翌日の午後、玉阪に戻ってすぐ、高科更文は今後の方針について、上の人間と話し合った。突然の申し出だ、快く送り出してくれるとは思っていなかったが、頑として無理を押し通す心積りでいた。
それでも、父親が高科二千奥の名を使って、裏で手を回してくれていたことが功を奏したらしく、思っていたよりもすんなり話がまとまったことは、感謝の念に耐えない。玉阪座ほどではないにしても、二百年の歴史を持つ高科流の当代には、ここの理事会でも強くは出られないようだ。
既に埋まっていたスケジュールは、その多くをキャンセルをする運びとなった。どうしても断ることのできない仕事だけを、この一ヶ月でみっちりとこなし、当面は新たな仕事を引き受けることはない。
更文は、肩の荷が降りたような心地を覚えながらも、このどこにも拠り所のない不安定な感覚を、どのように言い表せばいいのだろうと考える。幼い頃から、詰め込まれたスケジュールの中で生きてきた更文にとって、予定が入っていないというこの状況は、ある種の地獄であり、恐怖心を覚えるものでもあった。
話をまとめている間に日はすっかり落ちていたが、稽古場にはまだ座員の姿がある。忍成兄弟が揃って稽古をしている姿を横目に見ながら廊下を進んだ更文は、丁度突き当たりにある根地黒門の作業部屋の前までやって来ると、薄汚れた扉を軽く叩いた。
返事はない。
更文がため息を吐きながらもう一度扉を叩こうとすると、何の気配も感じさせないまま、背後から声をかけられた。
「根地さんなら中座のところです」内心の動揺は何とか体の中に押し留め、更文は後ろを振り返った。「あなたと一緒にロンドンへ行くつもりらしい」
「話し合いは十分前に終わったばっかりなんだけどな。盗聴器でも仕掛けられてんのか」
「応接室の扉に耳を押し付けて話を盗み聞きしていたので」
「お前も一緒に?」田中右が何も言わずに視線を逸らすのを見て、更文は不敵に笑う。「随分はしたない真似をするじゃねぇか」
大方、偶然目の前を通り掛かったところを、根地黒門に捕獲され、体良く共犯者に仕立て上げられたのだろうと、更文は推察した。
「田中右」そう呼びかけると、他所に向けられていた眼差しが、こちらに戻ってくる。「お前も知ってたんだろ。希佐がロンドンにいるって」
「俺が立花希佐の行方を知っていたところで、あなたには何の関係もない」
「まあな」
「俺はただ興味があっただけです」
「興味?」
「彼女がどのような役者になっているのか」田中右はどこか眠たげにゆっくりと瞬いた。「立花希佐はもう俺の瀧姫ではなくなっていた」
「お前の瀧姫だったことなんてただの一度もなかったと思うけどな」
「間違いなく」更文の軽口を無視し、田中右は言った。「あなたのアルジャンヌでもない」
ふ、という奇妙な浮遊感が後頭部を襲う。精神的な攻撃を受けたような気分になるが、更文はそれを笑って誤魔化し、素知らぬふりを貫いた。この男には自分の動揺などお見通しなのだろうが、こちらにも矜持というものがあるのだと、更文は思う。もうこれ以上、たとえ相手が誰であれ、格好悪い姿を見せたくはない。
「あなたは何のためにロンドンへ行くのですか」
「仕事だよ」更文は淀みなく答える。「高科の仕事でな」
「では、立花は無関係だと」
「ああ」
「あなたは立花がロンドンにいると聞いたからこそ、積極的にその仕事を引き受けたのだろうと考えていましたが」田中右は更文の目をじっと見つめたまま、見透かしたようなことを言う。「そうではないと言うのですね」
「今日はいやに突っかかってくるな」
「俺は、あなたは立花希佐に会うべきではないと、そう思っています」
その想定外の言葉に、更文は思わず息を飲んだ。
まさか、あの田中右宙為が、ここまで踏み込んだ物の言い方をするとは思ってもみなかったからだ。田中右は少なからず自分のことを評価していると更文は自負しているものの、何らかの興味を持たれていると感じたことは微塵もない。
いや、この場合は自分ではなく、希佐を気遣っているのかと更文が考えていると、田中右は言った。
「でも、あなたの言葉を聞いて安心しました」田中右は平然とした顔をして、見え透いた嘘を吐く。「あなたは立花希佐に会いに行くのではない」
まるで念を押すようにそう言ったかと思うと、田中右はその場で踵を返す。足音も立てず、まるで滑るように歩く後ろ姿を眺めながら、更文は声を上げた。
「おい」田中右は足を止める。「お前はどうしてそう思う?」
「どうして?」
「なんで俺と希佐が会うべきじゃないって思うんだ」
田中右は振り返らなかった。そのような素振りも見せない。ただ、歩き出す前に一言だけ、はっきりと口にした。
「会えば、分かる」
田中右はそうとだけ言うと、今度こそ更文の前から立ち去った。
誰もいなくなったその場所で大きく息を吐き出した更文は、視界を隠す前髪を掻き上げながら、ゆっくりと歩き出した。黒門は当分戻らないだろう。自分も中座秋吏には話があるのだ。自ら出向いていった方が話が早い。
田中右宙為はユニヴェールにいた頃からずっと、自分だけのパートナーを探し求めていた。立花継希を失い、低迷していたクォーツとは対照的に、田中右宙為を迎えた新生アンバーはすぐさま頭角表し、すべての公演でクラス優勝を掻っ攫っていった。
特に、田中右宙為をジャックエース、根地黒門をアルジャンヌに配した『我死也』は衝撃的だった。常軌を逸していた。あのときの敗北感は未だに忘れることができない。かろうじて個人賞金賞は守り抜いたものの、もし根地黒門が誰かの器に徹するのではなく、華となって本気の戦いを挑んできたらと思うと、その末恐ろしさに身震いがするほどだった。
しかし、その『我死也』でユニヴェール中に絶望を植え付けたその直後、根地黒門はアンバーからクォーツに転科してきた。
ふざけるんじゃねぇ、というのが、更文の正直な気持ちだった。
クォーツの誰もがそう思っていたことだろう。公演を一つ終えるごとに雰囲気が悪くなっていたクォーツの温度が、一気に氷点下まで落ちて、派手に砕け散る音が聞こえてくるようだった。
「おっ、やってるやってる」
黒門は稽古場の扉から顔を覗かせると、飛び抜けに明るい声でそう言った。クォーツを奈落の底まで突き落とした張本人が突如として現れ、稽古場は一瞬にして静まり返っていた。
稽古場の中央で踊っていた更文は、その能天気そうな声を聞き、不快感を露わにする。だがしかし、黒門はそんな更文の姿を見つけるなり、ずかずかと稽古場に入ってきたかと思うと、誰もが遠巻きに眺めるだけで、近づこうともしない更文のところまで上機嫌で歩み寄ってきた。
「やあ、僕は根地黒門。今日から君たちと同じクォーツ生として学ぶことにしたんだ。どうぞよろしく」
サディスト。サイコパス。エイリアン。もしくは、ヒーダニストの類だろうと更文は思った。当時は、頭が沸いているとしか思えなかったのだ。一体この世界のどこに、アンバーに対して最も恨みつらみを募らせているクラスに転科してくる馬鹿がいるのか──ここにいるよっ! という声が今にも聞こえてきそうで、更文は大きく頭を振る。
後に、黒門はこう言った。自分はクォーツに希望を見出したのだと。だから、アンバーを離れ、クォーツにやって来た。
この万能型の天才はあっという間にクォーツを牛耳ってしまった。
そして、立花継希を失って砕け散った石の欠片を拾い集め、こつこつと、それはそれは丁寧に、丹精を込めて、美しいクォーツに組み立て直していったのだ。
我ら透明なるクォーツ。その中でも限られた者だけが、人々の視線に研磨され、磨き立てられて、彩雲のような七色に輝く。それが立花継希であり、立花希佐だった。
文字通り、根地黒門はクォーツを救った救世主となった。第78期の成績を見れば、それは明らかだ。
黒門はクォーツを救うと同時に、田中右宙為を育て上げようとしていたのだろうと、更文は考えていた。もしかしたら、田中右宙為の敵を作ることが、真の目的だったのかもしれないとすら思う。
田中右が黒門の真意を理解していたかどうかは分からない。だが、少なからず衝撃を受けてはいたはずだ。二人が一緒ならば、どこまでも高みを目指していけると思っていたパートナーが、突如として転科してしまったのだから。
以来、田中右はパートナー選びに難儀していた。その後、運良く唯一無二のジャックエースを見つけた更文とは対照的に、田中右は自分だけのアルジャンヌを見つけることが叶わなかった。
立花希佐という透明なる器を欲し続け、それを手にすることができないままユニヴェールを卒業した後も、田中右は自分だけの瀧姫を求め続けていた。
『立花希佐はもう俺の瀧姫ではなくなっていた』
先程の言葉が蘇る。あれは、一体どういう意味だったのだろうか。この五年で、田中右宙為の理想とする形が変化したのか、それとも、立花希佐が形を変えてしまったのか。
会えば何が分かるというのだろう。黒門が送りつけてきた動画を見れば、何か分かることがあるのだろうか。しかしながら、動画で見るよりも、この目で直接確かめたいのだと、更文は思う。
あれから五年後の姿を、何の先入観もなく、この目で見たいのだ。
ユニヴェール歌劇学校の敷地内に足を踏み入れるのは久しぶりのことだった。直属の後輩がいる間は、それなりに顔を見せにやって来ていたが、78期生が卒業してからは、足が遠退いていた。
ユニヴェール公演が終わったばかりということもあり、校内はひっそりとしていて、出歩いている生徒の姿はほとんど見られない。三年生は卒業の準備に取り掛かり、在校生は来年度に向けての調整や、新一年生を迎えるための心積りをはじめている頃合いだろう。
中座秋吏のいる校長室へ向かう前に、事務室に顔を出した更文は、残っていた女性職員に江西録朗を呼び出して欲しいと頼む。
「じ、実は、娘があなたの大ファンで──」
写真を一枚良いですかと請われ、その撮影に応じるついでに、スマートフォンのケースにサインを書いていると、そこへ江西が現れる。更文は軽く手を上げて挨拶をしてから、手にしていたスマートフォンのケースを女性に返した。
「娘さんによろしくお伝えください」
「ありがとうございます」
頬を赤らめる女性ににこりと微笑みかけてから、更文は江西が立ち止まっているところまで早足で行き、隣に並んで歩き出した。
「コンバンハ、江西さん。随分疲れた顔してんね」
「時期を考えろ、高科」
「クロも来てるんだろ?」
「お前も校長に会いに来たのか?」
「ああ、しばらく玉阪を離れるから、その挨拶に」
「玉阪を離れる……?」
江西がそう言って訝しげな面持ちを浮かべたとき、職員室から出てきたロードナイト生が更文を見て、ほとんど少女のような黄色い声をあげた。気まぐれに手を振ってやると面白いくらいに喜んだが、それを見ていた江西は、勘弁してくれというふうに酷く面倒臭そうにしている。
「お前たち、用が済んだならさっさと寮に戻りなさい」
「分かりましたー」
そう返事をしておきながら、ロードナイト生たちはしっかりと更文の姿をスマートフォンに収め、廊下を嬉しそうに駆けていった。
「廊下は走るな」
「はーい、すみませーん」
「ったく……」
週末、玉阪の町を歩いていると、ユニヴェール生を見かけることがある。彼らの姿を見ていると、途端に過去の記憶が蘇るのだ。落雁を味わいに行った茶屋や通りで出会う季節物の菓子、鼻緒の色を選んでもらった呉服屋、中小路のクリスマスツリー──それらを美しい思い出にしてしまえたら楽なのにと、更文は思う。
たまに同期で集まり、酒を酌み交わしながら昔話に花を咲かせていると、あの頃は良かったと、皆が口を揃えて言う。名前のある役をもらい続けていた者も、そうでない者も、最高の三年間だったと。
このユニヴェール歌劇学校で演じ、歌い、踊り続けることだけが自らに与えられた喜びであるというふうに、舞台上で輝き続けていた立花希佐にとって、今でもまだ、あの三年間は至上の思い出として君臨し続けているのだろうか。
更文が神妙な面持ちを浮かべて黙り込むと、隣を歩いていた江西は、今まさに開きかけていた口を噤んだ。
既に話は通してあるのか、江西は入室の許可を得ることなく扉を開けると、更文を先に通した。自らも室内に足を踏み入れると、後ろ手に鍵を閉めてから、慣れた足取りで奥へと進んでいく。
「よお、遅かったじゃねぇか、高科」
江西と共に校長室の最奥までやって来ると、田中右が言っていた通り、そこには根地黒門の姿があった。畳の床に腰を下ろし、日本茶を啜りながら、すっかりくつろいでいる様子だ。
「……こんなところで何してるんだよ、クロ」
「あら、何ってアナタ、お茶飲みに決まってるじゃないの」
「お前のせいで田中右に捕まってネチネチ嫌味を言われただろうが」
「じゃあ、宙為はちゃんと僕からの伝言を君に伝えてくれたんだね」
「伝言?」
「先に中座校長のところに行ってるよって」
「……」
あの田中右宙為を伝言係に使うことも、この根地黒門の言いつけを律儀に守ることも、自分の理解が及ぶ範囲外にある問題だと更文は思った。すぐさま考えることを放棄し、小さく息を漏らしてから、更文はこの部屋の主に目を向ける。
「こうして俺のところまで来たってことは、理事とはしっかり話をつけてきたってことなんだろ」まあ座れと言われ、更文は黒門の隣に腰を落ち着けた。「それで、あっちにはいつ頃発つつもりなんだ?」
「手持ちの仕事を片付けてからなので」更文は茶を淹れている中座の手元を見ながら言う。「一ヶ月後くらいだと思います」
「そうか」
中座はそう言いながら、入り口付近で立ち呆けている江西に軽く目配せを送る。新たに二人分の茶器が用意されたのを見て、江西はたいした表情の変化も見せないまま、中座の隣に座った。
「立花のことだが」中座は誰にともなく話し出す。「俺のところには、日本に帰ってくる度に連絡をくれていたんだ」
「立花くん、日本に戻ってくることなんてあったんですか」
「ビザの都合でな」
「ああ、それで」黒門は平然とした顔をして中座と話をしている。「その様子だと、録朗氏も立花くんのことを知っていたんでしょう?」
「当日の朝、俺が立花を見送った」
「へえ──って、ええっ?」
さすがは演技指導の教師、と漏らしながら、黒門は口の端から滴る日本茶を手の甲で拭っていた。
何年も前から立花希佐の生存と行方を知っていた人々との間に、氷河とマグマほどの温度差があっても仕方がないことだと思いながら、更文は茶托に乗せられた湯呑みを、そっと受け取った。
「何となく日本にはいなんじゃねぇかと思っていたんだが、本人の口から直接所在を知らされたのは、今から二年半くらい前のことだ。自分はイギリスのロンドンにいる、そこで小さな劇団に所属して、舞台に立ってるってな」
「それまでほとんど何の音沙汰もなかったのに」更文が口を開くと、全員の視線が集まってくる。「突然ですね」
「立花はイギリスでユース・モビリティ・スキームというビザを取得していてな。就労ビザの一種で、これを取得しているとフルタイムで働きながら、二年間イギリスに滞在することが許される。俺に連絡をしてきた時点で、そのビザの取得から一年以上が経過していたようだから、まあ、語弊があっちゃいけねぇとは思うが、あいつなりに焦っていたんだろうよ」
「でも、それでユニヴェールの校長を頼るというのは、都合が良すぎるというか何というか」
「なんだ、今日は随分と辛辣じゃねぇか、根地」
「自分の意志で日本を出て行ったからには、それなりの覚悟があったんでしょうよ。でも、最終的に頼る相手が、不義理を働いたユニヴェールの校長というのが、何とも納得がいかない部分もあるという話です」
「まあ、当時は背に腹は変えられないっていう感情が見え透いていたことは確かだが──」中座は僅かに言い淀んでから、再び口を開く。「お前ら、去年の年末に睦実と挨拶に来てくれただろ?」
「ええ」
「あのとき、電話が掛かってきたことを覚えてるか?」黒門は頷くと同時に、何かを察したような表情を浮かべた。「あれはイギリスにいる立花から掛かってきたものだった。内心では冷や汗ものだったぜ。まさか、お前たちがいる間に、あいつから連絡が来るなんて思ってもみなかったからなぁ」
今更、何を言われたところで動揺したりはしないだろうと考えていた更文だったが、中座の言葉を耳にした瞬間、背筋がひやりと冷たくなる。ぞくっとするような身震いのあと、両腕に鳥肌が立つのを感じていた。
それとは別に、ふつふつとした沸るような感情も覚えていたが、更文は甘ったるい玉露でその感情を飲み込み、吐き出したい思いを腹の中に押し戻した。
「あいつはあいつなりに、この五年もの間葛藤し続けて来たんだ。それも、たった一人きりでな。だから、そう怖い顔をしてやるなよ」
「僕の目には、遠い異国の地で自由に楽しく、のびのびとやっているように見えましたけどね」
「お前の目にはそう見えたというだけのことだろう」更文と同様に黙って話を聞いているだけだった江西が、不意に口を開いた。「重要なのは結果よりもその過程にある。お前が目にしたものは、立花の才能を凝縮したほんの一部分にすぎない。それで知ったようなことを言うのは、お門違いというものじゃないのか」
「えっ、ちょっとなによ、録朗氏。まさか、怒ってる?」
ふざけたことを言う黒門に何も言い返すことはせず、ただ呆れ果てて物も言えないというふうに、江西は小さくため息を吐いていた。
「僕だってね、立花くんのことはずっと好意的な目で見てきたし、陰ながら応援だってしていたんですよ」でもね、と黒門は言う。「一方では、過去に囚われたままがんじがらめになって、身動きすら取れなくなっている男がいるっていうのに、もう一方では過去なんて知ったことかという顔で、光り輝く未来に向かって飛び立っていく女の姿を見せつけられたりなんかしたら、嫌味の一つや二つ言いたくなるのが道理ってもんでしょうよ」
「根地……」
だからお前は、とでも言うような口振りでそう漏らす江西を横目に見た中座は、まあまあ、と宥めるようにへらりと笑う。
「根地も高科にくっついてロンドンに行くそうだからな、自分の目で確かめてくればいいさ」
「田中右も言ってたけど、お前、それ本気で言ってんのか?」更文の口からは、思いのほか冷ややかな声が出る。「俺は別に希佐に会うためにロンドンに行くんじゃねぇんだぞ」
「いずれにしたって同じことでしょ」
「あ?」
「あらやだこわい」この期に及んで、黒門は自らを睨みつけてくる更文にふざけた様子を見せる。「じゃあ逆に聞かせてもらうけど、君は立花くんがロンドンにいなくても、その高科の仕事とやらで渡英していたかい?」
「それは──」
「正直に答えてくれ、フミ」そう言う黒門の眼差しからは、寸前までの茶化すような色合いが消えていた。「君は僕に言ったよね。もし立花くんの居場所が分かるなら、会いに行くだろうって。未練を断ち切りたいと言った、君のその言葉を信じて、僕は──実際には白田くんが口を滑らせてしまったようだけど、まあ、結果は同じだ、君は彼女の居場所を知った」
『僕の個人的な意見を言わせてもらえるなら、フミさんは立花に会うべきです』昨夜、電話口でそう言った美ツ騎の言葉が、更文の脳裏に蘇る。『僕は、ユニヴェールを卒業してからずっと、フミさんが立つ舞台を見てきました。フミさんの隣には、いつも立花がいるみたいだった。それって、どうなんだろうなって、ずっと思っていたんです。それって、本当にフミさんが目指していた舞なのかなって』
舞は、舞い手の心を映す、繊細な踊りだ。その日の感情で舞の出来が左右すると言っても過言ではない。当人はどうにか折り合いをつけているつもりでも、その道に明るい者が見れば、何もかもが見透かされてしまう。本人が意識すらしていない深層心理の奥底が投影される。それが、舞というものだ。
「動画は? 見たの?」黒門の問いかけに、更文は首を横に振った。「どうして?」
「実際にこの目で見たいと思ったからだよ」更文は観念したように口を開く。「俺が見たいのは立花希佐の虚像じゃない」
更文は、何かに呼ばれているような気がすると、そう思っていた。天から降りてきた見えない糸に導かれて、自分は行くべきところへ行くだけなのだと。そうして行った先に何が待ち構えているのかは分からない。だが、昨夜実家の稽古場で踊っていたときから、既に心は決まっていた。
立花希佐に会いに行く。
この感情が以前までのような恋慕なのかは分からない。未練や執着のような、見苦しい感情なのかもしれない。それでも、前に睦実介が言っていたように、このままはよくないと、そう思う。
迷いを断ち切らなければならない。そうしなければ、これから先の五年間も、これまでの五年間と同じように、偶像を崇拝するように生き続けてしまうような気がするのだ。
確かに、更文がロンドンに行くと決めたのは、そこに立花希佐がいると知ったからだ。だがしかし、そうでなかったとしても、結局のところは、海を渡っていたのだろう。
『お前はもっと世界に目を向けろ。一度この日本を出て、見聞を広めるんだ。様々な文化に触れた分だけ、それはお前の芸の糧となる』
『あなただって薄々気がついているのではありませんか? そろそろ頭打ちだと』
まさか、あの父親と兄からそのような助言を受ける日が来るとは、ユニヴェールに通っていた頃の自分には想像もできなかったことだ。
内へ、内へと引きずり込まれそうになることを恐れ、外へ、外へと逃げてきた自分が、今では父親や兄以上に、高科という柵に囚われようとしていたのかもしれない。
「大義名分はどうであれ、俺は仕事でロンドンに行くんだ。でも、お前は違うだろ、クロ。玉阪の仕事はどうするんだよ。そもそも、年がら年中作業部屋に引きこもってるお前が、海外になんて行けんのか?」
「もちろん、策は考えてあるとも。この根地黒門に抜かりはないよ」黒門は、ふふん、と鼻で笑った。「まずは、この一ヶ月で何冊かの本を仕上げる。ほとんどが外部からの依頼だね。指示書きも残していくよ。今の時代、ネット環境さえ整っていれば宇宙からだって演出することは可能だから、どうしても僕の助言が必要なときは、日本とロンドンをリモートで繋いでもらう」
「上の人間にはどうやってそれを説明するんだよ」
「演劇の勉強のために留学をすると言うに決まってるじゃないか」
「それで上の連中が納得すると本気で思ってるわけじゃねぇだろ」
「何を言ってるんだい、否が応でも納得させるんじゃないか。この七年間──ユニヴェール時代も含めれば十年間だね、僕は延々とアウトプットばかりを繰り返してきたんだよ、休みなしにね。これはまさにブラック企業! 立派な労働基準法違反──」
「それはお前が勝手にやってることだろうが」
「──僕にもインプットをする時間が必要ってことさ。そう考えると、ロンドンはとても都合がいい。最近じゃ食の多国籍化で食文化もまともになってきているし、日本と比べても気候が良いから、執筆も捗るというものだよ。それに、ロンドンは演劇の都でもある。大劇場の華やかで煌びやかなエンターテイメント、小劇場の古典から新進気鋭の脚、演出家たちが作り上げる挑戦的且つ実験的な舞台まで、なんでもござれだ! 僕たちみたいに将来有望な役者たちが、大きな希望をその胸に抱きながら、世界中から集まってくるんだよ! 雑多なパブでエール片手に夜な夜な語らうなんて経験、この日本じゃそうそうできることじゃないだろう?」
「だから、俺は遊びに行くんじゃねぇんだって」
黒門の勢いに感情が押し流されそうになるのをなんとか耐えながら、更文は小さく頭を振る。役作りのために伸ばしていた前髪を掻き上げ、耳に掛けながら向かい側に視線を戻すと、中座が愉快そうな顔をして二人の様子を眺めていた。
「なんですか」
「いいじゃねぇか、高科。根地も連れて行ってやれよ。そいつは何かと役に立つと思うぜ」
「そうだよ、フーミン」机の上にあったみかんに手を伸ばし、まるで林檎の皮を剥くように、くるくると器用に皮を剥ぎながら黒門は言った。「僕は英語が堪能だから、通訳だってできちゃう。もっと言うと、ドイツ語とイタリア語、フランス語も少々って感じかな。他にも、日常会話程度なら理解できる言語が多々あるけど、まあ、それは割愛ってことで」
「お前の頭ん中、一体どうなってんだよ……」
「必要に駆られてさ。英語は小さい頃から習っていたけど、その他の言語は大体は独学だね。資料を取り寄せたり、各国の脚本家や演出家同士のオンラインコミュニティーに参加したりしているうちに、何となーく覚えたんだよ。ほら、僕ってこう見えて万能型の天才肌だからさ、言語だって自然と習得しちゃうんだよね」
「へえ、そっか」
「ちょっと、なによその空返事は」
「別に」
この男とは頭の出来が違うのだ。いや、大抵の人間は、この男のようにはいかない。
根地黒門という人間は、何をやってもそつなくこなす。芝居はもちろん、歌も踊りも一級品だ。そうでなければ玉阪座から声が掛かることもないのだが、この男の場合はそれに加えて、脚本家や演出家としての才能も備わっている。
