現実とは残酷なものだ。もしかしたら、無謀すぎるほど高い理想を求めていたのかもしれないと、希佐は思う。こんなはずではなかったという思いが強くなってしまうのは、自らの考えが甘すぎたからなのだろう。何もかもが噛み合わない。気持ちが悪かったのだ。吐き気を催すほどに。
「あらあら」ヘスティアのカウンター席で突っ伏していると、真横からそう言う声が聞こえてきて、希佐はゆっくりと身を起こした。「なあに、その辛気臭いお顔は」
「マダム」
「公衆の面前ではシャキッとしていなさい。パパラッチの餌食にされちゃうわよ」
今夜のクロエ・ルーは、その抜群のスタイルに合わせて仕立てられた黒のパンツスーツを、完璧に着こなしていた。インナーは着ておらず、素肌にジャケットを羽織っているだけのようだ。形の良い膨らみがジャケットの胸元から覗き、肌はキラキラと輝いて、くらくらするような甘い香りを漂わせている。濡れたようにセットされたブロンドの髪は、くしゃりとしたシニヨンに仕上げられていた。
「マダム」
「こんばんは、メレディス」いつものサングラスを外し、クロエはカウンターの向こう側に現れたメレディスに向かって、魅力的に微笑み掛ける。「私にもこの子と同じものをくださる?」
「かしこまりました」
珍しく苦笑いを浮かべてみせたメレディスは、自身の背後にある棚の中から一本の瓶を取り出してきた。磨き立てられたグラスの中に、丸く削った大きな氷を入れ、耳心地の良い音を立てながらウイスキーを注ぎ入れた。
「アランモルト、シェリーカスクです」
「まあ」グラスの中の氷と同じくらい目を丸くし、小さなハンドバッグで口元を隠しながら、クロエは嫌味っぽく言った。「とっても良いご趣味だこと」
メレディスがカウンターテーブルにコースターを敷き、その上にウイスキーグラスを置くのを待って、クロエは希佐の隣に腰を下ろした。
手にしていた財布ほどの大きさしかないシルバーのハンドバッグと、サングラスをグラスの隣に置き、ぼうっと宙を眺めている希佐の顔を、あからさまに覗き込んでくる。
「イベントに向けてのお稽古は順調かしら」
「はい」希佐はグラスを手に取ると、氷が半分ほど溶けて、薄まってしまったウイスキーを喉に流し込んだ。「概ね順調です」
「あなたにしては歯切れの悪いお答えね」
何もかもが順調だと言ってみたところで、この人はいとも容易く自分の嘘を見透かすだろう──そう思ったからこそ、希佐は曖昧な返事をしたのだ。
「今日はお仕事だったのですか?」
「ええ。でも、酷く地味なお仕事だったのよ」自分の質問には答えないまま、まったく別の話題を振った希佐に嫌な顔一つせず、クロエは快く答えてくれた。「私、五年くらい前に独立して、個人事務所を設立したの。エージェントもつけていないから、仕事が欲しければ自分の足で方々を回って売り込みをしたり、オーディションを受けたりしないといけないのよ」
「マダムのような方が、ですか?」
「意外かしら」臆面もせずに頷く希佐を見て、クロエは嬉しそうに微笑する。「大手の事務所に所属しているとね、ある程度の安定は手に入れられても、さほどの自由はないのよ。契約に縛り付けられているから。事務所を辞めるときの苦労に比べたら、今の苦労なんて大したことないわ。むしろ、今の方がずっと楽しい。事務所が選り好みをしたお仕事ではなくて、何でも自分で選ぶことができるのだもの」
そうして楽しそうに話している様子が、素直に羨ましいと感じてしまった瞬間、己が存外思い悩んでいることを自覚し、希佐は途端に自分が嫌になった。
グラスの中身を空にし、小さく息を吐き出す希佐を横目に見て、クロエはカウンターの内側で作業をしていたメレディスを、指先で呼び寄せた。
「彼女にもう一杯出してあげて」
「いや、ですが──」
「大丈夫、私が責任を持つわ」
いつもなら自分から断ろうとする希佐が、何も言わずに黙っているのを見て取り、メレディスは諦めたように頭を振ると、新しいグラスに同じウイスキーを注いでくれた。
「飲み過ぎは良くないよ、キサ」
「これで最後にする」
「さっきも同じことを言っていなかったかな」
呆れ果てたという口振りでそう言いながらも、メレディスは希佐とクロエの前に、チョコレートとドライフルーツの乗った皿を出す。
「それ以上飲むようなら、僕からアランに連絡をするからね」
「分かった」
今日は月曜日だ。ジョシュアのレッスンを受けてきた帰り道、ヘスティアの開店まで書店で時間を潰し、今ここにいる。スタジオへは帰っていない。アランには、今日は遅くなるとだけ、メッセージを送っていた。
「あの子と喧嘩でもしたの?」
クロエが言うあの子というのは、アランのことなのだろう。希佐は口を噤んだまま、首を横に振った。
「話したくないのなら、何も言う必要はないわ。あなたの隣に座ったのは私の勝手ですものね。精々その辛気臭いお顔を眺めながら、美味しいお酒を飲ませてもらうから」
お願いだからどこかへ行ってくれと思う一方、こうして誰かが隣にいて、自分を気遣うような素振りを見せてくれることには、言い知れぬ安心感があった。たとえそれが、好意とは違う、ただ単なる興味本位だったとしても。
「あなたが酒に溺れようと、私は一向に構わないのよ。やることさえやってくれれば、私生活に口を挟もうとは思わない。ただ、あなたもプロなら、仕事に私情を挟むのはおやめなさいね」
「仕事に私情を……」
未だかつて、自分は仕事に私情を挟んだことがあっただろうかと、希佐は思う。いや、あると考えるべきなのだろう。いつだって私情に揺り動かされながら、立つべき舞台を決めてきた。
だが、考えれば考えるほど、仕事と私情の境界が分からなくなる。ユニヴェールに在学していたときから今までずっと、舞台に立つことが希佐にとっての仕事であり、同時に生きることのすべてだった。
舞台に立ち、歌い、踊り、演じる──それが希佐の仕事であり、私情なのだ。
「舞台は私のすべてなんです、マダム」
「そう」
クロエはそう言いながら、真っ赤に染めた爪の先で、ウイスキーグラスの氷をくるくると転がしている。希佐は、その様子をぼんやりと眺めながら、訥々と話を続けた。
「それ以外には何も知らない。そうする以外には生きていけない。舞台を降りた後の自分を想像することができない。だから、舞台に縋っているんです。演じることに固執しているんです。新しい課題を与えられると、身体中が歓喜します。つらいことが嬉しいし、何より楽しい。自分を苦しめている間だけ、強い自由を感じるんです」
「あなた、そんな自分に酔っているみたいね」
「マダム」
「あら、私、何か間違ったことを言ったかしら」思わずというふうに制止に入ったメレディスに向かって、クロエが言う。「そんなもの、舞台人なら誰もが抱えている葛藤でしょう?」
まったくもって理解ができないという面持ちを浮かべているクロエを見て、メレディスは多くを言わず、口を噤む。
「こんなつまらない悩み相談を聞かされる身にもなってくださる? ああ、時間の無駄だったわ。あなたはもう少し面白みのある子だと思っていたのに。あの子が惚れ込んだ才能も、所詮はこの程度のものだったのね」
クロエはそう言うと、小さなハンドバッグの中から綺麗に折り畳まれた紙幣を取り出し、まだ中身が残っているウイスキーグラスの隣にそれを置いた。
「坊や、これでこの子に浴びるほどのお酒を飲ませてあげてちょうだい。こうして自分に酔っている人間を見るより、お酒に酔っている人間を見ている方が、まだずっとマシというものだわ」
今日は帰ると言って立ち上がったクロエに向かって、メレディスはタクシーを呼びましょうかと、義務的な口振りで訊ねている。サングラスを掛け、ハンドバッグを手にしたクロエは、結構よ、と言ってカウンターに背を向けた。
この人は何も分かっていない──こつ、こつ、こつ、と遠ざかっていくハイヒールの音を聞きながら、希佐は思った。
現実とは非情で残酷だ。理想通りにはいかない。
「気持ちが悪かったんです」
「……なんですって?」
「アランと踊りました」指先が氷のように冷たくなっていく。吐き出す息が凍えるように冷たい。体が強張って、微かに震えているのが分かる。「でも、全然だめで……」
こつん、と足音が止まった。背後から突き刺さるような視線を感じても、希佐は後ろを振り返らなかった。ただ、どこか呆然とした表情で自分を見つめているメレディスの顔を、じっと見つめ返す。
「そんなはずはないって思った。きっと何かの間違いだって。でも、だめだった。本当に──どうしてかは分からないけれど、ただ、本当に、気持ちが悪くて」
こうしている今ですら、夢なら早く覚めてくれと祈っている。だが、もう一週間も、この感情と闘い続けているのだ。
こつ、こつ、こつ、と足音を鳴らし、クロエが隣の席に戻ってきた。椅子に浅く腰を下ろすと、残っていたウイスキーを一気に飲み干す。
「同じものをストレートで」
「……はい」
メレディスは希佐の様子を横目に見ながら、カウンターの内側に置いたままにしていた瓶を手に取り、新しいグラスにウイスキーを注いでいた。クロエがポーカーでヒットを申し入れるときのように、人差し指と中指でテーブルを二度叩くと、メレディスはダブルにしてコースターの上にグラスを置いた。
「詳しくお話して」
頼みがあると言われた日の翌日、朝のルーティンはいつも通り一人で行った。朝食の後、時間を置いてスタジオに降りていった希佐は、ルイがやって来る前に、ウォームアップを行っていたアランと軽くストレッチを行い、その瞬間が訪れるのを今か今かと待ち侘びていた。
だが、ことごとく期待は裏切られる。アラン・ジンデルに裏切られたとは思っていない。希佐は自分自身に裏切られたと感じたのだ。期待が一人歩きをした結果の悪夢が、現実として突きつけられた。
「ルイに事情を話したら、とりあえず相性を見たいから、試すだけ試してみようということになりました。それで、軽くワルツのステップを教わって──」自分に強い失望感を抱きながら、希佐は微かに震える声で続けた。「手を取られたときに、何かが変だと思ったんです。上手く言語化できない感情が脳裏をよぎって、それが、ホールドを組んだ瞬間に明確になりました」
「それで気持ちが悪いと思ったの?」
「はい」希佐は小さく頷いてから、大きく息を吐き出した。「ホールドは安定しているし、ステップも揃っているのに、何かが噛み合わないんです。イライアスと踊っているときは、もっと──」
「前に公演の映像データを見せてもらったけれど、彼とは社交ダンスのお教室にまで通ったのでしょう? 何年も組んできたパートナーと初めての男を比べれば、噛み合わないところがあっても当然なのではなくて?」
確かに比べはした。だが、比べたのは技量や相性の差ではない。
他の誰と組んでも、社交ダンスのスタジオに通い、そこで初めて出会った人と踊ったときですら、そんなふうに感じたことはなかった。あんなにもぞっとするような感覚を味わったことは、これまでにただの一度もない。その感覚が、手を握る度に蘇り、背筋の辺りをぞわぞわとさせるのだ。
「イライアスと踊っているときは、お互いのテンションの動きが明確で、自然と体で会話をすることができていたんです。でも、アランにはそれがない」
「だから、それは──」
「違うんです、マダム」希佐は思わずクロエの言葉を遮っていた。「対話をしようとする意思すら感じないんです。押せば引くし、引けば押すのに、そうするのはただ、それが正解だと知っているからという感じで……」
どんなに踊るのが苦手な人でも、人と人とがホールドを組めば、そこには何らかの意思が生じるものだ。前進したい、後進したい、ここで回転を入れたい──リーダーはパートナーに自らの意思を伝え、フロアの上で道を切り開いていかなければならない。
この人は本当に、自分と踊りたいと、そう思ってくれているのだろうかと、希佐は疑わずにはいられなかった。間違いなく技術はある。だが、リーダーとしての役割が果たされていないせいで、意思の疎通が図れない。
華と器。
アルジャンヌとジャックエース。
パートナー関係がどれほど大切なものであるかということは、よく理解しているつもりだ。二人は互いを尊重し、時には競い合いながらも、共に同じ場所を目指して歩いていける、他に代えのきかない存在でなければならない。
自分たちはパートナーではないと言われてしまえばそれまでだ。だが、曲がりなりにも今現在は互いに向かい合い、手と手を取り合っている。その状況下ですら、希佐はアラン・ジンデルのリードに、何一つ感じ入るものがなかった。
「まるで、虚無と踊っているみたい」
だから、気持ちが悪いと言ったのだ。
アランのリードは極端に臆病なわけでも、支配欲が強いわけでもない。だが、何も感じない。ゴーストと踊っている方がずっといい。そんなふうに思ってしまう自分に、希佐は強い嫌悪感を抱いていた。
「あなたは今の今までずっと、恵まれた環境の中で育ってきたのね」クロエはカウンターに頬杖をつき、青色の目で希佐のことをじっと見る。「この世界にはね、そういう役者がごまんといるの。何も珍しい話ではないわ」
「ですが──」
「アラン・ジンデルに限ってそんなことはあり得ないとでも思っていたの?」
希佐には否定することができなかった。違うと言えば嘘になるからだ。
バージル、そしてイライアスが、アランは既に相当踊ることができていると、そう話してくれていた。だから、当人がその気になりさえすれば、あとはもう同じ場所を目指して駆け抜けていけばいいと、そう信じ込んでしまっていた自分の落ち度なのだろうと、そう思う。
「少し頭を冷やした方がいいかもしれないわね、キサ」
クロエはそう言うと、化粧室へ行ってくると言って席を立った。すると、メレディスは近くにいた女性スタッフに軽く目配せを送り、一人でレストルームへと向かったクロエの後を追わせる。ヘスティアは比較的治安の良いパブではあるが、絶対に安全だとは言い切れない。
「キサ」
グラスを手に取ろうとして失敗したその様を見て、メレディスはまだ中身が入っているそれを、素早く取り上げた。代わりに水の入ったグラスを目の前に置く。
「アルコールに逃げても何もいいことはないよ」
「逃げているわけでは──」
「でも、アランからは目を逸らそうとしているだろう?」
「……」
ふわふわとしている感覚はあるものの、思考が嫌に冴えていて、正しく酔うことができない。強い酒に溺れ、たとえ一時的だったとしても記憶を失ってしまった方が楽だと分かっているのに、そうすることもできなかった。
「ほら、水を飲んで」言うことを聞かずに視線を逸らした希佐を見て、メレディスは再び口を開く。「水を飲んでくれたら、一つ君のためになるお話をしてあげるよ」
「私のため?」
メレディスは厳しい表情を浮かべたまま何も言わない。ただ、横目にレストルームの方を気にしているのを見ると、クロエが戻ってくる前に終わらせておきたい話のようだと分かる。
希佐はグラスを手に取ると、水を半分ほど飲んだ。ふう、と息を吐いてから残りの水も飲み干すが、メレディスは満足そうにするふうでもなく、カウンター越しに次の水をグラスに注いでくる。
「これも飲むの?」
希佐がそう問うと、空になった瓶を手元に寄せ、メレディスは首を横に振った。
「アラン・ジンデルには一つだけ欠点がある」
「……欠点?」
「彼は昔からペアダンスだけが踊れなかった」え、という声が、希佐の口から無意識に漏れた。「いや、踊れないと言ったら語弊があるかな。彼はペアダンスも完璧に踊る。でも、意思の疎通ができない。キサはそれを気持ちが悪いと感じたのだと思う」
希佐は、ゆっくりと、静かに、小さく震えながら頷いた。メレディスはそうした希佐を見て大きく頷き返すと、先を続けた。
「彼は他の人には見えない才能を見透かすことはできても、他者の心の機微を察する能力は人よりも劣っていた。子供の頃からね。ただ、年を重ねるにつれて、分かったふりをすることが少しずつ上手くなっていった。他者に合わせることができるようになっていったんだ。でも、それは必ずしも共鳴や共感を伴っているわけではない」
目を伏せ、息を吐く。すると、少し離れた先で両腕を広げ、希佐が自らの方へやって来るのを待つ、アラン・ジンデルの姿が思い浮かんだ。僅かに緊張をしているような面持ちだ。あの日も、こういう顔をしていた。
「基本的に彼は自分勝手な人間だ。平然と日常生活を送っているように見えるだろうけれど、それは彼自身の強い自制心の賜物で、本来は上手く社会に適合することができない。案外こういうタイプの人間は舞台人に多くて、おそらくスペンサー・ロローもこれに当てはまる。だから彼らはお互いを理解し合えるのだろうね」
右手と左手が重なり合う。アランの指先が背中に添えられ、そのホールドの中に収まった瞬間の違和感の答えを、希佐は今更になって必死に手繰り寄せようとしていた。
「多分、幼少期の環境が原因しているのだと思う。他者との交流を極端に避けてきた結果、心の中にはエデンの園のように美しく豊かな想像の世界が育ち、反面、目に見える世界は歪で色褪せたものになってしまった。自分自身の中に完成された一つの世界を持つ子供が、外の世界に興味を示すと思うかい?」
早口に語られる情報を何とか処理しようと試みるが、どうしても上手くいかない。それでもかろうじて首を横に振る希佐を見て、メレディスは更に続けた。
「アランは目に見えるものなら何でも瞬時に吸収した。でも、目に見えないものを理解しようとはしなかった。そうすることで心を守ってきたのだと思うよ。それが彼なりの処世術だったんだ。だから、互いに心を通い合わせる必要のあるペアダンスは、劇団時代から舞台上で踊らせることを避けてきた。いくら外面が美しく保たれていても、見る者が見れば、それが仮初めであるとすぐに分かってしまうからね」
あの瞬間、違和感を覚えていたのは、自分だけではないのかもしれない。アランも同じように、ホールドの中に収まった自分の体から、何かを感じ取っていたのではないだろうかと、希佐は思った。
希佐はアランが何を思い、考えているのかを、必死になって理解しようとしていた。こちらを拒絶するようにピタリと閉じている扉を、無理にこじ開けようとしていた。その扉の向こう側に隠しているものを見せろと、そう迫るように。
もっとゆっくり進めるべきだったのだろうか。しかしながら、立花希佐に残された時間は、あとわずかしかない。
今を逃せば、もう二度と、共に踊ることなどできないような気がしている。柄にもなく焦っているのか。だが、何かを一つ誤れば、取り返しのつかないことになってしまいそうな嫌な予感を、希佐は覚えている。
「彼はいつだって、舞台の真ん中でスポットライトを一身に浴び、誰よりも強い輝きを放っていた」近づいてくるハイヒールの音の方に目を向けながら、でもね、とメレディスは言った。「アラン・ジンデルは常に孤独だった。舞台の上でも、そうでない場所でも」
メレディスはアランから目を逸らそうとするなと、そう言いたいのだろう。決して目を逸らさず、向き合い続けろと言いたいのだ。
だがしかし、ホールドを組むことすら不快に感じている今の自分が、稽古を放り出して酒に逃げている自分が、こんなところで愚痴をこぼしている自分が、あの人と真摯に向き合えるのだろうか。
「さあ、タクシーも到着したようですし、そろそろ帰りましょうか、仔猫ちゃん」
午後九時を過ぎて、店内の客足が増してきた頃、クロエはそう言って椅子から立ち上がった。希佐も続いて立ち上がろうとするが、クロエ・ルーの存在に気づいたヘスティアの客が歩み寄ってきたのを見て、その場に留まる。
頬を赤らめ、ファンなんですと言う若い女性に、クロエは優しく微笑みかけながら「どうもありがとう」と返していた。
気安く会話に応じているクロエの声を背中で聞きながら、希佐が心ここに在らずという様子でメレディスとの話を思い出していると、不意に馴染みのバーテンダーが声をかけてくる。
「メレディスから預かった」そう言って差し出されたのは、ヘスティアのショップカードだった。不思議そうな顔をしながらそれを受け取る希佐を見て、バーテンダーは小さく笑う。「裏だよ」
「裏?」
そう言いながらカードを裏返そうとしたとき、背後からクロエに声を掛けられた希佐は、慌ててそれをポケットに入れる。
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
颯爽と歩き、既に出入り口前まで足を進めていた後ろ姿に追いつくと、悪戯っぽい表情を浮かべたクロエが、サングラス越しに希佐を見やる。
「ラブレターかしら」
「違います」
「あら、怖いお顔」
冗談よ、と笑って言いながら、クロエは待たせていたタクシーに向かって、真っ直ぐに歩いていく。後部座席のドアを開き、希佐を振り返って、中に入るようにと促した。
一人で帰れると言ったところで、車内に押し込まれることは目に見えている。希佐が促されるままにタクシーに乗り込むと、続いて車内に入ってきたクロエは、慣れた口振りでスタジオのある通りの名を告げた。
クロエはタクシーが走り出すなり、バッグの中からスマートフォンを取り出して、切っていたらしい電源を入れる。青白い光がクロエの美しい横顔を浮かび上がらせた。希佐よりも慣れた手つきで画面を操作していたかと思うと、小さく通知音が鳴り、サングラス越しの目がこちらに向けられる。
「電話を掛けても構わないかしら」
「もちろん、どうぞ」
「ごめんなさいね」
そう言ってスマートフォンを耳に当てたクロエは、程なくすると流暢なフランス語で話をはじめる。ほとんど癖のように聞き取り練習をはじめそうになった希佐だったが、窓の外に意識を飛ばし、隣から聞こえてくる艶やかな声に耳を傾けないようにした。
人通りの多い繁華街から、徐々に街頭が減っていき、住宅街へと差し掛かる。今日は月が見えないと考えながら曇天の空を見上げていた希佐は、ふと先ほど受け取ったカードのことを思い出し、そっとポケットに手を入れた。
