋から出てきた希佐に目を向ける。

「変じゃない?」

 いつものようにそう問いかける希佐を見て、アランが首を横に振った。ゆっくりと立ち上がり、希佐の前までやって来たかと思うと、首に掛けられているネックレスのチェーンを引っ張り出す。そのまま希佐の首に両腕を回し、チェーンをそっと整えると、黒いニットの胸元に緑色の宝石が映えた。

「あの──」

 一連の流れを見届けていた希佐が、そう何かを言いかけると、アランはその口を塞ぐようにキスをしてから、くるりと踵を返した。

「行くよ」

「あ、うん」

 こつこつと踵を鳴らしながらアランの後ろを追いかけ、階段を降りていく。アランの後ろ髪が少しだけ跳ねていることに気がつくと、一番下まで降りたところで足を止めさせ、数段上に立って手の平でそっと撫で付けた。

「電車で行くの?」

「タクシー」スタジオの戸締りをして歩き出したアランの手を掴むと、指先がするりと絡められた。「イズリントンにレオのアトリエがあるんだ」

「結構ご近所なんだね」

「普段はアメリカ住まいだから、滅多に帰ってはこないけど」

 大通りに出たところで丁度よく視界に飛び込んできたタクシーを止め、アランは希佐を先に乗せると、遅れて乗り込みながら行き先を告げた。

「イズリントンってほとんど行ったことがないんだ。その手前くらいまでなら、アイリーンと一緒にショッピングに行ったことがあるけれど」

「あの辺りは良い劇場が結構あるよ。キングズ・ヘッド・パブっていう店に併設の劇場があって、そこには何度か立ったことがある。ロンドン最古のパブシアターなんだ」

「ヘスティアみたいなところ?」

「あそこよりもっとレトロな感じ」

「アトリエから近いの?」

「目と鼻の先だけど」

「ふうん」

「行ってみたいの」

「うん」希佐は頷いてしまってから、慌てて首を横に振った。「でも、今日じゃなくていい」

 そう言って窓の外に目をやれば、シートに置いた手の上に、アランの手の平が重ねられる。指先を、きゅ、と握り返すと、隣から感じられる雰囲気が僅かに和らいだように感じられた。

 タクシーはアッパーストリートを進み、セント・メアリーズ・チャーチの前で停車した。代金を支払い、先にタクシーを降りたアランは、希佐に向かってそっと手を差し出す。ありがとう、と言ってその手を掴んだ希佐は、目の前にある教会を見上げて、小さく声を上げた。

「素敵な教会だね」

「見ていく?」

「いいの?」

「遅刻の理由が礼拝なら文句の言い様もないだろ」

 スタジオの裏手にある教会よりも大きいが、比較的小ぢんまりとしたその教会は、正面に大きな時計を構えている。教会堂の中は左右に大きな窓が並び、眩しいくらいの光が取り込まれていた。まだ開いたばかりの時間帯だったが、日曜の朝ということもあり、礼拝者の姿は多い。正面には黄金の十字架が描かれ、その十字架を囲むように、宗教画が施されていた。

「神の存在なんて、前までは信じてなかったんだけどな」

 木の長椅子に腰を下ろし、正面に見えている十字架を眺めながら、アランがぽつりと呟くように言った。

「今は信じているの?」

「そうせざるを得なくなった」アランは白い息を吐き出しながら、隣に座る希佐を見下ろす。「キサは?」

「私?」

「信じてるの」

「そうだなぁ」

 希佐は自分の胸に輝いている宝石と同じ色の目を見つめてから、再び正面の十字架に目を向けた。

「誰かが信じていようと、信じていまいと、そこにいるのが神様なんだと思う」

 希佐は不思議と、こうした神聖な場所に足を運ぶと、妙に心が落ち着いた。そして同時に、なんとも形容し難い、ざわざわとした焦燥感のようなものを覚える。その感情が何を意味するものなのかは、希佐自身にも分からない。

「私自身は、信じているよ。アランと同じ、信じざるを得ないんだ。抗えない何かを感じる。日本にいるときは、よく神社にお参りに行ってた。そうすると、すうっと気持ちが落ち着いて、憑き物が落ちたみたいになるの。心のもやもやがすっかり晴れて、また頑張れるような気がしてた」

「君の神は良い神だな」

「神様に良いとか悪いとかあるの?」

「俺は教会に来る度に、何かに監視されているような気がしてた。四方八方から見られているような気がして、落ち着かなかった。そんな子供が、牧師の家に引き取られるんだから、今思うと作為的な陰謀を感じずにはいられないな」

「神様が陰謀を企てるとは思えないけれど」

「いくつもの施設をたらい回しにされてきたけど、最後にいた場所が教会が寄付を募って運営していた施設で、そこでシスターに言われたんだ。お前の容姿や音楽の才能は神がお与えになったものだ、お前はそれだけで他の子供たちよりも恵まれた存在なんだって」

「そう」

「確かに、俺はこの顔のおかげで施設を脱することができたし、才能があったからこそ、こうして生きているわけだけど、最初からそれを望んでいたかといえば、そうじゃない」

「アランの望みはなんだったの?」

「家族かな」アランは短くそう答えてから、少し自嘲するように笑った。「執着してるんだ。それは自覚してる。自分には絶対に手に入れられないからこそ、夢を見てた。でも、何度書いても、どんなふうに捏ねくり回しても、幸せな結末にはならない。皮肉だろ。幸せな家族を夢見てた子供が将来脚本家になって、幸せになれない家族の本を書く。それが世に評価されるたびに、お前は一生そうして一人で生きていろと言われてるみたいに感じられる」

「今のアランなら、将来幸せな家庭を築くことができると思うよ」

「随分と残酷なことを言うんだな」アランは眦を下げて困ったような顔をした。「俺はずっとここにいる。それが俺の生き方だから」

「いつかあなたのところに天使が舞い込んでくるかも」

「天使はもうこりごりだよ」ため息まじりにそう言ったアランは、希佐の手を取ると椅子から立ち上がった。「そろそろ行こう」

「うん」

 私の隣にいるこの人がいつまでも幸せでありますように──そうお祈りをしてから、希佐はアランに連れられて教会の外に出た。

 レオナール・ゴダンのアトリエは、教会の裏にあるセント・メアリーズ・チャーチ・ガーデンの側にあった。庭園の中にある小道を通り抜けた先にある、ダクマー・テラス沿いの建物だ。庭園の自然と一望できる上に、大通りからは少し外れているので、とてもひっそりとしている場所だった。

 数段の階段を登った先に、澄み切った空のような青い扉があった。その前には譜面台が置かれていて、立て掛けられたスケッチブックにはこう記されている。

《This door has just been painted.We are looking for cats to stamp our paw prints. In return we will give you a box of delicious canned cat food.》

「……ペンキを塗ったばかりです。肉球のスタンプを押してくれる猫を募集しています。お礼に猫の美味しい缶詰を一箱差し上げます」

 その文章を読み上げ、思わず笑みを零す希佐の隣で、アランが玄関の呼び鈴を鳴らした。慌てて姿勢を正した希佐は、手の平で髪を整えると、小さく咳払いをする。

「まだ心の準備ができてないのに」希佐が隣を見上げながら小さく漏らすと、アランは微かに口角を持ち上げた。「いじわる」

 すると、アランは何かを言い返しかけるが、それよりも早く内側から扉が開き、その人は現れた。

「やあ、二人とも。いらっしゃい」見るからに柔和そうなその人は、ペンキ塗り立ての扉を大きく開くと、希佐とアランを快く迎え入れた。「今日は風が冷たいね。さあ、中に入って」

「失礼します」

「はい、どうぞ」

 アランに背中を促されるようにして足を踏み入れた玄関には、大きく引き伸ばされた白黒の写真が飾られていた。広い海、一人の子供が砂浜に立ち、水平線を見やっている後ろ姿が写されている。

「その写真を気に入ってくれたのかな」

 希佐が思わずその写真に見惚れていると、すぐ隣からそう言う声が聞こえてきた。驚いてそちらを見上げれば、思っていたよりも近い場所に、レオナール・ゴダンの顔があった。

「亡くなった友人の子なんだ。この写真を撮ったのは今から何年前になるかな。彼ももう立派な大人でね。今でも頻繁に連絡を取り合っているんだよ」

「すみません、ご挨拶もせずに──」

「いやいや、僕の写真を気に入ってくれたみたいで、嬉しいよ」

 レオナール・ゴダンはすらりとした細身の、白髪の男性だった。

 元々は鳶色の髪をしていたようで、まだところどころにその名残が残っているものの、もうほとんどが白髪になってしまっている。見るからに若々しく、老人という雰囲気ではないが、年齢はそれなりに重ねているように感じられた。

「立花希佐といいます」

「レオナール・ゴダンです」ゴダンは希佐が差し出した手を取ると、それを恭しく持ち上げて、手の甲にキスをするふりをした。「アランが話していた通り、とても美しいお嬢さんだ」

「えっ」

「先日はこの子を朝から晩まで借り受けてしまって申し訳なかったね。なにせ直接会うのが久しぶりだったものだから、話したいことが積もりに積もってしまっていたんだ」

 雰囲気は柔和なのにもかかわらず、色素の薄い目が細められると、香るような色気が辺りに漂う。そのまま目を逸らすことができず、思わずドキッとしていると、ゴダンは希佐の手を握ったまま胸元に目をやった。

「素敵なネックレスだね」

「あ、ありがとうございます」

「大事にするんだよ」

 アランがわざわざネックレスを贈ったことまで話すとは思えず、この人はこれを一目見ただけですべてを察し、そのようなことを言ったのだろうと希佐は思った。

 建物は三階建てで、玄関を入って正面には上に登る階段が見える。右側には広々とした応接室があった。通りに面した窓からは、まだ僅かに鋭い午前の光が差し込んできている。白い壁には所狭しと写真やパネル、絵画などが飾られていて、まるで個展にでもやって来たかのようだと思った。

「わあ……」

 応接室をぐるりと見回し、思わず感嘆の声を漏らすと、ゴダンは優しげに笑った。

「気に入ったものがあれば、どれでも好きなものをあげるよ」

「い、いえ、とんでもないです」

 黙って後ろからついて来ていたアランは、お茶を淹れてくると言って、応接室の奥にあるキッチンスペースに向かった。勝手知ったる他人の家だ。

「棚に君の好きな茶葉が入っているよ」

「ん」

「近所のベーカリーでスコーンとクロテッドクリームを買って来たから一緒に食べよう。美味しいマーマレードジャムもあるんだ」

 そう言いながら自分の後ろを追いかけて来ようとしたゴダンを振り返り、アランは呆れた口振りで言う。

「俺がやるからレオはキサの相手をしてて」

「お客様の前でくらい良い格好をさせて欲しいものだね」

「レオが張り切ると碌なことにならないから、じっとしてて欲しいだけだよ」

 アランはそう言うと希佐の方を軽く一瞥し、再びキッチンスペースに向かって歩き出した。何でもいいから話しかけろと言われたような気がして、希佐は咄嗟に口を開いた。

「日本にもいらしたことがあるんですね」

 壁に掛けられているパネルを指しながら希佐が言うと、こちらを振り返ったゴダンが嬉しそうに笑った。その一角には、京都で撮影したと思われる写真が、数多く飾られていた。

「日本は僕の大好きな国なんだ」ゴダンは大きく引き伸ばされたパネルの前に立ち、先を続ける。「特に着物には目がなくてね。あの独特な色彩が実に美しい。舞妓の刹那的な可憐さに心を奪われてからは、数年に一度祇園に足を運んで、お座敷で写真を撮らせてもらっているんだよ」

 その一角で最も大きく引き伸ばされているのは、とても華のある舞妓の写真だった。扇を手に舞を踊っているときの、ほんの一瞬の美しさが切り取られている。傾げた頭に飾られている花簪が、今にも揺れて動き出しそうだ。切なそうに伏せられたその視線の先には、一体どのような人がいるのだろうと、想像力を掻き立てられる。

「この子は随分前に袴替えを終えて芸妓になったんだ。ほら、彼女だよ。美しいだろう?」

 舞妓から芸妓になったその女性は、薄紅色から黒色の着物に装いを変え、その表情もぐっと大人っぽく、艶を感じさせるものになっていた。だが、舞妓の時代の幼さや、言葉では表現することが難しい、少女時代独特の背徳的な色気のようなものは、もうどこにも残されていない。

「若い頃はあまり人間という題材に興味を持てなかったんだ。でも、年齢を重ねるごとに、面白みを感じるようになってきてね。僕はいつか、その被写体の人生が透けて見える、見る者に訴えかけてくるような一枚を撮りたいと思っているんだよ。だけど、私はまだまだ未熟でね。人を見る目を養うために、映像を撮りはじめたんだ。映像にすら残せないものを、写真に収められるとは思えないからね」

 才能というものは目に見えないものとばかり思っていたが、今目の前に飾られている写真の数々は、数多の才能を写し出していると感じる。これも一つの才能を見る目なのだろう。カメラのレンズ越しに写し出された人々は、ただそこにいるだけで価値があると感じさせる、人の目を惹きつけて止まない面持ちを浮かべていた。額に飾られたそれぞれが、ショーケースに並べられた宝石のように輝き、煌めいて見える。

「お茶」

 tea、とだけ言いながら応接室に戻ってきたアランは、抱えていたトレーを応接室のローテーブルの上に置く。丸いフォルムのポットから、カップに紅茶を注いでいると、そこへ歩み寄りながらゴダンが希佐を見た。

「座って、キサ」

「はい」

 希佐が革張りのソファに腰を下ろすと、アランはその前にソーサーを置き、カップを乗せた。スコーンを取り分けた小皿と、クロテッドクリームとマーマレードジャムが入れられた小さな器が添えられる。

 表面がきつね色に焼けたスコーンは、ふっくらと膨れて狼の口が開き、とても美味しそうだ。

「ありがとう、アラン」

「うん」

 アランはゴダンの前にも同じものを並べると、希佐の隣に座り、自分の前にはそれらを適当に置く。半分に割ったスコーンにクリームを塗り、その上に軽くジャムを乗せると、大口を開けてそれを頬張った。何を言うでもなくもぐもぐと咀嚼しているアランを見ながら、ゴダンはミルクを入れた紅茶を飲んでいる。

 カバンの中から取り出したウエットティッシュで手を拭いた希佐は、アランに習ってスコーンを半分に割ると、クリームをその上に乗せた。ジャムをその端に塗り、かぶりつくように歯を立てる。すると、マーマレードの爽やかな苦味とクリームのまろやかさが口内に広がり、ほろっと崩れたスコーンがさっくりとした食感と、香ばしさを感じさせた。

 思わず表情を綻ばせると、それを見たゴダンは満足そうに笑みを深め、自分もスコーンに手を伸ばす。

 希佐が、とてもよく笑う人だと思いながらスコーンを食べている間、誰一人として口を開く者はいなかった。嫌な沈黙ではなかったものの、何か言わなければいけないような気がして隣を見上げると、口の端にクリームをつけているアランと目が合う。

「クリームついてる」

「どこ」

「ここ」希佐は自分の口元を指して場所を教えた。「反対だよ」

 反射的にだろう、鏡合わせになるような場所に手を運んだアランを見て、希佐はそう言うと自らの手を伸ばし、口の端に付いたクリームを取ってやった。スタジオのキッチンにいるような気安さで、クリームの付いた指を口元に運んだそのとき、カシャ、とシャッターを切るような音が聞こえてくる。急いで音の方向に目を向ければ、悪戯っぽい笑みを浮かべたゴダンが、顔の前に構えたスマートフォンで今の様子をカメラに収めたところだった。

「かわいいのが撮れたよ」

 思わず唖然とする希佐を尻目に、アランは既に諦め顔だった。

「嫌なら嫌って言った方がいい。隙があればすぐにカメラを向けてくるから」

「プライベートな写真は表に出さないよ。デジタル写真は僕の個人的な趣味だからね」スマートフォンで撮影した画像を確認しながら、ゴダンは言う。「あとで送ってあげるから」

 その後も、希佐とアランが何気ない会話をしている最中に、ゴダンは何度もスマートフォンのカメラで写真を撮っていた。当初は微かな気恥ずかしさを覚えていた希佐も、慣れからか徐々に羞恥心を失っていく。写真を嫌うアランですら平然としているのだから、こうしたことは日常茶飯事なのだろう。

「ここは地下が現像室で、一階が応接室、二階がスタジオ、三階を物置部屋として使っている。この隣の部屋も僕の所有で、そちらが住居スペースだよ。僕がロンドンに不在の間は、アランにここの管理を任せているんだ」

「そうだったんですね」

「あのスタジオ、冬場は酷く冷えるだろう? だから、その間くらいは、ここで暮らせばいいと言ってるんだけど」

「どうしてそうさせてもらわなかったの?」

「行き来が面倒臭いから」

「この調子でね」

 応接室で一時間ほど話をしてから、ゴダンは希佐を二階のスタジオに連れて行ってくれた。アランは一階でお茶の後片付けをしている。希佐は自分がすると申し出たが、アランは首を横に振り、トレーを抱えて奥のキッチンスペースに入っていってしまった。

「驚いたよ」玄関前の階段を上りながら、ゴダンが囁くように言った。「あんなに尖った青年だったアラン・ジンデルが、数年ぶりに会ってみたら、すっかり角が取れて丸くなってしまっていた」

「それは悪いことでしょうか」

「いいや」ゴダンは朗らかに続ける。「ますます魅力的になったよ。前々から写真を撮らせてほしいとお願いしているんだけど、なかなか首を縦に振ってくれないんだ」

 ゴダンが撮らせてほしいと言っているのは、プライベートな写真などではなく、完全なる被写体としてのアラン・ジンデルなのだろう。

 二階は本格的なスタジオ仕様になっていた。以前、ダイアナのブランドが雑誌で特集された際に、モデルとして撮影に参加したことがあったが、そのスタジオと比べても遜色がない。色を変えられるバック紙に、幾つもの照明、三脚には性能の良さそうなカメラがセッティングされている。たっぷりとした光が差し込む窓辺には、自然な小道具が並べられ、そこで撮影しても絵になりそうだ。

「自然光の下で撮影する写真が最も美しい仕上がりになる」三脚の足元にあるバッグの中から、ゴダンはカメラを取り出した。「キサ、そこに立って」

「えっ、でも」

「いいから、ほら」ゴダンはそう言って希佐の手を取ると、窓際まで連れて行き、体の向きまで指定してその場に立たせた。「窓の外に顔を向けて、空を見上げる感じで。眩しいだろうけど、目はしっかり開いたままだよ。あと三センチくらい後ろに下がって──そう、そこ。難しいことは考えない。リラックス、リラックス」

 ユニヴェールにいた頃は肖像写真やポスター写真を撮影したこともあったが、こちらに来てからはプロフィールそのものを隠して活動してきたので、写真を撮られることに慣れていなかった。

 そのせいで希佐の表情が固くなってしまっていたのか、ゴダンはシャッターを切ることなくファインダーから顔を上げる。そして、何かを思いついたような表情を浮かべると、後片付けを終えて階段を上ってきたアランを振り返った。