ユニヴェール時代は級長としての雑務もあり、芝居に没頭することが難しかった。主役級の役をもらえるだけの実力がありながらも、脇役に甘んじていたのは、裏方の仕事が忙しすぎたからだ。周囲も助力を惜しまなかったが、それでも、舞台を作る上での仕事の多くを、取って代わってやることは誰にもできなかった。
根地黒門は玉阪座に入門してからも、相変わらず作業部屋の机に齧りつき、脚本の執筆に忙しい。だが、ユニヴェール時代のような雑務を兼任する必要がないだけましなのだろう。
元々、玉阪座の理事は黒門の脚本と演出の才能を含めて評価し、入門させたのだ。特例として個人の作業部屋まで与えられ、相当に優遇されている。
「前々から思っていたんですけど」前に二人だけで飲みにいったとき、美ツ騎が言っていたことを、不意に思い出した。「根地さんには、玉阪は狭すぎると思うんですよね。もちろん、根地さんの才能の在りどころとして、玉阪座は申し分のないところなんでしょうけど、僕はあの人ならもっとすごいことができるんじゃないかって、そう思っているんですよ。それこそ、世界に出て行ったって、通用するんじゃないかって」
その証拠に、我死也は海外でも高く評価されたでしょう、と。
あの舞台は未完成のままだと黒門は言った。でも、完成しないからこそ美しいのかもね、とも言って、複雑そうな顔で笑っていたことを覚えている。
美ツ騎が言っていた通り、根地黒門も自分同様、この玉阪を出ることが必要なのかもしれないと、更文は思った。様々な文化、様々な芸術、様々な人々と出会い、刺激を受けることで、何か得るものがあるのかもしれない。
「だったら、好きにしたらいいんじゃねぇの。クロが本気でイギリスに行きたいっていうなら、俺は止めない。でも、口添えはしてやらねぇからな」
「もしものときは鶴の一声、よろしくお願いしますね、校長」
「おう、任せとけ」
玉阪座の理事ではなく、いの一番に中座秋吏の下を訪れたのは、最初からそういう魂胆があったからなのだろう。根回しというやつだ。
理事会のご老体らは、十八代目玉阪比女彦を襲名している中座秋吏のやり方に常々異論を唱え、反発し、問題視しているようだが、当人はいつだって飄々としている。
次期高科流当代としては、中座秋吏が置かれている立場や状況などを、正しく理解しているつもりだ。玉阪と中座の歴史についても、その筋に詳しいご贔屓さんから聞いたことがある。複雑且つ怪奇な歴史の上に成り立っている現在の玉阪座を背負っていくには、これくらいの度量が必要なのだろう。
それに比べれば、自分は非常に恵まれた環境下にいるのだと、更文は改めて思った。
「おい、高科」
まだ仕事がたんまり残っているので、と言いながら江西が席を立つと、じゃあ僕も、と言って黒門が重そうに腰を上げた。それに倣って退室しようとした更文を、中座が呼び止める。
「お前は残ってくれ」訝しげな顔をする更文を見て、中座は笑った。「なに、ほんの五分かそこらだ。それくらいなら構わねぇだろ?」
「じゃ、先に戻ってるね、フーミン」
眠たそうに欠伸を漏らしながら部屋を出ていく江西の後ろを、黒門はぶんぶんと手を振りながら付いていく。いやにあっさりと出て行くその後ろ姿を見送りながら、自分がここに来るまでの間に、必要な話のすべては済ませてあったのだろうと、更文は思った。
もしかしたら、立花希佐の話も。
「黙っていて悪かったな」
「……え?」
「立花のことだ」ゆっくりと視線を正面に向けると、中座は真摯な眼差しでこちらを見ていた。「立花が女だということを、お前が黙っていてくれたおかげで、あいつはユニヴェールでの三年間を無事に終えることができたってのによ」
「それは違いますよ」更文は意図せず自嘲するように笑った。「希佐が無事に最後のユニヴェール公演を終えることができたのは、あいつ自身が人並み以上の努力を続けてきたからです。それに、希佐が女だって気づいていたのは、多分俺だけじゃない。そういう連中が揃って口を噤んでいるのは、立花希佐の努力と才能を認めていたからなんだと思います。あいつは、人一倍頑張ってましたから」
「そうだな」
「先生は希佐とは会っているんですか?」
「いや」中座は首を横に振る。「立花がユニヴェールを出て行ってからは一度も会ってねぇよ」
「そうなんですか」
「常々会いたいとは思っているんだけどな、俺が動けば玉阪の連中が黙っちゃいねぇだろ? 突然海外に行くなんて言い出した日には、何事だと騒がれちまう。後でもつけられようもんなら、あいつにも迷惑をかけるからな」
「あなたは希佐がかわいくて仕方ないんですね」
「ん?」
「そう顔に書いてあります」
中座はそれを否定しなかった。それどころか、どこか遠くを見るような眼差しで宙を眺めていたかと思うと、眦を下げるようにして微笑んだ。
「ああ、そうだな、俺はあいつがかわいいよ。なにせ、この俺が見初めてユニヴェールに連れてきた生徒の一人だ。行方知れずになりゃ気が気じゃねぇし、成功してると聞きゃ嬉しいもんよ」
でも、あなたがその立花希佐の人生を狂わせたのだ──とは、どうしても言えなかった。中座が立花希佐をユニヴェールに連れてこなければ、更文とは生涯出会うこともなかったのだ。
中座は、急に黙り込んだ更文を辛抱強く見つめていたが、ふう、と軽く息を吐き出すと、口を開いた。
「俺は、お前さんの今の舞も案外好きだが──」着物の帯に挟んでいた煙管を手に取り、それを伏し目がちに眺めながら中座が言う。「自分自身がそれを良しとしないのであれば、どこへでも好きなところに行って、自分の中にあるわだかまりを解いてくればいい」
「校長……」
「根地の気持ちも分からないわけじゃねぇが、お前だけは、あいつに会ってもあまり責めないでやってくれ。もしかしたら、お前だけがあいつを攻める権利があるのかもしれねぇが、悪いのは立花じゃない」
「全責任は自分にある、とでも?」
「ああ」
「確かに、男子校に女子を引き入れたあなたの罪は重いのかもしれない」中座は煙管に火を入れるでもなく、再び帯に戻していた。「でも、俺にはあなたが理由もなく、立花希佐をユニヴェールに引き入れたとは思えない」
「高科、お前──」
「今日のところはこれで失礼します」更文は中座の言葉を遮り、微かに微笑んだ。「今日の結果を二千奥に報告しなければなりませんので」
「あ、ああ、そうだな」
「それでは」
更文は座布団から降りて畳の上で膝を折ると、折り目正しく両手を揃え、深々と頭を下げた。それからゆっくりと立ち上がり、中座の方は見ずに歩き出す。その背中を呼び止める声はなかった。
以前、小耳に挟んだ話がある。
今から数年前、玉阪座に入門して暫く経ってからのことだ。
それは、第76期生がまだユニヴェールに在学していた、その最後の年に、クォーツ解体計画が持ち上がっていた、というものだった。
週末、イライアスと一緒にこの一週間の稽古を振り返っていると、午後五時を過ぎた頃に、事務室からアラン・ジンデルが顔を覗かせた。
午前中からずっと踊り続けていたので、いつものように灸を据えられるのではないかと身構えるが、アランが口にしたのはまったく別の話だった。
「今からヘスティアに行くけど、一緒に来る?」
「飲みに行くの?」
「メレディスが来てくれって」
「私は良いけれど」希佐はそう言うと、隣に立っているイライアスを見た。「イライアスも行く?」
「お腹減った」
「ヘスティアで食べれば?」
アランの提案に、イライアスは長い睫毛を瞬かせながら少しの間考えていたが、小さくこくりと頷いた。
二階に上がり、後で良いと渋るイライアスにタオルを押し付けてバスルームに押し込んだ希佐は、常温の水を飲みながら、キッチンのテーブルに広げられているメモに目を落とす。
「drastic、sacrifice──」
そこには、アランが今まさに考え事をしていたのであろう形跡が、そのままに残されていた。単語のメモや得体の知れない暗号のような文字、何かのマーク、手書きの五線譜などが、何枚も大きく広げられている。
アランは、頭の中が飽和状態になると、溢れ出しそうになる思考をすべて紙に書き出して、まっさらな状態に戻すのだという。そして、今度はそれらを眺めながら、あるべき場所にしまっていくのだと話していた。乱雑になった机の上や、本棚の整理整頓をするのと同じ感覚だと、そう教えてくれたことがある。
希佐が手を触れずにそれらを眺めていると、アランが事務室から階段を上ってやってきた。
「ごめん」人の頭の中を勝手に覗き込んでいたのは自分だ、謝るのは自分の方だと希佐が思っていると、アランは怒る素振りも見せずに隣までやってきた。「すぐ片付ける」
「勝手に見てごめんなさい」
「いいよ。そもそも、見られて困るようなものなら、こんなふうに広げておかない」
アランはそう言いながら、テーブルの上の紙を適当に掻き集め、重ねていく。希佐はその様子を少しだけ眺めてから、アランの横顔を見上げた。
「新しいお話を書くの?」
「レオに頼まれたんだ」
「映画の脚本?」
「そう」
だが、頷くアランの表情は、どこか複雑そうだった。どうしたのだろうと思い、希佐が小首を傾げると、アランは紙の束を一つにまとめながら、その様子を横目に見た。
「俺にはもう斜陽の雲以上の作品は書けない」
「え?」
「あれ以降の作品はすべて、あの作品の焼き増しでしかない」
「そんなことは──」
希佐は首を横に振って否定しようとするが、イライアスがバスルームを出てくる気配を感じて、思わず口を噤んでしまった。普段は病的なほど青白い肌を、僅かに火照らせたまま姿を現したイライアスは、二人の間に漂う微妙な空気感を察したのか、微かに眉を顰めた。
「あ、待って、イライアス。ドライヤーを使うでしょう?」
「うん」希佐はバスルームから持ってきたドライヤーをイライアスに手渡した。「ありがとう」
「冷たいお水は冷蔵庫に入っているし、常温のお水が良ければ──」
「分かってるから、大丈夫」
「そうだよね」
「早くシャワーを浴びておいでよ」
「うん」
希佐は、シャワーを浴びている間も、髪を乾かしている間も、先程のアランの言葉が耳に残り、気もそぞろな状態だった。
『俺にはもう斜陽の雲以上の作品は書けない』
アラン・ジンデルはその後も新たな物語を生み出し続け、そして同時に、様々な賞を受賞している。だが、希佐がここにやって来てからの三年の間に、何度か脚本賞を受賞してはいるものの、授賞式に参加したことはただの一度もなかった。
興味がない──アランはそう言って、届いた盾やトロフィーをすぐに処分してしまう。でも、希佐は知っていた。スタジオの二階にある物置部屋の奥深くに、クリスタル製の盾が、今も打ち捨てられるようにして置かれているのを。
斜陽の雲、脚本賞、アラン・ジンデル。
それだけは、他の盾やトロフィーのように処分されないまま、無造作に保管されている。残念ながら、分厚い埃のドレスを身に纏ったそれは、輝きを失って久しいようだ。
希佐は、ぴたりとした黒のスキニーを履き、白シャツの上に編み目のざっくりとしたアイボリーのニットを着ると、その上からポンチョコートを羽織った。編み上げのブーツの紐をきつく締め上げ、姿見で全身を確認してから、バッグを手に取り部屋を出る。
「お待たせしましたー」
アランとイライアスはキッチンのテーブルで向かい合わせに座り、互いにペンを持ちながら、スケッチブックを挟んで話をしていた。何を書いているのだろうと思いながら寄っていくと、二人でダンスの振り付けについて話し合っていたらしい形跡が窺える。
「何の振り付け?」
「ルイから、月曜までに練習曲と、それに合わせた振り付けを軽く考えておくようにってメッセージが届いた」
イライアスはそう言いながら、希佐にスマートフォンの画面を向けてきた。画面には確かに、月曜までに希佐と踊るダンスの練習曲と、振り付けを考えておきなさいというメッセージが、フランス語で送られてきている。
フランス語を音として聞く分には、言葉の意味を理解できるようになってきてはいるが、文字として目の前に突きつけられると、翻訳するのに少しだけ時間が必要だ。
昨日、週末はフランスに一時帰宅をすると言って喜んでいたので、このメッセージは本国から送られてきたものなのだろう。
希佐が真剣な面持ちで画面を睨んでいる間、イライアスはこちらにスマートフォンを向けたまま、じっとしてくれていた。しかし次の瞬間、ポコン、と通知音が鳴ると、身を乗り出して画面を覗き込む。
ルイからのメッセージの下に表示されたのは、一枚の写真だった。夜のエッフェル塔を背景にしたカップルが抱擁しているものだ。
「奥さんかな」
「うん」イライアスは心なしか迷惑そうな表情を浮かべながら、フランス語で返事を打っていた。「元バレリーナだよ」
「そうなんだ」
「従兄妹だって言ってた」
「ふうん」
「キサのところにはこういうの送られてこない?」
「ううん、全然」希佐は首を横に振った。「イライアスにはよく送られてくるの?」
イライアスは僅かに唇を尖らせながらこくりと頷くと、スマートフォンをテーブルに伏せて置いた。
ルイから希佐に届くメッセージは、トレーニングや食事に関する助言が多い。他にも、ダンスの問題点や改善点などもまとめて送ってくれるので、大変ありがたく思っていたのだが、どうやらイライアスは違ったようだ。
「セクハラ」
ポコン、と再び送られてきた写真を見たイライアスはそう小さく呟くと、その通りの言葉を打ち込んでから通知を切り、スマートフォンをリュックの奥底に押し込んでいた。
「あいつは君に羨ましいと思わせたいんだ」
「大きなお世話だって言ってるんですけど」
「俺もそう思うよ」アランはそう言うと、テーブルの上のスケッチブックを閉じ、それをイライアスに差し出した。「また後で相談に乗る。遅くなるとメレディスが煩いから、先にヘスティアに行こう」
「はい」
以前から、どこか通じ合っている雰囲気のある二人ではあったが、あの一件以来、アランとイライアスが話している姿をよく見るようになった。イライアスの話を聞いていると、最近では芝居の相談にも乗ってもらっているらしい。希佐が歌のレッスンへ行っている間に、一緒に踊ることもあるそうだ。
アランが踊っているところを、まだ一度も見たことがないと希佐が言うと、イライアスは少し黙ってから、恥ずかしいのかも、と言葉を濁していた。
いや、見ようと思えば、いつでもそうすることはできる。アランは希佐が夜のルーティンを終えるのと入れ違いにスタジオに入って、一人で黙々と稽古を行っていた。見学をさせてほしいと言えば、構わないと言ってくれるだろう。
そうだ、実際には、アランが恥ずかしがっているのではない。おそらくは希佐自身が、それを目の当たりにすることを恐れている。その姿を目にしてしまったら最後、今度こそ本当に、終わりがはじまってしまうような気がしているからだ。
週末のヘスティアは相変わらずの混雑ぶりだった。まだ開店して間もない時間帯だというのに、空いている席を探す方が難しい。
とりあえず何か注文しようとカウンターに足を向けると、少し離れたところで接客をしていたメレディスが、こちらに気づいて軽く手を挙げた。相手をしていた客に断りを入れ、こちらにやって来る。「やあ、アラン。待っていたよ」メレディスが機嫌良く言った。「キサとイライアスも」
「こんばんは、メレディス」
希佐が挨拶をする隣で、イライアスは申し訳程度に会釈をしていた。メレディスはそんな二人に向かって朗らかに微笑みかけてから、アランに視線を戻した。
「いつもの席を取ってあるから、そちらで待っていてもらえるかな」
「俺は別にいいけど、イライアスが腹を減らしてるから、何か適当に作ってやって」
「もちろん」
メレディスがドリンクも店の奢りだと言うと、アランは途端に訝しげな顔をした。それからすぐ、コートのポケットに手を入れて、くしゃくしゃになった紙幣を取り出すと、それをカウンターの上に置く。
「スコッチ」その様子を見たメレディスは、困ったように笑っていた。「後ろの二人の分もこれで」
希佐が砂糖抜きの炭酸水を、イライアスが常温の水を注文すると、アランはグラスと釣り銭を受け取って踵を返す。
「相変わらず勘がいい」
メレディスは苦笑いを浮かべ、希佐に栓を抜いた瓶と、空のグラスを差し出した。イライアスは別の店員から瓶とグラスを受け取ると、アランを追いかけていってしまう。その場に取り残された希佐は、小首を傾げながら、カウンター越しにメレディスを見上げた。
「どういうこと?」
「キサも何か食べるかい?」
「え? あ、うん」問いには答えず、そう訊ねてくるメレディスに向かって、希佐は頷いた。「じゃあ、イライアスと同じもので」
「かしこまりました」
席で待っているようにと念を押されてしまえば、混雑している店内のカウンターの前に居座り、邪魔をし続けるわけにもいかない。希佐は分かったと頷いて体を反転させると、ステージ脇にあるテーブル席に足を向けた。
「次の舞台で求められるダンスのレベルは高い。メイヒューとのダンスシーンもあるから、それに向けての強化も必要だ。心配はないと思うけど、彼は自分に見合った最高の役者を求めてる」
いつもの席までやってくると、二人は再びスケッチブックを広げ、振り付けの構想を練っていた。希佐はアランの隣に腰を下ろし、炭酸水をグラスに注ぎながら、黙って二人の様子を眺めている。
「ルイはどう言ってるの」
「子供の頃に出会っておきたかったって」
「最高の褒め言葉だな」
「惜しんでいるんですよ」イライアスはグラスの水を一口だけ飲み、アランの隣に座っている希佐をちらりと見た。「キサは均整の取れたダンサー向きの体だと言っていました。体に歪みがなくて、筋肉の付き方も良い。自分の見せ方も知っているって」
「やっぱり前に話した体の歪みは取れてたのか」
「ストレッチとバーレッスンで」
「……歪み?」
しゅわしゅわと、水中を立ち上っては弾けて消える気泡を眺めていた希佐だったが、思わず二人の会話に口を挟んでしまった。すると、アランは口元に運ぼうとしていたウイスキーグラスを一度下ろし、こちらを見る。
「キサは右の肩が少し下がっていた。だから、ターンをするときに体が若干傾いて、本来なら軸がぶれる。でも、君は身体能力が高いから、それを無意識に修正していたんだ」
「指摘するとその癖を意識するようになるから、長くは掛かるけど、ゆっくり直していった方がいいだろうって話していたんだ。歪みは故障の原因にもなるし、本当ならなるべく早く取り除いた方がいいんだけど、強制的な矯正はキサの感性に影響を及ぼしかねないと思って」
「いつも鏡を見て確認していたのに……」
「少しの歪みなら、意識をすれば肩のラインは真っ直ぐになるよ」イライアスはそう言うと、希佐が持ってきたバッグを一瞥した。「キサは荷物を右手で持つことが多いから。女性だから仕方ないのかもしれないけど、嫌じゃなかったらバックパックタイプにした方がいいのかもしれない」
「う、うん、分かった」
「ごめん、勝手なことをして」
「ううん、ありがとう」
思い返してみると、以前は確かに、ターンで妙な引っ掛かりを覚えることが多かった。左側の筋肉ばかりが張っているような感覚が残り、随分念入りにストレッチしていたことを覚えている。だが、いつの間にかそうしたことが少しずつ減っていき、不自然な筋肉の張りを感じることもなくなっていた。
イライアスはいつも稽古の前後にストレッチに誘ってくれる。その都度修正すべき点を事細かに教えてくれていた。バーレッスンのときも同様だ。だがしかし、長い目で見るにも程があるだろうと、希佐は思った。イライアスは何でもないことのように平然と語っているが、並大抵の根気では続けられなかったはずだ。
「あのルイがキサの体に歪みを感じていないなら、もう大丈夫だよ。本当に微々たるものだったんだ。これからも気をつける必要はあるけど、これまで通りのルーティンをこなしていれば、なんの問題もないから」
イギリスにやって来てからも、それ以前の日々の中でも、この体は自分以外の誰かの力が大きく働き、作り上げられてきた。自分自身の努力だけでは足りない。誰かが手を差し伸べてくれるたびに、この体は与えられた課題を乗り越え、新しい能力を獲得してきた。
ここまで歩いてくることができたのは、周囲からの大いなる助けがあったからだ。どうすれば、自分に残された限りある時間の中で、この人たちに恩返しをすることができるのだろうと、希佐は考える。何かを残していきたいと思うが、自分だけが持っていて、この人たちにはないものを、希佐には想像することが難しかった。
「お待たせいたしました」
そう言って現れたメレディスが用意してくれた料理は、メニューには存在していないサラダだった。ほうれん草を敷き詰めたボウル型の皿の中には、ドレッシングで和えられた芽キャベツ、ブロッコリー、アボカド、ひよこ豆の他にも、茹で鶏とゆで卵が入れられている。
「メレディスのスペシャリテだよ」思わず美味しそうと声を漏らす希佐の隣では、なぜかアランが顰めっ面を浮かべていた。「アランのお気に入りでね」
「俺はいらない」
「どうして?」
「子供の頃に死ぬほど食べさせられた」
「アランはこれを食べて大きくなったんだ」
楽しげにくすくすと笑うメレディスを見上げ、アランは盛大なため息を吐いてから、グラスに残っていたウイスキーを煽るようにして飲み干した。
「それで」コツ、と空になったグラスをテーブルに起きながら、アランが口を開いた。「俺に何を頼みたいの」
「下手な前置きをしてこれ以上ヘソを曲げられても困るからね」メレディスは希佐とイライアスに向かって食事をするように促してから、話の先を続けた。「単刀直入に言うと、今年のチャリティーイベントを、君やカオスの子たちに手伝ってもらえないかと思っていてね」
ヘスティアでは年に一度、必ずどこかのタイミングでチャリティーイベントを行っている。一階のステージや二階の小劇場を使って、歌やダンス、芝居を披露し、訪れた客に寄付金を募るのだ。参加する団体が多いときは、二、三日に分けられて行われることもあった。
その間の店の売上の多くは寄付金に回されるので、チャリティーという大義名分を得た常連客たちが、こぞって酒を飲みまくる。スタッフはいつも以上に大忙しで、希佐もここで働かせてもらっているときは、延々とフロアを駆け回っていた。
だが、この三年、劇団カオスとしてこのチャリティーイベントに参加したことは、ただの一度もない。聞いた話によると、それ以前にも参加したことはないようだ。
「メレディス、何度も言ってるけど──」
「君がチャリティーに否定的な物の考え方をしていることは知っている」うんざりしたように口を開いたアランの言葉を遮り、メレディスが言った。「僕はその上で頼んでいるのだよ」
「嫌がらせ」
「そんなことをしているつもりはないのだけれどね」
「寄付をする人間はそんなイベントがなくても寄付をする」
「ああ、そうだね」メレディスは尤もだというふうに頷いた。「その証拠に、君は毎年慈善団体に多額の寄付を行っている」
「それとこれに何の関係がある? 俺は偽善者たちの見世物になるつもりはない」
アランはごめんと言って希佐をそっと押し退けると、席を立ってメレディスの隣に並んだ。
「その話は断らせてもらう」
「アラン──」
「タクシー代」
「えっ?」
「先に帰る」
希佐のコートのポケットにタクシー代を捻じ込んだアランは、呼び止める暇も与えず店を出て行ってしまった。スタジオがある方向へと歩いていく姿をガラス越しに眺めていたメレディスが、まいったね、と小さく声を上げる。
隣を見ると、イライアスはアランのことを気にするふうでもなく、黙々とサラダを食べ続けていた。
アランは自分が見世物になることを極端に嫌っていた。恐れていたと言っても、きっと過言ではないのだろう。それでも、再び人の前に──舞台に立ってみようという挑戦の姿勢を見せたからには、そうした覚悟を決めたのだろうと、そう希佐は思っていた。
「この前のステージが評判だったからですか」口に詰め込んだものを水で流し込んでから、イライアスが静かに言った。「自分の意思で立つのと、人に請われて立つのとでは、心積もりが違うから」
「こういう言い方をすると語弊があるかもしれないけれど、最初の一歩は勢いでどうとでもなる、というのが僕の持論でね」メレディスは苦々しい表情を浮かべながら言った。「重要なのは、その次の一歩をどこへ下ろすか、ではないかな」
「上げた足を下ろす場所を決めるのは、あなたではなく、アラン自身であるべきです。僕は、アランが立ちたいと思ったとき、立ちたいと思った場所に立つのがいいと思う」
「君の言いたいことはよく分かるよ、イライアス。でも、次の一歩は早ければ早いほどいい。考える時間を与えすぎると、一歩目の勢いが失われる。時には、頭で考えるよりも、行動を起こした方がいい場合もあるのではないかな」
「理解することはできます」