ちょうど交差点に差し掛かり、真横にあった街灯の明かりが車内に差し込んでくる。その光を頼りに目を凝らすと、カードの裏側に記された文字を読み取ることができた。
《Only the person of worth can recognize the worth in others.》
文末には、トーマス・カーライルの名がある。確か、イギリスの作家だったはずだ。価値のある人間だけが、他者の持つ価値を理解することができる──そのように書かれている。
メレディスが一体どのような意図で、この言葉を贈ったのかと希佐が考えているうちに、タクシーは教会側の通りにその車体を停車させた。いつもとは違う場所に止まったことで、希佐は一瞬自分がどこにいるのかが分からなくなるが、クロエに続いてタクシーを降りると、見覚えのある景色に安堵の息を吐く。
「次は一時間後にここまで迎えにきてくださる?」
「えっ?」
てっきりこのままタクシーに乗ってメレディスのアパートまで帰るのかと思いきや、クロエは次の迎えの時間を指定すると、希佐の隣に立って走り去るタクシーを見送った。
「さ、行くわよ」
「行くって、どこへ──」
「あの子のところに決まっているでしょう?」
希佐は自分の顔からさあっと血の気が引いていくのを感じていた。ただでさえ良好とはいえない空気が漂っているスタジオに、このままクロエ・ルーを連れ帰ったら、アランは酷く気分を害するだろう。そう思いながらクロエを引き止めようとするが、アルコールの回った頭では、この人の関心を引けそうな言葉を考えることもできない。
自分が余計な話をしたばかりに、今から最悪な事態に見舞われるのではないかと思うと、希佐は気がおかしくなってしまいそうだった。
「マダム、あの──」
「今更帰れと言っても無駄よ」クロエは後ろを振り返らずに言った。「あんな話を私にして聞かせた自分をお恨みになって」
そのようなことなど言われずとも、希佐はあのとき口を滑らせてしまった自分自身を間違いなく恥じ、悔い、恨んでいた。本当は、閉店時間までヘスティアに居座って、メレディスに相談に乗ってもらうだけのつもりだったのだ。
こつ、こつ、こつ、とハイヒールの音が静かな住宅街に反響している。その音がぴたりとやんだのは、クロエがスタジオの扉の前で足を止めたときだった。
爪が真っ赤に染められている人差し指を立て、しつこいくらいに長く、来客用のブザーを押し鳴らしている。スタジオの主が現れるまで慣らし続けるつもりのようだ。
お願いだからやめてくれと手を伸ばしかけたとき、ガチャリと施錠が外される音が聞こえ、どこか乱暴に扉が押し開けられた。クロエの顔面ぎりぎりのところを扉が通り過ぎ、掛けていたサングラスが石畳の床に音を立てて落ちると、儚い音を立ててレンズが砕け散る。
「あっ……」
そう声を上げたのは希佐だ。クロエは目と鼻の先を重たい扉が通り過ぎていったというのに、微動だにせず、顔色一つ変えていない。ただ、汗だくで目の前に立っているアランを真っ直ぐに見上げている。
アランは酷く冷ややかな目でクロエのことを一瞥してから、その後ろに立っている希佐に目を向けた。
「……ただいま」
Hi.と挨拶をした希佐を睨むように見た後、アランはくるりと踵を返してしまう。
「どうぞ、くらい言ったらいかが?」
挨拶もせずに戻っていくアランの背中に向かってクロエが言う。アランは肩越しに手を挙げると、投げやりに「どうぞ」と言った。
クロエは今にも閉まろうとする扉の隙間に体を滑り込ませ、するりとスタジオに足を踏み入れた。希佐は音を立てて扉が閉まるのを黙って見届けてから、その場にしゃがみ込んだ。スマートフォンのライトを頼りに、壊れてしまったサングラスを拾い集める。
「気に入っていたんじゃないのかな……」
希佐がクロエ・ルーを見かけるときは、いつもこのサングラスを掛けている印象があった。弁償をした方がいいのだろうか。いや、それよりも怪我はしていないだろうか。そう思いながら、広げたハンカチの上に割れたレンズを載せていると、スタジオの扉が再び内側から開かれた。
「なにしてるの」
「マダムのサングラスが落ちて壊れてしまったから」いつもよりずっと低い不機嫌そうな声に、希佐は答える。「ごめんなさい」
「なんでキサが──」
アランはそこまで言ったところで口を噤むと、短く息を吐き出してから、大きく扉を開いた。早く入れということなのだろう。希佐は壊れたサングラスをハンカチに包んで立ち上がると、電気が煌々と灯っている室内に入る。
クロエはスタジオの中程に立ち、辺りを興味深そうに眺めていた。とはいえ、殺風景なスタジオだ。カオスの劇団員たちに割り当てられたロッカーや掃除用具入れ、長テーブル、パイプ椅子──物珍しいものがあるとすれば、ノアが設置していったハンモックくらいだろう。
「マダム、これは」
「ああ、それ。拾わせてしまってごめんなさいね。ついでにあなたが処分してくださる?」
「でも」
「どうせもう掛けられませんもの」
処分をしていいと言われたとはいえ、その場でゴミ箱に捨てるわけにもいかない。希佐は壊れたサングラスをハンカチに包み込んだまま、自らのコートのポケットの中にそっと入れた。幸い、クロエの顔に怪我をした様子はない。
「さあ、聞いたわよ」アランが希佐の傍まで移動してくると、クロエは満を持してというふうに口を開いた。「あなたたち、上手くいっていないんですって?」
あなたたちと言いつつも、クロエの目はアランだけに向けられている。アランは希佐のことを横目に一瞥するが、特には何も言わずに、クロエに視線を戻した。
「困るのよね、今度のチャリティーイベントには、完璧な状態で出演してもらわないと」
「俺は出演するなんて言ってない」
「あら、キサと秘密の特訓をしているのは、イベントに出演するためではなかったの?」それとも、と言いながら、クロエは青い目を三日月のように細める。「自分の思う通りにならないから、音を上げて放り出すおつもり? ヘスティアのカウンター席で彼女がどんなお顔をしていたか、あなたにも見せてあげたかったわね」
「嫌味を言うために来ただけならさっさと帰ってくれ」
「あのね、私はそこまで暇ではないのよ」
「だったら──」
「ちょっと二人で踊って見せなさい」クロエはいとも平然とそのように言ってのける。「どのようなものか見てあげるわ」
「マダム、私は──」
「ああ、そうだったわね」胸の前で両腕を組んだクロエは、希佐を黙らせるように、こつん、と軽くつま先を鳴らした。「その子、あなたと同じ名前のウイスキーを飲んで酔っ払っているから、きちんとしたホールドをしてあげて」
今更になって頭が痛くなってきたような気がして、希佐は眉を顰めながらこめかみを抑える。
「ほら、時間がないの。早くして」
はあ、と大きくため息を吐き出す声が、すぐ隣から聞こえてきた。希佐が恐る恐るそちらを見上げると、寸前までクロエを睨みつけていた緑の目が、こちらを見下ろしてくる。
嫌だ、怖い──そう思ってしまうのは、なぜなのだろう。
不整脈を打つように不安定な鼓動を抱えたまま、希佐はアランを見上げた。手の震えをどうにかするために、両手で強く拳を握る。
「キサ」
そうして名前を呼ばれれば、覚悟を決めるしかない。
この体を迎え入れるように開かれた両腕を見据えて立ち、希佐はそっと目を伏せた。大丈夫だ、落ち着けと自らに言い聞かせながら、大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。履いていた靴を脱ぎ捨て、裸足になる。その方がずっと踊りやすい。
ほんの三歩しかない距離が、果てしなく遠くに感じられた。
これが心の距離かと思いながら、希佐は爪先立ちのまま永遠とも思える三歩の隔たりを詰める。そして、掲げた右手でアランの左手を掴んだ。アランの揃った左手の指先が背中に添えられるのに合わせ、背筋をしなやかに反らせた希佐は、自らの左手をアランの右腕に添わせる。
ああ、まただ──ぞわっとするような暗闇が脳内をちらついた。
アランが引いた足に合わせて、自らの足を一歩前進させる。次の一歩に合わせ、同じように足を踏み出す。リードが分からない。どちらへ進みたいのか、その道が見えてこない。
このままではよくないと、希佐は前進する足を深く踏み込んだ。アランの腕に添えていた左手でその腕を掴み、右手を押して、意思表示をする。すると、まるで空を切るように、すっと肩透かしを食らうような、そんな軽い感覚があった。そして次の瞬間、希佐が意図していなかった方向へと、体が運ばれていく。
途端に足がもつれた希佐は、アランから故意に両手を離すと、そのホールドの中から逃れた。近くにあったバレエバーを掴んで、倒れそうになった体を支える。
それから数秒間、地獄のような沈黙が続いた。希佐が鏡越しにフロアを見渡すと、一人立ち尽くしているアランが、表情のない面持ちで自らの手の平を見下ろしていた。
「All right, all right, all right.」
半ば投げやりな口振りでそう繰り返したクロエは、アランがいる方へ足を進めながら、希佐を手招きする。
「歪なのよ、二人とも」クロエはそう言うと、まずはアランを見上げた。「あなたは随分とご立派な花瓶ね、アラン・ジンデル。ゴッテゴテで品のないのベネチアングラスみたい。それ一つで完結してしまっている芸術品は、花を飾ったところで美しくともなんともないの。逆に滑稽だわ」
アランは、反論する気すら起きないという顔で、クロエから視線を逸らしている。その様子を見たクロエは、呆れ果てたようにため息を吐いてから、今度は希佐に目を向けた。
「あなたは枝葉を広げ過ぎの花よ、キサ。花瓶に生けられる花は、きちんと整えられてこそ美しい。いくらリーダーが至らないからといって、パートナーが前へ出過ぎてしまったら、ダンスとしては不恰好になってしまう──とはいえ、あなたが言った言葉の意味は理解したわ。世の中には、こういうお人形さんと踊る方が好きという変わり者もいるのだけれど、もちろん私も願い下げ」
クロエはそう言うと、手にしていたハンドバッグをアランに向かって放り投げた。アランはそれを反射的に受け止めてしまってから、酷く嫌そうに顔を顰める。
「お手本を見せてあげるから、よく見ておきなさい」
初め、希佐はそれが自分に向けられた言葉だと思った。クロエがアランと踊り、パートナーとしての在り方を教えてくれようとしているのだと、そう思ったのだ。
だがしかし、その場で軽く膝の曲げ伸ばしをしたクロエは、希佐と向かい合うように立つと、先ほどアランがそうしていたように両腕を広げてみせた。
「えっ……」
「あなただってリーダーの経験くらいあるでしょう?」
この人は、たった一度、ほんの一分にも満たないダンスを見ただけで、すべてを理解したというのだろうか。
ユニヴェールでは授業で社交ダンスを学ぶ機会がある。基本的にはジャックがリーダーを、ジャンヌがパートナーを専任するが、希佐のようにどちらの役も演じることができる生徒は、希望すれば両方学ばせてもらうことができた。
アルジャンヌとして舞台に立つことがほとんどだった希佐だが、後輩に教えるために、リーダーとして踊る経験もそれなりに積んでいた。今も通っている社交ダンスのレッスンでは、リーダーの動きを理解するために、女性を相手に踊らせてもらうこともある。
クロエ・ルーは、男役と女役を演じ分けることができる役者だという。希佐は先日、その片鱗を見た。そして今も、それを目の当たりにしようとしている。
希佐は先ほどと同じように、一度呼吸を整えてから、クロエ・ルーと向き合った。その瞬間、思わず心臓が跳ねたのは、こちらに向けられている眼差しが、普段とはがらりと雰囲気を変えていたからだろう。普段は女性らしく丸みを帯びている目は、途端に鋭さを帯び、凛々しさを匂わせはじめる。
生半可な気持ちでは向き合えない。先程とは別の覚悟を決める必要がある。
「来て」
この身を委ねよう──そう思った希佐は、右手を差し伸ばしながらクロエに歩み寄った。
掲げられたその左手に右手を重ねながら、自らの目線よりも僅かに高い位置にある青色の目を見上げると、こちらを見る眼差しが蠱惑的に光る。背中に添えられた手が、不思議と体を引き上げてくれているように感じられた。背筋のしなりが、明らかに、いつもよりやわらかい。
抗っては駄目だ。この感覚を掴まなくてはならない。余すことなく、すべてを盗み取らなくては──希佐は瞬時に思考を切り替え、この人の形にぴたりとはまる形態を選択した。
先ほどとまったく同じ振り付けで踊っているのに、何もかもがまるで違っていた。リーダーの意思が、体の触れているすべての場所から伝わってくるのだ。支配されているのではない。だが、イライアスと踊っているときですら、リーダーからこれほどまでに明確な意思を感じ取れたことはなかった。
「こんなものかしらね」
何の前触れもなく、すっ、と普段の調子を取り戻したクロエは、希佐の体をくるりと一回転させてから、そっと手を離した。酔いが覚めてきているとはいえ、まだアルコールが残っている希佐は僅かにふらつくが、何とかその場に踏み留まると、ちょうど視線の先にあった鏡の中の自分と対峙する。
背後で話している二人の声は聞こえていたが、耳はそれをただの音として拾い、脳は会話として処理することを放棄していた。今は何も考えられない。いや、何も考えたくない。
この人は、違う。
あまりに違いすぎる。
何もかもが、自分とは違う。
希佐は鏡に映る自分の姿を見つめながら、格の違いというものを思い知らされていた。
この約一週間、スタジオには不穏な空気が漂い続けていた。
普段通りの生活を心掛けてはいるのだ。毎朝同じ時間に目を覚まし、同じルーティンをこなして、アランが用意してくれた食卓に着く。だが、互いに口数は少ない。
翌日の火曜日はジョシュアのレッスンを受けるために外へ出ることができたが、水、木、金曜日は、目を逸らしたくなるような現実を突きつけられた。
『よくないね』イベントで披露する予定のダンスの指導を受けていたとき、険しい面持ちでルイが言い放った。『やる気ある?』
『はい』
『そうは見えない』
プロならば私情を挟むなと言ったクロエ・ルーの言葉が脳裏をよぎる。ああ、これは確かに、間違いなく、私情を挟んでしまっている。希佐はそう思いながら背筋を正すと、ルイと真っ直ぐに向き直った。
『本当は稽古に集中できていませんでした、すみません』
『うん』
『頭の中がアランのことでいっぱいで』希佐がそう言うと、ルイの頬がひくりと僅かに引き攣った。『他のことが何も考えられません』
『……』
ルイは無言のまま、頬を更に引き攣らせた。震える息を吐き出しながら希佐に背を向けたかと思うと、顔を覆い、その場に座り込んでしまう。
『ああ、駄目だ、もう無理だよ』
「えっ?」
その真に迫った口振りを聞いて、希佐は背筋に寒いものを覚えた。
先週からの数日間、稽古に身が入っていなかったことは、紛れもない事実だ。否定のしようもない。もし匙を投げられたとしても、それに反論する資格が希佐にはないのだ。稽古中はいつだって冷静なルイが、ここまで感情を露わにしている。
謹んでその怒りを享受しよう──希佐がそう思い、表情を引き締めたときだった。
『他のことが考えられないくらい彼のことで頭がいっぱいだなんて、そんな、もう、これだから君たちは……』
『あ、あの、ルイ……?』
『駄目なんだよ、私はこういう話にはめっぽう弱いんだ。なんていうのかな、こう、初心な感じがむず痒くてたまらない』
『えっと、それは──』
『今日の稽古はここまでにしよう、キサ。このまま続けたって身が入らない』ルイはそう言うと、希佐に向かってタオルを放り投げる。『代わりに、君たち二人の話を詳しく聞かせてくれ。いずれにせよ、このままはよくないからね』
ここでは話しづらいと思ったのか、ルイは一時間半後に外で会おうと言い残し、待ち合わせ場所を指定してスタジオを出て行った。
希佐は三十分掛けていつも通りのストレッチを行い、バスルームで湯に浸かりながら念入りにマッサージをすると、寝不足でぼうっとした頭のまま外に出てきた。髪から水を滴らせたまま洋服を選び、着替えを済ませて自分の部屋から出てくると、ちょうど階段を上がってきたアランと正面から鉢合わせる。
「出かけるの」
「うん」
「そう」アランはプリントアウトした分厚い紙の束をキッチンのテーブルに置き、希佐を見ながら椅子を引いた。「座って」
「え?」
「いいから、座って」
希佐が言われるがままに腰を下ろすと、バスルームに向かったアランが、ドライヤーを手に戻ってくる。キッチンのコンセントにプラグを差し込み、電源を入れると、何も言わずに髪を乾かしてくれた。
そのあまりの心地良さに思わず目を伏せた希佐だったが、どうやら落ちるように眠っていたらしく、カチ、というドライヤーのスイッチを切る音で、ハッと我に返った。
「……私、今寝てた?」
「うん」希佐が謝ろうとするのを察したのか、アランは僅かに身を屈めると、唇にキスをして言葉を遮った。「気をつけて」
そう言って今度は乾かしたばかりの希佐の髪に唇を押し当てると、アランはまだ熱を持っているドライヤーを手に、バスルームへと入っていく。
希佐は、まだアランの手の感覚が残っている自らの髪を手の平に掬い上げ、そっと唇を寄せた。今はその優しさが酷く心を抉るようで、耐え難い苦痛に胸が押し潰されそうだと、そう思った。
膝丈の白いニットワンピースの上に、以前バージルから譲り受けたバーバリーのレザージャケットを羽織った希佐は、スマートフォンと財布だけをポケットに入れてスタジオを後にした。修理から帰ってきたばかりの編み上げのブーツはお気に入りのものだ。
近くの停留所からバスに乗り、希佐はルイから指定された待ち合わせ場所に向かう。ロンドン大学前でバスを降り、その近くにあるヴィクトリア朝の建物を目指して歩いた。そのホテルが、ロンドンでのルイの仮住まいだ。
ラウンジに入っていくとすぐに、細身のデニムパンツに大振りの黒いニットを合わせた、ラフな格好をしているルイの姿が目に飛び込んできた。
ルイは、ソファにゆったりと腰を下ろし、自らの膝に乗せた雑誌を読んでいた。それは、何ということはない場面の切り取りに過ぎないが、すっと視線が引き寄せられるように、人々の眼差しがその場所に集中しているのが分かる。
閉ざされた空間の中にいるときは忘れがちだが、こうして開けた場所にいると、酷く思い知らされた。与えられているすべてのものが、身の丈に合っていないのではないか。自分が分不相応なことを望んでしまっているのではないか。そうした覚悟は疾うの昔に乗り越えてきたはずなのに、ふとした瞬間、頭をもたげそうになるのだ。
舞台上でも、そうでない場所でも、ただそこにいるだけで人の目を惹く。希佐の周りには、そうした人ばかりだということを、思い知らされる。
「ルイ」
歩み寄ってそう声を掛けると、ラウンジのカフェにあるソファに座り、雑誌を読んでいたルイが顔を上げた。シャワーを浴びた後なのだろう、整髪剤のついていない髪が顔に垂れ、どこか幼い印象を受ける。
『ああ、キサ。わざわざここまで足を運んでもらってすまないね』
『いえ、大丈夫です』
自分を見上げてにこりと笑った顔を、ただ純粋に可愛いと思ってしまったことは、黙っていた方がいいのだろう。
『座って。何か注文しよう』ウエイターが持ってきたメニューを「merci」と言って受け取ったルイは、それを希佐に向かって差し出した。『私はいつも同じものを頼むから』
ルイはゆっくり選んで構わないよと言うと、膝の上に乗せていた雑誌を手に立ち上がり、少し離れた場所にあるマガジンラックまで歩いていってしまった。どうやら、約束の時間には間に合っても、長い時間待たせてしまったようだ。
戻ってくる前に注文を決めてしまわなくてはと、希佐はメニュー表に視線を落とす。紅茶の項目の中にダージリンの文字を見つけると、それを無意識に指先でなぞってから、ふと我に返った。
今日は別のものを頼もうと、その指先をゆっくりと下に滑らせ、プリンス・オブ・ウェールズに目を留める。この紅茶はもともと、英国王エドワード8世のためにブレンドされたものだという。
『決まったかい?』
『これにします』
先程と同じウエイターがテーブルまでやって来て、ルイが話すフランス語に合わせて同言語で対応している。さすがは四つ星ホテルだと思いながら、その流暢なフランス語に耳をそばだてていると、それに気づいたルイが小さく笑った。
『彼女は今、フランス語の勉強中なんだ』
『そうなのですね』ウエイターはそう言うと、ルイから希佐に向き直った。『どのくらい勉強されているのですか?』
『去年の年末からなので、二ヶ月半くらいです』希佐がそう応じると、ウエイターは驚いたという表情を隠さなかった。『学校に通っているわけではないので、本当に手探りなのですが、彼や周りの人に助けられながら、少しずつ学ばせてもらっています』
『驚きだろう?』くつくつと笑いながら言うルイに視線を戻したウエイターは、目を丸くして頷いている。『この驚きを是非とも誰かと共有しておきたくてね、ありがとう』
『では、すぐにお飲み物をお持ちいたします』
ルイはウエイターが声の届かないところまで行くのを待ってから、希佐の方を向いて口を開いた。
『彼はフランスに留学をして言葉を学んだそうだよ』
『そうなんですね』
『君はそろそろ外に出て、私たち以外のフランス語話者と会話をする機会を増やした方がいいかな。同じ人間ばかりと話をしていると、話題が偏るから、語彙も増えづらい。君の場合は映画から学ぶことも多いようだけど』
『あっ、そうでした』希佐は思い出したように声を上げると、ポケットから財布を取り出し、そこに挟んでいた紙を手に取った。『私が観ているフランス映画のリストを作ってきたんです』
『楽しみにしていたんだ、ありがとう』
『半分以上はメレディスから教えてもらったものですが、下の方のいくつかは私の好きな映画です』
『私でも観たことのないものがいくつかあるよ』
ルイは風呂上がりにでも観ようと言いながら、希佐から受け取ったメモ用紙をデニムのポケットにねじ込んだ。