「アラン、ちょっと僕の隣に立って、彼女に話しかけてくれないか」

「なんで」

「キサの写真を撮りたいんだ」その返答を聞き、アランはあからさまにため息を吐いた。「頼むよ」

「キサが困ってる」

「嫌だとは言われていないよ」

「キサは頼まれたら嫌と言えないんだ」

「君とは正反対だね」

「俺は自分の防衛本能に従ってる」そう言いながらも、アランは腕組みをしながらゴダンの隣に立った。「君も断っていいんだ」

「写真を撮ってもらうこと自体は嬉しいのだけれど、どういう顔をしたらいいのかが分からなくて」

「自然体が一番だよ。素の君自身を見せてほしい」

 素の君自身を見せてほしい──そう言われて思い出したのは、何故かユニヴェールの一年生の頃のことだった。

 夏休みに行った絢浜の合宿で、根地黒門に言われるがまま演じ続けた「おはよう」練習だ。

 多くの役柄を演じて見せたが、いつまで経ってもオッケーが貰えず、何が正解かも分からないまま困惑していた希佐は、あえて演じないという方法を選択しようとした。所謂、自然体というやつだ。だが、自然体とは何かという自問自答を繰り返すうちに、本当の自分が分からなくなり、パニックになりかけてしまった。

 立花希佐という少年を演じていた希佐にとって、本来の自分を表に出すというのは、それこそ死活問題になりかねないことだった。かといって、その場にいる自分自身が別の人間というわけでもない。

 希佐は窓枠に指をかけると、小さく息を吐き出した。

 自分が何者なのかという自問自答をすることには、何の意味もない。答えなど得られはしないからだ。自分はどこにいても、何をしていても、自分という存在以外の何者にもなれない。それは、舞台に立ち、自分以外の誰かを演じていても同じだ。

 イギリスにやって来て、劇団カオスの仲間に入れてもらってからのこの三年で、多くのことを学ばせてもらった。その中の一つは、想像だけで別の人間を演じるというのは、酷く難しいということだ。

 演技に深みを与えるのは、人生経験なのだと思う。想像だけで演じるのと、実際に経験した事柄を演じるのとでは、雲泥の差があるからだ。客席から見ている人々に与える印象もまったく違うものになる。想像にはリアリティがないとは言わないが、想像だけでリアリティを追求するのは、とても難しいことなのだ。

 日本を飛び出して、自分を偽る必要がなくなってからも、本当の自分がどこにいるのかを、希佐はずっと探し続けていた。自分が本当に女なのか、このまま男を演じて生きていく方がいいのか、そんなふうに考えていたこともある。実際、ダブリンにいた頃は、希佐は行きつけのパブで大半の人間に男だと思われていたし、それを訂正しようとしたこともなかった。そうして生きる方が、あの頃は楽だったのだ。

 不意に窓の外から子供の笑い声が聞こえて、希佐は窓の外に目を向けた。小さな女の子が、自分よりも大きな男の子の手を引いて、教会の庭園に入っていく。兄妹なのかもしれない。希佐はその様子に、毎日のように神社に足を運んでいた、自分と兄の姿を重ねていた。

 あの頃の自分が本当の自分だと、そう感じていたこともあった。何も偽る必要などなかった日々。自分と、兄と、幼馴染。三人が集まると始まるごっこ遊びが、今もまだ、こうして続いている。

 希佐は次々に切られるシャッターの音を気にも留めず、ゴダンの隣に立っているアランに目を向けると、その場で手を差し出した。アランは一瞬目を丸くするが、組んでいた腕を解いて頭を掻きながらため息を吐き、差し出された手を掴みにやってくる。

「なに」

「Sir.レオナールが自然体でいるようにって」

「君が自然体でいることと、俺をレンズの前に引き摺り出すことに、何か関係がある?」

「私、あなたの前では自然体でいられる」窓の前に立ち、アランと両手を繋ぎ合わせながら、希佐はその美しい顔を見上げた。「何も偽る必要のない唯一の居場所が、あなたの隣だって思うから」

 大きく見開かれた目が、ゆっくり、ゆっくりと細められて、優しい眼差しが降り注ぐ。一回り以上大きな手が、希佐の両手をそっと包み込んで、握り返した。

「あのね」もう一方の手は、緩く巻いている希佐の髪を一房取り、軽くもてあそんでいた。「あなたにもう一度だけ聞いてみたいことがあったの」

「なにを」

「どうして初めての公演で私に男を演じさせたの?」希佐はアランの目をまっすぐに見つめながら言った。「前に同じことを聞いたとき、あなたは私が女を演じたら失敗すると思ったからって、そう答えた。でも、本当は腑に落ちなかったんだ。だって──」

「俺はこうも言ったはずだ」アランは希佐の唇に指を添え、その口を閉じさせる。「俺が脚本を書き直したのは、半分以上が俺自身のためだった。君の中にある暗い影と、俺の中にある影が、同じだと感じられたから。君なら、俺の心の中にある影に光を当てて、昇華してくれるだろうと思った」

「本当にそれだけ?」

 希佐はあの公演で、舞台のその先にあるものを見せられはしたが、それが根本的な解決にはならなかったことを知っている。それだけ、アランが心に負った傷は深かったということなのだろう。

 しかし、だからこそ腑に落ちないのだ。

 たった一度の成功体験で消え去るような影ではないはずなのに、あの舞台の後は何だかとても満足そうに見えて、それがまるで、何かを諦めた者のような潔さと重なって感じられていた。

 アランは希佐の真摯な眼差しを受け止めながら、その頬に手を添える。親指の腹で目の下のやわらかい部分をなぞるように撫で、次いで指の背が頬を撫で下ろすと、その手はゆっくりと降ろされた。

「俺は、君自身が女として、男を演じる必要があると思った」

「私が、女として?」

「そうすることでようやく、君は解放されるんだろうなと思った」

 いつの間にか、シャッター音は聞こえなくなっていた。いや、希佐の耳に届いていないだけなのかもしれない。 

「男が男を演じられるのは至極当然のことで、それは女にも同じことが言える。でも、君は男という役柄を与えられ、それを演じ続けることでしか、ユニヴェールという閉鎖的な場所で生きながらえることができなかった。与えられた役柄を休みなく三年も演じ続けていたら、精神衛生上、人はそれ自体が本物だと考えるようになる。君はきっと、時々は自分が女であることも忘れて、他の生徒たちと一緒に、男として生きていたはずだ」

 そして、ふと自分が女であることを思い出した瞬間、恐ろしくて堪らなくなるのだ。自分が何者であるかが曖昧になり、途端に不安になる。女である自分に価値があるのかどうかを、どうしても考えてしまう。それに、自分はこの先どうやって生きていけばいいのだろうとも、考えずにはいられなかった。

 絶望は日に日に大きく膨れ上がっていったが、誰も希佐を安心させてはくれなかった。今思えば、自分の秘密を知る限られた人々に、助けを求めればよかったと思う。でも、あの頃の希佐には、誰かに相談しようと考える心の余裕すらなかったのだ。

「出会った頃から、俺は君という人間に強く惹かれてた。でも、君にどう接すればいいのかが、俺には分からなかったんだ。あの事件があるまで、君は男とも女ともつかない何かであり続けていたから」

 アランは、スタジオの窓を破って男が侵入し、希佐に襲い掛かろうとした、あの事件のことを言っているのだろう。あのときの恐怖は何年も尾を引いていたが、最近になってようやく、心に負った傷の瘡蓋が剥がれようとしているのが分かる。

「だけど、君が震えている姿を見て、やっぱり女なんだと思った。だから、俺は君を女として扱おうと決めたんだ。女として君を愛そうと思った。そうして君が女になって、それでも舞台の上で完璧に男を演じることができたなら、君は過去の自分を捨てることなく、この先も生きていけるだろうと思った」

「それが、解放されるってこと?」

「それは俺には分からない」アランは背中を丸めると、自分を見上げる希佐の額に、自らの額を押し当てた。「君にしか、分からない」

 果ての見えない海原をあてもなく彷徨い続ける小舟のような自分を、ここまで正しく導いてきてくれた。下手をすれば自死の道すら辞さなかった自分の手を取り、時には多少強引にも思える方法で引き摺ってでも、正しい方向へと連れてきてくれた。

 真っ暗闇の中から、光の中へと。

 奈落の底から、千のスポットライトに照らされる舞台上へと。

 知っている。分かっている。今の自分は、この人がいてくれたからこそ、ここに存在している。

 それでも、感じるのだ。きっと、今のままではいられない。自らの足で真っ直ぐに立ち、夢に向かって歩いていく覚悟を決めたこの人の未来に、自分のような存在は邪魔になるだけなのだと。

 この人はきっと、自分が隣にいるかぎり、表舞台に立とうとはしないだろう。裏方に回りたいと言ったその言葉通り、日の当たらない場所で、世界中から脚光を浴び続ける。

 だが、希佐が望んでいるのは、そんな未来ではない。たとえ自分勝手だと言われようと、アラン・ジンデルには表舞台に立ってほしいのだ。それだけの才能と、舞台に対する情熱が、まだ残されているのだから。

「私は、あなたのおかげで自由になれた」アランの息遣いを感じたくて、そっと目を伏せる。「もうどこへでも飛んでいける」

 だから今度は、この人が自由になる番なのだ。重圧から解き放たれ、重力など諸共せず、世界へと羽ばたいていってほしい。

「I love you so much,Raphael.」その名前を口にしたのは、これが二度目だった。「No matter what happens next, I will always love you.」

 それはまるで映画の一幕のようだった。

 閉じた瞼にやわらかいものが触れ、促されるように目を開けると、酷く切なげな眼差しが向けられていたことに気づく。

 まだかろうじて午前の光の中、アランは希佐の腰を引き寄せ、鼻先に唇を寄せた。半ば仰反るようにして上向いた希佐は、爪先立ちになると、アランの首に両腕を回す。

 誰も知らない、二人だけの秘密のお話。でも、これを誰かに知っていてほしかった。あれは夢や幻などではなく、確かに現実だったのだと、思い出すことができるように。

 アランがそう言ったように、自分は何て残酷な人間なのだろうと、希佐は思う。もう未来は決まっているも同然なのに、こうして愛の言葉を囁いて、いつまでも記憶の中に居座ろうとしているのだ。幸せになってほしいと思う一方では、もう二度と、自分以外の誰かを愛さないでほしいとすら思っている。

 腰を引き寄せられたその腕に体を軽々と持ち上げられ、希佐は小さく笑った。自らの力で引き上げた足をアランの体に絡めると、緑色の目よりも高い場所からその輝きを見つめ、我慢がならずに唇を寄せる。

 こうして、二人はいついつまでも幸せに暮らしましたとさ──そうして終わる物語のその先を、はじめなければならない。

 

 

 

 すう、と息を吸い、倍以上の時間をかけて、ゆっくりと吐き出す。

 心臓の鼓動に、耳を傾ける。

 いつもより速く波打つ鼓動の理由は分かっていた。多くの時間を費やし、ようやく過去との折り合いを付けられるかもしれないと思いはじめた頃に、凪いでいた心に漣を立てるようなことが起こった。

 五年も前に消えた女のことを、今もまだ愛しているなんて、正気の沙汰ではないのかもしれない。いや、これは果たして純粋な愛情なのだろうかと、高科更文は考えることがある。所詮は思春期特有の思い込みだったのだと、そう決めつけてしまった方が、ずっと楽なことも分かっていた。

 独占欲と嫉妬心の先にある感情が執着なのだと知ったのは、立花希佐が姿を消して、数年が過ぎてからのことだった。

 自分が誰よりも早く彼女の秘密を察知し、守り、共有していたのだという優越感は、間違いなくあったと思う。ユニヴェールという閉じられた世界の中で、そうした関係性はあまりに特別で、今思えばそれは、一瞬の美しさを堪能する線香花火のような、そんな一時だったのだろう。

『愛しているんだ』

 自分が口にした言葉を思い出した途端、乾いた笑いが漏れた。

 人を愛するということが、どういうことかも良く分かっていない自分が、よくもそんなことを言えたものだと思う。

 あんなものは、ただ恋に恋をしていただけの、ごっこ遊びだったのだ。そう何度も自分に言い聞かせてきた。そうしているうちに、それが真実になることを願っていたのかもしれない。

 だが、そうして希佐のことを考える時間が増えれば増えるほど、思いを募らせていったことも事実だった。好きだ、愛していると、強く思う。その感情自体が錯覚で、思い込みだと否定してくれる人は、誰もいなかった。表面上は、誰にも知られてはならない、秘密の恋人同士だったのだから。

 こうした行き場を失った思いは、いつだって舞に込められ、昇華されていく。次代の高科二千奥は女踊りに磨きが掛かったと誉めそやされるたびに、少しずつ心が死んでいくような気がしていた。立花希佐の喪失を経て得られた評価に意味を見出すことは、酷く罪深いことのようにも思えていた。

「だからって、どうしろっていうんだよ……」

 高科の科は、科を作るが語源だ。感情を込め、艶っぽく、時には媚びるような色気が売りとされている。だが、最近の自分の舞はどうだと、更文は思った。年寄り連中の中には、彼の舞は生娘か何かのようだ、処女性を感じるなどと嘯く者まで出てきている。

 更文の持ち味である艶っぽさを好んでいた人々の多くは、今の舞が気に入らないらしい。若い世代の目には革新的に映るらしいが、年寄り連中は保守的な舞がお望みなのだろう。

 更文だって女を知らないわけではない。後腐れのなさそうな女を見繕い、持て余している欲を吐き出したこともある。

 だが、そんなことをしたところで、乾いた喉が潤うことも、干涸びた心に恵みの雨が降り注ぐこともなかった。ただただ虚しさを募らせ、厄介ごとを招き、いずれスキャンダルを呼び込むだけだ。昔から女遊びは芸事の足しになると言われているが、今はそういう時代ではない。

「つまらない」

 先日千秋楽を迎えたばかりの玉阪座の舞台で、初めて田中右宙為と組んだとき、更文は久しぶりに顔を合わせたその日に、真正面からそう言われた。

 玉阪座に在籍していながら、未だ好き勝手に海外を飛び回って武者修行をしているあの男は、根地黒門に舞台に出てくれと乞われ、帰国予定日より半月以上も遅れて玉阪に帰ってきた。

 座員の多くは不満を隠そうとしなかった。もしもの時の代役として睦実介を相手役に稽古していたが、それである程度は完成形が見えていたため、もうこのままでも構わないだろうという意見もあった。

「まあまあ、とりあえず通してみてから考えましょうよ」黒門は朗らかな口振りでそう言うと、田中右の背中を気安げに叩いていた。「大丈夫、大丈夫。ね、宙為?」

 田中右は何も言わなかったが、その結果がどうなったかは、言うまでもないだろう。一度も稽古に出ていないはずの、田中右宙為の演技の完成度は高く、誰よりも稽古を積んでいた更文ですら引き摺られるようにして、その日の稽古を終えた。

 そのときに言われたのが、つまらない、だった。

「あなたはいつまでそうして立花希佐に縋っているつもりですか」想像もしていなかった言葉に、更文は思わず愕然とした。「あなたの舞を見ていると、まるで立花希佐に神性を見出しているように感じられます」

 突然のことに何も言い返すことができず、立ち尽くすだけの更文を置き去りにして、田中右は稽古場を出ていった。

 今の自分の舞が、希佐に強く影響を受けていることは、もちろん自覚している。だが、そこまでのことを言われるほどではないと、更文は考えていた。

 更文が一人で居残り、演目の舞を踊り続けていると、帰り支度を済ませた根地黒門が、稽古場の前を通りかかった。こちらに気を遣ってか、鼻歌を歌いながら通り過ぎて行こうとする姿に、更文は声を掛ける。

「おい、クロ」

「おっ、フーミンじゃないか!」白々しいとしか言いようのない口振りで、黒門は稽古場を覗き込んだ。「こんな時間まで一人で稽古とは、まったくもって精が出るね。僕には真似ができないなぁ」

「そういうのはいいから」

 呼吸は大きく乱れ、汗が滝のように滴っている。我ながらみっともない姿だと更文は思うが、この数年、黒門には酷い姿ばかりを見せているので、何もかもが今更の話だった。

「さっき田中右が言ってたこと──」更文は大きく息を吐き出し、呼吸を整える。「お前もそう思うか?」

「それは僕に聞く必要のあることかい?」それとも、と言いながら眼鏡を上げた黒門の声は、寸前までのものとは違い、真剣そのものだった。「そうは思わないと否定してほしい?」

「これはただの確認だ」

「確認、か」

 廊下から稽古場を覗き込んでいた黒門は、ずかずかとこちらにやって来たかと思うと、更文の前でぴたりと足を止めた。

「嘘を言っても仕方がないからね、僕は宙為の言葉に賛同するよ。今の君の舞には立花くんを色濃く感じる。でも、それの良し悪しを判断するのは僕の役割じゃない。好きか嫌いかなら今すぐに答えられるけど、どうやら君はそれをお望みじゃないようだ」

「お前がそう思ってるなら、カイもそうなんだろうな」

「カイは僕と違って君を心配していたよ。人は多かれ少なかれ他人の影響を受けるものだ。やっぱりフミも人の子だったねと言ったら、無言で睨まれてしまった」

 立花希佐に神性を見出していると指摘され、咄嗟には否定することができなかった。だが、四六時中同じ女のことを考えていれば、それが自分の舞に影響を及ぼすことくらい、当然のことのようにも思える。

「君の舞はとても美しいよ、フミ」

「そりゃどーも」

「これは煽ってるんじゃない、僕は本心から言っているんだ」いやに真剣みを帯びた眼差しを向けられて、更文は思わず視線を逸らしてしまった。「その証拠に、君の玉阪での評価は鰻登りだ。口煩い評論家たちも、高科流次期当代が新たな表現方法を確立したと大絶賛だしね。まあ、一部は今の君の表現を気に入ってはいないようだけど、概ね好評だろう?」

 そう言われても更文が何も言わずにいると、黒門は「ふむ」と息を吐いて、自らの顎に手を添えた。

「あの高科更文が生娘のような女性を演じるんだ、それは注目を浴びるだろうよ。一体どんな心境の変化だろうって思うよね。今度の役柄だって、僕は今の君の状態を見て本を書いたし、今の君の舞を十二分に生かせるものだと自負している。ただ、役作りのために立花くんを取り入れるというのは、正直なところ想定外だった」

「それはなんでだ?」

「君はもう彼──いや、彼女のことを、完全に昇華したものと思っていたからね。所謂、体の中に落とし込むというやつさ。その上で、今までに見たことのない、ワクワクするような調和が生まれることを期待していた」

「そうはなってねえってことか」

「そこが難しいところなんだよ」黒門は結い上げていた髪を解くと、それを手櫛で解きながら言った。「今の君の舞は決して悪いものじゃない。上品で、たおやかで、初々しい艶っぽさや、少女のような恥じらいがある。今回の役柄を演じる上では、上々の作り込みだ」

「クロの意地の悪さが前面に出た脚本だからな、お前が何をやらせたがっているかくらいは、俺にだって分かってる」

「じゃあ、君はあえて立花くんを自分の舞に取り入れたのかい?」更文は頷かなかったが、無言は肯定だと判断したのか、黒門は難しい顔をしながら先を続けた。「君が宙為に何も言い返せなかったのは、つまらないと言われたから? 彼女に縋っていると指摘されたからかい? それとも──」

「ああ、もう、全部だよ、全部」更文は半ば投げやりに応じる。「でも一番は、あいつに神性を見出している、なんて言われたからだ」

 あー、と何か思うところがあると言うふうに声を上げた黒門は、左手で自らの長く伸びた髪の毛を弄びながら、珍しく言葉を探しているようだった。

「それに限っては僕も人のことを言えないからなぁ」

 更文はユニヴェール在学中、立花希佐が連日のように根地黒門の作業部屋に訪れていたことを知っている。希佐は黒門のことを慕っていたし、黒門は希佐をかわいがっていた。だが、更文たちには最後となる冬公演を終えた頃から、あの部屋に向かって廊下を駆けていく希佐の背中を見送る回数は、極端に減った。希佐は故意に近づかないようにしているようだった。