「含みのある物言いだね」
「アランの才能を育てたのは確かにあなたかもしれない」でも、とイライアスは続ける。「あなたがやろうとしていることは、自分の子供に夢を託そうとするステージファザーと何も変わらない」
イライアスはメレディスの目をじっと見つめたまま、声を荒らげるわけでも、吐き捨てるわけでもなく、至って冷静な口振りでそう言った。その言葉を投げ掛けられたメレディスは、言葉を失った様子で口を噤んでいる。
希佐は横から口を挟むことは疎か、身じろぎ一つすることもできず、真摯な態度でメレディスと向き合っているイライアスの顔を、正面から見ていることしかできなかった。普段は朴訥としているイライアスだが、自らの意見を臆することなく述べる姿は凛とした精悍さを感じさせ、その美しさにはいつも目を奪われている。
「……すみません、出過ぎたことを言って」
何も言い返してこないメレディスから、つい、と視線を逸らし、イライアスは申し訳なさそうに囁いた。その瞬間、イライアスの顔からは凛とした精悍さが消え去り、普段通りの朴訥さが戻ってくる。
「いや」メレディスは朗らかに微笑みながら首を横に振った。「君の言葉は尤もだよ。いつまでも子供扱いをするのはいけないね」
メレディスはそれからすぐ、店のスタッフに呼ばれて仕事に戻っていった。テーブルには奇妙な沈黙が訪れるが、目の前にいるイライアスが再びサラダを口に運びはじめたのを見て、希佐もフォークに手を伸ばす。そして、しばらくの間言葉も交わさずに、ただ黙々とサラダを食べ続けていると、イライアスが徐に口を開いた。
「僕は典型的なステージマザーに育てられたんだ」イライアスは店内の雑音にかき消されそうな声で言った。「母はロイヤル・バレエ団のバレリーナだった。才能のある人だったけど、プリンシパルに選ばれる直前に僕を孕っていたことが分かって、自らのキャリアを諦めざるを得なくなったんだ。そのときにはもう中絶をすることすらできなくなっていたから」
イライアスはまるで自分のことではなく、どこかにいる誰かの話をするように、淡々と語る。
「僕は物心がつく前からバレエ漬けの生活を送ってた。自宅に小さなスタジオがあって、母はそこで子供たちにバレエを教えていたんだ。僕は毎日そのスタジオの隅で踊ってた。教室にやって来る子供たちには上手く教えられる母だったけど、僕にだけは厳しくて、正しく踊れないと怒鳴られたし、叩かれたりすることもあった」
「うん」
「でも、僕は母が絶対的に正しいと思い込んでいたし、全部あなたのためにやっていることだと言って優しく抱き締められれば、無条件にその言葉を信じたんだ。母が泣いて許しを乞えば、悪いのは僕の方なのだと自分を責めた」
「……バレエは楽しかった?」
「ううん」イライアスは首を横に振った。「僕にとってのバレエは生きる手段だったんだ。呼吸をするのと同じだよ。ただ息を吸って、吐き出すだけ。息を止めると苦しくなって、いずれ死んでしまう。それと同じ。踊ることをやめたら、僕は死んでしまうと思っていた」
それは、母親に殺されると思っていたということか──などとは、口が裂けても訊ねてはいけない。希佐は顔から血の気が引いていくのを感じながら、口を真横に引き結んでいた。
「僕も子供の頃から人前に立つ仕事をさせられてきたから、アランの気持ちは理解できるんだ。大学時代に、アランが僕に声をかけてくれたのも、きっと、僕に自分と似た雰囲気を感じ取ったからなんだと思う。でも、多分僕たちは、最も根本的なところが違ってるんだ」
「根本的なところ?」
「僕には、僕の心を守ってくれる大人がいたから」心を、と言いながら、イライアスは自らの心臓の辺りに触れる。「両親が離婚して、母は色々なことが上手く運ばなくなると、酒と薬に逃げた。それが原因で入院をすることになって、僕はしばらくの間施設で生活をすることになったんだ。でも、母の入院費を支払うためにはお金が必要で、事情を知っているエージェントが、バレエとモデルの仕事を取ってきてくれるから続けていたけど、母が死んでその必要もなくなった」
出会ったばかりの頃、イライアスは自分が舞台評論家や芸能記者たちに、感情のない人形やマネキンと称されていることを、不安そうな顔をして話してくれたことがあった。これだけ踊れる人がなぜと思っていたが、原因はその生まれ育ちにあったのかもしれない。
「十年近く踊り続けてきたのに、それでも終わりは呆気なく訪れるんだなって、そう思ったよ。好きでバレエを続けてきたわけでもないのに、もう二度と踊れなくなるんだと思ったら、途端に自分自身に価値を見出すことができなくなったんだ。踊ることしかしてこなかった自分から、踊ることを取り上げられてしまったら、何も残らないんじゃないかって」
ぎゅ、と胸が締め付けられるような思いがして、希佐は眉を顰めると、イライアスから目を逸らしてしまった。
「でも、何もかもを諦めかけていた僕を、アイリーンの母親が救ってくれたんだ。僕を施設から引き取って、家族として迎え入れてくれた。僕の人間としての尊厳を守ってくれた人だよ。実の娘に与える愛情と同じものを、僕にも与えてくれた。彼女はこんな僕を愛してくれたんだ」
アランとイライアスの境遇はどことなく似通っている。だがしかし、二人を別つ根音的な違いは、恐らくそこにあるのだろう。
新しい家族に快く迎え入れられたイライアスは、その場所を安住の地とすることができた。でも、アランは違う。施設から引き取られた先の家では、愛情を受けることなく子供時代を過ごしてきた。
「メレディスはアランのために、あらゆる労力を費やしていたのだとは思う。でも、それはアランの才能を伸ばすための努力であって、彼の心を守るための労力ではなかったんじゃないかな。メレディスはアランの家族ではないし、できることには限りがあった。だけど、メレディスは劇団を辞めると言ったアランの意思を、一度は受け入れたんだ。だから、今度は間違えない。きっと」
「イライアスは、舞台に立っているアランをまた見たいと思う?」
「それは」イライアスは逡巡するように視線を彷徨わせてから、小さく息を吐いた。「見たいよ。でも、無理強いをするのは良くない。アランが自分の意志で立ちたいと思えなければ、また苦痛を強いるだけだから」
「ねえ、イライアス」
「ん?」
「私はチャリティーに参加したい」そう言った希佐の顔を、イライアスは黙って見つめていた。「私はイギリスに来てからたくさんの人に助けられてきた。でも、その恩返しを何一つできていなかったなって、そう思ったんだ。私はお金持ちではないし、やれることにも限りがある。だから、この三年の間にカオスで学んだことを椀飯振る舞いして、それを見て楽しんでくれた人がお財布を出してくれたら、少しは誰かの役に立てるのかなって」
「キサ……」
「こういうのを偽善っていうのかな」
「違う」イライアスはそう言って首を横に振る。「違うよ、キサ」
前にアランが話してくれた。施設にいた頃、駅前に箱を抱えた子供たちを立たせ、寄付金を募る活動を、月に一度行っていたと。
『俺はこんな顔だから、毎度シスターの横に立たされて、客引きに使われてた。見目が良い子供がいるとそれだけで人が寄ってくるんだ。まあ、見ての通り赤毛で青白い顔をしているから、暴言を吐かれることも結構あったけど』
それは嫌悪感も抱くだろう。チャリティーに対して懐疑的になり、そうしたイベントに集まる人々を、偽善者と罵りたくもなるはずだ。好奇の目に晒され、時には罵られて、小さな心は傷だらけになってしまった。その傷は今もまだ癒えることなく、じくじくとした膿を生んでいる。
食事を終えた二人は、混雑している店内にいつまでも居座るのは良くないと、テーブル席を明け渡した。前にここのスタッフから聞いた話によると、ステージ脇にあるテーブル席はカオスファンに人気らしく、わざわざ席代を払ってまで予約をしたがる客もいるのだそうだ。
希佐は、帰る前にメレディスに挨拶をしようと店内を見回すが、その姿はどこにも見当たらない。仕方なく、馴染みのスタッフに帰ることを告げ、そのまま店を後にした。
歩道に出たところでポケットに手を入れると、希佐はアランがタクシー代だと言って押し付けてきた紙幣を、イライアスに差し出す。
「これ使って」
「キサはどうするの?」
「私は歩いて帰れるから」
「夜道は危ないよ」イライアスはタクシー代を受け取らずに、スタジオの方に足を向けた。「スタジオまで送る」
「えっ、大丈夫だよ、イライアス」
「だめ」
そう言って先を歩き出したイライアスの後ろを、希佐は慌てて追い掛ける。少し行った先で足を止めていたイライアスは、希佐が隣に並ぶと、歩調を合わせて歩いてくれた。
「メレディスにはあんなふうに言ったけど」隣を歩きながら、イライアスがそう切り出した。「アランが次に立つ舞台として、あのチャリティーイベントは条件の良い場所なんだ」
「うん」
「ヘスティアのチャリティーイベントは幕が開くまで誰が出演するのか分からない。事前にアランの名前が発表されれば、余計な注目を浴びて、それこそただの見世物になる可能性がある。少なくともそれは回避することができるし、一人ずつに分け与えられる出演時間も限られているから、精神的にも楽なはずなんだけど……」
「どうしたらいいんだろうね」言い淀むイライアスの言葉の合間に、希佐はそう呟いた。「本当に、どうしたらいいんだろう」
ヘスティアのステージで歌ったあの日から、アランは人の目から隠れることをしなくなった。着々と稽古も積んでいる。だが、希佐の目にはどういうわけか、アラン自身がそれだけで満足しているようにも見えるのだ。だから、メレディスが危惧する気持ちも、分からないわけではない。
「バージルは今年も出演するのかな」
「分からない」イライアスは小さく肩をすくめる。「今年に入ってからずっと忙しそうだから」
だが、たとえバージルに相談してみたところで、放っておけ、無理強いをするな、本人の意思を尊重しろと言われ、釘を刺されることは目に見えている。それに、バージルは以前から無償で子供たちにダンスを教え、時には自ら進んでチャリティーイベントに参加するような人だ。嫌々参加させるようなことは絶対に許さないに違いない。
「送ってくれてありがとう」
希佐がタクシーを呼ぶかと問うと、イライアスは首を横に振って、走って帰るからと言った。
「僕は、キサの気持ちは偽善なんかじゃないと思う」帰り際、イライアスが励ますように、そう言ってくれた。「アランに思うところがあるなら、話しておいた方がいい。キサの話ならアランも聞いてくれるよ」
何かあったら連絡してと言い残し、イライアスは軽く筋を伸ばしてから、おやすみと言って颯爽と走り去っていった。
ため息を一つ吐き、振り返ったスタジオの窓からは、明かりと音楽が外に漏れていた。この壁一枚を隔てた向こう側では、アランが踊っているのだろう。
一度は鍵を取り出しかけるが、アランの稽古の邪魔をするのが申し訳なく、希佐はその鍵をバッグの内ポケットに戻す。外壁を背にして立ち、星の見えない真っ暗な空を意味もなく眺めて、時間を潰すことにした。
あともう半歩、今まさに上げている足を、下ろすだけでいい。それできっと覚悟が決まる。
だがしかし、メレディスが言っていたように、たったそれだけのことが想像以上に難しいことを、希佐は知っていた。
ユニヴェールを逃げ出した後の、空白の二年。そのブランクは希佐にとって酷く重いものだった。
劇団カオスに加入し、公演までの二ヶ月という短い期間の内に、舞台に立つための勘と体力を取り戻すことができたかといえば、答えは否だ。一歩間違えれば、あの公演は惨憺たる結果になっていたという確信が、希佐にはある。『God Only Knows』は、たった一度きりの公演だったからこそ、成功したようなものだ。明日、体が動かなくなっても構わないという覚悟の上で、希佐は舞台に立った。
本当は怖かったのだ。自分が失敗すれば、これまでの努力が水の泡になってしまう。すべてを台無しにしてしまう。迷惑をかけるなどという言葉では足りない。劇団カオスの看板を汚すことにもなる。公演準備期間は、常にその恐怖と闘っていた。
当時、ユニヴェールにいた頃の自信は、すっかり失われていた。あれは、不安な感情を押し潰すほどの膨大な時間を、稽古に費やしてきたからこその自信だったのだ。二年の空白は、想像以上に多くのものを、希佐から奪っていた。
アラン・ジンデルのブランクは更に長い。ヘスティアのステージで歌う前、アランは微かに震える体で希佐を抱き寄せ、怖いのだと言った。次のステージに立つとき、アランはそれ以上の恐怖を覚えることになるのかもしれない。
メレディスの言う通り、一歩目は勢いだ。だがしかし、二歩目は違う。足裏に感じる舞台の床面、じっとりと湿り気を帯びる手の平、背中を伝い落ちる汗、体に突き刺さる値踏みをするような客席からの視線、熱いくらいのスポットライト、客席から漂ってくる鳥肌が立つような冷気──否応無しに思い出される過去の記憶が、アランを苦しめることになるのかもしれない。
もし『God Only Knows』を再演するとしたら、あの頃よりも上手く演じることができるだろう。だが、あのときほどの感動を生み出せるかと言われれば、その自信はない。舞台は生き物だ。その時々によって色を変え、形を変える。だからこそ、面白い。
舞台上で演じるという行為は、身を削り、心を削り、命をも削る。
だが、舞台人たちは、精神的な重圧や、体を萎縮させるような恐怖心と戦いながら、それでも舞台の真ん中に立ちたいと願い、渇望してしまう。まるで、それが自らに課せられた宿命なのだと、そう感じてしまうくらいには魅入られている。
舞台に立つ目的は人それぞれだ。自らを表現したい者、舞台を通じて伝えたいことがある者、純粋に観衆を楽しませたい者──だが、そのどれにも当てはまらない者もいる。恐らくは、自分やイライアス、バージルたちも、それ以外の生き方を知らないからこそ、こうして舞台に立っているのだろうと、希佐は思うのだ。
しかし、アラン・ジンデルは違う。
脚本家としての自らの地位を不動のものとしているアランにとって、舞台に立つということは、今あるものを投げ打ってまで再挑戦したいと思うほど、魅力的ではないのかもしれない。自らが書いた脚本を演出し、カオスの仲間たちと一緒に、自由に楽しく舞台に立つことができれば、それで満足なのかもしれない。
1時間近くそうしていただろうか。希佐が壁を背にしたまま、その場にしゃがみ込んでいると、すぐ隣にあるスタジオの扉が開かれた。アランは夜風で涼むために外へ出てきたのだろうが、そこにいる希佐の姿を目の当たりにした途端、あからさまに眉を顰めた。
「何してるの」
「邪魔をしたくなくて」
「邪魔なんて──」アランは口にしかけた言葉を飲み込むと、希佐のために大きく扉を開いた。「入って」
希佐はアランが差し出した手を掴み、引っ張り上げられるようにして立ち上がった。その手は驚くほどに熱く、傍に寄るだけで体の熱を感じる。着ているTシャツは流れ出る汗を吸い上げて、僅かに色を濃くさせていた。
反対に、アランは自らが掴んだ手が冷え切っているのを感じると、希佐の体をスタジオに押し込み、自らもその後に続いた。
「いつから外に?」
「少しだけだよ」
「いつから」
「……1時間くらい」
ぽたり、ぽたり、と髪の毛先から汗が滴り落ちる様子をぼんやりと眺めていると、アランはこれみよがしにため息を吐いた。
「風呂の支度はしてあるから、風邪を引く前に温まってきたら?」
「アランは?」
「俺はクールダウンがまだだから」
「それが終わるまで」希佐は昼間よりも濃く見える緑の目を見上げながら言う。「ここにいてもいい?」
アランは再び口を開きかけるが、何を言っても無駄だと察したのだろう、いいよ、とだけ言うと、扉に鍵を掛けてから踵を返す。
希佐はアランから少し離れた場所で膝を抱えるようにして座り、長い手足をゆっくりと伸ばしながら、慣れた様子でストレッチをしている姿をじっと眺めていた。
ここ最近活動的になったとはいえ、希佐が普段見ているアランの姿はといえば、椅子に座って仕事をしているか、キッチンに立っているか、横になっているかのどれかだ。
だからだろう、こうして体を動かしている姿を目の当たりにすると、それを新鮮に感じると同時に、妙な違和感を覚えてしまう。
「──」
体がやわらかい。違和感の正体はそれだった。長いブランクがあったとは思えないほど、その体はあまりにやわらかく、しなやかだった。この三年間、希佐はアランがちょっとしたストレッチをしている姿すら、見たことがないというのに。
「何か面白い?」
「うん」
「そう」
呆れたようにそう言いながら、アランは両足を真横に開脚した状態で、上半身を前方に倒した。呼吸をする度に、背中がゆっくりと上下する。
「アラン」
「ん」
本当は、誰にも知られることなく、ひっそりと、稽古を続けていたのではないか──そう問いかけてみようとして、寸前のところで踏み留まる。たとえそうであったとしても、他者に責められるようなことではない。
しかし、一向に何も言おうとしない希佐から何かを感じ取ったのか、アランは倒していた体を起こすと、鏡越しに希佐を見た。
「軽いストレッチは続けてたよ」そして、まるで希佐の心を見透かしたようなことを言う。「気晴らしに踊ることもあった」
「そうだったんだ」
「煙草と薬はやらなかった。でも、体力は明らかに落ちてるし、体は思うように動かない。年末より大分ましにはなってきてるけど」
「イライアスと踊ることもあるって」
「ああ、うん」アランは少しだけばつが悪そうな顔をする。「根気良く付き合ってくれてる」
「ルイは?」
「あいつはニヤニヤしながら眺めてるだけ」
「え?」
「君の分の授業料はもらってないから口は出さないって。だったら見物料を払えと言ったら、人様に見せられるような代物になってから物を言えと言われた。尤もすぎて返す言葉もないよ」
アランはそのように話しながらストレッチを続けている。体には少しの強張りもなく、酷くリラックスしているように見えた。自分に見られることに対しては何の嫌悪感もないのだと分かり、希佐は思わず安堵する。
それに、イライアスは言った。アランが次に立つ舞台として、あのチャリティーイベントは条件の良い場所なのだと。歌うにせよ、踊るにせよ、何かを演じるにせよ、準備が整っていない人間を指して、あのイライアスがそのような物言いをするはずがない。
『ぼくに言わせれば、君たちは人の才能には酷く敏感なのに、自分の才能には恐ろしく鈍感すぎる』希佐は、アランがヘスティアで歌ったあの夜に、ジョシュアが言っていたことを思い出していた。『それに、自らに課す理想も高すぎるんだ。まあ、その理想を実現させられるだけの能力がある分、余計に面倒臭いんだけど』
ジョシュアはアラン・ジンデルの才能を誰よりも信じているように見えた。同世代で、同時期に別々の劇団で活躍しながら、互いを意識していた間柄だからこその信頼関係が、二人の間にはある。
そんな人が、このように話していたのだ。
『君の場合も、彼の場合も、誰かが優しく手を引いてやるなんて方法じゃ、いつまで経っても気づかないと思った。だから、多少の荒療治が必要だったんだよ。でも、もしこれでも駄目なら、彼に先はないだろうね』
確かに、時には荒療治も必要だ。しかし、本人の意思だったとはいえ、あのやりようは少々乱暴だったようにも感じられる。本当なら、もっと準備期間が必要だったのではないかと考えてしまうが、きっと、そうして悠長に構えていられる余裕がないほどに、アランは追い詰められていたのかもしれないとも思うのだ。
希佐には、アラン・ジンデルを置いていく覚悟があった。もし自分の歌が届かなければ、もう金輪際、あの人を救おうなどとは思わないと、そう心に誓った。
だが、アランは追いかけてきてくれたのだ。希佐の歌声に応え、それ以上の熱量を正面からぶつけてきてくれた。
俺を見て、君が悔しがるくらいじゃないと、釣り合いが取れない──ならば、その逆もまた然りなのではないか。今の希佐を見て、アラン・ジンデルが悔しがるような何かを披露することができれば、その冷え切ったやる気に火をつけられるのではないか。
「何を考えてるの」
クールダウンを終えたアランと一緒にバスタブに浸かり、希佐が物思いに耽っていると、後ろからそのような声が掛けられた。背後から伸びてきた両手が希佐の肩を掴み、そのまま引き寄せられる。以前よりも筋肉質になった胸に寄り掛かる格好になった希佐は、何一つ抵抗せずに自らの体を委ね、肩口に頭を預けてその顔を見上げた。
「アランのこと」
「へえ」
「私、怖いんだ」希佐がそう言うと、アランは僅かに目を丸くする。「あなたが踊っている姿を見るのが」
「なんで」
「うーん」
小さく唸り、言葉を探しながら首のネックレスに触れていると、アランはその手を取り上げ、指先に唇を落とした。言葉はなかったが、急がなくていいと、そう言ってくれているような気がした。
「ブランクについての考え方は人それぞれだと思うのだけれど」
「うん」
「私は、日本を出てからの二年間、ほとんど何もしてこなかった。もちろん、アランみたいに体を動かすことは続けていたけれど、ユニヴェールにいた頃のような稽古はしていなかったから、体を思うように動かすことはできなかった」でもね、と希佐は言う。「何もできなかった二年分のエネルギーが、体に蓄積されていることだけは感じていた。そのエネルギーが起爆剤になっていたんだって、今は思うの」
十年近いブランクをどのように考えるかは人それぞれだ。全盛期のような活躍をすることは不可能だと言う者も、中にはいるのだろう。だが、そんな言葉に耳を傾ける必要はない。今、目を向けるべきは過去ではなく、未来なのだから。
「アランは自分には十年近いブランクがあるって悲観的に考えているのかもしれない。だけど、それだけのエネルギーを溜め込んでいるんだって思ったら、私は怖くなった」
自分が『God Only Knows』のラストダンスで二年分のエネルギーを出し切ったときのように、アランが十年近くも蓄えてきた才能を大爆発させたとしたら。
「ヘスティアでアランの歌声を聞いたとき、体の震えが止まらなかった。前にも言ったでしょう? 私はあなたという人のことを、何も知らなかったんだって、そう思い知らされた。でも、こうしてあなたを知れば知るほど、それ自体は嬉しいことのはずなのに、怖さが増していく。あなたに殺されることを望んだのは私自身なのに、私には本当にその価値があるのかどうか、分からなくなる」
馬鹿馬鹿しいと一蹴されることを覚悟しての言葉だったが、アランはそうすることをせず、希佐の襟足に唇を押し当ててから、後ろから体を包み込むようにして抱き締めてくれた。
「疾うに覚悟は決めてる」
「覚悟?」
「俺の才能で君を殺す」
その言葉が上辺だけのものではなく、本心から語られている言葉かどうかは、アラン・ジンデル自身にしか分からない。だが、希佐はその言葉を信じようと思った。信じる他にない。未練を残したままこの世界で生き続けていくより、その才能で優しく首を絞め落とされ、息の根を止められたいと思う。
だが、何もせずに屈服するつもりもなかった。この人の才能に殺されるためには、自らの価値を証明し続けなければならないことを、希佐は知っている。そうする価値のない人間を殺してくれるほど、アラン・ジンデルはお人好しではないだろう。
希佐が僅かに身を捩ると、この体を包み込んでいた両腕の力が緩んだ。体を反転させて正面から向き合えば、強い意志を感じさせる眼差しが真っ直ぐに注がれる。
「I wanna dance with you.」
あなたと踊りたい──緑の目を一直線に見つめ、そのように言う希佐を見やったまま、アランは目を細めた。
「Still──」
「How long?」
「Kisa」
「Allan」希佐は語気を強めるでもなく、静かな口振りで言った。「I can't wait that long anymore.」
覚悟を決めたと言うのなら、この挑戦を受けて立つべきだ。
「I challenge you with the intention of killing you too.」
何かを残していきたいのだ。自分がいなくなったあとでも、この人が舞台に立ち続ける、確かな理由を。
この美しい緑の目に宿った星の煌めきのような光が、失われることがありませんように。その覚悟が、一年先も、五年先も、十年先も折れることなく続きますように。
希佐はそう祈りながら、目の前にある骨張った首に、両方の手の平をそっと這わせた。
月曜日の夕暮れ時、希佐とイライアス、本国から帰国したルイの三人は、スタジオの中央で膝を突き合わせて座り、床に置いたスケッチブックを揃って覗き込んでいた。