テーブルにはすぐに一杯のコーヒーと、ガラス製のポットに入れられた紅茶が運ばれてきた。ポットには、発色が鮮やかなエインズレイのターコイズのティーカップが添えられている。
『ごゆっくりお楽しみください』
「merci」
このロンドンにやって来てから、ルイはずっとホテル住まいだ。前にアパートを借りないのかと聞いたときは、自分は生活能力が皆無に等しいから、一人暮らしには向かないのだと言っていた。出来るかぎりのことはしようと努力するものの、あなたはソファに座って大人しくしていてと、よく奥様に叱られるらしい。
私は踊ることしかしてこなかったから──そう言ってどこか苦々しげに微笑んだ表情が、希佐の脳裏には印象的に残されている。
希佐はルイがカップに手を伸ばすのを待って、自らもポットからカップに紅茶を注いだ。美しい草花の模様が、濃い琥珀色の液体の底に沈んで、セピア色に染まる。
『パッと見た感じ、悪くはなかったんだよ』何の話をしているのだと聞くまでもなく、希佐にはルイの言わんとしていることが分かった。『君と彼のダンスは美しいワルツに見える、私の目にはね』
『……でも、マダム・ルーには歪だと言われました』
『まあ、私と彼女の目は、まったく別の見方をしているだろうから』
『マダムが私の手を取って踊ってくださったときは──』
『えっ?』希佐が最後まで言い終えるのを待たず、ルイが驚いたように声を上げる。『彼女、踊ったの? 君と?』
『はい』
『それは是非ともこの目で見ておきたかったな。たとえ戯れでも、今となっては彼女の男役はとても貴重だ。また舞台の世界に戻ってきてくれることを願うばかりだよ』
『最近は舞台には立たれていないんですか?』
『映画が多いね。近年では本国のテレビドラマにも出演しているし、ドキュメンタリーの撮影なんかもしていたと思う』
『いろいろなお仕事をされているんですね』
『事務所から独立するときは揉めに揉めていたし、仕事が激減するんじゃないかと危惧されていたけど、そんなことはなかった。器用な人なんだ。人好きのする人でもあるから、方々から声が掛かりやすい。今度の舞台は製作者側の立場だけど、いずれは出演者として舞台に関わってもらいたい』
ルイはそこまで話してから、ん、と小さく声を漏らした。
『いや、違うな。今は彼女のことよりも、君たち二人の話だ』
今日と、そして先日の話振りを聞いていると、ルイは純粋にクロエ・ルーのファンなのだと分かる。
『昨日は合わせてみたの?』
『はい、少しだけ』だが、結果は相変わらずだ。『鏡に映る私たちの姿と、踊っている自分が今まさに覚えている感覚との齟齬に、なんというか、具合が悪くなってしまって』
『そういう経験が私にもなかったわけではない。舞台に立っていれば、多くの人が衝突する壁の一つではある。君たちの大きな問題は、その相手が最も近しい存在であるということなんだろうね』
『ルイはどうやって乗り越えたんですか?』
『乗り越えてはいないよ』ルイは苦笑いを浮かべながら言った。『私は目を瞑ることを選んだから』
『目を瞑る?』
『要は、上手くやり過ごしたんだ。その場所に足を止めて、自分や相手のために時間をかけて思い悩むことが、それほど重要だとは思えなかった。私たちはお互いにプロだったし、そのときは演出家の意向に沿うように踊ることができれば、それでよかった』
『プロの方でも……』
『とはいえ、君たちの場合はそうも言っていられないよね。現に、私生活にまで支障をきたしているのだろう?』
希佐は何も言わず、困惑したような面持ちを浮かべると、ティーカップに手を伸ばした。それで唇を濡らしながら、次に言うべき言葉を探している。
『やめてしまうのも一つの手だよ、キサ』重苦しくならないように気を使ってか、ルイはどこか明るい口振りで言った。『君は今、これまでの人生の中でも、特に重要な境地に立たされていると言っても過言ではないんだ。不要な心労を増やすくらいなら、いっそその問題を手放してしまった方がいい場合もある』
ルイの言わんとしていることは理解できる。現状を踏まえれば、それが正解なのかもしれないとも思うのだ。だがしかし、他の誰が許しても、希佐自身がそれを許そうとはしないだろう。
『投げ出したくはないんです』でも、と希佐が頼りなげに続ける。『どうすればこの問題が解決するのか、私にはまだ分からなくて』
『本気でイベントに出演するつもりなら、本番まではあと一ヶ月と何日かしかない。今の状態のままでは、完璧を目指すことは不可能だ。どこかで妥協点を見つけなくては間に合わないよ。それに、君は自分自身の課題もあるだろう?』
『はい』
『それから、君のパートナーはイライアスだということを忘れてはいけない。アランと踊ることを止めはしないよ。今度の舞台ではイライアス以外の役者ともダンスを踊る予定があるから、そのための予行練習にもなるだろうと思ったからこそ、許可を出したんだ。でも、君があまりに引き摺られるようなら、これは私としても残念極まりないことだけど、許可を取り下げる可能性もあることを覚えておいてほしい』
『……はい』
ぐうの音も出ないと思いながら頷く希佐を見て、ルイは何事かを考えながら頭を掻いていた。それからすぐ、自らの膝に両肘をつき、僅かに身を乗り出してくる。
『君たち、少しの間だけでも離れてみたらどう?』
『離れる?』
『ずっとというわけではないよ。一日、二日でも構わないんだ。お互いに一人になって、静かに考える時間を設けた方がいいのかもしれない。同じ家に暮らしていると、どうしても相手の気配が気になって、自分だけの時間を作れないのではないかな。私と妻も、自分の時間が必要だと感じたときは、別々に過ごすようにしている』
『そう、ですね──』
それから午後五時近くまで、ルイは希佐の話を親身になって聞いてくれた。しかし、間もなくすると、今日は午後五時から雑誌のインタビューを受ける約束があると言っていたルイの下に、約束の時間より少しだけ早く、スーツ姿の男性が現れる。
『五時まではまだ時間があるから、それまで待っていてくれないか』
ルイはスマートフォンの時計を見ながらスーツ姿の男にそう言うが、仕事の邪魔をしてはいけないと、希佐は慌てて首を横に振った。
『私ならもう大丈夫です』
『でも、そういうわけには──』
『もう十分過ぎるくらいのお時間をいただきました』希佐はそう言って一人掛けのソファから立ち上がると、軽く会釈をした。『今日はお話を聞いてくださって、ありがとうございました』
財布から自分のお茶代を出そうとした希佐を、ルイは手の平を見せてそっと制した。それから徐に立ち上がったかと思うと、腰を屈め、内緒話をするように希佐の耳元に唇を寄せてくる。
『自分の内面を見つめるんだ。今の君になら、もうソロの課題はクリアすることができるよ。君は心の中にその答えを持っている』
最後に、気をつけて帰るんだよと声を掛けられた希佐は、ルイに挨拶をし、スーツの男に軽く目礼をしてから、そのままホテルを後にした。
三月も中頃が近づくと、日も徐々に伸びはじめ、まだ太陽の光が地上を照らしてくれている。夕焼け色に染まったロンドンの街は、夜に向けてのほんの僅かな時間だけ、やわらかい空気に包まれるような気がしていた。
人々が行き交う歩道を進んでいると、ルイと交わした会話の断片が頭の中でぐるぐると回り、希佐の思考を阻害する。早く帰ってアランと話し合わなければと思う一方、彼とは少し離れた方がいいと言ったルイの言葉が、脳裏にこびりついて離れなくなっていた。
今日はもう夕食の準備をするのも億劫に感じてしまった希佐は、何か買って帰ろうと、近くにあるユーストン駅に向かって足を進めた。駅の外にもサンドイッチ屋はあるが、駅の中にあるサンドイッチ屋の方が美味しいとノアが言っていたことを思い出し、未だ足を踏み入れたことのなかったユーストン駅の中に入ってみる。
セント・パンクラス駅と同様、このユーストン駅もターミナル駅として知られていた。ウェスト・ミッドランズやノース・ウェスト・イングランド、ノース・ウェールズ、それからスコットランドに行くためには、ここから鉄道に乗る必要がある。
「あ……」
希佐はユーストン駅内にある電光掲示板を見上げながら、小さく声を漏らした。目の前を通り過ぎていった男性が、その声に気づいて一瞬だけ後ろを振り返るが、急いでいるのだろう、トランクを引っ張りながら小走りで駆けていく。
電光掲示板をぼんやりと見上げたまま、希佐はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。僅かに視線を落とし、のろのろと連絡先を画面に表示させると、そのまま耳に添える。
『Salut,Kisa』
さほど待つこともなく、電話口の向こう側から、穏やかな口振りの声が聞こえてきた。希佐は電光掲示板の黄色い文字を眺めながら、小さく息を吐き出した。
「bonsoir,Sir.Léonard」
『君から連絡をもらえて嬉しいよ』突然の電話を詫びる隙すら与えず、レオナール・ゴダンは機嫌良くそう言った。『僕からの提案は前向きに検討してもらえたということでいいのかな』
「今、ロンドンのユーストン駅にいます」
『ほう』希佐の言葉を受けて、ゴダンは面白そうに相槌を打った。『それで?』
「オクセンホルム行きの最終列車がもうすぐ出発するみたいで」
『オクセンホルムからは──』ちょっと待ってと言った後、パソコンのキーボードを叩くような音が聞こえてくる。『うん、そこで最終列車に乗り換えれば、今日中にウィンダミアまで来られるよ』
「そちらに伺っても構いませんか?」
『もちろん』
突然の申し出にもかかわらず、ゴダンは二つ返事でそう応じた。
『ただ、僕が今滞在しているのはグラスミアでね。ウィンダミアからはバスで移動する必要があるんだ。だから、ウィンダミアのホテルを一室予約しておこう。今夜はそこに泊まるといい。明日朝一番のバスに乗って、グラスミアまでおいで』
「分かりました」
『来るのは君一人かな』
「はい」
『分かった』ゴダンはそうして話を続けながら、パソコンのキーボードを叩き続けている。『今、ウィンダミアホテルに予約を入れたよ。駅を出てすぐに見える石造りの建物がそれだ。近所にゲストハウスやコテージがあるから、間違えないようにね』
「はい」
『オクセンホルムに着いたら一度連絡をくれるかい?』
「はい」
『では、また後で』
何となく拍子抜けをしてしまいながら、希佐はチケット売り場まで赴き、そこでウィンダミア行きの切符を購入した。
一人で来るのかと問われた時点で、それは良くないと訪問を拒否されるものとばかり思っていたのだ。だが、ゴダンは希佐の内心の狼狽など気にも留めない様子で、話を先に進めてしまった。
「列車は十分後に出発します」プラスチックの透明な仕切り越しに、女性がチケットを差し出してくる。「お急ぎください」
「ありがとうございます」
自分は一体何を考えているのだろうと思いながらも、希佐はホームに向かって足を進めていた。ロンドンからウィンダミアまでの所要時間は約四時間だ。約120キロの距離がある。ゴダンから湖水地方に来ないかと誘われたとき、念のためにロンドンからの移動手段を調べていたのだ。
アイルランドからイギリスにやって来てからこちら、こんなにも遠出をしようとしたことは、ただの一度もない。
希佐は既にホームで出発の時を待っていた列車に乗り込むと、指定された番号の座席に腰を下ろした。最終列車ということもあり、車内はそれなりに混雑していたが、チケット売り場の女性が列車後方にある窓際の席を取ってくれたので、あまり気にはならなかった。
アランに連絡をしなければ──そう思うのに、希佐の手はスマートフォンを握り締めたまま、微動だにしない。何か後ろめたいことでもあるかのように、体が頭の言うことを聞かない。
『オクセンホルムに着いたら一度連絡をくれるかい?』
そう言ったゴダンの言葉を思い出した希佐は、これは充電切れを免れるためだという口実を掲げ、スマートフォンの電源を切った。
「うん、リズムはちゃんと取れてる」イライアスはそれが褒め言葉ではないことを知っている。「ただ、リズムが正確ってだけで、ちっとも遊びがない。音源と同じように歌ったってつまらないよ。原曲通りに歌うだけなら、君が歌う必要はないんだ」
ジョシュアはいつもイライアスには理解できない星の言葉で話す。だが、ジョシュアもイライアスを別の星の人間だと思っている節があるので、きっとお互い様なのだろう。
「抑揚をつけすぎるなとは言ったけど、感情を捨てろとは言っていないよ。こう、もっとすかした感じとかさ──」ジョシュアは眉間にしわを寄せているイライアスを見て、ピアノの前に座ったまま僅かに項垂れた。「どうにも君はお上品すぎるんだよなぁ。一夏の夢とか、一夜の過ちとか、そういう経験したことある?」
「ないです」
「だよね」
「あなたはあるんですか」
「ぼく? うん、人並みには」ジョシュアは手に持っていたリモコンをサイドテーブルに置くと、イライアスを見上げた。「聞きたい?」
「興味はないです」
「あっ、そう」
今日はもう終わりにしようと言って、ジョシュアは椅子から立ち上がり、イライアスの目の前でぐっと天井に向かって伸びをした。
この人の体にはほとんど歪みがない。イライアスの目には、なぜか意外に映ったが、それによって信用のできる相手だと思うようになったことは、否定しようのない事実だ。自分に歩み寄ろうと努力していることは伝わるので、イライアスも理解をしようとは努めている。
「あなたもバレエをやっていたんですか?」
ずっと疑問に思っていたことを尋ねると、ジョシュアは小さく肩をすくめながら「まあね」と言った。
「母の意向でやらされていたよ。君とは違ってお遊び程度の代物だったけど」それは違うと内心で否定しながら、イライアスはジョシュアの話の続きを待った。「才能もなかったし、さほど興味も持てなかったから、セカンダリースクールに入るときにやめたんだ。歌うことの方が好きだったし」
「バレエスクールに?」
「うちは別に裕福ってわけではないから、小さな個人経営のお教室に通ってた。そこにいるのが結構高齢の先生だったんだけど、とにかく厳しくて。ほら、僕はこの通りちゃらんぽらんだからさ、誰よりも先生に厳しく指導されていたのも、辞める一つの原因だったんだよね」
実際のところは、他の誰よりも見込みのある生徒だったからこそ、その先生は厳しく指導していたのではないかと、イライアスは思う。だが、今更余計なことを言うのもどうかと考え直し、口を噤む方を選んだ。
「君こそ、どうしてバレエをやめたの?」楽譜とメモの整理をしながら、雑談をするようにジョシュアが言った。「僕はその道に詳しくないからよくは知らないけど、ルイの話を聞く限りだと、それなりのソリストだったらしいじゃない」
「僕は好きで踊っていたわけではないので」
「君も親の意向?」何も答えようとしないイライアスの表情を窺ってから、ジョシュアはすぐに視線を逸らした。「まあ、関係ない話だよね、お互いに」
ジョシュアは歌の注意点を一枚の紙に箇条書きにしてまとめ、来週までに改善しておくようにと言いながら差し出してくる。イライアスはそれを受け取りながら、山のように積み上げられた課題を思い、複雑な気持ちで頭を掻いた。
もしこの課題を与えられたのが希佐なら、自分のように苦戦をすることもなく、難なくこなしてしまうのだろうとイライアスは思う。先日も、スタジオの鏡の前で手詰まりを起こしていたイライアスのところまでやって来て、戯れに踊ってみせてくれたダンスは、課題を与えられた当人よりも完成形に近いもののように見えた。
歌だって同じだ。自分は言われた通りにすら歌えないと思いながら、イライアスは渡されたメモを楽譜に挟み、リュックの中にしまった。
また来週ねー、と緩い感じで手を振るジョシュアに軽く会釈をし、イライアスはレッスン室を出る。いつも受付にいるアシスタントには目礼し、黙って目の前を通り過ぎた。一日中踊り続けるより、歌唱のレッスンを半日する方が、ずっと疲れるのは何故なのか。
車道を走り抜けていくタクシーを見て微かな誘惑が頭をもたげるが、軽く頭を振って雑念を振り払う。走れば気晴らしになると思い、イライアスはその場で少しだけ体を動かしてから、スタジオに向かって走り出した。
先週の週末、いつも通りスタジオに足を運ぶと、希佐とアランがワルツを踊っている姿を目撃し、イライアスは驚きのあまり、昼食にと購入してきたサラダを足下に落としてしまった。
これほどまでにあっさりと、アラン・ジンデルに心境の変化が訪れるとは思っていなかったのだ。だが、それ以上に衝撃だったのは、あれほどまでにアランと踊ることを望んでいた希佐の表情が、苦悶に歪んで見えたことだった。
『やあ、イライアス』
スタジオの扉を入ったところで立ち呆けていたイライアスにそう声をかけてきたのは、離れたところから二人を見ていたルイだった。
二人が初めて踊ったのは木曜日、翌日の金曜日にも合わせたが、どうにも様子がおかしいと思い、たまらずに様子を見にきたのだと言っていた。
『一見すると綺麗なんだけど』ルイは二人には聞こえないように、声を落として言った。『ただそれだけなんだよね』
良いか悪いかで言えば、悪くはない、という程度のものだった。もし競技ダンスの大会に出場すれば、初戦や二回戦ではチェックがつけられるだろう。だがしかし、決勝では見劣りする。何かが足りない。そういうダンスに感じられた。
最初から上手くいくと楽観視をしていたわけではない。だが、二人が手を取り合って踊ることを選べば、とても美しいものを見られるに違いないと、そうした勝手な幻想を抱いていたことは確かだった。
そうして、ルイと並んで二人が踊っている姿を眺めていたイライアスは、不意に思い出す。過去に何度もアイリーンに連れられて足を運び、時には自らチケットを取って観に行っていた舞台上では、アラン・ジンデルはいつだって、たった一人で踊っていたことを。
その瞬間、合点がいった。この人は一人で踊ることはできても、誰かと踊るとなったとき、途端に戸惑ってしまうのだと。だから、希佐とは踊ることをせず、自分とばかり踊っていたのだ。
イライアスが何よりも心を痛めていたのは、希佐が日に日に光を失っていくように見えていたことだった。その片棒を自らが担いでいるのだという事実が、罪悪感をより一層強くさせていた。
希佐はきっと、こんなはずではなかったと、そう思っている。
だが、どうにかしてあげたいと思っても、こればかりはどうすることもできない。技術が不足しているのであれば、その部分を補う手段を提案することはできる。しかしながら、二人に不足しているものは、一種のコミュニケーションだ。技術はこの上なく事足りている。
最も心が通じ合っていると信じていた二人が、こんなにも苦戦している。それがイライアスにとっては酷く衝撃的だったのだ。
イライアスは目的地の外で乱れた呼吸を整えてから、家の鍵と一緒にキーケースに繋げている鍵を使い、スタジオの扉を開けた。
「……」
後ろ手に扉を閉めながら、イライアスは壁に掛けてある時計に視線を走らせる。時刻は午後五時半を回ったばかりだ。いつもなら、希佐がまだダンスの稽古を行なっている時間帯だが、今日はなぜかがらんどうとしている。アランが稽古をしている様子もない。
あまりに静かだったので、揃って出払っているのだろうかとも思ったが、事務室の扉を開けてみると、いつも通りの場所にアランの後ろ姿があった。ヘッドホンで音楽を聞きながら作業をしているのか、イライアスがやって来たことにも気づいていない。
突然声をかけて驚かせるのもよくないと思い、イライアスは何も言わずに事務室の扉を閉め、スタジオに戻っていつものルーティンに取り掛かった。
アランが事務室から顔を覗かせたのは、それから一時間以上が経過してからのことだった。イヤホンで課題曲を聴き、歌詞を口ずさみながら踊っていたイライアスは、視界の端にその姿を捉えて、足を止める。
「キサは?」
同時に開かれた唇が、同時に同じ音の言葉を口にした。二人は口を噤んで顔を見合わせると、ほとんど同時にスマートフォンを手に取り、画面を確認する。時刻は午後八時半を迎えようとしていた。
「キサ、いないんですか?」
「出かけてる」
アランは眉の辺りを指先で掻きながら、少しの間スマートフォンを見つめていた。眉根を寄せ、何事かを思案していたが、小さく息を吐くとスマートフォンをズボンのポケットに押し込んだ。
「連絡は」
「ない」どこに行っているのかを訊ねようとしたが、この様子では行き先も知らないのだろう。「またヘスティアかもな」
「また?」
「月曜は酒を飲んで帰ってきた」
「……キサがですか?」
「俺のせいだろ」顔を顰めるイライアスを見て、アランが言う。「もっと上手くやれると思ったんだけどな」
「え」
「少しくらいは分かるようになったんじゃないかと思ったけど、てんで駄目だった。大昔の付けが今になって回ってきたよ」
アランはイライアスに向かってそう漏らすと、再び事務室に戻っていった。希佐が帰って来たらすぐに分かるように、扉は半開きのままにしているようだ。
心配なら電話を掛ければいいのにと思いながら、イライアスは手の中にあるスマートフォンを見下ろした。
九時になっても帰って来なかったら、代わりに連絡をしてみよう──イライアスはそう思い、ダンスの稽古を再開させる。
だが、なぜかダンスに集中することができない。そもそも、希佐が週にそう何度もパブに足を運ぶとは思えなかったイライアスは、九時を待たずに、希佐に電話を掛けてみることにした。
『Your call cannot be completed because the number you have dialed is outside──』
「……繋がらない」
イライアスは通話を切り、もう一度掛けてみるが、結果は変わらなかった。電話は繋がらない。電源が切れているか、電波が届かないところにいるというアナウンスが、延々と流れるだけだった。