 当時は、オー・ラマ・ハヴェンナでチッチを演じ、自分が女である事実を黒門に悟られることを警戒しているのだろうと思っていたが、あれから数年が過ぎ去った今、それは少し違うのかもしれないと考えている。

「……ああ、そうか」更文から顔を逸らした黒門は、かろうじて聞き取れるほど小さな声で独白した。「認識の差異だ」

「認識の差異?」

「ん? ああ、ごめんごめん、こっちの話だよ」

 とにかく、宙為のことは気にしなくていいと、黒門は言った。自分は、ユニヴェールにいた頃と同じように、君の役作りを尊重するし、横道に逸れない限りは口出しをしないと。

「かく言う僕も、彼女には神性を見出しているようなところがあるからね。きっと宙為も脚本に目を通した段階でそれを見抜いていたと思う。立花くんは僕にとって──いや、君にとってかな? 特別な存在であることに変わりはない。さっきは言及しなかったけど、僕は今の君の舞が好きだよ。演出家として言わせてもらうなら、どうかそのまま、君の思う道を突き進んでいってほしい」

 高科更文と田中右宙為の間に、協力関係というものは存在しなかった。互いに互いを睨み合い、ぶつかり合うような稽古が続き、舞台上は常に戦場そのものだった。その緊張感が客席にまで伝わり、初日は演目終了後も拍手がなく、まるで通夜のような雰囲気のまま終わりを迎えたことは記憶に新しい。無事に千秋楽を終えると、出演者の中には疲労でダウンする者も多かったようだ。

 更文が演じた比女は、終幕間際、彦の前から何の前触れもなく姿を消す。物語の最中、比女は彦ととある約束を交わすが、その約束が果たされることはなかった。

 毎日毎日、同じ稽古を繰り返してきた。そして、何日も何日も、同じ演目で舞台に立ち続ける。更文はこの数ヶ月、連日のように自問自答を繰り返してきた。

 比女はなぜ彦の前から姿を消したのか。

 立花希佐はなぜ、高科更文の前から、姿を消したのか。

 なぜ何一つ相談してくれなかったのだろう。たった一言でも、心の不安を吐露してくれていたとしたら、いくらでもやりようはあっただろうに。そんなにも自分は頼りない男だったのだろうかと、考えずにはいられなかった。

 違う、そうではないと思いながら、更文は首を横に振る。

 気づいてやるべきだったのだ。希佐の心に影を落としている問題をつまびらかにし、絶対に大丈夫だと言って、寄り添ってやるべきだった。お家問題のことで思い悩む自分の背中を押してくれたときのように、今後は自分が、希佐を救ってやらなければならなかったのだ。

 きっと、あの頃はまだ子供で、色々なものが見えていなかったのだろうと更文は思う。舞い上がっていたのかもしれない。ユニヴェールを卒業したら一緒に暮らそうと言ったとき、希佐は何も言わず、ただ嬉しそうに笑っていたから。

 今思えば、そんなつもりは毛頭なかったのだろう。だから、何も言わず、笑顔でお茶を濁したのだ。不可能な約束はしないように。最後のユニベール公演後、ご褒美に何でも好きなものを奢ってやると言ったときだって、楽しみですと口にしたきり、その話には一切触れようとしなかった。

 あの日の背中を、今でも時々夢に見ることがある。どれだけ走って追いかけても、その背中は小さくなる一方で、最後には吸い込まれるようにして、暗闇の中に消えていった。縋るように伸ばした指先は虚しく空を切り、力なく垂れ下がる。目が覚めるといつも、全身にびっしょりと汗を掻いていた。

 このまま自分は変わることができないのだろうか。一生涯、一人の女だけを夢想し、未熟な舞を踊り続けるのか。そんな不安が脳裏を過ぎる。

 この五年間、無意に過ごしてきたつもりはない。自らの芸と真正面から向き合い、磨いてきた結果が、これなのだ。

 本当は変わりたい。また一からやり直すのもいい。ただ、今のままではいけないのだという思いばかりが、日に日に強くなっていく。

「──おいっ、更文!」

 実家にある板張りの稽古場の真ん中で立ち尽くしていると、不意にそう言う幼い声が聞こえてきた。我に返って声の聞こえた方へと目を向ければ、ほとんど足にしがみつくような格好で少年がこちらを見上げていた。

「無視すんなよ、更文」

 年齢は今年で五歳、兄の一助とその妻の間に生まれた男の子で、更文からみれば甥に当たる。顔は兄に似て柔和で端正だが、その性格は誰に似たのか分からないほど活発だ。自分が幼い頃ですら、こんなに傍若無人ではなかったと、更文は常々思っていた。

「基、お前少し見ない間に背が伸びたんじゃねーか?」

 ムッとした表情でこちらを見上げていた甥の頭に手を乗せ、そう言ってぐりぐりと撫でてやると、基は「やめろよ」と言いながらも、にやにやと隠しきれない笑みを浮かべていた。

 足元で暴れている甥を適当にあしらいながら、辺りに視線を投げかけた更文は、柱の影に隠れるようにして立っている小さな影を見つけて、声を掛ける。

「拾」

「はい、更文おじさま」

「年末年始は仕事が忙しくて実家に顔を出せなかったからな、会うのは半年ぶりくらいか?」

 更文が自らの足から基を引き剥がし、その場にしゃがみ込むと、柱の影に隠れていた少女がゆっくりとこちらにやってきた。

「元気にしてたか?」

「はい、元気です」

 高科拾は、基の双子の姉だ。弟よりも控えめな性格をしているものの、まだ四歳とは思えないほどしっかりとしていて、責任感も強い。今よりもっと幼い頃から芸事の稽古をしているが、注意力散漫で集中力の続かない弟とは対照的に、どんなことも一生懸命にこなすタイプだ。

「拾ちゃんが男の子だったらね」

 そう言う声を、もう何度聞いたか分からない。

「今日はどうしたんだ? 舞の稽古の日じゃねぇだろ?」

「更文が帰ってくるっていうから、バレエのレッスンを早く終わらせて、会いに来てやったんだ」

 仕方なく来てやったのだという姿勢を崩さない基に対し、拾は会えて嬉しいとでも言うふうに、背中に隠した両手をもじもじとさせていた。

「二人とも、お邪魔をしてはいけませんと言ったはずですよ」あの一助兄貴にはもったいないくらいの妻であり、双子の母親である女性が、足音も立てずに稽古場に入ってくる。「すみません、更文さん」

「いや、もう切り上げようと思っていたところだから」

「えっ」

 そう小さく声を上げたのは、母親に手を取られた拾だった。

 拾は更文が稽古をしている姿を見かけると、いつも稽古場の冷たい板張りの床に正座をして座り、熱心に舞の見学をしていた。今日もそのつもりでいたのだろう。

「今日は泊まっていくつもりだから」更文はその場に立ち上がりながら、拾を見る。「明日の朝でもいいか?」

「──はい!」

 甥は反抗的な態度を取ったりもするが、まさか、兄の子供たちをこんなにかわいく思う日が来るとは、更文は想像したこともなかった。

 シャワーを浴び、自分の部屋で和装に着替えていると、戸の向こう側から声を掛けられる。

「お父様ですが、ご帰宅までにはまだお時間が掛かるようです」帯を締め終えてから戸を開けると、そこには義姉が立っていた。「子供たちもおりますので、食事は待たなくて良いと仰っているのですが、更文さんはいかがされますか?」

「俺も一緒に食べるよ。親父もお弟子さん方と外で何か食べてくるんだろうし」

「分かりました」

 義姉はすらりと背が高く、肩が真っ直ぐで、首が長い。幼少期からバレエを踊っていて、外国の有名なバレエ団からの引き抜きを受けるような、素晴らしいダンサーだったそうだ。だが、一助との結婚を機に第一線からは退き、今は高科家の嫁として内々の仕事を手伝いながら、立派に子育てをしている。絵に描いたような理想の妻であり、母親だ。

 一助から義姉の経歴を聞かされたとき、更文はただ純粋に、もったいないと思った。世界的に活躍できる才能を持ったダンサーが、たった一人の男のために自らの輝かしい未来を諦め、家に入ることを選ぶなんて、とんだ犠牲を払ったものだ、と。

「私は行きなさいと言ったのですよ」結婚前、義姉のキャリアのことをどう考えているのだと問うた更文に、一助はそう答えた。「結婚はいつでもできるけれど、君の夢は今しか叶えられないとね」

 義姉は、今の私の夢は、あなたと共に生きることだと、そう答えたそうだ。その言葉が本心なのかどうかは、義姉自身にしか分からない。だが、一助はその言葉を聞いて、義姉に求婚をしたのだと言った。

 双子たちが生まれてからも、義姉は完璧な嫁として高科家のしきたりに従ってきたが、たった一度だけ、我を押し通したことがあった。それは、子供たちにバレエを学ばせたいという、小さな願いだった。

「芸事の妨げになるとお想いになるかもしれませんが、バレエで培った経験は間違いなく、子供たちの将来に生かされます」

 もちろん、それに反対する者はいなかった。当代が二つ返事で了承した以上、横から口を挟める者などいるはずもない。

 昔の当代であれば、高科の舞だけを学んでいればいいと頭ごなしに切り捨てていたのかもしれないが、今はユニヴェール時代の更文の前例もあり、新しい風を取り入れることには肯定的だった。

 それに、久しぶりに家族で食卓を囲む時間は、更文にとって良い息抜きとなっていた。常に緊張の糸が張り詰めているような状態だった数ヶ月から解放され、体が休息を欲しがっているのが分かる。公演が長引いたおかげで、あらかじめ予定していた休暇は実質消滅し、スケジュールはかつかつだったが、こうして足を運んでみると、来てよかったと思うことができた。

 食後、ボードゲームをして遊んでいる最中に眠ってしまった双子を寝室まで運び、一助と並んで廊下を歩いていた更文は、窓の外にぽっかりと浮かぶ三日月を見つけて足を止める。

「雅な月ですね」更文よりも先に進んだ場所で足を止めた一助が、同じように月を見上げて目を細めた。「父上がお戻りになったら、三人で月見酒と洒落込みましょうか」

「酒は控えてるんだろ」

「まあ、そう言わずに。今日くらいは許してあげましょう。父上はフミさんと一献傾けるのを楽しみにしていたようですから」

 更文がユニヴェール三年の時に倒れて以降、高科流当代の体調は安定している。本人はもう何でもないと言い張っているが、兄はもちろん、母や義姉、弟子たちが本人以上に気を遣ってくれているおかげで、こうして元気に活動することができているのだろう。

 家に何の貢献もできていない自分だ、晩酌くらいは付き合ってやるかと、当代が帰ってくるまでの間に、更文は酒の支度を整えておくことにした。

 台所に立っているとすぐに義姉がやって来て、晩酌の用意なら自分がすると申し出てくれたが、更文はそれを丁重に断り、使ってもいい食材をそれとなく訊ねる。夕食の残りでも良いと言うと、少しだけ呆れたような顔をして笑い、小皿に取り分けるのを手伝ってくれた。

 当代が帰宅したのは午後九時を迎えた頃だった。

 月の良く見える離れの一室を温め、御膳の用意を終えた更文が玄関に顔を覗かせると、兄と母に出迎えられていた父がこちらに顔を向けた。

「おかえり」

「呼びつけておいてすまないな、更文」

「いや」更文は首を横に振る。「おかげで久しぶりにゆっくりできたよ」

「そうか」

 父が羽織っていた外套を受け取った一助は、それを軽く畳んで腕に掛けながら口を開く。

「フミさんが離れに晩酌の用意をしてくれたんですよ。今夜は空が美しいので、月見酒でもいかがですか?」

「そうなのか?」

「ああ、疲れていなければ一緒にどうかと思って。話っていうのも聞かせてほしいし」

「分かった」

 着替えたらすぐに行くと言って、当代は母と共に廊下の先にへと姿を消す。兄は手にしていた外套を母に受け渡したあと、更文を振り返った。

「貯蔵庫に日本酒が何本かあるので、適当に見繕ってきます」

 これにしましょうと言って一助が持ってきたのは、見るからに高そうな木箱に入れられた古酒だった。蓋を外して見せてくれた瓶の中身は熟成され、日本酒は濃い蜂蜜のような琥珀色に変化している。

「これは2004年に製造された日本酒ですよ」

「へえ」

「そろそろ飲み頃だと聞いているので、せっかくだから開けて飲んでみましょう。私たちが三人だけで盃を傾けるなんてことは、そうあることではありませんから」

 部屋の上座に一席、その両側に一席ずつ用意し、そこに腰を落ち着けて取り止めのない話をしていると、風呂に入ってきたらしい父が濡れ髪をそのままに現れた。着流しに半纏を羽織り、外の冷えた空気を携えながらやって来る。

 母から髪を乾かしてから行けと既に注意を受けているはずだと思い、更文は考えていた言葉を飲み込むと、その場に立ちあがろうとした。しかし、父は片手でそれを制すると、上座に腰を下ろす。

「待たせて悪かったな」

「急用ってのは何だったんだ?」

「なに、大した用じゃないさ」

 当代はこうして、時々自分と高科家の間に一線を引くようなことを言う。お前はまだ外で修行をしている身なのだから、余計な心配をする必要はないと、そう言われているようだと更文は感じていた。

 傍に置いていた木箱を手に席から立ち上がった一助は、父の隣に膝をつくと、蓋を開けて中身を見せる。父が小さく頷くと、箱の中から古酒の瓶を取り出し、それを切子のグラスに注ぎ入れた。

「今回の玉阪座の公演はこれまでとは一風違った仕上がりだったな」

「クロが──いや、演出脚本が同期の根地黒門だったから、玉阪座の他の舞台とは一線を画していたんだと思う。あの舞台は、あいつの完全オリジナルだから」

「田中右宙為くんは相変わらずの気迫でしたね」下座をぐるりと回り込み、傍までやって来た一助が、更文のグラスにも酒を注ぎながら言った。「今度はインドまで武者修行に行かれていたとか」

「なんで兄貴が知ってるんだよ……」

「客席の噂話ですよ」

 一助は自らの席に戻り、グラスに古酒を注ぎ入れる。その様子を見届けた父は、自らのグラスを軽く掲げ、それを口に運んだ。窓の外に見えている月を見上げ、目を細めている。

 更文はその琥珀色の液体に視線を落とし、果実みのある香りを堪能すると、グラスをゆっくりと傾けた。舌に触れた瞬間はとろりとした甘みを感じるものの、後味はすっきりとしている。鼻に抜ける香りはまるで芳醇な桃のようだと感じた。

「私はあの舞台で舞うお前の姿を見て、一皮剥けたと感じたよ」見上げていた月から視線を戻し、父は更文を見る。「だが、あの程度の舞ではまだ、お前に高科二千奥の名を明け渡すわけにはいかないな」

「そんなことは言われなくても分かってる」

 あんな中途半端な舞では、高科二千奥の名に泥を塗ってしまうことになる。もっと、もっと自らの舞に磨きをかけなければ、父の背中には追いつくことができない。

 しっかりと腰を据え、自らの家の舞と正面から向き合っているからこそ、ユニヴェール時代には見えていなかったものが、この目に見えるようになっていた。

 自分の舞は上辺だけなのだ。上辺だけを美しく取り繕い、形だけは完璧でも、中身は空っぽのまま。

「何か迷っているのか?」

「え?」

「何か悩みでもあるのではないかと思ってな」

「どうして……」

「ここ数年のお前は舞が安定していない。色々なものを取り入れ、試してみるのは良いことだ。お前がそうして成長してきたことも事実だからな。だが、自意識の真ん中に確固たる軸と信念があってこその回り道だろう。今のお前は、その軸が揺らいでいるように感じられる」

「……これでも安定してきたほうなんだけど」

 高科二千奥の名前を長年守り続けてきた男だ、当代の目を欺くことはできない。更文の安定しない舞を見て思うところはあっても、黙って見守ってくれていたのだろう。ならばなぜ、今更になってその問題を突きつけてくるのかと、更文は思った。

「もしかして、俺に話があるっていうのは、このことについてなのか?」

「まあ、当たらずとも遠からずってところだ」御膳に乗せられた料理を口に運び、それを咀嚼している間、父は黙っていた。「更文」

「なんだよ」

「お前、少しの間だけでも玉阪を離れてみたらどうだ?」

「……は?」

「半年や一年とは言わない。だが、一ヶ月や二ヶ月離れるくらいなら、玉阪座の皆さんもお許しくださるはずだ」

「おい親父、冗談だろ」更文は思わず乾いた笑いを漏らしてしまった。「そんなことできるかよ。今日だって、スケジュールを調整するのにどんだけ苦労したことか」

「私だってこんなことを言いたくはない」

「だったら──」

「私が思うに」更文の言葉を遮るようにして、二人の話を黙って聞いていた一助が口を開いた。「フミさんに玉阪は狭すぎるのではないかと、そう感じるのです」

「玉阪が、狭い?」

 酒にも食事にも手をつけず、姿勢正しく座った格好のまま、一助は正面にいる更文をまっすぐに見据えていた。

「ユニヴェールにいた頃のあなたを知っているとは言えませんが、それでも、最後の秋公演以降のあなたは自由に生き生きと、楽しそうに舞台上を駆け回っているように見えました。私にはそれがとても眩しく、同時に羨ましく思えたものです。これが青春というものかと」

 まるで自分にはその青春がなかったとでも言いたげな口振りだったが、家を飛び出した更文とは違い、長男の一助は一助なりに、高科の舞を守ろうと必死になっていたのだ。

 数百年と続く高科の舞を守るためには伝統を重んじる必要があると考えた父と兄に対し、更文は過去から脈々と受け継がれてきた伝統を継承し続けるだけでは、いずれ時代の波に飲まれ、淘汰されるかもしれないと恐れた。だから、高科の舞を守るために、家を出たのだ。

「ユニヴェールを卒業し、あなたは玉阪座の舞台の他にも、様々な活動を精力的に行なってきました。それらの活動はあなたの糧となり、芸に生かされてきたものと、私は信じています」

「……兄貴は何が言いたいんだ?」

「所詮、それらは閉じられた世界ということですよ」一助の言葉に、更文は思わず眉を顰める。「高科も同じように閉じられた世界です。あなたが窮屈に感じて出ていったときのまま、何も変わってはいない。私たちは伝統と格式が重んじられる、昔ながらのしきたりの中にいます。それが悪いということではないのです。ただ、今のあなたの現状は、ユニヴェールにいた頃のあなたが望んでいた通りの未来なのかと、疑問に思ってしまいました」

「望んでいるもなにも、俺が玉阪座で芸事を学んでいるのは、すべて高科のためであって──」

「高科のため、か」高科流当代が吐露するように漏らした。「高科のためというのは、ひいてはお前のためということだ、更文」

 二人は一体何の話をしているのだ、というのが、更文の素直な気持ちだった。話の向こう側にあるものが、見えそうで見えない。霞がかかっていて、酷く見通しが悪いのだ。

「私は自分がそう遠くない未来に第一線を退き、この名をお前に譲り渡す日が来ることを確信している。だが、だからこそ、憂いているのだ。私は父から受け継いだ高科の舞を、粛々と守り続けてきた。何代にも渡って脈々と受け継がれてきた伝統を、次代へと引き継ぐ。私の代では、そうするだけで精一杯だった。でも、お前は違うのだろう?」