『イライアス、君はもっと遊び心を持った方がいいね』週末を使ってダンスの構想を練り、振り付けまでしっかりと考えてきてくれたイライアスに向かって、ルイはそう言い放った。『君の振り付けには隙がないんだ。舞台はチャリティーイベントだよ。ダンスの構成を芸術性に全振りをすると、観客を退屈させることにもなりかねない』
「……」
『選曲も良くないな。観客が求めているのは芸術性よりもエンターテイメント性だからね、クラシックは避けて通るべきだ。酔っ払いどもの子守唄代わりにされたくはないだろう?』
酷い言われように憤懣遣る方ないというふうなイライアスの顔を見て、ルイは愉快そうに声を上げて笑った。
『とはいえ君の構成が悪いと言っているわけではない。そちらはまた別の機会に挑戦してみるとしよう』
『……分かりました』到底納得などし得ないという面持ちを浮かべつつも、イライアスは言う。『明日までに考え直してきます』
『ああ、いや、今ここで考えてしまおうか』ルイは腕時計に目をやりながら言った。『だが、その前に電話を一本掛けてくるから、少し待っていてくれるかな』
スマートフォンを片手にスタジオの外に出て行く背中を見やってから、希佐とイライアスは顔を見合わせる。
「何の話をしていたか分かった?」
「うん、大体は」
希佐はそう言って頷くが、イライアスはルイが戻って来るまでの間に、今までの会話を掻い摘んで説明してくれた。
土曜日、バスルームを出てすぐに、髪も乾かさず自分の部屋に戻った希佐は、パジャマの上にカーディガンを羽織りながらスマートフォンを手に取った。すぐさまアプリを立ち上げ、何かあったら連絡するように言ってくれたイライアス宛てに、メッセージを送る。
《アランと一緒に踊りたい。だから、手伝ってほしい》
数分と経たず送られてきた返事は、分かった、という簡潔なものだった。
《明日、外で会おう》
指定された場所に約束の時間よりも十五分早く到着すると、そこには既にイライアスの姿があった。
そこは、星付きホテルのラウンジの一角にあるカフェだった。窓際の席に座り、目隠しに植えられている木々の隙間から差し込む日の光を浴びて、イライアスはプラチナブロンドの髪を星の光のように輝かせていた。
挨拶をしてくれたスタッフに、待ち合わせだと告げてイライアスの方を見ると、お聞きしておりますと言って中へ通してくれる。
「イライアス」希佐がそう声を掛けるより早く、足音に気づいたらしいイライアスが顔を上げた。「ごめんね、お待たせして」
「まだ約束の時間じゃない」
「でも、待たせてしまったみたいだから」
希佐は着ていたコートを脱ぐと、たっぷりとした余裕のある一人掛けのソファに浅く腰をかけた。軽く畳んだコートとクラッチバッグを背凭れとの間に置き、姿勢を正して座り直す。正面に体を向けると、イライアスがそんな希佐のことを、じっと眺めていた。
「何か変かな」
星付きホテルなど自分一人だけでは到底足を運ぶ機会などない。ダイアナとのディナーを最後に、こうした格式のある場所を訪れることはなかった。今日はドレスコードを気にする必要はないのだが、そこはイギリス、滅多な格好をしてラウンジのカフェに足を踏み入れることはできない。
「ううん」希佐の問いに、イライアスは温和な表情を浮かべ、首を横に振った。「素敵だよ」
「ありがとう」
希佐が着ていた濃いネイビーの膝丈のワンピースは、ダイアナのブランドのものだ。他所行きの服を探して店を訪れたとき、対応してくれた店員に見立ててもらい、自分で購入した。ダイアナは希佐が自分のブランドの服を着て現れると、素敵なサプライズね、と言って喜んでくれる。
「ここへはよく来るの?」
「うん」イライアスは小さく頷いた。「ホテルの支配人が知り合いで──僕のというよりは、アイリーンのだけど。昔から良く連れて来られていたから、気兼ねがないし、他所よりは視線も気にならない。パパラッチも入ってこられないし」
店員が注文を取りに現れたので、希佐はメニューの中から春摘みのダージリンを指す。イライアスはメニューも見ずにセイロンを注文すると、店員が去るのを待って、傍のスケッチブックを手に取った。
「見て、いろいろ考えてきたんだ」
イライアスはそう言うと、広いテーブルの上にスケッチブックを置いた。無地の紙には几帳面そうな、どこか女性っぽい印象を与える文字が、ほとんど空白もなくびっしりと書き込まれている。
「アランは元々が踊れる人だから、人よりも掲げる理想が高くなりやすい傾向があるんだ」
「ということは……」
「今の状態でもかなり踊れてるよ。本人はそれを認めたがらないけど」
イライアスは人が近づいてくる気配を感じ取ると、すぐさまスケッチブックを片付けた。テーブルの上には有名なブランドの花柄のポットとカップが並べられ、注文してもいない豪勢なティースタンドが運ばれてくる。三段に分かれたティースタンドには、各段にサンドイッチやスコーン、ケーキなどが宝石を飾るように置かれていた。
途端に眉を顰めたイライアスを見て、店員は困ったように苦笑いを浮かべる。
「支配人からです」
店員はそう言うとイライアスに一枚の紙を差し出し、軽く会釈をして引き上げていった。そこに記されていた何かを一瞥したイライアスは、大きく息を吐き出すと、希佐の方に目を向ける。
「女性をおもてなしするには何かが足りないんじゃないかって」
「支配人さん?」
「うん」イライアスは丁寧に折り畳んだ紙をポケットにしまった。「良かったら食べて」
「それじゃあ、せっかくだからお言葉に甘えて」
希佐がカップに紅茶を注ぎ、ティースタンドからサンドイッチを取り分けている様子を、イライアスはどこか申しわけなさそうに見ている。サンドイッチを一口食べて美味しいよと言うと、少しだけほっとしたような表情を浮かべていた。
「話を戻すけど」小さく咳払いをしてから、イライアスは話の先を続けた。「昔みたいに踊れるようになるまで、なんて言っていたら、もう二度と舞台には立てないと思うんだ。疾うに全盛期は過ぎてる」
イライアスはアランのことをよく見ている。その上、人の才能を適格に見極めることのできるイライアスが言うのだから、まず間違いはないのだろう。
「そうか」全盛期、と希佐は思う。「そうだよね」
「ずっと第一線で踊り続けているバージルのような人の方が稀なんだよ。未だに二十代の頃の体型と体力をキープしてる。あれは並大抵の努力じゃない。少なからず故障はあるだろうけど、長く踊っていれば、そういう部分は誰にでもあるものだから」
「……やっぱり、新しい形を作っていくしかないんだね」
「うん」イライアスは、希佐が頼んだものよりも濃い色の紅茶をカップに注ぐと、それを口に運んで喉を潤した。「アランは自分のために舞台に立つタイプの役者だった。周囲の人間はそれを承知の上で、アランがより際立つような舞台作りをしているように見えたよ。そもそも、そこにいるだけで存在感のある人だから、脇に置いておくこともできない」
さぞかし華のある舞台人だったのだろうと、希佐は思う。以前ジョシュアに見せてもらった舞台映像に、その姿は映し出されていなかった。だが、もしそれを目の当たりにしたら、どんなにか悔しい思いをすることになるのだろうと、恐ろしくもあるのだ。もしかしたら、怒りの感情すら覚えるのかもしれない。
「キサとは真逆のタイプの舞台人だよ、アランは」
「え?」
「君は誰かのために舞台に立つ。誰かのために歌い、誰かのために踊る。そういう人だっていうことは、最初から分かってた。君はカオスに来てからずっと、アランのために舞台に立ち続けていたよね」
「あ、あの、えっと……」
「キサは最後の舞台までアランのために立とうとしているの?」
希佐は思いも寄らなかった言葉を突きつけられて、そのまま言葉を失ってしまった。大きく目を見開いていると、イライアスは希佐の返事を待たずに先を続けた。
「ごめんね。今回のオーディションを受けるときに、君がこれを最後に舞台を降りるつもりだって、アランから聞いていたんだ」
「……そう」
「あのオーディションを受けてからキサは少し変わった」イライアスは希佐の目を真っ直ぐに見つめたまま言う。「以前までは受け身でいることの方が多かったのに、オーディションを勝ち進んでいくん連れて、攻めの姿勢が強くなっていくみたいだった。それはきっと、これが最後だっていう覚悟があったからなんだ」
公演の準備期間中はいつも隣にいて、共に過ごす時間が誰よりも長い相手だったからこそ、思っていることは常に筒抜けなのかもしれないと、希佐は思った。
「その覚悟があれば、アランを動かすことはできると思う」明日、ルイがフランスから帰ってきたら相談してみようと、イライアスは言った。「僕も、アランとキサが一緒に踊っているところを見てみたい。だから、僕にできることなら何でも手伝うよ」
そう言ってくれたイライアスのスケッチブックを眺めて、ルイはそれを一蹴したのだ。それは膨れ面を浮かべたくもなるだろう。
どれも素敵な構想だったのにと希佐が思っていると、イライアスはスケッチブックの新しいページを開き、先の丸まった鉛筆を走らせはじめた。その横顔は踊っているときと同様に真剣そのもので、声を掛けることも憚られる。
「なにしてるの」
鏡に映る人影を目の端に捉えた希佐は、後ろを振り返る。余所行きの格好をして事務室から出てきたアランは、腕時計を巻きながらそう声を上げた。
「悪巧みです」
「へえ」スケッチブックに鉛筆を走らせながら応じるイライアスを見て、アランは僅かに眉を持ち上げた。「それは楽しそうだ」
少しも楽しそうだとは思っていない口振りで言うアランを見上げ、希佐は小首を傾げる。
「どこかに出掛けるの?」
「レオのところ。夜更け前には帰るよ」
映画の脚本を頼まれていると言っていたので、その話をしに行くのかもしれない。俺にはもう斜陽の雲以上の作品は書けない──そう言ったときの、アランの横顔が脳裏に蘇る。
「悪巧みもほどほどにな」
アランは希佐とイライアスの頭をとんとんと順番に撫でてから、スタジオを出ていった。入れ替わりに戻ってきたルイは、スケッチブックに覆い被さっているイライアスを一瞥してから、希佐に目を向けた。
『今からスペンサーが来るよ』
『え、今からですか?』
『チャリティーイベントに出演するならカンパニーの許可が必要だろう? それに、彼も君たち二人に話があるそうだよ』
『でも、お忙しいのでは……』
『彼は忙しいのが好きなんだ』
現行の舞台を抱えながら、次の舞台のために奔走し、メディア関係のインタビューなどに応じている姿を目の当たりにしているので、いつか体を壊してしまうのではないかと、希佐はいつも心配していた。
その思いを当人に告げると、スペンサーは酷く驚いたような顔をしてから、にこりと機嫌良く笑った。
「君は本当に誰にでも優しいんだね。ありがとう、私の心配までしてくれて。でも、私はこうして忙しくしている方が性に合っているんだよ。その方が、余計なことを考えずに済むからね」
この世界の住人は誰にでもどこか常軌を逸している部分がある。特に、多くの者は休息を嫌い、常に体を動かしていなければ落ち着かない。何もしていない時間が恐ろしく、自らの体が衰えていくような錯覚を覚えるのだ。
毎日、自分の体は昨日と同じように動くのかが不安で、明日の自分は今日の自分より少しでも成長しているのだろうかと思いながら、今日も狂ったように歌い、踊り続ける。
『さあ、スペンサーが来るまでまだ少し時間がある』口を噤み、物思いに耽っていた希佐を見て、ルイが言った。『まずはコンセプトを決めてしまおう』
その場に屈んだルイは、イライアスの手元にあるスケッチブックを覗き込み、うーん、と唸り声を上げる。
『どうも君の振り付けはコンテンポラリーに偏るね』
『得意分野なので』
『せっかくだから苦手分野にも手を伸ばしてみたらどう? ほら、ポップ・ミュージックで踊ってみるとか』
「ポップ……」
『君がポップスで踊るなんて、意外性があって面白いと思うけどね。それに、チャリティーではいかにして観客を楽しませるかが重要なポイントだよ。難解なコンテンポラリーダンスを踊るより、解釈が簡単なポップ・ミュージックで踊る方が、観客も身構えずに目の前のエンターテイメントを楽しむことができる。もっと簡単に言えば、大人も子供も楽しめる内容でなくてはいけない』
ルイはそこまで言ってから、そういえば、と希佐に目を向けた。
『キサはポップスの振り付け経験があったね?』
『はい』Oui.と言って、希佐は頷く。『バージルのお手伝いで、少しだけですが』
『じゃあ、今度は二人で一緒に考えてごらん』その場に立ち上がったルイは、自分の荷物がある方に向かって歩きながら、ひらりと手を振った。『まずは選曲からだよ』
そうだ、手伝ってほしいと頼んだからには、自分はイライアス以上の労力を費やさなくてはならない。助けてもらってばかりでは駄目だと自らを叱咤し、希佐はイライアスに向き合った。
「イライアスはポップスを聞いたりする?」
「最近の曲はあまり知らない」イライアスは困ったような顔をして首を横に振った。「アイリーンが好きな曲はよく聞かされてた」
「そっか」希佐も流行りの曲には疎い方だ。だが、アイリーンが好きな歌の傾向はよく知っている。「まず、女性を主体にするか、男性を主体にするかで選曲が変わってくると思うんだ」
「僕はキサを目立たせたい」スマートフォンを操作し、動画共有サイトで音楽を探している希佐を見つめ、イライアスが言った。「あの人を釣り上げるには、そうした方がいい」
「必ずしもそうとはかぎらないよ。私とイライアスが踊っていると、アランはイライアスを見ていることの方が多いくらいだし」
でも、だけど、それなら──過剰に熱くなることはないが、互いの言い分は常に平行線を辿り、では自分が妥協して相手の意見に合わせようという姿勢は、残念ながら見られない。そうして議論を続けている間にも、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
「アランはイライアスのダンスが好きなんだよ」
「そうじゃない」希佐の言葉に、イライアスはまた首を横に振る。「アランは僕のダンスに不満があるんだ」
「どうしてそんなふうに思ってしまうの?」
「それは──」
こうした堂々巡りが続く中、ルイは少し離れた場所でパイプ椅子に腰を下ろし、黙って様子を見守っていてくれる。しかし、スタジオ内に来客を知らせるブザーが鳴り響くと、すっくと立ち上がった。
『どうぞ、話し合いを続けて』
そう言ったルイに出迎えられたのは、他ならぬスペンサー・ロローだった。スペンサーはルイと幾つか言葉を交わしたあと、スタジオの中央に座り込んで議論を重ねている二人を見やった。
『もう二時間近くずっとあの調子なんだ』
『あの二人ではいつまで経っても答えは出ないよ』
愉快そうなルイとは対照的に、スペンサーはどこかうんざりしたような顔付きだ。その声を聞いた希佐とイライアスは口を閉じ、互いに顔を見合わせる。だが確かに、このままでは明日の朝日が昇っても、最適解は見つからないような気がしていた。
スペンサーは希佐たちの傍までやって来ると、二人に立ち上がるように言った。
「君たちの強みはそうして互いを尊重し合えるところだ」だが、とスペンサーは言う。「同時に、それが弱みでもある。時には譲り合いも必要だが、互いに遠慮がある現状では、更なる高みを目指すことは難しい」
「は、い……」
明らかにいつもとは違った雰囲気を感じ取り、希佐は気圧されそうになりながら、それでもかろうじて返事をした。以前、セント・パンクラス駅でDefying Gravityを歌った映像が拡散されたときとはまた別の、威圧的な眼差しが向けられている。
「何をするにもまずは許可を、と言ったはずだよ」
「すみません、スペンサーさん。これは私が──」
希佐がそう言いかけるのを、スペンサーは手の平を向けて制した。
「君たち二人でのチャリティーへの参加は認められない」
おやおや、と言うルイの声が聞こえてくる。イライアスはそちらを一瞥してから、スペンサーに視線を戻した。
「それはどうしてですか」
「君になら分かるだろう?」
「……公演前に僕とキサのダンスを表に出したくないから、ですか」
「まあ、半分はそうだ。あのチャリティーには例の如く舞台関係者がこぞって押し寄せてくる。一種の社交場にもなっているからね。驚きは本番まで取っておきたいのと、未完成な君たちを目の肥えた観客の目に晒すのは、宣伝とは真逆の効果を生む可能性がある以上、許可することはできないと判断された」
「でも──」
「これは決定事項だよ、イライアス。プロデューサーとも話し合ってきた結果だ」
「単独で出演することもできませんか? 劇団カオスとしては?」
「君たちは我々のカンパニーと独占的な契約を結んでいる。カンパニーの許可が下りない以上、チャリティーだろうがなんだろうが、公の舞台に出演することは許されない」
『これは穏やかじゃなくなってきたね』黙って話を聞いていたルイが、努めて明るくそう口にする。『どうしてまたそんな締め付けを?』
『プロデューサーのご意向っていうやつさ』
『マダム・ルーが何か言っているの?』
『いや』
『ああ、そっちの』
何やら訳知り顔で頷いたルイは、自分には関係のない話デス、と片言の英語で漏らし、再びパイプ椅子に戻っていった。
何らかの問題を抱えているようだとは思うものの、それについて口を出せる雰囲気でもなく、希佐は口を噤んでいることしかできない。隣に立つイライアスを横目で見やれば、あからさまに不満だという表情を隠そうともせず、スペンサーの顔をじっと睨んでいた。
「何か言いたいことでも?」
「いいえ」
「そうは見えないな」
「では、僕が今思っていることだけ」半ば物を言わせたがっているような口振りのスペンサーに対して、イライアスは冷ややかな声音でそう切り出す。「キサは人の目で磨かれてこそ美しく輝く舞台人です。僕がキサと踊れないのは別に構わない。でも、彼女からその機会を奪い取るのは、得策ではないと思います。あなたは演出家なのに、劇団カオスのキサという役者を正しく演出できていない」
「私の演出方法にまで口を出すのかい?」
「演出家に口答えをすることも契約違反ですか」ひくり、とスペンサーの頬が引き攣るのを、希佐は見た。「僕たちはあなたの言うことを聞いて日々稽古に励んでいます。何の見通しも立っていない、目的地も見えない霧の中を道標もなく進んでいるのに、あなたは抑圧するようなことを平気で言う。独占契約は飼い殺しという意味ではないのでは」
恐ろしく険悪な雰囲気が漂っていても、ルイは助け舟を出すどころか、話を聞いているのかも分からない様子で手元のスマートフォンを操作している。
心の中は、これ以上ないくらいに膨張した風船を抱え、右往左往しているような気分だった。我の強い者の集まりの中で、仲裁の役割を果たしてくれる人が誰もいない。
まるで火に油を注ぐようだと思いながら、それでも何とかイライアスを黙らせた方がいいと、希佐は頭をフル回転させて打開策を探していた。やんわりと、穏便に、この場を収めたいのだ。
二人の睨み合いが続く中、それでも希佐が口火を切れずにいると、スタジオの扉が開かれる。現れたのは、二時間ほど前にレオナール・ゴダンのところに行くと言って出ていった、アラン・ジンデルだった。
希佐が内心でホッと安堵の息を吐いていると、スタジオ内の異常な雰囲気を感じ取ったらしいアランは、後ろ手に扉を閉めながら辺りをぐるりと見回した。
「もう少し外で時間を潰してきた方がよかったか」
「Sir.レオナールのところに行っていたのでは?」
「撮影が終わりそうにないから伝言だけ残して帰ってきた」
アランはスペンサーが放つ冷ややかな声にも平然と応じている。
まるで先に目を逸らした方が負けだとでも思っているのか、イライアスとスペンサーの二人は、互いに視線を逸らそうとしない。そんな二人を見て、アランはその傍らに立つ希佐に声を掛けてきた。
「それで、これはどういうことなの」
「私とイライアスでヘスティアのチャリティーに出たいと思って」
「うん」
「ルイに相談をしたら、カンパニーの許可が必要だと」
「ああ」もういいとでも言うふうに希佐から視線を外したアランは、コートのポケットに手を入れた格好のまま、スペンサーに目を向けた。「君が苛立ってるのは分かる。でも、この二人に当たり散らしたところで何の解決にもならない。大体、ただの演出家でしかない君が、多くの責任を背負い込んで、そこまで奔走する方がどうかしてるんだ。全部プロデューサーに任せておけばいい」
「彼女にまともなプロデューサー業が見込めると思うか?」
「いいや」アランは小さく肩をすくめると、未だスペンサーを睨み続けているイライアスの頭に手を置いた。「怒るなよ、イライアス」
「I’m not mad.Just infuriating.」
「lovely」イライアスの言葉を受けて、アランは皮肉っぽく笑った。「Tomorrow we may have an unseasonably heavy snowfall.」
そう言ったアランに髪をくしゃくしゃにされても、イライアスは微動だにしない。アランはその様子をどこか面白そうに眺めてから、再びスペンサーに目をやった。
「前にも言ったはずだ、スペンス。俺は君の物の考え方には賛同できない。役者やスタッフに対しては常に誠実であるべきだ。演出家や脚本家は、周りの人間がいてこそ成り立つ仕事だって」
「確かに聞いたよ」
「君が舞台に対する考え方を改めないかぎり、君とは一緒に仕事をしたくない。その気持ちは、今も変わっていない」
「私はこれでも妥協してきたつもりでね」
「どんな言い方をしたのかは知らないけど、イライアスがここまで感情を露わにするのは珍しいことだ」
アランはそう言うとイライアスの背中を押し、顔でも洗ってこいと言って事務室の方へと向かわせた。無理やり視線を引き剥がされたイライアスは、不満そうにアランを振り返るものの、犬を追い払うように手を振られると、そのまま事務室へと姿を消す。
「君は金の生る木だと連中が勘付きはじめたのさ」
「はい?」
「動画の拡散、マダムのインタビューでの匂わせ発言、舞台関係者たちの噂話──君をこのまま隠し続けることは、もはや不可能に近い」
しっかりとセットされた髪をくしゃりと掻き揚げ、スペンサーは大きなため息を吐いた。希佐はアランを見上げ、顔を見合わせてから、そっと口を開く。
「金の生る木というのは、どういうことですか?」
「以前から、君の話を聞きたいと雑誌の取材やメディアからのインタビューの申し出がありはしたが、ここ最近になってそれが数を増してきている。劇場で撮影した動画を、マダムが自分のアカウントに公開したことがきっかけだ。My divaという言葉を添えてね。マダムはその後のインタビューで君のことを聞かれ、こう答えている──私の希望と幸運の原石」
「希望と幸運……?」
「今度の舞台のプロデューサーは二人、一方は出資者であり原案者のクロエ・ルーだ。彼女は比較的寛大でね、楽しいことが大好きで、大抵の提案は面白そうだと言って喜んで飲んでくれる。マダム自身が慈善活動を積極的に行なっているのもあって、君たちが出演したがっているチャリティーへの参加にも好意的な反応を示していたよ。だが、問題はもう一方のプロデューサーだ」
そのとき、視界の端に動く影が映る。影が見えた方に目を向けると、髪からぽたぽたと水を滴らせたイライアスが、スタジオに戻ってきたところだった。多少は頭が冷えたようで、その目からは怒りの色が消えている。ルイに「おいで」と手招きされ、そちらに近寄っていくと、頭にタオルを乗せられていた。
「マダムは自腹で全体の四十パーセントの出資を行なっているのに対して、このプロデューサーは残りの六十パーセントの出資を賄っている。彼にはスポンサーとの間に太いパイプがあってね。我々は基本的に、このプロデューサーの言いなりというわけだ」
「彼はチャリティーは金にならないと考えている」
「そう、金にならない」アランの言葉を受けたスペンサーは、まったくもってナンセンスだとでも言うふうに顔を顰めた。「マダムが口を出せる範囲は舞台の演出と脚本、キャスティングまでだ。それ以外の制作に関わる諸々については口を出すことができない。彼女の出資額が彼の調達した出資額を上回れば話は違ってくるのだろうが、それはまず難しい」
こんな話を君たちは聞きたくないだろうと言って、スペンサーはその場に屈み込み、顔を伏せてしまった。その視線の先には、イライアスが先程まで熱心に書き込んでいたスケッチブックが、開かれたまま置かれている。
スペンサーは思わずというふうにスケッチブックに手を伸ばすと、前後を行ったり来たりしながら、それを眺めていた。
『結局は金を出す人間が一番偉いんだよねぇ』パシャリ、パシャリ、と嫌がるイライアスとのツーショット写真を撮りながら、ルイが言った。『舞台から銀幕の世界に方向転換した途端、世界的なスターへの階段を駆け上がった例も目の前にあることだし。稼げるときに稼いでおきたいっていう大人のエゴが見え透いてるというか、なんというか』