額から流れ落ちる汗を拭いもせず、イライアスはその場に立ち尽くして考える。これをアランに伝えるべきか否かをだ。実際に、スマートフォンの充電が切れて、電源が落ちているだけの可能性は高い。だがしかし、もし希佐の身に何かがあったのだとしたら、取り返しのつかないことになるのではないか。
「アラン」イライアスは事務室に小走りで駆け込むと、スマートフォンを握り締めたまま声を上げた。「キサに電話が繋がらないんです」
「……繋がらない?」
「掛けてみてくれますか」
パソコンの前で作業を続けていたアランは、机の上に置いていたスマートフォンを手に取ると、素早く連絡先を呼び出して、すぐさま耳に押し当てた。しかし、イライアスと同じように一度電話を切り、再び掛け直しても希佐には繋がらなかったのか、チッ、と小さく舌打ちをしてから、すぐに別の連絡先を呼び出す。
相手がなかなか出ないことに苛立っているのか、アランは指先でこつこつと机を叩いていた。
「メレディス、店にキサは来てる? ──ああ、いや、それならいいんだ。ごめん、忙しいときに」
アランはメレディスといくつか言葉を交わしてから電話を切るが、イライアスに向かって何かを言うよりも先に、また別の場所に電話をかけはじめた。
「あんたのところにキサは来てないか?」
『来てないけれど』女性の高い声が、微かにだが聞こえてくる。『なあに、彼女どうかしたの?』
「来てないならいい」
『待ちなさい、あなた、そんな深刻そうな声を出して──』
電話口の向こう側から聞こえる声が最後まで言うよりも早く、アランはスマートフォンを耳から離す。そしてもう一度、微かに震える手でスマートフォンの画面をタップするが、聞こえて来たのは淡々と機械的に語られるガイダンスの音声だった。
「スマホの充電がなくなっただけかも」
「そうだな」
「他にキサが行きそうなところは──」
イライアスはそう言いながらジョシュアの姿を思い浮かべる。自分と行き違いになったのかもしれないと思い、電話を掛けてみるが、スタジオには来ていないと言った。
『キサだって子供じゃないんだから、と言いたいところだけど、今回ばかりは少し心配だね』イライアスはスピーカーに切り替えると、アランがいる方に歩み寄っていき、スマートフォンを机の上に置いた。『歌にも随分引き摺られていたみたいだし、精神的にも結構参ってるみたいだったから』
電話口の向こう側で、ジョシュアが「ちょっと待ってて」と言う。どうやら、レッスン室に入ってきたアシスタントと話をしているようだ。自分はまだ仕事が残っているから先に帰るよう伝えると、こちらに意識が戻された。
『そういえば、彼女はダンスのレッスンが終わってから出かけていったの?』ジョシュアが不思議そうに言う。『あの子、金曜のレッスンの後は、もう何もできないくらいくたくたになるって話してたけど』
「今日は昼過ぎには稽古を切り上げてた」
『どうして?』
「さあ」アランはどこか落ち着きなく頭を掻いている。「知らない」
『ちょっと、知らないはないんじゃないの?』ジョシュアはむっとしたような声を出した。『誰とどこに行くのかとか、聞かなかったの? 出かける前の様子が変だったとか、そういうのは?』
「別に変なところはなかったし、彼女が誰とどこに出かけるのかなんて、聞いたこともない」
『これからは聞くようにした方がいいんじゃないかな』
そう皮肉っぽく言うジョシュアの声を聞きながら、アランは大きく息を吐き出すが、言い返そうとはしなかった。その代わりに、自らのスマートフォンを再び操作しはじめると、それをイライアスのスマートフォンの隣に並べて置いた。
『Allo』電話の向こう側から聞こえてきたのは、ルイの声だった。『君から連絡をしてくるなんて珍しいね』
「『今日はいつもより早く稽古を切り上げていたみたいだけど』」アランは流暢なフランス語でそう言った。「『それはキサが君に頼んだから?』」
『……何の話だい?』
「『キサがまだ帰ってないんだ。電話をしても繋がらない。君ならどこに行くのか聞いているんじゃないかと思って』」
『キサとなら夕方まで一緒だったよ』
「『本当ですか?』」
イライアスがそう声を出すと、ルイは「やあ」と軽く挨拶をした。
『稽古に身が入らないようだったから、早めに切り上げてお茶に誘ったんだ。1、二時間お喋りをして、五時には帰っていったけど』
「『どこで会ってた?』」
『私が宿泊してるホテルのラウンジだよ、ヒルトンロンドン──』
ルイはそこまで言うと、なぜか不自然に口を噤んだ。電波状況が悪く、通話が切れたのかと思ったが、どうやら違うようだ。
『──申し訳ない』少しの間黙り込んでいたルイが、何の前触れもなく、固い声色で謝罪の言葉を口にした。『キサが君のところに帰らないのは、もしかしたら私が原因かもしれない』
アランはいつも以上に青白い顔で、自らのスマートフォンを睨むようにして見ていた。
『彼女は、自分とアランとのことで色々と思い悩んでいた。だから、君たちは少しの間だけでも離れてみた方がいいと、そう助言をしたんだ』
「『離れる?』」
アランが眉を顰めながらそう繰り返すと、ルイが電話口の向こう側で微かに笑う。
「『笑い事じゃない』」
『すまない。彼女も君とまったく同じ反応をしていたから、ついね』ピピ、と空調を調節するような音が、向こう側から聞こえてきた。『とはいえ、今すぐに何らかの行動を起こそうとするような様子ではなかったよ。とても落ち着き払っていたし、冷静で客観的な物の見方をできていたと思う』
『「……ねえ、ちょっと」』ルイと電話が繋がってから終始黙り込んでいたジョシュアが、痺れを切らした様子で口を開いた。『「ここはイギリスなんだから、英語で話してよ」』
イライアスが今の会話をかいつまんで説明している間中、アランはただ一点を見つめ、何事かを考え込んでいる様子だった。一通りのことを話し終えると、ジョシュアは小さく唸ってから声を上げた。
『自分からどこかに行ったのだとしても、あの子、そこまで交友関係は広くないでしょ? 心当たりはないの? 例えば、アイリーンのところとか』
「キサはアイリーンの家も知らないので」
『バージルは? あの二人は仲が良いし』
「バージルならすぐに連絡を寄越す」アランのバージルに対する絶対的な信頼を、イライアスは垣間見ていた。「……一人だけ心当たりのある相手がいるから、そこに連絡してみる」
『何かの事件に巻き込まれたなんて思いたくはないけど、警察に通報することも考えておいた方がいいからね』
「分かってる」
『何か進展があったら連絡して』
スピーカーから切り替え、イライアスがスマートフォンを耳に当てると、ジョシュアは静かな口振りでそう言い、自分から通話を切った。イライアスは残り少ない充電の残量を眺めながら、もう一度だけ希佐に電話を掛けてみるが、やはり当然のように繋がらない。
イライアスが顔を上げると、心当たりの相手がいると言ったアランは、まるで祈るような様子でスマートフォンを額に押し当てていた。目を伏せ、隣に立つイライアスにも聞こえないくらいの小さな声で何事かを囁いてから、確かな手つきでスマートフォンを操作する。
『こんばんは、アラン』
たっぷりの時間を掛けて電話に出た男は、酷く穏やかな声で、そう挨拶をした。イライアスには聞いたことのない声が、スピーカー越しに聞こえてくる。しかし、アランはその声音に何か思うところがあるのか、電話の向こう側にいる人物を睨むように目を細めた。
「レオ、キサは?」
『その様子では、彼女自身からの連絡は受けていないようだね』ぐっと奥歯を噛み締めるアランの姿が見えているかのように、レオと呼ばれた男はふふと笑う。『何か特別な事情があるのだろうと思って、僕から連絡をすることは控えたんだ。僕から伝えるよりも、本人の口から説明させた方がいいと考えたのだけれど、どうやら彼女は閉口することを選んだようだ』
「キサはそちらに向かってるの」
『気が変わって君のところに帰っていないのなら、そうなのだと思うよ。五時過ぎにユーストンから連絡をくれたんだ。最終列車に乗ると言っていたから、そろそろオクセンホルムに到着する時間だろう』
アランは場違いにも思えるほど穏やかな男の声を聞きながら、手の平で目元を覆い隠していた。
「キサは──」僅かに言葉を詰まらせたかと思うと、アランはそれを誤魔化すように小さく咳払いをしてから、先を続けた。「どんな様子だった?」
『特に感情的になったりはしていなかった。淡々としていたよ。だから、必要以上のことは何も話さなかった』
「どうして──」
『断らなかったのか?』男はアランの言葉を先回りして言う。『僕が彼女に来て欲しかったからだよ。僕は彼女の写真を撮りたい。元より彼女を招待するつもりだったのだから、その手間が省けるというものじゃないか』
「面白がっている場合じゃない」
『面白がる? 僕は本気だよ、アラン・ジンデル。僕は本当に、彼女の写真を撮りたいと思っている』
その男は自分は無害だという雰囲気を醸し出しながら、酷く攻撃的なことを口にしているような気がして、イライアスにはなぜか、途端に強い敵対心のようなものが芽生えた。
この人はどこか妙だと感じる。だが、まるで霧を掴むような、実態に触れることができないような、そうした危うさを覚えるのだ。
「ああ、知ってるよ」アランがぽつりと漏らすように言った。「今のキサはあなた好みの仕上がりだ」
「アラン──」
イライアスが堪らず声を上げると、アランはこちらに手の平を向け、小さく首を横に振った。
「レオのことは信頼してる」
アランはイライアスを真っ直ぐに見上げると、そう口にする。その様子を目にすることのできない男は、自分に向けられた言葉だと受け取ったのか、静かに「ありがとう」と言った。
「写真のためなら見境がなくなることも知ってる」
『心配しなくても、彼女を取って食ったりはしないよ』
「……やっぱり面白がってるだろ」
そう苦々しげに言うアランの声を聞いて、男は再び小さな笑い声を漏らした。
『ああ、そろそろオクセンホルムに列車が到着する頃だ。僕は彼女からの連絡を待つ手筈になっているから、悪いけどこの電話は切らしてもらうよ』
「レオ」
『何かな』
「俺は──」
そうして言い淀むアランを、男は黙って待っている。かち、かち、かち、という壁掛け時計の音だけが、事務室内に聞こえていた。
膝の上に乗せられているアランの手が、関節が白く浮き上がるほどに強く握り締められているのを、イライアスはただ黙って見ていることしかできなかった。
「──一週間後にキサを迎えに行く」
『分かったよ』男は夜の静けさのようなやわらかい声で応じた。『それまでは、キサのことは僕が責任を持って預かろう。彼女がウィンダミアに到着するのは十時頃だ。無事に到着したら僕からそちらに連絡をする』
ではね、と言って、レオと呼ばれた男は電話を切った。
アランはそれから無言のままスマートフォンを操作し、メッセージ機能を使って方々に希佐の無事を知らせていた。
希佐の居場所が分かった、心配はいらない──だが、返事がきてもそれには見向きもせず、スマートフォンを机の上に放ると、顔を手の平で覆いながら椅子の背もたれに全体重を預け、天井を振り仰いだ。唇の隙間から聞き慣れない悪態を吐き出し、短くなった髪を引き千切ろうとでもするように、強く掴んでいる。
「アラン」
「キサは湖水地方に行ったよ」
「アイリーンの実家がある辺りですね」
「ああ、そう」
「すぐ迎えに行かなくていいんですか」
「無理やり連れて行かれたわけじゃない」アランは顔から手を離しはしたが、その目は天井にある奇妙な形の染みを見続けていた。「いずれにしても、事件に巻き込まれたわけじゃなくてよかった」
そう言ったアランの横顔は未だ青ざめてはいたものの、手の震えは治まっている。
イライアスの脳裏には三年前の事件が過ぎっていた。
希佐は、自分は大したことのない、無名の舞台役者だと思い込んでいる。だが実際には、舞台関係者にはそれなりに名の知れた、実力派の役者だ。その自覚がないせいで、夜の独り歩きも厭わない。イライアスがいくら危ないからと苦言を呈したところで、希佐はいつも自分は大丈夫だと言って、聞く耳を持たなかった。だから、アランが希佐の無事を願い、安堵する気持ちは、よく分かる。
だが、思うのだ。
「キサがルイの言葉に触発されて、あなたから離れることを選んだのだとしたら」イライアスが静々と口を開くと、アランは天井を見上げていた目をこちらに向けた。「それはキサ自身のためだけではなくて、アランのためでもあるのでは?」
「どういう意味?」
「二人は、時々お互いが眩しすぎて、相手のことを直視できていないんじゃないかと思うことがあります」アランは背もたれに預けていた身を起こし、イライアスを直視した。「二人とも、人には見えないものを見ることのできる目を持っているのに、一番肝心な相手の本当の部分が見えていないんじゃないかって、そう思うことがあるんです」
二人はお互いに対して時に盲目的で、理性的でいられなくなる瞬間がある。キラキラと輝いている才能をじっと見つめるばかりで、人間としての本質の部分を見逃しているような、そんな気がするのだ。
人の目は、近すぎるものを識別することができない。少し離れてみて初めて、その全体像を見ることができる。人間同士も同じだと、イライアスは思っていた。
「キサはまだどこにも行かない」イライアスがそう言うと、アランはその宝石のような緑の目を、ゆっくりと大きく見開いた。「いつだってあなたの傍にいます」
だから、心配しなくていい。
何があったとしても、彼女の思いは揺るがないから。
「まだ一ヶ月もあるから、焦らなくても大丈夫です」
きっと、今の二人には時間が必要で、その時間だけが、二人の問題を解決に導いてくれる。焦りは禁物だ。焦りは、人の感覚を鈍らせるということを、イライアスは誰よりもよく知っている。
「演技力が成長する速さは人それぞれで、あっという間に上達する人もいれば、何かのきっかけで飛躍的に伸びる人もいる。ダンスも同じです。あなたとキサは、何かのきっかけさえあれば、飛躍的に伸びると思う」
アランは目を丸くしたままイライアスを見つめていたかと思うと、ぱち、ぱち、と何度か瞬いたあと、その表情を少しだけ和らげさせた。そして、座っている椅子の肘掛けに頬杖をつき、上目遣いにこちらを見上げてくる。
「まさか、こう何度も君に励まされることになるとは」
「あなたには舞台に立ってもらわないと困るんです」イライアスがそう言うと、アランは僅かに眉を持ち上げた。「僕はキサを手伝うと約束をしたから」
希佐の憂いを取り除いてあげられたらと思う。でも、それをすることができるのは、このアラン・ジンデルだけなのだ。同様に、アラン・ジンデルをこの厄介な呪縛から解き放つことができるのも、彼女だけなのだろう。そう自覚をする度に、恐ろしく悔しい気持ちになるが、これはもう仕方がないことなのだと諦めている。
「俺のことも手伝ってくれるんじゃなかったの」
アランはこちらを見上げ、不意にどこか頼りなげな微笑を浮かべた。その顔を、ほんの少しでも希佐に見せてあげればいいのにと思い、イライアスは少しだけ呆れてしまった。
「僕に手伝えることはもうあまり多くない」だから、とイライアスは言う。「僕は、あなたが無茶をしないように見張っていることにします」
オクセンホルムでの遅延があり、希佐が終点のウィンダミア駅に到着する頃には、時刻は午後十時を過ぎていた。乗り換えをしたオクセンホルム駅からは、約二十分程での到着だ。
前日の夜から現地入りし、翌朝から活動をはじめようとする旅行客が多いようで、ホームにはトランクを引きずって歩く家族連れやカップルの姿が目立った。
着の身着の儘でやってきた自分は、少し場違いに感じられると思いながら、人の流れに沿ってホームを進む。幸い、同じホテルを目指している家族連れを見つけた希佐は、付かず離れずの距離を保ちながらその後ろを付いていくことで、道に迷うことを避けられた。
ロンドンのようなギラギラとした街明かりはどこにも見当たらず、最低限の街灯の明かりだけを頼りに歩いている。前を行く子供が、母親に向かってお腹が減ったと声を上げるのを聞き、希佐は昼食すらまともに食べていなかったことを思い出した。
「あなたもウィンダミアホテルにお泊まりなの?」
後ろをとぼとぼと歩いて付いてくる希佐を不審に思ったのか、子供の手を引きながら歩いていた女性が、そう声を掛けてくる。希佐はにこりと微笑むと、こくりと頷いて見せた。
「じゃあ、ホテルまで一緒に行こうよ!」ミゲルと同じくらいの年頃の男の子が、そう言って手招きをしてくる。「女の人の独り歩きは危ないからね」
「まあ」母親は自らの息子の言葉に、ふふ、と笑みをこぼした。「ええ、その通りね。ホテルまでご一緒しましょう」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
もう深夜も近い時間帯なのにも拘わらず、男の子は酷く興奮した様子で希佐に話し掛け続けていた。家族で旅行に来られて嬉しいのだろう。希佐が小さく頷きながら耳を傾けていると、言葉少なに隣を歩いていた父親が、どこか申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「明日、従姉妹のお姉ちゃんの結婚式に出席するんだ」チェックインの順番を待っている間も、男の子は飽きもせずに話し続けていた。「僕宛にもちゃんと招待状が届いたんだよ」
「招待状をもらうなんてすごいね」
「それでね、結婚式が終わったら、家族で湖水地方を観光して回るの。ワーズワースのお家を見に行くんだって。お庭にはワーズワースが植えたバラがあるらしいんだけど、ちゃんと咲いてるかな」
「うーん、どうかな。バラが咲くのは六月頃だと思うから、まだ咲いていないんじゃないかな」
「あっ、そうなんだ。残念だなぁ」
そう言ってしょんぼりとしてしまった男の子を見て、希佐が困ったような表情を浮かべていると、チェックインを終えた女性が後ろを振り返った。
「さあ、終わったわよ。お部屋に行きましょうね」
「うん!」男の子は差し伸ばされた母親の手に掴まった。「お姉さん、バイバイ」
「バイバイ」
フロントクラークから、次の方と声を掛けられた希佐は、男の子に手を振り返し、両親に向かって軽く会釈をしてから、フロントデスクの前に立った。
「レオナール・ゴダンの名前で予約が入っていると思うのですが」
「はい、承っております」フロントクラークはそう言うと、傍にあるパソコンを素早く操作する。「念のためにお客様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「立花希佐です」
「ありがとうございます」
海外に出てきてからは、モーテルやホステルのような安ホテルにしか宿泊したことのない希佐だったが、日本でのヴィルチッタ絢浜に宿泊した経験が生かされ、ちょっとやそっとのホテルでは驚かない自信があった。
このホテルは内装がシンプルで、落ち着きがあり、ロンドンにある星付きのホテルと比べると、気兼ねなく過ごせそうな雰囲気があった。
「ただいま確認が取れました」フロントクラークがそう言うと、脇に控えていたベルマンが歩み寄ってくる。「お部屋まではこちらの者がご案内いたします。どうぞごゆっくりお寛ぎください」
こちらです、と言いながらベルマンは手を出すが、希佐が何の荷物も持っていないことに気がつくと、途端に不思議そうな顔をした。しかし、フロントクラークが小さく咳払いをすれば、ベルマンは鍵だけを受け取って、先に立って歩き出した。
希佐が案内されたのは、階段を上がった先の奥まった場所にある一室だった。鍵を開け、先に入ったベルマンは部屋の明かりをつけてから、希佐を中へと通す。ベルマンは希佐が準備しておいた一ポンドのチップを受け取ると、一通りのことを説明してから、鍵を受け渡してフロントへと戻っていった。
ゴダンが取ってくれた部屋は、希佐が一人で泊まるには広々とし過ぎていた。通り掛かった際に覗き込んだバスルームはトイレと兼用だが、真っ白で清潔感がある。正面には大きな窓があるようだが、今はカーテンで閉じられていた。その窓辺にあるマルテーブルの上には、welcomeと書かれた水仙の花が描かれたカードと、シャンパンが用意されている。それがホテルのサービスの一環なのか、ゴダンが気を利かせたのかは、希佐には判断のしようがない。
少し硬めのベッドに腰を下ろした希佐は、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、履歴からゴダンの番号を呼び出し、そのまま耳に押し当てる。
『Allo』
「希佐です」うん、と頷く声を聞いてから、希佐は続けた。「今、ウィンダミアのホテルに着きました」
『何事もなく辿り着けてよかった』
「宿泊費は後程──」
『こちらへは僕が招待したんだよ、キサ』ゴダンは希佐に最後まで言わせず、静かな口振りでそう切り返した。『費用面での心配はいらないとも』
「……ありがとうございます」
『君がウィンダミアに到着したことは、僕からアランに伝えるつもりだけど、それで構わないかな。それとも、自分で連絡をする?』
「アラン……」
『実は、君がオクセンホルムに到着したと連絡をくれる前に、少し電話で話をしたんだ。君のことを酷く心配していたよ。もし自分で連絡をできるようなら、そうしてあげた方がいい』
何も言わずに電車に飛び乗り、こんなところまで来てしまった。これまでの経験上、そしてこれからのためにも、早めに話をしておいた方がいいということは、もちろん分かっている。
もとより、ざわざわとする心が落ち着いたら、連絡をするつもりではいたのだ。だが、まさかこんなにも早く自分が帰らないことを不審に思われるとは、希佐は考えてもいなかった。
「分かりました。こちらから連絡をしてみます」
『うん、それが一番だ』ゴダンが朗らかに言った。『では、今日は慣れない長旅で疲れているだろうから、ゆっくりおやすみ』
「はい、おやすみなさい」