 今ある伝統も守り、そして同時に、高科の舞に新しい風を吹かせる。

「お前が玉阪座の舞台に携わるようになって、今年でもう七年だ。少なくとも十年は口を出すまいと思っていたが、先日の舞台で舞うお前の姿を見て、私は気が変わった。だから、一助と相談をして決めたことがある」

「決めたって、何を──」

「更文、お前はもっと世界に目を向けろ。一度この日本を出て、見聞を広めるんだ。様々な文化に触れた分だけ、それはお前の芸の糧となる。お前は目が良いからな」

「ちょっと待ってくれ。勝手なことを言うなよ」

「フミさん」声を荒らげる更文を諭すような落ち着き払った口振りで、一助が言った。「あなただって薄々気がついているのではありませんか? そろそろ頭打ちだと」

 確かに、玉阪座で学べることは限られている。

 ユニヴェールでもトップクラスの実力を持つ、一握りの人間しか受け入れられることのない、選ばれし者が集う場所が、玉阪座だ。

 最初は、今日は一体どんなに凄いものが見られるのだろうと、日々わくわくしていた。毎日が新しいことの連続だった。学べば学ぶほど、それを活かせば活かすほど、自分の芸に磨きが掛かっているという感覚があった。けれどいつしか、少しずつ学ぶことが減っていき、今度は自分自身の才能が搾取される側に回っていたことに、ある日突然気付かされる。

 ここではもう何も学ぶことはできないのかと、愕然とした瞬間は、確かにあった。停滞しているのだ。己の才能も、心が向かう先も。

 いつからか、未来を想像することも難しくなっていった。だが、真実自分が求めているものが何なのかも、今の更文には分からない。ただ、玉阪座の稽古場で睦実介が言ったように、このままはよくない、ということだけは、よく分かる。

 でも、だからといって、今目の前にあるすべてのものを投げ出して良い理由にはならない。それに、玉阪座には恩義を感じているのだ。そこまで無責任にはなれないと、更文は思う。

 そう考えていることを訥々と伝えると、父と兄は顔を見合わせた。なぜか、してやったり、という表情を浮かべているように見える。

「では、高科流の次期当代として、私の代わりにイギリスに行ってきてくれ」

「なんだって?」

「これは立派な仕事の内だぞ」父は半纏の袖に両手を入れ、胸の前で腕を組んだ。「昔々、とはいっても先代の高科の時代だが、そのときにいたお弟子さんが海を渡り、遠くイギリスの地へと降り立った。とあるミュージカルの来日公演を観劇し、一目で虜になったそうだ。お弟子さんは当時の高科二千奥──私の父に許しを得て、ロンドンで演劇を学ぶ運びとなった。そのお弟子さんは既に亡くなっているが、彼が在籍していた劇団は今も健在だ。父はまだ子供だった私を連れ、葬儀に参列した。お弟子さんは向こうで結婚し、子供もいたんだ。そのお弟子さんは劇団の稽古中に、よく高科の舞を踊っていたらしい。その舞の大層美しいこと──座長さんは、是非とも彼と同じ舞を学びたいと言って、高科二千奥に教えを乞う。以来、我が高科流とその劇団は姉妹関係を結び、今日に至るというわけだ」

「その話は知ってる」更文は酒を飲む気になどなれず、額を覆いながら口を開いた。「でも、親父が倒れてからは、一助兄貴が教えに行ってるんだろ?」

「ええ、名代として大役を仰せ使っておりました」

「だったら、今度も兄貴が行けばいい。俺、パスポートは持ってるけど、イギリスは一度も行ったことがないし」

「あちらには熱心な教え子がいるので、私も行きたいのは山々なのですが、先だって父と二人で舞台に立って欲しいという公演の申し入れがあったものですから。前々からご贔屓にしていただいているお客様からのお申し出なので、無下にすることもできず、困っていたところだったのです」

「いや、だからって──」

「良い機会だと思うがな」父が酒を煽ってから言った。「まあ、すぐに返事をしろとは言わない。二、三日経ってから、お前の考えを聞かせてくれればい。お前がどうしても行きたくないと言うなら、一助と役割を交代するだけだ。ご贔屓さんには、ご迷惑をおかけすることになるだろうがな」

 唐突な話についていくことが出来ず、更文は誰よりも早く離れを後にすると、自分の部屋に戻ってきた。母か義姉が敷いておいてくれたらしい布団に倒れ込み、やわらかい羽毛の布団に顔を埋め、大きくため息を吐く。

 幼い頃から、父が年に一度、イギリスはロンドンに出掛けていたことは知っている。古くから続く劇団の座長に乞われ、高科の舞や日本舞踊を教えに行っているのだと、母から聞いていた。当時は兄を跡取りにと考えていたのだろう、父は一助を連れてロンドンに行くことはあっても、更文を連れて行ってくれたことは、ただの一度もない。

 父が病に倒れ、長期的に日本を離れることが困難になってからは、一助が年に一度、ロンドンに渡っている。今は劇団の者だけではなく、ワークショップを開き、望む者がいれば外部の人間にも教えているという話だ。

「英語なんて中学で習ったきりだぞ」中学を卒業し、そのままユニヴェールに入学した更文は、以来英語の勉強などしていない。「普通に考えて無理だろ……」

 はあ、と再びため息を吐いた更文は、畳の床に転がっているスマートフォンに手を伸ばした。コンセントと繋がっている充電器を取り外し、画面を点灯させる。

『暇が出来たら連絡して』そこには、根地黒門からのメッセージが届いていた。『大事な話があるんだ』

 

 

 

「家の裏庭で育てているレモンバームのハーブティーだよ。頃合いを見て葉を収穫したら、冬の時期のために乾燥させておくんだ」

 あのあと、訳も分からず泣き崩れてしまった希佐と、それを見守ることしかできないアランを引き離し、ゴダンは希佐だけを隣の住居スペースに連れて来てくれた。

 一階のリビングにあるソファに希佐を座らせると、香りの良いレモンバームのハーブティーを淹れてくれる。

「レモンバームは白くて小さな花を咲かせる。残念ながら、その花を待っていると、葉の香りが落ちてしまうのだけどね」

「ハーブなら日本の実家でも育てていました。近所のお花屋さんに種を分けてもらって」

 スプーン一杯の蜂蜜を垂らし入れたレモンバームティーは、爽やかな香りの中にほんのりとした蜂蜜の甘みを感じて、どんよりとしていた気持ちを、少しずつ晴れやかにしてくれるようだった。

「私の家は裕福ではなかったので、お庭の一角を耕して、小さな畑で野菜を育てていたんです。トマトとか、ラディッシュとか。でも、葉が虫に食われてしまうことが多くて。お花屋さんをお手伝いしたときにその話をしたら、一緒にハーブを植えると良いよって」

「lovely」

 イギリスで暮らすようになって四年程経つが、最初はこのlovelyという言葉の意味が、希佐にはよく分からなかった。

 イギリス人はまるで口癖のようにlovelyという言葉を口にする。

 日本ではこの言葉を「可愛らしい」などと訳すことが多いが、この国ではそれだけでは足りない。今のゴダンの口振りでは、素敵だね、という意味合いが強いのだろう。アランはよくこの言葉を、皮肉を言うときに口にしている印象があった。

「レモンバームはフレッシュな状態でお茶にしても美味しいんだよ」

「そうなんですね」

「春から夏頃にかけて収穫できるから、今度試してみるといい。この家には、アランに預けている鍵を使って、自由に出入りして構わないから」

「いえ、そんな」希佐は慌てて首を横に振る。「恐れ多いです」

「ここは私がいなくても友人が勝手に泊まりに来るような家だから、心配はいらないよ。最近は仕事でなかなかロンドンには戻って来られないから、本当は誰かに住んでもらいたいくらいなんだけど、なかなか借り手が見つからなくてね」

「そうなんですか?」

「でもそれは、私が借り手の選り好みをしているからなのかな。どうせなら、私と同じくらいこの家を愛してくれる人に住んでほしいと、そう思ってしまうんだよ」

 立ち上る湯気が希佐の鼻先をくすぐる。思わずくしゃみをしてしまうと、ゴダンはダイニングの方からブランケットを取ってきて、それを希佐に差し出してくれた。

「さて、少しは落ち着いたかな?」

「あっ、はい」マグをテーブルの上に置き、ブランケットを膝に掛けようとしていた希佐は、思わずそれで顔の半分を覆い隠してしまう。「先程はすみませんでした、変なところをお見せしてしまって」

「映画のワンシーンを切り取ったかのようだったよ」

 記憶だけではなく、記録に残しておきたかった。たとえロンドンを離れ、二度と戻ることがなかったとしても、自分はここで、大切な人と一緒に生きていたのだと。

「あ、あの……」

「なんだい?」

「私にも写真をいただけますか?」その、と呟きながら、希佐はブランケットを膝に置く。「先程撮っていただいた写真を……」

 希佐が何度も言い淀みながら言葉を並べていくのを、ゴダンはどこか唖然としたような面持ちで眺めていた。しかし次の瞬間、花が綻ぶような様子で破顔すると、大きく頷いて見せる。

「もちろん、アルバムにまとめてプレゼントさせてもらうよ」

「い、いえ、一枚だけいただければ、私はそれで──」

「写真をアルバムにまとめて人に贈るのは、私にとって何も特別なことではないんだ。他の友人たちにもしていることだから、遠慮しないでほしい」

 写真家で、映画監督。きっと生粋のアーティストなのだろう。アイリーンから聞いたことが正しければ、両親は揃って写真家だという話だ。きっと、幼い頃からカメラを抱え、様々な被写体を写真に収めてきたのだろう。

「魅力的な人には自然とレンズを向けてしまうんだよ。ここ近所に足繁く通うパブがあるんだけどね、そこへ行くときはいつも、ポラロイドカメラを持っていくんだ」

「そのパブって、キングズ・ヘッド・パブですか?」

「行ったことがあるのかい?」

「いいえ。でも、ここへ来る前に、タクシーの中でアランとそのパブの話をしていたんです。ロンドン最古のパブシアターで、アランも前に立ったことがあるって」

「彼がメレディスの劇団に所属していた頃の話だね」

「はい」

「残念ながら、その頃の私はまだアラン・ジンデルを知らないけれど、実に興味深い話を聞かせてもらったよ」ゴダンはそう言うと、にっこりと笑う。「キサ、今夜の予定は?」

「予定ですか? いいえ、特には何も」

「では、今晩はここに泊まっていくといい。もちろん、アランも一緒だよ」

「えっ? でも──」

「三人でキングズ・ヘッド・パブに繰り出そうじゃないか。運が良ければオペラを観劇できるかもしれないよ。今は『トスカ』を上演しているんだ」

 アランにも話して来ようと、ゴダンは希佐に向かってここで待つように言って、玄関から外に出ていった。一度歩道に出てから、すぐに踵を返し、隣の家に入っていく様子が窓ガラス越しに見える。

 いずれ終わる関係だと分かっているのに、どうしてこうも縋ろうとしてしまうのだろう。早々に離れてしまった方が楽だと分かっているのに、その日が訪れるまでは、このままでいたいと願ってしまう。終わりが見えているからこそ、それまでの日々を大切にしたいと思ってしまうのだろうか。

 そうすることに何の意味があるのかすら分からない。ただ、このどうにかなってしまいそうな心を、かりそめの幸福で満たしたいだけなのだ。突き付けられる現実を受け入れ、自らが立ち向かおうとしているもののあまりの大きさに、萎縮してしまわないように。

 夕暮れ時にゴダンの家を出発すると、明日の朝食用にと近くのベーカリーに寄って買い物をしてから、三人は揃ってキングズ・ヘッド・シアター・パブに向かった。しかし、パブの隣に文房具屋があることに気づくと、希佐は店の前で足を止める。

「あの、少しだけ買い物をして来てもかまいませんか?」

「そうだね」ゴダンは腕時計を一瞥してから、小さく頷いた。「構わないよ」

「ありがとうございます」

 そろそろ日記を書くための新しいノートを買わなければと思っていた希佐は、いつも使っているノートを二冊とボールペンのインクを手にし、レジに向かった。品物を差し出すと、愛想の良い店員が笑顔でそれを受け取り、話し掛けてくる。

「彼、あなたのボーイフレンド?」

「え?」

「あのイケメンよ」万年筆用のインクが並べられているショーケースの前に立ち、ぼんやりと商品を眺めているアランを見て、店員は悪戯っぽく笑う。「前にも何度かここに来てくれたことがあって。俳優かモデルかしらってお店の子たちと噂していたの」

「そうなんですか」

「もしかして舞台関係者?」

「そう、なのかな」

 どのように答えていいか分からず、希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまった。自分のことを話すならまだしも、人の話をするのは気が引けると思っていると、茶系のインク瓶を手にしたアランがレジ前までやって来る。

「一緒に」

「かしこまりました」

 希佐に対する態度とは明らかに違うかしこまった様子で、店員は頂くようにして商品を受け取ると、それをレジに通した。アランは希佐のノートやボールペンのインク代までカードで支払ってしまい、カウンター越しに差し出された紙袋を手に取って、さっさと店を出て行こうとする。にこりともせず立ち去るアランの後ろ姿を、どこかうっとりするように見やっていた店員に軽く会釈をしてから、希佐はその後ろを追いかけた。

「アラン、お金払うよ」

「お人好し」店を出たところで、アランが希佐を見下ろして、呆れたようにそう言い放った。「後で一杯奢ってくれればいい」

 キャンセルが出たという言葉を正しく受け取っていいものかと思うが、劇場の最後尾の席が空いているというので、チケット代を支払った三人は、間もなく上演時間となる劇場内までやって来た。

 ロンドン最古のシアターパブというだけあり、その劇場は歴史を感じさせる内装をしている。希佐はこれまでに何度か、ヘスティア以外のシアターパブでも舞台に立ってきたが、この劇場はそのどことも雰囲気が違うように感じられていた。どこか厳粛で、ひんやりとした空気感がある。

「トスカってイタリア語?」希佐が腕を引いてそう訊ねると、アランは黙ったまま小さく頷いた。「大丈夫かな」

「オペラは初めてかい?」

「いえ、初めてではないのですが、前にロンドン・コロシアムで観劇したオペラは英語だったものですから」

 自分を挟んで座る男たちを交互に見上げながら、希佐は申し訳なさそうに言う。すると、ゴダンは希佐を安心させるように、朗らかに笑った。

「私もイタリア語は分からないなぁ。でも、トスカのストーリを理解していれば、何も問題はないよ。オペラはフィーリングだと思っているから」ゴダンはそう言いながら、別の客席に座っている誰かに向かって手を振っている。どうやら馴染みの相手を見つけたらしい。「ロンドン・コロシアムでは何を観たの?」

「カルメンです。本当はロイヤル・オペラ・ハウスに椿姫を観に行こうと思っていたのですが、思っていたよりもチケット代が高くて。何度か当日券の列にも並んだのですけれど、皆さん随分早くから並ばれているみたいで」

「アランに連れて行ってもらったことは?」

「劇場通いをしていた頃はまだ出会っていませんでした。自分が舞台に立つようになってからは、劇場通いもしなくなって──」

「話は後にしたら」アランにそう声をかけられ、希佐はそちらを振り仰ぐ。「もうはじまる」

 トスカはヴィクトリア・サルドゥの戯曲に基づく、プッチーニ作の有名なオペラだ。第一幕から第三幕まであるが、上演時間は二時間にも満たない。

 簡単に説明すると、画家であるマリオ・カヴァラドッシが、ローマ共和国の統領であった政治囚のチェーザレ・アンジェロッティを匿ったことで、ローマ市の警視総監であるスカルピア男爵に捕らえられ、処刑される物語だ。

 だが、二人の間には、フローリア・トスカという有名な歌手がいる。トスカはカヴァラドッシの恋人で、美しく、そして嫉妬深い女性だった。

 カヴァラドッシは冒頭、教会からの注文でマグダラのマリアの絵を描いていたが、密かにその絵のモデルにしていたのが、政治囚となってしまった兄が解放されることを祈りに来ていた、アンジェロッティの妹、アッタヴァンティ侯爵夫人だった。

 絵を描いていた教会に逃げ込み、そこに身を潜めていたアンジェロッティは、旧知の仲であったカヴァラドッシの前に姿を現し、脱獄して来たことを告げる。そこへやって来たのが、恋人のトスカだ。カヴァラドッシはアンジェロッティに身を隠すように言うと、トスカを教会内に招き入れた。

 教会の外から聞こえていた話し声や、カヴァラドッシの落ち着かない様子を目の当たりにしたトスカは、彼が別の女性と会っていたのではないかと疑う。カヴァラドッシは取り繕うが、彼が描いていた絵を見て、トスカの疑惑は確信へと変わった。そして、その絵のモデルがアッタヴァンティ侯爵夫人だと言い当てる。

 嫉妬に狂うトスカを宥め、事情を説明し、カヴァラドッシは愛の言葉を高らかに歌った。僕の命、僕の弱点、僕の愛する人──君を愛しているよ、と。

 トスカはカヴァラドッシの愛を受け入れ、一度は納得をしてみせるものの、マグダラのマリアの目の色を自分と同じ黒に塗り直すようにと言い残し、教会を出ていく。その日の夜、二人で会う約束をして。

 しかし、その後すぐ、辺りに砲声が轟き、アンジェロッティの脱獄が知らされる。アンジェロッティは妹が自分のために祭壇の裏に隠していた女性ものの衣服を身につけ、カヴァラドッシと共に、彼の別荘に向かうのだ。

 入れ違うようにして、ナポレオンが戦に敗れたという誤報を信じた堂守と合唱隊の少年たちが教会に入ってくる。歌で神に感謝を告げていると、アンジェロッティを追う警視総監のスカルピアと、副官であるスポレッタも姿を現した。彼らは、先程まで女性ものの衣服が入れられていた籠と、置き去りにされていた扇を見つけ、疑念を深くする。扇にはアッタヴァンティ侯爵夫人の紋章が記されていたからだ。

 人で溢れかえる教会に戻ってきたトスカを見つけたスカルピアは、彼女の嫉妬心を利用し、アンジェロッティを匿っているであろうカヴァラドッシの行き先を炙り出そうとした。アッタヴァンティ侯爵夫人と恋人の密会を疑っていたトスカは、嫉妬に駆られ、裏切り者たちに思い知らせてやると言って、二人が向かった別荘へと急いだ。

 スカルピアは部下にトスカの備考を命じると、自身のトスカに対する恋心を歌い上げた。

 アンジェロッティを捕らえ、トスカも手に入れるのだと。

 そうして、第一幕は終わりを告げる。

 暗転した舞台を見つめたまま、希佐は無意識に詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。イタリア語はまったく分からないが、ゴダンが言っていた通り、ストーリーを知っているので問題はなさそうだ。

「どうかな」僅かに体を傾けたゴダンが、希佐の耳元でそう問いかけてくる。「楽しめているかい?」

「はい」

「それはよかった」

 第二幕、スカルピアが公邸で食事をしていると、外からはナポレオンが敗れた信じている人々の、歓喜の歌声が聞こえてくる。スカルピアは、トスカのリサイタルが終わるのを待ち、自らの下へ連れてくるようにと部下に命じていた。悪役らしく、愛する女性を自らの地位と権力て手に入れてみせようと、見事なバリトンで歌い上げる。

 しかし、教会からトスカを尾行し、別荘に向かったスポレッタが連行してきたのは、カヴァラドッシただ一人だけだった。スポレッタが別荘に突入したときにはもう既に、アンジェロッティの姿はどこにも見当たらなかったのだ。