『舞台から銀幕にというのは、マダム・ルーのことですか?』
『そうだよ。彼女は元々舞台畑の人間で、コンセルヴァトワールの演劇学校を出ているんだ。若い頃は男役と女役を巧みに演じ分けていたから、フランスではサラ・ベルナールの再来だと持て囃されていてね。映画に出演するようになってからは、男役からはすっかり遠退いているけど、麗しの美青年という感じが私は好きだったな』
「男役と、女役」
ジャックとジャンヌ──希佐の頭に、その言葉が自然と浮かび上がった。あの美しい人は、一体どのように男性を演じるのだろうと、途端に興味が湧いてくる。
「ん、このダンスの構成はいいな」イライアスのスケッチブックに見入っていたスペンサーは、希佐とルイの話になど耳を傾けてはいなかったのだろう。「しかし、まったくもって君らしくない」
「僕のための振り付けではないので」もはや嫌気を通り越し、うんざりとした様子を隠そうともせずに、イライアスはルイの隣から戻ってきた。「返してください」
「ああ、すまない」
スペンサーの手からスケッチブックを取り返したイライアスは、表紙と裏表紙の埃を払い落とすと、自らのリュックの中に仕舞い込む。帰り支度をはじめるのかと思いきや、掃除用ロッカーに足を向けるのを見て、希佐も慌ててその後ろを追いかけた。
「ありがとう、イライアス」
「え」
「私のために怒ってくれて」差し出されたモップを受け取りながら言うと、イライアスはばつが悪そうに希佐から視線を逸らした。「イライアスのそういうところはとても好きだけれど──」
「分かってる」イライアスはもう一本のモップを取り出しながら言った。「ごめん」
「ううん」
希佐とイライアスがフロアのモップ掛けをしている間も、アランとスペンサーはスタジオの真ん中に座り込んで、何やら話を続けていた。希佐がその様子を横目に見ながら、端から端までモップを掛けて戻ってくると、邪魔にならないよう椅子の上に両足を上げているルイが声をかけてくる。
『フランス語、随分話せるようになったね』
『本当ですか?』
『とても良い感じだ』ルイはそう言ってにっこりと笑う。『おかげで私の英語は全然上達しないけど』
『私はルイの話す英語が好きです。それに、フランス語訛りの勉強にもなります』
『キサは本当に何事にも熱心だね。返す返すも悔やまれるなぁ。あと二十年早く出会えていれば、君はバレエ団のエトワールにだってなれただろうに』
『私、そのとき三歳ですよ』
『ベストな年齢だよ。親の意向でバレエの道に進む子供の多くは、三歳くらいの頃からバレエのレッスンに通いはじめる。それ以前からリトミックをはじめる子もいるしね』そうなんですね、と相槌を打つ希佐を見上げ、ルイはどこか悪戯っぽく笑った。『君に子供が産まれたら、是非とも私に預からせて欲しいな。きっと将来有望だろうから』
『レッスン代がお高そうですね』
『格安で請け負おうじゃないか』
『じゃあ、考えておきます』
モップを押し、軽くあしらうように言って目の前を通り過ぎていく希佐を見て、ルイは「つれないなぁ」とつまらなそうに漏らした。
果たして、自分が子供を持つことなどあるのだろうかと、希佐は考える。現状を慮れば、根無草のようにふらふらしている自分が、子供を育てるなど不可能に近い。だが、舞台を降りたあとならば、その小さな命が、これからの生きる糧になり得るのだろうか。だが、自分はその子を幸せにすることはできないだろうと、そう希佐は思う。
不意に、イライアスの言葉が脳裏を過った。
『僕は典型的なステージマザーに育てられたんだ』
自分がイライアスの母親と同じ、ステージマザーにならないとは言い切れない。自らには果たせなかった夢のその先を、我が子に託そうとするのかもしれない。自らの中にある歪んだ人生観を押し付けることは、あまりに自分勝手で、残酷で、許されるべきことではないと強く思うのだ。自らの願望を強要してしまう可能性が少しでもあるのなら、その可能性は排除されなければならない。
でも、そうか──と、希佐は心の中で呟く。
自分はいつの間にか大人になっていて、結婚をすることも、子供を産むこともできるのだ。あの学舎で夢を叶えていた頃の自分は、もうどこにもいないのだと。
そのとき、足元が急にぐらりとふらつき、希佐は咄嗟にモップの柄を支えにして、何とか持ち堪える。ぎゅっと目を瞑って目眩をやり過ごし、大きく深呼吸をしてから、再びモップ掛けに戻った。
「不甲斐ないところを見せて申し訳なかった」
スペンサーは挨拶の代わりにそう言ってスタジオを出ていった。
ルイからは何か話があると聞いていたが、今はまだ冷静に話をできるような精神状態ではないのかもしれない。様々な感情の板挟みになっているのは、自分だけではないのだと思うと、いけないとは分かっていても、少しだけ安堵してしまう。
「僕、諦めないから」
帰り際、希佐のところまでやって来たイライアスが、酷く真剣な面持ちでそう言った。まるで使命を帯びた者のような眼差しを見て、希佐は思わず眉を顰める。
「イライアス──」
「おやすみ、キサ」
走って帰ると言うイライアスをタクシーの座席に押し込んだルイは、見送りに出て来ていた希佐に「Bonne nuit.」と言って手を振ると、長い足を窮屈そうにしながら座席に乗り込んだ。
滑るように走り出したタクシーを見送り、室内に戻った希佐は、スタジオの戸締りを確認し、消灯してから事務室に足を向ける。するとそこでは、アランがコートを着た格好のままソファに腰を下ろし、誰かと電話で話をしていた。
「いや、いいんだ」アランはスマートフォンを耳に当てて話をしながら、事務室に入ってきた希佐を横目に見る。「レオの都合が良い日に──」
物思いに耽りながらその後ろを通り過ぎようとすると、アランはソファの背もたれ越しに腕を伸ばし、希佐の手を掴んだ。振り返った希佐の目を見つめながら、アランは電話口の向こう側にいるゴダンと話を続けている。
「俺は湖水地方なんてもう何年も行ってないけど……うん、ここにいる」アランはそう言いながら希佐に隣に座るよう指し示すと、手にしていたスマートフォンをテーブルに置き、画面をタップしてスピーカーに切り替えた。「どうぞ」
『やあ、キサ』
「こんばんは、Sir.レオナール」
『レオと呼んでくれて構わないんだよ』電話の向こう側で、ゴダンはくすりと笑う。『実は、君に折り入って頼みたいことがあるんだ』
「頼みたいことですか?」
『今度の週末から映画の撮影で湖水地方まで足を運ぶんだけどね、もし良かったら君にも一緒に来てくれないかと思って』
「……えっ?」
『君の写真を撮らせて欲しいと言ったろう?』
「は、はい」
『もちろん、君の都合もあるだろうから、無理にとは言わない』
ソファをぐるりと回り込んでそこに腰を下ろした希佐は、ごちゃごちゃとしている思考を整理することもままならないまま、困惑の表情を浮かべて隣に座るアランを見上げた。
『湖水地方へ行ったことはあるかい?』
「いいえ」希佐は思わず首を横に振る。「イギリスに来てから、ロンドンを出たことはほとんどなくて」
『それはもったいないなぁ』ゴダンは心の底からそう思っているふうな口振りで言った。『返事は急がないよ。湖水地方での撮影は二、三週間の予定だから。無理を押してまで来る必要もない。でも、考えておいてくれるかな。何なら日帰りだって構わないしね』
「は、はい、分かりました……」
また五分ほどゴダンと会話をした後、アランは電話を切った。頭の中で思考を巡らせていた希佐は、アランの手の甲が首筋に触れたのを感じて、ようやく我に返る。
「大丈夫なの」
「なにが?」
「ふらついてた」どうやら、スペンサーと話をしながら、希佐のことを鏡越しに見ていたらしい。「体調は悪くなさそうだけど」
「大丈夫だよ、考え事をしていただけ」
「俺に何かできることは?」一瞬、表情を明るくさせた希佐の顔を目の当たりにしたアランは、次ぐ言葉を忘れない。「チャリティーに参加すること以外で」
「そんなに嫌なの?」
「君たちの出演を反対しているわけじゃない」
「本当に見世物になるのが嫌なだけ?」
自らの問い詰めるような物言いを僅かに悔いながら、それでも前言撤回はせずに返事を待っていると、アランは何も言わないまま視線を外した。
「私もあなたが言うところの偽善者と何も変わらないのだと思う」イライアスはあのように言ってくれたが、やはりそう思うのだ。「勝手な親切を押し付けて、それで何かをしたつもりになっているだけ」
例えば一人の路上生活者がいたとしよう。その人は酷く価値のある宝石を、あかぎれた手の中に強く握り締めている。それを手放しさえすれば、誰もが羨む大金を手に入れることができる上に、路上生活からも脱却することができるとする。
周囲の良識ある人々は、悪意なくこう言うだろう。その宝石を売ってしまいなさいと。しかし、その人はそうしない。結果、周囲の人々はその路上生活者に、愚か者のレッテルを貼る。
だが、その宝石の本当の価値は、他の誰でもなく、持ち主自身が決めるべきなのだ。その美しい輝きを放つ宝石は、その人の命であり、才能であり、自意識なのだから。
他者との間にある認識と価値観の差異を埋めることは不可能に近いのだろう。だから、利口な人々は大抵の場合、見て見ぬふりをしてその場をやり過ごす。それぞれの聖域に触れることはせず、適度な距離感を保ち、互いを牽制し合う。
しかしながら、そうすることが許されない世界が、ここにある。
ここは、才能という名の光り輝く宝石をショーケースの中に並べ、優れた研磨を施し、どれが最も美しいのかを競い合わせる世界なのだ。宝石の価値は自分自身ではなく、他者に定められる。
通常であれば、アラン・ジンデルが持つ感覚は、至って正常なのだ。大衆の目に晒され、自らを惜しげもなく曝け出し、恥も外聞もかなぐり捨てて、そうすることに快感を覚える人々の方が、きっとどうかしている。
だからこそ、自分は既に狂っていると、希佐は思うのだ。自分は選ばれたくて仕方がない人間で、そうすることでしか、自らの価値を証明することができないと、そう思っている。しかし、だからといって、その世界を知らなかった頃の自分には戻れない。認識と価値観はすっかり凝り固まってしまった。
所詮は、アラン・ジンデルの心に深い傷を負わせた人々と何も変わらないのだ。その手の平の中に隠している宝石の美しさを知りたくてたまらない。手酷い火傷を負うことになるのかもしれないが、どうしても触れてみたい。きっとこれが、怖いもの見たさというものなのだろう。
「私はただ、耳心地の良い言葉で穢らわしい本心を覆い隠して、あなたをほしいままに誘導しようとしているだけなのかな」
傷ついてほしくない。傷つけられたくない。それなのに、深く傷つけたいと思ってしまう。この人の心の傷になりたいと思ってしまう程には狂っている。こんなにも、求めている。
「頭では無理強いをできないことは分かっているんだ」ソファについた手の平をぎゅっと握り締めると、アランはそちらを一瞥してから、希佐の目を見た。「口先では、嫌なら無理をする必要はないんだよって、綺麗事を言ってる」
希佐は自分にどうしようもなく絶望していた。なんてみっともない姿を露呈しているのだろう。だが、もう手をこまねいている時間はない。腹を括るしかないのだ。それでこの人が自分に嫌悪感を抱いたとしても、何かが動き出すのであれば。
「……じゃあ、本心は?」
「嫌がるあなたを引き摺ってでも舞台に立たせたい」
あの夜、ヘスティアの小さなステージの上で一緒に歌ったときは、この上ない幸せを感じていた。酷く満たされた気持ちがしていたのだ。それなのに、今となってはもう、それだけでは満足することができなくなっている。喉の渇きは強くなっていく一方だ。
アランはどこか困った顔で眦を下げると、希佐の顔に掛かった髪をそっと払い、耳に掛けた。
自分はこんなにも浅ましい感情を剥き出しにしているというのに、その手の平はあまりに優しく希佐の頬を撫でる。
「どうして──」
希佐が口を開こうとすると、アランは「shh」と言ってから、額に唇を押し当てた。鼻筋を撫で上げるように唇の先を滑らせ、唖然としている希佐の目を覗き込む。
「三年前の俺と同じだな」
「え?」
「俺は君をこの国に引き留めようと必死だった。そのためなら、あらゆる手を尽くそうと思った。どんな手を使ってでも、君を舞台の上に──俺の隣に、留めておきたかったから」
「アラン」
「もう少しだけ考えさせて」
アランはそう囁くように言うと、希佐の頬を両手で包み込み、慈しむようなキスをした。穏やかに食むようだった口付けは、少しずつ深さと繋がりを求めるように舌を絡められ、その先を渇望するような眼差しが注がれる。
「待って──」
常套句のように、稽古後の汗を言い訳にしようとする希佐の思考を先回りしたアランは、白く細い首筋にねっとりと舌を這わせながら、その体をゆっくりとソファに押し倒した。慣れた様子でクッションを滑り込ませると、片腕で支えていた希佐の頭をそっと下ろす。
「待ちたくない」
上半身を起こし、脱いだコートを足元に放ると、希佐の両手首を頭上で留めつけるように掴んだ。もう一方の手の平は、シャツの内側に差し入れられ、ゆるゆると脇腹を撫でている。
悩ましげに身を捩るしか術のない希佐を見下ろし、緑の色を濃くした目をゆっくりと細めたアランは、自らを求めるように名前を呼ぶその唇に、齧り付くようなキスをした。
顔を伏せて、熱いくらいのシャワーを頭上から浴びながら、希佐はゆっくりと息を吐き出した。腰回りの鈍痛と、下腹部の違和感を覚えたまま、昨夜の煩悩を振り払うように、いつもより念入りに体を動かした後だった。もう既に半日分の疲労を溜め込んでいる肉体を労い、湯船に浸かって温めた筋肉を解きほぐしながら、それでも思い出される昨夜の光景を振り払おうと、大きく頭を振る。
「キサ」
これ以上は余計なことを考えまいと、湯船の中に潜ってぶくぶくと息を吐き出していると不意に名前を呼ばれ、希佐は水面から顔を上げて鼻先までを覗かせた。アランは未だぶくぶくとしている希佐を見て少しだけ笑うと、早く上がれというふうに頭を傾けた。
隣に座って食事をするアランの様子は至っていつも通りだ。昨夜、自分を抱いたのはどこの誰だったのだろうと思いながら、チキンを咀嚼していると、テーブルの上に置いていたスマートフォンが控えめな音量で着信を知らせてくる。
希佐は手にしていたフォークを置き、ぼんやりとした思考のまま、スマートフォンに手を伸ばす。しかし、画面に表示されていた名前を見ると動揺が手元に現れ、スマートフォンを取り落としそうになってしまった。
「誰」
「……マダム・ルー」
希佐がそう答えると、アランは一瞬だけその表情を凍り付かせた。しかし、すぐにアボカドのディップを薄く切ったライ麦パンに塗りはじめると、それを一口頬張ってから、もごもごと言う。
「出たら」
「う、うん」
「スピーカーにして」
「分かった」
あの日、タクシーの中で互いの連絡先を交換はしたが、こうして直接電話が掛かってくるのは初めてのことだった。希佐はスマートフォンをテーブルの上に置くと、スピーカーの状態で通話を繋げた。
『あら、いつまで経っても出ないから、まだ眠っているのかと思ったわ』
「おはようございます、マダム」どこか甘い、眠たげな声が、電話越しに聞こえてくる。「すみません、食事をしていたものですから」
『偉いのね。私、朝はミルクティーだけで十分なのよ』
ふわあ、という欠伸が聞こえ、思わず壁掛け時計に目をやれば、時刻は七時半を回ったところだった。夜型の人ならば、まだ眠たい時間帯だろう。生活を改める前のアランは、九時を過ぎるまで起き出してくることはなかった。
『あなた、今日は何かご用事あるの?』
「はい、歌のレッスンが」希佐はすっと居住いを正す。「毎週月曜と火曜が歌のレッスン、水曜から金曜がダンスの稽古です」
『まるで学生ね』
「たくさん学ばせてもらっています」
『それじゃあ、今日のレッスンは何時頃に終わるのかしら』
「いつもは──」
問われるがままに答えようとする希佐の視界に、隣に座っているアランの手の平が割り込んできた。思わず口を噤んで隣を見上げると、アランは希佐の方を一瞥してから、スマートフォンに目を落とす。
「うちの役者に何の用?」
『あら、あなたもそこにいたのね』別段驚いた様子もなくそう言ったクロエは、ころころと鈴を転がすような声で笑った。『突然こちらに顔を見せなくなったでしょう? だから、心配していたのだけれど』
元気そうで良かったわ──そう言うクロエの声を聞き、アランはあからさまに不快感を露わにしている。それを知ってか知らでか、クロエは普段通りの口振りで先を続けた。
『でも、今日はそちらのお嬢さんにお話があるのよ』
「私に、ですか?」
『ええ。メレディスのところでチャリティーイベントをすると聞いたわ。そのことについて是非ご相談があるの』
「えっ、でも、それは──」
『スペンスに駄目だと言われたのよね』クロエは希佐の言葉を先回りし、うんざりしたように言う。『だけど、そんなのってとても理不尽でしょう? 金儲けだけが目的の、演劇の何たるかも理解できていないようなプロデューサーの妄言なんか無視をすればいい──とは言えないのよね、残念なことに。だから、一緒に打開策を練りましょう』
「……どういうつもりだ」
『そう怖い声を出さないで頂戴──アラン? 私も慈善家の端くれですから、出来得るかぎりのお手伝いをして差し上げたいと思っただけよ』まるで猫を可愛がるような甘い声を聞き、希佐はなぜか全身にぞくりとした寒気のようなものを覚えた。『ああ、そうだわ。せっかくだから、あなたも一緒にいらっしゃいな。その子が私の毒牙に掛かってしまわないか心配で堪らないようだから』
お歌のレッスンが終わったら連絡を寄越してと言い、クロエは最後には上機嫌のまま一方的に電話を切った。沈黙のままスマートフォンに目を向けていた希佐は、暗転した画面に天井が映り込むのを見てから、ようやく息を吐く。
「ええと」そう言って、小さく咳払いをした。「どうしようか」
「キサの気持ち次第だ」
「ん?」
「慈善活動には無駄に熱心だから、今のは彼女の本心だと思う。手を借りたいと思うなら、彼女を頼ればいい」
「アランはそれでいいの?」
「俺には関係ない」アランは冷ややかな口振りでそう言ってから、くしゃりと顔を顰め、ごめん、と言った。「そうじゃない。ごめん、違うんだ──」
「分かってる」
前に一度、ヘスティアでクロエ・ルーと一緒になり、タクシーでこのスタジオの前まで送ってもらったことがあった。あの日から、アランはまるで高所から転落するように、情緒を乱していったことを希佐は覚えている。
二人がどのような関係なのかは知らない。以前からの知り合いであることは間違いなさそうだが、それを詮索するべきではないと、希佐の中にある防衛本能が強く警告していた。だがどうしても、あの人の小指を美しく飾っていた金のリングのことだけは、いつだって頭の片隅に居座っている。
あのときのことは意識的に考えないようにしている。なぜ指輪を返してほしいと言われたのか、そして、アランに返したはずの指輪がなぜあの人の小指に嵌められているのかという事実は、今もまだ消化できていない。
目に見えているものが真実だとはかぎらない。いつだって言葉が足りないこの人からは、確かな愛情を感じている。今は、それだけで十分だ。
朝食の後片付けを率先して行い、出かける準備を終えて部屋から出てくると、キッチンのテーブルに腰を預けていたアランが身を起こした。
「行くの」
「マダムのところ?」無表情のまま頷くアランの前まで足を運び、希佐はその顔を真っ直ぐに見上げた。「そのつもりだけれど」
「俺も行く」
「いいの?」
「二人だけで会わせたくない」
「そう」
まるで昨夜の名残を感じさせるように、アランは希佐の体を抱き寄せる。胸元に顔を埋めてその体温を感じていると、心が満たされていくのと同時に、なぜだか胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
「キサ」
「うん?」
「話すから」やわらかく広がる髪に顔を埋め、アランは半ば絞り出すような声で言う。「全部、話すから。もう少しだけ待って」
「大丈夫、待つよ」
「……俺は、君のその優しさに甘えているだけなんだろうな」
気をつけてと言って送り出された希佐は、いつも通りジョシュアのスタジオまでの道のりを歩いた。イライアスの助言に従い、楽譜と必要な荷物を革のリュックに詰め、両肩に背負っている。長距離を歩くときはスニーカーと決めていた。
「ヒールでもスニーカーでも同じよ、キサ。きちんと自分の足に合ったものを履かないとダメ」なかなか自分の足に合う靴を見つけられずにいた希佐に、ダイアナが言った。「ダンスシューズにばかりお金を掛けたって、普段履く靴にも気を使わなくては意味がないわ」
以来、普段履きの靴でも足のサイズを計測し、自分に見合ったものを購入するようにしている。もちろん、その分だけ高額にはなるのだが、修理をしてもらいながら長く履くことで、これまでにない愛着を覚えるようにもなっていた。
だが一番は、靴底の擦り減り方を専門家に見てもらうことで、歩き方の癖を指摘してもらえるのが、一番のメリットだった。先日、右の肩が下がっていたと指摘をされたばかりだが、思い返してみれば、靴を修理に出したときにも、似たようなことを言われていたのだ。
「あなたの場合、右の靴底の消耗が左の靴底よりもいくらか早い。比重が右に傾いているのかもしれませんね」
言われたばかりの頃は気をつけるようにしていても、日が経つにつれて、その意識も薄れていく。だが、最近は靴を修理に出しても何の指摘も受けないので、イライアスが言ってくれたように、体の歪みが取れてきたということなのかもしれない。
バージルやイライアスも同じ店で何足もの靴を購入しているらしい。以前、靴作りについての話を熱心に聞く希佐に気分を良くした職人が、三人の木型を並べて見せてくれたことがあったが、三者三様の足の形をしていて、酷く興味深く思ったことを覚えている。
イライアスの足は思ったよりも平べったく、横幅が広い。バランスをとりやすそうな足の形をしているという印象だった。対して、バージルの足は想像以上に幅が狭く、甲に高さがある。二人が共通していたのは、土踏まずが通常よりも異常に抉れているということだった。
希佐が靴屋で職人に二人の木型を見せてもらったというと、バージルは悪戯っぽく目を細め「いやらしいやつめ」と言って笑っていた。
実際に見せてもらった二人の足は、無駄な肉が削ぎ落とされ、地面を掴む指の力が発達していると分かるほど、酷く筋張っていた。イライアスは胼胝や痣のある自らの足を見て「あまり綺麗なものじゃないと思うけど」と漏らしていたが、希佐が全力で首を横に振り、どれだけ格好良いかを熱弁すると、少しだけはにかむようにして微笑んでいたことを覚えている。
ダンサーの足は痛々しいと目を逸らされることがある。だが、その足はその人自身の歴史だ。努力の証が余すことなく刻まれている。胼胝や痣だけではない、ときには手術痕や骨折の痕跡を残している足を見ることもあるが、そのどれもが美しいと、希佐は思っていた。
「なに、また今日も歩いてここまで来たの?」程よく汗を掻いて現れた希佐を見て、受付でアシスタントと話をしていたジョシュアが、呆れたように言った。「タクシーが嫌ならバスを使えばいいって言っているのに」
「歩くのもトレーニングの内ですから」
「こうやって差し入れを買ってきてくれるのも、もちろん嬉しいんだよ? でもさ──」コーヒーです、と差し出す袋を受け取りながら、ジョシュアは大きくため息を吐く。「これを交通費に当てたらいいんじゃないの? 何ならぼくが代わりにプロデューサーに直談判してあげようか? レッスンに通う交通費くらい出してくれるよ、あのオバ──いや違った、お姉さんならさ」
「でも、イライアスも徒歩で通ってるって聞きましたし」
「彼はぼくが走ってから来るようにって指導してるからだよ」目を丸くする希佐を見て、袋の中身をアシスタントに渡しながら、ジョシュアは続ける。「体力を有り余らせた状態で歌わせると、体に無駄な力が入ってよくないんだよね、彼の場合。だから適当に走らせて、体を疲労させた状態でレッスンをした方が、無駄な力が抜けて喉の開きが良くなる」
「そうなんですね」
「イライアスの筋肉ってまるで鎧みたいなんだよ。それで首もしっかり守られているから、声帯が凝ってるというか、ぎゅっと締まっている感じがあるんだ。今はそれをやわらかくする感覚を覚えてもらおうとしてるんだけど、歌いながら踊るってなると、また別の話なんだよねぇ。今までどうしてたのって聞いたら、演出家から歌は別撮りで本番は口パクで踊れって……思わず教会の懺悔室に行ってこいって言っちゃった……」