レオナール・ゴダンは多くを訊ねず、多くを語らなかった。どの通話でも必要最低限の会話しか行わない。まるで、自分が逃げるようにロンドンから離れたがっていることを、最初の一声から察していたようだったと、希佐は思う。
そのままバッタリとベッドに倒れ込んだ希佐は、染み一つない白い天井を見上げた。あまりの静けさに、普段は気にも留めない自らの心臓の鼓動が、どくん、どくん、と大きく聞こえてくる。
希佐はその場に身を起こすと、手の平に掬い上げた髪を見下ろしてから、スマートフォンを手にしてアランの電話番号を呼び出した。
もしかしたら、出てはくれないかもしれない。だが、それはそれで仕方のないことだ。希佐がそのように思っていると、一コール目が鳴り終わるか終わらないかというタイミングで、呼び出し音が途切れた。
呼吸を整える間もないまま感じた相手の気配に、思わず声を詰まらせると、電話口の向こう側で聞き慣れた声が「Hi」と言う。促されるようにして小さく挨拶を返すと、ほっと安堵したような息遣いが聞こえてきた。
『ホテルには着いたの』
「うん」
『そう』
いつもは気にならない沈黙が、今は苦痛に感じられる。後ろめたくてたまらないのだ。
この人は自分と真剣に向き合おうとしてくれていたのだろう。だが、自分はその気持ちを汲み取ることができず、それどころかすべてを投げ出して、今、こんなところにいる。
『ルイが場所を見つけて稽古を続けるようにって』アランは普段通りの口振りで言った。『ジョシュアもそう言ってた』
「うん」
たくさんの人に迷惑を掛けている──その事実が希佐の細い肩に重くのし掛かりそうになったとき、キサ、とアランが呼んだ。
『君は何も気にしなくていい。元はと言えばルイが言い出したことだ、誰も君を咎めたりはしない』
「でも──」
『俺も君とは距離を置いた方がいいだろうと思ってた』
「……え?」
『君は元来相手と掛け合いをしながら踊ることで能力を発揮する役者だ。相手役の力量によっては、実力が出しきれないこともある。今回、俺の力量不足が君の足を引っ張ることになるだろうということは、ある程度は最初から分かっていたことだ』
アランは「君に頼みがあるんだ」と言った。あの瞬間の眼差しが、希佐の目には、燃えるような炎を宿しているように見えた。だがしかし、今思えばそれは、己を鼓舞するための強い意志が滲んでいたのではないかと、そう感じる。
『俺は昔の劇団時代からペアダンスが踊れなかった。もっと正しく言うと──』言葉の合間に、ぎぎ、と椅子の軋むような音が聞こえてきた。『踊ろうと思えば踊れたけど、相手の感情が自分の中に雪崩れ込んでくる感覚が異常に気持ち悪くて、ずっと踊ることを避けてきた。組んだ相手が、俺のことを分かったつもりになって踊ることが、俺には耐えられなかったんだ』
アランはいつも、昔のことをただ静かに、淡々と語る。まるで、自分の心と頭の間にある回路を切断し、これは自分以外の他の誰かの話だと、そう自らを錯覚させるかのように。
『だから、俺は意識的に相手の身体言語を遮断するようになった。俺自身も相手に何かを伝えようと試みることすらしなかった。その場限りの相手の気持ちなんて分かりたくもなかったし、分かるはずもないと思っていたから』
「……うん」
『あれから何年もの年月が過ぎて、俺は自分が少しはまともな人間になったんじゃないかと思っていたし、前よりは人の心に寄り添えるようになったんじゃないかって、そんなふうに楽観視してた。今なら踊れるんじゃないか──君となら、或いはって』
アラン・ジンデルは物語の主人公だ。だが、自分ではそれを認めたがらない。自分は至らない存在だと思い込んでいる。自らの物語の脇役に徹しようとしている。裏方の方が性に合っているのだと、そう自らに言い聞かせ、納得させようとしている。
『結果、駄目だった』感情の乏しい声が言った。『肉体的な問題なら矯正は容易い。でも、精神的な問題は、そう簡単には取り除けないのだと分かった。俺は君と踊るときですら、感情がこの体に雪崩れ込んでくる感覚を不快に思ってしまった』
「……そう」
『昔からずっと、心が拒絶したものは無意識に遮断して、自分が生きやすいように生きていた。そうすることで自分を守ってきた。長年の癖は俺の体に染み付いていて、どうすることもできなかったんだ』
希佐はスマートフォンを耳に押し当てたまま、再び背中からベッドに倒れ込んだ。天井をじっと見つめていると、それがじわじわとこちらに迫ってきているような、そんな錯覚を覚える。
「私もだよ」
『なにが』
「気持ちが悪かった」希佐は必死に隠そうとしていた感情を吐露した。「アランと踊ることが、気持ち悪くてたまらなかった」
アランは何も言わない。ただ、黙りこくっている。
「そんなふうに思ってしまう自分が嫌だった。でも、回数を重ねれば、あなたの考えていることが分かるようになるんじゃないかって、思いを汲み取れるようになるんじゃないかって、そんな微かな希望に縋るみたいにして、あなたに身を委ねていた」
もっと早くに、この思いを口に出していれば良かったのだろうか。互いに似て非なる感覚に苦しみながら踊り続けるよりも、喉元まで競り上がってきていた不快感を吐露しあった方が、より健全だったのだろうか。
「でも、駄目だった」
今になって、ジョシュアが言っていた、自分のためにという教えが、心に深く突き刺さる。だが、人を楽しませることのできない者に、自分を楽しませることができるとは思えない。自己満足のために立つ舞台は、立花希佐の舞台ではない。
「上手くいくはずがなかったんだね」
希佐は内へ内へと向かうアランの心をこじ開けようと必死になり、アランはそれを受け止め切ることができず、拒絶するという手段を選択せざるを得なくなってしまったのだから。
「私が何かしようとすれば、それはもう逆効果にしかならない」希佐の口はまるで他人事のように淡々と言葉を吐き出していく。「私にはもう何もできない」
『キサ──』
「ごめんなさい。私は今の今まで、あなたの気持ちを考えもしないで、自分の感情だけを押し付けてきた。私の我儘にあなたを付き合わせてしまった。でも、もういいよ。あなたの心に嘘を吐かせてまで、私はあなたと並んで舞台に立ちたくはない。あなたの抱えている問題を時間が解決してくれるのなら、あなたはそれを待てばいい」
ただ、もうその場所には、立花希佐はいないというだけのことだ。
「別の方法を考えよう。無理にダンスを踊る必要はないし、歌だって、お芝居だって構わないのだから」
『キサ』電話越しの、微かにがさついたアランの声が、僅かに語気を強める。『俺が君と踊りたいんだ』
「だから、それは──」
『一週間だけでいい』希佐の言葉を遮り、アランは捲し立てるように続けた。『一週間──それですべてが解決するとは思っていない。でも、俺は君を諦めたくない。もし何も変わらなければ、そのときは君の決断に従う』
「……何をするつもりなの?」
『目を背けてきたものと向き合うよ』
「え?」
『一週間後に迎えにいくから』
覚悟を決めたと言っていた。その覚悟が何を指しているのかは、希佐には知る由もない。だが、こんなにも明確な日数を提示し、食い下がるということは、アランには判然たる考えがあるのだろう。
希佐はベッドに横たわったまま、そっと目を伏せた。
自分にはもうどうすることもできない。伸るか反るか、どちらか一方に賭けなければならないのだとしたら、答えは決まっている。
「分かった」希佐は大きく息を吐き出した。「待ってる」
ただ大人しく待っているつもりはない。ここにも何か得られるものがあれば、それを自分のものにして帰りたいと、希佐は思う。この人が頑張るというのなら、それ以上に努力をしなければ、それこそ示しがつかないだろう。
『明日の夜も連絡する』アランは普段通りの声音で言った。『何をしていたか聞かせて』
「うん」
『……おやすみ、キサ』
「おやすみなさい」
ルイに指摘された通り、この一週間、自分の稽古に身が入っていなかったことは、紛れもない事実だった。怒られるどころか、気を使われてしまう始末だ。言い逃れのしようもない。
「……よし」
どちらに転ぶのかは分からない。もしかしたら、互いが期待したような結末には落ち着かないのかもしれない。それでも、出来るかぎりのことはしようと思うのだ。
今はただ、自分に与えられた課題に集中しよう。塞ぎ込んでいたところで、事態は好転しないのだから。
希佐はベッドから起き上がると、長時間列車に揺られ、狭い座席に押し込められていた体を労わるべく、まずはバスルームに向かった。バスタブに少し熱めの湯を溜めている間に、服と靴を脱いで、下着姿のままストレッチをはじめる。
隣接しているバーは二十三時まで開いているらしいが、そろそろ閉店時間だ。時間も時間なので、食事は明日の朝まで我慢しようと思いながら、強張っている筋肉を少しずつ解きほぐしていった。
アイルランドからイギリスに移り住んで以降、こうしてロンドンの街を離れたのは初めてのことだった。毎日の生活を送るだけで精一杯だった希佐には、のんびり旅行をすることなど、微塵も考えられなかった。カオスの仲間に入れてもらい、生活が安定してからも、役者として働かせてもらえる機会が増え、稽古漬けの日々を送ってきている。
イギリスにはロンドン以外にも素敵なところがたくさんあるのよ、とアイリーンに言われたことがあった。興味がなかったわけではない。だが、舞台に立つことを差し置いてでも行きたいとは、どうしても思えなかったのだ。
そんな自分が今、イギリスでも有名な観光地の一つである、湖水地方まで足を運んでいる。どこか呼ばれるようにして列車に飛び乗り、ふと気がつくと、目的地に到着していた。列車の中で自分が何を考えていたのかすら、今となっては思い出すことができない。
希佐は自分がときどき、己の意に反して行動を起こしていることを自覚していながら、それを不可思議にも思っていた。考えれみれば、日本を飛び出してきたときですら、如何ともしがたい衝動に駆られ、まるで何者かに導かれるようにして、アイルランド行きの飛行機に搭乗していた。
あの出国が計画的であったことは間違いない。ただ、その日が刻一刻と迫る日々の中で、立花希佐という舞台人が終わりに向かう焦燥感を覚えながらも、大半は諦めにも似た感情に支配されていたように思う。死に場所を探すための旅に出ようとしていたのかもしれない。
そしてここが、この国が、立花希佐と呼ばれた役者の、死に場所なのだろう。
翌朝、一人で眠るには広すぎるベッドの上で目を覚ました希佐は、枕周りに手の平を這わせ、ひんやりと冷たいスマートフォンを探し当てた。時刻を確認しようと目を凝らすが、画面は暗転したままだ。どうやら充電が切れてしまったらしい。うつ伏せになっている体を仰け反らせ、ベッドサイドに置かれているデジタル時計に目をやると、時刻はもう間もなく七時を迎えようとしていた。少しの寝坊だ。
寝ぼけ眼のままベッドの上でストレッチをしながら、希佐は今日一日の予定を頭の中で組み立てる。まずはスマートフォンの充電器を手に入れる必要があるだろう。着の身着のままでやって来てしまったので、必要最低限の衣類や練習着、生活用品などをどこかで購入しなければならない。化粧品くらい持ち歩いておくべきだったと思いながらも、さほどの支障はないだろうと考えた瞬間、頭の中にいる小さなアイリーンに、こらっと叱られたような気がした。
じんわりと掻いた汗を流すためにシャワーを浴び、それ以外には持ち合わせがないので昨日と同じ白いニットのワンピースを着た希佐は、不意に思い立って窓辺に足を向けた。カーテンを開こうとするが、これが微動だにしない。どこかにスイッチがあるはずだと探していると、それらしいものをベッドサイドに見つけた。カチ、と押し込んでみれば、微かな機械音を鳴らしながら、カーテンが左右に開く。
「わ、あ……」
目の前に広がっていたのは、うっすらとした朝霧に覆われたミニチュアのような街並みと、青々とした緑の世界だった。霧は登ったばかりの朝日に照らされて、薄桃色に色づいて見える。遠くに望むのはウィンダミア湖だろう。その更に向こう側には、低い山々と森がどこまでも続いている。
昨夜はほとんど暗闇の中を駅からホテルまで歩いて来たので、ウィンダミアがどのような街なのかすら分からなかったのだ。
希佐はベッドの足元に転がっていた編み上げのブーツを履くと、レザーのジャケットを羽織り、電源の入らないスマートフォンと財布をポケットに押し込んで、ベッドサイドに置いていた鍵を掴み、部屋の外に出た。
「おはようございます」
フロントまで降りていってそう声を掛けると、大きな欠伸をしていた昨夜とは別のフロントクラークが、慌てたように姿勢を正した。
「おはようございます、お客様」
「少し散歩に出掛けたいので、鍵を預かっていただけますか」
希佐は手にしていた鍵をフロントに預け、そのままホテルの外に出た。風はなかったが、朝の空気はまだ冷たい。ジャケットを掻き合わせながら歩き出したところで、ホテルの駐車場を掃除している男性と目が合い、希佐は反射的に小さく会釈をした。
「おはようございます」このホテルの従業員なのだろう。その老齢の男性は、にこやかに声をかけてくる。「お散歩にお出かけですか?」
「はい」
「今日は良いお天気になりそうですよ。お客様は運がよろしい。ここ最近は晴れ間もなくて、どんよりとした曇り空ばかり見上げていたので、気分が滅入っていたところです」
「そうだったんですね」
「そろそろ街のパン屋さんが開店する時間です。お散歩がてらお食事をしていらしてはいかがですか?」
希佐はその従業員からパン屋の場所を教えてもらうと、いってらっしゃいませ、と穏やかに送り出された。
まだ少し朝霧には覆われているものの、視界が悪いというほどでもない。見上げた空には青が広がっている。排気ガスと埃っぽい臭いのするロンドンとは違い、この辺りは酷く空気が澄んでいて、大きく息を吸い込むと、湿った土と水の匂いがした。
ホテルの敷地を出るための緩やかな坂道を降り、希佐は教えられた通りハイストリートを真っ直ぐに入った。その辺りをすぐに左折すると、昨日下車したウィンダミア駅に辿り着くはずだ。ハイストリートをずっと進んでいけば、ヴィクトリアロードとの分岐に差し掛かるが、メインロードまではそのまま進むようにと言われている。
シーズン外ということもあってか、それともロンドンの街を見慣れているせいか、人の数はそう多くないように思えた。観光客が活動をはじめるには、まだ早い時間帯なのかもしれない。店の開店準備や、トラックでの搬入作業などが行われている隙間を縫うように歩きながら、希佐はその街並みを眺めていた。
この辺りは観光地ということもあり、昔ながらの景観が守られている。右を見ても、左を見ても、建物はほとんどが石造りで、塀の多くも石垣のものが目立った。まるでお伽噺の中にでも迷い込んだかのようだ。
こうして街並みを眺めながら歩いているだけで、日本とは違い、地震が少ない地域なのだということが分かった。希佐がイギリスで暮らすようになってから、揺れを感じるような地震は、ほとんど起きた覚えがない。
ハイストリートからメインロードに入ると、途端に街の雰囲気が変わったかのように感じられた。パブやバー、飲食店が多く建ち並んでいる印象だ。
ホテルの従業員が教えてくれたパン屋もすぐに見つかり、希佐は開店したばかりのその店に入ると、ハードパンのサンドイッチとコーヒーを購入し、店の前にあるベンチに腰を下ろして、それを食べることにした。
これを食べ終えたら、ホテルの近くに見えたコンビニエンスストアに行って、スマートフォンの充電器がないか聞いてみよう。取り扱っていなければ、ホテルに戻って相談してみるしかない。衣類品や生活必需品もどこかで購入したかったが、そうした店が開店するまでにはまだ時間が掛かりそうだ。グラスミアに行くための手段も確保しなければならない。ホテルに戻ればコンシェルジュがいるはずなので、手が空いているようならバスについて訊ねてみよう──希佐はそのように考えながら、ベンチから腰を上げた。
パン屋の近所にあった文房具店でボールペンとメモ帳を購入してから、途中のコンビニで無事に充電器を手に入れ、来たときと同じ道を辿ってホテルまで戻る。
しかし、ホテルに向かう緩やかな坂道を登りきり、駐車場に差し掛かったところで、希佐は不意に足を止めた。先ほど掃き掃除をしていた老齢の従業員が、一人の男性と楽しげに立ち話をしている姿を目の当たりにして、思わず目を丸くする。
「ああ、お戻りになりましたよ」
希佐がホテルまで戻ってきたことに気づいた老齢の従業員が、そう言ってこちらを見やった。すると、その人の傍らに立っていた男性が振り返る。
「やあ、キサ」
「Sir.レオナール」にこにこと笑いながら手を振っているレオナール・ゴダンのところまで、希佐は慌てて駆け寄っていった。「おはようございます」
「おはよう」
ゴダンは薄い色のデニムにグレーのニットというラフな格好をしていた。肩には一眼レフカメラのストラップを引っ掛けている。
「昨夜はグラスミアにいると……」
「今朝は撮影のために早起きをしてね。ここまではそう遠い距離でもないから、せっかくだし車で迎えに来たんだよ。迷惑だったかな」
「いいえ、迷惑だなんて」希佐は首を横に振る。「ありがとうございます」
「朝食は?」
「食べてきました」
「バニラベーカリーのパンはお口には合いましたか?」はい、と笑う希佐を見て、老齢の従業員は嬉しそうに目を細めた。「それはよかった」
「あのお店のパンは僕も好きだよ。特にシナモンロールが絶品なんだ」
「すみません、いらっしゃることが分かっていれば買ってきたのですが」
「一応連絡はしたのだけれどね」
「……スマートフォンの充電が切れていて」
重ね重ねすみませんと言って肩を落とす希佐を見て、ゴダンは笑みを深めている。
「思っていたよりも元気そうだ」
希佐はすぐさま突然の訪問を謝罪しようとしたが、ゴダンはその言葉を望んではいないだろうと察し、開きかけた口を噤んだ。ゴダンはそうした希佐の様子を見て何かを感じ取ったのか、それ以上のことは語らず、老齢の従業員に目を向けた。
「おかげで彼女と行き違いにならずにすみました。ありがとうございます、支配人」
「……えっ?」
ゴダンは間違いなく、希佐の目の前にいる老齢の男性のことを、支配人と呼んだ。キャップを被り、よれたジャージを着て、早朝から箒を手に駐車場の掃き掃除をしているこの人が、ホテルの支配人だったというのか。
希佐がそう思いながら唖然としていると、男たちは顔を見合わせ、愉快そうに微笑み合っていた。
本格的なシーズンではないとはいえ、あの時間帯に何の制限もなく部屋を取れるというのは、少し妙だと思っていたのだ。だが、支配人と知り合いなら、そう難しいことでもないのだろう。
支配人は駐車場の掃き掃除を終えると、お茶をするならレストランには話を通しておくからと言って、機嫌良くホテルへと戻っていった。
「今すぐ出発することもできるけれど、どうしようか」
ゴダンは自らが乗ってきたらしい車を指して言う。その車は、フォルクスワーゲンの赤いワゴンバスだ。随分と年季が入っているように見える。
「実は、着替えや日用品の用意がなくて」
「では、ウィンダミアで買い物を済ませてから出発することにしよう。こちらの方が、グラスミアよりも選択肢が多いからね。大体のお店は十時には開くだろうから、それまではお言葉に甘えてお茶でも飲みながら、ゆっくりしていようか」
「はい」希佐はそう返事をしてから、ハッとする。「でも、大丈夫ですか? 今朝は映画の撮影のために早起きをされたって」
「いいんだよ、もう今日の分の撮影は終わったからね。それに、この天気が夜まで保つとはかぎらない」
「今朝は何を撮影されたんです?」
「朝日だよ」朝日、と繰り返す希佐を見て、ゴダンは僅かに口角を持ち上げた。「この辺りは曇っていることの方が多いから、朝日を撮影するのも一苦労なんだ」
ゴダンはそう言いながら、ホテルの玄関口に向かって歩き出す。希佐は黙ってその後ろをついていった。ホテルの中には食堂があり、既に多くの人々が朝食のために訪れている。
丁度良く空いたテーブルに案内されると、ゴダンは希佐だけを椅子に座らせ、二人分の紅茶をカップに注いで持ってきてくれた。
「今朝の朝日はとても美しかったよ。うっすらとした朝霧が地上を覆っていてね。グラスミア湖の水面には、二羽で寄り添う水鳥のシルエットが浮かび上がって、彼らが水を掻くのに合わせて、さざなみが立っていたんだ。それが徐々に波紋を広げて、湖面に浮かぶ太陽を滲ませる」
「想像するだけでも美しい光景ですね」
「何日か滞在する予定なら、君にも見られる機会があるかもしれないね」
ゴダンは紅茶と一緒にもらってきたポーションミルクを一つ、二つと琥珀色の液体の中に入れていく。希佐は徐々に白濁していく紅茶を眺めながら、伝えるべき言葉を頭の中で選別していた。
「あの、そのことなのですが……」小さく咳払いをしたあと、希佐は居住いを正し、ゴダンの地球色の目を見つめた。「アランは一週間後に迎えに来ると言ってくれていて」
「うん」
「大変厚かましいお願いなのですが、それまでの間、お世話になっても構わないでしょうか」
「もちろん、構わないよ」
「本当ですか?」
「ただし」ゴダンはそう言うと、たっぷりのミルクを入れた紅茶を一口飲んでから、小さく息を吐き出した。「君の写真を撮らせてくれるなら、という条件付きだけれど。いいかな?」
「はい、大丈夫です」
「ヌードを撮らせてくれと言うかもしれないよ?」
本気とも冗談ともつかない面差しで言うゴダンを見つめたまま、希佐は何度か瞬きを繰り返す。
ゴダンのアトリエの壁に、所狭しと飾られていた写真を見たとき、何一つ不快に思うものはなかった。中には男性や女性の裸体もあったが、そこにはいやらしさの欠片もなく、ただただ美しい芸術性だけを感じていた。
「それが本当に必要なことなら、私は構いません」