 スカルピアは、カヴァラドッシを尋問し、アンジェロッティの居場所を吐かせようとするが、当然の如く口を割ることはない。すると、カヴァラドッシの尋問は早々に切り上げられた。そして、別室にて拷問にかけられていると、そこへリサイタルを終えたトスカが現れる。

 当初は、アンジェロッティのことを問われても、知らぬ存ぜぬを貫き通していたが、拷問にかけられているカヴァラドッシの呻き声をどうしても無視することができず、トスカはアンジェロッティが別荘の井戸の横穴に隠れていると、そう真実を伝えてしまった。

 秘密を守ることのできなかった恋人をなじるカヴァラドッシだったが、先の戦で敗れたはずのナポレオンが、実際にはオーストリア軍を退けたという伝令を受け、その勝利を大いに喜んだ。その態度を快く思わなかったスカルピアは、カヴァラドッシを投獄するよう部下に指示を出す。カヴァラドッシの後を追おうとするトスカを、スカルピアは引き止めた。トスカは賄賂を渡し、恋人を救おうとするが、スカルピアが求めたのは金ではなく、トスカの体だ。

「……」

 希佐は舞台上で歌う女性の姿に釘付けになっていた。オペラファンなら知らない者はいない。敬虔な信徒であったトスカが、自らの過酷な運命を嘆き、神に向けて歌う『歌に生き恋に生き』は、絶望の最中にありながらも、あまりに美しい調で聴く者の心を満たす。

 呼吸をすることすら忘れて歌に聞き入っていた希佐は、舞台上で崩れ落ちるように伏せたトスカの姿を見てようやく、詰めていた息を吐き出した。女優の立ち居振る舞いのすべてを見逃したくないと思う。

 トスカの歌が終わると、部屋に戻ってきたスポレッタは、アンジェロッティは井戸の中で自害していたと告げた。カヴァラドッシの処遇はと問うスポレッタに、見せかけの処刑を行うよう指示を出す。そして、トスカはカヴァラドッシと共に本国を出国するべく、スカルピアに通行書を用意するよう求めた。

 スカルピアが机に向かって書類を書いていると、トスカの眼差しが一点を捉えた。テーブルの上にある、一本のナイフ。スカルピアの目を盗んでそれを手に取ったトスカは、書類を書き終え、自らを抱こうと迫ってくるスカルピアの胸に、隠し持っていたナイフを強く突き立てる。

「これがトスカのキスよ」

 まるで愛しい人との逢瀬のときのような、甘い、甘い声で、トスカは床に倒れるスカルピアの耳に囁きかけた。身の毛のよだつようなその美しさに、希佐は思わずゾッとする。それがスカルピアが聞いた最期の言葉なのだと思うと、幸福や残酷さが入り混じった、奇妙な感情に胸のうちが支配されるのが分かった。

 トスカはスカルピアが息をしていないことを確かめてから、その手に握られている通行書を取った。そして、その遺体の傍に燭台を置き、神に祈りを捧げるよう十字を切ると、その場を足速に立ち去る。

 劇場内が暗転した。

 誰もがトスカの歌声の余韻に浸り、客席からは囁き声すら聞こえない。比較などするべきではないのだろうが、アイリーンとはまた違った魅力と迫力のある歌声に、希佐は圧倒されてしまっていた。

 第三幕、物語はついに佳境に差し掛かる。

 牢屋に投獄されたカヴァラドッシは、夜明けと同時に行われる自らの処刑を待つばかりだった。処刑はもう間もなく執り行われる。カヴァラドッシは看守に賄賂の指輪を渡し、トスカに手紙を渡してくれるように頼むが、自らに待ち受ける死と恋人との別れに思いを馳せると、悲しみと絶望に苛まれる。

 これほどまでに命を恋しく思うことはなかった──やわらかなテノールが、心を打つアリアを歌う。

 人は人生の終わりのときに、こんなにも美しい音楽を奏でることができるだろうか。プッチーニは絶望こそ美しいと考えるような思想の持ち主だったのだろうと、希佐は思った。

 カヴァラドッシのいる牢獄までやって来たトスカは、スカルピアの手の中から奪ってきた通行書を見せながら言った。あなたはもう自由の身だと。

 あなたの自由と引き換えに、スカルピアは私の肉体を欲したが、私がこの手でスカルピアを殺した──この両手は血濡れてしまったと歌うトスカに、カヴァラドッシは、君の手は優しく穢れのないものだと歌い、慰める。

 処刑のときがやって来たら、空砲が鳴り響く。見せかけだけの処刑が行われる。だから、あなたは撃たれたふりをするようにと、トスカはカヴァラドッシに言った。

 そして、その瞬間はやってくる。看守は時が来たことを告げると、カヴァラドッシを処刑場へと連れていく。トスカはそれを見送りながら、上手に倒れるのよ、と何度も繰り返し告げていた。

 だがしかし、これから行われる処刑が見せかけのものだと分かっていても、トスカの心から不安を拭い去ることはできなかった。カヴァラドッシを取り囲む兵士たちが、銃を構える様子を横目に見ながら、愛しい人を見守っている。

 その直後、辺りに銃声が轟くと同時に、カヴァラドッシがその場に倒れ込んだ。なんて絶妙なタイミングなのだろう。トスカはなんて素晴らしい演技なのだと影から恋人を褒め称えるが、スポレッタや兵士たちが立ち去った処刑場に駆け込むと、残酷な現実を突きつけられることとなった。

 愛するカヴァラドッシは絶命していた。空砲だと思い込んでいた音は、本物の銃声だったのだ。スカルピアは最初からカヴァラドッシを生かしておくつもりなどなかった。

 トスカは血だらけで絶命している恋人に縋りながら、その名前を何度も、何度も泣き叫ぶ。

 そして、スカルピアが何者かに刺し殺されていることが明るみになると、犯人はトスカだと言い放ち、兵士を引き連れたスポレッタは再び処刑場へと戻って来た。トスカを捕らえ、その命をもって償わせようとするが、トスカはスポレッタの手を逃れると、そのまま屋上から飛び降りて──物語は幕を下ろす。

 割れんばかりの拍手が劇場を震わせる。観客は椅子から立ち上がり、緞帳の向こう側から再び姿を現した役者たちを、熱狂的に出迎えた。カヴァラドッシ役とスカルピア役の俳優に挟まれ、トスカを演じた女優は汗を掻いた額に前髪を張り付かせ、晴れやかな表情で客席を見渡すと、深々とカーテシーをする。

 女優が顔を上げたそのとき、その眼差しが一点を捉え、僅かに驚いたような表情を浮かべたあと、にっこりと笑うのが見えた。

 緞帳が降ろされ、劇場内に明かりが戻ると、観客たちは次々と席を離れていく。だが、希佐はその場を離れられないまま、呆然と立ち尽くすようにして舞台を見つめ続けていた。

 それは、自分にはない、圧倒的な才能だった。

 年の頃はさほど変わらないはずだ。だが、これまでに培って来たであろう経験値に差があることは歴然としていて、悔しがることさえ許されないような気がした。あの、後半に向けて徐々にアクセルを踏み込んでいくような、観客の心を少しずつ侵食していく甘い毒のような演技と歌声には、ただただ驚嘆してしまう。

「キサ」名前を呼ばれてハッとした希佐は、隣に立っているアランを見上げた。「もう終わった」

「あ、うん」先程までの喧騒はどこへやら、劇場内に人影はなく、しんと静まり返っている。「ごめんなさい、圧倒されてしまって」

 後ろを振り返ると、ゴダンが清掃に入ってきたスタッフと親しげに談笑しているのが見えた。希佐が立ち尽くしたまま動こうとしなかったので、間を持たせてくれていたのかもしれない。

 座席の下に押し込んでいた荷物を手に取った希佐は、アランの後を追いかけてゴダンのところまで歩いていくと、スタッフに向かって軽く頭を下げた。

「居座ってしまってすみません」

「いえいえ」

 じゃあ、と言ってゴダンとの会話を切り上げたスタッフは、箒と塵取りを手に、劇場内を見回りに行く。座席の下を隈なく覗き込みながら、床に落ちているごみを拾い集めていた。

 ふわふわとしたまま裏手にある劇場からパブの店内に戻ると、そこはたった今オペラの観劇を終えた客たちでごった返していた。アルコールを摂取しながら行われる会話の多くは、今日のトスカはいつにも増して素晴らしかったというもので、誰もが大満足をしながら酒に酔いしれているようだった。

 ノートのお礼にお酒を奢る約束だったことを思い出した希佐は、驚くほど混み合っている店内の中で、前を歩くアランの腕を引こうとした。もしかしたら、この混雑具合にうんざりしているのではないかと思っていると、不意に、その声は聞こえてきた。

「アラン!」明るく、生き生きとした声が、目の前の人を呼び止める。「アラン・ジンデル!」

 アランは案の定、不快感を露わにした表情を浮かべ、声の聞こえてきた方向を振り返った。すると、まるでモーセが海を割ったときのように人が左右に割れ、その真ん中を一人の女性が駆けて来る。

「あなたがわたしの舞台を観に来てくれるなんて!」

 そう言いながら駆け寄ってきた女性は、希佐の目の前でアランに力一杯のハグをすると、酷く親しげな様子でその頬にキスをした。

「クレア」

「ああ、本当に驚いた」くすくすと笑いながらアランから離れた女性は、次いでゴダンに目を向ける。「今日はレオが観に来ていると聞いていたから、いつもより張り切って演じたの。どうやらその甲斐があったわね」

「君が気分で歌うときはいつも高音のピッチが──」

「ほら、またそうやってすぐに水を差すようなことを言うんだから」

 親しげに話をしている姿を見るに、二人はそれなりの付き合いがある関係なのだろう。ゴダンは二人の会話をにこにこと笑いながら聞いている。

 希佐は邪魔をするのも悪いと思い、その場を離れて、少しだけ店内を見て回ることにした。せっかくロンドン最古のパブシアターにやって来たのだ、その歴史的価値を堪能したいと思う。

 緑を基調とした落ち着きのある店内は、ヘスティアほどの広さはない。酒や料理は店の中央にあるカウンターから注文するようだ。道路に面したガラス窓には、現在上演しているオペラや、今後上演予定の舞台のポスターなどが貼り出されている。店内の壁という壁には、写真やポスター、楽譜、サイン入りの色紙などが所狭しと飾られていた。ロンドン最古のパブシアターということもあり、観光客の姿も目立つようだが、大抵は地元の常連客が集まる店のようだった。

「お飲み物は?」

 カウンターの近くで、壁に飾られている古いポスターを眺めていると、不意に店員から声をかけられる。確かに、飲み物も買わずに店内をうろつくのは失礼だと思い、目の前にあったサーバーを指した。

「ギネスをお願いします」

「はいよ」

 慎重に注がれた黒色の液体は、きめ細やかな泡に蓋をされ、希佐の前に差し出される。代金を支払うと同時にそれを受け取っていると、彼女と同じものを、と言ってゴダンが隣にやって来た。

「どこへ行ってしまったのかと思ったよ」

「え?」ゴダンがギネスを受け取りながらこちらを横目に見ている。「ああ、すみません。せっかくなので、店内を少し見て回っていたんです」

「私はてっきり、あの二人を見ていられなくなったのかと心配していたのだけど、どうやら無駄な気を回していたようだね」

 あの二人、と言ってゴダンが振り返った場所には、まだアランと女性が立って話をしていた。カウンターの椅子をすすめられて腰を下ろした希佐は、妙に絵になるその様子を一瞥してから、隣に座ったゴダンに目を向けた。

「彼女はトスカを演じていた女優で、クローディア・ビアンキ。ギルドホール音楽演劇学校でオペラを学んで、卒業後は舞台女優としてロンドン中の劇場を転々としているそうだよ」

 クローディア・ビアンキは、黒髪に青黒い目をした、非常に魅力的な女性に見えた。舞台の上に立っているときほどの妖艶さは感じられないものの、一度見たら絶対に忘れられないような美貌の持ち主で、アラン・ジンデルの隣に立っていてもまったく見劣りをしない。

「綺麗な人ですね」

「ん?」口元についたギネスの泡を拭いながら、ゴダンは二人に目を向けた。「ああ、そうだね」

 自分は今、一体何を思うべきなのだろうと、希佐は考えていた。

 ゴダンがそう言った通り、見ていられないかといえば、その通りなのかもしれない。クローディアは必要以上にアランの体に触れているし、アランにもそれを嫌がる素振りがないからだ。それなのに、不思議と不快感はなく、むしろ安堵にも似た感情を覚えている。

 自分には踏み入ることのできない過去があって、不可侵な未来がそう遠くない未来に待ち受けているのだと思うと、口を挟める問題でないことは明白だ。散々過去を引きずってきた自分に、その資格はないと希佐は思う。

 そのとき、ふ、と微笑んだクローディアの手が、アランの腕に伸びた。

 その一連の流れるような動作を、希佐がじっと凝視していると、かしゃ、とシャッターを切る音が聞こえてくる。

「君の今の表情、いいね。あとでアランに見せてあげよう」カメラから吐き出されたフィルムをテーブルに置き、ゴダンは再びカメラを構えた。「情熱的な眼差しだ」

「情熱的?」希佐はそう繰り返してきょとんとした顔をしてから、思わず破顔してしまう。「違うんです、ゴダンさん」

「違う?」

「私が見ていたのは、彼女の方です」カメラを下ろし、不可解そうにしているゴダンを見て、希佐は先を続けた。「男性を誘惑する女性らしい仕草があまりに美しかったものですから」

「……pardon?」

 ゴダンは一瞬、信じられないものを見るような眼差しで希佐を見ていたが、次の瞬間、我慢がならないというふうに大きく吹き出した。肩を震わせながら、くつくつと笑い出す。

「もし私が君の立場だったとして、正直な話、恋人があんな美女に言い寄られていたら気が気ではないと思うんだけど、君は随分と余裕があるんだね」

「勉強になります」

「これは彼の方が気をつけなくてはいけないな」

 ヘスティアで働かせてもらっていたときは、よく女性客の観察をしてそうした動きを盗み、演技の参考にしていたことを希佐は思い出していた。日本の女性と、ロンドンの女性のアプローチの仕方は、明らかに違うからだ。

「プライマリースクールの子供の方がもっと積極的にアプローチできるよ」アランは呆れたような目を希佐に向けると、そう言い放ったことがあった。「君のそれは不自然だから、もっと勉強してきて」

 最初の頃からパートナーとして舞台に立つことが多かった希佐とイライアスの演技を見て、アランは当初、酷くうんざりとしていた。ゾッとさえしていたと思う。子供のおままごとだと言われたこともあった。ユニヴェールではアルジャンヌとして大成していたはずの自分が、ここではその経験が活かされないことを知り、また一からやり直したことを覚えている。

「君は不思議な子だね、キサ」カウンターに頬杖をつき、じんわりと浮かび上がってきたポラロイドのフィルムを取ると、それを眺めながらゴダンが言った。「アランの隣にいる君は、どこまでもたおやかな女性なのに、ここでこうして目にしている君からは、不思議と性別を感じない」

「私のそれは処世術みたいなものなんです」

「ほう」

「十代の終わり頃に日本を飛び出して海外に出てきました。最初の年はダブリンのワーキングホリデービザを取得して、そこで一年間暮らしたんです。語学学校に通うとお金が掛かるので、床が抜け落ちるようなボロボロのアパートに住みながら、マーケットの棚卸しの仕事をしたり、清掃の仕事をしたりしてお金を稼いでいました。その頃は英語がうまく話せなかったので、お給金のいいお仕事はいただけなくて。だから、夜はほぼ毎日パブに通って、地元の人たちに英語を教えてもらっていたんです。変な日本人がいるぞって面白がってくれたみたいで、ご飯やお酒を奢ってくれたり。人に恵まれていたなって思います」

「……ああ、そうか」一瞬の間の後、ゴダンは納得したように頷いた。「十代の女の子よりも、男の子として振る舞っていた方が、海外では生きやすかったのか」

「特にこうしたパブに足を踏み入れると、自然とそういうスイッチが入ってしまうみたいです。そもそも、私の場合は性別なんてあってないようなものなので」

「それはどうして?」

 希佐は反射的にアランの方へと目を向ける。すると、アランとクローディアの周囲には他の役者たちも集まり、親しげに話をしている様子が窺えた。どうやら、こちらに戻って来るまでには、まだ暫くは時間が掛かりそうだと思いながら、希佐はゴダンに視線を戻す。

「私は子供の頃から演じることが大好きで、兄や幼馴染の男の子と一緒に、よく演劇ごっこをして遊んでいたんです。毎日毎日、日が暮れる時間帯まで、飽きもせずに」

「私も子供の頃は、毎日飽きもせずにカメラを抱えて野山を駆け回っていたよ。特に夕焼けの写真を撮るのが好きでね。でもある日、一日の終わりがこんなに美しいなら、はじまりはもっと美しいのだろうと思って、今度は朝焼けの写真を撮るようになった。両親は大いに喜んだよ。夜更かしばかりをしていた子供が、自発的に八時にはベッドに入って眠るようになったんだ。おかげで私の下には弟が二人と、妹が一人生まれた」

「それは賑やかそうですね」

「おっと、今は君の話を聞かせてもらう時間だったね」

 希佐のグラスの中身が残り僅かになっているのを見たゴダンは、少し待っているように言うと、カウンターに行って新しい酒を注文してきてくれた。

「マミーテイラーだよ。ここのジンジャーエールは辛口だから、他の店のものとは一味違う」

 大好きなんだ、と言って差し出されたグラスを受け取った希佐は、それを一口だけ飲んだ。しゅわしゅわと弾ける炭酸の泡と共に、舌先をピリッと刺激する生姜の辛味が弾けて、すっと消えていく。

「おいしいです」希佐はまた隣に座ったゴダンを見上げて言った。「チップスと合いそうですね」

「もちろん注文してきたから、一緒に食べよう」

 希佐はゴダンに促され、先程の話の続きをはじめた。

 演劇ごっこが楽しすぎて、毎日毎日、演劇のことだけを学べる学校に行きたいと思っていたこと。そういう学校が実在していたこと。兄がその学校に進学したこと。

「電車を乗り継いで、兄が出演する公演を観に行きました。兄は舞台上に立つ誰よりも光り輝いていて、誰よりも眩しくて、誰よりも素敵だった。憧れました。私もあの舞台に立って、兄のように演じてみたい──でも、それは叶わない夢だったんです」

 揚げたてのチップスが運ばれて来る。希佐が顔を上げて店員に感謝の言葉を告げると、にこりと笑みが返された。

「その学校は男子校で、女である私は入学することができません。だから、諦めるしかなかったんです。家も裕福ではありませんでしたから、父を助けるために働こうと決めました。高校に行くにもお金がかかりますし」

「君のお兄さんは?」

「兄は学校を卒業すると、誰にも何も告げず、そのまま姿を消してしまいました。こうしている今も、どこで何をしているのか、私は知りません。でも、あの兄のことですから、私みたいにこの世界のどこかで舞台に立ち続けているのかも」

 ふふ、と小さく笑う希佐を見て、ゴダンは僅かに目を細めていた。

「そんなある日、私はみんなで演劇ごっこをしていた頃の写真を見つけたんです。急に懐かしくなってしまって、当時よく遊んでいた神社に足を運びました。そうしたら、そこでユニヴェールの校長先生と出会ったんです。先生はわざわざ私に会いに来てくださって、そして、こう言いました。ユニヴェールに入らないか、って」