「でも、イライアスはダンスで魅せる役者ですから」
「そうは言っても、いつまでもそういうことをさせ続けるわけにはいかないでしょ」
僕がそんなことは絶対に許さないと言いながら、ジョシュアは先に立ってレッスン室へと向かう。希佐はアシスタントに挨拶をしてから、ジョシュアを追いかけてレッスン室に入った。
「イライアスはさ、キサみたいに器用じゃないんだよ」棚の中から楽譜を取り出し、ピアノの前に腰を下ろしながらジョシュアが言う。「ダンスはダンス、歌は歌って区別して考えてしまうんだ。それぞれを別々に披露するなら、まあ問題はないのかもしれないけど、この先のことを考えるとね。歌いながら踊る能力って、個々の能力値が高ければそれで成立するかっていうと、そうじゃない。歌って踊ることでしか鍛えられないから、そろそろルイと相談して、そういう稽古を取り入れたいなとは思っているんだけど」
彼は歌えないわけではないし、声の質もいいから、伸び代は十分にあるんだよ、とジョシュアは言う。でも、彼自身を覆う殻を一枚と言わず、二、三枚は破って外側に出てきてもらわないと、お互いの差を埋めることは難しいかもね──そう話してくれるジョシュアの言葉を聞きながら、自分にも何か手伝えることがあるとすれば、これなのではないかと、希佐は思っていた。
午前中のレッスン後、昼休憩を挟んで、狭い防音室で納得がいくまで歌い続けていると、時刻は既に午後四時を過ぎてしまっていた。クロエ・ルーのところへ行く約束があったことを思い出し、希佐は慌ててアランに電話をかける。
『終わった?』
「ごめんなさい、すっかり夢中になってしまって」
『いいよ』
アランは希佐に向かってそう言ったあと、電話口の向こう側で誰かと短く言葉を交わした。
「アラン、今どこにいるの?」
『そこの近所のデリ。夕飯買って来いって言われた』
「マダムに?」
『キサも何か食べる?』
「え? あ、ううん。私は帰ってから食べるから。ありがとう」
『そう』Thank you.と小さく言う声が聞こえてくる。『そこまで迎えに行くから待ってて』
「うん、分かった」
希佐は通話を切ってすぐに荷物を手早く纏めると、コートを羽織り、リュックを背負った。使っていたピアノの鍵盤を軽く拭いてから、蓋を閉め、覆いを掛ける。忘れ物がないかどうかを目視で確認し、電気を消してから防音室を後にした。
アシスタントに誰も来ていないことを確認してから、レッスン室の扉をノックした希佐は、そこからひょっこりと顔を覗かせる。
「あれ、今日はもう帰るの?」ジョシュアは次のレッスンの支度をしながら、希佐の方を向いた。「いつもより一時間くらい早いようだけど」
「もう少しでアランが迎えに来てくれるので」
「おっ、デート?」
「まさか」希佐は苦笑いを浮かべ、首を横に振った。「これからマダム・ルーのところへ行きます」
「えっ」
「え?」
「アランと二人で?」
「はい」
「ふうん……」希佐からすっと目を逸らしたジョシュアは、棚の中に収められている大量の楽譜の中から、何冊かを順番に抜き取っていく。「今度の舞台の打ち合わせでもあるの?」
「いえ、ヘスティアで行われるチャリティーイベントのことで相談があるとだけ。もう一方のプロデューサーの方からは出演許可が下りなくて、それを理不尽に思われたみたいで」
「ああ、あの人、そういう活動に熱心だもんね」
「ご存知なんですか?」
「結構有名な話だと思う。前に孤児が主役の映画にキャスティングされたときなんか、自分の出演料全額を児童保護施設に寄付したって話題になっていたし。まあ、マスコミの一部は旬の過ぎた女優の売名行為だの、行き過ぎた宣伝行為だのと騒ぎ立てていたけど。そのことについて、本人はなんて言ってたっけな──マスコミには本当に感謝している。なぜなら、私の売名行為に手を貸してくれるんだもの、みたいなことを話していたような」
「皮肉なんでしょうか」
「いや、本来はユーモラスな人なんだと思うよ」ジョシュアは何冊かの楽譜を抱え、ピアノの前まで移動した。「でも、演じている感じが強いなって、いつも思っていたんだよね」
「演じている?」
「人々が思う理想の女優像を演じているみたいだなって。往年のハリウッド女優たちと雰囲気が似ているよね。だから時代遅れなんて言われることもあるんだけど、それが独特の空気感を孕んでいて、最近の人たちには逆に新鮮に映るんだと思う。唯一無二って感じがして」
そういえば、と思い出したように言いながら、ジョシュアは座った椅子からすぐに立ち上がった。
「エディット・ピアフの曲を歌った音源がどこかにあったはず」
「マダムの歌ですか?」
「そうだよ」そう言ってジョシュアが座り込んだのは、レコードがずらりと並んでいる棚の前だった。「何年か前にレコードが数量限定で販売されて、あっという間に売り切れたんだ。私は女優で、歌手ではないから、今後はもう自分の歌を音源化はしないって」
「ジョシュアって、あの人のファンなんですか?」
「うーん、どうなんだろう」あった、と言ってレコードを引っ張り出し、レコードプレーヤーの前に移動する。「ぼくの母が彼女のファンだから、その影響かな」
きらりと輝く大きな黒い円盤を取り出したジョシュアは、それをレコードプレーヤーに乗せて電源を入れ、その上に針を落とした。ぷつん、という音が聞こえてすぐ、生演奏のように鮮明な音楽が、部屋に設置された高価なスピーカーから溢れ出す。
伴奏は当時の構成をそのままに。軽やかでありながら魂を震わすような。まるで自分自身が経験してきたすべてを、洗いざらい曝け出すかのような。そんな艶やかな歌声は、エディット・ピアフに対する敬意を感じさせる。
借り物ではないと、希佐は強く感じた。誰かの歌を歌っているのではなく、自分自身の歌を歌っている。強い実感と共感性がその歌声には滲み出ていて、聞く者の心臓を鷲掴みにするのだ。
希佐はその歌声に圧倒されると同時に、思わず笑い声を漏らしてしまった。
「気持ちは分かる。本当に、笑っちゃうくらいうまいんだよね」
芸事の世界で生きている人間ならば、きっと第一声を聞いただけで分かる。自分のような者が、こうして言葉にするのは酷く恐れ多く、烏滸がましいことなのだろう。それでもあえて言うことが許されるのなら、この人は間違いなく、本物の舞台人なのだと、希佐は思った。
きらきらと輝く、まるで夢を見ているようなあの眼差しが、まざまざと思い出されるのだ。その美しい尊顔には常に光が差していて、あまりの眩しさに目を細めてしまうが、逸らしたいとは思わない。片時も見逃したくないと思わせるだけの魅力が、あの人にはある。
この歌声も、同じだった。
恥ずかしながら、クロエ・ルーが出演している舞台や映画を、希佐は一つも鑑賞したことがない。相手は自分が主演を任された舞台のプロデューサーだ、少なくとも代表作をいくつかは履修しておくべきなのだろう。
だが、アランはそれを嫌がらないだろうか──そのようなことを考えていると、希佐の後ろでやや遠慮気味に扉が叩かれた。
「ジョシュア、Mr.ジンデルがおいでですが……」
「通していいよ」
「はい」
アランが現れる前にレコードを片付けたジョシュアは、今の話は内緒だよとでも言うふうに、自らの唇に人差し指を立てた。
「やあ、アラン」ジョシュアは快くアランを迎え入れながらも、間もなく五時を告げようとしている時計を指す。「お茶のお誘いをしたいところなんだけど、五時から次のレッスンが始まるんだ。ごめんね」
「キサを迎えにきただけだから」
「これからクロエ・ルーのところに行くんだって?」アランはジョシュアの言葉に黙って頷きながら、その手に持っていたデリカテッセンの紙袋を差し出した。「やった、これでアシスタントに夕飯を買いに行かせずに済みそうだよ。どうもありがとう」
「割引チケットをもらった」
「何かキャンペーンでもやってたの?」
「いや、特にはなにも」
自分は使わないからと言って渡されたチケットを一瞥したジョシュアは、その裏面に目を落とすと、すべてを察したような表情を浮かべ、じっとりとした目でアランを睨みつける。
「君ね、こんなもの僕が使えるわけないでしょ」
「なんで」
「よかったら連絡してね、レイチェル──ほら、個人的な連絡先までしっかり書いてある。しかも、ハートマーク付き!」
「見てなかった」
「見る気もなかったんじゃないの?」
「俺はいらないから、必要なければ処分しておいて」
これだから顔の良い連中はと文句を口にしながらも、ジョシュアはチケットをゴミ箱には捨てず、受け取った紙袋の中に滑り込ませている。
自分が隣にいるときですら、頻繁にアプローチをされているのだから、一人で出歩いているときに声をかけられたり、連絡先を渡されたりなどということは、日常茶飯事なのかもしれない。本人は喜んで見せるわけでも、極端に拒絶するわけでもなく、ただ適当に受け流していることが多いので、相手も判断に困るのではないかと、希佐は常々思っていた。
「キサも大変だね」
「えっ、何がですか?」
「は?」ジョシュアはきょとんとする希佐を見て、唖然としたような声をあげる。「だから──いや、やっぱりいいや、なんでもないよ。大変なのはアランの方みたいだから」
五時五分前に現れた生徒と入れ違いに、希佐とアランは追い立てられるようにしてレッスン室を出た。アランが頼んでおいたのだろう、アシスタントの女性は「タクシーを呼んでおいたので、もう間もなく到着する頃だと思います」と言って、階段の下まで見送ってくれる。
また来週、いつもの時間にお待ちしています──働き者のアシスタントはそう言うと、大急ぎで階段を駆け上がっていった。
「マダムに連絡をしないと」
「俺がしておいた」スタジオの前に滑り込んできたタクシーに向かって手を挙げながら、アランが言う。「先に乗って」
アランが告げたタクシーの行き先は、ヘスティアから少し先にある通りの名前だった。その辺りはどちらかと言えば上流階級寄りの人々が生活をする土地で、希佐はあまり足を踏み入れたことがない。
スタジオや教会がある辺りは、移民や貧しい人々が数多く暮らしている。互いに助け合い、寄り添い合いながら生活を送っているあの小さなコミュニティーが、希佐は好きなのだ。
「そういえば、マダム・ルーが野良猫と暮らせるお家を探しているってスペンサーさんがおっしゃっていたけれど」
「家探しは辞めたらしい」
「猫の飼い主が見つかったの?」
「いや」アランは首を横に振る。「今はメレディスが所有しているアパートの管理人室に居着いてる。猫がどうなったのかは知らない」
「メレディスってお店だけじゃなくて、アパートも持っているの?」
「この辺りでは有名な大昔からの地主だよ。父親が他界したとき、店と一緒に結構な土地も相続したらしい。詳しくは知らないけど」
メレディスは、出会った頃から謎の多い人だったが、その謎は解明されるどころか、年々増えていく一方だ。生活感がないというのも、その一つの要因となっているのだろう。
ヘスティアで働かせてもらっているときですら、メレディスのプライベートな話は、ほとんど聞いたことがなく、まるでそれが暗黙の了解であるかのように、質問をする者も誰一人としていなかったことを覚えている。冗談めかして王室の遠縁だとか、名のある貴族の隠し子ではないかという者もいたが、実際のところは誰も知らない。
あの美しい歌声がどうにも頭から離れず、黙りこくったまま窓の外を眺めていると、隣で動く気配を感じて、希佐は車内に視線を戻した。アランはポケットから微かな振動音を鳴らしているスマートフォンを取り出し、小さく「Excuse me.」と言うと、それを耳に当てる。
「なに」不愉快そうな声が電話口の向こう側に向けられた。「もうすぐ着く」
女性の声が聞こえてはくるものの、何を話しているのかまでは分からない。だが、相手がクロエ・ルーであることは明白だ。
「は? ああ、もういい、分かった」
アランはそう言い捨てて通話を切ると、タクシーの運転手に向かって、行き先を近くのスーパーマーケットに変更してほしいと告げた。運転手は嫌な顔一つせずに頷き、車をマーケットの駐車場に入れると、二人を下ろしてするりと走り去っていった。
「何か買い忘れ?」
アランはこちらに向かって頷きかけると、店内に向かって歩いていく。希佐は黙ってその後ろをついていくが、目的の場所に到着した途端、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「アラン、私が買ってくるよ」
女性用生理用品の棚の前に立ち、クロエから指示された商品を手に取ったアランに向かって、希佐は手を差し伸べた。アランは一瞬断りかけるものの、自分を真っ直ぐに見上げてくる希佐の眼差しに根負けした様子で、手にしていたものを渡してくれた。
「私に連絡をくれたらいいのにね」
「俺を困らせて楽しんでる」
「そうなんだね」
希佐は何の手土産も用意していなかったことを思い出し、生理用品の会計を済ませると、併設のリカーショップに足を向ける。必要ないと言うアランに、そういうわけにもいかないと答え、酒瓶が並ぶ棚をぐるりと見て回った。
「前にヘスティアでお会いしたときは、ブランデーをお飲みになっていたのだけれど」あの人の口に合うようなブランデーは、きっと高価で手が出ないだろう。「シャンパンがいいかな」
「なんでもいいよ」
「じゃあ、これにする」
「それ、値段見た?」
「え?」
「130ポンドもするけど」
「うん」希佐は黒地に金で文字と模様が描かれた箱を抱え、小さく頷いた。「私が初めて飲んだシャンパン。前にバージルのお家でご馳走になったんだ。他のシャンパンの味はよく分からないけど、これが美味しいっていうことは知っているから」
アランは「そう」とだけ言うと、それ以上は口を挟まず、希佐が会計を済ませるのを黙って待っていた。
何も言わずとも贈答用と察してくれた店員が、綺麗な包みとリボンの色を選ばせてくれる。希佐は、光沢のある黒の包紙を選び、クロエの目と同じ色のリボンで飾り付けてもらった。
「すぐそこだから」
もう一度タクシーを捉まえるのかと思いきや、アランはそう言うと、駐車場を横切るようにして歩き出した。
夜の帳が下りたロンドンの街は、昼間よりも大きな喧騒に包まれ、酷く騒がしい。家に帰ろうとする者と、夜の街へ繰り出そうとする者たちが、ちょうど交差する時間帯だからだ。
「アラン」
歩道に出たところで、希佐は前を歩くアランを呼び止めると、空いている腕に自らの腕を絡めた。これだけ人が多いと、離れ離れになってしまいかねない。
それから五分ほど歩いた先に、そのアパートはあった。築百年はあろうかという古びたレンガ造りの建物だ。イギリスには、家は古ければ古いほど良いという文化があるらしい。だが、そのアパートの内装はおしゃれに改装されていて、一歩足を踏み入れれば、外装とはまるで正反対の印象を受けた。床や壁は白の大理石、天井にはシャンデリア、談話用のスペースまであるのを見ると、ホテルのような雰囲気を感じさせる。
管理人室は奥まった場所にあった。ぽつんと花の形を模したようなランプに照らされた扉には、管理人室、と記されたプレートが掲げられている。アランはその前に立つと、ブザーには手を伸ばさず、コートのポケットから取り出した鍵をドアノブに差し込んだ。まるで自分の家の扉を開けるかのように、慣れた手つきで鍵を回し、了承を得ることなく扉を押し開く。
一連の動きを半ば唖然としたように眺めていた希佐を振り返り、アランは先に中へ入るよう促した。瞬時に我に返った希佐は、玄関先に足を踏み入れ、さっと脇に避ける。
「答えたくないことには、答えなくていいから」
アランは後ろ手に鍵を閉めながら、希佐に向かって意味深にそう言った。だが、あの人の前にこの身を晒すと、何もかもを洗いざらいに話さなければならないような、そんな気がしてくるのだ。
玄関の先にある細長い廊下を抜けていくと、そこには広々としたダイニングキッチンがあった。アイランド型の立派なキッチンだが、流し台やコンロの周辺には汚れた食器やゴミなどが散乱していて、とてもではないが綺麗とは言い難い惨状が広がっている。
思わずぎょっとしてしまった希佐とは違い、平然とした面持ちでずかずかとキッチンに入っていったアランは、買ってきた食材を冷蔵庫の中にしまっていた。
「いらっしゃい」
声が聞こえた方に目をやると、キッチンの先にあるリビングに、クロエ・ルーの姿が見えた。クロエは下着が透けて見えるようなレースのネグリジェの上に、シルクのバスローブを羽織り、ソファでくつろぎながらテレビを見ていた。ブランデーグラスを揺らしながら立ち上がると、キッチンに足を踏み入れたところで立ち尽くしている希佐の方へ向かって歩いてくる。
「こんばんは、キサ」
「マダム」軽く目礼をした希佐は、手に持っている紙袋を掲げてみせた。「何がお好みか分からなかったので──」
「どうもありがとう」
希佐が最後まで言うより先に紙袋を取り上げたクロエは、ネグリジェの裾をひらひらと踊らせながら、キッチンに向かった。シンクの空いているスペースにそれを置くと、中から取り出した箱のリボンを外し、足元にひらりと放ってしまった。何の躊躇いもなく包装紙をびりびりと破り、中から出てきたものを見て、まあ、と歓声を上げる。
「レアじゃないの」
「はい」
「カンヌの映画祭でよくいただくのよ」
どうやらお眼鏡には適ったようだと思い、希佐はほっと安堵の息を吐いた。クロエはシャンパンの瓶を抱くように持ちながら、冷蔵庫の隣にあるワインセラーの中に収めに向かう。
にこにこと嬉しそうなクロエの様子を横目に一瞥したアランは、大きくため息を吐いてから、シンクの上を片付けはじめた。何かをしなければならない衝動に駆られながらも、何もできずに立ち尽くすだけの希佐を見て、アランが口を開く。
「適当に座ってたら」
「えっ? あ、うん、でも……」
「どこでも好きなところに掛けて頂戴な」
「は、はい」
希佐は靴の裏が汚れていないことを確認してから、リビングの方に足を進めた。だが、好きなところに掛けていいと言われても、ソファの上には高価そうな服や、布面の少ない下着などが脱ぎ捨てられていて、腰を下ろす余白などどこにもない。
どうしたものかとキッチンに顔を向けるが、二人が話している姿を目の当たりにした希佐は、咄嗟に開きかけていた口を閉じた。
小さく息を吐き、よし、と僅かに気合を入れてから、ソファの上に散乱している衣類に手を伸ばす。それらを皺にならない程度に軽く折り畳み、下着は服の間に挟み込んで、ソファの一角に重ねて置いた。テーブルの上を占拠しているごみは、床に放られていたマフィン専門店の紙袋の中に詰め込んでしまう。
仕上げにウェットティッシュでテーブルを拭き取っていると、リビングに戻ってきたクロエが、あら、と目を丸くした。
「綺麗にしてくれたの? どうもありがとう」
「余計なこととは思ったのですが」
「私、片付け物が本当に苦手なのよ。フランスの家ではメイドを雇っているから、全部任せきりで」
世界的な大女優ともなれば、本来は家のことになど手が回らなくて当然なのかもしれない。だが、何でも完璧にこなしてしまいそうなこの人が、人間として生活していく上で最も根本的な能力が欠落しているというのは、酷く親近感を覚えさせた。
「ほら、片付けなんてしなくていいわ」クロエがキッチンで食器を洗っているアランを振り返り、呆れたように言った。「あなたもこちらに来てお座りなさいな」
「いい加減、この部屋を汚されるのは迷惑だ。そんなに片付けが面倒ならホテル暮らしに戻ればいい」
「あら、いやよ、私。せっかくネコちゃんを引き取ったのだから」まるでその言葉を理解したかのように、部屋のどこからか猫の鳴き声が聞こえてくる。「メレディスも好きに使っていいと言ってくれているもの」
「自分の世話もできないあんたに、動物の世話なんかできるわけがないだろ。これだって、猫が拾い食いでもしたら──」
「お小言はもう十分、ありがとう」
ふわり、と身につけている布をひるがえしながら、クロエはソファに腰を下ろす。足を組み合わせ、金糸のような美しい髪を掻き上げながら、未だに立ち尽くしている希佐を見上げた。
「お座りになって」
「はい」
「あなたも早く座りなさい、アラン」
きゅ、と蛇口を捻る音だけが聞こえ、不機嫌そうな足音がこちらに近づいてくる。そして、希佐の隣にアランが腰を下ろすと、後ろをついてきたらしい猫が、その膝の上に飛び乗った。美しい白猫はゴロゴロと喉を鳴らしながらアランの顎に頭を押し付けるようにして擦り寄り、宝石のような緑の目を細めている。
「アゼリアったら」クロエは白猫を見て拗ねたような声を出した。「同じ目の色をしているから仲間だと思われているんだわ」
「綺麗な子ですね」
「そうでしょう?」クロエは途端に声色を変え、青い目を細めながら嬉しそうに微笑んだ。「土砂降りの雨の中で衰弱しているのを見つけたの。見ていられなくてホテルに連れ帰ったのだけれど、猫を連れ込んではいけないと怒られてしまったのよ。だから、メレディスに助けを求めたら、このお部屋を使って構わないって」
「そうだったんですね」
「この人に、きちんと飼い主のところへ返すように言われたから、私頑張って探したのよ、飼い主を。でも、会ってみたらろくな人じゃなかった」自らの組んだ足に頬杖をつき、クロエはうんざりとした表情を浮かべる。「一度でも路頭に迷った猫は、いくら体を綺麗に洗い流したところで、どこまでも穢れているのですって。私、とても腹が立ってしまって、こんなに美しい猫は他にいない、言い値で引き取りますと言ったのよ。きっと法外な値段を提示されたのでしょうけれど、猫の相場なんて私は知らないし、それ以上お話をしたくもなかったから、小切手を叩きつけて出てきてやったわ」
アランはクロエの話を聞きながら、無責任だとでも言いたげな面持ちを浮かべている。希佐にも何が正解なのかは分からなかったが、この白猫がクロエの下で幸せに暮らせるのであれば、それもまた一つの道なのだろうと思った。
そのとき、アゼリアと呼ばれた白猫は、自分の頭を優しく撫でてくれる大きな手の平に頭を押し付けながら、隣に座っている希佐に視線を送ってきた。ピンク色の濡れた鼻をつんと持ち上げ、すんすんと匂いを嗅ぐ仕草を見て笑みを深めた希佐は、立てた人差し指をその鼻先に近づける。自分からその指先にぴたりと鼻を押しつけ、すりっと頬を擦り寄せてきたアゼリアは、次の瞬間、ころりと希佐の膝に転がり込んできた。
にゃあん、とかわいらしい声で鳴いたアゼリアは、膝の上で仰向けになって身を捩らせながら、爪をしまった前足で希佐の右手を弄んでいる。
希佐とアランが思わず顔を見合わせると、それを見ていたクロエが、うふふ、と静かに笑った。
「きっとあなたたち二人が同じ匂いをしているからでしょうね」
どう答えるべきか迷っていると、不意にアランの言葉が蘇ってきた。答えたくないことには、答えなくていい──そう言ってくれた声を思い出しながら、希佐は小さく息を吐き出し、ざわりとした心を落ち着かせた。
「それで、今度はどんな手段を使って彼女をチャリティーイベントに参加させるつもりなの」
「その言い方、まるで私が目的のためには手段を選ばない女だと言っているみたいに聞こえるわね」
「違うのか」
「いいえ、違わないわ」感情を表に出さないようにしているアランとは対照的に、クロエはにこりと機嫌が良さそうに笑う。「あなたは十二分にご存知でしょうけれど、私は自分の利益になると確信したことに関しては、常に前のめりで行動しようと決めているの」
そうして生き抜いてきたのだから──そう言いながら、空にしたグラスに、再びブランデーを注ぎ入れている。
希佐は自分の右手を抱えるような格好で、うとうととしているアゼリアを微笑ましげに見てから、クロエに目を向けた。
「私は──私とイライアスは、カンパニーの方々の反感を買うような結果を望んでいるわけではありません。私とイライアスで出演することに問題があるのなら、別の手段を模索したいと考えていました」
「真正面から正攻法で攻め入っても無駄よ、キサ」クロエはそう言いながらソファの背もたれに身を預け、大袈裟に頭を振った。「舞台芸術なんて所詮は金儲けの手段だと思っている人たちに、私たちの話は通じないわ。まったく別の言語を話す人々と対話を試みた方がずっと有意義な時間を過ごせるでしょう」
この人と話をしていると、妙な既視感を覚えると希佐は思った。寸前まで冗談を言うような口振りで話をしていたかと思いきや、その直後には酷く硬い表情を浮かべ、真面目な話をしはじめる。希佐は、そういう人を他にも知っている。いや、知っていた。
「私、あの人のやり方がずっと気に入らなかったのよ。今だから言えることだけれど、あのプロデューサー、最後まであなたを主役に起用することを反対し続けていたの」