「本当に必要なことなら、か」ゴダンはそう言うと、テーブルに頬杖をつき、希佐の顔をじっと覗き込んでくる。「自らを写真家と自称する人間は皆すべからく貪欲な気質を持ち合わせていてね。撮りたいと思ったものを、どうしても撮らずにはいられなくなるんだ。逆に言えば、そういう人間しか写真家にはなれない。目的もなく、ただ漠然と写真を撮るだけの人間は、趣味の域に留めておく方がいい」
希佐がカップの取っ手を指先でつまみ、それを口元まで運ぶ仕草を、ゴダンはまるで動画で撮影するかのように、じっと眺めていた。
「僕はある瞬間から人間の内面に心を奪われ、どうにかしてその瞬間を切り取り、永遠にしたいと考えるようになった」
今になって思い返してみれば、ゴダンが撮影した写真からは、その瞬間にしか得ることのできない、感情の揺れ動きを強く感じ取ることができた。どの写真からも、どこか生々しさすらある、被写体の意思が感じられたのだ。カメラのレンズを見つめてポーズを決めるような構図は、一つもなかった。
「例えば、人は心にどれだけ深い傷を負っても、いつかその傷の痛みを忘れてしまう。人間はそういうふうに作られた生き物だからね、忘れてしまうのは仕方がない。でも、そうした刹那的な感情の機微ですら、写真はとこしえにすることができる。写真を眺めることで、当時感じていた風や、匂いや、音を思い出せる」
希佐の脳裏に、ふと十五歳の頃の自分が蘇ってくる。将来の夢を諦めかけていたとき、突然現れたイタチのオナカが部屋の中で大暴れし、一枚の写真を希佐に見せてくれた。いつ、誰が撮ったのかも覚えていない、幼い頃の写真だ。自分と兄と幼馴染。よく晴れた日の出来事だった。
あの日、あの瞬間に写真を見ることがなければ、懐かしさから神社に出向き、中座秋吏と出会うこともなかった。確かに、写真には不思議な力や、魅力がある。
「今の君はとても美しいよ、キサ」伏せていた目を上げると、希佐の表情を記憶の中の写真に収めようとするかのように、ゴダンがゆっくりと瞬くのを見た。「どれほど高価なドレスを身に纏い、外面を美しく着飾って見せても、内面から滲み出る醜さはすべてを台無しにしてしまう。僕はそういう人間を大勢フィルムに焼き付けてきた。だからこれからは、自分が撮りたいものだけを撮ろうと決めたんだ。君や、アラン・ジンデルのような、魅力的な被写体をね」
「Sir.レオナールは私を買い被っていらっしゃいます」
「キサ、君もそろそろレオと呼んでくれないかな」ゴダンはそう言って、どこか困ったような表情を浮かべる。「僕は陛下からナイトの称号を賜ってはいるけれど、本来はそういう柄ではないんだよ。一度は辞退を申し出たくらいなんだ」
希佐は不意に、アランがよく言っていた「Don't say “Mister”」という言葉を思い出し、ふふ、と笑みをこぼした。その笑顔を目の当たりにしたゴダンは、思わずというふうにカメラに手を伸ばしかけるが、思い直した様子で頭を掻く。
「今の笑いは?」
「アランと出会ったばかりの頃のことを思い出してしまって」ごめんなさいと謝る希佐に向かって、ゴダンは話の続きを強請った。「大したことではないんです。ただ、出会ってすぐの頃は、アランのことをミスターと呼んでいて。私がそう呼ぶたびに、彼はとても嫌そうな顔をしていました。ミスターと呼ぶなと言って」
「わざとそう呼んでいたの?」
「そうですね、半分くらいは」希佐はそう言いながらくすりと笑う。「なかなか自分を見せてくれないあの人が、そのときだけは、明確な感情を剥き出しにしてくれたので」
「君も存外意地が悪い」
「だから買い被っていると言ったんです」
この人が自分のことをどのように思っているのかは分からない。アランが自分のことをどのように話し、伝えたのかも知らない。だが、君は美しいと称賛されるほど自分は無垢ではないと、希佐は思う。
「では、この僕が君の美しさを証明してみせよう」ゴダンはそう言うと、今度こそ傍に置いていたカメラを手に取り、そのレンズを希佐に向けた。「君の美しさを、君自身に認めさせてみせるよ」
カシャ、と一度だけ、カメラのシャッターが切られる。覗いていたファインダーから顔を上げたゴダンは、にこりと、どこか挑発的に微笑んでいた。
ああ、そういえば、希佐はいないのだ。
目の前の皿に盛られた二人分の朝食を見下ろして、アラン・ジンデルはこめかみを掻く。習慣とは恐ろしいものだと思いながら、一方の皿にはラップをかけ、そのまま冷蔵庫の中にしまった。起き抜けに淹れて飲み残していた紅茶をレンジで温め、それを食卓に置く。
希佐と共にダンスの稽古をするようになってからの一週間、またよく眠れない日々が続いていた。快眠とは言わないまでも、毎日四、五時間程眠れるようになったのは、希佐がこのスタジオに身を寄せるようになってからだ。時折、戯れに潜り込んでくるぬくもりが心地良くて、気がつくと朝を迎えていることは珍しいことではなくなっていた。
だが、ここ数日眠ることのできない原因もまた、立花希佐にあった。
いや、それを原因と断定すること自体が誤りなのだろう。原因は自分にある。その理由が、彼女であるというだけのことだ。
朝食の後片付けを終え、濡れた手をタオルで拭っていると、テーブルに置いていたスマートフォンが着信を知らせる。画面に表示されている者の名前を一瞥し、思わず時刻を確認した。午前八時を迎えようとしていた。
『やあ、アラン』おはよう、と言うレオナール・ゴダンの朗らかな声を聞き、アランは短く「Morning」と応じる。『少し元気がないね』
「いつもと変わらない」
『昨夜はキサと話せたかい?』
「ああ」アランは椅子を引いて腰を下ろした。「話した」
『そうか、それはよかった』ところで、とゴダンは声音を変えずに続ける。『キサと連絡が取れないんだ』
少しも慌てた様子のないその口振りを聞きながら、アランは小さくため息を漏らした。
「それは大変だ──って俺が慌てふためけば満足するの」アランが呆れながらそう言うと、ゴダンは小さく笑う。「スマートフォンの充電が切れてるだけだと思うけど、心配ならホテルに連絡してみれば」
『おや、これは予想外の反応だったな』
「心配をしていないわけじゃない」
『そうだろうね』
「ただ、彼女が本当に姿を消すつもりなら、誰にも何も告げずに、黙っていなくなるはずだから」
『へえ、そうなのかい?』
「思い詰めたような様子ではあったけど」
希佐が自らの感情を押し隠そうとしているときほど、周りの人間の目にはフラットな状態に見える。目に見えて不安がっていたり、恐れたりしているときの方が、むしろ健全だ。そうした感情すら表に出さなくなると、当人は至って平然な顔をして、とんでもないことをしでかすことがある。今回がそれだ。
「……気をつけてはいたんだけどな」
『ん? 何か言った?』
「いや」
ルイとの稽古を早々に切り上げた希佐に、出かけるのかと訊ねたときも、普段と変わらない様子に見えた。後ろに立って髪を乾かしてやっているときも、いつもと同じように、黙って身を委ねていた。
だが、どこか漠然とした嫌な予感のようなものが、アランの心をざわざわと落ち着かない気持ちにさせていたことは、間違いではない。自分が不甲斐ないばかりに、希佐に不要な心労を与えているという後ろめたさが、アランの口を噤ませていた。
そもそも、どこへ行くのか、何時に帰るのかなどという尋問じみた質問をする権利など、自分にはないとアランは思っていた。どこへ行こうが、何をしようが、希佐の自由だと考えている。そう、自らに、言い聞かせている。
いつからか、一度口を挟もうものなら、次から次へと束縛するような言葉ばかりが、この口から吐き出されるのではないかと思い始め、そんな自分を恐ろしく感じるようになった。そんなことをしたいわけではないと頭を振りながら、自分自身の醜く歪んだ部分をひた隠そうと必死だった。
立花希佐は自分のものではないと常に言い聞かせていなければ、そう勘違いをしてしまいそうになるほど、近づき過ぎてしまったのだろう。こうして自分が今、希佐の隣にいられるのは、彼女がそれを望んでくれているからだと、そう思う。
何度抱き寄せ、繋ぎ止めようとしたところで、自ら離れていこうとする者を引き止める方法を、アランは知らない。自分のような者は誰かの側にいるべきではない。この世に生まれ落ちてから、息絶えるまで、たった一人で生きていくべきなのだ。その方が、周囲の人々は皆、幸せになれる。
だから、捨てられたのだ。
雪の降る、凍えるような、クリスマスの夜に。
アラン・ジンデルはあの日から、今までずっと、いつだって孤独だと思っていた。
「気になるなら、ウィンダミアまで様子を見に行ってみたら。こんな時間に連絡してくるくらいだから、どうせ暇なんだろ」
『そうだね、昼間のうちはもうやることもないし、車で迎えに行ってみようかな。早くしないとバスに乗ってしまうかもしれないしね』ゴダンはそう言ってから、君は? と問いかけてくる。『君たちの間に何があったのか、今はあえて聞かないけれど、彼女を迎えに来るまでの七日間をどう過ごすつもりなの?』
「レオは口が軽いから教えない」
『僕は言うなと言われたことは言わないよ』
「言うなと言われなければ言うんだろ」
『言うなと言われていないからね』
「そういうのを口が軽いって言うんだ」アランは呆れたようにそう言うと、再び時計に目を向ける。「これから出掛ける予定があるから、そろそろ切るけど」
『彼女に伝えておくことは?』
「ない」アランはそう口にしてから、すぐに言い直した。「あれば自分の口から伝える」
『そう、分かったよ』
何かあればすぐに連絡をすると言って、ゴダンは電話を切った。
一体何のために電話を掛けてきたのだと思いながらも、自分を案じてのことなのだろうと考えながら、アランは椅子から立ち上がった。
部屋に戻って着替えを済ませ、必要なものだけをジャケットのポケットに押し込む。机の引き出しに入れてある腕時計を取り出し、それを右手首に巻いていると、視界の中にテディベアが入り込んできた。胸元に飾られた小さな金のペンダントには、ジェームズと刻まれている。随分上等な名前をもらった熊だと、アランは改めてそう思いながら、テディベアの頭を撫でた。
ジェームズという名前の起源は、旧約聖書に登場するヤコブだ。ヤコブの別名はイスラエル。ユダヤ人の祖とされている人物に由来する名前を、この愛らしいぬいぐるみは名乗っている。とはいえ、このイギリスではありふれた名前のうちの一つだ。
バレンタイン、このテディベアが枕元に置かれているのを目の当たりにした瞬間、アランの胸の内には、何とも形容しがたい感情が芽生えていた。
本当は羨ましかったのだ。周りの子供たちが、当然のように抱きかかえている毛むくじゃらの友人を、自分も欲しいと思っていた時期があった。
大昔、ウェールズの施設で暮らしていたとき、地元の貴族が子供たちのためにと、クリスマスに大量のプレゼントを贈ってくれたことがあった。
その日が誕生日だったアランは、シスターからどれでも好きなものを選んで良いと言われ、他のプレゼントの箱に比べれば控えめな大きさの、紙でラッピングされたものを手に取った。
当時からクリスマスが好きではなかったアランは、大喜びでラッピングを撒き散らす子供たちの輪から離れ、部屋の隅に座って、プレゼントを覆っている紙を破かないように気をつけながら、中身をそっと取り出した。
上質な紙に包まれていたのは、薄茶色のテディベアだった。焦茶の目は室内の明かりを反射させて、キラキラと宝石のように輝いていた。首には赤い蝶ネクタイを身につけていたことを覚えている。
クリスマス。四歳の誕生日。サンタクロースなんているわけがないと思っていた子供だったが、その贈り物は素直に嬉しかった。これで自分にも友達ができると思った。何でも話せる、大親友を得られるのだと。
結果から語れば、そのテディベアは一夜の夢で終わった。枕元に置いて眠り、眠って起きた次の日の朝には、テディベアだったものがそこにあるだけだった。四足が引きちぎられ、白い綿が引き抜かれて、宝石のように輝いていた目は無惨に飛び出し、蝶ネクタイは床に打ち捨てられていた。アランの初めての友達は、出会ったその翌日に、残虐な死を迎えていた。
「あなたがこんなことをするような子だったなんて──」
シスターは絶句したあと、恥を知りなさいと叫ぶように言った。
言い訳をする間もないまま、教会の懺悔室に押し込まれ、存在しない罪の告白を強いられて、それを拒むと、独居房のような部屋に連れて行かれた。冷たい床の上で薄い毛布に包まり、一夜を過ごすしかなかった。
元々眠りが浅い方ではあったが、明確に眠れなくなったと感じたのは、この日からだ。
大部屋に戻ると、数少ない自分の持ち物がすべて消えていた。前の施設で良くしてくれたシスターにもらった絵本も、既にボロボロだった讃美歌の楽譜も、何枚かの写真も、隠していたチョコレートも、何もかもがなくなっていた。
その瞬間、自分は他の子供たちの標的にされたのだと悟った。
どこの施設にもリーダー格の子供が存在する。そいつに目をつけられたのだ。表の顔と裏の顔を使い分けるのが得意だったその子供は、シスターの前では聞き分けの良い子供を演じ、他の子供たちの前では女王の如く振る舞っていた。権力をほしいままにしていた。だが、施設や寄宿舎のような場所ではよくあることだ。さして珍しくもない。
何かを得るたびに、何かを奪われた。
だから、得ることをやめたのだ。
自分のものでなければ、たとえそれを持ち去られたとしても、何かを奪われたことにはならない。
しかしその少女は、決して欲してはいけないものに手を伸ばそうとした。アランがいつも肌身離さず身につけていた指輪だ。チェーンに通して首に掛けていた指輪を盗もうとしたのだ。アランの痩せ細った体に掴みかかり、乱暴に押し倒すと、指輪を掴んでチェーンごと引きちぎろうとした。
アランは咄嗟に自分の上に覆い被さっている体を突き飛ばした。反撃を受けるとは思っていなかったのだろう、よたよたとバランスを崩した少女は後ろに倒れ込み、棚の角に頭を強打して、そのまま動かなくなった。
当然の報いだと思った。自分が受けてきた仕打ちに比べれば大した問題ではない。頭から血を流している姿を目の当たりにしても、そう思っていた。
「あの子はただあなたの指輪を見てみたかっただけなのよ」
少女の怪我は大したものではなく、数針縫う程度の傷でしかなかった。だが、施設に戻ってきた少女はまるで悲劇のヒロインのような振る舞いで、周りの子供たちやシスターを巻き込み、アランのことを一方的に責め立てた。
今思えば、少女は何か重い問題を抱えた子供で、心を病んでいたのかもしれないと考えることができる。でもその当時は、己の承認欲求を満たすために周囲の人間を意のままに操り、自身の優位性を誇示している姿を目の当たりにするたびに、吐き気を覚えていた。
施設の人間がアランを特別視していたことも、気に食わなかったに違いない。クリスマスの日、他の子供たちの目の前で、誰よりも早くプレゼントを選ばせてもらったという事実が、あの少女にはどうしても許せなかったのだろう。
当時は、生きていることすら面倒臭かった。かといって、積極的に死のうと思えるほどの熱意もなかった。だが、眠ることもせず、食べることを拒否し続けていれば、子供の体はあっという間に衰弱していく。
ある日、アランは目を覚ますと、異常なほど白い部屋の中にいた。検温にやってきた看護師が、昨日の夜の内に救急車で病院に運ばれてきたのよ、と教えてくれた。
教会に赴任してきたばかりの若い牧師が、会堂の前で倒れていたアランを見つけ、シスターたちの制止の声も聞かず、救急車を呼んでくれたのだという。その牧師は、日曜礼拝のあと、わざわざ病院まで見舞いに来てくれた。その人はどこか牧師らしからぬ人だった。
牧師はベッドの縁に腰を下ろし、アランの話を一通り聞いたあと、うーん、と小さく唸り声を上げた。
「きちんと調べ上げて、精査しなくてはいけない問題だね」
アランは一ヶ月近く、その病院で養生することになった。酷い栄養失調且つ、不眠症とも診断され、施設に戻そうにも戻せなかったのだろう。
だが、アランにとっては施設に戻ろうが、病院に残ろうが、いずれにしても大差はなかった。どこにいても、何をしていても、生きることは同じように面倒臭かった。
しかし、それから間もなくすると、施設には国の調査が入り、違法な児童保護施設として検挙され、直ちに閉鎖されることになったと、若い牧師が教えてくれた。それと同時に、警察やNPO団体、どこから入り込んできたのか地元の新聞記者までもが代わる代わるに病室を訪れ、アランの話をあれこれと聞きたがった。一言も話さず、ただ黙っていれば、そういう人間はあっという間に姿を現さなくなる。
「病院の先生がそろそろ退院してもいいとおっしゃっていたよ」若い牧師が言った。「そうそう、僕は来月から別の教会に移動することになったんだけど、よかったら君も一緒に来ない?」
目を丸くするアランを見て、若い牧師はにこりと笑った。
「いやあ、こんなことを言ってはいけないのかもしれないけど、君に情が移ってしまったんだよね。ほら、君に対してはさ、傷ついた野良猫を拾ったみたいな感覚があるんだよ。ここまで世話を焼いてしまったのに、じゃあさようなら、っていうのも薄情かなって思ってね」
そうして連れて行かれた先の施設は、これまで転々としてきた施設とは比べ物にならないほど健全で、清潔で、人道が確保された場所だった。資金が潤沢にあり、支援が途切れず、国の目が届いているというだけで、こんなにも違う。
だが、どれほど境遇が改善されようと、アラン・ジンデルの人間不信が消えてなくなることはなかった。食も細く、不眠も続いていた。
次のクリスマスを迎えて数日が経ってから、後にアランを引き取ることとなる牧師夫妻が現れる。慈善のために子供を引き取りたいのだと言ったその牧師は、薄気味の悪い笑みを浮かべ、部屋の隅にいたアランの顔を不躾に覗き込むと、ねっとりとした口振りでこう言った。
「ああ、なんて美しい子なのだろう」
すっと伸びてきた手の指先が、アランの顎を持ち上げ、魅入られたように緑の目を凝視する。これまでにも散々向けられてきた、その含みのある眼差しは、アランの不快感を強く煽るものだった。
施設を出ることになったとき、アランが持ち出した荷物は、ほんの僅かなものだった。若い牧師が自費で買って持たせてくれた新品の下着と、何着かの洋服、読み古した聖書──そして、小さなエメラルドが埋め込まれた、金の指輪だけだった。指輪の裏側に彫られていたラファエルという文字が、アランの名前の由来だ。だがしかし、アランを引き取った牧師は、ラファエルという名前が気に入らず、決してその名を口にして呼ぶことはなかった。
「君が人から物を贈られることが好きではないのは知ってる。迷惑がられることは大前提の上だ」施設を出る日の朝、小さな子供用のバッグに荷物を詰め、手渡してくれた若い牧師は笑いながら言った。「君の道行きが素晴らしいものになることを祈っているよ、ラファエル」
以降、この若い牧師と会うことはなかった。この世界でただ一人、ラファエルという少年の旅路の無事を祈ってくれた人を裏切らないためにも、施設に出戻ることはできないと、そう思いながら生きていた。
もう二十年以上も前の話だ。施設で暮らしていた時間は、たった五年に過ぎない。それなのに、あの日々は今もアランの心を蝕み続けている。施設を出て、舞台と出会い、別の生き方を選択した今も、結局は始まりの五年間に回帰する。
「行ってくるよ、ジェームズ」
アランはテディベアの毛並みを整えるように撫で、小さく挨拶をしてから、その場で踵を返した。
スタジオに降りていくと、そこには既にバージルとイライアスの姿があった。バージルは自身のダンスの準備と、イライアスの課題を手伝うためにやって来たようだ。
「よっ、色男」アランが事務室から出てくるのを見ると、バージルがそう声を掛けてくる。「寝癖が立ってるぞ」
「直らない」
「ワックス使えよ」
「嫌いなんだ」
「お前なぁ」
バージルは呆れたようにこちらを見ると、スタジオの中程まで歩いてきたアランにそこを動くなと言って、自らの荷物をあさりに行った。面倒に思いながらもその場で立ち止まっていると、鏡の前でいつものルーティンを行っていたイライアスが顔を上げる。
「キサとは話せたんですか?」アランが小さく頷くと、イライアスはどこか安堵したような面持ちを浮かべた。「よかった」
イライアスはそれ以上のことは何も言わず、ルーティンに戻っていく。その間に、自らの荷物の中から小さな円形のケースを取り出してきたバージルが、それをアランに向かって放り投げてきた。
これを使って寝癖を直せということらしい。逆らっても良いことはないので、そのまま鏡の前に向かうと、バージルがその後ろをついてきた。
「お前ら、またやってるんだってな」
「何の話」
「お前とキサの話だよ」しらばっくれやがってと言いながら睨め付けてくるバージルを、アランは鏡越しに見た。「ようやく落ち着いたと思ったらこれだ」
「今回は全面的に俺一人の責任で、彼女に非はない」
「どうだかな」バージルは言いながら肩をすくめる。「どっちもどっちだろ。課題と向き合わずに逃げ出すようなやつを擁護する言葉はない」
「俺と踊れば逃げ出したくもなるよ」
指先にほんの少量だけ取ったワックスを手の平に広げ、髪全体に馴染ませるように大きく掻き上げる。掻き乱すように髪を立ち上がらせ、毛先をあちこちに遊ばせてから、それを手櫛で整えていった。
すると、その様子をどこか食い入るように見ているバージルの視線に気づき、アランはそれを不快に思いながら眉を顰める。
「……なに」
「いや、お前、変わったなと思って」
「なにが」
「今までの人生の中で、何かの問題に躓いたとき、自分が悪いなんて思ったことがあったか?」
「ない」
「即答するな、少しは考えてから答えろ」ないものはないのだ、そう思っていると、バージルは続ける。「まあ、そんなやつが自分の非を認めた挙げ句の果てに、あいつを庇い立てするようなことを言うんだから、さすがの俺だって驚くわ」