「それで、キサはそのユニヴェールに入学したんだね」

「はい」今更隠すようなことは何もないと、希佐は話を続ける。「ユニヴェールに通う間の三年間、私は男として振る舞う必要がありました。陰ながら助けてくれる仲間や先生の存在があったからこそ、その秘密は守られていたし、明るみに出ることもありませんでした。だから、私はユニヴェールに入学し、その舞台の真ん中で輝くという夢を叶えることができたんです。でも、結局のところ私には荷が重すぎたんだろうなって、そう思います」

 ゴダンは相槌も打たず、希佐の琥珀色の目をじっと見つめながら、黙って話に耳を傾けていた。ときどき、希佐に買ってきてくれたものと同じマミーテイラーを口に運び、喉を潤しながら、チップスに手を伸ばしている。

「舞台の真ん中に立たせてもらって、スポットライトの強い光を浴びるたびに、思っていました。足元の闇はどんどん深くなる一方なのにって。本当はずっと、罪悪感に押しつぶされそうだったんです。女の身でありながら、男性だけで作り上げる歌劇の舞台に立ち、ユニヴェールの舞台を愛してくれている人たちを騙して、大切な仲間たちを欺いているのだと思うと、毎夜怖くて、ベッドの中で震えていました──なんか、こんな言い方をすると、まるで悲劇のヒロインぶっているみたいで、気持ちが悪いですよね」

「いや、是非とも聞かせてほしいな」

「え?」

「君の人生に興味が湧いてきたよ」

「幸せな人生だったなと思います」掛け値なしに微笑む希佐を見て、ゴダンは「ふうん」と漏らしながら、ポテトを頬張った。「私みたいな人生を歩んできた人は、他にはいないでしょうから」

「それはそうだろうね」

 希佐は、どうぞ、とすすめられたチップスに手を伸ばした。ほっくりと揚がったそれは、もう既に少し冷めていたが、じゃがいも本来の甘さが生かされている。紙ナプキンで指を拭い、マミーテイラーで口の中の油分を流し込むと、静かに口を開いた。

「ユニヴェールは私のすべてでした。あの三年は私にとって、何ものにも変え難い夢の日々だったんです。だから、ユニヴェールの三年間が終わると同時に、私の夢もついえてしまうのだと思うと、強く絶望しました」

 でも、と吐露するように言った希佐は、奥歯を強く噛み締めてから先を続けた。

「そんな、自分の保身について考えてしまうこと自体が、何よりも許せなかった。大勢の人に迷惑をかけて、たくさんの人の夢や憧れを踏み躙っておいて、ただ自分の夢を叶えるためだけにあの舞台に立っていた自分が、私は少しずつ許せなくなっていって。自分が女だと世間に露見したら、先生や先輩方、後輩たちに迷惑をかけることになる。ユニヴェールという看板そのものに泥を塗ることになる。ユニヴェール歌劇を愛してくれている人たちは、とてもお怒りになるのだろうと思います。でも、それは至極当然のことで、私には言い訳のしようもないんです」

 例えようもない罪悪感に苛まれても、ユニヴェールでの日々を後悔したことはなかった。あの日々をなかったことにはしたくない。あの日々、あの出会い、あの経験が、今の自分を生かしている。

「君は許されたいと思う?」

「いいえ」ゴダンからの問いに即答すると、目を丸くされた。「私は嘘を吐き続けてきました。そして今も、その嘘は続いている。それなのに許されたいだなんて、都合が良すぎるとは思いませんか?」

「私は当事者ではないからなんとも言えないよ。君と出会ってまだ日が浅いから、どうしても主観的な考えが強くなってしまう。それに、私は今のところ、君に対して好意的な感情しか持っていないんだ」

 アースアイの目を細め、優しげに微笑む表情は酷く魅力的だった。親身になって話を聞いてはくれても、不用意に踏み込んでくることはないその距離感が、心地良く感じられる。これが年の功というものなのだろうか、希佐はそう思いながら、この話の終着地点を探していた。

「このままではよくないと、ずっと思っていました。だから、私は自分の性別を、きちんと自分自身の口から公表したいって思ったんです。実は、次の舞台で演出を担当される方が協力してくださって、映像も撮影してあるんですよ。あとは、ユニヴェールの校長先生と話し合って、いつ発表するかを決めるだけの状態なんです」

「おや、そんな大切なことを私なんかに話しても良かったのかい?」

「どうしてなんでしょう」希佐はその問いに思わず目を丸くしてから、困惑したように笑った。「昼間も思ったんです。誰かに知っていてもらいたいって」

「うん」

「私のこれからのことも、あの人とのこれまでのことも」

「アランのこと?」

「はい」希佐は小さく頷いた。「私はあの人を大好きで、きっと、あの人も少なからず私を思ってくれていて。本当は、そういう関係がこれからもずっと続いていけばいいのにって、そう思うんです。でも、私はあの人の物語を、ここで完結にしてほしくはない。だから、この先もずっと続いていく旅路の途中にある、ひっそりとした無人駅で、私はその電車を降りようと思うんです。だけど、こんなことを言うとあの人は怒るから、この話は内緒にしてくださいね」

「君は彼のことを深く知りすぎてしまったんだね」かわいそうに、と言って、ゴダンは悲しげに目を伏せた。「彼は自らの飢えや渇きを原動力にしている。醜い感情が美しい世界を構築する。苦境に立たされるほど、彼の才能は燦然とした光を纏い、人々の心を魅了する」

「はい」

「あんなふうに穏やかな表情を浮かべる彼を、私は見たことがなかった。君という存在によって満たされた彼は、こうしている今も、才能の死に向かって一歩ずつ歩みを進めているのかもしれない。君はそれが許せないんだね。きっと、彼自身を愛すると同時に、その才能も愛してしまったから」

「私の命は永遠ではありません」ただ、何者かに生かされているだけの命だと、あるときからそう思っている。「でも、アラン・ジンデルの才能は、永遠になくなりはしない。大英図書館の本棚の中で、称えられながら永遠を生き続ける。あの人は、そういう人です」

「彼がそれを望んでいなかったとしたら? 彼は自分の才能を捨てて、君と生きていくことを選ぶかもしれないよ」

「あの人は自分の才能を捨てられないと思います」

「なぜ?」

「私が愛した人ではなくなるから」

「……そうか」ゴダンは諦めたような顔をして笑うと、手に持っていた写真をテーブルの上に置いた。「君、ちょっとペンを貸してくれないか」

 ゴダンはカウンターの内側にいる店員に向かってそう声を掛けると、ありがとうと言ってサインペンを受け取り、それを希佐に向かって差し出してくる。

「ここにサインをして」

「え?」

「いいから、ほら」

 わざわざキャップを外して渡されたペンを受け取った希佐は、自らの横顔が写されたポラロイド写真の余白に、言われるがままKISAと名前を書き入れた。写真をくるりと反転させると、今度はゴダンがそれを手に取り、ペンを走らせる。

『ゴダンはオートグラフを書かないことで有名なの』

 そう言ったアイリーンの声が、一瞬、脳裏をよぎった。

「君はその愛らしい見た目に反して、随分な悪女だね、キサ」

「あ、あの……」

「ますます興味が湧いたよ」ポラロイド写真の余白には、希佐の名前の下に、レオナール・ゴダンという名前が付け足されていた。「君は普通じゃない。私はそういう一筋縄ではいかない人間が好きなんだ。そういう人間の写真を撮りたいと思う」

 まるで女性を口説くような口振りでゴダンは言った。

 驚くほど透明な湖の水底から、湖面を見上げるような揺らめきさえ感じられる双眸が、まっすぐに希佐を捉えている。どうしてもその目から視線を逸らすことができなかったが、楽しげな話し声が近づいてくるのを感じて、希佐は半ば無理やりそちらに顔を向けた。

「なあに、また女の子を口説いてるの?」

「そうだよ」上機嫌でやって来たクローディアに向かって、ゴダンも機嫌良く応じている。「今度写真を撮らせてもらおうと思ってね、今まさに口説き落とそうとしていたところなんだ」

「あら、じゃあ邪魔をしてしまった?」ちら、とこちらを見る眼差しに、好奇が宿る。「アランなら電話が掛かって来たからって、一度外に出て行ったわ。すぐに戻るって」

 こういう目を希佐はよく知っていた。人を値踏みするような眼差しだ。特にここ最近は、アランの傍にいると感じることが多い。大抵の場合は気にも留めないようにしているが、こうもあからさまな視線を向けられると、無視をすることは難しかった。

「トスカ、拝見しました。とても素晴らしかったです」

 希佐はその場に立ち上がり、右手を差し出すが、それが握り返されることはなかった。クローディアは、握手を求める希佐の右手を一瞥すると、口角を持ち上げてにこりと笑ってみせた。

「どうもありがとう」

「『歌に生き恋に生き』は圧巻でしたが、私が特に素敵だと思ったのは、舞台上でのあなたの立ち居振る舞いで──」頭の中で蘇る映像を再生させながら、希佐はその指先の動きを真似て見せる。「カヴァラドッシに触れるときのあなたの指先が本当に美しくて、官能的でさえあって、思わず見惚れてしまいました」

 賞賛の仕方が悪かったのか、クローディアは浮かべていた笑顔を僅かに引き攣らせている。手持ち無沙汰になっていた手を下ろした希佐は、助けを求めるように隣を見るが、そこに立っていたはずのゴダンは姿を消し、カウンターで次の酒を注文しているところだった。

「私、彼とは劇団で一緒だったの」

「彼?」

「アラン・ジンデル」クローディアはすっと笑みを消し、希佐を睨むように見た。「ジャスト・ロビンで」

「ああ、メレディスのところの」

「アランとは昔からの付き合いがあるから、他の子が知らないようなことも知ってる。だから忠告しておいてあげるけど、あなた、勘違いしない方がいいわよ」

「勘違い、ですか?」

「本気にしないでってこと」青黒い目が、希佐の全身を舐るように動く。「どうせすぐに飽きられるわ」

 すぐには意味が分からなかった希佐も、間もなくして言わんとしていることを察したが、それと同時に、どういう顔をすればいいのかが分からなくなった。

 むしろ、飽きられてしまった方がどんなにか良いだろうと思っていると、電話を終えたらしいアランが店内に戻ってくる。表情の変化は乏しいが、とにかく機嫌が悪そうだ。

 希佐がその様子を眺めていると、その視線に気づいたアランが、人波を掻き分けるようにしながらこちらにやって来た。自分を振り返ったクローディアを一瞥したあと、希佐の隣で足を止める。

「電話、誰からだったの?」

「スペンサーから」うんざりした様子でそう言ったアランは、無意識にだろう、希佐の髪に指先を絡めた。「キャスティングについて話したいことがあるから、明日の朝一番でホテルまで来いって」

「私も午前中からジョシュアのところでレッスンがあるし、やっぱり今日は帰ることにする?」

「どちらにしても面倒臭い」

「今日はうちに泊まっていく約束だろう?」今度はウイスキーのロックを手に戻ってきたゴダンが、希佐とアランの間から顔を覗かせた。「明日の朝食が済んだらタクシーを呼んであげるから」

「これ、何杯目?」

「ギネスと、マミーテイラーと」顔を顰めるアランを見上げ、希佐は指折り数えた。「このウイスキーで三杯目」

「もうこの人に酒を売らないで」

 アランはカウンターを振り返ると、顔馴染みらしい店員に向かってそう言った。店員は「分かってるよ」と笑いながら、各テーブルから回収されてきたグラスを洗っている。

「深酒させるなって釘を刺されてる」

「オレも助監督さんから頼まれてるよ、レオに三杯以上は酒を飲ませるなってね」

 まあ、時々目を離した隙に、うちの若いのにチップを掴ませて酒を作らせてるけど──と言いながら、その店員は肩を震わせて笑っていた。

「しかしお前、随分男前になったなぁ」店員はカウンターの向こう側から、感慨深げにアランを見た。「お前がまた何かをはじめようって気になってくれて、オレは嬉しいよ。また小遣い稼ぎがしたくなったら、いつでも声を掛けてくれ」

「もう金には困ってない」

「そりゃそうか」

 見知らぬ人とアランが親しげに話している姿があまりに新鮮で、希佐は楽しげにその横顔を見上げていた。

 なに、といつものように問われて、希佐は首を横に振る。

「アランも何か飲む? ビアンキさんも、何か飲まれますか?」

「いいよ、キサ」アランはカウンターに向かおうとする希佐を引き留め、ゴダンの隣に座らせた。「待たせたから、自分で払う」

「いいのに」

「クレアはいつもの?」

「えっ? あー、うん、お願い」

「分かった」

 クローディアはどこか上の空な様子でアランの問いかけに答えていたが、何やら険しい面持ちで希佐の顔を凝視していたかと思うと、酷く訝しげにしながら口を開いた。

「ねえ、あなたもしかして、劇団カオスのKISAなの?」

「はい、そうです」

「ちょっと、嘘でしょ……えっ? だって、そんな、全然……」

 椅子に座っている希佐の両肩を、正面からがっちりと掴んだクローディアは、細めた目で観察するように顔を眺め回してくる。隣に座っていたゴダンは愉快そうに笑うばかりで、助けてくれる気はないようだ。

 困り果てて呻き声すら出せずにいると、グラスを手に戻ってきたアランが、呆れ顔でクローディアに声を掛けた。

「キサが怯えてる」

「どうして教えてくれなかったの?」

「いつ気づくかと思って」

「だって、わたしのKISAが、こんな気の抜けた顔をしているなんて思うわけがないじゃない」ショックだと言わんばかり表情でため息を吐いたクローディアは、アランの手からグラスを奪い取ると、それを水のようにぐいっと飲み干した。「わたしのKISAは、こんな見るからにオンナって感じじゃないもの」

「……」希佐は驚きに目を丸くしてから、あはは、と力なく笑った。「よく言われます」

「わたしのKISAは、こう、もっとキリッとしてて、男役を演じるときは特に、すらっとしたスマートな人なのよ。女役を演じてるときだって、こんなふうにふにゃふにゃしてたりしない。それなのに、こんな、こんな──」クローディアが、どんっ、とグラスを叩きつけるようにしてカウンターに置くと、中に入っていた氷が儚い音を立てて踊った。「だから好きな役者には会いたくないの。ああ、ダメ。わたしのイメージが……わたしのKISAが……」

 先程とは違う意味で敵視されているようだと感じはするものの、どうやら悪意のある感情ではないと分かり、希佐は内心でほっと安堵の息を吐いていた。

「放っておいて」希佐には水を買ってきてくれたアランが、隣に座りながら言う。「『God only Knows』から君の追っかけしてる」

「えっ、そうなの?」

「カオスの公演は全部観に来てるし、外部の舞台も全部観てるって」

「言ってくれれば──」

「舞台上のKISAに夢を見てる人間だから、多分現実のキサには興味ないよ」冷めきってしまったチップスを一欠片口に放り込み、アランは酷く不味そうな顔をした。「昔から俺が連れてる女に難癖つけるのが趣味」

「あら、あれは女の子の方を助けてあげてるのよ。それに、今回はこんな、見るからに善良そうなかわいい子を連れているから、わざと嫌な女を演じて追っ払おうとしただけじゃないの」

「キサはそういうのじゃない」

「そんなの、見てたら分かるに決まってるでしょ」

 そう言ったクローディアが眉間に皺を寄せるのを見て、ああ、と希佐は察してしまう。

 この人は、アラン・ジンデルのことを昔の劇団時代から知っていて、そして、今でも友人以上の感情を抱えているのだろう。もしかしたら、この隣に座っている最愛の人も、かつては同じ思いだったのかもしれない。

 そんな親密な距離感を、あの瞬間、希佐は覚えていた。

 クローディアの伸ばした手の指先が、そっとアランの腕に触れた、あの瞬間だ。薬指、中指──指の腹を滑らせ、手の平をゆっくりと腕に這わせる。一度見上げた顔を恥ずかしげに伏せ、何かをねだるような上目遣いで、誘惑するように緑の目を見上げていた。トスカが、カヴァラドッシを見つめる、嫉妬深い情熱的な眼差しのように。

「クローディア」

 自分にはない喉仏を意識する。声の位置をいつもよりも低く置き、ゆっくりと、落ち着いたトーンで話をする。男性の声を出せるわけではない。だが、故意に低い声を出すよりも重要なのは、視線や表情、体の動きで、見る者を騙し、錯覚させることだ。

「あなたもご一緒にいかがですか?」

 頬が薔薇色に染まる瞬間を目の当たりにし、希佐は思わず笑みを深める。嬉しそうに目をキラキラと輝かせている姿は、トスカのような大人の女性というよりも、純粋な少女のように感じられた。

 話をしてみると、クローディアは意外と男勝りな性格をしていて、日本で言うところの姉御肌だということが分かった。打ち解けることができれば、気の合う友人になれるのではないかと思いはするものの、彼女がそれを望むことはないだろうと希佐は思う。

「あなたみたいな子が一番苦手」帰り際、クローディアはあけすけにこう言った。「一見すると無害ですって顔をしているのに、こっそり牙を隠し持っているタイプ。自分なんかって卑下していたと思ったら、本当は自信満々で、自分以外の人間は眼中にない。因みに、二番目に苦手なのが、わたしと同じタイプの子ね。同族嫌悪ってやつ」

 でも、私はあなたを好きになりそうだと希佐が言うと、クローディアは、そういうところが苦手なのだと言って顔を顰めた。

「だけど、あなたの演技は大好き。歌も、ダンスも。これからも応援する。舞台も全部観に行く。でも、多分友達にはなれない」

 ゴダンの家に帰るまでの間、希佐は一言も口を利かなかった。

 少し酔いが回っていたのもあり、踵の高い靴でふらふらと歩いていると、少し後ろを歩いていたアランが腕を掴んでくる。一瞬、振り解こうとした気配を察したのか、腕を掴む手の力が、少しだけ強くなるのを感じた。

「レオ」鼻歌を歌いながら先頭を歩いている背中に、アランが静かに声をかけた。「先に帰ってて」

「どうぞ、ごゆっくり」

 ゴダンは前を向いたまま、高く上げた手をひらひらと振っている。希佐はアランに腕を掴まれたまま足を止めると、肩越しに後ろを振り返った。

「キサ」

「なに」

「怒ってるの」

「怒ってないよ」希佐はどこか不安そうにも見えるアランの顔を見上げ、少しだけ笑った。「考え事をしていただけ」

 そう、考え事をしていた。目の前にいる人の、当たり前にある過去のすべてを受け入れるという心の広さを、心底思い知らされていた。三年前、鯉結びごと自分を受け入れてくれたこの人の過去を目の当たりにして、自分も同じことができるのだろうかと、考えていた。

 自分は男を知らないと、希佐は思う。

 この人以外の男を知らない。

 でも、この人は自分以外の女を何人も知っているのだと思うと、心の奥底には、なんとも言えないじりじりとした、燻るような感情を覚える。それはきっと、飲みなれない名前の酒を飲んで酔いが回っているせいだと、そう自らに言い聞かせていた。

「どうしようもないことに悔しがっているだけ」そう言う希佐を、アランは黙って見つめている。「アランの過去に私はいないんだって、当然のことを考えていただけ」

 自分たちはお互いに知らないことだらけだ。一つを語って聞かせたところで、その裏側には語られなかったいくつもの物語がある。それらを一つずつ紐解いている時間はない。すべてを語り尽くしたとしても、それは相手を分かったような気になれる材料が増えたというだけのことで、なんの解決にもならない。