「そうなんですか?」
「最終決定後もぶつぶつと文句を言い続けていてね。スポンサーに説明して回る自分の身にもなれと、散々愚痴をこぼしていたわ。イライアスの役を格上げして、ダブル主演にしろと言ったのも、彼よ。それなのに、あなたの動画がSNSで爆発的に拡散されてからは、くるっと手の平を返したの。今までは一切関与しないっていう態度だったのに、突然あなたのことに興味を持ちはじめたみたい。ウィキッドのカンパニーに誉めそやされて、いい気になったんだわ」
クロエはそう言うと、その場にがばっと身を起こし、ブランデーグラスを手にしたまま、それとは反対の手で葉巻を構えるようなふりをしてみせた。
「あの小娘は自分が一体何をしでかしたのか分かっているのか?」声音をがらりと変えたわけではない。だが、僅かにしゃがれた、強い酒で喉が焼けたような声を出し、クロエが言う。「新人の分際で何たる蛮行だ。お情けで私の舞台の主演に抜擢してやったというのに、他所様の舞台の代表曲を公衆の面前で歌うだと? この私と独占契約を結んでおきながら、身勝手にも程があるというものだ」
それは、寸前まで美しい英語を話していたとは思えないほどの、恐ろしいコックニー訛りだった。身振り手振りで話す様子は、エレガントさに欠けている。
「あの人、興奮するとお国の言葉が丸出しになるでしょう?」すっ、といつもの姿を取り戻し、クロエは肩をすくめた。「お若い頃にどれほどの苦労をしてきたのかは存じ上げませんけれど、私の知ったことではないわ」
希佐は、未だ数える程度しか顔を合わせたことのないもう一人のプロデューサーの姿を脳裏に思い描きながら、思わずぞっとした。それが、あまりに完璧な形態模写だったからだ。
以前、件のプロデューサーが、ヘスティアのカウンター席でアランやスペンサーと話している姿を見たことがある。そのときは確かに、希佐には到底聞き取ることのできない、きついコックニー訛りで何かを捲し立てていた。
こつん、とアランの爪先が軽く靴にぶつかり、希佐は我に返る。平静を装いながら、とめていた息をゆっくりと吐き出し、そっと目を伏せた。
心臓がドキドキしている。自分は今、何か物凄いものを見た。頭の中で、その映像を何度も何度も繰り返し確認したいのに、現状がそれを許してはくれない。
「スペンス坊やがお世話になっている人だと聞いているから、あまり強くは言いたくないのだけれど、私はああいう、方々にへこへこ頭を下げて回るだけが取り柄の、女々しい男が大嫌い」
「資金を工面するためにはそういう役回りの人間も必要だ」
「あなただってあの人のことを気に入らないくせに」
「そういう問題じゃ──」
「クーデターを起こす必要があるわ」
突然の物々しい発言に、希佐は胸のドキドキも忘れて、思わず目を丸くした。隣に座っているアランは、付き合っていられないとばかりに特大のため息を吐き、頭を掻いている。
「私、いやよ。あんな人とこれから一年以上も一緒に仕事を進めていくなんて。考えてもみなさいな、今後もあの人の言いなりになって脚本の内容を改竄し続けていったら、世紀の大傑作が、史上最悪の愚作になりかねないわ」
「俺は別にそれでも構わない」
「私は人生を賭けているのよ、アラン・ジンデル」
「俺の知ったことじゃない」アランはクロエが先程口にした言葉を借りてくる。「そもそも乗り気ではなかったんだ」
「でも、それで隣の彼女は納得するかしら?」クロエは半ば挑発するような眼差しでアランを見た。「あなたのために一ヶ月ものオーディション期間に耐え抜いて、経験豊富で実力も申し分のない女優たちの中から、ようやく主演の座を勝ち取ったのに?」
「あんたにキサの何が分かる」
「あら、分かるに決まっているじゃないの」ふふ、と笑ったクロエは、妖艶に細めた目で、愛でるように希佐の姿を眺めた。「この子、私の若い頃にそっくりだわ。酸いも甘いも、絶望も歓喜も、ちゃんと知ってる。そういう子はね、どれだけ経験が豊富で、実力を認められている名の売れた女優なんかよりも、ずっと強いのよ」
買い被られている。
いや、そうではないのか。
だが、実際にはどのように思っているのかを、希佐には測ることができない。その深い青色の目を見つめていても、この人の心に辿り着かないことだけは、よく分かる。いつだってきらきらと美しく輝いているのに、その目の奥は少しも揺るがない。それが表すものは意志の強さなのか、或いは、ただの無関心なのか。
「ほら、黙っていないで、あなたも何とか言ったらどうかしら」
オーディションに合格してからの二ヶ月、希佐は常に受け身の体制で、ただ与えられるものだけを浴びて生きてきた。だが、いつまで経っても次の公演日は決まらず、終始宙ぶらりんの状態で飼い殺されているようなこの状況は確かに、気分の良いものではない。
「……私自身は、舞台に立つことを望んでいます」
「ええ」
「ですが、上の方々のご意向に従う必要があることも、理解しています。私は役を与えてもらった身で、主役を演じるという役割を完璧に全うすることが、私の仕事だと考えています」
希佐が言葉を発するほどに、クロエの顔に失望が滲んでいくのが分かった。つまらないと、その顔が物語っている。退屈そうに視線を逸らすその横顔には、希佐に対する興味が失われていく様が、まざまざと映し出されていた。
「──と、去年までの私なら、そう答えていたと思います」膝の上で眠っていた白猫がむくりと起き上がり、音もなく床に降り立って歩き去っていく姿を見送りながら、希佐は言った。「贅沢な話ですが、私にとって役は常に与えられるもので、自分から取りに行こうと努力するものではありませんでした。だから、初めてなんです。人を蹴落としてでも、誰かの夢を打ち砕いてでも、絶対にこの役を演じたい、誰にも奪われたくないと、そう思ったのは」
手の甲に、赤く肉球の跡が残っている。希佐はそれを一撫でしてから、顔を上げた。こちらを見るクロエの眼差しには、キラキラとした星屑のような輝きが戻っていた。
「この舞台をより良いものにしたい。それが今の私の望みです、マダム。そのためなら、どんな労力も厭いません」
「よく言ったわ、キサ」眦を僅かに紅潮させ、やや興奮した様子でそう口にしたクロエは、グラスに残っていたブランデーを気付け薬のように一気に飲み干した。「それでこそ私が見込んだディーバよ」
「……もう勝手にやってくれ」
二人の会話の行き着く先を見届けるように黙りこくっていたアランが、ため息まじりにそう言って、ソファから立ち上がった。希佐が思わず振り仰ぐと、アランは横目に一瞥をくれはするが、何も言わずに背中を向けてしまう。
はっきりと明言はしなかったが、自分がクロエ・ルーに賛同するような物言いをしたことが気に入らなかったのだろうと、そう希佐が思っていると、アラン、と呼んで、クロエがその背中を呼び止めた。
「あの男みたいに意気地なしのまま一生を終えるつもり?」
「……なんだって?」
「一人前に覚悟を決めたなんて言っているらしいけれど、所詮は口だけなのね」後ろを振り返ったアランは、氷のように冷たい眼差しで、クロエを睨め付けている。「結局のところ、男なんて生き物は一つも当てにはならないのよ。決断できない男の犠牲になるのは、いつだって女なんだわ」
「そうか」アランは、希佐が未だかつて聞いたこともないような、冷え冷えとした声で言った。「あんたは自分が犠牲になったと思っているんだな」
「そう思わないなら証明してごらんなさい」
「あんたに指図される筋合いはない」
「だったらいつまでも惨めに逃げ回っていなさい」クロエはアランを振り返らず、また空のグラスにブランデーを注ぐ。「もう一度後悔する頃にはもう、舞台上にあなたの帰る場所はないわよ」
ちっ、と舌を打つ音が背後から聞こえてきた。
この緊迫した空気感の中、体を硬直させてしまった希佐がごくりと唾を飲み込むと、その音を聞きつけたクロエがこちらに目を向けた。そして、ゆっくりと口角を持ち上げ、優艶に微笑する。
「女はね、たとえそれがどんな過去だったとしても、すべてを美しい思い出にしてしまえるのよ、アラン・ジンデル」
クロエはブランデーを注いだグラスを手に持ち、希佐の目をじっと見つめたまま、それを高く掲げて見せた。まるで、約束された勝利の祝杯を上げるかのように。
翌日、アラン・ジンデルの機嫌は良くなるどころか、悪くなる一方だった。いつも通りの時間に目を覚まし、朝食の支度をして、一緒に食卓を囲み、会話を交わしていても、それは確かに感じられる。
「……アラン、怒ってる?」
朝食後、洗い物をしながら希佐が問うと、隣に立って渡された皿を拭いていたアランは、首を横に振った。
「考えてる」
「何を?」
「いろいろ」
クーデターを起こす必要がある、というクロエの言葉は過激だと感じたが、その言い分にも一理あると思ってしまったことを、希佐は否定しない。
広い大海原の只中を、より良い航路を選びながら舵を切り、順風満帆な航海を行いたいと願うのは、誰にとっても至極当然のことだ。
船長の言葉は絶対だと言われてしまえば、それまでだろう。船長の言葉に賛同できずとも、黙って従うのが乗組員の定めなのだ。そうしなければ、船長の手によって海に突き落とされるか、下手をすれば船ごと沈没し、全員揃って海の藻屑となりかねない。
だが、多くの乗組員たちが、船長のやり方に不満を抱いていたとしたら、どうだろう。過酷な労働環境を改善させるべく、反旗を翻したとしたら。
相手が乗組員たちの要望に応えてくれる船長ならば問題はない。進言を素直に聞き入れ、心を入れ替えてくれたなら、その後も良好な関係性を築ける可能性は十分に残されている。しかしながら、船長が聞く耳を一切持たなければ、大きな犠牲を払うことになるのだろう。それを先導した者の首が飛び、それに従属した乗組員たちもただでは済まされない。
商業舞台の世界のことは、まだよく分からない。だから、少なくとも後悔のないようにしたいと思うが、自分勝手な考えや行動が許されないことも理解している。
ただ最善を尽くしたいだけなのだ。
最期のその瞬間まで。
「よぉ、キサ」
胃の具合が落ち着くのを待ち、ルイがやってくるまでの時間を使って希佐が一人でストレッチを行なっていると、スタジオに想定外の人物が現れた。
「バージル!」
黒のレザージャケットに同素材のパンツを合わせ、ヘルメットを小脇に抱えたバージルが、扉に鍵をかけてから、マットの上に座っている希佐のところまでやって来る。思わず両腕を伸ばすと、バージルは腰を屈めて抱きしめてくれた。
「忙しいって聞いてたから心配していたんだ。でも、元気そう」
「おう、体調管理には人一倍気を使ってるからな。ダンサーは体が資本だろ。お前こそ、ぱっと見は元気そうで安心したよ。根詰めてるんじゃねぇかって心配してたんだ」
「ハンナも元気?」
「ああ。ヘレンのところに預けてるハンナに会って、今帰ってきたところだ。まるで我が家みたいにくつろいでいやがった。もうしばらく世話になるってよ」
「広いお庭があるんだっけ」
「毎日朝から晩まで走り回っているらしいぞ」
「バージルは寂しいんじゃない?」
「当たり前だろうが」そう言って口を窄めたバージルを見て、希佐はくすりと笑う。「ルイはまだ来ないのか?」
「うん、今日は少し遅くなるって」
「そうか」
バージルはそう言うと、希佐の頭にとんと手を置いてから、アランに声をかけてくると言って、事務室の中に姿を消した。
希佐はスマートフォンで音楽を流しながら、鏡を見つめ、ストレッチを続ける。呼吸を深くし、全身を通う血潮を感じながら、指先の更に先まで意識を向ける。体を起こすのに合わせて息を吸い、倒すのに合わせ、倍以上の時間をかけて、ゆっくりと吐き出した。
イライアスは、まるで背中に翼が生えていたのではないかと疑ってしまうほど、肩甲骨がよく動く。腕を高く上げるとき、首が長く伸びて、肩が下がり、肩甲骨が僅かに横へ動く。その後ろ姿が、息を呑むほどに美しくて、希佐はいつも見惚れてしまうのだ。同じようにはできないと分かっていても、憧れを抱くのは自由だと言い訳をして、いつもその姿を、お守りのように脳裏に思い描いている。
『美しい子がいるなと思っていたんだ』前に、スタジオの隅でイライアスが踊る姿を見学していたとき、ルイがそう声をかけてきたことがあった。『私が彼を初めて見たのは、もう十年以上も前のことでね。この子の将来に期待したいと思っていたのに、ロイヤル・バレエ団の知人から、彼はバレエをやめたと聞かされて、ずっと残念に思っていたんだよ』
ルイが帰ったあと、そのように言っていたことを伝えると、イライアスは少し困ったような顔をして、言葉を選びながら話し出した。
「あの人が僕を評価してくれていたのは素直に嬉しい」でも、と言いながら、イライアスはどこか照れた様子で鼻の頭を掻いた。「僕はアランに憧れて舞台を志してみたいと思ったんだ。自分から何かに挑戦してみたいと思ったのは、初めてのことだったんだよ。最初は困惑したけど、そんな僕をアランが受け入れてくれたから」
だから、この道に進んでよかったと思っているんだ──イライアスはその後にも言葉を続けようとしたが、思い直したように小さく頭を振ると、口を噤んでしまった。
人にはそれぞれの事情があって、時には周囲の期待とは外れた道を歩き出すことがある。約束された成功を捨ててでも、挑戦をしてみたいと思うことがある。一度きりの人生を、後悔のないように生きていくためには、自らの心の声に従うべき瞬間が、誰の身にも訪れる。
イライアスにとっての分岐点は、アラン・ジンデルとの出会いだったのだろう。あの日の神社が、立花希佐にとっての分岐点だったように。そして二人は自らの心に従い、今、ここにいる。
三十分ほどが経ち、希佐のウォーミングアップが終わった頃、バージルが一人スタジオに戻ってきた。
「お前よりもあいつの方がよっぽど根詰めてるみたいだな」目に掛かりそうなほど長くなった前髪を、邪魔そうに掻き上げながら、バージルが言う。「まあ、無理もねぇか」
「何か話した?」
「まあな」
こんなふうにバージルが不自然に視線を逸らすとき、その話題については追求してほしくないと思っていることを、希佐は知っている。
希佐は話題を変えようと、すぐに思考を切り替えた。
「そういえば、バージルは今度のチャリティーイベントには出演するの?」
「ん、ああ、毎年出演してるから、今年も出るつもりではいる。まだ何をやるかは全然決めてねぇけど」
「私も出ようと思っているんだ」
「でも、プロデューサーには止められたんだろ?」どこでその話を聞いてきたのだという目を向ければ、バージルはごまかすように肩をすくめた。「お前は人の言うことを素直に聞くようなやつじゃない。でもな、あんまり自分勝手なことばっかりしてると、せっかくのチャンスを棒に振る可能性もあるんだってことは、しっかり頭に入れておけよ。せっかく苦労してオーディションに合格したって、首を切られたらおしまいだ。いくら演出家に気に入られていても、プロデューサーに嫌われたらやりづらくなる」
「……商業の世界って大変なんだね」
「当然だろ。カオスの公演みたいな投げっ放しが許されると思ったら大間違いだからな。商業の舞台ってのはエンターテイメントだ。客を喜ばせてなんぼの世界なんだよ。大枚を叩いている分、その見返りも求められる。期待値が大きければ大きいほど、失敗したときのリスクがデカくなる。何十万ポンドっていう金をかけた舞台が、一週間でクローズするっていう悪夢のような話だってあるんだ。脅すようだけど、お前はそういうものを背負ってる。そろそろ自覚を持て」
「はい」
ユニヴェールに在学していた頃から、そうした責任とは常に戦ってきた。だから、自覚がないわけではないのだ。ただ、どうしても実感が湧かない。自分が特別なプロジェクトの中心にいることは分かっていても、それが実際に始動してみないことには、本当の意味でことの重大さを理解するのは難しいことのように思えた。
「ま、俺は今回関係者じゃねぇからな、あんまり横から口を挟むようなことはしたくねぇんだけどさ」
「でも、マダム・ルーはイベントに出ることを前提に準備を進めなさいっておっしゃっていて」
「ああ、クロエ・ルーか」
「知り合い?」
「ヘスティアで何回か話したことはある」
「タイプじゃない?」
「あの手の女には深入りすべきじゃねぇだろうな。因みに、俺のタイプかどうかはノーコメント」生意気なことを聞くんじゃないとでも言うふうに、バージルは希佐の額を軽く小突く。「現段階でプロデューサー同士が意見を対立させてるっていうのは、あまり良い兆候じゃない」
「どちらに従うべきだと思う?」
「好きな方でいいんじゃねぇか?」
「……他人事だと思って適当に答えてる?」
「いや」じっとりとした目を向けてくる希佐を見て、バージルは小さく肩をすくめた。「嫌いな相手に付いて行ったって仕方がねぇだろ」
確かにその通りだ。そう思った希佐が、口を噤んで唸り声を上げると、バージルはそれを面白がるようにくつくつと笑った。
「とはいえ、件のプロデューサーは、以前から何度もスペンサーと組んで、甘い蜜を吸ってきた男だからな。スペンサーは、同年代の中ではそれなりのヒットメーカーだけど、何せ金遣いが荒い。舞台美術はもちろん、大掛かりな舞台装置を作りたがるし、衣装も凝る。完全新作の舞台だから、絶対的な成功を保証することのできないこの世界では、でかいリターンが見込めないかぎりは、スポンサーも出資したがらないのが実際のところだ」
「スペンサーさんは、プロデューサーとスポンサーとの間には太いパイプがあるって」
「だろうな」
「だから、スペンサーさんはプロデューサーの言いなりになるしかないってこと?」
「それは本人も承知の上だったんじゃないのかね。理想の舞台を作り上げるためには、兎にも角にも金が必要だ。それを自分で工面するには莫大な時間と労力が必要になる。そうする時間が惜しいから、多少の圧力には目を瞑ることを選んだんだろうけどな。それで自分の首を絞めているようじゃ、先行きは不安しかねぇだろうよ」
もしかしたら、クロエ・ルーはスペンサー・ロローの気持ちを汲んだ上で、今回のことを計画したのではないかと、希佐は思った。
スペンサーのあの苛立ちと情緒の不安定さは、まだ短い付き合いながらも、何かに追い詰められているような、思う通りにならない現状に辟易しているような、そんな危うさを感じさせるものだった。
その苛立ちの原因が自分にもあると分かっているからこそ、希佐は大人しくしている方がいいのか、行動を起こした方がいいのかで、頭を悩ませている。
「こういう問題はプロデューサー同士が話し合って解決するのが一番だ。外野が口を挟むと、余計ややこしいことになる。クロエ・ルーからイベントの準備を進めておくように言われていて、お前がそれに賛同するなら、求められていることを粛々とこなせばいい。いずれにしても、本番を見越した稽古は無駄にはならないだろ」
「うん」
「それに、お前たちがイベントに向けての稽古をはじめるなら、俺もここを使えるだろうし」
「バージルが来てくれたら、ルイが喜ぶと思うよ」
「ん? 喜ぶのはあの野郎だけか?」
「もちろん、私も嬉しい。久しぶりにバージルと一緒に稽古ができるの、すごく楽しみだな」
バージルが言うように、もしイベントに出演することが適わなくても、その間に稽古したことは絶対に無駄にはならない。それに、この二ヶ月間でみっちりと学んだダンスの成果を発揮できる、打ってつけの機会だ。実際に演技をしてみることで、今の自分に足りないものも明確になるだろう。
「あれ?」程なくして現れたルイは、後ろにイライアスとジョシュアを従えていた。「おはようございます」
希佐が目を丸くしたままそう挨拶をすると、ジョシュアは「やあ」と片手を挙げて応じてくれた。ルイは、パイプ椅子に座ってスマートフォンを操作しているバージルの姿を見つけるなり、途端にその目を輝かせる。大きな躯体の男に駆け寄られたバージルは、反射的に顔を上げて「げっ」と声を上げた。
「これは徹夜明けの夢デスか?」
「おいおい、なんだよ」
「ずっと会いたかったんデスよ、バージル」
「いや、俺は別に会いたくはなかった」
『メッセージを送ったのに返事をくれないから』
「は? だから、フランス語はよく分からなねぇんだって」
そうやって大の男たちが戯れ合っている様を、ジョシュアは半ば軽蔑するような眼差しで見やっている。
「おはよう、イライアス」
「おはよう」一人我関せずという態度で荷物を下ろしていたイライアスは、歩み寄ってきた希佐を振り返って挨拶をした。「ごめんね、大勢で押しかけて」
「ううん、それはいいんだけど」
「君には昨日言ったと思うけど」ジョシュアは、スタジオの隅で戯れ合っている男たちを無視することに決めたらしい。「そろそろ歌劇の稽古に取り掛かりたいんだ。歌いながら踊る練習だよ」
「踊りながら歌う、デス」
「ああ、はいはい、踊りながら歌う練習ね」離れたところからすかさず訂正を入れるルイの声に、ジョシュアはうんざりとした様子で応じた。「キサも久しぶりでしょ?」
「はい」
「その辺りの感覚が大分衰えてると思うんだ。だから、少しずつ擦り合わせていこう。どの程度の割合だと、最も釣り合いが取りやすいのかも、ある程度は把握しておきたいからね」
「ペアですか?」
「いや、最初はソロだよ」
曲はね、と言いながら、ジョシュアはポケットからスマートフォンを取り出した。その間に上着を脱ぎ、履いていた靴を脱いだイライアスが、希佐の脇を通り過ぎてスタジオの中央に歩いていく。
「イライアス?」
「見てて」
希佐やジョシュアから離れた場所に立ったイライアスは、その場で少しだけ体の筋を伸ばすと、鏡と対峙するように立った。大きく吸い込んだ息を吐き出し、そっと目を伏せたとき、ジョシュアのスマートフォンから、ピアノのイントロと女性のハミングが流れ出した。
目の前でイライアスが披露してくれたダンスは、練習用としてはあまりに完成度が高く、同時に難易度も桁外れの振り付けだった。
インディーポップのゆったりと流れるような音楽に合わせ、やわらかい動きが取り入れられたダンスだ。以前、イライアスはルイから「君はコンテンポラリーに偏りすぎている」と指摘を受けていたが、今回もまた、コンテンポラリーの要素を取り入れた構成に仕上がっている。驚くほど繊細で、物悲しく、鬱々とした美しさがあった。
「……えっ」すべてが終わったとき、イライアスは唖然としている希佐を、鏡越しに見ていた。「私がこれを踊らせてもらえるの?」
「うん」
『彼は昨日の夜から徹夜で振り付けを考えていたんだよ』バージルに戯れつくことをやめ、その隣でイライアスが踊るのを黙って見ていたルイが言った。『ほとんどが彼の振り付けだけど、私が少しだけアレンジを加えている。喧嘩しながら足したり引いたりして、ようやくこの形に落ち着いたんだ。おかげで酷い寝不足だよ。美容にも良くないし』
ルイは、ふわあ、とこれ見よがしに大きな欠伸を漏らした。
希佐は自分が謝るのもおかしな気がして、こちらを振り返ったイライアスに目を向ける。イライアスは悪びれた様子もなく、ただ希佐の反応を窺うような目で、こちらを見ていた。
イライアスは相手の技量を正確に見極めることができる人だ。きっと、希佐ならば踊れると確信しているからこそ、難易度の高い振り付けに挑戦してくれたのだろう。
それならば、受けて立たなければならない。
「ちょっと待った」希佐が口を開きかけると、隣にいるジョシュアが言った。「水を差すようなことを言うけど、その振り付けじゃ歌うのは難しいよ。ダンスの振り付けとしては最高だと思うけど、踊りながら歌うなら、幾つか修正してもらう必要がある」
やっぱり僕が見にきて正解だったと言うジョシュアを、イライアスとルイは不満そうに見ているが、当人は至って平然としていた。
「二人とも、ムッとしない」
「上半身が問題なんだよ」そう言って、座っていたパイプ椅子から立ち上がったバージルは、今見たばかりの振りを簡単に踊ってみせた。「知ってると思うが一応言っておくと、喉頭から胸骨柄の線は真っ直ぐを保つんだ。そうしないと安定した声を出せない。コンテンポラリー専攻の連中は、バレエ本来の特性とは違って、上半身をしならせる動きを取り入れることが多いから、歌いながら踊るダンスとしては適さない。バレエ畑の人間には、そもそも踊りながら歌うっていう文化がないからな。見栄えを良くするためのダンスに極振りしたがるんだろうが、人体の構造的に難しいって話だ」
カオスの公演では、そこまで激しく歌って踊るということがなかった。おそらく、アランが故意にそのような脚本を書き、演出を行なっていたのだ。
アラン・ジンデルは欠点を補うよりも、得意を生かすことに重きを置いている。踊れる者が踊ればいいし、歌える者が歌えばいい。歌って踊るということをしていたのは、主にバージルと希佐だけだ。だから、カオスの公演が決まるたびに振り付けを担当していたバージルは、希佐が歌いやすいように振り付けを考えたり、イライアスが考えた振りに、それとなく手を加えてくれていたに違いない。