この一週間、希佐は必死になってこの心に寄り添おうとしてくれていた。それを拒み、心を閉ざしたのは自分の罪だと、アランは思う。
愛想を尽かされて当然だというのに、希佐は待つと、そう言ってくれた。だから、立花希佐を支えると言った約束通り、覚悟を決めるしかない。もう自分に残された道は、それ以外にはないのだ。
「それで? 肝心の稽古もしないで、お前はどこに行こうってんだ?」
「病院」
「……は?」
「今日は遅くなると思うから、戸締まりをして帰って」
「お、おう、それは任せて、おけ……」
「じゃあ」
時が過ぎればどうにかなると思っていたわけではない。だが、積極的にどうにかしようと思ったこともない。でも今は、もう少し早くにこの決断を下していればよかったと、そう思っている。
自分自身と向き合うことを恐れて生きてきた。
後ろばかりを見て歩いてきた人生だった。
意気地がない日々を送りながら死んでいくのだろうと思っていた。
幸福の定義は知らない。だけど、きっと今が、苦しみにもがくようだった人生の中で、最も幸せだと、そう感じるから。この幸せを逃したくない。いつまでもこの腕の中に抱いていたい。それが許されないのであれば、最愛の人との時間を綺麗な箱の中に閉じ込めて、永遠にしよう。
グラスミアにやって来て三日目の朝、希佐はセント・オズワルド教会に足を運んでいた。レオナール・ゴダンが運転する車に揺られ、やって来たその日のうちに神様への挨拶は済ませていたが、二日目、三日目と、希佐の足の爪先は、自然とそちらに向かっていた。
セント・オズワルド教会は一見すると石造りに見えるが、屋内は梁が剥き出しになっている、木造の建築物だ。他の家々も同様に、外壁は石造りで統一されているものの、大体は木造建築なのだという。広く門戸が開かれた教会で、観光客の立ち入りも自由だ。中庭には、ウィリアム・ワーズワースとその家族の墓があり、それ自体が一つの観光名所となっている。
ウィリアム・ワーズワースというのは、イギリスのロマン派詩人だ。村の南側の外れ、グラスミア湖近くにダブ・コテージと呼ばれる、かつてワーズワースが家族と共に暮らしていた家が、今もまだ残されている。
人が見出すことのできる最も美しい村──ワーズワースがそう称した通り、このグラスミアはあまりに美しい場所だった。
大自然に囲まれた村の朝は、本当にひっそりとしていた。冷えた空気は程よく湿り気を帯びていて、走りに出るには丁度良い気候だった。
村を南側に抜け、木々の幹が苔むしている林の中の舗装された道を、順路に沿って南に下っていく。川沿いの道を進んでいると、水のせせらぎの他にも、鳥の囀りを聞くことができた。グラスミア湖の水は、ロゼイ川に流れ込み、それが村まで届いている。
ロンドンにも数多くの公園があるが、ここまでの自然を満喫することはできない。何よりも空気の匂いが違う。排気ガスの臭いもなく、車のエンジン音すら聞こえない世界は、本当に久しぶりだった。
グラスミア湖は青々とした森と山に囲われ、ぽっかりと空いた穴のように存在していた。水辺には水鳥が羽を休め、嘴の先で羽を繕っている。水は透明度が高く、周囲の景色が水鏡になって映し出されていた。昨日、今日と早朝に訪れているが、空全体には灰色の重苦しい雲が垂れ込め、朝日を見ることはできていない。それでも、目の前に広がる雄大な自然は、希佐の心を癒してくれていた。
「おや、監督さんのところのお嬢さんじゃないか」
次は山道を登ってみようと思いながら、村まで戻ってきた希佐が道を歩いていると、川を挟んで教会の隣にあるカフェの前を通り掛かったときに、店頭の掃き掃除をしていた店員が気安く声を掛けてきた。
この店には、グラスミアにやって来たその日のうちにゴダンに連れて来られ、既に自己紹介は済ませたあとだった。しかし、どうやら名前は忘れられてしまったようだ。
「おはようございます」
「おはよう」店員はにこにこと笑いながら挨拶を返した。「こんな朝早くからどこに行っていたんだい?」
「湖までランニングをして、たった今戻って来たところです」
「そりゃ気持ちが良かっただろう」
「はい」
焼くのに少しだけ失敗したスコーンがあるのだが、それを持って帰るかと問われた希佐は、にこりと笑って頷いた。待っている間、すぐ側にある橋から川辺を見下ろすと、黄色い水仙の花が群生し、咲き誇っている様子を見ることができた。
この川辺以外にも、至るところに咲いている水仙は、今がちょうど見頃のようだ。毎年、この自然の黄色い絨毯を楽しみに、グラスミアを訪れる観光客もいるのだという。
紙袋に入れてもらったスコーンを抱え、希佐はその足で教会を訪れていた。
有名な写真家であり映画監督でもあるレオナール・ゴダンが、東洋の女を連れてきたという噂話は、地元の住人の間で徐々に広まりつつある。
「グラスミアは母の故郷なんだよ」
だから、長期の休暇があれば、子供の頃からよく帰っているのだと、そう教えてくれた。ここには互いの秘密を知る幼馴染や、足を向けて眠ることのできない恩人などが、大勢いるという話だ。それだけ昔から馴染みのある村ならば、突然東洋人の若い女を連れてくれば、ありもしない噂話が立つのも頷けるというものだった。
母親の実家は既に人の手に渡り、グラスミアを訪れるときはいつもホテルに宿泊していたそうだが、そのホテル経営が立ち行かなくなり閉業するという話を聞きつけて、それを購入したのが数年前のことだという。
家を何軒持っているのかと希佐が問うと、ゴダンはイギリスに二軒とアメリカに一軒だけだと、平然とした顔で言っていた。
「ここには年に一、二回しか帰って来られないから、管理は元々のホテルのオーナーに任せているんだ。定期的にメンテナンスをしなければならないからね。民泊にも活用してもらっているよ」
三階建てのお屋敷のような家で寛ぐゴダンは、本当に仕事でグラスミアを訪れているのだろうかと疑ってしまうほど、のんびりとしているように見えた。
数人だけ引き連れて来たという撮影スタッフは、近所にあるホテルで暇を持て余しているらしい。
「役者の方はいらっしゃらないんですか?」
「いないよ。ここへは景色を撮りに来ただけだからね」
映画というのは奥が深いのですねと、感銘を受けたような口振りで冗談を言う希佐を見て、ゴダンは思わずというふうに破顔していた。
「ただいま戻りました」
同じ通りの、二軒向こうにあるコンビニエンスストアに寄って、水を二本買ってきた希佐は、広い玄関を通り抜けて真っ直ぐにキッチンに向かった。
一本は常温のまま、もう一本は冷蔵庫の中に入れる。常温の水をコップ一杯飲むと、広いダイニングを挟んだ向こう側、リビングルームのカウチに寝そべり、大音量でクラシックを聞いているゴダンのところまで歩いていった。
「ただいま戻りました」
先ほどよりも大きな声を出せば、ゴダンはその場に身を起こして、希佐の方を振り返る。
「やあ、おかえり」
「カフェの方からスコーンをいただきました」
「それはラッキーだったね」せっかくだから一緒に食べようかと言って、ゴダンはカウチから起き上がると、キッチンに向かって歩き出した。「僕がお茶の用意をしておくから、キサはシャワーを浴びておいで」
「あっ、はい……」
まるで親戚のおじさんを相手にしているようだと、そんな恐れ多いことを思いながら、希佐は自らにあてがわれた三階にある客間に向かった。
ウィンダミアで適当に購入してきた下着と、タオルを手にバスルームに入り、近所のコンビニで買ったシャンプーで髪を洗う。いつも使っているものがなく、どれにしようかと五分ほど棚の前で悩んでいると、見かねた店員が「これがいい香りよ」と勧めてくれたものだ。確かに、薔薇のいい香りがする。
汗を流し、体を拭うと、下着を身に着けた。濡れた髪はドライヤーがないのでタオルドライだけで済ませ、部屋に戻って買ったばかりの稽古着に袖を通す。その上からニットのカーディガンを羽織り、急いで階段を降りていった。
ダイニングにすっかりお茶の用意を整えていたゴダンは、希佐が現れるとその姿を興味深そうに見た。
「濡髪が艶っぽいね」
「そうですか?」
「それはそれで今後の参考にさせてもらうとして、あとでドライヤーを手に入れてこよう」
「いえ、私は──」
「綺麗な髪が傷んでしまうよ」
座ってと言われ、希佐はゴダンと向かい合わせに腰を下ろす。
ゴダンは、傍に置いていた砂時計の砂がすべて落ちるのを待って、花柄のティーポットを手に取り、同じ模様のカップに琥珀色の液体を注いだ。
「素敵なカップですね」
「気に入ったかい?」ゴダンはソーサーごとカップを持ち上げ、それを希佐の前に置く。「ロイヤルアントワネットのものだよ。ナイトの称号を賜ったときに、贈り物として頂いたんだけど、なかなか使う機会がなくてね」
僕はご婦人方のようにお茶会を開いたりはしないから、とゴダンは言う。
希佐がカフェの店員からもらってきた少し形の悪いスコーンは、金に縁取られた品の良い皿に乗せられていた。スコーンは場違いな場所に身を置いているようで、どこか居心地が悪そうに見える。
上等なティーセットの隣には、いちごジャムとクロテッドクリームの瓶がそのまま並べられ、それぞれにスプーンが添えられていた。
割ってしまったら大変だと思いながら、恐る恐るカップに手を振れると、その様子を見ていたゴダンが小さく笑った。
「そう簡単には割れないよ、キサ」
「分かってはいるのですが、壊してしまったらと思うと緊張してしまって」
「壊してしまうことを恐れて飾ったままにしておくより、形あるものはいずれ壊れると理解した上で使った方が、用途としてはより正しいと思うけど。それに、特段思い入れがあるものでもないから、もし割ってしまったとしてもなんとも思わないよ」
「私は罪悪感で夜も眠れなくなります……」
「うーん、それは困ってしまうなぁ」ゴダンは銀器のミルクポットを手に取り、紅茶の中にミルクを流し込んだ。「君はここへ来てからあまり眠れていないようだし、それに拍車をかけるようなことはしたくない」
さらりと聞き流してしまいそうになるほど、ゴダンは嫌味のない口振りでそう言う。この話題を嫌うならすぐにでも別の話に移ればいいとでもいうふうに、希佐が話し出すのを待っているかのようだった。
「すみません、真夜中までうるさくしてしまって」
「ここを自分の家だと思って過ごしてほしいと言ったのは僕だよ。それに、僕もどちらかといえば夜型の人間だから、迷惑はしていない。こっそり写真を撮らせてもらっているから、文句もないしね」
希佐は、一階の応接室だった場所を借りて、ダンスや歌の稽古を続けている。机や椅子などの家具の多くは処分してしまったらしいが、ここがホテルだった頃からあるグランドピアノは、ゴダンの希望もあって、置いたままにしているそうだ。今でも定期的に調律を行い、実際に弾くことができる。応接室の奥にはサンルームがあって、ロゼイ川まで続く裏庭を見渡すことができた。手入れの行き届いた青々とした芝生が先の方まで続いている。
ゴダンは、希佐がここへ来てから、ただの一度も「写真を撮らせてくれ」と言ったことはない。何かをして見せろとも、ポーズを取れとも、ましてや服を脱げとも言わなかった。ただ、希佐が何かをしていると気まぐれに現れて、カメラのレンズを向けてくる。ほんの数枚で終わることもあれば、何十枚と写真を撮っていくこともあった。
「最初はカメラに慣れてもらうところからはじめないとね」こんな被写体で大丈夫なのかと心配に思っていた希佐に向かって、昨夜、ゴダンはカメラの手入れをしながら言った。「カメラを意識しなくなることが重要だから」
希佐は、役としてプロのカメラマンに写真を撮ってもらうことはあっても、立花希佐として写真を撮られた経験はほとんどない。ユニヴェール時代にブロマイドを撮影したことはあるものの、あれは少年を演じている自分だった。だが今は、等身大の、女性である立花希佐を撮られているのだと思うと、妙にカメラの存在を意識してしまう部分はあった。
「今日のお稽古は何時に終わるの?」
「えっ? あ、ええと、午前中は歌の稽古をして、お昼を食べてからダンスの稽古をはじめる予定なので──五時か、六時くらいには終わると思います」
「そっか。じゃあ、もし君が疲れていなければ、一緒に夕食でもどうかな。カレッジストリートに美味しいレストランがあるんだ。食べ物に制限があるようなら、トレーニングメニューの相談にも乗ってくれると思うよ」
「是非、ご一緒させてください」
「無理だけはしないようにね」
「はい」
グラスミアにやって来てすぐ、希佐は案内された部屋でスマートフォンの充電をしながら、ジョシュアやルイに連絡をした。
頭ごなしに叱られた方が幾分気が楽だと思うほど、二人は優しく、諭すような口振りで話をしてくれた。ルイは自身が提案してしまった事実がある手前、あまり強くは言えないけど、と前置きをして、こう言った。
『気晴らしに旅行へ出かけるというのは悪い考えではないよ。でも、誰にも何も告げずに、遠くへ行ってしまうのは不誠実だと思う。私たちは君が、少しロンドンを離れて、静かな場所でゆっくりしたいと言えば、その要求を受け入れただろう。表現者にとって無駄な感情はないと思いたいが、色々なものを溜め込みすぎてしまうと、最終的には心を病んで、体もその道連れになってしまうことがある。ときには正直に吐き出すことも必要なのかもしれないよ』
でも、半分はどう考えても私の責任だから、このことはスペンサーには内緒にしておいてあげようと、ルイは悪戯っぽく言った。
『私は行ったことがないけれど、グラスミアはいいところらしいね。程々にゆっくりしてくるといいよ。ただし、稽古は怠らないように。一日一度はダンスを動画に撮って送ってくれ』
対して、ジョシュアはより淡白だった。
「君の歌についてはあまり心配していないから、喉を壊さない程度にレッスンを続けて。馬鹿みたいに歌い込むのだけはやめてね、君はときどき感情のままに暴走することがある。まずは自分をうまくコントロールすること。それから、ダンスを踊りながら歌うとき、君は少しだけ力む癖がある。下半身に重心を置く感じで、上半身は常に柔らかく。バージルが言っていたと思うけど、喉頭から胸骨柄の線は真っ直ぐにね。まあ、何か分からないことがあったら連絡してよ、出られないときは折り返し連絡するから」
ジョシュアは希佐に謝る隙も与えず、じゃあね、と言って電話を切った。
メッセージアプリを立ち上げると、イライアスからは「大丈夫?」という一言だけが届いていた。時間を見ると早朝のものだと分かる。希佐はどのように返事をしたものかと考えてから、結局は「大丈夫だよ」の一言だけを送り返した。
イライアスも自分の課題と向き合わなければならず、大変なときだというのに、不要な心配をかけることになってしまった。申し訳ないと思っていると、メッセージが届いたことを知らせる音が、ぽこん、と鳴った。
《アランのことは僕が見ておくから》続けてメッセージが表示される。《心配はいらないよ》
「イライアス……」
大切なときなのにと怒ってくれて良いのに、こんなときでも、イライアスは酷く優しい。希佐はごめんねの言葉を飲み込むと、ありがとうと感謝の言葉を打ち込んだ。
ルイからは自分の内面を見つめるように言われ、ジョシュアからは自分をうまくコントロールするようにと言われている。これらの指摘は同一のように思えるが、実際には少し違うと希佐は感じていた。ルイは常に踊ることを前提に、ジョシュアは歌うことを前提に語るからだ。
希佐の今の状態は決して良いものではない。頭と体が乖離している。脳味噌は感情に支配されているのに、肉体はこれまでの経験則を活かして器用に踊ろうとしていた。アランと踊ったことで頭にバグが生じ、そのバグを補おうとした結果、上と下がバラバラになってしまったのだ。まずは、このバラバラになってしまった頭と体を、繋ぎ合わせる必要がある。
ぐちゃぐちゃになってしまった感情の整理は、ここへ来てからの二日間で終わらせたつもりだ。ざわざわとしていた気持ちは、落ち着きを見せはじめている。あとは、感情を無視して踊ろうとするこの体を、心に近づけてやるだけだ。力任せな歌やダンスは長続きしない。理解もされない。得体の知れないものに、人々は共感を示さない。
イライアスとルイが考えてくれた振り付けを、頭の中で思い描きながら、この肉体に再び落とし込んでいく。歌うときは上半身を柔らかく。指の先まで意識をして、目には見えない光を辿るように、ゆっくりと弧を描いた──ところで、脳裏に何か大切なものが掠めたような気がした。
「あれ?」同じところを何度も何度も繰り返し踊る。そして、その秘密に気がついたとき、思わずゾッとした。「……日本舞踊だ」
三年前に『God Only Knows』のダンスの振り入れをしていたとき、イライアスが希佐に日舞を踊ってほしいと、そう言ってきたことがあった。そのときに戯れに踊って見せた振りが、ほとんどそのまま、西洋のダンスの中に組み込まれていたのだ。
思わず口元を押さえて息を吐く。だが、先に気づくことができてよかったと、希佐はそう思った。分からないまま踊っていては、イライアスが求める完成形には、いつまで経っても到達しない。
イライアスが考え直してくれた振りは確かに歌唱しやすかったが、何かが物足りないという気もしていた。イライアスの表現したがっていたものが、半減しているように思えるのだ。このダンスには、本当に歌は必要なのだろうかと、そう考えてしまう。
これはこれで自らに与えられた課題だ、最終的には完璧な状態に仕上げる必要はあるが、イベントに出演するときは別の選択肢があっても良いのかもしれない。要相談だと思いながら、希佐はスマートフォンにメモを残した。
この歌は儚く美しいが、希佐にとってはアランが忽然と姿を消した日々の記憶をまざまざと呼び起こすもので、酷く感情が引っ張られるものだった。ジョシュアの言い付けを守って感情をコントロールするのだが、そうするとルイが言うところの内面を見つめろという言葉に反してしまうので、難しいところだ。
録音した歌のチェックをしながら、フルーツで軽くエネルギーを補給した希佐は、そのまま午後の稽古に入る。
ここには大きな鏡がないので、椅子に立て掛けたスマートフォンでダンスを録画し、その都度動きの確認をしていると、ゴダンが小さなカメラを片手に部屋の中に入ってきた。写真を撮るのだろうかと思っていると、ゴダンは持っていたカメラを三脚に取り付け、希佐との距離感を確かめながら、それを設置していく。
「これを貸してあげるよ」
「え?」
「使い方を教えてあげるから、こちらへおいで」希佐は椅子の背もたれに掛けていたタオルを掴み、それで汗を拭ってからゴダンの隣に並んだ。「録画ボタンはここ。撮影した動画を再生したいときはここを押せばいい。スロー再生もできるから、細かい動きの確認をしたいときなんかに使えるんじゃないかな」
「ありがとうございます。でも、あの、本当にお借りしても……」
「そう恐縮しないで。このカメラはおもちゃみたいなものだから、何ならプレゼントしてもいいんだけど──」
「いえ、そんな」
「そう言うと思った」ゴダンは大きく頭を振る希佐を見てくすりと笑った。「ここにいる間は好きに使ってくれていい。新品のSDカードを入れてあるから、容量を気にして録画した動画を消す必要もないよ。リビングに置いてあるノートパソコンに専用のソフトが入っているから、そちらで確認してもいい」
「は、はい」
ゴダンは、操作をすぐには覚えられそうにない希佐の様子を目の当たりにすると、手順を簡潔に書いたメモを用意してくれた。これならなんとか分かりそうだと言う希佐を見て頷いてから、ゴダンは腕時計を見下ろす。
「申し訳ないけど、私は今からホテルにいるスタッフたちとミーティングをしてくるから、留守を頼んでも構わないかな」
「はい、大丈夫です」
「もし誰かが僕を訪ねてきたら、ホテルにいると言ってもらえれば分かるから」
「分かりました」
「約束の時間までには戻るよ」
ゴダンはそう言うと、颯爽とした足取りで家を出て行った。
ゴダンに年齢を訊ねたことはないが、恐らくは五十台半ばくらいだろう。何かに熱中している者ほど、いつまでも若々しいというが、レオナール・ゴダンは、希佐の周りでは特に年齢を感じさせない人物の一人だ。
いつも身軽で、フットワークも軽く、頭の回転が速い。希佐が何らかの行動を起こそうとしたときにはもう、その問題は解決してしまっている。話したいと思っていることを先回りし、それとない会話の中で話を終わらせている。この三日間、そんなことばかりだ。
そういえば、出会ったばかりの頃のアランも似たような感じだったと、希佐は不意に思い出していた。言語の問題以前に、話が通じないと思うことが度々あったのだ。
寸前まで交わされていたはずの会話は早々に完結し、既に相手の思考は切り替わっている。いつの間にかその差異は感じなくなっていたが、それはアランがこちらに合わせてくれるようになったからなのだろう。
アラン・ジンデルやレオナール・ゴダンのような才能を持った人間は、自分には見ることのできない世界を見て、聞こえない音を聞き、香ったことのない匂いを感じているのかもしれないと、希佐は思う。
果たして、彼らの鼻には、薔薇はどのように香るのだろう。
希佐は五時過ぎには稽古を切り上げると、ゴダンから使って良いと言われていたリビングのノートパソコンを立ち上げ、カメラをケーブルで繋ぎ合わせていた。
慣れない手つきでパソコンを操作しながら、最後に通しで踊ったダンスの部分だけを切り取って、自分のスマートフォンに転送する。そのデータに今日の日付と稽古場所を記し、ルイのスマートフォンに送信した。ついでにSDカード内のデータ名も、分かりやすいように書き換えておく。
念入りにストレッチをしたあと、先立って湯を張っておいたバスタブに浸かり、体が温まったところでマッサージを行った。足の裏の凝りを取るように拳でぐりぐりと圧を与えながら、頭の中ではぼんやりと別のことを考えている。今日の自主稽古を振り返りながら、良かった点や悪かった点、明日の課題について思考していると、時間はあっという間に過ぎていった。