 どこかで諦める必要がある。今目の前にいる存在だけを見て、それ以外は無視をしよう。過去にも、未来にも、目を向けない方がいい。つらい現実を突きつけられるだけだから。少なくとも、この酔いが覚めるまでの、短い時間だけは。

「おいで」

 教会の庭園は門が閉じられていて、通り抜けることができない。アッパー・ストリートを曲がり、クロス・ストリートから脇道に入ると、そこはひっそりとした住宅街だ。夜も遅く、人通りはない。

 アランは希佐の腕を引くと、その体をすっぽりと包み込むようにして抱き締めた。まるで、壊れ物を扱うかのように、酷く優しい。

「もっと」希佐はアランの胸に顔を埋めると、片手を背中に回し、コートを強く握りしめた。「もっと強く抱きしめて」

 すると、アランは息ができなくなるほど強く、希佐の体を締め付けるように掻き抱く。手にしていた荷物が音を立てて地面に落ちても、アランは希佐が良いと言うまで、ずっとそうしてくれていた。

 自分には踏み入ることのできない過去があって、不可侵な未来がそう遠くない未来に待ち受けているのだと思うと、口を挟める問題でないことは明白だ。散々過去を引きずってきた自分に、その資格はないと思う──などとは、到底思うことができなかった。

 ああ、早く帰りたい。

 でも、どこへ帰るというのだろう。

 誰が、この人以外の誰が、自分を迎え入れてくれるというのか。

 

 

 

 スマートフォンの画面を見下ろしたまま、大きくため息を吐き出した高科更文は、着流しの帯に手を掛けると、翌日のために準備していた洋服に着替えた。コートを羽織り、マイク付きのイヤホンを耳に入れると、財布とスマートフォンをポケットに押し込む。

「こんな夜更けにお出掛けですか?」

 玄関に座り込んで編み上げのブーツを履いていると、離れから戻っていたらしい一助が、そう声を掛けてきた。

「ちょっとコンビニ行ってくる」両足の靴紐をきつく結び終えた更文は、その場に立ち上がると一助を振り返った。「親父は?」

「今宵はもう少し飲みたいそうです」

 そう言う一助の手には小さな酒瓶が握られていた。一助が見ていれば、飲みすぎるということもないだろう。

「夜道には十分に気をつけるんですよ」

「俺はもう高校生のガキじゃねぇんだぞ」

「かといって品行方正な大人でもないでしょう?」

「……行ってきます、兄上」

「はい、いってらっしゃい」

 喧嘩売ってんのか、という言葉を寸前のところで飲み込み、更文はにこりと笑みを浮かべると、軽く会釈をしてから玄関の引き戸を開けて外に出た。

 外の空気はひんやりとしている。だが、もう二月が終わるということもあって、刺すような冷たさの中にも、どこか春を思わせる、やわらかな風が入り混じっているようにも感じられた。昨日よりも濃く春の匂いが香ってくる。春がやってくる。また、桜の花が咲く。

 実家から一番近くのコンビニではなく、そのもう一つ先にあるコンビニに向かって歩きながら、更文はスマートフォンを手に取った。

 あいつのことだ、こんな時間に寝ているということはないだろうと思い、躊躇いなく連絡先をタップする。

『やあ、やあやあ!』すると、根地黒門は二度目のコールを待たず、いつにも増したハイテンションで電話口に出た。『ちょっと聞いておくれよ、フーミン! 今夜は満月? あれ? 違ったっけ? まあとにかく、僕はアカシックレコードから何らかの電波をキャッチしたに違いないね。だってほら、こんなにも執筆が捗ってるんだから!』

「おい、クロ──」

『行き別れた男女の再会! しかしながら立ちはだかる新たな男の影! 此度の比女は魔性の女だよ、フーミン。彦は身を持ち崩して絶望のどん底に叩き落とされるんだ。でも、大丈夫! 比女はそんな彦に絆されてね、少しずつかつての心を取り戻していくのさ』

「……そいつがお前の大事な話か?」

『いんや、まさか!』

 こうなってしまった根地黒門を止められる者は誰もいない。

 更文は暫くの間、ただ黙って黒門の話に耳を傾けていた。黒門はこうして自らの頭の中にある考えを言葉として吐き出すことで、思考の整理整頓を行なっているのだ。邪魔をするとろくなことにならない。

 目当てのコンビニに到着し、適当に選んだ水と雑誌を購入している間も、黒門は相槌さえ打たない更文に向かって、マシンガンを撃ち込むかのように話を続けていた。

「お前のそれ、最終的な着地点を定めておかねぇと、とっ散らかって最悪なことになるんじゃねぇの?」

『うん、まあ、そうなんだよね』ひとしきり話して落ち着いたのか、黒門は更文の言葉に大人しく頷いた。『フミ、今外にいるの?』

「そうだけど」

『あ、もしかして、僕と話をするために外に出てくれた?』

「いや、コンビニに行くついでに」

『あら、そこは嘘でも「そうだよ」って優しく言ってくれるところでしょ。コクト、そういうことには敏感で傷つきやすいお年頃なんだから、もっと気を遣ってくれなきゃイヤよ』

「はいはい、悪かったな。次からは気をつけるよ」

『んまっ、なんて投げやりな言い方なの』

 黒門は真面目な話をしようとするときほど、わざとこうしてふざけたり、はぐらかそうとしたりする。だから、話がなかなか前に進まないのだ。これは話が切り出されるのを根気良く待つべきなのか、さっさとしろと促すべきなのかと悩んでいると、僅かな沈黙のあと、何かを割り切ろうとするような息遣いが聞こえてくる。

『ごめん、フミ。僕の悪い癖だ』

「何のことだ?」

『この後に及んで迷ってるんだよ』カチ、カチ、とマウスをクリックする音が聞こえてきた。『頭の中でいろんなシナリオを思い描いているんだ。でも、どれもこれもハッピーエンドになる兆しが一向に見えてこなくてね。本当、参ってたところでさ』

「クロは別に物語の結末にこだわりなんかねぇだろ?」

『でも、せっかくなら美しい結末を迎えてほしいじゃないか』

「美しい結末ねぇ」更文はビニール袋の中からペットボトルを取り出し、蓋を回しながら言った。「俺は案外どろどろした話も好きだけどな。それにお前、あの我死也を書いた張本人が、美しい結末だの、ハッピーエンドだのって、そんなこと言えた義理じゃねーだろうが」

『何を言ってるんだい、フミ。我死也こそ究極の美じゃないか。それにね、あれだって立派なハッピーエンドの一種なんだよ。瀧姫は自らの願いを成就させ、がしゃどくろはそれに満足している』

 あの地獄のような物語ですらハッピーエンドだと言い切れる男が、ハッピーエンドに持ち込むことのできないシナリオとは、一体どんなものなのか。更文にはとんと想像することができない。

 更文が黙って水を飲んでいる間、黒門は小さく唸り声を上げながら、何かを悩み、迷っている様子を窺わせていた。

「なあ、別に急ぎの用事じゃないなら、このまま切ってもいいか?」更文はわざとそのような言い方をする。「明日の午後にはそっちに戻るし、話ならそのときでもいいだろ」

『え? あ、いやいや、待って』

「なんだよ」

『ただでさえ迷ってるのに、面と向かって言うのはちょっと難しいかな、なんて思ったりして』あはは、と笑ってから、更文の様子を探るような気配を窺わせたあと、分かった、と黒門は言った。『じゃあ、フミが選んで。良いニュース風に聞くのと、悪いニュース風に聞くの、どっちがいい?』

「は?」

『ほらほら、海外の映画とかドラマとかでよくやってるじゃない? 良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい? ってやつ』

「あれって結局同じことだろ」

『気分の問題だよ、気分。雰囲気作りも肝心だろう?』

 内心では面倒臭いやつだなと思いながらも、この話題がこれ以上長引くことを避けるためには、黒門の言うことに従う他なかった。

「じゃあ、悪いニュース風で」

『待って、ここは良いニュース風で聞くのがセオリーだよね? フミさん、海外の映画とか見たことある? こういう場合、大抵は良いニュースから聞くのが鉄板よ?』

「俺はどっちでもいいんだよ」

『ノリが悪すぎる』

「じゃ、切るからなー」更文はポケットからスマートフォンを取り出し、通話を切ろうとした。「また明日」

『ああっ、待って、ごめん。ちゃんと話すから! お願いだから切らないで!』

 人気のない公園の前を通り掛かったところで足を止め、更文は少しだけ考えてから、その公園内に足を踏み入れた。遊具は数える程度しかない、小さな公園だ。誰かが忘れていったサッカーボールが寂しげに取り残されている。

 公園の中程にあるベンチに腰を下ろして大きく息を吐き出すと、白く染まった視界越しに、街灯の光が淡く揺らめくのを見ていた。

『あのさ、フミ』

「ん?」

『もし今、立花くんの居場所が分かるとしたら、君はどうする?』

「お前、それは──」

 更文は途中まで出掛かった言葉を飲み込み、もう一度ゆっくりと深呼吸をした。

 黒門の寸前の様子から鑑みるに、何か根拠があっての問いかけなのだろうと、瞬時に推察する。頭ごなしに拒絶をすれば、黒門はそのまま口を噤み、何も語らなくなるかもしれない。

 それに、今日は立花希佐が失踪してから、丁度五年目の日だ。黒門にも何か思うところがあるのだろうと、更文は考えることにした。

「どうする、ねぇ」振り仰いだ空には、相変わらず、弓形の月がぽっかりと浮かんでいる。「どうしたいんだろうな、俺は」

 更文は希佐が失踪してから今の今まで、その行き先を知ろうとしたことも、探そうとしたこともなかった。もちろん、姿を消してすぐの頃は、仲間たちと共に手当たり次第、心当たりのある場所を探し回ったことはある。だがしかし、それだけだ。それ以上のことは、何もして来なかった。織巻や世長などは、随分長い間その行方を追いかけていたようだが、五年経った今も、見つかったという話は聞かない。

 もし、もしも希佐が、少しでも何らかの形跡を残していったなら、自分も織巻や世長のように、血眼になってその存在を探し求めていたかもしれないと、更文は思う。

 だが、立花希佐は、高科更文に何一つ残していくことはなかった。

 希佐が残していったもの──いや、置いていったものは、自分が卒業のときに手渡した、アパートの部屋の合鍵だけだった。

 希佐の失踪を知り、ほとんと家にも帰らない日々が続いていた。だが、憔悴している更文を見ていられなかったのだろう、介に帰れと言われて戻ってきたアパートのポストには、ここ数日受け取れなかった郵便物が、はみ出すようにして押し込まれていた。

 更文は何も考えずポストを開き、中から封書や行きつけのショップからのダイレクトメール、広告などを引っ張り出す。すると、それらの隙間から、何かが足下にするりと落ちた。

 自らの靴の上に乗ったそれは、一通の淡い桜色の封筒だった。

 ほんの僅かな期待と同時に、形容し難い嫌な予感を覚えながら、更文はその封筒を手に取った。封はされていなかった。手紙が入っているような手応えもない。ただ、微かな重みだけを感じる。

 封筒の中を見ずとも、そこに何が入っているのかを察した更文は、アパートの階段を上り、ふらふらとした足取りで自分の部屋の前まで歩いていった。そして、桜色の封筒の中から見慣れた鍵を取り出すと、それで扉の施錠を外す。

 更文は、玄関に入ると同時にその場に崩れ落ち、淡い桜色の封筒に顔を埋めた。希佐のぬくもりや、香りを求めた。だが、頬に感じたのはかさかさとした乾いた紙の質感と、少し酸味のある和紙の香りだけだった。

 当時のことを思い出しながら、更文はコートのポケットから部屋の鍵を取り出した。介や黒門は下積み時代に過ごした部屋を引き払い、次の部屋に引っ越しを済ませているが、更文は今もまだ、あの頃と同じアパートの部屋に住んでいる。今使っている鍵は、希佐から返却されたものだ。

『あなたはいつまでそうして立花希佐に縋っているつもりですか』田中右宙為に言われた言葉が、度々脳裏をよぎるのだ。『あなたの舞を見ていると、まるで立花希佐に神性を見出しているように感じられます』

 考えてみれば、立花希佐はいつだって、自分には手の届かない、遠い存在だったのかもしれない。

 二人の関係を形づけるものなど何一つなかった。好きだと囁いたところで、希佐はにこりと微笑んで、ありがとうございます、と応えるばかりだった。好きだと返してくれたことがあったかどうかすら、今となっては思い出すこともできない。それでも、合鍵を受け取ってくれたではないかと、更文は自らに言い聞かせていた。

 卒業するまでは、という思いが、きっと呪いになっていたのだ。希佐がユニヴェールを卒業するまでは、絶対に手を出すまいという呪いが、田中右が言うところの神性に繋がってしまったのかもしれない。

 そもそも、どうして自分は、ユニヴェールを卒業した後も、立花希佐が自分の隣にいると思い込んでいたのだろう。普通に考えれば、それは難しいことであると、分かるはずなのに。

 いや、そうではない。考えないようにしていたのだ。自分が立花希佐の隣に立ち続けるためには、乗り越えなければならない障壁があまりに多すぎて、その事実から目を逸らし、見ないふりをしていた。

 立花希佐は女である。

 この至極単純な現実問題が立ちはだかるかぎり、自分と希佐は隣り合わせに立つことができないと、更文にはずっと分かっていた。希佐自身が失踪した理由も、きっと、この問題が根底の部分にある。

 当時の希佐にとって、自分が女であると公表することは、自死を選ぶことと同義だったに違いない。嘘を吐き続けてきた報いを受けたのだと言われれば、それはそうなのかもしれないが、果たしてそれが彼女だけの責任かといえば、そうではないだろう。

 校長が誘わなければ、自分が入試のときに口を噤まなければ、在学中に気づいた誰かが問題提起していれば、他のすべての道を絶って失踪するような結果を、希佐は選んではいなかったかもしれない。

 目を逸らすべきではなかった。本当は、一緒に考えてやらなければいけなかったのだ。ユニヴェールを卒業したあとも、どうすれば立花希佐の尊厳を守り続けることができるのかを。

 皆、同じようにあの学舎を愛し、あの学舎で創り上げられる歌劇を愛してくれているが、それでもあの立花希佐以上に、ユニヴェールを愛し、ユニヴェールに愛されている人間を、更文は他に知らない。

「俺はさ、クロ」

『うん』

「結局のところ、あいつのために自分を捨てられなかったんだよ」

 探そうと思えば、そうすることができた。

 でも、そうはしなかった。

 見つけ出そうと思えば、そうすることができただろう。

 でも、そうはしなかった。

「そうすることが、好きな女のためなのかもしれないって頭では分かってても、俺にはできなかったんだ。今の俺にとっては家の舞がすべてで、あいつは──希佐はさ、そういう俺のことを好きだったんじゃねぇかなって、そう思いたかったし」それに、と更文は続ける。「俺と、今ある家との縁は、希佐が結び直してくれたもんだ。その縁を断ち切っちまったら、希佐に合わせる顔がねぇだろ?」

 何もかもを捨てて、この身一つとなり、お前と一緒に生きていくと言ったところで、希佐は少しも喜ばないだろう。むしろ、幻滅するはずだ。そんなフミさんは嫌いです、そう言う声が、聞こえてくるようだった。

「希佐は俺を救ってくれたのに、俺は希佐を救ってはやれなかった。多分、それが心残りになってるんだろうな」

『心残りって?』

「未練に近いのかも」どう言えばいいんだろうな、と言って更文は苦笑いを浮かべる。「田中右に言われただろ? あなたはいつまでそうして立花希佐に縋っているつもりですか、ってさ。その通りだなって思う部分もあるんだよ。もう五年も経つのに、どこで何をしているのか、生きているのかも分からない誰かを思って、祈るみたいな舞を踊り続けてる。今はこの舞が面白がられてるってだけで、すぐに飽きられることは目に見えてるしな」

 きっと、これは叶わない恋だった。立花希佐の隣にいることを許されていた日々ですら、心のどこかにはいつも寂しさに似た感情があった。触れたいと思うのに、触れられなかった。彼女は確かに神聖なもので、それを穢したいと思うのと同じくらい、どうかこのまま、気高く美しい姿でいてほしいと、願ってしまったのだ。

「もし、本当に希佐の居場所が分かるのだとしたら、会いにいくかもしれないな、俺は」うん、と黒門が小さく相槌を打つ。「それで、この未練を断ち切りたい。五年も帰って来ないんだ、あいつもどこかで上手くやってるってことだろ? その姿を見て、俺の心残りなんてたいした問題じゃなかったんだって、そう思いたい」

『フミはまだ立花くんのことを好きかい?』

「好きだよ」

『でも、もう取り戻したいとは思わない?』

「分からない」更文は素直な気持ちを口にした。「そういうのは、向こうの気持ち次第じゃねぇのか? 今でもまだ、希佐が俺を好いてくれていたとしたら、話し合うなりなんなりして──って、おい、俺にこんなことを言わせて、お前、どういうつもりだよ」

 こちらが話をしている最中から、フッフッフッ、と笑う黒門の声が聞こえはじめ、更文は思わず呆れた声を出す。

「俺の話を次の脚本のネタにするのは勝手だけどな、今度は俺が立たない舞台の脚本に使ってくれよ、頼むから」

『そういう心配はご無用だよ、フーミン。言っただろう? 今夜の僕はアカシックレコードと深く交わり合っているんだ。他の誰かが世に出してしまう前に、これを僕の作品として世に知らしめる必要はあるけど──』

 そのアカシックレコードとは何だと問えば、話が余計にややこしくなる。それに、そろそろ実家に戻らなければ、体が冷え切って体調を崩しかねない。

 これ以上、こいつの長話に付き合ってはいられないと思い、更文は黒門の言葉を話半分に聞き流しながら、ベンチから立ち上がった。しかし、立ったはずみでイヤホンが耳から抜けてしまい、また差し直すことが面倒で、ポケットから取り出したスマートフォンをそのまま耳に当てる。

「んで、結局おまーの大事な話ってやつは、一体なんだったんだ?」

 歩き出しながら更文がそう切り出すと、再びマシンガンのように語り出していた黒門が、急に黙り込んだ。

「俺はずっと待ってるんだぞ、クロ」

『ああ、うん、ごめん』

「別に謝ることはねぇけどさ」

『今、君にメッセージを送った。動画共有サイトのURLだ。その動画を見るかどうかは君の意思に任せるよ』

「動画共有サイト?」

『今の、立花希佐が見られる』

「……は?」

『実は僕、二年くらい前にはもう、ネット上で立花くんを見つけていたんだ』更文は公園を出たところで足を止める。『多分だけど、白田くんも同じ頃に見つけていたんじゃないかな。探りを入れられたことがあるから』

「……待てよ」

『僕の大事な話っていうのはそれさ。ごめん、ずっと黙ってて。でも、君には何も話さない方がいいと思ったんだ。少なくとも、君が立花希佐という過去を乗り越えるまでは、黙っていようと思っていた』

「おい、クロ──」

『分かってるとは思うけど、先だっての公演は、その最終審査みたいなものだったんだ。君自身が立花くんと正面から向き合って、ある程度は気持ちの整理をつけられた状態じゃないと、見せられないと思ったから。ただでさえボロボロだった君が、これ以上ズタボロにされる姿なんて、正直見たくなかったからね。試すみたいなことをして、本当にごめん』

 黒門の声は聞こえていたが、なぜか、その内容を理解することができない。手の平からするりと滑り落ちたスマートフォンが地面に落ちる、がつん、という音で、更文は我に返った。

 動画? 今の、立花希佐? 二年前? 