ユニヴェール時代から、感性と感覚で振り付けをしていた希佐は、自分の歌いやすいポイントを無意識的に理解していたのかもしれないと、今更ながらに思う。
「イライアス」鏡に向かって試行錯誤しはじめた背中に歩み寄り、希佐は声を掛けた。「素晴らしい振り付けを考えてくれてありがとう」
「すぐに考え直すから、待って──」
「私、どちらも覚えるよ」
「え?」
「イライアスが考えてくれた振り付けで、完璧に踊れるようになりたいんだ。でも、今回の課題は歌いながら踊ることだから、まずはその課題をクリアする。それなら何の問題もありませんよね?」
「お好きにどうぞ」
「ね」
「……分かった」
希佐にはイライアスの意図するところが分かるからこそ、その通りに踊りたいと思ったのだ。アランを舞台上に引き摺り上げたいと願う希佐のための、選曲とダンスだと。
少しだけ時間が欲しいと言ったイライアスは、スタジオの隅に移動し、鏡の中の自分と対面しながら振り付けを練り直しはじめた。壁に背中を預けて立っていたルイは、その身を起こすと、ゆったりとした足取りでイライアスの方へと歩いて行った。
「彼は君のことをよく見ているね」ジョシュアは用意してきた楽譜をカバンの中から取り出しながら言う。「君が光り輝くポイントを的確に押さえてる。でもそれって、地雷を踏み抜く可能性がある紙一重のポイントでもあると思うんだ。その人にとってのトラウマかもしれない記憶を呼び起こして踊らせるなんてさ」
「私がお願いしたことですから」
「これでイベントに出るつもり?」
「マダムは準備しておくようにと」
「まあ、ルイとイライアスもそのつもりで動いているんだろうけど。練習曲にしては難易度が高すぎるよ」
「イライアスの課題曲は決まっているんですか?」
「いや、ぼくはまだ聞かされてない」
はい、と手渡された楽譜と音源を受け取り、希佐は反射的に感謝の言葉を口にする。ひとまずは聞いたことがある曲だったことに安堵しながら、ジョシュアがあらかじめ書き込んでおいてくれる注意書きに視線を走らせた。
「でも、彼には大冒険をさせてあげたいからね」
「大冒険ですか?」
「もうずっと自分の殻を破れって言われ続けているのに、それができないのは本人だってつらいでしょ。あの手のタイプは、何かのきっかけで一気に化けることが多いんだ。その感覚は『God Only Knows』のときに経験しているはずだから、そう難しいことでもないと思うんだけど」
役者が化ける瞬間というものを目の当たりにしたことがある。
彼らは、理想とはかけ離れた自分自身の姿に苦しみ、落胆し、絶望しているのだ。求められているものは理解していても、そこまでの道筋が見えないせいで、足を踏み出したその先に、奈落の底へと落ちる穴が空いているかもしれないと恐怖し、怯えている。
そこに橋を架けてやることは簡単だ。その手を引いて、ゆっくりと時間を掛けて渡り、向こう側へ連れていくことだってできる。だが、希佐とイライアスは疾うにその段階を通り過ぎていた。
二人で何かを乗り越えるよりも、それぞれが自らに不足している部分を補い、再び手と手を取り合ったときに、より強固なパートナーとして隣に立つことの方が、今は重要のように思える。
今の自分に不足しているのは、イライアスの隣で踊るダンスの技術だ。田中右宙為は、今のままでは釣り合いが取れないと、そう言い残して日本へと帰っていった。本格的な舞台稽古がはじまるまでには、自分なりの答えを見つけたいと、希佐は考えている。
だからこそ、誰かのために何かをするよりも先に、自分に与えられた課題を克服する必要があるのだ。イベントの舞台に立つことはできないかもしれないが、まずはそれまでの約一ヶ月半という時間を目一杯に使い、少しでもイライアスとの技術の差を埋めたい。
もちろん、アラン・ジンデルをその気にさせるというのが目下の目標ではあるが、それは今後のやり様次第だ。
一通りの振り入れを終えてから、希佐は自分のスマートフォンに、イライアスが踊る約三分間の動画を録画させてもらった。
これでいつでも振りの確認をできると思いながら、きちんと撮影できているかどうかを確認していると、スタジオの隅で体を動かしていたバージルが歩み寄ってくる。
「終わったか?」
「うん」希佐は画面を見下ろしながら頷いた。「今は何となくだけど、次の稽古のときまでには、振りを完璧に体に叩き込んでおく」
「んじゃ、俺がイライアスを借りても問題ないな」
「え」タオルで顔の汗を拭っていたイライアスが、訝しげな顔をしてバージルを見上げた。「何をするの?」
「次はお前のダンスの振り入れだ」
「僕?」
「ルイに頼まれてたんだよ」少し離れた場所から、振り入れの様子を見守っていたルイが、自分を見ているイライアスに向かってひらひらと手を振った。「さすがに老体に徹夜は堪えるな」
「忙しいって」
「おう、忙しかった忙しかった。でもまあ、とりあえず仕事に一区切りはついたし。それに、他ならぬお前のためだっていうからな、一肌脱いでやったんだよ」
「恩着せがましい」
「俺の振り付けを見てから物を言え」
バージルはそう言うと、手に持っていたスマートフォンを希佐に向かって差し出してきた。それを受け取った希佐は、画面に表示されている曲のタイトルを目の当たりにし、えっ、と思わず声を上げる。
「えっ、あの、バージル──」
「合図を出したらかけてくれ」
「あっ、はい」
イギリスをはじめ、欧州や海を越えた大陸からも振り付けの依頼を受けているバージルは、あまりジャンルにこだわりを持たない。それどころか、あらゆるジャンルの音楽に合わせて振り付けを行うことができる、稀有な才能の持ち主だ。
だが、この楽曲はポップスの括りの内には入っていても、トロピカル・ハウスやエレクトロニカなどのジャンルを取り入れた、ラテンの風すら感じさせる一曲だ。
まったくもってイライアスのイメージとは結びつかないその歌を、希佐は合図を送られると同時に、再生させる。
「う、わ……」
音楽がかかった途端にぞわっと鳥肌が立ったのは、鏡越しに合ったバージルの目に艶っぽさを感じたからだろう。意図せず漏れてしまった声に驚き、自らの口に手の平で蓋をした希佐を鏡越しに見たバージルは、どこかシニカルににやりと笑う。
この人も根っからの表現者だったという当然すぎることを、希佐は今更になって思い出していた。
羽が生えているかのように軽やかに踊るイライアスとは、あまりに対照的なステップと音の取り方だった。裏で鳴っているその音を拾うのかという驚きと意外性がある。難易度の高い足の運びを容易くやってのけるせいで、うっかり見過ごしてしまいそうになるのだ。
そして、何よりもイライアスのイメージとかけ離れているのは、そのダンスで表現されている人物が、性に奔放な印象を与えるということだった。誰の目から見ても中性的なイメージがあり、ダンスそのものにも性を感じさせないイライアスがこれを踊っている姿を、今はまだ想像することができないと、希佐は思う。
バージルは見せつけている。お前はこんなふうには踊れないだろうと、挑発するように。見るからに遊び人という雰囲気を覚えるのに、少しも嫌味に感じないのは、バージルらしさが前面に出ているからなのだろう。
見ているだけで汗ばんでくるような色気に当てられ、妙にドキドキしてしまう。その興奮はダンスが終わった後も覚めやらず、希佐は胸を抑えたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
次の曲が再生される前に、アプリを閉じる。
「っと、まあ、こんな感じだな」
希佐は思わず手を打ち鳴らしそうになるが、隣に立っているイライアスの面持ちを見て、ただのファンになりかけていた自分の気持ちを引っ込めた。
まるで違う星の奇怪な求愛行動でも目の当たりにしたかのような、理解ができないといったふうのイライアスの顔を見ると、バージルは大袈裟なくらい大きく肩をすくめた。
「品行方正なお坊ちゃんには少しばかり刺激が強すぎたか?」
「……これを僕に踊らせるの?」
「無理にとは言わない」バージルは目の前までやってくると、希佐の手からスマートフォンを取り返す。「でも、俺はお前になら踊れると思って選曲をしたし、これを振り付けた」
しかし、イライアスは何かを考えるようにバージルから目を逸らしたまま、何も言わない。バージルは希佐と顔を見合わせてから、平然とした口振りで話を進める。
「本当に無理すんなよ、嫌々踊らせるために振り付けたわけじゃねぇからな」
「……違う」
「何が」
「無理はしない」どちらとも取れる言葉を口にしてから、イライアスは真っ直ぐにバージルを見上げた。「これが僕に求められているもの?」
「さあな」
「僕の中にないものをどうやって表現すればいい?」
「そりゃあ──」そう問われたバージルは、困ったように頭を掻いてから、助けを求めるように希佐を指した。「俺に聞くより、こいつに聞いた方が早い」
「えっ、私?」
「俺が経験上知っていることを事細かに説明して聞かせたところで、イライアスはそれを理解しないだろうが」
だからと言って丸投げをするのは良くないと思ったが、今まさに困りきった表情を浮かべているイライアスを放置して、バージルに反論するのも賢明ではないと思った。
「うーん、そうだな」希佐は一度吸った息を吐き出しながらバージルを睨み、すぐにイライアスへ視線を向ける。「私の場合は、周りの人のことをとにかく観察する。男性を演じるときなんかは特にね。できるだけ多くの人を観察して、その人の考え方や体の動かし方、ちょっとした癖や話し方なんかを勉強させてもらう。例えば、百人の人を観察したら、それを自分の中に落とし込んで、じっくりと煮詰めて、たった一人の新しい人格を作り上げる。こういうことを何年も繰り返していると、自分の中に少しずつ人格の引き出しが増えていく感じがするんだ」
ユニヴェールに入りたての頃、新人公演を終えてほっとしていたのも束の間、夏公演で与えられた初めてのジャック役を演じることに難儀していると、当時三年生だった睦実介がそっと手を差し伸べてくれたときのことを、希佐は不意に思い出していた。
同じ顔、同じ声、同じ外見の別人が、この社会のどこかで生活しているのだ、と。
「もしこんな人がいたら、何をどんなふうに考えて、どんな話し方をして、歩き方はこうでって肉付けをしていくうちに、自分には到底理解できなかったはずの相手の姿が、ぼんやりとでも見えてくるようになる」
そうして完成されてきた役柄たちは、そのすべてが今もまだ、立花希佐の中で生き続けている。息づいている。ひとりぼっちで寂しかった日々の中でも常に寄り添い、凍える心を暖めてくれていた。
「自分には分からないとか、理解できないとか、演じられないんじゃないかとか、そういうふうに思う気持ちは良く分かる。私も最初はそうだったから」
「キサが?」
「そうだよ」意外そうな顔をしているイライアスを見て、希佐は小さく笑った。「自分の中にその人を探そうとするのではなくて、その人と自分は、同じ姿をした別人だと思った方がいい。その人のことを無理に理解しようとする必要はない。分かり合えなくても構わない。嫌いなら嫌いでもいい。ただその人のことを受け入れて、自分の中で昇華することができたなら、新しいものが表現できるようになるんじゃないかなって、私は思うんだ」
「……うん」ゆらゆらと揺れる視点を定めるように、ぎゅっと瞑った目を次に開いたとき、イライアスの灰色の眼差しは強く輝いているように見えた。「分かった」
「よかった」希佐はそう言ってから、ふふ、と笑う。「実はね、今言ったことはほとんど人からの受け売りなんだ。私もその人の言葉に救われたから、あなたの助けにもなったのなら、すごく嬉しい」
イライアスの振り入れはあっという間に終わってしまった。希佐と並んでその様子を見ていたルイが、うむ、と悩ましげな声を上げる。
『彼は私たちに、見栄えを良くするためのダンスに極振りしたがると言ったけれど、あれだって同じことだろう? 我々の文化にはない代物だよ』
『私は好きです、バージルの振り付け』
『私だって好きだよ。でも、あれは彼が踊ってこその良さだ』
『でも、ルイがバージルに振り付けをお願いしたんですよね?』
『彼のタップダンスには品がある』椅子の上に胡座を掻いて座った格好のまま、ルイは僅かにむすっとしていた。『だけど、私が今日見たものは──』
『下品?』
『イライアスには向かないと思う』
『そうでしょうか』そう言う希佐を、ルイは黙ったまま見上げた。『私はそうは思いません』
『なぜ?』
『私はイライアスなら踊れると思います。彼、意外と泥臭いところもあるんですよ』
『泥臭い』ルイは思わずというふうに目を丸くする。『そんなフランス語をどこで覚えてくるの?』
『映画を観て』
『君は本当に頑張り屋さんだなぁ』
『それに、イライアスは私と同じで負けず嫌いだから』バージルもその性格を見越し、挑発するように踊って見せたのだろう。『きっと、バージルの鼻っ柱をへし折ってやりたいって、そう思っていると思います』
『鼻っ柱をへし折る』
ルイは希佐が口にした言葉を繰り返したかと思うと、それが面白くて堪らないというふうに、腹を抱えて笑い出した。何か変な言葉遣いをしただろうかと希佐が眉を顰めていると、ルイは目尻に溜まった涙を指先で拭いながら、ごめんね、と謝罪した。
『あとで何の映画を観たのか教えてくれる? 私も観てみたいから』
希佐たちが振り入れを行っている間、事務室でアランと話をしていたらしいジョシュアが、正午を過ぎた頃になってスタジオに戻ってきた。テーブルの上に置いていた荷物を手に取ると、円陣を組むようにして座り、休憩をしている四人のところまでやって来る。
「僕はもう帰るよ。午後からは別のレッスンが入ってるから」全員に向かってそう言ってから、ジョシュアは並んで座っている希佐とイライアスを順番に見やった。「歌詞を覚えるのはもちろんだけど、各々曲への解釈も深めておくこと。イライアスは特に大変だと思うけど、まあ、まだ時間はあるから気負い過ぎないで。キサは深みにはまるとどんどん沈んでいくきらいがあるから、歌の世界観に引き摺り込まれ過ぎないように」
「はい」
そうして話していると、事務室の扉が開き、身支度を整えたアランが姿を現した。中途半端に開いたままの扉を足で閉め、こちらへやって来る。
「出かけてくる」
「うん」
ざわざわと、心がざわつく。これは、イライアスから与えられた課題のせいだと思いながら、希佐は頷いた。途端にフラッシュバックする。あの日、他に行くところがあるからと言ったアランを乗せ、走り去っていくタクシーの車体が、記憶の中から鮮明に呼び起こされる。
「おい、キサ」アランとジョシュアが出ていった扉から目を離せずにいると、バージルが僅かな緊張を滲ませた声で言った。「気分が悪いなら無理せず休めよ」
「えっ、どうして?」
「鏡見てみろ」
言われるがままに鏡に目を向けた希佐は、自分の顔面が蒼白なことに気づき、思わず苦笑いを浮かべてしまう。ジョシュアから世界観に引き摺り込まれすぎるなと、そう指摘をされたばかりだというのに。
結局、その日はもう踊らせてはもらえず、希佐はイライアスとバージルが踊る姿を、ルイの監視付きでスタジオの後ろから眺めていることしかできなかった。
『そうだ、キサ』
『はい』
『今更なんだけど、もしよければ月経周期を教えてくれる?』咄嗟には返事をできなかった希佐に向かって、ルイは落ち着いた口振りで続けた。『不快にさせたなら申し訳ない。もちろん、言いたくなければ言う必要はないよ。ただ、女性はその時々で体を動かすのがつらいときもあるだろうから、少しは配慮できると思って』
『あ、いえ、不快なんてそんなことは』
『私の妻は症状が酷くてね。精神的にも不安定になるから、現役の頃は本当に大変そうだった。だから、君もつらいときはそう言ってほしいし、無理をせずに休んでほしい。何なら軽いメニューに置き換えることもできる』
『ありがとうございます。今のところは大丈夫です。でも、つらいときはちゃんと相談します』
日本を出てから、生活習慣や食生活が不規則になり、体調を崩すことが多くなった。安定してきたのは、ここ一、二年のことで、それ以前は生理不順や生理痛の症状に悩まされていたこともある。そのときの体調によってはつらく感じることもあったが、アイリーンに相談をして、避妊パッチを使うようになってからは、そうしたこともなくなっていた。
「本当に大丈夫?」
稽古が終わり、皆が帰る時間帯になっても、アランが帰宅することはなかった。一人にするのが忍びないと思ったのか、アランが帰ってくるまで一緒にいるというイライアスの申し出を丁重に断り、希佐は三人をスタジオの外まで見送りに出てきていた。
「大丈夫だよ、イライアス」
「でも──」
『しつこい男は嫌われるよ、イライアス』はは、と笑いながらそう言ったルイは、イライアスのリュックを掴み、ずるずると引きずるようにして歩き出した。『大通りに出てタクシーをつかまえよう』
「二人とも、また明日」
希佐がそう言って手を振ると、ルイはにこりと微笑みながら片目を瞑った。イライアスは未だ気遣わしげにしていたが、ついに観念をしたのかそっと手を振り返し、ルイの後に続いて歩き出す。
「ほどほどにしておけよ」バイクを係留していたチェーンを外し、それをシートの下にしまいながら、バージルが言った。「お前のことだから、これからまた一人で稽古するんだろ?」
「うん」
「俺も最後にもう一回くらいは、お前と一緒に踊りたいって思ってたんだけどな」バージルはバイクに跨ると、エンジンをかけ、抱えていたヘルメットを被った。「それはまた次の機会に取っておくか」
「バージル……」
「手の掛かる野郎だけど、あいつのこと、よろしく頼むな」
ぐりぐりと希佐の頭を少しだけ乱暴に撫でてから、とん、と肩に手を置いて、バージルを乗せたバイクは颯爽と走り去っていった。
スタジオに戻り、扉の施錠をした希佐は、壁のパネルを操作して電気をつける。その眩しさに目を細めながら、スタジオの真ん中まで足をすすめ、鏡の中にいる自分を見た。
すらりとした細身の体躯をしていて、長身とは言えないが、短身というわけでもない。髪は腰に届くほど長いが、今は頭上で一つに結い上げられている。
十代の頃に比べるとシャープになった印象のある顔。長く伸びた首に、真っ直ぐな肩。無駄な肉を削ぎ落とし、筋肉質になった体。この三年間、全ての時間を舞台のために費やしてきた人間が、鏡の向こう側に立っている。
ポケットからワイヤレスのイヤホンを取り出した希佐は、それを耳に嵌めると、スマートフォンのアプリを立ち上げた。課題曲を連続再生するように設定し、スマートフォンを足元に置いた。
体の力を抜いて立ち、何度か深呼吸をしてから、そっと目を伏せる。音楽に耳を傾け、鏡の向こう側で踊っている自分の姿を思い描きながら、それに倣うようにして腕を持ち上げた。
何度も何度も、曲が連続して再生される度に、また最初から、体に叩き込むようにして踊り続ける。だが、鏡の向こう側で踊っている自分のようには、まだ上手く踊れない。
イライアスが最初に踊って見せてくれたとき、希佐の目には確かに見えたのだ。隣には誰もいないはずなのに、イライアスは間違いなく、誰かと一緒に踊っていた。
自分はまだ、その域には達していない。あとどれくらい踊り込めば、あんなふうに踊ることができるのだろうと、希佐は思う。踊り手の横にゴーストの幻影を見せるほどのダンスを、自分にも踊ることができるのだろうか、と。
何の前触れもなく音楽が途切れなければ、希佐は足腰が立たなくなるまで踊り続けていただろう。だが、希佐の体力が尽きるよりも先に、スマートフォンが充電切れを起こしたようだ。
ようやく足をとめた希佐は、大きく息を乱しながら耳に入れていたイヤホンを抜き取り、床に転がっているスマートフォンを拾い上げに向かう。しかし、誰かに見られているような視線を感じて顔を上げると、スタジオの扉側の壁に寄り掛かって立つ人影を見つけ、思わず目を丸くした。
「……いつからそこに?」
「一時間──」アランは壁に寄り掛かったまま、腕時計に目を落とした。「いや、一時間半くらい前」
全然気づかなかったと思いながら、希佐はスマートフォンを拾い上げる。案の定、それは充電切れを起こしていた。電源を入れようと試みたところで、うんともすんとも言わない。鏡のようになった真っ黒い画面には、自分の火照った顔が映り込んでいる。
「今のダンス、イライアスの振り付け?」希佐がその場に座り込みながら頷くと、アランは壁から身を起こしてこちらにやって来た。「戦いの跡がよく見えるよ」
「戦い?」
「ルイとイライアスの」
「ああ」確かに、二人で喧嘩をしながら振り付けを考えたと、そうルイが話していた。「一緒に徹夜で考えてくれたって」
アランは希佐の正面にしゃがみ込むが、ぼたぼたと滴る汗を見て少し待つように言い、すぐに新しいタオルを持って来てくれた。差し出されたそれを受け取った希佐は、そのタオルに顔を埋め、一気に汗を拭う。
「水も」
「ありがとう」
手に取ったペットボトルのキャップを開けようとすると、それが既に緩められていることに気づいて、希佐は息を漏らすように笑った。
アランは希佐がごくごくと水を飲む様子を眺めながら、少し離れた場所に腰を下ろす。
「俺は自分を相当捻じ曲がった人間だと思ってるけど、イライアスも大概だと、君が踊る姿を見て改めて思った」
「どうして?」
「君をカオスに引き入れてすぐの頃、イライアスは君に見向きもしなかっただろ」うん、と頷く希佐を見てから、アランは先を続ける。「でも、ある日突然、イライアスの方から君に声を掛けるようになった。君は不思議そうにしていたけど、理由は明白だ」
「理由なんてあったの?」
「君の絶望を見たからだよ」
「……絶望?」
希佐はアランが口にした言葉を繰り返し、眉を顰める。心当たりを探るように記憶を掘り起こしていると、一つだけ、思い当たる節を見つけた。
「もしかして、初めて『God Only Knows』の読み合わせをした日?」
「『期待値の半分にも達していない』」当時の希佐に言い放った言葉を、アランは一言一句違わずに繰り返した。「『大衆受けする上面の感情なんかどうでもいい。そういうもののためにこの本を書いたわけじゃない』」
「よく覚えてるね」
「忘れない」
あのときは、自分の中にある絶望を表に吐き出すことが、嫌で嫌で堪らなかった。稽古を重ねれば重ねるほど、過去のトラウマが幾重にも折り重なって、希佐の心を黒く塗りつぶしていくようだった。
だが、演じることをやめられなかった。求められていたから。求められているという事実が、絶望の只中にいた立花希佐を、かろうじて生かしていたから。
「イライアスは、キサが絶望を演じる姿を見て、君に興味を持つようになった。あの日、イライアスがどんな顔をして君を見ていたか、よく覚えてる」アランは三年前のあの日、丁度イライアスがいた辺りを眺めながら、静かに言った。「こんなに美しいものを他に見たことがないという顔をしてた」
「そんなに綺麗なものではなかったと思うけれど」
「絶望には匂いがある。それは酷く甘い香りをしているけど、それを嗅ぎ分けることができるのは、同じ絶望を知っている人間だけだ。俺が君からそれを感じ取ったように、イライアスも、君の絶望に惹かれてしまったんだろうな」
イライアスの幼い頃の話を、少しだけ聞いたことがある。きっと、あれがイライアスの抱える絶望なのだろうと、希佐は思った。
「イライアスは君の絶望に美しさを見い出した。俺がその美しさに魅入られていることも理解してる。そしてキサなら、すべてを理解した上で応えてくれるだろうと、そう思ったからこその、あの選曲と振り付けだ」
「アラン──」
「無音の世界で踊る姿すら美しかった。いつまでも見ていたいと思うほどに」
分かってしまうことが嫌だった。絶望と喪失を味わったことがある人を見分けることは容易い。自分がそれを知っているが故に、それを察せてしまうからだ。
そして、それらを知っている役者と、知らない役者の間には、奈落ほど深い溝が存在する。優劣をつけるつもりはない。だがしかし、明らかな差があった。こちら側と、向こう側。それは、今生と死後の世界ほど違う。
寒さを覚えはじめた自らの体を両腕で抱いていると、アランが着ていたジャケットを脱ぎ、それを肩から掛けてくれた。そのまま、希佐の両腕を掴んでその場に立ち上がらせ、顔を覗き込んでくる。
「キサ」
「ん?」
「君に頼みがあるんだ」
続く言葉を期待している。
強く、強く望んでいる。
見上げる緑色の目に、燃えるような炎が宿るその瞬間を、希佐は今まさに目の当たりにしていた。