着替えを済ませて階下に降りていくと、既に帰宅していたゴダンが、リビングのソファに浅く腰を下ろし、ノートパソコンを開いて希佐が踊っている映像を眺めていた。
「お待たせしてすみません」
希佐がそう後ろから声を掛けると、ゴダンはその美しいアースアイをノートパソコンの画面に向けたまま、こちらに向かって軽く手を挙げた。
「スタッフの子からドライヤーを借りられたよ」
「でも」
「ホテルに備え付けのものを使うから構わないそうだ」
「……では、ありがたくお借りします」
「どうぞ」
ソファの上に剥き出しで置かれていたドライヤーを拾い上げ、ゴダンはそれを希佐に向かって差し出してくる。その間も、その目は画面に向けられたままだ。
「そのまま外に出て風邪を引くといけないから、先に髪を乾かしておいで」
「はい」一度部屋に戻り、髪を乾かして帰ってきても、ゴダンはまだ希佐が踊る姿を眺めていた。「まだお見せできるような仕上がりではなくて」
「まずは迷いを断ち切らないとね」
「えっ?」
「歌にも踊りにも躊躇いが窺える」ゴダンはそう言いながら、ノートパソコンの画面を伏せた。「僕は芸事に関してはずぶの素人だけど、大勢の人間と一対一で向き合う機会が多かったから、何となく分かるんだ。迷いや躊躇いは、その人自身の目の色を濁らせるんだよ」
さあ、行こうか──ゴダンはカメラからケーブルを取り外すと、それをケースに仕舞い、上着のポケットの中に入れた。玄関に向かって歩き出す背中を、希佐は慌てて追いかける。
「あ、あの……」
「ん?」
「私の目は今、濁っていますか?」
玄関の扉の鍵を閉めていたゴダンは、希佐の問いかけに顔を上げると、自らの視線を左側に逃した。
「そうだね、僕が君を初めて見たときは、もっと澄んだ目をしていた」
確かに、アランと二人でイズリントンにあるゴダンの自宅を訪ねたときは、今ほどの憂いを抱えてはいなかった。たとえ小さなステージの上だとしても、アラン・ジンデルと並んで立ち、歌うことができた事実に浮かれていた。その先の未来に、何が待ち受けているかなど知りもしないで。
「そう暗い顔をする必要はないよ、キサ」ゴダンはそう言いながら、希佐を置いて歩き出した。「何に対しても誠実すぎるきらいがある君は、常に正しい選択をしたいと願っているように見える。だからこそ、自分自身の選択が誤っていたときのことを考えて、その場で足をすくませてしまうのではないかな」
「もし誤った道を選択してしまったら、取り返しのつかないことになってしまうような、そんな気がしてしまうんです」
「君は失敗を知らずにここまでの道のりを歩んできてしまったのかい?」後ろを追いかけてくる希佐を肩越しに振り返り、ゴダンは続ける。「正しいか、誤りかで物事を判断すること自体が、僕はナンセンスだと思う」
「取捨選択を迫られたとき、あなたならどうしますか?」
「僕の意見を参考にしたとして、君はそれによって導き出された答えに納得することができる? 君のことを語れるほど長い付き合いではないけれど、結果他人任せな物の考え方をしてしまった自分に嫌気が刺すのでは?」
「私が知りたいだけです」
「……そうだね」隣に並ぶ希佐を横目に一瞥したゴダンは、僅かに歩みを遅くさせた。「僕なら好きな方を選ぶよ。嫌いな方は捨てる」
「好き嫌いで選ぶということですか?」
「君が正しいと信じる道に嫌いなものがゴロゴロ転がっていたとしたら? 最後までモチベーションを維持することは可能かな」
そういえば、前にバージルも言っていた。どちらのプロデューサーについて行くべきかという話になったとき、バージルは好きな方を選べばいいと、そう言ったのだ。嫌いな相手について行ったって、仕方がないと。
「僕はね、キサ」
「はい」
「迷うこと自体は悪いことじゃないと思っている。でも、迷っている時間があまりに長すぎると、それが常態化してしまって、余計に判断力を鈍らせるのではないかと考えているんだ。だから、悩みは翌日に持ち越したくない。迷いや躊躇いも同じだよ。翌朝、目を覚ましたその瞬間に思うことが、きっとその人自身の本心なんだ」
今朝、上等なベッドの上で目を覚ましたその瞬間、見慣れない天井を見上げながら何を思っていただろうかと、希佐は考える。だが、どうしても思い出すことができなかった。
「生きていれば迷いは毎日生じる。人生なんて紅茶とコーヒーで悩むようなものだ。いちいち足を止めてばかりいては、前には進めないよ」
ゴダンが連れて行ってくれたのは、古い教会堂を改装して造られたレストランだった。建物の構造や天井の梁、窓の形などから、教会の名残を色濃く感じさせる。村を散策したときから気になっていたが、店の外には等身大の馬の置物があって、それが店の目印にもなっているようだった。
レオナール・ゴダンが店内に足を踏み入れると、人々の視線が一気に集まるのを感じた。その後ろをついて歩く、噂の若い娘を見る目には、強い好奇の色が混ざり込んでいるようだ。
「やあ、レオ」ソムリエエプロンを身につけた男性が店の奥から出てきて、機嫌良くゴダンを迎え入れる。「お前にしては珍しく時間通りに現れたな」
「今日は素敵なレディが一緒だからね、君に怒鳴りつけられる姿は見られたくなかったんだ」
「確かに、お前が女性を連れてくるのは珍しいな」男性はそう言うと、自らの鳶色の癖毛を指す。「ほら、あの赤毛のものすごい美人を連れてきたのが最後じゃないか?」
ゴダンはそのことに対して言及しなかったが、希佐にはその人物がアラン・ジンデルであると分かった。
アランも過去にこの場所を訪れたことがあるのか──希佐がそう思いながら店内を見回していると、ゴダンが声をかけてくる。
「座らせてもらおうか、キサ」
「はい」
通されたのは、バーカウンターの近くにあるボックス型のテーブル席だった。ゴダンは希佐が座るのを待って自らも腰を下ろすと、すっとメニューを差し出してくる。黒い表紙を開いてみると、中には料理名だけがずらりと並び、写真などは一切なかった。
「何か別のものをお願いするかい?」
「いえ──」夕食のために昼食を控えたのだと言おうとするが、テーブルの傍に立っている男性が自分を見ていることに気づき、希佐は小さく咳払いをした。「レオのおすすめは何ですか?」
「君のお腹の減り具合にもよるね」
「ペコペコです」
反射的にそう口にすると、ゴダンは少しだけ目を丸くしてから、そうか、と言って嬉しそうに微笑んだ。
「私はいつもカンブリアチキンシーザーと、ほうれん草とマッシュルームのラザニアを頼むんだ。あとはフィッシュアンドチップスだね。稽古終わりには重たいかな」
「いえ、私も同じものをいただきます」
「飲み物は?」男性がメニューのページを捲り、アルコールの項目を指す。「ああ、お嬢さんにはまだ少し早かったか」
その刺々しい物言いに今度は希佐が目を丸くしていると、ゴダンがどこか申し訳なさそうな面持ちを浮かべたように見えた。これは素通りした方が良さそうだと感じた希佐は、メニューの一点を指し示す。
「ギネスをください」
「ギネスはラザニアとの相性がいい」そう言いながら、ゴダンはメニューを閉じた。「僕も同じものを」
「かしこまりました」
そう言ってテーブルを離れていく男性の背中を、ゴダンは仕方がなさそうに見送っている。昔ながらの知り合いなのだろうと思いはするものの、そこに足を踏み入れるのは違うと感じ、希佐はすぐに別の話題を口にした。
「本当は、今日の夕食が楽しみで、昼食はあまり食べなかったんです」
「そうだったのかい?」
「今夜はたくさん食べて、明日の朝になったら、またグラスミア湖まで走る予定です。今度は山の上からグラスミアを見渡してみたいと思っていて」
「君がグラスミアを気に入ってくれたようで嬉しいよ」
先程の男性とは別の店員が、近くのバーカウンターで用意したギネスをテーブルまで運んでくる。完璧な比率でグラスに注がれたギネスが目の前に置かれると、希佐は店員を見上げて「ありがとうございます」と言った。
「君が噂の東洋人?」
「はい。あっ、噂のかどうかは分かりませんが……」
「噂も噂さ」ギネスを運んできたその青年は、僅かに身を屈めて希佐に顔を寄せた。「自分のところの撮影スタッフでさえ家に上がらせないレオが、若い東洋人の女の子を連れ込んだっていうんだから」
「経費削減のために僕の家に泊まるように言ったのに、それを拒否してホテル住まいを選んだのは彼らだよ」
「そりゃホテルの方がいいでしょうよ。部屋の掃除も、食事の支度もする必要がないんだから。常に上司の顔色を窺って怯えることもない。オレなんて叔父貴の家に住み込みで働かされているせいで、こう、たまに胃がきゅううううって痛くなるんですよ。もうストレスが──」
「ほう?」バーテンダーの格好をしている青年の後ろに立った先程の男性が、酷く冷めた眼差しをその後頭部に向けている。「会社が倒産して途方に暮れていたお前を雇って、住む部屋まで貸してやってるのに、随分な言い様じゃないか」
「げ、叔父貴」
「お客様相手に余計な話をしていないで早く持ち場に戻れ」
「分かったよ」
今更ながら希佐とゴダンに恭しく頭を下げた青年は、周りの客にくすくすと笑われながらバーカウンターに戻っていく。その背中はいささか恥ずかしそうだ。カンブリアチキンシーザーを運んできた男性は、それをテーブルに置きながら、ったく、と漏らしている。
「あいつは大学時代にロンドンのパブで働いていたから、大人しく酒を注いでれば何の文句もないんだが、あの減らず口はどうにもならないな」
「私もロンドンのパブで働いた経験があるので分かるのですが」希佐はそう言いながら、ギネスのグラスを手に取る。「このギネスの黒と白い泡の対比は美しいくらいに完璧ですし、泡に描かれたシャムロックも本当に綺麗で、思わず感嘆してしまいました」
「お、おう、そうか?」
「イギリスに来る前はアイルランドにいたんです。でも、本場でもここまでのパーフェクトパイントにはなかなか出会えませんでした」
当時のことを思い出して懐かしい気持ちになりました、ありがとうございます──希佐が臆面もなくそう口にすると、男性は面食らったような顔をして、気まずそうに頭を掻いた。
その様子を横目に見ていたゴダンは、運ばれてきたサラダを早々に取り分けながら、にこにこと笑っている。男性がテーブルから去ったあと、バーカウンターで話を聞いていたらしい青年が、どこか照れ臭そうにしながら希佐に向かって手を振っていた。
「アイルランドでの話を聞かせて」ゴダンは取り分けてくれたサラダの皿を希佐の前に置きながら言った。「ダブリンにいたと言っていたね」
「はい」
「今のちょっとした会話を聞いただけでも、君がダブリンのパブでかわいがられていた理由が分かるよ」男性が丁寧に並べていったカトラリーを手に取り、希佐はサラダを口に運ぶ。「そういえば、君はどうしてアイルランドに行こうと思ったんだい? ダブリンも演劇が盛んな都市ではあるけど、ウエスト・エンドやブロードウェイとは比べられない。日本で演劇を学んでいた若者なら、それこそこのイギリスやアメリカを選びそうなものだけど」
「空港に行って、真っ先に目に飛び込んできた国名が、アイルランドだったんです」
「それじゃあ、行き先は決めていなかったということ?」
「はい」
「イギリスに来た理由は?」
「本当はカナダとイギリスで迷っていました。英語圏の国がいいと思っていたので。イギリスはアイルランドと文化が似ているだろうし、ユースモビリティ制度を利用すれば滞在期間が最長二年間ということだったので、それが魅力で選びました。イギリスのビザの期限が切れたら、今度はカナダに行こうと思っていたんですけれど」
「思い掛けずロンドンに長居することになったんだね」
「まさか、自分がまた舞台に立つことになるとは思ってもいませんでした。突然劇団に入るように迫られて、あれよあれよという間に言い包められて、気がついたらあのスタジオに住まわせてもらっていて」
最初は、再び舞台に立つのは自分の意志ではないと、そう自らに言い聞かせていたような気がする。頼まれたから仕方なく立つのだと。そもそも、あのときの希佐は、自らの意思で舞台に立ちたいと思えるような、そんな精神状態ではなかった。
命を救われたことに対する、せめてもの感謝の気持ちだった。
そのようなことを話していると、未だ表面のチーズがぐつぐつと煮立っているラザニアと、フィッシュアンドチップスがテーブルに運ばれてくる。既に一杯目のギネスを飲み終えていたゴダンは、次の一杯を注文していた。
「だから、本当は一度きりのつもりだったんです。あの公演が終わったら、すぐにでもカナダに発とうと思っていました。そのための資料請求もしていたのですが……」
そこまで口にすると、希佐は思わず言い淀む。
アランに向かって、好きになってしまったと、そう告白をしたあの日の夜のことを思い出して、微かに胸が疼くのを感じた。この先もずっと一緒にいたいと、熱に浮かされ、朦朧とした意識の中で、そう願ったのだ。
たった二ヶ月という短い期間だったのにもかかわらず、カオスの仲間と過ごした日々があまりに濃密で、日に日に離れがたく思う気持ちが強くなっていたのも、一刻も早くここを離れなければと考えさせる一要因となっていた。
公演が終われば、目的を失う。ここにいる理由もなくなる。
これが、思い込みという名の、呪いとなっていたのだろう。
がむしゃらに舞台と向き合い続けた二ヶ月間──たった一度きりの公演が終わってしまうその瞬間が、希佐には恐ろしくてたまらなかった。その日が訪れなければいいとさえ思っていた。
心のどこかではいつも、常にその場から逃げ出すことを考えていた。いかに周囲に悟られることなく、泡のように消えられるのか。各国を渡り歩くジプシーといえば聞こえはいい。だが、実際にはただの根なし草だった。
『だから、次の公演でも、また君と一緒に、同じ舞台に立ちたい』
ああ、あの頃から、イライアスは自分のことをよく見てくれていたのだと、希佐は今更ながらに思う。
「夢を諦めないで」舞台上で告げられた言葉に、心が打ち震えたことを思い出した。「僕も、頑張るから」
舞台に立っていると、こうした何ものにも代え難い瞬間が、何の前触れもなく訪れる。そうした瞬間の数々が、立花希佐を舞台の上に引き留めようとするのだ。その度に、こんなにも美しく、時に残酷で、素晴らしい世界は他にないと思わされる。
アラン・ジンデルと歌声を重ねれば、この上ない幸福感を覚えた。今この瞬間に世界が終わりを迎えたとしても、何の後悔もないとさえ思うことができた。それなのに、強欲な自分はより多くを求めてしまう。それだけでは満足ができないのだ。
人は心にどれだけ深い傷を負っても、いつかその傷の痛みを忘れてしまう。人間はそういうふうに作られた生き物だ──レオナール・ゴダンは、そう話していた。
だがしかし、希佐はそうは思わない。心に負った傷は癒えない。たとえ傷口が瘡蓋に覆われたとしても、簡単なことでその瘡蓋は剥がれ落ちて、再びじくじくとした膿を生む。
そういう人間の心から忘れ去られていくのは、深い傷を負った痛みではなく、幸せだった記憶なのではないかと、希佐は思うのだ。
幸福を次々と上書きし続けなければ、絶望に飲み込まれてしまうような気がしてしまう。スポットライトの強い光を浴びていなければ、奈落の底に落ちていくような幻覚が見える。握った手を離してしまえば、もう二度と、隣り合って歩いていくことはできないような、そんな気がしてしまう。
「キサ」
「あっ、はい」
「大丈夫かい?」
どのくらいの時間を物思いに耽っていたのかは分からない。だが、直前までは熱々だったはずのラザニアが、ほんの一瞬のうちにすっかり冷めきってしまっている。どうやら、自分の感覚以上の時間を、黙り込んでしまっていたらしい。
「すみません」
「いいんだよ」ゴダンはやわらかい笑みを浮かべ、首を横に振った。「さあ、食事をいただいてしまおうか」
以降、二人はレストランを出るまでの間、取り留めのない話をして過ごした。途中、自分の奢りだと言ってバーテンダーの青年がギネスを運んでくると、もう一度希佐の顔を覗き込んで、うーん、と唸り声を上げる。
「やっぱりどこかで見た顔なんだよな」目を白黒とさせている希佐を尻目に、ゴダンは手元のスマートフォンを操作していた。「どこだったかなぁ」
「これじゃないかな」
ゴダンはそう言うと、スマートフォンの画面を青年に向けた。同時に再生されたのは、希佐がセント・パンクラス駅のストリートピアノの前で歌っている映像だった。
「あっ、そうだ! これだよ、これ!」
青年がゴダンの手から取り上げたスマートフォンを、希佐も一緒になって覗き込む。すると、SNSや動画共有サイトで拡散されていたものよりも、ずっと画質の良い映像が、画面いっぱいに映し出されていた。
「オレが見たやつとはアングルが少し違うけど、間違いないよ」はあ、と声を漏らしながらスマートフォンをゴダンに返した青年は、今度こそ食い入るような目で希佐を見た。「すごい有名人じゃん」
「いえ、有名人だなんて」
「歌手なの?」
「舞台役者です」
「舞台? ミュージカルとか? どんな役をやったことあるの?」
「私は主に小劇場で活動してきた役者なので、ご存じないと思います」
「ふうん」
半ば助けを求めるようにゴダンの方を見やれば、当人はにこにこと笑いながらスマートフォンのカメラをこちらに向け、動画を撮影している。
「レオ」
「失礼」希佐に咎めるような声をかけられたゴダンは、手にしていたスマートフォンをテーブルに伏せて置いた。「叔父さんに怒鳴りつけられる前に持ち場に戻ったらどうだい?」
今度もっと話を聞かせてよと言った青年は、レストランのショップカードに自分の名前と連絡先を素早く書き込み、それを希佐の手に握らせた。バーカウンターに戻っていく背中を唖然と眺めていると、その様子を見ていたゴダンがふふと笑った。
「この辺りは出会いが少ないからね。素敵な人を見かけたら、誰よりも早く声を掛けておかないと、他の人に先を越されてしまうんだ」
あと数日でロンドンに帰るのだがと思いながら、希佐は困ったように苦笑を浮かべた。しかし、無下にするのも申し訳なく感じられ、とりあえずは持ち帰ろうとジャケットのポケットに忍ばせる。
「持って帰るの?」
ゴダンが意地悪げに訊ねてくる言葉を、希佐は聞こえなかったことにした。
食事を終え、食後のお茶も飲み終える頃になると、ゴダンが店員に向かってペンを走らせるような仕草を見せた。自分が食べた分は払おうと財布を取り出しかけると、ゴダンが希佐の名を呼ぶ。
「ここは僕に格好をつけさせてくれない?」店員が持ってきたクリップファイルを受け取り、ゴダンはそこにカードを挟んで差し戻した。「君にはウィンダミアでコーヒーをご馳走になったから、これでイーブンだよ」
「そういう言い方はずるいです」
「じゃあ、またお茶をご馳走して」
給仕してくれた男性に店先まで見送られ、希佐とゴダンはレストランを後にした。久しぶりにお腹が一杯になるまで食べ、ギネスを二杯も飲むと、やはり眠気が襲ってくる。すると、少しだけふらふらしている希佐を見かねたのか、ゴダンは黙って腕を差し出してくれた。希佐は僅かに口角を持ち上げ、その腕に自らの手をそっと絡ませる。
「こんなことをしたらアランに怒られてしまうね」
「内緒にしておきましょう」
「君は悪い子だなぁ」
街灯の明かりを頼りに暗い道を歩きながら、希佐は不意に空を見上げた。その瞬間、雲間から月が顔を出して、地上を薄ぼんやりと照らし出した。ロンドンの街では、足元に影を落とすほどの月光を感じることはない。
「キサ、聞いてもいいかな」
「何をですか?」
「レストランで黙り込んでいたとき、何を考えていたのか」希佐が思わず隣を見上げると、月の光を取り込んだアースアイが、真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。「とても切ない表情を浮かべていたから」
「イギリスに来てからの三年間のことを考えていました」希佐はゴダンから視線を逸らすと、再び月を見上げる。「この三年間、本当に色々なことがあったけれど、とても幸せだったなと思うんです」
「前に話をしたときも思っていたけれど、君はいつも過去のことのように幸せを語るんだね」
「永遠に続く幸せなんてありませんから」
「君はユニヴェールでの日々と同じように、この三年間も潰える夢だと思っているの?」
「そうですね」月が雲の影に入る。すると、辺りは一層暗くなったように感じられた。「それに、相応しくないなと思うことがあって」
「相応しくない?」
「過去を過去のまま置き去りにしてきてしまったから」結局自分は、兄と同じ道を辿ったところで、兄が何を思って姿を消したのかを理解することはできなかった。ただ闇雲に、人を悲しませただけだと、希佐は思う。「私の中では終わってしまった夢や幸せの続きを見ている人がいるのだとしたら、私にはもう、幸せな夢を見る資格はないんじゃないかって」
たとえ叶わなくても構わない。
それでも僕は、夢を選ぶ。
昔のように、そう思うことができたらと、希佐は思った。
「君の目を見つめていると、深淵を覗き込んでいるような気持ちになるよ」
「え……?」
「否応なしに惹かれてしまうんだろう。君から自分と同じ匂いを感じ取ったのかな。その焦がれるような思いはいずれ、醜悪な憎悪に成り代わるのかもしれないね」
「あの、それは──」
「なに、こちらの話さ」ゴダンはそう言って優しげに微笑むと、道の先に見えてきた自宅に目を向けた。「さあ、今夜もアランに電話を掛けるんだろう? きっと、首を長くして待っているよ」
編み上げのブーツの紐が解けて、希佐はゴダンの家の前にある街灯の下で足をとめた。ゴダンは先に行っているよと言って、扉の施錠を外しに向かう。
体を前に屈め、紐を結んでいると、ある言葉が不意に脳裏をよぎった。
公演が終われば、目的を失う。ここにいる理由もなくなる。
果たしてそれは本当に、思い込みという名の、呪いなのだろうか。