 一体何を言っているのだと思いながら、更文は足元に落ちたスマートフォンを拾い上げた。カバーをつけていないスマートフォンは案の定、画面が蜘蛛の巣状に割れてしまっていた。

『──えっ? ちょっと、フミ? どうしたの?』

「悪い。スマホ落として話聞いてなかった」

『はあ? えっ、どこから? っていうか、スマホは? 大丈夫?』

「画面割れてるけど、まあ、話せてるから大丈夫なんだろ」

 自分の声に温度を感じない。吐き出す息が、異常に冷たい。指先がびりびりと痺れるくらい、動揺している。自然と浅くなる呼吸を、意識して深く繰り返していた。

「……何が『もし今、立花くんの居場所が分かるとしたら、君はどうする?』だよ」近くの街灯にもたれかかりながら、更文は吐露するように言った。「ずっと前から思ってたことだけど、やっぱりお前、底抜けに性格が悪いよな」

『大昔の話だけど、どこかの誰かに、お前は性根が腐ってるって言われたことがあったっけ』

「俺だよ」

『そうそう、拳で思いっきり殴られたあとに、そう言い捨てられたんだ。でも、僕は怒らなかっただろう?」

「……だから、俺にも怒り散らすなって言うつもりか?」

『これは貸し借りの問題だよ。フミは僕に借りがあるし、僕はフミに貸しがある。今こそ、そのチケットを切ろうじゃないか』

 投げ掛けられた言葉に返事をせずにいると、黒門は小さく咳払いをしてから、その先を続けた。

『今の君ならすべてを受け止められると信じているからこそ、僕はこの話をしたんだ。それに、君は今、僕に言ってくれただろう? この未練を断ち切りたいんだって。僕はその言葉を信じたい』

「待ってくれ」更文は混乱する思考の中、どうにか言葉を絞り出す。「クロは本当に希佐の居場所を知ってるのか?」

『知っているよ』黒門は何でもないことのように応じる。『さすがに住所までは教えてもらえなかったけど、まあ、近所まで行ってみれば簡単に特定できるんじゃないかな』

「お前、なんでそんな……」

『自分なりにいろいろと調べてみた結果だけど、でも一番は、僕の知り合いが、彼女の知り合いの仕事仲間だったからだろうね。でも、面白いとは思わない? 五年も音沙汰がなかった子が、間に人を二人挟むだけで見つかってしまうんだからさ』

 面白いことなどあるかと思いながら、更文は思わず頭を抱えた。これが夢なのか、現実なのかも定かではないような気がしてくる。現実の高科更文は今頃、実家の布団で横になって、夢を見ているのではないかとすら思った。

『その動画を見た上で、君の立花くんに会いたいって気持ちが揺るがなければ、僕はいくらでも協力するよ、フミ』

「……俺じゃなくて、お前の方が希佐に会いたいんじゃねぇの?」

『えっ、どうして?』

 しらばくれているようには聞こえなかった。だが、微かな動揺がその声に滲むのを感じる。しかし、当人はその事実に気が付いてはいないようだった。

『あ、もしかして、一人で会いに行くのが不安だったりする? もちろん、君が望めば僕も同行するつもりだから、大船に乗ったつもりでいておくれよ。僕も久しぶりに友人に会いたいと思っていたから、一石二鳥さ』

 んじゃ、また明日──黒門は真夜中とは思えない明るさで挨拶をすると、一方的に通話を切った。

 更文はバキバキに割れたスマートフォンの画面が暗転し、街灯の明かりに照らされた自分の顔が映し出されるのを見るなり、思わず目元を覆った。

「いい加減にしてくれよ……」

 それが今現在の、高科更文の素直な気持ちだった。

 あの日から今日までの五年間は、何とか自分の感情と折り合いをつけながら、上手く生きてきたつもりだ。周囲には散々迷惑を掛けてきたことも自覚しているが、ここ数年は芸を磨くことだけに集中し、研鑽を積んできた。

 その報いが、これなのか。これが、五年間我慢し続けてきたことに対する褒美だとでも言うつもりなのか。

 親兄弟からは玉阪を離れて世界に目を向けろと言われ、友人からは恋慕う女の居所を知りたいかと問われ、それならばこれを見ろと得体の知れない動画を送りつけられる。

 ただでさえ、今日という日は例年落ち着かない気持ちで過ごしてきたというのに、そうした一日の最後に受ける仕打ちとしては、あまりに重すぎるだろう。

 今すぐにそれを見る気にはどうしてもなれず、更文は画面の割れたスマートフォンをポケットに入れると、実家に向かって歩き出した。だがしかし、その間更文は、自分が何を考え、どの道を辿って帰ってきたのか、その一切を覚えていなかった。

 ふと我に返ると、実家の稽古場に立ち尽くし、高科家の家紋が大きく描かれた壁を、じっと眺めていた。

 何も考えたくはない。頭を空っぽにしたい。

 更文は履いていた靴下をポケットに押し込み、コートを脱ぐと、それを丁寧に折り畳んで稽古場の隅に置いた。再び中央に足を向け、浅くなっていた呼吸を整える。

『フミ』不意に懐かしい声が聞こえたような気がして、更文はもっと良くその声に耳を傾けようと、目を閉じて視界を遮断した。『また独りぼっちで踊っているの?』

 まったくもって大きなお世話だと思うと、その声は微かに笑った。

『君はいつも見えない誰かと踊っているね』初めてそう指摘をされたとき、思わずゾッとしたことを今でも覚えている。『まるで、神様と踊っているみたいだ』

 ときどき、足の運びや、指の置き場、視線の流れ、呼吸をする頃合いまで、すべてが完璧に揃う瞬間があった。そういうときはいつも、天から伸びてきた見えない糸に体を操られているように感じていた。自分ではない誰か、それこそ超常の存在か何かが、自分の体を使っていると。

 だが、ユニヴェールに入学する頃にはもう、その感覚は失われてしまっていた。幼子特有の第六感的なものだったのだろう。そう思っていた矢先に、立花継希が言ったのだ。

 まるで、神様と踊っているみたいだ、と。

『ねえ、僕と一緒に踊ってよ』嫌だ、と言おうとした口が、ピタリと閉じて、何も言えなくなった。『だって、独りぼっちは寂しいだろう?』

 いつだって孤独だった。大人たちからの期待が苦痛だった。自分の好きなように、自由に舞ってみたかった。かちこちに凝り固められた概念を打ち崩してやりたかった。自分にはこれだけのことができるのだと、証明したかった。大人たちの手が届かない、特別な場所で。

 ふわ、と体が軽くなるのを感じた。肩に重くのし掛かるようだった重力が消え去る。地に足がつくことなく、宙に浮いているような感覚だ。見えない糸に吊り上げられている。手足のみならず、指の一本一本まで。

 息を深く吸い込むと同時に、大きく体を沈めた。伸び上がり、右腕を高く上げて、指先で冷えた空気を包み込む。腕を下ろした反動を利用し、体を回転させながら跳び上がると、音もなく足先から着地した。

 自らの根底にある高科の舞の他にも、ユニヴェールや、それ以外の場所で得た踊りの知識や経験が、この体の中にある。息づいているのを感じる。躍動している。叫んでいる。

 足りないのだ。まだ、足りない。全然、足りていない。こんなものでは、満たされない。もっと、もっと欲しい。

 初めて立花継希に手を取られたとき、途端に昔の感覚が蘇ったことを覚えている。まるで、この世のものとは思えない超常の存在に手を取られているような、不可思議な感覚があった。

 触れた肌を通して、誰にも理解されることのなかった意識が伝達されていく。押した手の平が、同じだけの力で押し返される。求めた分だけ、与えてくれる。

 あの頃は満たされていた。この人が隣にいてくれれば、なんだって出来ると思っていた。この人がユニヴェールを去っても、玉阪座に行けば、また一緒に踊ることができる。それが当時の、唯一の希望だったのだ。

 だが、その希望は容易く打ち砕かれた。立花継希は姿を消し、更文の目の前には、虚無が立ちはだかった。誰もあの人と同じようには踊れなかった。誰も自分を理解してはくれなかった。押した手の平を、同じ力で押し返してくれる人は、とうとう現れなかった。

 あとはもう、自分たちの新しい形を作っていくしかなかった。

 立花継希を失った腑抜けのクォーツを救ってくれたのは、アンバーから転科してきた根地黒門と、新たなパートナーとなってくれた睦実介だ。暴れ馬と呼ばれた高科更文を根気良く調教し、正し、導いてくれた。だからこそ、今がある。救われたのは、救われていたのは自分なのだと、更文は思っていた。

 独りぼっちだった世界に、一人、また一人と、大切な人たちが増えていく。そうすると今度は、手に入れた人々を手放すことが怖くなって、それらを守ろうと躍起になった。今度は自分が、誰かを救わなければいけないのだと、そう考えるようになった。今となっては、なんておこがましいことを考えていたのだろうと、そう思う。

 でも結局は、自分は誰も救うことができなかった。何度も救われておいて、手を差し伸べてもらっておいて、未だに何一つ、その恩返しができていない。

『これは君の人生なんだよ、フミ』また声が聞こえてくる。頭の中に、懐かしい声が響く。『君は君自身の物語を紡ぐために生きているんだ。誰かに遠慮をする必要なんてない。そうして立ち止まっていても、物語は先には進まない。分かるかい?』

 これは、あの人の言葉ではない。自分が誰かに言ってもらいたい言葉なのだろう。

『今のままでは、君はつまらない脇役のまま、この物語を終えることになるかもしれない。君はそれで構わないの? ねえ、フミ──』

 その幻聴はスマートフォンの着信音に掻き消され、聞こえなくなった。稽古場の隅に畳んで置かれたコートのポケットから聞こえてくる電子音は、なかなか鳴り止まない。

 額から流れ落ちてくる汗をシャツの袖で拭い、荒い呼吸を整えながらスマートフォンを取りに向かった更文は、画面上に表示された名前を見て目を丸くした。

 ふう、と大きく息を吐き出してから、更文は電話に出る。

「おう、ミツ」こんな夜更けに電話をかけてきたのは、他ならぬ白田美ツ騎だった。「こんな時間にどうした?」

『すみません、フミさん。こんな時間に失礼だとは思ったんですけど──』開口一番に謝罪の言葉を口にした美ツ騎だったが、更文の息遣いですぐに察したのだろう、更に申し訳なさそうにするのが気配で分かる。『もしかして、稽古中でしたか?』

「いや、気晴らしに踊ってただけだよ。でも、切り上げ時が分からなかったから、お前が連絡くれてよかったわ。じゃないと、このまま朝まで踊ってたかも」

『もう十代じゃないんですから、ちゃんと休んでください』

「おまーも人のこと言えねぇだろうが、ミツ」

 更文は窓を開け、閉じられた雨戸を開き、ひんやりとした外気を浴びた。火照った体には、酷く気持ちが良かった。

「そういやさ、お前がアルバムのレコーディングに行ったのって、確か、イギリスだったか?」

『はい、ロンドンです』

「どうだった?」

『どうって……』美ツ騎は少しの間を置いてから話を続けた。『そうですね、僕が行ったのは夏だったんですけど、日本よりずっと過ごしやすかったですよ。ただ、空気がものすごく乾燥していたので、加湿には苦労しました。食事はほぼ自炊でしたけど、ホテルとか、現地の人に連れて行ってもらった店は、僕でも食べられる味でしたね』

「へえ」

 美ツ騎はこの時期になると、更文のことを気遣って、それとなく連絡を寄越す。希佐の名前を口に出すことはないが、互いの近況を伝え合ったり、ユニヴェールの卒業生たちが現在どのような活躍をしているのかを話し合うことが多かった。

 だが、この五年目にして、その禁忌が破られる。

『根地さんに聞いたんですね、立花のこと』

「え?」

『そうじゃなかったら、フミさんが自分からイギリスの話なんてするわけがないですから』

「お前、何の話をしてるんだ?」

『えっ、根地さんから聞いたんじゃないんですか? 立花が、ロンドンに──』美ツ騎はそこまで口にしてから、大きく息を呑んだ。『──っ、いえ、すみません、なんでもないんです』

 今更取り繕うとしても無駄なことは、美ツ騎自身が誰よりも良く分かっているはずだ。それでも、美ツ騎は自分が口にした言葉を、なかったものとして振る舞おうとしているのが分かる。

 更文は、ようやく落ち着いてきた鼓動が再び高揚するのを感じながら、それを落ち着かせるために、大きく深呼吸をした。

「ミツ」更文がそう声を掛けると、自らを叱るような悪態が、電話口の向こう側から小さく聞こえてきた。「希佐は今、イギリスにいるのか?」

『……』

「ミツ」

『……多分』美ツ騎は自信がなさそうに答える。『僕がネット上で立花を見つけたのは一年半とか、二年くらい前のことです。ロンドンのウエスト・エンドの辺りにある、ヘスティアっていうパブで歌ってる動画を見つけました。画質も音質も最悪だったんですけど、すぐに立花だって分かりました』

 在学中の二年間、希佐にみっちりと歌を仕込んでいたのは、この美ツ騎だ。だから、絶対に聞き間違えるはずがないと、更文は思う。

『あいつは、舞台から離れて生きていくことなんてできないだろうって、ずっと思っていたんです。だから、最初は国内にアンテナを張って、地方の小さな劇団なんかを当たってみたりしてたんですけど、世長が、もしかしたら立花は日本じゃなくて、海外に行ったんじゃないかって言い出して』

「ソーシが?」

『はい』美ツ騎は言い辛そうにしながら続ける。『日本で舞台をやってる人なら大抵はユニヴェールを知ってるでしょうし、立花希佐の名前を出せば、このご時世すぐに素性が知れてしまいます。偽名を使う可能性もあるんでしょうけど、あれだけ華のある役者なら、そう長くは隠れていられないはずだって』

「海外なら、自分のやりたいことを続けられる?」

『僕もその通りだなって思いました。だから、日本の劇団に目を向けると同時に、海外から投稿された動画とか、SNSの情報とかを精査し続けていたんです。でも、最初の三年くらいは本当に何の情報も得られなくて、あいつはもう舞台からは離れた生活をしているのかも知れないなって、そう思っていたんですけど』

「確か、そのパブで歌ってる動画を見つけたのが、二年前だったか」

『はい。どうやらイギリスのSNSでその動画が拡散されたらしくて、動画投稿サイトにアップされてた元の動画も、同時期にピックアップされてました。僕が見つけたのは後者の動画です』美ツ騎は小さく咳払いをする。『根地さん、前に海外の動画をよく見てるって言ってたので、もしかしたら同じ動画を見たんじゃないかと思って連絡したんですけど……』

「ああ」

 つい先程、電話で話をしたときに、美ツ騎に探りを入れられたことがあると黒門が話していたことを、更文は思い出していた。

『それとなく話を振ってみたら、あの人、どちらともつかない返事しかしないんですよ。見たとも言わないし、見てないとも言わないんです。でも、僕が動画のことをフミさんに教えるつもりだって言ったら──』

「黙ってろって言われたんだろ?」

『……はい』絞り出すような声で、美ツ騎は返事をする。『すみません、フミさん。でも、今立花のことを話したところで、フミさんを混乱させるだけだって言われて。話さなかったことを根地さんのせいにするつもりはありませんけど、ただでさえ立花のことで参ってるフミさんに余計な気遣いをさせてしまうんじゃないかって思ったら、黙っていることが正解のような気がしてしまったことは、紛れもない事実です』

 本当にすみませんでした──電話の向こう側で、美ツ騎が頭を下げるような気配と、衣擦れの音が聞こえてきた。

「おまーが謝るようなことじゃねぇだろ、ミツ」

『でも、黙っていたことは事実ですから』

「じゃあ、スーやソーシも、このことは知ってるんだな」更文は笑うことしかできなかった。「知らなかったのは俺だけか」

『カイさんも知らないと思います。少なくとも、僕は話してません』

「それで正解だよ。あいつ、仮に知っていたとしたら、すぐ顔に出るだろ。毎日のように顔を合わせる俺に黙ってるなんて、絶対に無理な話だろうしな。翌日には告げ口をしてたと思うぞ。美ツ騎には黙っているように言われたが、それではフェアじゃないような気がするから、お前にも教えておく、とか何とか言ってさ」

『そうですね』美ツ騎はそう言って小さく笑ってから、でも、と不思議そうに言った。『立花のことを知らなかったなら、フミさんはどうして、僕にイギリスの話をしたんですか?』

 それは至極真っ当な疑問だった。

 更文はただ、実際に行くかどうかを決断する前に、イギリスへ渡ったことのある美ツ騎の口から、その国の話を聞きたいと思っただけなのだ。深い意味など、一つもない。

「実はさ、俺も今度イギリスに行くことになったんだよ」

『えっ?』美ツ騎が驚いたような声を出す。『どうしてですか?』

「高科の慣わしで。先々代からイギリスの劇団と交流があって、親父が病気をしてからは兄貴が年に一度渡英してたんだけど、今年は行けないっていうから、俺が代わりに日本の舞を指南しに行く」

『そうなんですね』

「まさか、そのイギリスに希佐がいるなんて、考えもしていなかったけどな」

 更文がそう言うと、美ツ騎は途端に黙り込んでしまった。努めて軽い口振りを貫いたつもりだったが、そうは聞こえなかったのだろうか。更文がそう思っていると、美ツ騎が口を開く。

『フミさんは、立花に会いに行くんですか?』

「ミツは会いに行かなかったのか?」

『僕は……』美ツ騎は躊躇うように言い淀んだ。『会いに行けませんでした。立花が歌っていた店の前までは行ってみたんです。でも、中には入れませんでした。そこに立花がいるかもしれないと思うと、どうしても足がすくんでしまって』

「……そうか」

『僕には覚悟がなかったんですよ。立花がイギリスで上手くやってるなら、それはそれでいいことだと思うんです。ユニヴェールにいた頃みたいに、自分の性別を偽る必要も、周りの人間に嘘を吐く必要もない場所にいるんですから』

「そうだな」

『だから、新しい土地で人生をやり直しているあいつの前に突然姿を現して、久しぶり、元気だったか、なんて声をかける勇気は、僕にはありませんでした』

 世長と織巻も同じですよ、と美ツ騎は言った。

『立花にとって何が一番良いかなんて、僕たちには分からない。だけど、少なくとも僕たちが立花の邪魔をしなければ、あいつは平穏に暮らしていける。僕たちは、そう考えることにしたんです』でも、実際にどうするかを決めるのは、フミさん自身ですからと言って、美ツ騎は電話を切った。『僕の個人的な意見を言わせてもらえるなら、フミさんは立花に会うべきです。僕は、ユニヴェールを卒業してからずっと、フミさんが立つ舞台を見てきました。フミさんの隣には、いつも立花がいるみたいだった。それって、どうなんだろうなって、ずっと思っていたんです。それって、本当にフミさんが目指していた舞なのかなって』

 最後の最後に生意気なことを言って、本当にすみません──美ツ騎の言葉は相変わらず辛辣で、真っ直ぐで、胸に深く突き刺さってくるものだった。

 雨戸に寄りかかり、そのままぼんやりと星空を見上げていると、離れから母屋に戻ってきた父親と兄が廊下を進んでやって来た。更文は呆れたような顔を向けてくる兄を横目に見てから、そのまま父親に視線を流す。

「親父」

「なんだ?」

「俺、行くよ」もう心は決まっている。「ロンドンに」

 足りないものを、補うために。

 満たされない心を、埋めるために。

 お空の月が微笑んで、地上を見下ろしている。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。